No.00237 英雄ヘラクレス

ポイント3 モチーフのヘラクレス

PDヘラクレス像(ヘレニズム 紀元前2世紀)

ヘラクレスと聞くとどういうイメージがあるでしょうか。

棍棒のイメージがあるので、力が強く荒々しい、粗野なイメージが強いかもしれません。

しかしながら実際には考えられないような苦難を弱音も吐かず、恨み言の1つも言わず、何度も乗り越えた人物です。

嫌がらせの結果起こしてしまった不幸な出来事も人のせいにせず、逃げることなく自らきちんと責任を果たします。

人間離れした圧倒的な力は持っていますが、戦う時も力だけに頼るのではなく頭もしっかりと使っています。

ゼウスを父に持つ半神半人、最後はオリンポスの神となる男の中の男、強さと知性と名誉を重んずる古代ギリシャ人の男性の誰もが憧れる男、それがヘラクレスなのです。

古代ギリシャのヘラクレスのリング

このリングにはヘラクレスの人間性が驚くほどよく表現されています。

「鈍器を愛用の武器とする力で押すだけの怪力男」というイメージとは全く違うと思います。

リングが作成された当時の古代ギリシャにとって、ヘラクレスがどういうイメージだったか理解するために、少しヘラクレスについても見ていきましょう。

出生の背景

英雄ペルセウスのメデューサ退治をモチーフとした古代ローマのホワイトカルセドニーのインタリオ『英雄ペルセウスのメデューサ退治』
古代ローマ 1世紀
シャンクは現代
SOLD

ヘラクレスはゼウスとミュケナイ王女アルクメネの息子です。

アルクメネはペルセウスの孫にあたります。

ペルセウスと言えば、あのメデューサ退治で有名な英雄ですね。

グスタフ・クリムト作「ダナエ」『ダナエ』(グスタフ・クリムト 1907-1908年)

ペルセウス自身もゼウスとアルゴス王女ダナエの息子です。

ヘラクレスはかなり血統も良かったわけですね。

ちなみにゼウスはダナエの前には黄金に姿を変え、アルクメネの前には夫に化けて思いを遂げたそうです。

アルクメネは元々ゼウスを拒んでいたそうなのですが、完全に騙し討ちですね。

ヘラクレスの試練の人生の始まり

PD刺客の蛇を掴む幼いヘラクレス(古代ローマ 2世紀)カピトリーノ美術館

それなのにゼウスの妻ヘラは嫉妬深く、ヘラクレスに嫌がらせの数々を生涯し続けます。

神からの嫌がらせだなんて普通は一回で死ぬか精神がやられてしまいそうですが、打ち克ち続けたので生涯続くのです。

これがヘラクレスの試練の人生になります。

嫌がらせは赤ん坊の頃からすでに始まっており、ヘラは寝ているヘラクレスの揺り籠に2匹の蛇を放っています。

これをヘラクレスは素手で絞め殺したそうです。

左上:ヘラクレスの妻メガラーと2人の息子(古代ギリシャ 紀元前320年頃) "Apulian red-figure volute krater by the White Sakkos painter Antikensammlung Kiel B 585 (1) " ©Marcus Cyron(15 December 2012, 16:47:04)/Adapted/CC BY-SA 3.0

成人したヘラクレスはテーバイ王女メガラーを妻とし、子供にも恵まれました。

しかしながらヘラがヘラクレスに狂気を吹き込み、それが原因で我が子と異母兄弟の子を炎の中に投げ入れて殺してしまいました。

ヘレニズムのアポロンのインタリオ『アポロン』
古代ギリシャ 紀元前200-紀元前150年
シャンクは19世紀
SOLD

正気に戻ったヘラクレスは「ヘラのせいだからしょうがない」なんて言い訳一つすることはなく、罪を償うためにデルポイに赴きアポロンのご神託を伺いました。

その結果、ミュケナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせとのご神託を受け、それに従ったのでした。

『ヘラクレスの選択』と言えば、敢えて苦難の道を歩んでいくことを言うのです。

12の功業

エリュマントスの猪を生け捕ってきたヘラクレスと甕に隠れるエウリュステウス
(古代ギリシャ 紀元前510年頃)ルーブル美術館

勤めを与えるエウリュステウス王が執念深く卑劣な人物で、ヘラクレスに対してかなりの無茶ぶりをしまくりました。10の勤めのはずが12の功業に増えているのも嫌がらせのためです。ヘラも相変わらず邪魔するなどの嫌がらせをしています。

功業1 ネメアの獅子

ネメアの獅子を絞め殺すヘラクレス(古代ギリシャ 紀元前620-紀元前480年頃)大英博物館 "ネメアーのライオン" ©遠藤 昂志(9 November 2013, 0:23:21)/Adapted/CC BY-SA 4.0

12の功業全てはここではご紹介しませんが、ヘラクレス・リングを理解する上で重要な試練をいくつかご紹介します。

最初の功業が『ネメアの獅子』です。

ネメアの谷に住みつき、人や家畜を襲っていた巨大な獅子を退治するよう命ぜられました。

困ったことにこの獅子は恐ろしく毛皮が頑丈で、矢で射ても毛皮に傷1つ付きませんでした。

「ヘラクレスの棍棒」モチーフの古代ギリシャのゴールド・ペンダント『ヘラクレスの棍棒』
古代ギリシャ 紀元前2世紀
SOLD

力で押すだけのタイプだとここで終わってしまいますが、ヘラクレスが知性と人間離れした怪力、そして精神力を持ち合わせた優れた人物だからこその超人的な方法で攻略してしまいます。

まず棍棒で強かに殴りつけ、悶絶する獅子を寝ぐらの洞窟へと追い込み、入り口を大岩で塞いで逃げられないようにしました。

ライオンと戦うヘラクレスをモチーフとした古代ギリシャのインタリオ『12の功業 ヘラクレスのネメアの獅子退治』
ヘレニズム
シャンクは現代(Gen監修)
SOLD

獅子が猛獣ならではの強みを活かせない、暗く狭い場所に追い込んだヘラクレスは再度棍棒で殴りつけ、獅子の首を三日三晩締め続けて殺しました。

とんでもない方法ですし、とんでもない精神力ですが、戦いにおける機転にも目を見張るものがあります。

これこそ古代ギリシャの最強の男たちが憧れる存在でしょう。

獅子座をモチーフとした古代ローマのレッドジャスパー・インタリオ『獅子座』
古代ローマ 2世紀
シャンクはヴィンテージ
¥2,800,000-(税込10%)

あらゆる武器を寄せ付けぬ獅子の毛皮は獅子の爪で加工し、その後はヘラクレスが頭からかぶって鎧としました。

肉はゼウスに捧げられました。

ネメアの獅子の魂はゼウスによって天に召し上げられ、獅子座となったそうです。

もっと詳しく知りたい方はぜひ『獅子座』のインタリオのページもご参照ください。

功業2 レルネのヒュドラ

PDヒュドラと戦うヘラクレスとイオラオス(紀元前6世紀頃)ルーブル美術館

2つ目の功業ヒュドラ退治は特に有名ですね。ヘラがヘラクレスへの恨みの感情で育てたともされる水蛇ヒュドラは、巨大な胴体に多くの頭を持ち、頭は切ってもそこからさらに2つ生えて来て、さらに頭の中の1つは不死という化け物でした。

これも一見すると攻略不能に思えますが、ヘラクレスが鉄鎌で頭を落とし、傷口を甥のイオラオスが松明で焼くという連携プレーで追い込みます。最後の不死の頭は落とした後に巨岩の下敷きにした倒しました。力だけでは倒せない相手ですよね。

ちなみにヘラクレスの足元に愛らしいカニさんがいますが、これはヘラが送り込んだ刺客、化け蟹カルキノスです。ヘラクレスの足を切ろうとしたそうですが、あっさり踏み潰して殺されたそうです。

カニと呪術文字をモチーフとした古代ローマのお守り用のインタリオ『カニの護符』
ローマ帝国東部 3-5世紀
SOLD

蟹好きの私としては食べなかったのかとそのお味が気になるところですが、カルキノスはその後、蟹座になったそうです。

ちなみにこのヒュドラ退治では、ヒュドラの死体から得た猛毒の血が様々なシーンでポイントになってきます。

功業11 ヘスペリデスの黄金の林檎

PDヘスペリデスの園(フレデリック・レイトン男爵 1892年)レディ・リーヴァー美術館

12の功業の中ではマイナーな方ですが、11番目の功業にヘスペリデスの園から黄金の林檎を採ってくるというものがあります。

美しいニンフ、ヘスペリデスの園にはヘラの果樹園があり、ヘスペリデスはそこに植えられた黄金の林檎を世話しています。ヘスペリデスがお世話中にちょっと林檎を盗んでしまったため、ヘラは百の首を持つ竜(または蛇)ラドンに寝ずの番をさせることにしました。

ちなみに上の絵画はニンフの布のドレープが特徴的な美しさだったので調べてみると、やっぱり一日男爵レイトン画でした(笑)※イギリスの最短貴族記録保持者レイトン男爵についてはこちらをご参照ください

ヘラクレスと黄金の林檎を守るラドン(古代ローマ後期)ミュンヘン州立古代美術博物館

この11番目の功業には2つの伝説があり、1つはヘラクレス本人がラドンを攻略するものです。

今回はより知的観点から興味深い、もう1つの攻略方法をご紹介しましょう。

「プロメテウスの火」モチーフのアンティークのシェルカメオ・ブローチ『プロメテウスの火』
ドイツ 17世紀
フレームは19世紀初期
SOLD

ゼウスの反対を押し切り、天界の火を盗んで人類に与えた神プロメテウスはゼウスの怒りを買い、カウカソス山に縛り付けられていました。

ヘラクレスはプロメテウスを救い出して助言を請いました。

黄金の林檎を世話するヘスペリデスはアトラスの娘たちだから、アトラスに相談してみてはと助言を受けました。

天空を担ぐアトラス神天空を担ぐアトラス神(古代ローマ 2世紀頃)ナポリ国立考古学博物館 "MAN Atlante fronte 1040572" ©Lalupa/Adapted/CC BY-SA 4.0

プロメテウスの兄アトラス神は、ティターン神族がゼウス達との戦い(ティターノマキアー)に敗れた際、ゼウスによって世界の果てで天空を背負う役目を負わされることになりました。

相談されたアトラスは自身が天空を支える重荷から逃れたいこともあり、自分が黄金の林檎を採ってくるから、その間は代わりに天空を支えて欲しいと頼みました。

巨躯を持つ神アトラスならば天空を支える怪力も分かりますが、代わりができるヘラクレスはかなり人間離れしていますね。

さて、無事にアトラスは黄金の林檎を持って戻ってきましたが、再び天空を背負うのが嫌だったアトラスは「このまま林檎をミュケナイに届けてやるから、もうしばらく天空を背負っていてくれ。」と言いました。

ヘラクレス

ヘラクレスはアトラスの奸計にすぐに気づきました。

でも、自分が天空を背負っている状況下、そのまま逃げられてしまったら終わりです。

そこでアトラスを逆に騙す手を思いついたのです。

アトラスの提案に納得したふりをしつつも、「このままの背負い方を続けるのは辛い。どうすればもう少し楽に背負えるか教えて欲しい。」と言いました。

この言葉に騙されたアトラスが見本を見せようと背負っている間に、ヘラクレスは林檎を手に取りエウリュステウス王に渡すために行ってしまいました。

ヘラクレス・リング

異常なまでの怪力は持っていますが、力で押すタイプではなく、ここまで来ると知性派という印象が強いです。

棍棒が必要な理由

ヘラクレスの金棒『ヘラクレスの棍棒』
古代ギリシャ 紀元前2世紀
SOLD

棍棒のせいで力が強いだけの野蛮人というイメージがつきやすかったりもしますが、ネメアの獅子の話では棍棒がなしには攻略は叶いません。

棍棒は野蛮のシンボルではなく、正しくはヘラクレスの勇気と知性と力強さのシンボルだったのです。

ヘラクレスは古代ギリシャだけでなくローマでも高い人気があり、憧れる人や加護を受けたい人はたくさんいました。

だからこそ棍棒モチーフのアイテムも、好んで身に付けられてきたのです。

ヘラクレスの死

デイアネイラの誘拐デイアネイラの誘拐(グイド・レーニ 1620-1621年)ルーブル美術館

12の功業を勤め上げ、ヘラクレスはカリュドン王女デイアネイラと結婚して子供にも恵まれました。

夫妻で息子ヒュロスを連れて旅をしていた時、川を渡ろうとしましたが家族と共に渡るにはあまりにも流れが激しすぎました。

居合わせたケンタウロスのネッソスが妻デイアネイラを担ぐと申し出たため、ヘラクレスが息子を、ネッソスが妻を担いで激流を渡りました。

ところが先に向こう岸に着いたネッソスがデイアネイラを襲おうとしたため、ヘラクレスはヒュドラの毒矢で射殺しました。

PDデイアネイラの誘拐(ローレント・マークエスト作 1892年)チュイルリー庭園

いまわの際にネッソスはデイアネイラに対して「自分の血は媚薬になるので、ヘラクレスの愛が減じた時に衣服をこれに浸して着せれば効果がある。」と残しました。

ネッソスの言葉を信じたデイアネイラは密かにその血を採っておきました。

オイカリア王エウリュトスと王女イオレオイカリア王エウリュトスと王女イオレ(古代ギリシャ 紀元前600年頃)ルーブル美術館
"Eurytios Krater Louvre E635 n3" ©Jastrow(7 June 2008)/Adapted/CC BY 2.5

以前、ヘラクレスはオイカリア王女イオレに求婚したことがありました。絶世の美女とされる娘イオレを結婚させたくなかったエウリュトス王は、出した条件に見事応えたヘラクレスに対して難癖を付けて追い返したことがありました。

イオレとヘラクレスイオレとヘラクレス(アンニーバレ・カラッチ作 1597年)ファルネーゼ・ギャラリー

妻デイアネイラを置いて遠征し、オイカリアを征服したヘラクレスは王女イオレを捕虜としました。

帰国の際、ケーナイオン岬でゼウスに戦勝感謝の供儀を行おうと、ヘラクレスは使いを送ってデイアネイラに衣を準備させました。

捕虜の中に戦争の原因となった美女イオレの存在を知り、夫を疑い嫉妬したデイアネイラはネッソスの血を浸して衣を送ったのでした。

血には世界最強のヒュドラの毒が混じっていました。

ヒュドラの毒は犯されると決して癒えることのない、苦しみ抜いて死ぬだけの不治の毒でした。

オイテ山 オイテ山の位置
"Greece relief location ,ap" ©Lnecer, Uwe Dedering(23 July 2010, 11:39)/Adapted/CC BY-SA 3.0

供儀のために衣を着たヘラクレスはたちまち猛毒が回り、体が焼けただれて苦しみ始めました。良くなることはなく、自分の死を悟ったヘラクレスはオイテ山に登り、薪を積み上げて上に身を横たえ、火を付けるように息子ヒュロスに言いました。

トロイア戦争の英雄ピロクテテスとヘラクレスの弓

父を焼くことはヒュロスにはどうしても出来ず、偶然居合わせたポイアースとピロクテテス親子に火をつけてもらいました。

その恩としてヘラクレスの強弓が与えられました。

後のトロイア戦争では、ピロクテテスの持つヘラクレスの弓なくしてはトロイアを陥落させることはできない運命だとご神託が降り、ピロクテテスは見事勝利に導き英雄となっています。

PD刺客の蛇を掴む幼いヘラクレス(古代ローマ 2世紀)カピトリーノ美術館

ヘラクレスは息子ヒュロスにイオレを娶るように命じて火焔の中で息絶えました。

生まれてから死ぬまで、あり得ないほどの苦難に何度見舞われようとも恨み言一つ言わず、自身の力で全て打ち克ち、誰にも負けたことのない男の中の男ヘラクレス。

苦難の理由も最期の死がもたらされた理由も女性の嫉妬。

すべてを受け入れるこの姿はカッコ良すぎの一言ではありませんか。

ヒービーと鷲 ゼウス シェルカメオ アンティークジュエリー ブローチ『ヘベと鷲』
イギリス 19世紀中後期
SOLD

ヘラクレスが息絶えた瞬間、天から雷霆が火葬場に降り注ぎ、ヘラクレスは全宇宙を支配するオリュンポスの神に迎え入れられて神となりました。

神となったヘラクレスをヘラもようやく許し、愛娘ヘベを妻として与えました。

ヘラクレスの死後

-神としての活躍-

ピロクテテスの召還ピロクテテスの召還(2世紀半ば)ブラウロン考古学博物館

ヒュドラの猛毒が塗られたヘラクレスの強弓を受け継いだピロクテテスですが、トロイア戦争への参戦だけはどれだけ頼まれても断固拒否していました。そんな折、ピロクテテスが住んでいた洞窟の陰から神となったヘラクレスが現れ、「トロイア戦争に参戦し、陥落させて栄誉を受け取れ」とのご神託があったのです。これに従ったことで、トロイア戦争は先のご神託通りミュケナイを中心とするアカイア人の遠征軍の勝利となったのです。

-ご先祖様としての影響-

古代ギリシャの紀元前4世紀頃の『ヘラクレスと息子テレポス』の複製古代ギリシャの紀元前4世紀頃の『ヘラクレスと息子テレポス』の複製(古代ローマ 1-2世紀)ルーブル美術館

ヘラクレスには神になる前、半神半人だった頃に子孫を数名もうけていました。

リュディア女王オンファレリュディア女王オンファレ(1773-1780年)シェーンブル宮殿

子をなした有名な人物の一人がリュディア女王オンファレですね。

苦難の多いヘラクレスはご神託によって奴隷になったこともありました。

奴隷となったヘラクレスを購入したのがオンファレでした。

服を取り替えたヘラクレスとオンファレ服を取り替えたヘラクレスとオンファレ(古代ローマ 201-250年)スペイン国立考古学博物館

専横な女主人オンファレは互いの衣装を取り替えることを好んだそうで、ヘラクレスは女装の上、糸紡ぎの仕事をさせられたと言われています。

スペインのローマ貴族の別荘にも女装して糸巻きの道具を持たされるヘラクレスが描かれています。

「ライオンの皮を被ったオンファレ」モチーフのボルダーオパールのカメオ『ライオンの皮を被ったオンファレ』
ボルダー・オパール カメオのクラバットピン
イギリスorフランス 19世紀後期
SOLD

題材として面白く、古代ローマの人々からも好まれたようで、ローマンモザイクのモチーフとしても描かれています。

それら古代の芸術作品にインスピレーションを受けて作られたと見られる、『ライオンの皮を被ったオンファレ』のボルダーオパールのカメオも過去に扱ったことがあります。

「ライオンの皮を被ったオンファレ」モチーフのボルダーオパールのカメオ

ライオンの皮、被っていますね〜♪

ヘラクレスを小馬鹿にして遊んでいたオンファレですが、森で奇襲を受けた際にヘラクレスが敵を掃討し、その強さに惚れたオンファレはヘラクレスを夫として3人の子を産んだのでした。

エレクトロン貨(リュディア 紀元前6世紀頃)
"BMC 06" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com/Adapted/CC BY-SA 3.0

ということで、リュディアの王は代々ヘラクレスの血を引くとされているのです。

アリュアッテス王のエレクトロン貨(リュディア 紀元前610-560年)"Electrum trite, Alyattes II, Lydia, 610-560 BC" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com(2018)/Adapted/CC BY-SA 3.0

だから王のシンボルがライオンで、エレクトロン貨幣のモチーフもライオンだったわけです。

エレクトラムの指輪

リュディアのエレクトラムで作られたヘラクレスのリング!!

これはもしやリュディア王家由来のものでは??!

と思ったのですが、調べてみると違うようでした。

薪の山の上のリュディア最後の王クロイソス(紀元前500-紀元前490年)ルーブル美術館

ヘラクレスの子孫とされるリュディアの王でしたが、莫大な富で知られたクロイソスの時代にペルシャに敗北して、リュディア王国は紀元前547年頃に滅亡したのでした。ヘラクレスのリングが制作されたのは紀元前5世紀頃なので、すでにリュディア王国は滅亡しているのです。

-ヘラクレスの嫡流子孫 ヘラクレイダイ-

甕に隠れるエウリュステウス(紀元前510年頃)ルーブル美術館

ヘラクレスの後裔を意味する『ヘラクレイダイ』という言葉があります。

何人かの女性と子を遺してはいますが、ギリシャ神話で通常嫡流であるデイアネイラの子供たち、特に長男ヒュロスの家系を言います。

ヘラクレイダイの話は日本人にとってはどうでも良い、興味ない領域に思えるかもしれませんが、特に当時にギリシャ人にとっては非常に重要な話になります。

性格の悪い、例のミュケナイ王エウリュステウスがヘラクレスの死後に子供たちを迫害し、ペロポネソス半島を去らざるを得なくなってしまったのです。

ペロポネソス半島 "Peloponnese relief map-de" ©Pitichnaccio(18 January 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

上のペロポネソス半島の地図はドイツ語表記ですが、スパルタやアルゴスなど有名なポリスがあることが分かりますね。ヘラクレイダイにとってペロポネソス半島への帰還は、何代にもの長きわたる悲願となったのでした。

ギリシャ悲劇の仮面をモチーフとした古代ローマのインタリオ『ギリシャ悲劇の男性の仮面』
古代ローマ 2世紀
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このヘラクレイダイの帰還の物語はギリシャ神話の世界で起きた最後の大事件で、トロイア戦争もはさんだ長期にわたって語られました。

古代の悲劇作家たちもこの物語をしばしば題材に取り上げており、一定以上の身分の古代人にとっては常識だったと考えて良いでしょう。

それにしても数代にもわたる物語とは、ギリシャ悲劇の上演に8時間かかるのも納得ですね。

ヘラクレスの系譜ヘラクレスの系譜 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』ヘーラクレイダイ 2020年2月9日(日) 13:15 UTC

ヘラクレイダイの帰還についての詳細は割愛しますが、ヒュロスから三代後にようやくペロポネソスへのヘラクレイダイの帰還が叶いました。子孫たちはペロポネソス半島のどの土地を得るかくじ引きで決め、それぞれアルゴス王家、スパルタ王家、メッセニア王家へと分かれたのです。つまりこれらのポリスの王は、ギリシャ神話最大の英雄であり神となったヘラクレスの血をひく正当な人物ということになるのです。

古代ギリシャのヘラクレス・リング

非常に面白いことに、このリングは古代ギリシャのアルゴス、スパルタ、メッセニアのいずれかの王家由来のものである可能性が出てきました。

もう少し絞れないか、詳細を検討してみましょう。

アルゴス王家

アルゴスのヘライオン(ヘラ神殿)
"Heraion of Argos 03" ©Herbert Ortner(12 July 1993)/Adapted/CC BY 3.0

アルゴス地域には新石器時代の居住区があり、その近くの聖域ではヘラを祀っていました。

ミケーネ文明の時代は重要な要塞もあり、古い時代は中心地として栄えていました。

しかしながらアルゴスの重要性は、紀元前6世紀以降は近隣のスパルタによって影が薄くなってしまいました。

古代のアルゴス(手前)と現代のアルゴス

さらに紀元前5世紀のペルシャ戦争への参加を拒否したことで、アルゴスはギリシャの他のほとんどのポリスから孤立してしまいました。それでもアルゴスは中立を貫きました。その後のスパルタとアテナイの争いでは、アテナイと同盟を結んだものの、何の役にも立たなかったそうです。

ヘラクレス・リング

この時代の王家は率先して戦場で戦い、カッコ悪い行いは不名誉とされ、戦いでは何よりも名誉を重んじてきました。

このリングがゴールドではなくエレクトラムである理由の1つが、高い耐久性を出すためだと考えられます。

英雄ヘラクレス

戦いにおいて、偉大なる先祖ヘラクレスのご加護を受けるためにヘラクレスのモチーフが施されたはずですが、男たちの激しい戦いで、金では耐久性に問題があったはずです。

リングサイズもどの指だったかは分かりませんが、約23.5号と屈強な指にはめられていたはずです。

当時のアルゴス王家のとった采配を考えると、絶対にアルゴス王家由来のものではないでしょう。

メッセニア王家

メッセニアのフィニコウンダの町とサピエンツァ島 "Finikonda Bay" ©Rauenstein(6 October 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

メッセニアは古くは東部が隣国スパルタの王メネラオスの支配下にあったと言われる、スパルタとは隣接した国でした。メッセニアは肥沃な土地と良好な気候のため比較的豊かな地方で、それが領土拡張主義を採る隣国スパルタの欲望を掻き立てる原因となっていました。

メッセニア(赤)

紀元前743年頃、小競り合いが原因でメッセニアとスパルタの間で19年間にわたる第一次メッセニア戦争が起こりました。

メッセニアの奮闘むなしく、最後はスパルタの勝利に終わりました。

征服された結果、メッセニア人はヘイロータイという国家の共有財産とされる非自由身分に落とされ、スパルタはギリシャのポリスの中では例外的に広い領土を有することになりました。

戦争時にメッセニアが籠城したイトメ山からのメッセニア平原の眺望

その後、何度かメッセニア人はスパルタに反乱・蜂起しますがいずれも鎮圧されました。

各地に離散したメッセニア人が戻ってきてスパルタからの独立を回復したのは紀元前371年以降です。

ヘラクレスの指輪

従って紀元前5世紀のこのヘラクレス・リングがメッセニア王家由来の可能性はほぼゼロと言って良いでしょう。

スパルタ王家

スパルタの王朝(アギス朝とエウリュポン朝) 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』スパルタ王 2020年1月23日(木) 17:29 UTC,
【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』ヘーラクレイダイ 2020年2月9日(日) 13:15 UTC

スパルタは紀元前10世紀頃から紀元前146年まで続く、古代ギリシャ世界で最強の重装歩兵を誇ったポリスです。王政から貴族政、さらには民主政治へと以降したポリスも存在しましたが、スパルタはアテナイで民主政治が行われるようになった紀元前5世紀以降もずっと神々の血を引く王家の世襲による王政が続きました。

ペロポネソス半島に戻りスパルタ王家をつくったヘラクレイダイのアリストテモスの息子は双子だったため、エウリュポン朝とアギス朝からの2人の王による統治体制になっています。

スパルタの統治システムの模式図スパルタの統治システムの模式図 "SpartaGreatRhetra" ©Publius97 at en.wikiperia(24 March 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

但し絶対的な王が全ての統治権限を保有した独裁的な国家だったかと言えばそうではありません。2人の世襲の王が並立していましたが、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていました。全市民参加の民会で、兵役免除に達した60歳以上の中から選出された28人に、2人の王を加えた長老会が最高決定機関を持つ統治機構となっていました。

ヘラクレス

2人の王どちらも戦場に出ることがあっても、きちんと統治システムが整っていたのでスパルタは強国を維持していたのです。

さて、このリングが作られた紀元前5世紀に該当するスパルタ王は結構人数がいます。

<エウリュポン朝>
・デマラトス(紀元前515-紀元前491年)
・レオキュキデス(紀元前491-紀元前476年)
・アルキダモス2世(紀元前476-紀元前427年)
・アギス2世(紀元前427-紀元前401/400年)

<アギス朝>
・クレオメネス1世(紀元前520-紀元前489年)
・レオニダス1世(紀元前489-紀元前480年)
・プレイスタルコス(紀元前480-紀元前458年)
・プレイストアナクス(紀元前458-紀元前409年)
・パウサニアス(紀元前409-紀元前394年)

ヘラクレス・リング

王でなくとも王族は将軍などとして出陣するので、具体的に誰が付けていた可能性が高いかまでは見当をつけることができませんが、この時代のスパルタ王がどういう人物なのか、有名なレオニダス1世について見てみましょう。

ペルシャ戦争勝利の立役者 スパルタ王レオニダス1世

ベルギー王室御用達の老舗チョコレートメーカー『レオニダス』 【出典】Leonidas HP ©leonidas

スパルタ王レオニダスはギリシャ人ならば知らない者はいない、超有名で偉大な王です。神楽坂にある、GEN御用達の老舗ベルギーチョコレート・メーカー『レオニダス』の肖像もレオニダス王です。

レオニダスはギリシャ人レオニダスが1913年にベルギーで創業しました。

その年にギリシャ代表として出品し、見事金賞を受賞しました。

創業者レオニダス 【出典】Leonidas HP ©leonidas

跡を継いだ甥が創業者の功績を称え、同名を持つ古代ギリシャのスパルタ王レオニダスの肖像をロゴマークに取り入れたのだそうです。

誰もが知る英雄なのです。

レオニダスのロゴ 【出典】Leonidas HP ©leonidas
レオニダス王として伝わる重装歩兵の大理石像(紀元前5世紀)スパルタ市考古学博物館
"Helmed Hoplite Sparta" ©de:Benutzer:Ticinese(1994)/Adapted/CC BY-SA 3.0

そんなレオニダス王はどういう人物なのか。

映画『300』の人物と言えば、ご覧になった方も多いでしょうか。

レオニダス王はペルシャ戦争における大英雄です。

 

ペルシャ戦争において、その後の勝敗を決めることになる紀元前480年のサラミス海戦の前月にテルモピュライで重要な戦いがありました。

テルモピュライの戦場 "Thermopylae ancient coastline large" ©Fkerasar(15 march 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

紀元前499年にペルシャ戦争勃発以降、ペルシャの侵略に対してギリシャの諸ポリスは混乱状態にありました。ペルシャ遠征軍の侵入を阻止するために連合し、重要な防衛線テルモピュライで迎撃することに決まりました。

古代オリンピックの英雄クロトンのミロをモチーフとした古代ローマのアメジスト・インタリオ『古代オリンピックの英雄クロトンのミロ像』
古代ローマ 紀元前1世紀
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ちょうどこの時、ギリシャ人の間で休戦が義務づけられている古代オリンピックの期間中だったため、非常に少数の兵士しか集まりませんでした。

さらにスパルタは国にとって重要な宗教儀式の1つ、カルネイア祭と重なっていました。

この期間中はスパルタで全ての軍事的行動が禁止されていたのです。

御怒りの大いなる日(ジョン・マーティン画 1853年頃)テート・ブリテン

現代人の感覚からすると神への宗教儀式よりも、具体的な危機である戦争の方が大事に思えるかもしれませんが、当時は神への感謝を忘れ、神を冒涜するような行いをすれば怒りを買い、どんな天罰が下るか分かったものではありません。それこそ国家や民族存亡の危機です。

神託が行われていたデルポイのアポロン神殿跡 "Delfi Apollons tempel" ©Helen Simonsson(11 May 2012, 06:50:15)/Adapted/CC BY-SA 3.0

戦争を控え、デルポイにご神託を伺ったところ「王が死ぬか、国が滅びるか」とのことでした。

レオニダス王として伝わる重装歩兵の大理石像(紀元前5世紀)スパルタ市考古学博物館 "Statue of a hoplite, known as "Leonidas." 5th cent.B.C" ©George E. Koronaios(15 May 2019, 10:46:15)/Adapted/CC BY-SA 4.0

レオニダス王は覚悟を決め、わずか300人の最強のスパルタ重装歩兵精鋭だけを連れて出陣したのです。

翌年のペルシャとの決着を決めるプライタイアの戦いではスパルタ軍は重装歩兵だけで1万人、軽装歩兵は3万5千人出撃していますから、いかに少数だけだったかがお分かりいただけると思います。

死を覚悟していたレオニダス1世は出陣の直前、妻に「よき夫と結婚し、よき子供を生め」と言い残したそうです。

紀元前480年のテルモピュライの戦場(ジャン=ジャック・バルテルミ 1832年)

テルモピュライは山と海に挟まれた幹線道路で、隘路が防衛に適した要衝です。

300人のスパルタ重装歩兵と共に参戦したレオニダス王はギリシャ連合軍7000人を率い、この地で200万人以上とも言われるペルシャ軍を迎え撃ちました。

あり得ない兵力差だったため、ギリシャ軍がまともに戦闘しようとするとは信じられず、ペルシャはギリシャ軍が撤退するのを4日間待ちました。

5日たっても撤退の気配を見せなかったため、ペルシャ王クセルクセスは攻撃を命じました。

紀元前480年のテルモピュライの戦い(ジョン・スティーブ・デイヴィス画 1900年頃)

兵力差はあるものの、テルモピュライの戦場は一番狭い場所では幅15m程しかない狭さだったため、少数でもギリシャ軍はペルシャの大軍を食い止めることができました。

ペルシャは大量の戦死者を出しながらも終日戦いましたが、ギリシャ側の損害は軽微なもので歯が立ちませんでした。

ペルシャの不死隊アタナトイ(アケメネス朝 紀元前510年頃)ルーブル美術館

スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシャ軍の強さを目の当たりにし、ペルシャは不死隊も投入しましたがギリシャ軍を突破できず、一向に状況は変わらずペルシャの損害は増える一方でした。

そんな時、ペルシャはギリシャ人の内通者によって迂回路の存在を知りました。

テルモピュライの戦いでの動き(赤:ペルシャ軍、青:ギリシャ軍)
"Battle of Thermopylae" ©BMartens(26 November 2012, 14:41:39)/Adapted/CC BY-SA 3.0

不死隊は土地の住民を買収し、迂回路を案内させて夜に移動し、ギリシャ軍を背後から攻めることにしたのです。

死を覚悟したレオニダス王と仲間たち(ワルド 1881年)

明け方、見張りの報告によって迂回路からの攻撃を察知したギリシャ軍は作戦会議を開きました。

意見は割れ、撤退を主張した部隊は各自防衛戦から撤退し、残ったのはスパルタ重装歩兵300人、テーバイ兵400人、テスピアイ兵700人の合計1,400人だけでした。

紀元前500年頃の重装歩兵と紀元前480年頃のアケメネス朝のスキタイ戦士
"Hoplite circa 500 BCE and Scythian soldier of the Achaemenid army circa 480 BCE enhanced " ©A.Davey(19 October 2018)/Adapted/CC BY 2.0

朝になり、迂回部隊が背後に到達しました。ペルシャ主クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼びかけましたが、レオニダス王の答えは「モーロン・ラベ(来たりて取れ)」でした。

決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセス王は午後10時頃、全軍に進撃を指示しました。

ペルシャ君主クセルクセスの大軍(紀元前480年頃)"Xerxes detail ethnicities" ©A.Davey(19 April 2010, 15:51:32)/Adapted/CC BY 2.0

300人対200万人ともされる兵力差にも関わらず凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシャ軍を押し返しました。敵軍を撃退すること4回に及び、スパルタ軍優勢の状況にありました。しかしながらペルシャ軍の迂回部隊がさらに到着すると、次第に後退を余儀なくされます。

スパルタ軍は四方から攻め寄せるペルシャ軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、険が折れると素手や歯で戦いました。

スパルタ重装歩兵のあまりの最強っぷりにペルシャ兵は戦意喪失し、スパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めました。このため、最後は遠距離から矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍を打ちました。テーバイ兵を除いて全滅しました。

この日だけでペルシャ軍の戦死者は2万人に上ったとされています。戦いとしてはペルシャの勝利ですが、"戦士"としてはスパルタ軍の見事な勝ちですね。

スパルタ王レオニダスを倒すペルシャ王クセルクセスとも言われるシリンダー・シールを押した粘土スパルタ王レオニダスを倒すペルシャ王クセルクセスとも言われるシリンダー・シールを押した粘土
(アケメネス朝ペルシャ 紀元前5世紀頃)メトロポリタン美術館

200万人以上とも伝えられるペルシャ軍を相手にたった300人のスパルタ重装歩兵と参戦し、互角以上に渡り合い、最後は壮絶な死を遂げたレオニダス王の名声はギリシャ中に轟き、スパルタ随一の英雄とされました。レオニダス王の貢献は、ギリシャ全体の士気の高揚だけではありません。

古代の船を再現した船

レオニダス王らの奮闘によって十分に時間を稼ぐことができたため、アテナイが三段櫂船による戦いの準備ができ、翌月のサラミスの海戦でのギリシャ軍勝利につながったとされています。

翌年のプラタイアの戦いでは、スパルタ重装歩兵がレオニダス王の仇を打たんと鬼神のような戦いを見せ、見事に敵を討ち、ギリシャがペルシャに完全勝利したのです。

ペルシャの戦士と古代ギリシャの重装歩兵(古代ギリシャ 紀元前5世紀)
レオニダス像 "Leonidas' statue" ©Dmpexr(31 August 2018, 10:39:56)/Adapted/CC BY-SA 4.0

男が憧れる男、カッコ良すぎる死に方。カッコ良いのはレオニダス王だけではありません。共に散っていった名もなきスパルタ重装歩兵の英雄たちもろとも、なんというカッコ良さではありませんか。

戦いで死んではしまいましたが、レオニダス王がいなければギリシャはペルシャに敗北していたかもしれません。およそ2500年もの時を超えてなお、世に語り継がれる英雄である理由です。

古代の指輪

この5世紀のスパルタ王家こそ、このヘラクレス・リングにめちゃくちゃ相応しい人たちだと感じます!!

5世紀までの最強ポリス スパルタ

後にスパルタとなる地域の青銅器時代の社跡 "Menelaion" ©Heinz Schmitz(4 August 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

スパルタはスパルタ教育と言われる徹底した教育をポリスとして行い、贅沢を禁ずる質実剛健な生き方で最強の兵士を育んでいきました。何とスパルタの支配地域には城壁がありませんでしたが、誰にも侵略されることはなかったそうです。

スパルタの古代の遺跡スパルタの古代の遺跡
"Sparta ruins" ©Thomas Ihle at German Wikipedia(29 April 2004)/Adapted/CC BY-SA 3.0

スパルタ陸軍は最強というのが当時のギリシャ世界の常識であり、スパルタに攻め入ることは自殺行為に等しかったからです。

紀元前480年に英雄レオニダス王が亡くなった後の戦いでもペルシャに勝利をおさめ、その後の紀元前434年に勃発したギリシャの内戦ペロポネソス戦争でも、アテナイ率いるデロス同盟と戦い、紀元前404年にアテナイを破り勝利しています。

特に紀元前5世紀中のスパルタの軍事的活躍は目覚ましく、最強だったと言えるのです。

紀元前4世紀からのスパルタ凋落

スパルタの国章
"Coloured Lambda" ©TRAJAN 117(8 April 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0

紀元前5世紀に強力な海洋帝国となっていたアテナイを紀元前404年に破ったことで、一時期はギリシャ世界の覇権が成立したスパルタでした。

しかしこの勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらし、質実剛健を旨としていたスパルタの制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じました。

古代のスパルタ(ジョン・スティーブ・デイヴィス画 1900年頃)

生じた貧富の差によってスパルタ軍は団結に亀裂が生じ、弱体化していきました。紀元前395年にスパルタに対してアテナイ、アルゴス、テバイがコリントス戦争を起こし、スパルタは海上での覇権をアテナイに引き渡すことになりました。さらに紀元前371年にはレウクトラの戦いでテバイ軍に敗れ、スパルタはギリシャにおける覇権を失うのです。

スパルタにとってのヘラクレスの重要性

ヘラクレスの指輪

紀元前4世紀以降はスパルタは残念な感じですが、紀元前5世紀における最強さとカッコ良さは間違いありません。ヘラクレスを先祖に持つ古代ギリシャの王族で、時代背景的にリングの保有者として該当するのもスパルタ王家だけです。

質実剛健を是とするスパルタでは国民皆兵制度の導入以降、徹底的に贅沢を排除し、貴金属の装飾品も身につけることさえ禁じていました。しかし王族であれば先祖ヘラクレスのご加護を受けるため、激しい戦場でも耐えられる強固なエレクトラム・リングをつけて出陣するのは違和感がなく、むしろ自然なことに感じます。

古代ギリシャ 紀元前5世紀の宝物
古代ギリシャの牧神パンのカメオ『牧神パン』
アゲートのカメオ
SOLD
古代ギリシャの金銀象嵌のスカラベのリング『ギリシャの金銀のスカラベ』
ゴールド、シルバー
SOLD
グレコペルシャのケンタウルスが彫られたスカラベのインタリオ『ケンタウルス』
3層アゲート
SOLD

紀元前6世紀の『王者の指輪』は純度の高いゴールドだけで制作されていましたが、これまでにお取り扱いした紀元前5世紀の宝物は彫刻された石だったり、金象嵌のシルバーなど、繊細な細工の素晴らしさにも魅力があります。ヘラクレス・リング含めて、紀元前5世紀の作品はどれも古代ギリシャ芸術の最盛期らしい芸術性の高さが感じられます。

ただ、ヘラクレス・リングが他の宝物と明らかに違うのは、上の3つは見てすぐに良さが理解できる分かりやすさがあります。

ヘラクレス ヘラクレス

ヘラクレス・リングは通常肉眼で見たときは左のようにしか見えません。これだと正直良いものにはあまり見えないのです。粘土などに押印して初めて右のような、恐ろしいまでの芸術性の高さがあらわになります。撮影ではライトをかなり工夫することで右のような画像が撮影できました。

リングの着用者にとっては、まさに「目に見えなくても、いつも側にいて御加護を授けてくれる存在」です。自慢するための宝飾品ではないので、誰か見ても分かりやすい良さなど必要ありません。ただ、深い心のよりどころたる持ち主にだけは分かる傑出した良さが必要。まさにこのリングはそうです。

石でできていたり、金属といえども繊細な象嵌細工の宝飾品では激しい戦場には向きません。ゴールドより耐久性が遙かに高いエレクトラムだけでできており、しかも沈め彫りのこのヘラクレス・リングであれば、最強のスパルタ戦士と共に戦うことができたはずです。

トラキスのあるメーリス地方の場所
"The location of Malis" ©Lokisis(1 May 2015)/Adapted/CC BY-SA 3.0

もう1つ、紀元前5世紀のスパルタにとってヘラクレスが大切な存在だったことは地名にも現れています。

先述の通りヘラクレスはトラキスのオイテ山で最期を迎えました。

オイテ山 オイテ山の位置
"Greece relief location ,ap" ©Lnecer, Uwe Dedering(23 July 2010, 11:39)/Adapted/CC BY-SA 3.0

紀元前5世紀、この地方にはトラキニオイ族が住んでいたのですが、ペロポネソス戦争中に境界を接するオイタ族との戦いに敗れて庇護者を求めていました。始めはアテナイと同盟を組もうと考えたのですが、アテナイの侵略体質を危惧してペロポネソス同盟盟主のスパルタと組もうと考えました。

近隣のドーリス族もこれに同調し、両部族の要請を受けたスパルタは植民団を派遣して両部族を援助することに決定したのです。このため紀元前425年以降はスパルタの植民都市が建設され、トラキスはヘラクレスの名にちなんでヘラクレイアと呼ばれるようになりました。最強戦士の国スパルタにとって、いかにご先祖様ヘラクレスが大切な存在だったかが伺えますね。

 

→ポイント4へつづく