夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント2

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3. ミュージアムピースと言える異次元の赤銅作品

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

ヨーロッパのアンティークジュエリーの素材や技法に詳しい方でも、赤銅はよく分からない方が多いかもしれません。

誇るべき日本ならではの表現技術として、少し詳しくご紹介しておきましょう。

3-1. 赤銅の魅力

3-1-1. 赤銅ならではの豊かな色彩

金属のみで多様な色彩を表現する美術品
日本 ヨーロッパ
生花する殿様と茶を差し出す姫様の江戸時代の赤銅ブローチ日本の金工による作品 赤銅ブローチ
赤銅:日本 江戸時代後期
フレーム:イギリス 19世紀後期
SOLD
カラーゴールドとプラチナの彫金が美しい白鳥のアンティーク・ブローチ『愛の白鳥』
スワン バー・ブローチ
イギリス 1923年
¥950,000-(税込10%)

規格が決められ、無個性でチャチな量産品で溢れるようになった現代は、金属の色を駆使したアーティスティックな表現を目にすることはありません。しかし、技法は違えど、古い時代は高度な技術で金属の色をコントロールした見事な作品が作られています。

アンティークジュエリーのカラー・ゴールドなどは、ご説明は不要でしょう。左の宝物をご覧いただくと、日本の赤銅はさらに色彩が多様であることが分かります。ピンクゴールド系の微妙な色彩と違い、はっきりした赤が印象的です。いかにも高貴な人物らしい、色白の肌はシルバーの白い色です。ゴールド系の色彩も、黄色味が強いものと薄いもので使い分けています。黒についても、濃淡があります。髪やお殿様の羽織、お姫様の着物ははっきりとした黒ですが、背景はやや薄い黒です。黒に黒を重ねるセンスが渋いですし、きちんと色が違うので同化はしていません。多くの色彩で微妙な違いを表現できているからこそ、実際の立体造形以上に立体的に見えます。単色だと、のっぺりして見えたはずです。

リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール アンティークジュエリー

『大切な想い人』
リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール
イギリス 1811-1820年頃
¥1,200,000-(税込10%)

ヨーロッパのハイジュエリーの場合、"貴金属や宝石などの材料も含めての財産性"を考慮して制作されました。

デザインに普遍性がなく、時代遅れになったものはリメイクされるのが常です。リメイクの可能性が前提にあるため、高級品は一定の金位を持つ素材で作られるのが通常です。

色彩豊かな日本の金属美術品
『芍薬と蝶々』(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館 『秋草に鹿図鐔』(藤原壽良 19世紀)メトロポリタン美術館

日本の金属細工の場合、金や銀以外に銅や鉄などを多用したのが大きな特徴の1つです。鐔だけでなく、その他の日本刀のパーツも作らなければならないこともあって、最高級品であっても、必ずしも稀少価値の高い金属だけで作られるわけではありませんでした。もちろん日本人が成金嗜好を嫌ったこと原因の1つです。

『鐔』の価値が『材料の価値』ではなく、『美術品としての価値』で判断されたからこそ、巧みな調合技術や色上げ技術、細工技術が発展したようです。定められた金位の中で調合するヨーロッパのカラー・ゴールドと違い、日本の金属細工は美しさが優先されたため、はっきりとした色彩を出すことができたようです。

3-1-2. 特別な印象を持つ『黒い金属』

さて、現代の日本人としての感覚ではなく、ヨーロッパの上流階級になった気分で赤銅を見て、どのような赤銅作品をオーダーしたいかを考えてみましょう。

色彩豊かな金属による作品
日本の赤銅 イギリスのカラー・ゴールド&プラチナ
『芍薬と蝶々』
赤銅の鐔
大森秀永 18世紀
メトロポリタン美術館
鳥モチーフ ブローチ スリーカラー・ゴールド アンティークジュエリー『情愛の鳥』
卵形天然真珠 ブローチ
イギリス 1870年頃
SOLD

HERITAGEでお取り扱いするような、ハイジュエリーを見慣れているクラスのヨーロッパの上流階級は、まず間違いなく赤銅の『黒い色』に心を奪われるはずです。

イエロー・ゴールドやシルバーは見慣れています。ピンクゴールドを知っている人ならば、小豆色の銅も想像の範囲と言えます。黒、より厳密に言えば、漆黒の金属だけはアンティークジュエリーにはないのです。シルバーが黒ずんだ際の味わい深い色彩は、イギリスの上流階級にはお馴染みのものです。しかし、シルバーの黒ずんだ色と、赤銅の漆黒は全く別物です。

黒い素材のハイジュエリー
ピケ エナメル ジェット フレンチ・ジェット(ガラス)
アンティークのピケのクロス・ペンダント ブラックエナメル&クッションシェイプ・ダイヤモンドのモーニングリング スタイリッシュなスパイラル・デザインのウィットビー・ジェットのピアス フレンチジェットの蝶のスタイリッシュな黒のネックレス
オニキス ボグオーク グッタペルカ
カーブドオニキス&天然真珠&ホワイトエナメルのエドワーディアン・リング ボグオークの風景を彫刻したアンティーク・ブローチ グッタペルカの子猫とハイヒールのアンティークブローチ

黒は魅力ある色です。喪のジュエリーに限ることなく、ヨーロッパでも様々な素材で"美しい黒"が表現されてきました。ピケやジェットのような有機物、ガラス質のエナメルやフレンチ・ジェット、鉱物のオニキスなど様々ありますが、金属はありません。

『芍薬と蝶々』(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館

この鐔だと、中央の牡丹と上の蕾がシルバーです。下地や木の幹、牡丹の葉っぱの一部が赤銅です。同じ黒系でも、雰囲気が全く違いますよね。

また、魚子打ちでマット加工された赤銅と、ある程度ツヤのある質感で仕上げられた赤銅では、金属自体は同じ色彩でも、質感や雰囲気が全く異なります。

このような黒い金属による美術品を目にしたことがないからこそ、ヨーロッパ上流階級が黒を主役にした作品をオーダーしたいと思うのは必然です。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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これは金銀の桜を象嵌した宝物です。シルバーの桜は長い年月によって黒の雰囲気を帯びており、新品だった頃よりもさらに奥行きのある雰囲気となっています。赤銅の黒は、そのシルバーの黒とも明らかに違います。金銀象嵌は名脇役で、赤銅の黒による、闇夜の梟の動と静の表現が主役です。まさに、赤銅の黒を最大限に生かしたアートです!!!♪

3-1-3. ゴールドで実現させる赤銅の黒

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット

赤銅。

赤そうなのに、黒です。

そして、素材としては銅のイメージが強いですが、実はこの印象的な黒はゴールドあってこその色彩です。

日本の伝統的な金属の着色技法『煮色仕上』
処理前 煮色仕上後
【引用】特定非営利活動法人 日本杢目金研究所 / 金属の着色技法「煮色」 ©特定非営利活動法人 日本杢目金研究所

割金の配合だけでは、黒い色は作れません。表面処理をし、表面に薄い酸化皮膜を作ります。その酸化皮膜による色彩が、日本独自の色彩を作ります。この資料は特定非営利活動法人 日本杢目金研究所さんのものです。詳細はHPをご参照ください。

四分一(しぶいち)は朧銀(ろうぎん、おぼろぎん)の別名で、銀1:銅3です。ベージュを帯びた雰囲気のある色彩で、75%が銅とは思えません。銅も酸化させるか否かで随分雰囲気が変わります。銅100%は素銅(すあか)と呼ばれ、煮色処理すると小豆色になります。こうして見ると、赤銅の黒はミラクルな変化ですね!!

ゴールドの配合によって色味が異なる赤銅の黒
『蓮池と蛙』ウォルターズ美術館
"Japanese - Tsuba with a Frog in a Lotus Pond- Walters 51177 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0
『波龍図鐔』(守時信 19世紀)メトロポリタン美術館、エドワード・C・ムーア コレクション

赤銅は銅に1〜5%程度の金を加えた合金です。金の割合が7〜8%ほどになると紫がかった黒となり、『紫金』とも呼ばれます。

1〜5%程度の割合の中で、黒の色味は大きく変化するようです。1%程度だと墨色と表現されるほど真っ黒になり、3%程度だと何となく青みがかった黒、5%程度だとカラスの濡れ羽色と言われる青みがかった黒となります。烏銅とも呼ばれます。

色味の異なる赤銅を並べてみました。単品で見ると分かりにくいかもしれませんが、比較するとはっきり違いが分かります。古の日本人は『四十八茶百鼠』などの伝統色からも分かる通り、絶妙な色の違いをハッキリと認識し、大切にしてきました。心眼で見る日本人は、"雰囲気"を何よりも大切にしてきたからこそでしょう。そのような日本人にとって、上の2つは全く異なる色です。

日本人だからこそ、1〜5%という僅かな違いの中での色彩の変化を、熱心に研究できたのでしょうね。

赤褐色の亜酸化銅、酸化銅(I)
"CopperIoxide" /Adapted/CC BY-SA 3.0

煮色仕上によって、銅の表面に亜酸化銅の膜ができることで、純銅は小豆色に見えるようになります。亜酸化銅、すなわち酸化銅(I)は赤褐色です。

金を1〜5%含む赤銅も同様に、煮色仕上によって表面に亜酸化銅の膜ができるのですが、この僅か1〜5%のゴールドが色彩に劇的な変化をもたらします。

赤銅の亜酸化銅の皮膜には、5〜10nmの金の微粒子が分散しています。薄膜に侵入した光を金微粒子が反射したり吸収します。何度も反射と吸収が繰り返され、その結果、暗くなり黒く見えるのです。薄膜全体として見ると、赤銅の表面は光を反射せず、光を吸収して黒く見えるというわけですね。

『波龍図鐔』(守時信 19世紀)メトロポリタン美術館、エドワード・C・ムーア コレクション

金微粒子は青い光以外は吸収します。

つまり青い光だけは透過します。

このため、金の割合と分散状況によっては青みがかって見えます。

荒波であったり、立ちこめた暗雲などのように、表現したいものによってはとても有効ですね。

3-1-4. 純粋な黒の孤高の魅力

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

現代では殆どの人が、量産の既製品しか知りません。提示された、数少ない選択肢から選ぶだけです。

オーダーと称するものもフル・オーダーは稀で、大体はパターン・オーダーです。サイズや、選択肢の中から色を選ぶだけだったりします。それでもオーダーに慣れていない人には、適切に選ぶのも難しかったり、面倒に感じたりします。

赤銅も、色が決まっているわけではありません。黒系であるものの、どういう色味にするかは全体の雰囲気に大きく影響するため、とても重要です。

『花籠透鐔』(萩谷勝平&鈴木勝容 1860年頃)メトロポリタン美術館

ちなみに焦茶色系の色彩も、鉄で表現できます。

これは鉄の下地に四分一(銅と銀の合金)、金、銀を象嵌して作られています。

ベースは金を使った赤銅ではありませんが、ゴールドを使用した、間違いなく高級品です

象嵌細工の金属の鐔
焦茶系 純粋な黒 青み系
『花籠透鐔』(萩谷勝平&鈴木勝容 1860年頃)メトロポリタン美術館 『蓮池と蛙』ウォルターズ美術館
"Japanese - Tsuba with a Frog in a Lotus Pond- Walters 51177 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0
『波龍図鐔』(守時信 19世紀)メトロポリタン美術館

素材が高級か否かで選ぶのは、美的感覚がない成金がやることです。どの雰囲気が好みか、感覚で選べるのが"分かっている人"です。

黒は"強い色"とも言われます。何色にも染まらず、孤高の存在として主役になることができます。その一方で、何かを惹き立てる色としても最適です。Genのルネサンスも、私のHERITAGEのカタログのデザインも、背景色は明確な意図を以って黒を選びました。宝物の美しさに没入して欲しい、宝物の美しさを最大限に惹き立てたい。そう考えた時、やはり黒一択でした。

上の3つを比較すると、分かりやすいと思います。黄金の美しさを最も惹き立てられるのは、やはり純粋な黒です。青みがかった黒を黄金に組み合わせると、ガチャガチャしてうるさい印象です。青い色も主張するからです。特に青は黄色の対比色でもあるため、赤と緑のクリスマス・カラー並にゴチャるのです。

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット

その点で、オーダー主はさすがセンスのある選択をしたなと感じます♪♪

3-2. ロケットサイズの圧巻の宝物

鐔(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館 両面ロケット(1870〜1880年頃)
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント ←↑等倍

やったことがないと簡単に捉えがちですが、サイズも表現の仕方も異なるものにトライして、簡単であることはあり得ません。廃刀令後、大半の職人は失業しました。その後も活動できたのは、よほどの才能を持つごく一部の職人だけです。

ここまで細かく、かつアーティスティックな赤銅作品は他に見たことがありません。私たちがご紹介してきたジュエリーなどの小物を除くと、廃業した金工たちの有名作品は大型のものが多い印象です。

『十二の鷹』(鈴木長吉 1893年)【引用】国立工芸館 / クローズアップ工芸展 © 2023 The National Museum of Modern Art, Tokyo (MOMAT)

これは1893(明治26)年に制作された金属のオブジェです。本体は鋳造の青銅で造形しており、金、銀、赤銅、朧銀(四分一)の象嵌や彫金で装飾しています。

眼光鋭い鷲のローズカット・ダイヤモンドのゴールド・クラバットピン『EAGLE EYE』
イーグル クラバットピン
フランス 1890年頃
¥1,500,000-(税込10%)
『十二の鷹』(鈴木長吉 1893年)
【引用】中日新聞 / 欧米意識の姿、変遷たどる 工芸館1周年記念「《十二の鷹》と明治の工芸」 © The Chunichi Shimbun
眼光鋭い鷲のローズカット・ダイヤモンドのゴールド・クラバットピン

人物と比較すると、『十二の鷹』は等身大で制作された大作と分かりますね。鋳造なので空洞の作りです。

精巧な作りは『EAGLE EYE』も同じですが、金無垢なので見た目より重さを感じます。大勢で観る大作と違い、個人的な楽しみのために作られた知られざる存在であり、より贅沢です♪


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帝国技芸員・海野勝Eの作品
【帝国技芸員】海野勝E(1844-1915年) 【重要文化財】『蘭陵王置物』(海野 勝E 1890/明治23年)
"蘭陵王置物(らんりょうおうおきもの)" ©陳寅恪(12 April 2022)/Adapted/CC BY-SA 4.0
28.0×32.0×33.5cmの大作→

これも28.0×32.0×33.5cmの大きな作品です。金属のみで作られたとは思えないほどカラフルですね。貴金属などの素材に頼るのではなく、まさに芸術性を追った作品です。材料費に換算すると激安なのは、絵画と変わりはありません。現代では有名絵画の方が分かりやすいこともあって、とんでもない価格になっていますね(笑)

『柳馬図巻煙草入』(刻銘 :海野勝E 1844-1915年、金象嵌印 :芳洲生)東京藝術大学大学美術館 【出展】日本の美術8 No.111 夏雄と勝E 編集/長谷川栄 第26図 ©至文堂 夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

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これも海野勝Eの作品です。巻煙草入れなので、12.0×7.5cmの大きさがあります。ジャンルとしては両方とも、男性のステータス・アイテムとしての贅沢な小物ですが、サイズは全く違いますね。煙草入れは紳士の定番アイテムの1つだったので、上流階級の男性ならば1人1つは持っていたと想像できます。この他には壺などのオブジェや、絵画的に楽しめる金属板アートなど、ある程度サイズがあるものが一般的です。

今回の宝物のような、必需品ではない小さなロケットの贅沢品は、滅多にお目にかかれるものではありません。過去47年間で最高の赤銅作品ですし、今後もこれ以上の名品は出てこないでしょう。本当にラッキーでした!♪

3-3. 日本の天才職人ならではの心に響く表現

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

この宝物の作者は特定できませんが、当時のレートやオーダー主の属性から推測しても、日本で高く評価されていた職人だったことは確実です。

どのような人が高く評価される職人となり、どのように活動していたのか、当時の有名な彫金師を例としてご紹介しておきましょう。

その前段として、まずモチーフに関する重要なお話をご紹介します。

3-3-1. 深く広い教養と知識を持つアーティスト兼職人

【Genの推薦図書】鐔・小道具画題辞典I(沼田鎌次 1967/昭和42年発行)

これはGenの推薦図書の1つで、『鐔・小道具画題辞典』です。

1967年、戦後22年に発行された書籍で、著者は東京国立博物館の金工室長だった沼田鎌次氏が定年した年に書かれたものです。

沼田氏は旧水戸領に生まれ、祖父や父から水戸学を骨子とする精神と学問を身につけた、この道の第一人者でした。定年のタイミングから推測すると1907年頃の生まれで、士族だった時代も経験されていますね。お祖父様は武士身分もご経験されているかもしれません。

日本の場合、庶民も寺子屋で学ぶほど勉強が好きでした。武士ならば、なおさらです。以前はイギリス連合王国や神聖ローマ帝国、アメリカ合衆国同様、日本も小国の集まりのような状況でした。藩ごとに政治や文化、言葉なども異なっており、地域ごとに多種多様な魅力がありました。

武士に関しては藩ごとに水戸学、米沢学などがあり、藩校などで学んでいました。今でも元藩校だった高校が各地域に残っています。Genも元藩校出身で、上杉鷹山公の話をよくするのは藩校時代の影響という印象です。私も元藩校出身ですが、私の時代ですら古いものが多く残っていたり、校歌や応援歌が独特だったり、武士階級だった時代のプライドと文化が色濃く残っていました。そうは言っても、そのようなものは雲散して消えていく一方です。

スキーしに月山を登る若かりし頃のGen(1966年、19歳) Genと小元太のフォト日記より

書籍が書かれたのはGenが19〜20歳頃です。玄人向けのかなり渋い内容なので、その年でGenがこの本におか根を出せたことも素晴らしいです。Genがかなり特殊な感性と理解力を持っていたことが分かります。

1967年、当時60歳頃の沼田氏が『鐔・小道具画題辞典』を著したのは、ある危機感があってのことだそうです。まえがきを一部をご紹介しましょう。

 

『鐔・小道具画題辞典』まえがき

 この辞典の編集を思いついたのは古く、やがて十年に近い。日常、刀剣、鐔、小道具に接していて、最も閉口させられたのは、鐔・小道具にみる画題のときに難解、ときに不明のことであった。自身困ることも少なくなかったが、ことに愛好家から質問される場合にしかりであった。
 そんな場合、しみじみ感じさせられたことは、われわれ年配者ならイロハとして知っている図柄でも、このごろの若い人はこれを知らないということであった。これはこのままにして置くと間もなく何も判らなくなってしまうに違いない。今のうちに、判っているだけでも書きとめて置く必要があると痛感させられたのである。以下略

昭和四十二年八月 沼田鎌次

【引用】『鐔・小道具画題辞典』沼田鎌次 編著(1967/昭和42年 雄山閣出版株式会社)

 

Genが20歳の頃には、既にこのような危機感を抱く方がいらっしゃったことに、深く感じるところがありました。その想いをキャッチし、私にまでバトンを渡してくれたGenに感謝です。私もヘリテイジHPに記すことで、少しでも多くの方に想いや知識を遺していけたらと思っています。

1907年、明治生まれで、その道の専門家として東京国立博物を勤め上げた沼田氏でも、既に判らない画題が既にあったという事実。それほど本来、美術品のモチーフというのは難解で、正確に理解するのは難しいものなのです。例を挙げておきましょう。

3-3-2. 日本の伝統モチーフ『武蔵野』

これは明治期の帯留で、通常アンテイーク市場で見ることのできる昭和初期より古い時代のものです。見ただけでは、最初は「カッコよく鳥が飛んでいて、意匠化のセンスも優れている。」くらいにしか理解できませんでした。しかし、何となくこのような図柄を見た記憶があったため、書籍を開きました。

 

『武蔵野』の鐔
鐔 丸型 鉄地 裾文 象嵌
銘 埋忠七左衛門 橘重義(花押)
鐔 撫角型 真鍮地 高彫 透彫
銘 安親

『武蔵野』
 生い茂る薄の葉に露が結び、薄の根元に満月か半月を配する図を古来武蔵野といい、透彫もあり、ときに月を省くこともある。
 武蔵野は関東平野の一部で、(略)、今でこそいたるところにできた住宅・団地に圧迫されてしまったが、むかしは一面の雑木林と薄の原であった。関東武士の産地で、府中を軸に長い間の武家の戦闘・興亡の場であったが、反面、古くから歌に詠まれ文学にも描かれて、武に劣らず広く聞こえた場所である。

【引用】『鐔・小道具画題辞典』沼田鎌次 編著(1967/昭和42年 雄山閣出版株式会社) p.6

 

最初はなぜ三日月がこの配置なのか、よく分からなかったのですが、この作品が完全に武蔵野の構図であると判って納得しました。薄に露。三日月が懸かる、荒涼とした原野に羽ばたく雁の姿。

もともと琴線に触れるほど好きな雰囲気でしたが、モチーフが分かると、より広い情景をみて楽しめるようになりました。モチーフの理解の重要さを実感しました。

『武蔵野』紅梅 染め 刺繍 訪問着(大正〜昭和初期)
HERITAGE コレクション 

実はこのようなアンティーク着物も持っていて、これも『武蔵野』がモチーフだと判りました。

当時の上流階級の女性にとって、歌も重要な教養の1つでした。

樋口一葉(1872-1896年)の歌塾『萩の舎』のエピソードでも、当時の上流階級の女性たちを窺い知ることができます。

歌会では歌の出来栄えも大事。筆跡も大事。教養を込めた着物も重要。

大半のご婦人、ご令嬢には歌より着物の方が興味は高く、歌会そっちのけでファッションショーや着物の自慢大会のようになっていたとも言われます。

現代でもそのような状態は、想像できなくはないですね(笑)

武蔵野に関しては、古来からたくさん歌が詠まれています。

 行く末は 空もひとつの 武蔵野に 草の原より 出づる月かげ(九条良経、新古今和歌集)

 むさしのは 月の入るべき 峰もなし 尾花が末に かかる白雲(藤原通方、続古今和歌集)

 むさし野と いづくをさして 分け入らん 行くも帰るも はてしなければ(北条氏康、武蔵野紀行)

花札 中央にある薄の原に満月の札が『武蔵野』
"Hanafuda Koi-Koi Setup" ©Marcus Richert(22 February 2021, 14:36:48)/Adapted/CC BY 2.0 DEED

武蔵野は花札にもあるほど、定番のモチーフです。当時の教養ある人にとっては説明の必要もないほど、見ただけでそれと伝わるものだったはずです。

不思議なご縁で私の手元、同じ時空に集まった武蔵野の着物に、武蔵野の帯留。

この着物は露が金属箔で刺繍されており、本物の露のように輝きます。

様々な技法や表現の仕方があり、芸術を存分に楽しめる良い時代だったでしょうね。

3-3-3. 帝国技芸員・海野勝E

【帝国技芸員】海野勝E(1844-1915年)

当時の日本の職人は、成金ではなく教養を重視する上流階級でした。どのような職人が評価されたでしょうか。

超有名な彫金職人として、加納夏雄とその弟子・海野勝Eが挙げられます。

2人とも帝国技芸員です。帝国技芸員は現代で言う『人間国宝』のイメージです。人間国宝は常時最大116名ですが、帝国技芸員は1890年から1944年の13回の選定の中で計79名しか任命されておらず、惰性的な世襲などもない、エリート中のエリートです。

海野勝Eも先の沼田鎌次氏と同様、水戸で海野伝右衛門の四男として1844(天保15)年に生まれました。水戸藩士だった、叔父で初代・海野美盛の元で彫金を学びました。水戸派の金工というわけですが、武士という高い身分の人が職人だったことを意外に感じる方も多いかもしれません。職人が買い叩かれ、サラリーマンより低いイメージになったのは戦後のことです。上流階級が満足できる教養や美的感性を作品に反映させるには、職人自身も十分な教養や美意識が必須ですから、当たり前と言えば当たり前なのです。

勝Eは才能を認められ、叔父・美盛の紹介で、水戸彫金界の権威として知られていた萩谷勝平からさらに金工の諸技術を学びました。金工の大家、萩谷も水戸藩士でした。

勝Eは安達梅渓から絵を、武庄次郎から漢籍も学んでおり、アーティスト兼職人に必須の高い教養も身につけました。昔は、美術品を作る職人と言えば、芸術家も兼ねていたのです。

戦後は職人に何となく低賃金で労働搾取される、地位の低いイメージがつきました。しかし、野良仕事で忙しい庶民に、単なる技術とはまた別に絵や漢籍を学ぶような余裕があるわけがありません。芸術家を兼ねた職人は、相応の身分の人がなるものであり、教養に関してもオーダー主とも対等かそれ以上に会話できる人たちでした。

新しい技術を生み出したり、技術を向上させていくには、相当な頭の良さと知識が必要です。現代では、高学歴になれるような頭脳を持つ人たちが職人を目指すことはありません。今とは環境が全く違っていたのです。

PD第三回・内国勧業博覧会(1890年)メトロポリタン美術館

勝Eは明治初年に上京し、22歳となる1876(明治6)年に駒込千駄木町で開業しました。上流階級だからと言って、必要もないのに律儀に大学まで就職するというような時間と労力の無駄はなく、22歳で開業できるほど立派な職人になっていたというわけですね。

開業翌年の1877(明治10)年の第1回・内国勧業博覧会、1881(明治14)年に第2回の博覧会で褒状を得ました。1890(明治23)年の第3回の博覧会では『蘭陵王置物』で妙技一等賞を受賞しました。

【重要文化財】『蘭陵王置物』(海野 勝E 1890/明治23年)"蘭陵王置物(らんりょうおうおきもの)" ©陳寅恪(12 April 2022)/Adapted/CC BY-SA 4.0

『蘭陵王置物』は三の丸肖蔵館に所蔵され、重要文化財に指定されています。

1890年の第3回・内国勧業博覧会は出品人数77,432人、出品点数167,066点の規模でした。

この作品を作った時、海野勝Eは46歳頃です。経験も積み、職人として最も脂が乗った時期だったかもしれませんね。

まだ社会的に確固たる評価は確立しておらず、職人としてのプライドをかけ、魂を込めて作った作品と言えます。HERITAGEでは、オーダー制作による高級品とは別に、コンテスト・ジュエリーとしてカテゴライズする類の作品です。

雅楽『蘭陵王』を舞う姿がモチーフで、高度かつ多彩な金工技法を駆使して、装束の内側に至るまで紋様が施されています。また、面を取り外すことができるそうで、演者の素顔が現れる工夫もなされています。説明されなければ気づかずに終わってしまうような心くすぐる演出は、まさにGen好みの、Genならではの宝物に通じます。

江戸時代の細密工芸の流れを受け継ぎつつ展開した、写実性の地球という明治工芸の特色をよく示す海野の代表作とされています。

賞を取って有名になり評価が上がった後ではなく、名を上げようと言う情熱が最も高かったタイミングにこそ、1人の神技の職人にとっての、このような傑作が生み出されることにご留意ください。また、雅楽をモチーフにしていることから、高度な技術だけ持っていても、雅楽を心の部分から深く理解していないと創れない作品ということでもあります。

ブルー ギロッシュエナメル ペンダントウォッチ アンティーク・ジュエリー『ダイヤモンド・ダスト』
エドワーディアン ブルー・ギロッシュエナメル ペンダント・ウォッチ
フランス(パリ) 1910年頃
¥15,000,000-(税込10%)

コンテスト・ジュエリーこそ、私たちが最も高く評価しているのは論理的にも必然なのです。

人間国宝だから言って、毎回必ず傑作を創れるなんてことはありません。モチーフもネタ切れして、多少なりともデザインの使い回しになることは避けられません。

特に、職人としての一世一代のプライドをかけて、魂を込めて創ることができる傑作は、一生で一度しか作ることができないほど奇跡的なものなのです。

技術だけでなく、それだけの情熱も必須だからです。

『柳馬図巻煙草入』(刻銘 :海野勝E 1844-1915年、金象嵌印 :芳洲生)
東京藝術大学大学美術館 【出展】日本の美術8 No.111 夏雄と勝E 編集/長谷川栄 第26図 ©至文堂

勝Eは妙技一等賞を受賞した翌年、1891年に東京美術学校の助教授となりました。フェノロサの提言で、1889年に開校したばかりの時期ですね。同校教授で先達だった加納夏生に師事し、さらなる研鑽を積みました。1894(明治27)年には教授となり、翌年の第4回・内国勧業博覧会では出品者ではなく審査員となりました。

1896(明治29)年、52歳の誕生日に帝国技芸員を拝命しました。人間国宝に相当するので、職人としての最高の称号を得たと言えます。

勲六等瑞宝章
"Orders of the Sacred Treasure class6-010" ©uaa(3 January 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

1905(明治38)年には先達・加納に続き、勲六等瑞宝章を受章しました。

1915(大正4)年、71歳で逝去した後には従四位勲四等に叙せられました。

明治時代の従四位は、華族の爵位では男爵の初叙位階に相当し、陸軍・海軍だと中将に相当するそうです。華族に準ずる礼遇として位置付けられました。

現代の『職人』のイメージとは全く違いますね。技術のみならず芸術的な才能のある職人は高く評価され、相応の収入も十分にあり、中級貴族並の地位だったということです。

3-3-3. 帝国技芸員・加納夏雄

文化庁、東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館が監修した「日本の美術 8 No.111 夏雄と勝E 」(至文堂 昭和50年発行)には、こうあります。

「加納夏雄の出生は、まず庶民の出であることに興味がひかれる。しかも、当時彫金家として最も権力のあった、幕府の御用彫金家、つまり家彫の後藤家とは全く関係のない町彫師として世に出たのである。」

つまり庶民の出で、名前が残るほどの名高い職人になるというのは通常ではないということですね。独り立ちする前、技術と教養を身につけるためのお金や時間という問題もありますし、仕事を始めた後も縁故や地位に基づくコネクションは重要だからです。

伏見宮十四裏菊

加納夏雄は京都、山城国愛宕郡柳馬場の伏見氏の家に生まれ、本姓は伏見でした。事情があって、7歳の時に刀剣商の加納治助の養子になったそうです。

伏見と言えば、山城国出身の伏見宮家があります。そもそも庶民まで全てが苗字を持つことになったのは、平民が苗字を持つことを許された1870(明治3)年の『平民許容令』以降です。

1828(文政11)年生まれで、京都御苑も近い柳馬場出身の夏雄が伏見姓ということで、異例の大出世は分かる人には分かる、そういうことかもしれませんね。

【帝国技芸員】加納夏雄(1828-1898年)若い頃の自画像 【引用】「日本の美術 8 No.111 夏雄と勝E 」(至文堂 昭和50年発行)

刀剣商の元で育ったため、必然的に刀剣に興味を持つようになりました。

十一歳の時に養父が不幸に遭い、亡くなりました。以後は養母に育てられ、十二歳になると金工家の奥村庄八について1年以上、彫金の初歩となる魚子打ちや打ち出しなどを学びました。

実家に返したり他所で預かってもらうのではなく、夫をなくした後、女性1人で育てるだけでも大変なのに、弟子入りさせる余裕まであるというのは、やはり特別な出自をにおいますね。

その後、大月派の金工家・池田孝寿の門徒となり、毛彫や片切彫りなどの伝授を受けました。

この彫金修行の傍らで、中島来章に絵を習い、谷森種松に漢文の素読を学ぶなど、芸術家として必須の技術や教養を身につけました。今のイメージと違い、昔の職人は親方にお金を払って弟子入りするのが当たり前だったようです。技術のない初めのうちは、何の役にも立ちません。その一方で、教えるというのは手間も労力もかかります。だから、弟子がお月謝などのお礼のお金を払って、親方に技術を教えてもらうという合理的なシステムだったようです。その点で、養父が亡くなってるのに色々と習いに行けるほどお金があるのは、まさに一般庶民ではあり得ないのです。

1846年(18歳)頃に京都で金工を開業し、独立して夏雄と号を名乗り始めたと考えられています。数年ほどの研鑽後、1854年(26歳頃)に東京の神田に移りました。評判は高かったようで、各1年の受注量は50品前後という膨大な数にのぼり、鐔、目貫(めぬき)、小柄(こづか)、笄(こうがい)、縁頭(ふちがしら)、鐺(こじり)などの刀装を中心に制作しました。

さすがにこの数を1人の職人がハンドメイドするのは無理で、江戸に定着した夏雄は下彫師も抱えられるようになり、謂わゆる職人集団としての規模を持つ『夏雄細工所』として活動しました。

『鯉魚図鐔』


銘 夏雄(花押)(江戸〜明治 19世紀)文化遺産オンライン / 鯉魚図鐔 ©The Agency for Cultural Affairs

夏雄がなぜそこまで高評価を受けたかと言えば、高度な技術は勿論ですが、それ以上に芸術家としての才能が人を魅了したからだと思います。

『鯉魚図鐔』も、日本人以外はなかなか理解するのが難しそうな構図です。説明されないと、表裏も逆で解釈しそうですね。水面の水草。水中には鯉魚。表裏がある鐔ならではの、面白い表現ですね。Gen同様、アンティークジュエリーの裏側のデザインと作りに価値を感じる方なら、共感していただけると思います。

このようなアーティスティックな演出で、夏雄は人気を博したわけですね。夏雄細工所が最も盛況だった文久年間は、1862(文久2)年だと1年間の受注件数は40件、114点に達したそうです。数名の下彫師を雇ってこなしていたそうです。

『男山図鐔』と下絵(夏雄細工所 1861-1863年)
【引用】「日本の美術 8 No.111 夏雄と勝E 」(至文堂 昭和50年発行)

これだけ聞くと簡単そうに思えるかもしれませんが、そうではありません。

例えばこの『男山図鐔』は、田安徳川家大納言の誕生祝いのために、平賀駿河守の依頼で制作されました。

下絵のデザインだけで、3日間かかったそうです。現代アートのように、天才が閃きで一瞬にして完璧な傑作を作り上げるなんて、本当はおかしな話なのです。

表面的なデザインは可能でも、教養や美意識を細部まで詰め込もうとすると、必ず時間をかけて熟考することになります。

制作はさらに時間がかかります。4、5人の弟子との協同により、2年もかけて制作したそうです。現代ならば、誕生祝いなんて既製品を買って来て、すぐに渡すものという印象があります。昔は心から満足できるものを、十分に時間をかけ真心を込めて作っていたわけですね。

すぐ欲しいと我慢できぬ者は無個性な既製品で済ませ、オーダーしても、職人を急かす者は妥協の末の不十分なデザインと作りで渡される。本当に良い物を手に入れるには、然るべき心掛けも必要なのです。アンティークジュエリーでも、それらが伝わって来るものが"良いもの"です。

竹モチーフの鐔のデザイン画
一宮長常 加納夏雄
『竹図鐔下絵』(一宮長常 1836/天保7年)
【引用】「日本の美術 8 No.111 夏雄と勝E 」(至文堂 昭和50年発行)
『竹図鐔下絵』(加納夏雄 19世紀)
【引用】「日本の美術 8 No.111 夏雄と勝E 」(至文堂 昭和50年発行)

たくさんの人の思考の積み重ねで、新たな魅力あるデザインが生まれていきます。この竹図鐔はパッと見た感じは似ていますが、作者は別です。左は、夏雄が所有していた資料一括の中から出てきたものです。一宮長常のデザイン画で、これを見ながら熱心に研究したようです。鐔の丸い形に収めるために、工夫を凝らした様子が伝わってきますね。キャンバスに制約があるからこそ、デザイナーは知恵とセンスを駆使して面白いデザインを生み出せるものです。

右が夏雄のデザインで、夏雄ならではの表現が感じられます。心の眼で見てみると、表面的な見た目以上に、2人の作品は異なることが分かります。好みだとは思いますが、夏雄が当時随一の評判を得た理由は、分かる人には分かると思います♪

竹モチーフの下絵と鐔(夏雄細工所)
『竹図鐔下絵』(加納夏雄 19世紀)
【引用】「日本の美術 8 No.111 夏雄と勝E 」(至文堂 昭和50年発行)
『竹水図鐔』
『竹図鐔』

右が実際に、片切彫と薄肉彫で表現した鐔です。これはジュエリー・デザインにも言えることですが、下絵からは立体的な形は分かりません。だからデザインする側も、実際に作る側も、立体視や想像力などの特別な才能も必須です。だからデザイナーと職人を兼ねられる才能を持つ人が、最も制作には適しています。ただ言われたことをやるのがうまいだけの、秀才タイプの職人では高い評価は望めない世界です。

鐔図のためのエスキース(加納夏雄 19世紀)
【引用】「日本の美術 8 No.111 夏雄と勝E 」(至文堂 昭和50年発行)

これは鐔という限られた空間の中に試みた、フリーハンドのデッサンです。

専門家から見て、構図の形式化を打破するための自由な模索が認められるそうです。

普通の感覚の人だと、枠内に小綺麗に収めようとしがちです。しかしこのデッサンは、余白をいかに使って『間』を表現するかに創意工夫が伝わってきます。『間』を大切にし、こよなく愛してきた日本人の美意識を感じます。

でも、こんな下絵から作品を具現化していくなんて、日本の第一級の職人さんは本当に凄いですね。

夏雄の日誌によると、下画・地金準備・打出し・鋤出し・仕上げドウスリ磨き・銘彫りなどの各工程ごとに、専門の職人がいました。夏雄は制作依頼の請負元であり、制作のマネジメントや、アートディレクターを全て兼ねた職長・工房長・家父長的な存在として機能していたようです。

明治天皇(1872年、20歳頃)

明治維新後、1869(明治2)年4月に皇室御用を命じられ、刀剣愛好家だった明治天皇の太刀飾りを担当しました。

同年7月には当時大蔵卿だった大隈重信の指名で、新貨幣の原型制作も依頼されました。

実力もあり夏雄自身の評判の高さも言われていますが、ここまでとなると、やはり特別な出自はありそうですね。

加納夏雄らのデザインを元に製造された1円・竜銀貨(1870/明治3年)
"1yen-M3" ©As6673(14 November 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

これは産業への伝統技術の利用という、産業的にもチャレンジングな取り組みでした。量的に受注が可能な工房という意味でも、評判と実績的にも、職人集団を抱えた夏雄細工所は選ばれました。貨幣の意匠・原型製作・極印製造・貨幣量産という近代工場生産方式を採用した大阪造幣寮と協力するにあたり、夏雄細工所は職人を増やしたそうです。資料によると、職人は16人以上いたようです。夏雄は40歳を超えたばかり、職人たちは20歳前後の働き盛りの青年たちが殆どでした。高度な技術による手仕事でモノを作ると言うのは、本当に大変なことなのです。

当初は原型を制作した後、偽造防止のための極印(ごくいん)はイギリスに依頼予定だったそうです。しかし、見本を見たイギリス人技師ウォートルスがその完成度の高さに驚嘆し、「これほどの名工がいるのに、わざわざイギリスに依頼する必要はあるまい。」とコメントしたそうです。その結果、新貨幣はデザインから型の制作まで全て加納と弟子たちに一任されました。

【重要文化財】『直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲文宝剣」
刀身:奈良時代・8世紀、金具:加納夏雄 1873/明治6年
直刀 無銘(号 水龍剣) 附 梨地水龍瑞雲文宝剣 " ©ColBase; 国立博物館所蔵品統合検索システム, Integrated Collections Database of the National Museums, Japan/CC BY 4.0 DEED

1872(明治5)年には聖武天皇が佩剣していたとされる直刀の拵えを、明治天皇から命じられました。

1876年の廃刀令の交付では、多くの同業者が廃業に追い込まれました。しかし、実力と実績に加えて御用ブランドがあれば最強です。夏雄は注文が引きも切らず、煙草入れや根付の名品を作り続けたそうです。その気品ある作品は海外でも人気を博したそうで、その名は世界中に知れ渡りました。特に海外の人ならば、名高い職人に頼んでおけば安心ということにもなりますね。

東京美術学校記念写真
最前列左から6番目が校長・岡倉天心、最前列右から5番目が教授・加納夏雄

1890年の第3回・内国勧業博覧会では『百鶴図花瓶』が一等妙技賞を受賞し、宮内庁の買上げとなり、明治宮殿の桐の間に飾られたと伝えられています。

この年、東京美術学校の教授に就任し、第1回・帝室技芸員にも選ばれました。学校では海野勝Eと影響し合い、さらに感性と技術を磨いたことでしょう。1896年には明治天皇の命により、金具彫刻主任として『沃懸地御紋蒔絵螺鈿太刀拵』、1903年に川之邊一朝らと共に『菊蒔絵螺鈿棚』を完成させました。これらは俗に言う『明治の三大製作(三大作)』のうちの2つです。

工房を抱えて制作していたため、厳密に夏雄の作と言えるのか、厳密に分けるべきなど、専門家や愛好家の中では意見が分かれているようです。また、判断できなかったりもするようです。ブランドだけで判断する人たちにとっては、誰が作ったのかだけが重要ですから、熱心な議論が起こるのは無理ありませんね。そのものの純粋な価値で判断できるならば、本来は誰が作ったかなんて関係ありません。

3-3-4. 時代を反映した日本の職人による傑作

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット

日本の赤銅は、欧米では一種のブランドです。コレクター・アイテムでもあり、高価で取引されています。

特に今回のようなロケット・タイプは極めて珍しい上に、作品としての出来も良いので、欧米でも高く評価されているようでした。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント 夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

ただ、かなり作りも分かるディーラーですが、日本人ならではの芸術的な表現までは分からなかったようで、右側の梟について、なぜか片目が黒いとコメントしていました。この宝物の素晴らしさを真には理解していないと分かり、「絶対にHERITAGEに来てもらわなければ!!」と感じました。本当に分かる方の手元に行くべき宝物です。

桜舞い散る、静かな闇夜。木や枝は暗闇に溶け込み、1羽の梟がいます。

左は枝に留まり、爛々とした瞳で獲物か何かを見ています。右は、暗闇を音もなく飛翔する姿です。察知されてはいけません。だから驚くほど気配を消しています。獲物を狙いつつも、闇に気配を完全に同化させた姿。これこそが、片目が黒く、片目が黄金の梟の表現です。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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黒に黒で表現する。無音で飛翔する気配が聞こえてきそうです!

この赤銅が青み系でも小豆色系でもなく、黄金を含むからこその漆黒で表現されているのは明確な理由があってこそです。

3-4. 神技の作り

3-4-1. あり得ない立体造形

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット

赤銅の常識を知らないと、何てことないように思えるかもしれません。

しかし、この宝物の立体造形は、当時の技術でもあり得ない神技です!!!!!

赤銅は、硫酸銅と緑青を水に混ぜて沸騰させた液で煮込んで、酸化させることで着色します。

酸化膜があるとムラになるため、極限まで磨き上げた上で、煮込む直前に大根おろし液へ浸します。

日本杢目金研究所さんによると、均一に仕上げるために、金属表面を極限まで凹凸のない状態に磨き上げるそうです。

『蓮池の蛙』ウォルターズ美術館 "Japanese - Tsuba with a Frog in a Lotus Pond- Walters 51177 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 扇の鐔(江戸時代 18世紀-19世紀前半)
【引用】THE WALTERS ART MUSEUM ©The Walters Art Museum /Adapted.

さすがにツルペタでは何の面白みもありませんから、昔の赤銅は凹凸のデザインがあります。酸化膜を除去するための作業を想像すると、この程度の凹凸でも大変そうですよね。

生花する殿様と茶を差し出す姫様の江戸時代の赤銅ブローチ日本の金工による作品 赤銅ブローチ
赤銅:日本 江戸時代後期
フレーム:イギリス 19世紀後期
SOLD
秋の景色を描いた赤銅のアンティークブローチ『秋の景色』
赤銅高肉彫り象嵌ブローチ
日本 19世紀後期(フレームはイギリス?)
SOLD

鐔より遥かに小さな宝物です。左の宝物は花切ハサミや花台などを、チャレンジングな凹凸で作っています。『秋の景色』は赤銅自体の凹凸は殆どなくて、金銀象嵌細工の方に力を入れた作品です。

明治初期の赤銅の鶴の扇ブローチ
明治初期の赤銅の鶴の扇ブローチ

扇型 SHAKUDOU ブローチ
日本 1880年頃(明治初期)
SOLD

この宝物も赤銅の凹凸は緩やかで、金銀象嵌がメインにデザインされています。表現したい理想だけでなく、技術の幅も見極めながらデザインします。デザインは頭を使う、本当に大変な作業なのです。

鐔(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館 両面ロケット(1870〜1880年頃)
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント ←↑等倍

今回の宝物は小さい上に、鐔の最高級品でも見ないほどの複雑な立体凹凸を有しています。造形自体も驚異的ですが、酸化膜を除去する工程を考えると、一体どうやってこの複雑な形状を完璧に磨き上げたのか謎なほどです!

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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2次元の画像では立体感を表現しきれませんが、複雑な上にかなり高低差もある形状です。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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金銀象嵌による桜の花も平面的な配置ではなく、積み重ねて奥行きを表現しています。実物の大きさを考えると、いかに難度の高い表現に挑んだか分かります。花の形も絶妙ですし、彫金も見事なものです。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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梟だけでなく、桜の木や枝の表現も巧みです。片方の翼は枝の奥、もう片方は幹の手前に表現されており、闇の中、木々を縫うように飛翔する"奥行き"が伝わってきます。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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枝に留まっている面の梟も見事です。グ〜ッと体をかがめ、足で枝をしっかり掴んでいます。休んでいるのではなく、虎視眈々と獲物を狙っている様子が伝わってきます。翼は既に開きかけており、獲物めがけて飛び立つ直前ですね!

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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梟と枝が交差する箇所は、特に形状が複雑です。画像では分かりにくいですが、枝と翼の交差箇所には実際に空間があります。まるで本物の枝のミニチュアです!!形状や取り付けるということだけでも神技ですが、黒色化のための均一な磨き上げを考えると、とても人間技とは思えません!!!

3-4-2. アーティスティックな彫金

3-4-2-1. 梟の表現
『蓮池の蛙』ウォルターズ美術館 "Japanese - Tsuba with a Frog in a Lotus Pond- Walters 51177 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0

赤銅は色を均一にすることが難しいため、極端な凹凸を作ったり、微細な彫金で質感を表現したものは昔の名品でも殆どありません。

磨いて綺麗に酸化膜を除去できないと、均一な色に仕上がりません。凹凸があるほどに、綺麗に酸化膜を除去することは困難となります。

彫金に関しては、象嵌する金銀にメインで施すのが通常です。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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この梟は身体の凹凸の巧みな表現も見事ですが、それに加えて、各箇所の彫金の表現による質感の出し方も見事です!!♪

実にアーティスティックです♪♪

鐔(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館
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赤銅への超難度の彫金を駆使した作品としては、メトロポリタン美術館所蔵の18世紀の鐔があります。今回の宝物より古いですが、産業革命を迎えたのが明治以降の日本の場合、18世紀と19世紀で技術的な差はほぼないとみられ、どちらかと言えば職人本人の才能で差が出ると言えます。

これは神技の魚子打ちがメインの鐔です。魚子打ちは専門の職人がいるほど、特殊な細工です。アーティスティックに表現するのとは方向性が真逆で、間隔とタガネの押し込み深さを機械レベルに均一にすることで、美しい質感を創り出します。

おそらく他の職人によって、葉や木の質感も見事に表現してありますが、今回の宝物よりサイズは大きいです。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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凹凸による表現だからこそ、光の角度でかなり印象が変わります。頭部も翼も、アーティスティックな才能を持つ職人ならではの神技の表現を感じます!♪

赤銅と黄金、どちらの目にも瞳孔が表現されています。赤銅の梟自体は他にもあるようですが、瞳孔が表現されたものは他に見たことがありません!!

『秋草に鹿図鐔』(藤原壽良 19世紀)メトロポリタン美術館
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同様の技法は唯一、メトロポリタン美術館所蔵の『秋草に鹿図鐔』にのみ見ることができました。鹿の瞳孔や、体の模様が象嵌以外の技術で表現されています。金属でこれだけ色彩を表現できるなんて、今では想像もできません!職人や工房ごとに秘伝の技術があったはずです。秘伝の価値がある技術を思いつく職人には、頭の良さと研究熱心さも必須です。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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瞳孔があることで、この梟には精気が宿っています。一般的な人はそこまで重視しないので、高度な技術や手間をかけてまで瞳孔は表現されません。しかし、分かる人にはこの違いは決定的です。目のないダルマと同じです(笑)

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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枝に留まった梟も、獲物めがけて飛び立つ直前の、翼を広げ始めた一瞬の描写が見事です!これは体の造形だけでなく、各パーツに施した彫金の、的確な模様あってこそです!!

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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等間隔な均一模様ではなく、絶妙なランダム模様です。職人の美的感覚が反映されたものです。単純な技術面だけでなく、美的感覚と言う面でも恐るべき神技と言えます。どうやったらこの模様を思いつくのでしょうね。
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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あらゆる角度から見て、本当に素晴らしいです。実物の大きさを考えると信じがたいです。これぞ正に、誇るべき日本の最高峰の職人技ですね!!
3-4-2-2. 木の見事な表現

ヨーロッパの『理想の美』は完璧主義で、対称性の高さや完全無欠さを追求する、人工的な方向に意識がありました。

日本はその逆で、ありのままの自然に美しさを求めました。日本美術の『理想の美』の表現では、敢えて不完全な状態を表現します。敢えて不完全な状態を表現します。見た者が、それぞれにとっての過去の経験や想像力を元に意識の中で心象風景を描き、その情景から感情の揺さぶりを起こします。

特に日本美術から影響を受ける以前の西洋美術では、強いこだわりを以って樹木を表現したような作品はほぼありません。一方、日本人は樹木の表現はとても研究熱心で、得意でした。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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規則正しいものを作るのは、ある意味簡単です。自然らしさを感じる木の表現は、特別な美的センスを持っていないと不可能です。金属で表現しているとは思えぬほど、形も樹皮のの質感も自然な印象です。

鐔(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館

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夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

メトロポリタン美術館所蔵の18世紀の鐔に表現された木の質感もさすがの表現ですが、今回の宝物は別次元です。より小さな表現ですが、木の形も素晴らしいですし、質感を作る神技も遥かに上です。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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この限られた面積に、実に美しく桜の木を表現しています。闇夜を舞う梟との構図も、実に素晴らしいです。ググッと曲がった枝や、木のウロなども日本人らしい感覚ですよね♪

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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まるで本物の木のようです!!♪

それなのに、ロケット・サイズというのが良いですね。鐔より遥かに小さな美術品です。凄い挑戦だったはずですが、見事に具現化しましたね!

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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もう一方の面の桜の木も、幹や枝ぶりの形と質感が素晴らしいです。この域に達するまでに、作者はどれほど木々を観察し、練習を重ねてきたのでしょうね。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

右上の桜の枝は、一部がゴールドで表現されているのも素晴らしいです!!♪

時間が経ち、強靭さを持つようになった枝は黒の赤銅で表現されています。それに対し、生えたばかりの若い枝葉の柔らかな息吹を、このゴールドで表現しているのです。徹底した表現ですね!♪

3-4-3. 幻想の美しい桜

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

この宝物にとって、夜桜は名脇役です。

主役の梟や、見事な表現の木の幹などに目が行きがちですが、桜の花も驚くほど徹底した美意識とテクニックで表現されています。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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銀の部分は100年以上の時を経て、"雰囲気"が育っているのが良いですね。イエローゴールドの他、グリーンゴールド或いは四分一(朧銀)も使って複雑な色彩を表現しているようです。蕾は単純な形ではなく、彫金されて芸が細かいです♪♪

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

舞い散る桜の花びらも蕾も、金と銀の両方で表現されています。単色だと表現できない、深い奥行が感じられます。葉っぱの角度や色もそれぞれです。蕾の茎の角度も様々です。画像右下にある蕾は上を向いており、茎も少し太めのゴールドで表現されています。他の蕾の茎は、目立たぬようシルバーのナイフエッジで表現されていることから、対照的な表現と言えます。

いかがでしょうか。まるで本物の桜を見ているかのようです。思い起こされる記憶の中で、「ああ、まさにこんな感じで咲いていたなぁ♪」と景色が浮かびます♪♪

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

一面に表現された桜の花ですが、例えば画像の左下辺りにある、幹に直接咲いている桜の花の集団がモヤっとした形で表現されていることにお気づきになった方もいるでしょうか。

人間の眼は、見たい物にフォーカスします。それ以外はボヤけていると言われます。プロ・カメラマンなどがアーティスティックな写真を場合、フォーカスを意識して、わざと強くボヤけさせるテクニックがあります。画家などでも、意識して使う表現です。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント

幹に直接咲いた桜と、枝に咲いた桜では奥行き的な位置が違います。これを表現しているのです。

今のスマホ・カメラやデジカメは、オートフォーカス機能によって全てにピントが合った画像となります。しかし、情動を起こす写真を撮ろうとすると、ピントを調整できる必要があります。プロのカメラマンに今でも一眼レフが必須なのは、人間が感覚的にピントや光などを調整する必要があるからです。調整には個人の美的感覚と技術が大きく効いてくるからこそ、プロにも腕の良し悪しがあるわけです。

夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント 夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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小さな面積の中に、信じがたいほど幽玄で美しい景色を表現しきった宝物です。日本の天才職人が創り出した、世には知られざる稀代の宝物です!!♪

4. 見事な作りの両面ロケット

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット 日本の職人による『至高の芸術』を完成形とするために、イギリスの第一級の職人にロケットをオーダーしています♪

4-1. 第一級の職人技を感じられるロケットの開閉

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット 夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット

この宝物は、蝶番が付いているのとは逆側に、開けるためのとっかかりが上下2箇所に作られています。

限りなく目立たぬよう、僅かに出っ張りとなっている部分です。

アンティークのロケット・ペンダントの中
アンティークのロケット・ペンダントの中

精緻な作りで、ガラス蓋はピッタリと収まります。

アンティークのロケット・ペンダントの中

開閉部分も、とても精緻な作りです。両面が赤銅なので、重量があります。このため、バチカン部分も堅牢な作りになっています。美術品であり、ヘビー・ローテーションするようなものではないため、摩耗感はほとんど感じません。

アンティークのロケット・ペンダントの美しい彫金
アンティークのロケット・ペンダントの美しい彫金
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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特別な身分の男性のステータス・アイテムらしい、重厚さ漂う極上の作りです。

4-2. 高級感あふれる美しい彫金

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット

主役の赤銅は、とてもアーティスティックな表現です。

それに対し、名脇役として『額縁』となるロケットは、どのようなデザインが良いでしょうか。

オーダー主と、信頼するイギリスの職人が綿密に議論して出した答えが、この規則正しいエレガントな彫金です。

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット

アーティスティックな作品に、別の作者がアーティスティックな額縁を添えると、どうしても噛み合わない雰囲気が出てしまうものです。

規則正しいパターンを精緻に施すことで、惹き立て役に徹することができます。

市松模様状にパターンがデザインされています。

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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黄金の輝きが美しい四葉のような面と、微細な直線による幾何学パターンが繊細な輝きを放つ面で構成されています。開閉のためのとっかかり部分は曲率がありますが、そこも綺麗に辻褄が合わせてあります。高度な職人技です!♪

アンティークのロケット・ペンダントの中
アンティークのロケット・ペンダントの美しい彫金
夜桜を舞う梟の赤銅ロケット・ペンダント
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開閉部分までパターンが綺麗に合うよう、極めて正確に彫金されています。

日本の最高峰の赤銅職人と、イギリスの最高峰の金細工師にオーダーした、イギリス貴族の贅沢な宝物・・。

夜桜を舞う梟のミュージアムピースの明治期の赤銅ロケット いつまでも眺めていられる、小さな美術品です♪♪

着用イメージ

梟の赤銅ロケット・ペンダントの着用イメージ
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

重量があるので細いチェーンは向きません。撮影に使用している15ctスーパーロング・ゴールドチェーンは参考商品です。

夜桜と梟の赤銅のロケット・ペンダントの着用イメージ
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

黒のシルクコードをご希望の場合は、サービス致します。赤銅の黒化層は薄いので、摩耗の激しいご使用はお避けください。手元で眺める美術品として楽しんでいただくのも素晴らしいと思います♪

 

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