No.00292 夢でみた花 |
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アメリカ 1900年頃 ガラス質の特性を最大限に活かした最高難度のエナメル、オパールセント・エナメルの傑作と言える、夢のように美しいフラワー・ブローチです。 |
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この宝物のポイント
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1. 夢のように美しいエナメル
1-1. オパールセント・エナメルの最高峰
一目見ればきっと、誰もが心を奪われてしまうであろう夢のように美しいエナメルのフワラー・ブローチ・・。 様々な色のグラデーションを持ち、半透明で光の加減によってゴールドの地模様が透け、まるでオパールのように一瞬一瞬で表情を変える美しいエナメルは、オパールセント・エナメルという滅多に聞くことがない超難度の技法で作られています。 |
1-1-1. 様々なエナメルの技法
ルネサンスのHPでGenが詳しくご説明している通り、一言でエナメルと言っても様々な技法があり、その美しさや特徴も異なります。 |
透けないエナメル | |
艶やかエナメル | マットエナメル |
『Lily of the valley』 スズラン ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
幻のホワイト・マットエナメル クラバットピン ロシア? 1900年頃 SOLD |
模様などを描くエナメル | |
エナメル・ミニアチュール(細密画) | ジュリアーノ・スタイル |
エナメル・ミニアチュール ペンダント&ブローチ フランス 1905年〜1920年頃 SOLD |
エナメル クロス・ペンダント カルロ・ジュリアーノ作 1880年頃 SOLD |
金細工と組み合わせたエナメル | ||
ギロッシュ・エナメル | プリカジュール・エナメル | シャンルベ・エナメル |
『循環する世界』 天然真珠&ダイヤモンド ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
『静寂の葉』 アールヌーヴォー ペンダント オーストリア or フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
『古からの贈り物』 デミ・パリュール フランス 19世紀初期 SOLD |
クロワゾネ・エナメル(有線七宝) | 純粋にエナメルだけの技術ではなく、 高難度の金細工技術も伴わなければ作ることができないエナメル技法も各種あります。 技術だけでなく手間もかかるので、ヘリテイジで扱いたいと思えるような芸術性の高いハイクラスのエナメル・ジュエリーは市場でもあまり見ることはありません。 |
『パンジー』 クロワゾネ・エナメル ブローチ フランス or ヨーロッパ 1880年頃 SOLD |
リモージュ・エナメル | 作られた場所の名前で呼ばれるエナメルもあります。 |
『リモージュの遊び心』 アールデコ リモージュ・エナメル ブローチ フランス 1920〜1930年頃 SOLD |
1-1-2. 市場で滅多に見ることのないオパールセント・エナメル
元々エナメル自体が難しい技術なので、ハイクラスのエナメル・ジュエリー自体が市場でも少ないのですが、様々な技法がある中で、このオパールセント・エナメルのハイクラスのジュエリーは特に数が少ないです。 |
アールヌーヴォー オパールセント・エナメル ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
他のエナメルの技法と比べて、勝るとも劣らない魅力があるにも関わらずオパールセント・エナメルのジュエリーが少ないのは、より高度な技術を必要とする上に、開発されたのが他の技法と比べてより新しい年代だからということもあるようです。 |
2. エナメルジュエリーが花開いた1900年前後
この宝物が作られたのは、エナメルのジュエリーが花開いた全盛期の頃です。 |
2-2. 世界のトップジュエラー達が注目した"エナメル"という技法
ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年) | 『春の花々』にて、イギリスのジョサイア・ウェッジウッドの研究開発とその成果について詳細をご説明しました。 ヨーロッパでは新たに優れた芸術作品を生みだすために、同時代や古の優れた芸術家達の作品を熱心に研究して学ぶことが当たり前でした。 |
ジョサイア・ウェッジウッドのブラックバサルトの開発 | |||
メンカウラー王と女神達(古代エジプト 紀元前2532-紀元前2500年頃)カイロ美術館 | ブラックバサルトのキャンドルホルダー(ウェッジウッド 1771年頃)V&A美術館 【引用】Brirish Museum © British Museum/Adapted | ||
優れた芸術作品であれば、4000年近くも前の芸術家の作品でも尊敬の念を持ち、超えるべき熱心な研究対象になります。 |
19世紀の偉大なカメオ作家ジュゼッペ・ジロメッティの作品 | |
『ガイウス・ユリウス・カエサル』 大理石彫刻 古代ローマ 紀元前44-30年 バチカン美術館 |
ジュゼッペ・ジロメッティ作『ユリウス・カエサル』 ストーンカメオ ブローチ&ペンダント イタリア 1820年頃 SOLD |
19世紀の最も評価の高いカメオ作家の一人、イタリアのジュゼッペ・ジロメッティも古代遺跡から次々と発見された優れた作品を模刻したり、インスピレーションを受けるなどして、様々な優れた作品を生み出しています。 |
19世紀中期のカステラーニを始めとしたイタリア人作家 |
『シレヌスの顔のついたネックレス』(エトルリア 紀元前6-紀元前5世紀)国立博物館(ナポリ) 【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.54 |
ファソリ | フォルトュナト・ピオ・カステラーニ | ジャチント・メリロ |
『古代の太陽』 エトラスカン・スタイル ブローチ イタリア 1850〜1870年代 SOLD |
ゴールドの円盤 イタリア 1858年 ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted |
『エンジェルは鳥に乗って・・・』 ゴールド・ブローチ イタリア 1870年頃 SOLD |
かつてイタリアに存在した古代エトルリアの、人類の最高到達点とも言える素晴らしい金細工に触発され、19世紀にイタリアの職人達がこぞってその技術の復活と新たなクリエーションに切磋琢磨し、優れた金細工のジュエリーが生み出されてもいます。アンティークの時代の、アーティスティックな才能を持つ優れた職人たちは、誰のことを調べてもとにかく勉強熱心です。天賦の才能を持つ人物が努力も惜しまず、誰よりも勉強し、手間も惜しまず全ての才能と労力をつぎ込むからこそ、心を打つ永遠の芸術作品が生み出せるのです。 |
モダンアート | 現代アートなんて芸術作品ではなく、ただの投機の対象です。 作家は一度有名になりさえすれば、手抜き作品でも高く評価されて、高額で売買されます。 金儲けのための手抜きの作品に、人の心を打つ力なんてあるわけがありません。 |
シュールなモダンアート | "権威"が「これは素晴らしい芸術作品だ!」と言ったり、周囲の人が「素晴らしい!」なんて尤もらしく褒めていると、いまいちピンとこなくても素晴らしいのかなと思うかもしれません。 もしくは感覚的にはよく分からなくても、自分だけが分からないのだとしたら自分は美的感覚がないのかもしれない、それは恥ずかしいと感じて迎合してしまうかもしれません。 |
『裸の王様』(ハンス・クリスチャン・アンデルセン 1837年) |
でも、現代アートの世界はアンデルセンの有名な『裸の王様』と同じ世界です。芸術作品とは皆さんがただ感じた通り、素直に評価すれば良いのです。他人が素晴らしいと言っているから素晴らしいというのは不自然なことで、芸術作品のあるべき状態ではありません。でも、人間心理にどうしてもあることだからこそ、200年近くも昔に『裸の王様』の話が出版され、今でも全世界で広く読まれているのでしょう。 |
『裸の王様』2人の詐欺師 | こういうのは、仕掛け人たちだけはしっかり状況が分かっています。 サラリーマン時代にちょっとコネがあって、様々なジャンルを扱う有名美術館の館長さんとパーティ裏でお喋りする機会があったのですが、館長さんも現代アートについては価値や良さが分からないと本音を語ってくれました。 でも、現代アートのオークションが開催された同会場では、成金が大喜びで大金をはたいていたのが印象深かったです。 教養も美的感覚もない、素人成金相手の"祭り"みたいなものだったので、本当に価値ある古い作品は一切なく現代アートのみでした。それでも数千万円の値がつくものもあり、驚きました。興味深いものが見れて良かったと思っています(笑) |
さて、この通り現代の感覚からすると芸術作品は天才的な才能を持つ人物が、その才能だけで何か閃いてチョチョイっと作ってしまうと想像される方もいらっしゃるかもしれません。 でも、現代でも知られている著名なジュエラーたちも、昔の優れた作品に学んで新たなクリエーションにつなげたケースがたくさんあります。 エナメルのジュエリーもそうでした。 |
2-3. ファベルジェが研究を重ねた18世紀のフランスのエナメル
ピーター・カール・ファベルジェ(1846-1920年) | 19世紀後期は世界各地でジュエラーたちがエナメルの研究に取り組み、それぞれが独自の作品を遺しています。 その中でも、欧米で最も有名なのがロシアのファベルジェです。 |
『春の花々』(ファベルジェ 1899年)ファベルジェ美術館 | ロシアの皇帝御用達として、『ファベルジェ』の作品は有名なものだけでなく、無名なものもかなりたくさんあります。 本当にたくさんの数があります。 |
ブローチ(ファベルジェ工房 19世紀後期) 【引用】『Faberge: Lost and Found』(A Kenneth Snowman著 1990年)Thames and Hudson Ltd, London ©Electa, Milan、p60 | 作りは悪くなくても、いまいちファベルジェらしいデザインなどの魅力を感じないものもたくさんあります。 それこそ本当にファベルジェ?と思うようなものまで市場には存在します。 |
【参考】現代のファベルジェのエッグ | ロシア革命と共に失われた『ファベルジェ』ですが、現代では投資会社がブランドの商標権を取得し、ファベルジェの子孫を祭り上げて神輿を担いでくだらない量産品を販売している有様です。 欧米ではそれほど人気があり、ネームバリューが高いファベルジェなので、昔から偽物も多く出回っています。 偽物と現代の名前だけのもの、両方とも用はありませんが、一応ギロッシュ・エナメルが使われる物が多いのはポイントです。それほどまでに、ファベルジェのギロッシュ・エナメルが有名で評価されていたということの現れです。 |
【参考】現代のファベルジェのエッグ | 全世界に量産品を販売しています。 限定生産500個、シリアルナンバー入りなんて売り方も物によってはしていますが、古の王侯貴族のための本物のハイジュエリーは1点物、もしくは仲良し姉妹で使う2、3点物でオーダーメイドするのが当たり前なので、500個も生産して"限定"なんて言われると「それってかなり多い気がするけど、アピールポイントになっているの??」と混乱してしまいます(笑) |
ギロッシュエナメル・ブローチ(ファベルジェ工房のウォーク・マスター:アウグスト・ホルムストローム作 1909年頃) 【引用】『Faberge: Lost and Found』(A Kenneth Snowman著 1990年)Thames and Hudson Ltd, London ©Electa, Milan、p61 |
但しそうでなく、本物のファベルジェであってもある程度の数が存在します。 |
ファベルジェ商会の金細工師アウグスト・ヴィルヘルム・ホルムシュトレームのペテルスブルクの工房(1903年) | 同ファベルジェ商会ペテルスブルク店の工房(撮影年不明) |
なぜならば『ファベルジェ』とはピーター・カール・ファベルジェが作ったものを販売する店ではなく、最大2000人ほどと言われる職人を擁する『ファベルジェ商会』で制作・販売した商品全てを指すからです。物によって作行や細工の質・レベルが違ったり、数名程度では到底不可能な数を世に送り出せたのは『ファベルジェ』がロシア皇帝に守られた大企業だったからです。 |
『スワン』 ロッククリスタルの傘の柄 ファベルジェ 1890〜1900年頃 SOLD |
ファベルジェ自身が制作したと言われる作品は意外とありません。 また、ファベルジェ商会はジュエリーではなく"使うための贅沢な小物"がメインの会社だったため、ジュエリーも数が少ないです。 |
『ワイヤーヘヤード・フォックステリア』 アゲートのオブジェ ロシア? 1900〜1910年頃 SOLD |
1867年にクリミアで発見された紀元前400年頃のゴールド・バングルの複製(ファベルジェ商会初の職人長エリック・コリン作 1882年)【引用】『THE ART OF FABERGE』(JOHN BOOTH著 1990年)THE WELLFLEET PRESS ©1990 Quatro Publishing pls、p14 | |
ファベルジェも古今東西の優れた美術品から大いに学びました。日本の根付300数十点も蒐集し、模倣を行いつつ最終的には動物シリーズにつなげています。また、イタリアのカステラーニら同様、紀元前の優れた金細工を模倣した作品も制作しています。右のバングルは1882年の大ロシア展に出展された所謂コンテスト・ジュエリーで、ファベルジェ商会に初の国際大会での金賞をもたらした作品です。 まあでも、あまり心を打つ作品ではありませんね。古代のオリジナルはもちろん、ファソリやカステラーニらイタリア人のリバイバル作品の方が数段上です。当時の上流階級やファベルジェらにも、その認識があったのでしょう。だからこそファベルジェはこの系統の作品は今もあまり有名ではありませんし、別の得意な方面に注力したからこの手の作品も制作数が少ないと推測します。ファベルジェだから何でも優れているわけではありません。それは当たり前のことです。 |
『ロマノフ王朝最後の皇后アレキサンドラ』 永遠に美しいファベルジェのエナメルによるクラウンジュエリー ロシア 1900年頃(ファベルジェ作:マークはありません) SOLD |
ファベルジェと言えばギロッシュ・エナメルです。 130色ほどは出せたと言われるファベルジェのギロッシュエナメルは、18世紀のギロッシュエナメルを研究して作り出されたものです。 |
『プロイセン王フリードリヒ2世』 フランス(パリ) 1776-1777年頃 V&A美術館 【引用】V&A MUSEUM © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
18世紀はヨーロッパ各地でギロッシュエナメルの作品が制作されており、ファベルジェの作品同様、ジュエリーだけでなく小物にも美しいギロッシュエナメルが施されています。 ジュエリーにはお金が出せても、小物にまでお金を出せる人たちはそう多くはいません。 それこそ王族や、それに順ずる、貴族の中でも特に高い身分の人だけが小物にまでお金を使うことができます。 |
『シュリー公爵夫人』 |
Genも常々、使うための優雅な小物が一番贅沢なものだと言っています。 |
【参考】シガレットケース(ファベルジェ作 1900年頃)愛妾アリス・ケッペルからイギリス国王エドワード7世に贈られたもの | それは正しいです。 そういうわけでファベルジェも王侯貴族のために、ジュエリーだけでなく、ギロッシュエナメルを使った様々な贅沢で美しい小物を作っています。 |
『忘れな草』 ブルー・ギロッシュエナメル ペンダント フランス? 18世紀後期 SOLD |
18世紀のギロッシュエナメルは、透明度が高いエナメルを何度も塗り重ねることで生まれてくる深く澄んだ美しさが特徴です。 結局ファベルジェはそれを上回るどころか、同じレベルのエナメルも作れなかったと言われています。 |
『Bell Pull』 ロシア 1900年頃 エナメル&サイベリアン・アメシスト ベル・プル SOLD |
白い花のバスケット』 フラワーバスケット型 ペンダント&ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
でも、当時の宝飾業界の制作活動を主導し、19世紀後期から20世紀初期にかけて、各地で様々なギロッシュエナメルの美しいジュエリーが花開くことになったその功績は非常に大きいと言えるでしょう。 |
2-3. ロバート・フィリップスらのルネサンスのエナメル
『The Heneage Jewel(The Armada Jewel)』(イギリス 1595年頃)【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted テーブルカット・ダイヤモンド、ビルマ産ルビー、ロッククリスタル、エナメル、ゴールド |
ファベルジェが注目したのは18世紀のギロッシュエナメルですが、史上最もエナメルジュエリーが花開いたのがルネサンスの時代でした。宝石をカットする技術がまだ未熟で、宝石主体ではなくエナメル技術を駆使した超絶技巧のジュエリーが最高の職人らによって生み出されたからです。 |
エリザベス1世(1533-1603年)1546年頃、13歳頃 | 但し、肖像画で見ることはできても、そのルネサンスの作られた実物が現存することは王族のジュエリーと言えども殆どありません。 |
13歳頃のエリザベス1世が着用していたジュエリー( William Scrots 1546年頃) | 『女王の十字架』 ロバート・フィリップス作 ネオ・ルネサンス クロス・ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
当時の肖像画などを参考にしながら、ルネサンス期のジュエリーの再現を試みたのがイギリスのロバート・フィリップスでした。 |
ご紹介の作品 | 1978年に寄贈された大英博物館の所蔵品 【引用】Brirish Museum © British Museum/Adapted |
エリザベス女王の十字架 | |
ロバート・フィリップスによるネオ・ルネサンスの十字架 | |||
ロバート・フィリップスはネオ・ルネサンス・スタイルのジュエリーとしてこのようにいくつかのバリエーションを制作しています。 |
『幻惑の宝石』 知られざる美しい宝石:ジルコンのブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
ジュリアーノスタイル・エナメル ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
このエナメルは当時の様々な作家たちに取り入れられ、"ジュリアーノスタイル・エナメル"として1つのジャンルを確立しています。 |
2-4. 色鮮やかなジュビリー・エナメル
ヴィクトリア女王一家(1846年)ロイヤル・コレクション |
ヴィクトリア女王は18歳の若さで即位し、長生きして81歳までのおよそ63年間もの在位期間があったため、ヴィクトリア時代はとても長いです。このため、ヴィクトリアン・ジュエリーの傾向を一緒くたにして理解するのは不可能です。 |
大英帝国(1921年) |
1754年から1763年までの七年戦争に勝利したイギリスは、植民地獲得による領土拡大によって本当の意味で『日の沈まない帝国』となりました。世界に先駆けて18世紀半ばから産業革命が起こったイギリスは、巧みな植民地政策なども背景に発展していきました。 |
大英帝国(1886年) |
19世紀に最盛期を迎え、『パクス・ブリタニカ(Pax Britannica、ラテン語:イギリスの平和)』と呼ばれています。ローマ帝国の黄金期『パクス・ロマーナ(ローマの平和)』に倣った名称です。特に『世界の工場』と呼ばれた1850年頃から1870年頃をパクス・ブリタニカと呼ぶことが多いです。 |
【参考】ミッド・ヴィクトリアンの中級品(庶民にとっての高級品) | ||
ミッド・ヴィクトリアンと重なるこの時代は台頭してきた中産階級がより豊かになり、ジュエリーの需要も増大した時期でした。勢いのある時代らしい、成金的なゴテゴテしたジュエリーが庶民にも大流行しています。 |
【参考】ミッド・ヴィクトリアンの高級品 | ||
ヴィクトリア女王のオパール・ピアス(南オーストラリア美術館) 【引用】ABC News / Royal opals worn by Queen Victoria sent to Adelaide for SA Museum exhibition (24 September 2015, 5:57) | 【参考】ハーフパール&エナメル フリンジ ピアス | 【参考】ガーネット&フリンジ ピアス |
同時代は王侯貴族の間でも、ゴテゴテした悪趣味な成金デザインのジュエリーが大流行しています。王侯貴族のためのハイジュエリーであれば、同じ成金デザインでも庶民向けと違って作りは間違いなく良いのです。でも、デザインが日本人向きではありませんし、そもそもこういう悪趣味系のデザインはGenも私も嫌いなので買い付けしません(笑)だからHERITAGEのラインナップには滅多にミッド・ヴィクトリアンのジュエリーがありません。例外的に良いものも存在するのですが、殆どは大流行後に飽きられて見向きもされなくなった、時代を超えられなかったジュエリーです。 HERITAGEは時代を超越したデザインのジュエリーが好きです。こんな感じで、ハイジュエリーというだけでは買い付けないため、ヘリテイジにジュエリーを卸してくれるイギリス人ディーラーも私たちが何が好きかがよく分からなくて困る、ただ上澄み中の上澄みだけを取っていくのは間違いないと言っていました(笑) |
喪服姿のヴィクトリア女王(1867年) | そんなヘリテイジが感覚的に受け付けられないようなゴテゴテの成金ジュエリーが大流行したミッド・ヴィクトリアンでしたが、1861年にヴィクトリア女王の最愛の夫アルバート王配が42歳の若さで亡くなるという悲劇が起こりました。 深い悲しみの中、ヴィクトリア女王は長い喪に服しました。 その年数は何と、およそ26年間です。 |
『REGARD』 ジョージアン ロケット・ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
『CONSTANCE』 マルチカラー・ジェム ネックレス イギリス 1860年頃 SOLD |
カラフルにしたい場合、様々な宝石を使う方法もあります。ただ、大きさが限られますし、微妙な色合いを表現することも不可能です。現代では着色したり、いくらでも合成できたりする宝石ですが、古い時代は自然界から偶然に得られた石を使うほかなく、宝石に合わせてデザインするしかありませんでした。 |
2-5. ティファニーが金賞を受賞したエナメルのフラワー
19世紀中期までは大英帝国が世界の中心でしたが、その後はアメリカが台頭し、経済活動の中心として発展していきました。 19世紀後期からはアメリカでも様々なジュエリーが作られるようになっていきます。 |
チャールズ・ルイス・ティファニー(1812-1902年) | その中でも最も有名と言えるのが、1837年にチャールズ・ルイス・ティファニーがジョン・B・ヤングと共に始めた『ティファニー&ヤング』、後の『ティファニー』です。 |
アウトロー、盗賊のビリー・ザ・キッド(1859-1881年) | ワイアット・アープら保安官たち(1883年) |
国家として歴史が浅く、無法地帯が各地に存在し、民衆の手本となるべき王侯貴族も存在しないアメリカはヨーロッパの王侯貴族たちから下に見られていました。"文化レベルが低く、粗野な人々"というのが当時の『アメリカ人』の印象です。1860年代から1890年がアメリカの西部開拓時代です。 そんなわけで、アメリカ人に美意識なんて無いし、繊細で優れたものなんて作れるわけがないというイメージが、ヨーロッパの上流階級の意識にはありました。 |
エドワード・C・ムーア(1827-1891年) | そんなイメージを払拭したい、ヨーロッパの王侯貴族からも認められたいという、アメリカ人としてのプライドを元にチャールズ・ルイス・ティファニーは優れた小物やジュエリー作りに情熱を注いだのです。 但し本人は職人ではなく、有能なカリスマ経営者でした。カリスマの元には各分野の才能ある人物たちが多数集まりました。 ティファニーの優れたデザイン力の礎を作ったのは、1851年から1891年までジュエリーデザイナー兼シルバー部門の統括責任者だったエドワード・C・ムーアです。 |
エドワード・C・ムーアによる銀器(ティファニー 1878年) " Edward c. moore per tiffany & co., brocca in argento, oro e rame, new york 1878 " ©Sailko(28 October 2016, 22:05:06)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | ムーアは美術コレクターで、メトロポリタン美術館の後援者でもあり、保有していたたくさんのコレクションや図書を寄贈し、アメリカの芸術文化の向上に貢献しています。 そんな彼は、統率するアーティスト達に世界中の様々な年代のジュエリーや工芸品から勉強するように指導しました。 やっぱり方針はこの時代、皆同じですね。 そんなムーアの最も重要な作品として有名なのが、ジャパネスクと考古学風のジュエリーやシルバーの小物などの作品です。 古今東西の優れた美術品から学ぶことを重要視し、実践したキーパーソンがいたからこそ、ヨーロッパの上流階級にも認められる作品を作れる会社へと発展できたのです。 |
ジョージ・パウルディング・ファーナム(1859-1927年)1900年 | 1889年のパリ万博で金賞を受賞した蘭のブローチのデザイン(ジョージ・パウルディング・ファーナム 1889年) |
ティファニーの存在感が格段に上がったのが、1889年のパリ万博です。1885年に26歳でデザイン部門に加わったジョージ・パウルディング・ファーナムは、エドワード・ムーアの元ですぐに頭角を現し、巧みで革新的なアーティストとしてその地位を確立しました。 パリ万博に出展するためのジュエリー部門の責任者として、ムーアと共に権限が与えられ、出展したファーナムがデザインした蘭のブローチが金賞を受賞したのです。 |
『蘭のブローチ』(1889年パリ万博のティファニー出品作)ジョージ・パウルディング・ファーナムのデザイン 【引用】Alchetron / Paulding Farnham ©Alchetron/Adapted. |
ファーナムがデザインしたのは実物に忠実な大きさと造形の、エナメルと宝石による蘭のブローチでした。 日本や東インドのジュエリー、東欧のデザイン、ルイ14世〜16世の時代のファッション、ネイティブアメリカンの陶器など、様々なカラフルな美術工芸品からインスピレーションを受けたデザインは実に見事でした。 それに加えて、デザインを高いレベルで実現させたティファニーの技術の高さに皆が驚き、ティファニーは異例の賞賛を得ました。 |
3. アールヌーヴォーとエナメル・ジュエリー
3-1. アメリカとフランスで花開いたアールヌーヴォーのエナメルジュエリー
フランス | アメリカ |
Biranger社 アールヌーボー ペンダント フランス 1890〜1910年頃 SOLD |
『パンジー』 アールヌーヴォー マット・エナメル ブローチ アメリカ 1900年頃 SOLD |
イギリスではそもそもアールヌーヴォー自体が流行しておらず、ハイジュエリーのデザインや技法も多岐に渡っている印象があります。一方で、アメリカとフランスは19世紀後期から20世紀初頭にかけてアールヌーヴォーが大流行しており、どちらも一定レベル以上のジュエリーには割とエナメルが使われているイメージがあります。 |
プリカジュール・エナメルだけでなく、このオパールセント・エナメルもやはり古い時代には見られない、比較的新しい時代に開発されたエナメル技法です。 主にアメリカで見られるエナメル技法です。 ただ、いきなりアメリカの職人がこれだけの超難度の技法を閃いて作りだせたとは考えにくいです。 エナメルに強いのは、古くから優れた職人の街として発展し、世界各国の上流階級のために優れた小物やジュエリーを制作してきた歴史を持つフランスの職人というイメージがあります。 |
アールヌーヴォー オパールセント・エナメル ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
オパールセント・エナメルは、フランスからアメリカに渡った職人が生み出した可能性が高いと考えています。 |
3-1-1. 経済発展と共に才能ある人材が集まったアメリカの地
『ドラゴン』 アールヌーヴォー ブローチ アメリカ 1900年頃 SOLD |
1890年頃から、アメリカには様々な工房が立ち上げられているらしいのですが、残念ながらそれらの資料は殆ど残っておらず、詳しいことは分かっていません。 ただ、数は非常に少ないものの、驚くようなハイレベルのエナメル・ジュエリーが一部では作られていたことは間違いありません。 |
『白鷺の舞』 舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット イギリス 1870年 SOLD |
その背景にはフランスから来た職人がいると推測しています。 イギリスで大人気だったピケも、元はと言えばイタリアで発祥し、フランスで発展したものがもたらされた技法でした。 |
3-1-2. フランスから国外に技術と職人が移動する歴史
フランスのユグノー戦争『サン・バルテルミの虐殺』(1572-1584年)フランソワ・デュボア作 |
なぜフランスからイギリスに技術がもたらされたのかと言うと、職人がたくさん移住したからです。1517年に神聖ローマ帝国で始まった宗教改革が波及したフランスでは、1562〜1598年の40年間近くにわたり『ユグノー戦争』と呼ばれるカトリックとプロテスタントの内戦がありました。ユグノーとはカトリック側からのプロテスタントの呼称で、『サン・バルテルミの虐殺』ではカトリックによりユグノー数千人が虐殺されたと言われています。 |
虐殺後を視察する母后カトリーヌ・ド・メディシス 『ある朝のルーヴル宮城門』(エドワール・ドゥバ・ポンサン作 1880年) |
サン・バルテルミの虐殺の犠牲者数は未だ正確には分かっていません。カトリック側の弁明者は2,000人と言い、同時代に危うく死を逃れたユグノーであるシュリー公爵マクシミリアン・ド・ベテュヌによれば犠牲者は7万人にも及ぶとも言われています。色々な説はありますが、最小の見積もりでもパリで2,000人、地方では3,000人は殺害されており、おそらくサン・バルテルミの虐殺だけでフランス国内で数万人規模で犠牲者が出ています。 |
パリ市内での大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺と同時代の版画) | パリは特にカトリックの勢力が強く、民衆が市内のプロテスタントを狩り立て始め、国王の制止にもかかわらず虐殺は3日間続きました。 プロテスタントが家から逃げられぬよう道路には鎖が張られ、民兵や群衆がユグノーの家を略奪し、女子供だけでなく赤子まで見境なく虐殺したそうです。 職人階級にはユグノーも多かったのですが、これは恐ろしい状況ですね。 |
『パリでのカトリック同盟の武装行進』(作者不明 1590年)カルナヴァレ博物館 |
サン・バルテルミの虐殺を生き延びても、その後も血なまぐさい歴史が重ねられました。ユグノーを敵視するルイ14世のフォンテーヌブローの勅令によって1685年にフランスでプロテスタントが非合法化されると、最終的にユグノーの多くは改宗ではなくフランスを去ることを選びました。この時、ユグノーの様々な職人たちが技術と共にヨーロッパ各地に移動し、フランスの技術が各地にもたらされる結果となったのです。 |
『ヴァレンヌ事件(1791年)』(トマス・ファルコン・マーシャル 1854年) |
その後もフランスから技術が国外にもたらされるタイミングはいくつかありました。1789年にはフランス革命がありましたが、職人にとってはそこまで大事ではありません。従来の王侯貴族が処刑や亡命等でいなくなっても、新興勢力が買ってくれれば経済は回るからです。 |
アンシャンレジームを風刺した絵(1789年) | マリー・アントワネットが贅沢をし過ぎたからフランス革命が起きたなんて言われ方をされることもありますが、"勝者の歴史"による都合の良い言い訳です。 ルイ16世が国王になる前から既に王室の財政は破綻し、第三身分は限界まで搾取され疲弊しきっていました。 |
フランス王ルイ16世(1754-1793年) | もはや、どんなに優れた人物が王になっても立て直せない領域に入っていました。 国王だけでなく全ての先代の特権階級らの責任を取らされ、後々まで汚名を着せられたのが気の毒なルイ16世夫妻です。 |
神聖ローマ帝国出身 | フランスの植民地出身 | 神聖ローマ帝国出身 |
フランス王妃マリー・アントワネット(在位:1774-1792年) | フランス皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1804-1810年) | フランス皇后マリー・ルイーズ(在位:1810-1814年) |
後にフランス皇后となったジョゼフィーヌはマリー・アントワネットに負けず劣らず贅沢をしましたが、全く問題視されていません。 ジョゼフィーヌの後にナポレオンの妻となった神聖ローマ帝国出身のマリー・ルイーズは、贅沢をしたと非難を受け処刑された同帝国出身のマリー・マリーアントワネットのことがあるため、ジョゼフィーヌと比べると服は少ししか注文せず、ジュエリーに至っては殆ど欲しがりませんでした。その結果、ジョゼフィーヌの時代に大儲けした商人たちの間で「新しい皇后はケチだ。」とすこぶる評判が悪かったそうです。 思わず「フランス人、何やねん!」とツッコミを入れたくなる感じですが、とにかく外国人が嫌いなことも背景にあります。ジョゼフィーヌもフランス貴族とは言え、植民地出身なので革命前はパリの貴族たちから相当バカにされ、酷い仕打ちを受けた経験があります。とは言え一応フランス人なので、民衆的に外国人より遥かにマシだったのでしょう。 |
フランス人エンジニア ジョン・ジェイコブ・ホルツァッフェル(1768-1835年) | 『Geometric Art』 ゴールド ロケット・ペンダント イギリス 1840年頃 SOLD |
このような感じでしたが、この革命でも技術流出がゼロだったわけではありません。アルザス地方に住んでいたエンジニア、ジョン・ジェイコブ・ホルツァッフェルも混乱を逃れて1792年にロンドンに移住し、エンジンターンの技術をイギリスにもたらしました。知的好奇心と、美しいものを探求する心を大いに満足させてくれるエンジンターンはイギリスでも人気を博し、その魅力にはまってしまったイギリス貴族によるものとみられる高級感あふれるゴールド・ロケット・ペンダントも過去にお取り扱いしています。 |
1848年のフランス二月革命(19世紀)カルナバル美術館 |
定期的に色々なことが起こるフランスですが、アメリカのティファニー躍進のきっかけになったのが1848年のフランス革命です。ティファニー&ヤングは元々は高級な文房具や装飾品を扱う店でしたが、二月革命の発生に伴い、フランス貴族たちから重要な宝飾品を買い入れて宝飾事業に進出しました。この事業が大成功を収め、アメリカ第一の宝石商という現在の地位に繋がるのです。 それまで文房具や装飾品しか扱っていなかった店が、そのままでいきなり宝飾品ビジネスを始めるのは不可能です。貴族の重要な宝飾品類を購入できたことからもティファニーの財力は間違いなく、このタイミングでフランスから優秀な販売員や、メンテナンスや新しく制作するためのジュエリー専門の職人をお金の力を使って雇い入れた可能性が高いと推測します。 |
ウォルトのメゾンのドレスを纏ったフランス皇后ウジェニー(1826-1920年) | 1848年のフランス革命でフランス国王ルイ・フィリップ1世が退位し、臨時政府が樹立しましたが、社会主義運動は挫折し、最終的にはナポレオン3世が大統領に当選、1852年には皇帝に即位しフランスの第2帝政が始まりました。 ナポレオン3世はスペイン貴族のウジェニーと結婚したのですが、その美しさと気品とマナーで評判だった皇后ウジェニーがフランスのファッションリーダーとして、これまた散財しまくりました。 王侯貴族の贅沢は流行や文化を作って経済を回す効果が多大にあるので、ある意味、この身分の人たちの贅沢は大切な役目でした(笑) |
スエズ運河の建設で知られるフランスの外交官・実業家フェルディナン・ド・レセップス(1805-1894年) | 『レセップスのクラバット・ピン』 フランス 1880年頃 SOLD |
ナポレオン3世の治世は普仏戦争に負ける1870年まで続きましたが、その間に都市計画によってパリの街が新しくなったり(パリ改造)、スエズ運河が建設されたり、色々なことがありました。 |
オートクチュールの父シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895年)30歳頃 | 1858年にはイギリス人デザイナー、シャルル・フレデリック・ウォルトがパリに店を開き、経営・企画・プロモーション・営業の全てに才能を発揮したウォルトは1868年にパリ・オートクチュール組合を設立しました。 ウォルトはオートクチュールの父として有名な人物で、各国の王室を顧客に持っていましたが、特にフランス皇后ウジェニーからは王室御用達として豪華なイブイングドレスや宮廷服、仮面舞踏会の注文を一手に引き受ける立場にありました。 1869年のスエズ運河開通までの間に、皇后がウォルトに発注を決めた服の数は250点にも及んだと言われています。 |
フランスの舞台女優サラ・ベルナール(1844-1923年) | スウェーデンのオペラ歌手ジェニー・リンド(1820-1887年) |
ウォルトの顧客には上流階級の他、大衆のスターであるサラ・ベルナール、ジェニー・リンド、リリー・ラングドリーなどもいました。でも、ウォルトの店にあるものの値段は当時の人たちにとって目眩がするようなもので、大衆にとって"スターが着ている憧れのブランド"ではあっても、到底手が出るものではありませんでした。 |
ロシアの皇族用の宮廷服(ウォルトのメゾン 1888年)インディアナポリス美術館 【引用】wikimedia commons ©Indianapolis Museum of Art | 当時のメゾンは単独で黒字にならないと事業継続が不可能となるので、もっと高額だったと推測します。 それでも現代までオートクチュール業界は、一応は存続できているだけマシだと思います。 |
ウォルトのメゾンのドレスを纏ったオーストリア皇后エリーザベト(1837-1898年) | 昔の王侯貴族や富裕層は、現代では想像できないほどの財力を持っていました。 "女優"はあくまでも大衆のスターなので上流階級の憧れやファッションリーダーにはなり得ませんが、各国の王室がウォルトのメゾンを利用するとなれば、世界中の全ての階級の女性たちが憧れます。 |
エドワード7世(バーティ)の風刺画 | 真面目すぎるヴィクトリア女王夫妻に"虐待と言っても良い"と言われるほどの教育を受けた皇太子時代のエドワード7世は、息苦しいイギリスを離れフランスで羽根を伸ばすことが大好きでした。 買い物をしまくって『宝石王子』と呼ばれ、フランス人からも大人気、イギリス人からは「王様はフランス製」なんて風刺画を描かれるほどでした。 極端な言われ方はされていますが、当時の各国の上流階級が、優秀な職人たちが集まるパリで買い物をするのは当たり前のことでした。 |
イギリス皇太子妃&ロシア皇太子妃の姉妹 | |
マリア・フョードロヴナ&アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1873年頃) | マリア・フョードロヴナ&アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1875年頃) |
エドワード7世の妻でデンマーク王室出身のアレクサンドラ・オブ・デンマークは妹とも仲が良く、妹マリア・フョードロヴナはロシア王室に嫁いでいました。それぞれ皇太子妃になった後も毎年パリで落ち合い、お買い物なども楽しんだようです。お揃いで仕立てたドレスなどで社交界の集まりに姿を現した美人姉妹は社交界に興奮を生み出し、歓待を受けていたそうです。 |
マリア・フョードロヴナ&アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1873年頃) | ドレスだけでなく、帽子や日傘もお揃い♪ イギリス王太子妃とロシア皇太子妃の美人姉妹だなんて、最強のファッションリーダーだったのでしょうね。 |
3-1-3. 力を落とすイギリスに対して振興富裕層が力を増すアメリカ
鉄道王ら資本家たちを運ぶ労働者(雑誌パック 1883.2.7号掲載の風刺画) |
それに倣い、パリでお買い物を楽しんだのがアメリカの新興富裕層でした。西部開拓時代とほぼ重複する、1865年の南北戦争終結から1893年恐慌までの28年間、特に1870年代と1880年代はアメリカ合衆国において資本主義が急速に発展を遂げ、『金ぴか時代』或いは『金めっき時代』と呼ばれています。 政治腐敗や資本家の台頭、経済格差の拡大が起きた、"拝金主義に染まった成金趣味の時代"として認識される時代です。 |
19世紀後期のアメリカに併存した2つの時代 | |
金ぴか時代(1865-1893年) | 西部開拓時代(1860年代-1890年) |
実業家・慈善家ジョン・ロックフェラー(1839-1937年)1885年 | アウトロー、盗賊のビリー・ザ・キッド(1859-1881年) |
国内にはまだ無法地帯がありアウトローが存在する一方で、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(スコットランド出身)、石油王ジョン・ロックフェラー、銀行家ジョン・モルガン、鉱山王グッゲンハイムの父マイアー・グッゲンハイム(スイス出身のユダヤ系ドイツ人)などの名だたる富豪が輩出した時代でもあります。 |
ビルトモア・ハウス(ノースカロライナ州 1895年完成) "Biltmore Estate" ©JcPollock(27 September 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 ヴァンダービルト一族のみならずアメリカ合衆国の富の象徴 |
特に鉄道はアメリカに最初に現れた大企業であり、想像を絶する巨万の富を手に入れた鉄道王たちは各地に豪奢を極めた別荘を建設するなどしました。海運業から鉄道に転じたコーネリアス・ヴァンダービルト(オランダ系)の孫、ジョージ・ワシントン・ヴァンダービルト2世が建設したフランスのルネサンス形式の邸宅ビルトモア・ハウスは金ぴか時代の象徴の1つとされています。床面積は16,300平方メートルあり、部屋数255でアメリカ合衆国で最も大きな個人邸宅です。ヴァンダービルト家は歴史上7番目に裕福な一族となっており、今でもビルトモア・ハウスは子孫の1人が所有しています。 |
ヴァンダービルト家の仮装舞踏会で『電気照明』に扮したアリス・ヴァンダービルト(1845-1934年)1883年、38歳頃 | 鉄道王コーネリアス・ヴァンダービルト(1世)の嫡孫で、ニューヨーク・セントラル鉄道の社主コーネリアス・ヴァンダービルト2世の妻アリス・ヴァンダービルトもウォルトの顧客の一人でした。 左の『電球照明』に扮した姿はパッと見ると意味不明ですが、ちょうどエジソンが白熱電球の本格的な商用化に成功した頃で、白熱電球でアメリカの自由の女神をもじっていると分かると納得できます。 |
上流階級の社交場でもあったウォルトの店(1894年頃) | 19世紀後期は従来のイギリス貴族の力が衰え始め、代わりにアメリカの新興富裕層が爆発的に力をつけてきた時代でした。 ウォルトの顧客はアメリカ新興富裕層が相当数を占め、パリを訪れた裕福なアメリカ人たちの衣装の殆どはウォルトのものだったそうです。 イブニングドレスのみならず、朝も午後も、ナイトガウンやお茶会のガウンに至るまでウォルト製でした。 一着買うだけでも庶民には夢の夢なのに、当時のアメリカ人富裕層はそれだけ財力と購買意欲があったということですね。 |
オートクチュールの父シャルル・フレデリック・ウォルト(1825-1895年)1895年、69歳頃 | ウォルトはアメリカ人からの受注が大好きでした。イギリス出身のウォルトはフランス語が流暢でなかったこともありますが、最も重要だったのはアメリカ人女性が3Fを持っていたからだそうです。 Faith:信頼 アーティストというよりは商才に恵まれた商売人だったと言えるウォルトにとっては、絶対にカネ(フラン)が一番重要ですね(笑) ウォルトを信頼して口うるさいことを言わず、儲けにつながらない面倒なオーダーもせず、言われるがまま気前良くお金を支払ってくれる人たちは楽して儲けられる都合の良い存在だったことでしょう。 |
3-1-4. フランスの帝政の終焉とファッションリーダーの変化
フランス皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(1826-1920年)1857年、31歳頃 | 美貌や知性と共に、持ち前のファッションセンスでファッションリーダーとしてクリノリンやバッスルなどの新しい流行を作り出してきたフランス皇后ウジェニーでした。 |
1870年に投降したナポレオン三世とビスマルクの会見 | しかしながらナポレオン三世は1870年に勃発した普仏戦争で降伏し、捕虜になってしまいました。 |
フランス皇太子ナポレオン4世(1856-1879年) 22歳頃 | 知らせを聞いたウジェニー皇后は14歳の息子ナポレオン・ウジェーヌ・ルイ・ボナパルト(ナポレオン4世)を擁立し、摂政として権力を握り続けられるよう試みました。 しかしながら降伏の情報が広まると、共和政を求める運動がパリ中に広がり、市民を煽動した人物らによって翌日には共和政の臨時政府が樹立しました。 |
フランス皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(1826-1920年) 1870年、44歳頃 | ウジェニー皇后のいるテュイルリー宮殿の庭園にも「スペイン女を倒せ」と叫ぶ民衆が乱入してきたため、皇后と皇太子はイギリスに亡命せざるを得なくなってしまいました。 オーストリア出身の王妃マリー・アントワネットもオーストリア女と陰口を叩かれ、革命の際は「オーストリア女を出せ!」と言われたそうですが、時代が下っても相変わらずパリの大衆は本音では外国人が嫌いですね〜(笑) そんなわけでナポレオン3世は一家でイギリスに亡命し、フランスは共和政に移行しました。 |
ベルエポックの精神を表現したポスター(1894年)ジュール・シェレ | その後、フランスには各国に遅れをなしていた産業革命が到来し、驚異的な戦後復興を遂げました。 いわゆる『ベルエポック』の時代を迎えたわけですが、経済を牽引する層もファッションリーダーも戦前とはガラリと変化しました。 |
帝政から共和政に移行したことによるファッションリーダーの変化 | |
王侯貴族 | 女優や歌手などの大衆のスター |
フランス皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(1826-1920年) 1854年、28歳頃 | フランスの舞台女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1876年、32歳頃 |
帝政の時代は国のトップ、即ち皇后がファッションリーダーとなり新たな流行を作り出していました。社交の場で皇后の装いを見た貴族たちがそれを取り入れ、流行し、やがて庶民にもそれが降りてきて流行るという流れです。共和政になると王侯貴族階級は存在しなくなり、産業革命によって戦後復興を遂げたフランスで経済活動を牽引するのは庶民の若い女性となりました。そんな庶民が憧れ、ファッションリーダーとなったのが、同じく庶民の身分から成り上がった大衆のスターたちです。 |
フランスの舞台女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1864年、20歳頃 | ウジェニー皇后も男前でパワフルなエピソードはあるものの、生粋の貴族出身と庶民では全く育ちも、持てる気品と教養も異なります。 大衆のスター、サラ・ベルナールは駆け出しの頃、大御所女優に平手打ちを喰らわせて劇団を追い出されたり、その後も奸計を計って友人の女優から祝典の大トリで国歌斉唱する役目を奪ったり、スタッフを傘で殴って血まみれにしたりと、王侯貴族階級ならば考えられないような、いや、庶民でも考えられないようなエピソードが残っています。身近にはいて欲しくない・・(笑) それぞれに理由があり、決して悪人だったわけではありません。 憎めない、魅力的な人柄だったからこそ歴史に名を残す大女優にのし上がれたと言えるのですが、フランスという国が帝政期と共和政に移行してからで全く変わったことはご想像いただけると思います。 |
クレオパトラに扮する同時代の上流階級と舞台女優 | |
イギリスの上流階級 | 舞台女優(フランスの大衆のスター) |
アーサー・パゲット夫人(1897年) | サラ・ベルナール(1899年) |
これは同時代にクレオパトラに扮したイギリスの上流階級のアーサー・パゲット夫人と、舞台女優のサラ・ベルナールです。イギリスとフランスでは最大7倍、経済規模に差があったと言われており、帝政時代のフランス貴族と比べてもイギリスの上流階級は圧倒的に財力がありました。先ほどご紹介したアメリカのソーシャライツ、アリス・ヴァンダービルトの電球照明の仮装もウォルトのメゾンでオーダーしたものでしたが、アーサー・パゲット夫人の衣装もフルオーダーの相当お金をかけて作られたものであることが想像できます。ヴィクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリーを祝って開催された、デヴォンシャー・ハウスでの大仮装舞踏会に参加するためのものです。一方で女優はそこまで舞台衣装にお金は使えません。客席から見て、パッと見てそれっぽく見えればOKです。 |
テオドラに扮する同時代の上流階級と舞台女優 | ||
本人 | イギリスの上流階級 | 舞台女優 |
東ローマ帝国テオドラ皇后(在位:527-548年) | ランドルフ・チャーチル夫人:チャーチル元首相の母(1897年) | サラ・ベルナール(1900年) |
これは東ローマ帝国の皇帝ユスティアヌス1世の妻で、貧しい踊り子からのし上がり、夫を助けて国政に関与したテオドラ皇后に扮したチャーチル元首相の母と、舞台女優サラ・ベルナールです。どちらもオーダーで作った衣装ではあるものの、教養と知性に基づき、社交界で通用できるレベルの上質さを求める上流階級と、舞台映えを目指す女優では求めるものの方向性が全く異なります。もちろん、使うことのできるお金も桁違いです。 |
3-1-5. 職人にとってのフランスとアメリカ
ボン・マルシェ百貨店(1887年) |
かつては皇后ら王侯貴族たちが上顧客として存在し、莫大なお金をかけてオーダーしてくれたパリの服飾・宝飾業界でしたが、そのパトロンがいなくなってしまいました。需要を牽引するのは「安い」、でも「高そうに見える」ことだけに大喜びする、見る目のない庶民の女性たちです。 |
『可憐な一輪』 ダイヤモンド トレンブラン ブローチ フランス 1880年頃(ホールマーク付き) SOLD |
各国の上流階級が来てくれるからこそ、パリの職人たちは活動を継続することができました。 ただし一番の顧客だった、国内の王侯貴族はもういません。 一部の職人たちは国外の上流階級の需要によって、規模は縮小したとしてもクオリティを維持したまま制作を続けられたでしょう。 |
【参考】大衆向けベルエポック18Kゴールド・ピアス | そこまでいかなかったり、儲けに徹するような職人は、需要を牽引する庶民の女性向けの低レベルなジュエリーを作るようになりました。 |
【参考】大衆向けアールヌーヴォー・ペンダント | |
そのような職人の工房は、アールヌーヴォーであれば売れると見れば、翌日には『アールヌーヴォーの店』と簡単に標榜を変えて、見た目だけそれっぽいジュエリーを量産するようなレベルの低さです。これがベルエポックの時代に、レベルの低い大衆向けジュエリーが大量生産された原因です。はっきり言って、才能ある職人にとってはパリの街の魅力は落ちたはずです。 |
そういう職人の何人かは、このタイミングでアメリカやイギリスなどの国外に渡ったと見ています。 イギリスは王侯貴族が存在し、財力もあるので市場としては申し分ありません。 でも、多くの人々が富と権力、名声を夢に自身の運命を託した金ぴか時代のアメリカは、一代で巨万の富を築く『アメリカン・ドリーム』が持て囃された、世界で最も活気に満ち溢れた場所でした。 優れた職人の制作活動には、いくらでも気前よくお金を出してくれる優れたパトロンが必須です。 このオパールセント・エナメルも、そのようなフランスから移住した優れた職人が元となって生み出されたものではないかと思います。 |
それまでハイジュエリー制作の歴史や技術を持たなかったアメリカ人が、突然これだけのエナメルを生み出すとは考えにくいですし、フランスの優れた職人が渡米する理由もあるからです。 |
3-1-6. 優れた人材も文化財も集まった金ぴか時代のアメリカ
『ひまわり』(フィンセント・ファン・ゴッホ作 1888年12月-1889年1月)東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館 | 日本もバブル期には、投機ブームで海外から美術品を買い漁った話は有名です。 ゴッホの『ひまわり』は1987年当時の為替レートで53億円、オークション会社クリステーズへの手数料を入れると最終的には約58億円にもなったことで、世界中で大きな話題になりました。 |
ゴッホの『ひまわり』のバリエーション | ||
(1) 1888年8月 | (2) 1888年8月 | (3) 1888年8月 |
アメリカの個人蔵 | 1945年の阪神大空襲で焼失 | ノイエ・ピナコーク(ミュンヘン) |
(4) 1888年8月 | (3) 1889年1月 | (3) 1889年1月 |
ナショナルギャラリー(ロンドン) | ファン・ゴッホ美術館 | フィラデルフィア美術館 |
正直、私はゴッホの作品には全くピンとこなくて良さが未だ分からないのですが、調べてみると、どれも1週間程度で描き上げているようですね。それが早いのか遅いのかは分かりかねますが、1週間で描けるような絵に58億円も支払えるなんて、バブル期って凄いなと改めて思います。他にもバリエーションがたくさん存在することからも、明らかに審美眼で芸術的な価値を見出して買ったのではなく、投機目的ですね(笑) |
ディレッタンティ協会(1777-1779年頃) | まあでも、お金が有り余っている所に美術品が集まることは間違いありません。 古くはイギリスがそうでした。 学業の集大成として、グランドツアーで大陸に渡った貴族の子弟たちがそれまで学んだ知識や審美眼を元に目利きし、イタリアでは優れた古代美術やルネサンス美術を買い漁り、フランスでは最先端のファッションや宝飾品などを買い漁ってきました。 |
ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー | それだけでなく、大使として派遣された人物が古代美術を買い漁り、それをイギリス貴族や美術館に卸すという、私たちのようなアンティーク・ディーラーの役割を果たすイギリス人によって、イギリス国内により美術品が集まっていくということもありました。 お金を出すイギリス貴族がパトロンとして莫大な財力を持つからできたことです。 そして、優れたパトロンがいる場所は芸術家も活動しやすいので、アンリ・ヴァン・デ・ベルデのように招聘されて行くこともあれば、ジュリアーノのように自ら率先して移住することもあります。 こうしてお金のある場所に技術も集まり、その地の文化レベルも上がって行くわけです。 |
ヘンリー・モース | 南アフリカのダイヤモンドラッシュによってダイヤモンドのカットが近代化されたことは度々お話していますが、蒸気機関を使った研磨機や電動のダイヤモンドソウが発明されたのはアメリカです。 もともとはボストンの銀職人だったヘンリー・モースが南アフリカからもたらされる大量のダイヤモンドに興味を持ち、アメリカ初のダイヤモンドカットの会社を設立しました。 |
モースの会社の加工場 | そうは言っても銀職人にダイヤモンドをカットする高度な技術はありません。適当に勘でやってみてできるものでもありません。 会社の立ち上げ当初、モースは高い技術を持つことで有名なベルギー(アントワープ)から職人を呼び寄せて社員にしました。 |
モースによる研究のメモ | その技術をアメリカ人従業員に習得させ、南アフリカから入ってくる膨大なダイヤモンドをカットさせることで技術の確立に成功し、アメリカにダイヤモンドの加工産業が誕生したのです。 このモースらが、1870年代初めに蒸気機関を使った研磨機を発明しています。 |
ダイヤモンド・ソウ(1903年頃) | さらに、劈開の方向を無視したカットを可能とした電動のダイヤモンド・ソウを1900年に発明したのも、アメリカに渡ったベルギー移民でした。 歴史の中に埋もれ、知られざる存在でありながらも、文化に大きく貢献した、高度な技術を持つ職人たちがいたことは間違いないのです。 |
『ジョージ4世』 ジュセッペ・ジロメッティ 1825-1850年頃 6.2cm×4.6cm V&Aミュージアム 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
既に有名となっている、間違いなく優れた職人にオーダーすることももちろんあります。 でも、まだ世に知られない優れた作家を己の目利きで見出し、パトロンとして育て上げるのは古の王侯貴族にとっては無上の愉しみであり、喜びであると言えます。 |
【参考】パンテール ドゥ カルティエ リング(カルティエ 現代)¥20,064,000-(税込)2019.12.5現在 【引用】Cartier / PANTHERE DE CARTIER RING ©CARTIER | 既に有名になったブランドの既製品なんてお金さえあれば誰でも買えます。 現代に於いて、高額商品を着けているだけでその人は優れてると思われる場合が多いのは、有り余る財力がある人が少ないからです。 しかしながら、当時の王侯貴族はこの程度の金額は誰でも出せました。 だから高額ジュエリーを着けるだけでは誰もその人が優れているとは思いませんし、王侯貴族同士、他者との差別化にはなりません。 |
ルネサンスのハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝 | |
兄 | 弟 |
神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(在位:1576-1612年) | 神聖ローマ帝国皇帝マティアス(在位:1612-1619年) |
この、芸術を理解したり、芸術的に優れた才能を芽が出ないうちから見出す能力は持って生まれた"才能"が必須です。知識や教養は努力すれば後天的に身に付けることが可能ですが、美的感覚はどんなに努力しても天才には叶わないという現実があります。 ルネサンスの神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世は『無能』と言われるほど政治能力には全く欠けていましたが、教養に富んだ優れた文化人として知られています。5歳下の弟マティアスとは「ハプスブルク家の中でも最悪」と言われるほど関係が悪かったそうですが、政治的無策の一方で、ルドルフ2世の文化人としての才能にマティアスは激しくコンプレックスを抱いていたそうです。 |
宮廷画家アルチンボルドに依頼した公式肖像画『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』(1590-1591年) | 現代の庶民の感覚からすると政治能力が優れている方が良いように感じますが、古の王侯貴族にとってはいかに文化的な教養や美的感覚が重要視されていたのかが伝わってきますね。 マティアスもハプスブルク家で知識や教養はルドルフ2世と同じように授けられたはずです。 それでも差が出たのは、才能に大きな差があったからでしょう。
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兄 | 弟 |
神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(在位:1576-1612年) | 神聖ローマ帝国皇帝マティアス(在位:1612-1619年) |
弟のマティアスも全く才能がないわけではなく、なまじ普通の人よりは美的感覚があったからこそ、努力だけでは到達することができない兄の天賦の才能の深淵を感じ取ることができたのでしょう。天才を理解できるのは天才だけですし、全く才能がないと、相手の才能のレベルの違いすら分からないですからね。 |
『妖精のささやき』 ダイヤモンド・ピアス イギリス 1880年頃 SOLD |
この通り、古の王侯貴族たちはブランドや作家名ではなく自身の審美眼で作品を選んだりオーダーしたりしていました。 このため、王侯貴族のための真に優れたハイジュエリーはノーサインである場合が多いのです。 |
『摩天楼』 アールデコ ロッククリスタル&ダイヤモンド ブローチ イギリス 1930年頃 SOLD |
でも、優れた美的感覚を持つ人物にとっては作品自体が優れていれば十分です。 仮に有名作家が作っていたとしても、それが片手間にやった手抜きの作品だったらむしろ興ざめです。 職人にとっても、本当に価値が分かる人に買ってもらうことが一番なので、アンティークの優れたジュエリーはノーサインが多いのです。 |
でも、知られざる優れた職人によって生み出された宝物は、必ずアンティークジュエリーには存在します。 |
3-2. 大衆ジュエリーと上流階級のためのハイジュエリーの違い
それらの工房が切磋琢磨しつつ、オパールセント・エナメルのような新しい技法を駆使した優れたジュエリーも作られましたが、その殆どはヘリテイジで扱えるレベルのものではありません。 |
3-2-1. 大衆向けの量産エナメルジュエリー
【参考】中級の量産品 | 金ぴか時代。 今日食べるものすらなく、皆で助け合ってようやく生きてきた時代を経て、急速な経済発展に伴ってアメリカ人の道徳観や価値観は大きく変化しました。 強烈な名誉欲や物欲が正当化され、成金主義がはびこりました。 超富裕層はヨーロッパの王侯貴族御用達の有名店での爆買いを好み、そこまでいかない層もここぞとばかりにジュエリーなどを買いまくりました。 アメリカ国内の需要の大きな部分を占める、その中途半端な層向けに、エナメルジュエリーも大量生産されています。 |
【参考】中級の量産品 | 【参考】中級の量産品 |
量産品はデザインも作りもダメです。デザインは使い回しなので、似たものだらけです。パンジーは当時人気が高かったモチーフの1つで、色違いやアイテム違い単純なデザインのジュエリーが多々制作されています。大量に生産するため、当然心はこもっていませんし、作りも雑です。感動するような美しさは感じられるわけもなく、精緻な仕事に基づく心地よさも感じられません。 |
【参考】中級の量産品 | クローバーもエナメルの人気モチーフの1つですが、それだけでなく、三日月のフレームとの組み合わせもたくさん作られています。 量産の金具に量産の適当なエナメルのパーツをくっつけて終わりという、アンティークジュエリーとはいえども簡素な作りとデザインです。 |
【参考】中級の量産品 | ||
アンティークの特別オーダーで作られたハイジュエリーを見慣れていると、こういう安物の魅力がさっぱり分からないのですが、美的感覚のない人たちにとっては現代の庶民と同じで、他人と同じものが安心ということだったのかもしれませんね。技術とプライドのある職人だったら絶対にやりたがらない仕事ですが、やる気や才能のない職人にとっては簡単に量産できて儲かるので、お互いにメリットがあったのでしょう。 |
3-2-2. 神技の職人だけが作ることのできる心を揺さぶるエナメルジュエリー
Genも私も芸術性の高いハイジュエリーだけを厳選してお取り扱いしているので、皆様にはスーパー・ハイレベルのエナメル・ジュエリーしかご覧いただいたことがありません。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ フランス 1890-1900年頃 SOLD |
だからアンティークのエナメルなんてどれもこのレベルで作ってあると思われる方もいらっしゃるかもしれません。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないクラスの中〜高級品 | でも、市場の大半はデザインを使いまわした出来の良くない安物で、ある程度は頑張って作られたものでもせいぜいこの程度なのです。 |
【参考】超高級品として作られたパンジー・エナメル・ブローチ(ヘリテイジでは扱わないレベル) |
ちなみにこれも最高級品としてお金と手間をかけて作られたものですが、ヘリテイジでは扱いませんん。神技を持つ職人による作品と比べると作りが数段劣ります。お金と手間をかけて作られていることは分かるのですが、何よりも問題なのは、感覚的に美しいと感じられないことです。成金臭はプンプンと臭ってくるのですが・・。 |
アメリカの素晴らしいエナメル・ジュエリー | |
オパールセント・エナメルの最高峰 | マット・エナメルの最高峰 |
これはそれぞれ、オパールセント・エナメルの最高峰とマット・エナメルの最高峰の作品です。どちらも淡く繊細な色合いと、微妙に変化するグラデーションが共通しています。 |
3-2-3. 色合いの微妙な変化を駆使する芸術性の高い作品
成金はド派手で目立つ色使いを好みます。 日本人にも成金はいますが、さすがに他の民族の成金ほど派手な色使いを好む人はそうはいません。感覚的に受け付けないのです。 アメリカのお菓子の色使いがヤバいことはご存知の方も多いでしょう。アメリカで好まれるような、原色系のどぎつい色使いの食品には、本能的に身の危険を感じる日本人は多いようです。 これはアメリカだけに限りません。ロンドンのスーパーマーケットで様々なケーキを見た時も、アメリカよりは多少マシというレベルで、似たり寄ったりの印象でした。色の好みは人種や国民性と言えますが、完全にそれだけとも言いきれません。 |
ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年) | 18世紀のイギリス人、ジョサイア・ウェッジウッドは8歳から家業の陶芸を学び始め、生涯情熱を燃やし、研究開発を重ねてきました。 |
ウェッジウッドのジャスパーウェア | ||
中国の花々のゴブレット(1780年頃) | 蓋付きベース(1825年頃) | 蓋付きベース(1820年頃) " WLA brooklynmuseum Wedgwood Vase with Cover ca 1820 " ©Wikipedia Loves Art participant"The_Grotto"(February 2009)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
その成果の1つがジャスパーウェアです。水色が一番有名ですが、他にも様々な色が開発されています。 |
ジャスパーウェアの試作品(ジョサイア・ウェッジウッド 1773-1776年) | 研究熱心だったウェッジウッドは、数千回もの試作を繰り返してようやくジャスパーウェアを開発したそうです。 左はその試作品で、シリアルナンバーとウェッジウッドの実験ノートを照らし合わせると、そのレシピ(配合)が分かります。 同じような色合いがたくさんありますが、それらの微妙な違いをシビアに知覚し、理想とする色合いの実現を妥協することなく執念で追い求めたことは間違いありません。 |
百合もしくはマドンナ・リリーの花束のエッグ(ファベルジェ 1899年) "Bouquet of lilies clock 01 by shakko" ©shakko(2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | また、18世紀のエナメルを熱心に研究したファベルジェは130色ほどの色が作れたと言われています。 私が小さい頃に使っていたクレパスはせいぜい12色です。 高級なクレパスだと20色あったりして、十分に嬉しいレベルです(笑) それが130色だなんて!! |
皇帝の戴冠式のエッグ(ファベルジェ 1897年) "Faberge egg Rome 05" ©Miguel Hermoso Cuesta(18 May 2011, 10:24:44)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
それは即ち、ヨーロッパ系の人々も上流階級の中には絶妙な色合いを敏感に知覚し、芸術作品に高いレベルで反映させることを要求し評価し喜ぶ、極度に美的感覚の鋭い人々が存在した証なのです。そしてその高度な美的感覚を共有し、驚くべき技術で実現できる職人が存在し、数は少ないながらも、美しい色彩を持つアーティスティックな作品が生まれることができたということなのでしょう。 |
このような微妙な色合いを最高に美しく配した、優しく生き生きとしたオパールセント・エナメルの宝物は、自己を顕示する必要のない、生まれながらに身分が高くお金に困ることもなく、しかも傑出した美意識のある人のために作られたジュエリーと言えます。 |
上流階級の中でもかなり特別な人のためのものだったはずで、庶民では価値を理解できない人が大半だったはずです。 しかしながら面白いことに、日本人女性はこの特別な宝物の価値を理解できる割合が欧米人よりも遥かに高いのです。 |
欧米人全員が、分かりやすい派手な色彩だけを好むわけではないということがよく分かります。少なくともヨーロッパの上流階級でも、特に美的感覚が鋭い人たちはこのような繊細な色彩を敏感に認識し、特に好んで高く評価していたことは確実です。こういう、当時の王侯貴族たちと深く感性を共有できる宝物は、出逢うと本当に嬉しくなります♪ |
3-2-4. 優れたアンティークのハイジュエリーの価値を世界で最も理解できる日本人
日本で初めてアンティークジュエリー・ディーラーとなり、44年間この仕事を続けてきたGen曰く、日本人女性が世界で一番アンティークジュエリーの本当の魅力を理解できるそうです。 欧米の庶民は理解できない、絶妙な色彩が奏でる美しさを一番理解できるのも日本人女性です。 元々、女性は男性より色彩感覚が鋭いと言われています。 一方で、男性は素早く動くものを認識する力が女性より優れているという研究報告があります。 研究報告を聞かなくても、なんとなくこういう男女差があることは感じますよね。 |
『椿と枝垂れ梅』 アンティーク着物(昭和初期) HERITAGEコレクション |
それに加えて、日本は色彩文化が発達していました。 日本には『伝統色』と言われるたくさんの定義付けされた色があり、それらを駆使して美しい着物も作られてきました。 |
伝統色の一部 【引用】和色大辞典 / 和色大辞典 |
伝統色とは、過去の歴史資料において出典がある日本固有の伝統的な色名称を含む千百余の色を指します。日本独自の色彩感覚に基づくものですが、江戸時代に幕府が贅沢を禁ずる『奢侈禁止令(しゃしきんしれい)』と発令したことで、庶民によって『四十八茶百鼠』と呼ばれる繊細な色彩感覚が生み出されたという、人工的に生み出された部分もあります。贅沢とされる色彩の着物を禁止したら、許されている色の範囲内で様々な違いを楽しんだという、まさに江戸っ子らしい粋な話です。 伝統色を見てみると、全て『白』と言ってしまいそうな色でも様々に定義され分けていますね。そして、日本人ならば名称を聞くと、それぞれの色に「ああ、なるほど。」と感覚的に納得できる気がします。 |
『新撰御ひいなかた』(浅井了意 作 1667年)【出典】東京国立博物館 | 奢侈禁止令が出されたきっかけは、裕福になった江戸の町人の中には衣装に贅を尽くす人々が出てくるようになり、やがて競うように総鹿の子や金刺繍などの豪華な衣装が作られるようになったからです。 |
『新撰御ひいなかた』(浅井了意 作 1667年)【出典】東京国立博物館 | 富豪町人の奥様や娘の衣装比べが話題となるほどで、寛文年間(1661-1672年)には『新撰御ひいなかた』という、今日で言うファッション誌も登場しています。 |
『新撰御ひいなかた』(浅井了意 作 1667年)【出典】東京国立博物館 | フランスの宮廷文化全盛期が18世紀頃と考えると、それより昔、しかも上流階級ではなく庶民の間で文化が花開くという、世界的に見ると他には類のない、欧米人からすれば理解し難いことが起こっているのが日本です。 日本人にとっては庶民が文化的に豊かな生活をするのが当たり前でも、欧米人にとっては当たり前のことではありません。 |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) | パリで上流階級や知識階層、芸術家たちに浮世絵を始めとした日本美術を紹介し、アールヌーヴォーの発生と流行に貢献したユダヤ系ドイツ人の美術商サミュエル・ビングは、後に実は浮世絵は日本人にとって大したものではなく、庶民が気軽に買える使い捨ての紙レベルのものだったことを知り、大きなショックを受けガッカリしたそうです。 |
『今様見立士農工商』より「職人」(歌川国貞 1857年) |
有名作家の一点物の肉筆画だったら高級品ですが、そういうものは日本人の中でも然るべき人物が持っているので、外国人が簡単に手に入れられるものではないでしょう。そうではない、量産レベルのものが欧米の上流階級や目利きのお眼鏡に叶うなんて、日本の庶民は恐ろしいまでの文化レベルの高さです。 |
伝統色の一部 【引用】和色大辞典 / 和色大辞典 | 幕府が奢侈禁止令幕府出しても、今度はそのルール内で微妙な色の違いを楽しむようになるという(笑) 欧米の上流階級や知識階層、芸術家の一部だけが持つ"優れた繊細な美的感覚"を、日本人は古い時代から庶民レベルで持っていたというわけです。 |
『木蓮』 アンティークの帯(大正〜昭和初期) HERITAGE コレクション |
私はこの帯を初めて見た時、非常に衝撃を受けました。あまりにもモダンな感覚だったからです。 黒のオシャレ着物がある時点でまず驚いたのですが、元々日本の喪服は黒ではなく白装束でした。明治30年(1897年)に西洋から喪の色として黒が入ってきて、定着したのはそれ以降です。 "喪の黒"は浅い歴史しかなく、本来日本の伝統文化ではありませんが、黒の着物をルール化することで新しい着物を買わせて儲けたい、戦後の着物業界によって喪の着物は黒というルールが絶対化されました。 実は戦前の日本人は優れた色彩感覚を持ち、ファッションの黒を使いこなしていたわけで、左の帯はその生き証人と言えるでしょう。黒だけでなく絶妙な鼠色のグラデーションも、私の琴線に触れる作品です。 |
『四季の草花』・羽織 大正〜昭和初期 HERITAGE コレクション |
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これも大好きなアンティークの羽織で、高い芸術性はいつまで見ていても飽きることがないのですが、灰色系統の色を駆使した絶妙な色使いが本当に見事です。 百鼠。鼠色だけでもたくさんの種類を使い分けていた日本人の豊かな色彩感覚を感じる作品です。 |
今でも日本人の多くに、意識せずとも豊かな色彩を繊細に感じ取り、美しいと思える感性が備わっています。ヨーロッパの上流階級の中でも特別な美的感覚を持つ人しか理解できなかったであろう、このエナメルの美しさと価値を、現代に於いて最も理解できるのはやはり日本人女性だと思います。 |
3-3. 次元が異なる美しさを放つエナメル
3-3-1. 美しいオパールセント・エナメル
オパールセント・エナメルは作られた数自体が少ないため、44年間でお取り扱いした数も少ないのですが、そのどれもが美しいものでした。 しかしながら、今回の宝物は最も高難度の作りであり、別格の美しさを放っています。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ フランス 1890-1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォー エナメル ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ イギリス 1890-1900年頃 SOLD |
ちなみに製造国がアメリカ、フランス、イギリスとそれぞれに違うのですが、エナメルだけでなく枝部分の彫金の作行まで類似していることから、これらは全て同じ作者が作った可能性があると見ています。 |
この宝物は、アメリカのティファニーやブラックスター&フロスト社、フランスのカルティエなど欧米の有名な高級店に作品を提供していた工房で作られたものです。 |
ピーター・カール・ファベルジェ(1846-1920年) | 当時はよくあることで、『ファベルジェ商会の職人』と言われる人も専属の従業員ではなく、工房は別に持っていて必要に応じて納入するという職人が多々いました。 同じ職人が作ったものでもファベルジェ商会で販売するとファベルジェの作品、別の会社で販売するとその会社の作品ということになる仕組です。 おブランド名(笑)で買いたい人たちが増えてきたことで出来た業態と言えるでしょう。 |
お金儲けに興味がなく、お金は行きていくための生活費さえあれば良いという職人の場合、優れた芸術家肌の職人ほど営業ではなく制作活動に専念したいと思うものです。 所属や納入形式であれば、個別のお客様を接客・販売したりプロモーションしたりは納入先の専門の人に任せて、自身は制作活動に専念できるのでお互いにメリットがあります。 |
ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted | こういうピアスも金具は違いますが、全て同じ職人が作ったものです。 初代カステラーニの弟子にはカルロ・ジュリアーノもいて、ジュリアーノはロンドンに移住した後はロバート・フィリップスにも作品を納めていました。 |
【参考】ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870年頃)£34,000- | 【参考】ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃) |
特殊な才能を必要とする難易度の高い作品になればなるほど、作ることができる職人は限られます。「この職人ただ一人しか作ることができない」というレベルのものも中にはあります。そのような場合は職人ありきの作品なので、その職人がいなくなれば、ブランドや店名は同じだったとしても同じレベルのものは提供できなくなります。 |
ブシュロンのジュエリー | ||
カエデ マルチユース トレンブラン フランス 1880年頃 SOLD |
ペンダント ウォッチ フランス 1910年頃 SOLD |
オオカミのブローチ フランス 現代 ¥9,306,000-(税込)2021.5現在 【引用】BOUCHERON HP / WOLF BROOCH |
だから有名な高級ブランドと言えども、全てのブランドが現代ではろくなものを1つも提供できない状態になってしまっているのです。現代の高級ブランドジュエリーを昔の上流階級に見せたら、失笑されることはあっても王室御用達などになることは絶対にありえません。本当に良いものを手に入れようと思ったら、本来はブランドで選ぶべきではないのです。 |
それなのにこの職人にオーダーしていたというのは、このオパールセント・エナメルの技術があまりにも高度で、この職人しか作ることができなかったからに違いありません。 |
一番数多く納めていたのはティファニーらしいのですが、フランスのカルティエでも販売されています。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ イギリス 1890〜1900年頃 SOLD |
どの国の職人でもこのレベルのオパールセント・エナメルが作れたから、それぞれの国でこのエナメルのジュエリーが存在するのではなく、同じ職人が作って納入したものをそれぞれの会社が販売したからという可能性が高いように思います。 |
3-3-2. でき具合による美しさの違い
このレベルのオパールセント・エナメルを作ることができた職人は一人だけと感じるのは、きちんと理由があります。 |
【参考】中級品のオパールセント・エナメルのペンダント | これは決して安物として作られているわけではなく、でも高級品でもない中級品です。 安物ではないので一応気を使ってオパールセント・エナメルでお花部分を表現しようと試みたようですが、下手すぎて全然美しいと感じられません。 葉っぱに至っては手抜きも良いところです。 ジュエリーと言うにはあまりにも安っぽい出来です。 |
【参考】中〜高級品のオパールセント・エナメルのペンダント | これは中級品の中ではある程度高級なものとして作られたブローチです。 お花部分はマットエナメルですが、葉っぱ部分は単色のギロッシュエナメルもしくはグラデーションをかけたオパールセント・エナメルを試みたようです。 エナメルが薄すぎて色に深みが感じられない上に、エナメルの材質が悪く透明感もなくて、どうしたかったのか分かりかねる中途半端な印象です。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | これは一応高級品として作られたものですが、ヘリテイジで扱うレベルではありません。 何だか干からびた生気のないパンジーに見えますが、意図してそんなものを作るはずはないので、技術が足りずにこうなったということでしょう。 エナメルが薄いのと、エナメルの材質が悪いことがしなびた印象の原因です。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | これは紫のエナメルが厚ぼったく不均一に溜まっていて汚いですね。 それに以上に気になるのが下地の彫金細工です。 オパールセントエナメルはギロッシュエナメル同様、透明〜半透明のエナメルから透けて見える、下地の彫金細工によるゴールドの模様がポイントです。 花びらの花脈らしさが全くなく、お花として見たときに不自然で違和感を感じます。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | これは彫金は先ほどのものよりきちんとしていますが、エナメルがダメです。 重ね塗りしてある程度厚みは出してあるものの、その分透明感が低くなり、ボテっとした印象になっています。 頑張ったのは伝わってくるのですが、全体的に残念な感じです。 |
アメリカのマット・エナメルのパンジー | |||
【参考】ご紹介しないレベル | HERITAGEが扱うレベル | ||
中級品 | 高級品 | 超高級品(成金用) | 最高級品 |
エナメルはとても難しい技術で、感覚的に美しいと思える本当に優れた宝物を作ることができるのは神技を持つ職人に限られるのです。マット・エナメルもそうでしたが、オパールセント・エナメルも同様なのです。 |
オパールセント・エナメルのジュエリー | |||
【参考】ご紹介しないレベル | HERITAGEが扱うレベル | ||
高級品 | 高級品 | 高級品 | 最高級品 |
オパールセント・エナメルは特に超難度の技術が必要となるため、差が激しいです。高級品としてある程度高い技術を持つ職人に作られたものであっても、ちょっとした差でお花らしい生き生きとした美しさが出なくなります。 |
4. 非常に高度な技術を要するオパールセント・エナメル
4-1. ギロッシュエナメルより難しい理由
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | そこまで安物として作られたものでなくても、いまいち美しいと思えるものがオパールセント・エナメルにはないのはきちんと理由があります。 同じ時代のエナメルとしてはファベルジェのギロッシュエナメルが有名ですが、オパールセント・エナメルはギロッシュエナメルに比べても遥かに難しいのです。 |
ギロッシュエナメルの香水瓶 イギリス 1920年頃 SOLD |
ギロッシュエナメルは、透けて見える地模様とエナメルの色や輝きのコラボレーションを楽しむエナメルです。 |
『循環する世界』 ブルー ギロッシュエナメル ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
『Bewitched』 ウィッチズハート ペンダント&ブローチ(ロケット付) イギリス 1880年頃 SOLD |
彫金技術が高かったヴィクトリアンまでは、複雑な形状の一点物のハイジュエリーには手彫りで地模様を彫金したものも存在します。 |
ギロッシュエナメル ボックス スイス 1790年頃 V&A美術館 【引用】V&A MUSEUM © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
エドワーディアン ギロッシュエナメル ペンダント イギリス 1910年頃 SOLD |
でも、小物のようにジュエリーよりも広い面積を必要とするギロッシュエナメルや、19世紀後期以降のジュエリーの多くはエンジンターンで模様が彫金されています。エンジンターンは量産向きというメリットもありますが、それ以外に人が手で作るとどうしても出てくる揺らぎを一切排除した、完璧に整ったパターンを描くことができます。 |
ブルーギロッシュエナメル ペンダントウォッチ |
整ったエンジンターンの模様が織りなす波のような動きを感じる輝きと、透明なエナメルは至極相性が良いです。 だからこそ特別に作られる最高級のジュエリーにもエンジンターンのギロッシュエナメルが好んで使われているのです。 |
ブルー・ギロッシュエナメル ラペル・ウォッチ フランス 1910年台後半(ムーブメントはスイス製) SOLD |
彫金に関しては当然ながらエンジンターンよりも手彫りの方が、より職人の高い技術を必要とします。 エナメルの部分に関してのポイントは、地模様が見えるように透明度の高い釉薬を作ること、そして色彩に深みを出すために重ね塗りしてしっかりと厚みを出すことです。 |
『ケルチの雄鶏』(ファベルジェ商会マイケル・ペルキン作 1904年)"Kelch Chanticleer egg" ©Derren Hodson(2 February 2015)/Adapted/CC BY 2.0 | ファベルジェ商会の職人長マイケル・ペルキン(1860-1903年) |
これはロシア貴族で実業家のアレクサンドル・フェルディナンドビッチ・ケルチのために作られたイースターエッグです。 制作したのはファベルジェ商会の最も重要な職人の一人で、1903年に亡くなるまで職人長としてイースターエッグの制作を監督していたマイケル・ペルキンです。 |
英国王室御用達RUNDELL&BRIDGE社 懐中時計 イギリス 1790年頃 SOLD |
18世紀のエナメルの研究を重ねて作り出されたというファベルジェのエナメルですが、結局当時のエナメルには及ばなかったと言われています。 ギロッシュエナメルに深みを出すには、エナメルの透明度の高さと厚みが必要です。 厚みを出すには釉薬を塗っては炉で焼くという作用を繰り返す必要があります。 |
エナメルはとても難しい技術です。現代でも超高級時計の一部にだけ、僅かに技術が残っています。しかしながら作れる職人自体の数が少ない上に、トップクラスの職人が作った物でも、到底昔のトップクラスの職人が作ったものには遠く及びません。 |
『ケルチの雄鶏』(ファベルジェ商会マイケル・ペルキン作 1904年) "Kelch Chanticleer egg" ©Derren Hodson(2 February 2015)/Adapted/CC BY 2.0 |
ファベルジェのエナメルは6回、重ね塗りしていたと言われています。 6回も工程を繰り返しても18世紀のエナメルには敵わなかったとは、美しいエナメルを生み出すのがいかに難しいかが伝わってきます。 |
時代ごとのブルー・ギロッシュエナメル | ||
1790年頃 | 1904年"Kelch Chanticleer egg" ©Derren Hodson(2 February 2015)/Adapted/CC BY 2.0 | 現代 |
全て各時代のトップクラスの職人が作った最高級品のはずですが、並べると違いは明らかです。ギロッシュエナメルですらこれだけ難しい技術なのです。 |
レッドエナメル ロケット・ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
しかしながら、オパールセント・エナメルのジュエリーを作る難しさはその比ではありません。 単純に地模様とエナメルの色を楽しむギロッシュエナメルは、単色で透明度の高さを追求すればOKです。 |
しかしながらオパールセントエナメルは様々な色をグラーデーションになるように塗り重ねる必要がありますし、それぞれの色で透明度をコントロールする必要があるため、釉薬の調合がとても難しいです。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | |
エナメルが不透明過ぎると、せっかくの下地の彫金模様が見えなくなり、エナメル内部から放たれ黄金の地模様の美しい輝きが感じられなくなります。一方で、エナメルの透明度の低さを補うために、塗り重ねる回数を減らしてしまうと薄っぺらい質感になります。 |
また、平面や曲面でも比較的単純な形状に施すギロッシュエナメルと異なり、オパールセントエナメルは複雑な形状に施すことが多いです。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | ムラにならぬよう、狙い通りに色を塗り重ねるのは非常に難しいことです。 楽して一度に塗ろうとすると、重力に従って融けた釉薬は低い方に流れてしまいます。 |
たくさんの色彩を使い、曲率の高い複雑なオパールセント・エナメルを完璧な仕上がりで作ろうとすると、通常では考えられないほど手間がかかります。エナメルを少しずつ、何度も重ねていく必要があります。1度でも失敗したら、それまでの作業は水の泡です。想像を絶する手間と集中力が必要です。 |
特定の時代、しかも限られた数しかこのレベルのオーパールセント・エナメルの宝物が存在しないのは、できる職人が他にいなかったからだと推測します。 |
【参考】中級品のオパールセント・エナメルのブローチ | 同じ工房にいたり、ある程度の技術を持つエナメル職人であれば、やり方自体は知っていたはずです。 でも、やり方は分かっていても、あまりにも難し過ぎて他の職人では作ることができなかったというのが実際の所なのだと思います。 |
これだけ美しいのですから、作りたいと思う職人も、欲しいと思う上流階級も少なくはなかったはずです。 それでも技術的難易度の問題で、おそらくは神技を持つ1代の職人で終わってしまったという・・。 |
儚さと切なさを感じつつ、それでも永遠の美しさを持つエナメルのジュエリーとして生まれてから130年ほどが経ち、私たちが寿命を迎えた後も次の世代の心を癒し続けるのだと思うと、本物の野の花のように力強い存在にも感じます。 |
4-2. 花モチーフが難しい理由
オパールセント・エナメルは下記理由で、ギロッシュエナメルより遥かに難しい技法と言えました。 1. 手彫りの彫金による地模様(センスと技術が必要) 2. エナメルの調合(透明度、色) 3. 釉薬の塗布(回数の多さ、複雑な形状への作業) ただでさえ困難を極めるオパールセント・エナメルの技法ですが、さらにそれでお花を作ることは、葉っぱなどとは比べ物にならぬほど難易度が上がります。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ イギリス 1890-1900年頃 SOLD |
葉っぱもセンスよく造形するには高い技術が必要で、こうしてハイクラスのジュエリーとして作られたものは曲率もあるので、エナメルを塗布するのもかなり大変です。 |
しかしながらこのお花の造形はその比ではありません。お花だけではなく、茎と葉もデザインされたブローチなのでお花部分は小さいのですが、それにも関わらずこれだけ複雑に造形してあります。そして通常では見えない、見ることもないお花の内側にまでしっかりとエナメルが施してあります。 |
成金ジュエリーは正面から見るとお金をかけているように見えても、見えない裏側は手を抜いてあるものです。見えない部分にまで美意識を行き届かせ、お金と手間をかけて徹底して作られているのは、教養と美意識の高い王侯貴族のために作られたジュエリーの特徴です。 |
さすがだな〜と感心するばかりです。 |
パンジー | 【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのパンジー・ブローチ |
この時代のエナメルで作られたお花のジュエリーはパンジーが圧倒的に多いのですが、数あるお花の中でも特に平たくて作りやすかったからなのだと思います。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | 他のジュエリーを見ても、パンジーでなくとも平たいデザインのお花です。 造形に違和感があって、本物のお花にも見えないですし、安っぽい印象です。 |
このお花は、どの角度から見ても本物のような美しく自然な造形です。作者の高い技術に加えて、抜群のセンスがあるからこそ創り出せた造形と言えます。花びら1枚1枚が、本当に豊かな表現力で立体的に作られています。 |
しかしながら、本物の生きたお花のように見えるのは立体造形の素晴らしさだけが理由ではありません。エナメルの下地のゴールドに彫金した、花脈のデザインが実に見事だからです。半透明のエナメルから透けて見える花脈が、光の当たり具合によって黄金の輝きと共に花びらに浮かび上がります。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | こういう、何も考えず平行に彫っただけの地模様は、実際の花脈としてはありえないもので、違和感しか感じられません。 しかもエナメルが透明過ぎて、いつでも地模様が見え過ぎて印象的な美しさが出ないのです。 |
光の当たり方でダイナミックに変化するからこそ、この宝物からは印象的な美しさを感じるのです。半透明のエナメルの特性を最大限に活かした最高難度のエナメルだから成せることです。偶然が生み出した奇跡のようなものであり、このような幻想的な美を感じるエナメルは最高級のアンティーク・ジュエリーの中でも滅多に存在し得ません。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ フランス 1890-1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォー エナメル ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
センス良く花脈をデザインして彫金することが、葉脈を彫金する以上に難しいことはご説明するまでもないでしょう。 |
5. ジョージアンを彷彿とさせる見事な彫金
5-1. センス溢れる葉のデザイン
お花がメインのジュエリーとは言え、最高ランクの作品に相応しく葉っぱのデザインと作りも別格です。 |
2次元で表現する画像だと立体感が分かりにくくなってしまうのですが、この角度から見ると葉っぱも驚くほど立体的に造形されていることがお分かりいただけると思います。 |
実際に葉っぱが捻られた構造になっているわけではないのですが、立体造形と計算された配色によって、本当に葉っぱのウラとオモテが反転したかのように見えるのが驚きです。 |
きつい角度で造形された葉っぱに綺麗にエナメルを施すのみならず、狙った箇所に狙い通りの配色を施す技術は到底人の手で作り出したとは思えない神技ですが、彫金も本当に美しいです。 |
『花茂』の春のいけばな花材(谷渡り、カーネーション、小菊 ¥3,000-)【引用】AOYAMA HANAMO / 春のいけなな花材 | 葉っぱは谷渡りにも見えますが、実際に何のお花なのかは分かりません。 |
アールデコの帯(大正〜昭和初期)HERITAGEコレクション | 現実に存在するお花ではなく、自由な発想で架空の美しいお花を表現することはアンティーク着物でもよくあります。 この帯も菊は分かるのですが、メインのお花は何だかよく分かりません。 ちょっと似ていますがラフレシアとは考えにくく、ハイビスカスくらいが妥当かと思いますが、アンティークの着物をたくさんご覧になってきたプロのアンティーク着物ディーラーさんもこれはっきりは分からないと仰っていました。 |
いずれにせよ、葉っぱは見事な造形と彫金です。上にエナメルが乗っているので彫金細工を直接見ることはできませんが、光の加減で浮かび上がる自然の植物らしい繊細な地模様は本当に美しいです。 |
ピンク・トパーズ フラワー・ブローチ イギリス 1800年頃 SOLD |
それはジョージアンの優れた金細工をも彷彿とさせるものです。 |
『情愛の鳥』 |
コンテストに出展するために作られたコンスト・ジュエリーとみられるこの宝物も、脇役の葉っぱまで、一切の手抜きが見られない見事なデザインと作りでした。 今回の宝物と偶然葉っぱのデザインが似ており、とても私好みなのですが、何だか共通する美的感覚があるのかもしれませんね♪ |
5-2. 茎の彫金の見事さ
この宝物は、葉っぱどころか茎にも手を抜くことなく、超難度の細工を施してあります。 |
茎全体がほんの僅か面取りして、つや消しにしてあります。言われなければ見落としてしまいそうなくらい、繊細な細工です。普通の職人であれば、心配なのではっきりと分かるくらい加工してしまうはずです。細工に気づいてもらえなくても、無意識でただ美しいと思ってもらえれば良い、そういう意思の元に作られた細工です。 |
立体構造や質感をデザインするのは別格の才能を持つ、ごく僅かな職人しかできません。アンティークのハイジュエリーの中でも、特に良いものでしか見ることはありません。デザインが難しいことに加えて、技術や手間もかかります。見た時に例え知覚できなくても、全体の雰囲気には確実に大きく影響するため、分かる人にはその価値が理解できますし喜んでもらえます。しかしながら分からない人にとっては、人件費や技術料の上乗せによってただ高くなってしまうだけであるため、喜ばれないのです。 |
茎の彫金は質感をコントロールする細工の部類に入るのですが、単純なマット加工や単調な模様を描いた彫金とも違う、恐ろしくセンスの良さを感じる細工なのです。このような超高度な技は、最高クラスの彫金を施したジョージアンでさえも滅多に見ないような凄技です! 『茎の彫金は極上のエナメルに相応しい、正に名人芸の技!』と言える作品です。作者も持ち主も、ぜ〜ったいにただ者でありません!! |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのオパールセント・エナメルのブローチ | ヘリテイジが扱わないクラスのジュエリーだと、茎の部分は細工が良くないどころか、そもそも細工すらしません。 アンティークジュエリーと言っても、本当に美術的に価値のある宝物はほんの僅かしかないのです。 |
5-3. 茎の断面の驚くべき表現力
この宝物にはまだ特徴があって、何と茎の断面にまでエナメルが施されています。 |
茎の断面は少し内側に彫り込んで、年輪のように彫金が施してあります。 |
そこに薄く半透明のエナメルが重ねてあるのです。 なんたるリアリティー!!! この道44年間のGenも今までこのような細工は見たことがないと、ビックリしていました。 |
この手のジュエリーだと、断面には彫金が施してあればハイジュエリーの証としてラッキーという感じなのですが、まさか断面の瑞々しい質感を表現するためにエナメルが施してあるだなんて、開いた口が塞がらないというレベルの驚きです。 |
6. お花にピッタリの美しい天然真珠
職人の魂を感じる、このこだわりようは尋常ではありません。ヘリテイジで扱う通常のハイジュエリーと比べてもレベルが違いすぎるので、これはコンテスト用に作られた特別な作品の可能性が高いと見ています。コンテスト・ジュエリーには職人の持てる技術が全て注ぎ込まれるだけでなく、宝石も特別なものが使用されます。 |
この宝物には、通常よりも照り艶の優れた見事な天然真珠が使われています。真球ではありませんが、自然なお花を表現しようとすると完璧な形を持つ真球の真珠を使うとむしろ違和感が出てしまうため、自然な造形を持つ、しかしながら最高の質感を持つ天然真珠を選んだのだと思います。 |
真珠自体が、美しい虹色の干渉光を放つことができます。それに加えてオパールセント・エナメルの色とりどりの色彩を反射して輝くため、相乗効果で驚くほど幻想的で美しい世界を魅せてくれます。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ イギリス 1890-1900年頃 SOLD |
現代ジュエリーだと個性のない、どれも同じにしか見えない養殖真珠を使うしかないので、デザインに合わせて自由に選びようもありません。 しかしながら王侯貴族のために少ない数だけが作られた、本物のハイジュエリーは天然真珠も適材適所で選ばれます。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ フランス 1890-1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォー エナメル ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
この宝物は小さな天然真珠をただ1粒だけしか使ってはいませんが、最高のエナメル作品のために、間違いなく最高かつ最適と言える天然真珠が選び抜かれて使用されています。 |
高度な彫金の技術と天才的なエナメルの技が組み合わさった、奇跡のような作品・・。このような幻想的な美を感じるエナメルは、最高級のアンティーク・ジュエリーの中でも滅多にあるものではなく、どのような理由で作られ、どのような女性が使っていたのかとても気になるところです。 製造国アメリカではなくロンドンから出てきたのは、やはり美的感覚を持つイギリス貴族の誰かが購入したからなのか・・。それが時間と空間を超え、HERITAGEにこうして来てくれたこともすごく嬉しく感じます♪ |
裏側
4枚の花びらはリアリティーを出すために、1枚1枚を叩き出して造形しています。 それぞれが独立しているため、耐久力を出すために隣り合う花びら同士、U字型の金具で連結して補強してあります。 |
葉っぱも正面から見ると薄くて頼りなく見えますが、ゴールドをたっぷりと使って裏でしっかりと補強してあります。使用の際に力が加わるブローチは補強が重要ですが、ここまでゴールドを贅沢に使った補強はハイジュエリーでもなかなか見るものではありません。だからこそ130年ほどの使用でもびくともしていませんし、これからも安心してお使いいただけます♪ |