No.00202 ジョージアンの女王 |
『ジョージアンの女王』 これまでに見たことのない素晴らしい色のゴールド、クリアなオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドが付いた贅沢なクラスプ。 |
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この作品の7大見所
ジョージアンのロング・ゴールドチェーンが作られたのは金が非常に高価だった時代だけに、見た目はボリューム感があるのに非常に軽くて使いやすいです。 |
ジョージアンのゴールドチェーンの謎
7大見所をご説明していく前に、まずはこのタイプのロング・ゴールドチェーンが生まれた背景について探ってみることにしましょう。 |
過去にいくつかこのタイプの作品を扱ってきましたが、下記の共通する特徴があります。 ・19世紀初期 ヨーロッパにおける時代考証の結果、全ての謎が解けました。それにはフランス革命、戦争や経済を理解をする必要があるので、具体的に見て参りましょう。 |
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とは言ったものの、今回は相当長くて頭も使う内容です。要約すると、フランスの革命戦争によってイギリスでパニックが発生し、取り付け騒ぎが起きた結果イングランド銀行において紙幣と金の交換が停止され、インフレが発生し、株式や投資ブーム、為替の問題等も絡んでイギリスにおいてのみ史上最も、金が極端に高い時代が到来しました。だからこのロング・ゴールドチェーンが作られました。 これだけではよく分からない場合は、ぜひじっくりと以下の内容を読んでみて下さい。経済と金融の知識があると理解しやすいです。 |
世界規模で見るゴールドの移動の歴史
<大航海時代:新大陸→ヨーロッパ>
クリストファー・コロンブス(1451-1506年) | 金は算出される量が少ないからこそ価値があり、人々から渇望されてきました。 大航海時代の到来により、16世紀には新世界からかつてないほどの金銀がヨーロッパに運ばれました。 |
16世紀末までにヨーロッパに蓄えられた金銀の総量は1492年時の5倍近くにのぼります。 |
<17〜18世紀:ヨーロッパ→アジア>
持ち込まれた金はどうなったかと言うと、ヨーロッパにはとどまりませんでした。ヨーロッパ人は長年にわたって、ヨーロッパには無いアジアの産物を求めてきました。香辛料、蚕、織物、茶、陶磁器などです。それは単なる嗜好品としてだけでなく、贅沢品としてのステータス・シンボルでした。それらを手に入れるための対価として、金はアジアに流出しました。 |
王の富と権力の象徴『パイナップル』 ジョージアン スリーカラー・ゴールド フォブシール イギリス 1820年頃 SOLD |
『パイナップル』でもご説明した通り、ヨーロッパの経済の中心であり富を集中的に保有する王侯貴族が、こぞってステータスのために珍しい輸入品を求めました。 |
太陽王ルイ14世(1638-1715年)の晩餐会 | 左は贅を尽くしたことで有名な、ルイ14世時代のヴェルサイユ宮殿での饗宴を描いた絵画です。 こんな感じでステータスのためならば、あったらあるだけお金は即時に使い果たすのがヨーロッパの王侯貴族流です(笑) |
ロンドンの東インド会社(トマス・マルトン 1800年頃) |
1600年に東インド会社が設立されてから25年間に、アジアからの輸入品の対価として、アジアに運ばれた全貨物の75%は金塊でした。総合的に見ると、その流通量は結局1600〜1703年にかけてアメリカ大陸からヨーロッパに輸入された総量を超えていました。 金持ちになったアジア人が、今度はこの金でヨーロッパから何か輸入すれば経済はうまく回ったでしょう。しかしながら、そうはなりませんでした。世界一の貯金好きと言われる日本人ならば何となく分かると思いますが、アジア人は基本的に金を"所有すること"に喜びを見いだしていました。 |
1586年の豊臣秀吉の黄金の茶室を再現(MOA美術館) 【引用】MOA美術館 HP |
アジア人にとってはゴールドを持つこと自体がステータスであり、アジア人からヨーロッパへのお支払いは「物々交換でお願いします」となりました。この性質によって、インド・中国のいずれも金は国内に蓄積する一方だったのです。 ヨーロッパ人にとってはゴールドは何かを得るための単なる手段、あるいは道具に過ぎませんでしたが、アジア人にとってはヨーロッパ人にとっての手段が目的だったというわけですね。 |
1800年前後のヨーロッパ情勢とイギリス経済
<フランス革命>
アンシャンレジームを風刺した絵(1789年) | これはフランスの第三身分者が聖職者と貴族を背負う、革命以前のブルボン朝、特に16〜18世紀の絶対王政期のフランスの社会・政治体制、アンシャン・レジームを風刺した絵です。 第三身分者とは市民や農民のことで、第一身分が聖職者、第二身分が貴族で、国民は3つの身分に大別されていました。 |
バスティーユ襲撃(ジャン=ピエール・ウエル 1789年)フランス国立図書館 |
第一、第二身分には年金支給と免税特権が与えられていましたが、フランス財政は火の車でした。第三身分からはこれ以上増税しようがないほど税を徴収していたにも関わらず、特権階級が政治でも権力を握る状況下では、一部の人どれだけ頑張っても反対勢力に潰されてしまうのはいつもどこも同じです。 政治的失策の連続に加え、農作物の不作などの状況も加わり、ついに我慢の限界い到達した第三身分によって1789年7月14日、当時火薬庫だったバスティーユ牢獄の襲撃が発生します。フランス革命の始まりです。 |
『ヴァレンヌ事件(1791年)』(トマス・ファルコン・マーシャル 1854年) |
これはブルジョワに扮したルイ16世とその家族が逮捕される場面です。革命勃発により、貴族や聖職者など特権階級の多くが国外へ亡命を始めていました。1791年にルイ16世一家も、王妃マリー・アントワネットの実家のオーストリアへの逃亡を企てました。6月20日にパリは脱出したものの、国境手前のヴァレンヌで国民に見つかり6月25日にはパリに連れ戻されます。 |
神聖ローマ皇帝レオポルト2世(1747-1792年) | この事件に激しく動揺して憤ったのが、同じハプスブルク家出身でありマリー・アントワネットの兄でもある神聖ローマ皇帝レオポルト2世です。 妹一家の身を案じ、ヨーロッパの君主国に援助を呼びかけました。 それに応じたのがスウェーデン王グスタフ3世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世で、7月25日にオーストリアとプロイセンで軍事同盟が結ばれます。 |
ピルニッツ城(1800年頃) |
さらに8月27日、神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の共同でピルニッツ宣言が宣言されます。 ルイ16世の地位を保証しないと戦争を仕掛けるという脅しの内容ではあったものの、口先だけの外交辞令に過ぎませんでした。それでもフランスの革命派と王党派の亡命貴族には最後通牒と誤解されて逆効果となり、革命戦争へ発展していくきっかけとなりました。 |
<フランス革命戦争>
ジロンド派指導者ジャック・ピエール・ブリッソー(1754-1793年) | 立憲君主制を守ろうとするフイヤン派に対して、共和制を主張するジロンド派による政府は、ピルニッツ宣言を革命政府に対する重大な脅迫と受け止めました。 1792年4月、革命政府は革命維持のためハプスブルク帝国(神聖ローマ帝国、オーストリア帝国など)に宣戦布告し、ついにフランス革命が勃発しました。 7月にオーストリア軍、続いてプロイセン軍もフランスに侵攻し、「国王夫妻に危害を加えればパリを壊滅させる」と通告しました。 フランス市民は憤激したものの、フランス軍の士官は貴族階級のため革命政府には協力的ではなく、8月にロンウィが陥落、9月にはヴェルダンが降伏し、パリは動揺しました。 |
1792年9月20日のヴァルミーの戦い(オーラス・ヴェルネ 1826年)ナショナル・ギャラリー |
大きな転機となったのが、フランス革命後の最初の軍事的勝利とされ、「革命精神の勝利」と讃えられるヴァルミーの戦いです。フランス人技術者が開発した高性能の大砲により、プロイセン軍を退却に追い込んだとされています。 ただ、実際はフランス軍のほとんどは1792年に募集されたボランティアの素人兵士で、この戦いは戦いらしい戦いはなかったことが知られています。 小競り合い程度の小規模な戦闘が起き、雨が降ったので戦いを止めただけで、プロイセンを後退させたと言っても濡れた湿地帯では食事が出来ないため20km後方に移動しただけとも言われています。現にフランス軍の死者は300人、プロイセン軍の死者は200人で戦術的にはそれほど意味はなかったものの、歴史的には国民の軍隊が君主の軍隊に勝利したという大きな意味のある勝利となりました。 |
<国民から処刑された国王>
フランス王ルイ16世(1754-1793年) |
ヴァルミーの戦いに勝利した翌日の9月22日、立憲議会は王政廃止を宣言しました。 その後、情報を敵国に密通したなどの嫌疑により、1793年1月21日についにルイ16世はギロチンで処刑されます。 兄レオポルト2世の想いとは裏腹に、王妃マリー・アントワネットも10月に処刑されました。 |
<第一次対仏大同盟>
民衆に示されるルイ16世の首(1793年)フランス国立図書館 |
ルイ16世の処刑はヨーロッパ中を震撼させ、スペイン、オランダ、ナポリ王国、サルデーニャ王国、さらにはそれまで市民革命に同情的であったイギリスすらも反革命に立たせることになりました。 イギリスが市民に同情的だったのは、イギリス貴族とフランス貴族の違いを知るとより理解できます。フランスの市民は大きな税金で苦しむ状況でしたが、イギリスは貴族と地域住民はお互いWin-Winの関係にあり、関係性が良好でした。今回はフランス貴族について詳細は割愛しますが、イギリスの爵位貴族は全て大地主です。 |
イギリス王ジョージ3世(1738-1820年) |
イギリスにとって、オランダがフランスの手に落ちることは自国の安全保障からも重大な問題であったため、イギリスを中心に第一次対仏大同盟が結成されます。 参加国はグレートブリテン王国(イギリス)、オーストリア、プロイセン王国、サルデーニャ王国、スペイン王国、南ネーデルランド、ナポリ王国です。 これを受け、フランスは1793年2月1日にはイギリスとオランダに対しても宣戦布告しています。 |
<フランスの国家総動員による兵力増強>
ヴァレンシエンヌ包囲戦(1793年) | フランスは不足した兵力を補うため30万人兵士募集するも思うように人が集まらず、各地で反乱が起こるなど事態は深刻化していきました。 7月12日にはトゥーロンが反旗を翻してイギリス軍を招き入れ、イギリス、スペインの軍隊に占領されてしまいます。 サルデーニャ軍も国境を越え、7月27日にはオーストリア軍がヴァレンシエンヌを陥落させました。 |
共和暦2年の公安委員会(1793-1794年)フランス国立図書館 |
窮地に陥ったフランスの公安委員会は8月23日、『国家総動員』を発令し徴兵制度を施行しました。これにより120万の兵士が新たに軍に加わることになりました。これは傭兵を軍の主力としていた当時のヨーロッパの君主国家では想像できないほどの大兵力でした。 |
ラザール・カルノー(1753-1823年) | 巨大な国民軍と化したフランス軍は、後に『勝利の組織者』と讃えられるカルノーの指導の下、13個軍団に編成されます。 反撃の準備が整ったフランス軍は、9月にはオンドスコートの戦いでイギリスを破り、10月にはワッチーニの戦いでオーストリア軍に勝利しました。 国内でもマルセイユとリヨンの反乱が鎮圧されます。 ちなみにこの勝利の組織者のカルノーさんは数学者でもあるのですが、子孫たちも各分野で功績を残しており、ご長男はあの有名な『カルノーサイクル』を考案した物理学者です。普通は「何それ?知らない」ですよね。私は大学院が物理化学専攻だったので、統計力学で学んで懐かしく思い出しました。なぜか今は歴史を熱心に調査研究しています(笑) |
トゥーロン包囲戦(1793-1794年)フランス国立図書館 |
勢いに乗り始めたフランス軍ですが、イギリス軍の支援を受けていたトゥーロンは攻略が難航しました。そこに出てきたのが当時まだ24歳の砲兵士官ナポレオン・ボナパルトでした。ナポレオンの立てた作戦により、戦闘開始から3ヶ月でようやくトゥーロンを攻略したのです。ナポレオンの名は一気に国際的な注目を集めることになりました。 |
<フランスによる侵略戦争への変容>
ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年) | 肥大化したフランス軍は、兵力で対仏大同盟軍を圧倒したものの、大量に必要となる補給物資の多くは敵国領土からの徴発に依存していました。 このためこれ以降、戦争はフランスによる侵略の様相を帯びていくことになります。 |
1795年にはオランダを占領、プロイセンとも講和します。 1796年にはイタリア遠征に取り掛かり、各方面で同盟軍を撃破、サルデーニャ王国をわずか1ヶ月で降伏させます。 いつナポレオンがイギリス本土に攻め込んできてもおかしくない状況ですね。 |
イギリスにおける金融パニックの発生
ジョージ三世のギニー金貨(1789年) | いよいよ本丸、イギリス経済を見ていきましょう。 1796年にアメリカでの土地投機バブルがはじけて不況だった上に、戦争によりかなりの正貨が流出していました。 |
対仏大同盟の包囲網が次々と破られる中の1797年、イギリス北部の小さな漁村をフランス海軍が襲ったという噂が流れます。侵略に怯えていた市民たちがパニックを起こしました。 |
1816年のイングランド銀行と王立証券取引所 | その結果2月20日、ニューキャッスルのイングランド銀行に、持っていた紙幣を金に替えようと市民が殺到する事態が発生しました。 取り付け騒ぎを受けて、2月26日には政府はイングランド銀行の現金(正貨)支払い停止を決定しました。 以降、金の兌換性が回復される1821年まで、銀行制限時代が続くのです。 |
18世紀末からのイギリスにおけるインフレ進行
金本位制の場合、金の貯蔵量で紙幣の発行数は制限されます。それが兌換停止となった結果、紙幣を無尽蔵に発行することも可能となりました。それによりイングランド銀行による商人への貸し付けの増加や、輸入品への投資、株式ブームなどが発生し、次第にインフレが進むことになりました。 銀行制限時代は金融が混迷を極めた時代となりました。物価も確実に上がっていきました。1802年から1807年に間に30%上昇し、1810年までにさらに30%上昇、1813年までにさらに15%上昇しました。ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れた1815年時点で、1797年の水準の2倍になっていました。 |
1808年からのイギリスにおける金価格の高騰
1808年の初め、金の価格は急速に上昇し始めました。金と交換できない英貨は当然評価が下がります。1809年の終わり頃にはハンブルグ、アムステルダム、パリで、ポンドは公式の額面より16〜20%以上低い価値で取引されました。 |
その結果、イングランド銀行の金貨と金地金の保有量は、1808年2月から1809年8月の間に50%も減少しました。 |
インフレで貨幣価値は下がる中、国民も手持ちの金を放出するわけもなく溜め込まれる一方です。 金は市場から少なくなる一方の状況下、イギリスで史上最も金が高価な時代の到来です!! |
銀行制限時代の終焉
1810年、金価格の爆騰を受けて英国議会に金地金の高価格に関する委員会、いわゆる地金委員会が設置されました。2月から5月までの間に31回の委員会を開催し、29人の証人を喚問して精力的に調査活動を行い、6月に報告書を提出しました。いかに喫緊の大きな課題だったかが伝わってきますね。 報告書では以下の通り結論づけられました。 |
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777-1836年) | 29人の証人は企業、金融界、大学、政府などから選ばれた人物で、1人を除いて身元が報告書に明記されています。 「非常に高名な大陸の商人」で慎み深い某氏とされる残る1人は、ロンドン・ロスチャイルド家の祖で1804年にロンドンに移住してきた、神聖ローマ帝国出身のネイサン・メイアー・ロスチャイルドだったと言われています。 ロスチャイルドは1815年のワーテルローの戦いにおいて、巧妙な情報操作によって、イギリスの株式市場で巨額の利益を上げたとも言われています。 なにかと噂話が多いながらも表には出てこない、ロスチャイルド家らしい人ですね〜。 |
その後もイギリスの金融経済には何度も危機が訪れ、聴聞会や公開検討が重ねられました。 1816年に部分的に金の兌換が再開され、1821年に銀行制限時代が終わり、イギリスの金本位性が確立します。 以降100年近く、世界各国の通貨制度の模範となりました。 |
『ゴールドラッシュ(ディガーズ)ブローチ』 アメリカ 1880年頃 SOLD |
ようやく、徐々にですが金価格も落ち着きを取り戻していくことになるのです。 |
権威の象徴
1808年から1821年くらいにかけて、イギリスでのみ金が極端に高かった時代であったことはお分かりいただけたと思います。 世界的に絶対量が足りなかったのではなく、経済が影響したイギリスの中だけの特殊な現象だったからこそ、分かりにくいですね〜。 |
王の富と権力の象徴『パイナップル』 ジョージアン スリーカラー・ゴールド フォブシール イギリス 1820年頃 SOLD |
さて、稀少価値が高く高価な物は富と権威の象徴になります。 現代人の感覚では想像しにくいですが、『パイナップル』ですらそうでしたよね。 |
王族の女性のジュエリーが分かる肖像画
<古代〜ルネサンス>
古代エジプトのファラオ クレオパトラ7世(紀元前69-紀元前30年) | イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603年) |
フランスの1770〜1780年代頃
フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793年) | 時代を超えたファッションリーダー、マリー・アントワネットは様々なジュエリーを持っていますが、この肖像画では天然真珠がメインです。 この時代は特にヘアスタイルが大事で、当然髪飾りには特にセンスとお金をかけます。 頭の上だけでなく、肩にかかる巻髪にまで絡められた天然真珠が華やかで美しいですね。 いくら豪華に使っても成金のような悪趣味にならず、清楚な雰囲気になるのも天然真珠の魅力だと改めて感じます。 |
イギリスの1820年代〜1832年頃
英国王ジョージ4世妃キャロライン・オブ・ブランズウィック(1768-1821年)1820年制作 | 1820年から1832年に制作された王族女性の肖像画を見ると、長くて存在感のあるゴールドチェーンがポイントになっているのが分かります。 ゴールドがあり得ないほど高価な存在となった時代において、ボリュームと長さのあるゴールドのチェーンで贅沢に身を飾ることこそ、富と権力の象徴だったのです。 |
英国王ウィリアム4世妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン(1792-1849年)1831年頃 | ヴィクトリア女王の母ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド(1786-1861年)1832年 |
暫定王位継承者ヴィクトリア(後のヴィクトリア女王)1832年、13歳頃、ロイヤル・コレクション | 上右のヴィクトリア女王のお母様に至っては、わざわざゴールドチェーンを掴んでPRしています(笑) 左は13歳頃のヴィクトリア女王ですが、まだ少女とは言え次期女王なのですから、その地位に相応しいジュエリーとしてゴールドチェーンを着けています。 それにしてもこの時代は一連で着けていたのですね。 ポイントとなる箇所にブローチを着けて、そこにチェーンをひっかけてよりゴージャスさをアピールできる着けこなしもオシャレだったようです。 |
イギリスの1835年頃以降
イギリス王妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン(1792-1849年)、1836年頃制作 | ヴィクトリア女王の母(1786-1861年)、1835年制作 |
イギリス女王ヴィクトリア(1819-1901年)1842年頃 | 1832年までの肖像画ではイギリスの王族女性は皆ロング・ゴールドチェーンを着けていたのに、少し年代が下るだけで全員の肖像画からぱったりと姿が見えなくなっています。 1830年代半ばには既にゴールドの価格がある程度下がり、富と権力の象徴ではなくなったということでしょう。 1821年に銀行制限法が緩和されてからも、金価格が落ち着くまではタイムラグがあるでしょうから、ジュエリーに反映されるのも少しタイムラグが出たのだと推測できます。 ゴールドが主役という異例の期間が終わると、やっぱり富と権力の象徴は断トツで天然真珠だったようです。 ヴィクトリア女王はメチャメチャになったイギリス財政の立て直しや、真面目すぎる性格もあって質素倹約、地味だったと言われているので左のポートレートもジュエリーをひけらかすような絵ではありませんね。 |
フランス 1804年頃〜1853年
皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年)、制作年不明 | ルイ・アントワーヌ王太子妃マリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランス(1778-1851年)、1817年制作 |
皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(1826-1920年)1853年 | イギリスで金価格が高騰してゴールドチェーンが王族に流行した期間、フランスは比較すべき女性のポートレートが見当たらないのでここには掲示できていません。 上右のマリー・テレーズはルイ16世とマリー・アントワネット妃の長女で、復古王政期のフランス王シャルル10世の長男の王太子妃です。 実際、ジョージアンのロング・ゴールドチェーンに類似したフランス製の作品は過去に出てきたことがありません。 フランスは国が大変な事態でそれどころではなかった可能性もありますが、イギリスのような金価格爆騰という特殊な事情はなかったので、やはりフランスでは作られなかったのだと推測されます。 |
ジョージアンのゴールドチェーンの特殊性
このボリューム感あるロングゴールドチェーンは、ごく僅かな期間にだけ作られた、それこそ王族クラスの富と権力を象徴するイギリスだけのジュエリーなのです。 それはまさに、金価格の高騰した時代を反映する『時代の証人』でもあるのです。
それではその素晴らしい作りについて、7大見所を順番に見ていくことにしましょう! |
見所1. 素晴らしい金の色と輝き
このゴールドチェーンを最初に見た人は、誰もが約200年も前に作られた物とは思えないその美しい輝きに驚かれる筈です。この時代のものはハイレベルの物であっても、多少は蝋付けのロウが経年変化で黒ずんでいたり、長年の使用で薄汚れて黒ずんでいたりするものなのです。 私も最初に見たときはあまりにも綺麗すぎて、新品なのかと思わず本当に古い年代のものなのか詳細な作りのチェックに入ってしまいました(笑) |
見所2.金の贅沢な使い方(重量&純度)
このゴールドチェーンを手に持った時、今までにこのタイプのチェーンも持ったことがある人ほど、その心地良い重量感に驚かれると思います。 持ったことがなくても、不思議なほどの心地良い重量感と、そのスムーズで快適な手触りには驚かれると思います。 |
このタイプのチェーンは見た目より遙かに軽いのが特徴で、ボリューム感がありながらも実際に着けていて肩やお首の負担にならないことを喜ばれる方が非常に多いです。 その点ではこのゴールドチェーンももちろん軽いのですが、他のチェーンと比べて重量感を感じるのでいくつか計算してみたところ、1cm当たりの重量がダントツで重たいことが判明しました。本作品はジョージアンのロング・ゴールドチェーンとしては90cmと比較的短い方ですが、重量が49,4gあります。過去に販売した物で、長さ102cmもあったのに重量が29,2gという物もあったことを考えると、かなりのゴールドの量です。 |
さらにこれまでに取り扱ったゴールドチェーンと比べてあまりにもゴールドの色が綺麗なので、試しに蛍光X線を使った金属分析をしてみたところ、18ctよりも少し純度が高いことが分かりました。分析結果は18.8ctゴールドです。僅かな違いに思えるかもしれませんが、ゴールドはちょっと純度が違うだけでも色の印象が驚くほど変わるのは経験的に分かっているので、分析してみて納得しました。 最高に金が高かった時代において、重量、純度ともにこれだけ贅沢に金を使うのは、特別に作られた最高級品だった証拠でもあります。 |
重さの話をしたのでちょっと注意して頂きたいことは、ジョージアンのロング・ゴールドチェーンは重さだけで値段が決まるわけではないことです。 現代の物だとすべてマシンメイドの量産品で、使わなくなった時は金地金の価値しかないのに平気で100万円超えの価格で販売されています。美術工芸的には何の価値もないのに、金の地金価格に見合わない高値が付いている状況ということです。 |
見所3. 過去に見たことがない繊細で美しい彫金
この繊細で美しい模様の彫金は極めて珍しいもので、一体どうやって作ったのか不思議な細工なのです。いくつか並べてみると、その格段な繊細さがお分かり頂けると思います。 |
過去に扱ったものも当然ハイクラスのものでしたが、彫金の繊細さ1つとってもこのゴールドチェーンは別格の存在であることは明らかです。 |
見所4.仕上げの良さも過去最高
実物は持った感じでも分かるのですが、ゴールドの輪のフチの部分を他のチェーンと見比べると他のものよりも十分な厚みのある金の板で作られているを感じていただけるでしょうか。 十分に厚みのある金の板だったからこそ、輪の1つ1つが内側に奇麗なカーブを描いた形に整えられ、全体にもの凄く丁寧な仕上げができているのです。そのお陰で、持った時の極上のしなやかなチェーンの感触となっています。 |
見所5. 最高級のクラスプ
このゴールドチェーンは他のあらゆるチェーンと比べても、クラスプが圧倒的に素晴らしい物が付いており、類を見ない繊細で美しい物です。 |
しかも5つのダイヤモンドすべてローズカットではなく、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドです。ダイヤモンドが枯渇していた時代な上に、ダイヤモンドを自由にカットするための電動のダイヤモンド・ソウも無かった時代なので、手の込んだ相当高級なクラスプでもあってもダイヤモンドは使っていないのです。 使ったとしても簡単なローズカット・ダイヤモンドを使うのが普通な時代において驚くべきことです。 |
他のゴールドチェーンも高級なものに相応しいカラーゴールドや彫金の作り、当時としても高価な宝石だったルビーやペルジャンターコイズなどが使われた、高級なクラスプでした。 |
このクラスプは1.3cm×1.0cmで、ジョージアンのクラスプとしては小さな物です。贅沢なオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドの外周にはカンティーユ(フランス語で刺繍という名前の金細工)が施してあり、それが全周囲に5つセットされています。 繊細な作り故の美しさの魅力ですが、ちょっと残念なことに、この部分はチェーンを2連にして使う場合にクラスプを外す際、どうしても手に触れる部分なので200年もの長い期間愛用されてきたからこそのダメージがあります。でもこれだけ古い年代のクラスプで、使う時はいつも手に触れることを考慮すればしょうがないことですし、これだけ稀少価値のあるジョージアンのロング・ゴールドチェーンとしては、十分に許せる範囲の僅かな欠点だと思って頂きたいのです。 |
本作品 | 【参考】ジャンクのクラスプ | |
このクラスプの最も凄い細工は、左右の縁にセットされた16個の金細工です。粒金と極細の金線を使った、あり得ないほど小さなカンティーユです。この細工は肉眼では見えないほど細かく、金線の細さはバロック時代の縒り線細工を彷彿させるような、髪の毛の太さ程度しかないようなものです。 それに均一にカーブを付けて、外周を均一に囲むよう蝋付けしてあるのです。その細工は実体顕微鏡を使ってようやく分かるレベルです。これぞまさに人の技それとも神の技と言える驚異の細工なのです。 試しに職人に修復できないか相談してみたのですが、こんなに細い金線を作ること自体無理で、太い金線を付けることで違和感が出ますし、そもそもこんなに細かい場所に密集させて綺麗に蝋付けするのは無理とのことでした。レーザーを使っても不可能だそうです。科学の進化で必ずしも、人の手による昔の脅威の技術を超えることは不可能なのです。 ちなみに上の右2つは元々この作品より遙かにレベルが劣るものを、無理に修復したジャンクです。特に中央のものは下のターコイズが一度脱落して、目立つ爪でサイズの合わない石が無理に留められていますし、その外周の修復されたとみられるカンティーユも金線が明らかに太く、違和感のあるものです。 |
見所6. チェーン部分のコンディションは過去最高
チェーン部分のコンディションは過去最高です。薄い作りのジョージアンのロング・ゴールドチェーンにあって、長さ当たりの金が一番多く使われた作品なのですから、当然と言えば当然ですね。 |
見所7. ロンドンで作った専用の革ケース
特別なゴールドチェーンを美しくセットできる、専用のケース付きです。ケースを開けた時にこの珍しいセッティングでピッタリ収まっている様子は、過去最高のこの素晴らしい作品に相応しいもので、見ているだけでも楽しくなります。 |
新しいとは言え、この作品のためだけに特別にオーダーした上質な革ケースが付いている物は滅多にあるものではありません。これを手に入れたGENと一番古い付き合いのディーラーがその価値を理解していたからこそ、わざわざロンドンで特注して作ってきてくれたのです。 よっぽど惚れ込んでいた品物だったからこそです。買い付けの際、嬉しそうにしながら自慢げに見せてくれたのですが、私も一瞬で惚れました♪ こういう高級なケースに入っていれば、これから先も良いコンディションを保てるはずです。それこそ今の私たちの世代だけでなく、もっと後の世代にまで・・。 こういう精神で真面目に取り組んでいる(しかもセンスの良い)ディーラーとの取引ルートを受け継ぐことができたことは、私にとって何よりも素晴らしいことです。 |
何しろ金があり得ないほど高かった時代にだけステータスの象徴として作られた、王族級の人物だけが身に着けられる超高級品だったのですから・・。でもここまでの内容を読んでいただいたのならお分かりいただける通り、それを理解するのは結構大変なことなので、今後も知られざる良いもののままなのかもしれません(笑) ちなみに1870年以降は、フランスの第二帝政も終焉を迎えて皇后も貴族も存在しません。1870年以降のジュエリーは、フランス貴族のために作られたものではないのです。 |
2連にして使うことも可能です。 クラスプがこれ以上痛まないよう、十分に気をつけて楽しんでいただければ幸いです。 |
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