No.00233 黄金の花畑を舞う蝶 |
〜眩い黄金の花畑を舞う色鮮やかな美しい蝶〜 |
『黄金の花畑を舞う蝶』 小さな立体的絵画と表現するのが相応しい、黄金の花畑を舞う蝶のブローチです。アーリー・ヴィクトリアンならではの明るく幻想的なモチーフ、ジョージアンを彷彿とさせる彫金とカラーゴールドによる極上の金細工。それに加えて類を見ないくらい立体的に作られた構造は、他にはない独創的な魅力を放っています。 |
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↑実物大 ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります |
この宝物の4大ポイント
この宝物は制作された時代背景を非常によく反映していることに加え、この宝物にしかない特徴も持つ非常に魅力的なブローチです。そのポイントは以下の5点です。 1. ロマンティックでしかも明るいモチーフ 2. ゴールドをふんだんに使った贅沢な印象 3. ジョージアンを彷彿とさせる金細工 4. 見たことのない立体的な表現 5. 色とりどりの宝石を使った蝶 |
ポイント1. ロマンティックでしかも明るいモチーフ
黄金のお花畑、そしてその中を優雅に舞う色とりどりの宝石の蝶。 ロマンティックで、しかもとっても明るい印象ですよね。 これは1840年頃、若き女王ヴィクトリアが就任したばかりの時代らしい、明るい未来を予感する宝物と言えます。 |
ヴィクトリア女王就任以前の歴代のイギリス王
イギリス王ジョージ3世とシャーロット夫妻と上の6人の子供たち(1770年) |
ヴィクトリア女王就任以前、イギリスは様々な困難に直面していました。 ヴィクトリア女王の祖父ジョージ3世は結婚式の日に初めて会ったにも関わらず、浮気一つせずシャーロット王妃一筋で9男6女の計15人の子供たちに恵まれました。 |
王太子時代のジョージ3世(1738-1820年)16歳頃 | 政治よりも平凡なものに趣味を持ったため、『農夫ジョージ』(Farmer George)と風刺家に呼ばれるほどでしたが、このあだ名は後に性格が家庭的で人民に近しい王として賞賛の意味で用いられるようになったようです。 21歳頃、すでに「私は偉大な国の喜びや苦しみのために生まれた。従って私はしばしば感情に反して行動しなければならない。」と記述するほど真面目な人物だったようです。 |
ジョージ3世の倹約ぶりを描いた風刺画(ギルレイ画 1792年)54歳頃 | 54歳頃にはその倹約ぶりを描いた風刺画も残っています。 質素な食事、埃除けの白布をかけた椅子、絵のない額縁など、およそ大英帝国のトップとは思えない姿ですね。 この風刺画が描かれたのは1792年です。 王侯貴族のあまりの酷さに民衆が蜂起したフランス革命が発生したのが1789年ですが、こんな風刺画を見ると、イギリスに革命が飛び火しなかったのは納得ですね。 でも、イギリス全体の歴史で見るとこのタイプの王様は異例の存在です。 |
イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃 | カンバーランド公ヘンリー・フレデリック(1745-1790年)20歳頃 |
普通は遊び人のゲスが多かったと言われています。王族なので遊んだりゲスな行為と言ってもそこは一般人とは違って品格がありますし、知性や教養もあるので政治や文化にもきちんと貢献したりしていますが、ジョージ3世の子供たちはかなり酷かったようです。 生涯を通してあまり旅行にも行かず、一生を南イングランドで過ごしたジョージ3世と違って、ブライトンでの弟カンバーランド公と息子ジョージ4世の放蕩ぶりは『ダイヤモンドの原石』でもご紹介した通りです。 一方でブライトンの開発のきっかけは、イギリス王室屈指の遊び人ジョージ4世と叔父カンバーランド公の王族男性2人です。王室財政を破綻寸前にさせるまでお金は好き放題使ってしまう、やりたい放題ぶりです。王族なのでお金の使い方は派手ですが、やはり血統や育ちの良さは間違いなく王族のそれなので、芸術や文化にはかなり貢献しています。 |
ジョージ3世はヴィクトリア女王に抜かれる前はイギリス王室で最長の在位記録と寿命の王様でした。 81歳の寿命を全うしていますが、治世後期は繰り返し精神疾患に悩まされていました。 遺伝性のポルフィリン症を患っていた可能性が示唆されていますが、息子たちのあまりのやりたい放題の心労のためとも言われています。 1810年末、ジョージ3世の人気が最高潮になったころにさらに病気が悪化し、ついに政治ができる状況ではなくなりました。 |
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晩年のジョージ3世(1738-1820年)79歳頃 |
ジョージ3世は1811年摂政法の必要性を認め、以降は治世の残りをジョージ4世が摂政皇太子として治めることになりました。 ナポレオン戦争などの世界情勢の不安、イギリスにおける金価格暴騰などの混乱期をジョージ4世は見事に乗り切りました。 残念ながらジョージ3世は1811年末には完全な狂気に陥り、死ぬまでウィンザー城に幽閉されて生涯を終えることになりました。 |
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摂政皇太子時代のジョージ4世(1762-1830年)52歳頃 |
イギリス王ジョージ4世の戴冠式(1821年)ウェストミンスター寺院 |
1820年にジョージ3世が崩御すると、57歳のジョージ4世がイギリス王として即位しました。もともと王の代行の摂政皇太子だったので、その権力は実質的に何ら変わりませんでしたが、戴冠式は盛大に執り行われました。先代ジョージ3世の戴冠式は約1万ポンドだったと言われていますが、ジョージ4世の戴冠式は約24万3千ポンドという盛大なものでした。この金額は現代の19,970,000ポンドと同等と言われており、日本円に換算すると約30億円になります。 ただ、60年ぶりの戴冠式ですし、新しい王様というのは何となく気分が沸き立つものです。巨額の支出を要した戴冠式ですが、大衆には歓迎されたそうです。 さて、この戴冠式を描いた絵画ですが、王妃の姿が見当たらないことにお気づきになられましたでしょうか。 |
王太子時代のジョージ4世(1762-1830年)30歳頃、1792年頃 | ジョージ4世には生涯を通して愛し続けた女性がいました。 21歳になった直後に夢中になったマリア・フィッツハーバートという女性ですが、6歳年上で2度未亡人になり、カトリックの平民だったので結婚は不可能でした。 それでも極秘結婚し、その後も常軌を逸した放蕩の限りを尽くして借金は増えていきました。 父に援助を求めるなどして生活していたジョージ4世ですが、33歳頃キャロライン・オブ・ブランズウィックと結婚しなければ援助しないと言われ、不本意ながらも結婚しました。 |
イギリス国王ジョージ4世の妃キャロライン・オブ・ブランズウィック(1768-1821年)52歳、1820年 | 2人は全くそりが合わず、結婚は大失敗に終わりました。 結婚翌年の1796年に唯一の子供シャーロットが生まれた後は正式に別居となりました。 1821年のジョージ4世の戴冠式の頃にはお互いに愛人がいる状況でした。 王妃としての地位と権利を公的に主張するために戻ってきたキャロライン妃を、ジョージ4世は戴冠式から閉め出したのでした。 |
イギリス王ジョージ4世(1762-1830年)59歳頃 | そういうわけで、嫡子は1人しか残しませんでした。 大宴会で大酒飲みと放蕩の限りを尽くしたジョージ4世は、晩年は肥満体で身体の調子もかなり悪い状況でした。 1797年には体重が約111kg、1824年に作られたコルセットではウエスト約130cmに達し、1830年の亡くなる直前の67歳頃には体重は約130kgになっていたそうです。 崩御後に解剖した結果、オレンジの大きさがある巨大な腫瘍が膀胱に付いており、心臓は弁が石灰化した上に多量の脂肪が付いて肥大化していたそうです。 こんな状況なので亡くなる前もかなり精神状態は良くなく、白内障による全盲や痛風によって文書の署名もできなくなっており、まともに政治活動ができる状態ではありませんでした。 |
シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ(1796-1817年)21歳頃 | 1830年にジョージ4世はボロボロの状態で崩御しましたが、唯一の嫡子シャーロットは1817年に21歳の若さで既に亡くなっていました。 嫁ぎ先で男児を死産後、間もなく亡くなったそうです。 この時代は王侯貴族でも出産は本当に命懸けです。 |
イギリス王ウィリアム4世(1765-1837年) | シャーロット以外にジョージ4世の嫡子はおらず、シャーロット自身も嫡子を残せずに亡くなったため、ジョージ4世の弟ウィリアム4世が次ぎのイギリス王に就くことになりました。 ただ、ジョージ4世と3歳しか違わない弟なので、1830年のイギリス王就任時点で既に65歳です。 しかもウィリアム4世にも嫡子がいませんでした。 |
ドロシー・ジョーダン(1761-1816年)30歳頃 | 多数の愛人を囲っていたジョージ4世やヨーク公フレデリックら兄たちと違って、一人の女性に一途だったのですが、ウィリアム4世も愛する女性は王族とは結婚できない身分でした。 美しく機転が利き、知的なアイルランド人女優ドロシー・ジョーダンは富裕層の男性たちが放っておかず、ウィリアム4世もすぐに夢中になり20歳過ぎ頃から同棲を始めました。 20年余り夫婦同様に生活し、10人の庶子を儲けました。 しかしながらジョージ4世の娘シャーロットが早世すると兄たちには他に嫡子がおらず、次世代の後継ぎが必要となりました。 |
イギリス国王ウィリアム4世妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン(1792-1849年)44歳頃 | ここにきてウィリアム4世はドロシーとの家庭生活を絶ち、初めて結婚相手を探しました。 1818年、53歳の時に26歳のアデレード妃と結婚し、1819年、1820年と続けて女児が産まれましたが育ちませんでした。 以後は子供ができず、アデレード妃は傷心の中、ウィリアム4世が引き取ったドロシーとの庶子たちを可愛がるようになりました。 ドロシーは1816年に54歳で亡くなっています。ウィリアム4世は即位後、1831年にドロシーの像を建てるように命じ1834年に完成しました。 像はウィリアム4世とドロシーの子、初代マンスター伯爵の手に渡り、伯爵家が所持していましたが、現在はバッキンガム宮殿に飾られているようです。 良い話ですが、お世継ぎ問題は未解決です。 |
『アンズリー家の伯爵紋章』 ジョージアン レッドジャスパー フォブシール イギリス 19世紀初期 3,7cm×3cm 奥行き2,2cm ¥1,230,000-(税込10%) |
イギリス貴族が代々家を断絶しないようにすることはとても難しいことだと『アンズリー家の伯爵紋章』でもご説明しましたが、非嫡出子も養子も許されない状況で家を存続させるのは予想以上に困難なのです。 |
ケント公エドワード・オーガスタス(1767-1820年)51歳頃 | ジョージ4世の娘シャーロットが亡くなった後、嫡子作りを期待されたのはジョージ3世の3男ウィリアム4世だけではありませんでした。 4男ケント公エドワードも嫡子作りを強く期待されました。 エドワードもゲスな性格で、借金まみれの自堕落生活を送っていました。 1790年頃にジブラルタルで知り合ったフランス人ジュリー・サン・ローランと27年に渡って同棲生活を送っていたのですが、当時摂政王太子だったジョージ4世と議会は資金援助をちらつかせて正規の妻を持つよう促しました。 ジョージ4世は完全に自分で嫡子を残す気ゼロですね(失笑) |
ヴィクトリア女王の母ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド(1786-1861年)46歳頃 | エドワードにとっては王朝の存続はわりとどうでも良かったのですが、借金地獄から逃れたい個人的欲望もあり、ジュリーと絶縁してザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国のフランツ公の娘であるエミヒ・カール・ツー・ライニンゲン侯爵未亡人ヴィクトリアと結婚しました。 エドワード51歳、ヴィクトリア32歳、なぜ未亡人な上にもっと若い妻にしなかったのかと言うと、ヴィクトリアは前夫との間に2人の子がおり、確実に子を成す能力を期待されたからです。 |
母ヴィクトリアとヴィクトリア女王(1824-1825年頃) | 1818年に結婚すると、1819年に後に女王となるヴィクトリアが誕生しました。 そのわずか8ヶ月後にエドワードは死去してしまいます。 お父様の肖像画を手に持つ幼女ヴィクトリアが切ないですね。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)4歳頃 | 父エドワードが借金まみれだったので、結婚当初は物価の安いドイツのコーブルクに住んでいました。 出産にあたり母ヴィクトリアは子を産むのはイギリスでと、妊娠中の身でありながらイギリスに渡りました。 娘ヴィクトリアが1歳にも満たないうちにエドワードに先立たれ、英語も話せず、娘もこの時点では王位継承権は4位でした。 1820年時点ではまだ若いウィリアム4世の妃アデレードが子をなす可能性もあり、ドイツに帰国する選択もありましたが、イギリスに残ってイギリスで娘を育てる決断をしました。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)11歳頃、1830年 | 1830年、ジョージ4世が崩御しウィリアム4世がイギリス王に即位した時点で、ヴィクトリアは王位継承権1位となりました。 ウィリアム4世も自身の嫡出子はほぼ諦めており、この即位にあたってヴィクトリアは議会から『暫定王位継承者』に認定され、帝王教育も強化されました。 まだ11歳だったヴィクトリアは王位継承者であることを告げられると「私は思ったより玉座に近いところにいるのね」と感想を述べ、さらに「良い人になるようにしますわ」と応えましたが、一人になった後に大泣きしたそうです。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)14歳頃 | 乗馬や舞踏、絵画、音楽など上流階級のたしなみを身に付けながら、次のイギリスの王位を継ぐ者として成長していきました。 |
イギリス王ウィリアム4世(1765-1837年) | イギリスでは成人は18歳とされていたので、女王即位時に18歳未満だとヴィクトリアは摂政を置く必要がありました。 ヴィクトリアを心配したウィリアム4世は、1836年の国王誕生日式典で「神よ、願わくば私の寿命を(ヴィクトリアが成人するまでの)あと9ヶ月伸ばしたまえ。」と述べたそうです。 気合いと根性でウィリアム4世は生き延びました。 1837年5月24日にヴィクトリアが無事18歳の誕生日を迎えると、同年6月20日に72歳の生涯を閉じました。 |
ヴィクトリア女王が就任した後の雰囲気
ヴィクトリア女王の戴冠式(1838年)ウェストミンスター寺院 |
60年間も代替わりがなかったジョージ3世時代、その後王位を継いだのは58歳のジョージ4世。さらにその後は65歳のウィリアム4世。そこに18歳になったばかりのうら若き女王ともなれば、否が応でも気分は沸き立ちますよね。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)19歳、1838年 | 即位はウィリアム4世が崩御した1837年6月20日ですが、戴冠式は1838年6月28日です。 国王が亡くなるのは悲しいことで、1837年は新しい女王万歳と無条件に喜ぶと言うよりは、悲しみの喪に服する時期でもあります。 喪が明け、無事に戴冠式を迎えるといよいよ新しい時代に期待が膨らみ、明るい気分になる時期ですね。 |
社会全体への王室の強い影響力とジュエリーの関係
亡くなったアルバート王配の像を囲むヴィクトリア女王の喪服姿の娘たち | 昔と違い、王室の絶対的な影響力はなくなりました。 マスメディアや著名人が影響力を独占していた時代も終わり、現代では個人でもSNSなどを通じて情報を発信し、世界に影響力を行使できる時代です。 でも、昔はファッションリーダーは王族が中心でした。 王族が新しい価値観を示し、それを周囲の上流階級が真似て、そこからさらに中産階級へ、上から下へと流行が拡散していくのです。 |
ヴィクトリア女王の即位50周年(ゴールデン・ジュビリー)の儀式(1887年) |
王室の式典なども、社会に強い影響を与えます。 1887年の即位50周年記念の年、ヴィクトリア女王は1861年以来の黒い喪服を脱ぎ、国民たちとゴールデン。ジュビリーを祝いました。 |
『幕開けの華』 ジュビリー・エナメル ブローチ イギリス 1887年 SOLD |
何となく暗い雰囲気が長かっただけに、ゴールデン・ジュビリーの1887年は国中が明るい華やいだ雰囲気に包まれたのでした。 だからこそ、この年は『ジュビリーエナメル』と言われるような色鮮やかなエナメルのジュエリーが生み出されたのです。 |
ヴィクトリア女王の即位60周年ダイヤモンド・ジュビリーのパレード(1897年) |
『黄金の羅針盤』 コンパス(方位磁石) ペンダント イギリス(バーミンガム) 1897年 ¥171,000-(税込10%) |
各地の植民地省にメダルを授与し、太陽が沈まない帝国として世界に君臨する偉大なる大英帝国も祝った1897年の即位60周年のダイヤモンド・ジュビリー式典の年には、豪華な黄金の羅針盤のジュエリーも作られています。 |
"Gold State Coach 1-20070917" ©Steve F-E-Cameron(17 September 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | |
"Le Royal Mews de Londres-007" ©Crochet.david(26 July 2009, 19:36)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | |
1838年の戴冠式当日、若き女王は放蕩王ジョージ4世が作らせた煌びやかな黄金馬車に乗って戴冠式に向かいました。パレードを観に来た群衆は「女王陛下万歳」と叫び、ヴィクトリア女王はその日の日記に「このような国民たちの女王となることをいかに誇りに思うことか。」と記しています。 |
『愛の花』 アーリーヴィクトリアン ルビー クラスターリング イギリス(チェスター) 1838年 SOLD |
新しい時代の到来、そしてうら若き10代の女王。 そんな時代に世相を反映して作られるのは、やっぱり明るく色鮮やか、可憐でロマンティックなジュエリーですよね。 |
こんな時代だったからこそ、煌びやかな黄金の花畑をヒラヒラと楽しげに舞う鮮やかな宝石の蝶のブローチが作られたのです。 |
ポイント2. 金を贅沢に使った贅沢な印象
このブローチは色鮮やかな宝石の蝶に目がいきますが、背景の黄金の花畑も非常に豪華です。画像は二次元になってしまうので実物の立体感がお伝えしにくいのですが、蝶が舞うお花畑は丘になっており、中心部分が一番高くなっています。金のフレームも幅があり、お花や葉っぱもゴールドでとても贅沢な印象です。 |
横から見ても、いかにも金を贅沢に使っている感じですよね。でも、実際に手に持つと分かるのですが、中空になっているため見た目ほどの重さは感じません。これはまだ金が高かった時代の証です。このような構造にするのはとても手間がかかるので、ある程度金価格が下がっていればこのような技術も手間もかかるようなことはせず、金で丸ごと作ります。 |
この宝物はイギリスで史上最も金が高かったジョージアン後期より少し後、1848年にカリフォルニアでゴールドラッシュが起こって金価格が下がる以前のアーリー・ヴィクトリアンならではの作りと言えます。 |
イギリスにおける金価格暴騰とジョージアン後期のゴールドジュエリー
詳細な経緯は『ジョージアンの女王』でご説明していますが、イギリスでは様々な条件が重なって1808年から金相場が急上昇し、至上最も金が高い時代が到来しました。 全ての時代で富と権力を象徴する宝石として君臨してきた天然真珠すら凌ぐほどで、この時代のみ王族クラスの富と権力の象徴するジュエリーとして、左のような眩いばかりの黄金をさらに強調するような華やかなロングゴールド・チェーンが作られています。 |
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『ジョージアンの女王』 ジョージアン ロング ゴールドチェーン イギリス 1820〜1830年頃 SOLD |
もちろんこの次期は、次期王位継承者たる少女ヴィクトリアも肖像画用にこのタイプのロングゴールド・チェーンを着用しています。 |
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ヴィクトリア女王(1819-1901年)13歳頃、1832年頃 |
ジョージアン ピンクトパーズ カンティーユ ブローチ イギリス 1820年頃 |
イギリスにおいて至上最も極端に高騰した金相場は、経済の混迷だけでなく金細工技術の発展ももたらしました。 カンティーユのように、少ない金でいかに黄金の華やかさと美しさを演出するかを極めた技術がその1つです。上の宝物は、その中でも最高クラスのカンティーユが施されたブローチです。ピンクトパーズもジョージアン期のイギリスジュエリーらしい宝石です。 |
それ以外にもカラーゴールドや、よくぞここまでやったものだと思える繊細緻密な彫金も発達しました。 非常に手間がかかった明らかな高級品であっても金の作りが薄く、金の量は少ないのがこの時代のイギリスジュエリーの特徴です。 相当な財を持つ王侯貴族ですらなかなか手が出ないほど、この時代のイギリスでは金だけが極端に高かったのです。 |
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ジョージアン プチ フラワー・ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
金価格高騰を収束すべく、英国議会は地金委員会を設けて調査と議論を重ねました。 1797年に金の兌換性を停止したことが金価格高騰の大元の原因と結論づけ、24年間の銀行制限時代を終了させて1821年にイギリスで金本位制が確立しました。 金本位制において、お金の流通量は金保有量によって制限されます。金がアンカーの役割を果たすのです。 高騰し過ぎた金価格がすぐに元の相場まで下がることはありません。相場が急変動したら、それはそれで経済が混乱しますよね。 |
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1810年の地金委員会の報告書 |
1821年に金の兌換が完全再開されましたが、金価格が落ち着くまではタイムラグがあります。 1830年代前半の英国王室の女性の肖像画では王妃アデレード、次期女王のビクトリアとその母ヴィクトリアのいずれもロング・ゴールドチェーンを着用しています。 1830年代後半になるとようやく金価格が落ち着いたようで、肖像画で着用されるのはいつも通り天然真珠のジュエリーがメインとなります。 |
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イギリス国王ウィリアム4世妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン(1792-1849年)39歳頃、1831年頃 |
1848年のカリフォルニア・ゴールドラッシュによる金価格の下落
次に金価格に大きなインパクトを与えたのがカリフォルニアのゴールドラッシュです。 1848年にカリフォルニアのアメリカン川沿いで大工ジェームズ・マーシャルが砂金を発見したことがきっかけです。 |
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カリフォルニア・ゴールドラッシュで働く人々(1850年) |
サンフランシスコ港を埋める商船群(1850〜1851年頃) |
カリフォルニアで金が発見された情報はたちまち世界中に広まり、一攫千金を夢見る人々が陸路や海路で一気に押し寄せました。1849年に殺到した人々は『フォーティナイナーズ』とネーミングされるほど、凄まじい勢いだったようです。1849年だけで9万人がカリフォルニアに到着したと推計されています。1848年のサンフランシスコの人口が1,000人ほどだったと言われているので、押し寄せた数は相当ですね。 |
初期は国内からの来訪者が多かったのですが、全世界から移民が押し寄せました。 中国人は1849年と1850年だけで数百人がカリフォルニアに到着しました。 さらに1852年には2万人以上の中国人がサンフランシスコに上陸しています。 |
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カリフォルニア・ゴールドラッシュで金を採る中国人 |
ゴールドラッシュ初期は川沿いの砂金が採取されていたのですが、相当な人数が殺到したのですぐに取り尽くされてしまいました。 そうなると何が起こるか、結局ダイヤモンドと同じです。 人々は上流へと移動し、最終的には砂金となる前の金鉱脈を採掘し始めるのです。 |
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アメリカン川の岸で選鉱鍋を見つめるフォーティナイナーズ(1850年) |
初期は選鉱鍋とスコップさえあれば誰でも金の採掘ができましたが、大規模掘削が必要となってくると大型の設備投資ができる資本家が主役となっていきました。 資本家として鉱山経営するか、雇われ労働者として働くかしかなくなってしまったのです。 |
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ウォータージェットで砂利鉱床を掘削する作業(1857-1870年) |
カリフォルニアに向かう船の広告(1850年) |
カリフォルニアの砂礫層における金は含有率が高く、大規模掘削すればするほど金が採れました。それは世界の金の流通量を一気に変えることができるほどでした。金は希少価値があるからこそ高く評価され、価格を保ってきました。しかしながら無尽蔵に市場に投入されると、当然ながら価格は下がります。 金価格は一気に低下し、採れば採るほど価格が下がって赤字という悪循環に陥りました。大規模投資とコストカットで金を採掘する大資本に、個人や中小では到底太刀打ちできません。 |
金鉱目的で作られ繁栄したカリフォルニアのゴーストタウン(1850〜1851年頃) |
カリフォルニアのゴールドラッシュが1848-1855年と、わずかな期間で終わってしまったのはこのせいです。アメリカン・ドリームの1つとして一攫千金を求めたゴールドラッシュ、カリフォルニア・ドリームは後世まで大きなインパクトを与えましたが、大半の人はその夢を達成することなく終わったのです。 |
シエラネバダ山脈とカリフォルニア州北部の金鉱原 | 採掘コストと販売価格が見合わないとそれ以上採掘されないのは当然のことで、未だカリフォルニアの鉱床には金が眠っていると言われています。 それだけ金価格がゴールドラッシュ以前と比べて下がったということですね。 |
『ゴールドラッシュ(ディガーズ)ブローチ』 アメリカ 1880年頃 14K SOLD |
ゴールドラッシュ以前はゴールドジュエリーは本当に限られた王侯貴族のためだけのものでした。 それがこのようにお土産品でも使えるくらい価格が下がったのです。 ※それでもお土産品としては超高価な、明らかに王侯貴族や富裕層向けのものです。当時は現代と違い、中産階級が気軽に遠い観光地に行ける状況ではありませんでした。 |
ポイント3. ジョージアンを彷彿とさせる金細工
『ジョージアンの究極の美』 忘れな草 マルチーズクロス ブローチ&ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
金が非常に高価でゴールドジュエリーが限られた王侯貴族のためだけのものだったジョージアンでは、使う金が少なくても極上の細工が施されます。美意識の高い人たち向けのジュエリーなので、裏側の普通は人目に晒されない箇所など細部に至るまで手を抜かない細工が施されています。 『ジョージアンの究極の美』はその中でも最高ランクの細工が施されていますが、このクラスでなくともそこまで酷いジュエリーは作られていません。 |
【参考】1860年頃のゴールド・ブレスレット | 金の価格が下がると、金の価値やイメージも低くなります。 限られた王侯貴族以外でも、一定以上の富裕層ならばゴールドジュエリーが手に届くようになります。 |
そうなると一気に細工物がなくなっていきます。 高度な技術を持つ職人による、手の込んだ細工は一見地味ながらも非常にお金がかかります。 そういう所にまでお金をかけるのが教養と優れた感性を持つ王侯貴族ですが、台頭してきた新興成金にはその価値が分かりません。 分からないものにはお金は出せませんし、細工に凝ることができるほどの財力もありません。 だからこのようないかにもな成金デザインと単純すぎる細工のジュエリーが生み出されるようになったのです。 |
十分な財力がないけれどお金持ちに見せたい人のためのジュエリーなので、ブレスレットの後部はダイヤモンドがセットすらされていません。 リングならまだしもブレスレットは全周が人目に晒されるはずなのに、凄まじいケチっぷりです。 |
常連のお客様とのお喋りの最中、最近のファッション業界の劣化について話題になったことがあります。 正面は素敵なのに、裏側の手抜きが激しい服が結構あるという話だったのですが、お客様が「びんぼっちゃまみたいで嫌」と表現していたのがまさにピッタリで笑ってしまいました。 びんぼっちゃまは『おぼっちゃまくん』という漫画に出てくる、こういう感じのファッションのキャラクターです。 |
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【参考】正面だけにスパンコールの装飾が施されたドレス |
アンティークジュエリーの裏側まで手を抜かない細工が好きと仰って下さるお客様なのですが、ヘリテイジで扱う高級品以外は、アンティークジュエリーであっても"びんぼっちゃまくん風"のものは存在します。 |
そうは言っても、このブレスレットはまだ高級な方です。 これは勃興してきた中産階級向け成金ジュエリーですが、本気の安物はダイヤモンドやルビーも使えませんし、ゴールドですらないのです。 |
この宝物はジョージアンにおける金価格高騰が落ち着きながらもまだ金が高く、金価格が高騰した時代に発達した優れた金細工技術が残っていた時代だからこそ作られた作品と言えます。 史上最高に金が高かったジョージアンよりは金がふんだんに使われながらも、まだまだ高価なので中空構造になっているのです。中空にする手間も技術も大変なものです。金を重さだけで判断する、芸術を理解できない成金にとっては魅力がありませんが、ブローチとして着用するならば洋服の生地にも着用者にも負担をかけないのでむしろこの方がありがたいはずです。 |
蝶が舞う花畑の丘には、全面に魚子打ちのような技法を使ってゴールドで独特のマットな輝きを表現しています。丹念に磨かれたフレームの輝きとは対照的で、そのコントラストが花畑を舞う蝶の幻想的な世界をより特別な印象へと高めています。 |
3,2cm×3,9cmのブローチ全面に、これだけ均一に緻密な魚子を打ってある職人技には驚くばかりです。 1つ1つの魚子の点が輝くことで、この黄金の丘全体が幻想的に美しく見えるのです。 脇役を最高の名脇役にするための、絶対に必要な細工と言えますね。 |
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←↑等倍 |
さらにカラーゴールドの技術も駆使されています。蝶を囲む草花は、花はイエローゴールド、葉っぱはグリーンゴールドで表現されています。 |
花びらも葉っぱもとても立体的な形に作られており、実物は驚くほど奥行きを感じることができます。 |
それだけでなく、花びらも葉っぱも丁寧に彫金が施されています。 |
ジョージアン プチ フラワー・ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
これはカラーゴールドと彫金を駆使したジョージアンのフラワーブローチの葉っぱと茎です。 まさにこのような金細工の技術がまだ存在していた時代だからこそ作られたジュエリーだと言えるのです。 |
ポイント4. 見たことのない立体的な表現
このブローチはかつて見たことがないほど立体的に作られています。 |
光の角度によって、黄金の丘には草花の影が映ります。 とても印象的な光景です。 |
横から見ると、実際にかなり立体的な構造になっていることが分かります。 |
草花の茎はまるで本物のように立体的に形作られていますし、お花も花びらだけでなく、ガーネットの花芯部分も高さのある立体的な構造になってることが分かります。1つ1つハンドメイドで特別に作られたものならではの魅力です。葉っぱとお花の隙間から覗き見える蝶の顔も、まるで表情があるように見えてとっても楽しいですね。こうやって見ると、身体が小さくなって自然界の生き物の世界に入り込んでしまったかのような気分にもなりますね。そういう冒険映画があったことを思い出します。 |
ポイント5. 色とりどりの宝石の蝶
普通はあまり色を増やしすぎるとゴチャゴチャした印象が出てくるのですが、これは別ですね。蝶の羽は赤いガーネットと黄色のシトリン、胸もガーネット、腹は緑のペリドットです。頭は小さすぎて鑑別できませんが、ピンク色を帯びているのでジョージアンに流行したピンクトパーズだと推測されます。 |
いずれの石も、色鮮やかであるだけでなく透明感ある美しい宝石が使われています。透明感があるからこそ、舞う蝶がより軽やかな印象になるのです。 |
宝石のカットも見事に使い分けられています。蝶は胸以外の宝石は全てファセット(面)のあるカットです。角度によってキラキラと煌めくので華やかです。一方で胸部分のガーネットはカボションカットです。頭、腹、羽や足すべての付け根となるのが胸です。ここが小さいながらもどっしりとした印象のカボションカット・ガーネットになっていることで、生き物としての力強さや生命力も表現されています。 |
裏側
裏側はロケットになっており、紫色の布が入っています。 丁寧な面取りガラスであることに加えて、ロケットのフレームにも細かいミルが打たれています。 また、艶消しにされたマット・ゴールドの高級感あふれる輝きも見事です。 見えない裏側であるにも関わらず、このような細かい気配りがあることが当時の高級品の証でもあります。 |
こうして見ると、まさに立体的な絵画です。黄金のフレームを使って、1つの幻想的な世界を切り取ってきたかのようですね♪ |
ヴィクトリア女王が即位したばかりの世の中が明るい雰囲気に包まれていた時期。そして金価格が高いながらもある程度安定し、ジョージアン期に高まった金細工技術が残っていた時期が重なったことによって生まれた特別な宝物。幻想的な小さな宝物は、いつまでも見ていてあきることはありません・・。 |