No.00201 グランルー・ド・パリ -パリの観覧車- |
『グランルー・ド・パリ』 暗い色味だったとしても十分に高額な、産出量が極めて少ないルビーに於いて、濃く明るい色の鮮やかなルビーは女性の肌色を美しく見せてくれる絶対にオススメの宝石です♪ |
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ベルエポックのフランス製のリング
←フランスのホールマーク(イーグルヘッド) プラチナにゴールドバックのエドワーディアンと同じスタイルのリングですが、シャンクにイーグルヘッドのホールマークがあるので、フランスのベルエポックのリングであることが分かります。 |
ベル・エポック -ヨーロッパの良き時代-
ベルエポックの精神を表現したポスター(1894年)ジュール・シェレ | ベル・エポックはフランス語で「良き時代」を意味し、1871年の敗戦により終結した普仏戦争からの復興を遂げた19世紀末から、苛烈を極めた第一次世界大戦が勃発するまでの期間を指します。 この期間はフランスで戦争がなく、他国に遅れをなしていた産業革命が進んで都市の消費文化が栄えるようになった、パリが繁栄していた華やかな時代です。 左はベルエポックの精神を表現したポスターです。華やかに着飾った女性がワイン片手にとっても楽しそうですね。 ベルエポックはフランス国内だけでなくヨーロッパ文化全体を表現する場合もあるのですが、このベル・エポックという言葉に対比してレ・ザネ・フォルという表現があります。アメリカ合衆国ではジャズ・エイジと呼ばれる1920年代のアメリカの狂乱の時代のことですが、いかにベルエポックがヨーロッパで華やかな時代だったかがご想像いただけると思います。 |
世界最初の百貨店と言われる『ボン・マルシェ百貨店』 "Bon marche" ©Arnaud Malon from Paris, France(2 April 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
都市の消費文化の牽引役となったのが、上のような世界最初の百貨店ボン・マルシェなどを始めとする百貨店です。「フランスの老舗百貨店ボン・マルシェ」なんて聞くと、フランス語が分からない日本人はおしゃれで高級そうなんて感じられる方もいると思いますが、ボン・マルシェは「安い」という意味です。 高級品を扱う店ではなく、大衆相手の百貨店でした。質が良くない物を安値で大量に売り捌く、バーゲンセールなどのシステムを確立したのもこの百貨店です。 |
ボン・マルシェ百貨店(1887年) |
派手なショーウィンドウと大安売りの季節物で客を呼び込む手法は中産階級のご婦人方に大ヒットし、巨大で立派な店舗には毎日たくさんの客が押し寄せました。 |
エミール・ゾラ(1840-1902年) | この時代の自然主義作家エミール・ゾラはボン・マルシェ百貨店やルーブル百貨店を始めとするパリの様々なデパートを綿密に取材し、『淑女の娯しみ』や『ボヌール・デ・ダム百貨店』(1883年)などの小説を執筆しています。 作品の中で百貨店に客が押し寄せる様子を「消費信者のための消費の大伽藍」と表現しています。 19世紀後半には百貨店と窃盗症を関連づける医学所見がいくつも発表されており、百貨店の手に届く所に魅力的な商品を並べ、方向感覚を失わせるような設計は、女性の理性を麻痺させるように作られていると指摘されていました。 ゾラの小説にも買い物依存症や窃盗症に転落していくご婦人方が描写されています。 |
『ボヌール・デ・ダム百貨店』(エミール・ゾラ著 1883年発行) | 『ボヌール・デ・ダム百貨店』は一応、身分違いの恋愛小説です。 |
1906年版『ボヌール・デ・ダム百貨店』の挿絵、p377(エミール・ゾラ著 1883年発行) | しかしながら、実際にはむしろ豪華な店内に所狭しと並べられた大量の魅惑的な商品と、現代の小売店の商法にも通じるバーゲンなどの近代的商法によって婦人客を食い物にし、容赦ない価格競争によって近隣の老舗商店を押し潰しながら発展していく、消費社会の権化とも呼ぶべき『百貨店』という存在の実態を克明に描いていることが高く評価されています。 |
ルーブル百貨店(1877年) | 興味がある方は調べればすぐに分かるはずですが、日本は百貨店業界によって高級感を植え付けられているだけです。 百貨店に真に良い物はありません。一見高そうに見える物を、高い値段で手に入れられるだけの場所です。そのためのノウハウだけは確立されています。 |
エミール・ゾラの肖像(マネ 1866年) | ゾラはこのマネの作品でも見たことがある方は多いのではないでしょうか。 ゾラも日本美術を集めていたのでしょうね、屏風や浮世絵が一緒に描かれています。 百貨店がもてはやされたという時代においても、こういう知識階層やお金持ちは、分かりやすい手法で簡単に踊らされて食い物にされる中産階級層を冷静な目で見ていたということです。 ちなみにヨーロッパでは良いものを買いたい時は専門店に行くのだそうです。良いものでなくても良かったり、どこに行けば良いのかすら分からない人が行くのが百貨店なのだそうです。 |
ヘリテイジは専門店です。貴重なアンティークジュエリーなので、価値をきちんと理解できる方にだけ次の持ち主になっていただきたいからです。 説明できない販売員に単なるモノとして売らせるのは嫌ですし、中抜きされる百貨店やECサイトでは適正価格で売ることもできないので、このようにひっそりとやっています。 それなのにこの店を見つけ出して下さった皆様は凄いです!(笑) |
ベルエポックの高級品
『フレンチ・エレガンス』 ゴールド スーパー ロングチェーン フランス 1890年頃 SOLD |
『シンプル・フレンチ』 マットゴールド ピアス フランス 1900年頃 SOLD |
ベルエポックにはヴィクトリアン後期のイギリス同様、中産階級向けの低レベルなジュエリーと、上のような高度な手仕事が施された高級なジュエリーの両方が存在します。 |
ベルエポックのフランス製品を買いまくった世界最高の顧客が、実はあのエドワーディアンのエドワード7世です。 ダーティ・バーティ、イギリス王はフランス製なんて風刺されてしまうくらいフランスで買い物しまくっています。 現代でもダンディと言えばこの人と言われるくらいセンスの良さでも有名ですが、真面目過ぎて虐待同然とも言える厳しい教育をしたヴィクトリア女王夫妻に反発した面もあったようです。 |
フランスでたくさんのジュエリーを買いまくり、「宝石王子」なんてあだ名が付いたこともあるくらいです。 両親に反発しつつも生来頭も人柄も優れていたらしく、ドイツ語やフランス語にも秀でており、20世紀初頭の帝国主義によるヨーロッパの緊張関係の中でも、エドワード7世のおかげで戦争が起こらなかったと評価されています。こちらには別のあだ名がついており、「ピースメーカー」です。 そんなバーティの1852年の初めての国外訪問ではナポレオン3世に会い、当時子供がいなかったナポレオン3世から大変可愛がられ、馬車の中でバーティは「あなたの子供だったら良かった」ともらしたというエピソードも残っています。 |
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イギリス国王&インド皇帝エドワード7世(1841-1910年)王太子時代 |
相当な美人の奥様がいたのに、愛人は101人いたとも言われています。 ベルエポックを代表する大女優と言われるサラ・ベルナールとも浮き名を流しています。 当時の女優は娼婦をやっていたことも多く、サラ・ベルナールも17歳の売れない女優の時代から娼婦をしていたとそうですし、売れた後でも稼ぎが良いからと高級娼婦をやっていた時代もありました。そういう時代だったのでしょう。 そんな感じで、バーティは大好きなフランスにはしょっちゅう通ってお買い物三昧、遊び三昧していたようです。 |
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女優サラ・ベルナール(1844-1923年) |
産業革命が進んだこと、ヴィクトリア女王時代の戦果による植民地の拡大もあり、バーティが遊んだ時期は大英帝国最盛期でした。 経済規模は最大でフランスの7倍あったと言われています。 フランスでも物はたくさん生産されていましたが、それを買うのはお金持ちイギリスだったとも言えるのです。 |
こういう歴史的背景を知らないと、フランスジュエリーはほとんどフランスにあると思われそうですが、特にこの時代はイギリス人が豊富な財力を持ち、ファッションリーダーであるバーティの存在もあってたくさん高級品がイギリスに来ています。 実はこのリングもイギリスから出てきました。 |
時代を象徴するプラチナにゴールドバックの作り
このリングの作りはイギリスにおけるエドワーディアンと同様に、プラチナが非常に高価だった時代を象徴するプラチナにゴールドバックの作りです。 プラチナがジュエリーの一般市場に出てきたのは1905年頃からです。 |
『PRO PATRIA(祖国のために)』 プリカジュール・エナメル ペンダント フランス 1914年〜1915年 SOLD |
1910年に世界のピースメーカーだったエドワード7世亡き後、ヨーロッパ各国の野心的な動きを止める役割を果たせる者がおらず、1914年には第一次世界大戦が勃発してしまいます。 その後のフランスの苛烈を極めた状況は『PRO PATRIA』でもご紹介した通りです。 戦争直後は祖国を思ってこのような美しいペンダントも作る余裕はあったのでしょう。でも、実際に戦争が進むと美しいジュエリーを作る余裕も無くなっていくはずです。 その観点から、今回のリングは1905年から1914年までの間に作られ、第一次世界大戦以前にイギリスに渡っていたからこそ存在しているのだと推測しています。 一方で、『PRO PATRIA』はフランス人のために作られ、当時の人口の15%が戦死または負傷したという熾烈な状況を持ち主と共に生き残ってきたのです。 人間ではなくとも、特別に作られたアンティークジュエリーは人間同様に様々な人生を巡るのものなのです。それこそ人間では到底考えられない、長い長い時間の道のりを歩んで・・ |
ベルエポックの頂点
第5回パリ万国博覧会(1900年) |
産業革命が進み、都市の消費文化が繁栄を極めたベルエポックの頂点と言われるのが、1900年に開催されたパリ万国博覧会です。 |
第5回パリ万国博覧会のパノラマビュー(1900年) |
今20代前半までの方だと厳しいかもしれませんが、20世紀の世紀末と新世紀の到来時の独特の雰囲気は体感された方も多いと思います。このパリ万博も19世紀最後の年、世紀末を飾る国際博覧会、かつ新世紀の幕開けを祝う意味もあり、各国力を入れていますし過去最大の4800万人を動員する大規模なものとなりました。その目玉の1つが、エッフェル塔の左方向に見える大観覧車です。 |
グラン・ルー・ド・パリの着色写真(1920年解体) |
このパリの大観覧車、フランス語でグラン・ルー・ド・パリは、イギリスの退役軍人ウォルター・B.バセット(1864-1907年)の企画によりパリ万博の目玉として建設されました。当時の世界最大の観覧車で、直径93m、高さは約96mありました。大きいですね〜。これに乗れば優雅にパリの遠景を見渡せそうです。 |
偶然だとは思いますが、このフランスで作られたベルエポックのリングが、ベルエポックを象徴する万博で目玉となった大観覧車にも見えてくるのです。 年代軸や地理的なことを考えると、観覧車がモチーフのインスピレーションの元となっていてもおかしくはありません。 単に可愛いレディが付けていたと想像するだけよりも、これくらい想像できる方が楽しくないですか?♪ |
個性ある上質なダイヤモンドの使い方
このリングの主役は間違いなくメインストーンのルビーですが、その前にダイヤモンドの特徴的な使い方を見ていきましょう。 |
最初にこのリングを見たとき、ちょっとデザインが変わっている印象を持ちました。扱う数はイギリスのアンティークジュエリーの方が圧倒的に多く、イギリスのデザインを見慣れているせいだったようです。 イギリスのこの時代、いわゆるエドワーディアンのリングの場合、脇石のダイヤモンドは同じ大きさの石だけのリングが多いのです。しかしながらこのリングは上下に少し大きなオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドでポイントを作り、他の脇石にはダイナミックな輝きを放つラフなカットのローズカット・ダイヤモンドがセットされています。 イギリスのエドワーディアン同様に洗練されたイメージがありながらも、クラシックで単調な優等生タイプのイギリスらしいデザインとは微妙に異なり、フランスらしい気の利いた雰囲気を感じるのです。後でイーグルヘッドのホールマークを見て納得しました。 |
いずれのダイヤモンドもクリアで照りの強い上質な石ながら、この時代らしいラフなカットです。 オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドもそうですが、特にローズカット・ダイヤモンドのカットは100年前という時代をはっきり感じさせるようなカットです。
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ルネサンス ポイントカット・ダイヤモンド リング |
世界一硬い宝石であるダイヤモンドのジュエリーの歴史は、カットの進化と密接に関連しています。 15世紀後期になって、ようやくこのリングのようなポイントカットができるようになって以降、長い間ダイヤモンドの結晶の劈開性(へきかいせい)を利用してカットされていました。 |
1891年に電気駆動のモーター(ダイヤモンド・ソウ)によるカッティングが発明されると、ようやく劈開によるカットがしにくい方向にも正確にカットできるようになりました。 それでも機械の普及にはタイムラグがあり、イギリスほど潤沢に資金があるわけではなかったでしょうから、フランスはダイヤモンド・ソウが普及するまでには時間が掛かったのだと思います。1914年からの第一次世界大戦もあって、宝飾業界もイギリスとは異なる状況だったはずです。 |
エドワーディアンとベルエポックはどちらもプラチナにゴールドバックで、製造国以外に違いがないように思ってしまいがちですが、実はダイヤモンドのカットにもそれぞれに微妙な違いがあるというわけです。 プラチナにゴールドバックの作り、アールデコを予感させるデザインはある程度共通していながらも、ダイヤモンドのカッティングによる全体の雰囲気の違いが、フランスらしい魅力を醸し出すのです。 |
この指輪はフランスのベルエポック期の最後を飾る貴重な指輪だと思います。 フランスは1914年の第一次世界大戦の戦場にもなったぐらいですから、この年代に作られたジュエリーはとても少なかったと思われるからです。 それだけに、このスタイルのリングは大変稀少だとも言えるでしょう。 |
美しい色のルビー
ダイヤモンドの上質さを見ても、このリングが高級な物として作られたことはお分かりいただけると思います。そのメインストーンとなるルビーは、明るくて濃い非常に美しい色をしています。 ルビーは同じコランダム系のサファイアと比べて極端に採掘量が少ないため、古い時代から珍重されており、現代でも特殊な例を除いてカラーストーンではナンバーワンの石です。 |
欧米でも一番人気があるのがルビーで、お金に余裕が出てくる、少し年齢が高い層に人気があります。若さだけが価値と評価されがちな日本と異なり、欧米では年齢を重ねることを楽しむ風潮があります。歳を重ねて余裕が出てくると買えるようになる憧れの存在でもあるのです。さらに、明るい色は肌色をより健康的に美しくみせてくれますし、見ているだけでも気分が明るくなって内面からの美しさも期待できますよね。 |
年齢関係なく好きなもの、似合うもの、感覚的に心地よいものを付ければ良いのです。 今はまだ自分の価値観を押しつけてくる人たちも少なくありませんが、大抵はろくな根拠はありません。丁寧に根拠を尋ねて、変だったら論破してしまえば良いのです。その時には様々な知識が役立つことでしょう。恥ずかしくなって2度と価値観を押しつけてくることはなくなると思います。 |
専業主婦を前提とした高度経済成長期の女性像は、世界的に見ても、日本の他の時代を見ても違和感があります。 この頃に作られた価値観を女性に押しつけてくるのも、他の女性自身だったりもしますが、日本も左のようなベルエポックの女性のように、明るく楽しく輝いている女性でいっぱいになれば嬉しいなと思っています。 |
特徴的なルビーのセッティング
実はもう1点、この指輪をパッと見た際に???と思った箇所があります。 それはルビーをセッティングしているフレームがプラチナだったことです。 この時代はカラーストーンにはゴールドのフレームが使われるのが一般的なのです。 |
ベルエポック ルビーリング フランス 1900〜1910年頃 SOLD |
ベルエポック 天然真珠&ルビーリング フランス 1910年頃 SOLD |
アールデコになるとルビーもプラチナセッティングになりますが、ベルエポックのリングを見てみると、ハイジュエリーでもゴールドのフレームが使われています。ダイヤモンドの場合は色味を邪魔するのでプラチナが使われるのですが、ルビーの場合は色味を邪魔しないからなのと、慣例のようなものだったと考えられます。 |
ベルエポックスタイルにも関わらず、ルビーのフレームまでプラチナだったからこそ、この指輪にはアールデコの時代を一足先に取り入れたような特別な雰囲気も感じられるのです。 高価なプラチナをあえて使ってまでこのようなデザインにしていることには、このリングを作った人物の特別なこだわりとセンスの良さが感じられます。 |
職人の丁寧な手仕事による美しい透かし
リングを指から外した時に見える、美しいゴールドの透かしベルエポックらしい雰囲気です。アールデコに入ると透かしもプラチナになりますから・・。 |
フランスのホールマーク(イーグルヘッド)はシャンクの後部にあります。 厚みのあるルビーは実に美しいものです。暗い色味ではなく、宝石業界でも高く評価される明るい色合いなので、付けるとどの方でも肌色が明るく見えると思います♪ |
宝石鑑別書
1907年頃から合成ルビーがジュエリーの一般市場にも出てくるようになったため、買付したいずれのルビーも鑑別しています。私自身は鑑別所で結果を確認しているので安心してカタログでご紹介しております。でも、お客様は一生で一度かもしれない高価な宝物を手に入れる場合、鑑別書もあった方が嬉しいかなと考えたので取得しました。お求めの際にはお付け致します。 |
着用イメージ
ルビーは産出量もそうですが、3ctを超える石はなかなか採れないくらい、ある程度大きさがある物を得るのは難しい石なのだそうです。 濃く明るい美しい色に加えて、ある程度の大きさがある石で、しかもこのようにオーソドックスではなくオシャレなデザインが施された、コンディションの良いリングは滅多にあるものではありません。 自信を持ってオススメする、自慢のベルエポック・ルビーリングです♪ |