No.00224 MODERN STYLE |
『MODERN STYLE』 イギリス 1890年頃 |
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どんな時代に於いても白い金属が好まれるダイヤモンドジュエリーにおいて、金無垢で作られた非常に珍しいダイヤモンド・ブローチです。世紀末ウィーンのセセッションにも影響を与え、アールデコにもつながっていったグラスゴー派の影響と見られる時代を超越したデザインも見事です。 素材、作り、デザインのいずれの観点からも、このブローチが時代を先取りした芸術を理解できる人物によって、特別にオーダーされて制作された逸品であることが分かるのです。 |
異例の特別な作り
これまでに45年間の長きに渡って優れたアンティークジュエリーをご紹介して参りましたが、パッと見て、こんな作品は見たことがないと感じられた方が大半ではないでしょうか。 |
この作品の最大の魅力が、この時代を超えた優れたデザインであることは感覚的に感じていただけると思います。 |
それは後ほど十分にご説明いたしますが、まず驚くべきなのは、18ctの美しい色の金無垢で作られた特別な作りです。 金無垢で作られたダイヤモンドジュエリーというのは、43年間で数点しか見たことがない珍しいものです。 まず、金無垢というこの作りがいかに特別なのかをご説明したいと思います。 |
ダイヤモンドのハイジュエリーにおける素材の選択
【参考】現代カルティエのブローチ ホワイトゴールド、ダイヤモンド ¥3,628,800-(税込) 【引用】Cartier HP / PLUIE DE CARTIER BROOCH |
20世紀初頭に画期的な新素材プラチナとホワイトゴールドがジュエリーの一般市場に出現して以降、プラチナ、ホワイトゴールド、金、銀など素材の選択肢が増えました。 プラチナの出始めや第一次世界大戦頃のエドワーディアンと違い、プラチナ価格も十分に下がっているので、現代では好きな素材を選択することができます。 そんな中でダイヤモンドジュエリーに選ばれるのは白い金属です。 左のカルティエのダイヤモンド・ブローチはホワイトゴールドです。 |
【参考】現代ブシュロンのブローチ ホワイトゴールド、ダイヤモンド、オニキス ¥9,306,000-(税込)2019.2現在 【引用】BOUCHERON HP / WOLF BROOCH |
ブシュロンのアニマルブローチもホワイトゴールドです。 デザインもちょっとアレですし、作りもチャチではありますが、93万円ではなく930万円なのでれっきとした(成金向け)高級ジュエリーです。安っぽいですが、子供用オモチャとして作られた変顔アニマルのお面ではありません。 このようにダイヤモンドの色味を邪魔せぬよう、ダイヤモンドジュエリーは余程理由がない限り、ゴールドではなく白い金属が使われるのが通常です。 |
『財宝の守り神』 ダイヤモンド ブローチ フランス 1870年頃 SOLD |
もう少し後の時代になると、高級なダイヤモンドジュエリーは、シルバーの裏に金の板が貼り合わされてゴールドバックになります。 |
『Quadrangle』-四角形- エドワーディアン 天然真珠 ネックレス オーストリア? 1910年頃 SOLD |
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プラチナがジュエリーの一般市場に出てきたエドワーディアンにおいても、ダイヤモンドジュエリーに使われるのは白い金属です。 『至高のレースワーク』でもご説明したように、当時プラチナもホワイトゴールドも、ゴールドと比べて遙かに高価でした。異種金属の貼り合わせには技術も手間も必要ですが、それでもオールプラチナやホワイトゴールドではなく、裏側に高価であるはずのゴールドを見えない貼り合わせているのは、これらの白い金属がいかに高価な素材だったかの証でもあります。 |
シルバーの時代も、プラチナやホワイトゴールドの時代も、理由は違えどハイクラスのジュエリーにはゴールドが裏打ちされているのが面白いです。 それはさておき、いかに美的観点から、ダイヤモンドジュエリーには白い金属が好まれてきたのかがよく分かりますね。 |
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『至高のレースワーク』 エドワーディアン リボン ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
ゴールドだけのダイヤモンドジュエリー
『Day & Night』 マルチユース ブレスレット フランス 1820年頃 SOLD |
『ジョージアンの女王』 ロング ゴールドチェーン イギリス 1820〜1830年頃 SOLD |
滅多に見ないゴールドだけのダイヤモンドジュエリーですが、ゼロではありません。 ゴールドはシルバーよりも遙かに高価な素材です。従って、必然的に相当な財力を持っている人物しかオーダーできません。さらには相当な財力を持っていたとしても、デザインの観点から通常はゴールドバックのシルバーセッティングにします。 だからゴールドのダイヤモンドジュエリーは当時余程財力があった上に、人とは違う、ゴールドでしか表現できないデザインを好む感性豊かな人物が特別にオーダーしたものでないと有り得ないのです。 参考に、同じジョージアンの年代のハイエンドのダイヤモンドジュエリーを見比べてみましょう。 |
この『Day & Night』は昼と夜で使い分けができるという異色の最高級ブレスレットです。昼はゴールドだけですが、夜用のフェイスは、鏤められたダッチローズカット・ダイヤモンドが目映いばかりに煌めきます。ブレスレット本体はゴールドの見事なカンティーユによる作りですが、ダッチローズカット・ダイヤモンドだけはシルバーのフレームでセッティングされていることに気づかれたでしょうか。 ダイヤモンドの白い輝きを邪魔しないよう、フレームだけはセオリー通りシルバーにしてあるのです。ダブルフェイスという変わった特徴を持つ作品ですが、作りは優等生タイプと言えます。 |
一方で、『ジョージアンの女王』は小さいながらも上質なオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドがクラスプに使われています。 『Day & Night』はダッチローズカットとシルバーセッティングという、いかにもアンティークらしさを感じる作行きでしたが、『ジョージアンの女王』に使われているのは現代のブリリアンカットの原型と言われるオールドヨーロピアンカットで、しかも18ct以上の純度を持つ美しい色のゴールドで作られているせいか、古い印象が全くありません。今見てもモダンな感覚さえ受ける、デザイン的にも時代を超越した作品に仕上がっています。 『Day & Night』、『ジョージアンの女王』どちらも当時最高の技術と財力をかけて作られたハイエンドの作品なので、材料代をケチったとか、手間を惜しんだとか、そういうレベルの話ではありません。『ジョージアンの女王』のようなセオリーから外れた特殊な作品が作られる理由は、そういう物を所望してオーダーする人物がいたからということなのです。 |
『循環する世界』 アーツ&クラフツ ブルー・ギロッシュエナメル ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
この『循環する世界』も、ゴールドのフレームでセッティングされたダイヤモンドが独特の魅力を放っています。 若葉らしい初々しさを感じます。 ギロッシュエナメルはゴールドの上に施した方が発色が良くなること、天然真珠の白い色、これらの色彩的な美しさも総合的にデザインされてゴールドの作りが選択された作品です。 もちろん特別にオーダーされたことが分かる、高価で高度な技術がかけられた作りです。 |
サーキュラー ブローチ イギリス 1880年頃 クッションシェイプ・ダイヤモンド、ブラックエナメル、15ctゴールド SOLD |
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セオリーから外れるゴールドセッティングのダイヤモンドジュエリーは本当に数が少ないのですが、過去の資料を探すといずれもハイジュエリー揃いです。 このサーキュラーブローチも、上質なダイヤモンドの贅沢に使っています。さらにいずれのダイヤモンドの爪留めも特殊な形状で変わっていますし、フレームに施された魚子打ちのようなマット仕上げ、全体的に高さを出した立体的な形状などの作りも見事で、明らかに特別にオーダーされた高級品であることが分かります。 |
クッションシェイプカット・ダイヤモンド ペンダント&ブローチ フランス? 1880年頃 クッションシェイプ・カット ダイヤモンド、ローズカットダイヤモンド、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド、ブラックエナメル、18ctゴールド SOLD |
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この贅沢にダイヤモンドが鏤められたペンダント&ブローチも、各種取り外しが可能な作りの贅沢な作品でした。 ヴィクトリアンではGenが嫌うイカやタコの足のようなフリンジが下がったジュエリーが大流行しているのですが、それとは一線を画すナイフエッジとダイヤモンドによるフリンジが見事です。 |
【参考】ヴィクトリアンの高級フリンジ・ジュエリー | ||
ちなみにヴィクトリアンの「イカの足」「タコの足」はこのようなフリンジです。いずれも大衆用の低級品ではなく一応は高級品として作られてはいるのですが、この時代に大流行した成金的で悪趣味なデザインのジュエリーはGENも私も趣味が合わないので作りが良くても扱いません。 HERITAGEではアンティークジュエリーの中でも高級な作品しか扱わないと明言しておりますが、実はさらにデザイン的にも高い芸術性や、知性を感じる洗練された美しさを持つ作品しか扱わないようにしているので、買付はかなり大変なのです(笑) 実際は高級品でもセンスが感じられないものが大半です。HERITAGEでは当時としても、別格の存在だったであろうジュエリーのみを厳選してご紹介しています。上のようなどれも似たり寄ったりのイカやタコの足のジュエリーを身に着ける中、ナイフエッジの洗練されたフリンジ・ジュエリーで身を飾っていた貴族の女性は、きっと別格の雰囲気を放っていたことだと想像します。 |
ゴールドのダイヤモンドジュエリーの中でも異色の存在
ゴールドセッティングのダイヤモンドジュエリー自体が大変珍しい存在なのはお分かりいただけたと思いますが、この作品はその中でも別格です。 |
過去のゴールドのダイヤモンドジュエリーは、純粋にダイヤモンドとゴールドだけで作られているのではなく、エナメルを使ってデザインに色を1色追加しています。 さらに、どちらの作品も見ただけですぐに分かるヴィクトリアンらしいデザインです。 |
完全にゴールドとダイヤモンドだけによる表現、そしてこの時代を超えたモダンなデザインがこの作品にしかない魅力であり、特徴です。 この作品がなぜ生まれたのか、美術史の観点からも探ってみましょう。 |
イギリスにおけるアールヌーヴォー
1890年頃の制作年、そして曲線による表現と言えば、アールヌーヴォーを思い浮かべる方が多いと思います。 |
でも、このブローチはイギリスで作られた18ctゴールドの作品です。 |
『静寂の葉』 アールヌーヴォー プリカジュールエナメル ペンダント オーストリア or フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォーと言えば、フランスのイメージが強い方が多いと思います。 イギリスにはあまりアールヌーヴォーのイメージがありません。 |
この作品にはアールヌーヴォーどころか、それよりもさらに先に進んだデザインの美を感じます。 なぜイギリスでこの作品が生まれたのか、当時の美術史の流れを理解すると納得しやすいと思います。 |
アールヌーヴォーの起源
"モダンデザインの父" ウィリアム・モリス(1834-1896年) | アールヌーヴォーの理論的先駆は、ウィリアム・モリスが提唱したイギリスのアーツ&クラフツ運動に求められます。 1880年頃から始まったデザイン運動(美術工芸運動)です。 |
『太陽の沈まぬ帝国』 バンデッドアゲート ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
産業革命と植民地政策の成功により、太陽の沈まぬ帝国を実現したイギリスは、19世紀半ば頃から20世紀初頭までの期間に最盛期を迎えます。 特に『世界の工場』と呼ばれた1850年頃から1870年頃は、ローマ帝国の黄金期『パクス・ロマーナ(ローマの平和)』に倣ってパクス・ブリタニカと呼ばれたりします。 |
大英帝国(1886年) |
第1回万博開幕をクリスタル・パレス内で宣言するヴィクトリア女王(1851年) | 世界の工場たる大英帝国の中心地、世界の中心でもあるロンドンで世界で1851年に初めて開催されたのが第1回万国博覧会でした。 |
移設後のクリスタルパレスの全景(1934年) | 鉄とガラスで作られた巨大な温室クリスタルパレス(水晶宮)には、各国威信をかけた最先端技術の詰まった作品が展示・販売されました。 今後、世界のテクノロジーがどう進化するのかを伺ったり、流行の発信地となるのが当時の万博です。 そこで16歳のウィリアム・モリスが見たのは芸術性など微塵もない、見るも無惨な大量生産の粗造品でした。 |
力織機による大量生産工場(1835年) |
機械を使い、規格を統一したものを正確かつ早く作ることだけが是となった大量生産の現場に、手作業の職人技は存在し得ません。 かつての職人はただの機械のオペレーター、もしくは単純作業を延々とこなすだけのプロレタリアートと成り果て、労働の喜びや手仕事の美しさもそこには存在しません。 |
GENが実家の家業でかつて企画・製造していた全て職人の手作りによる最高級の米沢箪笥 | 【参考】大量生産のプラスチックの安物タンス |
ちょっとイメージが湧きにくい方のために、モリスが受けたのはこのような衝撃だったと例えれば想像しやすいでしょうか。 モリスは1834年にロンドン・シティの証券仲買人の子として生まれました。父はモリスが13歳の時に亡くなっていますが、投資で巨額の富を得ていたので裕福な育ちでした。モリスは元々若い頃から優れた感性を持っていたため、昔ながらの職人の手作りによる、芸術性と心のこもった美術工芸品に慣れ親しみ理解していました。 そんな鋭い感性を持つ人物が、右のような味気ない粗造品を見たら衝撃を受けるのは当然です。タンスが買えない庶民にとっては、買える価格の安いタンスがあるだけでも嬉しいのは理解できます。だから一方的に大量生産が悪いとは思いませんが、そこに芸術性や品質、人の想いなどの付加価値は存在しません。最低限の機能さえあれば良いという類のものなので、手作りの上質なものと単純比較してはならないのです。 |
ウィリアム・モリスによる壁紙デザイン『トレリス』(1862年) | 大量生産の粗造品が溢れかえる状況を批判し、中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することをモリスが主張したことが、アーツ&クラフツ運動につながっていきました。 モリスは工業化の進行とそれに伴う創造性の枯渇を厭い、「社会の再生」は人々の周りにあり、人々が使うもののフォルムの真正性によってしか達成されないと考えました。 |
モリスは中世のギルドの精神を実現すべくモリス商会を設立し、インテリア製品や美しい書籍の制作を始めました。 |
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モリス商会の壁紙を職人が手作業で印刷する様子(1890年)メトロン・アビー |
モリスのデザイン(1875年) | モリス商会のデザイン | モリスのデザイン(1872年) |
モリスの主導するアーツ&クラフツでは、自然界のモチーフの研究や洗練されたフォルムへの回帰が強く勧められました。 自然界をモチーフにした壁紙やテキスタイルなどもたくさんデザインされています。 |
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モリスのデザイン(1876年) |
モリスのデザイン(1883年) | 結局、職人による丁寧な手仕事で作る製品は、庶民ではとても手が出ないような高価なものとなってしまい、モリスの理想とした世界は実現できずに終焉を迎えました。 でも、モリスが生み出した自然界をモチーフとした独特の美しいデザインだけは、今でも各地に存在します。 手仕事の印刷ではなく、機械で大量印刷されてしまう定めなのが何とも皮肉で切ない話ですが・・ |
『WILDLIFES』 アーツ&クラフツ×モダンスタイル ゴールド・ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
左の『WILDLIFES』もアーツ&クラフツのジュエリーです。 職人による丁寧な手仕事の作りに加えて、自然界の野生をそのまま表現したデザインがとてもアーツ&クラフツらしい作品と言えます。 |
ステンドグラス『アーサー王と騎士ランスロット』(モリスのデザイン 1862年) |
ウィリアム・モリスは自然界をモチーフにした動植物柄の壁紙やテキスタイルだけでなく、ステンドグラスでも有名です。 中世へ憧れを抱いており、架空の中世的世界を舞台にした多くのロマンスを創作し、モダン・ファンタジーの父とも目されています。日本でも『指輪物語』で有名なJ・R・R・トールキンにも影響を与えたとされています。上のステンドグラスのモチーフもまさに中世ですね。 |
モリスによる美しい装飾の書籍 | |
その他、美しい装飾の書籍も作り出しました。一度はこのような装飾の本をご覧になった方も多いのではないかと思います。「心を込めた職人による丁寧な手仕事と作る喜び」という理想は夢に終わりましたが、モダンデザインの父とも称されるウィリアム・モリスが世界に与えたデザイン的影響は計り知れないのです。 |
アールヌーヴォーの発展
美術商サミュエル・ビングの『アールヌーヴォーの店』と入口(パリ9区) | |
ウィリアム・モリスが提唱した、自然界のモチーフの研究や洗練されたフォルムへの回帰という思想は、イギリスを超えて世界に広まり、各地で発展していきました。 それが『アール・ヌーヴォー』と言う名で定着したのは、パリの美術商サミュエル・ビングの店の名前からです。 |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)1899年、61歳頃 | サミュエル・ビングはパリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人で、日本の美術・芸術を欧米諸国に広く紹介し、アール・ヌーヴォーの発展に大きく寄与したことで有名な人物です。 普仏戦争(1870-1871年)後に日本美術を扱う貿易商となり、1870年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功しました。 美術関係者を招いてコレクションを披露したり、各国の美術館に日本美術を納品するなど、当時の美術・芸術界に大きな影響を与えました。ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店と言われています。 |
ビング発行の『芸術の日本』(Le Japon ARTISTIQUE) | |||
ヨーロッパではジャポニズムが大きく流行するのですが、その仕掛け人とも言える人物がビングでした。1888年から1891年まで、日本美術を広く伝えるため『芸術の日本』という大判の美術月刊誌を40冊発行し、展覧会も企画しました。フランス語だけでなく英語、ドイツ語でも発行され、ヨーロッパにおける日本文化の理解に大きく貢献しました。 |
ティファニー 懐中時計(ペンダントウォッチ) アメリカ 1880〜1890年頃 SOLD |
ビングの店では日本美術だけでなく、ティファニーやルネ・ラリックなど同時代の作家の工芸品も多数扱い、流行の発源地として大いに繁盛しました。 ところでティファニーの作品と聞くと、左のような作品をご想像されるでしょうか。 |
ルイス・カムフォート・ティファニー(1848-1933年) | 現代では創業者一族の手を離れ、真に実力で評価されていた時代の気配は微塵も感じられないティファニーですが、一時代を作ったのには理由があります。 創業者チャールズ・ティファニーの息子、ルイス・カムフォート・ティファニーはアメリカのアール・ヌーヴォーの第一人者として知られる偉大な芸術家です。 彼の素晴らしい作品も参考までにいくつか見てみましょう。 |
『アイリス』(1900年頃)ウォルターズ美術館 "Tiffany and Company - Iris Corsage Ornament - Walters 57939" ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
『天空のオルゴールメリー』で、ティファニーが1900年のパリ万博で最高賞を受賞したことはお話しました。 その時に左のモンタナサファイアで作られたアヤメのジュエリーも受賞しているのですが、この時に同じくティファニーの作品として最高賞のグランプリを受賞しているのが以下のルイス・カムフォート・ティファニーのステンドグラスです。 |
【引用】MOURSE MUSEUM HP / Spring panel from the Four Seasons Window | 【引用】MOURSE MUSEUM HP / Spring panel from the Four Seasons Window |
【引用】MOURSE MUSEUM HP / Spring panel from the Four Seasons Window | 【引用】MOURSE MUSEUM HP / Spring panel from the Four Seasons Window |
『四季』(ルイス・カムフォート・ティファニー 1899-1900年頃)モース美術館 | |
ステンドグラスの窓の作品『四季』、自然界を表した作品はまさにアールヌーヴォーですね。モチーフの美しさだけでなく。ステンドグラス技術の凄さも感じていただくために『冬』だけ拡大画像を掲載しておきます。 |
『四季 -冬-』(ルイス・カムフォート・ティファニー作 1899-1900年頃) モース美術館 【引用】MOURSE MUSEUM HP / Spring panel from the Four Seasons Window |
色の表現と技術がすごいですね。 ルイスは吹きガラスもやっていましたが、一番評価が高かったのがステンドグラスの作品でした。ルイスのステンドグラスは、それまで主流とされていたエナメル塗料を直に塗りつける方法を抑え、色彩ガラスを利用した技法で作られています。17世紀頃に失われてしまった技法を、ルイスが再現したものです。 当時アメリカは文化やセンス的にヨーロッパからは下に見られていたのですが、ジョージ・パウルディング・ファーナムのデザインによるモンタナサファイアの繊細な『アヤメ』や、このステンドグラス『四季』によって、ティファニーはアメリカ人による素晴らしい美術工芸品を世界に知らしめたのです。 |
『守護天使』(ルイス・カムフォート・ティファニー 1890年頃) | ルイスは日本人が思い描く、ヨーロッパのいかにもアールヌーヴォーらしいこのような作品も遺しています。 |
ジャポニズムのステンドグラス(ルイス・カムフォート・ティファニー 1904-1910年頃)NYのアンソニア・ホテル 【引用】Arthur HP / Landscape Window from the Ansonia Hotel New York | でも、このようなジャポニズム・アールヌーヴォーの作品もいくつも制作しています。 ガマの穂なんて、いかにも日本らしいですね。 アメリカ人がこのような繊細な色使いやデザイン的な表現ができたなんて、これならば当時の教養に溢れるヨーロッパの王侯貴族も納得したことでしょう。 |
エドワード・C・ムーア(1827-1891年) | ちなみにルイス・カムフォート・ティファニーの作品にジャポニズムの影響が強く見られるのは、初期のティファニーで活躍したエドワード・C・ムーアの功績です。 ムーアは1851年から亡くなる1891年まで、ティファニーのジュエリーデザイナー兼シルバー部門の責任者として活躍しました。 銀細工師だっただけでなく、美術コレクターでもあり、メトロポリタン美術館の後援者でもあり、保有していたたくさんのコレクションや図書を寄贈してアメリカの芸術文化の向上に貢献しています。 エドワード・ムーアは統率するアーティスト達に、世界中の様々な年代のジュエリーや工芸品から勉強するように指導しました。 |
エドワード・C・ムーアによる銀器(ティファニー 1878年) " Edward c. moore per tiffany & co., brocca in argento, oro e rame, new york 1878 " ©Sailko(28 October 2016, 22:05:06)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 後の万博での数度に渡る受賞など、ティファニーの栄光の礎を作ったムーアの最も重要な作品として有名なのが、ジャパネスクおよび考古学風のジュエリーとシルバーの作品です。 なぜか日本人には日本の物を評価しない、国民性的な傾向があります。 現代でも日本の古い芸術家が欧米で評価されると、それが逆輸入されて日本で異常に持て囃されたりします。 伊藤若冲や河鍋暁斎などが良い例ですが、もともと日本人には和風のものは人気がないため、ジャポニズムの作品は日本で紹介されることがあまりないようです。 もともとサミュエル・ビングは日本美術の貿易商として成功し、文化の発展に貢献しているので、パリの『アールヌーヴォーの店』にもこのような優れたジャポニズムの作品も多く扱っていたはずです。 |
ルネ・ラリック(1860-1945年) | ビングのアールヌーヴォーの店では、同国フランスの金細工師、宝飾デザイナー、ガラス工芸家ルネ・ラリックの作品も扱っていました。 ガラスの作品も有名ですが、前半生はアールヌーヴォー様式の金細工師・宝飾デザイナーとして活躍し、その分野で名声を得ていました。 以前からジュエリーにガラスのパーツは取り入れていましたが、ガラス工場の経営者に転身するのは50歳を過ぎてからです。 以下のような作品がビングの店で扱われていたはずです。 |
ラリックが二人目の妻アリスにデザインしたネックレス(1897-1899年頃)メトロポリタン美術館 |
『ドラゴンフライ・レディ』(1903年)グルベンキアン美術館 "René lailique, pettorale libellula, in oro, smalti, crisoprazio, calcedonio, pietre lunari e diamanti, 1897-98 ca. 01 " ©Sailko(14 September 2016, 13:37 24)/Adapted/CC BY 3.0 | 鶏のティアラ(1897-1898年)グルベンキアン美術館 "Tiara de Lalique - Calouste Gulbenkian" ©Antonio(23 August 2008, 09:23:58)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
フランス人特有のコテコテしたデザインは、ジュエリーとしては私は苦手なのですが、アートとして見る分にはとても面白い作品ですね。手も込んでいる丁寧な作りです。鶏ティアラは日本人感覚からはちょっと理解しがたいのですが、ヨーロッパの使いこなせる方が着ければ迫力があって素敵だったかもしれませんね。 実際の所は当時のヨーロッパの女性にとっても「着けるのはちょっと・・」と言う感じであまり売れず、ラリックはジュエリーの制作をやめてガラス制作に移ることになったようです。デカくて派手で奇抜なので舞台女優や成金などは多少買ったようですが、そりゃそうですね(笑) |
アールヌーヴォーの祭典 1900年パリ万博
第5回パリ万国博覧会のパノラマビュー(1900年) |
さて、何度かご紹介しております19世紀最後の年、1900年のパリ万博は世紀末を飾る国際博覧会かつ新世紀の幕開けを祝う各国が総力を挙げたイベントでした。 各国アールヌーヴォー的な芸術の気運が高まっていく中で開催されたこのパリ万博は、アールヌーヴォーの祭典だったとも言われています。パリのアールヌーヴォーの流行発信地として活躍していたサミュエル・ビングも出店していますし、世界のビッグスリー、ロシアのファベルジェ、アメリカのルイス・カムフォート・ティファニー、フランスの巨匠ルネ・ラリックが一堂に会した最初で最後の万博でもあります。 |
パリ万博では装飾美術においてサミュエル・ビングのパビリオンが一躍注目を集めたことで。店名であった『アールヌーヴォー』が万博を象徴とする表現となり、さらにはこの時代を象徴するフランスの装飾美術様式そのものを指す名称となったのです。 |
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美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)一番左 |
アールヌーヴォーの名の由来
建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年) | 『アールヌーヴォー』という言葉自体は、1894年にベルギーの雑誌L'Art moderne(現代美術)において、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの芸術作品を形容する言葉としてエドモン・ピカールが用いたのが最初です。 |
ホーヘンホフ(アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ設計 1908年建設) "Hagen - Hohenhof ex 30 ies" ©Frank Vincentz(6 June 2010, 13:46:57)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ヴァン・デ・ヴェルデは19世紀末から20世紀初めに活躍したベルギーの建築家で、アールヌーヴォーからモダンデザインへの展開を促した人物としても知られています。ヴァン・デ・ヴェルデの代表的な作品としては、アールヌーヴォー建築のホーヘンホフが知られています。 |
トシェビエフフのサナトリウムの階段(ヴェルデのデザイン) | Bloemenwerfのためにデザインされた椅子(ヴェルデのデザイン 1895年)"Henry van de Velde - Chair - 1895" ©Chris 73/Wikimedia Commons/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
1895年にビングがパリ9区プロヴァンス通りに開いた『Maison de l' Art Nouveau』(アールヌーヴォーの店)の内装を手がけたのがこのヴェルデだったのです。この新しいアールヌーヴォーの店で、日本美術だけでなくヴェルデ、ティファニー、ラリック、ムンク、ロダンなど当時の評価の高い芸術作品、美術工芸品が企画展示・販売されたのです。 |
ベルエポックのパリの大衆消費
ベルエポックの精神を表現したポスター(ジュール・シェレ 1894年) | さて、1900年のパリ万博はベルエポックの頂点とも言われいます。 詳細は『グランルー・ド・パリ』でご説明していますが、遅れていたフランスでもようやく産業革命が進み、中産階級の女性主導の大衆消費文化が非常に発達した時代です。 |
世界最初の百貨店と言われる『ボン・マルシェ百貨店』 "Bon marche" ©Arnaud Malon from Paris, France(2 Aprik 2006)/Adapted/CC BY 2.0 |
日本人の感覚からは考えにくいですが、フランス語で『安い』を意味するボン・マルシェ百貨店が大いに賑わった時代です。 知的階級や富裕層は『安い百貨店』なんて近づかないはずなので、庶民がターゲットだったのは明らかですね。 |
日本でもお正月の福袋争奪戦の凄まじさを想像すれば、中産階級の女性パワーは容易にご想像いただけると思います。店内で走るのは当たり前、奪い合いなどもあるようで、ちょっと恐ろしくて初売りなどは行く気分になれません。 当時のパリも、エミール・ゾラによって『ボヌール・デ・ダム百貨店』という小説も出版されるほどでした。 |
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ボヌール・デ・ダム百貨店(初版は1883年) |
ボン・マルシェ百貨店(1887年) |
ゾラはボン・マルシェ百貨店やルーブル百貨店などへの詳細な取材に基づき、百貨店の販売戦略やご婦人方の買い物依存症、窃盗症への転落を描写しました。現代でも評価の高い小説ですが、こんなに巨大な百貨店が成立するほど女性客が訪れていたなんて、いかにベルエポックのパリが中産階級の女性の消費で勢いに湧いていたのかが想像できますね。 |
ルーブル百貨店(1877年) | 巨大百貨店はパリに1つではなく複数あったのも驚異的です。 商品の魅力的な陳列法、セール、店内の回遊を促すための道に迷わせる配置など、この頃に開発された手法は現代でも活用されています。 |
エミール・ゾラ(1840-1902年)マネ作 | 特別な逸品を求めてオーダーするような本物の富裕層は専門にしか行かないのは、現代でもヨーロッパでは常識です。 知的階層もゾラのように冷静な目で見ていたこの大衆消費現象ですが、商売人にとっては当然無視すべき現象ではありません。 1875年にフランスは第三共和政になって以降、特権階級の王侯貴族がパトロンになる時代は完全に終わりを遂げました。 単価は安くても良いから、たくさんの人に買ってもらうというビジネススタイルになるのは必然の流れなのです。 |
パリにおけるアールヌーヴォーの大流行と粗造品の乱造
第5回パリ万国博覧会(1900年) |
1900年パリ万博によってビングのアールヌーヴォーが大注目を集めたパリ、当然ながら商売人は目をつけます。さて、フランス国内で簡単に大量生産し、しかも高く売れるのは何だろうと考えるわけです。 ティファニーはグランプリを受賞して理解ある知識階層や富裕層からは評価は高いですが、ヨーロッパには元々アメリカに偏見があり、アメリカ物は雑で品がないというイメージがあります。ブランドではなく内容で評価できる階層向けの商品ならばティファニーの真似をしても大丈夫ですが、ターゲットは教養がない上に見ても理解できない中産階級の女性です。 ジャポニズムも知的階層には持て囃されていますが、やはり違います。ファベルジェのロシアも、材料や手間のかけ方からして容易に模造品は作れません。 |
ネックレス(ルネ・ラリック 1897-1899年頃)メトロポリタン美術館 | そうです。ラリックの作品が、真似をして作るには最適です。 フランスのラリック製品はフランスでそれらしい似たものが作りやすいですし、巨匠の作風を『アールヌーヴォー』と権威・ブランド化すれば売りやすいです。 |
さて、真面目に真似するとコストがかかりますし、並の職人に巨匠のような技術もありません。要素だけ真似してそれっぽく見えれば、よく分かっていないご婦人方はありがたがってボロ儲けできる値段で買ってくれます。そうです、「鋳造で量産する女性の姿」がポイントになりました。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないもののマシなレベルのアールヌーヴォー・ジュエリー | |
日本でもイタリア料理が話題になった瞬間に、昨日までフランス料理店だった店が看板だけイタリア料理店になったという現象が過去にありましたが、それと同じような現象がフランスにも起こりました。 どこもかしこもアールヌーヴォーの工房、アールヌーヴォーの店になってしまったのです。中産階級の巨大な需要を満たすため、どの工房も日夜作品を量産しました。アールヌーヴォーには作家物が多いという特徴もあるのですが、「誰?」という作家も多いです。作家名が入っていると凄そうに思う人が多いのは、今の中産階級の日本人女性も当時のフランス人女性も同じです。だから『作家物』が多いのです。 上の2つはダイヤモンドが使われており、素材にある程度お金をかけていることからも分かるように、まだマシな作りです。 |
これらはヘリテイジでは絶対に扱わないレベルのアールヌーヴォー・ジュエリーです。 顔だらけで正直失笑してしまいます。デザインもさることながら、作りも酷すぎです。いかにも鋳造の量産品ですね。 こういうレベルのものは、100年以上の使用で摩耗してのっぺりしているのではなく、元からのっぺりしているのです。鋳造でコストを抑えるために何度も型で量産するので、だんだんと型が磨り減って、出来上がりの作品がシャープではなくなっていくのです。 |
このような気持ちの悪い安物を乱造した結果、アールヌーヴォーはすぐに飽きられて終焉を迎えたのです。 ただ、現代まで相当な数が残っていることからも、いかに大流行して大量生産されたのかが想像できますね。 |
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【参考】安物のアールヌーヴォー・ジュエリー |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) | 建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年) |
この大流行はビングらの想像を遙かに超えたものでした。結果として店の名前『アールヌーヴォー』が様式全体を指すことになりましたが、他方で彼らが当初企画・制作していた真正の作品は意図せず粗悪品による大流行に飲み込まれてしまいました。 それらはビングとヴァン・デ・ヴェルデによって「はびこる粗製濫造の装飾品」と告発されましたが、ヨーロッパにおいてアールヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことにもなりました。 |
【参考】安物のアールヌーヴォー・ジュエリー | 【参考】安物のアールヌーヴォー・ジュエリー |
ただ、笑えるのがその後、戦後の経済成長に湧く日本でもそのアールヌーヴォーが持て囃されたことです。欧米で高く評価される日本美術に対しては評価の低い日本人ですが、舶来品は為替レートの関係などもあって当時非常に高かったのに、舶来品であるだけで憧れの高級品としてブランド化している時代がありました。 特にフランスは「おパリ」などと呼ぶ人もいるくらい、ブランド化していたようです。それに目をつけ、この粗悪なジュエリー含めアールヌーヴォーを日本人が大喜びで買い漁った時代がありました。現代でもよく理解もせずにヌーヴォーヌーヴォー持て囃す方が少なくありませんが、感覚的に見てこれらの作品は全く良さが理解できませんでした。HERITAGEのカタログをご覧になって下さる方も、私と同じような感覚の方のほうが多いのではないかと思います。 類は友を呼ぶと言うか、素晴らしい物は素晴らしい人とのご縁をつなぐというか、人と物は同格のものが呼び合うということでしょうか。ベルエポックのフランス同様、高度経済成長で活気に湧く日本の勃興してきた芸術的には教養も感性もない中産階級の女性が、メディアや雑誌、業界のPRと宣伝文句に踊らされたということでしょう。 |
【参考】安物のアールヌーヴォー・ジュエリー | ウジャウジャと増殖し、100年以上の時をも超えてやってくるこの異様なまでのしつこさと気合いと根性には、ある意味感服です。 参りましたー!!(笑) |
アールヌーヴォー期のイギリス
イギリス王エドワード7世(1901年)と王妃アレクサンドラ(1905年) |
アールヌーヴォーが流行し始めた19世紀後期、既にイギリスのファッションリーダーは可愛らしいおばあちゃんのヴィクトリア女王ではなく、皇太子バーティ夫妻です。男の憧れ、ダンディと言えばこのエドワード7世(愛称バーティ)ですね。在位期間は1901-1910年と短いですが、若い頃からフランスでファッションやジュエリーを買い漁って宝石王子とまで呼ばれた、文化面でも強く貢献している人物です。 美しき王妃アレクサンドラも今回は詳細は割愛しますが、もちろんファッションリーダーです。それにしても戴冠後の王と王妃の肖像画は「父と娘?」と思うくらいアレクサンドラが若く見えるので、盛っているのかと思ったら盛っていませんでした。 |
イギリス王妃アレクサンドラと王エドワード7世 | 年が離れた夫婦かと思いましたが、エドワード7世は1841年、アレクサンドラは1844年生まれで3歳しか離れていません。 上のポートレートが描かれた時にアレクサンドラは61歳で、左の写真もそのくらいの年齢のはずです。 年齢不詳ですし美人ですし、教養深い王妃の貫禄はエドワーディアンの洗練されたファッションとジュエリーが実によくお似合いだったでしょうね。 |
壁紙デザイン『トレリス』(ウィリアム・モリス 1862年) | この時期、フランスでは『アールヌーヴォー』が大流行しましたが、イギリスでは流行していません。 それが当然であることは、ここまでの歴史的背景を見ればあきらかですね。 自然界の動植物を描いたり、曲線などデザイン性を追求するアーツ&クラフツが元となっているアールヌーヴォーは、当時のイギリス人にとっては目新しいものではないのです。 |
フランスのアールヌーヴォーはイギリス人の感覚からすると既に時代遅れの様式ですし、巨匠が魂を込めて制作した素晴らしい作品ならばまだしも、フランスの知的階層すらも嫌悪する気持ち悪い大衆向け顔面ジュエリーのようなものは、イギリスの王侯貴族や知的階層が受け入れられるわけがないのです。 |
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ウィリアム・モリスによる美しい装飾の書籍 |
アールヌーヴォー期の欧米の芸術文化
アールヌーヴォーの時代に、各国で同じような系統の装飾美術様式が流行していますが、各国によって名称が異なります。 アメリカではルイス・カムフォート・ティファニーの名をとって『ティファニー』、ドイツでは雑誌『ユーゲント』から『ユーゲント・シュティール』、オーストリアでは『セセッション(ウィーン分離派)』、ロシアでは『スティル・モデルヌ』、イギリスでは『モダン・スタイル』と呼ばれます。 |
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雑誌『ユーゲント』表紙(1896年) |
セセッション館(分離派会館)(1897-1898年) "Secession Vienna June 2006 005" ©Gryffindor(June 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
オーストリアのセセッションについては『REBIRTH』でもご紹介していますが、 みなさんがイメージされるアールヌーヴォーとは雰囲気が違うと思います。 左は1898年に建築家ヨゼフ・マリア・オルブリッヒの設計により建てられた、展示会のためのセセッション館です。 セセッション館の設計には、セセッションの思想が象徴されています。 |
ウィリアム・モリスのカーペット(1889年) | フランスのアールヌーヴォーが世界に波及したのではなく、イギリスのアーツ&クラフツが世界に普及し、それが各国で独自に進化したり、影響をし合いながら花開いたのがこの時代の芸術文化なのです。 |
ウィーン工房のショールーム "Wiener Werkstatte Laden" ©ingen uppgift(1920)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
セセッションに参加していたヨーゼフ・ホフマンとモーザーが1903年に設立したウィーン工房が住宅、インテリア、家具をはじめ、宝飾品からドレス、日用品、本野装幀など生活全般に関わる様々な分野でのデザインを目指したのも、生活全般のトータルデザインを提唱したウィリアム・モリスのアーツ&クラフツの影響です。 |
ストックレー邸のクリムトによる装飾 | セセッションを結成したクリムトやホフマンは、工芸品まで含めた総合芸術を目指しましたが、それが商業を排除して純粋芸術を目指したい一派と対立し、セセッションとしての活動はわずか8年のいう短命に終わるのでした。 生活の細部に至るまで芸術を行き届かせたい。クリムトやホフマンが目指したのもウィリアム・モリスと同じ方向ですね。 それが実現されたストックレー邸は世界遺産にも登録されていますが、実現には途方もないお金がないと無理ですね。ここでも理想と現実が対立します・・。 |
イギリスの『モダンスタイル』
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928年) | さて、新しいスタイルを作り出したのがチャールズ・レニー・マッキントッシュがスコットランドの産業都市グラスゴーで結成した19世紀末芸術家集団『The Four(4人組)』です。 彼らが提唱した様式は、総じてグラスゴー派とも呼ばれます。 マッキントッシュは1889年、16歳でグラスゴーの建築家ジョン・ハッチソンに弟子入りし、同時にグラスゴー美術学校の夜間部にデザインとアートの勉強で入学し、ザ・フォーの仲間と出会っています。 |
グラスゴー美術学校(マッキントッシュのデザイン 1895年、完成は1899年) 'Glasgow Scool of Art' JBU 002" ©Jörg Bittner Unna(20 July 2009, 12:30:40)/Adapted/CC BY 3.0 |
マッキントッシュは在学中に多くの学校賞を受賞し、結成されたザ・フォーはグラスゴー、ロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開いて名声を確立させるなど、早熟の天才でした。 27歳の若さで母校グラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペにも優勝しました。コンペが開催されたのは1895年ですが、直線と曲線を使った計算されたデザインが今でも新しさを感じさせます。 |
ブキャナン通りのティールームのためにマッキントッシュがデザインしたフリーズ | マッキントッシュは建築家であるだけでなく、デザイナーや画家でもありました。 アート・ティールームのトータルデザインも手がけています。 左の作品は、ブキャナン通りのティールームのためにマッキントッシュがデザインしたフリーズです。 グラスゴーに住む茶の商人の娘であり、事業家でもあったミス・クライトンと出会ったマッキントッシュは、ミス・クライトンが思いついた『アート・ティールムズ』シリーズを手がけることになったのです。 世紀の変わり目、グラスゴーでは禁酒運動が非常に人気でした。1つの建物の中の様々な異なる『部屋』でリラックスしたり、アルコールを含まない食事を楽しんだりするために人々が集まることのできる場所として提供されるのが、アート・ティールムズです。 |
ウィロー・ティールームズ(1903年頃) | 19世紀末と20世紀初めにオープンした多くのグラスゴーのティールームの中で最も有名なのが、このウィロー・ティールームズです。 1903年10月にオープンし、瞬く間に多大な人気を得ました。 外観もさることながら、内装をご覧いただくと納得いただけると思います。 |
ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年) "Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
アールデコより遙か昔、1903年にデザインされたとは思えない先進的なデザインですね。形状、色使い、この未来的な感覚は私も大好きで欲しいくらいです。 優れたデザイナーが建築の外装、内装をトータルでデザインするというのは、本人にとっても、その作品を見る人にとってもワクワクする面白いことですね。 |
『芸術愛好家のための音楽室』のデザイン(マッキントッシュ夫妻 1901年) |
女性のためには明るく、男性のためには暗くなど、様々な部屋の内装には各種テーマがありました。これはティールームではなく音楽室のデザイン画ですが、ガラリと雰囲気が違っています。 |
『芸術愛好家のための音楽室』のデザインの再現(マッキントッシュ夫妻 1901年) "Music room house for an art lover" ©marsroverdriver(20 December 2011)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
ティールームズでは美味しいアフタヌーン・ティーだけでなく、オシャレな空間も十分に楽しむことができたでしょう。味覚と嗅覚だけでなく、視覚でも楽しむことができるアート・ティールームは、現代人でも憧れるクォリティですね。 |
グラスゴー派の進化
『中秋の名月』(マッキントッシュ作 1892年) | 実は最初からグラスゴー派のデザインが直線的だったり幾何学的なスタイルだったわけではありません。 初期は中世のロマンに憧れをいただくウィリアム・モリスのアーツ&クラフツの影響下、故郷のスコットランドの伝統である古代ケルト美術の造形美などを取り入れた幻想的な曲線装飾が特徴でした。 |
雑誌のポスター(チャールズ・レニー・マッキントッシュ 1896年) 【引用】MoMA ©Acquired by exchange from the University of Grasgow / The Museum of Modern Art |
このスタイルの評判は当時散々なもので、特に1896年のアーツ&クラフツ展では主催者から「奇妙な装飾の病」と非難され、以後の出品が禁止されてしまったそうです。 しかしながら1893年創刊の美術工芸誌『STUDIO』だけはグラスゴー派を評価し、その活動を大きく取り上げました。 |
『The Wassail』(マッキントッシュ 1900年)ケルビングローブ美術館 |
国際的な知名度を持っていたSTUDIOが連載特集を組んだグラスゴー派の作品記事をセセッションが読み、デザインを称賛しました。その結果、グラスゴー派はウィーンで名声を得ることとなりました。マッキントッシュは1900年の第8回分離派展に招待されて出展し、セセッションのヨーゼフ・ホフマンたちとも交流しています。 |
当初曲線的だったマッキントッシュのデザインは、どんどん洗練されていきました。 |
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マッキントッシュの作品(1901年) |
ヒルハウス・ラダーバック・チェア(マッキントッシュのデザイン 1902年) " National Museum of Ethnology, Osaka - Chair "Ladder-back chair" - Glasgow in United Kingdom - Made by Charles Rennie Mackintosh in 2006 (originally 1903) " ©Yanajin33(22 December 2013, 13:41:19)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
マッキントッシュのデザインで特に有名なのが、ヒルハウスのためにデザインされたこのラダーバック・チェアです。 時代を超越したデザインは現代でも人気です。 |
ウィロー・チェア(マッキントッシュのデザイン 1904年) "Chair from Inception" ©Shannon Hobbs from New York, Noew York, USA(15 August 2011, 13:28)/Adapted/CC BY-SA 2.0 | 一目見たら忘れない、ウィロー・チェアも結構有名ですね。 2010年の映画『インセプション』の撮影にも使われており、これがその椅子です。 フランスでアールヌーヴォーの曲線だらけのデザインが席巻していた時代、既にイギリスではグラスゴー派を中心に、次のアールデコへと続く直線的かつスタイリッシュなデザインへと進んでいたのです。 |
『REBIRTH』 セセッション(ウィーン分離派) ネックレス オーストリア 1905年〜1910年頃 SOLD |
セセッションは当初は曲線を使うアールヌーヴォー様式の風合いが強かったのですが、マッキントッシュが参加した1900年の第8回セセッション展以降、直線や幾何学的な模様を多様する方向にシフトしていきます。 これはマッキントッシュの影響が少なくなかったとものと推測されます。 曲線でありながらも極度に洗練された左のセセッションの『REBIRTH』も、同時代のフランスのアールヌーヴォーの雰囲気は微塵も感じられませんが、マッキントッシュの時代を超越した椅子のデザインに通じるスタイリッシュさを感じます。 |
セセッション館に飾られた植木鉢 "Secession Vienna June 2006 014" ©Gryffindor(June 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
初期のマッキントッシュは古代ケルト美術の様式も取り入れており、この渦巻き模様もその影響なのかもしれません。 |
プルカースドルフのサナトリウムの内装(ウィーン工房 1904年) "Purkersdorf Sanatorium Eingangshalle 3" ©Thomas Ledl(23 September 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 AT |
これはウィーン工房の代表的な作品の1つとされる、プルカースドルフのサナトリウムの内装です。 マッキントッシュのラダーバック・チェアが1902年ですが、マッキントッシュの直線や幾何学を利用したデザインの影響が見えますね。 |
プルカースドルフのサナトリウムの内装(ウィーン工房 1904年) "Purkersdorf Sanatorium Gallerie 1" ©Thomas Ledl(23 September 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 AT |
セセッションはアールデコの時代を20年も先取りしているとも表現されますが、そこにはマッキントッシュという一人のイギリスの天才の存在が間違いなく大きかったはずです。 |
時代を超越した計算されたデザイン
前置きが超長くなりましたが、ここまでの流れを理解すると、 19世紀後期から20世紀初期にかけてはヨーロッパ=アールヌーヴォーというイメージがあったこの時代に、イギリスで時代を先取りした素晴らしいデザインが存在したことは、どなたも違和感はないと思います。 |
中央部から左右に伸びる僅かに曲線を帯びた美しく洗練されたラインは、太さを変えて奇麗な曲面に仕上げてあります。フランスのアールヌーヴォーの退廃的なデザインとは真逆の、新しい時代への明るい未来を想像させるパワーあふれる斬新なイメージです。 |
さらにこの作品は二次元的な造形の美しさだけでなく、立体的にも計算されて丁寧に作られています。ラインが交差する部分を見れば、このブローチが如何に立体感を意識して作れら物かが良く分かります。奥行を感じさせるために、単なる二次元的なデザインだけでなく、ブローチの構造上問題のない範囲で実際に段差をつけた構造で作られています。 |
下に下がった2本のダイヤモンドのフリンジにも、立体的な配慮がなされています。それぞれのフリンジの長さが異なるアシメトリーなデザイン自体が面白いのですが、横から見ると一番下の大きなダイヤモンドとその上の小さなローズカットダイヤモンドの面位置が異なることが分かると思います。 正面から見たときに、大きなダイヤモンドは手前側になることでより印象深く、小さなダイヤモンドは奥から光りを放つことで脇石として奥ゆかしく輝くようになっているのです。このブローチは15ctではなく18ctで、イギリスのゴールドジュエリーの中でも特にハイクラスの作品である証なのですが、18ctの金無垢をこれだけ厚く使っているのがこれまた贅沢な印象です。 |
計算されたダイヤモンド使い
左右の先端に小さなローズカット・ダイヤモンドが三個づつセットするという、デザイン上の配慮も特別なオーダージュエリーらしさを感じます。 |
この作品はかなりのお金をかけて作られているので、左右の端は大きなダイヤモンド1つをセットすることも可能だったはずです。 でも、そうするとブローチを見たときのポイントがブレてしまいます。 一番上の大きなダイヤモンドと、一番したに下がった揺れる2つのダイヤモンド、そして全体の造形美を強調するために、あえてこの部分は小さく多く煌めくようなデザインにしたのです。 |
トップの大きなダイヤモンドはオールドヨーロピアンカットですが、19世紀のダイヤモンドのカットとしては第一級の素晴らしいカットです。 ダイヤモンドのカット方については『財宝の守り神』でもご説明していますが、この時代はまだ電動のダイヤモンドソウが発明されておらず、劈開性を無視した自由なカットはできませんでした。 高度な技術を持つ職人によって時間をかけて丁寧に手作業でカットされた極上のカットのダイヤモンドは、ダイナミックなシンチレーションとファイアが実に素晴らしく、現代のダイヤモンドとは比較にならない魅力があります。 |
一番下も、ゴールドによる色の反映など微塵も感じられない、クリアで極上のオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドが使われています。 |
ローズカットの脇石が惹き立てる中、ユラユラとこの極上のダイヤモンドが揺れて煌めく姿は実に印象的で美しいです。ローズカットダイヤモンドは沈めたセッティング、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドは高さを出すセッティング。 当時の王侯貴族によって特別にオーダーされた、お金に糸目をつけないハイクラスのアンティークジュエリーだからこそ可能なデザインと作りなのです。王侯貴族は芸術家のパトロンでもあります。グラスゴー派の直線的なスタイルが浸透して、イギリスでは洗練されたエドワーディアンからさらにシャープなアールデコへと移行するわけですが、先進的な感覚を持ちこのようなスタイルを理解できる王侯貴族が優れた才能を持つ職人に特別にオーダーして作られた作品だと言えます。 |
特別なミル・ワーク
ローズカット・ダイヤモンドがセットされている縁にミルが打たれていますが、このミルの形態は今まで見たことのない珍しいものです。すべてのフレームにミルを打っているわけではないこともポイントです。ミルの繊細な印象と、ミルのないフレームのシャープな印象のコントラストが、全体として躍動感あるスタイリッシュな雰囲気を醸し出す役割を果たしています。技術的には可能だったはずですが、すべてにミルが打たれていたら野暮ったくなっていたでしょう。 |
ハイクラス・ジュエリーの証
小さなローズカット・ダイヤモンドの裏は窓を開けてありますが、この窓の丁寧な開け方がハイクラスのジュエリーの証なのです。 |
ヴィクトリアンのジュエリーも後期になると洗練された作品は出てきますが、グラスゴー派の影響が明らかなここまで時代を超越した作品はオーストリアのセセッション以上に見ることがありません。ザ・フォーが4人だけの芸術家集団だったこと、マッキントッシュが早熟の天才すぎて時代が追いつききれなかったこともあると思います。 それに加えてゴールドだけを使うダイヤモンドジュエリーというのは、リングならばまだしもブローチでは本当に稀少です。 グラスゴー派はアールデコ以上に先進的で時代を超越したデザインを感じます。さらに変色しない金無垢とクリアなダイヤモンドで作られているので、時の経過による劣化などの古さも感じられず、何とも不思議な感覚のブローチです♪♪ |