No.00226 春の花々

美しい春の花々を描いた珍しいサーモンピンクの舞踏会用のジャスパーウェア・パリュール

大型のオリジナルの革ケースです。

このケースの形状を見ただけで、何が入っているか何となくご想像できる方もいらっしゃるでしょうか・・?
中に収まっているのは、見ているだけでもワクワク楽しく嬉しくなってしまう宝物です♪

 

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
ジャスパーウェア(ウェッジウッド)の傑作パリュール
『春の花々』

宝物は咲き乱れる美しい花々を表現した、サーモンピンクの美しいジャスパーウェアのパリュールです♪

三種類以上のセット・ジュエリーをパリュールと言いますが、こういうハイクラスのパリュールは久しぶりです。この『春の花々』は作品No.226、つまりこれまでにHERITAGEで225点の宝物をご紹介して参りましたが、HERITAGEでパリュールをご紹介するのはこの宝物が初めてになります。

パリュールの魅力は、楽しみ方のバリエーションがとても多いことです。それぞれのアイテムを単品でシンプルに使ったり、服装に合わせていくつかの組み合わせを楽しんだり、華やかなシーンではフルセットで豪華に身を飾ることができます。

素晴らしいオリジナルの革ケースにセットされた姿は、何ともゴージャスです。普段はお部屋のガラス・キャビネットなどに飾っておいても様になりますし、自分だけが独占できるプライベート・コレクションの宝物として夜な夜なお酒を飲みながら愛でるのもとっても楽しいと思います。他のアイテムより断然楽しめる幅が広いのが、パリュールなのです。



オリジナルケース 販売した会社

オリジナル革ケース付き

上の画像は、ケースの蓋の内張りにプリントされた文字です。当時このパリュールを販売した宝飾店の名前と、その住所が書かれています。
オリジナルケースに入ったウェッジウッドのアンティークの春の花々を描いた王侯貴族のためのジャスパーウェ・パリュール

『春の花々』
ジャスパーウェア パリュール

イギリス 1860年〜1870年頃
ウェッジウッド社
F器(陶磁器)、18ctゴールド
総重量 90,8g
SOLD

ジャスパーウェアはイギリスのジョサイア・ウェッジウッドが開発した陶器(F器・せっき)の一つです。

←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
ブレスレット 3,2cm×18,7cm
       重量 51,2g

ブローチ 4cm×4,5cm
     重量 13,9g

ピアス 2cm×2,5cm
    重量 7,8g(2個)

ペンダント 5,4cm×4cm(本体のみ)
      重量17,9g

通常ウェッジウッドのジャスパーウェアでイメージする古典的モチーフとは一線を画す、春の陽射しの中の白い花のような花々が描かれたパリュールです。これまた通常のウェッジウッドでイメージする量産品とは全く異なり、1点ずつ熟練の職人によって施されたカメオのような花々は実にアーティスティックで、ジャスパーウェアでしか表現できない緻密さと絶妙さです。

大英帝国最盛期と言われるパクス・ブリタニカの時代において、パクス・ロマーナ(ローマの平和)を象徴する一大リゾート、ファッションと社交の中心地バースで社交界デビューしたうら若きレディが使うに相応しい、トップクラスのジャスパーウェアの作品です。

 

この作品の2大ポイント

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

この豪華で美しいパリュールの真の価値を理解するには、次の2つの特徴を理解する必要があります。

特徴1.
パリュールが販売された土地『バース』

特徴2.
ウェッジウッド社のトップクラスのジャスパーウェアによるパリュールであること

 

特徴1. 販売された土地『バース』

オリジナルケース

現代では作ることができない、お金と手間をかけて作られた当時のオリジナルケースが残っていると、見た目が良くて気分的にも嬉しいものです。

でも、嬉しいのはそれだけではありません。

販売された店舗の情報が分かると、さらに中に入っている宝物について詳しくしるチャンスが出てくるのです。

販売した会社

蓋の内張りに施されたプリントの文字から、このパリュールはバースのニュー・ボンドストリートにあった『NOBLE CHIVER』という宝飾店で販売されたことが分かります。

宝飾店自体はもう存在しませんし当時の情報も残っていませんが、この『バース』という地名がキーワードです。

イギリスのバースの位置

イギリスのバースの位置バースの位置 ©google map

バースはイングランド西部のサマセットにある都市の1つです。

イングランド有数の観光地で、バース市はロンドンに次いで訪問者が多く、毎年380万人以上の日帰り観光客と100万人以上の宿泊観光客が訪れています。

中心駅のバース・スパ駅まではロンドンから列車で約1時間30分、高速バスでも3時間ほどで行くことができます。

バースにしかない土地的な魅力

ローマン・バス(ローマ浴場跡)の湯気が立ち上る大浴場(バース)

バースにはイギリス唯一の魅力があります。

有名な観光地ですし、中心駅バース・スパの名前からピンと来た方もいらっしゃるでしょうか。

バースはイギリスでは唯一、天然温泉が湧き出る土地です。3つの源泉は、湧出温度が45℃あります。この温泉は現在入浴できませんが、湯気がたつ広大なお風呂は迫力がありますね。

温泉を中心としたバースの歴史

<始まり -ケルトの時代->

ケルトの絡み合った3匹の犬の文様ケルトの絡み合った3匹の犬の文様

温泉に関する最古の記録はローマ支配時代の記述によるものですが、それ以前から利用されていたらしいことが分かっています。

その起源は神話上の人物、ブリトン人の王ブラドッドまで遡ります。

ブリトン人とは、前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族です。

ブリトン人のブラドッド(紀元前9世紀、もしくは紀元前6世紀前後)ブリトン人のブラドッド(紀元前9世紀、もしくは紀元前6世紀前後) "Bladud Statue at Roman Baths, Bath" ©Smalljim(16 July 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

 

ブリトン人の王ブラドッドは実在の証拠はなく神話上の人物で、最初のブリタニア王ブルートゥスから10代目の王とされています。

王になる前、ブラドッドはハンセン病を患い幽閉されます。

しかしながら脱走し、バース近郊で豚飼いとして雇われました。

ある時、豚が荒れ地に入り、真っ黒な泥にまみれて戻ってくることに気づいたブラドッドは様子を見に行ってみたところ、豚たちが泥風呂に入って気持ちよさそうにしていました。

その豚たちが皮膚病にかからないことに気づいたブラドッドは自身も泥風呂に入ってみたところ、ハンセン病が治癒しました。

王位継承者に復活したブラドッドは王になった後、自分がそうだったように他の人のためになればとカール・バルドゥム(現バース)を建設し、魔法を使ってその地に温泉を生んだそうです。

ローマン・バスで見つかったスリス-ミネルウァの頭像(青銅に金メッキ)ローマン・バスで見つかったスリス-ミネルウァの頭像(青銅に金メッキ) "Minerva from Bath" ©Stan Zurek(2006年7月16日)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ブラドッドは街を女神アテナあるいはミネルウァに捧げました。

温泉は神のご加護で力がより強まると考えられていたようで、ローマ浴場跡からはスリス-ミネルウァの頭像も見つかっています。

ミネルウァは古代ローマで信仰された女神で、ギリシャ神話のアテナと同一視されています。

スリスは知恵を司るこの土地の土着の女神です。ブリテン島南部がローマに支配され、ブリタンニアとしてローマの属州となった際にミネルウァ信仰が持ち込まれ、女神スリスと同一化されました。

古い神はどの地域でも、民族や文化の影響や融合などとと共に習合しますね。

<古代ローマによる支配の時代>

ローマン・バス(ローマ浴場跡、上階の建物はヴィクトリア時代)ローマン・バス(ローマ浴場跡、上階の建物はヴィクトリア時代)
"Roman Baths in Bath Spa, England - July 2006" ©Photo by DAVID ILIFF(2 July 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

時代は下り、大陸で発展した古代ローマ帝国はブリテン島南部にまで支配を拡大します。古代ローマの属州ブリタンニアとして、ローマの支配は40年から410年までの370年間に及びました。古代ローマの支配下、バースは2世紀頃から温泉の街として発展していきました。

バースの温泉は様々な病気に効用があると考えられていたこともあり、ローマ支配末期にはバースを取り囲むように城壁が建築されたほどでした。

PDローマン・バスとスリス-ミネルウァの古代ローマの神殿の模型

日本でも温泉地は霊験あらたかな場所、大地や神のエネルギーに満ちあふれた場所として古来よりパワースポット的に親しまれてきました。時代や場所が違ってもそれは人類共通で、古代ローマ人にとっても保養地として、信仰の対象としてバースの温泉は親しまれました。

ローマン・バスの内部が分かる模型ローマン・バスの内部が分かる模型 ©Immanuel Giel(2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

さすが古代ローマ、高い技術を駆使した贅沢な公衆浴場だったようです。中央が大浴場ですが、それ以外にも浴場がありました。

ローマン・バスのカルダリウム(高温浴室)ローマン・バスのカルダリウム(高温浴室) ©Akajune(2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

これはカルダリウムです。熱い空気が流れる空間を見せるために現在は床が撤去されていますが、床下暖房システムのようなもので、サウナに相当します。

ローマン・バスの円形浴場(カルダリウム)ローマン・バスの円形浴場(カルダリウム)

サウナではなく、お湯を張ったカルダリウム(高温浴室)もあります。

ローマン・バスの円形浴場(フリギダニウム)ローマン・バスの円形浴場(フリギダニウム)

カルダリウムなどの後にピッタリな、フリギダニウム(冷水風呂)もあります。もうこれは完全にスーパー銭湯ですね。何となく毎日義務のようにする入浴ではなく、娯楽としての温泉・お風呂です。いかに古代ローマが高度なテクノロジーと文化を持ち、豊かな生活を送っていたのか伝わってきますね。

ローマン・バスのブラドッドゴルゴーンの頭ローマン・バスのブラドッド・ゴルゴーンの頭 ©Mike Peel(2014)/Adapted/CC BY-SA 4.0

いかにも古代ローマらしい、ゴルゴーンモチーフも見ることができます。ゴルゴーンは女性のはずですが、力強い男性的な表現になっている意味についてはいくつか論争があります。温泉の開祖ブラドッドと習合した可能性もあるようです。

この他、女神への供物として聖泉に投げ入れられた古代ローマの人工物や、お賽銭とみられる無数の古代ローマコインなども見つかっています。2013年には考古学的発掘調査において、イギリスで最大規模の3万枚もの3世紀頃の古代ローマ銀貨も発見されています。女神を祀る神聖な場所として、信仰のための神社のような場であった可能性も示唆されています。

ローマン・バスのヒッポカンポスのローマンモザイク ©Andrew Dunn(2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0

いかにも古代ローマらしい、ヒッポカンポスのローマンモザイクもあります。ヒッポカンポスは古代ギリシャ神話に登場する半馬半魚の海馬で、ポセイドンの乗る戦車を牽く生き物です。

このように古代ローマで栄えたバースですが、5世紀初頭に古代ローマ人が撤退した後は荒廃してしまいます。さらに最終的には洪水によって泥で塞がれてしまい、6世紀にはローマン・バスは失われてしまったようです。

<古代ローマ撤退以降>

ウェセックスのアルフレッド大王(849-899年)

古代ローマ人が撤退し、6世紀までにローマン・バスが失われて以降もこの地の温泉の利用自体は続いていました。

675年にはこの地に修道院が建設されました。

その後、中世初期イングランド七王国の1つでアングル人の王国であるマーシア王国が781年に支配下にその修道院を置き、聖ペテロを守護聖人とする教会を設立しました。

その後、アルフレッド大王が街を造り直しました。

アルフレッド大王はイングランド七王国のウェセックスの王で、アングロ・サクソン時代最大の王とも称される人物です。

歴史的な偉業は今回は割愛しますが、イギリスの歴史において『大王』と称され、様々な伝説的逸話も多く、イギリスでも人気が高い人物です。

その後、16世紀のエリザベス女王統治下、バースの街は新たな風呂(女王の風呂)を作るなど、様々な機会ごとに修繕などを繰り返しました。

魅力を取り戻した温泉は王侯貴族を魅了し始め、1590年にはエリザベス女王によってバースの都市は『王室認可』の称号が与えられてその地位を確立しました。

こうしてバースは温泉地として復活することになったのです。

イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603年)

<ジョージアンの大規模開発>

-滞在施設の建設-
バースの街並み

徐々に街は開発されていきますが、イギリス唯一の天然温泉地として人気を博し、訪問者増加の一途を辿るバースは宿泊施設なども足りなくなっていきました。18世紀ジョージアンには都市計画に基づき様々な建物が建設され、都市が開発されました。一番有名なのは画像中央付近に位置するロイヤルクレセントです。

ロイヤルクレセント(建設:1767-1774年、建築家:ジョン・ウッド)

ロイヤルクレセントは世界で最も美しいと言われる集合住宅で、バースを代表するパラディオ様式の巨大建築物です。『集合住宅』という言い方だと日本人にとっては長屋や団地のような安っぽい印象もあるかもしれませんが、そうではなく王侯貴族や超富裕層のための特別な住宅です。

ロイヤルクレセントのパノラマビュー ©Diliff(2006)/Adapted/CC BY 2.5
地下1階、地上3階建てで、30ハウスから成ります。現在10ハウスはフルサイズ、18ハウスは様々なサイズのアパートに分割されています。No.16の中央の大きなハウスはロイヤルクレセントホテルとして宿泊が可能で、No.1はロイヤルクレセント博物館として内部を見学することができます。
イギリスのフレデリック王子(ヨーク・オールバニ公)(1763-1827年)

ロイヤルクレセントは元々はクレセントという名称だけだったのですが、18世紀の終わりにフレデリック王子が居住していたことで『ロイヤル』の冠詞が追加されました。

フレデリック王子はイギリス王ジョージ3世の次男で、ジョージ4世の弟です。ヴィクトリア女王の父、ケント公エドワード王子の兄に当たります。

著名人や通常の貴族のみならず、王族も住んでいた建物なのです。

ロイヤルクレセント博物館では、ジョージアン貴族の生活の再現も観れるそうです。

-王侯貴族の社交場アセンブリー・ルームズの建設-
アセンブリー・ルームズ(建設1771年) "Fashion Museum and Assembly Rooms Bath" ©Mark Anderson(24 August 2009)/Adapted/CC BY-SA 2.0

バースには既に2つの社交場がありましたが、急増する来訪者には不十分でした。このため1771年、中心地に新たにアセンブリー・ルームズが建てられました。

正面からはそれほど大きく見えませんが、とても大きな社交用複合施設です。

ルーム1. 舞踏会場
アセンブリールームズ 舞踏会場

メインの舞踏会場は、バースで最も広いジョージアン・ルームズです。最も多い時は、ダンスを踊るためのゲスト1,200名で混み合っていたそうです。現在アセンブリー・ルームズはロスチャイルドの邸宅ワデズドン・マナー同様、ナショナル・トラストの管理になっています。

今では結婚式などのイベントも行われることもあり、シンプルな着席ディナーの場合は310名の収容可能です。椅子を並べるだけのシアター・スタイルならば500名収容できるそうです。何しろ30m×12mの広さがあるそうで、かなりの人数が集まらないとスカスカになってしまい、かえって活気のない貧相なパーティになってしまいそうですよね。

これほどの広さを必要とするほど、当時はイギリスのみならずヨーロッパ各地から王侯貴族や富裕層がスパ・リゾート兼社交の中心地の1つとしてバースに集まっていたということなのです。さすがに1,200人も入ると、この広さでもギュウギュウだったでしょうか。

イギリスには社交のシーズンと言うものが存在しますが、バース・シーズンは10月から6月上旬にかけてです。アセンブリー・ルームズではシーズン中は月曜と木曜の週に2回、舞踏会が開かれていました。

当時の様子を描いた絵には、上階で生演奏する様子も描かれています。生演奏を聴きながらダンスを踊ったり、会話を楽しんだり、仮装舞踏会でオシャレを楽しんだり、楽しそうですね。でも、バースの社交の中心地アセンブリー・ルームズで楽しむのは舞踏会だけではありません。

ルーム2. ティールーム
アセンブリー・ルームズ ティールーム "Bath Assembly Rooms - Tea Room" ©Glitzy queen00(7 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

現在ティールームと呼ばれるこの部屋は、当時はコンサートや休憩の場として使用されていました。休憩の時にお茶も提供されていたため、ティールームと呼ばれています。17.5m×12mと、こちらの部屋もかなり広いです。

こちらも一般利用が可能で、着席ディナーの場合は170名、シアター・スタイルならば250名を収容可能です。舞踏会場よりは狭いこちらの部屋でも、イベントをする場合はある程度の規模がないと持て余しそうです。

当時シーズン中は、水曜の夜に定期演奏会が開かれていました。世界中から当時の一流の音楽家が集まって演奏していたそうです。現代日本で、地方の旅館に泊まって現地で有名な方の演奏や芸事を見る余興レベルと同じイメージで考えてはいけないのです。余興は余興で楽しめるので決して低く見てはいません。当時の王侯貴族の娯楽を、日本の庶民と同じレベルで見るような下に見た行為はしてはならないということです。それにしても羨ましい話です。

ルーム3. グレート・オクタゴン
アセンブリー・ルームズ グレート・オクタゴン "Octagon Room" ©Glitzy queen00 at English Wikipedia(7 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

カードゲームを興じるための部屋もあります。八角形の明るい黄色の部屋、グレート・オクタゴンではホイストなどの様々なカードゲームが興じられました。

ホイストはイギリスを発祥とする、トランプを使ったトリックテイキングゲームの1つで、4名でゲームします。2人ずつの2チームに分かれ、プレイ時間は30分ほどです。社交にはピッタリのゲームですよね。18〜19世紀にかけて流行した、ブリッジの元となった伝統的なカードゲームです。世界的にはホイストはブリッジに淘汰されましたが、イギリスでは現在も最も人気のあるゲームの1つです。

このグレート・オクタゴンも14m×14mと広く、ドリンク提供だけのレセプションパーティであれば250名は収容可能です。着席ディナーは120名、シアタースタイルの場合は120名が収容可能です。

ルーム4. カード・ルーム
『バースのカードルーム』(1837年)

社交部屋はまだあります。

こちらのカード・ルームは、カードゲームに興じる紳士淑女のためのよりプライベートな空間として1777年から提供されました。

ジョージアンの社交界では賭け事は非常に人気が高く、当時は日曜以外、毎日カードゲームが開催されていたそうです。

当時のプライベートな空間とは言っても、現代のレセプションパーティー・スタイルならば100名、着席ディナーで60名、シアター・スタイルで80名の収容が可能です。

-一流人が集う場所には一流の芸術家が集まる-
第4代英国王室アカデミー所長トマス・ローレンス卿(1769-1830年)1788年の自画像、デンバー芸術美術館蔵第4代英国王室アカデミー所長トマス・ローレンス卿(1769-1830年)1788年の自画像、デンバー芸術美術館蔵

ヨーロッパ中から王侯貴族や超富裕層が集まるバースには、お金も集まりました。

当時の王侯貴族や超富裕層にとっては芸術も教養の1つだったこともあり、優れた芸術品のコレクターでもあり、芸術家のパトロンでもありました。

このためバースにはヨーロッパ中から、様々なジャンルの一流の芸術家たちも集まったのです。

その一人がトマス・ローレンス卿です。

ジョージアンのイギリスにおける肖像画の第一人者であり、王室アカデミー第4代所長でもありました。

イギリス王ジョージ4世(1762-1830年)1821年、トマス・ローレンス画、英国王室蔵イギリス王ジョージ4世(1762-1830年)1821年、トマス・ローレンス画、英国王室

戴冠した時のジョージ4世のこの肖像画を描いたのもトマス・ローレンスです。

当時、芸術家は1つの場所に留まらずヨーロッパ各地で創作活動を行うことは珍しくありませんでした。

トマス・ローレンスは当時のトップ画家だったので、ジョージ4世以外にもたくさんの王侯貴族や有力者を描いています。

ヨーロッパ中から一流人たちが集まるバースに住んで活動していたのは、ごく自然なことと言えます。

スパ・リゾートで温泉や娯楽、社交を楽しみつつ、長期滞在の合間に有名な一流画家に肖像画も描いてもらい、仕上がった絵をそのままカントリーハウスなどの本宅へ持って帰る。

ローマ教皇ピウス7世(1742-1823年)1819年、トマス・ローレンス画、英国王室蔵ローマ教皇ピウス7世(1742-1823年)1819年

トマス・ローレンスはローマに赴いてローマ教皇ピウス7世の肖像画も描いています。

ローマ教皇と言えばカトリックの頂点に立つ最高権力者です。ピウス7世はナポレオンともやりとりがありましたね。

島国で鎖国制作の時代も経験した日本にとっては、国をまたいだ活発なやりとりは今でもあまりイメージしにくいかもしれません。

でもヨーロッパでは昔から、国をまたいだ活動はごく自然のことだったのです。

フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809年)1791年、Royal College of Music Museum of Instruments蔵

数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれる作曲家ハイドンもバースで演奏しています。

古典派を代表するオーストリアの作曲家で、オーストリア皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』も作曲しています。

音楽には興味がなかった後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は、この皇帝讃歌を知らなかったなんてエピソードも残っていますが、皇帝讃歌の旋律は現在ドイツ国家(ドイツの歌)に用いられています。

中世最高傑作の教会建築『バース寺院』 "Abadía de Bath, Bath, Inglaterra, 2014-08-12, DD 07 " ©Diego Delso(12 August 2014, 19:03:01)/Adapted/CC BY-SA 4.0

バースには5つの劇場があります。

さらにローマンバスのすぐ近くにあるバース寺院は、バースで最大のコンサート会場として現在でも年20のコンサートと26のオルガンリサイタルが開催されています。

カルテッドを演奏するハイドン(1790年以前)

それでも、アセンブリー・ルームズのティールームという、特別な人たちだけが集まる少しプライベートな空間でハイドンの演奏を聞くのは、一味違う贅沢な愉しみ方として人気があったのでしょうね。

<ヴィクトリアンにおける魅力の増強>

ローマン・バス(ローマ浴場跡、上階の建物はヴィクトリア時代) ©Diliff(2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

18世紀の大規模開発によって、バースはヨーロッパ中の貴族が集まる社交の一大中心地となりました。

左のローマン・バスは、実は柱の土台部分しか遺っていなかったのですが、19世紀のヴィクトリア時代に上部が建設されました。

16世紀からの伝統ある上流階級の中心地バース

アセンブリー・ルームズ(建設1771年)1779年

バースは何世紀にも渡って高貴な人々が集まる『上流階級の中心地』とされ、アセンブリー・ルームズは人々が集まる社交場としてバースで最もエレガントかつオシャレな場所となりました。

それもあって、現在はアセンブリー・ルームズの地下にはそういう人々が着用していたドレスなどを集めた、ファッション博物館があります。王侯貴族の邸宅にある地階は使用人たちが働くためのスペースですが、ここも時には舞踏会のために1,200人が集まったという紳士淑女をもてなすために、たくさんの人たちが働いていたのでしょう。

王侯貴族のお出かけにはたくさんの侍従たちが一緒について行きますし、もてなすためにたくさんの人たちが必要です。侍従たちの滞在費もろもろ、そして現地で使うたくさんのお金。労働を生み出し、雇用を増やし、経済を活性化させてくれる王侯貴族は地域の人たちにとっても大切な存在だったのです。

16世紀のエリザベス女王以降、王侯貴族が集まる上流階級の中心地の1つとなったことから、博物館には16世紀後半から現代までの上流階級の衣装が年代ごとに展示されています。

イギリス最大のコレクションを誇り、国家としても重要な作品を保有するこのファッション美術館は、CNNから世界のファッション美術館のTOP10にも選ばれています。

結婚式でのアレクサンドラ妃と王太子バーティ(1863年)

企画展も定期的に開催されており、運が良いと王室の女性が使用した実際のウェディングドレスなども観ることができるようです。

ジャスパーウェア・パリュールの販売店

イギリスのバースに存在した宝飾店

さて、美しいジャスパー・パリュールを販売した宝飾店『NOBLE CHIVER』はどこにあったのでしょう。

バースのニュー・ボンドストリートは現在でもあります。

イギリスのファッションと社交の中心地バースの中心バースのニュー・ボンドストリート ©google map

赤でピンを指した通りがニュー・ボンドストリートです。

この通りのどこかにお店があったのでしょうね。

イギリスのファッションと社交の中心地バースのニュー・ボンドストリートアセンブリー・ルームズからニュー・ボンドストリートまでの道のり ©google map

ニュー・ボンドストリートのどこにお店があったかによりますが、社交の中心地アセンブリー・ルームズまで歩いても数分で行ける距離です。

ロイヤル・クレセントやバース寺院、ローマン・バスもこの1km四方の地図に全て入っており、王侯貴族たちもこの街でコンパクトに遊べていたことが分かります。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

このパリュールはイギリス随一のブルジョワの集まる社交の中心地で、集まったヨーロッパ中の目利きの王侯貴族のために選りすぐりのジュエリーを販売していた、ハイストリートの超高級店で販売されたとみて間違いないでしょう。

カメオ系はデイ・ジュエリー、ダイヤモンド系はナイト・ジュエリーなので、このパリュールは昼の社交用だったと考えるのが妥当です。

購入された場所、そして正装用のパリュールであることを考慮すれば、アセンブリー・ルームズでも着用されたはずです。

お茶会なのか、カードゲームの席なのか、素敵ですね〜♪

ジュエリーとしての素晴らしさ

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

ここまではジュエリーを販売した宝飾店の住所から、当時のヨーロッパの王侯貴族の社交と、扱ったお店の格についてを類推してきました。

このパリュールは、ヨーロッパ各地から一流の紳士淑女が集まる社交場で、一際美しさと存在感を示すためのアイテムとして販売されました。

ここからはこのパリュールがどのように優れているのかを見ていきましょう。

特徴2. ウェッジウッド社のトップクラスのジャスパーウェア・パリュール

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

このパリュールはウェッジウッド社のジャスパーウェアで制作されています。

現代のウェッジウッドのジャスパーウェアは、安物の量産品のイメージが強い方が多いかもしれません。

ウェッジウッドも例に漏れず、創業時代のモノづくり精神が消え失せて、今ではブランドだけで売る劣化した企業です。

アンティークでも、日常使い用の食器類を販売していたので安物として作られた物ももちろん存在します。

たくさん作られているので、むしろ安物の方が数が多いです。

でも、いくつかは王侯貴族のために作られた驚くような芸術的作品もあるのです。

ウェッジウッド社の成り立ち

ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年)

ウェッジウッドは、『イギリス陶芸の父』と称されるジョサイア・ウェッジウッドによって創設されました。

ジョサイア・ウェッジウッドはイギリスで代々、陶器職人で工場を営んでいた家系に生まれました。

陶芸は9歳から学び始めました。この時点で、義務教育を終えないと職人として没頭できない現代の職人では、どんなに才能があっても昔の天才的な職人には勝てないことは想像いただけるでしょう。

11歳で天然痘にかかり右足が不自由になると、陶器に関する調査と研究に没頭するようになりました。

トーマス・ウィルドンとジョサイア・ウェッジウッドによるパイナップルのティーポット(1760-1765年)DAR美術館

1754年、ジョサイア・ウェッジウッド24歳の時に、トーマス・ウィルドン(1719-1795年)と共同で事業を始めました。

35歳だったウィルドンは当時既に陶芸家としての地位を確立しており、同時代の最も重要な陶芸家の1人とされています。

ヨーロッパの「王の富と権力の象徴」だったパイナップル・モチーフのジョージアンのシトリンを使ったアンティーク・フォブシール王の富と権力の象徴『パイナップル』
ジョージアン スリーカラー・ゴールド フォブシール
イギリス 1820年頃
SOLD

先ほどの2人の作品のモチーフも、時代背景を知らない現代人が見ると「???」となりそうですね。

この時代はパイナップルが王侯貴族の富と権力の象徴だったことは時折ご説明しており、ヘリテイジをご愛顧いただいている方ならばご覧になっただけでこの時代の作品らしいと思われる方も多いと思います。

それでもこの事実を認識し、意識して見てみると、想像以上にヨーロッパの王侯貴族の持ち物にはパイナップルが富と権力の象徴として取り入れられていることに気づいて驚かされます。

上のパイナップルのポットも王侯貴族の持ち物に相応しい、手の込んだ作りです。

その後の1759年、ジョサイア・ウェッジウッドは独立しウェッジウッド社を設立しました。

王室御用達『クィーンズウェア』 -白い磁器の開発-

初代 酒井田柿右衛門の壺(1650年頃)東京国立博物館

中国や日本などの東洋の白磁は、特に17世紀頃のヨーロッパで憧れの芸術品でした。

ザクセン選帝候(兼ポーランド王)のアウグスト2世(強健王)(1670-1733年)

自国でも作れないかと考えたザクセン選帝候(兼ポーランド王)のアウグスト2世(強健王)は、錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベドガーに白磁の研究を命じました。

ちなみにこの強健王という呼ばれ方は、驚異的な怪力の持ち主だったからだそうです。

自慢の怪力を見せびらかすために素手で蹄鉄をへし折るのを好んだそうで、『ザクセンのヘラクレス』『鉄腕王』などとも呼ばれました。

マイセンのティーポット(1720年頃)、彩色はオランダで1735年頃
"Meissen hard porcelain teapots circa 1720 decorated in the Netherlands circa 1735 " ©World Imaging(2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

さて、ベドガーは当時ニュートンやホイヘンス、ライプニッツなど当時最高の知性を持つ人々との親交もあったドイツの哲学者・数学者・物理学者・生理学者のチルンハウスの助けもあって、1709年に白磁の作製に成功しました。

初期のマイセンのデザインには、白磁開発の元となった中国や日本の影響が見られますね。

ヨハン・フリードリッヒ・ベドガー(1682-1719年)

新たにヨーロッパでも製造可能となった白磁ですが、技術の国外流出を懸念した強健王はベドガーをマイセンのアルブレヒト城に幽閉してしまいました。

それが原因でベドガーは酒に溺れ、37歳で亡くなってしまいました。

このような経緯もあって、マイセンはその地位を有利に保つことに成功しました。

クリームウェア(1770-1775年)ウェッジウッド美術館

白い器を作ることにしのぎを削っていた当時のイギリスで、ジョサイア・ウェッジウッドも熱心に研究開発を重ねました。

その結果誕生したのが、当時としては画期的な乳白色の『クリームウェア』でした。

イギリス王ジョージ3世とシャーロット夫妻と上の6人の子供たち(1770年)

このクリームウェアをシャーロット王妃が称賛し、夫のイギリス王ジョージ3世もとても気に入ったことから、ウェッジウッドは王室御用達となり『クイーンズウェア』を命名することを許されたのでした。

イギリス王妃シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(1744-1818年)

ちなみにシャーロット王妃の顔立ちに「あれ?」と思われた方もいらっしゃるでしょうか。

今では白人と黒人のハーフである英国王室のメーガン妃が騒がれたりしていますが、シャーロット王妃も亡くなった後、実はムーア人(アフリカ系)の祖先がいたらしいことが判明しています。

起源は古く13世紀まで遡りますが、ムラート(黒人との混血)の外見的顔の特徴があったと王妃のドイツ人医師が残しています。肌の色は白かったそうです。

歴代君主と違ってジョージ3世はシャーロット王妃一筋で、芸術文化をこよなく愛する王妃は、フランスのマリー・アントワネットとも手紙のやりとりを通してとても親密だったそうです。

ティー&コーヒー用のセット(ジョサイア・ウェッジウッド 1765-1775年頃)V&A美術館
"BLW Tea and coffee service, Staffordshire " ©Valerie McGlinchey(February 2010)/Adapted/CC BY-SA 2.0 UK

政治には決して口を出さず夫婦円満、芸術文化に秀でたシャーロット王妃は当時から人気が高く、その王妃の御用達となったウェッジウッドは一躍人気となりました。1763年頃までには王妃を初めとするイギリスの王侯貴族から、最高の作品を作るようオーダーを受けるようになっていました。1766年にはシャーロット王妃から『王妃の陶工』を拝命しました。

それだけでなくジョサイア・ウェッジウッドは様々な場面で、実業家・経営者としても高い能力も発揮しています。18世紀には珍しかったショールームをロンドンの目抜き通りに開きました。女王からオーダーされた作品は、納める前に毎回ショールームで展示会を開いて披露し、より評判を高めていったのです。

永遠の美『黒』 ブラックバサルトの開発

クリームウェアは美しさだけでなく日常使いしやすい機能性もあったため、王侯貴族のための最高級品だけでなく、ある程度廉価な量産陶器も売り出しました。

工場はフル稼働、それでも需要に追いつかないくらい商売は繁盛していました。

メンカウラー王と女神達(古代エジプト 紀元前2532-紀元前2500年頃)カイロ美術館

しかしこの『白』の成功に胡座をかくことなく、ジョサイア・ウェッジウッドは次に『黒』に永遠の美を見出し、開発に挑みました。

イギリスのスタッフォードシャーでは長年『エジプトの黒』として作られていた黒の粗い陶器が存在しましたが、これを改良して洗練された『ブラック・バサルト』です。

ブラックバサルトの花瓶(ウェッジウッド 1780年以前)チェゼン美術館

完成したブラックバサルトは密で固く、天然の黒の玄武岩と殆ど同じ性質を持つと記録されています。

見た目がアンティークのブロンズのような美しさを持つブラックバサルトは様々な装飾品に使用されました。

アンティークの黒イコール全てが『喪』と思い込む中途半端なアンティーク愛好家も少なくなくて困るのですが、左も喪として作られたものではなくカッコ良い普通の黒の花瓶です。

黒は高貴な色でもあったのです。

18世紀は様々な古代の遺跡が発掘され、歴史あふれる古代のロマンや優れた美術に魅了された知的階層によって古代回顧の機運が高まっていた時代でした。

"エジプトの黒"を駆使した古代エジプト風の作品も様々に生み出され、上流階級を魅了しました。

エトルリア工場の創業

イギリスのエトルリアの位置 ©google map

陶磁器は美術工芸品だけでなく日用品としての需要も多く、拡大する需要に応えるため、スタッフォードシャーのとある場所に工場を新設することにしました。

それが1769年に創業したエトルリア工場です。

イギリスにも『エトルリア』という地名があって南イタリアの古代エトルリアと紛らわしいのですが、工場を建てるためにジョサイア・ウェッジウッドによって命名された、実は比較的新しい地名です。

ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー蔵

1764年から1800年までウィリアム・ハミルトン卿はナポリ王国の英国大使を務めていたのですが、ナポリに到着するとすぐに古代の美術品を集め始めました。

1766年から1767年にかけて、『大使のキャビネットのエトルリア、ギリシャ、ローマの古代美術』と題してハミルトン卿はコレクションを掲載した本を出版しました。

この本は大人気で、さらに1769年から1776年にかけて3巻が出版されました。

コレクションは大英博物館や王侯貴族にも購入されるなどし、イギリスにおける古代美術の文化の発展に大きく貢献しました。

ディレッタンティ協会(1777-1779年頃)

ハミルトン卿はその貢献が認められ、1772年にバース市の最高勲章であるナイトの称号が授与され、古美術学会のフェローにも選出されています。

さらに1777年にはディレッタンティ協会の会員となり、1792年にはアメリカ芸術科学アカデミーの外国名誉会員にも選出されています。

ディレッタンティ協会は、古代ギリシャやローマ、エトルリア美術の研究、そしてその様式にインスピレーションを受けた新しい作品制作のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンによる協会です。

1734年にグランドツアー経験者のグループによって結成されました。何だかお酒も飲みながらの知的で楽しそうな集まりですね。私もまぜてほしい(笑)

『ガイウス・ユリウス・カエサル』
大理石彫刻
古代ローマ 紀元前44-30年
バチカン美術館所蔵
ジロメッティ作のガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)のストーンカメオのアンティーク・ペンダント&ブローチジュゼッペ・ジロメッティ作『ユリウス・カエサル』
ストーンカメオ ブローチ&ペンダント
イタリア 1820年頃
SOLD

『ユリウス・カエサル』でもご説明した通り、19世紀の最も評価の高いカメオ作家の一人とされるイタリアのジュゼッペ・ジロメッティも、古代美術の模刻も行っていましたが、インスピレーションを受けたオリジナルの芸術作品に昇華させたものもいくつも遺しています。

エトラスカンスタイルのアクアマリンを使ったアンティーク・ネックレス

単に真似して、全く同じものを作っても面白くありません。

それならば王侯貴族はいくらでも財力があるのですから、オリジナルを手に入れれば良いだけです。

そうではなく、古代の優れた芸術作品にインスピレーションを受けて、現代(当時)でより素晴らしいものを生み出そうとしていたということですね。

優れた芸術家が存在するだけでは不可能です。

芸術を理解し、パトロンになってくれる知性豊かな王侯貴族がいて、研究者や芸術家たちが存分に活躍できたからこそアンティークの時代は優れた作品が生まれることができたのです。

『エトルリアの知性』
エトラスカンスタイル アクアマリン ネックレス
オーストリア? 1870年代
SOLD
トーマス・ベントレートーマス・ベントレー(1731-1780年)

ジョサイア・ウェッジウッドはハミルトンの書籍に掲載された優れた古代美術にインスピレーションを受けて、様々な新しい作品制作にチャレンジをすることになるのです。

その有力なパートナーとなったのがトーマス・ベントレーでした。

ベントレーは1762年に出会ったリバプールの商人でしたが、趣味や芸術の知識など博学で、知識階層とのコネクションも豊富でした。

ビジネスにも精通しており、各国の王侯貴族に対してアンバサダーとして活躍し、プロモーションだけでなく王侯貴族のあらゆる要望にも応えられるよう尽力したことで、王侯貴族に対するウェッジウッドのブランド確立に貢献しました。

エトルリア工場の最初の作品『初日の壺』(1769年) 【引用】CHRISTESE'S / ©Christie's

これはベントレーが車輪を回し、ジョサイア・ウェッジウッドが手回しでロクロを引いて制作したエトルリア工場の最初の作品『初日の壺』です。壺の文字にはウェッジウッドとベントレーの名前が記載されていますね。

こういう、ブランドや歴史的背景でPRできる作品はオークション会社が最も得意とするジャンルです。2016年にクリスティーズで約7,200万円で落札されていました。芸術に関する深い知識がなくても名前だけで簡単に高額で売れる、上手なビジネススタイルですね〜。単純に金儲けだけに幸せを感じられる人ならば楽しい商売でしょうけれど、知的好奇心が満足できないと楽しくない私としては、仕事としては面白くなさそうなのでこのスタイルはやらないです(笑)

ブラックバサルトの壺(ウェッジウッド 1815年頃)バーミンガム・アート美術館 "Vase-BlackBasalt-Wedgwood-BMA" ©Sean Pathasema/Birmingham Nyseyn of Art(19:03, 23 March 2012)/Adapted/CC BY 3.0

以後、エトルリア工場では"Artes Etruriae Renascuntur"をモットーとする様々なエトルリア作品が制作されました。

このモットーはラテン語で「エトルリア芸術は新たに生まれ変わった」を意味します。

作品は『エトルリア』として紹介されていたのですが、「あれ?古代ギリシャ・・?」と感じた方は正解です。

スタイルはまさに古代ギリシャの赤絵式ですよね。

左の壺のモチーフはエトルリアっぽい感じですが、何だか古代ギリシャや古代エトルリアっぽいものがごちゃ混ぜになっています。

PD『演奏会』(古代ギリシャ 紀元前460-紀元前450年頃)ウォルターズ美術館
"Niobid Painter - Red-Figure Amphora with Musical Scene - Walters 482712 - Side A" ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0
PD『ヘルメスとハース』(古代ギリシャ 紀元前390-紀元前380年頃)ルーブル美術館

実はハミルトンの書籍にはコレクションはエトルリアとして紹介されていたのですが、その項目の殆どは古代ギリシャの陶器だったことが後で分かっています。ジョサイア・ウェッジウッドはエトルリアと呼んで創作活動をしていますが、作りたかったのは古代ギリシャ・スタイルだったようです。

まだこの時代は発掘品を収集するステージで、考古学的な研究はさほど進んでいなかったでしょうから、しょうがないことでしょう。現代の日本だって学生時代に学校で教えてもらった歴史が、新たな事実の発覚により変わってしまったということがしょっちゅうありますからね。

後々まで残る地名にまでなっているので影響は大きいですが、昔の人たちの揚げ足をとる必要はなく、それも歴史の一部と見れば良いのだと思います。考古学もこの時代から検証が続けられてきたからこそ今があるということですね。学術的な研究に関しては、未来にはもっと詳しいことが分かっていくことでしょう。

世界的ブランドとなったウェッジウッド

ロシア皇帝エカチェリーナ2世(1729-1796年)

さて、ヒットしたクリームウェアを手頃な価格で売り出したところ、世界中にイギリスの貿易船でクリームウェアが届けられるようになりました。

世界中への急速な普及はジョサイア・ウェッジウッド本人も驚くほどでした。

そんな中、ロシアの偉大なる女帝エカチェリーナ2世からもオーダーが入りました。

サンクトペテルブルク近郊の宮殿用のディナー・サービス用のクィーンズウェアの特別オーダーです。

1773年から1774年にかけて制作された、952点にも上る大作で、最も有名なクイーンズウェアとして知られています。

PDフロッグ・サービスの1枚(ウェッジウッド 1774年)ブルックリン美術館蔵

『フロッグ・サービス』と呼ばれるこのディナーサービスは、イギリスの庭園風景などの1,244景もの絵が手書きで1つ1つ描かれた作品です。通常は3年以上はかかると言われた本作ですが、ジョサイア・ウェッジウッドは芸術家を招聘してわずか1年で完成させました。

とは言え、一流の芸術家たち数名が、丸1年専従で集中して描き続けなければ完成しない作品ということです。現代で考えると、技術云々は抜きにしても人件費だけでも到底制作できるものではありません。

ジョサイア・ウェッジウッドはこの作品もロシアに納める前に、ソーホーのロンドンショールームで公開したそうです。しかも入場券付きの公開だったようで、本当にビジネスも上手ですね。フロッグサービスは世界3大ディナーサービスと言われており、展示会も好評を博しました。こうしてウェッジウッドは、各国王室から愛される世界的ブランドとしての地位を確立したのです。

フロッグサービスの蛙の紋章フロッグサービスの蛙の紋章

ちなみに何故『フロッグ』なのかと言うと、ディナーサービスを使うロシアの宮殿には蛙がたくさんいる沼があり、『蛙の宮殿』の愛称で親しまれていたからだそうです。

小さな紋章なのに、蛙の表現も緻密で手を抜かない丁寧な仕事ぶりですね。

さすが皇帝に献上する品なだけあります。

ジャスパーウェアの開発

PD『シレノスと少年たち』(ウェッジウッド 1778年)ウェッジウッド美術館 Public Domain by Daderot

ビジネス的にはもう十分成功して、それまでの実績に胡座をかいても生きていけそうなウェッジウッドですが、優れた実業家でもありながら、やはりジョサイア・ウェッジウッドは生粋の研究者でありアーティストでもあったようです。

クリエイティブな精神は微塵も留まることを知らず、「それまでにない宝石のような美しい焼き物を作りたい」と夢見たジョサイア・ウェッジウッドは1774年についにジャスパーウェアを完成させました。ウェッジウッドと言えば、現代でもまずイメージするのがこのジャスパーウェアですよね。

カーブドアイボリー『うたた寝するシレノス』(フランソワ・デュケノイ 1650-1670年)V&A美術館 © Victoria and Albert Museum, London/Adapted

上のジャスパーウェアの作品は、17世紀半ばのカーブドアイボリーのレリーフのデザインを元に制作されています。

ジョサイア・ウェッジウッドは陶磁器の研究開発・技術革新や芸術を理解する能力には長けていましたが、デザインをゼロからクリエーションするのは得意、もしくはやりたい領域ではなかったのかもしれませんね。

フランソワ・デュケノイ(1597-1643年)フランソワ・デュケノイ(1597-1643年)

元となるカーブドアイボリーのレリーフを制作したのは、17世紀前半にローマで活躍したフランドル地方出身の彫刻家フランソワ・デュケノイです。

枢機卿からフランスのルイ13世に宮廷彫刻家に推薦され、パリの王室アカデミーで教鞭をとったこともある実力者です。

PD聖アンデレ(フランソワ・デュケノイ 1629-1633年)バチカン

1618年にローマに到着したデュケノイは、すぐに古代彫刻について詳細な研究を始めました。

同時代の彫刻家たち同様、デュケノイも古代彫刻の修復も行っていたのですが、そうして磨いた技術を自身のクリエーションにも生かしました。

当時から古代ローマ以上に古代ギリシャの芸術は優れてることは知られており、デュケノイの優れた観察眼による古代ギリシャ並みの絶妙な輪郭などの表現は「古代の最も優れた彫刻家と同等以上」と称賛されるほどでした。

そのような人物の作品だったことを理解すれば、ジョサイア・ウェッジウッドがデュケノイの作品を元に新たな作品を制作した意図も理解しやすいですね。

『ヘリオス神』ストーンカメオ(ジュゼッペ・ジロメッティ作 1836年頃)7.4cm×5.1cm×2.6cm、 バチカン美術館 【出典】Musei Vaticani HP ©MVSEIVATICANI 『ヘリオス(セラピス・ゼウス)神』(紀元前4世紀後期にブリアキスが制作したオリジナルを古代ローマで複製)バチカン美術館所蔵(Inv.No.245) (сс) 2005. Photo: Sergey Sosnovskiy (CC BY-SA 4.0).© 1986 Text: Chubova A.P., Konkova G.I., Davydova L.I. Antichnie mastera. Skulptory i zhivopiscy. — L.: Iskusstvo, 1986. S. 33./Adapted

19世紀初期に活躍したイタリアの偉大なるカメオ作家ジロメッティも、古代ローマの作品だけでなく同時代の優れた彫刻家の作品を元にカメオを制作したりしていました。全く同じものを作るという、偽造目的のようなつまらないものではなく、大きな大理石彫刻を硬い石による小さなストーンカメオにアーティスティックに表現するという方法です。

ヨーロッパは古代ローマが終焉を迎えて中世以降、経済だけでなく長い間芸術的にも文化的にも暗黒の時代が続きました。再生・復活のルネサンスを経て、ヨーロッパでは古代に極められた芸術文化の頂点に憧れてずっと芸術家たちから研究と試行錯誤による新たなクリエーションが重ねられてきた歴史があるのです。

矢筒(ウェッジウッド 1785-1790年頃)ウェッジウッド美術館に展示

これはウィリアム・ハックウッドがデザインして制作された矢筒です。

ジョサイア・ウェッジウッドは専門のデザイナーを何名か雇っていました。

日用品ではなく矢筒と言うことは、明らかに狩猟を楽しむ特別な身分の人たち、つまり王侯貴族のために作られた作品ですね。

上の矢羽根、足下の羽毛。
実にアーティスティックで手の込んだ作品です。

当時はまだジャスパーウェアが開発されたばかりです。この技術を使ってどんな表現ができるだろう、どこまで表現できるだろう・・。ワクワクしながら作品制作に取り組んでいたに違いありません。

蓋付きベース(ウェッジウッド 1790年頃)V&A美術館 "Jasperware" ©Victoria and Albert Museum(9 December 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ウェッジウッドはそれまでヨーロッパで主流だったロココ的デザインではなく、主に古典主義的なデザインでジャスパーウェアを制作しました。

このスタイルは一世を風靡しました。ヨーロッパ中を座巻し、ロココ的デザインの陶磁器を一掃、大陸の諸窯を衰退させるほどでした。

1784年にはウェッジウッドの総生産量の80%近くが輸出され、1790年までにはヨーロッパのあらゆる都市でウェッジウッドの商品が購入できたほどの人気ぶりでした。

止まることを知らないジョサイア・ウェッジウッドの創作活動

PDジョセフ・バンクス卿夫妻(ウェッジウッド 1780-1785年頃)ウェッジウッド美術館

新しい技術『ジャスパーウェア』によって、F器(せっき)によるカメオのような表現が可能となりました。

そこでジョサイア・ウェッジウッドが新たにチャレンジしたのが古代ローマのカメオ芸術にインスピレーションを受けた作品制作です。

古代ローマの超レアなゴルゴネイオン(メデューサ)のストーンカメオのルース『メデューサ』
ゴルゴネイオン・ストーンカメオ ルース
古代ローマ 2世紀
SOLD

古代ローマの優れたカメオは、当時の王侯貴族からも別格の扱いを受けています。

インタリオは印鑑の役割があったため庶民でも皆が持っており、レベルの低いものであれば遺跡をちょっと発掘すればゴロゴロ出てきます。

しかしながら古代ローマのストーンカメオは、当時の身分の高い人たちに何か意図されてしかほぼ制作されておらず、非常に数が少ないのです。

インタリオはカメオの千分の一しか作られていないとも言われるほど貴重なものです。

古代ローマの超レアなディオニュソスのストーンカメオと18世紀のシャンクのアンティーク・リング『ディオニュソス』
ローマン・カメオ リング
カメオ:古代ローマ 2世紀
指輪:1700〜1760年頃
Sold
18世紀のアンティークリングの裏側の金細工

さらに沈み彫りのインタリオと違って、凸形状のカメオは2千年近くの長い年月の間に何らかの形で破損していることも多く、アンティーク・ジュエリー市場でもほとんど見ることがない極めて貴重なものなのです。

この古代ローマのカメオも、手に入れた18世紀の人物がその稀少性と高い価値を理解していたからこそ、当時の最高の職人に特別にオーダーして、18世紀の極上の細工でシャンクを作ったのです。

古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ  5-25年頃)大英博物館
"Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5

このように王侯貴族や知識階層の間でも古代の優れた美術品への憧れが高まる中、ジョサイア・ウェッジウッドがジャスパーウェアによる再現を試みたのが『ポートランドの壺』です。

ポートランドの壺は、古代ローマングラスの最高傑作とされる作品です。

1582年にローマ近郊で発掘されたことが示唆されており、1600年頃にはローマに存在した記録がのこされています。18世紀には様々なガラスや陶磁器メーカーにインスピレーションを与えていた作品です。

19世紀には実際にガラスによる再現が試みられたそうですが、信じがたいほど骨の折れる大変な作業であることが分かったそうです。

結局試行から2年もせず、オリジナルを作った当時の職人たちでないと無理だという結論になったようです。

それでも当時の職人でも1世代ではなく、2世代に渡って制作されたと考えられている大作ですが、現代どころか19世紀でも考えられない代物という・・。

これが古代美術の真のすごさなのです。

第2代ポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンク(1715-1785年) 第3代ポートランド公爵ウィリアム・カベンディッシュ-ベンチンク(1738-1809年)

ポートランドの壺をイギリスにもたらしたのもナポリの英国大使ハミルトン卿でした。当時イギリスで最もリッチな女性とされ、優れた美術品のコレクターでもあった未亡人ポートランド公爵夫人マーガレットに購入を打診しました。『公爵』と言えばイギリスでは王族クラスがなるような、爵位貴族の中でも最も数が少なく高い高位です。財力的には間違いないですね。

その結果1786年にマーガレット息子、第3代ポートランド公爵ウィリアムによって購入されました。その購入した作品が、ジョサイア・ウェッジウッドに貸し出されて有名なウェッジウッドの作品が作り出されたのです。

『ポートランドの壺の再現』 "PortlandVaseCopy-Wedgwood-BMA" ©Sea Pathasema/Birmingham Museum of Art(16:12, 21 March 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0
(ウェッジウッド 左ブルー:1791年頃、右ブラック:1790年頃)バーミンガム美術館

ジョサイア・ウェッジウッドは試行錯誤を重ね、4年もの歳月をかけてジャスパーウェアによるポートランドの壺の再現に成功しました。いつまでも衰えぬクリエイティブ精神ですね。初版のレプリカはロンドンのショールームで招待客だけを招いて展示会が開かれ、ウェッジウッドの名声はさらに高まったのです。

『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n5" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 ポートランドの壺の再現(ウェッジウッド 1790年)V&A美術館 "Portland Vase V&A" ©V&A Museum(11 August 2008)/Adapted/GNU FDL

オリジナルはガラスでできているとは言っても、F器であるジャスパーウェアもある程度透明性はあるのでもう少し緻密で立体感と迫力ある表現にできなかったのかとも思いますが、いくつかレプリカを作る前提で作られているのでこれが限界かもしれませんね。

4年の歳月がかけられたとは言え、レプリカを量産する前提で作られたコピーと、古代ローマの天才職人が2代にも渡って魂を込めて制作したオリジナルが同じであるはずがないのですから・・。

PDジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年)

1790年にこのジャスパーウェアによるウェッジウッドで最も有名な作品を完成させた後、ジョサイア・ウェッジウッドは1795年に64歳で生涯を終えました。

9歳という10代にも満たない年齢からずっと新しいことチャレンジし、革新的な作品や製品を生み出してきた、実業家というよりは芸術家と言える人物でした。

その後、数代に渡ってジョサイア・ウェッジウッドの子孫がウェッジウッドの商品を世界に送り出しました。

現代のジャスパーウェアには魅力がない理由

現代でもウェッジウッドの商品を手に入れることは可能ですが、ヘリテイジが扱うような優れたアンティークが好きな方は、現代のウェッジウッドには魅力を感じられないのではないでしょうか。

左の商品もにょろ〜んとした女性の腕がデザイン的に変ですし、絵ものっぺりしていてつまらないですよね。

【参考】カップ&ソーサー(ウェッジウッド 現代)

現代ウェッジウッドは「現代でも18世紀と同じ技法で熟練のクラフトマンが1点1点作っています。」と誇らしげにPRしているのですが、実はそれは完全に正しい言い方とは言えません。

現代のこの子供ですら作れそうなのっぺりした駄作がどうやって作られているか、イメージ的にご説明します。

カメオ風の図柄となる部分を、型で制作します。

【参考】粘土で型を取る様子

 

不要な粘土はヘラなどで除去し、底部を平らにします。

【参考】余分な粘土を除去する様子

型から取り出した粘土を土台となるF器に水で貼り付け、まるごと1200-1300℃で約30時間焼成してできあがりです。

実際、熟練の職人どころかおそらく子供でも図工感覚でできるくらい簡単そうです。

 

※実際はウェッジウッドの公式ページもご参照ください

【参考】型から取りだした粘土

それでも本来ならば型のクオリティ次第ではもう少しまともなものが作れそうです。

量産品は、マスターとなる型のデザインは最重要です。

【参考】樹脂カメオ製作キットで作られたキリスト・カメオ

でも、実際は腕がニョロ〜ンのノッペリ〜です。

薄かったり凹凸があると型から外すのが難しくて意図してノッペリなデザインにしたのか、余程デザイン費をケチって未熟なデザイナーに依頼したのか、これではとても王室御用達の歴史もある伝統ブランドとは思えません。

ジョサイア・ウェッジウッドがデザインに力を入れていた創業時代の気配は微塵もありません。

【参考】カップ&ソーサー(ウェッジウッド 現代)
19世紀初期のジャスパーウェアの回転式アンティーク・リング『19世紀初期のジャスパーウェア』
ウェッジウッド 回転式 カメオ リング
イギリス 19世紀初期(指輪の作りは19世紀後期)
カメオの大きさ 2.0×1.2cm
SOLD
19世紀初期のジャスパーウェアの回転式アンティーク・リング
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

数代に渡りジョサイア・ウェッジウッドの子孫が経営し、ジョサイア亡き後も19世紀には左のように優れた芸術的作品もいくつか作られたウェッジウッドでした。

でも、時代の波にはついて行けず1967年にウェッジウッド家以外の社長が誕生しました。

1986年に敵対的買収を回避するために、ホワイトナイトとなるウォーターフォード・クリスタル社と合併して単独企業ではなくなってしまいました。

合併したものの思いの外シナジー効果がなく、ウェッジウッドは1995年には低価格品を販売する戦略をとります。

これは伝統ある高級メーカーはやってはいけない戦略です。この戦略をとると、後は駄目になっていくだけの一方通行の未来です。

それまでは一応は「高級品」のイメージがあったのに「安物」「庶民でも気軽に買える」というイメージがついてしまいます。高くて買えない憧れブランドに割安感が出て一時的には売り上げが上向くでしょうけれど、安く売るには品質を落とすしかなく、結局は値段に見合わない価値しかないと判断されて顧客は遠のきます。

【参考】ジャスパーウェアのペンダント(ウェッジウッド 1978年)
【参考】ジャスパーウェアのジュエリー(ウェッジウッド 現代)

案の定ウェッジウッドは経営が立ちいかなくなり、2009年に事実上、経営破綻しました。

とは言え、ロシアの『ファベルジェ』と同じくブランドの名前はうまく使えばまだまだ金を生み出す力があり、特定の企業にとっては魅力があります(現代のファベルジェについてはこちらもご参照ください)。

ということで、創業時のスピリッツなんて皆無ですし、そのような真面目なモノづくりをやるつもりも微塵もありませんが、屍が無理矢理踊らされるがごとく新たに買収された企業によって『ウェッジウッド』を称する酷いレベルの製品が世に送り出されているのです。

ジョサイア・ウェッジウッドジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年)

現代のファベルジェも酷いものですが、ジョサイア・ウェッジウッドの製品作りに対する精神や姿勢を考えると、現代の状況は哀れでなりません・・。

見たこともない美しいジャスパーウェアのジュエリー

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
今回のジャスパーウェアのパリュールは、初代ウェッジウッドが好んだ古典的なデザインではなく、他では見たことがない美しい花々が描かれています。
ウェッジウッドのアンティークのジャスパーウェア・ロケットペンダントウェッジウッド ロケットペンダント
イギリス 19世紀中期
ジャスパーウェア、15ctゴールド、ギロッシュ・エナメル
SOLD

ウェッジウッドは陶磁器メーカーですが、ジャスパーウェアを開発したことで、ジュエリー用途の製品も一部製造するようになりました。

これは他の陶磁器メーカーにはない特徴です。

デザインについては、これまでに見たジュエリーはウェッジウッドらしい古典的な作品ばかりでした。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

本作品は社交界の中心地であり、イギリス唯一の天然温泉だけでなく古代ローマの遺跡も楽しめる、『バース』という特別な場所で着けて楽しんでもらうために作られたパリュールだと思います。

当時の上流階級と言えば、考古学や芸術文化の教養は必須です。

ジャスパーウェアと言えば必ずジョサイア・ウェッジウッドが作った『ポートランドの壺の再現』はセットですし、それは古代ローマの芸術に通じ、バースは古代ローマゆかりの地なのです。

これ以上に相応しいジュエリーはありません。

ローマン・バスで見つかったスリス-ミネルウァの頭像(青銅に金メッキ) "Minerva from Bath" ©Stan Zurek(2006年7月16日)/Adapted/CC BY-SA 3.0

パリュールが制作されたのは1860年頃ですが、左のスリス-ミネルウァの頭像はローマン・バスで1727年に発見されています。

ローマン・バスが現在の形に開発されたのは19世紀に入ってからで、失われていた柱の土台より上が再建されたのはヴィクトリア時代です。

信仰の対象だったスリス-ミネルウァの聖泉からは、古代ローマコイン約12,000枚だけでなく、古代ローマ人の呪いの板130枚も見付かっています。

古代ローマの話をする時には、何かと話題に事欠かない場所でもあります。

ちなみに呪いの板に書かれてあるのは、「入浴中に持ち物を盗まれてしまいました。女神様、盗人に罰をお与え下さい。」と言うような内容が主なようです。当時文字が書けたのは凄いことな気がするのですが、凄い人なはずなのに内容が身近すぎるのが親近感が湧きますね。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

まさに古代ローマが相応しい場所ですが、ジュエリーのモチーフまで古代ローマだとちょっとあざといと言うか、くどいというか、コテコテし過ぎな気もします。

そこでジャスパーウェアを使いながらも可憐な女性に似合いそうな、繊細な美しさを持つ白い花のパリュール。

教養ある一流人が集まる社交界で、センスの良さに一目おかれること間違いなしでしょう♪

今回のパリュールの用途

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

パリュールはティアラ、ピアス、ネックレス、ブローチ、ブレスレットなどをセットにした豪華なものがあります。

ご紹介のパリュールにはティアラはありませんが、物足りなく感じる方もいらっしゃるでしょうか。

清廉の心を表すアンティークのゴールド・ティアラ『清廉の心を表すゴールド・ティアラ』
英国王室御用達Goldsmith&Silversmiths社
イギリス 1910年頃
 SOLD

イギリスでは伝統的に、ティアラを着けることができるのは花嫁か既婚女性だけです。

美しく華やかなティアラを分かりやすい頭部に着けることで、社交の場でも「既にパートナーが存在し、結婚相手を探してはいないこと」を示すためのジュエリーなのです。

綺麗なのでお姫様になった気分でキャピキャピ着けてみたくなる未婚の方もいらっしゃると思いますが、この事実を知ってしまった以上はグッと我慢です(欧米人から「?」と思われても良い方は別ですが・・)。

ちなみに私もグッと我慢しなくてはいけない側です(笑)

社交界デビューのセレモニーを待つヴィクトリア時代の若いイギリス王侯貴族の女性たち社交界デビューのセレモニーを待つ若い王侯貴族の女性たち(イギリス 19世紀)

ファッションと社交の中心地バースには、そんなお相手を探す若い王侯貴族の女性たちがたくさん集まっていました。社交界デビューに年齢制限などがない男性と違い、女性の社交界でのお相手探しは過酷を極めます。

男女ともに社交界にでデビューしても"絶対に"家の恥にならぬよう、マナーやプロトコルなどを十分にからデビューします。これらが十分に身に付けられなければデビューはさせません。女性は年齢的には16歳前後で、せいぜい20歳くらいまでにデビューしますが、社交のシーズンも3回目を迎えると『売れ残り』とみられてしまいます。

上の絵は社交界デビューを直前に控えた良家の女性たちです。日本人は欧米人と比べてほとんどが童顔なので、欧米人を見ると10代でも10代に見えなかったりするのですが、家の名誉を背負い、自身のこれからの未来を大きく左右する社交界にデビューする経験少ないうら若き10代の女の子たちだと思えば、皆のこの緊張した硬い表情も納得なのです。

19世紀ビクトリア時代のイギリス貴族の優雅な舞踏会の様子優雅な舞踏会の様子(イギリス 1850年前半〜半ば頃)

どうやらイギリスの社交界でもこの時代は10代後半くらいの若い女性が好まれたようですが、外見は若くとも中身は知性に溢れるエレガントな女性でなければなりませんでした。現代の中産階級の日本人のように、見た目が『カワイイ』童顔系で、中身も同様に男性にとって自分以下の『おバカ』くらいが一般的にモテる傾向にあるのとは正反対の傾向です(笑)

知性やエレガントさは年齢とともに経験を経てより身に付いていくものであるはずですが、10代後半までにそれを完璧にして身に付けておかなければならなかったのがこの時代のイギリス貴族の女性たちなのです。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

10代のうら若く、知性も備えたエレガントな女性が、相応しい幸せを掴み取るために職人が心を込めて丁寧に作り上げたのが、この春の花々のように美しいパリュールということなのです。

まだ独身で、素敵なお相手を探している若い女性のためのパリュールだからこそティアラはないのです。

 

フランス製の約2カラットのオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドのアンティーク・ブローチ『財宝の守り神』
ダイヤモンド ブローチ
フランス 1870年頃
SOLD

さらに言うと、夜は蝋燭の光に美しく輝くダイヤモンドジュエリー、昼はカメオなどのジュエリーが相応しいとされています。

カメオは昼のジュエリーとしては最高位のものとされています。

現代でもヨーロッパの上流階級の女性は、若くても1日に数回は着替えると聞いたことがある方もいらっしゃると思います。

『フォーマル』と言う言葉は本来は格式張った装いを指すのではなく、TPOに合わせた装いを指しました。

これができなければヨーロッパの上流階級では恥です。

当然この時代も、ドレスだけでなくジュエリーもシーンに合わせて着けかえられました。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

まるでカメオのようなこのジャスパーウェアのパリュールは、日中の若く健やかな女性の春のような美しさをさらに惹き立てるために、社交界に相応しい日中用のジュエリーとして作られたのでしょう。

美しいサーモンピンクのジャスパーウェア

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

このパリュールのジャスパーウェアは、美しいサーモンピンクのカラーも特徴です。

ウェッジウッドのジャスパーウェアと言えば、ウェッジウッド・ブルーとも言われる薄いブルーが特徴です。

この定番ブルーも美しい色ではありますが、定番カラーだと芸がありません。

ウェッジウッドのジャスパーウェアなのにモチーフは定番の古典的なものではなく、色も見たことのない美しいサーモンピンク。

【参考】飾り皿(ウェッジウッド 1969年)
【参考】飾り皿(ウェッジウッド 1986年)

定番づくしでは並み居る他の若い女性たちに埋もれてしまいますが、これならば「むむ、やるな。」と上流階級でも一目おかれること間違いなしです♪

ちなみに余談ですが、ウェッジウッドのクリスマス・プレートの作りを見ると明らかに1969年に比べても1986年はレベルが落ちていますね。

1969年はまだ貼り付ける時に細部に少し注意が必要そうな絵柄ですが、1986年にもなると塊をとりあえず所定の位置に貼り付ければOKなデザインです。

毎年並べると、劣化の歴史が分かりやすそうです。暇ではないのでやりませんが・・。

PDジャスパーウェアの試作品(ジョサイア・ウェッジウッド 1773-1776年)

研究熱心だったジョサイア・ウェッジウッドは、開発時から様々な色のジャスパーウェアにトライしています。

左はその試作品で、割り振られたシリアルナンバーとジョサイア・ウェッジウッドの実験ノートを照らし合わせるとそのレシピ(配合)が分かります。

ジョサイア・ウェッジウッドはジャスパーウェアを完成させるまでに数千回もの試作を繰り返したそうです。

思い通りの色や質感が出せるかは、実際に焼いてみなければ分かりません。

CC0中国の花々のゴブレット(ジョサイア・ウェッジウッド 1780年頃)チェゼン美術館蔵

さらにジャスパーウェアが難しいのは、2つ以上の異なるレシピの粘土を貼り合わせて焼くからです。

それぞれの粘土が焼成の際に収縮率が異なると、割れたり剥がれたりしてしまいます。

ジャスパーウェアは色、質感、収縮率など全ての条件が揃わないと成功しない、"開発することが難しい"技法なのです

PD蓋付きベース(ウェッジウッド 1825年頃)モントリオール美術館

レシピさえ完成すれば、後は極端に難しい技術ではありません。

アーティスティックな作品を作るためには然るべき素晴らしいデザインと、量産するために型に起こすことが必要なので、優れたデザイナーや熟練の型の職人は必要ですが、言ってしまえばその程度で済みます。

ジョサイア・ウェッジウッドが新しい色などの研究開発のノウハウも遺していますし、既にいくつものカラーバリエーションを遺してくれています。

後はその技術を存分に使って、王侯貴族のためのアーティスティックな作品や、中産階級用のそこそこのレベルの量産品を作れば良いだけです。

蓋付きベース(ウェッジウッド 1820年頃)ブルックリン美術館 " WLA brooklynmuseum Wedgwood Vase with Cover ca 1820 " ©Wikipedia Loves Art participant"The_Grotto"(February 2009)/Adapted/CC BY-SA 2.5

私も大量生産・大量消費社会に合わせて成長した製造業の大企業で、研究開発部門にいたのでよく分かります。

ジャスパーウェアは所詮、そこら辺からタダで入手できる泥で作ります。モノづくりの難しさを知らない方だと、タダで採れるのだから原材料費はタダ、それなのに高く売るのはおかしいと仰る場合もあるかもしれません。

でも、その技術を成功させるために有能なジョサイア・ウェッジウッドのたくさんの時間が費やされました。これは人件費にあたるでしょう。事業主なので人件費とは違うかもしれませんが、何も利益を生み出せていない研究開発期間も生活費がなければ生きていけませんし、研究開発も継続はできません。

さらに試作にも材料費や炉で焼くための設備費、燃料費など、各種の経費がかかります。

企業でも研究開発部門は直接利益は生み出していなくとも、相当な予算が割かれます。技術を絶えず磨き、革新的な技術を生み出せるかが、競争の激しい市場において企業存続の肝だからです。

研究開発部門で完成した技術は工場に移管され、後はその技術に従って製品を製造するだけです。

研究開発は企業の要なので、この部門にはそれこそ会社の中でもトップクラスの頭脳を持つ人材が集められます(私は違いますが笑)。

言い方が良いかは置いておくとして、工場の製造ラインでは指示されたことを正確に遂行できさえすれば良く、そうやって製造された製品を適切な値段で販売することで会社の従業員全員を養うことができます。

【参考】ペンダント&ブローチ(ウェッジウッド 1960年代)

研究開発に投資した金額が回収できる金額を製造原価に乗せて販売し、新たな研究開発にまわす原資を稼いだり、従業員の食い扶持を得るのです。1つの技術で200年以上にも渡って各時代のたくさんの人々を養うことができたジョサイア・ウェッジウッドの功績は非常に大きいと言えます。

それに胡座をかいて、ある時期からウェッジウッドという会社は進化を止めて劣化したから人々から支持されなくなり、最終的には破産したのです。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

このパリュールのジャスパーウェアのカラーはジョサイア・ウェッジウッドの時代には見られない色です。

子孫の時代によって新たに開発された色なのかもしれません。

少なくともこの作品には単なる量産品とは全く異なる、アーティスティックなデザインと素晴らしい手仕事がみられます。

量産品とは異なる手をかけた特別な技法で作られたジャスパーウェア

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

創業者の時代から現代にかけて、いくつかのジャスパーウェアの作品をご覧いただきました。

程度の差こそあれ、どちらかと言えばのっぺりした印象のものが多かったのではないでしょうか。

それは型で作るからなのですが、このパリュールの絵柄を見ると、型で作っただけではあり得ない薄さを持つ箇所や、細さを持つ箇所があります。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
中央にかけては白の花は厚みを持って描かれ、外側に向けては消え入りそうなくらい薄く仕上げられています。極限まで薄くした白のジャスパーウェアからは、白地のサーモンピンクのジャスパーウェアが透けて見えて、まるで本物の白い花が、春の明るい陽射しの中で、光を透過させながら清らかな美しさを放っているようです。
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
白とサーモンピンクの層がしっかり分かれて、二次元的なデザインで見せようとする単純な表現ではなく、下地が透けるほどに薄くし、透け具合をコントロールすることで表現された白い花々の表現は見事という他ありません。
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
拡大すると、薄い部分は段差になっておらず連続した状態になっています。これは型を使って作るだけでは絶対に不可能で、後でカメオのように削って仕上げた証です。実はこの技法はジョサイア・ウェッジウッドの子孫によって初めてトライされたものではなく、ジョサイア・ウェッジウッドの作品にも見ることができます。
『ライオンに怯える馬』(ジョサイア・ウェッジウッド 1780年頃)Public Domain by Yale Center for British Art

私はジョサイア・ウェッジウッドの作品ではこれが一番、というか断トツの傑作だと思っています。サイズ自体は25.4cm×40.6cmの大作レリーフです。1774年にジャスパーウェアを完成した当初は小さい作品しか作ることができませんでした。

ある程度技術が確立した後は、それではジャスパーウェアという技術を使ってどういう表現までが可能なのか、ポテンシャルを試すステージに移行します。そして1778年に作られたのが『うたた寝するシレノス』でした。その後、技術的にも意欲的にも一番脂がのり、最も情熱的に作品が作られたであろう時期に作られたのがこの1780年頃の『ライオンに怯える馬』なのです。

『ライオンに怯える馬』(ジョージ・スタッブス 1763年頃)V&A美術館 © Victoria and Albert Museum, London/Adapted

もちろんこの作品についても、デザインについてはインスピレーションの元となったものが存在してます。同時代の有名画家ジョージ・スタッブスによる『ライオンに怯える馬』です。ジャスパーウェアは型で作るので、左右反転していてちょっと分かりにくいでしょうか。

ジョージ・スタッブス(1724-1806年)1781年の自画像、ナショナル・ポートレート・ギャラリー

ジョージ・スタッブスは馬を描いた作品で有名な18世紀のイギリスの画家です。

この人物も老年になっても制作意欲が衰えず、1790年代初めには皇太子時代のジョージ4世からも後援を受けています。

ジョサイア・ウェッジウッドとは、パネル制作を依頼するなどの交流がありました。

 

『ライオンに怯える馬』銅版画(ジョージ・スタッブス 1777年頃)

このライオンに怯える馬というテーマにはとても惹かれていたようで、スタッブスは関連するいくつかの作品を遺しています。背景が違ったり、背中に乗られて襲われている様子など、臨場感のある場面が印象的です。先の油絵による作品は1763年頃に発表されたものですが、このように銅版画の作品も1770年代から1780年代にかけて制作されています。こちらの方が、ジャスパーウェアとは左右が同じ向きなので分かりやすいですね。

『ライオンに怯える馬』(ジョサイア・ウェッジウッド 1780年頃)

どうですか?この迫力。

あくまでも陶磁器メーカーなので、ウェッジウッド社は日用品としての量産品も製造しなければなりません。でも、ジョサイア・ウェッジウッドは可能であれば事業家ではなく芸術家として、本当はこういうものを集中して作りたかったのではないかとも思います。

馬のあばら骨や筋肉の表現も素晴らしいですし、拡大してみると顔には歯や舌まで表現する徹底ぶりです。地面の草原を見てみると、型で抜いたのではなく後で削って仕上げたとみられる細かな模様がみられます。

『ライオンに怯える馬』(ジョサイア・ウェッジウッド 1780年頃)

倒壊する柱のような部分は、片側のエッジが明らかに削って仕上げてありますね。枝のような物のエッジとは全く異なります。ただ、この枝も型抜きではなく、手びねりで造形した枝を貼り付けて作ったようにも見えます。ライオンの足下の葉っぱは、型抜きした葉っぱを後で少し反らせてから貼り付けたと考えられます。ライオンの鬣などは、やはり後で削って仕上げたられた感じです。

試行錯誤の時期に1点物として手間と時間をかけ、アイデアの全てを投入し、芸術作品として作られたからこそのこの作りなのではないかと思います。そして、これだけのことができたとジョサイア・ウェッジウッドの芸術家魂を満足させるに足る作品として出来上がったのがこの作品なのだと感じます。きっとこの作品が頂点なのです。

『ポートランドの壺の再現』(ウェッジウッド 左ブルー:1791年頃、右ブラック:1790年頃)バーミンガム美術館
"PortlandVaseCopy-Wedgwood-BMA" ©Sea Pathasema/Birmingham Museum of Art(16:12, 21 March 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ポートランドの壺の再現がそこまで魂を揺さぶるような出来でなかったのは、もはやジャスパーウェアのポテンシャルは『ライオンに怯える馬』で十分に理解できており、あくまでも研究開発の投資を回収するために量産前提で作られたからなのだと思います。

先の作品のように、後加工で削るなどして仕上げればもっと立体感と迫力ある作品になったはずです。

『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n5" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 ポートランドの壺の再現(ウェッジウッド 1790年)V&A美術館 "Portland Vase V&A" ©V&A Museum(11 August 2008)/Adapted/GNU FDL

でも、高度な技術を持つ職人が必須だったり、手間がかかりすぎると量産は困難になります。

もしかするとウェッジウッド自身、最初は古代ローマのオリジナルを超えるつもりで取り組んだ可能性も十分にありますが、実際に取り組んでみてそれは不可能だと認識し、リアルな再現というより量産前提という風に方向性を変えたのかもしれません・・。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

この作品は、ジョサイア・ウェッジウッドが量産品ではなく芸術作品を作る際に使った技法を使って作られた特別なジャスパーウェアです。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

お花や葉っぱの淡いグラデーションは後から削って表現し、小枝部分は削り出すか、手ひねりで1カ所1カ所作られたものと推測されます。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
このように非常に薄くてデリケートなグラデーションのカメオ(浮き彫り)は、普通の量産のウェッジウッドのように、型で形を作った粘土を貼付けるだけでは製作不可能です。このようなデリケートなグラデーションを表現するには、貼付けたレリーフを高度な技術を持った職人が丹念に手で削るしか無い筈です。
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
これは単に技術だけでなく、美的センスも必要なアーティスティックで難しい仕事です。
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
このような繊細で美しいグラデーションを表現するは、余程の経験を積んだ高度な腕を持った職人で、且つセンスの良さも必要です。だから当時も、このような社交の場で使うための第一級のジャスパーウェアを作れる職人は、数が少なかった筈です。だからこそ当時から数は作れない、特別な高級ジャスパーウェアとして作られた筈ですし、今となっては二度と出会うことのない逸品中の逸品なのです。
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
花びらや葉のわずかにくるまった様子、葉の表面に描かれた美しい葉脈などのセンスの良さ、そして花芯は凹凸まで表現する細部まで手を抜かない丁寧な仕事ぶり。ここまで心を込めて芸術作品として丁寧に作られたウェッジウッドの作品があるなんて、これまでの量産のつまらないものしか売っていないイメージを覆されました。

1つ1つ微妙に異なる丁寧な手作りならではの作り

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

このパリュールが型抜きの単なる量産品ではないことは、同じサイズのパーツで作られているブレスレットからも分かります。9つのパーツに描かれた白い花々は一見同じように見えますが、どれも微妙に異なります。後工程の削り方が違うのではなく、花や葉、枝の形や配置そのものが少しずつ異なっています。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
手仕事で芸術作品のように作られた個性ある花々は、1点1点どれを見ていても飽きることがありません。王侯貴族の10代後半という若い女性たちが幸せになれるよう、職人も心を込めて作ったに違いありません。だからこそ、作品を見ていて感覚的に美しいと感じることができるのだと思います。
ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
日本人女性のブレスレットの標準サイズは大体16-18cmくらいのようです。この美しいブレスレットは18.7cmです。ブレスレットはデザインによっても一番しっくりくるサイズは違いますが、着用に関しては細身の私でも問題なく美しく着けられたので、だいたいの方には問題ないと思います。

格調高いゴールドワークのフレーム

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
全てのアイテムの外周に、格調高い雰囲気を醸し出す緻密な撚り線細工と、少し大きめの粒金細工が施されています。デイ用のジュエリーなのでダイヤモンドなどの宝石を外周にあしらうのではなく、ゴールドで格調の高さを演出するのです。それには単に高価な金属ゴールドを使ってさえいれば良いのではなく、細工とセンスの良さが重要です。
白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)のアンティーク・バングル『驚異の細工:美し過ぎるピエトラドュラ』
ピエトラドュラ(フローレンス・モザイク)バングル
イタリア 1860年頃
SOLD

私がアンティークジュエリーの世界に魅了され、深く入り込むきっかけとなった左のバングルのフレームにも、同様の粒金と撚り線細工が施されています。

ジャスパーウェアのパリュールと同じ1860年頃の作品です。

GENのルネサンスから購入する際は、メインの超絶技巧のピエトラデュラが圧倒的に気に入っていたので、フレームはそこまで重要視はしていませんでしたが、格調高い雰囲気を醸し出すために確かにとても効果があるのです。

トップクラスの作品にも施される細工です。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

美しい色の18ctゴールドで、手をかけたエトラスカン・スタイルの金細工が施されているのがこの作品が高級品である証でもあるのですが、『エトルリア』と命名された地でこのジャスパーウェアが作られたことも、何かご縁のようで面白いです。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー ペンダントのバチカンにも撚り線細工と、サイズがグラデーションになった粒金が取り付けられており、素晴らしいジャスパーウェアに合わせて金具に至るまで、細部まで手を抜かない仕事ぶりが伺えます。

ストーンカメオではなくジャスパーウェアでパリュールを制作する意義

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

この時代もストーンカメオは高級品です。

ではなぜストーンカメオではなくジャスパーウェアでパリュールが作られたのでしょうか。

ジャスパーウェアでなければならない理由は3つあります。

1つは、すべてのアイテムの色を均一に揃えられることです。

理由1.色・質感・模様を全て揃えることができる

皇后ジョゼフィーヌのために作られたコーネリアンのインタリオのパリュール(1808年頃)V&A美術館
© Victoria and Albert Museum, London/Adapted

これはフランス皇帝ナポレオンが皇后ジョゼフィーヌに贈ったコーネリアンのインタリオのパリュールです。コーネリアンはナポレオンが大好きだった石です。彫りのレベルは画像ではよく分かりませんが、インタリオのパリュールだなんてかなりマニアックですね。

それはそうと、天然の石を使っているので、皇帝の力を持ってしても色や石に入った模様、質感などがそろっていないことがお分かりいただけると思います。

ジョージアンの「キューピッドと鷲(ゼウス)」モチーフのスケルトンのストーンカメオのアンティーク・ブローチ『キューピッドと鷲(ゼウスの使い)』
ジョージアン ストーンカメオ
フランス? 19世紀初期
SOLD

天然の石が持つ個性は神様からの贈り物です。

同じものは2つとして手に入りません。

このような特別な石の場合は、一投入魂で特別な作品に仕上げられます。

貴婦人の横顔を描いたアンティークのストーンカメオのブローチ&ペンダント『西洋美人画』
ストーン・カメオ ブローチ&ペンダント
イギリス 1880年頃
SOLD

かと言って、左のようなシンプルな2層のストーンカメオでも、同じものを量産できるようなものではありません。

スコットランドの瑪瑙の断面
"Scotland007" ©峠武宏(29 April 2014, 14:52:52)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ストーンカメオの材料となる縞瑪瑙は、模様も色もバリエーションが無限にあり同じものは存在しません。

2層のシンプルなストーンカメオであっても、色や質感の揃ったフルセットのパリュールは材料調達の観点から不可能なのです。

天然の材料を天然のままで利用するというのはそういうことなのです。

理由2.大きなサイズも作ることができる

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
19世紀のイタリアの有名カメオ作家ジュゼッペ・ジロメッティによるガイウス・ユリウス・カエサルのストーンカメオのペンダント&ブローチ
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小の比率が分かります。

左は現在HERITAGEのアトリエにある中では最も大きなストーンカメオです。

ストーンカメオは比較的重量があるので、ジュエリーとして身に着ける観点からもあまり大きな作品は作れませんし、材料を天然石から採るのも難しいため、そこまで大きいサイズは作られていません。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

ストーンカメオのような美しさがありながら、ストーンカメオより大きく華やかで、しかも軽い付け心地のジャスパーウェアのこの大きなペンダントは、ジャスパーウェアだからこそ実現したジュエリーなのです。

日中の社交の場で、最も目立ったこと間違いなしですね。

でも柔らかな色合いと繊細なモチーフなので、悪目立ちして主張し過ぎないこの雰囲気が良いのです。

パリュールは毎回必ず全てのアイテムを着けなければならないものではありません。

うまく洋服と組み合わせれば、大型のものであっても日常で十分にセンス良くお使いいただけるはずです。

理由3.ストーンカメオ以上の繊細な表現

古代ローマの大理石像「アンティノウスのディオニュソス」を参考にしてジュゼッペ・ジロメッティにバチカン美術館で制作されたストーンカメオのペンダント&ブローチ『ディオニュソス』(ジュゼッペ・ジロメッティ作 1790年頃:フレームは1836年頃)
【出典】Musei Vaticani HP ©MVSEIVATICANI

『ユリウス・カエサル』を制作したカメオ作家ジュゼッペ・ジロメッティが、同じくバチカンにあった古代ローマの大理石像『アンティノウスのディオニュソス』にインスピレーションを受けて制作したのが、左のストーンカメオ『ディオニュソス』です。

ローマ皇帝に愛されながらも18歳で亡くなった青年で、女性以上に女性らしい儚さと美しさがあります。

19世紀を代表するカメオ作家らしい、見事な彫りです。

ただ、ストーンカメオではこれが限界です。

ストーンは硬いので、これ以上に繊細な彫りはできないのです。

PDポートランドの壺(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館

オリジナルの古代ローマのポートランドの壺も、通常のカメオと同じように形を彫りだし、最後は丹念に磨いて仕上げられています。この細部までの素晴らしい表現はストーンカメオでは不可能で、比較的柔らかいガラスだったから実現できた表現だと言われています。そもそもこのような大きさや形の2層のストーンは入手不可能なので、ローマンガラスだからこその作品だと言えます。

ちなみに、この作品にあるヒビ割れのようなものが気になった方もいらっしゃるかもしれません。これは19世紀に失恋した酔っ払いが腹いせに粉々に割ってしまい、修復されたことによるものです。かなりけしからん話です。修復するための道しるべとして、ジョサイア・ウェッジウッドが作った『ポートランドの壺の再現』は非常に役立ったそうです。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

それはそうとして、このジャスパーウェアの白い花々の繊細かつ絶妙な表現も、ガラスで制作された『ポートランドの壷』と同様に、ジャスパーウェアという素材を使ったからこそ実現した表現なのです。

パリュールの裏側

裏

もちろん裏側まで美しく丁寧な作りです。当時の王侯貴族は同じものをしょっちゅう着けることはしません。羨ましいですし、もったいない気もしますが、だからこそ150年ほど経った現代でも、このように素晴らしいコンディションで残っているのはありがたいことでもあります。

 

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー
撮影に使っているような、作りが良いアンティークのゴールドチェーンをご希望の方には別売でお付け致します。いくつかご用意がございますので、ご希望の方には価格等をお知らせ致します(チェーンのみの販売はしておりません)。現代の18ctゴールドチェーンをご希望の方には実費でお付け致します。高級シルクコードやリボンをご希望の方にはサービスでお付け致します。いくつかバリエーションがございますので、お気軽にご相談ください。
ウェッジウッドの春の花々を表現したアンティークのジャスパーウェア・パリュールの着用イメージ ウェッジウッドの春の花々を表現したジャスパーウェア・ピアスの着用イメージ

サイズ感をご参照ください。

幸いなことにジャスパーウェアはペール系ではなくサーモンピンクなので、黄色人種の日本人でも似合う方が多いと思います。繊細なモチーフで色合いも優しいので、多少大型ですが品良くお使いいただけると思います。

ペンダント、ブローチ、ブレスレット、ピアスとどれも日常使いしやすいアイテムなので、普段でも楽しんでいただけるはずです。特別な時にはフルセットでコーディネートすれば、他にはない特別感を演出できるのもパリュールの魅力ですね。いろいろなオシャレが好きな方にはバリエーションの幅が広がって重宝する、お得感あるアイテムなのがパリュールです♪

ヨーロッパのうら若きレディに、春の咲き乱れる花々のような素敵な幸せを運んでくれたであろうこの知的で美しさも兼ね備えたパリュール。次の持ち主にもきっと素晴らしい幸せを運んでくれると予感しています♪♪