No.00133 静寂の葉 |
思わず"静寂"が聞こえてきそうな、趣あるプリカジュール・エナメル!!♪
通常のアールヌーヴォーとは明らかに違う、どことなく和の雰囲気を感じるプリカジュール・エナメルのペンダントです。これは偶然の産物などではありません。このプリカジュール・エナメルが生まれた時代は、日本文化が西洋社会に大きなセンセーションを起こし、多いにインスピレーションを与えた時代なのです!!♪ |
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『静寂の葉』 |
<アールヌーヴォーとジャポニズム>
鎖国の終わり(1854年)
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みなさんご存じの通り、日本は1639年から鎖国をしていました。 1853年に江戸湾の浦賀沖にマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊、通称「黒船」が来航し、開国を要求。 |
日本文化とロンドン万博(1862年)
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開国後、日本文化が初めて万博で紹介されたのが、1862年のロンドン万国博覧会です。日本は文久遣欧使節を派遣して視察は行いましたが、出展はしていません。駐日英国公使だったラザフォード・オールコックが、自身で収集した漆器や刀剣、版画と言った日本の美術品や、蓑笠や提灯、草履などの日用品を展示するという物でした。オールコックのコレクションはロンドンで大いに評価され、ヨーロッパにおけるジャポニズムのきっかけとなりました。 ちょっとやってきた、日本でコネクションもない外国人が日本の特別な美術品なんて手に入れられるわけがなく、日本の最高級品を知る、日本のトップクラスのエリートや上流階級が見ればそういう感想になるのは当然と言えば当然でしょう(笑) |
日本文化とパリ万博(1867年)
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各国から来た人々を歓迎するナポレオン三世 | 日本の派遣団 | |
日本が初めて参加した国際博覧会が、1867年のパリ万博です。ただし、日本という国家をあげての公式参加ではなく、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展するというものでした。当時の江戸幕府最末期の日本を如実に表している感じですね(1867年に大政奉還、1868年に江戸幕府の廃止宣言。1871年に廃藩置県)。ちなみにこの万博では、日本女性3人がキセルで一服する様子などが見られる茶店が人気だったそうです。 |
明治政府初参加 ウィーン万博(1873年)
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1873年、「文化と教育」をテーマに、オーストリア=ハンガリー帝国で開催されたのがウィーン万博です。参加国数は35カ国です。1851年に初めてロンドン万博が開催されて以降、万博ブームが起こり、今では考えられないくらい人々は熱狂し、各国は力を入れて参加していました。 |
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1862年のロンドン万博の敷地面積は38,000坪、1867年のパリ万博が208,000坪でしたが、1873年のウィーン万博は705,000坪の敷地で開催されました。会場敷地面積だけでもロンドン万博の18.6倍、パリ万博の3.4倍あったということで、いかに規模の大きなものだったかが伺えます。 |
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1868年に明治天皇が即位し、新政府は新しい国家体制を築くことを目指して「江戸」を「東京」と改め、1869年(明治2年)には政府が京都から東京に移されました。 ウィーン万博は、できたばかりの明治政府が日本国としての威信をかけて初めて参加する超重要な万博だったのです。新しい日本を全世界に向けてPRしなけれなならないという使命感は物凄いものでした。 約1,300坪の敷地に神社と日本庭園を造り、産業館には浮世絵や工芸品を展示しました。名古屋城の金の鯱や鎌倉大仏の模型、直径4mの提灯などもあったようです。どうしたらヨーロッパで評価してもらえるか、オーストリア公使館員シーボルトにより推薦されたお雇い外国人ワグネルに、ヨーロッパ目線での指導を仰いだ結果でした。ちなみにハインリヒ・シーボルトは、シーボルト事件で有名なフィリップ・シーボルトの次男です。 |
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日本の展示品は政府も嬉しい誤算と言えるほど話題を呼び、感動を持って受け入れられました。 扇子や団扇他、民芸品や伊万里焼などが飛ぶように売れました。期間内に扇子が1日に3000本も売れた日もあり、値上げしてもその勢いは止まらなかったそうです。 会期終了後、出展品の一部は寄付・売却されました。屋外展示物の建物や庭園設備もイギリスのアレクサンドラ・パーク社が購入し、ヨーロッパ各地に広まっていきました。これを機に、日本国内でも半官半民の輸出会社が設立され、ヨーロッパでジャポニズムが大きく花開いていくのです。 |
1873年のアメリカの雑誌に掲載された記事 |
サミュエル・ビングの活躍
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サミュエル・ビングはパリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人で、日本の美術・芸術を欧米諸国に広く紹介し、アール・ヌーヴォーの発展に大きく寄与したことで有名な人物です。 普仏戦争(1870-1871年)後に日本美術を扱う貿易商となり、1870年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功しました。美術関係者を招いてコレクションを披露したり、各国の美術館に日本美術を納品するなど、当時の美術・芸術界に大きな影響を与えました。ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店と言われています。 |
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ビングは1888年から1891年まで、日本美術を広く伝えるため『芸術の日本』(Le Japon ARTISTIQUE)という大判の美術月刊誌を40冊発行し、展覧会も企画しました。毎号、数多くの美しい浮世絵で彩られたこの雑誌は、各界の識者による寄稿もあり、フランス語だけでなく英語、ドイツ語でも発行され、ヨーロッパにおける日本文化の理解に大きく貢献しました。上にいくつか表紙を並べてみましたが、今の私たちの感覚から見ても納得の美しさですね。 |
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アール・ヌーヴォーは19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動ですが、この言葉が最初に登場したのが1894年のベルギーの美術雑誌『現代美術』(L'Art moerne)でした。 この言葉がフランスに伝わり、パリでビングが『アール・ヌーヴォーの店』(Maison de l'Art Nouveau)をオープンしたのが1895年です。 |
ビングの『アール・ヌーヴォーの店』は、日本美術だけでなくルネ・ラリックやティファニーなど、同時代の作家の工芸品も多数扱い、アール・ヌーヴォーの発源地として大いに繁盛しました。こういう背景を理解すると、アール・ヌーヴォーに日本美術が影響している作品が存在することも、納得して頂きやすいのではないでしょうか。 |
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プリカジュール・エナメルという技法と、優美な曲線のデザインから、アール・ヌーヴォーのジュエリーと分かります。 花を使わず、2枚の葉と実だけの造形。アール・ヌーヴォーのいかにもカラフルな表現とは対局の抑えた色彩。エナメルの技術がないのではなく、グラデーションの表現は実に見事なものです。極限まで抑えた美。実にグッと来るではありませんか♪♪ |
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斜めから見ると、程よい立体感を出した美しい造形が良く分かります。 葉の縁に控えめにあしらわれたダイヤモンドが、角度によって、まるで葉についた小さな水滴のように時々キラリと光るのもまた素晴らしいです♪ |
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このプリカジュール・エナメルが特に素晴らしいのは、光に透かさなくてもエナメルの色彩が美しいことです。右がバックライトを当てた状態です。左の黒背景でも美しいことからお解り頂ける通り、実際に着けた時、様々な色の洋服の上で映えるペンダントなのです!!♪もちろん肌の上でも美しいです♪ |
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天然真珠も、意識的に使ったと思われる独特の形のボタンパールなどが使われています。 アートを意識したアール・ヌーヴォーのジュエリーらしい魅力です!!♪ |
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ダイヤモンドをあしらった、葉の縁のシルバーには、まるでプラチナのジュエリーのような繊細精緻なミルが打たれています。このペンダントの作りが如何に良い物なのかの証と言えます。 |
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下に下がった3個の真珠も、それぞれが前後に揺れる構造になっています。しかも3本の足は、微妙に形を変えて作られた凝ったものです。 |
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撮影に使っているような、作りが良いアンティークのゴールドチェーンをご希望の方には別売でお付け致します。いくつかご用意がございますので、ご希望の方には価格等をお知らせ致します(チェーンのみの販売はしておりません)。現代の18ctゴールドチェーンをご希望の方には実費でお付け致します。高級シルクコードをご希望の方にはサービスでお付け致します。 |
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着物を着られる方には、ぜひ根付としても使って頂きたい、雰囲気あるペンダントです♪ |
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