ご挨拶 |
40年以上も昔、ヨーロッパでもアンティークジュエリー市場は黎明期でした。そんな時代、1975年に当時28歳だった片桐元一はヨーロッパでアンティークジュエリーに出逢い、日本で初めてのアンティークジュエリー・ディーラーとなりました。 日本が高度経済成長期を終え安定成長期に入った1979年、華やかなりし赤坂の地に『ベルビー赤坂』がオープンします。不思議なほどの多くの御縁に導かれ、それまで実績がなかったにも関わらず片桐はこの最先端のファッションビル、ベルビー赤坂に出店することになりました。それが『Atelier Katagiri』です。今では赤坂の地を離れて30年も経ちますが、片桐の特別な才能や人柄を評価して下さる赤坂時代からのお客様に支持され、普通なら到底考えられない素晴らしいアンティークドレスのコレクションをHERITAGEでご紹介できる運びとなりました。
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アンティークジュエリーとアンティークドレス |
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貧富の差が極端だった昔のヨーロッパでは、国の大半を占める一般人=貧乏人でした。着るものにも困る時代でした。一方で現代は一般人=中産階級であり、衣服は大量生産の既製品の中から選ぶことができます。 |
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ヨーロッパの代々続く由緒正しい王侯貴族でしっかりと教養を身に付けた人物あっても、自分なりの価値観や優れた感性とセンスを持てるのは、持って生まれた才能に恵まれたごく一部の人だけです。 王侯貴族だから、お金持ちだから、教養を身につけているから、それだけで足りるわけではありません。これらは必要条件であって十分条件ではないのです。 『Black Beauty』で日本の貴族、バロン西のお話をしました。 2016年のリオネジャネイロオリンピックまでで、馬術競技においてメダルを獲得した唯一の日本人です。 |
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西竹一(バロン西)と愛馬ウラヌス(どちらも1945年没) |
歴代の愛車はアメリカ・リバティー、そしてクライスラー、リンカーンのオープンカーという派手さでした。 左は西が時折披露していた、愛馬による車越えです。 人馬の命かけた危険な荒技ですし、高価なクライスラーが駄目になる可能性もあります。このあたりも貴族の遊び心満点です。 |
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愛馬による車越え "Imperial Baron Nishi" ©キノトール(2007年6月5日 13:29)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
アメリカでも、当時珍しかったラジオ付き12気筒スポーツカー『パッカード・コンバーチブル』を購入し、ゴールドの塗装を施して毎日馬場やパーティ会場まで乗り着けていたのです。 ゴールドのパッカード・コンバーチブル、日本人とは思えない感性ですね。 でも、成金のようなダサいことにはならず、抜群のセンスで乗りこなしていたということなのでしょう。 |
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パーティでのバロン西 |
スタイルも精神も大変にオシャレな人物だったという、西を良く知る人物の証言も残っています。 馬具も全て特別製で、フランスのエルメスの馬具、エルメスの特注のブーツを履き、拍車もフランスやイギリスの特別製だったそうです。 |
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リヴィエラ・カントリー・クラブでの西(1932年) |
男性の話ばかりしましたが、女性でこれができていた一人がマリー・アントワネットですね。 フランスが職人大国となったのは、フランス革命前のこのようなセンスの良い王侯貴族の存在が大きかったように感じます。 また、マリー・アントワネットの場合は当時のヨーロッパの大国オーストリアの名家ハプスブルク家出身であったことも大きいかもしれません。 生粋のフランス人ではなく、名家出身のオーストリア人である彼女が外から持ち込んだ習慣が、現代まで続くフランス文化にもたらした影響ははかりしません。 彼女も職人と密に相談しながら、新しいスタイルを生み出すことができた、傑出した才能を持つ数少ない人物です。 |
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フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793年) |
このマリー・アントワネットの時代には『ファッション大臣』と言われるほど活躍したのが、平民出身の仕立屋ローズ・ベルタンでした。 トータルで優れたセンスのファッションを提案できる女王の仕立屋ベルタンは、フランスで初めての有名ファッションデザイナーであり、オートクチュールを一般的な存在とした人物として広く知られています。 1770年、ベルタン23歳の時に自身のドレス店をオープンしています。 |
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ローズ・ベルタン(1747-1813年) |
マリー・アントワネットの舞踏会用ドレス(ローズ・ベルタン 1780年代)ロイヤルオンタリオ博物館 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted | マリー・アントワネットが王妃に即位する前の1772年、マリーが17歳の時にベルタンが紹介されます。 マリーにとっては8歳年上、ベルタンはセンスも腕も良い頼れるお姉さんという感じもあったでしょうか。 1774年にルイ16世がフランス王に即位すると、戴冠式直後からベルタンは週2回のペースで最新の作品を女王に提案するようになります。 細部に至るまでの2人の情熱は相当なもので、打ち合わせには毎回何時間も費やしたそうです。 |
ドレスの拡大 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
日本でも昭和初期頃は、京都の中心地には通りに1軒は刺繍をする工房があったそうです。 京都に旅行した際、偶然知り合った地元の上品な老婦人から懐しむお話を聞かせてもらったことがあります。 そのような針仕事が身近にあった時代を知る人ならば、その大変さと価値は容易に想像できるかもしれません。 でも、現代ではほとんどの方がもう想像できない時代だと思います。 ファッションの最高峰、オートクチュールは現代でも伝統的な作り方をします。 |
ドレスの拡大 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
コルセットなど特別な部分を除いては全て、ミシンを使わずお針子が一刺し一刺し手縫いで完成させます。 刺繍もレースもすべて手編みです。大変な技術が必要な上に、時間もかかります。 数度の仮縫いを経てから最後の本縫いをします。オーダー主もその度に打ち合わせが必要ですし、本人も的確に要望を伝えられないと完璧なものは仕上がりません。 |
ドレスの拡大 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
現代は既製品(プレタポルテ)でも十分に選択肢がある時代です。 オートクチュールは、デザインもオーダーした人物だけのためのものです。たった1人のために特別な才能を持つデザイナーがデザインするのです。 素材は最高峰のものを使用しますし、さらにはその製法から、お針子さんの人件費など様々な費用が膨大に膨らむことがご想像できると思います。 |
世界に一体どれだけオートクチュールをオーダーできる人がいると思いますか? 現在オートクチュールの各メゾンの顧客の合計総数ははっきりしませんが、毎シーズンごとに注文する顧客は世界中で500人くらいと言われています。 多いと思われるでしょうか? |
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ドレスの側面 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
顧客は王侯貴族や世界各国のファーストレディ、有名女優たちだと言われています。該当しそうな人を思い浮かべてください。 500人というのはいかに限られた特別な人たちであるかがご想像いただけると思います。 |
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ドレスの側面 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
ドレスの正面 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
オートクチュールは最高の服飾素材を用いた熟練した職人の手仕事によるオーダー品なので、シンプルなスーツ1着でも300万円程度からと言われています。 美しいシルエットのレースやビーズ刺繍の装飾的なドレスなどは数千万円以上はかかります。 しかも仮縫いなどの打ち合わせのために、何度かメゾンに足を運ばなければなりません。海外からオーダーする場合は大変です。 金銭的に余裕はあるか、時間的にも余裕があるのか、これは多少の富裕層程度では無理なハードルです。 |
ドレスの正面 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted | マリー・アントワネットとローズ・ベルタンの功績によって、フランス革命後もパリはファッションの職人の街として発達しました。 20世紀初頭までにパリには多くの高級仕立屋が乱立し、『オートクチュール』の規格も曖昧な状態でした。 |
それを現代まで続くパリ・オートクチュール組合(1868年創設)として組織化したのがイギリスからやってきたデザイナー、シャルル・フレデリック・ウォルトです。 オートクチュールの父として有名な人物です。 ウォルトは王室の顧客も複数抱えていましたが、その1人のフランス皇后ウジェニーからは豪華なイブイングドレスや宮廷服、仮面舞踏会の注文を一手に引き受ける立場にあったそうです。 |
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オートクチュールの父シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895年) |
1869年のスエズ運河開通までの間に皇后がウォルトに発注を決めた服は250点にも及んだとも言われています。 ウォルトのメゾンは開業時、従業員数は50人ほどでしたが、メゾンの成功と共にどんどん増えて1200人にも達したそうです。 ウォルトが作品に高い完成度を要求したため、細部に対するぬかりない注意力と高い技術、熟練を職人たちにも求めたのですが、特に王族級のオーダーともなれば千人を超える熟練の職人の中からさらに精鋭中の精鋭だけが選ばれて仕事をしたわけです。 現代ではそんなエリート職人を育てる環境自体が無理なので、当時のクオリティで作品を作ることは不可能です。もちろんジュエリーも同じことです。 中途半端に自信のある現代の職人の場合、時間とお金があればできるなど簡単に言うこともあります。でも、当時の環境までも理解できている本当に才能ある職人は、どの分野の職人であっても「絶対に当時と同じものは作れない。」と、敬意と羨ましさを以て断言していました。 |
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ウォルトのメゾンのドレスを纏ったフランス皇后ウジェニー(1826-1920年) |
当時のヨーロッパ宮廷一と言われた美貌、さらに身長172cmでウエスト51cm、体重は生涯43〜47kgという驚異の美女、オーストリア皇后エリーザベトもウォルトの顧客の1人でした。 |
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ウォルトのメゾンのドレスを纏ったオーストリア皇后エリーザベト(1837-1898年) |
『イングランドのエリーザベト』とも呼ばれた美貌のイギリス王妃アレクサンドラも顧客です。 夫バーティは殊更にパリで買い物しまくっていたように取り上げられがちですが、この時代の王侯貴族はパリでオーダーするのは普通だったのです。 |
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ウォルトのメゾンのドレスを纏ったイギリス王妃アレクサンドラ(1844-1925年) |
ウォルトはマネキン(生きたモデル)を使ってファッションショーを開催したり、作品にブランドのタグをつけるなど、それまでには無かった現代までつながる革新的経営的戦略をいくつも生み出しました。 それが成功につながったのです。 |
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ロシアの皇族用の宮廷服(ウォルトのメゾン 1888年)インディアナポリス美術館 【引用】wikimedia commons ©Indianapolis Museum of Art |
デザインも含めてたった1人だけのために熟練の職人による手作りのオーダー・ファッション『オートクチュール』は、一応は存続しているものの商業的に成り立っているとは言い難く、いつ終わりが来てもおかしくない時代です。 より財力も熟練の技術も必要とされるジュエリーは、もっと昔にとうに終わってしまいました。 |
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アールデコ・ジャポニズムのペンダント(イギリス 1920年頃) |
豊かな感性と優れた技術を持つ才能ある職人は、作品を見ただけで背景にある仕事を想像し、価値を理解することができます。 このコレクションを後世に遺そうとしているのも、長年オートクチュールの世界に生き、コレクションの真の価値を理解している人物です。 確実に後世に引き継がなくてはという使命感を持ち、HERITAGEに託して下さったことを心から光栄に思います。 |
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『糸の宝石』総ボビンレース・ドレス |
ご検討とご購入について |
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No.1 | No.2 | NO.3 | No.4 | No.5 | No.6 |
いずれも今では手に入らない、貴重なアンティークの作品です。さらにはコレクションとしてこれだけ揃っていることに価値があります。このクラスをオーダーできる人物は多くても数回しか着用しない使い方ですし、K氏による保管によってコンディションも良好です。但し気に入った作品だけを買い、気軽に使って駄目になったら捨てる消耗品的な扱いは望んでおりません。 【単品売りについて】 【販売価格】 【実物のご確認について】 【連絡先】 |
アンティークドレスの詳細 |
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作品No.1 『糸の宝石』総ボビンレース・ドレス |
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製造国:フランドル地方 |
ボビンレースを編む女性 | ボビンレースを編む様子 " Frohnauer Hammer (15) 2006-11-04 " ©Norbert Kaiser(4 November 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
ボビンレースの糸巻き "Dentelle-IMG 6795" ©Rama, Wikimedia Commons(4 February 2013, 15:11:30)/Adapted/CC BY-SA 2.0 fr | 上は現代のボビンレースを編む様子です。 これくらい太い糸でも、完成までには結構な時間を要します。 極細の糸で編まれる繊細で美しい極上のアンティークレースを完成させるには、想像を絶する集中力と時間を要します。 K氏も1つの大作を完成させるのに、職人数十人がかりで4年かかったこともあります。商業的なことを考えると現代では到底不可能なことだそうです。 |
作品No.2 レッグ・オブ・マトンスリーブ ドレス |
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製造国:フランスもしくはイギリス |
レッグ・オブ・マトン・スリーブのドレスを纏ったイギリスのアレクサンドラ皇太子妃の写真も残っています。 隣のノルウェーのモード皇太子妃も同じタイプのドレスですね。 |
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左:後のノルウェー国王夫妻、右:後のイギリス国王夫妻(1896年) |
ジゴ袖とも呼ばれるレッグ・オブ・マトン・スリーブは1890年代に流行したデザインです。 ウエストを細く見せる効果があります。 |
中央のアレクサンドラ皇太子妃を見ると、確かにウエストが細く見える効果がありますね。 ところでなぜ後の他国の国王夫妻とこのような和やかな様子の写真が存在するのかと言うと、モード皇太子妃はエドワード7世とアレクサンドラの実の娘だからです。 当時52歳のアレクサンドラ皇太子妃が若々しすぎてそう見えないのですが、母と27歳の娘夫婦の写真なのです。 |
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左:ノルウェー皇太子ホーコン7世、中央:イギリス皇太子妃アレクサンドラ、右:ノルウェー皇太子妃モード(1896年) |
ちなみに上の写真では分かりにくいですが、アレクサンドラ王妃の娘ノルウェー王妃モードも美人な上に相当スタイルが良いです。 信じられない細さのウエストです! それだけでなく、幼い頃から既に高い知性を見せていたそうです。 派手な行動だけが取り上げられがちな父エドワード7世ですが、相当な知性と教養も持っていたそうです。 これぞ王族らしい、育ちの良さからくる自然とあふれ出る気品と美しさなのでしょうね。 |
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ノルウェー王妃モード(1869-1938年) |
作品No.3 ローブデコルテ |
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製造国:イギリス(ロンドン) ※アーツ&クラフツ運動についてはこちらもご参照ください |
ビーズ刺繍が見事なローブデコルテの内側 | 内側の布のレースやビーズの装飾 |
Bradley社について
ブラッドリー社は1870年に設立されたメーカーです。 ロンドンのチェプストウ・プレイスにクチュールハウスを持っていました。 |
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チェプストウ・プレイス(ロンドン) |
高級な婦人用ドレスや帽子の仕立て、毛皮や喪服、カーテンなどの販売によって19世紀後期に大きく成長しました。 |
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ブラッドリー社の高級婦人帽子の広告(1914年) |
特にオートクチュールドレスにおいてはロンドンでも有数の仕立屋としての地位を確立し、最も優れたクチュールハウスの1つとされていました。 1920年代から第二次世界大戦まではパリにもオシャレなアウトレットショップを持っていました。 ウェディングドレスはもちろん、時代の最先端をいく様々なスタイルのドレスを制作しています。 |
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ブラッドリー社の広告 |
チェプストウ・プレイスとウェストボーン・グローブには約6エーカーの作業場と86室もの個別試着室を備え、1Fのマネキン用のレセプションルームは金箔や大理石、ブロンズに彩られたとても豪華なものだったそうです。 『マネキン』はオートクチュールの父ウォルトが考案した、生身の女性がモデルを務める現代のファッションショーと同じ形式のものです。
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ブラッドリー社の広告 |
このマネキンたちが、中央の大理石の階段からレセプションルームに降りてきてドレスのデザインを披露するのです。 そのファッションショーを見て、顧客はどのデザインを買うのかを検討します。 オートクチュールハウスには専属マネキンが複数在籍しなければならず、専門のデザイナーや各工程ごとの職人と作業場をかかえ、常駐のアトリエスタッフらを維持するだけでも相当な経費がかかります。 現代ではたった一人の顧客のためにプロのモデルを使った豪華なファッションショーを開催するなんて想像もできませんね。 現代ではオートクチュール部門が維持できず大半のメゾンが閉鎖せざるを得ない、別格の超高級品がオートクチュールドレスなのです。
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ブラッドリー社の広告 |
だからこそブラッドリーの顧客にはロイヤルファミリー、歴史上もっとも偉大なイギリス人としても名高いチャーチル首相、ハリウッドスターなどそうそうたるメンバーが名を連ねます。 これはヴィクトリア&アルバート美術館所蔵のブラッドリーのシルクタフタのドレスです。 日中用のデイ・ドレスなのでご紹介のローブデコルテと比べると地味ですね。 ご紹介のローブデコルテはこのドレスより年代が古く、しかも夜用の非常に豪華な作りで、左のドレスより遙かに価値の高い大変貴重なミュージアムピースと言えるのです。 |
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日中用のドレス(ブラッドリー 1917-1920年)V&A美術館 © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
ブラッドリーはアールデコのイブニングドレスも制作しています。 夜用のドレスなので装飾も豪華です。 |
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【参考】アールデコ・エジプシャンスタイル・イブニングドレス(ブラッドリー 1923年) |
1つ1つ丁寧に縫い留められたビーズ装飾に、職人の手仕事による手間のかけ方の凄さが見えますね。 ご紹介のローブデコルテはこのようなビーズ装飾を、人目に触れない内側にまでやっているから驚きなのです。 |
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【参考】ブラッドリーのエジプシャンスタイル・イブニングドレスの拡大(1923年) |
エジプシャンスタイル・イブニングドレスにはブラッドリーのラベルが縫い付けてあります。 ブランドのロゴが付いたラベルを作品に付けるのも、ウォルトの考案です。 |
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【参考】ブラッドリーのエジプシャンスタイル・イブニングドレスのラベル(1923年) |
ご紹介のローブデコルテのラベル | ブラッドリーのロゴ(1914年) |
ご紹介のローブデコルテにもラベルがあり、かろうじて"Established 1870 Bradley Chepstow London"と言う文字が読めます。1914年の帽子の広告に掲載されていたブランドロゴと、ラベルのBradleyのロゴの形状が一致しています。アールデコの時代に作られたものよりも古いタイプのラベルと推測します。 |
これはTHE QUEEN, THE LADY'S NEWSPAPERに掲載されていたブラッドリーの1904年当時の最新コレクションです。 ブラッドリーのドレスが上流階級の女性たち向けの雑誌に掲載されていたということですね。 ロンドンの実力ある有名メゾンとして、まさに王侯貴族や富裕層のためにオートクチュールドレスを制作していたのがブラッドリーだったのです。 第二次世界大戦以降、既存の顧客が高級オートクチュールを求めることができなくなると、ブラッドリーも1950年代初頭には事業継続が困難となり、現在は形を変えてテキスタイルとドライクリーニングの専門業者として細々と残っている状態のようです。 |
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ベイズウォーターでのブラッドリー最新コレクション(1904年) |
貴婦人の特別オーダーのローブデコルテ
クリノリンを使った下半身全体にボリュームを出したシルエット(※)も、腰の後方にボリュームを出したS字形シルエットも目的は同じで、ウエストを細く見せるためです。
※クリノリンやファッションの変遷についてはこちらもご参照ください |
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1870年代のファッション |
上の女性の絵にはどちらも外の風景が描かれているので、外出着のファッションであることが分かります。 左のように室内のドレス用のデザインだと優雅に見えるよう、後方は布を床に引きずる長さにデザインされています。 ご紹介の作品も後方に床を引きずる長さの布があり、室内用にしか使わない特別なドレスをオーダーできる上流階級の女性のための贅沢なドレスとして作られたことが分かります。 このようにして作られた上流階級の女性のためのドレスは贅を尽くした最高級の作りであるにも関わらず、多くて数回しか着用されないためコンディションも抜群なのです。
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1870年代のドレス |
1867年になるとクリノリンは急激に廃れ、1870年代からは腰の後ろにボリュームを出すシルエットが大流行しました。 アルバート王配が亡くなったのが1861年です。 夫アルバート王配が亡くなって以降、ヴィクトリア女王は喪に服し引き籠もりのような生活を始めました。 この時代のファッションリーダーは、現代とは違って王侯貴族でした。 時代背景をきちんと考証すれば、ファッションもジュエリーもファッションリーダーたる王侯貴族自身によく連動していることが見えてくるのです。
※ヴィクトリア時代のファッションリーダーの変遷については『エレガント・サーベル』と『神秘なる宇宙』もご参照ください |
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イギリスのアレクサンドラ皇太子妃(1877年) |
作品No.4 アールデコドレスの傑作 ビーズドレス |
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製造国:フランス? |
アールデコの時代は女性がコルセットから開放され、ドレスもウエストがゆったりしているのが特徴です。 躍動感あふれる時代、パワフルで美しい女性たちが集まる中、別格の存在感を示すのは至難の業です。1920年代の『狂騒の時代』はパワフルな中産階級の女性フラッパー(現代娘)のイメージも強いですが、もちろん中産階級だけの流行ではありません。
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イギリスでもBright young thingsと呼ばれる人たちが存在しました。 1920年代のロンドンで、社会の規範にとらわれず自由を楽しむ若い貴族や社交界の人たちを表す言葉としてタブロイド誌に付けられたニックネームです。 その中には後のエリザベス王妃も入っています。 |
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ヨーク公爵夫人時代のエリザベス王妃(イギリス女王エリザベス2世の母)(1900-2002年)27歳頃 |
短い髪型や肌の露出面積が多い服装が明るく若いと称された、アールデコの最先端を行く人物らしいですね。 当時イギリスの王子は伝統的に他国の王女と結婚するのが通例だったのですが、当時のイギリス国王ジョージ5世の次男ヨーク公アルバート王子と恋愛結婚した慣例を打ち破ったイギリス貴族(伯爵家)の女性です。 打ち破ったと言っても、何度もアルバート王子の求婚を断った末だそうです。 |
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ヨーク公爵夫人時代のエリザベス王妃(1925年)25歳頃 |
エリザベス王妃が過ごしていたストラスモア=キングホーン伯爵家のグラームズ城 "GlaimsWide" ©Baryonic Being~common-swiki(16:49, 9 April 2005)/Adapted/CC BY-SA 1.0 |
求婚を断られて傷心のアルバート王子を見て、母であるメアリー王妃がわざわざエリザベスに会いにグラームズ城を訪れ、「アルバート王子を幸福にすることができる唯一の女性」と確信してメアリー王妃も結婚を勧めたのにエリザベスは首を縦に振らなかったそうです。 |
王族の重圧を理解していたからこその辞退だったようですが、数度に渡る熱烈な愛に最後は首を縦に振りました。 次男だったから受け入れたのだと思うのですが、まさか『王冠を賭けた恋』で長男エドワード8世が早々に退位し、国王夫妻になってしまうだなんて想像もしなかったでしょうね。 |
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エリザベスとアルバート王子(後のイギリス国王ジョージ6世)(1923年) |
カリスブルック侯爵夫人アイリーンも、Bright young thingsの1人です。 アイリーンは伯爵家出身で、夫はヴィクトリア女王の孫でありヘッセンのバッテンベルク家のアレクサンダー王子という由緒正しい王侯貴族の女性です。 アイリーンも前の時代と比べると露出度が高い派手な印象ですが、アールデコの時代は上質か否かの違いはあれ、王侯貴族も中産階級の女性もこのような系統のファッションが流行していたということですね。 |
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カリスブルック侯爵夫人アイリーン・マウントバッテン(1890-1956年)1930年頃 |
そんなBright young thingsに夜の社交場を提供していた1人がケイト・メイリックです。 3人の息子、そして少なくとも4人の娘をもうけた後の1916年に離婚し、1920年代はロンドンのナイトクラブのオーナーとして活躍しました。 貴族と暗黒街のエリート、両方にサービスを提供していたそうです。 Bright young thingsのメンバーには国際的に活躍する各国の女優なども含まれていました。 ケイトが提供する、こういう場所が新たな社交の場となったのです。 ケイトは父も夫も医者でしたが、娘3人はイギリスの爵位貴族と結婚しています。 |
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ナイトクラブのオーナーとして活躍したケイト・メイリック(1875-1933年) |
さて、具体的にアールデコのドレスに話を戻しましょう。 並み居るアールデコのパワフルな女性が集まる社交の場で、品良く目立つのは大変です。 そんな時ドレスを羽根やフリル、色使いで派手に見せることは可能ですが、手作業による総ビーズの高価なドレスは並の女性では到底手に入るものではありません。 左は1910年代から1920年代にかけて300本以上もの映画に出演した超売れっ子のアメリカ女優アリス・ジョイスです。 現代ならばセレブと呼ばれる部類でしょう。当時は今より有名女優になるハードルは遥かに高く、人数も限られていたでしょう。『狂騒の20年代』と称される、景気が最高潮のアメリカで有名セレブが選ぶイブニング・ドレスが、ゴージャスに光り輝く総ビーズ・ドレスなのです。 |
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アメリカ女優のアリス・ジョイス(1926年) |
当然ながらアールデコの女性全員がこのような総ビーズ・ドレスを着れたわけではありません。 通常は布だけ、或いは一部に装飾がある程度です。 最高級のオートクチュールをオーダーできる超富裕層だけが、手仕事によるアールデコの総ビーズ・ドレスを着ることができました。
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イブニングドレスの女性たち(1927年) |
フラッパーのアイコンとして有名なアメリカ女優ジョーン・クロフォード(1928年) | アールデコの総ビーズ・ドレスを着て踊るアメリカの有名女優ジョーン・クロフォードです。 総ビーズ・ドレスは、当時流行したチャールストン・ダンスと最高の相性です。激しいダンスに合わせて、無数のビーズがキラキラとゴージャスに光り輝いたことでしょう。 ご紹介のドレスは彼女のドレスよりさらにデザインに優れ、ビーズの密度も濃く、裾も一部だけではなく完璧にビーズが施されています。 女優より格上と言える、王侯貴族などの上流階級がオーダーと推測できる、これまでの45年間で扱った中でも最高のアールデコ・ドレスです!
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作品No.5 ジン |
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製造国:フランス? |
19世紀後半頃、ヴィクトリア女王が喪に服するため相手を想う気持ちを、黒の物を身に付けることで表しました。 それが後に流行となり、喪服は黒というのが定説となりました。 それが明治の頃に日本にも入り、日本の喪服も黒色となりました。 |
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喪服姿のヴィクトリア女王(1867年) |
さて、王侯貴族のファッションはドレスだけではダメで、ジュエリーも必須です。 黒い喪服に合わせて喪のジュエリーとして着用されたのが漆黒の木の化石、ジェットを使ったジュエリーでした。 |
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ヴィクトリア女王のジェット・ジュエリー(1870年頃) © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
大型のウィットビー産ジェットの塊 | イギリスではウィットビーで良質なジェットが産出していましたが、女王の着用により流行した需要を全て賄えるほどの産出量ではありませんでした。 |
フレンチジェットを使った喪のティアラ(1880-1890年頃)V&A美術館 © Victoria and Albert Museum, London/Adapted | そこで代用品として出てきたのがボヘミア製のガラスによるフレンチ・ジェットです。 ガラスで漆黒の色を出すのは実はとても難しことで、現代でも紺や茶色を濃くしただけだったり、裏にフィルムを貼るだけの場合が多いです。 左のフレンチ・ジェットは、見事なまでに漆黒を呈しています。
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稀少な天然素材ジェットの代用品なので通常は高価なイメージはありませんが、ティアラが存在するのは少し意外です。 この時代にティアラを着用する機会があるのは、一定以上の上流階級の既婚女性だけだからです。 |
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フレンチジェットを使った喪のティアラ(1880-1890年頃)V&A美術館 © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
さて、この黒=喪というイメージを打ち破ったのがフランスのファッションデザイナー、ココ・シャネルでした。
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ココ・シャネルとリトルブラックドレスのデザイン |
1926年にシャネルが発表したLittle Black Dressは世界に衝撃を与え、ファッションとしての黒が確立しました。 |
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リトルブラックドレス(1926年)ボーグ誌 |
『ファッションの黒』はアールデコの時代の女性たちを虜にし、様々な黒のファッションが取り入れられていきます。 |
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リトルブラックドレス姿のアメリカの人気女優ジョーン・ベネット(1928年) |
1920年の狂騒の時代は様々なダンスが大流行しています。 静止している時に美しい以上に、ファッションはダンスで栄えることが重要です。 誰でも上流階級や富裕層のようにお金をかけてダンス栄えする美しいドレスを仕立てられるわけではありません。 そんな時に役立つのが、腰まであるような長くて派手なネックレスです。 ちょうどシャネルによってコスチュームジュエリー(模造宝飾品)が流行した時代にも重なりますね。 |
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激しくダンスするフラッパー(1920年代) |
本物のジュエリーが高価で持てないのであれば、財産的な価値はなくてもオシャレの観点からデザインに価値を見いだし、オシャレのためだけに楽しめば良いではないかという思想で作られた、まさに大衆向けのものです。 現代は資産価値はないはずなのに、ブランドの名前で異様に高価になっていますね。でも、本物の価値あるジュエリーに比べたら安っぽさやちゃちさは否めません。 コスチュームジュエリーはお金がないけれどオシャレを楽しみたい女性に提案されたものなので、本物の優れたジュエリーを手に入れられる場合は無用の長物です。 HERITAGEが扱う優れたアンティークジュエリー、当時の王侯貴族は一体どれだけのお金をかけて作ったのだろうと恐れおののいてしまいますが、現代では知られざる良いものとなってしまい、普通のサラリーマンだった私でも買えるような価格になっているのですから、コスチュームジュエリーなんて手に入れる必要もありません。 |
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シャネルのコスチュームジュエリー |
コスチュームジュエリーとファッションの黒が相まって、フラッパーの間ではフレンチ・ジェットのネックレスも流行して数多く作られました。 |
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【参考】フレンチ・ジェットのロングネックレス(1920年代) |
小さいビーズをつないで束ねたタイプもあります。 ここで注目したいのがビーズの形状です。 |
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【参考】フレンチ・ジェットのロングネックレス(1920年代) |
ちょっと解像度が低いので分かりにくいかもしれませんが、面取りされていないただのツルツルの表面になっています。 |
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【参考】ネックレスのビーズ(1920年代) |
ビーズに面取りを施すかはとても重要です。 静止状態では分かりにくいですが、動いている際に、角度によって効果的に煌めくようになるからです。 |
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【参考】ビーズの面取り加工イメージ |
本作品に使われているのも面取りのフレンチ・ジェット・ビーズなので、驚くほど煌めきを感じることができます。 下の方はフリンジになっており、やはりこの時代ならではのダンスシーンを意識して作られたものであることが分かります。 1つ1つ面取りされたビーズ、さらにそれを細い糸で組み上げた透ける布地は信じられないような手間がかかったもので、これ以外に他に存在するとは到底考えられないレベルの作品です。 フレンチ・ジェット(ガラス)はジェットの代用品という位置づけなので、安物に使われるのが通常です。本作品のように繊細で明らかに高級品として作られたものは例外的な存在です。有機質のジェットではここまでの細かい細工は不可能ですから、代用品としてではなくフレンチ・ジェットだからこそできる表現のために使われたことは明らかです。 中産階級の女性のためのロングネックレスとはいくつも次元が異なる本作品。ダンスの時には軽やかにフリンジが揺れながら、全体からは漆黒のビーズが無数に光り輝いて見る人たちを虜にしたことでしょう。 |
作品No.6 マント・ケープ |
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製造国:イギリス? |
アンティークドレス・オーナー K氏 |
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これはベルビー赤坂のAtlier KATAGIRIの1889年頃の様子です。中央にディスプレイされているのは、No.6のマント・ケープです。当時、仕事の合間に少しだけ時間があいたK氏は、何かに導かれたかのように建物6FにあったAtlier KATAGIRIの前を通りかかりました。店舗で使っていた扇形のショーケースをK氏が感覚的に気に入り、片桐に声をかけたのが出逢いです。それ以来、感覚的に類似したものを持つ2人は30年以上も親交が続いています。パッションで動く行動力あふれるK氏が早速同じお店にオーダーした扇形ショーケースは、現在でもK氏のショールームで現役なのだそうです。 |
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今でこそそれぞれの世界で長年情熱を持って取り組み、他の人には真似できない価値ある真の実績を積み重ねた2人ですが、出逢った当時はそんな実績も肩書きなどもまだありませんでした。肩書きなどではなく、感性と情熱で選ぶ2人だからこそ巡り会い、長きに渡って自然と交友関係が続いたのです。そこには、人の手による魂のこもった『優れた作品(モノ)』だけがつなぐことのできるご縁があったとも言えます。 1987年、K氏がファッションの世界で最も権威とされるイタリアのオートクチュール・ショー『アルタモーダ』にデビューする際、大阪でのパーティに出席するために片桐は当時の愛車ルノー・サンクターボUで東京から向かったそうです。この車は当時、駐車していると人だかりができていたほどの伝説の車で、Genのフォト日記『パッサージュ』にもこの車との想い出が書かれています。K氏は「アルタモーダに参加できたことが、ファッションの世界で仕事をしてきて一番の幸せだと思っている。」と語っていました。私はこの言葉を聞いてとても胸が熱くなりました。この時の感覚は、これから一生忘れないと思います。 共に40年以上の年月それぞれの業界で最先端を走り続け、今でも誰よりも情熱を持って楽しそうに仕事に取り組む現役の2人。そんな2人が、真に後世に残すべき価値を認める美しいアンティークドレスのコレクション。運命を感じた方は、ぜひお気軽にご連絡ください。いつでもご連絡を心よりお待ちしております。 |
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HERITAGE 石田和歌子 |