No.00236 ディアナ

古代ローマの女神ディアナのガーネット・インタリオ・リング

この指輪は古代ローマのすべてオリジナルの貴重な指輪です。

 

古代ローマ インタリオ リング 

『ディアナ』
古代ローマ インタリオ・リング

古代ローマ 1世紀〜2世紀
ガーネット、約22ctゴールド
SOLD

カボションカットされたガーネットの曲面に古代ローマの狩猟や月の女神ディアナを彫った、オールオリジナルの貴重なインタリオリングです。
私が初めて買い付けた古代の作品ですが、GENが待ちきれずにたまたまいらして下さった常連のお客様にお見せしてしまい、カタログ掲載前にSOLDとなってしまいました。でも、そんな記念すべき作品に相応しいカタログを全力で作ったので、ぜひご一読くださいませ。

 

古代からアンティークジュエリーの世界までのつながり

古代ローマ インタリオ リング 

アンティークジュエリー同様、古代のジュエリーについても日本で専門的にご紹介を始めたのはGenが最初です。

アンティークジュエリーと古代ジュエリーは独立した存在ではありません。

ヨーロッパの歴史は有史以前の太古の時代から脈々と繋がっており、人類の営みの積み重ねで今があるからです。

-古代ローマに吸収された古代エトルリア-

白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)とカンティーユのピアスピエトラドュラ ピアス
イタリア 1830年〜1840年
SOLD
白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)のアンティーク・バングルピエトラドュラ バングル
イタリア 1860年頃
SOLD

アンティークジュエリーと言えば、イギリスやフランスを思い浮かべる方の方が多いでしょうか。

上の2つはまだサラリーマンだった私が、ルネサンスで初めて『本物』かつ価値ある『宝物』と感じることができるアンティークジュエリーに出逢い、惚れ込んで購入した宝物です。現代ジュエリーやヴィンテージ、ジャンク・アンティークジュエリーしか見たことがなかった頃はジュエリーを着けること自体に興味がなく、着けるつもりではなく見て愛でるためだけに買いました(笑)

ちなみに、どちらもイタリアのピエトラデュラと素晴らしい金細工のアンティークジュエリーです。

『シレヌスの顔のついたネックレス』(エトルリア 紀元前6-紀元前5世紀)国立博物館(ナポリ)
【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.54

初めて訪れたルネサンスのアトリエで、勉強家でアンティークジュエリーに人生の全ての情熱を注ぐGENから見せてもらったのがとある書籍の1つのページでした。古代エトルリアで作られた金細工の中でも最高傑作と言えるゴールドだけのネックレスです。

【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.27

背景の布の繊維並みに細く編まれた金線、粉とでも表現すべきあり得ない大きさの粒金で表現されたシレノスの頭部やドングリの笠など、初めて見た私は大変な衝撃を受けました。到底人間技とは思えない作品、それが紀元前5〜6世紀には作られていたという、私の頭の中で様々な『常識』が破壊・再構築され始めた『始まりの瞬間』でした。

イタリア半島におけるエトルリアの領域(濃い草色:紀元前750年、薄い草色:紀元前750-紀元前500年にかけての拡張、二重丸:12の都市国家)
"Etruscan civilization map" ©NormanEinstein(26 July 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

古代エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群です。

エトルリア美術はヨーロッパでも昔から高く評価されているのですが、そんな知識がなくとも脳の奥深くに訴えてくるエトルリア美術は、アンティークジュエリー・ディーラーの私にとっては原点とも言える存在です。

ドラゴンが宝箱を守るジョージアンのヴィネグレット・ペンダント
『トレジャーボックス』
ドラゴンのヴィネグレット

イギリス? 19世紀初期
SOLD

上杉藩の城下町だった米沢で骨董屋の三代目として優れた骨董品に囲まれて育ったGENは、「アンティークジュエリーの真の価値を本当に理解するには、本当に優れたものを厳選して見なければ駄目。数を見れば良いというわけではない。駄目な物をいくら見ても感性は育たないし目が腐るだけ。」と言っていました。

GENにはこういう思想があるからこそ、ルネサンスの宝箱から惜しげもなく美しい宝物の数々を見せてくれていたのです。今ほどインターネットや画像を撮影する環境が整っていない時代からHP作成に力をいれていたのも、その一環です。

Regolini-Galassiの墓の広間(紀元前7世紀)のスケッチ

当時はサラリーマンを辞めてヘリテイジを作るなんて想像もしていませんでしたが、ぜひ『シレヌスの顔のついたネックレス』の実物を見たいと思いました。

そんな私に、ぜひイタリアに言って実物を見るべきとGENは言いました。

ヨーロッパには一度も訪れたことがなかった上に、それまで全く興味を持っていなかったのですが、絶対にイタリアに行ってみたいと思ったのでした。

イギリスのロスチャイルドの邸宅初ヨーロッパのイギリスにてロスチャイルドの城(フォト日記より)

イタリアに行かないうちにアンティークジュエリー・ディーラーになってしまったので、仕事として先にイギリスに行くことになりました。

古代エトルリアの墳墓
" Etruscan Tombs at Orvieto (III) (4911116296) " ©Institute for the Study of the Ancient World from New York, United States of Amerika(20 February 1998 ,00:00)/Adapted/CC BY 2.0

でも、古代のジュエリーとアンティークジュエリーのどちらも扱う上で外せないのがイタリアなのです。

圧倒的に優れた美術や文化を誇った古代エトルリア人たちでしたが、紀元前4世紀頃から古代ローマの勢力が強くなると、周縁の都市から順に少しずつローマに併合され、最終的には完全にローマに同化してしまいました。

夫婦のサルコファガス(古代エトルリア 紀元前520年頃)ルーブル美術館
"Louvre, sarcofago degli sposi 00" ©sailko(5 December 2013)/Adapted/CC BY-SA 3.0

古くから古代エトルリア人はその裕福さで知られていました。宴会と音楽を好み、贅沢を愛し、しかし極めて信心深いとされていたようです。古代ギリシャや古代ローマは女性の地位がかなり低かったのですが、エトルリアの社会では女性の地位が高かったことも特徴です。上のように男女が仲良く寄り添う石棺も多く存在し、夫婦は一夫一婦制だったと考えられています。

テラコッタの石棺(古代エトルリア 紀元前150-120年頃)
"Terracotta sarcophagus in shape of an etruscan woman" ©Thomas Ihle(12 June 2004)/Adapted/CC BY-SA 3.0

古代エトルリアについてはあまり分かっていません。

どこからかやって来て、いつの間にか歴史から消えていった謎の優れた古代民族とも言われています。

テラコッタの女性像(古代エトルリア 紀元前4世紀後期-紀元前3世紀初期) メトロポリタン美術館
"Femme étrusque (Terracotta) " ©AlkakiSoaps(5 August 2011)/Adapted/CC BY 2.0

温厚なエトルリア人が野蛮なローマ人によって征服され取り込まれた後、紀元前87年ユーリウス法でエトルリア人もローマ市民権を得ることになりました。

エトルリアは高度な文字文化を持っていましたが、それらは文献としては残っていません。

エトルリアを吸収したローマの体制側が、意図して隠滅したり歴史を歪めたりしたというのが通説です。

このため、今なお研究がなかなか進まない謎の文明となってしまっているのです。

ただ、その後のローマの発展に、エトルリアの芸術や技術が大きな影響を及ぼしていることは間違いありません。

テラコッタの石棺(古代エトルリア 紀元前150-紀元前130年頃)大英博物館
"British Museum Etruscan 8-2" ©Ophelia.summers(28 March 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ゴールドのジュエリーで身を飾り、本のような物を眺める女性の石棺も残されています。高度な文字文明が存在し、女性の地位も高かった表れですね。テラコッタで表現された布地のドレープも美しく、芸術・文化ともに豊かな人たちだったことが伺えます。

-世界の文化の中心地の変遷-

古代ローマの120年頃の領土"Roman Empire 120" ©Andrei nacu(5 May 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

古代エトルリア、古代ギリシャ、古代エジプトなど様々な文化を吸収しパクス・ロマーナを築いた古代ローマですが、栄枯盛衰、やがて滅びます。4世紀末にローマ帝国が滅亡した後、ヨーロッパは長い暗黒時代に突入します。

ササン朝ペルシャ(226-651年)の620年頃の最大領土
"Sasanian Empire 621 A.D" ©Keeby101(19 March 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0

『太陽の使い』でも触れたとおり、この時に世界で最も栄えていたのがペルシャでした。

アレキサンダー大王とペルシャ王女スタテイラの結婚式(19世紀後期)

ペルシャはアケメネス朝の時に、ギリシャのアレキサンダー大王に一度滅ぼされました。その後ペルシャ文明とギリシャ文明が融合し、世界でも稀にみる高水準の文化『ヘレニズム』が生まれました。

ササン朝ペルシャの美術工芸品
PD『シームルグ』絹織物(6-7世紀頃) 『シームルグ』シルバープレート(7-8世紀)"Sassanid silver plate by Nickmard Khoey" ©Nickmard Khoey(18 Sptember 2008)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ササンガラス(6世紀)大英博物館 "Sasanian glass british museum6th century" ©Geni(August 2008)/Adapted/CC BY-SA 4.0

さらにローマやアジア圏の文化などとも融合しながら、世界的レベルにまで昇華したのが後のササン朝ペルシャの芸術文化なのです。日本に伝わったササン朝ペルシャの美術工芸品も正倉院に収められています。

-文化の中心地の変遷へのキリスト教の影響-

<ローマ帝国内でのキリスト教の成立>

『イエスと洗礼者ヨハネ』(ヴォイチェフ・ゲルソン 1879年)

実はこの文化の中心地の移り変わりにはキリスト教が大きく影響しています。

ディエゴ・ベラスケス画「イエス・キリストの死」イエス・キリストの死(ディエゴ・ベラスケス 1632年頃)プラド美術館

キリスト教については『蝶と幼虫』で詳しくご説明していますが、紀元前6年から紀元前4年頃の間にナザレ(もしくはベツレヘム)で誕生したイエスが、十字架への張り付けによる肉体の死の後、死から復活したという奇跡を示したことで始まりました。

<ローマ帝国でのキリスト教の普及>

ルネサンスのベンヴェヌート・ティシ画「キリストの昇天」キリストの昇天(ベンヴェヌート・ティシ 1510-1520年頃)GNAA蔵

肉体の死から復活して40日後に、キリストは再び父なる神の元に戻りました。

このため、その後の布教活動はイエスの弟子たちによって行われています。

ラファエロの「アテネで説教する聖パウロ」『アテネで説教する聖パウロ』(ラファエロ・サンティ 1515年)V&A美術館 Public Domain

古代ローマの属州キリキア(トルコ中南部)生まれでローマ市民権も持っていたユダヤ人パウロ(5?-67年?)も、初めはイエスの信徒を迫害していましたが、奇跡を目の当たりにして回心し、熱心に布教活動を行いました。パウロらの伝道によって、イエスの死から20年あまりでローマ帝国の各都市に『キリスト教徒』のコミュニティが生まれています。

アレクサンドリアとイエス・キリストの活動エリアの位置関係を表した地図アレクサンドリア(赤)とイエス・キリスト(青)の活動エリアの位置関係 ©google map

1世紀のうちには首都ローマを初め、エジプトのアレクサンドリアにも到達したと考えられています。

64年7月18日のローマ大火『64年7月18日のローマ大火』(ユベール・ロベール 1733-1808年)マルロー美術館

途中、64年のローマ大火の放火犯として皇帝ネロにキリスト教の一般信徒が多数処刑されました。

帝政期に入り、首都ローマは人口100万人を抱える大都市に変貌していましたが、建築物の多くが木造で道幅が狭かったこと、人口増加の密集などが災いして数日鎮火しないほどの大火災が幾度も発生していました。64年の大火はその中でも最大規模の惨事で、完全に鎮火するまで6日7晩かかっています。

明暦の大火を描いた田代幸春の江戸火事図鑑『江戸火事図鑑』1657年の明暦の大火(田代幸春 1814年)江戸東京博物館

こんな話を聞くと日本では江戸を連想してしまいますね。「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉があり、現代では『火災都市』と呼ばれるほど江戸は大火が頻発していました。人口密集地、木造長屋じゃ当然ですね。大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は世界でも類例がないとされています。

上は1657年の3月2日から4日までに江戸の大半を焼いた『明暦の大火』、別名『振袖火事』です。江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を消失し、死者数は最大10万人とも言われる日本史上最大の火災です。この明暦の大火、ローマ大火、そしてイギリスのロンドン大火が世界三大火事と言われています。

1666年のロンドン大火1666年のロンドン大火(作者不明 1675年)ロンドン博物館

イギリスでは1666年、4日間に渡る『ロンドン大火』によって中世都市ロンドンが消失しています。この頃のロンドン市内はやはり家屋のほとんどが木造で、街路も狭かったそうです。火災により、市内の家屋のおよそ85%(1万3200戸)が消失しました。意外にも記録された死者数は5名だけでしたが、燃え上がる火を前に市民はなすすべもなかったようです。

江戸は明暦の大火後も何度も大規模火災が発生していますが、国民性の違いをまざまざと感じるのが大火後の対策です。イギリスではその後、木造建築の禁止や道路の幅員についての規定などの建築規制が布かれ、世界初の火災保険も生まれました。失敗に対する的確な分析や対応力の凄さ、これぞ大英帝国の凄さと言えそうです。

ローマ帝国第5代皇帝ネロ(37-68年)
"Nero pushkin" ©shakko(November 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

明暦の大火は護摩供養中の振袖からの引火(諸説あり)、ロンドン大火はパン屋のかまどからの出火とされています。

ローマ大火はキリスト教徒の放火とされてしましたが、キリスト教徒の迫害が目的で処刑したわけではなかったようです。

この大火で多数のキリスト教徒が処刑された以降、迫害が続いたわけではなく、ローマ教会は放火事件以降も以前のように礼拝を続けました。

<ローマ帝国でのキリスト教の公認>

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:西方副帝306-312年、西方正帝312-324年、全ローマ皇帝:324-337年)" 0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (1) " ©Jean-Pol GRANDMONT(07:39, 24 April 2013)/Adapted/CC BY 3.0 ローマ皇帝リキニウス(在位:東方正帝308-324年)
"Licinius" ©Diet Coke Diego(23:28, 11 August 2020)/Adapted/CC BY 4.0

キリスト教は徐々に信徒を増やしていき、2世紀末にはローマ帝国全土に教線を拡大していました。一方でローマ帝国は拡大し過ぎた領土の隅々まで、強力な皇帝による支配力を維持することが困難になり始めました。東と西で統治したり、再び統一されたり帝国内は不安定化していきました。そんな中、東西で共同統治していたローマ皇帝のコンスタンティヌス1世とリキニウスが、313年に共同でミラノ勅令を公布し、キリスト教が公認されました。

<ローマ帝国でのキリスト教の国教化>

ローマ皇帝テオドシウス1世(在位379-395年)
"Theodosius I. Roman Coin" ©Michail Jungierek Finanzer/Adapted/CC BY-SA 3.0

キリスト教の影響力は増大し続け、ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、テシオドス1世治世下の392年に国教に定められました。

テシオドス1世はわずか4ヶ月ではあったものの、東西に分裂していたローマ帝国を実質的に1人で支配した最後の皇帝です。

ウェスタ神殿 "Rom vesta temple" ©Tobias Helfrich(11 September 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.5

古代ローマはローマ神話からも分かる通り、多神教でした。

しかしながらキリスト教が国教化されたことで異教は禁止され、古代ローマの神々も否定されることになりました。

かつてローマの永続と安定の象徴とされ、ローマ建国期から火を絶やすことのなかなったウェスタ神殿のウェスタの聖なる炎も394年に消されてしまいました。

<異教徒の迫害>

東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(483-565年)Public Domain

テオドシウス1世の死後、ローマは東西分裂統治となりました。

西ローマ帝国はゲルマン人の侵攻に耐えきれず、5世紀中に消滅してしまいます。

一方でビザンティン帝国と呼称される東ローマ帝国は395-1453年続くことになります。

東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、帝国の統一は宗教の統一が100%前提だという信念がありました。

十字架をかざすユスティニアヌス1世のコイン(483-565年)"Half follis-Justinian I-sb0165" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com/Adapted/CC BY-SA 3.0

専制君主として多神教ではなく唯一神だけを尊ぶキリスト教を統治の理念とし、私生活での祭儀を含めて法令で多神教は完全に禁止され、条文は熱心に実行されました。

上流階級の人々も含めて厳しい迫害が行われました。

タハルカ王を守護するアメン(紀元前683年頃)大英博物館 Public Domain

リビア砂漠のアウギリアではアメン神崇拝が廃止されました。

女神イシスの大理石像(古代ローマ 117-138年:シストラムと水差しは17世紀に追加)カピトリーノ美術館 Public Domain

ナイル川のフィラエ島に残っていたイシス神崇拝にも迫害が及びました。

【世界遺産】フィラエ神殿(イシス神殿) "Philae Temple R03" ©Marc Ryckaert(MJJR)(13 March 2012)/Adapted/CC BY 3.0

フィラエ島の現存するイシス神殿は古代エジプトのプトレマイオス朝時代に建設され、その後ローマ時代に渡って増築が行われたものです。

元々4世紀末にテオドシウス1世が帝国内のすべての古代神殿を閉鎖しようとしたとき、イシス神殿は抵抗を続け、条約が締結されて守られ、周辺地域の宗教的自由が保障されていました。ユスティニアヌス1世は550年にこのイシス神殿を閉鎖し、閉鎖後は4つのキリスト教会として再利用されることになりました。

晩年のユスティニアヌス1世(483-565年)"Mosaic of Justinian I - Sant'Apolinare Nuovo - Ravenna 2016" © José Luiz Bernardes Ribeiro (18 September 2016)/Adapted/CC BY-SA 4.0

ユダヤ人は市民権を制限され、反抗的な者は肉体的な処罰や追放、財産の没収などが行われました。

改宗に抵抗したサマリア人は暴動を繰り返し続けました。

マニ教徒も少なくない数の信者が皇帝の御前で火刑や水責めなどで処刑されるなど、厳しい迫害を受けました。

これら積極的な弾圧により、小アジアだけで7万人の多神教徒が改宗したと言われています。

プラトン(紀元前427-紀元前347年)

ユスティニアヌス1世が行った中で最も有名なのが、529年のアカデミアの閉鎖という、ヘレニズム教育機関の事実上の閉鎖事件でした。

アカデミアはソクラテスの弟子にしてアリストテレスの師に当たる、古代ギリシャの哲学者プラトンが紀元前387年にアテネに開設した学園です。

916年。千年近い歴史があった偉大なる学園でした。

プラトン時代のアカデミアを描いたモザイク(古代ローマ 1世紀) Public Domain

アカデミアでは算術、幾何学、天文学等を学び、一定の予備的訓練を経てから理想的な統治者が受けるべき哲学を教授していました。

特に幾何学は、感覚ではなく思惟によって知ることを訓練するために必須不可欠のものと位置づけられ、学園入口の門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」との額が掲げられていたそうです。

アカデミアに通じるアテネの古代の道 "Athens - Ancient road to Academy 1" ©Tomisti(2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

2000年から6000年前が人間は最もIQが高かった可能性があると最近の研究では言われています。古代ギリシャあたりからそこら辺の人を現代に連れてきたら、ちょっとした話題になるくらいの頭の良さなのだそうです。

 
英雄アカデモスの聖林が囲む神域にあったアカデミア跡 "Athens Plato Academy Archaeological Site 2" ©Tomisti(2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

理系文系を分けて『理系人間』や『文系人間』を作るのはナンセンスだと私は思っているのですが、現代人は古代の人々に比べて全体として知能が低くなり、両方を統合的に学習するのが困難になったから無理矢理一方だけを学習しようとする流れが出てきたのかもしれませんね。決して、歴史の積み重ねや科学技術の進化によって学習すべき量が増えたからというだけではないように感じます。

知力は古代の人々より低いかもしれませんが、我々にはその賢い人々が積み上げてきた知と経験による蓄積があります。それらをありがたく受け取り、我々なりにさらに精進していけば良いのです。

<ローマからペルシャへの『知』の移動>

アテネのアカデミア(ラファエロ・サンティ 1511年)バチカン美術館 Public Domain

529年に東ローマ帝国のユスティニアヌス1世がアテネのアカデミアを閉鎖した結果、失業した学者が数多くササン朝ペルシャに移住しました。

古代エジプトファラオのプトレマイオス1世(紀元前367-紀元前282年) Public Domain by Marie-Lan Nguyen

実は古代ローマからササン朝ペルシャへの『知』の移動は、もう少し前の時代から始まっていました。

アレキサンダー大王が亡くなった後に、エジプトのファラオとなったプトレマイオス1世は首都アレキサンドリアの街作りを引き継ぎ、尽力しました。

古代ヘレニズム世界における学堂、学術研究所ムセイオンを建設し、付属機関として当時世界最大の図書館『アレクサンドリア図書館』も建設しました。

王の私財で万邦から英哲俊士が集められ、アレクサンドリアでは文献学を中心に天文学、物理学など学芸が大いに隆盛しました。

アレクサンドリア図書館の内部(想像図)

アレクサンドリア図書館は世界中の文献を収集することを目的に建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われています。

蔵書はパピルスの巻子本にして70万巻にも上ったとされます。

当然ながら世界各地から優秀な学者が集まり、アレクサンドリアは古代世界の学問の中心地として栄えました。

アレクサンドリア図書館に言及したラテン語の碑文(古代ローマ 56年)

アレクサンドリア図書館は書物の収集のために様々な手段を取り、そのためには万金が費やされていました。

世界中から集められた文学、地理学、数学、天文学、医学などあらゆる分野の書物はヘレニズム文化における学術研究に大きな役割を果たし、図書館で研究・発表された知識はその後の西洋科学の誕生に大きく貢献しています。

学術研究所ムセイオンとその付属機関アレクサンドリア大図書館ともに当初からプトレマイオス朝から手厚い保護を受けていましたが、同王朝滅亡後もローマ帝国から同様に手厚い保護を受けていました。

Wikipediaに史上初のテロリストと書かれていたマクシミリアン・ロベスピエール(1758-1794年)

しかしながら根拠を重要視する学術的思想と、根拠なく無条件に奇跡などを信じる宗教が相性が悪いのはご想像いただける通りです。

392年にテオドシウス1世によってキリスト教が国教化されキリスト教の勢いが増すと、アレキサンドリア図書館は継続的にキリスト教のテロによる攻撃を受けるようになります。

フランス革命でのロベスピエールが『史上初のテロリスト』なんて言われたりもしていますが、昔からテロによる破壊活動は行われていますし、イスラム原理主義に限った話でもありません。

テオドシウス1世の儀式用の銀皿(古代ローマ 388年頃)スペインで1847年に発見
"Disco de Teodosio" ©Angel M.Felicimo(1 April 2015)/Adapted/CC BY-SA 3.0

さて、391年にテオドシウス1世はアレクサンドリアのキリスト教司教テオフィロスの求めに応じ、非キリスト教の宗教施設や神殿を破壊する許可を与えました。これによって、キリスト教の暴徒がアレキサンドリア図書館も破壊するようになったのです。

ヒュパティア(350〜370年頃-415年)

アレクサンドリア図書館の最後の所長テオンには娘ヒュパティアがいました。

偉大なる数学者であるだけでなく博学で美しい女性哲学者とも言われ、400年頃には新プラトン主義哲学校の校長にもなっていました。

ヒュパティアの哲学は他の学校の教義よりもさらに学術的で、その関心のためか科学的であり、神秘主義を廃し妥協しない点からもかなりキリスト教徒から見ると異端な存在でした。

『ヒュパティア』(チャールズ・ウィリアム・ミッチェル画 1885年)

「考えるあなたの権利を保有して下さい。なぜなら、全く考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです。」

「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです。」

ヒュパティアのものとされるこれらの言動は当時のキリスト教徒を激怒させました。

ヒュパティアはキリスト教徒から、神に対する冒涜と同一視された"思想と学問"の象徴とされました。

『惨殺されるヒュパティア』(作者不明 1865年)

その結果発生したのが415年のキリスト教徒によるヒュパティアの惨殺事件でした。総司教キュリロスの下の修道士たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずり下ろし、教会に連れ込んだ後、むごい方法で惨殺したのでした。

ヒュパティアの無惨な死は、エジプトから多くの学者たちが亡命するきっかけにもなりました。キリスト教徒は図書館だけでなくムセイオンをも破壊し、古代の学問の中心地であったアレクサンドリアは凋落、ピタゴラスの誕生から脈々と続いてきた古代ギリシャの数学・科学・哲学の歴史は終焉することとなりました。

浄土宗開祖の法然(1133-112年) ローマ教皇レオ10世(1475-1521年)37歳頃 Public Domain

何事も始めた人は本当に人のためを想い、良かれと思って始めたのだと思うのですが、曲解されたり極端な思想で実践する人が現れて宗教が堕落する現象が起こるのも世の常ですね。

修行を積むお坊様だけでなく民衆も救われるように「仏様を想って念仏さえ唱えていれば良い。念仏を唱えれば浄土に行ける。」
→「念仏さえ唱えておけば何をやっても許される。」

救世主のナザレのイエス「父なる神の子イエスの教えを信じれば罪が許されて死後に復活し、永遠の命を得ることができる。」
→新たにルールを追加してもOK、やってはいけないなんて神も言ってないんだから。よし、「贖宥状(免罪符)を買いさえすれば罪が許される」というルールにして錬金術のごとくバンバン金儲けしよう!オレかしこい♪

ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:西方副帝306-312年、西方正帝312-324年、全ローマ皇帝:324-337年)
" 0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (1) " ©Jean-Pol GRANDMONT(07:39, 24 April 2013)/Adapted/CC BY 3.0

コンスタンティヌス帝らが313年にキリスト教を公認して以降、キリスト教はローマ帝国の統治システムと結合していきました。

異種の教義理解を容認しておくことは、統治システムの安定を揺るがすものと危険視されるようになっていきました。

それ以降、教義について異なる意見が提示された場合や意見の対立が起こった場合はしばしば教会会議や公会議によって討議・判断され、誤謬と見なされた説は『異端』として退けられました。

この過程によってキリスト教神学は徐々に理論化され、確立されていきました。

東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(483-565年) Public Domain

『正統』と『異端』はどう判断するのか?

一見真面目に宗教について検討を行っているように見えますが、その形式的な議論の裏には常に時の政治問題と権力者の意向が見え隠れしていました。

テオドシウス1世没後のローマ帝国の分裂(395年頃、赤:西ローマ帝国、紫:東ローマ帝国)
"Theodosius I's empire" ©Geuiwogbil at English Wikipedia(17 October 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

東西分裂後、東ローマ帝国は急速にギリシャ化が進み、520年代には既に文化的には別物と言えるくらい西ローマ帝国とは異なるものになっていました。

東ローマ帝国は現在のトルコ最大の都市イスタンブールの地を首都として、1453年にオスマン帝国から滅ぼされるまで存続しました。

476年に蛮族の指導者オドアケルに帝冠を渡す西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス

一方で西ローマ帝国は蛮族(主にゲルマン人)の侵攻に耐えることができず、476年に西ローマ皇帝は廃位となりました。

蛮族の指導者オドアケルはローマ皇帝にはならなかったのです。

オドアケルは元老院を通じて「もはや西ローマ帝国に皇帝は必要ない」とする勅書を東ローマ帝国のゼノンに送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を返上したのでした。

西ローマ皇帝の帝位請求者ユリウス・ネポス(430-480年) "Tremissis Julius Nepos-RIC 3221" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com/Adapted/CC BY-SA 3.0

4年後には西ローマ帝国の帝位請求者であったユリウス・ネポスが暗殺されました。

この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりと歴史的には見なされています。

古代ゲルマン系のゴート人に福音書を解説する4世紀のウルフィラ司教

以降、長きにわたってヨーロッパは『蛮族の住む地』となりました。

ヨーロッパにおいて、元のローマ人たちは中世までも古代ローマ式の文化と伝統を保存しました。

蛮族ももともとは一定の割合でキリスト教信者が存在しました。

587年のゲルマン系の西ゴート王国レカレド王の改宗

定住した蛮族たちも次第にカトリック教会に感化され、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用し、徐々に自らがローマの遺産の『真の相続者』という自意識を持つようになっていったのです。

西ローマ帝国の滅亡は中世ヨーロッパの暗黒時代の始まりとされ、ルネサンス期の見方では、古代ギリシャ・古代ローマの偉大な文化が衰退し、蛮族(主にゲルマン系)が支配する停滞した時代とされました。また、人文科学や芸術、政治においてもキリスト教カトリック的世界観の支配により停滞した時代と考えられました。

有能な学者たちは追い出すは、民衆を思考停止にさせることに全力を尽くすはでは、そりゃそうなりますね。

ホスロー2世時代のササン朝ペルシャ領土(620年)
"Sasanian Empire (greatest extent)" ©Ali Zifan(10 October 2015)/Adapted/CC BY-SA 4.0

さて、迫害された学者たちはキリスト教が国教となった同じローマ帝国領土内に逃れるわけにはいきません。

エジプトのアレキサンドリアからも、アテネのアカデミアからもたくさんの学者がササン朝ペルシャに亡命しました。

ペルシャ帝国君主ホスロー1世(在位531-579年) "KhosrauICoinHistoryofOran" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.sngcoins.com/Adapted/CC BY-SA 3.0

アテネのアカデミアが閉鎖されてたくさんの学者たちが移住してきた時、ササン朝ペルシャの君主ホスロー1世は学問を奨励して学者のための施設も作って受け入れました。

ホスロー1世に援助を求めるラクミドの支配者(1700年以前)

ホスロー1世は自身も教養に秀でた文化人で、様々な国から書物、文芸品などを多く取り入れてイラン文化に東西文化を融合させた独特のペルシャ文化を築き上げました。

ペルシャ帝国君主ホスロー1世(在位:531-579年)"Plate of Khosrow I Anushirvan" ©HistNoryofIran, oational Museum of Iran(2018)/Adapted/CC BY-SA 4.0

アテネのアカデミアから流入してきたギリシャの知識人のために、イラン南西部のジュンディーシャープールに研究所を設置して古代ギリシャの学術をシリア語に翻訳もさせています。これは後代に大きな影響を与えることになりました。

賢人をもてなす宴会を開くホスロー1世

それ以外にホスロー1世はインドの哲学、科学、数学、医学にも大いに関心を抱きました。

わざわざインドの宮廷に大使団と進物を何度も送り、それと引き換えに哲学者を派遣してペルシャで教授にあたるように願い出たりもしました。

ホスロー1世はプラトンの哲学にも興味を持っており、『哲人王』とも呼ばれた所以でもあります。

ホスロー1世を描いたササン朝時代の大皿
"Khosro Plate" ©Joseph Smith(29 November 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ホスロー1世によってギリシャ語、ラテン語、サンスクリット、シリア語の原典から中世ペルシャ語への多数の翻訳がなされ、ギリシャ、ペルシャ、インド、アルメニアの伝統的な学問がササン朝時代に統合されました。

ホスロー1世の時代には金や銀、ガラスでできた工芸品や岩に掘られた壁画などが大いに栄え、ササン朝の黄金期とも言われています。

優れた工芸品はヨーロッパや中国にも輸出され、世界各国に大きな影響を与えました。日本にもいくつか工芸品がシルクロードからやってきています。

太陽の使い「鶏」モチーフのササン朝 ペルシャのニコロ・インタリオ・リング『太陽の使い』
ニコロ・インタリオ リング
インタリオ:ササン朝ペルシャ 7世紀頃
シャンク:フランス 1830年頃
¥1,880,000-(税込10%)

579年にホスロー1世が亡くなった後、ササン朝は内乱や東ローマとの抗争で疲弊、衰退していきますが、文化・芸術的にはその少し後にホスロー1世が蒔いた種が花開くわけです。

ササン朝の傑作『太陽の使い』がどうして生み出されることになったのか、もう納得していただけたと思います。

古代から脈々と続いてきた東西の英知と文化・芸術が昇華したのがこの作品です。

歴史的に見て、人類の芸術文化の観点から最高に贅沢なインタリオと言える作品なのです。

-プリニウスの博物誌-

古代ローマのプリニウス古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年)

古代ローマ滅亡後、暗黒時代とも言われる長い停滞の時代が続いたヨーロッパですが、そこでもプリニウスの著書『博物誌』は一応は伝わっていました。

ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃-1468年)

暗黒時代が終わってルネサンス期に入ると、1445年頃におそらくはグーテンベルクによって活版印刷技術が発明されます。

『マルティン・ルター』でもご紹介した通り最初に印刷されたのは聖書で、贖宥状を印刷しまくったり1517年の宗教改革でも大いにキリスト教の歴史に寄与している印刷技術ですが、『博物誌』も印刷されるようになりました。

1669年版『博物誌』表紙

『博物誌(ラテン語:Naturalis Historia)』は地理学、天文学、動植物学、鉱物など当時のあらゆる知識が記載されています。

様々な言語に翻訳されて伝わっていたのですが、印刷できるようになったことでヨーロッパの知識人たちにも広く愛読され、引用されるようになったのです。

このため、後々までヨーロッパの芸術・文化にも広く影響を与えています。

プリニウスははるか古代の賢人であり尊敬の対象、古代ローマは憧れの文明大国という印象だったでしょうか。

ヨーロッパの生活水準が古代ローマ並みになったのは産業革命以降だとも言われています。

-ヨーロッパにおける"古代ローマ"の発見-

現代のコロッセオ(80年完成)とコンスタンティヌス凱旋門(315年完成)
"Colosseum-panoramic.view" ©Konrad Zielinski, son of Julo, with his authorisation I, Hugin 0.7(2008-09-15 14:16)/Adapted/CC BY-SA 2.5 PL

ペルシャ世界、その後はイスラム世界に引き継がれた古代ローマの芸術・文化・科学の英知でしたが、もちろん一応はヨーロッパにも残骸は遺されていました。これは現代まで残っている古代ローマの遺跡です。

1747年当時のコロッセオとコンスタンティヌス凱旋門
(ジョバンニ・パオロ・パンニーニ 1747年)ウォルターズ美術館

こういう遺跡があちこちに残っていたため、当時の昔の人たちもローマには古代ローマの姿がそのまま遺っているものと考えていました。しかしそうではないことがある時判明します。ポンペイの再発見によってです。

PDポンペイの想像図(フリードリヒ・フェデラー 1850年)

ポンペイはイタリアのナポリ近郊にあった古代ローマの都市です。上の想像図の右奥に見えるのはヴェスヴィオ火山です。

『ポンペイとエルコラーノの壊滅』復元版(ジョン・マーティン画 1821年)

79年8月24日の昼過ぎ、このヴェスヴィオ火山の噴火による火砕流で都市全体が一瞬にして地中に埋もれました。火砕流の速度は時速100km以上で、市民は到底逃げられなかったようです。

石膏で復元した79年の遺体
"Pompeii Garden of the Fugitives 02" ©Lancevortex(30 January 2000)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ところで、私もGen同様に本の虫でした。

学生時代は図書室の本を読むものがなくなるくらい読み尽くした私でしたが、小学生の頃に『ポンペイ最後の日』を『世界の歴史』シリーズの本で読んだ時には大きな衝撃を受けました。

当時は古代ローマなんて私にとって全く身近な世界ではありませんでしたが、人々の生活や亡くなり方、その再発見、石膏で遺体の型取りをしたりして当時のことを研究する話など、10歳くらいだった私にとって驚きとともに好奇心の対象でもありました。

PD『ポンペイ最期の日』(カール・ブリューロフ 1830-1833年)国立ロシア美術館

街が埋まった直後は生き残った人が財産を取りに戻ったり、金目の物を探す泥棒がやってきたりもしていました。しかし以降は1000年以上ただの『町』という地名で呼ばれ、街を再建することはありませんでした。

ヴェスヴィオ火山の噴火で被害を受けた地域からは散発的に古代の物が発見されたため、街が埋まっていることは知られていましたが、特に大きな興味も持たれることなく人々の記憶からは風化した存在となっていったのです。

発掘されたエルコラーノ
"Herculaneum12" ©Zentuk at Turkish Wikipedia(26 November 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

1738年、イタリアのエルコラーノでナポリ・シチリア王カルロス3世の夏の宮殿を建てる基礎工事中に、ヘルクラネウムの遺跡が発見されました。

これにより、この地で発掘が始まりました。

黒い雲:79年のヴェスヴィオ火山噴火によって降下した灰と噴石の大まかな分布 "Mt Vesuvius 79 AD eruption" ©MapMaster(October 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ヘルクラネウムは79年の噴火で埋没した古代ローマの都市の1つです。

ナポリ・シチリア王カルロス3世(1716-1788年)

発掘の成果は、ナポリ・シチリア王カルロス3世の後援によって詳細な出版物『ヘルクラネウムの遺跡』として出版されました。

限られた発行部数であったにも関わらず、古代ローマの優れた芸術は、その頃始まっていたヨーロッパの新古典主義に非常に大きな影響を与えました。

18世紀の終わりには、様々な家具調度品にヘルクラネウムで見つかったデザインのモチーフが現れています。

発掘されたポンペイの街 "Ruins of Pompeii with the Vesuvius" ©ElfQrin(28 November 2015, 10:14:05)/Adapted/CC BY-SA 4.0

しかしながらヘルクラネウムの発見から10年後の1748年にポンペイが再発見されると、ヘルクラネウムの発掘は中断されました。ヘルクラネウムは堆積物が20mもの厚さで覆っていたのに対し、ポンペイは4mほどで発掘が遙かに容易だったからです。

ポンペイで発掘されたフレスコ画(古代ローマ 60年頃)"Roman fresco Villa dei Misteri Pompeii 006" ©gisleh(27 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ポンペイで発掘された数々の遺物は、当時の人々を驚かせました。街全体を隙間なく隅々まで埋め尽くした火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、それが湿気を吸収し、壁画や美術品の劣化を最小限に抑えることができたのです。

自宅に飾られた夫婦のフレスコ画(古代ローマ 1世紀)

古代ローマの建築やインフラ整備などの優れた技術だけでなく、当時の人々が何を食べていたのか、どういう色彩に囲まれて生活していたのかまで分かる、まるで時を止められて残っていたかのような状態で現れたのです。

8巻に渡ってヘルクラネウムとポンペイの発掘・研究成果がまとめられた書籍(1757-1779年)
"Delle antichità di Ercolano, 1757-1779 (T. I-VII) 10000 a "Frontispicio" (23357181519)" ©Fondo Antiguo de la Biblioteca de la Universidad de Sevilla from Sevilla, Espana(13 December 2015)/Adapted/CC BY 2.0

人々はそれまでローマは古代ローマをそのまま保ち、今に伝えられていると考えていました。

しかしそれは全く違ったのです。

豊かな生活、美しい芸術文化、そして他の地域との活発な交流。

埋もれていたこの街こそが古代ローマをそのまま残す唯一の街であり、その古代帝国がいかに優れたものだったかを知るのです。

宴の様子を描いたフレスコ画

居酒屋のメニューには「お客様へ、私どもはキッチンに鶏、魚、豚、孔雀などを用意してあります」と残っていました。

焼かれたパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器も残されていました。

古代インドの女神ラクシュミのアイボリー像(1-50年頃) " Statuetta indiana di Lakshmi, avorio, da pompei, 1-50 dc ca., 149425, 02 " ©Sailko(29 Nobember 2013, 11:53:19)/Adapted/CC BY-SA 3.0

クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えていました。

現代でもポンペイは発掘が続けられ、まだまだ新たな発見があります。

ローマ人(ローマ市民)の別荘があったり、彼ら向けに冷たいものや熱いもの様々な飲料を提供するバーがあったり、小さなレストランや大きな食物市場、製粉所や円形劇場があったことも判明しました。

2002年には、サルノ川河口にボートを浮かべてヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたという新事実も報告されています。

ポンペイのメインストリート "Via Dell'Abbondanza 1" ©Mentnafunangann(18 March 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

現代では世界遺産登録されて、毎年250万人ほどが訪れるイタリアの超有名観光地となっています。日本からも行ったことがある方はたくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

イギリス貴族のグランドツアーと古代ローマ

グランドツアーの行程例
"Grand Tour William Thomas Beckford" ©Szarka Gyla, Jane023(2009年8月23日, 14:28)/Adapted/CC BY-SA 3.0

さて、特に17-18世紀にかけてイギリス貴族の師弟によって行われた、師の引率を伴う学びの仕上げの旅『グランドツアー』は何度かアンティークジュエリーにまつわる重要キーワードとして何度かご紹介してきました。

グランドツアーの行き先は主にフランスとイタリアです。

なぜその2国が必須だったのかはきちんと理由があります。

-イタリアにおけるルネサンスの始まり-

ルネサンスの中心都市であったフィレンツェ
"Firenze Palazzo della Signoria, better known as the Palazzo Vecchio" ©Jojan(12 October 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ヨーロッパの長い暗黒の時代、中世の歴史はルネサンスによって終わりを告げました。

ルネサンスは14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まりました。

ルネサンスは『復活』『再生』を意味するフランス語で、一義的には古典古代、つまり古代ギリシャや古代ローマの文化を復興しようとする文化運動でした。

当時の人たちにとって、古代の方が芸術文化の方が優れていたことは既知のことだったのです。

-ルネサンスにおけるイスラム世界からの知の再輸入-

太陽の使い「鶏」モチーフのササン朝 ペルシャのニコロ・インタリオ・リング『太陽の使い』
ニコロ リング
インタリオ:ササン朝ペルシャ 7世紀頃
シャンク:フランス 1830年頃
¥1,880,000-(税込10%)

ご説明した通り、キリスト教からの迫害から逃れるために移住してきた学者たちによって、古代ギリシャや古代ローマの叡智はササン朝のペルシャ世界に伝えられていました。

ササン朝の最後の君主ヤズデギルド3世(?-651年)
"YazdegerdIIICoinCroppedHistoryyofIran" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com/Adapted/CC BY-SA 3.0

このササン朝も、651年にはイスラム勢力によって滅ぼされてしまいました。

しかし知識の伝承は絶えませんでした。

ササン朝ペルシャには『宮廷図書館』という図書館がありました。

アッバース朝第7代カリフのマアムーンの金貨(在位:813-833年)
"Coin of the Abbasid Caliph al-a'mun" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com(21:21, 15 June 2014)/Adapted/CC BY-SA 2.5

830年にアッバース朝の最高指導者マアムーンが、宮廷図書館のシステムを引き継いだ『知恵の館』と呼ばれる図書館をバグダッドに作ったのです。

バスラの公立図書館(1237年の書籍『マカーマート』の挿絵より)

天文台も併設していたと言われるこの知恵の館では、ギリシャ語の学術文献のアラビア語への翻訳作業が行われました。時にはシリア語を介しての翻訳も行われました。

国家事業として医学書、占星術を含む天文学、数学、哲学など膨大な書物が『大翻訳』と称して翻訳され、古代ギリシャや古代ローマのヒポクラテス、ガレノス、プラトンやアリストテレスなどの叡智がイスラム世界にも継承されたのです。

時には使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあるほどの力の入れようでした。

ルネサンスの初期はギリシャとイタリアなどのヨーロッパ諸国は関係が薄い状態でした。

8〜9世紀にかけてアラビア語に翻訳され、初期のイスラム文化の発達に多大なる貢献をもたらした古代ギリシャとローマの知の遺産は、さらにイスラム世界の中でイスラムの哲学者や科学者たちによって研鑽されていきました。

ルネサンス期になるとそれらが次々にラテン語に翻訳されたことで、西ヨーロッパの人々はイスラムが継承・拡充した古典の叡智をラテン語で読めるようになったのです。

ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃-1468年)

さらに活版印刷技術の発明によって、読める言語に翻訳された知識は瞬く間にヨーロッパ全土に普及しました。

イスラム黄金時代に建てられたスペインのアルハンブラ宮殿(9世紀)
"Alhambra-Granada-2003" ©comakut(2 October 2003)/Adapted/CC BY-SA 2.0

8世紀中期に成立し、1258年のバグダッドの戦いまで続いたアッバース朝のイスラム黄金時代による最盛期を過ぎ、イスラム文化が衰退の一途を辿り始めた時代と前後して、ギリシャ-イスラムの知の遺産を継承したヨーロッパがルネサンスによって旺盛な活力を獲得し、世界の文化の中心地がイスラム世界から取って代わり再び歴史の表舞台に登場したのはとても興味深い話です。

-イタリアにおけるルネサンスの開花-

『ウィトルウィウス的人体図』(レオナルド・ダ・ヴィンチ 1492年)

科学と芸術を統合させた、あまりにも有名なこのレオナルド・ダ・ヴィンチによる作品『ウィトルウィウス的人体図』も、古代の叡智がインスピレーションの元になっています。

ウィトルウィウスは古代ローマの建築家で、紀元前30-紀元前23年の間に書かれたとされる著書『建築論』の記述を元にレオナルド・ダ・ヴィンチはこの作品を制作しました。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード(1470年完成)
"Santa Maria Novella(Florence)-Facade" ©Suicasmo(11 August 2015, 19:53:17)/Adapted/CC BY-SA 4.0

『建築論』はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードを手がけたアルベルティを始め、ルネサンス期の建築家にも大きな影響を与えています。

古代ローマの遺跡と羊飼いたち(1661年)

イタリアは古代ローマ帝国の文化が栄えた土地で、古代の遺跡も多く、彫刻家や建築家はこれらの遺跡から多くを学ぶことができました。

フィレンツェ・ルネサンスの黄金時代を築いたロレンツォ・デ・メディチ(1449-1492年)

さらにイタリアでルネサンスが開花したのは有力なパトロンの存在もあります。

イタリアは全ての都市でルネサンス文化が開花したわけではなく、フィレンツェ、ミラノ、ローマ、ヴェネツィア、ナポリ、フェッラーラなどの都市になります。

これらの都市には学芸を愛し、芸術家を育てたパトロンが存在し、フィレンツェではメディチ家、ミラノではスフォルツァ家、フェッラーラではエステ家が知られています。

ローマ教皇アレクサンデル6世

その後、様々な情勢の変化により学芸の有力なパトロンだった名家は力を失っていきますが、代わりに現れたのがルネサンス教皇と呼ばれるローマ教皇たちでした。

文芸保護に力を尽くしたローマ教皇が出現し、ローマではサン・ピエトロ大聖堂などの建設が行われるなど多くの芸術家を集めることになりました。

ローマ教皇アレクサンデル6世(在位:1492-1503年)
ローマ教皇ユリウス2世ローマ教皇ユリウス2世(在位:1503-1513年)Public Domain

一見褒め言葉のように聞こえる『ルネサンス教皇』ですが、15世紀後半から16世紀前半に人文主義を受け入れ、ローマにルネサンス文化を花開かせた世俗的な教皇を指して使われる名称です。

特に王侯貴族のような贅沢にふけった教皇を指します。

このユリウス2世も芸術を愛し、多くの芸術家を支援したことでローマのルネサンス芸術の最盛期をもたらしました。

ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564年) システィーナ礼拝堂内部
"Musei vaticani, cappella sistina, retro" ©sailko(3 April 2010, 10:33:37)/Adapted/CC BY-SA 3.0

もともとバチカン宮殿に存在していた古い礼拝堂が1477年から1480年にかけて建て直しされ、時の教皇の名にちなんでシスティーナ礼拝堂と名付けられていました。ユリウス2世はこの礼拝堂の天井画をミケランジェロに注文し、1508-1512年にかけて制作されました。

システィーナ礼拝堂天井画『創世記』(ミケランジェロ 1508-1512年)

天井画の中心をなすのは『創世記』の9つの場面です。ミケランジェロ自身は彫刻分野が本業と考えており、それ以外の作品は決して多くはありません。それにも関わらず様々な分野で優れた芸術作品を残した多才さから、レオナルド・ダ・ヴィンチと同じくルネサンス期の典型的な『万能人』と呼ばれています。

本人は絵画作品を軽視していましたが、この天井画と同じくシスティーナ礼拝堂の祭壇壁画『最後の審判』は西洋美術界に非常に大きな影響を与えた傑作とされています。

『ピエタ』(ミケランジェロ 1498-1500年)サン・ピエトロ大聖堂
"Michelangelo's Pietà, St Peter's Basilica (1498–99) " ©Juan M Romero(17 December 2012, 10:53:30/Adapted/CC BY 4.0
『ダヴィデ像』(ミケランジェロ 1504年)アカデミア美術館 "Michelangelos David" ©david Gaya(30 April 2005, 16:05)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ミケランジェロの本業作品はどうかと言うと、やっぱり違いますね。

代表作とされる『ピエタ』、『ダヴィデ像』ともにミケランジェロが20代で制作した作品です。

努力家は年と重ねないとなかなか完成しませんが、元からの天才は若くても傑出した作品が作れるものなのでしょうね。

これだけの立体表現が可能な3次元処理に秀でた頭脳と3次元に起こす技術の持ち主だと、2次元で表現する絵画を下に見るのは自然なことなのかもしれません。

ローマ教皇レオ10世(1475-1521年)37歳頃 Public Domain

さて、先のボルジア家出身のアレクサンドル6世、ユリウス2世、そしてメディチ家出身のレオ10世の3人がルネサンス教皇の代表格とされています。

レオ10世、就任に当たって「現世の享楽を謳歌する」と宣言し、有言実行してわずか就任2年で法王庁の財政を危機に陥らせたあの方ですね。

『マルティン・ルター』でもご説明している通り、贖宥状を乱発させて1517年の宗教改革を招いちゃった方です。

悪名高い印象ですが、芸術文化には間違いなく貢献しているのです。

宗教改革が発生したにも関わらず、その後就任したメディチ家出身のクレメンス7世もやはりルネサンス教皇でした。

枢機卿時代からラファエロを引き立て、後には天文学者コペルニクスの研究も支援しています。

晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の制作を依頼しています。

ローマ教皇クレメンス7世(在位:1523-1534年)
『最後の審判』(ミケランジェロ 1536-1541年)システィーナ礼拝堂

そうして描かれたのがミケランジェロの絵画作品の頂点とされる『最後の審判』です。『創世記』を完成させてから20年以上経っていたせいか、元々絵画を下に見ていたからなのか、ミケランジェロは制作に気が進まず、実際にこの作品を手がけたのはクレメンス7世が1534年に亡くなった後の1536年からでした。

宗教改革300年を記念して作られたマルティン・ルターのゴールド・リング アンティークジュエリー『マルティン・ルター』
開閉レンズ付き ゴールド リング
ドイツ? 1817年
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学芸を愛したクレメンス7世でしたが、宗教改革という事態には何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始しました。

1527年のローマ劫掠を描いた銅版画1527年のローマ劫掠を描いた銅版画(1555年)大英博物館

不安定な国際情勢にも翻弄され、ローマ劫掠の惨事も招いてしまいました。

神聖ローマ皇帝兼スペイン国王カール5世(1500年-1558年)

1527年に神聖ローマ帝国兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、教皇領のローマで殺戮や破壊、強奪などを行った事件です。

ローマに集まっていた文化人や芸術家たちは殺され、或いは他の都市に逃れました。

文化財は奪われ、教会なども破壊され、ルネサンス文化の中心だったローマは壊滅し、停滞の時期を迎えました。

これによって1450年代から続いた盛期ルネサンスの時代は終わりを告げたのです。

-ヨーロッパの辺境の田舎イギリス-

ヨーロッパ各地で、ルネサンスの到来によって暗黒時代の中世が刷新されていきましたが、その伝播にはタイムラグがあります。

芸術文化の最先端イタリアはイギリスの地から遠く、16世紀はまだイケてない辺境の田舎者たちという劣等感がイギリスにはありました。

PDトーマス・コリャット(1577年頃-1617年)

エリザベス朝末期から活躍したイギリスの旅行者トーマス・コリャットは、1608年8月から10月にかけてヨーロッパ大陸を旅しました。

フランスとイタリアのヴェネツィアを周り、スイス、ドイツ、オランダを経由して戻ってきました。

PD1611年に出版されたトーマス・コリャットの旅行本のタイトルページ

コリャットは1611年にそれらの紀行文を出版し、各地での出来事やヨーロッパの大陸の生活を生き生きと紹介しました。

イタリアでは太陽から身を守るために傘を使っていることや、食事にフォークを使うことも紹介し、書籍を読む当時のイギリス人上流階級に驚きを与えました。

イタリアで一般的にフォークが使用されるようになったのは16世紀に礼儀作法の一部となってからで、それまではヨーロッパではスープはスプーンで、その他は手で、肉はナイフで切りながら主に手づかみで食べていたそうです。

『日本史』目次(ルイス・フロイス 1532-1597年)

箸文化が長い日本人からすると意外でしょうか。

1563年にイエズス会の宣教師として来日し、織田信長や豊臣秀吉とも会見したことがあるルイス・フロイスは『日本史』をはじめ戦国時代研究の貴重な資料を遺しています。

著書『日欧文化比較』の中で、16世紀当時、日本人が箸で食事をしていた一方でヨーロッパ人は手づかみで食事をしていたことを記録しています。

南蛮屏風の一部(狩野内膳画 16-17世紀)リスボン国立古美術館蔵

日本人が野蛮人扱いされず、南蛮貿易で渡った優れた美術工芸品が高い地位を得たのは美術工芸品自体の圧倒的なレベルの高さに加えて、このような普段の暮らしぶりが伝わったのも一因だったかもしれませんね。

イギリス王チャールズ1世(1600-1649年)

イタリアでは1600年頃までには商人や上流階級の間でフォークがごく一般的に使用されるようになりましたが、イギリスでは一般的にフォークが使われるようになるのは18世紀に入ってからでした。

"女々しいイタリア文化"として、長年に渡りフォークは魅力的に思われなかったようです。

イギリス貴族を一言で言えば『紳士』と称されます。

イギリス紳士と言えば知的で教養高く、上品な振る舞いをイメージしますが、実は男らしさこそイギリス貴族の目指すものであったりもします。

イギリス王チャールズ1世(1600-1649年) イギリス王チャールズ1世(1600-1649年)

17世紀のイングランド、スコットランド、アイルランド王のチャールズ1世もこの通り、甲冑を着て騎乗した勇ましい姿の肖像画を多く遺しています。

伝統的に男らしく、ノブレスオブリージュ(持つ者の責任)の精神が息づいたイギリス貴族なので、20世紀に入ってからも大戦でもかなりの人数が亡くなっています。第二次世界大戦では当主も跡継ぎの若い息子たちも軍服に着替えて多くが戦場に赴きました。貴族たちは指揮官として最前線に立ったため、戦死者の比率は庶民より遙かに高かったそうです。

アングルシー伯爵のインタリオ『アンズリー家の伯爵紋章』
ジョージアン レッドジャスパー フォブシール
イギリス 19世紀初期
¥1,230,000-(税込10%)

『アンズリー家の伯爵紋章』でもご説明した通り、イギリス貴族は大陸貴族と異なり爵位は長男ただ一人だけが受け継ぐことができます。

大戦では当主だけでなく跡取りも皆死んでしまったため、やむなく伯父や従兄弟などに爵位が継承される家もあったそうです。

20世紀になると貴族は力を落として邸宅を売らなければ暮らしていけないような家もたくさん出てきた時代でしたが、イギリス貴族全体を見たときに、美しい精神だけは変わらず守られていたということでしょう。

イギリス王チャールズ1世とクロムウェルの兵士たち

男らしさ、気高さによる気品は大事です。それらを持ち、貴族は大地主として領地を温情政治(パターナリズム)で治めていれば、国内だけならばOKでしょう。でも、政治を司る王侯貴族の場合は外交も超重要事項です。外交には国際交渉で通用する高い語学力、教養、マナー、センスは必須です。自身で交渉できなかったり、マナー1つや服装や持ち物1つで馬鹿にされていては国際的に優位には立てません。

グランドツアー中のハミルトン公爵と弟と引率の師(1774年)

「イギリスは芸術的にも文化的にも後れている!

大陸から最先端の芸術文化を吸収し、外交時にも馬鹿にされない、いやむしろ優位に立てるマナーを絶対に身に付けなければ!!」

 

このような背景があったため、17〜18世紀にかけてイギリス貴族の師弟によってグランドツアーが行われることになったのでした。

-グランドツアーの目的と行き先-

グランドツアー

王侯貴族の子弟たちは国内での様々な学びを終え、学習の総仕上げとしてグランドツアーに出かけます。

グランドツアーの行程例
"Grand Tour William Thomas Beckford" ©Szarka Gyla, Jane023(2009年8月23日, 14:28)/Adapted/CC BY-SA 3.0

海を超えて、主な目的地はフランス、そしてイタリアです。

現代のように交通手段が発達しておらず、旅行は数ヶ月から8年くらいかかるのが当たり前だった時代の旅です。

目的1.フランス
ルイ13世の小城館を改築した造営初期のヴェルサイユ宮殿(1668年頃)

17世紀から18世紀にかけて、フランス語はヨーロッパのエリートの主要言語でした。グランドツアーの子弟たちは、まずフランスでフランス語、ダンス、フェンシング、乗馬のレッスンを受けるのです。

ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でジェノヴァ総督の謁見を受けるルイ14世(1685年)

パリの魅力は礼儀正しい振る舞いやセンスの良いファッションを含む、フランスの上級社会の洗練された言葉とマナーにあります。これを身に付けることで、イギリスにおいて指導的立場に就くときに政治や外交で大いに役立つのです。

ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)23歳頃 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1763-1814年)

コルシカ島出身でコルシカ訛りのあったナポレオンも学校で馬鹿にされ、裕福な貴族の子弟たちとは折り合いが悪かったようです。詳細は『Toi et Moi』にご紹介していますが、妻ジョゼフィーヌもフランス領マルティニーク島出身で、最初の結婚で16歳でパリに来たときは田舎じみた服装や教養の無さ、字さえろくに書けない教養レベルということで社交界で酷く馬鹿にされたようです。パリおそろしや(笑)

でも、ナポレオンは数学で優秀な成績を修め、陸軍士官学校砲兵科を最短記録で卒業し、フランス皇帝にまで上り詰めています。

ジョゼフィーヌもパリ社交界トップクラスの社交術を身に付け、美貌や若さでは勝てない淑女たちの中でも群を抜いた存在となり、フランス皇妃に上り詰めています。

2人とも元々頭が良かった上に、負けないメンタルを持ち努力家であったからでしょうけれど、そういう人たちにとってはパリは最高の研鑽の場と言えるかもしれませんね。

現代では日本人どころか中国人ですらパリ症候群になる人がいるそうで、庶民として生きるにはまだマシそうですが、上流階級ともなればかなりの『試練の場』と言えそうです(笑)

結婚前のナポレオンとジョゼフィーヌ
『紳士と淑女』1778年

ちなみに試練の場のはずのパリですが、結構羽目を外す若者たちもいたようです。

女性のお勉強に励んだりしていたようですが、イギリス貴族といえどもまだ若い男の子たちですし、親元を離れた外国ともあらばさもありなん・・(笑)

フランスの女性は昔からおおらかだとも言われています。

皇太子時代のエドワード7世とアレクサンドラ妃皇太子時代のエドワード7世とアレクサンドラ妃(1862年)

エドワード7世も美貌の妻アレクサンドラ妃がいるにも関わらずフランス女優と浮き名を流していたと、ことさら大きく騒がれたりしています。

フランスの大女優で高級娼婦のサラ・ベルナール

101人はいたとされる愛人の1人には、ベルエポックを代表する大女優と言われるサラ・ベルナールもいます。

当時のフランス女優には普通のことですが、サラ・ベルナールも17歳の売れない女優時代から娼婦をしていましたし、売れた後でも稼ぎが良いからと高級娼婦をやったりしていました。

本命ではなくいわゆる『プロ』で遊んでセンスや教養を磨いた感じです。

女優サラ・ベルナール(1844-1923年)
ダンディなイギリス国王エドワード7世 バーティ

フランスの最新ファッションやジュエリーを買い漁り、『宝石王子』や『イギリス王はフランス製』とまで言われましたが、バーティ(エドワード7世)の行動はある意味イギリス貴族らしかったとも言えるのです。

イギリス皇太子エドワード7世(1841-1910年)
イギリス王エドワード7世とアレクサンドラ王妃イギリス王エドワード7世とアレクサンドラ王妃

磨き抜いた社交術による外交能力は『ピースメーカー』と言われるほど確かなもので、帝国主義の拡大によって不安定化する20世紀初頭のヨーロッパを押さえることに貢献しました。

エドワード7世が1910年に崩御すると、ヨーロッパはくすぶる火種を消すことができず1914年には第一次世界大戦が勃発しています。

トップとなる人物が外交能力を磨くことは大切なのです。

PD騎乗して会話する当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンとエリザベス女王(1982年)

時代が下ると王族が政治の中枢ではなくなり、昔ほど外交力は必要ない時代になりましたが、それでもエリザベス女王はフランス語もペラペラです。当然、乗馬も余裕です。

イギリスの王侯貴族は長い歴史の中で文武両道、芸術文化にも精通、教養とマナー、社交術をも身につけた超絶エリートと化していったのです。

目的2.本命イタリア
グランドツアー中の初代ダンスタンヴィル男爵フランシス・バセット

フランスはマナーや社交術を身に付けたり、最新ファッションを手に入れるには最適の場所です。

私もファッションに関しては学生時代から既に好みのものは決まっていて、感覚的にピンと来るものはフランスの物が多いのですが、フランスでは手に入れられない物、見ることができないものがあります。

それがギリシャやローマの特に優れた古代美術工芸品、遺跡の数々、そしてイタリアで始まった優れたルネサンスの芸術です。

イギリスもブリタンニア州として一時ローマ帝国領になってはいましたが、所詮古代ローマの中では辺境の地です。

本場イタリアほど優れたものは、元から期待できないのです。

グランドツアー中の初代ダンスタンヴィル男爵フランシス・バセット(1757-1835年)
18世紀のパンテオン内部

社交術などについては、イギリスにいても先生をフランスから呼び寄せてある程度身に付けることは可能です。

しかし写真もないこの時代、優れた芸術は現地まで見に行くしかありません。

まあ、写真があったとしても実物とはかなり迫力も印象も違います。

HPの画像でアンティークジュエリーをご紹介しているヘリテイジにとっても悩みの種です。

私が初のイギリス買付けで、買付け自体はさっさと終わらせて美術館めぐりに精を出したのは画像と実物が違うことが分かっていたからです。

美術館がたくさんあって、しかも内容が充実しているヨーロッパは知的好奇心が高い人にはたぶん天国です。

18世紀のパンテオン内部
フィレンツェ "Collage Firenze" ©DanieleDF1995(21 Februry 2010, 16:01)/Adapted/CC BY-SA 3.0

本命イタリアは見所満載、まずはトリノやミラノを訪れます。その後フィレンツェには2、3ヶ月滞在しますフィレンツェは古代エトルリア人によって町として建設され、古代ローマによって本格的に開発されました。古代ローマの花の女神フローラが元々の町の名前フォロレンティアの語源となっており、イギリスではフィレンツェはフローレンスと呼ばれています。

メディチ家による統治下、世界の商業の中心となったフィレンツェでは15世紀には文化的な中心地になり、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどの巨匠が活躍するルネサンス文化の中心地として学問・芸術の大輪の花が開きました。

フィレンツェのウフィツィ美術館 "Uffizi Gallery, Florence" ©Chris Wee(25 May 2006, 22:22:24)/Adapted/CC BY 2.0

経済や文化の世界の中心地だったフィレンツェには当然イタリアの上質な上流階級が集まる社交の場がいくつもありました。メディチ家歴代の美術品を所蔵し、イタリアルネサンス絵画の宝庫と言われるウフィツィ美術館もあります。

トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチ(1541-1587年)10歳頃

このウフィツィ美術館には1584年にトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチによって作られた八角形の部屋、トリブナがあります。

1584年までの最も重要な古代美術、ルネサンス期の美術作品がここに展示されました。

左は何だか子供の頃から賢そうなフランチェスコ1世です。

ウフィツィ美術館のトリブナ(ヨハン・ゾファニー 1772年)

上はイギリス王ジョージ3世の妻、シャーロット王妃の命によって描かれたトリブナ北東部の絵です。そうそうたるコレクションの雰囲気が伝わってきますね。

ウフィツィ美術館、特にこのトリブナは1770年代までにはフィレンツェを訪れるグランドツアーの貴族たちが集まる『ハブ』となったのです。フィレンツェはイギリス貴族たちの社交と芸術的な学びにおいて、超重要な場所だったというわけです。

サンダーランド伯爵ロバート・スペンサー
古代ローマ・ファッションのグランドツアー中のサンダーランド伯爵 通常状態のサンダーランド伯爵ロバート・スペンサー(1641-1702年)

グランドツアーの貴族たちはさらにピサ、ボローニャ、ヴェネツィアなどを移動し、古代ローマの遺跡や中世ローマ、ルネッサンス、バロック時代の美術品や建築の傑作を見て研究するためにローマに向かいました。ナポリでは音楽を学び、ヘルクラネウムやポンペイが発見されてからはこれらの遺跡を見にも向かいました。

ナポリの港町ミセヌム

ところで79年にヴェスヴィオ火山が噴火した際、プリニウスはナポリ湾を挟んだ位置にあるミセヌムにいました。プリニウスは博物学者でもありましたが、政治家で軍人でもありました。百科全書『博物誌』は、ローマ帝国の属州総督を歴任する中で著されたものです。

古代の船古代の船を再現した船

ミセヌムは古代ローマ時代、ローマ海軍の最も大きな軍港として機能していました。

古代ローマの船が描かれたローマンモザイク "Romtrireme" ©Mathiasrex(8 February 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ミセヌムにあったユリウス港は、ローマ海軍で最も重要な艦隊『ミセヌム艦隊』の母港でもありました。こんな迫力ある船が碇泊していたのでしょうか。船首の方に『目』が描かれている理由が気になる方は『魔除けの瞳』もご参照ください。

ナポリの港町ミセヌムの岬 "Napoli 3722" ©General Cucombre from New York, USA(14 October 2012, 13:40)/Adapted/CC BY 2.0

一方でミセヌムは風光明媚な立地でもあり、古代ローマの重要都市からも近かったためローマ貴族の別荘地でもありました。79年、プリニウスはローマ西部艦隊の司令長官としてこのミセヌムに赴任していたのです。

【参考】79年のヴェスヴィオ火山の噴火

ナポリ湾を挟んだ位置から噴火を目撃したプリニウスは司令官として被災者救出、そして博物学者として火山活動を調査するという目的のため、現地に向かいました。

黒い雲:79年のヴェスヴィオ火山噴火によって降下した灰と噴石の大まかな分布 "Mt Vesuvius 79 AD eruption" ©MapMaster(October 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

プリニウスの艦隊はナポリ湾を渡ってスタビアエに上陸しました。

火山性地震が活発で建物は倒壊の恐れがあり、海岸にも依然として濃い煙と硫黄が立ちこめた状態でした。

PDスタビアエ(古代ローマ 1世紀)

健常者は何とかまだ避難できる状況でしたが、プリニウスは喘息持ちだったため動けずその場で倒れてしまい、その後眠るように亡くなりました。

ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(61-112年) "Como - Dome-Facade -FPlinius the Elder" ©Wolfgang Sauber(14 July 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

このようなプリニウスの詳細な死に際は、甥で養子の小プリニウス(ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス)によって書簡集として遺されました。

古代ローマの文人、政治家であった小プリニウスによる書簡は全10巻あり、ヴェスヴィオ火山の噴火の様子を知る貴重な資料となっています。

発掘されたポンペイの街 "Ruins of Pompeii with the Vesuvius" ©ElfQrin(28 November 2015, 10:14:05)/Adapted/CC BY-SA 4.0

イギリスで全ての学習を終え、海を渡りフランスで社交術を磨き、存分に遊び、イタリアでは偉大なるルネサンス美術に触れて成長してきたイギリス貴族の若者たち。そんな若者たちにポンペイの地はどういう導きを与えたでしょう。

古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年)

一生懸命勉強したヨーロッパ知識人のバイブル、あの『博物誌』を書いたプリニウス先生が生きていた時代をそのまま見ることができる感動。

そしてその死地となった場所を巡る旅・・。

人間はいつか死ぬ。

1000年以上もの遙か昔を生きた人物たちが遺した偉大なる功績。

自分には何ができるのか?

イギリス貴族の若者たちにとって、これほど良い学びの旅はないでしょう。

古代ローマ インタリオ リング 

さて、楽しくてためにもなる学びの旅ですが、見て遊んで学ぶだけが仕事ではありません。

グランドツアーの貴族の子弟たちには、優れた古代美術を目利きして手に入れてくるという超重要な役割も任されていました。

グランドツアーという長期旅行自体、おそろしくお金がかかるものですが、さらに貴重な古代の美術品を買い集めてくることができたのがイギリス貴族の凄さです。

それを可能にしたのが圧倒的な資金力です。それは、ヨーロッパの大陸貴族と違って、イギリス貴族の爵位が男系一子相伝だったから実現したことです。

これには家が途絶えるリスクも高くなりますが、一方で貴族が無尽蔵に増殖することを防ぎ、富が分散せず集約した状態を保つ効果がありました。

アンシャンレジーム フランス 革命前 第三身分アンシャンレジームを風刺した絵(1789年)

大陸貴族のように子供全員が爵位を継げると、当然時代が下るごとに貴族は増えていきます。

財産には限りがありますから、みんなで分けると一人分の財産はどんどん少なくなります。

さらに革命前のフランスは金策のために爵位を乱発し、無尽蔵に貴族が増えていきました。

貧乏人に毛が生えた程度の貴族が存在したのもこういう理由です。

貴族が増えると、相対的に少ない庶民でそれらを支えねばなりません。

イギリス貴族のような温情政治もやりませんしできませんから、起こるべくしてフランスは革命が起こりました。

スモーキークォーツの紋章インタリオのフォブシール『魔法のクリスタル』
スモーキー・クォーツ フォブシール
イギリス 1780年頃
SOLD

イギリス方式と大陸方式でどれくらい変わってくるかというと、1880年時点でドイツは貴族が2万人は存在したとされています。

イギリスは同じ時点で貴族は580人しかいませんでした。准男爵も856人なので、人口からするとかなり低い割合です。

1917年に革命が起き、農奴制度で有名なロシアは1858年時点で60万人も貴族がいたそうです。

イギリス貴族は莫大な富がこれだけ集中的に貴族に集約されるシステムだったからこそ、グランドツアーでもお金をジャブジャブ使うことができたのです。

数字で見ると、イギリス貴族がいかに別格の存在なのかが分かりやすいですね。

桁が違いすぎです。ドイツ貴族の35分の1の人数しかいないということは、単純化して考えれば35倍の富を1人で持っているということです。

グランドツアーの成果

壮大な金をかけて長年大陸に子弟を送りまくったイギリス貴族でしたが、大半は壮大な無駄遣いとして意味なく終わったと言われています。古美術を含めて大陸の優れた美術品を買ってくるように言われても、大半は目利きなんてできません。

いくら高貴な生まれの貴族と言えど、学んで身に付けることができる知識と、生まれ持った感性まで備えていないと不可能な目利き能力は違うからです。

ロシア製の天然真珠のドングリのピン・ブローチ『ジョールチ』(ロシア語でドングリ)
天然真珠 ドングリ ピン・ブローチ
ロシア 1890年頃
SOLD

ただ、100人種を蒔いて1粒程度の割合でしか育たなくても、その種が1万の実りをもたらしてくれればそれで十分、国家にとっては実りある大きな成果なのです。

Great oaks from little acorns grow.
大樹となるオークの樹も小さなドングリから(イギリスの諺)。

せっかちは大成しません。

投資の世界も焦らずじっと我慢して実るのを待てるかどうかが重要な能力の1つだったりしますが、イギリス人はこの分野も強いです。

実りを焦らず、必要な投資はやって全体で良くなれば良いと考えられる性質もイギリスの強さの1つかもしれませんね。

ディレッタンティ協会(1777-1779年頃)

さて、実りの1つが『ディレッタンティ協会』です。

古代ギリシャやローマ、エトルリア美術の研究、そしてその様式にインスピレーションを受けた新しい作品制作のスポンサーとなったイギリスの貴族・ジェントルマンによる協会です。

『ヘリオス神』ストーンカメオ(ジュゼッペ・ジロメッティ作 1836年頃)7.4cm×5.1cm×2.6cm、 バチカン美術館 【出典】Musei Vaticani HP ©MVSEIVATICANI 『ヘリオス(セラピス・ゼウス)神』(紀元前4世紀後期にブリアキスが制作したオリジナルを古代ローマで複製)バチカン美術館所蔵(Inv.No.245) (сс) 2005. Photo: Sergey Sosnovskiy (CC BY-SA 4.0).© 1986 Text: Chubova A.P., Konkova G.I., Davydova L.I. Antichnie mastera. Skulptory i zhivopiscy. — L.: Iskusstvo, 1986. S. 33./Adapted

『ユリウス・カエサル』でもご紹介した通り、古代の優れた美術品にインスピレーションを受けて、単なる真似ではなくより優れた作品へと昇華させる挑戦はイタリアでも行われていました。

1777年にアッピア街道で発見された古代ローマの『ヘリオス神』を元に、『ユリウス・カエサル』の作者でもある当時の有名カメオ作家ジロメッティが1838年に素晴らしいカメオを制作しています。これはローマ教皇に献上された10作品のうちの1つです。

エトラスカンスタイルのアンティークのアクアマリン・ネックレス アンティークジュエリー『エトルリアの知性』
エトラスカンスタイル アクアマリン ネックレス
オーストリア? 1870年代
SOLD
エトルスカンスタイルのヴィクトリアンの天然真珠&ゴールド・バーブローチ『真珠の花』
エトルスカンスタイル ブローチ
イギリス 1870〜1880年頃
SOLD

イギリスでのこの取り組みは、ジュエリーに関しては特にヴィクトリア時代に入ってから花開いています。上のエトラスカンスタイルのジュエリーのように、様々な考古学風のジュエリーが流行していますが、知的なものを好むイギリス貴族らしいジュエリーと言えます。

アンフォラ型のターコイズ&ゴールドのピアス『古代のアンフォラ』
アンフォラ型ターコイズ&ゴールド ピアス
イギリス 1860〜1870年頃
SOLD

これなんかはそのまんま、古代のアンフォラの形をしたピアスですね。

穀物などを入れる壺ですが、まずこの形を見て、現代人にはなぜ底を平らにして倒れない形になっていないか不思議だったりします。

このスタイリッシュなピアスをオーダーした女性も、身に着けてディレッタンティ協会のような集まりでそのような考古学議論を行っていたのかもしれません。

と言うよりも、そのためじゃないとお金をかけてこれだけの作品は作らないはずです。

貴族にとっては、社交の場で一目おかれてモテることは重要です。

イギリス社交界でそうなるには、知識と教養、そして確かなセンスが必要なのです。

ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年)

 

このディレッタンティ協会を設立したのが、グランドツアー参加者です。

ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッドが古代美術に理解を示したグランドツアー経験者40名を集め、1734年に設立されました。

立派で真面目な紳士に見えますが、実はそうでもありません。

わずか15歳で父が亡くなり、若くして男爵領と爵位を継承したダッシュウッドはグランドツアーで早々に悪名高い評判を得ています。

スウェーデン王チャールズ12世スウェーデン王チャールズ12世(1682-1718年) ロシア皇帝アンナロシア皇帝アンナ(1693-1740年)

何でもロシアに行った際に、スウェーデン王チャールズ12世を装ってロシア皇帝アンナを誘惑しようとしたそうで、後にこれがバレてイタリアのローマ教皇領から出入り禁止を食らったそうです。マセガキの悪ガキみたいな扱いなのでしょうけれど、無茶やりますね(笑)

ディレッタンティ協会ディレッタンティ協会

ディレッタンティ協会、こちらの絵でもやっぱりお酒を飲みながらの会です。

教養と芸術への理解、そして遊び心を兼ね備えた優秀な王侯貴族たちが強力なパトロンとして芸術文化を支えてきたからこそ、イギリスにおいて学術も芸術も確実に発展していったわけです。

ダイヤモンド原石を使ったアンティーク・ジュエリー『ダイヤモンドの原石』
クラバットピン(タイピン)&タイタック
イギリス 1880年頃
SOLD

面白いと思ったことに壮大なお金をかけるのがイギリス貴族です。

このようなあっと驚くダイヤモンドの原石のジュエリーも、いかにも作りそうだと納得ですよね。

ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー

17世紀からのグランドツアーによってイギリスに素地が出来上がっていたからこそ、ナポリ王国の英国大使の任に就いたウィリアム・ハミルトン卿もナポリに到着して早々、古代の美術品を集め始めまくったのです。

1766年から1767年にかけて出版した、エトルリア、ギリシャ、ローマの古代美術コレクションを掲載した本は人気を博し、コレクションは大英博物館や王侯貴族にも購入されるなど、イギリスにおける古代美術の文化の発展に大きく貢献しました。

エトルリア工場の最初の作品『初日の壺』(1769年) 【引用】CHRISTESE'S / ©Christie's

実業家・陶芸家のジョサイア・ウェッジウッドもハミルトン卿が紹介した優れた古代美術に魅了された人物の一人で、工場を建てた土地にエトルリアという名前まで付けています。後に、古代エトルリアと思われていた作品の大半が実は古代ギリシャのものだったと判明したりしていますが・・(笑)

第2代ポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンク(1715-1785年) 古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ  5-25年頃)大英博物館
"Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5

フランスのナポレオンが侵攻して強奪前だったからこそ手に入れられた古代美術の名品も多々ありました。その1つ、ポートランド公爵が購入した古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』です。

当時イギリスで最もリッチな女性とされ、優れた美術品のコレクターでもあったポートランド公爵夫人マーガレットという優れたパトロンが存在したことも大きいでしょう。こういう優れた美術品のパトロンとなれる王侯貴族という存在がイギリスにはいたからこそ、ハミルトン卿もイタリアから次々と買い集めてイギリスに紹介できたわけです。

ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年) ポートランドの壺の再現(ウェッジウッド 1790年)V&A美術館 "Portland Vase V&A" ©V&A Museum(11 August 2008)/Adapted/GNU FDL

ローマンガラスの最高傑作は太っ腹なパトロンによってジョサイア・ウェッジウッドに貸し出され、ジョサイアによって新たに生み出されたジャスパーウェアの技術によって4年の歳月をかけて再現されました。

19世紀初期のジャスパーウェアの回転式アンティーク・リング『19世紀初期のジャスパーウェア』
ウェッジウッド 回転式 カメオ リング
イギリス 19世紀初期(指輪の作りは19世紀後期)
カメオの大きさ 2.0cm×1.2cm
SOLD

後世に至るまで、ウェッジウッドのモチーフは古代ギリシャをモチーフとしたものがメインです。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー『春の花々』
ジャスパーウェア パリュール
イギリス 1860年〜1870年頃
SOLD

しかしながら量産品では飽き足らない、特別な人物による特別なオーダーとその高い技術力が相まって、ある時代にこれだけの作品に昇華することもありました。

ジャスパーウェア パリュール ウェッジウッド アンティーク・ジュエリー

古代美術を真似して技術力を切磋琢磨していた時代は終わり、19世紀ならではの心癒される美しい芸術作品へと進化した作品と言えます。

すぐに結果を求めない、蒔いた種が次世代に大きく花開けば良いと考えることができるイギリスならではの宝物ですね。

ヘリテイジで古代ジュエリーをご紹介する理由

古代ローマ インタリオ リング 

そういうわけで、古代美術と普段ご紹介しているジョージアン以降のアンティークジュエリーは一見全く別のジャンルに見えるかもしれませんが、これらは絶対に切り離せないものなのです。

古代のジュエリーは非常に魅力があるので独立させてでもすぐにご紹介したかったのですが、やはり後世のアンティークジュエリーとのつながりを知った上で、その魅力をご理解いただきたいと思ったのです。

だからこそ少しずつカタログに小出しで情報を掲載し、HP上に十分情報が貯まり、機が熟すまでタイミングを待っていたのです。

古代ローマ インタリオ リング 

ヘリテイジでも古代美術のご紹介を始めるに当たり、このジャンルの日本の権威である片桐元一の仕入れルートを受け継ぐためにヨーロッパに行ってきました。

仕入れ先に関する情報は当然ながら企業秘密ですが、信頼できるヨーロッパの権威からしか仕入れていません。

古代ローマ インタリオ リング 

古代美術は非常に難しい分野で、市場の99%は偽物か本物であってもブラックマーケットからの物と言われています。

他所からご購入されたものも委託販売のご相談を受けていた時期に、『古代の物』を見せてもらう機会が何度かありましたが、結果はその情報を裏付ける物でした。

他所でご購入された物は委託販売を一切止めたのはこれも一因です。

古代ローマ インタリオ リング 

特に古代のものは例え本物であっても、出所次第ではテロや犯罪組織を支援する可能性が否定できないので受け付けられないのです。

マネーロンダリングと同じで、資金洗浄の如く、ヘリテイジで扱うことでそれら悪意ある不正な物が『正当な物』とされることは絶対にあってはならないのです。

古代ローマ インタリオ リング 

状況があまりにも酷いので、イギリスでは過去30年間に渡って所有者が証明できない古代の作品は売買が禁止とされました。

日本でありがちな遅きに失した後進国的なやり方ではなく、国際的に足並みが揃うようグローバルスタンダードに合わせる所存です。

ヘリテイジでは本物かつ出所も間違いない上で、さらに芸術的にも価値が高いものに絞って古代ジュエリーをご紹介して参ります♪

 

古代ローマ インタリオ リング 
この指輪は22金の高い純度の金を使った古代ローマの高級なリングです。インタリオの石に使われているのはガーネットです。古代ローマのインタリオの中では比較的珍しく、高級なものに使われる石です。

インタリオのモチーフ

ヴェルサイユのディアナ(古代ローマ 1-2世紀)ルーブル美術館 "Diane de Versailles Leochares 2" ©Sting(July 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.5

インタリオのモチーフは古代ローマの狩猟、貞節と月の女神ディアナです。

古代ギリシャのアルテミスと習合した女神なので、アルテミスと類似した特徴を持っています。

左のヴェルサイユのディアナは、古代ギリシャの彫刻家レオカレスによって紀元前325年頃に制作されたブロンズのアルテミス像を元に、古代ローマで1世紀から2世紀の間に作られたものです。

既にこの時代から、前の時代の芸術文化を参考にして新たなクリエーションが行われていたわけですね。

PD狩りをするディアナのフレスコ画(古代ローマ 4世紀)
古代ローマの女神ディアナの特徴の1つが狩りをする姿です。上の古代ローマのフレスコ画でも左手には弓を持ち、右手は背に負った矢筒から矢を取り出そうとする姿が描かれています。

このインタリオの女神の背にもディアナの特長である矢が描かれています。

シルバー・コイン(イオニア 202-258年頃) "Didrachme de Ionie" ©cgb.fr/Adapted/CC BY-SA 3.0

古代ローマは徐々に領土を拡大していきました。ご想像いただける通り、昨日までアルテミス信仰だったものが、今日からはローマになったからとディアナ信仰に綺麗に切り替わることはありません。微妙な時代・地域だとそれぞれの女神がアルテミスかディアナか明確に区別することはできません。しかしながらコインという小さな面積に表現される場合、どちらの女神であってもアルテミス或いはディアナを示す象徴として背中に矢が描かれる場合が多いです。

粘土に押した画像

このインタリオのディアナの彫りは現代人から見ると稚拙に感じますが、22金のリングの作りから推測すると、身分の高い人物が作らせたリングと考えるべきです。

古代ローマ インタリオ リング 

平面ではなく、曲面になったカボションの小さな面積に丁寧に彫られています。

ジョージアンのランパント(立ち上がる獅子)を彫刻したコーネリアン・インタリオ・リング『ランパント』
ジョージアン インタリオ リング
イギリス 19世紀初期
SOLD

ジョージアンやヴィクトリアン中期くらいまでの時代は、技術や手間のかかるインタリオや、ジュエリーそのものが身分の高い人たちだけのものでした。

ブルガリアで地下鉄工事中に発見された古代ローマ遺跡の発掘作業 【出典】EUobserver HP/ ©Plamen Stoimenov, Trud(2010)

しかしながら古代ローマではインタリオは字が書けない人にとって『印鑑』の役割があり、庶民だけでなく奴隷の身分である剣闘士に至るまで着けていました。このため、古代ローマのインタリオはそこまで珍しいものではありません。皆1人に1つは持ち、古代ローマの数百年の間に生きた人の数だけ作られたということです。だから現代でも発掘でゴロゴロ出てきます。

発掘品のコーネリアン・インタリオ・リング【参考品】発掘品のコーネリアン・インタリオ・リング

ただし庶民と高貴な身分の人の持ち物では、レベルの差に明らかに大きな開きがあります。

ブロンズや鉄でさえ指輪は作られていました。

そういう物は土中に埋もれると腐食が進んでしまうため、左の鉄の指輪のような状態で発掘される場合が少なくありません。

でも、鉄の指輪であるにも関わらずコーネリアンのこれだけのインタリオが付いている場合があることも興味深いことです。

「パリスの審判」モチーフの古代ローマのブルー・カルセドニーのインタリオとバロック時代のシャンクによるアンティークリング『ゼウス&ヘルメス(パリスの審判)』 
<インタリオ> 古代ローマ 1世紀
<シャンク> ヨーロッパ 1670年頃
SOLD

インタリオ自体は高い芸術性を持ちながらもシャンクは使えない状態で発見されたか、或いはシャンクのデザインがその時の持ち主の好みに合わなかったのか、何らかの理由があって後の世でシャンクが作られる場合もあります。

左のように、17世紀の素晴らしい細工でシャンクが合わせられている場合はオリジナルで残っている物以上に希少性が高く、しかも芸術性もより高くなっていると言えます。

ヘレニズム期に作られた美しいアゲートのインタリオ・リング『霧の中の戦士』
<インタリオ> ヘレニズム 1世紀
<シャンク> ヨーロッパ 19世紀後期
SOLD

現代と違い、アンティークの時代はジュエリーを特別にオーダーするには莫大なお金がかかります。

鋳造で気軽に作るのではなく、職人が高度な技術と手間、時間をかけて作るので、当時の人が価値を認めたものでないと相応のシャンクが作られることはありません。

だからこのような古代のインタリオにその後の時代のアンティークのシャンクが取り付けられたものも、強い魅力があります。

古代ローマ インタリオ リング 

一方で、オールオリジナルの古代のリングというのも強い魅力があります。

高級品としてゴールドで制作されたからこそ2000年近くもコンディションを維持することができたわけですし、ある意味シンプル・モダンな時を超えたデザインだったからこそ歴代の持ち主が誰も作り変えしなかったとも言えるのです。

透明感あるガーネットが放つ幻想的な景色

「ディオニュソスの杖」をモチーフにした古代ローマのガーネットのインタリオ・リング『黄金の輝きの中に浮かび上がるディオニュソスの杖』
ガーネット インタリオリング
古代ローマ 200年頃
約22ctゴールド
SOLD

これも古代ローマのオールオリジナルのガーネットのリングです。

ガーネットは下地の金が栄える石で、透明感が高いとこれだけ鮮やかで美しい色合いになります。

直線で表現されたディオニュソスの杖のシャープな印象のインタリオには、これくらいクリアな赤いガーネットがピッタリです。

古代ローマ インタリオ リング 

一方で、このリングには半透明なガーネットが使われています。自然のままの石らしい斑があります。

古代ローマ インタリオ リング 

独特の雰囲気を持つガーネットが、光の加減によって下地の金の色を反映して鮮やかな色合いを醸しだし、その中に女神ディアナの顔が浮かぶ様子はとても幻想的で美しいものです。

 

古代ローマ インタリオ リング 

2000年近くの長い年月の中で摩耗してできた、自然なマットゴールドの雰囲気もまた古代のオリジナルのゴールドリングの魅力の1つです。

古代ローマ インタリオ リング  古代ローマ インタリオ リング 

全体に摩耗感がある以外はとても良い状態です。摩耗がなかったらむしろ偽物ですが、単純に摩耗の有る無しだけで判断する素人を欺くための、摩耗感を作るプロのテクニックもブラックマーケットでは確立されています。「良い人そうな人から買ったし、自分自身の目から見ても本物に見える。」と自信満々に偽物を持ってきた委託希望の方もいらっしゃいましたが、人を見る目も物も見る目もなかったという結果となりました。

詐欺師は人を欺くプロですし、そもそも平気で詐欺行為を行うことができるサイコパスの場合、良心を持たず他者に共感して痛みを感じるなどの機能も欠如した器質的特徴を持っているので、そういう人物の表情を読んで善人か悪人か判断することは不可能です。専門で取り組まないと不可能な分野なのに、ろくに自分で勉強しようともせず、人柄だけ見て品物が本物かどうか判断しようとすること自体が詐欺師にとっては『良いカモ』なのです。


本当に大切な宝物を、真に価値を理解してくれる人にだけ手渡して行きたい・・。

この宝物を託してくれたヨーロッパの権威は、Genが私を紹介してすぐに私に向かって「歴史は好き?」と聞いてきました。

ヨーロッパ人から見ると日本人は童顔ですし私は女性なので、ディーラーであることを伝えていてもジュエリーの買付けでは「これ似合うよ」と勧られることもあります。

そういう『お嬢ちゃん』的な舐めたような扱いは微塵もなく(笑)、まずこの問いをして私の本気度を確かめようとしてくれたことはとても嬉しかったです。

Genは人として感覚がすごく合うらしく、権威のことが大好きなのですが、私も一瞬で大好きになってしまいました。