No.00351 夜桜を舞う梟 |
小さなロケットに込めた日本の最高峰の職人の『静と動』の表現 |
梟にも桜の花や木にも隅々まで精気が宿った傑作!!♪ |
The Art of Gold |
『日本の黒』を駆使した芸術!!♪ |
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『夜桜を舞う梟』 「こんな作品が作られていたなんて!!」と感激しました。日本最高峰の職人技と、日本人ならではの美的感性が込められた奇跡の赤銅芸術です。もちろんミュージアムピースです!♪ |
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江戸から明治に移り、廃刀令によって鐔職人の殆どが仕事を失いました。そのような中、最高峰の腕を持つごく一部の職人だけは海外を意識した美術品制作に活動の場を移し、新たなチャレンジを始めました。西洋と影響し合い、国内でもトップクラスの職人同士の競争で切磋琢磨できる環境が生じ、日本美術は飛躍的な発展を遂げました。需要が一巡し、人件費や為替などの点で海外からオーダーするメリットも失われ、需要が収縮すると、あっという間にそのような美術品制作はできなくなります。日本も産業革命を経験し、新たに鐔職人を目指す者もいませんから、高度な職人技もすぐに失われてしまいました。 |
この宝物のポイント
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1. アングロジャパニーズ・スタイルの最高級品
1-1. 日本美術が社交界で最も注目された時代の宝物
赤銅は高位の王侯貴族から高い評価を得て、社交界全体で流行し、下の身分の人たちにも憧れの日本美術アイテムとして広がっていきました。高位の王侯貴族から末端に至るまでの低位の上流階級、そこからさらに金持ちの中産階級、いわゆるブルジョワジー(産業資本家階級)まで広がりました。 ジュエリーまで大量生産の工業製品となった現代と異なり、技術と手間をかけたハンドメイドが当たり前だったアンティークの時代は流行が降りてくるまでに相応のタイムラグがありました。作るだけで数ヶ月、長いと年単位をかけるようなものだからです。だから、流行も庶民に降りてくるまでに数十年かかることは普通でした。 良いものが作られるのは流行の初期段階です。まだ知られざる存在である時代、高位の王侯貴族がお金に糸目を付けずオーダーして、当時の第一級の職人に作らせるタイミングです。下の身分に至るまでの大流行期に入ると、ハンドメイドといえども安く早く数をこなすだけの大量生産となります。だから流行したどんなものにも作りの悪い粗雑なものが存在しますし、数としてはそのようなものが圧倒的に多いです。市場の大半です。 |
この宝物は色々な意味で、まさに最高のタイミングで作られたミュージアム・ピースです。 奇跡のタイミングが揃ったことによる、超特別な赤銅アートの宝物です!♪ |
1-1-1. 長年ヨーロッパ上流階級には手に入らない憧れの存在だった日本美術
『鎖国』は1639年の南蛮船入港禁止から、1854年の日米和親条約締結までの期間を呼びます。 以下が、江戸幕府による政策です。 海外との交流が全くなかったわけではなく、あくまでも『制限』されていただけです。人や情報、物の移動は『四つの口』による正規貿易と、密貿易により行われていました。 |
糸車と若い女性(フランス Juste Chevillet&Johann Casper Heilmann 1762年) | 髪の毛を紡ぐための蒔絵の糸車(フランス 1750-1770年)ヴィクトリア&アルバート美術館 |
あくまでも制限があっただけなので、輸出は行われていました。このように、鎖国中の時代でも日本美術を使ったヨーロッパの美術工芸品は一定数存在します。 これは高貴な女性のために制作された、髪の毛を紡ぐための糸車です。髪の毛を使ったヘアワークは上流階級の女性の重要な手習の1つです。糸紡ぎのための道具でもこのような特別オーダーで作られるなんて、当時の高位の王侯貴族の贅沢な暮らしや美意識の高さが伝わってきますね。 |
長崎の出島(アーノルド・モンタヌス 1669年) |
異国や異域に対して開かれていた『四つの口』は、以下です。 ヨーロッパと直接つなぐのは長崎口ですが、その他の地域を経由しての物流もあり、様々なルートでヨーロッパにも日本美術は持ち込まれました。ヨーロッパの王侯貴族からのオーダー制作もやっていました。 |
ハプスブルク皇家の母娘2代による蒔絵コレクション | |
女帝マリア・テレジア(1717-1780年)1762年、45歳頃 |
【参考】娘マリー・アントワネットの日本の蒔絵コレクション(江戸中期 17世紀後半-18世紀半ば) |
輸出入は可能と言っても、かなり高いハードルではありました。このため、鎖国政策中は王族やそれに準じるほどの高位の身分でなければ日本美術は手に入りませんでした。 マリー・アントワネットの日本の蒔絵コレクションは、当時ヨーロッパで最も優れた蒔絵コレクションとして知られていました。女帝マリア・テレジアの50点のコレクションを受け継ぎ、さらに8年間をかけて約30点を追加したものです。コレクションを個人的に楽しむために、ヴェルサイユ宮殿内のプライベートなリビングルームのキャビネットを、専用スペースとしてわざわざ改装したほどです。 高い評価がありながら入手が困難であり、王族クラスでしか持てないような、貴族にとっても憧れの存在だったのが日本美術だったと言えます。 |
1-1-2. 日本美術の観点からもヨーロッパ貴族にとって待望だった開国
『日本誌』エンゲルベルト・ケンペル著(1727年の英語版の表紙) | 長崎の出島はヨーロッパ人の滞在が許されており、日本の様々な情報も『出島の三学者』などから紹介されていました。 知的階層も兼ねたヨーロッパの王侯貴族は、日本のあらゆる物事に興味津々でした。 しかし、情報はあれど物流や交流が極めて制限されていました。だからこそ、より強く好奇心を醸成しました。 日本美術は開国以前から待望であり、開国前の1851年頃からイギリスで日本美術との折衷様式である英和スタイル(アングロジャパニーズ・スタイル)が発展し始めたとされるのは、そのような背景があったからです。 |
1-1-3. 一般的には誤解も多いヨーロッパのジャポニズム
パリで活躍したユダヤ系ドイツ人の美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)1899年、61歳頃 | ヨーロッパのジャポニズムと聞くと、一般にはフランスのアール・ヌーヴォーやアール・デコをイメージする方が多いと思います。 それで儲けたい人によって、フランスをメインでプロモーションし、権威化やブランド化されていることが大きな原因です。 |
ボン・マルシェ百貨店(1887年) |
フランスのアール・ヌーヴォーは、ベルエポックのパリで大流行しました。普仏戦争に敗戦し、皇帝ナポレオン3世が廃位となり、上流階級という身分もなくなり、フランスはいち早く大衆の時代に突入しました。状況としては第2次世界大戦後の日本と同じです。敗戦後の復興で勢いに満ちた大衆の時代です。 ベルエポックのパリは、高度経済成長からバブル期にかけての東京をイメージするのが正しいです。 贅沢品や大量消費の経験がない、無数に存在する大衆。そんな大衆が初めて贅沢できるほどのお金を持つことで、どんな物でも売れば儲かり、経済が回った時代です。いわゆる百貨店全盛期です。 |
【参考】大衆向けアールヌーヴォー・ジュエリー | ||
売れば売るだけ儲かります。どんなものでも売れます。商売人はそんな時代に、手間と時間をかけたモノづくりなんてしません。何でも良いから早く安く作り、おびただしい数の大衆に売りまくります。上流階級のように常連にはなる買い方はしませんから、適当なものを適当に売るだけです。庶民相手の商売だと、特にジュエリーのような高額商品の場合は、1度買ってもらって終わりというビジネスモデルです。 ハイクラスのアンティークジュエリーはそもそも制作数が少なく、以前より枯渇が進んでいます。良いものを専門に扱っていた人たちは中心地ロンドンでも廃業したり、ヴィンテージや中古に手を出すようになっている状況です。一方でこの時代の大衆向けに販売された中古品は、チャチですが数だけは無数にあります。目利きできる能力も不要で、特殊な仕入ルートも要りません。素人でもマーケットに行けば、安値で入手できるレベルです。 ボロい商売をしたい人たちがさも"良いもの"の如く、価値なきものまで見境なくフランスやアール・ヌーヴォーなどを権威化しました。権威やブランドを使うと、正しい知識や見る目がない大多数の人に対しての販売は、とても楽なのです。問題なのは、理解力がある人たちにとっても正しい知識が得難い状況となっていることです。 |
フランス王妃マリー・アントワネットのキャビネット(メトロポリタン美術館) 漆器:日本 17世紀、キャビネット:ジャン=アンリ・リーゼナー 1783年 |
フランスがヨーロッパの中心、世界の中心として機能していたのはフランス革命以前までです。 革命政府による一時的な共和政の後、ナポレオンが帝位に就きましたが、新興貴族は文化や教養の面で洗練されているはずもありません。それまでの上流階級は多く処刑されましたし、革命から発展したフランス革命戦争やナポレオン戦争は、実質的には『世界大戦』と言われるほど被害が甚大でした。600万人以上が亡くなったとみられています。 特にフランスはナポレオン戦争だけでも約200万人以上が亡くなったとされ、特に青壮年男性を中心とした生産年齢人口の伸び悩みは深刻でした。1793年の国家総動員法に基づき、一般庶民まで徴兵制によって参戦することになったのが大きいです。 |
1792年8月10日の戦いを前にし、フランス元帥マイイを伴って整列するスイス衛兵隊の前を通り過ぎるフランス王ルイ16世 |
フランス革命戦争やナポレオン戦争で、フランス一国が各国の連合軍となぜ戦えたかと言えば、フランスの庶民を広く動員して戦ったからです。 数こそ多いですが、プロとそこら辺の突然動員された一般人とでは戦力として大きく差があったはずで、相当な数の一般フランス人男性が亡くなりました。
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ヨーロッパ世界(1700-1714年) | ||
イギリスが19世紀は世界の中心として覇権を握りましたが、元々ヨーロッパの中では辺境の田舎でした。文化的な中心地で見聞を得るために行われたのがグランドツアー(ヨーロッパ大陸旅行)です。 イタリアは古代ローマやルネサンスなど、主に過去の学芸を体感することを目的とし、フランスはヨーロッパの要衝としてヴェルサイユ宮殿を中心に発展した、パリ社交界の宮廷文化やマナーの会得が主目的でした。このような環境は、人口にも現れています。
現代こそ同じくらいという印象ですが、18世紀末の時点ではフランスはイギリスの3倍ほどの人口がありました。これは国力や賑わいを表していると言えます。 18世紀末から19世紀初期にかけて多くの成人男性を失った結果、フランスの人口は長年伸び悩み、国力でイギリスやドイツに抜かれ、その後は台頭するアメリカにも抜かれることになりました。かつての中心地に、2度と同じような反映は訪れませんでした。 |
フランスの支配体制の変化 | ||||||
ブルボン王朝 1589-1792年 |
共和政 1792-1804年 |
ナポレオン帝政 1804-1815年 |
ブルボン復古王朝 |
オルレアン王朝 1830-1848年 |
第二共和政-帝政 1848-1870年 |
第三共和政 1870-1940年 |
ルイ16世(1754-1793年) | マクシミリアン・ロベスピエール(1758-1794年) | ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年) | ルイ18世(1755-1824) | ルイ・フィリップ(1873-1850年) | ナポレオン3世(1808-1873年) | アドルフ・ティエール(1797-1877年) |
フランス革命後、19世紀のフランスは100年も満たない期間に6度も支配体制が移り変わっています。王政で代替わりしたり、共和政で首相が交代するのとは訳が違います。これだけコロコロと変わると、上流階級も庶民も安定しません。経済や文化が発展するのも困難です。 フランスが世界に遅れをなしていた産業革命を経験し、経済的な繁栄を手に入れて文化的にも盛り上がるのは、庶民の時代となったベルエポックになってからでした。普仏戦争に敗戦後、戦後復興に沸いた1880年以降頃からのことです。 |
1-1-4. 知られざるイギリスに於けるジャポニズムの重要性
ヨーロッパでジャポニズムを牽引したのはイギリスでした。外交、政治、文化の観点からも、当然と言えば当然です。 世界に先駆けて産業革命を経験したイギリスは、中産階級勢力を無視できなくなっていました。今までは上流階級を中心に政策が行われていましたが、中産階級にも目を向ける必要が出てきたのが19世紀半ば頃でした。庶民も富を持ち始め、新興の資本家層が台頭し始めた時期です。 鉄道網が整備され、庶民も日帰り旅行が楽しめるようになった頃です。今の私たちには当たり前のことでも、初めて体験する当時の人たちにとっては、大いにお財布の紐も緩んだことでしょうね♪ |
1840年のロンドンからの鉄道網 |
近代ツーリズムの祖トーマス・クック(1808-1892年) "Thomas.Cook" ©Unknown author(before 1892)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | イギリス人実業家トーマス・クックにより発明された"団体旅行" ©Thomas Cook |
鉄道チケットは庶民にとって決して安いものではありませんでしたが、イギリス人実業家トーマス・クックが大勢で貸し切って一人あたりの運賃を安く抑えることを思いつき、団体旅行を発明しました。1841年に570名の規模で世界初の団体旅行が開催され、1851年にロンドンで開催された世界初の万博では団体旅行で16万人も送客し、成功を収めました。こうして19世紀後半は、中産階級をターゲットとした団体旅行が大ブームとなりました。 |
イギリスの男女別の識字率の推移 【引用】Our World in Data / Literacy by Max Roser and Esteban Ortiz-Ospina(First published 2013; last revision September 20, 2018) © Max Roser /Adapted/CC-BY |
ただ、当時の庶民は蓄財はできるようになっても、教育面が不十分でした。1840年頃のイギリス全体の識字率は50%強に過ぎませんでした。庶民の約半数が、自分で本を読んで学ぶことができず、文章を書いて何かを伝えることもできない状況でした。 蓄財した庶民に何かを買ってもらい、文化的にもより豊かな生活を送ってもらうには、相応の教育を施すことは必須でした。ただ、王侯貴族のように1人1人に何人もの専門の家庭教師を雇って教育するのは不可能です。 そこで、団体旅行と同じく教育も広く大勢に対して実施できる手段が採用されました。万博や美術館などの、大衆向けの大展示会方式です。それまではごく少数の上流階級だけで行うだけで良かったので、内々で小規模かつ上質で行われていたものを、広く浅くながらも1人あたりのコストを抑え、大規模にしたのがこれらというわけです。 |
ヴィクトリア&アルバート美術館の旧建物(フィリップ・ノーマン 1899年) |
大成功を収めた1851年のロンドン万国博覧会の収益や展示品を元に、翌年1852年に装飾美術館が開館しました。後のヴィクトリア&アルバート美術館です。 ロンドン万博には、ヨーロッパ各国が威信をかけたあらゆる展示品を出展しました。その結果、当時のイギリスの産業製品は、デザインの質が著しく低いことが露見しました。産業革命によって効率重視となり、デザインは後回しだったわけですね。そこで国民全体の趣味やセンスの向上を目的とし、啓蒙と教育のために設立されました。 |
蒔絵の書道具(江戸後期 1825-1860年頃)V&A美術館 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
その一環として装飾美術館は1852年に日本の磁器と漆器のコレクションを購入し、続いて1854年にも、ロンドンの王立水彩協会で開催された展示会で日本の美術工芸品を37点、追加購入しています。 開国以前から、特にイギリスでは日本美術への関心が高まっていたわけです。特に、国民に手本を見せたり指導的な立場となるべき、上流階級や知的階層がそのような状況だったと言えます。こうしてイギリスでは他国に先駆けて、日本美術に影響を受けたアングロジャパニーズ・スタイルという新しい美術様式が試行錯誤され、発展していったのです。 王侯貴族が安定して存在し、国家規模で影響するような政治経済的な大混乱もなかったからこそ、19世紀から20世紀初頭にかけてのイギリスは実は流行・文化的な先進地でもあったのです。金融や政治外交、科学の中心地としてのイメージが強いせいで、案外イギリス人自身にも知られていない事実です。 |
1-1-5. 上流階級の日本美術そのものへの関心が最も高かった時代
19世紀後半からアールデコにかけて、デザインは著しく進化していきました。アールデコ以降は『モダン・デザイン』や『インターナショナル・デザイン』と言われる通り、無国籍化して個性がなくなり、殆ど進化もしていません。むしろコストカットのための手抜きによって、今のデザインは昔より劣化しているとすら言えます。 |
19世紀後半からアールデコまでのデザインの進化 | ||||
試行錯誤の多様性が 大きい19世紀後半 |
モダンスタイル (1900年前後) |
エドワーディアン (1910年頃) |
アールデコ前期 (1920年代) |
アールデコ後期 (1930年代) |
SOLD |
SOLD | SOLD |
SOLD | SOLD |
ヨーロッパの美術様式と、日本の美術様式は全く異なるものでした。ヨーロッパの様式に上手く取り入れて昇華するために、19世紀後半はたくさんの試行錯誤が精力的になされました。 1900年頃になると大分固まってきて、『モダンスタイル』が1つのジャンルとして確立します。そこからヨーロッパらしさが強く出た、エドワーディアン様式に移っていきます。その後、アールデコにかけてヨーロッパと日本の様式はより融合し、完全に溶け合って無国化します。 モダンスタイル以降は様式が大体はっきりしてきますが、19世紀後半はまだ十分に理想の形として固まっておらず、それ故に様々な形の日本美術に影響を受けた宝物が作られています。 |
ジャポニズムの宝物の方向性 | ||
日本美術そのものが主役 | 日本のモチーフ | 美術様式を取り入れた作品 |
『秋の景色』 赤銅高肉彫り象嵌ブローチ 日本 19世紀後期 フレームはイギリス? 19世紀後期 SOLD |
『破れ団扇』 エナメル ブローチ フランス 1880-1890年頃 SOLD |
『英国貴族の憧れ』 アングロジャパニーズ リング イギリス 1876〜1877年 SOLD |
一言でジャポニズムと言っても、その方向性はいくつかあります。日本美術そのものを主役にしたもの、モチーフが日本のもの、美術様式のみを取り入れて応用したものなどです。 日本のモチーフはどの時代も人気があったため、大体どの時代も作られています。本当に良いものは少ないです。 美術様式を取り入れたものは、時代が降るほどに一般化していきます。全く異なるからこそ、ヨーロッパ人の"日本美術の様式の理解"が追いついていない初期は、様式を取り入れた作品は存在しません。エドワーディアンからアールデコ頃になって、ようやく一般化する感じです。 日本美術そのものが主役となるハイクラスの宝物は、ちょっと特殊です。簡単に日本の美術工芸品が手に入るようになった時代では、上流階級にとって自慢のアイテムにはなり得ません。 |
1-1-6. 限られた時代にのみ制作された最高級コラボレーション・アイテム
ブランドや権威のお墨付きがあるものでないと安心できないのは、成金を含む庶民です。与えられた知識を一生懸命に勉強し、その知識を元に選ぶ、頭デッカチな人たちです。 上流階級は「与えられた知識をただ正確に記憶する」人たちではなく、知識を与える側です。つまり自力で新しい知識を開拓し、文化を創り出していく側の人たちです。全ての上流階級がそれだけの才能を持つわけではなく、上流階級の中でも本当に才能がある一部の人だけです。 庶民にも才能を持つ人自体は存在し得ますが、教養はお金と時間を持てないと会得できませんし、余程のお金がないと高級品のオーダーはできません。また、手に入れても庶民の場合は用途がありません。 上流階級は成金のようにマウンティングして自己顕示欲を満たすために使うのではなく、政治外交を有利に運んだり良縁を結んだりなど、上流階級ならではの明確な目的のため、自己PR用アイテムとしてオーダーします。そうでない場合は、他人に褒めてもらうためではなく自己満足のためオーダーします。眺めて楽しんだり、誰かにプレゼントして喜んでもらうという、心の豊かさのためです。 |
『芸術には自由を』 -DER KUNST IHRE FREIHEIT- オーストリア(ウィーン) 1900年頃 ¥770,000-(税込10%) |
経済のみならず、国民の文化的な生活を向上させる責務を負う立場として、王族を含む高位の貴族は常に新しいものを開拓していかねばなりません。 誰かと同じものをオーダーするなんてあり得ないことです。それは、彼らを手本として真似る、下位の身分の人たちがやることです。 だから、本当にハイクラスのアンティークジュエリーの場合、採算度外視して作ったと思える、驚くべきものばかりです。 卓越したセンス、幅広く深い知識と教養、莫大な財力が揃ってこその宝物です。 |
日本の金工による作品 赤銅ブローチ 赤銅:日本 江戸時代後期 フレーム:イギリス 19世紀後期 SOLD |
このようなハイクラスのコラボレーション・アイテムは、上質な日本美術を手に入れるのが難しかった時代にのみ作られたものです。 簡単に手に入るようになった時代だと、ステータス・アイテムにはなりません。 また、日本も開国後は産業革命の波に飲まれ、江戸時代までの古き良きモノづくり技術は、一部のジャンルを除いて急速に廃れていきます。 |
1-1-6-1. 開国の最初期の状況
開国の最初期 | |
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | イギリス領事館が置かれた東禅寺(1860年代) |
初期は、来日できるのは特別な立場にいる人だけです。政治外交を担っていた上流階級であったり、パトロンがいたりする商人やアーティストなどです。 開国の本当に最初期は危険なので、最初から高位の王侯貴族が出向くことはありません。もっと下の身分の上流階級が情報収集やお膳立てをし、環境が整ってから高位の人たちがやって来るのが通常です。 日本の美術工芸品が万博で紹介されたのは、1862年のロンドン万博が最初です。日本人が出展したものではなく、1859年からイギリスの初代駐日総領事として来日していたラザフォード・オールコックが蒐集していた物品が展示されました。漆器や刀剣、版画などの美術品の他、蓑笠や提灯、草履なども紹介されました。 日本の上流階級エリートで構成された文久遣欧使節もこの展示を視察していますが、展示品は全く大したことがない物で、「古めかしい雑具ばかりで、粗末なものばかりを紹介している。」と嘆いたそうです。 |
柴田剛中(着席)他使節一行(1862年) |
これは実際にそうだった可能性が高いです。オールコックは爵位貴族などではなく、元々は医者の息子でした。外交官としての能力を第一に初代総領事に専任されたわけで、美術品の目利きができる教養やセンスがあるわけではありません。また、突然やってきた、誰かもよく分からない外国人に、本当に良いものを日本人が売るわけがありません。 文久遣欧使節には後に松井松平家12代当主となる、松平康英も含まれていました。大名と言えば小国の王クラスであり、イギリスの爵位貴族に相当します。 |
飾り棚職人の家(1880年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.118 |
和骨董はちょっとしたものでも優れた物が多いですが、大名家由来の品は別次元です。また、目利きできる業界のプロならば、江戸時代以前は別格視するのが通常です。江戸以前のものは現代の骨董市では滅多に見ることができませんし、制作数自体が少ない大名家由来のものは個人蔵や美術館蔵が殆どで、一般人が直接見る機会は殆どありません。 そのような特別クラスの美術工芸品を身近に育った人たちならば、「これぞ日本美術!!」として展示されたオールコックの蒐集品を見て嘆くのは無理もありません。 |
第2回ロンドン万博の日本ブース(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862年) |
そこら辺の和骨董や古い工芸品は、現代の日本人が見ても凄いと思うものは多いです。だからオールコックが素晴らしいものと思い、自信を以って万博で紹介したのも無理からぬことですし、実際にヨーロッパの王侯貴族に高い評価を得たそうです。 展示された約1,500点は漆器や刀剣、版画と言った日本の美術品や、蓑笠や提灯、草履などの庶民の日用品だったそうです。 |
ほうき・ざるなどの行商、Basket and broom peddler(1890年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.127 |
どの国も産業革命以前は手作りで日常の雑具を作っていましたが、日本人の器用さは別格です。民族としての特徴なのでしょうね。平均的な人であっても、他国のハイクラスの職人が作るようなものを当たり前の感覚で作れてしまいます。 例えば折り紙の場合、日本人には楽しい『遊び』になるのですが、外国の人にとってはイライラして遊びにはならないそうです。 |
ホームメイドの草鞋(エルストナー・ヒルトン撮影 1914-1918年) "Home Made Shoes in Japan (1914-09 by Elstner Hilton" ©A.Davey from Portland, Oregon, EE UU(1 Septemer 1914, 00:00)/Adapted/CC BY 2.0 |
Genと同世代の母によると、母の祖父は自分たち用の草鞋は自分で作っていたそうです。Gen同様、私の両親も士族家系ですが、そんな人でも普通に草鞋を編むことができたのが興味深いですね。私の曽祖父に当たるので、19世紀末あたりの明治生まれだと思います。 既製服が一般化していくのは1960年代であり、それまでは身の回り品は自分たち自身で作るのも当たり前だったでしょう。草鞋なんて消耗品ですし、地産地消が当たり前だった時代は、コミュニティで育てられた稲から得られる藁の有効利用の1つでした。器用な人が、苦手な人のために多めに作ることもあったでしょう。このような時代の人たちは、上手に作ることがどれだけ大変なのかも分かりますし、作り手のことも分かるからこそ大事に使います。作る人も、使う人を想いながら丁寧に作ります。 このような時代を知っている人たちがいたからこそ、Genは日本でアンティークジュエリーの仕事を始めることができたのだと思います。「日本人が一番アンティークジュエリーの価値を理解できる。」と感じたそうですが、実際にそうだったのでしょう。日本も戦後は、あっという間に環境が変わりました。少し前と比べても、"常識"は全く変わっています。経験値的には不利と言える、今のこの時代でアンティークジュエリーの真の価値を理解できる人たちは、本当に凄いと思っています。 |
『大君の都』(ラザフォード・オールコック卿) |
さて、持ち帰って実物を見ることが可能な"物"以外にも、多くの欧米の上流階級・知識階級が興味津々でした。オールコックは1859年から1862年までの3年間、日本に滞在しました。功績により、1862年の帰国中にバス勲章を授与され、サーの称号を得ました。そして、日本滞在で得た知識をまとめた『大君の都』を1863年にロンドンで出版しました。これは1868年のニューヨーク版です。 |
1860年9月11日 オールコック富士登頂記念碑"オールコック富士登山記念碑" ©Tast(3 March 2021)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
初代駐日総領事としての3年の日本滞在で、それまで誰も経験したことのない様々な体験と知識を蓄えてきたラザフォードは注目の的でした。記録に残る、外国人初の富士登頂者もラザフォードです。何をやっても、"初めて"となります。 |
『大君の都』(ラザフォード・オールコック卿) |
社交界で書籍は話題となり、オールコックも注目の的だったことは間違いありません。ロンドン社交界も話題で持ちきりとなり、いつか自分も行ってみたいと憧れる王侯貴族も多かったでしょう。 「かれら(日本)の文明は高度の物質文明であり、すべての産業技術は蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、蒸気の力や機械をおぎなう多くの利点を与えているように思われる。(中略)かれらがこれまでに到達したものよりもより高度な、そしてよりすぐれた文明を受けいれる能力は、中国人を含む他のいかなる東洋の国民の能力よりも、はるかに大きいものとわたしは考える。」ラザフォード・オールコック 1863年 『大君の都』より |
攘夷派志士がイギリス公使館を襲撃した『第一次東禅寺事件』(チャールズ・ワーグマン 1861年) イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1861年10月12日号 |
ただ、開国後の幕末の日本はどこでも平和だったわけではありません。結構な数の外国人が襲撃に遭い、殺害されています。この絵では書記官ローレンス・オリファントが咄嗟に馬鞭で反撃していますが、基本的にはピストルでも敵わず、狙われたら終わりなのでとにかく侍を刺激しないようにと言われていたそうです。 欧米人にとっては手付かずのブルーオーシャンが広がる一方で、命懸けだった時期とも言えます。高位の王侯貴族が自ら来日するのは、まだ危険ですね。政府(幕府)との各種の取り決め、泊まる場所など王侯貴族に相応しい環境の確保、十分な情報収集などが済んでからです。王侯貴族が外交と道楽も兼ねてやって来るのは、もう少し先です。 |
1-1-6-2. ヨーロッパの王族の初来日
ヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子(1844-1900年)24歳頃、1868年頃 | ヨーロッパの王族として初来日したのは、ヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子でした。 1869年、25歳の時です。 1861年に、ヴィクトリア女王の夫アルバート王配は既に死去しています。 王侯貴族が世界を主導したアンティークの時代は、特に男性貴族は政治・外交面で重要な地位にありました。 目立たぬ存在でありながらも、アルバート王配も君主代理として極めて重要な役割を果たしていましたが、42歳での逝去はイギリスの行方に大きく影響しました。 長男バーティ(後のエドワード7世)すらも20歳になったばかりで、子供たちがアルバート王配の代わりを務めるのはとても無理でした。 |
そのような状況だったため、次男アルフレート王子は21歳だった1866年にはエディンバラ公、アルスター伯爵、ケント伯爵に叙爵され、貴族院の議席を与えられました。 |
アルフレッド王子を乗せた戦艦ガラテア(1869年) "The Galatea carrying H. R. H. The Duke of Edinburgh. Wellcome V0036696 " ©Wellcome Trust/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
そして1869年9月4日、大英帝国の君主代理と言う重要な立場を担い、25歳のアルフレッド王子は東京で明治天皇に謁見しました。25歳で国家を代表して君主に謁見なんて凄そうに見えますが、1869年と言えば明治2年であり、明治政府が発足したばかりです。 |
明治天皇(1852-1912年)1872年、20歳頃 | 明治天皇は1867年1月30日に先代の孝明天皇が崩御し、2月13日に14歳で即位しました。 大政奉還が同年11月9日で、15歳の時に江戸幕府から権限を移譲されました。 1868年10月23日に即位し、明治時代が始まりました。 |
『東京御着輦』1868年10月13日の明治天皇の江戸城(東京城に改称)入城(小堀鞆音 1934年) | 明治天皇が京都から東京に移ったのは1868年のことです。 それから1年も経たぬ1869年に、アルフレッド王子が謁見に来たのです。 アルフレッド王子は25歳でしたが、明治天皇は16歳でした。 凄い時代ですね。 それだけでなく、まだ日本国内の治安も政治情勢も、全く安定していない時期でした。 |
イギリス公使ハリー・パークス一行を襲撃する朱雀と三枝 (フランスの新聞ル・モンド・イリュストレ 1868年) |
前年の1868年は戊辰戦争、会津戦争、上野戦争、秋田戦争が勃発していました。外国人襲撃事件もまだ起きており、3月23日に勤王志士の朱雀操(すざく・みさお)らによる、イギリス公使ハリー・パークス一行の襲撃事件も起きています。パークスらが明治天皇に謁見するため、宿所の知恩院から京都御所に向かう途中のことでした。 これは失敗に終わって現場で討ち取られましたが、その翌年に王子が来日するなんて、いかに驚くべきことがご想像いただけると思います。1891年でも治安が十分とは言えず、ロシア皇太子ニコライ2世も滋賀の大津市で襲撃され、右側頭部に9cm近くの傷を負っています。 |
ヴィクトリア女王の次男アルフレッド王子(1844-1900年)24歳頃、1868年頃 | 次男のアルフレッド王子は王太子ではなく、他にも弟たちがいたからこそ実現したかもしれませんね。 リスクはありますが、発足したての明治政府にヨーロッパの王族としてイギリスがいち早く王子を送るというのは、外交的にも重要という判断だったのでしょう。 |
1-1-6-3. 『刺青』で見る流行の伝播
外交面での詳細は割愛します。 アルフレッド王子は横浜で刺青をしたそうです。来日自体がヨーロッパ王族初ですから、刺青もヨーロッパの王族初ですね。 |
人力車(日本 1886年)ボストン美術館 |
わざわざアルフレッド王子が横浜で刺青をしたのは理由があります。 初代駐日総領事オールコックが『大君の都』の中で、日本の車夫の刺青は世界一であると褒め称えていたそうです。日本では任侠者のイメージがあり、文明開花がまっさかりの国内では野蛮とみなされ禁止にされたそうです。現代でも銭湯はお断りされますよね。 外国人にとっては日本人ならではの緻密な表現は、1つの高尚な芸術として目に映ったようです。 |
日本で龍の刺青を彫ったヨーロッパの王族・皇族 | ||
1881年 | 1891年 | |
イギリス皇太子の長男&次男 | ロシア皇太子 | |
刺青当時 17歳頃 | 刺青当時 16歳頃 | 刺青当時 22歳頃 |
エドワード7世の長男アルバート・ヴィクター王子(1864-1892年) | 後のイギリス国王ジョージ5世(1865-1936年)1893年、28歳頃 | 後のロシア皇帝ニコライ2世(1868-1918年)1880年代 |
1869年のアルフレッド王子の刺青が、ヨーロッパ王族初の刺青です。こういうものは社交界の中で口コミで伝わり、王侯貴族の中での流行となっていきます。 イギリス王室の王位継承者アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子(エドワード7世の長男と次男)も1881年に来日した際、刺青を彫っています。叔父にあたるアルフレッド王子の刺青を見て憧れを抱き、来日したチャンスに彫ったということでしょう。 この2人のイギリス王子は、ロシア皇太子ニコライ2世の従兄弟になります。少し年上のお兄さんたちに自慢されて、羨ましく思ったのでしょう。ニコライ2世も1891年に来日した際、右腕に刺青を彫っています。ヨーロッパの王族が親戚同士なのは有名ですが、このような感じで国境を超えて流行が広がるわけですね。 |
『日本の刺青と英国王室』(小山騰 2010年出版)?藤原書店 | アンティークの時代の王族は、ファッションリーダーとして機能していました。 特に王位継承者である10代の王子兄弟が刺青を彫ったとなれば、注目の的だったに違いありません。 1881年に王子たちが刺青後、王侯貴族から中産階級に至るまで真似るようになりました。 1890年代になると、特に高位の上流階級の間での流行は熱狂状態に達し、貴婦人まで刺青をするようになったそうです。 左は衣服ではなく、肌に刺青をした模様です。日本人の感覚では理解し難いですね。 |
イギリスでの流行はアメリカの上流階級まで拡大し、1891年にはアメリカの刺青師サミュエル・オライリーが電気式の刺青機を発明し、特許も取得したそうです。中産階級に至るまでの大流行になると、技術革新が起こり、一気に普及していくのはダイヤモンドのカットの近代化と同じですね。大衆の"数の力"と言えます。 それにしても、高価なジュエリーや衣服を身につけられる貴婦人まで刺青をしていたのは驚きですね。図柄を見ても、これらは日本人ではない人が彫ったものだと分かります。当時の貴婦人は外国どころか、外出も1人で気軽に行くようなものではありませんでした。刺青が流行しても、基本的には現地か近い場所で彫ったはずです。だからこその、女性や庶民に至るまでの大流行となれたわけです。 |
1-2. ステータスアイテムとしての超贅沢なオーダー品
1-2-1. 『日本製』という特別なステータス
海軍大将・初代ベレスフォード男爵チャールズ・ベレスフォード(1846-1919年)62歳頃、1908年 | 1869年にアルフレッド王子が来日する際、初代ベレスフォード男爵チャールド・ベレスフォードもフリゲート艦『ガラテア』に乗船して同行しました。 王子は25歳で、ベレスフォード男爵も当時はまだ23歳でした。 初代男爵ではありますが、ウォーターフォード侯爵家の次男として生まれており、もともと高位貴族の出自でした。 アルフレッド王子とは年が近く、話もしやすい側近も兼ねて同行したのかもしれませんね。 横浜での刺青も一緒に彫ったようです。 |
1869年(23歳)に日本で刺青を彫った初代ベレスフォード男爵 | |
【引用】『日本の刺青と英国王室』(小山騰 2010年出版)藤原書店 | 1880年代後半、40歳前後 |
刺青自体は英国王室にとって禁忌でもなく、アルフレッド王子の兄で王太子バーティ(後のエドワード7世)も中東エルサレムで1862年に、腕に十字架の刺青をしていたそうです。 だから弟のアルフレッド王子らが刺青すること自体も、イギリス人たちにとっては特に抵抗あるものではなかったようですが、日本人にはかなり驚かれたようです。日本では貴族や役人は刺青しませんし、平民と言ってもやはり任侠者のイメージが強かったからでしょう。 ベレスフォード男爵の回顧録によれば、日英双方の刺青師に作品を彫ってもらっており、表現方が異なるそれぞれの国の芸術が身体に刻まれてあることに大変満足していたようです。 |
『日本の刺青と英国王室』(小山騰 2010年出版)藤原書店 | 刺青も1種の絵画です。モチーフや表現を見ると、美的感覚がある方ならばどの国、どの文化のものなのか想像できると思います。 初代駐日総領事オールコックは『大君の都』(1863年)の中で、絵画芸術については下記のように述べています。 "私は人物や動物の水墨画を幾つか所有しているが、まったく活き活きとしており、写実的であって、かくも鮮やかに示されている確かなタッチや軽快な筆の動きは、我々の最大の画家でさえ羨むほどだ。" これを聞けば王侯貴族が興味を持たぬわけがなく、また、日本で日本人にやってもらうことが、いかに当時の社交界で価値あることだったか想像できますね。 |
歌川国芳(1798-1861年)の浮世絵に見る日本の刺青 | |
日本人の表現は、同じ東洋でも中国やその他の民族とは全く異なります。並べても違いが分からない人もいますが、分かる人にははっきりと違いが分かります。 日本に行けることも、特別なステータスを示した時代。本物の日本美術が誰にとっても目新しく、手に入れることが難しかった時代。高位の王侯貴族がこぞって日本に憧れを抱き、他には誰も持っていない、日本製の特別なものを欲しがったタイミングです。 |
現代は上流階級や"セレブ"とされるお金持ちの人さえ既製品を買うのが普通ですが、王侯貴族の時代の上流階級はどれだけ良いものをオーダーできるかが最も重要でした。 目利きの才能も重要です。極上の古美術を手に入れるだけでなく、オーダーするに相応しい、優れた職人を見出すにも必要な才能だからです。 |
1-2-2. 特別オーダーの1点物と量産既製品の安物との明確な違い
『ラ・ジャポネーズ』(クロード・モネ 1875年)ボストン美術館 | アルフレッド王子一行が来日した4年後となるウィーン万博(1873年)には、日本も明治政府として初参加しました。
庶民も多数来場しました。見て分かりやすく、気軽に購入できる扇子や団扇はダントツの人気を誇ったようです。扇子は1日に3,000本も売れた日もあったそうです。 あまりにも売れすぎるため、当初の倍に値上げしてもその勢いは止まらず、一週間で数千本を売り尽くしたと記録が残っています。 ウィーン中が日本の扇だらけになったと言われるほど日本の扇は大流行し、欧米全体でのジャポニズム・ブームへとつながっていきました。 |
『笠森お仙と団扇売り』(鈴木春信 1725-1770年) | 団扇や扇子は、日本の庶民に至るまで身近なものでした。 左は団扇売り、右は笠森お仙です。江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋『鍵屋』で働いていた看板娘で、『江戸の三美人(明和三美人)』として有名な女性です。当時からお仙をモデルにした歌舞伎や狂言、手毬唄、様々なグッズも作られたそうです。 団扇ような庶民の持ち物は、ただ日本の製品でありさえすれば良い欧米の庶民層にとっては十分に魅力があります。しかしながら、ヨーロッパの高位の身分の人たちが日本の庶民が使うレベルのものを"高尚な日本美術"として満足するわけはありません。 |
【参考】ベルエポックのフランスの大衆向けの量産安物ジュエリー | ||
現代の日本で想像するならば、美的感覚がない人、ただおフランス製ならば何でも素晴らしいものと思い込み、安さを求めて庶民用の安物を買って"フランスの上流階級が使っていたアンティークジュエリー"と思い込んで満足感を得る人がいる一方で、私たちのように、ブランドや権威のお墨付きがなくても自分の感覚で見て価値を判断する人がいるのと同じことです。 |
1-2-3. ヨーロッパ上流階級に負けず劣らず"目利き力"を重視していた日本人
【国宝】白楽茶碗『不二山』 | |
『不二山』(本阿弥光悦 17世紀初期) | 雪が掛かった富士山 |
当時は日本人も、上流階級が知的階層や政治外交面で重要な地位を担っていました。貴族同士で目利きの腕を競うこともありました。目利きは一種の遊びのようなものでもあり、相手の力量を測る物差しでもあります。 これは世界共通です。ヨーロッパ社交界でも美術品を見る眼が重視されたことはグランドツアーの内容からも分かりますし、神聖ローマ皇帝だった兄弟の確執の理由が『芸術を理解する能力』だったことも如実に示しています。 日本にはジュエリー文化がなく、戦国武将が茶道具に執着したエピソードからも分かるように、特に日本の上流階級は特に素材そのものの価値ではなく、芸術性を重視してきました。日本の一般庶民は、ともすれば卑屈さすらあるように感じることもありますが、日本の武士階級以上の人たちは半端なくプライドが高かったようです。 そして、自国文化に高い誇りを持っていました。それは1871年の岩倉使節団の、岩倉具視のエピソードからも伝わってきます。 流行や文化をただ享受するだけの庶民と違い、上流階級は自らが新しい流行や文化を作り出す立場です。これがモチベーションの違いを生み出す、大きな原因でもあるのでしょう。 |
日本の武具(1892-1895年) |
廃刀令が出された1876(明治9)年時点で、日本人の総人口約3,434万人当たり5.52%を占める189万人が士族でした。 昔から武士は貧乏で、商人は金持ちというのが日本でした。これもヨーロッパとは大きく異なる部分と言えるでしょう。"金儲けなんて下賎な商人がやること。"そんな意識が強くあったからこそ、豪華な素材には頼らない、武家文化ならではの美意識に基づく独自の美術や教養が発展しました。 プライドが高すぎて、明治以降は困窮する旧武士階級が続出したようです。どれだけ困窮しても、商人みたいにはなりたくなかったようです。足元を見られ、プライドの高さを上手く利用され、二束三文で買い叩かれたであろう侍の武具が切ないですね。 |
ロンドン万博を視察する文久遣欧使節団 (イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862.5.24号) |
成金商人が政財界を牛耳るようになった現代は、権力者から庶民に至るまで、そのようなモノの見方をする人が増えました。しかし、昔の日本人には確固たる芯を持ち、揺るぎない目でモノを見て意見や感想を言える上流階級や知的階級の人たちが多くいました。 1862年のロンドン万博の開会式に出席した文久遣欧使節団の代表は、感想を聞かれてこう答えています。 忖度なしですね。迎合したりおべっかを使うことなく、自身の価値観でハッキリと誠実に意見を伝えています。現代での日本人では想像できないほど、しっかりしています。これが古の日本人の真の姿だったのではと感じます。 |
漢学者・国学者 市川清流(通称は渡:わたる)(1822-1879年) | 文久遣欧使節の一員として西洋で写実的な絵画を見た市川清流も、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」と、ハッキリと鋭く指摘しています。 戦後教育の受けた日本の庶民は、日本のものはダサくて欧米のものは素晴らしいという価値観に洗脳されている人も多くいる気がします。舶来品史上主義の人も少なくないです。 当時の日本の上流階級は根拠なく自国文化を褒めるわけでもなく、無下に他国文化を貶めるでもなく、正しくプライドを持つ人が多くいたと感じます。 |
お雇い外国人 アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)1890年、37歳頃 | その功績によって評価の高いフェノロサですが、あくまでも文化政策的な意味です。 絵画を見る眼という意味では、狩野派には入門するほど傾倒しましたが、一方で南画(文人画)は駄目な絵であるとして徹底的に攻撃したそうです。 |
南画(文人画) | 狩野派 |
【国宝】『凍雲篩雪図』(浦上玉堂 1800-1820年頃)川端康成記念館 | 『仁王捉鬼図』(狩野芳崖 1886年)東京国立近代美術館 |
それぞれに良い所がありますから、甲乙つけるものではないとは言えますが、当時の日本の上流階級や知的階層の評価は南画が上でした。心眼で観る南画に対し、狩野派は表面的で分かりやすい作風です。 南画は深い教養や豊かで繊細な美的感性、人生の経験値など、どれだけ感動できるかは観る者自身に強く依存します。南画の魅力を知ってしまった人には、狩野派は浅くつまらないとしか感じられなくなるものです。そして、南画が理解できず、狩野派だけを殊更に褒める人は「表面的な理解しかできない浅薄な人物」と感じてしまうのです。そんなこと、ハッキリは言わないですけどね(笑) |
『THE BOOK OF TEA』(岡倉天心:覚三 1906年)1919年発行 | 岡倉天心(1863-1913年)1905年以前、45歳以前 |
フェノロサと共に活動した経験もあって、岡倉天心の欧米での『茶の本』などの発行に繋がったというわけでしょう。 岡倉自身は、南画に入門経験があります。 |
当時の日本人の性質を考えると、見る眼がない人は人種など関係なく、日本の上流階級や知識階層からは評価されたはずです。「あの人は肩書は凄くて、政治的な手腕は評価されているみたいだけど、芸術を観る眼はないようだ。」、「やはり外人さんは、日本美術は理解できないようだ。」といった感じです。 日本の上流階級が欧米の上流階級にバカにされぬよう頑張った一方で、欧米の上流階級も間違いなく努力したはずなのです。一方通行はあり得ません。 |
1-2-4. 日本の上流階級をもあっと言わせるためのコラボレーションの極上品
ジャポニズム ナイフ&フォークセット 芝山象嵌のハンドル:日本 1882年 銀細工:イギリス 1882年 SOLD |
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日本人、西洋人、どちらもあっと言わせようとした心意気が、このような宝物からは如実に伝わってきます。日本の上流階級が見てもグッとくる、特別オーダー品です。芸術を理解できていないとオーダーできない宝物です。それを作ってもらうことで、自身の観る眼を示すのです。言葉で自慢するだけでは何の証明にもなりません。その一方で、本当に良いものは何も語らなくても全てを伝えてくれるのです。この人は分かっている人なのだなと。 日本の上流階級でも簡単にはオーダーできない、難易度の高い宝物。自分の理想をイメージすることも難しいですし、それを正確に伝えることも難しいです。また、そもそもそのような特別クラスの宝物を作ることができる、超一流の職人を見つける目利きもできなくてはなりません。お金や地位があるからと言って、そのような職人を見つけ出して信頼関係を築けるとは限りません。だからこそ、良い物は社交界で高く評価されるのです。教養、センス、財力、権力、人間性、全ての証なのです。 |
まだ、上流階級すらも、誰でも日本に行けるわけではなかった時期。 そのような時期に制作された、日本の第一級の職人にオーダーした赤銅2点を使った、贅沢な両面ロケット。欧米の社交界で高く評価されたことは確実です。 持ち歩きしやすい小ささも、持ち主の美意識の高さを感じます。 根付を美術品としてこよなく愛した日本人にも、この美意識は高く評価されたことでしょう。 |
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←↑等倍 |
日本の上流階級にとっては『ロケット』というヨーロッパならではのアイテムに加えて、日本とはまた異なるイギリス独特の彫金細工にも感銘を覚えたことでしょう。どちらの技術もそれぞれに素晴らしい・・。 |
日英双方の最高峰の技術を詰め込んで作られた『小さな芸術』です。イギリス人は凄いだろうという一方的な押し付けは微塵もなく、日本美術と英国美術の双方への敬意が感じられます。持ち主にとっての、まさに"理想の姿"と言えるでしょう。どちらか一方が主役になるのではなく、どちらも素晴らしい国であるイギリスと日本が尊敬し合い、一致団結しよう。そのような心を、当時の日本の上流階級も感じ取ったと想像します。 |
1-2-5. 上質な日本美術が手に入りやすくなっていった背景
『内国勧業博覧会 美術館之図』(歌川広重:3世 1877/明治10年)国立国会図書館 |
欧米の上流階級や知的階級が、日本の美術工芸品に高い関心を持っていることを理解した明治政府は、国をあげて文化新興に力を注ぎました。魅力ある輸出品目育成を目的にした政府主導『内国勧業博覧会』は、小さな万博レベルと言っても差し支えないほどの規模でした。 |
内国勧業博覧会の規模 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』内国勧業博覧会 2021年2月5日(金) 09:47 UTC |
初回でも出品数1万4,455点、1890年の第3回には16万7,066点もの作品が出品されています。点数は多いですが、粗造乱造の量産品ではなく、日本全国から腕に自信がある人たちがプライドをかけて出展した自信作揃いです。実際、これらの中には明治天皇の買上品も含まれます。 1890年の第三回内国勧業博覧会で明治天皇が購入した『綴錦犬追物壁掛』(二代目・川島甚兵衛)は、大津事件の見舞品としてロシア皇太子ニコライ2世に贈られています。そのようなクラスの品々も出品されていたということです。 このような時代になってくると、優れた日本美術の入手も難しくなくなってきますし、スペシャルオーダーでコラボレーション・アイテムを作る価値も薄れていきます。 |
日英の最高峰の技を組み合わせた最高級の宝物が案外少ないのは、そのような時代背景があるからです。 贅沢で美しいコラボレーション・アイテムは、ごく限られた時期にだけステータス・アイテムとして作られた稀少な宝物なのです。 |
2. ヨーロッパ上流階級を驚かせた日本の金工
美術品好きならば、同じ素材やモチーフでも、ヨーロッパと日本で技法や表現の仕方がどう違うのか気になるものです。 ジュエリー文化が発展しなかった日本ですが、例えば鼈甲細工は比較することができます。 |
べっ甲の小物(1860年頃) | ||
イギリス | フランス | 日本 |
ピケ 香水瓶ペンダント SOLD |
鼈甲金象嵌 小箱 SOLD |
『秋草』 鼈甲と象嵌蒔絵細工の櫛 工樂 江戸時代 HERITAGEコレクション |
Genが以前、ヨーロッパのピケを日本の鼈甲職人さんに見せたら、とても驚いていたそうです。 ヨーロッパは金銀の板を象嵌する技法です。巧みな技術で複雑な形状にしたり、表面に繊細な彫金を施して象嵌します。 一方、日本の場合は貝の美しい部分をカットして象嵌します。螺鈿細工と呼ばれ、貝の表面を彫刻することもあります。金色で描かれた部分は蒔絵細工です。漆で絵や模様を描き、乾く前に金粉や銀粉を蒔いて定着させています。素材はゴールドですが、象嵌ではなく描く技法となるので、全く異なる表現となりますね。 |
『竹』鼈甲と象嵌蒔絵細工の帯留(永芳 明治〜昭和初期)HERITAGEコレクション |
これは黒い鼈甲にゴールドの蒔絵を施しています。さらにイリデッセンスの強い上質なアワビ貝が象嵌されており、初めてこのような鼈甲細工を見たヨーロッパ人はとても驚いたと思います。新しい技法を知ると、アーティスト兼職人や、オーダーが得意な上流階級は新たな創造にチャレンジしたくなるものです。 |
日本→イギリスに影響 | |
日本美術 | アングロジャパニーズ・スタイル |
鼈甲と象嵌蒔絵細工の櫛(工樂 江戸時代)HERITAGEコレクション | ピケ ピアス イギリス 1860年頃 SOLD |
右はイギリスのピケですが、青貝が象嵌されています。これ以外にはGenも見たことがないそうで、日本の鼈甲細工を知ったイギリス貴族が、特別にオーダーした宝物と推測します。 |
イギリス→日本に影響 | |
英国美術 | 日本美術 |
『Bird of Paradise』 ピケ ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
『水仙』 鼈甲と象嵌漆細工の帯留 明治〜昭和初期 HERITAGEコレクション |
逆に、イギリスのピケが日本の鼈甲細工に影響を与えたこともあったようです。右は、彫金された18Kのゴールドと銀の板が象嵌されています。江戸時代には見ない細工です。ヨーロッパの影響が見られるようになる、比較的新しい時代のアンティークの鼈甲に、たまに見ることができます。 当時の日本人にとって金は相当高価なものでしたから、この帯留もかなりの高級品として作られたはずです。水仙の葉は、一部が模様の美しい貝です。全体的に、従来の日本には見られない表現なので、西洋美術の影響を受けている可能性は高いです。左側の水仙の花は、色の異なる漆を積層させています。高温で焼くエナメルは、鼈甲に施すことはできません。しかし漆ならば可能です。このような違いも、当時のヨーロッパの上流階級が見たら感激して興味津々だったと思います。私も興味津々です!(笑) |
2-1. 日本で培われた武家文化ならではの金細工技術
2-1-1. 刀は世界共通の男性のステータス・アイテム
開国から早い段階は、やりとりを担うのは主に権限を持つ高位の上流階級、しかも男性であることは大きなポイントです。そして、男性が階級の異なる男性や女性の持ち物に注目することは稀です。 |
サーベル | 日本刀 |
イギリス王太子時代のエドワード7世と次男ジョージ(後のジョージ5世)(1890年) | 柴田剛中(着席)他、文久遣欧使節一行(1862年) |
上流階級は軍人でもありました。男らしさと高い身分を示す刀は、ヨーロッパでも日本でも男性の最も重要なステータス・アイテムとして機能していました。ヨーロッパならばサーベル、日本ならば日本刀です。侍の説明は不要と思いますが、19世紀のイギリスの男性貴族の写真や肖像画や写真を見ると、かなりの確率でサーベルを持っています。互いの刀に興味津々だったことは確実です。 |
2-1-2. 仕事を失った鐔職人
明治天皇にガーター勲章を授与するコノート公アーサー(1906年) |
日本では1876(明治9)年に廃刀令が公布されました。大礼服(宮廷服)着用者、勤務中の軍人、警察官吏以外の佩刀(武装)を禁じたものです。 日本側もサーベルに興味津々だったのか、新たにサーベルを佩刀するようになったようです。 |
大日本帝国陸軍尉官用の旧型軍刀(昭和9/1934年まで使用されたタイプ) "大日本帝国陸軍尉官用軍刀" ©一貫斎(9 September 2008, 11:28:03)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
大日本帝国海軍長剣(海軍旧型軍刀)"海軍長剣(海軍旧型軍刀)" ©一貫斎(8 December 2013, 16:15:41)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本刀は様々なパーツで構成されます。それぞれに職人がいました。刀身や鞘、鮫皮によるグリップなどを作る職人はそのまま移行できそうですが、鐔の職人は失業ですね。 |
大日本帝国海軍長剣の柄 "海軍長剣の柄部分と略刀緒" ©一貫斎(27 Nobember 2013, 18:14:57)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
彫金などの装飾はありますが、鐔を作る技とは異なります。 |
2-1-3. 美術品として発展した鐔
甲冑師スタイルの鐔(日本 16世紀) メトロポリタン美術館 | 日本刀は、本来は戦のための実用的な道具でした。 命を賭けた戦いで使うからこそ、絶対に壊れない強度は必須です。 また、『死』に臨むことで、人の美意識は極限まで冴え渡ります。 古い鐔は分かりやすい華やかさはない一方で、冴えのある美が存在します。持ち主の美意識が反映された美しさです。Genも、美術品と化した平和な時代の鐔より、古い時代の鐔に魅力を感じるそうです。 |
『集古十種』錦包糸巻太刀(小烏丸の拵)の図 "Kogaras-mar" ©AleksandrGertsen(2 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本刀の魅力の1つは、パーツを細かく分解できることです。日本人は世界一器用で、知的好奇心が高い民族です。だから分解して手入れし、また組み上げて美しい姿に戻すことに、心満ちた時間を感じることができます。不器用だと、たぶんイライラしかしない作業です(笑) |
【国宝】太刀 銘備前国包平作(名物大包平)(平安時代 12世紀) "大包平, Okanehira " ©SLIMHANNYA(30 June 2020, 16:03:47)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
日本刀の美しい刀身は世界中でコレクター・アイテムの1つであり、単独で飾る場合も多いです。実際、単独でも様になりますよね。 |
江戸時代の太刀拵(江戸時代) "太刀拵, 江戸時代2" ©ColBase; 国立博物館所蔵品統合検索システム, Integrated Collections Database of the National Museums, Japan(24 July 2022, 22:28:13)/Adapted/CC BY 4.0 DEED |
鞘や柄も手間をかけた素晴らしい装飾のものが作られていますが、この状態だと主役の刀身が見れません。刀身を取り出して並べて飾ると、鞘や柄の華やかな装飾がやかましく感じ、刀身ならではの冴えのある美しさを感じにくくなってしまいます。 大きさもあって、鞘は単独で楽しむには向きません。 |
金梨子地家紋散糸巻太刀拵(江戸時代 17世紀)ボストン美術館 "金梨子地家紋散糸巻太刀拵 Tachii koshirae 2" ©SLIMHANNYA(25 July 2022, 23:53:43)/Adapted/CC BY-SA 4.0 DEED |
日本刀の金属製のパーツはいくつかあります。それぞれに装飾が施されます。この太刀は、赤銅で装飾されています。 |
【特別重要刀装具】『松樹尾長鶏図』大小鐔(下)・縁頭(上)(江戸後期 石黒政美) "松樹尾長鶏図大小鍔 石黒政美" ©SLIMHANNYA(15 October 2021, 14:37:50)/Adapted/CC BY-SA 4.0 DEED |
金属製のパーツだけ見ると、このような感じです。程よい大きさがあり、平面で裏表がある鐔が、芸術を表現するキャンバスとしては最も向いています。他のパーツは形や面積の制約があり、様々な個性を楽しもうと思った場合、自由度が低く感じます。 刀身とはまた異なる、侍の美意識やセンスの見せ場として、鐔が発展していくことになりました。 |
2-2. 切磋琢磨できた古の日本の金属細工師
2-2-1. 江戸時代頃からの鐔の普及
『蒙古襲来絵詞』(鎌倉後期 作者不明)宮内庁 |
侍と言えば刀のイメージが強いですが、平家物語などでも想像できる通り、古い時代は騎兵が主でした。騎乗中心なので武器は弓矢がメインで、その他に薙刀などが装備されました。太刀は矢が無くなった際の予備的な武器、落馬や下馬時、喧嘩や強盗に対して日常で使う武器という扱いでした。 馬を持つこと、馬を乗りこなせる技術は侍としての大きなステータスです。しかし、想像すると分かりますが、騎馬武者が敵を斬り殺すことは不可能に近いです。 歩兵と言えば足軽です。平安時代に発生したとされますが、鎌倉中期頃までは騎馬武者による一騎打ちが戦の原則だったため、従者や、運搬や土木作業その他の雑用としての役割がメインでした。武器を装備するにも多大な費用がかかりますしね。 |
【重要文化財】『朱漆金蛭巻大小』豊臣秀吉が所有の打刀と脇差(安土桃山 16世紀) "朱漆金蛭子巻大小" ©ColBase; 国立博物館所蔵品統合検索システム, Integrated Collections Database of the National Museums, Japan(13 January 2010, 14:36:48)/Adapted/CC BY 4.0 DEED |
時代が降ると個人戦から集団戦になっていき、戦力としての足軽の重要度が増していきました。騎馬武者の刀として使用されていた太刀は刃長が約60cm以上あり、平均で刃長は約80cmありました。室町後期頃から、徒歩での徒戦向けに打刀(うちがたな)が作られ、武士が用いる刀剣の主流となっていきました。最初は刃長が40〜50cm程度、室町後半からは60cm以上の長いものが現れ出しましたが、太刀よりは軽量で短いです。斬りつけたり叩いたりと言うより、刺すのが正しい殺傷法です。 太刀は騎馬武者、つまり身分の高い武士用の刀として鐔が装飾されていました。主に身分の低い歩兵用の武器として作られていた打刀には初期は鐔がなく、鐔が付けられるようになったのは南北朝時代からです。ただ、それでも安土桃山時代までは消耗品レベルの低級品には鐔がないか、あっても総じて小ぶりでした。 鐔の実用的な目的としては、刺した時に自身の手が滑って刃で怪我をしないためです。グリップを固定できるので安定して力が込められますし、刀身との重量のバランスを取ることもできます。実用面での意味もあって、付けられるようになっていったようです。 |
【重要文化財】『大坂夏の陣図屏風』右隻(江戸初期 17世紀) |
大坂の陣(1614-1615年)の前後には、足軽が用いるような普及品の刀装に至るまで大型の鐔が付けられるようになりました。 |
2-2-2. 武士階級全体からの需要で発展した鐔の装飾技術
『大切な想い人』 リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール イギリス 1811-1820年頃(摂政王太子時代) ¥1,200,000-(税込10%) |
HERITAGEでご紹介するような宝物は、爵位遺族やそれに準ずるような高位貴族が使っていたものがメインです。 イギリスの爵位貴族は大名に相当します。つまり『小国の王』クラスの身分です。 その人数は非常に限られます。その分だけ、お金をかけて贅沢に素材が使用されます。御用達となる専門の職人の数も制作数も、当然ながら限られます。 |
イギリスの爵位貴族数の変遷 | |||
年代 | 世襲貴族 | ブリテン諸島の人口 | |
王侯貴族の時代 | 中世末〜16世紀 | 50家 | 〜625万人 |
17世紀末 | 170家 | 925万人 | |
18世紀末 | 270家 | 1,600万人 | |
1830年代 | 350家 | 〜2,800万人 | |
1870年代 | 400家 | 3,400万人 | |
1885年 | 450家 | 〜4,200万人 | |
大衆の時代 | 1999年 | 750家 | 英国 5,868万人 |
2020年 | 814家 | 英国 6,708万人 | |
2021年 | 809家 | 英国 6,728万人 | |
2023年 | 807家 | 英国 6,812万人 | |
1870年代で計算すると人口比で0.00001%、10万人に1人しか爵位貴族はいません。爵位貴族の所領は県レベルの広さがあり、まさに大名です。その親族らで高位の上流階級を形成するので、もう少しは人数がいますが相当少ないですね。 士族は明治9年時点で40万8,861戸、189万4,784人で全国民の5.5%を占めました。戸数で計算すると、家長の士族は全国民の1.2%となります。その全員が自分専用に日本刀をオーダーした場合、かなりの数となります。HERITAGEクラスのジュエリーはコレクター的に集めることが不可能ですが、鐔は質もピンキリで、コレクターが一定数存在できるほど無数にある理由です。 |
鐔 "Tsuba Asian Art Museum SF" ©BrokenSphere / Wikimedia Commons(26 August 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
大きさもあるため、アンティークジュエリーのように全体を金銀で作ることはほぼなく、実用面もあって素材としては硬い鉄、銅、真鍮(黄銅: 銅と亜鉛20%以上の合金)がメインで制作されました。 高価な素材に頼るのではなく、まさに個々の美意識とセンスの見せ所として鐔の美術装飾は発展しました。教養とセンスがあっても、アンティークジュエリーは相当な財力を持たないとオーダーできません。社交用のジュエリーと違い、メインの日本刀は通常は1本しか所有しません。そして鐔は、侍の魂である日本刀の大きな見せ場です。だからその1点だけに、一人一人ができる限りのお金やセンスを込めることになります。切磋琢磨する人数が相当な数存在するため、侍それぞれのセンスも磨かれますし、職人もたくさんいて切磋琢磨し、技術も磨かれていきます。 |
2-2-3. 平和な時代に装飾的要素が強くなった美術品としての鐔
戦のための実用品として制作されていた際は、強度を大前提としながらのデザインでした。 ちなみに現代まで残っているような鐔は量産の安物ではなく、叩いて鍛えて作られたきちんとしたものです。第二次世界大戦での金属供出の歴史もありましたから、海外に渡ったり、国内だと美術品として価値が高くて運良く生き残ったものと言えるでしょう。 低級武士のための量産品は鋳造の鉄(鋳鉄)で作られたそうですが、やはり戦用としては耐久性がなく、安物の消耗品扱いだったそうです。 |
ノコギリの鐔(日本 14世紀後期) メトロポリタン美術館 | これは明らかに戦用に作られた鐔です。 ノコギリという、華やかではないながらも持ち主にとっての深い意味を感じるモチーフが良いですね。 鍛造の素地に、丁寧に透かし細工を施しているので、端部の仕上がりもシャープでキリッとしています。 14世紀という、古い時代ならではの鐔の魅力が感じられます。 |
鐔(正阿弥伝兵衛 17世紀後期-18世期初期) メトロポリタン美術館 | 流水に紅葉の鐔(江戸時代 19世紀) 【引用】The Metropolitan Museum ©The Metropolitan Museum of Art |
江戸の平和な時代が続くと、美術品としての要素が強くなっていきました。手で簡単に曲げられるとは言いませんが、屈強な男同士の命懸けの戦いで使う場合、とても強度があるとは思えない作りとデザインですよね。 耐久性ではなく、美しさを追求した透かしの美がこうして発展していきました。ジュエリー用の金属と違い、鋼鉄を含めた堅牢な金属に透かし細工を施すのは相当大変だったはずです。 |
『蓮池と蛙』"Japanese - Tsuba with a Frog in a Lotus Pond- Walters 51177 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 『芍薬と蝶々』(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館 |
この辺りは最早、あからさまに最初から美術品として制作されていますね。柔らかいゴールドを多用し、全体的にも立体的な作りです。戦いで力が加わったら、一瞬でダメになってしまいますね。このレベルにまで、鐔は侍のための特別な美術品として発展していきました。 |
2-2-4. 多様な鐔と職人の技術
鐔にもランクがあり、それに応じて職人もいました。下級武士用の量産の安物から、いくらでも贅を尽くせる上級武士用の高級品、お金はかけられないけれど傑出したセンスと教養で作られた芸術性が高いものまで、本当に多種多様です。 高級品と呼べるものの中でも、侍の鐔には様々な方向性があります。 |
方向性の異なる高級な鐔 | ||
雅さを追求した作品 | 超絶技巧の細工物 | 芸術性を追求した作品 |
『芍薬と蝶々』(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館 | 鐔(正阿弥伝兵衛 17世紀後期-18世期初期) メトロポリタン美術館 | 『鍾馗と鬼』(浜野政随 1696-1769年)"Masayuki tsuba ura" ©Keith Oram(23 November 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
超絶技巧も駆使した雅な作品、芸術的な作品なども存在するので、必ずしも分類の枠に収まるわけではありませんが、大まかにはこのように分類することができます。 見て分かりやすいのは、雅な作品です。あまり理解していない人にとっても分かりやすいため、外国人や成金思考の人には高く評価されるかもしれません。侍はそのような分かりやすい作品は「成金や女こどもが好む作品」として、あまり好まなかった印象があります。 神技の細工物や、心の眼で見るアーティスティックな作品を好むのが侍です。『通好み』なんて言葉もあります。誰でもは分からない、でも、分かる人には明確に違いが分かる。分かる者同士の会話ほど楽しいものはありません。だからこそ必然的に、同類が集まるものです。 |
方向性の異なる高級な鐔 | ||
雅さを追求した作品 | 芸術性を追求した作品 | |
黒蝋色塗鐔(石黒政美 18 or 19世紀)東京富士美術館 | ||
『鍾馗と鬼』(浜野政随 1696-1769年) "Masayuki tsuba ura" ©Keith Oram(23 November 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
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素材だけ見ると、ゴールドの分量が多い左の方が高価です。しかし、分かりやす過ぎる表現もあって、野暮に感じる方も多いと思います。 芸術性を追求する際に、材料は主役にはなりません。高価な材料を使わないという意味でもなく、必要な際には必要な量だけ使うというのがポイントです。 |
『芍薬と蝶々』(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館 | ちなみにこの作品は、赤銅の下地への魚子(ななこ)打ちが特に見事な作品です。 1点1点、鑽(タガネ)を押し痕を付けて、表面の質感を表現する技法です。 深さや間隔を均一にするのは至難で、魚子も専門の職人がいたそうです。 たくさんの武士に支えられ、江戸時代は金属による美術品の細工技術が極まりました。 |
2-3. 廃刀令後の金細工技術
大日本帝国海軍長剣の柄 "海軍長剣の柄部分と略刀緒" ©一貫斎(27 Nobember 2013, 18:14:57)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
1876年に公布された廃刀令によって、鐔職人は失業しました。 士族の大半は刀を佩刀できなくなり、以降も佩刀が許可された皇族や華族、軍事や警察官吏が持つのは新たに導入されたサーベルとなりました。 |
美術品として高い価値をもつ作品が作れる職人ならば、新たに需要が発生した輸出向け美術品制作に転向することも可能でした。但し、そこまでの腕を持つのはトップ中のトップの職人だけです。 たくさん職人がいて切磋琢磨するからこそ技術が磨かれ、発展していくことができます。美術品向けの制作は需要が少ない上に、いつまで続くか分からない世界です。最初は物珍しさで売れても、行き渡って珍しくなくなると需要は途端になくなります。消耗品ではありませんから、いつまでも需要が保たれるわけではありません。 未来のない業界に新規参入を志す若者はいません。廃刀令後、腕の良い職人が一定期間は、別ジャンルで活躍することになりました。しかし、彼らが寿命を迎えると同時に技術は永遠に失われ、そこで高度なモノづくりは終わります。 |
江戸時代までの優れた技術が、そのまま輸出向けの美術品に応用された期間はごく僅かしかありません。 もはや職人が新たに育たない環境であり、高度な技術を持っていた人もいつまでも仕事できるわけではありません。 |
後の時代でも、このような宝物をオーダーしたいと思う上流階級はゼロではなかったはずです。しかし、職人がいなくなってしまいました。優れたアンティークジュエリーの制作は第二次世界大戦を期に完全に終焉を迎えましたが、それと同様に、鐔によって花開いた日本の金細工技術は開国に伴う廃刀令によって、早々と終焉を迎えることになったのです。これは普通ならば日本人でも一生目にすることがない、特殊な宝物なのです。 |