No.00204 Toi et Moi |
優しく輝く白い天然真珠と、強く煌めくクリアなオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド・・。 |
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『Toi et Moi』 純白の美しい天然真珠と、それに相応しい大きくてクリアなオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドを使った贅沢なトワエモア・リングです。エレガントなデザインと、それを実現させるための作りの良さも素晴らしく、これまで扱ってきたトワエモア・リングの中で間違いなく最上質のものです。 |
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トワエモアリング
同じ大きさの宝石をこのように対向してセッティングさせたリングをトワエモアリングと呼びます。 ベルエポックの時代にフランスで流行しました。イギリスでもクロスオーバーリングという呼ばれ方で同時代に流行しています。 Toi et Moi
2つの宝石で表現された貴方と私。それぞれの魂が一緒になる、つまりこれは婚約指輪、2人の特別な愛の証なのです♪ |
ナポレオンの婚約指輪
流行したのはベルエポックの時代ですが、実はナポレオンが1796年にジョゼフィーヌに贈った婚約指輪がトワエモア・リングでした。同じ大きさのペアシェイプ型のサファイアとダイヤモンドを組み合わせたトワエモア・リングです。 皇帝ナポレオンのイメージからすると地味なものでしたが、当時は一介の軍人に過ぎなかった27歳のナポレオンにとっては相当高価なものだったはずと言われています。ジョゼフィーヌへありったけの愛を、2人が1つになるための婚約指輪に込めたのです。 ナポレオンが皇帝になった後の贅を極めたジュエリーの数々はよく知られています。婚約指輪より遥かに高価なジュエリーをいくつも持つことができる身分になりましたが、それでもトワエモア・リングは愛の証として何よりも価値あるジュエリーだったに違いありません。 |
フランス皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年) | 王妃マリーアントワネットが贅沢をし過ぎてフランス革命(1789年)が起きたとも言われたりするほどですが、皇后ジョゼフィーヌもフランス一優雅でオシャレな女性としてたくさんのドレスや宝石を買っていたそうです。 人が良すぎて断れない性格だった皇后ジョゼフィーヌは、1年でドレス900枚、手袋1,000組、靴500足以上購入したと言われています。 1年365日ではなんて、貧乏人の感覚でツッコんではいけません。王侯貴族は1日に何度でも着替えたりするものなのです。現代の欧米の上流階級もそうですよね。昼と夜、TPOでドレスもジュエリーも変えるのです。 |
ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年) | ナポレオンがジョゼフィーヌと知り合ったのは1795年のことです。 当時26歳、軍人として活躍はしていたものの、まだ皇帝どころか統領政府の第一統領にも就いていない時期です。 家族でコルシカ島の田舎から出てきて、既に亡くなった父の代わりに再婚もせず、女手一人で家族を養う母を支えてたくさんの兄弟たちの面倒も見る金銭的には余裕のない状況でした。
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結婚前のナポレオンとジョゼフィーヌ | 当時ジョゼフィーヌは32歳、離婚歴もある2人の子持ちの未亡人でした。 当時『陽気な未亡人』とも称されていた、社交的で陽気な性格のジョゼフィーヌにナポレオンは熱烈に恋をしたのでした。 |
ナポレオンの父シャルル・マリ・ボナパルト(1746-1785年) | ナポレオンが生まれたボナパルト家の先祖は、元々は中部イタリアのトスカーナ州に起源を持つ古い血統貴族でした。 ナポレオンの生まれた当時のコルシカには貴族制がありませんでしたが、コルシカ独立戦争の敗戦後にフランス側に転向し、フランス政府から正式に古い血統の証明資格を認められたことでボナパルト家は晴れて貴族の仲間入りを果たしています。 フランス貴族はイギリス貴族と違って、革命前は金欠政府がお金と引き替えに貴族の身分を認めることもたくさんやっていたので、そこまで大したことではないと思うのですが、貴族の身分を得たおかげでナポレオンをフランス本土の士官学校で学ばせることができたのです。 |
1792年、23歳のナポレオン・ボナパルト(制作1835年) | 幼年期のナポレオンは節約を兼ねて読書に明け暮れた、無口で友達の少ない少年でした。 1779年、10歳の時に貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校に入学し、数学で抜群の成績を修めています。 1784年、15歳の時にパリの陸軍士官学校に入学し、砲兵科で学びました。 そんな折、父シャルルが急逝し、一家の収入が激減してしまいます。 このような事情があったため、砲兵科のカリキュラムは2年間、通常の在籍期間は4年前後なのですが、それをナポレオンはわずか11ヶ月で修了してしまいます。これは開校以来の最短卒業記録でした。 |
ナポレオンの母マリア・レティツィア・ボナパルト(1750-1836年) | ナポレオンの母マリアは14歳の時に18歳だったシャルルと結婚しています。 コルシカ独立戦争では女性でありながら兵士として参加し、夫が38歳で死去した後は再婚もせず女手一人で5男3女を育てました。 コルシカ人としてのアイデンティティーが強かったため、フランスに移り住んでからも終生コルシカ語を使い続けました。 それもあってナポレオンもフランス語にコルシカ訛りがあって、学校で馬鹿にされ、裕福な貴族の子弟たちとは折り合いが悪かったようです。 |
『1804年のフランス皇帝ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』 (制作 1805-1807年)ルーブル美術館 |
貧しいながらも苦労して子供たちを育て上げた母マリアは、皇太后の称号を得た後でも他の家族のように贅沢をすることはなく、質素に生活して金銭を倹約しました。決してケチだったわけではなく、必要な時は適切にお金を使っていまう。ナポレオンがエルバ島に追放された際は、それまで貯めた資金で困窮した元部下や家族を援助しており、86歳で亡くなるまで頭脳は明晰だったそうです。 独立戦争に兵士として参加したほど誇りと勇気ある女性だったこともあり、ナポレオンの戴冠式には出席していません。でも、上の絵の中央に座っているのが母マリアです。ナポレオンが命じて描かせたそうです。 そんな母マリアは、ナポレオンより6歳年上で2人の子がいる社交的な未亡人ジョゼフィーヌとの結婚には大反対でした。そんな中、反対を押し切ってナポレオンはジョゼフィーヌと出会って5ヶ月で結婚したのです。このような背景を考えれば、いかにトワエモアにナポレオンが当時できる限りの大枚をはたき、ありったけの愛を表現したのかが想像できますね。 |
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年) | 真面目でそれまで華やかさのない生活で育ったナポレオンには、社交界の花形として輝き、陽気な性格で周りから人気者だったジョゼフィーヌがとても眩しく映ったのかもしれませんね。 人は自分にないものを持っている人に惹かれたりするものです。 |
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年) | でも、実はジョゼフィーヌも最初から華やかな家に生まれて、誰もが羨む華やかな生活をしていたわけではないのです。 |
ジョゼフィーヌの略歴
マルティニーク島の位置 ©google map |
ジョゼフィーヌは貴族の娘として生まれたものの、出身地はフランス領西インド諸島マルティニーク島です。祖父の代から母国を離れたクレオール、つまり植民地生まれです。 |
アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵(1760-1794年) | そんな中、フランス本土の貴族との縁談話が持ち上がりました。 1779年、16歳のジョゼフィーヌはフランス将校だったアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と結婚することになり、ド田舎の島から花の都パリへと移り住むことになるのです。 |
ウジェーヌ・ド・ボアルネ(1781-1824年)1810年、29歳頃 | アレクサンドルは美男子で知的なモテモテのフランス将校で、ジョゼフィーヌは一目惚れします。 ウジェーヌ・ド・ボアルネや、後のフランス皇帝ナポレオン三世の母となるオルタンスの2人の子だからにも恵まれますが、アレクサンドルは結婚前の恋人とよりを戻して家に帰らなくなってしまいます。 |
オルタンス・ド・ボアルネ(1783-1837年)1813年、30歳頃 | アレクサンドルはジョゼフィーヌの田舎じみた服装や、字さえろくに書けない教養の低さショックを受けたのでした。 最終的にはジョゼフィーヌと別居したいと裁判所に申し出ました。 屈辱的な提案にも関わらず、ジョゼフィーヌはあっさりと別居をOKしたそうです。 このあたりは本人の生まれ持った性格に加えて、南国育ちならではの楽観主義やポジティブシンキングみたいなものもあったのでしょうかね。大いに人を惹きつける魅力になりそうです。 ジョゼフィーヌはまだ子供たちが生まれたばかり、結婚して4年程度の20歳くらい時のことです。 |
パンテモン修道院断面図 | ジョゼフィーヌは裁判所での争いの結果、パンテモン修道院の居住権、子供の養育費、年金などの良い条件を獲得し、1783年に離婚しました。 これが転機となります。 |
フランスのディジョンの貴族の家出身の聖ジャンヌ・フランソワーズ・シャンタル(1572-1641年) | 修道院と言うと地味な尼僧のイメージがあったりもしますが、結婚前の貴族の女性を教育のために入れたり、何らかの事情で結婚できなかった貴族の女性が入る場所でもありました。 |
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年) | 社交界のようなパンテモン修道院で約2年間、貴族のご婦人たちとのつきあいを通して上品さや優雅さを吸収し、洗練された言葉遣いや自分の無知を巧みにごまかす術を習得したジョゼフィーヌは洗練されたパリジェンヌへ見事な変貌を遂げました。 1785年の22歳、パンテモン修道院を出たジョゼフィーヌは身につけた社交術を駆使して、恋愛のスペシャリストとなっていきます。 |
アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵(1760-1794年) | そんな中、1789年にフランス革命が起こります。 元夫アレクサンドルは、国民議会議長に就任しました。この時、ジョゼフィーヌは元妻として話題の人となるチャンスを逃しませんでした。 さらに社交界の花形として輝くジョゼフィーヌでしたが、1794年にアレクサンドルはギロチンで処刑されてしまいます。 1793年3月から1794年7月にかけてはパリだけでも2639人がギロチンの犠牲になったと言われています。最高では1794年7月29日に、たったこの1日で70人が犠牲になっています。異様な時代でした。 元夫や友人の助命嘆願が罪に問われて、ジョゼフィーヌ自身も投獄された時期もありました。 |
マクシミリアン・ロベスピエール(1758-1794年) | 恐怖政治の象徴ともされる代表的な革命指導者マクシミリアン・ロベスピエール自身も1794年7月28日にギロチンで処刑されると、8月3日にジョゼフィーヌは釈放されました。 ちなみにこのロベスピエールは左の肖像画では貴族のような身なりをしていますが、実際は一般市民や農民で構成される第三身分に属しています。 ロベスピエール家は貴族風に「ド・ロベスピエール」を名乗っていたそうです。Wikipediaには、「史上初のテロリスト(恐怖政治家)」なんて書かれていました。 |
バラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ(1755-1829年) | 貴族であっても生きていくだけで大変な時代です。 ジョゼフィーヌは総裁政府のリーダー格だったバラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラ、通称ポール・バラスの愛人になります。 |
テレーズ・カバリュス(1773-1835年) | ジュリエット・レカミエ(1777-1849年) |
この総裁政府期、ジョゼフィーヌは親友のテレーズ・カバリュスやジュリエット・レカミエと並ぶ社交界の花形として活躍していました。銀行家の娘だったテレーズは子供の頃から美人だったと言われており、社交界でも卓越したファッションセンスとその美貌で活躍した女性です。一方、ジュリエットは世界の歴史の中でも、最も美しい女性と岩rている人物です。美しい容姿を持ち、強く美しい目をしており、性格は聡明、非常に信念が強く、忍耐も強く頑固で教養が高かったそうです。 |
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年) | 知性と教養に加えて美しさも兼ね備えたそうそうたるご婦人たちが揃う社交界で、美人とは評価される記述はほとんど見られないド田舎出身のジョゼフィーヌは『陽気な未亡人』として大活躍していたのです。 男性も手練れ揃いのパリ社交界、少しでも気を抜けば喰い散らかされ惨めに捨てられ、憐れな笑い者にされる恐ろしい場であったはずです。 容貌だけでは足りない自分に何があれば良いのか、それが『陽気な未亡人』としての振る舞いだったと思うのです。 |
結婚前のナポレオンとジョゼフィーヌ | そんな『陽気な未亡人』に熱烈に恋をしたのが、真面目な母親に苦労して育てられた数学好きの大人しい軍人ナポレオンだったのです。 ジョゼフィーヌは熱烈な求婚を受けて結婚したものの、それは生活の安定を得るためでした。 ナポレオンを無骨でつまらない男と見て、浮気を繰り返していました。 |
ナポレオンがジョゼフィーヌに送った熱烈なラブレターは有名ですが、受け取った手紙はろくに読むことも返事を書くこともなく、手紙を友人に見せて笑ったりしていたそうです。 このエピソードだけ切り取ると「ジョゼフィーヌって嫌な女性」という印象になってしまいますが、これまでの彼女の経験を考えるとちょっと違った側面が見えませんか。 自身も田舎から出てきて、パリの社交の場で馬鹿にされ笑われた経験があるのです。浮気や愛人が当然のパリ社交界、本当の愛なんてあるのか人間不信にもなるでしょうし、心を強く、ガードを固めて本当の自分なんて絶対に見せないようにしないと生きて行けません。 |
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年) | だからこそ表面上はそのような心の闇なんて見せず、明るく楽しい陽気なジョゼフィーヌとして振る舞っていたのではないでしょうか。 愚直なまでに愛を示してくれるナポレオン。その真心は感じつつも、それまでに傷つきすぎた心はすぐには癒すことができず、相手を試すようなことをしてしまう。 |
イッポリト・シャルル(1773-1837年) | ジョゼフィーヌは結婚直後から、美男として知られる騎兵大尉イッポリト・シャルルと愛人関係にありました。 |
エジプト遠征(1798-1801年) | エジプト遠征中にその浮気を知ったナポレオンは、嘆きの内容の手紙をフランスに送るのですが、手紙を載せたフランス艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載されてしまう事態が発生します。 当時既に英雄視されていたナポレオンですが、妻の浮気1つコントロールできないという大恥をかいてしまいました。 |
ジョゼフィーヌと2人の連れ子 | ついにナポレオンは離婚を決意しますが、ジョゼフィーヌの2人の連れ子の涙ながらの嘆願と、ジョゼフィーヌ自身への愛から離婚は思いとどまりました。 この離婚騒動のあたりからジョゼフィーヌは徐々にナポレオンを真摯に愛するようになっていきます。 ナポレオンの真心からの愛によって、ジョゼフィーヌの傷つきすぎた心が少しずつ癒えて「無償の愛」、「本当の愛」の存在を信じ始めたということかもしれません。 |
1792年、23歳のナポレオン・ボナパルト(制作1835年) | 一方で、傷つきすぎたナポレオンはこの頃からジョゼフィーヌに対する熱烈な愛情が冷め始め、ほかの女性たちにも関心を持つようになっていくのです。 なんだか切ない話ですし、現代でも2人に共感できる部分は多々あるのではないでしょうか。 |
離婚の原因
マリア・ヴァレフスカ(1786-1817年) | ジョゼフィーヌには子供が2人いましたが、ナポレオンとの子供ができることはありませんでした そんな中、1809年にポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカからナポレオンは妊娠を告げられます。 |
フランス皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年) | 自らの生殖能力に自信を持ったナポレオンは、ヨーロッパ君主の皇女たちと縁組みすることを考え、ジョゼフィーヌとの離婚を決意します。 |
オルタンス・ド・ボアルネ(1783-1837年) | ジョゼフィーヌは大変なショックを受け、1810年の離婚式では娘オルタンスに支えてもらわなければ歩けなかったほどだったそうです。 |
離婚後
マルメゾン城 "Chateaudemalmaison" ©Pedro Faber(14 July 2017)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
ジョゼフィーヌは離婚後も皇后の称号を許され、多額の年金を支給されながらマルメゾン城で余生を送りました。喧嘩別れでないため、離婚後も皇帝ナポレオンの良き話し相手として、後妻が嫉妬するほど仲が良かったそうです。ナポレオン自身もたびたび滞在しており、去った後もナポレオンの居室はそのままの状態で保たれ、ジョゼフィーヌはこの部屋のものを『聖遺物』と称していたそうです。 |
皇帝ナポレオンの退位後は気落ちしがちで、百日天下でナポレオンがエルバ島からパリに帰還するのを待たずに50歳で肺炎で急死しました。 最期の言葉は「ボナパルト、ローマ王、エルバ島・・・」だったそうです。 ローマ王とは、ナポレオンと後妻の間に誕生した長男の名前です。 |
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マルメゾンの庭園に腰掛けるジョゼフィーヌ |
1821年のセントヘレナ島でのナポレオンの死を描いた1826年の絵画 |
一方、ナポレオンが配流地セントヘレナ島で51歳で死去する際に遺した最期の言葉は「フランス、陸軍、陸軍総帥、ジョゼフィーヌ・・・」だったそうです。 いろいろあったり、離婚したりもありました。でも2人は心の底から真に愛し合い、魂はつながっていたのだと思います。 まだお金も権力も持っていなかったナポレオンが持てる全てを捧げて作ったトワエモアの婚約指輪・・。死ぬ時までには2人は十分に分かり合い、1つの魂になることができていたのではないでしょうか。 |
オルタンス・ド・ボアルネ(1783-1837年) | ナポレオンの真心のこもったトワエモア・リングをジョゼフィーヌは離婚後も宝物として大切にし、その後は娘のオルタンスに引き継がれます。 左の肖像画でオルタンスが着けているカメオ・ティアラはこの時、母ジョゼフィーヌから借りていただけで、兄ウジェーヌに引き継がれています。 オルタンスはホラント王妃で、後のナポレオン三世の母です。 |
ウジェーヌ・ド・ボアルネ(1781-1824年)制作1810年 | ジョゼフィーヌの連れ子であるウジェーヌとオルタンスは、ナポレオンの実の兄弟姉妹たちと違い、ナポレオン失脚後も最期まで義父ナポレオンに忠実でした。 |
ナポレオン三世(1808-1873年) | ナポレオン死後もオルタンスは熱狂的なナポレオン崇拝者(ボナパルティスト)で、その教育が後のナポレオン三世にも強く影響しています。 ナポレオンがジョゼフィーヌ自身だけでなく、連れ子たちのこともいかに愛を持って可愛がったのかが伝わってきますね。 |
フランス皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(1826-1920年)、1853年制作 | ナポレオンのトワエモア・リングは、オルタンスからナポレオン三世とその皇后ウジェニーに引き継がれました。 |
Toi et Moi -あなたと私-
あなたと私、2つの魂が1つになる。それこそが永遠の愛の誓いであり、結婚するということなのです。 このリングはこれまでに見たどんなトワエモア・リングよりも上質な天然真珠とダイヤモンドを使っています。贅沢で素晴らしい作りなだけでなく、このような真心が込められているからこそより、美しく感じられるのかもしれません。 |
トワエモア・リングのバリエーション
トワエモア エンゲージリング フランス 1910年頃 SOLD |
トワエモアを表現する際に使う宝石は、同じ大きさであること以外は決まりがないため、様々な石の組み合わせが存在します。 |
【参考】サファイア&ダイヤモンド | 【参考】オパール |
【参考】ムーンストーン | 【参考】ルビー&ダイヤモンド |
これらはいずれもヘリテイジでは扱わないレベルのトワエモア・リングですが、宝石の組み合わせだけでも様々なバリエーションがあることがお分かりいただけると思います。 さらに注目すべきは、デザイン的な制約の多さです。同じ大きさの宝石をクロスオーバーさせるという大前提があり、これがデザイン上の大きな制約となっています。デザイン上の自由度が小さくなるため、個性を出して気の利いたデザインにすることは実はとても難しいのです。 アンティークであっても単純な作りだと、現代でも同じレベルの物は作れてしまいます。そういう現代でも作れるレベルのものはご紹介しても意味がないので、ヘリテイジでは扱っていません。 |
天然真珠が史上最も高かった時代のトワエモア・リング
トワエモア・リングが流行したベルエポックからアールデコ初期にかけては、史上最も天然真珠が評価され、ダイヤモンドよりも高価な時代でした。 天然真珠が使われているものは、トワエモア・リングのハイエンドとも言えます。 |
トワエモア エンゲージリング フランス 1880年頃 SOLD |
トワエモア エンゲージリング フランス 1900年〜1910年頃 SOLD |
このように、いくつか天然真珠とダイヤモンドのトワエモアリングを扱っています。さすがに先ほどご紹介したヘリテイジ基準に満たないつまらないリングと違って、デザインもよく工夫されていることが分かります。それはこれらの作品が超高級品として作られたからでもあるのです。 |
そのようなトワエモア・リングと比べてもこのリングは別格です。 現代の養殖真珠と違って脱色や染色などをしていないにも関わらず、天然真珠は純白の色をしています。 さらに大きな天然真珠に合わせてダイヤモンドもクリアな色と透明度の高い大きくて上質な石を使っています。 南アフリカのダイヤモンドラッシュにダイヤモンドがヨーロッパに豊富にもたらされるようになった頃とは言っても、やはり上質な石は数が少ないですし高価なものです。
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【最高の組み合わせ】
天然ボタンパール&オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド
ただ真珠とダイヤモンドを組み合わせるだけではこれほどまでに美しくはなりません! これはボタンパールとオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドだから美しいことにもご注目ください。 球形に整えた貝殻の核に、0.4mm程度の真珠層を巻かせるだけの養殖真珠は球体にしかなりません。 |
核の形次第でハート型なども作れますが、『神秘の光』でもご説明した通り母貝の死亡率が上がり歩留まりが悪くなるため、養殖産業的にはあまり旨みがありません。 だからどんなジュエリーを作る時でも、現代ジュエリーでは基本的には球体の養殖真珠を使うことになります。 |
【参考】現代の球形の養殖真珠のリング | |
でも、指輪に球体の真珠を使うのはデザイン的に違和感があるというか、ヘンテコなのです。 |
天然真珠はとても貴重で高価なものだったので、アンティークジュエリーでは海からの貴重な恵み、得られた真珠にあわせて最適なジュエリーをデザインするものなのです。 |
真珠が指輪からポコンと突出していたら変ですし、痛みやすくなります。 だからわざわざ少しだけ扁平のボタンパールを選んでセッティングしているのです。 |
カットすれば済むダイヤモンドと違って、白く美しいボタンパールを手に入れるのがいかに難しいことなのかは、天然真珠の採取について知っていれば想像に難くないと思います。 |
そうは言ってもダイヤモンドもとても重要です。 トワエモアは2つの宝石の格があっていなくてはなりません。 |
ダイヤモンドも厚みのある上質なオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドだからこそ素晴らしいのです。 |
オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドは、現代で主流のブリリアンカットと比べて厚みがあります。 内部反射だけを考慮したブリリアンカットはチラチラとしたつまらない輝き方しかしません。一方でテーブルの面積が小さく、クラウンに厚みがあるオールドヨーロピアンカットは、特にクラウンがダイナミックに光り輝きます。 |
いくら少し扁平なボタンパールとは言え、ここに平べったいブリリアンカット・ダイヤモンドを持ってきたら釣り合いません。 厚みのあるダイヤモンドだからこそバランスがとれるのです。 |
釣り合いがとれた最上質の宝石同士が組み合わさっているからこそ、相乗効果でより贅沢に、より美しく見えるのです。 |
美しいデザインのシャンク
このトワエモアのリングは、今まで扱ってきた物の中で最も美しく最も素晴らしい仕事が施された物です。 ベルエポックやエドワーディアンらしい、プラチナにゴールドバックのシャンク(腕)は美しい曲線で表現されており、後部もその流れを引き継いだとてもお洒落なデザインです。エドワーディアンならではの、プラチナに打たれたミルもこの時代の最高水準です。 |
シャンクも鍛えた金ならではの優美な繊細な物です。 材料の金属を叩いては熱し、叩いては熱しを繰り返すことで鍛えて丈夫な材質にしてから製作するところが、現代の指輪の制作とは根本的に違うところです。 |
金属は鍛えることで、鋳造に比べて倍以上の強度を出すことも可能です。変形に対する耐性のみならず、摩耗しにくくもなります。 |
【参考】現代の鋳造でジュエリーを制作する様子(詳しくは『PLATINUM』をご参照ください) | ||
これは鋳造でジュエリーを作る様子ですが、鋳造だと金属は弱いのです。現代の指輪がごつい印象になってしまっているのは、コストカットや量産のために金属を鍛えることを省き、型に入れて鋳造しているからです。 |
鋳造した物はもろいので、ジュエリーとしての強度を出すためには肉厚の設計をせざるを得ません。どうしても全体的にボテっとしたボリュームたっぷりなデザインになってしまうのです。 アンティークジュエリーのような繊細なデザインは強度上、やりたくてもできないのです。でもそこは宣伝上手、「高価なゴールドなりプラチナをたっぷり使った贅沢な指輪なんです〜」なんてPRすれば、ブランドや金属の価値でジュエリーの善し悪しを判断する無知な消費者は喜んでお金を出すのです。 |
セルパンボエム トワエモア リング ブシュロン 現代 ¥660,000-(2021.5現在) 【引用】BOUCHERON / SERPENT BOHEME TWO-STONE RING, S MOTIF |
『社交界の花』でご紹介したブシュロンのトワエモアリングも、明らかに鋳造の量産品でしたよね。 現代のこういうエレガントさが微塵も感じられないごつさ満点の指輪しか見たことがない人は、アンティークジュエリーの繊細な細工を見て不安を覚えることもあるようですが、同じ「金」という素材であっても別の素材と言って良いくらい、鍛造と鋳造の金では別物なのです。 |
このブシュロンのセルパンボエムのトワエモアリングはシリーズ化されており、ダイヤモンドバージョンもありました。 シトリンも加熱アメジストの安物石なので十分に酷いのですが、ダイヤモンドはもっと爆笑です。 計0.66カラットとはありますが、それは16石の合計です。つまり0.04カラットの価値なんて殆どないゴミ粒ダイヤモンドを寄せ集めて、ちょこっと大きく見せている代物です。 こんな物を婚約指輪で渡されたら、私ならばブチ切れますね。私はこんなに安く見られているのかと腹が立ちそうです。値段は113万円もするから安いわけではありませんが、モノは安物です。 |
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セルパンボエム トワエモア リング ブシュロン 現代 ダイヤモンド16石(計0.66カラット)、18Kホワイトゴールド ¥1,134,000-(2018.11.22調べ) 【引用】BOUCHERON / SERPENT BOHEME TOI ET MOI RING S MOTIF |
ブシュロンのダイヤモンドのトワエモアリングはダイヤモンド16石を寄せ集めて0.66カラットですが、このダイヤモンドはメインの1石だけでそれに近いくらいあります。 取り外すことができないので正確なカラット数は分かりませんが、かなり迫力があります。 |
そのような贅沢な宝石使いにも関わらず、このトワエモアの指輪がエレガントな雰囲気を持っているのは、繊細で優美なシャンクが重要な役目を果たしているためです。 当時の、この指輪に相応しいエレガントな女性に贈るものだったのですから当然ですね。 |
美しい裏側の仕上げ
ハイクラスの指輪ほど裏の作りと仕上げが美しいものですが、このトワエモアの指輪を見ているとそれが十分に納得出来ますね。 |
ベルエポックやエドワーディアンの魅力は、プラチナとゴールドの両方の味わいを楽しめることです。 |
トワエモアリングはフランスで特に流行していることと、デザインの雰囲気からフランスの物と考えられるのですが、この指輪にはホールマークがありません。イギリスはホールマークがない場合も多いのですが、フランスの場合も特別なオーダーで1点ものとして作られるようなハイジュエリーの場合は刻印がないこともよくあります。 |
天然真珠の鑑別書
ロンドンで取得した、海水産の天然真珠を証明する鑑別書をお付けします。 |
ナポレオンがジョゼフィーヌのためにできる限りの美しいトワエモア・リングを贈ったように、この指輪も誰かがありったけのお金をはたいて、この特別に作ったリングを愛する女性に捧げたに違いありません。 |
でも、その2人の大切な婚約指輪としての役目は無事に果たし終えました。今は私たちが、天然真珠とダイヤモンドを使った贅沢で美しいファッションジュエリーとして楽しんで良いと思います。 上下があるので、どちらを上にするかでも多少雰囲気を変えることができるのも、このリングの楽しいところです。私にはサイズが合っていませんが、せっかく元は婚約指輪だったので、着用イメージも左手の薬指にはめて撮影してみました(笑) |