No.00243 パラソルを持つ女 |
このアールデコのガラスの花瓶は、モネの『パラソルを持つ女』にインスピレーションを得た作者が制作したボヘミアングラスの傑作です! 何故なら日本の版画に押してある落款のようサインが、この花瓶にはあるのですから。 モネは日本の版画の影響を受けた画家ですしね・・・。 |
『パラソルを持つ女』 チェコ 1930年代初期
高い技術により実現した本作は、作家による特別な落款まで存在する天才アーティスト渾身の作品です。 |
この作品のポイント
1.制作されたアールデコの時代における極めて芸術性の高いデザイン 2.ボヘミアングラスの最高傑作と言える作り |
1.制作されたアールデコの時代における極めて芸術性の高いデザイン
幾何学模様が特徴的なこの作品は、パッと見でアールデコと分かりやすいと思います。 さらに女性の水着や髪型などのファッションから1930年代であることが分かります。 若いエネルギーに満ちた華やかな水着の女性は、一見100%この時代の欧米らしいモチーフに思えますが、実はモネやジャポニズムの影響が見られます。 19世紀半ばに日本が開国して以降、日本美術は西洋美術に多くの影響を与えました。 その集大成とも言える、世界各地の芸術文化が見事に融合し、昇華した傑作アートです。 |
1-1.当時最先端のファッションの女性
<髪型>
欧米の映画やドラマを観ていると、物語の年代によってはこのような髪型の女性が出てきますね。 |
アールデコ期の女性たち |
アールデコの時代は女性が社会進出し、若さあふれるパワフルな女性たちが明るく楽しく人生を謳歌した時代です。男性に頼らず自分自身で稼ぎ、責任を持ち、その代わりに誰かのためでなく自分自身のために自由に好きなことをする。古い慣習から解放された女性たちはオシャレも目一杯楽しみました。その時代に流行したのが短い髪型です。 |
ベルエポックの精神を表現したポスター(ジュール・シェレ 1894年) | 19世紀中後期頃から、消費や流行の主役は王侯貴族から中産階級の大衆へと移っていきました。 |
『ノルマンディー号』 アールデコ ペンダント フランス 1935年 SOLD |
"100年以上経過したもの"という、アンティークの言葉だけの定義で見るとアンティークジュエリーではあるものの、19世紀中後期以降は見るに堪えない大衆用のジュエリーも多く作られています。 その中でもまだ戦前であれば、明らかに別格の素晴らしさや美しさを放つジュエリーも、確率的にはかなり低いながらも存在します。 |
アールデコのスタイリッシュなブレスレット フランス 1930年代 SOLD |
アールデコ後期になると本当に良いものは滅多に出てきません。 一見デザインは良さそうでも、デザインだけで作りが汚いものが殆どなのです。 そんな中でも、左のブレスレットのようにどうやって作ったんだろうと思えるような、超絶技法の作品も稀有な確率ながらも存在します。 |
後期アールデコ・リング フランス 1930〜1940年頃 SOLD |
1939年からは第二次世界大戦が始まってしまいます。 突然世界で全ての技術が失われるわけではありませんから、それまでの技術の残り香で1940年代でも名品が存在する可能性はゼロではありませんが、ヘリテイジで扱うことができるのはせいぜい1930年代が限界で、1930年代は殆どそういうレベルのものは存在しないのはきちんと時代背景的な理由があるからです。 |
エリザベス王妃(イギリス女王エリザベス2世の母)(1900-2002年)1925年、25歳頃 | 左はクイーンズマザー、現在のイギリス女王エリザベス2世の母エリザベス王妃25歳頃の肖像画です。 明るく楽しい狂騒の時代も謳歌し、親しみ易い人柄で国民に寄り添う王妃として人気が高かった王妃です。 2002年までご存命だったので、ご存じの方も多いでしょうか。 王妃となったのは1936年ですが、ヨーク公アルバート(ジョージ6世)と結婚してロイヤルファミリーの一員となったのは1923年なので、すでに王族です。 もともと伯爵家出身でグラームス城に住んでいた高貴な女性ですが、この時代はそういう身分でもアールデコ・ファッションを楽しんでいた女性がいたということですね。 |
ファッションリーダーの資質がある人の場合は、独自のセンスで新しいスタイルを生み出してファッションを楽しんでいました。 残念ながらそのような才能を持たない世の中の大半の人は、ファッションを楽しんでみたくても白紙の状態ではどう絵を描けばよいのか分かりません。 そうして出てくるのが左のような、いくつかの型が決まったスタイルの提案です。 飽きられる頃に次のスタイルが提案され、新子スタイルへと流行が移ります。 どうしたら良いか分からない人たちが大半を占める時代においては、『流行スタイル』という存在がフィットするわけです。 |
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流行ヘアスタイルの各名称(1924年) |
日本でも1980年代始めに聖子ちゃんカットがブームになりましたね。 日本でも最後の大流行は1990年代終わり頃の藤原紀香さんのウルフカットと言われており、その後は『エビちゃん巻き』や『盛り髪』などはジャンルとして存在したものの、猫も杓子もみんな同じ髪型という規模のブームは発生していません。 ようやく日本も自分の感性でオシャレを楽しめるほど、感性や教養がある人が増えたということでしょうか。 |
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マーセル・ヘアスタイル(1920年代後期) |
日本人は同じような格好の人ばかりという言い方もありますが、欧米も昔はそうでした。 流行を追いつつその中で独自の個性を発揮するのも楽しいですし、白いキャンバスに絵を描くように独自のスタイルを自由に表現するのも、どちらも楽しいものです。 ただ何となく流行ファッションに身を包むというやり方だと魅力がありませんが、完全な『個』を楽しむ現代と比べて、みんなで同じ方向を共有して楽しむ姿も何だか魅力に思えます。 |
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イブニングドレス姿の女性たち(1927年) |
花瓶の女性と同様のマーセル・スタイルの髪型は、1920年代後期から流行しました。 |
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大繁盛の美容室(1920年代) |
1930年代前半も引き続き流行しています。 左はロングヘアを後ろで留めてマーセル・スタイルにしているそうで、わざわざそのような工夫をしてまでこのスタイルにするなんて、いかに流行したかが伝わってきますね。 |
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マーセル・スタイルの髪型(1930年代) |
<水着>
花瓶のアールデコの女性のファッションに注目してみましょう。 日傘にノーマルな水着、ハイヒールです。 |
アールデコ 総ビーズドレス フランス 1920〜1930年頃 SOLD |
アールデコのファッションと言えば、女性がコルセットから開放されウエストラインが見えないストンとした緩やかなシルエットが流行したのが特徴です。 これは夜の正装用のドレスです。チャールトンのリズムに合わせて踊れば、施された総ビーズが綺羅びやかに輝きます。 |
シルビア・ボン・ハーデン(1894-1963年) | シルビア・ボン・ハーデン(1932年)38歳頃 |
普段着もウエストラインが緩いスタイルが特徴のようです。水着はどうなのでしょうか。 |
医師リチャード・ラッセル(1687-1759年)1755年頃 | 海水浴が海に面した地域の人たちだけで行われていた古代〜近世にかけては、泳ぐためだけの『水着』といいう概念はなく、下着や普段着、裸などで泳いでいたとみられています。 そんな中、『ダイヤモンドの原石』でご説明した通り18世紀にリチャード・ラッセル医師が海水療法を提唱しました。 海水に浸かったり飲んだりする治療・健康法です。 |
ブライトンの砂浜 "Brighton from the pier" ©Angerey(21 August 2019, 14:07:27)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
自身の理論を実践するためにラッセル医師が訪れたのがイギリスのブライトンでした。実践された海水療法は王侯貴族からも人気を集めました。 |
王太子時代のイギリス王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃 | その代表的な人物がイギリス王ジョージ4世です。 イギリスの王侯貴族は、現代の大規模な公共事業が個人の力でできるくらい半端ない大金持ちです。 個人が気に入れば地域全体を活性化することも可能です。 |
ロイヤルパビリオン "The Royal Pavilion Brighton UK" ©Fenliokao(2013年9月30日)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
破産しかけるほど競馬好きだったジョージ4世は1788年にブライトン競馬場にグランドスタンドを建設し、競馬場は国内トップクラスのレースを開催するような王侯貴族の社交場として発展していきました。 豪華な別荘ロイヤルパビリオンも造り、公務がある時以外は全てブライトンで過ごしたと言われるほど気に入りの地でした。 |
シェイク・ディーン・ムハンマド(1759-1851年) | 1759年に海水療法を提唱したラッセル医師が亡くなった後も、ブライトンには海水療法を施すための医師がやってきて大いに賑わいました。 インド人外科医で起業家、旅行者のシェイク・ディーン・ムハンマドはジョージ4世に特に気に入られ、ジョージ4世、続くウィリアム3世のイギリス王御用達のシャンプー医(インド式マッサージ師)として活躍しました。 |
1840年のロンドンからの鉄道網 |
ブリテン島の南端にあり海水浴に適したブライトンは、王侯貴族の社交の中心地かつ有名リゾートとして19世紀中も発展していきました。1841年にブライトンまでの鉄道が開通するとロンドンから日帰りのアクセスも可能となり、毎年10万人を送客するようになりました。 |
『ダイヤモンドの原石』 クラバットピン(タイピン)&タイタック イギリス 1880年頃 SOLD |
ブライトンは『ダイヤモンドの原石』のような特別なジュエリーをオーダーするようなクラスの人物に加え、19世紀中期以降は中産階級もこぞって訪れるリゾート地となったのです。 緯度の高いイギリスは、同じ島国でも日本と違ってどこでも海水浴ができるわけではありません。 |
ブライトンの夏の砂浜 | それだけにブライトンに人が殺到したわけですが、それだけ海水浴は人気があったというわけですね。 |
ブライトンの砂浜 "Brighton from the pier" ©Angerey(21 August 2019, 14:07:27)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
ジョージ4世が気に入って王侯貴族のためのリゾートとして発達していったブライトンですが、中産階級が台頭してきたヴィクトリア時代には1841年の鉄道開通以降グランド・ホテル(1864年)、ウェスト・ピア(1866年)、ブライトン・ピア(1899年)などの象徴的建築物が建設され、人口も1801年の7,000人程度から1901年には12万人を突破するに至りました。 |
ブライトン・ピアと砂浜 "Brighton Pier, Brighton, East Sussex, England-2Oct2011 (1) " ©Ian Stannard from Southsea, England(2 October 2011, 15:14)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
1899年にできた桟橋であるブライトン・ピアはゲームセンターや遊園地があり、ジェットコースターも楽しむことができます。中産階級のエネルギーあふれる時代を感じますね。 |
19世紀中頃の女性用の水着 | 19世紀中頃はまだ海水浴文化も発達しておらず、どちらかというと海水に浸かって楽しむ感じでした。 |
ウールの水着(アメリカ 1870年代)メトロポリタン美術館 | 肌が透けないという目的は達成されていますが、スポーツ感覚で泳ぐには適さない感じですね。 |
水着姿の男性と子供たち(1877年)イギリスのパンチ誌 |
男性の場合は泳ぎやすい形状のものもあったようですが、この時代は男性も肌を露出するイメージがあまりないですね。 |
海水浴を楽しむ人々(1915年) | |
1910年代は、腕は露出するスタイルになってるものの、女性は肌の露出が控えめな水着です。 提案されているのはワンピーススタイルですが、泳ぐには適さないですね。 |
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ワンピースタイプの水着(1916年)NYタイムズ誌 |
しかしながらいつの時代も旧来の常識を刷新する、新しい感覚やパワーを持つ人は存在します。 そういう稀有な人物によって新しいスタイルが生まれます。 その一人がオーストラリア出身のプロ・スイマーでヴォードヴィル・スター、女優でライターのアネット・ケラーマンです。 肩書きからして、いかにも多才な感じですね。 |
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アネット・ケラーマン(1887-1975年)1907年、20歳頃 |
ケラーマンは『水面下のバレリーナ』の異名を持つ有名な女優で、英仏海峡の水泳横断に挑戦した世界初の女性でもあります。 |
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映画『神の娘』作中のアネット・ケラーマン(1916年)29歳頃 |
フルレングスの水着姿のケラーマン(1900年代後期〜1910年代初期) |
フリフリのワンピースの水着で遠泳は自殺行為です。それまでより肌の露出面積が高かったり、身体にフィットする泳ぎやすくデザインした水着を着用しました。 |
ビキニも一般的になった現代人の感覚からすると、これくらいはむしろ露出が少ないレベルですが、洋服のような水着が一般的だった時代においてはかなりセンセーショナルなものでした。 1907年に首回りや手足を露出したタイプの水着をボストンビーチで着用していたケラーマンは、公然わいせつ罪で逮捕されるという事件が起きました。 |
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水着姿のアネット・ケラーマン(1907年頃) |
しかしながら体の線がはっきり出るタイプの水着は、大胆で活動的な新しい水着のスタイルを社会に示しただけでなく、女性の権利を拡大する運動が盛んだった当時、ケラーマンによる「女性が(活動的な)水着を着る権利」のアピールとして受け入れられました。 |
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アネット・ケラーマン(1887-1975年)1900年頃 |
時代にフィットした新しいスタイルは、徐々に世の中に浸透していくことになりました。 | |
オリンピックでのオーストラリアの競泳選手(1912年) |
水着姿の女性(1920年代) |
時代が下るとスポーツ目的ではなくファッションとしても、露出度が高く身体にフィットした水着が最先端ファッションとして受け入れられるようになっていきます。1920年代はまだ太もも全部を露出したスタイルではありませんね。 |
カリフォルニア・ビーチでの女優ジェーン・ワイマン(1935年) | 1935年に撮影された、ビキニ・スタイルの水着を着た女優の写真もありますが、これは例外的なようです。 ファッション史的に、ビキニが初めて発表されたのは1946年です。 1946年にマーシャル諸島のビキニ環礁で第二次世界大戦後初の原爆実験が行われ、原爆の小ささとその周囲に与える破壊力の大きさにちなんで、考案者のルイ・レアールによってビキニと命名されました。 |
古代ローマの別荘デル・カサーレのモザイク(古代ローマ 3世紀後期−4世紀初期頃) |
命名、定義された年や考案者は一応存在するわけですが、あくまでもスタイルなのでいつから存在するのか厳密に語るのはナンセンスなことなのかもしれません。何しろビキニのような衣服自体は、用途は不明ですが古代ローマの頃からあったようです。 ちなみにビキニという名称で発表、世の中に提案されたのは1946年ですが、当時としては肌の露出度がかなり高く、あまりの大胆さから当時はほとんど着用されませんでした。アメリカでは1960年代初頭まで一般的なビーチでの着用が禁止とされたほどでした。 |
ビーチの女性たち(1930年代) |
普段の洋服に続き、1930年代はどうやら水着が自由になり、多様性が増した時代だったようです。1920年代は水着が体にフィットしながらも太ももは布に覆われていましたが、一気に露出面積が少なくなり、デザインも多様化しています。若い女性がパワフルだった時代がこの写真からも伝わってきますね。 |
花瓶の女性の露出度の高い水着は、まさに1930年代初期の時代の最先端ファッションなのです。 |
<シューズ>
さらに水着に合わせた女性の靴にも注目してみましょう。 |
いかにも仕立ての良い、手作りの革のハイヒールです。 まだ専門のビーチサンダルの概念がなかったのかもしれません。 |
この時代はまだ現代ほど衣服や靴も大量生産の安物の消耗品ではありませんから、さすがに砂浜を歩く時は裸足です。 |
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ビーチを歩く女性たち(1930年代) |
一応サンダルタイプの靴は存在しますが、海水に濡れても良いタイプではなさそうです。 |
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ハリウッドの最先端の水着ファッション(1930年代) |
ハイヒールと水着の女性(1930年代) | ||
だからこそこの時代は上質なパンプスタイプのハイヒールと水着を組み合わせるのは特に違和感のないスタイルだったのです。むしろこの方が高級感がありますね。ビーチではしゃぐなら裸足かサンダル、リゾートっぽく楽しむならパンプスが適しているかもしれません。 |
<日傘>
女性の持つパラソルもとても印象的です。 |
日傘は昔から王侯貴族の高級でエレガントなアイテムとして憧れの存在でした。 時代がくだると王侯貴族だけでなく、女優のポートレートのアイテムとしても使われたりしています。 |
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女優サラ・ベルナール(1844-1923年) |
1920年代から既に、水着と日傘を組み合わせるトータルファッションは人気がありました。 |
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水着のカタログ(1925年) |
これは1920年代の当時最先端の水着姿の女性たちです。 水着に加えて、足下も露出度低めのスタイルですね。 20年代と30年代でこれだけ違うのが面白いです。 ちょっとガチャガチャした印象のデザインは私好みではありませんが、ファッションとして日傘が重要アイテムだったことが分かりますね。 |
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水着姿の女性たち(1920年代半ば) |
水着と合わせるトータルコーディネートのアイテムとしては帽子やボール、バングルなどのアクセサリーがあります。 ジュエリーは海水浴には向かないので着けるとしたらアクセサリーになってしまいますが、高級感は出ません。 帽子はまだしも、ボールは子供っぽくなってしまいます。 |
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水着姿の女性(1930年代) |
高級感とエレガントさ、女性らしさを演出するならばやはり日傘です。 |
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1920-1930年代の若者たち |
実際に海水浴を楽しむ場合は高級感やエレガントさなんてとやかく言わず、高級感を出したい人はそうすれば良いですし、はしゃぎたい人は浮き輪やボールで思いっきり楽しめば良いのです。 ただ、最高級の特別なアートとして作られた作品だからこそ、この花瓶の女性は最先端の水着に身を包み、高級な革のパンプスを履くパラソルを持つ美しい女性である必要があったのです。 |
1-2. アールデコらしい幾何学模様
アールデコと言えば直線と曲線によるスタイリッシュな幾何学模様が特徴です。 |
透明な芸術だからこそどこから見ても美しい、全周のスタイリッシュなアールデコ・デザインが素晴らしいです。 |
1-3.モネの『Woman with a Parasol』にインスピレーションを受けた構図
6歳頃のGenと家族(左:父、中:Gen、右:継母)1953年 | Genは骨董屋の三代目として米沢で生まれました。 上杉藩の城下町で骨董全盛期だったため、優れた日本の美術工芸品に触れて暮らすことができる恵まれた環境に育ちました。 食事はお膳で戴き、使用人さんもたくさんいたそうです。 実母はGenを産んだ後、一度も抱くことなく亡くなっているので右の女性は後妻です。Gen少年の左手をそっと握ってくれる、優しそうな美人さんです。 |
兎の鎧(Genの古写真より) | そんなGenは五月五日生まれなので、端午の節句には江戸時代の鎧を着て写真撮影をしたり、日本刀を振り回して柱を傷つけて大目玉を食らったりしていたそうです。 子供の頃は骨董屋の倅として生まれたことはラッキーだと思っていたそうで、和骨董に関する知識と共に感性も育むことができたようです。 最近は感性が鈍りがちだったようですが、嬉しいことにヘリテイジとして仕事をするうちに『冴え』が戻ってきたそうです♪ |
『マーメイドの宝物』 アールヌーヴォー 天然真珠 リング フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
その"冴え"第一弾が『マーメイドの宝物』でした。 |
冨嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) |
19世紀末のアールヌーヴォーの時代は日本美術がヨーロッパの王侯貴族や知識階級、芸術家たちに大いに持て囃され、『マーメイドの宝物』が作られたフランスのパリにも浮世絵コレクターが数多く存在しました。『マーメイドの宝物』はジャポニズムそのものではなく、日本美術とヨーロッパ美術が融合し、それが新たな芸術として昇華したアール・ヌーヴォー(新しい芸術)なので一見しただけでは分かりにくいのですが、GENの見事な冴えによりその事実が判明したのでした。 |
アンティークジュエリー・ディーラーの中で、間違いなくGENはダントツで和骨董に詳しいです。 西洋美術と日本美術は別ジャンルとして扱われる傾向にあり、そもそもアンティークジュエリーに興味を持つ人は日本美術には全く興味を持たない人の方が多いので、美術や文化の統合的な理解という意味ではヘリテイジの独断場だと思います。 44年間もアンティークジュエリーを専門に扱っているので、GENはもちろん西洋美術に関しても詳しいです。 そんなGENがこの作品を見て閃いたのが、クロード・モネの『Woman with a Parasol』とジャポニズムです。 |
モネの日傘の女性の作品
クロード・モネ(1840-1926年)59歳頃 | 印象派を代表するフランスの画家クロード・モネは日本でも知らない人はいないくらい有名ですね。 日本では『散歩、日傘をさす女性』や『散歩、日傘の女』の題名で知られる『Woman with a Parasol』は、1875年に描かれた作品です。 |
カミーユ・ドンシュー(1847-1879年)24歳頃 | 日傘をさすモネの最初の妻カミーユと、長男ジャンが草原を散歩する様子を下から仰ぎ見る構図で描かれています。 1876年に第2回印象派展に出品されました。 |
『散歩、日傘をさす女性』(クロード・モネ 1875年) | 『ラ・ジャポネーズ』(クロード・モネ 1875年) |
この『散歩、日傘をさす女性』と同じ1875年に描かれ、1876年の印象派展に一緒に出品されたのがジャポニズムを代表する作品『ラ・ジャポネーズ』です。『ラ・ジャポネーズ』で描かれた女性も妻カミーユです。印象が全く違いますが、これらが同じ時期に描かれていることも興味深いですね。 これらの作品で注目すべきは、カミーユのとる体勢です。身体は後ろを向きつつ、頭だけを正面に向けている印象的な立ち姿です。西洋の人物画では正面を見た単純な姿勢や動きが感じられないものが多い中、異質な魅力を放っています。 |
見返り美人図(菱川師宣 17世紀後期) | 『見返り美人』なんて言葉もあるくらいなので、現代日本人にとって見返り姿の美人という構図に特に新規性は感じないかもしれません。 菱川師宣の『見返り美人図』も学校の教科書などで、一度はご覧になったことがあるのではないでしょうか。 菱川師宣は17世紀の江戸時代初期に活動した浮世絵師の一人で、浮世絵を確立した人物であり、最初の浮世絵師です。 その代表作がこの『見返り美人』です。 顔が美人かどうかは時代や文化、さらには個人の好みによっても違ってきますが、女性らしい仕草や体勢に関しては永遠に共通するもののようにも感じます。 |
美人画(渓斎英泉 江戸時代後期) | |
そのような美しさの表現手法は日本美術の随所に見ることができます。これは江戸時代後期に活躍した渓斎英泉の美人画です。渓斎英泉は独自性の際立つ退廃的で妖艶な美人画で知られる浮世絵師ですが、この2作も振り向きざまの構図が印象的です。単純な正面姿だと後ろ姿を描くことはありませんが、後ろ姿まで気を遣う日本の美しい着物や帯があるからこそ惹き立つ構図と言えるかもしれません。着物文化があったからこそ、日本美術はこのように発達したのかもしれませんね。 |
歳暮の深雪(歌川国貞 19世紀中期) |
日本美術は小物を使った構図の取り方も秀逸です。単純に開いた傘をさすだけではありません。閉じて雪を払う姿だったり、さしながらも目線はまた別の所にあったり・・。とにかく生き生きとした動きが感じられるものが多いです。 |
『ふぶく』(19世紀後期) | この『ふぶく』は、吹雪による強い風が頭巾の様子からひしひしと伝わってきます。 面白いのはそれだけではありません。 身をかがめつつ傘をさす女性の傘のさし方から分かるように、か弱い女性の力では大きく広げられないほど強い風が吹いているのです。 構図の中にいる男性は傘を全開にしてさすことができていますよね。 女性のか弱さ、美しい振る舞いが見事に表現されています。 |
『散歩、日傘をさす女性』(クロード・モネ 1875年) | 西洋美術では見られない構図、風を感じる頭部のベール、日傘という小物使いなどから、明らかにジャポニズムの影響がみられます。 一見完成形に見えますが、どうやらモネにとってこれは完成形ではなく試行錯誤していたようなのです。 |
『戸外の人物習作(左向き)』(クロード・モネ 1886年) | 『戸外の人物習作(右向き)』(クロード・モネ 1886年) |
1875年の『散歩、日傘をさす女性』のモデルとなった最初の妻カミーユは1879年に亡くなってしまったので、11年後に描かれた上の2つの習作はシュザンヌという別の女性がモデルです。戸外で日傘をもつ女性を下から見上げる構図は同じですが、体勢が異なりますね。 一番最初の見返り美人の構図は印象的でしたが、後のこの作は正直全然つまらない印象ですね。いかにモデルの体勢が大事かが分かるという意味ではとても面白いですが、モネも試行錯誤チャレンジしてみたということでしょう。 |
鏡面美人図 | 夏の朝・鏡見美人図 | 夜鷹図 |
後ろ姿美しいこれら3作は全て葛飾北斎による作品です。後ろ姿の美人というモチーフながら、すべて少しずつ姿勢や小物の使い方が異なっており、そのどれもが印象的です。美術品が理解できない人たちならば「全員、後ろ姿の美人ね。ふーん。」で終わってしまうかもしれませんが、モネのように才能ある芸術家であれば、このような日本美術の恐ろしいまでのレベルの高さに驚嘆したことでしょう。だからこそ触発されて試行錯誤重ねたに違いありません。 |
『散歩、日傘をさす女性』(クロード・モネ 1875年) | 『ラ・ジャポネーズ』(クロード・モネ 1875年) |
そうは言っても才能ある芸術家、単なる真似に終わっていないのが興味深い所です。日本画の人物は目線が外してあるのが特徴です。観る者と目があうことはありません。上の2作はジャポニズムの影響がありながらも、目線は観る者とバッチリあうように描かれているのが面白いです。日本美術の良い所を取り込み、融合させつつ新たなクリエーションとして昇華させようとする試みが感じられます。 |
モネの日傘の女性の作品の影響
ジョン・シンガー・サージェント(1856-1925年)50歳頃の自画像 | 主にロンドンとパリで活躍したアメリカの画家ジョン・シンガー・サージェントもモネの作品にインスピレーションを受けた芸術家の一人です。 Genが2004年のGENとアローのフォト日記で『マダ〜ムX』という投稿をしていますが、本家本元の『マダムX』を描いた人物です。 人妻を描いた『マダムX(ゴートロー夫人)』はあまりにも官能的で品がないとして、パリの画壇から追われてロンドンに拠点を移すきっかけとなったようですが(笑) |
朝の散歩(ジョン・シンガー・サージェント 1888年) | モネの日傘をさす女性の作品にインスピレーションを受けて制作されたのがこの『朝の散歩』です。 もはやジャポニズムというよりはただの西洋の人物と風景画ですね。 綺麗な作品ではありますが、モチーフを取り入れてみたというだけの感じです。 モネが戸外の人物習作を発表したのが1886年ですが、1887年にサージェントはパリ郊外のジヴェルニーで制作活動していた巨匠モネを訪問しています。 翌年1888年に制作されたのが左の『朝の散歩』です。 |
『マダムX(ゴートロー夫人)』(ジョン・シンガー・サージェント 1884年) | サージェントは上流社交界の人々を描いた優雅な肖像画で知られる画家です。 上流階級の人々の日常の様子もその作品から伺い知ることができます。 |
『カーネーション、リリー、リリー、リリーローズ』 (ジョン・シンガー・サージェント 1885年) |
官能的すぎる『マダムX』と共にサージェントの代表作の1つとされるのがこの『カーネーション、リリー、リリー、リリーローズ』です。当時日本から輸出されていた盆提灯が多く配されており、ヨーロッパの上流階級の子供たちと共にある光景がとても不思議で幻想的な雰囲気ですね。 1884年に発表した『マダムX』によるスキャンダルから逃れるためにパリからイギリスに引っ越してきた直後の作品です。コッツウォルズのブロードウェイにあるファーナムハウスで、サージェントが1885年の夏を過ごしたイギリス式庭園が舞台となっています。 |
イギリスらしいバラと共に印象的なのが百合の花です。 花の特徴から日本のヤマユリであることが分かります。 当時日本から球根も輸出されていました。 |
ウィーン万国博覧会日本庭園写真(1873年)東京国立博物館 |
『清流』でご紹介した通り、1873年のウィーン万国博覧会で日本は明治政府として初めて正式参加し、本格的な日本庭園を造って欧米にPRしました。新しい日本を世界に向けてPRする、明治政府の威信をかけた万博であり、約1,300坪の広大な敷地には神社も造られました。これらが高い評価を得て、ヨーロッパ各地に日本庭園が造られたのです。 |
『睡蓮の池と日本の橋』(クロード・モネ 1899年) |
モネも庭に日本風の太鼓橋をわざわざ作って睡蓮の連作を描いたことは有名ですね。 |
『清流』 |
このようなヨーロッパ上流階級、美術界への日本美術の影響が、このような美しいジャポニズム・ジュエリーに昇華したりしているわけです。 ジャポニズムは知識階層でもあった上流階級の人たちのための、ハイエンドの美術品と言えるのです。 |
そしてこのパラソルを持つ最先端の水着姿の見返り美人も、その構図から間違いなくジャポニズムの影響があると言えるハイエンドの美術品なのです。 |
1-4.ジャポニズムの影響が見られる色使いと落款の存在
リトグラフのポスター(アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 1892年)トゥールーズ=ロートレック美術館 | 『マーメイドの宝物』でもお話しましたが、ヨーロッパ美術では元々原色を使った大胆な色使いはあまり見られませんでした。 また、線を使った輪郭表現なども以前のヨーロッパではあまり見られない表現です。 左のポスターは日本美術の影響を強く受けた画家と言われるロートレックの作品で、現代日本人にはちょっと分かりにくいですが典型的なジャポニズムの作品です。 |
この作品の大胆な色使いや線描の美しさはいかにもジャポニズムですが、ジャポニズムを確信できるポイントが他に存在します。 |
それは作者の物と推測される、日本の落款のようなサインです。これはエングレーヴィングという手法で描かれており、これ1つ彫るのも手間と技術が必要です。金属に打つホールマークとは全然わけが違います。 |
ガラスのエングレーヴィング | ボヘミアンガラスへの彫刻は、職人が1点1点手作業で回転盤を使って彫刻していきます。 集中力と勘を要する高度な職人技が必要です。 |
金属への刻印は手作業の場合、先端にホールマークのデザインを施した難い素材の金属棒と金槌を使って行います。先端を刻印する部分に当てて、後ろからトンカチでコンと叩けば終わりです。 マスターとなる金属棒は制作する手間がかかりますが、マスターを1つ作ってしまえば後は誰でも簡単、素早く量産できます。 |
エングレーヴィングによるサインは、ある意味それ自体が1つの作品と言える特殊なものなのです。 ところでこのサイン、日本の落款のようだと思いませんか? |
日本から輸出されたのは浮世絵や盆提灯、球根だけではありません。ヨーロッパの好みに合わせて輸出専用で作られた華やかな焼き物も多く輸出されました。その中には割合としては少ないですが、花押や落款が入った作品も存在します。 作家のサインである落款が入っていると特別な作品感、高級感が増しますよね。しかもただの文字のサインではなく、サインが記号化されているからこそデザイン的にもカッコ良いのです。 |
明らかにこの日本の落款が入った作家物の作品を見て、花瓶の作者は特別に作った自信作に落款を入れたのだと推測します。 |
1-5.融合・昇華型のジャポニズム
『マーメイドの宝物』でもご説明した通り、一口に『ジャポニズム』と言ってもそのスタイルにはいくつかあります。美術工芸品の場合はスタイルは以下の通り分類できます。 スタイル1 日本の美術工芸品をそのまま使って生かす スタイル1〜3はモチーフ自体が日本のものなので、誰からみてもジャポニズムと分かりやすいです。 また、欧米人が頭の中で理解・解釈して表現する日本の美と、日本人が思う日本の美にはズレがあり、スタイル2、3も日本人であればすぐに見分けが付くはずです。 分かりにくいのがスタイル4ですが、本作品はスタイル4に該当します。 |
『秋の景色』 赤銅高肉彫り象嵌ブローチ 日本 19世紀後期 フレームはイギリス? 19世紀後期 SOLD |
スタイル1、日本の美術工芸品をそのまま使って生かすというのは、例えば『秋の景色』のように日本の金工で作られた赤銅を生かし、ヨーロッパのジュエリー技術でブローチに仕立て上げる手法です。 |
『カーネーション、リリー、リリー、リリーローズ』(ジョン・シンガー・サージェント 1885年) | スタイル2、欧米人が和のモチーフで制作するスタイルは、サージェントの『カーネーション、リリー、リリー、リリーローズ』のような作品です。 盆提灯やヤマユリなど、和のモチーフをそのまま欧米人のスタイルで表現しています。 |
『桜満開』 アールデコ ジャポニズム ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
欧米人が理解し、解釈した日本の美が表現されています。 欧米人が見て違いを感じ取ることができるかは分かりませんが、日本人が見ればこれを制作したのが日本人ではなく欧米人であることは感覚的に理解できると思います。 日本人だと感性が根本的に異なるため、むしろやろうと思ってもこのような表現はできないと思います。 |
『清流』 アールデコ ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
スタイル3、日本人が和のモチーフで制作?というのは、確証はとれていませんが、おそらく日本人が日本人しか持たない独自の美的感覚で制作した作品です。 同じ和のモチーフでも、欧米人と日本人では表現作品の醸し出す雰囲気が明らかに異なるのです。 |
『白鷺の舞』 舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット イギリス 1870年頃 SOLD |
開国以降、私費で欧米に渡って活躍した日本人はたくさん存在します。 実際、私費でフランスに渡った明治時代の日本画家である久保田米僊(くぼたべいせん)も、あまり知られていないかもしれませんが1889年のパリ万博で金賞を受賞しています。 日本庭園を造る庭師も海を渡っているはずですし、名もなき日本人の職人が『清流』や『白鷺の舞』のような傑作を作っていても全くおかしくないのです。 |
特殊な才能を持つ芸術家にしか不可能な融合・昇華型ジャポニズム
『道を照らす提灯』 クラバット ピン フランス 1900〜1910年頃 ¥420,000- (税込10%) |
欧米人にとって、文化や美的感覚が異なる日本の美を表現するのはとても難しいことです。 単純にモチーフとして和の物を取り入れるだけならば、ある意味誰でも可能です。 その中で、純粋にセンスと作りが良いものだけを厳選してご紹介してきました。 ジャポニズム自体が知識階層でもある上流階級の人が好む芸術なので、優れた作品の割合が多いです。 ただ、融合・昇華型は別格です。よほどの才能ある芸術家でなければできません。 |
『破れ団扇』 エナメル ブローチ フランス 1880-1890年頃 SOLD |
モチーフ利用型のスタイル2は秀才型であればできる表現、融合・昇華型のスタイル4は天才肌の芸術家でなければできない表現と言うのがフィットします。 |
『散歩、日傘をさす女性』(クロード・モネ 1875年) | 『ラ・ジャポネーズ』(クロード・モネ 1875年) |
モネで言うならば左がスタイル4、右がスタイル2と4が混ざった作品と言えます。『散歩、日傘をさす女性』はモチーフに日本のものがないので、一見ジャポニズムには見えません。しかしその表現方法から融合・昇華型のジャポニズムであると言えます。 |
『接吻』(クリムト黄金時代の代表作 1907-08年) | セセッションのクリムトもジャポニズムに強い影響を受けたことで有名な芸術家ですが、彼の遺した作品も融合・昇華型の傑作ですね。 |
『Liebe』(グスタフ・クリムト 1895年)ヴィエンナ美術館 | 全く異なる文化と感性を元にした西洋美術と日本美術の完全なる融合、そして新たな芸術作品に昇華させるというやり方は、天才肌の芸術家にしかできない特別なことなのです。 |
『静寂の葉』 アールヌーヴォー プリカジュールエナメル ペンダント オーストリア or フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
ヘリテイジで扱う宝物では、モチーフは和ではないものの不思議な侘び寂びを感じる『静寂の葉』が該当します。 |
『マーメイドの宝物』 アールヌーヴォー 天然真珠 リング フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
もう1つの宝物が『マーメイドの宝物』です。 欧米で特に評価の高い葛飾北斎の富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』の波にインスピレーションを受けつつ、海の贈り物、天然真珠が黄金の波に抱かれた優しく力強く美しい姿へと昇華しています。 |
一見ジャポニズムには見えないジャポニズム。 この作品は天才的な芸術的才能を持った人物によって生み出された、特別な芸術作品なのです。 |