No.00183 Black Beauty |
黒馬の毛を編んで作られたチェーンと、ジェットのドングリによる漆黒の美しいネックレスです。これぞ稀少なミュージアムピース♪ |
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『Black Beauty』 艶のある黒馬の美しい毛で編まれたチェーンが素晴らしいネックレスです。ウィットビージェットで作られたドングリとの漆黒のコラボレーションが美しく、そのデザイン性の高さと相まって、時代を超えたセンスの良さを感じるミュージアムピースです!♪ |
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ホースヘアーを使った珍しいチェーン
43年間で初めてとなる、黒馬の毛を編んだチェーンのネックレスです!♪ 毛を編んでジュエリーを作る技術の高さは『プティ・バッグ』でも触れているので、イギリスでこれだけのチェーンを作れてもあまり違和感はないかもしれません。 でも、馬の毛という素材は意外だった方もいらっしゃるでしょうか。 |
ホースヘアーの利用
ホースヘアーはブラシの毛や擦弦楽器の弓など、道具や楽器として身近にされている方もいらっしゃるでしょう。冠婚葬祭用の高級バッグとして現代日本でもホースヘアーは有名ですし、各国の王室や日本の皇室でも使用されているので、女性にとっては高級素材として違和感ない方も多いかもしれませんね。 あらゆる箇所が使用できる馬の毛ですが、ホースヘアーで布を織る場合は最大90cmくらいある鬣や尻尾を使います。縦糸には綿や麻、絹を使い、横糸としてホースヘアーを使って織っていきます。 |
ホースヘアーの歴史は古く、8世紀には既にスペインで繊維として使用されていたとも言われています。 19世紀には特にホースヘアークロスの需要が拡大し、一大産業となりました。ロンドンの西にあるキャッスルキャリーでも、ジョン・ボイドが設立した工場は手織りの生地を織るため、200人もの職人を雇っていたそうです。 |
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キャッスルキャリーの織物工場(19世紀) |
イギリス人にとっての馬
ホースヘアーを使った製品の人気の理由には使い勝手の良さもありますが、このネックレスが作られたイギリスでは特に馬に対して特別な思いがあります。 |
第5代ロバート・アンストラッチャー男爵(1834-1886年) | ご存じの方も多いと思いますが、イギリス人にとって馬は高貴な生き物であり、貴族の象徴です。 貴族が遊ぶ際にも、移動などの際にもいつも優れた愛馬と一緒です。 |
車が使用される以前のロンドンバス(1890年頃) |
イギリス人にとっては貴族の愛馬としてだけでなく、輸送や農業などにも欠かせない存在でした。19世紀後半のイギリスはモータリゼーション以前、蒸気機関車こそ登場していましたが、交通手段としては馬が主流だった時代でした。イギリス人にとって、馬はとても身近な存在だったのです。 |
『黒馬物語』(Black Beauty)1877年に出版されたイギリスの女流作家アンナ・シュウエルの小説の映画のポスター(1921年) |
『黒馬物語』はこれまでで最も成功した動物物語と言われ、全世界で3000万部以上の売り上げを誇り、映画化などもされていることからご存じの方も多いと思います。 主人公の黒馬ブラック・ビューティがイギリスの牧場で生まれ育った気楽な仔馬時代に始まり、ロンドンでの辛い馬車馬生活を経て、田舎の牧場で静かな老後を送る主人公の自叙伝的な小説です。 動物の立場から見た世界を、主人公の馬による一人称形式で語るという、文学的にも新たな手法が用いられた斬新な本で、後世にも多くの影響を与えています。 馬には感情がある、馬は考えて行動するという認識がなければこの手法は成立しません。斬新な手法が生み出された背景には、やはり馬独特の性質と人との関わり合いがあったからでしょう。 |
馬の持つ性質
馬は動物の中でもかなり知能が高い部類で、長期記憶が非常に高いことでも知られています。 2018年6月に発表された北海道大学による研究で、馬は人の表情と声を関連づけて感情を読み取ることも分かってきています。 乗り手(騎手)が初心者だったり下手な者だと察知うすると、乗り手を馬鹿にしたようにからかったり、わざと落馬させようとしたりする行動をとることもあるのは有名ですね。一方で、大切にしてくれたりいつも可愛がってくれる人間には絶大な信頼を寄せて従順な態度をとり、生涯その人間の顔は忘れないとも言われています。 誰にでもただ従順なのではなく、このような高潔さという魅力が『貴族の象徴』とも言われる所以です。 |
日本の貴族と馬の話
西竹一(バロン西)と愛馬ウラヌス(1932年) | 国内でも乗馬はできるので、馬に触れ合ったことがある方ならば何となく分かるとは思いますが、より貴族と馬のカッコ良さが分かるエピソードがあるのでご紹介しておきたいと思います。 ヘリテイジでご紹介しているようなヨーロッパの王侯貴族のためのアンティークジュエリーが好きな方、日本人にはぜひ知っていていただきたい人物、それが西竹一男爵(1902-1945年)です。 西は1932年ロサンゼルスオリンピック馬術大賞典障害飛越個人競技の金メダリストです。 2016年のリオネジャネイロオリンピックまでで、馬術競技においてメダルを獲得した日本人は他にいない唯一無二の存在です。 この西は爵位を持つ日本のリアル貴族で、しかもその行動から、欧米人からもイギリス紳士のようだと称され「バロン西」と呼ばれるほどカッコ良い人物でした。 |
西竹一の出自
西徳二郎(1847-1912年) | 西竹一は、薩摩藩出身の華族(男爵)西徳二郎の三男として生まれました。 徳二郎は元々は下級武士でしたが、明治維新後に選ばれてロシアのペテルブルグ大に留学し、卒業の外交功績を認められて爵位(男爵)を授与された真のエリートです。 竹一の母は正妻ではありませんでしたが、徳二郎にとっては晩年の子だったので可愛がられたようです。正妻、後妻との間に生まれた長男と次男は早世したため、「竹のようにまっすぐ健やかに育ってほしい」という思いも込めて、長男のように「竹一」と命名されました。 ちなみに竹一は175cmで当時の日本人としては体格が良く、しかもハンサムだったそうですが、Genが「本妻の子じゃないから顔が良かった(笑)」と、ちょっとけしからんことを言っていました(でもなるほど。笑) |
西太后(1835-1908年) | 父・徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱の処理に当たった人物でもありました。 この処理の際、西太后から厚い信頼を得てシナ茶(中国茶)の専売権を与えられ、巨万の富を手にしたと言われています。 後に西家の財産が一般公開された時には250万円という数字だったそうです。百万長者数十人分にも相当するような桁違いの資産家だったようです。 |
父・徳二郎は1912年に亡くなるのですが、その葬儀の参列者は明治の元勲が揃った錚々たる顔ぶれでした。 首相の西園寺公望公爵以下、帝王とも呼ばれた山県有朋、松方正義、桂太郎、井上馨、大山巌、板垣退助、斉藤実、原敬、牧野伸顕、東郷平八郎、乃木希典、いずれの名前も聞き覚えのある名ばかりですね。 この大葬儀の喪主が当時10歳の竹一少年だったのです。 麻布櫻田町の自宅とその周辺1万坪(3万3000平方メートル)という広大な土地と、50軒の貸家、熱海と鎌倉の別荘、莫大な各種株券という巨大な財産を引き継ぎました。 |
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西園寺公望(1849-1940年) |
西竹一の人となり
当初は父の後を継いで外交官になると思われていた西ですが、府立一中(現日比谷高校)在学中に突如陸軍幼年学校に転籍し、軍人への道を進むことになります。 幼年学校3年生時に馬と出会い、馬術にのめり込みます。 西の性格は至ってこう鷹揚、天真爛漫、サッパリして明るかったと生前に交流があった人たち皆が証言しています。 莫大な資産を趣味に注ぎ込み、14、5歳の頃にはカメラに凝って自宅に暗室を作るほどで、軍人になってからはバイク(ハーレーダビッドソン)、モーターボート、自動車など当時の日本では考えられないような超高級な乗り物を購入し、スピードとスリルに打ち込む生活をしていました。 |
愛馬による車越え "Imperial Baron Nishi" ©キノトール(2006年6月2日)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
自動車は少尉候補生の頃、既にアメリカ・リバティー社製を乗り回し、その後もクライスラー、リンカーンのオープンカーという派手さでした。 左は西が時折披露していた、愛馬による車越えです。一見楽々とやっているように見えますが、一歩間違えれば人馬転倒の命をさらすような危険な荒技ですし、高価なクライスラーが駄目になる可能性もあります。万事派手好みでショーアップが大好きだったという人物像が現れていますが、それだけ技能への自信と度胸があったからこそですね。 |
バロン西と妻子(1936年) | 西をよく知る人からは、スタイルも精神も大変にオシャレな人物だったという証言も残っています。 帝国軍人らしい丸坊主は頑なに拒み、髪型は当時の流行であるヴァレンティノ風に7:3にピッタリとなでつけていました。 軍服もヨーロッパで特別誂えの仕立てで、軍帽も自分好みに横に大きく張り出したデザインで『西式軍帽』と言ったそうです。 |
馬具も全て特別製でした。フランスのエルメスの馬具に、エルメスの特注のブーツを履き、拍車もフランスやイギリスの特別製でした。 やったことがないと実感を持って理解しにくいですが、特別製をオーダーするのは実はとても難しいことです。一見何の苦もないようなことだけれど、実は大変難しいことをさりげなくやってしまうという、ダンディズムを体現したような男性だったそうです。 ちなみに西が特注したエルメスのブーツは、秩父宮記念スポーツ博物館で見ることができるようです。 |
愛馬ウラヌスとの出会い
西竹一(バロン西)と愛馬ウラヌス(1932年) | 西と愛馬ウラヌスとの出会いは1930年でした。 イタリア人でも乗りこなせないとんでもない馬がいるという話を聞き、西はすぐさまイタリアに向かいます。 大柄で荒々しい奔馬は、イタリア陸軍の騎兵中尉が所有していましたが、あまりのじゃじゃ馬ぶりに持て余していたそうです。 一目で惚れ込んだ西でしたが、陸軍からは予算が下りず、相当な高額ながらも自費でポンと購入してしまいました。 |
天王星(ウラヌス) | イタリアとも、フランス生まれとも言われるこの馬は、体高181cmもある稀に見る大きな馬でした。額に星印もあったため、天王星を指す『ウラヌス』と名付けられました。 素晴らしい馬だったものの気性が激しく、西でもなかなか言う通りに調教できなかったそうです。それでも西とウラヌスのコンビはヨーロッパ各地で好成績をおさめていました。 |
第10回ロサンゼルス・オリンピックへの出場(1932年)
馬ウラヌスとの出会いから2年後、西は1932年のロス五輪に出場します。 西が出場したのは「大賞典障害飛越競技」(Grand Prix des Nations グランプリ・デ・ナシオン)という閉会式会場で開催される最終種目で、「五輪の華」と讃えられる競技でした。 大賞典障害飛越競技は馬術競技の中でも最も高度で、かつ最も華やかなものとされていました。その名誉に相応しく、オリンピックの掉尾を飾る競技としてメインスタジアムで行われるのが恒例でした。 1952年のヘルシンキオリンピックで軍人以外の男子及び女子の参加が認められるまでは、軍人男子のみが参加する競技でした。 この競技(国別と個人の2つで争う)の勝者こそ真のオリンピック勝者という意味合いを持ち、特に敬意が払われている、国の威信がかかった競技だったとも言えます。 |
大荒れの大会
出場したのはアメリカを始め4カ国、12組(1組は事前練習の負傷により棄権)の人馬でした。 コースは全長1,050m、最高1.6mの大小19の障害(柵と水濠)が屈指の難度に配列され、大荒れの試合展開となりました。拒止による失格や落馬が続出、各国のエリートが集まる中、完走できただけでも凄いという状況でした。8組目までが競技を終えた時点で、既に団体戦が成立しなくなってしまったほどです。 10組目、最も期待されていた地元アメリカのエース、チェンバレン少佐が素晴らしい成績でゴールイン、誰の目にも優勝確実と映りました。西を含めた残る2組は、前評判で格落ちとされていたからです。 |
1.6mの障害を越える西とウラヌス | そんな雰囲気の中、11組目として西とウラヌスが登場します。ウラヌスの巨体に観衆から感嘆のざわめきが起こりました。 第1障害、流れるように跳び越えました。その後もウラヌス独特の大きな歩調で力強くクリアしていきます。あくまでも正確な騎坐、巧妙な指導、堂に入った超越でした。 |
最難関の障害は自らウラヌスが馬体をよじり、クリアしました。ゴールインすると観衆は総立ちで万雷の拍手が湧き起こりました。 棄権を除いて完走は11組中5組、慎重な審査の後、西の優勝が公式発表されました。 再びウラヌスに騎乗した西が、2位アメリカのチェンバレン少佐と3位スウェーデンのローゼン中尉を従えて表彰台に立ちました。ロサンゼルスのメインスタジアムには大日章旗がメインポールに掲げられ、満場起立する中500人の大バンドが奏でる『君が代』が響き渡ったのです。 |
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上の写真を日本人画家が描いたもの |
バロン・ニシ
新聞記者がつめかけると、英語が堪能な西は「We won.」とコメントしました。愛馬ウラヌスが機転をきかせて障害を突破した、自分だけの力で勝ったのではなく僕たち2人が勝ったという意味です。 圧倒的な勝利、アメリカ人にはない憧れの貴族の爵位を持つ西の貴族らしい立ち居振る舞いは、世界の英雄として世界中に「バロン・ニシ」の名で駆け巡りました。英語版のwikipediaでも、ロス五輪を検索すると西とウラヌスの写真が出てくるほど世界でも認められている人物なのです。 この貴族らしい振る舞いから、ロス市長からは名誉市民の称号が贈られ、ロス郊外に建設する競馬場の起工式にも招かれて最上段に座らされ、競馬会長から終身名誉会員の推薦状と感謝状が贈られるほど歓迎されました。 アメリカで開催されたオリンピックの花形競技で、アメリカの少佐を破っての優勝、しかもこの時代は特にまだまだ黄色人種は被差別の対象というイメージしかないので意外でした。 |
アメリカでも大人気だったバロン・ニシ
西とウラヌス柄の子供用の着物(1932年) | 日本国民の英雄であり、子供たちの憧れの的となるのは分かりやすいですが、欧米でもバロン西が人気があったのには西個人が持っていた魅力があります。 |
ベルリン・オリンピックが開催されていたドイツでヒトラー・ユーゲントの団員と交換した帽子を被る西男爵(ドイツ 1936年) | 爵位を持っているだけでも一般の外国人、特にアメリカ人からは憧れの対象になります。 西はそれだけでなく英語を流暢に話し、外国人に臆さず積極的に交流する社交的な性格でした。 |
このため、現地入りしていたロサンゼルスの社交界の中でも目立つ存在でした。 175cmの日本人としては長身のスタイルに当時最先端のおしゃれな髪型をし、なおかつ当時アメリカでも珍しかったラジオ付きの高級12気筒スポーツカー、パッカード・コンバーチブルを現地で購入し、オリジナルでゴールドの塗装をして、毎日馬場や社交界のパーティに出かけました。 西がすごいのは自分だけ良ければ良いのではなく、日本馬術チーム全員に自費でタキシードを仕立て、皆を引き連れて夜な夜なパーティに出かけていたことです。日本人らしからぬ社交性とお金の使い方は、当時のアメリカ人の日本人観を変えたほどだったそうです。カッコいい!! |
映画会社UA創立メンバーの俳優ダグラス・フェアバンクス&メアリー・ピックフォード夫妻、 チャールズ・チャップリン、監督D・W・グリフィス(1919年) |
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西が一目置かれたのは当時の有名スター、ダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻との交友関係もありました。いずれもハリウッドを代表するスターです。 他にも映画スター、チャールズ・チャップリンやスペンサー・トレイシーらとも交友があって話題となりましたが、このフェアバンクス夫妻と出会ったのはは1930年、ウラヌスに出会うためのヨーロッパへの旅路でのことでした。まだメダリストではなく、欧米では無名だった頃です。大西洋航路の船中で出会い、たちまち意気投合しました。 フランス航路のエレガントな一等船客用甲板を貸し切り、ロープを張ってフェアバンクスと2人で素っ裸でターザンごっこをして遊んだりしたそうです。日本人らしくないですね〜♪ この後ウラヌスと出会い、金メダルを獲り、現地での金メダル受賞パーティでフェアバンクス夫妻と再会し、優勝を祝うと共に友情を温めたのでした。社交界や在米日本人・日系人からの人気は高く、ロサンゼルス市の名誉市民にも選ばれています。 |
バロン西と妻子(1936年) | こんな西なのでオリンピック後はパーティ三昧、そこでは当然モテモテで、「俺はもてる。」と夫人に手紙を送ったほどだそうです(笑) そんな手紙を送られた奥様は左の通りめちゃくちゃ美人です。武子夫人ご自身も川村伯爵家のご令嬢で、当時も評判の美人だったそうです。 西は喧嘩っ早いながら酔っても喧嘩も強く、馬術は天才と称されるほど、そして有り余る財力と類い稀なるオシャレのセンスを持つ男爵、もてないわけがないですが、それでいて素敵な奥様がいるとは国籍関係なく皆が憧れるのは当然ですね。 |
バロン西とウラヌスの最期
馬事公苑周辺の空撮画像(1989年) ©National Land Image Information (Color Aerial Photographs), Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism |
そんな西とウラヌスにも最後の別れの時がやってきます。 ウラヌスは余生を馬事公苑で過ごしていました。 1944年、西陸軍大佐は激戦地の硫黄島への出撃が決まり、ウラヌスに会いに行きました。 |
ウラヌスは西の足音を聞いて狂喜し、馬が最大の愛情を示す態度である首を寄せて愛咬をしてきたそうです。西以外、誰も乗ることができない馬でした。 |
西竹一(バロン西)と愛馬ウラヌス(どちらも1945年没) | 西はエルメスのブーツで硫黄島に向かいました。切り取ったウラヌスの鬣は、戦場でも肌身から話しませんでした。 1945年に西は硫黄島で消息不明となり、正確な死亡日時や場所は分かっていません。そんな西の後を追うかのように、ウラヌスも1945年の3月28日に亡くなっています。 日本人の中では特異な存在だったため、オリンピック後は軍の中でも疎まれ、左遷されて硫黄島に出撃することになったようです。西は日本の土着的風習が理解できず、良くも悪くも男爵家育ちの自然児でした。豪快な人柄と称されながらもデリケートで、でもそういう面を人に見せることはなかったとも言われています。 生前、「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた。」とも語っていたそうです。 |
人間にとって、馬がどのような存在たりえるかお分かりいただけたことと思います。 この黒馬の毛で編んだチェーン&ジェットのネックレスは、ミュージアムピースと言えるほど稀少価値の高い作品です。 |
白馬の毛だと、シードパールのアンティークジュエリーで使われていたりします。 |
英国王室御用達 W.G.Diclanson&Sons社 ヴィクトリア時代の天然真珠 ネックレス イギリス 1850年頃 天然真珠、マザーオブパール(真珠母貝) SOLD |
これは以前ルネサンスで販売した天然真珠のネックレスです。真珠は白馬の毛で固定してありました。 経年劣化があり、接着剤で無理矢理固定した酷い修理が施されてしまっていた物を、名人X師に頼んで特殊な絹糸で補修してもらったものです。このような修復はGenにとってもX師にとっても初めてのものだったそうですが、美しく修復はできたものの、手間と時間がかかりすぎてどちらも採算が合わなかったそうです。 |
現代では石の価値ばかり気にする人が多すぎるのですが、実際は人件費の観点からも、細工が優れたジュエリーは作りたくても作ることはできないのです。こういう美しいジュエリーは取り扱い気持ちはあるものの、今後販売できることは残念ながらないと思います。バロン西のようなパトロンがいたらトライしてみたいですね〜(笑) |
天然真珠のジュエリーに使われるホースヘアーは真珠を固定するためのただの材料ですが、このネックレスではチェーンの素材としてホースヘアーという素材を全面に打ち出して使われていることに面白みがあります。 |
一つ一つの輪が黒馬の毛で編まれていますが、裏方ではなく主役なので特に上質な毛が使用されており、太くて艶のある糸はまるで黒いテグスのようでさえあります。 |
【参考】現代のホースヘアを使ったブレスレット |
欧米では今でもこのようなホースヘアーのアクセサリーが作られており、ホースヘアーがラッキーアイテムなどとしても人気の証拠でもあるのですが、ただの三つ編みという味気なさはちょっと戴けないですね。 |
これだけの繊細極まりない難しい作業ができたのは、人間の髪の毛も含めて毛を編むことが普通で、当時は高い技術を持った職人がいたからなのだと考えられます。拡大しても緻密で乱れのない編み具合には思わずため息が出るほどです。人間の髪の場合は細すぎてこうはならないので、ホースヘアーならではのチェーンですね。 |
ウィットビージェットを彫刻した二つのドングリは、大きさも形も変えた立体的な作りなのが素晴らしいです。 チェーンの長さを少しずらして、着けたときによりオシャレに見えるような気遣いが良いですね。 |
ジェット特有の漆黒の色と艶のあるドングリと、上質な黒馬の毛が持つ艶のあるチェーンという、漆黒のコラボレーションが時代を超えたセンスと美しさを感じさせます♪ |
若いドングリと、十分に成長したドングリの特徴が見事に分けて表現されています。 |
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このネックレスは超繊細に編んであるにも関わらず、比較的状態は良好なのです。毎日気軽に使うのは無理ですが、コレクションとして持っていて、丁寧に使えば時々ぐらいであれば十分に楽しく使えると思います。 便利なことに、チェーンはどの輪にも引輪を通すことができるため、好きな長さでお使いいただくことが可能です。一番長い状態で右上のようになります |
ギリギリまで上に詰めて使う場合はこのような雰囲気にもできます。首に巻けるチェーンの長さが62cmほどあるので、首の細い方であれば2重に巻くことも可能です。きっとブラックビューティのような、気高く美しい黒馬で作ったのでしょうね♪ |