No.00250 神秘なる宇宙 |
|
||||
『神秘なる宇宙』 |
||||
「オパールという石の魅力は?」と言われれば、間違いなく美しい遊色ですね。1つとして同じものは存在せず、見る角度や光の当たり方でも変化します。その時にオパールに見える景色は、その一瞬にしか存在しません。上質なオパールのみが魅せる、石の深い奥底から湧き上がるような神秘的な虹色の光は、見る者すべてを虜にします。 |
今でこそ上質なオパールは、ふんだんな遊色があって当然に感じるかもしれません。 実はオーストラリアでオパールが採れるようになる以前、オパールはこれほど遊色を楽しめる宝石ではありませんでした。 オパールの歴史について少し見てみましょう。 |
古代のオパール
ハンガリーの位置 ©google map | オパールはかつて、チェコスロバキアやハンガリーからもたらされる貴重で神秘的な石でした。 |
古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年) | オパールは古代より人々を魅了してきた石です。 古代ローマの偉大なる博物学者プリニウスも、博物誌でオパールについて言及しています。 「カーバンクル(赤い石:ルビーやガーネット)のように燦然と輝く焔の色、鮮やかなアメジストのような紫、エメラルドグリーンの海のような緑を持ち、どうしてなのか分からないがそれらの色が調和し合い共に輝く石」と述べています。 「画家が描く色に匹敵する燦然とした豪華な輝きを持つものもあれば、燃えさかる硫黄の焔、火に油を注いで一気に燃え上がるような輝きを見せるものもある」とも述べています。 |
イジェン山のカルデラ内で青く燃える硫黄炎 "Blue Sulfur Flames" ©Seshadri.K.S(31 January 2014, 05:00:35)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
硫黄と聞くと何だか臭そうですが、焔の色は美しいブルーですよね。オパールの遊色は、「輝き」と表現するよりもゆらゆらと揺らめいて一瞬ごとに表情が変わる「火焔」で表現するのがフィットします。オパールには遊色がないものとあるもの、さらにあるものの中でも色の呈し方は様々あります。 古代に採れたオパールも様々な表情を見せていたのでしょうね。 |
アントニウス(紀元前83年-紀元前30年)とクレオパトラ(紀元前69-紀元前30年) |
古代ローマのオパールは、ハンガリーやチェコスロバキアの方からもたらされたと考えられています。この時代は露天掘りによる本格採掘は始まっておらず、漂砂鉱床のように偶然川などへ流れてきたものを得る以外に入手する術はなかったとみられます。 だからこそこの時代は天然真珠以上にオパールは貴重で最も価値ある宝石とも言われていました。クレオパトラに要望されてアントニウスはオパールを手に入れようとしたそうですが、当時アーモンド大のオパールを持っていた元老院ノニウスから200万セステルティウス(約千万円)での買い取りを拒否されたというエピソードも残っています。 無理矢理奪われることを恐れたノニウスは妻やその他の全ての財産を置いてローマから逃亡し、後にそのオパールはノニウスの墓からノニウスと共に発見されたそうです。 |
古代エジプトのファラオ クレオパトラ7世(紀元前69-紀元前30年) |
「お墓をあばいちゃったんですか?」というツッコミが置いておくとして、さすがにクレオパトラが飲んだとされる当時世界最大の天然真珠よりは安いですが、アーモンド大の真珠1つで約千万円なんて驚きですね。 しかも立場を悪くしてでも拒否するなんて、これはもはや単なる宝石ではなく余程の縁起物としての価値で評価されていたのだと想像します。 何しろ古代ギリシャではオパールは予言と病気から身を守ると考えられていましたし、その後もヨーロッパでは長い間、純潔や希望、真実の象徴とされていました。 元老院議員ノニウスもお金には換えられない価値を感じていたのでしょう。 ちなみにクレオパトラの伝説の天然真珠は小国が1つ買えるくらいの価値があったそうです。数千万円どころか、桁が何桁も違いそうです。 |
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63-14年) | 同時代を生きたローマ帝国初代皇帝アウグストゥスも、広大なローマ帝国の領土の3分の1を引き替えにしてオパールを手に入れようとしたことがあるそうです。 どれだけ御利益がありそうなオパールだったのでしょうね。 広大な領土の引き替えともなると、単なる見た目の美しさという観点だけ手に入れようとしたとは考えられません! それだけオパール独特の遊色には不思議な力を感じ、魅了されるということですね。 古代の人々も私たちと同じように美しいものを見て美しいと感じ、魅了されてきたということでしょう。 オパールの美しさは普遍なのです。 |
変遷したオパールの評価
ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616年) | 中世では神聖ローマ帝国の皇帝の冠にオパールが飾られ、ルネサンス時代もシェイクスピアから『奇跡』と称されるほどオパールは高く評価されていました。 稀少でしかもオパールにしかない強い魅力を持つこの石は、まさに王を象徴する宝石だったのです。 |
フランス王ルイ11世(1423-1483年) | フランスのルイ11世もオパールを持っていました。 男らしく戦うことが良しとされていた時代において、権謀術数、陰謀だらけで忌み嫌われ『遍在する蜘蛛』という意味不明なあだ名を付けられたような人物です。 父シャルルにも陰謀を発揮し、父王は息子からの毒殺を恐れて食事を拒否し餓死したとすら噂されているほどです。 迷信深く、占星術師に取り囲まれており、王の腹心の年代記作者コミーヌからすら「王は誰からも愛されていなかった」と年代記に書かれています。 |
フランス王ルイ11世(1423-1483年) | ある時このルイ11世が所有していた王室のオパールの加工を宝石細工師にオーダーしたのですが、運悪くオパールが割れてしまい、激怒したルイ11世はその宝石商の手を切り落とすように命じたのです。 この時代は宝石が加工の際に破損すると、その責任はすべて加工した宝石細工師が負わされていたのです。 オパールはエメラルド同様カットやジュエリーとしてセットする際に割れやすいとされる宝石でした。 |
そんなこともあって、誰もやりたくないので宝石商がオパールは呪われており不吉だという噂を流すようになったとも言われています。割れたら呪いのせいにしたり、そもそもオパールジュエリーを持ちたがらないでいてくれることが理想です。 噂が徐々に広まった効果か、チュートン(ゲルマン)民族にあったという迷信もあってか、次第にオパールは忌み嫌われるようになっていきました。 |
『医師シュナーベル・フォン・ローム』(パウル・フュルスト 1656年) | さらに『美しきお守り』でも触れている通り、ヨーロッパでは度々流行していたペストで人がたくさん死ぬのは当たり前で、人々はそのスケープゴートを探していました。 |
シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ(1796-1817年)21歳頃 | 『黄金の花畑を舞う蝶』で触れた通り19世紀でも王位継承者であり、国王ジョージ4世の唯一の嫡子シャーロットが21歳の若さで亡くなっています。 現代と違って高い身分の人物であっても、若くして突然亡くなることは珍しいことではありませんでした。 そんな時、偶然にもその人がオパールを持っていたらオパールが不幸をもたらしたとみなし、皆で納得するような流れができてしまったのです。 |
初代准男爵ウォルター・スコット(1771-1832) | 決定的だったのが、1829年の初代准男爵ウォルター・スコットの小説『ガイエルンシュタインのアン』の出版でした。 |
この小説の中でオパールは物語の印象的なキーアイテムとして、不幸や死をもたらす不吉な石として扱われました。 ウォルター・スコットはイギリスの作家としては存命中に国外でも成功を収めた初めての人気作家とされ、その影響力は絶大でした。 本の出版から1年以内にヨーロッパ全体でオパールの売り上げは50%まで減少し、その後20年ほどは低水準を保ったままとなってしまいました。 |
||
ガイエルンシュタインのアン(1829年出版) |
オパールを好む人と好まない人
オルタンス・ド・ボアルネ(1783-1837年) | オパールに良くないイメージはあったものの、迷信を気にしない知的階層の人ほど気にしない傾向はあったようです。 ホラント王妃オルタンスもその一人だったようで、オパールのパリュールを持っていました。 オルタンスは『Toi et Moi』でご説明した通り、フランス皇帝ナポレオンの妻ジョゼフィーヌとその前夫アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵との娘です。 熱心なナポレオン崇拝者(ボナパルティスト)で、息子はフランス皇帝ナポレオン3世です。 ちなみにナポレオンとジョゼフィーヌ夫妻もオパールのジュエリーを身に着けていたそうです。 |
ヴィクトリア女王夫妻のオパールへの愛
ヴィクトリア女王の結婚式(1840年) |
1829年のウォルター・スコットの小説出版以降も全く気にしないのがイギリス女王夫妻でした。アルバート王配が特にオパールを好きだったようです。ヴィクトリア女王がイケメンで教養の高いアルバートに惚れ込んでプロポーズし結婚したのですが、アルバートも王配としてしっかりとヴィクトリア女王を陰で支えました。 |
ルイーゼ・レーツェン(1784-1870年)58歳頃 | ヴィクトリア女王にはドイツ出身の教育係レーツェンがいたのですが、アルバートの高い教養に比べてヴィクトリア女王は教養が浅薄でアルバートはレーツェンを問題視していました。 1840年に結婚した当時レーツェンはヴィクトリア女王の秘書も務め、王室の予算や諸々の人事権も握っていたのですが、アルバートはその仕事ぶりに問題を感じ、翌年にはレーツェンの解任を考えるようになりました。 レーツェンはヴィクトリア女王が結婚した時から侍女として仕え、5歳から家庭教師となり母同然に慕っていたため女王は解任に猛反対しましたが、1842年にはアルバートはレーツェンを宮廷から追放しました。 |
メルバーン子爵ウィリアム・ラム(1779-1848年)65歳頃 | ヴィクトリア女王即位時の首相で、女王の寵愛を受けたメルバーン子爵は早くからアルバートの非凡な才能を見抜き、ヴィクトリア女王に対して「アルバート公は実に頭の切れるお方です。どうかアルバート公の仰ることをよくお聞きなさいますように」と進言したそうです。 メルバーン子爵と言えば『エトルリアに想いを馳せて』でもご紹介した通り、20歳そこそこの乙女だった女王が肥満体質を相談した人物でもありましたね。 この際は「ハノーファー家はもともと太りやすい体質なのです」と女王を慰めています。 |
アルバート王配(1819-1861年) | アルバートは実際かなりできる人物で、1851年にロンドンで開催された世界初の万博を大成功に導いたのも彼の功績だと言われています。 この万博の最大の呼び物はガラスと鉄でできたクリスタル・パレス(水晶宮)で、展示の目玉が1849年にインドで東インド会社が入手しヴィクトリア女王に献上された巨大ダイヤモンド『コ・イ・ヌール』でした。 |
ムガルカットのコ・イ・ヌール(186.0カラット)のレプリカ "Koh-i-Noor old version copy" ©Chris 73 / Wikimedia Commons(09:49, 21 October 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | しかしながらオールドヨーロピアンカットの美しい煌めきを見慣れたヨーロッパ人にとって、インド式のムガルカットのコ・イ・ヌールは美しく感じることができませんでした。 女王を始め見物客も皆がっかりしたそうで、ヴィクトリア女王を喜ばせるためにアルバート王配はわざわざアムステルダムから職人をロンドンに呼び寄せてリカットさせました。 |
コ・イ・ヌール、英国王室蔵(ロンドン塔に展示) | 1852年に世界最高の技術を持つアムステルダムのカット職人に支払った報酬は8,000ポンドでした。 単純に現在の為替レートで算出しても120万円(1£=150円で算出)ですが、当時の貨幣価値は現代の40分の1とみると4,800万円に相当します。 特別なカットやジュエリーをオーダーすることが、いかにお金と教養が必要とされるかが伺えますね。 |
イギリス女王ヴィクトリア(1819-1901年)23歳頃 | 政治ができるアルバートですが、実はジュエリーデザインもできる人物でした。 ヴィクトリア女王のためにいくつもジュエリーをデザインしています。 左の肖像画で着けている後頭部のティアラと、ペンダントをデザインしたのもアルバートです。 |
アルバート王配がヴィクトリア女王のためにデザインしたサファイアのティアラ(1842年) V&A美術館 【引用】V&A museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
|
ヴィクトリア女王は産業革命以降に台頭してきた中産階級の理想の王室として、家族と共に描かせた肖像画が多いです。この肖像画は結婚してそんなに経たない若き女王が一人で描かれていますが、アルバート王配との愛と慈しみ溢れる素敵な肖像画だったというわけですね。 それにしてもこんなつけ方のティアラは見たことがありません。つけ方も含めてアルバートが考案したのでしょうか。そのうちティアラについても詳細に調べてみたいと興味が湧いてきました♪ |
オパールのティアラを着けたヴィクトリア女王(1819-1901年) | アルバートがオパールが好きだったため、ヴィクトリア女王も好んで頻繁にオパールのジュエリーを身に着けていました。 このティアラもゴールドにオパールがセットされたものですが、何色なのか明確な色を持たないオパールは画家泣かせですね。 どういう感じのオパールなのかイマイチ分かりません。 オパールは持つ人だけが真に楽しむことができるジュエリーなんですよね。 それが魅力でもあります。 |
オリエンタル・サークレット・ティアラ(1853年) 【出典】Royal Collection Trust / The oriental tiara © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021 |
これはアルバートがデザインした中でも最も美しいティアラの1つとされる『オリエンタル・サークレット・ティアラ』です。1851年のロンドン万博で見たインドのジュエリーにインスピレーションを受けてデザインされたもので、ダイヤモンド部分に独特のムガール・アーチのデザインが取り入れられています。 アルバートがデザインしたものをガラードが制作しました。アンティークジュエリーの時代の王侯貴族にとって、デザインも全てプロにお任せというわけではなかったことが伺えますね。既製品が当たり前で、与えられたデザインを受け入れるだけの現代人と違い、古の優れたアンティークジュエリーはオーダー主が当然意見し、好みをしっかりと反映して作られているのです。それがオーダージュエリーなのです。 |
オリジナルのオリエンタル・サークレット・ティアラを着けたヴィクトリア女王 | このオリエンタル・サークレット・ティアラは鮮やかなルビーが印象的ですが、実はオリジナルはルビーではなくアルバートが好きだったオパールがセットされていました。 でもヴィクトリア女王が亡くなった後ティアラを受け継いだアレクサンドラ王妃はオパールが好きではなく、オパールを全てルビーに取り替えてしまったそうなのです。 実際はどんな雰囲気だったのでしょうね。 |
植民地オーストラリアでのオパールの発見
コモンオパール "MilkyRawOpal" ©CRPeters(9 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | もともとオーストラリアの先住民族アボリジニには、オパールは地面に虹が落ちてきてできたという言い伝えがありました。 このためオーストラリア産オパールの人類による正確な発見の時期は特定できませんが、ヨーロッパ史では1849年にドイツ人の地質学者ヨハネス・メンゲが南オーストラリアでコモンオパールを発見したのが最初とされています。 コモンオパールとは、遊色がないオパールです。左のコモンオパールも地色しか見えていません。 |
オーストラリア産プレシャスオパール |
しかしながら探索・調査の結果、1870年頃から宝石品質のプレシャスオパールの鉱山が発見され始めました。1875年までにはいくつかの鉱脈が発見されたのですが、オーストラリアには採掘したオパールを流通させてお金に変えるための市場がありません。そこで1879年に鉱山所有者が集まって石をロンドンに売るための組合を組織し、ロンドンで会社を上場しました。残念ながらこの試みはうまくいかなかったのですが、この動きを知った大のオパールファン、ヴィクトリア女王が全面的にバックアップを決めたのです。 |
ヴィクトリア女王によるオパールのプロモーション
1つは当時そのエリアでは唯一の鉱山だったアラジン鉱山の自由土地保有権を助成することでした。 もう1つが、女王が贈り物として積極的にオパール・ジュエリーを贈ることでオパールのマイナスイメージを払拭し、プロモーションを図ることでした。 それ以前から本当に女王はオパールが好きだったので、当時王太子だったエドワード7世(愛称:バーティ)とアレクサンドラ妃の結婚式ではウェディング・ギフトとしてオパールのパリュールをアレクサンドラに贈っています。 |
||
ヴィクトリア女王からアレクサンドラ妃へのウェディング・ギフト(1863年) |
結婚の日のアレクサンドラ妃と王太子バーティ(1863年) | 女王がアレクサンドラに贈ったオパールとダイヤモンドのパリュールはガラード製で、目録によると3つのブローチ、ピアス、クロス・ペンダント、ブレスレットで成り立っています。 結婚式でアレクサンドラはバーティから贈られた天然真珠のネックレス、ピアス、ブローチ、そしてヴィクトリア女王から贈られたオパールのブレスレットなどを身に着けました。 まだオーストラリアで本格的な発掘が始まる前なので、この時の贈り物はハンガリー産のオパールだったかもしれません。 |
スロバキア産の白と青のオパール "SLOVAKIAN OPAL 12" ©Slovakiaopal(22 November 2015, 13:00:31)/Adapted/CC BY 4.0 |
ハンガリー産のオパールは、もともと上質な石でも遊色が強くありません。 左はハンガリーと接するスロバキア産オパールです。 現代でイメージするオパールとは異なる印象ですね。 |
それでも、オーストラリア産のオパールが見つかっていない時代には、遊色があるというだけで特別な宝石でした。 オパール独特の遊色を代用できる宝石はありません。 ハンガリー産オパールの中でも、優れた遊色を持つ石は稀少だったため、不吉な石というイメージが広まって以降もかなり高額だったようです。 |
||
【参考】ハンガリー産オパールのブレスレット(19世紀) |
不吉なイメージを気にしないヴィクトリア女王や宝石王子バーティは相当な大金を使ってオパールを手に入れていたそうです。 それでも18、19世紀はこのように不吉なイメージがあってオパール自体が一般的に好まれなかったこと、現代人が想像するような上質なオパール自体が殆ど存在しなかったこともあって、特に古いオパールジュエリーはヘリテイジでご紹介できるものが殆どないのです。 |
長女ヴィクトリア 17歳(1858年)ドイツ皇后・プロイセン王妃 | もともと夫婦でオパール好きだったヴィクトリア女王は、5人の王女の結婚式にもウェディング・ギフトとしてオパールのジュエリーを贈っています。 長女ヴィクトリアの結婚は1858年で、まだ遊色の見事なオーストラリア産オパールが見つかってはおらず、プロモーションと関係ある時期ではありません。 ヴィクトリア女王にとってオパールはアルバート王配との愛の証である、思い入れある大切な宝石だったのかもしれませんね。 |
二女アリス 19歳(1862年)ヘッセン大公妃 | 三女ヘレナ 20歳(1866年)イギリス王女 |
この時代の王族はファッションリーダーです。ヴィクトリア時代と言えば、現代ではヴィクトリア女王だけがことさら目立ってフォーカスされがちですが、1860年代には女王はすでに40歳を超えて、娘たちは10代20代の美しく恋愛盛りです。現代の40代と昔の40代では全く違います。 |
社交界デビューのセレモニーを待つ若い王侯貴族の女性たち(イギリス 19世紀) |
『春の花々』でもご紹介した通り王侯貴族の女性は16歳前後、せいぜい20歳くらいまでには社交界デビューします。社交のシーズンは3回目を迎えると『売れ残り』とみられてしまいます。だから10代で結婚して子供を産むことも普通です。40代ともなれば十分に孫がいる年齢で、ヴィクトリア女王も既に39歳で初孫が生まれておばあちゃんになっています。 |
四女ルイーズ 23歳(1871年)イギリス王女 | 五女ベアトリス 28歳(1885年)イギリス王女 |
現代のイギリスでも90代のエリザベス女王ではなく若い王族にファッションの注目がいっていますよね。当然ながらヴィクトリアンであっても、中後期ともなってくると女性のファッションリーダーは若い皇太子妃アレクサンドラや5人の王女たちに移っていくのです。 それにしてもこの時代はモノクロで解像度の悪い写真しかありませんし、絵画にしてもオパールは描きようがないせいか、ヴィクトリア女王が贈って身に着けたというオパール・ジュエリーがはっきり分かりません。 |
1870年頃から宝石品質のオパールが採れ始め、1879年頃からロンドンでの市場確立を目指すオーストラリアのオパール産業をヴィクトリア女王がバックアップし始めてからも、人々の強力なマイナスイメージを払拭するにはかなり困難を要しました。 |
オーストラリア産オパールの人気の高まり
女王の贈り物、美しき王女たちが華やかな席で身に付けるなどのイメージ戦略に加え、オーストラリア産のこれまでにない見事な遊色の素晴らしさもあって、1890年代頃になるとようやくオパールジュエリーも人気が高まってきました。 |
オパールのリングをエンゲージリングやマリッジリングとして選ぶ人も増えてきたのです。 |
現代でもヨーロッパではサファイアやダイヤモンドだけでなく、オパールも婚約指輪の選択肢の1つとなっているのはこのような背景があるからです。 |
スロバキア産の白と青のオパール "SLOVAKIAN OPAL 12" ©Slovakiaopal(22 November 2015, 13:00:31)/Adapted/CC BY 4.0 |
ハンガリーやチェコスロバキアのオパールは、オーストラリアのオパールと比べてどうしても遊色が弱いです。 |
ヴィクトリア女王のオパール・ピアス(南オーストラリア美術館) 【引用】ABC News / Royal opals worn by Queen Victoria sent to Adelaide for SA Museum exhibition (24 September 2015, 5:57) |
これはヴィクトリア女王のピアスで、オパールが使われています。 いかにもミッドヴィクトリアンの、日本人ウケしないデザインですね。 制作年不明ですが、1861年にアルバート王配が亡くなって以降、女王は派手なものを身に着けなくなっているのでそれ以前だと推測されます。 細工物ではなく宝石主体のジュエリーなので、それぞれ当時最高級の石が使われていたはずですが、年代的にはハンガリー産オパールなのかいまいち遊色は感じられません。 |
最高級のハンガリー産オパールを遙かに凌ぐオーストラリア産オパールは衝撃的な存在でした。 |
長年の採掘地であったハンガリーの人々が「そんなにきらめく石は見たことがない、本物ではない。」と主張したほどでした。 |
透明感と強い遊色を両立したオパールが人々の心を捉えないはずがありません。 |
まずは不吉なイメージなんて気にしない上流階級の人々が愛好し、徐々に人気が一般的にも高まっていったのです。 |
一時はダイヤモンド以上に高騰したりもしましたが、ダイヤモンドを売りたい勢力から改めて不吉なイメージを流されたりもしました。今でも植え付けられたその不吉なイメージの影響が残っているため、ヨーロッパでは日本ほどオパールの人気が高くないのが現状です。 |
『虹色のアート』 オパール バーブローチ イギリス 1900年〜1910年頃 オパール、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド、18ctゴールド SOLD |
それでも1880年代から1930年頃までは人の心を掴むとても上質のオパールが産出されていました。 だからこそオーストラリアが植民地だったイギリスのアンティークジュエリーの中に、特に最上質の美しいオパールのジュエリーがいくつも見られるのです。 |
ハンガリー鉱山の閉山
強い遊色を持つ上質なオーストラリア産オパールが次々と入ってくるようになり、ハンガリー産オパールは競争について行くことができなくなりました。20世紀初頭にはハンガリーのオパール鉱山は操業が停止されました。 |
枯渇したわけではないので採掘は可能ですが、品質に劣るハンガリー産オパールは採掘しても採算が合いません。 人々に興味を持たれなくなって以降、今もハンガリーの地中ではオパールが眠っているのです。 |
||
【参考】ハンガリー産オパールのサーベル |
石の魅力
市場に残る不吉なイメージを見事に吹っ飛ばした、特に上質な石が採れていた時代のオパールの遊色の美しさは見事というしかありません。「この石は、見つめていると宇宙の神秘のようなものを感じる。」とGENが言っていました。万華鏡のようなオパールもあるのですが、この石はもっと不思議でダイナミックなパワーを感じる輝きなのです。 |
一瞬ごとに変化する美しい色彩のオパールは、太陽が見せるオーロラのような雰囲気も見せつつ、もっと広大な宇宙に広がる神秘の世界のように感じられるのです。 |
画像では二次元になってしまうため、どうしても立体感や透明感などの奥行をお伝えすることができないのですが石にある程度の厚みと透明感があるからこそ、覗いていて大宇宙の不思議な世界を感じることができるのです。 |
かなり強くライトを当てると、後ろが透けて見えるくらい透明感があります。このオパールは小さくても本当に上質なので、プリニウスが言うようなカーバンクルのような赤い炎、鮮やかなアメジストのような紫、エメラルドの海のような緑、すべての色が混ざり合い美しく輝く奇跡のような石ですね。 |
画像をとる時も背景が黒か白か、ライトの強さや角度でも表情が変化します。 これなんかは宇宙で、彼方に見える太陽のような恒星みたいな輝きが見えますね♪ |
名脇役のオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド
この年代の上質なダイヤモンドと言えば、ブリリアンカットの原型であるオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドです。 |
透明感とダイナミックなシンチレーションを両立した、上質なオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドがオパールの魅力に華を添えています。 |
【参考】現代のオパールリング | 【参考】現代のオパールリング |
同じダイヤモンドが取り巻いたオパールリングでも、現代ジュエリーと比較するとダイヤモンドのカットや爪留の細工によって雰囲気は全く異なることが分かります。これらのリングはダイヤモンドが小さい上に爪が大きいので、ダイヤモンドより爪の方が目立っていますね。これならダイヤモンドはない方がまだマシな見た目になりそうな気もしますが、ダイヤモンドが付いてさえいえれば嬉しいという人にとってはそこそこ安い価格で手に入るはずなので良いのかもしれません。 |
【参考】現代のオパールリング | 爪が極端に目立たないものでも、ブリリアンカット・ダイヤモンド特有のモソモソした輝き方はやはり興ざめです。 ぱっと見て美しいとは感じられません。 |
せっかく揺らぎのある輝き、プレイオブカラーが魅力のオパールです。 職人が時間をかけて手作業で丁寧にカットしていた時代ならではの、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドの個性ある輝きこそが、オパールという石の魅力を真に惹き立てることができるのです。 |
アンティークの宝物 | 【参考】現代ジュエリー |
オパールの留め方も美しいです。現代ジュエリーに見られるゴツい爪ではなく、覆輪で繊細緻密なミルが打ってあります。画像は拡大しているので繊細には感じられないかもしれませんが、実物は覆輪のミルからもとても繊細な輝きがあって美しいのです。 |
せっかく揺らぎのある輝き、プレイオブカラーが魅力のオパールです。 職人が時間をかけて手作業で丁寧にカットしていた時代ならではの、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドの個性ある輝きこそが、オパールという石の魅力を真に惹き立てることができるのです。 |
シンプルで上質なシャンク
シャンクもシンプルなデザインながら、輪に見える円柱状のパーツをわざわざ付けてあります。 単に手を抜いたシンプルデザインなのか、ちらりと見えた時に美意識が垣間見えるような思慮深さのあるシンプルデザインなのかで、上質さは全く異なります。 |
ダイヤモンドのシルバーの覆輪も、それをセットしたゴールドの台座も、シャキッとした美しい形状です。 丹念に磨いて仕上げられているので、形状は滑らかで美しく、表面は綺麗な光沢があります。 このような細部にこそ、上質なものとそうでないものの違いがよく現れるものです。 |
裏側
もちろん裏側も美しい作りです。 裏側からも遊色の見事なオパールは、この石がいかに上質であるかを物語っています。 |
1880年代から1930年頃まではオーストラリアでとても上質のオパールが産出されていましたが、さすがに最近ではオーストラリアの鉱脈も枯れてきて、アンティークジュエリーに使われているような上質のオパールはとても少なくなってきています。 |
アンティークジュエリーに使われているクラスの上質なオパールを使った現代ジュエリーが売られているとしたら、非常に高価なはずです。 |
そこで出現したのがこのようなアセンブルド・オパールです。裏打ちして遊色を強く見せたり、表面にプラスチックやガラスを貼り合わせて厚みがあるように見せかける、とても宝石とは思えない代物です。接着剤で貼り合わせているのですぐに劣化が始まるそうで、剥離箇所から水などが浸入して内側から曇ったり、酷いと完全に剥がれてしまうそうです。表面に貼る樹脂はオパールよりモース硬度が遙かに低く、使用しているうちにすぐに表面が摩耗し曇ったような外観になるそうです。 アセンブルド・オパールはブラックオパールに施されているイメージがありますが、ホワイトオパールでもこの処理は存在します。このような宝石の処理技術は日進月歩、恐ろしいスピードで進化しています。石が取り替えられていないオリジナルのアンティークジュエリーであれば関係ない話なので私は深追いしませんが、現代ジュエリー業界にいると心が腐りそうで辟易してしまいます。日本人は特にジュエリー文化が醸成しておらず、ろくに自分で調べもせず宣伝文句を鵜呑みにしやすい国民性もあって、良いカモにされやすいのでしょうね。 |
オープンセッティングであること、裏側まで透けて見えることも、貼り合わせのない上質な天然オパールの証拠です。 |
オパールの劣化
せっかくなのでオパールのもう1つ良くない噂についてお話しておきましょう。オパールは乾燥でヒビ割れしやすいという話を聞いたことがある方もいらっしゃるでしょうか。 オパールの遊色は中に含まれる水分が原因です。この水分が抜けてしまうとヒビが入ることもあるようです。石によってヒビ割れするもの、しないものがあるようで、きちんとしたものであれば電子レンジで3分加熱してもびくともしないそうです。 日本でオパールにこの噂が出回ったのは、1960年代に安物のメキシコ産オパールが大量に出回ったのがきっかけです。 |
南オーストラリアの乾燥地帯 "Andado2 - Christopher Watson" ©Christopher Watson(05:21, 1 January 2013)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
オーストラリア産のオパールの水分含有量が約6%前後に対し、メキシコ産オパールは約12%も水分を含むと言われています。通常、採掘したオパールは天日干しするなどして十分に乾燥させます。オーストラリアの乾燥した砂漠で天日干しは過酷ですね。そして乾燥に耐えられた石だけが加工されます。 |
【参考】乾燥でヒビ割れしたオパール・ペンダント | きちんとした業者だと10年寝かせることもあるそうですが、1960年代のメキシコ産オパールブームではこの工程をろくに行わずに出荷したため、消費者が購入してすぐにヒビが入るなどの問題が発生したのです。 購入時点で、見た目は同じでも価格は約半分ほどになるそうで、大喜びで飛びついた安物買いの人たちが銭失いしただけの話です。 |
本当に手間や材料費、つまりコストをかけて作られたものが、コスト以上に安く売ることなんて不可能なのです。事業は継続不可能、潰れます。でも、かなり多くの割合の日本人が、背景のコストを無視して買いたたこうとする傾向にあります。 大企業から下請けへの転嫁や、異常なデフレによる品質低下などは、こういう国民性が原因です。 |
『初期の養殖真珠ネックレス』 1930年代? 天然真珠:直径8mm SOLD |
養殖真珠も初期は2年間寝かせて色を落ち着かせてから出荷していたそうですが、ある時から色を揃えるために調色(脱色&染色)をするようになりました。 限界まで手抜きして儲けを最大化しようとするのが現代の宝飾業界なのです。 |
【参考】乾燥でヒビ割れしたオパール | 1960年代のオパール事件は、コストダウンをし過ぎて業界自身が自分たちの首を絞めた結果となりました。 今はやり過ぎない程度にコントロールしているのでしょう。 ほとんど全部ヒビが入ったら問題ですが、一部商品ということであれば「運が悪かったですね」ということで闇に葬り去ることも可能です。 購入者側もかなり安い値段で買っているはずなので、「お値段なりね」と納得するしかないでしょう。 |
『初期の養殖真珠ネックレス』 1930年代? 天然真珠:直径8mm SOLD |
天然真珠の真の価値が忘れ去られ、現代養殖真珠との違いを誰も理解していなかった時代に、Genはある真面目な養殖真珠業者から話を聞いて『知られざる養殖真珠の魅力』というページを作りました。 昔ながらの真面目な方法で養殖真珠を作っている業者が、天然真珠を見せて欲しいと市ヶ谷のアトリエにやってきたのです。 真面目に手間やコストをかけて本当に上質な養殖真珠を作っているのに価値が理解されず、高いし色なども均一ではないと言われ、市場に受け入れてもらえないと憤っていたそうです。 |
オパールを10年寝かせて販売する業者の憤りと通ずるやるせなさを感じます。 自分たちは真面目に良いものを作っているのに、安物業者と同じようにオパールはすぐにヒビ割れするのではと言われては、たまったものではないでしょう。 |
正直、現代ジュエリーはどうやって選べば本物なのか分かりようがありません。モノ自体は安物でも、いくらの値段を付けるかは自由です。高いから安心とは言えません。 その点で、アンティークジュエリーであれば100年は経過しています。このオパールも採掘されてから約120年以上は経過しています。乾燥してヒビが割れる心配はまずないでしょう。真に価値あるものか否か、時がすべてを露わにしてくれるのです。ちょっとメキシコ産オパール事件は早すぎでしたが。耐久性なさすぎです(笑) |
婚約指輪としての履歴
この指輪には18ctの刻印がありますが、それ以外に手彫りの文字が書かれています。 M. to C.H. 22.6.29 1929年6月22日に婚約もしくは結婚の記念として贈られた履歴があるようです。 |
リングの作り自体は1880-1900年のものですが、代々受け継がれたこのオパール・リングが、1929年の時点で婚約指輪として贈られたのだと考えられます。 |
日本はジュエリー文化がなかったため、代々伝わる一族の大切で上質なアンティークジュエリーというものが残念ながら存在しません。 現代ジュエリーは作りが悪いのでとても末代まで保つ耐久性はありませんし、デザインも時代によって流行があるので、母親や祖母の婚約指輪と贈ろうとしてもちょっと難しいと思います。 こんなダサイのをくれるくらいだったら中古じゃなく新品を買ってよと怒りたくもなりそうです。 |
|
【参考】ダイヤモンドリング(現代) |
母親の大切な婚約指輪を渡したら、婚約者から「タダの中古を渡すなんて」と激怒されたとネットで相談する日本人男性がいました。 「ヨーロッパでは代々伝わる婚約指輪を贈るのは普通にあることで、とても素晴らしいことなのにそれが理解できない婚約者とは別れれば」なんて助言もありましたが、どういう婚約指輪だったのでしょうね。 どちらの気持ちも分からなくはないのですが、優れたアンティークジュエリーのように末代まで残す価値あるものならば良いのですが、価値もなく趣味にも合わないものを渡されたら私もかなり嫌かもしれません。 代々の想いや真心は、指輪ではなくまた別の形で受け取れば良いのですから・・。 金儲けのために作られたろくに価値のない大量生産の工業製品を、『思い出』を振りかざして一生大切にするようにと押しつけられてはたまったものではありません。 |
その点で日本では婚約指輪を代々継承するのはフィットしませんが、ヨーロッパでは母の大切な婚約指輪を婚約者に渡すことはごく自然なことです。 美しいオパール、シンプルで飽きのこないデザインには時代を超越した魅力があります。代々持ち主を幸せにし、大切にされてきたのでしょうね。 |
着用イメージ
覗き込むと広大な宇宙の神秘なる深淵を感じるオパールですが、指に着けると爽やかで清涼感のある美しさを感じます。 特に初夏のコーディネートに使いたくなるような、シンプルで上品&清楚、日本人女性に使いやすいオパールリングです♪ |