No.00228 ダイヤモンドの原石

イギリス貴族の遊び心あふれるダイヤモンド原石のクラバット・ピン(タイピン)&タイタック

 

貴族の遊び心満点!!
ダイヤモンドの原石をそのまま使ったアンティーク・ジュエリー
ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー
前代未聞の、天然のダイヤモンド原石をそのまま使ったジュエリーです!!

画一的なカットのダイヤモンドしか使わない現代ジュエリーと違って、ダイヤモンドのカットの進化の歴史をすべて網羅するアンティークジュエリーに長年携わっていると本当に様々なカットの個性的なダイヤモンドを見ることができるのですが、これは43年間で初めてです。

ダイヤモンドの原石のジュエリーだなんて、まばゆいダイヤモンドジュエリーが煌めく当時の社交界でも、これを見せたら話題性十分だったでしょうね。まさにこれぞ当時の王侯貴族の中でも別格のセンスと遊び心を持つ人物が特別オーダーした、通好みのアンティークジュエリーです。


ダイヤモンド原石 クラバット・ピン(タイピン)&タイタック アンティーク
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

『ダイヤモンドの原石』
クラバットピン(タイピン)&タイタック

イギリス 1880年頃
ダイヤモンド原石(ハーフカット)、15〜18ctゴールド、シルバー
全長:6.3cm、ダイヤモンド:6×6×3mm
重量 2,6g(パーツを含む)
オリジナル革ケース付き
SOLD

 

取り外し可能な金具の構造は超高級品の証

ダイヤモンド原石 クラバット・ピン(タイピン)&タイタック アンティーク

ダイヤモンドの原石を留めた土台は、ネジ式の取り外し可能なタイプです。クラバットピンとしてだけでなく、タイタックとしても使える優れた構造です。ジャケットの襟に穴が開いていれば、そこにバッジのように付けても面白いかも知れません。国会議員のように・・(笑)。

まあ使い方は持ち主次第として、このような特別の作りを見てもこの作品が貴族の特別なオーダー品であることが分かります。ハイクラスのアンティーク・ジュエリーでは、取り外し可能な金具でいくつか異なった使い方が出来る場合があるのも特徴です。

アールデコのダイヤモンドのペンダント&ブローチダイヤモンド ペンダント&ブローチ
イギリス 1920年頃
象牙のねじ回し、アンティークケース付き
SOLD

代表的なのはブローチ兼ペンダントです。

左の作品も当然アールデコ初期の超一級品です。

エドワーディアンの精巧な仕事と同レベルの最高のミルグレイン、透かしと曲線を使った素晴らしいデザインと細工技術、中央のダイヤモンドのパーツの揺れる構造、全てが最高級品として作られたことを示しています。

アンティークの象牙のねじ回し

この作品は象牙のねじ回しを使って、簡単にブローチの金具とペンダントの金具を取り替えて使うとができます。

複雑だったり難しかったりすると使うたびに億劫になりそうですが、これだと毎回使うたびに楽しそうですよね。最高級品を持つ人だけの至福の時間だと思います♪

でも、このようにオリジナルケース、道具、パーツ全てがフルセットで残っていることは相当珍しいことです。

アールデコのダイヤモンドのペンダント&ブローチ(アンティーク・ケース付き) アールデコのダイヤモンドのペンダント&ブローチの裏側
アールデコのダイヤモンドのペンダント&ブローチの裏側

現代のジュエリーではこういう物がないのは、手間をかけても上質で本当に良いものを、いろいろな使い方をして次の世代までも長く楽しく使おうという考え方をする人がいなくなってしまったからです。現代ジュエリーは完全に消耗品と言えます。流行があるのでデザインはいずれ古くなりますし、ろくな作りをしていないので壊れやすかったりしますが、ジュエリーは消耗品だからそれで問題ないと思う人が多すぎるのです。そうでない人はジュエリー自体に興味を抱かず、何も着けないという選択になるということでしょう。

オリジナルケースから分かる宝物の情報

アンティークの革のオリジナルケース

この作品も金具とオリジナルケースが全て揃った状態で残っていた、とても貴重な作品です。

ダイヤモンド原石 クラバット・ピン(タイピン)&タイタック アンティーク

現代ではイギリス屈指の観光地、当時はヨーロッパの社交の中心地の1つでもあったバースで販売されたジャスパーウェア・パリュール『春の花々』もそうでしたが、オリジナルケースが残っていると宝物の背景を想像できる場合があります。

このケースにはゴールドスミス&ダイヤモンドの宝飾店『ローソン&サン』で、ブライトンの住所が記載されています。シルバーではなくゴールドであることからも高級店だったことが伺えますが、宝飾店自体は既に存在しません。今回も所在地からこの宝物の由来を少し探ってみることにしましょう。

イギリスのブライトン

ブライトンの位置ブライトンの位置 ©google map

ブライトンはブリテン島の南東部に位置する都市です。

イギリス全体で見ると、一番南側で海に面していることが分かります。

ロンドンからブライトンまでの所用時間ロンドンからブライトンまでの所用時間 ©google map

さらにロンドンからも近く、鉄道を使えば1時間かからず行くことができます。このことからもご想像いただける通り、ブライトンはイギリス屈指の海辺の観光地です。『春の花々』が販売されたバースもロンドンから日帰り可能な観光地でしたが、ブライトンはそれ以上に近いですね。

ブライトンに広がる砂浜 "Brighton from the pier" ©Angerey(21 August 2019, 14:07:27)/Adapted/CC BY-SA 4.0

知名度だけでなく規模もイギリス有数の海浜リゾートで、ホテルやレストラン、エンターテイメント施設が多数あり、これらの施設を活かしたビジネスカンファレンスも頻繁に開催されている観光都市です。元理系なので、国際的に人が集まる展示会や学会なども観光リゾートで開催されるイメージがありますが、ロンドンからこれだけ近いと便利そうですね。

ブライトンの砂浜(2002年7月)

夏だと、場所やタイミングによっては「これはイギリス国内?」と思うほどの混み具合です。

このようにブライトンは現代では皆が楽しめる一大観光リゾートとなっていますが、昔は王侯貴族のリゾートでした。

この素晴らしい作品がどのようにしてブライトンのゴールド&ダイヤモンド・ジュエリー専門店でオーダーされることになったのか、ブライトンの発展の歴史を見てみましょう。

ブライトンの歴史

-古代ローマ植民地化以前-

ホワイトホーク・キャンプ(新石器時代の共同集落)紀元前3500-紀元前2700年頃 "Whitehawk Camp, Brighton (with the Grandstand behind) - geograph.org.uk - 52046 " ©Bob Embleton(9 September 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ブライトンの歴史は古く、最初の人類の痕跡は紀元前3500-紀元前2700頃の新石器時代まで遡ります。

ホワイトホーク丘陵で発見された共同集落ホワイトホークキャンプでは多数の埋葬塚、道具や骨などが見つかっています。

PDイギリス鉄器時代のケルトの円形住居の再現

前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族であるブリトン人は、紀元前7世紀にはイギリスのこの地域に到着していたようです。紀元前6世紀初頭のブリトン人の円形住居跡も見つかっています。気候環境は全く違いそうですが、上の再現された住居を見てみると日本の古墳とあまり変わらない印象ですね。

温暖な福岡県ですら冬場は手の指や耳まで霜焼けになることがある私としては、これだけの高緯度地域においてなぜこんな住まいで冬場に凍死せず生きていけたのかが不思議です。

-古代ローマの入植-

43年に古代ローマに征服され、ブリタンニア州が設置されると徐々にローマ人が入植し始めます。

ブリテン島は海に囲まれているので、当然ヨーロッパ大陸に一番近い南東地域から占領が始まっていくわけですね。ブライトンからロンドン付近までのローマ街道が整備され、ローマ人の別荘などもいくつか建設されました。

ローマ人の別荘のスタイルの1つ(模型)ローマ人の別荘のスタイルの1つ(模型) "Roman Villa Rustica Model" ©Boksi(31 October 2009)/Adapted/CC BY 3.0

ローマ人の別荘は、イギリス貴族のカントリーハウスに相当します。ローマ人の上流階級の邸宅なので、かなり豪華です。『春の花々』で、ローマ浴場には床下に熱い空気を通して部屋を暖めるサウナのようなシステムがあったことをご紹介しましたが、高級住宅にはこのシステムを使った床下暖房も存在しました。

ブルガリアにあるローマ人の別荘の床のモザイク
"Villa Armira, the Mosaics 2" ©Klearchos Kapoutsis from Paleo Faliro, Athens, Greece(17 May 2009, 12:42)/Adapted/CC BY 2.0

5世紀初頭にはローマ人が去りますが、数世代にわたって住んでいた古代ローマ人の遺跡や痕跡はたくさん遺されました。ブルガリアに遺されたローマ人の別荘の床のモザイクも凄いです。奥側を見ると、石積みの壁も一部残っています。

古代ローマの120年頃の領土 "Roman Empire 120" ©Andrei nacu(5 May 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

これは古代ローマ120年頃の領土を示した地図です。スペインやブルガリアはローマからはかなり遠い地域ですが、あのような素晴らしいローマンモザイクの床を持つ別荘が建設されたというわけですね。

地中海周辺の地図 ©google map

世界地図が苦手な方のために、現代の国名が分かる地図も掲載します。古代ローマの時代、ブリテン島のバースにまでローマ浴場や神殿が建設され、1つの聖地として観光地化されていました。豊かな生活と高い技術には本当に驚かされます。

-古代ローマ後の発展-

南サクソン人の最初の王エール(治世 477-514年頃?)1611年に描かれた想像図

古代ローマ人が去った後、ブライトン地域は原住民だったケルトの支配に戻りましたが、5世紀末にアングロサクソンに侵略され、サセックス王国の一部となりました。

サセックス王国は南サクソン人のエールによって477年に建国された、七王国の一国です。

PD800年頃のブリテン島(赤字が七王国)

七王国の位置関係はこのような感じです。

その後、年代ごとに統治者が変遷しながらも、ブライトン自体は漁業と農業で成り立つ集落として発展していきました。

ブリテン島の南にあるサセックス王国の中央、その中でも一番南で海に面した地域、Brighthelmtunがブライトンの古名です。

1086年の土地台帳の記録では人口400人、税として4,000匹のニシンを地代とするシステムが確立されていたそうです。

星空を見上げるパイ "Baked stargazy pie" ©Krista(15 April 2007, 23:09)/Adapted/CC BY-SA 2.0

イギリスでニシンと聞くと、あのパイを想像される方も多いでしょうか。Stargazy Pie、『星空を見上げるパイ』と呼ばれるパイです。

インパクト大の、いかにも食べ物が不味いと言われるイギリスらしい料理ですが、実際は一部の地域限定の料理なので、知らないイギリス人の方が多いようです。

イギリス人ディーラーに興味津々で聞いてみたら、「何それ?知らない。食べたことない。貴族の高級料理か何かじゃない?」と言われました。

パイの画像をイギリス人に見せて、「うわ、何これキモい!」とドン引きされた日本人もいるようです(笑)

キッパー(ニシンの燻製) "Red herring" ©misocrazy from New York, NY(25 November 2005, 17:48)/Adapted/CC BY 2.0

実際にイギリスでメジャーなニシンと言えば、『キッパー』と呼ばれるニシンの燻製です。燻製ならば日持ちするので、実際に納付されていたのはこのような形のニシンでしょう。生魚を4千匹まとめて納められても困りますし、獲れたら適宜鮮魚を持ち込む形の場合も、いっぺんに持ってこられたりすると領主が自ら(召使いを使うでしょうけれど)加工しなければならないですからね。

オーソドックスなイギリスの朝食
"Lyme Regis harbour 02b" ©Wikipedia / joadl(7 August 2009)/Adapted/Cc by-sa-3.0-at

イギリスの朝食と言えばベーコンとソーセージ、卵と煮トマトなどのプレートが有名で、ホテルでも基本的にはそういう朝食が出されます。

でも、キッパーを使った朝食も伝統的に食べられていました。

キッパーを使った伝統的なイギリスの朝食の1つ
"Kippers at Burton Bradstock" ©Moody751/Adapted/CC BY-SA 3.0

通常はパンと食べます。

ただのニシンの燻製なので、不味いわけがないですよね。

外国人観光客を相手にするホテルでは出てこないようで、Genは食べたことがないそうですが、食べた日本人からはかなり好評のようです。

PDキッパー

ただ、かつては人気の高かったキッパーも最近では朝食に選ぶ人が減少しており、キッパーがニシンの燻製であることを知らない人はイギリスで既に54%になっているようです。4人に1人はサバの燻製だと思い込み、10人に1人は『キッパー』という名前の魚だと思っていたそうです。

昔と違って食べ物の選択肢が豊富になった結果ですが、伝統料理が失われていくのはイギリスも日本も同じですね。

ブライトンの位置 ©google map

ブライトンはヨーロッパ大陸側の海に面しているの土地ならではの脅威もありました。

16世紀初頭はフランスの侵略者によって町が略奪された上で焼かれ、壊滅的被害に遭うこともありました。

それでもニシンに加えて、豊富に獲れるサバによる漁業に支えられて町は回復し、さらに発展していきました。

私はイギリスにサバのイメージはなかったのですが、前回ロンドンに買付けに行った際にサバの塩焼きを戴き、日本で食べる以上に美味しくて驚いた記憶があります。「日本人を連れてくると、皆驚くんだよ。」と自慢げにGenの友人のイギリス紳士が語っていました。

日本以上に美味しい"サバの出所"を不思議に感じましたが、海に囲まれているイギリスでも結構獲れるんですね。

PDサバ

このような豊富な漁業資源により、ブライトンの町は1600年には人口1,500人、1640年には4,000人へと膨れ上がり、サセックスで最も人口が多く、最も重要な町として発展を遂げました。

-ブライトンの衰退-

1703年の大嵐の様子

大いに繁栄したブライトンでしたが、17世紀後半から1730年頃までの数十年間、悪夢のように不運な出来事が連続して町を襲いました。外国からの攻撃が増加したことに加え、特に町に大ダメージを与えたのが1703年11月26日にイギリス中部および南部を襲った記録的な大嵐でした。上はイギリスの一番南東にあるグッドウィンサンズの状況を描いた絵です。船の停泊地の1つなのですが、ここだけで1,000人以上の船員が死亡したと言われています。

世界最強を誇ったイギリス海軍もその被害は甚大で、全海峡艦隊を含む13隻の船を失い、少なくとも1,500人以上の船員が死亡したとされています。一晩で1万人の船員が死亡したと主張する学者もいます。これは当時のイギリス海軍の船員の約3分の1に相当する数です。

イギリス女王アン(1665-1714年)1705年

海辺だけでなく、ロンドンも強風による酷い被害が出ています。

ウェストミンスター寺院の鉛の屋根は吹き飛ばされてしまいました。

アン女王は強風による被害から身を守るため、セントジェームズ宮殿の地下室への避難を余儀なくされました。

ニューフォレストの一部 ©Jim Champion / Beech trees in Maillard Wood, New Forest(26 April 2008)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ロンドンだけで巨大煙突が約2,000本もなぎ倒され、ニューフォレストでは4,000本のオークが失われました。

前例のないこの大嵐は、神の怒りだと恐れられました。

焼く前の星空を見上げるパイ(Stargazy Pie) "Stargazy pie prebake" ©Zangar(12 October 2009, 03:48)/Adapted/CC BY-SA 3.0

このスターゲイジー・パイは、ブリテン島の一番南西コーンウォールのマウゼルという漁村が発祥とされています。16世紀のある冬、嵐で風が吹き荒れ漁に出られず、クリスマスが近づく中、重要な食料源である魚を獲られず村人たちは飢えに直面していました。飢餓で人が死んだり、漁で人が死ぬことが珍しくない時代の話ですね。

そんな12月23日、トム・バーコックという人物が命の危険も顧みず悪天候の荒れた海に船を漕ぎ出し、村全体に提供できるほどのたくさんの魚を獲って戻ってきたのです。英雄バーコックへを讃え、獲ってきた魚がよく見えるように感謝の意も込めてこのような形のパイになったということです。決して食べ物で遊んでいるわけではないのです。

嵐は飢餓だったり物理的被害だったり、いろいろな形で村を全滅させる可能性があるくらい恐ろしいものなのです。

ショアハムの浜辺 "Shoreham-by-Sea, West Sussex, England-2Oct2011" ©Ian Stannard from Southsea, England(2 October 2011, 15:44)/Adapted/CC BY-SA 2.0

外国からの度重なる攻撃に加えて、1703年の大嵐はブライトンの漁村に壊滅的な被害を与えました。

漁業が衰退したところに、さらに隣接地区にショアハムという重要な港町ができてしまったため、ブライトンは経済的にも一気に衰退していきました。

1640年には既に4,000人まで増加していた人口が、18世紀初頭には2,000人まで減少しました。

-ブライトンの復興-

医師リチャード・ラッセル(1687-1759年)1755年頃

完全に鄙びた漁村に成り果てたブライトンでしたが、再注目を集めることになります。

そのきっかけとなったのが、医師リチャード・ラッセルが提唱した海水を使った治療・健康法でした。

海水に浸かったり飲んだりする海水治療です。

ローマン・バス(ローマ浴場跡、上階の建物はヴィクトリア時代)
"Roman Baths in Bath Spa, England - July 2006" ©Photo by DAVID ILIFF(2 July 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

海水を飲むというのはちょっと突飛な発想に感じるかもしれませんが、当時のヨーロッパの温泉療法を知っていれば、違和感のない主張であることが分かります。

現代の日本人は熱い風呂が好きだったり、温泉は身体を休めるためにゆっくり浸かるものなので泳ぐなどの行為はマナー違反です。一方でヨーロッパの場合はぬるめのお湯に浸かり、泳いだりします。裸ではなく水着など着衣の状態で入るので、男女混浴でおしゃべりも楽しめます。

バースに行けばいくつかの場所で温泉を飲むこともできるようです。美味しくはないようです。良薬口に苦し、そこは我慢して健康のために飲むという感じでしょうか。

有馬温泉の炭酸泉源の飲泉所有馬温泉の炭酸泉源(2016.12.19)

温泉水を飲むということに関しては日本人にとっても違和感はないですよね。

左はサラリーマン時代に神戸出張したついでに、ついでに自腹で有馬温泉で一人旅をしてきた時のものです。

太閤秀吉が愛した有馬温泉は金泉、銀泉に加えて炭酸泉も出る、温泉に恵まれた古くから続く温泉地です。

有馬サイダーとして販売もされていた炭酸泉を蛇口から飲める場所があったので、ちょっと試してみました。

有馬温泉の炭酸泉の飲泉用の蛇口有馬温泉の炭酸泉の蛇口(2016.12.19)

有馬温泉は紅葉の名所なので至るところにあります。

私が言ったのは紅葉の葉も全て落ちた冬の閑散期でしたが、石の台に影のような模様と化した紅葉の痕が素晴らしく芸術的で印象深かったです。

それはそうと、こうなってしまうくらいなのでいかにも温泉はまずそうですよね。

覚悟して飲んだら案の定マズかったです。

私の後に来たカップルも「マズー!!」と叫んでいました(笑)

でも、神の力が宿った霊泉だと言われたら、不味いことくらいは我慢して飲みますよね。

医師ラッセルは自身の理論を実践すべく、1747年頃にブライトンに行きました。

1750年と1752年にラテン語の論文を発表し、1769年には英語で書かれた海水療法と健康効果に関する初めての書籍が出版されました。書籍は6版まで出版されるほど、海水療法は人気を博しました。

PDラッセル医師の保養所(現:ロイヤルアルビオンホテル)

ラッセル医師は、海水は内陸の温泉よりも治療効果があると広め、人々にブライトンで海水を試すことを奨めました。

この理論はイギリス国内外から広く称賛され、海水療法は大人気となりました。

1753年までにラッセル医師はブライトンに土地を買い、海水療法を実践するための診療所を建設しました。

ラッセル医師の診療所兼邸宅(現:ロイヤルアルビオンホテル)の位置 ©OpenStreetMap, cropped by Dr.Blofeld(2010)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ラッセル医師の診療所兼邸宅として使われたこの建物は、海辺のとても良い場所に建てられました。

これをきっかけにブライトンは上流・中流階級の人々に人気を集め始めました。

1759年にラッセル医師が亡くなって以降、診療所兼邸宅だった建物は季節ごとの来訪者に貸し出されました。

カンバーランド公ヘンリー・フレデリック(1745-1790年)

その中にはカンバーランド公ヘンリー・フレデリックもいました。

イギリス王ジョージ三世の弟、王族ですね。

王族クラスが滞在するほど、ブライトンは人気のリゾートになっていったのです。

海だとビーチで日光浴もできるので、太陽信仰が強いヨーロッパでは温泉地以上に魅力を感じる人が多かったのかもしれませんね。

イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃

1779年にカンバーランド公がラッセル医師の建物を借り始め、1783年にその叔父を訪ねてプリンス・オブ・ウェールズがやってきました。

後のイギリス国王ジョージ4世、まさに左のポートレートくらいの年齢の頃です。

ブライトンの浜辺を気に入ったジョージ4世は、以後40年間にわたって町を支援し、ブライトンは急速に成長と近代化を遂げることになるのでした。

-上流階級の社交の中心地としての地位の確立-

ロイヤルパビリオンの位置 ©OpenStreetMap, cropped by Dr.Blofeld(2010)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ジョージ4世はすぐ近くの農園の館を別荘として借りました。

ヘンリー・ホランドによって改装されたロイヤル・パビリオン(1788年頃)

1787年に建築家ヘンリー・ホランドに改装を命じ、古典様式の外装にバロック様式の内装を持つ離宮を完成させました。その後は内装を変えたり、敷地周辺の土地をさらに購入してインド様式の乗馬スクールや馬小屋が建設されました。馬は60頭いたそうです。

なぜこんなに馬がいるのかというと競馬です。ジョージ4世の競馬へのお金のかけ方は相当だったそうです。余暇のほぼ全てをブライトンで過ごしたと言われているのですが、競馬場があったからだと言われているほどです。ブライトンでは少なくとも1713年以前からレースが行われていたようですが、1783年にジョージ4世の叔父カンバーランド公が、現在競馬場があるホワイトキャンプの土地でレースを初開催しました。

以降、1788年にはグランドスタンドを建設し、ブライトン競馬場は国内トップクラスのレースを開催するような王侯貴族の社交場として発展していきました。ジョージ4世もカンバーランド公もこの地で大いに楽しんだようです。

ロイヤルパビリオンのシノワズリーの宴会室(1826年)

さて、摂政王太子の離宮が完成したことで上流階級の保養地としての地位を確立したブライトンでしたが、中国製の壁紙を贈られたことをきっかけに、ジョージ4世は当時流行していたシノワズリーを取り入れたスタイルにロイヤルパビリオンを全面改装することを決めました。

この宴会室は壁には中国服の人物、天井からは蓮花型のシャンデリア、さらに室内のあちこちに龍の姿を見ることができます。

建築家ジョン・ナッシュ(1752-1835年)

ジョージ4世が改装を命じたのはピクチャレスクの代表的建築家ジョン・ナッシュです。

ピクチャレスクは多様なスタイルを取り入れる折衷主義と意外性を特徴としていたことから、インド、イスラム、中国を混合した独特なデザインのエキセントリックな宮殿になったのです。

現在のロイヤルパビリオン "The Royal Pavilion Brighton UK" ©Fenliokao(2013年9月30日)/Adapted/CC BY-SA 3.0

大改修は1815年から7年をかけて行われました。外観もかなり豪華ですね。タマネギのような形のクーポラはモスクを思い出します。

【世界遺産】イスファハンのイマーム・モスク(1630年)
"Masjed-e Imam (Umam Mosque), Isfahan (5113691065)" ©Fulvio Spada(12 August 2007, 16:56)/Adapted/CC BY-SA 2.0

代表的なペルシャ・イラン建築として、『太陽の使い』でいくつかモスクをご紹介しました。全体的にカラフルな色合いが特徴ですよね。

【世界遺産】タージ・マハル(インド 1632年着工、1653年竣工)
"Taj Mahal, Agra, India edit3" ©Yann, King of Hearts, Jbarta(22 October 2011, 1:51)/Adapted/CC BY-SA 3.0

墓廟ではありますが、雰囲気的には総大理石によるタージ・マハルがロイヤルパビリオンには近い雰囲気を感じます。タージ・マハルはインド・イスラム文化の代表的な建築ですね。ロイヤルパビリオンのシノワズリーの内装は壁紙をもらったからですが、インド風の外観にも実は意味があったようです。

シェイク・ディーン・ムハンマド(1759-1851年)

1759年にラッセル医師が亡くなった後も、ブライトンには海水療法を施すための医師が何人かやってきました。

その一人がインド人外科医で起業家、旅行者でもあるシェイク・ディーン・ムハンマドです。

『シェイク』はインドの支配者クラスの高貴な身分の男性に与えられる称号ですが、ムハンマド自体は床屋のカーストの家系に生まれています。

西欧諸国への最初期の有名な非ヨーロッパ系移民の一人で、アイルランド人女性と結婚しています。

東インド会社のオフィスで働くイギリス人のインド人東インド会社のオフィスの様子(1760年頃)

東インド会社に雇われたムハンマドは錬金術を学び、アルカリや石鹸、シャンプーの製造法を理解していました。

10歳の時にアイルランド系のプロテスタントだったベイカー大尉の元に連れて行かれ、外科医研修生として軍の元で勤務しました。

やがてベイカー大尉が軍を辞めてイギリスに戻ることになると、親友となっていたムハンマドも一緒にイギリスに行くことを選びました。

1794年に『ディーン・ムハンマドの旅』と題した旅行本を出版しました。

イギリス初のインド料理店の記念看板 "Hindoostane Coffe House (7599806070)" ©Simon Harriyott from Uckfield, England(18 July 2012, 13:15)/Adapted/CC BY 2.0

1810年にロンドンに引っ越した後は、イギリス初のインド料理店『インドのコーヒー・ハウス』をオープンしました。

インド料理 "Rajasthanthali" ©Raveesh/Adapted/CC BY-SA 2.0

インド料理だけでなく本物の水タバコやチラムを使ったタバコも提供しましたが、経済的にうまくいかず1811年には閉店となりました。

現代では、ご飯が美味しくないロンドンでまともな料理を食べたいと思ったら、とりあえずインド料理か中華料理を食べに行けば美味しいしハズレがないと言われるくらい、確固たる地位を確立したインド料理ですが、ムハンマドさんからその歴史が始まったというわけですね。

ロイヤル・パビリオンのシノワズリーの内装は壁紙をもらったからということですが、インド風の外観にも実は意味があったようです。

インド式マッサージの店の位置(現:クイーンズホテル) ©OpenStreetMap, cropped by Dr.Blofeld(2010)/Adapted/CC BY-SA 2.0

1814年に家族と共にブライトンに移り住むと、海辺の良い場所でイギリス初のインド式マッサージ(シャンプー)の店をオープンしました。

ロイヤルパビリオンや、かつてラッセル医師の診療所があった場所からも至近です。

頭部のオイル・マッサージ
"Ayurweda kopfmassage" ©Ch-info.ch(1 January 2010)/Adapted/CC BY 3.0

伝統的なインド式マッサージではオイルを使って頭皮をマッサージしたりします。

インド式の薬用蒸し風呂も使い、リューマチや痛風、捻挫、あらゆる痛みなどに効く治療として売り出しました。

このビジネスはすぐに成功し、ムハンマドはドクター・ブライトンとして知られるようになりました。病院もムハンマドに患者を紹介するほどだったそうです。

評判の高いムハンマドの施術はご近所さんのジョージ4世からも大変気に入られ、ジョージ4世御用達のシャンプー医に任命されました。

現在のロイヤルパビリオン "Brighton - Royal Pavilion Panorama" ©flamenc(13 April 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ジョージ4世亡き後は弟のウィリアム4世がイギリス国王となり、ロイヤルパビリオンを愛用しましたが、ムハンマドはこのウィリアム4世からも御用達のシャンプー医に任命されています。

海辺のリゾートでオリエンタルなインド式マッサージ、さぞや気持ちよいひとときだったでしょうね。いかにも放蕩王ジョージ4世が好きそうです。

なぜロイヤルパビリオンがこんなにインドインドした外観に改装されたのかちょっと不思議に思っていたのですが、1814年にムハンマドがブライトンで始めたインド式マッサージをジョージ4世が相当気に入り、1815年に開始された改装のデザインに取り入れられたと思えば納得なのです。

ムハンマドはヴィクトリア時代以降、ごく最近まで歴史上はほぼ忘れられた存在となっていたようですが、ロンドンのインド料理と言い、ロイヤルパビリオンと言い、残した影響はとても大きかったと言えるでしょう。

遊び心満載のジェントルマン向けリゾート

ブライトンの砂浜 "Brighton from the pier" ©Angerey(21 August 2019, 14:07:27)/Adapted/CC BY-SA 4.0

19世紀の王侯貴族が集まるリゾートといえばバースとブライトンが有名で、どちらも古代ローマ以前からの歴史があり、温泉と海水の違いはあれ保養地としての機能も持つ、共通点の多い場所です。それでも全く違う方向性で発展しているのが面白いところです。

王冠と王笏とオーブを持つイギリスの処女王エリザベス1世イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603年)

温泉地バースは女王の時代に開発が始まりました。

春の花々を描いた珍しいアンティーク・ウェッジウッドのジャスパーウェア・パリュール(ブレスレット、ピアス、ペンダント、ブローチ、オリジナルケース付き)『春の花々』
ジャスパーウェア パリュール
イギリス 1860〜1870年頃
SOLD

それもあってか、リゾート地としては女性らしいイメージがあります。

実際社交の中心地として、お相手探しのために男性以上にたくさんの若い女性が親やお目付役と共に訪れていたようです。

摂政皇太子として有名なイギリス王ジョージ4世の若い頃イギリス王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃 カンバーランド公ヘンリー・フレデリック(1745-1790年)20歳頃カンバーランド公ヘンリー・フレデリック(1745-1790年)20歳頃
一方でブライトンの開発のきっかけは、イギリス王室屈指の遊び人ジョージ4世と叔父カンバーランド公の王族男性2人です。王室財政を破綻寸前にさせるまでお金は好き放題使ってしまう、やりたい放題ぶりです。王族なのでお金の使い方は派手ですが、やはり血統や育ちの良さは間違いなく王族のそれなので、芸術や文化にはかなり貢献しています。
イギリス王ウィリアム4世(1765-1837年)イギリス王ウィリアム4世(1765-1837年)

1820年にジョージ4世が亡くなった後、王位に就いた弟のウィリアム4世も頻繁にロイヤルパビリオンに滞在していたそうです。

同じくムハンマドのインド式マッサージもご愛用していましたね。

父親のイギリス王ジョージ三世は品行方正でしたが、その息子たちは全員ゲスでクズなんて言われ方もされています。

王族なのでかなり酷い表現をされていますが、ウィリアム4世も相当な遊び人ではあったようです。イギリス紳士らしいジェントルマンという感じでしょうかね。

ちなみにイギリス一のジェントルマンと言われていたのはジョージ4世です。

ヴィクトリア女王とアルバート王配の結婚式(1840年)ヴィクトリア女王とアルバート王配の結婚式(1840年)

遊び人たちによって財政状態をめっちゃめちゃにされた状態でイギリスの王位に就いたのが、まだ10代だった若きヴィクトリア女王でした。当時、ウェディングドレスのレースはイギリスよりもオシャレだと言われるフランス製が上流階級の間では普通だったそうですが、質素倹約に務め王室の財政を立て直し、イギリスの経済を強くするために超真面目ちゃんのヴィクトリア女王はイギリス製のレースを使ったそうです(なのに息子バーティはフランス製と揶揄されるほどフランス好き(TT)笑)。

ヴィクトリア女王の夫アルバート王配アルバート王配(1819-1861年)

ヴィクトリア女王だけでなくアルバート王配も超真面目だった上、元々ドイツの公爵家出身でドイツで育っているので、イギリス貴族とは本質が異なっていたこともあったでしょう。

イギリスのジェントルマン好みのリゾート、ブライトンはこの2人の好みには合わなかったようです。

1840年のロンドンからの鉄道網1840年のロンドンからの鉄道網

そんなブライトンでしたが、ナポレオン戦争が終結して国内が一段落すると、貴族の社交の中心地としてさらに有名リゾート化していきました。ロンドンからアクセスするための鉄道が計画され、1841年にブライトンまでの鉄道が開通すると日帰りでもアクセスが可能となり、毎年10万人を送客するようになりました。

ジョージ4世とカンバーランド公の遊び人2人が来なくなると一時衰退していたブライトン競馬場ですが、鉄道が開通してブライトンへの観光客が増加したことでまた勢いが復活しました。バースがレディ向けの社交の中心地と言うならば、ブライトンはまさにジェントルマン向けの社交の中心地と言えるのです。

イギリス紳士らしい遊び心満点のジュエリーを販売するのに、これほどまでに相応しい場所はないと言えるでしょう。

原石ジュエリーを販売した宝飾店の所在地

ダイヤモンド原石 クラバット・ピン(タイピン)&タイタック アンティーク

それではこのジュエリーを販売した宝飾店はどこにあったのか、具体的に地図上で探ってみることにしましょう。

ダイヤモンド原石のピンを販売した宝飾店の位置ダイヤモンド原石のピンを販売した宝飾店の位置 ©google map

なんとロイヤルパビリオンから徒歩3分の場所にありました。

ブライトンの目玉とも言えるブライトンビーチまでの大通り沿いにあり、ラッセル医師の診療所や現在はクイーンズホテルになっているムハンマドのインド式マッサージの店も全てこの狭いエリアに密集しています。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

『春の花々』のジャスパーウェア・パリュールもバースの中心地の超高級店で販売されていましたが、このイギリス貴族らしい遊び心満点のジュエリーもブライトンの中心地で販売されていました。

王侯貴族が集まる中心地のメインストリートという、超好立地に出店できるのは実力ある超高級店だったという証でもあります。

オリジナルケースから結構分かるものですね♪

原石を生かしたジュエリー

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

ダイヤモンドの原石は磨かないと極上の宝石らしく美しくはなりません。

カット技術が未熟だった時代はジュエリーのメインの宝石ではなかったことも、それを物語っています。

なぜ原石を使って、かなりのお金をかけてジュエリーを作ったのかもとても興味深いです。

【参考】ダイヤモンド原石を使ったジュエリー(現代)

現代では宝飾業界はモノが売れなくて困っていると言う話はよく耳にします。安物を高く売ろうとするから見る目がある消費者からは嫌煙されて売れないだけで、もう少しくらいは真面目に良いものを作れば良いのにと思うのですが、奇をてらった、ただ原石を使っているという面白さだけでPRする現代ジュエリーも存在するようです。

ちゃちな作りも気になりますが、それ以上に脇石のメレダイヤが全て統一規格の量産ブリリアンカットなのが違和感を増長しています。大自然が作った原石をそのまま生かす思想で作ったならば、このような同じ見た目で無個性の脇石で飾り立てるなんて発想は出ないと思うのですが、随分デザイナーはセンスが悪いですね。

【参考】ダイヤモンド原石を使ったジュエリー(現代)

これは婚約指輪に最適として販売されていました。冗談かと思いましたが同じものを量産していたり、金属が選べるので本気で販売されているようです。黒いダイヤモンドはおろか、メインストーンのダイヤモンドですらジュエリーには使わない工業用途レベルであることは明らかです。加えてこの爪留めの汚さは酷いです。

『ダイヤモンド』であることだけに価値を感じ、ダイヤモンドならば何でも良い人ならば喜んで買うのかもしれません。婚約指輪として「これからこのダイヤモンドのような原石の私たちも磨き合って素敵な夫婦になりましょう。」とでも言ってプロポーズすれば良いのでしょうか。残念ながら汚い原石は、ダイヤモンドであってもいくら磨いても綺麗にはなりません。工業用途の微粉末にして、研磨剤として役に立ってもらうしかありません。

ダイヤモンドは六面体や八面体、十二面体などいくつかの単結晶の構造を持ちます。あくまでも理想的な条件が整った場合の理論上の構造なので、実際に自然界で見つかるのはこれらの組み合わせだったり、不定形の場合も多いです。

【参考】コンゴ産の(6)立方体型のダイヤモンド結晶 【参考】ダイヤモンド原石を使ったジュエリー(現代)

もう少し奇をてらって、一般の方には普段目に触れることのない立方体型のダイヤモンド原石を使ったジュエリーも存在します。ごつい鋳造のシャンクと、いかにも工業用レベルのダイヤモンドで高級そうに見せようとする意図が感じられて私は気持ちの悪さを覚えるのですが、こういうものが好きな方は私の評価など気にせずお選びになれば良いのでしょう。

本来は工業用途以外に使い道のない屑石です。こういうものをいくらで販売するのか、まさに錬金術です(笑)

1870年頃から南アフリカで次々と巨大鉱脈が発見されてダイヤモンドラッシュが起こり、現代ではコントロールしないと供給過剰になるくらいダイヤモンドは豊富に得られるようになりました。膨大な量から選べるようになった現代では、最高品質クラスの原石として完璧に近い八面体型の結晶も数千トンに1つくらいの割合で得られることもあります。

昔はダイヤモンドの劈開性(へきかいせい)を利用してカットするしかありませんでした。硬いダイヤモンドも特定方向に対して脆弱性があるため、そのポイントを見つけて力を加えると割れるのですが、結晶構造が整った上質な原石でなければ劈開の方向が定まらないためカットすることすらできません。

ダイヤモンド・ソウダイヤモンド・ソウ(1903年頃)

そんな状況が変わったのは、1900年にはアメリカで電動のダイヤモンド・ソウが発明されてからです。

ようやく1900年代になってから、劈開の方向を無視したカットが可能となったのです。

これは大変画期的なことでした。通常はカットできなくてどうしようもなかった、数だけはたくさん採れるダイヤモンドが利用できるようになったからです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

この作品は1880年頃、まだ電動ダイヤモンド・ソウが発明されていない時代に作られたものです。

通常のジュエリーにも使えるレベルの、当時貴重だった八面体の原石を使っています。

磨けば素晴らしいダイヤモンドになったかもしれませんね。

原石ジュエリーをオーダーした意図

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

現代の教養や感性のない中産階級と違い、イギリス紳士がダイヤモンドだからという理由だけで原石ジュエリーを買うことはあり得ません。

加工費をケチったわけではないことは、かなりお金をかけた作りの良さからも明らかです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

この原石ジュエリーをオーダーした意図として、イギリスのジェントルマンらしい理由としては2つ考えられると思います。

古代ローマからのインスピレーション

イギリス貴族の子弟のイタリアでのグランドツアーイタリアでのグランドツアー

イギリスでは17世紀頃から、貴族が息子をグランドツアーに出す習慣がありました。

家庭教師を連れてヨーロッパで社交や芸術を学び、優れた古美術や当時最先端の芸術品なども目利きで購入してくる、恐ろしくお金のかかる長期旅行です。

イギリス貴族のグランドツアーの書籍Genから指定された必読書『グランド・ツアー』木城靖久著

目利きができたり、優れた感性や頭脳で知識を吸収できる人は稀で、大半は実りのない浪費に終わったとも言われています。

でも、そのような中でも優秀な人物は大いに文化に貢献しています。

ディレッタンティ協会(1777-1779年頃)ディレッタンティ協会(1777-1779年頃)

その1つが1734年にグランドツアー経験者のグループによって結成された『ディレッタンティ協会』です。

ディレッタンティ協会は、古代ギリシャやローマ、エトルリア美術の研究、そしてその様式にインスピレーションを受けた新しい作品制作のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンによる協会です。

先に触れたサバの塩焼きの紳士が主催するクラブもワインを飲みながらの談義だそうで、次回ロンドンに来る時はおいでよと誘われているのですが、左の協会も楽しそうなので俄然興味が湧いてきました(笑)

ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー蔵ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー

ディレッタンティ協会メンバーの1人ウィリアム・ハミルトン卿は、ナポリ王国の英国大使を務めていた1764年から1800年まで、たくさんの古代の美術品を買い集め、イギリスの王侯貴族や博物館にご用立てしました。

コレクションを紹介した本も大人気で、イギリスにおける古代美術の文化の発展に大きく貢献しました。

古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ  5-25年頃)大英博物館
"Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5

あのフランスの大迷惑野郎(ナポレオン笑)がイタリアからいろいろと強奪する前に買い集められたので、質・量ともに優れたものを手に入れられる良いタイミングだったとも言えますね。

第2代ポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンク(1715-1785年)

ハミルトン卿だけだと財力がすぐに尽きてしまいそうですが、背後にいるイギリスの王侯貴族がパトロン的に買いまくってくれるので、いくらでも購入できます。

古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』を購入したのも、当時イギリスで一番お金持ちの女性と言われた美術品コレクター、ポートランド公爵夫人マーガレットでした。

巨大なフランス軍の軍事力を使った略奪も蒐集力は強そうですが、イギリスの王侯貴族の財力も相当蒐集する力はあったことでしょう。

【参考】古代ローマのダイヤモンド・リング(古代ローマ 3世紀後半-4世紀初期)メトロポリタン美術館
【引用】The Metropolitan Museum of Art / Octahedral Diamond Ring ©The Metropolitan Museum of Art.

これは古代ローマのダイヤモンド・リングです。

【引用】The Metropolitan Museum of Art / Octahedral Diamond Ring ©The Metropolitan Museum of Art.

この角度から見ると8面体の結晶の下はカットされているようにも見えますが、実際は原石をそのまま使っています。

【引用】The Metropolitan Museum of Art / Octahedral Diamond Ring ©The Metropolitan Museum of Art.

様々な角度から見るとこういう感じです。面白いですね〜。インタリオはなく印鑑の役目はないゴールドのリングなので、明らかに特別な身分の人が何か特別な意図を持って作られせたものです。原石にあわせたデザインも面白いものです。

古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年)

ダイヤモンドは紀元前からインドよりヨーロッパへ送られてきましたが、はっきりと文献に現れるのは古代ローマのプリニウスによる『博物誌』です。

インドからもたらされる、とにかく硬すぎて加工できないものと記述されています。

ハンマーなどで叩きまくって、たまたま劈開(へきかい)のポイントに力が加わった時に偶然割れたりはしていたようです。

【参考】古代ローマのダイヤモンド・リング(古代ローマ 3世紀頃)大英博物館
【引用】Brirish Museum / finger-ring © British Museum/Adapted

デザインにはバリエーションがありますが、このようなダイヤモンド原石とゴールドによる古代ローマのリングはいくつか見つかっています。

シリアで発見された古代ローマのダイヤモンド・リング(古代ローマ 3世紀頃)大英博物館
【引用】Brirish Museum / finger-ring © British Museum/Adapted

かなり古い時代に発掘されたり、王侯貴族のコレクションとして持ち主が変遷すると、どこで発掘されたのかという情報は失われていくものです。

これはシリアで発見されたことが分かっている貴重な古代ローマのリングです。

古代ローマの120年頃の領土 "Roman Empire 120" ©Andrei nacu(5 May 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

シリアと言えば、120年の古代ローマの領土を見るとかなり辺境の地であることが分かります。そんな場所で見つかっているなら、古代ローマの貴族の別荘があったイギリスで見つかってもおかしくないですよね。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

この作品は、実際に古代ローマの原石のリングを見てインスピレーションを受けた人物がオーダーした可能性があります。

ブライトンでも古代ローマの貴族の別荘が見つかっているので、ブライトンで実際に発見されていた可能性も否定できません。

調べてはみたのですが、古い時代にプライベートコレクションとなってしまった場合は記録が残りませんから、情報が出てこなくても、絶対に発見された過去がないとは断言できないのです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

いずれにせよ、古代ローマの原石ダイヤモンドリングを見たことがあって、古代美術に興味を抱くような好奇心旺盛の知識階層同士で話しをする時、これほど身につけるに相応しいジュエリーはないでしょう。

そのまま同じようなリングを作るのではなく、クラバットピンやタイタックの形でさり気なく装うのもポイントです。

17世紀から18世紀にかけては、優れた古代美術にインスピレーションを受けて、より優れた芸術を作りだそうと芸術家たちが競った時代でした。

全く同じものを作るなんて発想は、少なくとも才能ある芸術家や教養のある王侯貴族にはありません。

同じものが欲しいならばオリジナルを手に入れるべきです。

左の原石リングは作りも酷いですし、何の工夫もないデザインにもあきれてしまいます。

こんなのを着けたら、当時の上流社会では笑いものになってしまいます。

【参考】14Kの原石ダイヤモンド・リング(現代)
古代ローマのダイヤモンド・リング(メトロポリタン美術館蔵)古代ローマ【引用】The Metropolitan Museum of Art / Octahedral Diamond Ring ©The Metropolitan Museum of Art.
【参考】ダイヤモンド原石のリング(現代)

並べるとこんな感じになってしまいました。優れたアンティークジュエリーは本当の王侯貴族だけが使っていたものでしたし、現代ジュエリーは同じゴールドとダイヤモンドという素材であっても中流階級向けの量産品がほとんどです。これだけクオリティに差があっても何の違和感もありません。二千年近くも前の人間は無知で愚かそうだから稚拙を作って着けて喜んでいたと思ったら、それは全く逆なのです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

これはダイヤモンド原石を生かしてこの時代らしいジュエリーに仕立てられた、教養あるジェントルマンに相応しいオリジナルジュエリーなのです。

レディたちからモテるため

摂政皇太子として有名なイギリス王ジョージ4世の若い頃イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃

もう1つ、作った意図として考えられるのは単純な理由で、レディたちからモテるためです。

プレイボーイでイギリス一のジェントルマンと言われたジョージ4世もジュエリーに精通しており、パドルロックラバーズ・アイなどの愛のジュエリーを初めて作らせた人物とも言われていますね。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

このジュエリーを着けていれば、社交の場で美しいダイヤモンドジュエリーを身につけていたレディに話しかけやすくなるのは間違いなしです。

約2カラットのオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドのアンティーク・ブローチ『財宝の守り神』
ダイヤモンド ブローチ
フランス 1870年頃
SOLD

「美しいジュエリーを着けていらっしゃいますね。素晴らしいダイヤモンドですが、原石はどういう感じかご覧になったことはありますか?」

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

「ご覧になったことがない?それではご覧に入れましょう。こんな感じですよ。あなたのその美しいダイヤモンドも、カットして磨く前はこんな感じなのです。」

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

「ええ?!!ダイヤモンドの原石は汚いとは聞いたことあるけれど、こんな感じなのね、すご〜い!!」

こんな感じで尊敬されたり、「私も見た〜い!」という感じになったりで、当時の上流階級でもきっと話題性十分だったはずです。

原石の形で入手する難しさ

ダイヤモンドの原石

『ダイヤモンドの原石』とはよく言いますが、実物をご覧になったことがある方は現代でも少ないと思います。

普通は原石が採取された後、集められた原石はまとめて取引所に送られます。

アムステルダムのダイヤモンドカットの加工場

取引後はカット加工場に送られます。

カットされてルースの状態にされた後、それぞれジュエリーを制作する工房に送られます。

アムステルダムのダイヤモンドカットの加工場(19世紀)
フランスのインポートのプラチナのホールマーク(マスク)が刻印されたオールドカット・ダイヤモンドのアンティーク・ピアス『Nouvelle-France』
オールドカット・ダイヤモンド ピアス
ヨーロッパ? 1920年頃
SOLD

基本的に、ジュエリーを購入するエンドユーザーは最終製品しか見ることはありません。

特別なオーダーをするために工房の職人と打ち合わせることはあるでしょうから、ルースの状態のダイヤモンドであれば見られる可能性もあります。

でも、工房に来る時点で既にカットされているので、原石の状態で入手するには余程頑張って根回ししないと無理なのです。

 

原石として綺麗すぎる石だと、正直、面白みがありません。

汚すぎるのは問題外です。

【参考】原石ダイヤモンド・リング(現代)
ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

一見しただけではダイヤモンドに見えないような、でもどうしても気になってしまう魅力を放つ、ちょうど良いあんばいのものをわざわざ見つけてきて、原石ジュエリー用に半分にだけカットさせて使ったのでしょう。

キンバリー鉱山

折しも南アフリカのダイヤモンドラッシュにイギリスが沸いていた時代、ひょっとしたら鉱山オーナーだった人物のオーダー品だったりしてとも思います。

面白がった酔狂なイギリス貴族がわざわざ南アフリカに足を運び、現地でちょっと自分で採掘してみた記念の原石でオーダーした可能性だってあると思います。

キンバリー鉱山(1881年にNYで刊行の『アフリカのダイヤモンド鉱山の概要』より)
ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

それくらい、特別な作りで仕上げられたジュエリーなのです。

原石らしいナチュラルな石の表情の面白さ

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

もしかすると表面は磨いていると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは原石そのままの状態です。

エッジにシャープさがない、なだらかな形状がいかにも原石らしい形で面白いですよね。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

ダイヤモンドなので、原石であっても表面からの光の反射は強いです。

この強い反射光のせいでなかなか内部がはっきり見えないのですが、それでも透明感があり、内包物のようなものが時折面白い表情を見せてくれます。

大自然のアートは見ていて飽きることがありませんね。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー
GENは画像を見ながら、まるで現代のモダンアート作品のようだと喜んでいました。
ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー
ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

ダイヤモンド光沢は光を全反射する金属光沢状だとも言われますが、表情によってはその通りまるで金属のようにも見えます。

実物を手に持っていろいろな角度で見ていると、本当に面白いです。

爪留めの技術

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

この特殊過ぎる石を留める技術も見事です。

この酷すぎる現代のハンドメイドの爪留めとは全く異なる、圧巻の職人技を見てみましょう。

【参考】原石ダイヤモンド・リング(現代)
ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

自然の石なので、一見対称性の高い石に見えても実際は歪です。小さな爪で留めるには、この程度の歪さであってもかなり難しくなります。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

この時代は底が平らなローズカットダイヤモンドもまだまだ使われており、ローズカットダイヤモンドをこのようなタイプの爪で留めることもあったので、高度な技術を持った職人ならば可能だったということでしょう。

一見シンプルに見えますが、現代ではまず同じようにはできない作りです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

この時代のダイヤモンドジュエリーと同じく、ダイヤモンドの色味を邪魔しないように、爪は白い金属であるシルバーが使用されています。この時代の高級品の特徴ですが、シルバーの下の土台は黒ずんだシルバーが衣服など汚さぬようにゴールドを使っています。厚みのあるゴールドを使った、素材的にも贅沢な作りです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

現代ジュエリーではハンドメイドの1点物であっても、基本的にはワックスを使った鋳造で作ります。

鍛造で作るのは手間がかかりすぎてコスト的にも無理だからです。

この作品は鍛えた銀と金の板を蝋付けし、そこからタガネとヤスリでこの形に仕上げた完全な手作りなのが魅力です。

だからこそ100年以上もの使用に耐える耐久力があるのです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー
思いっきり歪なダイヤモンドの原石をしっかり留めるためには、これぐらい頑丈そうなしっかりした爪が必要だったのでしょうね。原石の荒々しい雰囲気と、それをガッチリと抑えて留めた爪という男らしいコラボレーションが、まさにイギリス紳士らしさ満点と言えるのです。

見えない部分までのデザイン的配慮

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー

ダイヤモンドの台座の一番下にある、ゴールドの土台部分にはわざわざ溝が彫ってあります。

これがさらに高級感を出しているのですが、通常は見えない部分です。

見えない部分にまで施す丁寧な細工こそ、特別オーダーの高級品の証なのです。

約2カラットのオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドのアンティーク・ブローチ
約2カラットのオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドの側面と美しいファイア この細工は『財宝の守り神』のメインストーン、およそ2ctのダイヤモンドにも施されていましたね。

オリジナルの革ケース

アンティークジュエリーのオリジナルケース 革に箔押ししたハンドメイドのケースは、百数十年の時を経た味わいを感じます。
ダイヤモンド原石 クラバット・ピン(タイピン)&タイタック アンティーク

昔の高級品は一点一点に手作りのケースを付けてあるのが当たり前だったのですが、今では信じられないような話ですね。

現代ではジュエリーは消耗品、ケースはただ店から持ち帰る時にだけ必要な、消耗品を入れるすぐ捨てる箱みたいな存在となってしまいました。

現代では数百万円のブランドジュエリーでも、量産の安っぽいケースにしか入っていなくて、これではいざジュエリーを取り出して使おうと思ったときにテンションは上がりません。

 

ダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー

もしタイタックとしてお使いになりたい場合は、ダイヤモンドの土台部分をこちらから見て手前方向に回せば、ネジで外せます。

現代の18Kのピンキャッチは実費でお付けしますので、必要な場合はご連絡ください(価格は金相場によって変化します)。

 

イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー

拡大画像ばかりだと、ちょっと実物のイメージが湧きにくいでしょうか。

 

イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー

原石は小さいものですし、ダイヤモンド自体もカットされておらずダイヤモンドらしい煌めきはないので、悪目立ちは一切せずシンプルかつスタイリッシュにお使いいただけると思います。ジュエリーは高そうに見えないと困るという方には不向きですが、分かりにくいけれど上質で面白いものが大好きな、遊び心満点のイギリス紳士のような方にはこれほど相応しいジュエリーはないと思います。



イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリーイギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー

私の手とサイズを比較すると、このような感じです。

イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー イギリス貴族のダイヤモンドの原石のアンティークジュエリー

これは自然光の元、ダイヤモンドが光を透過している様子が分かりやすい角度で撮影してみました。これでも十分に美しいと感じるのですが、磨いていたらどんな宝石に変身していたのでしょうね〜♪