No.00240 エレガント・サーベル

英国王室御用達メーカーのカッコいいサーベル型クロークピン(ジャボットピン)

 

ジャボットピン ケース
ハーフパール ゴールド ジャボットピン クロークピン 『エレガント・サーベル』
王室御用達
EDWARD&SONS社製
天然真珠クロークピン(ジャボットピン)

イギリス  1880年頃
天然真珠、15ctゴールド
長さ 15.5cm
重量 13.7g
オリジナルケース付き
SOLD
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
ショールなどに使う、大型のクロークピンです。王侯貴族のステータスを表すサーベルモチーフで、メンズジュエリーならではの細部に至るまでの徹底した作りが素晴らしく、さすがヴィクトリア女王にも献上実績のある王室御用達メーカーの作品です。貴重なベルベットの高級オリジナルケースの存在が、さらにその価値を高めています。

 

オリジナルケースに入ったエレガントな宝物

アンティーク オリジナル ベルベットケース
出ました!オリジナルケース入りの特別な宝物♪
革のケース以上にこのようなベルベットのオリジナルケースは出てこないのですが、紫がかった濃いブルーの緻密な素材のベルベットは非常に高級感があります。
Edward and Sons Glasgow

メーカーはグラスゴーのEdwards & Sonsとあります。

TO THE QUEEN とあるのは、同社の品物をヴィクトリア女王に納めた実績があるということです。

1838年に創業したEdwards & Sonsは少し後の時代のオリジナルケースにある通り、ROYAL APPOINTMENT、つまりイギリス王室御用達となって優れたジュエリーをロイヤル・ファミリーに納めていました。

1963年に同じく王室御用達の老舗銀器メーカーであるマッピン&ウェッブに併合され、残念ながら現在Edwards & Sonsは存在しません。

【参考】Edwards & Sonsの少し後の時代のオリジナルケース
ジャボットピン ケース
この極上のオリジナルケースだけでも、中のジュエリーが間違いなく王室御用達足る素晴らしいものであることが伺えます。

イギリスのファッションリーダー

摂政皇太子で知られるイギリス国王ジョージ4世イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃

それぞれの時代でイギリスのファッションリーダーとなるのはロイヤル・ファミリーです。

王の新しいファッションが貴族の間で流行し、それが最終的には中産階級まで降りてきて庶民の間で流行することになります。

国の舵取りに王は大事ですが、どういう人物が王になるかは芸術文化、ファッションの観点からも重要なのです。

ジョージ4世が作らせたブライトンの別荘ロイヤルパビリオン "The Royal Pavilion Brighton UK" ©Fenliokao(2013年9月30日, 04:22:18)/Adapted/CC BY-SA 3.0

18世紀からヴィクトリア女王が即位する1837年までのジョージアンにおいて、ジョージ4世が摂政皇太子や国王としてイギリスを治めた時代はリージェンシーと呼ばれ、『リージェンシー・スタイル』の建築や家具、様々な美術工芸品は、そのセンスの良さからヨーロッパでは別格として評価されています。プライドの高さで知られるフランス人ですら、リージェンシー・スタイルの家具はこぞって買い求めたと言われています。

パドルロック キャッツアイ アンティークジュエリー『愛の錠前』
パドルロック ペンダント
イギリス 19世紀中期
SOLD
パドルロック ルビー アンティークジュエリー『愛の錠前』
パドルロック ペンダント
イギリス 1850年頃
SOLD
パドルロック ガーネット アンティークジュエリー『愛の錠前』
パドルロック ペンダント
イギリス 1850年頃
SOLD

イギリス一のジェントルマンと言われ、センスにも教養にもあふれ、女性との恋愛も多かったジョージ4世の時代には愛のモチーフのジュエリーも生み出されています。錠前技術の発展と併せて考案されたのが愛の錠前、パドルドックのジュエリーです。

ジョージアンのラバーズ・アイのアンティークジュエリー ジョージアンのラバーズ・アイのアンティークジュエリー
ジョージアン アイ・ポートレート ペンダント
イギリス 1790〜1800年頃
SOLD

愛する人の『目』をモチーフにしたラバーズ・アイのジュエリーもジョージ4世と、身分違いの叶わぬ恋の相手マリア・フィッツジェラルドとの恋愛によって生まれたと言われています。

ヴィクトリアンのファッションリーダー

ヴィクトリア女王(1819-1901年)19歳

ヴィクトリア時代は非常に長く、1837-1901年までの63年7ヶ月にも及びます。

即位した時は18歳の若さでしたが、崩御する81歳までずっとファッションリーダーであることはあり得ませんよね。

都電が走る銀座通り(1955年、昭和30年)【引用】東京都WEB写真館 ©東京都

ヴィクトリアンを一括りにして捉えようとする人も少なくないのですが、2019年の64年前と言えば1955年、昭和30年です。

新宿駅付近のバラック(1954年、昭和29年) 【引用】東京都WEB写真館 ©東京都

新宿駅付近で生活する人の簡易住宅です。

こういうバラック自体はどこかでまだ見ることがありそうですが、開けた景色が現代とは全く異なりますね。

大八車によるゴミ収集(1960年、昭和35年) 【引用】東京都WEB写真館 ©東京都

10年ひと昔。

10年もすれば、環境も文化も人々の生活スタイルもがらりと変化します。

蒸気機関車が並ぶ尾久操車場(1963年、昭和38年) 【引用】東京都WEB写真館 ©東京都

さすがに1955年から2019年までを同じものとして扱われたらみなさん困ってしまうことでしょう。

楽しい給食の時間(1961年、昭和36年) 【引用】東京都WEB写真館 ©東京都

昔の給食のコッペパンと脱脂粉乳は誰に聞いてもかなり不味かったと聞きますが、私は食べたことがありません。

今の子供たちに私がコッペパンや脱脂粉乳を質問されても困ってしまいます。

どんなに不味いのか気になるので、私も食べてみたいくらいです(笑)

1861年アルバート王配の崩御まで

ヴィクトリア女王の結婚式(1840年)

1837年に18歳で即位したヴィクトリア女王は、1840年の20歳で高い教養も持つドイツのイケメン、アルバート王配に自らプロポーズして結婚しました。ヴィクトリア女王は君主なので、プロポーズを受けるという形にはできなかったから自らプロポーズしたものです。

イギリス王ジョージ4世の戴冠式(1821年)ウェストミンスター寺院

ヴィクトリア女王以前の王がやりたい放題、特にジョージ4世は放蕩王と揶揄されるほど贅沢三昧だったので、ヴィクトリアが女王として即位した時代の王室財政は危機的状態に陥っていました。

ヴィクトリア女王(1819-1901年)11歳頃、1830年

ヴィクトリアは11歳で王位継承者であることを告げられると、「私は思ったより玉座に近いところにいるのね」と感想を述べ、さらに「良い人になるようにしますわ」と応えるほど真面目な人物でした。

もともと帝王たる才覚が天才的に備わっていたと言うよりは、生来の真面目気質に依るもので、一人になった後は大泣きしたそうです。

ヴィクトリア女王(1819-1901年)

真面目そのものでヴィクトリア女王は大人になりました。

通常、この時代の王侯貴族はセンスが良いと言われるフランス製を特別な時には使うものだったのですが、国内産業の発展を強化するため、ファッションリーダーである女王自らがイギリス製のレースをウェディングドレスに使いました。

イギリス王ジョージ3世とシャーロット夫妻と上の6人の子供たち(1770年)

さらにロイヤルファミリーとしての振るまいやプロモーションにも生真面目さが大いに発揮されました。本来王位に就く確率は限りなく低かったヴィクトリア女王に王位が回ってきたのは、ジョージ3世の子供たちが揃いも揃って"ゲス"だったからです。

ヴィクトリア女王の祖父ジョージ3世は浮気一つせずシャーロット王妃一筋、9男6女の計15人の子供たちに恵まれました。本来ならば嫡流を残す観点からは安泰だったことでしょう。

皇太子時代のジョージ4世皇太子時代のジョージ4世(1762-1830年)30歳頃 イギリス王ウィリアム4世イギリス王ウィリアム4世(1765-1837年) ケント公エドワード・オーガスタス(1767-1820年)51歳頃

誰も嫡子をまともに残さず、ジョージ3世の孫の時代に王位を継ぐ者がいないという、本気でヤバイ状況に陥ったのです。

揃いも揃って愛人や庶子はたくさんいたので、決して生物的に子孫が残せなかったわけではなかったのですが、「政略結婚なんて嫌だ、愛に生きたい!!愛する人とならば貧乏暮らしでも平気!!」という、ある意味自由で立派な人たちだったのです(笑)

ウィンザー城での女王夫妻と長女ヴィッキー(1840-1843年)ロイヤル・コレクション

離婚、愛人、私生児、贅沢三昧など、やりたい放題の極みだった前の時代の王たちを反面教師とし、ヴィクトリア女王は極端と言えるほど『真面目な王』に徹しました。

ヴィクトリアとアルバートは生涯仲睦まじい夫婦であり続け、多くの子供を儲けました。王侯貴族にとって肖像画はプロモーション・ツールの1つでもあります。ヴィクトリア女王のポートレートは女王一人だけでなく家族と共に描かれたものが多いのですが、『幸せなロイヤルファミリー』の姿をプロモーションすべくそのような構図で描くようにオーダーしたからです。

ちょっと上の構図は日本人感覚からするとシュールですが・・(笑)

プランタジネット舞踏会のヴィクトリア女王とアルバート王配(1842年)

アルバート王配は男性ながらしゃしゃり出ることなく、高い教養と人間性でヴィクトリア女王を生涯支え続けました。

アルバート王配もとても真面目な人物だったようです。

ヴィクトリア女王一家(1846年)ロイヤル・コレクション

その真面目すぎる夫婦の一番の被害者が長男バーティ、後のイギリス王エドワード7世でした。ヴィクトリア女王の隣にいる赤い服の少年です。生まれながらに次期王位継承者としての身分が決まっており、夫妻の真面目な帝王教育を一身に浴びることになりました。

イギリス国王エドワード7世(1841-1910年)5歳頃

ジョージ3世の息子たちが不真面目のやりたい放題だったので、そうならぬようにとバーティは余計に厳しい教育方針となってしまったようです。

夫妻のバーティへの教育は、半ば虐待と言っても良いほどの内容だったそうです。

ヴィクトリア女王夫妻と9人の子供たち(1857年)

夫婦仲良く、かつ慎ましく子だくさんで幸せな姿のロイヤルファミリーは、産業革命によって台頭してきた中産階級にとって理想の姿とされ、中産階級の賛美と憧れの対象となりました。だからこそヴィクトリア女王夫妻は中産階級のファッションリーダーとして確固たる人気を得たのですが、その陰でバーティは当然グレていくことになったのです。

1861年アルバート王配の崩御

フランス皇帝ナポレオン三世(1808-1873年)

あり得ない"教育"にグレながらも、生来の血筋の良さもあってバーティは優れた頭脳や人柄も備えていました。

ドイツ語やフランス語にも秀で、1852年の11歳での初めての国外訪問ではフランスを訪れています。

当時フランス皇帝ナポレオン3世にはまだ皇子がいなかったのですが、大変可愛がられて馬車の中で「あなたの子供だったら良かった」と漏らしたと言うエピソードも残っています。

その後もフランスには度々訪れ、ナポレオン三世からは色々と良からぬこと(笑)も教わったようです。

女優サラ・ベルナール(1844-1923年)
イギリス王エドワード7世イギリス王エドワード7世(1841-1910年)王太子時代

次第に素行不良が目立ち始めたバーティに、真面目過ぎるヴィクトリア夫妻は怒り心頭でした。

1861年にはアイルランドの女優ネリー・クリフデンとの関係が外国の大衆紙に彼女の言いふらしによって暴露され、激怒した父アルバートはエドワードが通っていたケンブリッジ大学に叱りに行きました。

ケンブリッジの御学友も同じような不良行為をしていたわけですし、まだ20歳くらいなのですから笑って許しても良い気がしますが、皇太子の身分は大変ですね。

「何で俺だけ」と言えない身分が辛い感じです。

アルバート王配(1819-1861年)

実はこの時アルバートは病気で体調が悪化していたのですが、それをおしてまで叱りに行ったのです。

アルバートとバーティの間で何が話し合われたのかは明らかではないそうです。

バーティは父に言いつけを守ると約束したそうですが、無理がたたって腸チフスが悪化し、翌月危篤状態に陥ってしまいました。

アルバート王配(1819-1861年)41歳頃

父の危篤を知ってバーティは12月14日の午前3時にウィンザー城に駆け付けました。

アルバートは瀕死の状態でしたが、バーティの顔を見ると安心したような表情になり、同日の午後11時に崩御しました。

これは私の想像ですが、死に目に会いに来てはくれないのではと自覚するほど、アルバートはバーティに対して酷い説教をしていたのではないかと思うのです。

それを許し、来てくれた。しかも本気で自分を心配してくれる、そんな心優しいバーティを見て安堵して旅立ったのだと想像しています。

1861年のアルバート王配の崩御以降

ヴィクトリア女王とアルバート王配(1861年)共に42歳頃

そんな父と息子のやりとりなんて知ったことではないヴィクトリア女王にとって、最愛のアルバート王配をたった42歳で突然失った悲しみは言いようのないものでした。

誰にもあたりようのない状況下、ヴィクトリア女王は"できそこない"のバーティのせいでアルバートが死んだと考えるようになり、バーティを公務から遠ざけるようになりました。

フランス・ヴァンセンヌでフランス軍を閲兵するイギリス王エドワード7世(1903年)

その結果、皇太子バーティは国内ではなく各国との外交で大いにその能力を発揮することとなりました。帝国主義うずまく19世紀後期から20世紀初頭の不安定な世界情勢の中、『ピースメーカー』として世界の平和を保ったのです。1910年にエドワード7世が崩御後はその不安定化する世界情勢を抑えられる者がおらず、1914年には第一次世界大戦が勃発し、その後さらに第二次世界大戦へとつながっていくことになります。

ジュビリー・エナメル ブローチ アンティークジュエリー『幕開けの華』
ジュビリー・エナメル ブローチ
イギリス 1887年
SOLD

アルバートを亡くしたヴィクトリア女王が長すぎる喪にふくしたことは有名な話です。

即位50年を祝うゴールデン・ジュビリーでおよそ26年にも及ぶ喪は明けましたが、それでも基本的には二度とヴィクトリア女王が豪華な衣装を着ることはありませんでした。

PDヴィクトリア女王の喪服(1894年)

自身が亡くなるまでの39年間を黒い喪服だけで過ごしたそうです。

喪服姿のヴィクトリア女王喪服姿のヴィクトリア女王(1867年)

そんなヴィクトリア女王も、最後までバーティに拒絶反応を示し続けたわけではありません。

1900年代に入ると大分体力的にも衰えが見えるようになりました。

相変わらず激務に励みながらも、日記の中では「私もそろそろ休息が許されても良い頃です。81歳でしかも疲れ果てているのですからね。」と弱音を吐くこともあったそうです。

イギリス王室4代イギリス王室4代:女王ヴィクトリア、皇太子バーティ(エドワード7世)、孫ヨーク公ジョージ(ジョージ5世)、曾孫エドワード王子(エドワード8世)(1898年)

1901年に入ると脳出血を起こすようになり、ついにベッドから起き上がれなくなりました。。

それでも1月21日には、「まだ死にたくない。私にはしなければならないことがまだ残っている。」と話したそうです。

崩御が近いと看た侍従医たちによって子供たちに召集がかかり、22日の正午頃、枕元にすすり泣きながら立つ皇太子バーティの存在に気づいたヴィクトリア女王は、手を広げるような仕草をして「バーティ」と呟いたそうです。

この「バーティ」が判別できるヴィクトリア女王の最期の言葉でした。

ヴィクトリア女王と親族たちヴィクトリア女王と親族たち(1877年)

子供たちや孫たちが見守る中、ヴィクトリア女王は81歳で崩御しました。イギリス国王になるために生を与えられ、真面目過ぎるほど頑張って全ての生涯を国に捧げた女王。

イギリス王エドワード7世(在位1901-1910年)

虐待的な教育で若いときにグレはしたものの、生来の心優しさと頭の良さもあって、そのような両親のこともバーティは理解していたのでしょう。

バーティの本名はアルバート・エドワードです。

本来ならば国王の名はアルバートとなるはずでしたが、「アルバートと言えば誰もが父を思い出すようにしたかった」という理由でエドワード7世にしたのだそうです。

イギリス王エドワード7世(1841-1910年)

国王就任時の要人を集めたパーティで、エドワード7世が「諸君、これからは大いに吸おうではないか!」と言い放ったとも言われています。

大の嫌煙家だったヴィクトリア女王に対する当てつけであって、放蕩息子らしいエピソードだとおもしろおかしく言われたりもするのですが、女王のいまわの際に泣きながら枕元に付き添い、最期の言葉「バーティ」を言われた人物がそんな当てつけで言う言葉だとは思えないのです。

誰よりも母の死を悲しんだはずのバーティですが、国のトップたる自らが悲しみに沈みっぱなしでは国が暗くなります。

大往生した母。

周りが気を遣わずに済むよう、強い気持ちで明るく言葉を発したに違いありません。

ロシア皇室ヨット『スタンダルト』上の
イギリス王エドワード7世とロシア皇帝ニコライ2世(1908年)

18歳で即位して64年近く在位したヴィクトリア女王に対し、60歳で即位したバーティの在位期間1901-1910年のわずか9年ほどでした。1909年4月から1910年1月にかけては9ヶ月近くに渡って休む暇がないほど激務で、過労で気管支炎を患うほどでした。体調は悪化し続け、3月にようやく療養に入ったものの回復せず、そんな状況下でも仕事に戻らざるを得なくなり4月に療養を切り上げてロンドンに戻りました。

イギリス王エドワード7世(1841-1910年)61歳頃

5月に入って気管支炎が再び酷くなったにも関わらず無理に公務を続けた結果、かつてないほど衰弱した状態に陥ってしまいました。

5月6日、昏睡状態の中で「いや、私は絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ。」と最期の言葉を呟いて68歳の生涯を閉じました。

『過労』なんて日本の中だけのイメージがありますが、イギリス国王もこれは過労死ですね。

イギリス王妃アレクサンドラと王エドワード7世イギリス王妃アレクサンドラと王エドワード7世

エドワード7世の最期を看取ったアレクサンドラ王妃は「彼は国のために命を落とした。」と語っています。

王室は目立つので、いつの時代もメディアや民衆によってゲスな捉えられ方をし、おもしろおかしい部分だけが切り取られて伝わったりもしますが、『馬鹿息子』と言うのはあまり本質を表現した言葉ではないのです。

アルバート王配崩御後のファッションリーダー

1860年頃のアルバート王配アルバート王配(1819-1861年)1860年頃

1861年に亡くなるまでは、ヴィクトリアンのメンズ・ファンションリーダーはアルバート王配でした。

この写真で着ているのはフロックコート、別名プリンス・アルバート・コートです。

コートの隙間のベストからチラリと見えているのはアルバート・チェーンタイプのウォッチチェーンです。

王太子時代のイギリス王エドワード7世(1841-1910年)

アルバート王配の後にイギリスのメンズ・ファッション・リーダーとなったのが、20歳で父を亡くした皇太子バーティでした。

バーティのセンスの良さは、ファッションに興味のある男性には有名な話です。

ディレクターズスーツの紳士

このディレクターズスーツもエドワード7世が発案したとされています。

ブラックのジャケットにブラックとグレーのストライプのスラックス(コールパンツ)を組み合わせるスーツです。

3つ揃いのスーツはそれまであくまでも室内着、もしくはカジュアルに近い服装とされていましたが、フロックコートやモーニングコートに次ぐ礼装として調え、エドワード7世自身が着用することで礼装としての地位が示されました。

リトアニア首相ヴォルデマラス(左)とドイツ外相シュトレーゼマン(右)の
会談時の記念撮影(1929年)

それが一般化し、世界の首脳と外相クラスの会談でも着用されるようになっています。上の写真もカラーではありませんが、写っている人々のズボンがストライプのコールパンツであることが分かりますね。

ホンブルグ・ハットを被ったエドワード7世

ディレクターズスーツに合わせられるホンブルグ・ハットを有名にしたのもエドワード7世でした。

クラウンの中央に折れ目が付き、ブリムの縁を絹のリボンで飾り、全体が巻き上がった帽子です。

イギリスの首相ウィンストン・チャーチルも愛用者の一人で、上流階級で流行したホンブルグ・ハットはアメリカでも流行し、一般のビジネスマンにまで広く愛用されるようになりました。

エドワード7世 ダンディ イギリス国王 テディ バーティ メンズファッションの神イギリス王エドワード7世(1841-1910年)

皇太子時代からグレンチェック模様の服を愛用していたため、この模様には『プリンス・オブ・ウェールズ』の呼び名があり、今でもそう呼ばれたりしています。

また、ネクタイの結び方の種類にも『プリンス・アルバート』(エドワード7世の本名アルバート・エドワードより)という呼び名があり、結び目を小さく作る方法です。

エドワード7世 ダンディ イギリス国王 テディ バーティ メンズファッションの神イギリス王エドワード7世(1841-1910年)

洋服、小物、着方など、全てにおいて新しいスタイルを提案し、流行を作り普及させるのがファッションリーダーです。

現代ではジュエリーまで気を利かせられる男性はなかなかいませんが、バーティはフランスでジュエリーを買いまくって『宝石王子』と呼ばれるほどの人物でした。

当然、センス良く使いこなしています。

ジャボットピン ケース
そのファッションリーダー皇太子バーティ全盛期に、王室御用達EDWARD&SONSで作られたのがこのサーベル型のジャボットピンなのです。

剣型ジャボットピンの流行

ハーフパール ゴールド ジャボットピン クロークピンジャボットピン
イギリス 1890年頃
長さ:2.7cm
SOLD
ハーフパール ゴールド ジャボットピン クロークピンジャボットピン
イギリス 1870〜1880年代
長さ:7.7cm
SOLD
ダイヤモンドのサーベル型ジャボットピン クロークピンジャボットピン
イギリス 1870〜1880年代
長さ:15.8cm
SOLD

ヴィクトリアン後期に剣型のジャボットピンが流行したようで、これまでにもいくつか扱ったことがあります。

ただ、大きさは様々でした。

ジャボットピン自体が小さなイメージで、これまでに15cmを超える特別に大きな剣型ジャボットピンは1つしか見たことがありません。

ハーフパールとゴールドのサーベル型ジャボットピン クロークピン 今回の宝物は、かなり大型の珍しいタイプのジャボットピンと言えます。

サーベル・モチーフ

イギリス貴族は社交界でキャッキャ・ウフフとはしゃぐだけではありません。

政治家として無償奉仕したり、軍務に就いたりもします。

教養の高さはもちろんのこと、イギリス紳士にとって男らしさは非常に重要なものです。一番大事と言っても過言ではありません。

バーティも19歳で陸軍近衛歩兵連隊に入隊し、アイルランドで訓練も受けています。

1860年代の皇太子バーティ(1841-1910年)
王太子バーティとアレクサンドラ妃と長男エディ(1883-1886年)

国のトップイコール軍の総帥でもあります。

昔は主要な武器であったサーベルも、時代が下り既に実戦ではメインとなる武器ではありませんでした。

しかしながらこの時代は将校(士官)の階級を示すシンボルともなり、精神的・装飾的な意味合いとして携帯され続けました。

基本的にイギリスでは将校は貴族がなるものだったので、サーベルを持っていることイコール王侯貴族としてのステータスでもあったというわけです。

王太子時代のエドワード7世と次男ジョージ(1890年)

『紳士と淑女』でご紹介した通り、レディは扇を持つ姿の肖像画を描かせることで女性らしさや優雅さをPRしていました。

男性の場合は『ステータス』でご紹介した通り、ウォッチチェーンを着けた写真で財力をPRしました。

中産階級が台頭して来た時代、ある程度の富裕層ならば高価な懐中時計とウォッチチェーンもお金を出せば手に入りますが、王侯貴族を象徴するサーベルともなればお金の力で買えるものではありません。

柄

サーベルは男性にとって、ステータスとして別格と言える特別な存在なのです。

何しろ子供全員が爵位を継げて時代を下るごとに貴族が増えまくる大陸貴族と異なり、男系長子一人だけしか爵位を継げないイギリスは貴族の人数が桁違いに少なく、希少性が非常に高い存在だったからです。

明治天皇にガーター勲章を授与するコノート公アーサー(1906年)

ちょうど日本が先進友好国イギリスに学べと一生懸命だったこの時代の絵画を見ると、やはりサーベルがステータスのシンボルとして使われていたことが分かりますね。

サーベルモチーフの中でも別格の作り

ハーフパール ゴールド ジャボットピン クロークピン

王侯貴族のステータスであるサーベルをカッコ良いジュエリーにしてしまったのが、メンズファッションの神バーティの時代なのです。いくつかあるサーベル型ジャボットピンの中でも、別格の良い作りです。

立体的な表現

柄 柄

2次元になってしまう画像ではいまいち立体感が出ませんが、それでもかなり立体的な作りはご想像いただけますでしょうか。裏側の画像では撮影用のライトを反射している部分が折れ曲がっているように見えるかもしれませんが、実際は曲面になっており、美しく感じられるようなしっかりとした曲率が付いているということです。

柄

小さなピンキャッチも、わざわざ段差をつけた丁寧な作りです。

天然真珠という当時の最高級の素材

天然真珠セミロング・ネックレス(アンティーク・ジュエリー)『月の雫』
天然真珠 セミロング・ネックレス
イギリス 1900年頃
SOLD

『月の雫』で詳細はご紹介した通り、南アフリカでダイヤモンドラッシュが始まった1870年代以降ダイヤモンドの希少価値が低下し、相対的に数が採れない天然真珠の価値は非常に高まっていきました。

1900年前後には、ステータスとして史上最も天然真珠の価値が高まる時代が到来します。

薄い真珠層を貝殻の核にメッキした、大半はただの貝殻であるいくらでも安値で量産可能な玉コロが本真珠、まるで本物の真珠のように思わされている現代の感覚からすると、ダイヤモンドの方が真珠より価値が高いように感じるかもしれません。でも、実際にはそうではなかったことはアンティークジュエリーの作りを比較すれば明らかです。

ダイヤモンドのサーベル型ジャボットピン クロークピン
ジャボットピン
イギリス 1870〜1880年代
長さ:15.8cm
SOLD
これは同じくらいか少しだけ前の年代に作られた、同じサーベル型の大型のジャボットピンです。オリジナルケース入りで、十分に特別な高級品です。
ダイヤモンドのサーベル型ジャボットピン クロークピン

造形も美しいのですが、作りはちょっと平面的で、今回の作品を見ると少し物足りなく感じてしまうのです。作りは間違いなく天然真珠のサーベルの方が優れているのですが、ヨーロッパ人も含めて天然真珠の価値が分からなくなってしまった現代人にとってはダイヤモンドの方が価値あるように感じてしまうようなのです。

ダイヤモンドのサーベル型ジャボットピン クロークピン

どうしても現代ではダイヤモンドによるこちらの作品の方が評価が高くなり、市場での取引価格が高くなってしまうのが、当時の時代背景に関する知識を持っていたり作りが分かる者としては微妙に感じてしまいます。

ハーフパール ゴールド ジャボットピン クロークピン

ダイヤモンドの煌めきはもちろん魅力がありますが、知られざる良いものになってしまった天然真珠で作られた、最高級のジャボットピンとしての魅力が分かる人にとっては、市場価格が抑えられた状態にあるのはある意味ラッキーなことだと言えそうですね。

天然真珠の美しさと魅力あるセッティング

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー『ダイヤモンドの原石』
クラバットピン(タイピン)&タイタック
イギリス 1880年頃
SOLD

『ダイヤモンドの原石』もそうでしたが、男性は女性ほどジュエリーをとっかえひっかえしないこともあって、1つのジュエリーに分かりにくくてもお金をかけて細部にこだわる傾向があります。

このため、メンズジュエリーは特に作りが優れたものが多いのが特徴です。

ジャボットピン ケース
この作品に使われている天然真珠は、普通のハイジュエリーに使われる天然真珠以上に「白い」という印象があります。普通はもう少しクリーム色がかった印象があるものなのです。さらに真珠の留め方にも特徴があります。
非加熱シトリンとマベパールのブローチ&ペンダント アンティーク・ジュエリー『社交界の花』
シトリン ブローチ&ペンダント
イギリス 1870年頃
SOLD

ハーフパールの留め方で、ゴールドにこれまでで最も繊細で美しいミルが打たれているのが『社交界の花』でした。

肉眼ではもはやほとんど判別できないほどの繊細緻密なミルは、女性らしい清楚な美しさを強調していました。

柄

一方で1つ1つ天然真珠に合わせてサイズが異なる覆輪を削り出して、一見爪のようにも見えるシャープで力強い表現をした細工は、力強いカッコ良さを演出しています。

手間がかかる上に、一見地味な細工ですが確実に全体の雰囲気には効いています。

しかし全てのハーフパールがこの覆輪による細工ではありません。

フレームに溝を掘って、小さな爪でハーフパールをセットした箇所もあります。

柄

面白いのが、ナイフエッジで作られた横線の下の飾り部分です。フレーム上方は溝を掘ったシンプルな作り、下方は覆輪を削り出した作りです。

柄

飾りの付いた力強い印象の覆輪のフレームと、シンプルな線によるエレガントな印象のフレームをうまく組み合わせることで、全体として気の利いたデザインとなっています。

また、それぞれ小さな天然真珠を留めたさらにその先には、わざわざ粒金のようにゴールドを削り出した細工が至るところにあります。

柄

大きなハーフパールとハーフパールの隙間に、驚くほど小さな真珠がわざわざセットされているなど、細部までのこだわりが半端ではありません。

一見気づかないような細部までの徹底したこだわりが、さすがメンズジュエリーと感じます。

柄

ピンキャッチ1つ見ても、ハーフパールのサイズがきちんとグラデーションになってセットされており、このジャボットピンがいかに高級品として作られたのかが伝わってきます。

ピンキャッチ

柄

キャッチは裏側のボタンを押すとはずれる仕組みになっています。

このような仕組みのキャッチは本当に高級な物にしか付いていない物ですし、とても実用的です。

さすがはハイクラスのアンティーク・ジュエリーだと嬉しくなります♪

裏側

柄

裏の仕上げも完璧です。

柄

15ctのホールマークがあります。

オリジナルケース

アンティーク オリジナル ベルベットケース
オリジナルケースは長い年月の中で、1度離ればなれになったらもう2度と手に入らないものです。高級なベルベットのオリジナルケースはそれだけでも非常に価値があります。
ジャボットピン ケース
観音開きの扉を開けると、この特別な宝物が出てくるなんて最高に楽しいではありませんか♪

 

ジャボットピンのサイズイメージ

大きさの感覚的にはこのような感じです。

サイズがあるので使い方が難しそうに感じるかもしれませんが、その分うまく使いこなせば最高にカッコ良くエレガントなコーディネートになると思います。

ジャボットピンの着用イメージ
ざっくりとしたショールなども相性が良さそうです。白く美しい天然真珠を使ったジュエリーなので、メンズジュエリーとは言っても変にゴツ過ぎず、男らしいというよりはエレガントな雰囲気です。存在感があるので、落ちない留め方をできる方であれば簪のようにして使っても面白いかもしれません。