No.00120 マルティン・ルター

宗教改革300年を記念して作られたマルティン・ルターのゴールド・リング アンティークジュエリー


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ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小の比率が分かります。
『マルティン・ルター』
開閉レンズ付き ゴールド リング

ドイツ? 1817年
ハイキャラットゴールド(15〜18ct)、ガラス(レンズ)
円形のベゼルの直径0,8cm
重量 1,2g
サイズ 11号(変更不可能)
¥350,000-(税込8%)

古い指輪に人物と年号・・。モーニングジュエリーだと思った方も多いでしょうか?実はこの指輪はモーニングジュエリーではなく、歴史的価値のあるミュージアムピース級の面白いリングなのです。
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宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー

透明なロケットの蓋を開けると、男性の胸像が現れます。
シャンクは全体に文字が記載されており、「3 TES. REFORMATIONS. IUBILAEUM.1817」と読めます。REFORMATIONは再構築、改革などの意味がありますね。IUBILAEUMはラテン語でJubilee、すなわち周年記念祭(式典)の意味があります。

宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー 宗教改革 ルター 記念コイン
1817年発行の宗教改革300周年記念コイン(右は左右反転図)

もうお分かりの方も多いでしょうか?この指輪は1517年のThe Reformation(Protestant Reformation)、すなわち宗教改革の300周年を記念して作られたものなのです!!この指輪が作られた1817年には、上のような記念コインがたくさん発行されました。特に300周年は大きなイベントだったのです。

免罪符 贖宥状 フスの火刑 ヨハネス・グーテンベルク 贖宥状 免罪符
カトリックにおける贖宥状の販売 プロテスタント運動の先駆者ヤン・フスが贖宥状を批判し1415年に火刑に処される様子 ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃-1468年) 印刷の贖宥状(免罪符)
元々キリスト教では、洗礼を受けた後に犯した罪は告白(告解)により許されるとされていました。時代の流れと共に、ローマ教皇をトップとする強い一本集権性を持つプラミッド構造の組織になっていきました。贖宥状とは簡単に言ってしまえば、ローマ教皇庁が発行する贖宥状を購入すれば犯した罪が許されるというものです。
贖宥状が最初に発行されたのは、第1回十字軍(1096-1099年)の時と言われています。従軍者に対し、贖宥を行ったことが始まりです。従軍できない者には寄進を行うことで贖宥を与えました。その後、様々な名目でしばしば贖宥状が販売されるようになります。ちなみに世界の三大発明とされるルネサンス期のヨーロッパの発明に、火薬、羅針盤、活版印刷があります。活版印刷の発明者とされるヨハネス・グーテンベルクは、活版印刷業も生み出しています。何を印刷したかと言うと、当時から最も需要があった「聖書」です。最初の印刷聖書「四十二行聖書」は1455年に完成し、180冊印刷されました。現在でも「グーテンベルク聖書」として50冊現存し、世界各地の美術館や図書館に大切に保管されています。他にもカレンダーなどを印刷していますが、実は最も利益が上がったのは、1454年から1455年の数千枚の贖宥状だと言われています。
ローマ教皇のレオ10世

次第に法王庁は財政的な豊かさを背景に力を伸ばし、ローマ教皇は単なる教会のトップではなく、大国の領主と言うべき力を持つようになりました。

1513年にローマ教皇の座についたのが、フィレンツェの富豪メディチ家の次男だったレオ10世です。その資金力を背景に13歳で枢機卿になり、38歳で教皇位についた人物で、就任に当たり「現世の享楽を謳歌する」と宣言したほどの放蕩家でした。

そこらの王侯より贅沢を好み、就任2年で法王庁の財政が危機に陥ったほどです。

金策のために、聖職位を1年に2千件も販売して荒稼ぎしたりもしています。

ローマ教皇レオ10世(就任:1475-離任:1521年)37歳頃
レオ10世の贖宥状(1515年発行) サン・ピエトロ大聖堂 壮麗なサン・ピエトロ大聖堂内部
同時期、神聖ローマ帝国内で大司教位と司教位を持っていたアルブレヒトと言う野望に燃える人物が、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えました。本来、司教位は1人1つしか与えられないものでしたが、ローマ教皇丁から特別許可を得るため多額の献金を行うことにしたのです。それが、自領内でサンピエトロ大聖堂建設献金のためという名目で贖宥状を独占販売する許可を得たいという提言でした。
こうして1515年に神聖ローマで贖宥状が発行されるようになるのですが、当時の庶民の中には「なぜ教皇様はあれほどお金持ちなのに、自分のお金で大聖堂を建てないのだろう」と言う人もいたようです。
神聖ローマの彩色写本の挿絵(15世紀) 死の勝利:ピーテル・ブリューゲル画(16世紀) 煉獄の炎(作者不明)
当時のヨーロッパでは、繰り返されるペスト(黒死病)の流行が恐れられていました。発病から3日後には黒死色に変色して死んでしまう、凄まじい伝染力を持つ病で、数年の短期間に全人口の約半分が犠牲になることもありました。墓穴を掘るのも間に合わず、路肩には死体が溢れ、まさにこの世が地獄と化す状況でした。
上左は、神が放っている死の矢を、聖人が止めてくれるよう祈っている様子です。当時、ペストは神の天罰であるという考えもありました。キリスト教では、死後に行く世界は5つあります。キリストを信じたが、罪を犯してその償いを果たしていない物は煉獄に行き、浄化の苦しみを味わいます。キリストを信じ、徳に生きた物だけが天国に行くことができ、肉体の復活の希望があります。
農奴としての重い負担に耐えながらも、ペストの恐怖やキリスト教の教えの元、神聖ローマの農民は贖宥状を買わざるを得なかったのです。
マルティン・ルター(1483-1546年) ヴィッテンベルクの城教会(当時のテーゼンの扉は戦禍で消失) 95箇条の論題の全文(城協会に展示)
そんな折、贖宥状と言うやり方に疑問を持ったのが、ヴィッテンベルク大学の聖書の教授であったルターです。農夫から経営者に転身したハンスを父に持ち、大都市エアフルトで教養学を修め、法律を学んでいました。それが22歳の夏、帰省旅行中の雷雨の中で雷に打たれ、死の恐怖を味わった結果、修道士になる決意をしたのです。当時の聖書はラテン語でしたが、ギリシャ語やヘブライ語にまで遡って聖書を読むほど熱心で、聖書の解釈や神学の命題の研鑽に励んでいました。
「贖宥状のことは聖書に書いていない。それによって人は本当に救われるのだろうか・・・」。悩んだ末、ルターは贖宥状販売が誤っているという結論に達し、1517年10月31日、95か条の論題と言われる公開質問状をヴィッテンベルク城の教会の扉に張り出したと言われています。当時、教会の扉にこういう論題を貼り出すことはしばしばあったようです。論題はラテン語で書かれていました。当時の農民はラテン語は読めないので、決起を促す意図はなく、あくまでも聖職者同士で議論を交わす目的だったようです。
悪魔として描かれた贖宥状を販売する聖職者(1490-1510年頃) 活版印刷によるドイツ語訳版の95か条の論題(1522年に刊行) ルターによるドイツ語訳の旧約聖書(1534年)

この提言は元々封建的な支配に苦しみ、不満渦巻いていた民衆に支持されました。95か条の論題はすぐに一般の人でも読むことができるドイツ語に訳され、当時実用化が進んでいた活版印刷で論題が刊行されました。その勢いは凄まじく、ほんの2週間でヨーロッパ中に広まったと言われています。ルターが意図せず、1524年のドイツ農民戦争にまで発展しました。ルターはそのような過激な行動には批判的で、最終的には一揆は鎮圧されました。
当初、ローマ教皇庁はルターの動きを大きなものと捉えていませんでしたが、「腐敗する権力に立ち向かったルター」は共感を呼び、影響が多きくなるに連れて問題視し、1521年に異端と断定し破門しています。その後も支持者を得たルターは、精力的に活動しました。かねてより民衆の言葉であるドイツ語に聖書を訳す必要性を認識しており、ついに1534年、念願だったドイツ語訳の聖書の発行に至ります。神聖ローマ帝国で1500万人いた人口の大半が読み書きできなかった時代に、ルターの聖書は100万部も印刷され大ベストセラーになりました。

活版印刷がなかったら、ルターの思想がここまで一気に広がり大きな動きになることはなかったと言われています。グーテンベルクは教会の贖宥状印刷でたくさんの利益を得ましたが、その印刷機が元で宗教改革が実現したことは、何とも皮肉で面白いですね。

 

宗教改革によりキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれ、その後ヨーロッパで血なまぐさい戦争、虐殺が繰り返されるようになります。

こちらでも少し触れていますが、フランスでは1562〜1598年の40年間近くにわたり、カトリックとプロテスタントが休戦を挟みながら内戦状態にあり、多数のプロテスタントが虐殺されました(ユグノー戦争)。

左は1617年に作られた、宗教改革100周年を記念する木版画のポスターです。この年にローマ教皇はプロテスタントを一掃するようカトリック教徒に呼びかけを行っています。翌年1618年から1648年まで、神聖ローマ帝国を舞台としてカトリックとプロテスタントの最後で最大の宗教戦争、三十年戦争が起こっています。

宗教改革100周年記念ポスター(1617年)

カトリック国家であった神聖ローマ帝国に大きな変化があったのが、ヨーゼフ2世の治世下です。改革の多くが挫折に終わったことから、有名な母マリア・テレジアに比べて否定的な評価を受けやすいのですが、「人民皇帝」と言われるほど農民から非常に人気のあった人物でもあります。

1780年に帝国を共同統治していたマリア・テレジアが亡くなると、翌1781年には農奴解放令を発布し、さらに宗教寛容令も発布しました。これによりルター派、カルヴァン派、正教会の住民まで公民権上の平等が認められました。カトリック聖職者や大貴族からの強い反発は残りましたが、次の皇帝レオポルト2世も啓蒙専制君主としての意志を継承し、この寛容令だけは撤回しませんでした。

神聖ローマ帝国のローマ皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790年)

宗教改革300周年にあたる1817年は、プロテスタントにとって特に重要な年でした。ヨーゼフ2世によってようやく認められた権利を失わないようにする必要がありました。また、1803-1815年のナポレオン戦争も大きく影響しています。

フランス革命が勃発すると、旧制度時代の教会の圧政や堕落に対する不満や批判が表面化し、革命政府は教会の十分の一税を廃止し、さらに教会財産を没収するという措置をとったため、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会側と激しい対立に陥っていました。しかし、1801年に執政官ナポレオンとローマ教皇ピウス7世の間で修好条約が締結され、フランス革命以来断絶していたカトリック教会とフランスとの関係が修復されたのです。フランスはカトリックを国民の大多数の宗教として認め、カトリック側は司教の任命権をフランスの主権者の手に与えることを認めました。以後、カトリック教会はフランス社会での大きな影響力を回復し、ナポレオン没落後の復古王政でも王権を支える勢力となったのです。

ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年) ローマ教皇ピウス7世(1742-1823年)
1817年発行の宗教改革300周年記念コインの1種

ヴァルトブルク城

以上のような時代背景により、1817年の宗教改革300周年はプロテスタントにとって重要なものとして迎えられました。数種類の記念コインが発行され、ルターがドイツ語訳の聖書を制作したヴァルトブルク城では、ナポレオン戦争でフランスに征服されてナショナリズムが高揚していた学生らによる集結もありました。ヴァルトブルク城に集まった学生組合ブルシェンシャフトは、祝祭で宗教改革300周年とライプチヒ戦勝第4周年記念を祝い、音楽を奏でながら行進し集会を開きました。古城の広場では祝宴も開かれ、その夜は教皇の破門状を火に投げ入れたルターに習い、自由と祖国の敵の書物、例えばナポレオン法典やプロイセン警察法典を焼くなどしました。

 

宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー そんな1817年に制作されたのが、この宗教改革300周年を祝うルターの指輪なのです!
宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー 宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー

裏からルターの姿を打ち出しているのですが、ルターの大きさはたった6mmしかない小さな物だけに、この打ち出しは見事な物だと思います!!!

宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー
宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー

開閉式の透明な蓋はただの平坦ガラスではなく、凸レンズになっています。こんな細工の指輪は今まで見たことがありません!!
左上の画像からもお解り頂ける通り、ルーペとして機能できるほどレンズなのです!

この指輪を作った人物の正確な意図は解りません。でも、本質は何かをじっくり問い、物事をよく見て本質を見極めて、世界中、後世にまで大きな影響を与えたルター。そのルターを尊敬する心から、物を拡大しよく見ることができるレンズを、わざわざルターの指輪に重ねたような気がします。

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1817年は、イギリスだとリージェンシーに相当する時代に作られています。このシャンク(腕)の作りは、ジョージアンの時代ならではの大変な手間を掛けて作られた物です!!文字はすべてタガネで彫りだしてあり、地の部分には細い線を彫ってありますが、これは普通では考えられない面倒な彫金だと思います!!
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全体に地金が薄いのは、金が非常に高価な時代だったことを示す物です。そんな時代において、いかにこの指輪が当時の持ち主にとって重要なものとして作られたのかは想像に難くありません。
宗教改革 ルター ゴールド リング アンティークジュエリー

2017年は世界各地で宗教改革500周年の祝典が行われたようです。ヘリテイジのオープンが2018年だったので、せっかくの500周年にご紹介が間に合わなかったのが大変悔やまれるところです。

歴史的価値がある上に、開閉可能なレンズの蓋という大変面白い仕掛け、そして素晴らしいつくりが揃った指輪ですが、実際に身につけても大変カッコ良い指輪です。

気軽に身につけられるミュージアムピースは、なかなかあるものではありません。私たちはすでに生きていないでしょうけれど、来たる次の600周年に向けて、次の持ち主に手渡すその日まで大事に楽しむのもすごく素敵なことだと思います

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