No.00239 マーメイドの宝物 |
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『マーメイドの宝物』 アールヌーヴォー 天然真珠 リング フランス 1890〜1900年頃 天然真珠、18ctゴールド(イーグルヘッド) 直径 2,3cm 重量 11,4g サイズ 18号(変更可能) SOLD 押し寄せる力強い黄金の波に優しく抱かれた、輝きの美しさ際立つ天然真珠。シンプルながらも素晴らしいデザインと上質な作りは、サミュエル・ビングが目指したアールヌーヴォーを象徴するような芸術作品です。 |
ダイナミックな曲線とマットなフランスの艶消しゴールドはまさに『アールヌーヴォー』という感じですが、意外とありそうでないのがこのようなシンプルかつ上質な作品です。 ゴールドの波に大切そうに抱かれた、小さいながらも驚くほど強い光沢を持つ極上の天然真珠・・。 粗造乱造が嘆かれたアールヌーヴォーにおいて、それらとは一線を画す素晴らしいアールヌーヴォー・リングです。 |
リングのデザインについて
みなさんはこの造形をご覧になって何をイメージされますか? |
-アールヌーヴォーとアーツ&クラフツ-
『MODERN STYLE』 ダイヤモンド ゴールド ブローチ イギリス 1890年頃 SOLD |
『MODERN STYLE』でご説明した通り、フランスのアールヌーヴォーの起源はウィリアム・モリスが提唱したイギリスのアーツ&クラフツにあります。 |
"モダンデザインの父" ウィリアム・モリス(1834-1896年) | 1851年に開催されたロンドンにおける世界初の万国博覧会で、産業革命が進んだ結果による「芸術性など微塵もない、見るも無惨な大量生産の粗造品があふれた光景」にショックを受けた16歳のモリスによるものです。 |
モリスのデザイン(1875年) | モリスのデザイン(1872年) | デザインには自然への回帰の思想が高まり、自然界のモチーフの研究や、洗練されたフォルムへの回帰が強く勧められました。 |
モリスのデザイン(1876年) | 植物モチーフや、優美ながらも生命力あふれる力強い曲線がデザインの特徴となっているのもそのためです。 |
『エメラルド・グリーン』 アールヌーヴォー ブローチ&ペンダント フランス 1905〜1910年頃 SOLD |
この流れを組んでいるため、アールヌーヴォーも植物モチーフや躍動感ある曲線が特徴となっているのです。 |
-アールヌーヴォーとジャポニズム-
『アヤメ』 アールヌーヴォー プリカジュール・エナメル ブローチ フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
そうは言ってもアールヌーヴォーは単なるアーツ&クラフツの真似、アーツ&クラフツのフランス版というわけではありません。 |
もう1つの要素としてアールヌーヴォーに強い影響を与えているのが日本美術です。 |
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サミュエル・ビングによる大判美術月刊誌『芸術の日本』の表紙 |
江戸の芸術 浮世絵
海を渡った日本美術には様々なアイテムがありますが、その1つがゴッホの絵にも描かれ、当時のヨーロッパの芸術家や知識人たちにもコレクターが多かった浮世絵です。 | |
タンギー爺さん(フィンセント・ファン・ゴッホ画 1887年)ロダン美術館 |
冬の宴(歌川豊春 18世紀後期-19世紀初期)フリーア美術館 |
浮世絵は江戸時代に成立した絵画のジャンルの1つで、浮き世、つまり(当時の)現代の様子を描いた風俗画です。浮世絵には木版画と絵画(肉筆画)があり、一点物の肉筆画の場合は有名絵師の作品ともなればかなり高価なものになります。 |
富嶽三十六景『駿州江尻』(葛飾北斎画 1830年頃) |
一方で普段浮世絵と言われて思い描く、版画であれば多色刷りでも多く刷って安価で提供することができました。江戸の一般大衆でも簡単に購入できるくらい安いものでした。 |
嵩張らず軽いこともあり、地方から来た人の江戸土産としても人気がありました。 | |
名所江戸百景『こいのぼり』(歌川広重画 1857年)ブルックリン美術館 |
江戸河原崎座上演『恋女房染分手綱』の江戸兵衛を演じる三代目大谷鬼次(東洲斎写楽画 1794年)メトロポリタン美術館 |
戦国の世が終わり、平和が続いて豊かな庶民文化が花開いた江戸時代。 王侯貴族が富と知識を独占し、文化も王侯貴族が中心だったヨーロッパとは全く異なる日本の文化。 |
大鯰を懲らしめる民衆を描いた鯰絵(作者不明 1855年)安政2年の地震直後の瓦版の鯰絵 |
当時の庶民の暮らしぶりや文化を、現代の私たちは浮世絵などを通して知ることができます。 |
濱屋川岸の涼み(鳥居清長 1785年頃) |
一方で当時のヨーロッパ人にとっても、浮世絵は鎖国で閉ざされた謎の芸術大国『日本』を知る手がかりになりました。 |
『今様見立士農工商』より「職人」(歌川国貞画 1857年) |
さて、この浮世絵にヨーロッパの人々がどうやって出会ったのかというと、浮世絵は日本からの輸出品の梱包材として使用されていたのです。当時の日本人にとって浮世絵は"特別な芸術"という意識はなく、現代で例えるならば大量生産して大量消費するために作られた古新聞レベルだったというわけです。 |
錦画製造之図(1879年頃) |
手工業ながらも流れ作業でバンバン印刷していたようですね。 情報が古くなった印刷物などは、溜まってくると最早嵩張る邪魔なゴミでしかないので、梱包材に使えば一石二鳥ということだったのかもしれません。 ただ焼いて捨てるよりは『モッタイナイ精神』の観点からも理に叶っています。 |
シロツメクサ | 一方でオランダから日本に1846年に献上されたガラス製品の緩衝材にはシロツメクサが使われていたそうで、そこから漢字表記が白詰草となったそうです。 雑草と同じレベルの感覚で、日本人がアーティスティックな浮世絵を使っていただなんてヨーロッパ人も驚いたことでしょう。 と言うよりも、あり得なさすぎという感じでしょうか(笑) |
ヨーロッパにおける『絵画』
イギリスのロスチャイルドの邸宅ワデズドンマナーの一部屋 |
ヨーロッパ人にとって、絵画とは額縁に入れて飾るとても貴重で高価な美術品です。浮世絵の芸術性の高さに驚いたヨーロッパの知識階層はすぐに虜になり、蒐集を始めました。 |
パリ美術界への浮世絵の影響
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) | ヨーロッパにおいて最も大きく貢献したのが、パリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人サミュエル・ビングです。 普仏戦争(1870-1871年)後に日本美術を扱う貿易商となり、1870年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功しました。 美術関係者を招いてコレクションを披露したり、各国の美術館に日本美術を納品するなど、当時の美術・芸術界に大きな影響を与えました。 |
ビング発行の『芸術の日本』(Le Japon ARTISTIQUE) | |||
1888年から1891年にかけて、ビングは日本美術を広く伝えるため『芸術の日本』という大判の美術月刊誌を40冊発行しました。フランス語だけでなく英語、ドイツ語でも発行され、併せて展覧会も企画するなどしてヨーロッパにおける日本文化の理解に大きく貢献しました。 |
建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年) | 1895年には作品を"アールヌーヴォー"(新しい芸術)と称された才能ある建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの内装によって、L'ART NOUVEAU(アールヌーヴォーの店)を9区のプロヴァンス通りにオープンしました。 |
ビングの『アール・ヌーヴォーの店』はパリ芸術の流行の発信地として大いに賑わいました。 |
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美術商サミュエル・ビングの『アールヌーヴォーの店』と入口 |
ベルギー王立美術館のメインホール "Interiors of the Royal Museums of Fine Arts in Belgium 01" ©Chatsam(29 October 2017, 12:55:30)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
世界屈指のコレクションを誇るベルギー王立美術歴史博物館が所蔵する4000点の浮世絵もビングからの購入品ですし、パリの装飾美術博物館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館などヨーロッパ各地の名だたる美術館にビングは日本美術を納品しています。数千点単位以上だなんて凄い数ですね。 |
日本美術にインスピレーションを受けた新たなクリエーション
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890年)34歳頃 | ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店と言われています。 1886年の33歳頃にパリに移り住んだオランダ人画家ゴッホは、浮世絵に魅了されて多数の作品を収集しました。 |
左:歌川広重の浮世絵、右:ゴッホの模写(1887年) | ゴッホは単に集めただけでなく、模写による日本画の研究も行っています。 |
左:歌川広重の浮世絵、右:ゴッホの模写(1887年) |
時代や文化が異なる過去の優れた作品を、まずは複製や模写によって学び、新たなクリエーションに生かすことがヨーロッパ美術界で当たり前のことだったことは、『春の花々』や『ユリウス・カエサル』などで何度かご紹介した通りです。『英雄ヘラクレス』でもご紹介した通り、古くは紀元前の時代の古代から行われていることですね。 |
『ヘリオス神』ストーンカメオ(ジュゼッペ・ジロメッティ作 1836年頃)7.4cm×5.1cm×2.6cm、 バチカン美術館 【出典】Musei Vaticani HP ©MVSEIVATICANI | 『ヘリオス(セラピス・ゼウス)神』(紀元前4世紀後期にブリアキスが制作したオリジナルを古代ローマで複製)バチカン美術館所蔵(Inv.No.245) (сс) 2005. Photo: Sergey Sosnovskiy (CC BY-SA 4.0).© 1986 Text: Chubova A.P., Konkova G.I., Davydova L.I. Antichnie mastera. Skulptory i zhivopiscy. — L.: Iskusstvo, 1986. S. 33./Adapted |
左は19世紀の代表的なカメオ作家ジロメッティによる『ヘリオス神』です。1777年にアッピア街道で発見された古代ローマの『ヘリオス神』の胸像を元に制作されました。単なるオリジナルの精密コピーではなく、芸術性をさらに高めた作品であることに意義があります。これができる天才作家にはパトロン(ローマ教皇)が惜しみなく支援して素晴らしい芸術作品が生み出されていたわけですね。 |
ディレッタンティ協会(1777-1779年頃) | ジェントルマンの国イギリスにもこのような活動を行うためのパトロン・クラブ『ディレッタンティ協会』が1734年から存在しました。 古代ギリシャやローマ、エトルリア美術の研究、そしてその様式にインスピレーションを受けた新しい作品制作を行う芸術家のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンによる協会です。 |
第2代ポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンク(1715-1785年) | 古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 |
つまらない作品を元に魂を揺さぶるような芸術作品が生み出せるわけがないことは明らかです。ただし現代ではもう作り出せない唯一無二の芸術作品が一般人に簡単に手に入るわけがありません。ローマ教皇や国家元首クラス、大陸貴族とは別格の大英帝国の王侯貴族クラスだとコネクションや莫大な富を使って優れた芸術作品を入手できますが、普通はそんなこと不可能です。 |
『おいらん(栄泉を模して)』(フィンセント・ファン・ゴッホ画 1887年)ゴッホ美術館 | 生前はあまり評価されることがなかったと言われるゴッホにとって、浮世絵は決して安くはなかったはずですが手に入る優れた芸術だったはずです。 最初は模写に学び、次第にゴッホ独自の感性に浸透・融合し、日本美術の感性はゴッホの一部となっていきました。 |
『種まく人』(フィンセント・ファン・ゴッホ画 1888年) |
『名所江戸百景』「亀戸梅屋舗」(歌川広重 1856-1859年) | 上の『種まく人』は、左の『亀戸梅屋舗』を模写した翌年のアルルでの作品です。 前景の木と遠景の対比に、広重の『亀戸梅屋舗』の影響が見られるとされています。 |
ヨーロッパ美術と日本美術の融合・昇華
ラ・ジャポネーズ(クロード・モネ 1875年)ボストン美術館 | うちわを持つ少女(ピエール=オーギュスト・ルノワール 1881年)クラーク・アート・インスティテュート |
『La Princesse du Pay de la Porcelaine』(ジェームズ・マクニール・ホイッスラー 1863-1864年) | 19世紀後期のジャポニズム美術でも、こういう作品だとただ着物を着た女性だったり、日本の美術工芸品が小物として描かれているだけで、初めて見る場合には衝撃があっても、表現として使い古されるほどに面白みが感じられなくなっていくものです。 |
リトグラフのポスター(アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック 1892年)トゥールーズ=ロートレック美術館 | 左のポスターはジャポニズムの影響を強く受けた画家と言われるロートレックの作品ですが、これを見てすぐにジャポニズムだと感じる現代日本人はほとんどいないと思います。 テーブルの構図であったり、線を使った人物の輪郭表現、平面的な表現であったり原色を使った大胆な色使いはそれ以前のヨーロッパではあまり見られないものでした。 |
グスタフ・クリムト(1862-1918年)52歳頃 | 『REBIRTH』でもお話した通り、世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムトもジャポニズムに強い影響を受けた人物です。 日本文化への深い傾倒は、甲冑や能面などの美術工芸品を含むプライベートコレクションからも明らかですし、1900年にはセセッション館で開かれたジャポニズム展を開き、ウィーン分離派とジャポニズムの接近を象徴する展示会となりました。 |
国宝『紅白梅図』(尾形光琳 1658-1716年) MOA美術館 |
『接吻』(クリムト黄金時代の代表作 1907-08年) | クリムトの作品には琳派や浮世絵の影響が強く見られると言われていますが、印象的な金箔を使った表現はとても分かりやすいジャポニズムと言えますね。 |
『Liebe』(グスタフ・クリムト 1895年)ヴィエンナ美術館 | これもクリムトのジャポニズムの作品です。 モチーフはヨーロッパそのものですが、何だか日本の幽霊画の掛け軸でも観ている気分になってしまいます。 暗くおどろおどろしい雰囲気のメインの絵の両サイドには、額縁のような感じで美しいバラと明るい背景が描かれており、独特の魅力を放つ作品となっています。 何といっても構図の面白さと色使いの面白さが抜群です。 ここまで来ると単なる日本モチーフを使った奇抜さ勝負ではなく、間違いなく日本美術と融合・昇華した新たな芸術と言えるでしょう。 |
美術商サミュエル・ビングの『アールヌーヴォーの店』 | ビングもそのようなことを願って自身の店に新しい芸術の店、『L'ART NOUVEAU』と名付けたのだと思います。 |
アールヌーヴォー・ジュエリーとジャポニズム
エドワード・C・ムーア(1827-1891年) | 一般大衆向け安物アクセサリーとしか言いようのない現代ジュエリーは美術界とは遠い位置にありますが、ジュエリーが王侯貴族や超富裕層のためだけの特別なものだった時代にはジュエリーと美術界は密接な関係にありました。 『天空のオルゴールメリー』でもご紹介した通り、1851年から亡くなる1891年まで、ティファニーでジュエリーデザイナー兼シルバー部門の責任者として活躍し、大帝国ティファニーの礎を作ったエドワード・C・ムーアも美術コレクターやメトロポリタン美術館のパトロンとして知られています。 |
エドワード・C・ムーアによる銀器(ティファニー 1878年) " Edward c. moore per tiffany & co., brocca in argento, oro e rame, new york 1878 " ©Sailko(28 October 2016, 22:05:06)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | ムーアは統率するアーティスト達に世界中の様々な年代のジュエリーや工芸品から勉強するように指導しましたが、そのムーアの最も重要な作品として有名なのがジャパネスクと考古学風の作品です。 左の銀器は日本らしいモチーフだけでなく、雪平鍋のような表面の打ち出し模様からも和を感じます。 日本の工芸品について、表面的な研究だけでなく深く理解し表現しようという気持ちが伝わってきますね。 この時代のアメリカはヨーロッパ王侯貴族や知識人からは芸術や文化レベル的に下に見られており、それを打破すべくティファニーが尽力した時期でした。 |
ベルエポックの精神を表現したポスター(1894年)ジュール・シェレ | 19世紀も後期になってくると、既にジュエリーは限られた王侯貴族のためだけのものではなくなってきていました。 世界最初に産業革命が始まり、勃興してきた中産階級によってイギリスではヴィクトリアン中期頃から大衆向けの安物が多く出回るようになっており、それらは安物アンティークジュエリーショップでたくさん見ることができます。 遅れていたフランスでも普仏戦争敗戦後にようやく産業革命が進み、ベルエポックの時代は中産階級の若い女性たちが消費を主導し、やはり見るに堪えない安物ジュエリーが量産されています。 |
『日本の屏風を眺める若い貴婦人たち』(ジェームズ・ティソ 1869-1870年) | 一方でこの時代はまだ、限られた人たち向けに優れたジュエリーが生み出された時代でもありました。 お金をかけて丁寧に作られたものか否か、安物との違いはその作りを見ればはっきり分かります。 それ以外に、ジャポニズムは教養のある王侯貴族や知識人に好まれた流行なので、ジャポニズム系のジュエリーには優れたものが多いのも特徴と言えます。 |
スタイル1. 日本の美術工芸品をそのまま使って生かす
ジャポニズム ナイフ&フォークセット 芝山象嵌のハンドル:日本 1882年 銀細工:イギリス 1882年 SOLD |
ジュエリーではありませんが、恐ろしくお金と手間をかけて作られた超豪華なジャポニズムのナイフ&フォークセットもありました。 |
スタイル2. 欧米人が和のモチーフで制作
『道を照らす提灯』 クラバットピン フランス 1900〜1910年頃 ¥420,000- (税込10%) |
『提灯』 ロケット ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
ヨーロッパの職人が、和のモチーフで作った宝物もあります。 日本の美術工芸品をリスペクトして見事に再現した作品もあれば、自分たちのエッセンスを加えて再構築した、新たな創作物もあります。 |
『破れ団扇』 エナメル ブローチ フランス 1880-1890年頃 SOLD |
『破れ団扇』がモチーフの作品まであります。 日本でも着物や絵画の図柄や、華道の表現で『虫食い葉』があったりします。 完璧ではないありのままの様子に侘び寂びなどの美しさを感じる文化です。 この文化を理解し、高く評価する人たちがいたからこそ生み出された作品だと思うと嬉しくなりますね。 |
『扇』 5カラー・ゴールド ブローチ アメリカ? 1890年頃 SOLD |
高価な宝石は使わない、面白い天然の石と見事なゴールドの細工による傑作も生み出されています。 ジャポニズムが富裕知識階層に好まれたということが伝わってきますね。 |
スタイル3. 日本人の職人が和のモチーフで制作?
『清流』 アールデコ ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
『桜満開』 アールデコ ジャポニズム ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
3つめのスタイルについては、まだ背景がきちんと解明できていないジャンルです。上の2つはアールヌーヴォーではなくアールデコのジャポニズムですが、違いが分かりやすいので並べてみました。 『桜満開』は明らかにヨーロッパ人がヨーロッパの感覚で理解した日本の美を表現したジャポニズム、スタイル2であることを一目で感じていただけると思います。 『清流』は日本人独特の美的感性を持たないと表現し得ない、ヨーロッパ・ジャポニズムには感じられない日本の美を感じるのです。日本国内で当時このようなジュエリーが作られた歴史はありません。開国以降、私費で欧米に渡航して活躍した日本人も調べてみると意外と多く、名もなき優れた日本人の職人によって当地で作られた可能性も十分に考えられるのです。 |
『白鷺の舞』 舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット イギリス 1870年頃 SOLD |
『清流』だけでなくこの『白鷺の舞』も、当時の日本にはない技術ながら日本人が作ったとしか思えない感覚で作られています。 どちらもそれぞれの時代の超一級品であることが特徴です。ものが良いことは間違いないのですが、それぞれの知られざる作者についてもいつか絶対に解き明かしてやろうと思っています。 |
スタイル4. ヨーロッパ美術と日本美術が融合・昇華したスタイル
『静寂の葉』 アールヌーヴォー プリカジュールエナメル ペンダント オーストリア or フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
モチーフが和だとあからさまにジャポニズムだと分かりやすいのですが、ヨーロッパ美術と日本美術が融合して昇華した形は一番分かりにくいです。 ジャポニズムと言うよりは『新しい芸術』と表現した方が最早相応しいかもしれません。 この『静寂の葉』がそれに該当します。 モチーフが和なわけではありませんが、構図や植物の表現、独特の色使いには通常のヨーロッパ美術には感じられない、侘び寂びのような美しさを感じます。 これは自分の中で日本美術を理解し、融合・昇華させることができたヨーロッパ人のセンスある天才的な職人によって作られたのだと考えられます。 |
アールヌーヴォー・リングへの日本美術の影響
さて、一見このリングは普通のアールヌーヴォーにも見えますが、実はこの作品もジャポニズムの影響が強い、ヨーロッパと日本美術が融合・昇華したスタイル4のタイプのジャポニズムだと考えられます。 |
この造形を見て何をイメージするのか・・。 Genの答えはこれでした↓ |
冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏(葛飾北斎作 1831-1833年頃) |
突拍子もなく聞こえるでしょうか? でも、調べてみるほどに「うわぁ、さすがGen!!」と思える背景が分かりました。ヨーロッパでもアンティークジュエリーというジャンルが確立していなかった時代に日本でアンティークジュエリーというジャンルを確立した人物、やはりひらめきというか、感覚的な鋭さが半端ないのです。 |
冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏
葛飾北斎(1760-1849年)82歳頃の自画像 | 『神奈川沖浪裏』は葛飾北斎の名所浮世絵『富嶽三十六景』シリーズ中の傑作として有名で、世界で知られる最も有名な日本美術の1つです。 一番有名な浮世絵と言っても良いでしょう。 |
『神奈川沖浪裏』は当初から人気が高く数千枚は摺られており、内数百枚が現存しています。 その一部は1870年代にヨーロッパに渡っています。 |
フランスの作曲家ドビュッシー『海』のスコア表紙(1905年) | 『神奈川沖浪裏』を見たゴッホは画家仲間宛の手紙の中で絶賛していますし、その後の西欧の芸術家にこの絵は多大な影響を与えたとされています。 フランスの作曲家クロード・ドビュッシーが作曲した『海』では、初版のオーケストラスコアの表紙デザインにドビュッシー自身のたっての希望で『神奈川沖浪裏』(左半分)が使われています。 |
ドレスデンの『神奈川沖浪裏』モチーフの彫刻 "Dresden Altstadt Kongresszentrum C.Muench" ©Christoph Münch(1 January 2003, 00:00:28)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本人が想像する以上に、『神奈川沖浪裏』はヨーロッパでは飛び抜けて有名かつ評価が高いのです。 |
ベルギーの浮世絵展のイメージビジュアル(2016年) 【出典】www.kmkg-mrah.be / expo UKIYO-E |
それは現代のヨーロッパで開催される浮世絵展からも分かります。2016年10月21日から2017年2月12日まで、ベルギーのサンカントネール博物館で浮世絵展が開催されました。 日本・ベルギー友好150周年にあわせて開催されたもので、先に述べた通りサミュエル・ビングが納品した屈指のコレクションを誇るベルギー王立歴史芸術博物館所蔵の貴重な浮世絵が見られる展示会でした。イメージビジュアルはもちろん『神奈川沖浪裏』ですね〜。 |
ベルギーの浮世絵展での『神奈川沖浪裏』の展示(2016年) 【出典】在ベルギー日本国大使館HP/浮世絵展オープニング/Adapted |
浮世絵の所蔵数ではもっと多い美術館もありますが、ベルギー王立歴史芸術博物館は質と保存状態の良さが高く評価されています。 |
2016-2017年のベルギーでの浮世絵展オープニング・エキシビジョンで挨拶するマティルド王妃(2016年)【出典】在ベルギー日本国大使館HP/浮世絵展オープニング/Adapted | 王立歴史芸術博物館の浮世絵の展示なので、マティルド王妃もオープニングのエキシビジョンで挨拶をしています。 賢そうだと思ったら、名門貴族出身でベルギーの公用語であるフランス語とオランダ語の他に英語とイタリア語も話せる、言語聴覚士の資格を持つ才女なのだそうです。 |
ベルギーのマティルド王妃(中央)らと『神奈川沖浪裏』のタペストリー(2016年) 【出典】在ベルギー日本国大使館HP/マチルド王妃によるサンカントネール博物館「浮世絵展」視察/Adapted |
わざわざ『神奈川沖浪裏』の大きなタペストリーも制作されたようで、この作品の別格の扱いが分かります。 |
波に抱かれた海の宝物 天然真珠
ゴールドのこの表現を、ダイナミックな大波のようだと捉えるのは時代背景的にも違和感がないのです。むしろ『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けた当時のアーティストが、ジュエリーという小さな宝物にこの迫力ある波の美しさを表現しようと試みるのは自然な流れに思います。 |
大波に抱かれているのは直径がたった3.5mm程度しかない小さな天然真珠です。 ここまで小さな天然真珠を1つだけ使ったアンティークのリングは43年間で見たことがありません。 |
『神秘の光』 アールデコ 大珠天然真珠リング イギリス 1920年頃 天然真珠:10.0×10.5×9.2mm SOLD |
環境や母貝の種類、個体差などもありますが、真珠層は1年で0.4mm程度しか育たないようです。 だからこそ天然真珠は大きさも1つの大きな価値と言えます。 大きさが母貝に挿入する核のサイズに依存し、薄い真珠層しか持たないメッキ同然の養殖真珠はもちろん違います(笑) |
このリングはかなり作りが良く、お金と手間をかけて作られてあるのになぜ天然真珠が小さいのかと言うと、この真珠は小さくても驚くほど別格の照り艶を持つのです。 照り艶の良さで語るならば、44年間で間違いなくナンバーワンと言える素晴らしさなのです。 |
『Quadrangle』-四角形- エドワーディアン 天然真珠 ネックレス オーストリア? 1910年頃 SOLD |
『山海の恵み』 葡萄 ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
天然真珠にはたくさんの個性があって、そこが私はとても好きでそれぞれの真珠に愛着を感じています。シルキーマットな美しさが際立つのが『Quadrangle』ですが、逆に輝くばかりの照り艶に心を打たれたのが『山海の恵み』でした。山海の恵みに使用された天然真珠は照り艶に加えて透明度が高く瑞々しい印象で、それがたわわに実った葡萄という豊かな恵みを表現するのに最高の宝石でした。粒や色が揃ったものを天然真珠でこれだけ揃えただなんて信じられないことです。 |
一方で、この天然真珠は一投入魂、最高の一粒を使ったと思える照り艶の美しさです。 『山海の恵み』もこの真珠も照り艶はピカイチなのですが、『山海の恵み』は瑞々しいという印象があり、この真珠はまるで金属光沢を思わせるような強く鋭い表面光沢のような照り艶なのです。 |
ピカピカに磨き上げた金属の珠に、滑らかなオイルを薄くコーティングした感じと言うか・・。 言葉では表現し難く、実物を見れば分かりますとしかちょっと言いようがない感じです。 表現能力不足ですみません(笑) でも、たくさんある天然真珠の中に1粒この真珠が混ざっていても、間違いなく他の真珠とは違う群を抜いた美しさで見る者の心を捕らえたはずです。 |
それくらいこの宝物、天然真珠は際だって美しいのです。 |
古今東西の海の宝物
「この大事そうに小さな天然真珠を守っている波の姿が可愛い」とGENが言っていました。 一見シンプルなデザインながら、やっぱり人の心をとらえて放さない魅力があるのです。 私は『竹取物語』の蓬莱の玉の枝を思い出しました。 |
竹取物語は平安初期、9世紀後半から10世紀前半頃に成立した日本最古の物語とされる物語ですね。 |
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月へ帰って行くかぐや姫(土佐広通、土佐広澄画 1650年頃) |
福島宿(歌川国芳 1852年) | ちなみに蓬莱は龍神宮と習合したものとも言われています。 日本の有名な昔話に浦島伝説がありますが、こちらは8世紀に成立した『丹後国風土記』の中に物語の原型があると解釈されています。 いくつものバリエーションが残っており、行き先が龍宮ではなく蓬莱(とこよのくに)と記述されていたり、亀が乙姫(蓬莱の女性)の化身だったりするものもあるようで、蓬莱の玉の枝の実、真珠は乙姫様の宝物という感じもします。 乙姫様からの玉手箱には残念ながら真珠は入っていませんでしたが、乙姫様の宝箱には美しい天然真珠が入っているのでしょうか。(笑) |
波に大切そうに抱かれた天然真珠は、乙姫様や美しい人魚姫の大切な大切な宝物のようにも思えます。 母なる海の偉大な力を感じるダイナミックな波ではありますが、天然真珠を包み込むその姿はどこか優しげでもあります。 大事そうに抱く姿がとても印象的なのです。 |
天然真珠のセッティングの妙
波に優しく抱かれる姿は表現としてとても面白いものですが、一体どうやって留まっているのだろうという不思議さもあります。 |
この天然真珠は砲弾のような形の、高さのある形状をしています。 |
奥の低い位置に、真珠専用の真珠セメントでセッティングされています。 |
隙間が空きすぎることなく、ギリギリのところで包み込むようにセッティングされたこの姿は、1点物として丁寧に高度な技術で手をかけて作られた作品ならではの美しさです。 |
鋳造による粗造乱造の低レベルなジュエリーが量産されたのも、アールヌーヴォーの特徴です。 これはまだマシなレベルですが、鋳造なので作りにスキっとした美しさがありません。 ダイヤモンドは使っていますが、南アフリカでダイヤモンドラッシュが起こって以降、もはやダイヤモンドは特別高価な宝石ではなくなりました。 |
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【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのアールヌーヴォー・ジュエリー |
しかも天然真珠と違って都合の良い形にカットすることが可能なので、ダイヤモンドは量産ジュエリー向きの宝石とも言えます。 現代の日本女性でも『アールヌーヴォー』と聞いただけで良いものと思い込む人もいるようですが、当時のフランスにもアールヌーヴォーと名乗るだけで良いものと思って買う中産階級の女性がたくさんいたようです。 |
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【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのアールヌーヴォー・ジュエリー |
意図せず『アールヌーヴォー』の代名詞となったサミュエル・ビングとヴァン・デ・ヴェルデは、フランスのこの状況を嘆いて「はびこる粗製濫造の装飾品」と告発しました。 しかしながら、『アールヌーヴォー』の想像を遙かに超えた勢いは止められず、流行が終わるとヨーロッパにおいて『アールヌーヴォー』の記憶を長きにわたり汚すこととなりました。 |
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【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのアールヌーヴォー・ジュエリー |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)一番左 | 知られざる優れた芸術を発見し、まだ知らない人たちにその価値を伝えたい・・。 そう願ったビングは、強く純粋な気持ちで取り組んでいたと感じるのです。 私にはその姿がどうしてもGENにも重なり、『アールヌーヴォー』の真の姿と真価を伝えなければと使命感さえも感じます。 |
こんなものがアールヌーヴォーの代名詞となってしまった状況は、100年経った現在でもあまり誤解が改善できているとは言えません。 分かっていないディーラーが、分かっていない消費者に対して販売し続けた結果です。 これは私の実感ですが、アンティークジュエリーに限らず知識なく高価なものを売る無責任な店は多いです。 |
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【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのアールヌーヴォー・ジュエリー |
専門店でも質問されると答えられないから不快そうに言い訳をする店もあれば、よくぞ聞いてくれましたと嬉嬉として説明を始め、お喋りに花が咲くお店もあります。オーナーでなくとも真面目な店であれば店員さんでも意外と知識があったりします。 筋の良いものは後者の店にしかありませんし、良い店を見つけるのはそう難しいことではありません。 |
美しいゴールドワーク
リングの全体の形状は、まるで一本の線を捻ってくっつけたような面白いデザインになっています。 |
実際にはリング全体がつなぎ目なく一体化しており、リングとしての強度を出しつつ、外観は繊細な美しさが感じられる表現となっていることが分かります。 |
このリングはアームの細さも特徴です。 |
左のアールヌーヴォー・リングは、ある程度量産するために作られた作家物の鋳造ゴールドリングです。 金属を鍛えて強くして作る鍛造のジュエリーと違い、鋳造のジュエリーの金属には強度がありません。 現代の鋳造ジュエリー同様、アンティークであっても十分な強度を出すために全体を太くせざるを得ないのです。 大流行による巨大需要に応えるための量産アールヌーヴォーは、基本的に鋳造で作られます。アールヌーヴォー・ジュエリーにごつい印象があるのはこのためです。 「ゴールドをたっぷり使って贅沢〜♪」なんて喜んでいたら滑稽な話で、実際のところは『手抜きジュエリー』です。 |
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【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのアールヌーヴォー・ジュエリー |
Biranger社 アールヌーボー ペンダント フランス 1890〜1910年頃 SOLD |
ただし鋳造イコールすべて量産の安物ととらえるのも間違いで、左の作品のように、1回しか使えない蝋型を使った特殊な鋳造技術も存在します。 この蝋型はただ1つの作品のために、高度な技術を持つ職人によって手彫りされます。 |
1点ものでも量産品でも、マスターとなる型については職人が手作業で作ることになるのでお金も技術も手間もかかります。 量産品はたくさん作ることでかかったコストを分散できるので、スケールメリットによって1点1点は安くすることが可能です。しかしながらたった1つの作品を作るために型を作るのは割に合わないため、何らかの特別な理由がない限りは鋳造で作ることはあり得ません。 |
その点で、1つしか手に入らない特別な真珠を使って制作されたこのリングは、アームの細さからしても丁寧に鍛造で作られたものと考えられます。 |
ザバーンと寄せて、真珠を優しく包み込む力強い黄金の波。 どの角度から見ても素晴らしい細部に至るまでの表現に、職人による高度な手仕事を感じます。 |
ゴールド表面はマットゴールドに仕上げてあります。 真珠のビロードのような光沢との対比によって、真珠の美しさがより惹き立っています。 |
ホールマーク
アーム部分に2つ刻印があります。1つはイーグルヘッドです。現代でも使用されるイーグルヘッドは、ヴィンテージや中古にも存在する刻印です。アンティークジュエリーである証明にはなりませんが、フランス製で18ctゴールド以上の素材であることが分かります。もう1つは工房のマークです。 |
シンプルながらも上質な天然真珠とゴールドのリングなので、様々なシーンに合わせていただきやすいと思います。 ヨーロッパ美術と日本美術が完全に融合してアールヌーヴォー(新しい芸術)へと昇華したこの作品は、洋服はもちろん和服にも違和感なく馴染むと思います♪ |