No.00357 道を照らす提灯 |
美しいエナメルと宝石で彩色された、この世で最も贅沢な黄金の提灯♪ |
明治の日本の幻想的な風景、幽玄の美 |
夜が暗かった時代を想わせる、足元を照らす提灯のリアルな作り!♪ |
『道を照らす黄金提灯』 この世で最も小さな黄金の提灯に、これ以上はないと言えるほど多様な細工技術を詰め込んだ、贅沢で美しい宝物です♪ |
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色石は小さくても発色できるルビーやピンク・サファイアで、カボションカットならではの雰囲気ある美しさが魅力です。一方のローズカット・ダイヤモンドは透明感と煌めきのバランスが見事で、とても目を惹きます。埋め込み式の留め方によって、宝石の美しさに没入できます。 |
この宝物のポイント
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1. 上流階級の知的階層に高く評価された日本美術
ヨーロッパの上流階級の中でも知的階層の属し、特別な地位にいた紳士のステータス・ジュエリーです♪ 女性用のジャパネスク(ジャポニズム)・ジュエリーとはまた異なる、メンズ・ジュエリーならではの魅力がたまらない宝物です!♪ |
1-1. ヨーロッパで人気を博した日本の美術工芸品
一目でそれと分かる、360度のリアルな提灯モチーフが見事です。 今では日本人すらも、蝋燭で灯した提灯は見慣れないものとなりました。実際に使ったことがある方は、どれくらいいらっしゃるでしょう。 今の状況は、当時の欧米人と同じ感じであると言えるでしょう。 |
1-1-1. 貴族の羨望の的として君臨した鎖国中の日本美術
鎖国中も輸出入がゼロだったわけではなく、管理・統制・制限された環境のもとで貿易が行われていました。気軽なものではありませんから、提灯や団扇のような日常用の雑具は貿易品の対象にはなり得ません。 |
【参考】フランス王妃マリー・アントワネットの日本の蒔絵コレクション(江戸中期 17世紀後半-18世紀半ば) | ヨーロッパからのオーダー生産にも対応していましたが、君主やそれに準ずる高い身分の人たちからのオーダーが主で、非常に高価な美術工芸品でした。 |
フランス王妃マリー・アントワネットのキャビネット(メトロポリタン美術館) 漆器:日本 17世紀、キャビネット:ジャン=アンリ・リーゼナー 1783年 |
もちろん、一般の日本人は見たことがないような豪華なものばかりです。このような日本の美術工芸品が、ヨーロッパ王侯貴族の知的階層のステータス・アイテムであり、上流階級や知的階級の憧れの的として存在してきました。『出島の三学者』による日本の紹介などもあって、ヨーロッパでの日本への興味と憧れは募るばかりでした。 |
1-1-2. 初めて目にした日本の庶民の日用品への驚き
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | 開国後、1862年には万博で日本ブースが確保され、様々な物品が紹介されました。 ただし日本人が出展したものではなく、1859年に来日した初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコックの蒐集品、約1,500点です。 英国のエリートの視点で、「世界中が注目する万博で紹介すべき」と判断した物品と言う点で、興味深いです。 アンティークジュエリーも、お店によってラインナップが全く違います。どのような観点、知識、美的感覚、センスを持つ誰が選ぶのかによって、内容はガラリと変わるものです。 |
第2回ロンドン万博の日本ブースでは漆器や刀剣、版画と言った美術品や、蓑笠や提灯、草履などの庶民の日用品が紹介されました。オールコックは爵位貴族などの高位の身分ではなく、外交手腕を買われて任官したエリートです。入手にはコネも必要とする、大名クラスの美術工芸品を手に入れるのは不可能だったはずで、庶民でも気軽に手に入るような物品も多かったでしょう。 |
錦画製造之図(1879年頃) | 日本人は庶民でも浮世絵(絵画・美術品)を気軽に買って楽しんでいた民族です。日本人以外の感覚では、あり得ないことです。 ものにも依りますが、浮世絵の値段は「蕎麦一杯」と同じと言われています。 蕎麦は江戸時代の庶民のファーストフードの1つでした。現代の価値に換算すると、かけそば1杯で320円くらいと考えられています。 職人によるハンドメイドではあるものの、あくまでも大量生産品です。肉筆画は美術品として高価ですが、木版画(印刷物)は現代のポスターやチラシなどと変わらない感覚のものだったでしょう。 |
第2回ロンドン万博の日本ブース(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862年) |
大名クラスを含む上流階級やエリートで構成された文久遣欧使節団も、日本ブースを視察しています。「古めかしい雑具ばかりで、粗末なものばかりを紹介している。」と嘆いたとされます。当時の日本人から見ると、そんな感じだったのでしょうね。 それにしても、提灯は目立ちますね。和紙と竹でできた日用品です。綺麗な絵が描かれた高価なものでも、たかが知れています。貿易が制限されていた時代は、わざわざお金と労力をかけて輸出しようとするものではありませんから、このような日用品は欧米の人々にとっては面白かったに違いありません。実際、オールコックのコレクションはヨーロッパで大絶賛で、日本人の国民性を見事に表現したものだと評価され、その後のジャポニズム・ブームの契機になりました。 |
1-1-3. ヨーロッパで爆売れした日本の美術工芸品
万博は展示のみならず、販売の場でもありました。1867年のパリ万博以降は日本人自身が出展するようになり、陶磁器、漆器、刀剣、屏風、浮世絵などの美術工芸品の他、人形、提灯、扇子、布、和紙、さらには農機具や木材などのに費用品や原材料など多岐に渡る品々が相当数出品されました。 |
【ウィーン万博】竜が描かれた巨大提灯(1873年) | 発足したばかりの明治政府が威信をかけて初出展した1873年のウィーン万博では、巨大提灯が目玉の1つでした。 高さが2間(3.6m)もあったそうです。提灯も欧米人にウケが良かったのでしょう。 |
アメリカの雑誌で紹介された日本パヴィリオンの様子(1873年) |
お雇い外国人らからの「派手で目立つもので目を引く方が良い。」という意見により、名古屋城の金のシャチホコや鎌倉の大仏のハリボテ、直径8尺(2.4m)の大太鼓なども展示されました。あまり日本人や上流階級、知的階層の好みではない気がしますが、万博は台頭してきた中産階級の文化と教育レベルの向上が大きなテーマであり、メイン・ターゲットは庶民でした。このような分かりやすいものが必要だったわけです。客寄せパンダの効果は抜群で、新聞や雑誌で取り上げられた日本パヴィリオンは大いに賑わったそうです。 |
『ラ・ジャポネーズ』(クロード・モネ 1875年)ボストン美術館 | 【ウィーン万博出展品】染付花籠文大皿(1873年頃)ハウステンボス内ポルセレインミュージアム |
高度な技術を持つ職人による、唯一無二の美術品は上流階級や富裕層に買い求められる一方で、庶民でも手が出せる気軽な販売品もありました。 |
扇子や団扇がダントツの人気を誇ったそうで、扇子は1日に3,000本も売れた日もありました。あまりにも売れすぎるため、当初の倍に値上げしてもその勢いは止まらず、一週間で数千本を売り尽くしたと記録が残っています。提灯は美しいですが、実際に使ったり飾ったりを考えると、扇子や団扇の方が気軽ですね。 このようなジャポニズム・ブームにより、莫大な数の日本製品が欧米で身近に楽しまれるようになっていきました。 |
1-2. 日本の美術工芸品をモチーフにした宝物
『うちわを持つ少女』(ピエール=オーギュスト・ルノワール 1881年)クラーク・アート・インスティテュート | 高価な美術工芸品や調度品はまた別ですが、団扇や扇子、提灯のような手に入れやすい日常用の道具は、そのものがステータス・アイテムになることはありません。 モチーフにして高名な画家に描いてもらうというのは、教養や財力、身分を象徴する手法の1つとなります。 ただし、絵画は持ち歩いたりはできません。 |
『破れ団扇』 エナメル ブローチ フランス 1880-1890年頃 SOLD |
『提灯』 ロケット ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
『天女の舞』 オパール 扇ブローチ イギリス 1900〜1910年頃 SOLD |
絵画を社交の場に持って行って自慢することはあり得ませんが、ジュエリーはさりげなく教養やセンスをアピールしたり、会話のとっかかりや議論の対象にしたりすることもできます。 |
ピーコック・ルーム(ジェームズ・マクニール・ウィスラー&トーマス・ジキル 1876-1877年) "Peacock Room" ©Smithsonian's Freer and Sackler Galleries(1 January 2000)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
いち早く日本ブームが起きていたイギリスでも、日本美術をテーマにした社交の場『ピーコック・ルーム』が1876年には創られています。孔雀は日本ではありませんし、日本人の感覚からすると日本っぽくないのですが、当時の多くの欧米人にとっては違いがよく分からず、東洋全体で解釈する傾向もあったようです。一応、アングロ・ジャパニーズ・スタイルの室内装飾の代表作にして最高傑作の1つとされています。 このような社交場には、手に入れた自慢の日本の美術品が飾られることもあったでしょうし、日本美術にインスピレーションを受けて創り出された新しいスタイルのジャポニズム・アートを披露することもあったでしょう。 |
そのような、日本に興味のある上流階級が集う場にこのようなジュエリーを身につけて行けば、間違いなく注目の的となったでしょう。 会話もはずみ、社交や外交などの仕事でも大いに役立ったはずです。 |
2. 欧米の上流階級を感動させた日本の提灯
2-1. 日本の美しい照明器具
現代では明かりは手軽で、好きな時間に好きなだけ明るくしていられるのが当たり前だったりします。しかし、昔は消耗品である蝋燭も非常に高価でした。現代と昔では、明かりに対する意識は全く異なります。また、ヨーロッパと日本では、照明もかなり違いました。 |
2-1-1. 昔の欧米人の照明のイメージ
フランス王ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュの婚儀(17世紀)テッセ美術館 |
これはフランス王ルイ14世の婚儀です。中央に見える、長い蝋燭で明かりをとっています。 |
ベルサイユ宮殿の鏡の間(1668年に増築) "Chateau Versailles Galerie des Glaces" ©Myrabella / Wikimedia Commons(25 May 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
これはルイ14世(在位:1643-1715年)によって建てられたヴェルサイユ宮殿の『鏡の間』です。シャンデリアの上に、そのまま蝋燭が立っています。日本だと、このような直接的な照らし方はあまり見ない印象ですね。 |
パリ・ルーブルのナポレオン3世様式の街灯 | 街灯やランタンだと、ガラスの覆いが一般的です。 蝋燭やガスを使用する場合はススが付着しますが、透明なガラスだと直接的な光に近いですね。 |
蝋燭式ランタン "Weiße Kerze in Metallwindlicht " ©4028mdk09(17 January 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
吊り下げ式ランタン "Nizwa(10)" ©Andries Oudshoorn(21 March 2008, 05:50)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
透明ガラスでも、透かしの装飾があると光の印象は変わります。また、白色ガラスを使うこともあります。現代の電球も、透明と白色ガラスの両方があるので、どのような光になるのかはご想像いただけると思います。 |
パリのアレクサンドル3世橋の街灯(ロシア皇帝ニコライ2世により寄贈 1900年) "Street lamp 2, Pont Alexandre-III, Paris December 2012 " ©Michel Petit from Issy-Les-Moulineaux, France(2 December 2012)/Adapted/CC BY 2.0 |
これは特殊です。1900年のパリ万博に合わせ、ロシア皇帝ニコライ2世が建設・寄贈したアレクサンドル3世橋の街灯です。アールヌーヴォーの街灯として知られています。万博の人気が最高潮に達した時代、帝国ロシアの威信をかけて作られました。アール・クレール(透明な芸術)ですね。 |
パリのアレクサンドル3世橋(ロシア皇帝ニコライ2世により寄贈 1900年) "Pont Alexandre III 02" ©Larry Johnson(2009)/Adapted/CC BY 2.0 | ガラスによるアーティスティックな照明だと、このような感じです。 当時の欧米人の、照明に対するイメージはなんとなくご想像いただけたでしょうか。 |
2-1-2. 多彩な和の照明器具
ガラスの歴史は古く、日本で最初にガラス製品が作られたのは2,000年近く前、紀元前2世紀頃の勾玉とされています。 |
『婦女人相十品 ポッピンを吹く女』(喜多川歌麿 1790年)"Flickr - …trialsanderrors - Utamaro, Young lady blowing on a poppin, 1790 " ©...trialsanderrors/Adapted/CC BY 2.0 | ポッピン(ビードロ) "Poppin" ©Bakkai(July 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ポッピンの技術などからも分かる通り、日本人は器用なので、作ろうと思えばどんなガラス細工でもできたはずです。 しかし、食器や照明器具などのガラス製品は長く発展しませんでした。 |
食器類に関しては漆器や陶磁器があり、ガラスを必要としませんでした。蒔絵を施した芸術性の高い漆器、繊細な絵付けをした陶磁器。味のある楽茶碗など、日本人は独特の感性で美術工芸品を発展させ、普段から美しいものに慣れ楽しんでいました。西洋式の明治ガラスは近代以降の歴史です。 照明に関しても、ガラスを必要としませんでした。石材、竹、紙など実に多様です。 |
2-1-2-1. 石灯篭
石灯篭 "常夜灯 ©Osten fu(6 April 2013, 10:30:13)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
石灯篭はそこらじゅうにありますが、現代では実際に灯りがついた姿を目にすることは稀です。蝋燭で管理するのは大変ですしね。これは電線を引いて、電球が点灯するように改造してあります。常夜灯としての機能だけになっています。日本人の美意識の変化の現れなのか、外観的には台無しですね(泣) |
日本庭園を視察するオーストリア皇帝夫妻(ウィーン万博 1873年) |
開会の式典にはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリーザベトが臨席しました。日本庭園に大変な称賛を送ったそうです。このようにしてヨーロッパの王侯貴族から高い評価を得たことで、各地に日本庭園が造られるようになりました。 |
アレクサンドラ・パークに造られた日本村(1875年) |
王侯貴族の邸宅に造営されたものだと、限られた上流階級しか見ることはできません。しかし、ウィーン万博で展示された日本の神社楽殿はイギリスのアレクサンドラ・パーク社が購入し、国民の教養を高めるための教育やレクリエーション、娯楽などの公共の場として造られた『アレクサンドラ・パーク』に移設されました。 |
ウィーン万博で建物や庭園を展示準備する日本の職人たち(1873年頃) |
ウィーン万博の日本パヴィリオンの建築責任者の一人だった山添喜三郎(1843-1923年)によってさらに全体が整備され、神社、東屋、商店、土蔵、庭園などを備えた日本村が完成しました。ロンドンにいながらにして、イギリス人は庶民に至るまで日本の風景を見られるようになったのです。現代、私たちが国内で見るものよりクオリティが高そうですね。 |
マッキントッシュ家の照明やインテリア(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
石灯篭が灯される風景も見ることができたでしょう。 そのような日本の美しい光景にインスピレーションを受けて、グラスゴーのマッキントッシュ夫妻による先進的なモダンスタイルの照明作品も創られました。当時の、石灯篭を見て感動を受けた様子が伝わってきますね♪ |
2-1-2-2. 竹の照明
Genと小元太のフォト日記『雪明かりのロウソク』 |
日本人は竹も照明に使います。向瀧旅館の雪明かりのロウソクはGenも大のお気に入りで、フォト日記でもその感動の様子をご紹介しています。管理が容易な電球ではなくロウソクだからこそ、白い雪の上でユラユラと揺れる影が幻想的です。夕暮れから開始し、暗くなるにつれて陰影も明瞭になっていきます。吹雪でも消えないよう工夫しているそうです。 |
秋の幻想庭園(岡山・後楽園 2013.10.14) |
これはサラリーマン時代、岡山に住んでいた時に撮った後楽園の『秋の幻想庭園』です。10年以上なので画質が悪いですが、ニョキニョキと立っている棒が竹筒の照明です。 |
夏の幻想庭園(岡山・後楽園 2014.8.4) | 竹に開けた穴から光が漏れて、様々な模様を描き出します。 かなり広大な敷地で、本数も多いのでさすがにLEDを使用していましたが、本物の竹筒に施された手仕事のアートは見ているだけで面白かったです。 |
ほうき・ざるなどの行商、Basket and broom peddler(1890年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.127 |
しなやかさと耐久性を持ち、形状的にも使い勝手が良い竹は様々な場所で使えますよね。器や柄杓、お箸にもできます。籠やザルを編んだり、団扇などの骨にしたり、竹ひごも様々なシーンで役立ちます。 |
『知られぬ日本の面影』(小泉八雲 1894年)"HEARN(1895)Glimpses of unfamiliar Japan" ©Sarah Wyman Whitman, Boston Public Library(27 November 2007)/Adapted/CC BY 2.0 | 見た目も独特で美しく、竹や笹に和のイメージがついたことは無理もありません。 ギリシャ生まれの小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)が欧米に日本文化を紹介した書籍、『知られぬ日本の面影(Glimpses of Unfamiliar Japan)』の表紙デザインにも笹竹が採用されています。 中国や他のアジア圏の文化を知っている欧米人にとっても、日本の文化は独特でした。 |
2-1-2-3. 紙の照明
蓮の襖(京都・青蓮院門跡 2014.9) |
襖(ふすま)や障子など、「日本人が紙で部屋を仕切っている!?」と驚かれた話は有名ですね。和紙も特別視されており、当時の万博でも注目を集める出展物の1つだったそうです。 |
明治期の賞状やポスター(旧片山家住宅 2014.7) |
当時の手漉きの『和紙』は、現代人がイメージする紙とはまるで違います。以前、岡山で明治時代の高品質の紙を見る機会がありましたが、新品かと思うほど綺麗で仰天した記憶があります。100年以上は経過しているものばかりで、1886年のポスターは130年ほど経っても色鮮やかなままでした。 |
1877/明治10年の印刷物(旧片山家住宅) | これも撮影した時点で137年、経過していました。 日本は旧字体から新字体への変化があったため、図書館で読める書籍は、古いものでも殆どは戦後のものです。大学の地下図書館でそれなりに古い書籍が読めましたが、紙は臭いし黄ばんでいて痛みが酷かった印象があります。 新聞なども、すぐにボロボロになります。古い紙は劣化するのが当たり前のイメージがあったため、本当に衝撃でした。 古いものほど高品質!!良い意味で固定概念が破壊され、今の仕事につながる良い経験でした♪ |
左:上田手漉和紙工房7代目の和紙職人さん(岡山高島屋・伝統工芸展 2014.8) | 津山松平家の御用紙・横野和紙を漉いていた上田手漉和紙工房の7代目の和紙職人さんに色々教えていただく機会がありました。 強い薬品で化学処理するようになった結果、現代の紙は弱いしすぐに劣化するそうです。 確かに、繊維がしっかりしているきちんとした和紙は、破こうとしてもかなり強いです。 |
『いせおんど 桜襖』(歌川貞秀 1847-1852年頃) |
竹同様、和紙も至る所で使い道がありました。懐紙をマナーやエチケットとして持ち歩く習慣もありました。そんな日本人は、照明にも紙を使いました。蝋燭や油を直で置いて照らすイメージはありません。行燈にも紙を貼ります。団扇も扇子も紙を貼りますから、日本の紙文化は凄いですよね。 |
ナイツブリッジの日本村でのアフタヌーンティー(ロンドン・グラフィック 1886年3月13日) "Afternuun-Tea-at-Japanese-Village-Knightsbridge-1886" ©British Library Newspapers (March 13, 1886), London, England(13 March 1886)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
提灯も和紙貼ります。これは1885年にオープンした、ロンドンのナイツブリッジの『日本村』です。約100人の日本人男女が雇用され、日本人のリアルな生活様式を体感できる施設でした。1885年1月から1887年6月までの1年半に渡る展示は大人気を博し、1887年2月には来場者100万人を突破したそうです。当時の日本ブームが伺えますね。 軒には提灯が下がっています。現代でも居酒屋さんなど、軒先に提灯が下がった様子は見ることができますね。 |
鳳凰殿に隣接して建設された日本の茶店(シカゴ万博 1893/明治26年) |
これは1893(明治26)年のシカゴ万国博覧会で、平等院鳳凰堂をモデルにした『鳳凰殿』に隣接して造られた茶店と日本庭園です。ここでも日本人女性が喫茶サービスし、大いに話題になったそうです。 居酒屋や特別なお祭り的なイメージが強くなった提灯ですが、昔は照明器具でした。日本関連の場所に行けば、身近に見ることができたでしょう。 |
フランス人女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1881年、37歳頃 | 生活様式や文化が異なる欧米人が、実際に買って持ち歩いたり使ったりすることを考えると、和傘や団扇、扇子あたりが適当です。 |
櫛引が運営していた日本庭園(アトランティック・シティ 1896年) |
これは日本のランカイ屋で博覧会キングとして知られる櫛引弓人が、1896年にアメリカのニュージャージー州アトランティック・シティにオープンした日本庭園です。6エーカーの浜辺の空き地に造営された大規模な施設で、日本から取り寄せた丹頂鶴や京都の寺鐘、石灯籠、2万個に及ぶ岐阜提灯などで彩られ、日本の風情が感じられる庭園だったそうです。提灯は凄い数ですが、照明器具としても必要だったわけです。 |
櫛引が運営していた日本庭園の写真集(1898年出版) |
興味がある欧米人が提灯や行燈を購入し、実際に家で使うことはあったと思います。 |
『ミカド』ポスター、ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹(1885年) | 使い勝手などの点で、提灯が欧米に浸透したイメージが薄いです。 しかしながら扇子などと同様に、提灯も間違いなく当時の欧米人の意識に日本文化として浸透していたはずです。 |
2-2. 芸術性と機能性を兼ね備えた提灯
2-2-1. 描くことができる紙の提灯
提灯の絵付け作業(日下部金兵衛の工房 1890年頃) |
ガラスと鉄のランタンと異なるのが、竹ひごに和紙を貼った提灯は自由に絵や文字が描けること、それによって点灯していない時も描かれた装飾が活きることです。そのままお店の看板などにもなります。 |
2-2-2. 中国と日本の提灯との違い
中国の春節を祝う紅提灯 |
中国にも提灯はありますが、布を貼ることが多いです。また、折りたたみ式は少なく、竹ひごを縦に通すのが一般的です。色彩やフォルム、イカやタコの足のような装飾を見ると、やはり美的感覚や好みが中国人と日本人では全く異なることを感じます。中国の提灯を知っている欧米人であっても、日本の提灯を見て別物に感じたこと、驚いたであろうことは想像に難くありません。 |
居酒屋の赤提灯 "Cyochin2" ©Hykw-a4(July 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 同じ現代の赤提灯でも、かなり雰囲気が違います。 中国の表現はハッキリしていますが、日本人はこのような"雰囲気"があるものを好みます。それは今も昔も変わりません。 DNAに刻まれたものなのか、育つ環境によるものなのか・・。面白いですね。 |
2-2-3. 折りたためる芸術性の高い提灯
今回の宝物は、間違いなく日本の提灯を表現しています。 |
提灯の火袋に屋号などを書き入れる様子(1914年9月1日) "Painting Paper Lanterns of Japan(1914 by Elstner Hilton)" ©A.Davey from Portkland, Oregon, EE UU(1 September 1914)/Adapted/CC BY 2.0 |
右下に見える通り、提灯は折りたたんで小さくして保管できるのが特徴です。季節や流行を描いた芸術性の高いものも、その移ろいに合わせて気軽に変えられますね。そのままの大きさだと収納スペースが大変です! |
提灯の絵付け作業(明治 1880-1890年頃) |
提灯は中国から伝来しました。最も古い記録は平安時代、1116年です。縦に竹ひごが入った、折りたたみできないタイプでした。室町時代(1336-1573年)の終わり頃に、折りたたみできる提灯が考案されたとされます。 江戸時代以前は宗教的な祭礼や儀式に使っていましたが、江戸時代以降は蝋燭が普及し、照明器具として使用されるようになりました。 |
八女提灯 "Yamechouchin" ©高山朱美(20 June 2017)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | 長い1本の竹ひごを螺旋状に巻いて使う割骨(一条螺旋式)と、短い竹ひごを輪っか状に組んでたくさん使う巻骨があります。 現代の提灯の大半は前者で、幕末に福岡県八女郡福島町で生み出されました。 もともと福島提灯と呼ばれていた八女提灯は、福島町の荒巻文右衛門が1813年頃に、墓地等に吊り下げる場提灯として売り出したのが起源とされます。 山茶花や牡丹などを単色で描いた素朴なものだったそうですが、他に類を見ないものだったそうで、売れ行きは比較的良好でした。 その結果、副業として携わる人が増え、盆提灯の一大生産地となりました。 |
『縞揃女辨慶』(歌川国芳 1798-1861年) | 1854〜1859年頃、同・福島町の吉永太平が革命を起こしました。一条螺旋式を考案し、障子紙より薄い典具帖紙のような薄紙を使うことで、仄かに内側が透けるようにしました。 これに山水、草木、花鳥などを色彩豊かに描いた結果、幽玄さや風雅さに富むようになりました。いかにも日本人が大好きそうですね。 涼み提灯として大いに歓迎され、盛夏には軒下や楼上などに下げて納涼用として楽しまれるようなりました。 どちらかと言えば使う道具だった盆提灯から、飾って楽しむ美術工芸品への進化と言えますね。 |
金ボタル(ヒメボタル)までの道を照らす提灯(岡山・吹屋 2014.7) |
地元の子供が描いた提灯 |
これまた岡山にいた頃の画像です。金ボタルと言って、水辺ではなく山中で見られる珍しいホタルを見に行った時のものです。1年で僅か10日ほどしか見ることができません。ホタルにとっては、子孫を残すための最も重要なタイミングです。 人工的な光があると自然の営みを阻害してしまうため、現場では携帯やカメラのフラッシュ、タバコなどの光は厳禁で、近くの駐車場は利用不可、山道への車の乗り入れも禁止して環境を守っています。多少の距離を歩くため、駐車場からの道案内に提灯が灯してありました。地元の子供が描いた、1つ1つ個性に富むホタルの絵が印象的でした。ホタルを守ろうという真心を、こうやって子供たちにも伝えているようです。 |
地元の子供が描いた金ボタルの提灯(2014.7) | 当然ながら、このように真心を込めたものは早く楽に量産できるものではありません。 吉永太平が改良したタイプの福島提灯も描き絵に手間と費用(人件費・技術費・デザイン費)を要するため、大量生産は不可能で、広く一般の需要に応じることはできませんでした。 心を動かす、真心と技術のこもった美術工芸品は大量生産できませんし、それなりに高価です。昔の日本人は当たり前に理解できていましたが、今ではそれを想像できない人が市場の主要層となってしまったため、チャチでつまらないもので溢れかえっているわけです。 |
明治に入ると太平の弟、吉永伊平が早描きの描画法を応用し、製造時間と価格を大幅に削減することに成功しました。そのままの品質で製造時間と価格を削減するのは無理です(笑) とは言え、その後も形状や絵柄、付属品などの改良を積み重ね、急速に増加する需要に対応していきました。販路拡大で海外にも輸出されるようになり、遂に重要物産として世の称賛を受けるに至りました。生産数が少なすぎても、一般には知られざるものとなってしまいます。 |
Genとアローのフォト日記『猫に小判にアローに古伊万里』(2006年4月頃) | 先々代のマスコット犬アローが使っているのは、幕末頃の古伊万里の茶碗です。 実は私の母方が伊万里で、祖母の家では元々持っていた伊万里焼を日常使いするのが普通だったので、ある時期から変にブランディングされて大層なもの扱いされているのが違和感たっぷりでした(笑) 骨董屋の3代目として生まれたGen曰く、このような骨董の食器はどれも職人の手作りであっても、庶民の日常用の雑器と、大名用などに作られた特別製のもので全く違うそうです。 大名用の鍋島は別格だそうです。庶民が日常使いするために作られたものが、金儲けのために商売人によって変にブランド化されるからダメなんですよね。 |
大名への献上品クラスは、高度な技術を持つ職人が緻密に制作します。 一方、庶民用は量産する必要があるため、絵付けも時間をかけた精密なものではありません。でも、良いものは線が生き生きとしていて、それはそれで庶民用の雑器として作られたものならではの魅力があります。おブランド品的に大金を出してヘイコラして扱うのは違いますが、当時の職人さんや庶民の、コストはかけられないけれど目一杯に美しさも楽しむという心をキャッチできれば、気軽に使う道具として十分に魅力があるのです。 |
『現代美人第一輯 岐阜提灯』(伊東深水 1930/昭和5年) | 真面目かつ器用な日本人が作ったものならば、量産品でもそれなりに品質があったでしょう。 数万単位で出荷される量産品もあれば、特別オーダーで絵柄を描いてもらうこともあったでしょう。 |
このような宝物をオーダーできる人物ならば、量産品と特別オーダー品の違いも熟知していたはずです。 和の提灯ならではの美しさに感激して特別オーダーしたのでしょう。単にスペシャルな提灯をオーダーする以上に凄いですね。 やりとりをしていた日本人も同等の身分の人たちだったはずで、ヨーロッパの紳士がこれを着用する姿を見て感激したでしょうね♪ |
2-3. 特別な身分に基づく来日経験が分かるリアルな作り
2-3-1. 揺れる構造のクラバットピンという特殊性
英国王室3代のクラバットピン着用姿 | ||
アルバート王配(1819-1861年)1848年、29歳頃 | 英国王エドワード7世(1841-1910年)1900年代 | エドワード7世の長男アルバート・ヴィクター王子(1864-1892年) |
クラバットピンは男性用のステータス・ジュエリーでした。女性用と比べてメンズ・ジュエリーはアイテム数が限定されており、クラバットピンは相応の数が制作されています。アレンジの仕方は様々ですが、揺れるタイプは今回の宝物以外に見たことがありません。女性用のジュエリーは揺れる構造も多いですが、信頼や安定した雰囲気を演出したいメンズ・ジュエリーの場合、揺れる構造は不向きです。 |
それ故に、この宝物の構造は異例と言えます。 この構造に込めた意図を読み解くと、持ち主に来日経験があろうことも見えてきます。 |
2-3-2. 実地体験は特別な身分と教養の証
『グランドツアー』古代ローマの遺構を背景にしたイギリス貴族の子弟 | 座学には限界があります。実際に現地に足を運ばないと得られない経験や知識があり、それはとても重要です。 だからこそ、古くからヨーロッパ王侯貴族はグランドツアーなどの見聞旅行に莫大なお金と労力を惜しみなく投資してきました。 |
グランドツアーの行程例 "Grand Tour William Thomas Beckford" ©Szarka Gyla, Jane023(2009年8月23日, 14:28)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
古い時代、イギリスの王侯貴族の見聞旅行の行き先は、主に文化先進国のフランスやイタリアでした。 島国イギリスからヨーロッパ大陸に行くことから、『グランドツアー』と呼ばれていました。 現代のように交通手段が発達しておらず、旅行は数ヶ月から8年くらいかかるのが当たり前だった時代の旅です。 |
アルフレッド王子を乗せた戦艦ガラテア(1869年) "The Galatea carrying H. R. H. The Duke of Edinburgh. Wellcome V0036696 " ©Wellcome Trust/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
蒸気船の発達によって世界を移動するハードルが下がってくると、王侯貴族の子弟の見聞旅行の行き先は世界規模に広がりました。特に、鎖国していた日本は注目の的でした。 |
『大君の都』(ラザフォード・オールコック卿 1863年出版、1868年NY版) |
書籍で読んだり、人から聞いたりするのと、直接見聞きしてくるのは全く別です。だから初代駐日総領事オールコックが著した『大君の都』に上流階級や知的階層が興味津々でしたし、社交界でも話題の中心となったわけです。オールコックは1860年には富士山にも登頂しており、記録に残る外国人初の富士登頂者となっています。 |
クリストファー・ドレッサー(1834-1904年) | イギリス政府の正式な使者として1876(明治9)年に来日したクリストファー・ドレッサーも、明治政府高官の案内によって僅か4ヶ月の滞在で横浜、神戸、淡路、摂津三田、有馬、大阪、奈良、和泉堺、和歌山、黒江、高野山、京都、伊勢、四日市、名古屋、瀬戸、多治見、静岡、東京、日光、横浜を視察しています。 |
お雇い外国人 アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)1890年、37歳頃 | 岡倉天心と共に活動したお雇い外国人アーネスト・フェノロサは、狩野永悳(かのうえいとく)に弟子入りして『狩野永探理信』の画号を与えられたりもしています。 狩野永悳は江戸時代には御用絵師として活躍し、明治維新後も皇室関連の依頼を多く手掛けるなど第一線で活躍していた絵師です。 フェノロサは狩野愛が強すぎて、東京で生まれた長男にアーネスト・カノウ(Kano)と名付けたほどです。 当時の、『日本』の特別なステータスが伝わってきますね。 |
ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926年)1896年頃?、46歳頃? | フェノロサと同じハーバード大学卒のアメリカ人医師ウィリアム・スタージス・ビゲローも1882年に来日し、天台宗の園城寺(三井寺)に入門して修行しました。『月心』という法名まで受戒しています。 短期の観光旅行のつもりでしたが、実際の日本に触れて魅了され、短期の一時帰国を除けば7年も滞在しています。 当時は今より狭い世界です。モースやフェノロサらと共に見学や収集の旅に出ることもありました。こうして岡倉天心とも接点ができ、帰国してボストン美術館の理事となった後、欧米での岡倉の活躍をバックアップしてもらえたのです。 |
皇族・王族クラスはさすがに長期滞在は不可能ですが、国賓としてありったけの場所を回ったり体験したりしました。日本人や日本の物品を自国に持ち帰ることは可能ですが、やはり限界があります。特に庶民文化や自然な日常生活に触れるのは、現地でしかできないことだったと言えます。 だから日本人にとっては大層なものに感じられないごく日常のものが、ヨーロッパ社交界ではむしろ自慢のネタになったわけです。 |
2-3-3. ヨーロッパの王侯貴族が自慢する『日本での体験』
日本で刺青を彫ったイギリスの王族 | ||
1869年に来日 | 1881年に来日 | |
ヴィクトリア女王の次男 | ヴィクトリア女王の孫/王太子の長男&次男 | |
刺青当時 25歳頃 | 刺青当時 17歳頃 | 刺青当時 16歳頃 |
アルフレッド王子(1844-1900年)24歳頃、1868年頃 | アルバート・ヴィクター王子(1864-1892年) | ジョージ王子/イギリス国王ジョージ5世(1865-1936年)1893年、28歳頃 |
1869年、ヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子が、ヨーロッパの王族として初めて来日しました。この時に刺青を彫り、叔父からその話を聞いたり見せてもらったりしたアルバート・ヴィクター王子、ジョージ王子が12年後の来日時に龍の刺青を彫っています。 |
親戚関係のイギリス王室とロシア皇室 | |
デンマーク王室出身の姉妹 | 従兄弟同士となる姉妹の息子たち |
ロシア皇太子妃マリア・フョードロヴナ&イギリス王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1875年頃) | イギリス国王ジョージ5世(48歳頃)&ロシア皇帝ニコライ2世(45歳頃)1913年 |
ヨーロッパの王族は親戚同士です。社交界や親戚関係を通してつながっており、情報や文化は共有されています。母親同士が姉妹で仲が良く、自身も双子のようにソックリだったイギリス国王ジョージ5世とロシア皇帝ニコライ2世も小さい頃から交流がありました。 |
日本で刺青を彫ったヨーロッパの王族 | ||
1881年に来日 | 1891年 | 1893年 |
ヴィクトリア女王の孫 | ロシア皇太子 | オーストリア=ハンガリー皇太子 |
刺青当時 16歳頃 | 刺青当時 22歳頃 | 刺青当時 29歳頃 |
ジョージ王子/イギリス国王ジョージ5世(1865-1936年)1893年、28歳頃 | 後のロシア皇帝ニコライ2世(1868-1918年)1880年代 | フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ(1863-1914年) |
そういうわけで、年が近い親戚のお兄さんから話を聞いていたロシア皇太子ニコライ2世も刺青を彫っており、後年にそれを自慢する写真も残っています。その後に日本を訪れたオーストリア=ハンガリー皇太子フランツ・フェルディナントも刺青を彫っています。 |
『日本の刺青と英国王室』(小山騰 2010年出版)?藤原書店 | 日本人にとって刺青は任侠者のイメージがあり、文明国として確固たる地位を築くべく"野蛮な風習"をなくしたくてしょうがありませんでした。 しかし、王族が日本の刺青を彫ったことが憧れの対象となり、王侯貴族から中産階級に至るまで真似るようになっていきました。 1890年代になると、特に高位の上流階級の間での流行は熱狂状態に達し、貴婦人まで刺青をするようになったそうです。 とは言え、現地で日本の職人に彫ってもらえる人は極少数です。日本の職人の特別な感性と技術で、というのは特別なステータスの証であり、羨望の的だったのです。 |
イギリス王エドワード8世(1894-1972年)1919年、25歳頃 | このため、1922年に来日したエドワード8世も刺青を所望したそうです。当時は王太子で、1881年の来日で刺青を彫ったジョージ5世の長男です。 しかし、刺青文化をどうにかしたかった日本政府は、違法であることを理由に拒否したそうです。 当時皇太子だった昭和天皇のヨーロッパ視察旅行の返礼として、宮内庁主導で次期英国王をもてなすものですからね。日本人にとっての最高峰の歓待をし、最高峰を体験してもらいたかったはずです。刺青は拒否したかったでしょうね・・(笑) |
『桜満開』 アールデコ ジャポニズム ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
代わりにエドワード8世は能鑑賞や新宿御苑での観桜会、浜離宮の鴨場での鴨猟、靖国神社での玉串奉納などを体験しました。従者も貴族階級です。この時に来日した誰かがこの桜の宝物をオーダーしていても、年代的、ジュエリーのクラス的にはおかしくないのです。アンティークジュエリーはこのようなロマンがありますね♪ |
島津邸で鎧姿になったエドワード8世(1922年) |
島津家の邸宅を訪れた際は、鎧兜も着用しています。Genも子供の頃、江戸時代の子供用の鎧兜を着て写真を撮ったことは思い出深いようです。修理のために、組紐も手伝ったことがあるそうです。さすが骨董屋の倅ですね。見て想像するのと、体験して実感するのは大きな違いです。 この写真を社交界で披露したら「重かった?」、「着心地は?」、「カッコイイ!♪」と、エドワード8世は羨望の的だったでしょう。 |
エドワード8世が来日に使用した巡戦艦レナウン(1920年代) |
船上パーティで随行員らと共に着物姿のエドワード8世(1922年) |
船上パーティでは着物姿と法被姿も披露しています。法被は名入りのものを京都で誂えたそうです。 正座して扇子を手にしており、御膳もあるので日本式で食事を楽しんだのでしょう。Genも米沢では御膳で食事していたそうです。器の扱いや食事の仕方には作法があり、実際に経験した人だけが身につけられる教養や知識を持って帰ったでしょう。 |
船上パーティで車夫姿を披露するエドワード8世(1922年) |
船上パーティでは車夫姿を披露しています。右の従者は初代ビルマのマウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテンで、海軍元帥も務めた人物です。襟にマウントバッテンらしき文字も見えますね。エドワード6世より6歳年下で、来日は22歳頃です。単なる従者ではなく、彼にとっての視察や次期国王との関係強化も兼ねたお供でしょう。 それにしても、車夫の姿が一番誇らしげに見えます。車夫は、日本人にとっては高貴な印象はありません。接待する日本人も王侯貴族やエリート官僚などの身分でしたから、「なぜ車夫?!」と思ったかもしれませんね。 |
グランドツアーで日本を訪れた際のロシア皇太子ニコライ2世(1891年) 長崎にて人力車に乗車 |
ヨーロッパの王侯貴族に刺青が流行したのは、理由があります。初代駐日総領事オールコックが『大君の都』(1863年)の中で、日本の車夫の刺青は世界一であると褒め称えていました。刺青文化自体は日本以外にも存在します。1862年にエドワード7世(王太子バーティ)が中東エルサレムで十字架の刺青をしていたのですが、『大君の都』で話題となった、世界一とされる日本の刺青を入れるのが王侯貴族にとってどういうことか、想像できますね。ヨーロッパの王族として初めて来日するアルフレッド王子が、まず刺青を入れたのはそういう背景があったからです。 車夫は来日した王侯貴族が足としてお世話になるだけでなく、大津事件では大活躍しています。車夫は武器や防具を持たない一般人です。サーベルで斬撃する襲撃犯を怖がって逃げてもおかしくない所ですが、車夫の1人が襲撃犯・津田三蔵の両足を引き倒し、もう1人の車夫は犯人が落としたサーベルで首を斬り付けて動きを封じました。兵隊や侍ではない、"普段はただの一般人"の大活躍は、まさに突如あらわれたスーパー・ヒーローです。 |
王太子時代のイギリス王エドワード8世(1894-1972年)1922年、28歳頃 | 世界一の刺青をしていてオシャレ。 いくらでも人力車を引っ張って走れる力持ち。 いざとなったら武器がなくとも悪漢に立ち向かえる、勇気と力。 最高にカッコいいイメージが、ヨーロッパ社交界の中でできていたわけですね。 |
Genからの必読図書『ニコライ二世の日記』p.57(保田孝一著 1990年発行)朝日新聞者 | ちなみに左の2人が、ニコライ2世を救った車夫です。御召艦アゾフ号に招待され、ニコライ2世に謁見して勲章メダルが授与されています。 このような場では、日本人ならば車夫であっても相応の身なりを整えて臨むものですが、ニコライ2世の希望で法被股引き姿だったそうです。 ニコライ2世はさらに金二千五百円ずつの一時金を与え、終身年金として年額一千円の支給を申し渡しています。一時金は現代の貨幣価値で二千万円以上に相当する額だそうです。 「命懸けで救って当たり前。」という意識は微塵もなく、純粋な感謝の心が伝わってきますね。さらに車夫のような卑しい職業をやめ、正業に就くべしと諭したそうです。 二人は感泣し、饅頭笠に貨幣を盛って退出したとのことで、このような笠の使い方1つとってみても日本人の所作は素敵ですね。 |
左の北賀市市太郎は故郷の石川県に帰り、もらったお金で田地を買って立派な邸宅も構え、嫌いな勉学までして郡会議員にまで選出され、名士となったそうです。興味深いエピソードですね。 ちなみにGenから必読図書として渡された『ニコライ二世の日記』も、Genの熱心に勉強した痕跡があります。生徒会長を務めたり、旧米沢藩の藩校だった地域一番の高校を出ており、もともと真面目で賢くて勉強熱心です。この仕事のために惜しみなく勉強もしているので、Genは私以上に知識豊富です。ただ、パソコンで文字を打つのが苦手なのだそうです。1940年代生まれであれだけのHPを作っているのですから、十分ですけどね。Genは本当に誠実で凄いんです! |
さて、当時を見ていけば、日本人には思いもしないようなものが、ヨーロッパの王侯貴族にとっては感激したり、自慢のアイテムになることは十分にあるのです。 むしろ、庶民にとってはなんてことないものほど、いかにも王侯貴族が選んだものらしさを感じます。 |
2-3-4. ハッと驚く提灯の使い方
日本人と欧米人の女優の表現力の違い | |
貞奴(マックス・スレーフォークト 1901年) | 『ミカド』ポスター、ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹(1885年) |
日本はモノ自体も優れていますが、表現手法も独特で世界に類を見ません。奥深さや余韻を生み出す婉曲表現や不完全な表現は、単純さを好む一般大衆向けとは違い、まさに教養ある上流階級好みです。 モノだけ見る機会はあっても、日本人が実際に使う仕草は、印象が全くの別物だったりします。日舞で扇子を使う仕草1つ見ても、本当に上手な人は一挙手一投足が惚れ惚れするほど美しいですよね。 |
和服で日本文化を体験するオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者 フランツ・フェルディナント(1893年) |
日本人はどうやって使うのだろう。あの気品に満ちた美しい所作を知りたい、身につけたい! これは1893年に来日したオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者 フランツ・フェルディナントと従者の様子です。筋肉や骨格のせいでどうしても正座ができないのだと思いますが、身体が柔らかい人は床にしっかりと頭をつけています。このような本物の体験や、所作を身につけることに大きな価値を見出していたのがヨーロッパの上流階級です。帰国したら社交界では、話を聞きたくてやってくる人も目白押しだったでしょう。 |
新橋駅に到着したオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者 フランツ・フェルディナント(5代目 歌川国政 1893年) |
その皇太子フランツ・フェルディナントの、新橋駅での出迎えの様子です。提灯がたくさん装飾されています。照明にも装飾にもなって、本当に便利ですね。このようにイベントの装飾や軒先の照明として目にすることはあっても、提灯にはまた別の使い方があったりします。 |
『花乃宴』(香蝶楼国貞 1786-1865年) | こんな浮世絵もありますが、実際に提灯を使ったことがある方ならば、この状態でずっと持ち歩くことはあり得ないと分かると思います。 照明としてどこかにかけるために、一時的に手に持っている姿です。 中に火がついた蝋燭が入っていると、前はかなり熱いです。とても長時間は持っていられません。 |
『岡場所錦絵 辰巳八景ノ内』(香蝶楼国貞 1786-1865年) 【出典】国立国会図書館貴重書画データベース |
懐中電灯のように、夜に足元を照らすために使う場合、右の女性のように棒の先端に下げてを使います。遊郭仕様なので、宣伝も兼ねて大きいですね。鉄とガラスによる西洋のランタンと違い、これだけ大きくても女性が持てるのも特徴です。 |
ロンドンの夜の見回り(トマス・デッカー 1608年) | ヨーロッパのランタンは貴族用の特別な高級品を除いて、無骨で重そうです。 昔は治安維持などもあって、夜の見回りをする公務員がいました。1792年にスコットランドの技師ウィリアム・マードックが従来の灯油ランプより明るく使い勝手も良い住宅用のガス灯を発明し、1797年に街灯としても使用されるようになりました。 |
それ以前も街灯自体は存在しましたが、18世紀までの蝋燭や有機油による街灯は路を照らす効果は低く、夜間の犯罪抑止が主目的で、まだまだ夜の街は暗かったそうです。北部イングランドのマンチェスターにガス灯が設置されたのを始まりとし、19世紀半ばまでには世界主要都市のメインストリートにガス灯が設置され、夜の街路は明るくなっていきました。 |
『源頼光公館土蜘作妖怪図』(歌川国芳 1840年代半ば) |
日本も明治時代から戦前の昭和初期にかけてガス灯や電灯などの街灯が設置されていきましたが、大都会を除いて全国的にはそれほど普及しておらず、多くの地域で街灯はありませんでした。1898年にイギリスの発明家デヴィッド・ミゼルが懐中電灯の特許を取得していますが、まだ高価だったため、長く提灯が現役で使用されました。 戦後、夜が明るくなって、妖怪が姿を消していったと言われています。 |
この宝物が作られた20世紀初頭の日本は提灯が現役で、ごく自然に使用されていました。 |
『夜商内六夏撰 提灯売』(香蝶楼豊国 1849年) | 庶民の日常の照明道具としての提灯だと、折りたたみ式ではなく固定タイプも多かったかもしれませんね。 吊るす棒も、竹製だと気軽です。 |
『子供遊五行 てうちんの火』(歌川国芳 1798-1861年) | この浮世絵の子供たちは、身なりからして裕福な感じがします。 折りたたみ式の提灯で、綺麗な絵が描かれています。子供でも片手で持てる軽さです。鉄とガラスのランタンでは、こうはいきません。 文化的に豊かな日々の生活が伝わってきます。 |
『風流七小町略姿絵 かよひ小まち』(歌川豊国 1795年頃) | 提灯のクラバットピンの持ち主は、きっと日本で実際に足元を提灯で照らしてもらう体験をしたと思います。 夜、宿の離れに移動したり、接待を受けに移動する時だったり・・。 この浮世絵だと夜の暗がりの中、提灯上部から漏れる光で照らし出された女性の美しい様子が描かれていますね。 実際に提灯が灯る光景は、とても幻想的で印象深い美しさだったことでしょう。 |
『カーネーション、リリー、リリー、リリーローズ』 (ジョン・シンガー・サージェント 1885年) |
これは社交界の人々を描いた優雅な絵画で知られる、ジョン・シンガー・サージェントの作品です。イギリスのコッツウォルズにあるファーナムハウスのイギリス式庭園が舞台で、白いユリは日本から取り寄せたヤマユリのようです。ヨーロッパだと提灯は身近に手に入っても、吊るして照明にする状態でしか普通は見なかったと思います。 |
「日本人は固定して使うだけでなく、こんな風に下げて、暗い夜道を提灯で照らしながら歩いていたよ♪」と、日本での経験をこの宝物を使って実演していたのでしょう。リアルな造形からは、持ち主の当時の感激や遊び心が伝わってきます♪♪ |
3. 幻想的で世界一価値がある黄金の提灯
3-1. 折りたたみ式の構造が分かる見事な再現
竹ひごの骨に和紙を貼った際の質感が、実に見事に彫金で再現されています。 実物の大きさを考えると、当時の第一級の職人の腕が分かる見事な彫りです。 100年以上が経過する中で、溝に若干のパティナが付着することで、陰影が強調されています。アンティークならではの味わいとして魅力が増しており、作ったばかりの色が均一な状態よりも、間違いなく美しくなっています♪ |
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ピーコック・ルーム(1876-1877年)1890年撮影 |
ピーコックルームも、天井の照明は提灯モチーフでデザインされています。折りたたみ式ではないので、どうしても日本人には中国っぽさを感じさせます。18世紀にはギリシャ美術とエトルリア美術が混同されていたこともありましたし、十分に資料が得られておらず、研究が進んでいない時期はしょうがないですね。 |
マッキントッシュ家のリビングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
マッキントッシュ家の照明器具(1906-1914年の再現) 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
提灯や石灯篭。それまでイラストなどで見たことはあっても、実際に光が灯った姿は印象が違うものです。 和の照明器具はアーティスティックで美しい。日本人には見慣れたものが、欧米人を感動させました。 |
ピーコック・ルーム(ジェームズ・マクニール・ウィスラー&トーマス・ジキル 1876-1877年) "Peacock Room (2)" ©Smithsonian's Freer and Sackler Galleries(1 January 2000)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
日本の様々なものに魅了された人々が集まる社交の場に、この宝物をつけていくのは最高に楽しそうですね♪ 日本の王侯貴族やエリートともやりとりがあったでしょう。そのような日本人の上流階級に見せても、驚かれたに違いありません♪ |
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3-2. 道を照らすために吊下げられる構造
3-2-1. クラバットピンと実演用の両方で使うための立体設計
『風流七小町略姿絵 かよひ小まち』(歌川豊国 1795年頃) | クラバットピンとして使うためには、構造に工夫が必要です。 この浮世絵の提灯を忠実に再現すると、ジュエリーとして着用した際に収まりが悪くて不恰好です。 |
太秦寺の都年中行事画帖『牛祭』(中島荘陽 1928年) |
高く掲げる場合、ブラブラと揺れると蝋燭の炎で紙が燃えてしまいます。奥に見える通り、上下を固定して使用します。これはこれで雰囲気がありますが、持ち主が体験した、足元を照らしてもらう様子は再現できません。 |
クラバットピンとして着用して美しく、また足元を照らす様子も再現できるよう、見事な立体構造が設計されています。提灯の大きさも重要ですし、適度に揺れるためにはピンの角度と位置関係も精密に計算しなくてはなりません。提灯が手前に出過ぎていても着用した時に変ですし、奥側過ぎてもピンに干渉してしまいます。 |
取手の丸みの角度や大きさ、下げる部分の内径外径の設計も重要です。美しく揺れること、見た時に自然であることを兼ね備えなくてはなりません。 ただ何となく適当に作っても、このような宝物にはならないのです。 考慮すべきパーツが多い分、かなり試作を重ねたはずですし、設計力、制作技術力ともに相当なレベルで兼ね備えていなくては実現不可能です。 |
3-2-2. 金具のリアルな表現
提灯の取手はゴールドに厚みがあって高級感を感じると共に、道具としての再現が見事です。取手は固定されていますが、金具で取り付けた様子をこれだけ小さなものに、高度な技術と手間をかけて再現しているのも素晴らしいです!♪ |
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↑等倍↑ |
3-2-3. 金具に負担をかけず高級感もある中空の作り
提灯は中が空洞で作られており、上から覗いてもリアルがあります♪ |
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↑等倍↑ |
『EAGLE EYE』 |
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一定の大きさがある、立体的なジュエリーは中空構造で作られるのが一般的です。しかし鷹狩を趣味にできるような、相当高位の身分である貴族男性のオーダー品だと、金無垢で作られる場合もあります。 『EAGLE EYE』も、ゴールドならではの心地よい重さがあります。重量は9.0gあり、いかにもメンズ・ジュエリーらしさを感じます。 |
対して提灯ピンの重量は3.0gで、鷹狩ピンの1/3の重さです。 提灯ピンの持ち主も、財力的には金無垢にしても問題なかったはずです。しかし、揺れる構造にした提灯が重たいと、耐久性に大きな問題が生じます。 |
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←↑等倍 |
摩耗を考慮する必要がある高級ジュエリー
私もそうでしたが、庶民は貴金属製品を使う機会は殆どありません。貴金属は想像以上に重いです。例えば常温付近でのゴールドの密度は19.3g/cm3、鉄は7.9g/cm3で、ゴールドは鉄の倍以上の重さがあります。同じ形で製品を作っても、ゴールド製だと2倍以上の重さになるというわけです。 |
【参考】金具の摩耗が激しいフォブシール | 【参考】パーツがすり減った15ctゴールド・チェーン |
さらにゴールドは柔らかいこともあって、すり減りやすいです。高級ジュエリーを使い慣れている上流階級にとっては、貴金属のこれらの性質は常識です。だから意味もなく矢鱈とゴールドを使って、「重いから高級!」と自慢することはありません。ゴールドを贅沢に使うことがある一方で、軽くしたり耐久性を出すために、ゴールドを贅沢に使う以上にお金をかけて工夫していることが少なくありません。割金の配合を工夫したり、中空構造にしたりなどです。 貴金属を使ったジュエリーと、軽い金属を使ったアクセサリーでは性質が異なりますし、同じ様な使い方をすべきではないのです。成金の場合、お金はあっても知識や経験値が欠落しており、結果として「重いから高級!」という思考を元にしたジュエリーを選ぶのです。 |
立体デザインに凝った中空構造の揺れるピアス
アンフォラ型 ターコイズ&ゴールド ピアス イギリス 1860〜1870年頃 トルコ石、15ct ゴールド SOLD |
『Future Design』 モダンスタイル 天然真珠&ダイヤモンド ピアス イギリス 1900〜1910年頃 SOLD |
どちらも中空構造の立体的なピアスです。プラチナはゴールドより重く、密度は21.5g/cm3あり、鉄の3倍近くの重さがあります。このような揺れるタイプのピアスを無垢で作ったら、金具はすぐにすり減り、最悪は使用中に落下して衝撃で破損します。重いと耳にも大きな負担となります。ピアス穴が変に広がってしまったら嫌ですね。 このような意味があって、お金が物凄くかかることになっても、わざわざ技術と手間をかけて中空構造にするのです。成金が短絡思考で「軽いからちょっと・・。」と言うようであれば、上流階級には何も理解していないことがすぐにバレます。何を身につけ、どのような発言をするかで何もかも伝わるのが社交界です。だからジュエリーは重要だったのです。 |
この宝物はフランスのイーグルヘッドの刻印があり、18ctゴールド製です。 しかしながら軽量化した構造のお陰で、100年以上が経過した今でも金具のすり減りはどこにも感じられません。 本当に優れたアンティークジュエリーは持ち主や製作者が旅立った後も、ずっと愛されるために作られていることが伝わってきます。 このような1点物の特別な宝物は、様々なアイデアや要求を伝えたり相談したりながら制作を進めたオーダー主も、作者の1人と言えます。 まさに永遠の芸術です・・♪ |
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3-3. 多様なエナメルと宝石を駆使した幻想的な装飾
3-3-1. 超絶技巧のギロッシュエナメルの葉っぱ
高級提灯は、日本人の感性で描かれた色彩鮮やかな絵も美しいです。 暗闇に火が灯ることで、より一層、幻想的な和の心を浮かび上がらせます。 それを再現するために、エナメルと宝石を使って和の草花の自然な姿を描いています。 小さい上に、かなりきつい曲面に描いた景色は驚くべきものです!! まず、ギロッシュエナメルの葉っぱが驚異的です。 小さいので肉眼ではギロッシュエナメルに見えないかもしれません。小さな面積に手彫りされた、繊細な葉脈が見事です。 |
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塗り重ねの回数が少なく素材の質も悪い低品質のエナメル
永遠の美しさを持つ必要があるアンティークジュエリーにとって、自由な色彩表現のためにエナメルは重要な技法でした。釉薬を塗り重ねて炉で焼く工程を繰り返して完成させます。ギロッシュエナメルで知られるファベルジェ工房の作品も6回は塗り重ねていたそうです。現代の高級時計のエナメル文字盤を作るトップクラスの職人の例だと、75%は不良品になってしまうそうです。それ故に、どうしても高級品となるそうです。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | 【参考】中〜高級品のオパールセント・エナメルのペンダント |
塗り重ねの回数が少ないと、左のパンジーのように瑞々しさがなく干からびた感じになります。何度も焼くのが大変なら、1度に盛る釉薬を厚くすれば良いと考える方もいらっしゃるかもしれません。しかし、気泡やムラが生じる原因となります。 また、右の葉っぱは葉脈が彫金されており、ギロッシュエナメルになっています。しかしながらエナメル素材の質が悪く透明度が低いため、この程度のエナメルの厚みでも彫金がボヤけて見えます。そもそも葉脈の彫金のクオリティもチャチです。 |
【参考】成金向け高級エナメル・ブローチ(HERITAGEでは扱わないレベル) |
これもHERITAGE基準には満たない、チャチなエナメル・ジュエリーです。ダイヤモンドの派手さと、「エナメル=高級品」という当時のイメージだけで高く売るために作られた成金向けです。上部の赤いエナメルに注目すると、ギロッシュエナメルっぽいのですが彫金は殆ど分かりません。撮影用のライトを当てていない、通常光ではギロッシュエナメルだと分からないかもしれません。 |
【参考】成金向け高級エナメル・ブローチ(HERITAGEでは扱わないレベル) |
それ以上に問題なのが、ムラが酷いことです。焼成前の釉薬は流れます。たとえ気泡にならなくても、一度に多すぎる釉薬を盛ることで塗り重ねる回数を減らそうとすると、低部に釉薬が溜まってムラになります。計算して部分的に釉薬を厚めに盛る場合もありますが、手抜きが目的の場合は単に美しくなくなるだけです。 手間をかけないと出せない美しさはあるのです。エナメルというだけで高級と認識し、ダイヤモンドの派手さに満足する成金が高級ジュエリーの主要購買層となっていったことでエナメル技術も廃れました。エナメルというだけで、高級かつ美しいというわけではないのです。 |
曲面に施した超難度のギロッシュエナメルによる高級品
『循環する世界』 ブルー ギロッシュエナメル ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
ブルーエナメル UFOブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
曲面へのギロッシュエナメルは難度が高く、このような宝物は一目で高級品と分かります。高級品でも、極端に曲率がある面へのエナメル装飾は多くありません。 |
曲面への神技のエナメル
提灯は360度の作りで、しかも小さいので曲率はかなりキツいです。この面にギロッシュエナメルを施しています。 |
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↑等倍↑ |
道具から自作したであろう微細な彫金も凄いですが、曲面に施したグラデーションのグリーン・エナメルは驚異的です。小さいからこそ、表面張力によって流れ出ず実現できたのでしょう。物理学的な特性も熟知した上で、限界に挑んだ神技のエナメルです!!♪ |
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↑等倍↑ |
3-3-2. 黒い鋼鉄の質感の再現
最高級の米沢箪笥 | 通常品の米沢箪笥 |
日本の美術工芸品と言えば、黒化処理された鋼鉄の重厚な質感も特徴の1つです。Genが米沢にいた頃にプロデュースしていた米沢箪笥も、黒い透かし金具が特徴です。朱塗りの箪笥と黒い透かし金具の組合せが目を惹く美術工芸品で、海外の上流階級からも人気があったそうです。 |
職人の手仕事による米沢箪笥の透かし金具 Genプロデュース 1970年代 HERITAGE コレクション |
『The Art of Iron』 ベルリン アイアンブレスレット ドイツ(プロイセン) 1820年代 SOLD |
ベルリンアイアンと通ずるものがありますね。右の宝物は、さすがにGenがミュージアムピースと認める19世紀初期の傑作なので別格ですが、どちらも『鉄の黒』が美しいです。この黒い色には、民族や時代を超越した普遍の魅力があります♪ |
その魅力を理解しているからこそ、上下360度に施された黒のマットエナメルは見事です。 徹底したこだわりと美意識が伝わってきます! |
ロシアン・アヴァンギャルド リング ロシア 1910年頃 SOLD |
シャンルべ・エナメル ロケット・ブローチ イギリス 19世紀後期 SOLD |
ブラック・エナメルで多く見るのは、磨き上げられた極上のオニキスやウィットビー・ジェットを彷彿とさせるような、艶のあるエナメルです。 しかし、提灯金具がツヤツヤの黒だとイメージが台無しです。 |
ポップアートとして昇華 | リアルさの追求 | これらは、近い年代にフランスで制作された提灯ジュエリーです。 左のように、フランスらしさを感じるポップアートとして昇華させた形で表現する場合、艶のあるブラック・エナメルがピッタリです。中途半端にリアルさを取り入れたら、かえって野暮ったくなります。 リアルさを追求した今回の提灯だと、やはりマットなブラック・エナメルがしっくりきます。 |
『提灯』 ロケット ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
今回の宝物 クラバット ピン フランス 1910年頃 |
このような宝物をオーダーしたり制作する人たちは、こだわりが半端ではありません。提灯を再現するために、意図的にマットな質感でブラック・エナメルを施しています。特別に調合したはずです。 研究熱心で知られた18世紀の初代ウェッジウッドの試作見本からも分かる通り、特別な美意識と感性を持つ人は妥協することを知りません。惜しみなく才能と労力をかけ、自慢のマット・ブラック・エナメルを完成させたのでしょう♪ 植物の枝も、手抜きせず茶色のエナメルで表現しています。同じ黒エナメルを使って手抜きするなんて、持ち主にも作者にもありえなかったでしょう。 こんなに小さな宝物に、エナメルだけ見てもこれほど技術が詰め込まれていることに、本当に嬉しくなります♪ |
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3-3-3. ピンク色の宝石を選択する抜群のセンス
実物はとても小さいので目立ちませんが、光で浮かび上がるお花の色として、ピンク色の宝石を選んでいることにもセンスを感じます♪ ジュエリーの歴史が育たなかった日本は、特にメンズ・ジュエリーを理解している人が少ないです。 武士の感覚で見るのは誤りですし、さらには現代人の感覚で見ても頓珍漢な結論になります。ジュエリー好きの男性であっても、現代人がアンティークのメンズジュエリーを見ると女性用と思い込むことは多いです。 |
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3-3-3-1. ハイセンスな男性が好んで使いこなしたお花とピンク
英国王室の親子のお花ファッション
王太子時代の英国王エドワード7世(1841-1910年) | エドワード7世の長男アルバート・ヴィクター王子(1864-1892年) |
現代ではお花やピンク系の色彩、華やかなジュエリーは女性だけのものと思われがちです。しかし、古の紳士はお花の装飾品も上手に使っていました。特にエドワード7世(バーティ)はフランス好きでフランスで買い物をしまくり、「宝石王子」と呼ばれたり、「フランス製の英国王」と揶揄されるほどでした。 |
センスの良さは有名で、現代でもメンズファッションの参考にする男性は少なくありません。 当時はもちろんファッションリーダーとして、世界の上流階級の紳士のお手本でした。フランスが共和政となり、王侯貴族が存在しなくなった時代。フランス好きで、買い物をしまくってお金をたくさん落としてくれて、しかも世界中の上流階級や富裕層にフランス製品をPRしてくれるバーティは、当時のフランス人からも大人気だったそうです。 |
この宝物が制作されたのは、まさに英国王エドワード7世が世界中の紳士たちのファッションリーダーだった時代のフランスでした。 いろいろと想像が膨らみますね♪ |
英国有力者のお花ファッション
ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年) | 『蘭のブローチ』(1889年パリ万博のティファニー出品作)ジョージ・パウルディング・ファーナムのデザイン 【引用】Alchetron / Paulding Farnham ©Alchetron/Adapted. |
通商大臣、自治大臣、植民地大臣も務めた有名政治家で、息子も首相を務めノーベル平和賞も受賞しているジョゼフ・チェンバレンも花を身につけています。生花ではなくティファニーのエナメルかもしれません。 |
1889年のパリ万博で金賞を受賞した蘭のエナメル・ブローチは、現代人が見ると女性向けと感じるもしれません。しかし、当時は男性がお花で華やかにオシャレすることが流行していたことを考慮すると、むしろ上流階級の男性向けとしてプロモーションされた可能性も十分に考えられます。 |
英国政治家のファッション | |
初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年) | ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)植民地相時代 |
クールビズがプロモーションされ、簡略化される一方の現代では、お花やジュエリーなどでしっかりオシャレするのはパーティや高級レストランに行く時など特別な時くらいとしかイメージされないかもしれません。しかしながら戦前は外出時はもちろん、日常の仕事にも身なりを整えて気持ちを引き締めて臨むものでした。ノブリスオブリージュの精神が行き届いた地位のある人は、「いつ見ても、きちんとしていて礼儀正しい人」であるべきだったからです。 |
左:ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)1895年 | 議会でも、これくらいのオシャレは当たり前だったようです。 センスや財力、教養も一目で分かってしまいますね。メンズジュエリーの作りを見ると、こだわりが半端ない理由もご想像いただけるでしょう。 ちなみにフランスは普仏戦争の敗戦によって1870年に皇帝が廃位され、以降は貴族階級もいなくなって上流階級の定義ができず、敗戦の混乱もあったのでイギリスの例を出しています。 |
フランスは貴族がいなくなった一方で、特にパリは世界中の王侯貴族や台頭するアメリカの新興成金が高級品の買い物に訪れていたため、フランス製であっても、実際にはどの国の上流階級がオーダーしたか分かりません。 1910年頃のフランス人の有力者だった可能性もありますし、英国紳士だった可能性もあるのです。 |
ピンク色の装飾
『芸術愛好家のための音楽室』のデザイン(マッキントッシュ夫妻 1901年) |
ピンク系の色イコール女性限定というのも、現代人の思い込みです。男性が寒色系の色彩を好み、女性が暖色系の色彩を好む"傾向"自体はあるかもしれませんが、好みは人それぞれです。グラスゴー派の男性建築家マッキントッシュが妻と共に制作した内装デザインは、ピンク系の色彩がオシャレさを惹き立てています。女性用の部屋ではなく、芸術愛好家のための音楽室のデザインであることがポイントです。 |
『芸術愛好家のための音楽室』のデザインの再現(マッキントッシュ夫妻 1901年) "Music room house for an art lover" ©marsroverdriver(20 December 2011)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
ヒルハウスの内装(マッキントッシュ夫妻 1902年) 【引用】National Trust HP ©National Trust for Scotland |
これはグラスゴーの実業家ウォルター・W・ブラッキーがマッキントッシュ夫妻にオーダーしたヒルハウスの内装です。マッキントッシュの代表作の1つとされ、前年の『芸術愛好家のための音楽室』の理念をベースに、居間と音楽室を結びつけてデザインされました。完成度の高い、理想的なモデル住宅として知られています。 |
ヒルハウスの内装(マッキントッシュ夫妻 1902年) 【引用】National Trust HP ©National Trust for Scotland |
マッキントッシュと言えば、ピンク系のバラのデザインが有名です。各種の部屋を夫妻で隅々までトータル・デザインした、まさに『作品』です。女性やオカマではなく、お金をかけてでも好みのデザインの家に住みたい実業家のために作られたデザインです。依頼主ブラッキーはとても気に入り、人生を終えるまでの50年近くをヒルハウスで過ごしたそうです。 |
マッキントッシュ家のベッドルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
マッキントッシュ家の照明器具(1906-1914年の再現) 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
マッキントッシュ夫妻の当時の名声を考慮すれば、センス良くピンクを配色したデザインに魅力を感じた男性は少なくなかったと想像できます。 |
ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年) "Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
特に有名な作品ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』も、濃いピンク色が効いています。もちろん女性限定を意識したデザインではありません。 |
ピンク色のお花のメンズ・ジュエリー
ヨーク公ジョージ王子(エドワード7世の次男、後の英国王ジョージ5世)(1865-1936年)1893年、28歳頃 | ||
マットエナメル・フラワー クラバットピン フランス 19世紀後期 SOLD ※ジョージ王子と同じではなく同等品です |
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カラー写真がないのが残念ですが、後の英国王ジョージ5世はお花のクラバットピンを着用しています。上の宝物と類似したピンとみられます。 |
粗野な男らしさが是とされた時代が終わり、先進的な男性はピンク色やお花のジュエリーに意識が向いたタイミングだったのかもしれませんね。「あの戦争」と言えば、ヨーロッパでは1914年からの第一次世界大戦です。以降は荒れすさんだ時代に入りますから、ピンク系の色彩やお花など、優しさを感じる優美なデザインには意識を向ける余裕がなくなってしまいます。 |
日本人は世界一オシャレが大好きな民族でした。 庶民に至るまで男性も女性も日頃から身なりを整え、日常の道具に至るまで美意識が行き届き、美しいものが大好きでオシャレすることに余念がない。 この宝物の持ち主が日本人の心に触れ、これからの人生の旅路を照らす提灯に相応しい宝石として選んだのがピンク色の宝石でした。 本質的にピンク系の色彩を好む女性用のジュエリーと違い、男性用のピンク系のジュエリーは心に余裕があり、心が豊かだった時代を感じます。この時代だったらどの男性でも、というわけではありません。だからこそ孤高の美を湛えているのです。 |
3-3-3-2. 美しいカボション・ルビー&ピンク・サファイア
小さいので肉眼では分かりにくいですが、左の石はルビー、それ以外の2つはピンク・サファイアと呼ぶべき色彩です。 ルビーもサファイアもコランダムで、ルビーほどピンク色が濃くない石をピンク・サファイアと呼びます。この2つに明確な定義はなく、感覚的なものです。 |
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現代の合成サファイア
【参考】合成サファイアのシルバーリング | 【参考】合成サファイアの単結晶 |
非加熱のままでも美しい天然サファイアやルビーはとっくに枯渇しており、1970年代以降は加熱石が多く出回るようになりました。しかしながら今ではそれすらも枯渇し、一方で中国という超巨大市場によって需要は膨れ上がり、合成石が当たり前となりました。合成石は工業製品なので、均質です。どこをカットしても同じ色です。 |
【参考】合成コランダム(現代) | 色に関しても、何も考える必要はありません。 どんな色でも合成できます。 |
厚みで色の濃さを調整する天然宝ジュエリー
『美しき魂の化身』 蝶のブローチ イギリス(推定) 1870年頃 ¥1,600,000-(税込10%) |
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天然石の宝石は天然だからこそ唯一無二の個性があり、稀少価値を持ちます。ある程度の大きさがある場合、全く同じようにカットしても完全に同じ色になることはありません。だから厚さを調整して、同じ色彩と感じさせるテクニックがあります。 |
小さくても色彩が出せる宝石
『旅のお守り』 ターコイズ・ボール・ブレスレット イギリス 1880年頃 SOLD |
トルコ石のように不透明は宝石の場合、厚さによって色彩が変わることはありません。 小さくても存在感抜群なので、その特徴を生かしたデザインも多いです。 |
エメラルド | サファイア | デマントイド ガーネット |
ルビー |
天然真珠&エメラルド・リング イギリス 1860年頃 SOLD |
『オリオンのベルト』 イギリス 1890〜1900年頃 SOLD |
ライオン ピン アメリカ 1900年頃 SOLD |
『愛の白鳥』 スワン バー・ブローチ イギリス 1923年 ¥950,000-(税込10%) |
透明な宝石だと、小さくカットするほど色が薄くなります。 極小サイズでも色彩が出せる宝石は限られています。質も重要です。 |
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↑等倍→ |
濃い色彩の高級アメジスト | 低品質のアメジスト | |
アメジスト & ガーネット リング イギリス 1840年頃 SOLD |
『La Dame pourpre』 アメジスト 一文字リング イギリス 1840〜1850年頃 ¥950,000-(税込10%) |
【参考】安物のアメジストのシルバー・ブローチ |
小さくても鮮やかな色彩を感じさせることができる宝石は限られており、だからこそ稀少価値があって高価でした。右のような低品質のアメジストで、左の2つのようなリングを作れば、一体何の石を使っているのか分からないものになるでしょう。右のようなアクセサリーは、諸々を理解している上流階級は買いません。このような価値のないものを割高で買ってもらうために、商売人が「大きいから価値があります!」と吹聴するわけです。そして鵜呑みにした成金や庶民が買い、「大きいから高い!凄いでしょう!」と自慢します(笑) |
シトリン | ペリドット | アクアマリン |
『春陽のシトリン』 シトリン ブローチ イギリス 1870年頃 SOLD |
『ゴールド・オーガンジー』 ペリドット&ホワイト・エナメル ペンダント イギリス 1900年頃 ¥1,000,000-(税込10%) |
『ヴェルサイユの幻』 アクアマリン ペンダント イギリス or ヨーロッパ 1910年代 SOLD |
紫色のみならず、淡い色の宝石は小さすぎると色が識別できなくなります。ある程度の大きさが必要で、天然宝石の場合は色の濃度と石の大きさのバランスが重要です。淡い色彩の宝石は、このように透明度の高さとある程度の大きさがあってこそですね。 |
そんなわけで、小さな提灯に美しい花の景色を表現するために、想像以上に宝石にも気を遣っています。 ただ色がハッキリしていれば良いというわけでもなく、ピンク色が全て同じ濃さだったならば、余韻を感じない人工的な雰囲気になっていたでしょう。 |
敢えて同じ大きさで、少しずつ色彩が異なるルビー&ピンク・サファイアを使っています。 色彩の絶妙な違いを敏感に感じとり、グラデーションの美しさをこよなく愛する日本人と同じ感性と心を持っていなければ、とてもここまでできません!!! 当時、そんなヨーロッパ人がいたと思うと、とても嬉しいですね。お会いして喋ってみたいほどですが、この宝物を通して心でつながれるだけでも満足です。心の会話ができそうです♪ |
3-3-4. 効果的なローズカット・ダイヤモンド
提灯に1粒だけセットされたローズカット・ダイヤモンドが、目を惹きます。透明感があり、カットの仕上げも良い極上石です。水滴のような瑞々しい美しさと共に、揺れるたびに放たれる閃光に心奪われます♪ |
吊るす部分にもローズカット・ダイヤモンドがセットされていますが、明らかに提灯のダイヤモンドとは輝き方が異なります。 主役ではない部分が派手に輝いては興醒めです。かと言って、何もデザインしないのも簡素すぎます。 名脇役としての存在感を持ちつつ、主役をしっかりと惹き立てるようなダイヤモンドの選び方をしてます。 |
大きさは同じでも、ダイヤモンドはファセット(面)のあるローズカットで、ルビー&ピンク・サファイアはカボションカットなのもポイントです。 |
『芸術には自由を』 セセッション カボション・サファイア&ダイヤモンド ブローチ オーストリア(ウィーン) 1900年頃 ¥770,000-(税込10%) |
カボションカットは輝きではなく、宝石の色彩を最も美しく魅せるためのカットです。 現代ジュエリー業界のプロモーション(洗脳)によって、宝石の"輝き"にしか意識がいかない人も少なくありません。それはとても残念なことです。 輝きは時に、色石ならではの美しい色彩や透明感などから意識を奪い、それらの魅力を消してしまいます。 |
カボションカットのルビー&ピンク・サファイアは、綺麗な色彩と共に雰囲気のある美しさを醸し出します。幻想的な提灯にピッタリなのです♪ 一方で、1粒だけのローズカット・ダイヤモンドが時折閃光を放つことで、地味すぎずこの宝物ならはの存在感を出します。 上部のローズカット・ダイヤモンドは急な曲面へのセッティング技術が素晴らしいですし、提灯の宝石は爪が見えない埋め込み式の留め方が見事です。 見どころが満載の宝物です!♪♪ |
3-4. プラチナを使った紳士のステータス・アイテム
提灯を下げる部分はどんなデザインもあり得たと思いますが、プラチナを使っていることに時代を感じます。 供給量的な課題と、加工にゴールドより遥かに高温を要するという技術的な課題の両方がクリアされることで、1905年頃にようやくプラチナがジュエリーの一般市場に出てきました。 |
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吊り下げ部分は脇役ではあるものの、画期的な新素材として注目と憧れの的だったプラチナがはっきりと視認できます。 プラチナが使えるようになったばかりの、本当に最初期に作られた宝物とみられます。 作られてから120年近くが経ち、日本人にとっても昔ながらの提灯が身近ではなくなった今、どこかノスタルジーも感じさせます。 しかし、当時はデザインも素材も最先端の宝物でした。時代の移ろいと共に、その魅力によって普遍性をも感じさせる美しい宝物です♪ |
裏側
斜めに刺したので傾いて見えますが、きちんと垂直に刺せば水平になります。装飾がない裏側だと、彫金の素晴らしさが惹き立ちます。時には裏側を正面にして使いたいくらい、見事な彫金です♪ |
フランス製の18ctゴールドを示すイーグルヘッドの刻印があります。 | ||
逆サイドに工房印らしきものもありますが、詳細は不明です。 |
着用イメージ
品の良い、小ぶりなブローチ的にもお使いいただけます。ネックレスや他のブローチなどと組み合わせてもオシャレです。シリコン・ストッパーもお付け致しますので、裏側で固定していただければ、ずれたり抜け落ちる心配をせずお楽しみいただけます。 |
18ctゴールドの現代のピンキャッチは別売でご用意いたします。時価となります。 |
ショールを留めたりする他、ネクタイに刺すなど本来の使い方も素敵です。実際に着用すると、揺れてダイヤモンドが華やかに輝きます。男性ならばパーティーなどでも華やかに映えますし、女性がマニッシュにお着けになってもとても魅力的だと思います。 |
オーダー主は、このように実演していたでしょうか♪ ひと昔前の日本人ならば、「なぜ、提灯?」と思ったかもしれません。日本人にとっても身近でなくなった今だからこそ、ひと目を惹き、オシャレなアンティークジュエリーとして使いやすい時代となったかもしれません。照明道具でしたから、夏限定ではありません。知的な宝物として、四季を通じてお楽しみいただけます。 ここまで細工技術が込められた小さな宝物は、アンティークジュエリーの中でもとても珍しいです。眺めるだけでも心満たされますが、実際にお使いになって周りの方と会話など弾ませながら、ぜひ多くの方とお楽しみいただきたい宝物です♪♪ |