No.00337 雪珠真珠

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

 

 

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン
←↑↓実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

『雪珠真珠』
バロック天然真珠 ゴールド・ロングチェーン

ヨーロッパ 1890-1900年頃
天然真珠、15〜18ctゴールド
※引輪&丸カンは18ctゴールドのヴィンテージ
全長:102cm
重量:10.9g
SOLD

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

想像力を掻き立てる、形の面白い上質なバロック天然真珠をたっぷりと使った、日本人の美意識に響くロングチェーンです。バロックながら照り艶が良く、真珠層からの干渉光が美しい上質な天然真珠をよくぞここまで集めたものです。1粒1粒が個性ある形であるが故に、破損せず精確な方向に穴を開けるには想像を絶する集中力と技術が必要だったはずです。

球形に近い天然真珠を使ったロングチェーンはたまに見かけますが、上質で質の揃ったバロック天然真珠をこれだけ集めるのは至難で、46年間で初めて見る珍しいものです。

愛らしい個性ある天然真珠は、どれも見ていて飽きることがありません。ロングチェーンなので2連で使ったり、ブレスレットにしたり、他のアイテムと組み合わせたり、コーディネートの幅がとても広いので眺めても使っても楽しい宝物です♪

 

 

この宝物のポイント

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン
  1. 珍しいゴールドのハイクラスの天然真珠ロングチェーン
    1. 天然真珠のチェーンが流行した背景
    2. プラチナ×天然真珠チェーンの特徴
    3. ゴールド×天然真珠チェーンの特徴
  2. 日本人好みの美しさを湛えた異例のヨーロピアン・ジュエリー
    1. 日本人の美意識の根底となる『不完全の美』
    2. 岡倉天心が西洋世界で紹介した日本人の美意識
  3. バロックパールを生かした個性的で美しいチェーン
    1. 想像力をかきたてるバロックパール
    2. 天然真珠が流行した時代ならではの特別な逸品
  4. コーディネートが楽しいロング・チェーン

 

 

1. 珍しいゴールドのハイクラスの天然真珠ロングチェーン

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

「こんな天然真珠のロングチェーンがあるなんて!!」

Genも私も驚き、一目で「絶対買う!!!」と決めた宝物です♪♪

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

天然真珠を使ったロングチェーンはプラチナ製、ゴールド製ともに、天然真珠が史上最も高く評価された時代に定番として流行し、一定数が作られています。Genも私も(特にGen)ありきたりなものは面白くないということで、市場ではちょくちょく見かけるものの、相当クオリティや個性を厳選するので多くはご紹介していません。

実は同じ天然真珠を組み合わせたチェーンでも、プラチナ製とゴールド製では年代だけでなく特徴も異なります。その理由について、少しご説明しておきましょう。

1-1. 天然真珠のチェーンが流行した背景
-唯一の至高の宝石となった天然真珠-

ダイヤモンドの供給の空白期ブラジルと南アフリカのダイヤモンド産出量の推移 【出典】2017年の鉱山資源局の資料

宝石の中で、天然真珠が至高の宝石として人気が高まったのが19世紀後期から20世紀初期にかけてです。1870年頃から始まった南アフリカのダイヤモンドラッシュによって市場へのダイヤモンド供給量が激増し、ダイヤモンドの稀少価値が低下しました。相対的に、至高の宝石としての天然真珠の価値が高まっていきました。"宝石の価値"は稀少性ですからね。

しかしながら日本のミキモトが養殖真珠の量産化に成功し、1919年にロンドンのジュエリー市場への供給体制が整うと、市場は大混乱しました。当時はX線による鑑別法が確立されておらず、天然と養殖の真贋判定は破壊分析以外は不可だったため、1927年に「養殖真珠も天然真珠も同じである。」と裁判所のお墨付きが出た結果、天然真珠も至高の宝石としての稀少価値を失ってしまいました。

養殖真珠はいくつでも人工的に生産できますからね。ダイヤモンド以上にタチが悪いです。そのダイヤモンドも21世紀に量産の合成技術が確立し、今では百貨店などでも合成ダイヤモンドのアクセサリーが買えるようになり、一時期テレビなどでも話題になっていました。量産の工業製品を身につけて心は満たされるのやら。

持ち主にとってジュエリーが自身の心を満足させたり、他者に真心を示したりするためのオシャレではなく、「ドヤ!ドヤ!」とひけらかして自己顕示欲を満足させるための道具であるならば、それでもOKなのかもしれませんね。

モンタナサファイアを使ったアールデコの天然真珠&ダイヤモンドのラグジュアリーなネックレス『天空のオルゴールメリー』
アールデコ 天然真珠&サファイア ネックレス
イギリス 1920年頃
※ロンドンの天然真珠の鑑別書付き 
¥1,230,000-(税込10%)

天然真珠と養殖真珠は、現代ではX線を使った非破壊分析が可能です。

故に一部の詳しい人たちはその普遍の価値を知っているのですが、特に高度経済成長を経てようやくジュエリーが身近になった日本の庶民は、ヨーロッパの王侯貴族が使っていた上質なジュエリーや天然真珠を知りません。

さらに、ヨーロッパでも売れなくなった養殖真珠の主要販売先として、高度経済成長によって小金持ちとなった日本の大衆がメインターゲットとなり、養殖真珠業界が主導するプロモーション戦略によって、養殖真珠が価値のある本物の真珠と思い込む日本人が量産されました。

『本真珠』なんてネーミングも、詐欺まがいもいい所だと感じます。

アールデコ 天然真珠 リング アンティークジュエリー『影透』
アールデコ 天然真珠 リング
イギリス 1920年頃
※天然真珠のロンドンの鑑別書付き
¥1,200,000-(税込10%)

強力な洗脳下にある日本人の大半は気づきもしませんが、カネの臭いに敏感な中国人を始め、海外の一部の富裕層は天然真珠を有望な投資対象とみなして買い漁り始めたので、天然真珠を使ったアンティークジュエリーの一部は数年前から値上がりしています。

投資ではなく、本当に好きな方の手元に行くのが一番良いんですけどね。

"知られざる良いもの"で在り続けることは、案外大切なのかもしれません。

このような歴史的な背景があり、天然真珠は19世紀後期から20世紀初期に富と権力の象徴として人気が高まり、天然真珠を目立たせることができるチェーンにも多く使われたのです。

チェーンには金属素材も必要です。最高級の宝石に対しては、最高級の金属が相応しいです。この、19世紀後期から20世紀初期の間に、最高級金属の素材も変化がありました。ゴールドからプラチナへの移行です。

1-2. プラチナ×天然真珠チェーンの特徴

1-2-1. プラチナ以前の最高級金属とハイジュエリー

アメジストのクロスのアンティークのゴールド・ロケット・ペンダント オーダーメイドのゴールド ロケット・ペンダント

長い間、ジュエリー用の高級金属としてゴールドとシルバーが愛されてきました。

なぜ高級なのかと言えば、加工性や美観に加えて、他の金属より稀少性が高いからです。

特にゴールドは稀少性が高く、最高級の金属として君臨してきました。

上流階級が使うクラスのハイジュエリーの素材は、19世紀まではゴールドがメインです。

『真心』
オーダーメイドのロケット・ペンダント
イギリス 1880年頃
¥330,000-(税込10%)
ウィッチーズハート(魔女のハート)のヴィクトリアンのペンダント&ブローチ『Bewitched』
ウィッチズハート(魔女のハート) ペンダント&ブローチ(ロケット付)
イギリス 1880年頃
¥693,000-(税込10%)
裏

但し、シルバーだからハイジュエリーではないという短絡的な判断はできません。

ゴールドの色味を反映してダイヤモンドが黄ばんで見えることを避けるため、ハイジュエリーでも、最高級の白い金属としてシルバーが使用されてきました。

その場合はシルバーの裏側にゴールドが裏打ちされた、ゴールドバックの作りになっています。

約2カラットのオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド ブローチ アンティーク・ジュエリー

『財宝の守り神』
約2ctのダイヤモンド ブローチ
フランス 1870年頃
¥5,900,000-(税込10%)

シルバーには黒ずむ性質があります。上流階級が着用する高価な衣服を汚さぬための配慮ですが、見えない裏側により高価なゴールドを使うこと、異なる金属の貼り合わせには手間と技術がかかることを思うと、その贅沢さと妥協のなさが伝わってきます。

まあでも、この発想は予算を気にする必要が全くない王侯貴族ならではです。当時の王侯貴族は、現代のビリオネア・クラス(資産10億ドル、約1,300億円以上:2022.5.4の為替レート)に相当します。

そのクラスが集う社交界で1億円のジュエリーを身に着け、「1億円もしたのよ!」なんて自慢しても滑稽なのはご想像いただけると思います。庶民のパーティーだと、「おぉ〜っ!」と注目を集めることができる可能性はあります。それで勘違いした成金が、本格的な社交界で同じようなことをやって陰で「Nouveau riche(ヌーヴォー・リーシュ、成金)」と笑われるのは当然なのです。「だから何ですか??」としか思われません。

古の王侯貴族はゴールドを使うと100万円、200万円高くなるからと言って気にする人たちではないのです。それよりも美しさや自分らしさ、教養を示せる特徴がステータス・アイテムとしてジュエリーに反映できることが重要です。王侯貴族のために制作されたアンティークジュエリーの素晴らしさの所以です。

【参考】大衆向けフレンチ・ロングチェーン
ゴールド シルバー

一方で、成金を含む庶民は値段をとても気にします。予算には限りがありますから、それはしょうがないことです。現代もアンティークの時代も同じです。庶民用のジュエリーは、現代の一般的な庶民の感覚でご想像いただけます。ゴールドはシルバーより高価、ダイヤモンドは高級などの考え方です。

日本の高度経済成長期に相当するのが、フランスのベルエポックです。貴族制が廃止されて庶民が経済活動を牽引する時代となり、驚異的な戦後復興によって景気に沸き、旺盛な消費意欲で庶民の女性たちがジュエリーを買い漁った時期です。

上の世代はジュエリーなんて買ったことはおろか身近で見たことすらない人たちです。上流階級のように幼少期から教養を身に付けるための教育を徹底されているわけでもなく、お金に多少の余裕があっても、何を基準に選んで良いのか分かりません。

だから多くの庶民は分かりやすい素材や大きさなどの、単純な基準で判断します。ゴールド製というだけで最高級ジュエリーと思い込み、デザイン費や作り(技術費や手間賃)なども含めて見れば割高な金額でも喜んで買います。そしてシルバーしか買えない人にマウンティングして、悦に浸るのです。そのような庶民用の安物ジュエリーはアンティークであっても私はホッコリしませんし、くだらない上に気持ちが良いものではないのでお取り扱いしません。

ジュエリーの金属素材についても、上流階級と庶民では選ぶ基準が全く異なることをご理解いただいたところで、上流階級のためのハイジュエリーに話を戻しましょう。

1-2-2. プラチナ登場後の最高級金属とハイジュエリー

ペリドット&ホワイトエナメル ネックレス アンティークジュエリー『ゴールド・オーガンジー』
エドワーディアン ペリドット&ホワイト・エナメル ネックレス
イギリス 1900年頃
¥1,000,000-(税込10%)

20世紀に入り、1905年頃から一般ジュエリー市場にプラチナが出回り始めました。

産出量的な課題、加工面からの課題、双方が解決されたことによります。

新たにジュエリー市場に登場した、画期的な新素材プラチナは注目の的でした。

『ゴールド・オーガンジー』はその最初期に作られた宝物で、デザインと細工にレイト・ヴィクトリアンからアーリー・エドワーディアンにかけてのトランジション・ジュエリーの特徴を持つと共に、プラチナが少量ですが使用されています。

宝石の殆どはペリドットですが、中央に1粒だけダイヤモンドが使用されています

ペリドット&ホワイトエナメル ネックレス アンティークジュエリー

そのセッティングがプラチナです。

最初期は産出量による制限もあり、ビリオネア・クラスと言えども極少量しか入手できなかったのでしょう。その稀少なプラチナを活かす、優れたデザインです。

白い輝きが美しいエドワーディアンのダイヤモンド・ネックレス『Shining White』
エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス
イギリス又はオーストリア 1910年頃
¥1,220,000-(税込10%)

その美しさは上流階級を魅了し、目新しさもあって、ある程度の量が使えるようになるとハイジュエリー市場はプラチナ一色となりました。

【参考】1910〜1970年のプラチナとパラジウム価格の推移

その後はプラチナの値段もある程度は落ち着きそうなものですが、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、爆薬や化学兵器などの触媒として需要が高まり高騰します。世界最大のプラチナ供給国ロシアで1917年に革命が起こり、プラチナの供給が混乱したことによってさらに価格が上昇します。「プラチナなくして戦争には勝てない。」と言われたほど、国家の存亡にすら関わる重要物資としてプラチナは高騰を続けました。

当たり前ですが、世の中はジュエリー中心には回っていません。現代でも2000年代にプラチナ価格が高騰し、業界がこぞって婚約指輪や結婚指輪にプラチナを勧めた時期がありました。ゴールドよりプラチナの方が高級ですよという宣伝文句です。価格の高騰はディーゼル車の排ガス触媒をメインとした、工業用途の需要の高まりによるものでした。

代替品の開発と、2015年にヨーロッパの大手自動車メーカーによる排ガス不正問題が発覚して以降、不信感の広がりから主力の欧州市場で消費者のディーゼル車離れ(ガソリン車へのシフト)が起こったことで、プラチナ・バブルは終焉を迎えました。今ではゴールドの方が遥かに高級金属です。

金属の相場なんて、ジュエリー業界以外の動向でいくらでも変動します。その相場の動きに合わせて、ジュエリーの人気素材や値段も変動するのです。

プラチナは第一次世界大戦とロシア革命という要因により、1920年頃にはゴールドの8倍近い価格まで跳ね上がりました。

弓&矢筒でエロスを象徴した純プラチナのアールデコ・ブローチ『Eros』
初期アールデコ ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1920年頃
¥5,500,000-(税込10%)

ゴールド製ならば100万円で買えるものが、プラチナだと800万円もするというわけですね。

そうなると、まさに『プラチナ』というだけで富と権力の象徴となるわけです。

ただ、ビリオネア同士だとやはりプラチナというだけでは他者と差別化できません。

故に、やはり特徴的なデザインや細工が必須のものとして施されるのです。

1-2-3. ステータス・ジュエリーとして流行したロングチェーン

金属を目立たせるステータス・ジュエリーとしてのロングチェーン
金価格が暴騰した時代 プラチナ価格が暴騰した時代
ジョージアン ロング ゴールドチェーン 『ジョージアンの女王』
ジョージアン ロング ゴールドチェーン
イギリス 1820〜1830年頃
SOLD
アールデコの天然真珠&プラチナのスーパーロング・チェーン アンティーク『ホワイト・レディ』
天然真珠&プラチナ スーパーロング・チェーン
イギリス 1920年代
SOLD

宝石ではなく金属が『富と権力の象徴』となった場合、ヨーロッパの上流階級にはロングチェーンが流行するようです。揺れますし、身体の正面で目立ちますしね。

ゴールドが史上最も高価となったジョージアンのイギリスでは、ゴールドのロングチェーンが流行しました。

プラチナが高騰した時代は、最高級宝石の天然真珠と組み合わせたプラチナのロングチェーンが流行しました。

ジョージアン ロング ゴールドチェーン 拡大

ジョージアンのゴールドチェーンは、どれもジョージアンならではの素晴らしい細工が1つ1つのパーツに施されています。高度な技術を持つ職人の手仕事でしか成し得ない、今では到底不可能な細工です。ロングチェーンの全てのパーツにこの細かな細工を精緻に施すなんて、人件費を考えただけでも想像を絶します。

こういう宝物を作ることができた、職人天国の時代だったのですね。何しろ一代で英国王室御用達の最高位になり、イギリスで8番目にお金持ちとなった金細工職人がいるくらいですから。

ジョージアン ロング ゴールドチェーン ジョージアン ロング ゴールドチェーン
ジョージアン ロング ゴールドチェーン

元々ジョージアンはヴィクトリアン以降の時代と比較して貴族の絶対数が少なく、豊かになった中産階級がジュエリーを身に着けるようになる以前なので、ジュエリーも高級品しかありません。

その高級品の中でもトップクオリティのものだけを厳選しているので、デザインも個性に富むセンスの良いものばかりですし、細工も素晴らしいです。これだけ拡大しても粗が目立つことなく、人の手で作られたとは思ないほどの正確さです。

アールデコ 天然真珠&スーパーロング・チェーン アンティーク

『ホワイト・レディ』
アールデコ 天然真珠&プラチナ スーパーロング・チェーン
イギリス 1920年代
天然真珠、プラチナ
SOLD

100年後となる20世紀初期は、ジョージアンの時代ほど技術と手間をかけることは不可能となっていますが、それでも単純なチェーンではなく、しっかりと趣向が凝らされています。
アールデコの天然真珠&プラチナ・ロングチェーンのパーツ
こうして削り出すのも、地味に大変そうです。シャープな作りはハンドメイドならではで、型を使う鋳造では無理な細工です。
天然真珠&プラチナ スーパー ロングチェーン アンティーク
エドワーディアン 天然真珠&ダイヤモンド ペンダント アンティーク

複雑な細工を追うのではなく、プラチナの白く強い輝きを活かすために、表面をフラットに仕上げたチェーンも作られています。

静止画だと地味な工夫に見えるかもしれませんが、着用者の動きに合わせて角度が変わるごとにキラキラとプラチナの強い輝きが放たれます。ジョージアンのゴールドチェーンのようにボリュームはなくとも、遠目からでもこの強い輝きで十分に目立ったと思います。

至高の宝石としての天然真珠だけでなく、プラチナ自体がステータスの象徴だった時代だからこそのデザインと作りと言えるでしょう。

1-3. ゴールド×天然真珠チェーンの特徴

天然真珠を使ったロングチェーンが制作されたのは、天然真珠が至高の宝石として注目された19世紀後期から20世紀初期にかけてでした。

画期的な新素材としてプラチナが出てくると、それまでの天然真珠とゴールドの組み合わせから、プラチナとの組み合わせに変化します。

先にご紹介した通り、プラチナの場合はプラチナそのものがステータスの象徴だったため、プラチナを強調したデザインや細工で作られました。

19世紀後期は、ゴールドのロングチェーンが流行したイギリスのジョージアンとは全く状況が異なります。1848年頃に起きたカリフォルニアのゴールドラッシュによって、金価格は大幅に下落しました。このため、依然としてゴールド自体は最高級の金属でしたが、王侯貴族にとってのゴールドの地位は大幅に低下しました。

英国王室御用達ゴーリンウッドのハート型ハーフパール・ペンダント&ゴールドチェーン【英国王室御用達コーリンウッド製】
ハート型 天然真珠ペンダント&チェーン
イギリス 1890年頃
SOLD

故にハイジュエリーの場合、ステータスの象徴としての主役と言うよりは、名脇役的なアイテムとして作られている印象があります。

これもそうです。

将来イギリス国王となる孫ジョージ5世の1893年の結婚式にあわせて、ヴィクトリア女王がメアリー妃のティアラをオーダーしたこともある英国王室御用達コーリンウッド製のペンダント&チェーンです。

ジョージ5世の結婚式と同時期に作られており、9ctゴールドの作りですが、オリジナルケースもハート型のペンダントに合わせてハート型で作られた高級品です。

金位だけで判断するのは誤りであることは以前もご説明していますが、英国王室御用達だった最高級ブランドのこの9ctゴールドの高級品をご覧いただければご納得いただけると思います。

金位で判断するのは、美術品の目利きができない人がやることです。

英国王室御用達ゴーリンウッドの天然真珠ゴールドチェーン

ペンダントを下げるための名脇役なので、シンプルな小豆チェーンとの組み合わせです。小粒ながらも高級品らしく、天然真珠も上質です。9ctだからこそ耐久性も高く、100年以上が経過していてもコンディションは良好です。

天然真珠のアンティーク・ゴールドチェーン

レイト・ヴィクトリアンのジュエリーでもオリジナルケースが残っているのは非常に稀で、現代の市場ではこのチェーンとペンダントがバラバラにして売られているケースの方が圧倒的に多いです。その方が高値を付けやすく儲かるからです。誰の手元に渡るのかは、本当に重要ですね。

マルチカラー天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン天然真珠 ゴールド ロングチェーン
イギリス 1890-1900年頃
SOLD

これはGenの御眼鏡に適った貴重なロングチェーンです。

マルチカラー天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン
アンティーク・ゴールド・ロングチェーンの模様

これ以上の拡大画像がないのですが、淡く美しい色彩と光沢を持つマルチカラーの天然真珠が使われており、ゴールドのパーツには1つ1つ模様が入っています。

これくらいのこだわりが感じらるものがあまりないのは、王侯貴族にとって既にゴールドがステータスの象徴ではなくなった時代だったからだと推測します。

この時代はむしろ、小金持ちとなったベルエポックのパリの庶民のステータスの象徴として、似たり寄ったりのゴールド・ロングチェーンが数多く作られています。ゴールドが庶民のステータスの象徴と化していたため、上流階級のための天然真珠のゴールドチェーンがあまりないのは当然と言えば当然なのです。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

その点で、今回の宝物は珍しく自信をもってご紹介できる、天然真珠のゴールドチェーンなのです!

2. 日本人好みの美しさを湛えた異例のヨーロピアン・ジュエリー

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

この宝物の主役は何と言っても、面白い形をしたバロックパールです。

「うわ〜っ♪雪だるまみたい!!♪」と、Genも私も大喜びでした。

宝石に頼り切ったつまらない宝石主体のジュエリーには2人とも魅力を感じませんが、これは真珠そのものに強い魅力が感じられます。
人間技がなせる、超絶技巧の細工物とはまた別の魅力です。

理想を追えば、球形、照り艶、色彩などいくらでも完璧に近い天然真珠は存在します。

ただ、そういう完璧系の天然真珠の場合、綺麗だとは思えてもそれ以上の感動はありません。だからジュエリーとして優れたデザインと作りが必須となるのです。

この宝物は、天然真珠そのものが強い魅力を放っています。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

このような天然真珠は、どちらかと言えば欧米人よりも日本人の琴線に触れる美しさだと思います。

日本人の美意識は、世界で見ても特異です。

ドナルド・キーンの著書「日本人の美意識」Genが読み込んだ『日本人の美意識』(ドナルド・キーン著 1990年)

だからこそ『日本人の美意識』が研究対象になったりするわけです。

西洋など他の文化の美意識と比較してどう違うのか、それを少しご紹介しておきましょう。

2-1. 日本人の美意識の根底となる『不完全の美』

2-1-1. 『理想の美』の定義

理想の美。完璧な美。

これを定義しなさいと言う課題があったら、どうご回答なさいますか?

定義するには、万人に共通する普遍性が必要です。しかしながら、きちんと考えてみるとそんなものは存在し得ないことに気づきます。「理想の男性は?」、「理想の女性は?」と問うた時、万人に共通する唯一のモデル像が定義できないのと同じです。最高に美しいと思えるものは人それぞれなのです。

マーセル・トルコフスキー(1899-1991年)

マーセル・トルコフスキーが、ダイヤモンドが"最も美しく輝く"条件を、「底部から光が漏れず侵入した光が全て戻ってくること」と定義しましたが、あくまでも数学者として博士論文を完成させるための理論的かつ便宜的なものであり、実際に人間が見て美しいと感じるかどうかとはまた別であるのも同様の理由に拠ります。

美しさに対して絶対的な感覚を持っている人ならば、自身の物差しで判断できます。『美しさ』は唯一無二の正解があるものではありませんから、他者が「それは美しくない。」と言ったものを美しいと判断しても、両者ともに間違ってはいないのです。

これは絶対感覚がある人には想像しにくいことですが、絶対感覚を持たない、つまり判断のための物差しがあやふやだと、どう判断したら良いのかが分かりません。だったら"美しいもの"とは別の世界の楽しいことを興じれば良いとも思いますが、不思議なことに"美しいもの"への憧れや興味は人類共通で備わっています。だから"美しいものが理解できる自分"、"芸術が分かっている自分"でいたいのです。

だから物差しがあやふやな人は、どうしても分かりやすい物差しを外部に求めます。これも、本能的に避けられないものです。

物差しが必要な人の方が圧倒的に多いです。皆が賢いわけでもありません。全員に分かりやすくとなると、どうしても単純な方向へと流れます。

【参考】現代の成金ジュエリー

その結果、ダイヤモンドの4Cのように、工業製品のような規格で"美しさ"と価値が定義されたり、ただ種類や大きさだけで価値が測られたりする状況が生まれました。

絶対感覚がない人の場合はそもそも違和感を感じようがありません。業界や権威が定義したものならば間違いなかろうと盲信し、懸命に勉強し、それを物差しに判断を行います。現代の状況を見ると、そういう人の方が大多数だと感じます。

一方で、ある程度の感覚を持つ方ならばこの状況に違和感を感じることでしょう。

2-1-2. 日本以外の『理想の美』

ヴェルサイユ宮殿のオランジェリーヴェルサイユ宮殿のオランジェリー(建設1684-1686年)
"Vue aérienne du domaine de Versailles par ToucanWings - Creative Commons By Sa 3.0 - 094 " ©ToucanWings(19 August 2013, 21:02:33)/Adapted/CC BY-SA 3.0

日本以外の文化圏だと、左右上下が完璧に対称であったり、整った欠点無きものが完璧な理想の美として追求されてきた歴史があります。欠陥があれば一目瞭然ですし、どこがどうダメなのか万人に論理的に説明が可能です。まさに機械で作るような、寸分の狂いを許さぬ人工的な完璧さが"理想の美"として求められてきたのです。

花瓶に活けた花とフルーツの静物画(ピーテル・ファエス 1770-1814年)

花や果物は盛りが最も美しく、"理想の美しい月"は欠けていてはいけませんし、雲が懸かっていてもダメです。

変化を有するものは、たとえ生命があるものでもピークの状態が最も美しいとされます。

2-1-2. 日本の『理想の美』

日本人にとっての理想の美の真髄は世界的に見ても異色ですし、現代の大半の日本人にとっても分かりにくいです。昔の日本人でも皆が理解していたわけではなく、きちんと理解していたのはかなり少数派だったようです。

2-1-2-1. 不完全の美

日本人の美意識と日本美術を語る上で欠かせないのが、『不完全の美』という言葉です。

完全なものを美しいとする、日本以外の国とは対照的ですよね。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン『アレキサンダー大王』
古代ギリシャ アメジスト・インタリオ
古代ギリシャ(ヘレニズム) 紀元前2-紀元前1世紀
¥4,400,000-(税込10%)

ヨーロッパの王侯貴族は長年、古代ギリシャのアレキサンダー大王のような完璧な人物をお手本としてきた歴史があります。

必ずしもそうとも言えませんが、愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶとも言います。

歴史は重要です。

過去にどういう人物が存在したかによって、後世の人々の行動パターンが大きく変わり得るのです。

行動パターンの元となる『意識(無意識も含む)』を構成してしまうくらい、その影響は多大です。

日本には、アレキサンダー大王のような完璧な人物は思い当たりません。

『平家物語』(17世紀初期)

鎌倉時代、1240年以前に成立したと考えられている『平家物語』の冒頭は次のように詠われています。

「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。猛き者もつひには滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

日本人では現代でも知らない人はいないのではと言うほど有名ですよね。私は高校時代に丸暗記させられた記憶があります。当時は意味を深く理解していたとは到底言えませんが、よく分かっていなくても潜在意識にこの無常感は影響を与えていたような気がします。

この"人の世の儚さ"、"無常"を美しいと感じる心こそが日本人の美意識の根底にあるとも言えます。『悟り』の概念に近く、日本文化の中心思想であるともされています。

自然を畏れ敬う日本文化に対し、自然を自分たちの力でコントロールしようとする日本以外の文化。

大自然には勝てない。大自然の前では、人間なんて取るに足らないちっぽけな存在。生活の近代化や西洋文化の影響によって、日本でもこの意識は薄れていく一方ですが、それでもこういう意識を根底に持つ方は多いのではないでしょうか。

満開の紫色の花アトリエのご近所で満開だった紫色のお花(2021.05.04)

どんなに力を持ち、奢れるほど繁栄していても盛者必衰、不可避の定め。大自然に人間の力など到底及ばぬのと同じ。ピークを過ぎれば衰えていくのみ。

ピーク。完璧の状態は素晴らしいです。

ただ、完璧であるが故に、それ以上の状態になることはありません。それは日本人にとっては興醒めであり、完璧な状態を好むのは『野暮』であり、薄っぺらく感じるのです。

だから満開のお花、雲一つない満月はダメなのです。

2-1-2-2. 不完全さが見る者に要求する『想像力』

日本人の美意識が理想とする『不完全の美』は、理解することが難しい"最高難度の美の極地"と言えます。

万人が理解することはまず不可能ですから、現代のように利益を最大化するための不特定多数に向けたアピールするというのは絶対に無理です。

 

どういう人ならば理解できるでしょうか。

まず、絶対的な美的感覚は必須です。ただ、それだけでは不十分です。豊かな想像力がなければ、『不完全の美』は成立しません。

藤原定家(1162〜1241年)平安末期〜鎌倉初期

『不完全の美』を説明する際によく言及されるのが、平安末期から鎌倉初期の貴族(公家)である藤原定家が詠んだ次の歌です。

「見渡せば 花ももみぢも なかりけり
うらのとまやの 秋の夕暮れ」

花も紅葉すらもない、ただみすぼらしい漁師小屋だけが存在する秋の夕暮れの景色を詠んでいます。

藤原定家は晩年まで美への執念が衰えることはなく、『美の使徒』、『美の鬼』などと呼ばれることもあるほどの人物です。

800年ほども語り継がれているのは、この歌が日本でそれだけ高く評価されている証でもありますが、日本人でもどれくらいの割合の人がこの歌に情動を起こされるでしょうか。

現代の日本人だと、「ふうん。それで?」と思う人の方が多いかもしれません。

 

現代の日本は、受験制度に合わせた詰め込み型の学習がメインです。他国と比べ、『考える力』を養うことが欠けていると問題視されています。この歌は、ありのまま字面を追ってインプットするだけでは全くその内容は理解できません。聞いたそれぞれの人が、自身の想像力を使ってその光景を思い浮かべ、その情景を見ることで完成します。思考停止でただ先生の授業を聞いているだけ、という姿勢ではダメです。

 

「見渡せば、桜も紅葉もない。みすぼらしい漁師小屋だけが見える、秋の夕暮れ・・。」

その景色を思い浮かべてください。
どういう景色が思い浮かびましたか?

その景色は一人一人異なるでしょう。思い浮かべるには過去の経験が必須です。直接見聞きした経験がない場合でも類似した関連記憶であったり、写真や映画など、何かしら過去に見聞きした記憶を元に想像するはずです。

 

何もない秋の景色から想像するのは、これから迎える厳しい冬かもしれません。豪雪地帯に住む経験がある人ならば、全てが真っ白な美しい景色かもしれませんし、制約の多い雪に閉ざされた日々の暮らしの光景かもしれません。雪の降らない地域ならば、かじかむ手や焚き火で暖を取る光景であったり・・。

桜も紅葉もないという表現から、季節が巡り、美しく咲く桜や色鮮やかな紅葉を想像する方もいらっしゃるでしょう。

その桜はどんな品種でしょう。場所は?桜の高さは?本数は?咲き加減は蕾なのか、満開なのか、桜吹雪の頃、それとも葉桜?時間帯は澄み渡った早朝なのか、日中か、夕暮れか、夜桜なのか。誰と見ているのか、一人で愛でる景色なのか・・。

各人がその経験を元に、それぞれにとって最も美しい景色を思い浮かべるでしょう。

その情景は、思い描く人によって全て異なります。

万人に共通する『完璧な美』なるものは存在しません。それは一人一人に違うものです。それを理解した上で、具体的な『完璧な美』の構築はそれぞれの想像力に任せるというのが、日本人による『完璧な美』の表現なのです。

作り手だけでは完成せず、相応の受け手があってこそです。受け手の経験が乏しく十分な想像力もなければ、美しく感じる情景を心に描き出すことも不可能です。

作り手に完成形を求め、そもそも自身の想像によって完成させるという発想すらない人も少なくないでしょう。ただ、その点に関しては改善可能です。作り手の作品は、受け手が完璧な美を想像するためのトリガーに過ぎず、完成は自身に委ねられていると言う"表現法"を認識さえすれば、本来美意識や想像力を持つ人は次第にその感性が研ぎ澄まされ、『美の極地』を視ることができるようになっていくのです。

『文学ばんだいの宝』寺子屋の筆子と女性教師(江戸時代末期 1842-1845年頃)

昔の日本人は寺子屋や学校などで教養の1つとして教わったり、親や祖父母、周りの大人から教わったりして自然と身についていたのだと想像します。

そうして、庶民まで含めて世界一オシャレが好きで、美しいものが好きで、芸術を愛し楽しむ国民が出来上がりました。

文化レベルや教養という観点で見ると、
"日本の庶民≒ヨーロッパの上流階級"
と言うのが、あながち言い過ぎではないと言えるほどのものでした。

開国後に欧米人たちが仰天したほど日本人の識字率も高く、勤勉で好奇心旺盛な国民性故に外国語を話せる者も多数いました。

書籍から様々な知識が得られます。

『今様見立士農工商』より「職人」(歌川国貞 1857年)
浮世絵を大量印刷する江戸の職人たち

庶民でもアートにお金を出し、身近に楽しむというのは欧米ではまずあり得ないことでした。

アールヌーヴォーで有名なドイツ人美術品商サミュエル・ビングが価値ある日本の美術作品だと思い込んで仕入れ、パリで上流階級や芸術家、知的階級などに紹介した浮世絵の大半が、実は日本人にとって大した価値がないものと知り意気消沈した経緯がありますが、欧米の常識という観点で見れば無理からぬことなのです。

PD『日本の市場』右:コオロギが入った虫籠の店(鳥居清広 1750年頃)

花を愛でたり、虫の音や風鈴の音を楽しんだり。

贅沢なものは上流階級や富裕商家しか無理ですが、お金のかからぬものに美しさを見出してきたからこそ、貧乏な武士や庶民に至るまでそれぞれにとっての『美しいもの』を楽しむことができました。

想像力は人を豊かにしてくれます。

想像力こそが日本文化の要とも言えるでしょう。日本人が想像力を使うのは、文芸を楽しむ時のみではありません。

水引を結ぶ女

日本人は贈り物も大好きな民族でした。相手を想って進物を選ぶだけでなく、水引も自ら心を込めて正しく結んでいました。水引も自作します。器用ですよね。

進物を包装したりする折形は礼儀作法の一環として江戸時代には寺子屋、明治以降は義務教育で学び、教科書には20〜30種類の折形が必須項目として掲載されていたそうです。

意識せずとも、昔の日本人は当たり前のように想像力を使って日常を豊かに暮らしていたのだと思います。当然、文芸を楽しむ時も想像力を動員し、心で楽しんでいたでしょう。

帝国ホテルのXmasのバラのアレンジメント帝国ホテルのXmas仕様の正面ロビー

蕾なし、枯れた花もなし、色も均一。ピークに咲き誇った大輪の赤バラがドーン!!(笑)

"完璧なもの"が綺麗であることは間違いありません。 迫力があって、ドヤドヤした成金的な威圧感まで感じられます。格調高いこと、威圧感を出すことはヨーロッパの上流階級の中で是とされてきました。戦いの歴史が続いたことが大きいでしょう。

現代は大分変容していますが、本来日本人は成金的なドヤドヤしたものは好まず、眉をひそめるような国民性でした。

"完璧なもの"は想像力を働かせる余地がなく、深みが感じられません。高い美意識を持つ日本人にとっては、野暮でつまらなく感じられるのです。こういう作品は綺麗だとは思いますが、それ以上にもそれ以下にもなりません。情動は起こらず、「ふうん、凄いですね。お金がかかっていそうですね。」で終わりです。残念ながら、作った人にセンスがありますねとは私はコメントできません。

あまりにも単純な作風なので、技術さえあればセンスが無くても誰でも作れます。そういうものは『アート』とは呼びません。

市ヶ谷の外堀沿いの満開の桜と満月市ヶ谷の外堀沿いの満開の桜と満月(2021.3.26)

雲の懸からない満月や、満開の桜では想像の余地を与えません。

三日月や蕾の桜、あるいは花も葉も散り、春を待ち侘びる枝となった桜こそ、クライマックスの最も美しい姿を連想させてくれます。

水面に浮かぶ桜の花びらを眺めるシルバーのトイプードル小元太水面に浮かぶ桜の花びらを眺める風流な小元太Jr.(2022.4.6)

想像の余地を与え、深い美への意識を揺り動かす。暗示や余情を使うことによる『幽玄の美』の表現。それこそが日本美術の特徴です。

平安貴族も川で舟に乗り、上流から流れてくる桜の花びらを愛でたり、水面に映る月を楽しんだと言われています。

市ヶ谷の外堀沿いで桜を楽しむシルバーのトイプードル小元太市ヶ谷の外堀沿いで風を感じながら景色を楽しむ風流な小元太Jr.(2022.4.6)

散ってしまうことに切なさを感じつつも、ヒラヒラと舞い散る桜の花びらだったり、桜吹雪もとっても綺麗ですよね。

市ヶ谷の外堀沿いで桜の絨毯に座るシルバーのトイプードル小元太市ヶ谷の外堀沿いで桜の絨毯に座り景色を楽しむ風流な小元太Jr.(2022.4.6)

水面の花びらだけでなく、桜の花びらの絨毯も美しいものです。季節限定の毎年の楽しみですね。

市ヶ谷の外堀沿いで桜を楽しむシルバーのトイプードル小元太市ヶ谷の外堀沿いで桜の絨毯に座り、花びらをボディにくっつけ
風を感じながら往来を眺める風流な小元太Jr.(2022.4.6)

実物や写真より、心の中の想い出の景色の方が圧倒的に美しいという経験はありませんか?

『情景』と言いますが、心の中で思い浮かべる景色は、過去に美しい景色を見た時の感動が伴います。だからこそ表面的な浅い美しさではなく、情動を起こすほどの深い美しさを感じることができるのです。

豊かな経験や、卓越した想像力を持つ人ほど、より素晴らしい美を見て感じることができます。その美しい世界にリミットはありません。

心の眼で見ることを予め想定して作られるのが、高い美意識を持つ日本の文芸作品です。それこそが日本美術の真髄です。また、全ての人に理解できるわけではなく、皆に共通するものでもない理由です。難解ですね〜。

でも、ドナルド・キーン氏も95歳の時に書かれた著書『ドナルド・キーン 知の巨人、日本美を語る』(小学館、2017年)で、次のように述べています。

「古典文学はたしかにマンガよりは難しいです。勉強しなければならない。しかし、これは何にでもあてはまりますが、シェークスピアとかそういう難しいものを読むと、しまいにわかって、やがて他のものを忘れるんです。難しいですけど非常に大事なこと。それはすべての伝統的な芸術に同じことが言えます。」(引用、p.55)

コロンビア大学に16歳で入学するほどの方でも"難しい"と仰るものですが、理解できると虜になるのが暗示や余情を使った『幽玄の美』、完璧ではない『不完全の美』です。ピークの状態を理想として追い求めた『完璧な美』では到達し得ない美がそこにはあるのです。

"万人に情動を起こすほどの理想の美"なんてものは定義できませんから、そもそも定義してやる必要のあるAIや機械では本当に美しいと思える芸術・美術工芸品は創造し得ません。正確であればあるほど是とし、コンピュータや機械を使って人間の手では不可能なほど精密に作られる現代ジュエリーを見ても感動しないのは至極当然で、それどころか薄っぺらく感じるのも当たり前なのです。

できると思い込んでいる人があまりにも多く、現代のアート市場やジュエリー市場はおかしな状況となり、美的感覚の優れた人は寄り付かない虚飾の世界と化しています。

2-1-2-3. 様々な『不完全の美』

"完全な状態"を理想の美と定義すると、正解はただ1つだけとなります。つまらないですよね〜。

日本人は"不完全な状態"に孤高の美を見出してきたが故に、その表現の幅は無限に広がることになりました。

-ピーク前の表現-
桜の蕾が主役のアンティークの染め刺繍の散歩着桜の蕾が主役の錦紗・染め刺繍の散歩着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION

満開ではなく、蕾の桜をフォーカスしたこのアンティーク着物も、『日本人の美意識』を深く体現した作品です。

日本人と言えども、特に女子は派手で分かりやすいものを好む傾向にあります。それは今も昔も変わりありません。

故に、実はアンティーク着物も一般的には派手で単純な図柄の方が多いです。

この散歩着に出逢った時は、こんな着物があったのかと非常に驚きました。

白いシルエットで奥に描かれているのは、満開の桜です。主役は色彩表現された、手前にある蕾の枝です。

桜の蕾が主役のアンティークの染め刺繍の散歩着桜の蕾が主役の錦紗・染め刺繍の散歩着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION

葉っぱが無く、花だけがモリモリに咲くソメイヨシノが現代は主流ですが、昔の桜は葉っぱがありますね。まだ蕾の状態の花に、白とオレンジ色の華やかな刺繍が施されています。葉っぱの一部も、葉脈に金糸で刺繍が施されています。蕾の枝が主役であることは明らかです。

桜の蕾が主役のアンティークの染め刺繍の散歩着桜の蕾が主役の錦紗・染め刺繍の散歩着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION

蕾が主役であることを示すように、着物にたくさん描かれた中で、1つだけが咲いた桜です。

私がコレクションしているクラスのアンティーク着物は、HERITAGEでご紹介するアンティークジュエリー同様、上流階級のための高級品です。

「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。」

『徒然草』における吉田兼好の有名な文言です。

教養ある上流階級は知らないわけがありません。

このクラスのアンティーク着物は、上流階級でも日常で着るものではありません。

樋口一葉(1872-1896年)

2004年から五千円札に描かれている樋口一葉は公家や大名などの旧体制の名家の他、明治政府の特権階級の夫人や令嬢など上流階級の女性が通う歌塾『萩の舎』で和歌や古典文学も学んでいました。

萩の舎では新春恒例の発会がありました。歌塾ではあったものの、注目となるのは歌の作品だけではありません。

むしろ御夫人や御令嬢たちの晴れ着の方が注目の的でした。

元士族の家柄ではあったものの、没落し困窮していた下級官吏の娘である一葉はとても競えるものではなく、気おくれしながら古着で参加したそうです。

孤軍奮闘よりも、ハイレベルで切磋琢磨した方が伸びが良いことは想像に難くありません。

アンティーク着物のデザイン、作り、素材のレベルの高さは、このように上流階級の女性たちが教養とセンスを競うハイレベルの環境が当時あったからこそです。

桜の蕾の着物のように、深い教養を感じさせる装いを歌会などの場で披露すれば、表面的な華やかさしかない着物は霞んでしまったことでしょうね。

-ピーク後の表現-
松尾芭蕉(1644-1694年)葛飾北斎 画(1760-1849年)

『おくのほそ道』

松尾芭蕉が平泉で詠んだ歌はとても有名です。

「夏草や 兵どもが 夢の跡」
なつくさや つわものどもが ゆめのあと

 

何もなくなってしまった場所。
でも、そこには本当に何もないわけではなく、豊かな情感が存在します。

在りし日を想像すれば、儚さと無常、弛まぬ月日の移ろいを感じることができます。

ヨーロッパの廃墟と羊たちの緞子のアンティーク帯ヨーロッパの廃墟と羊たちの緞子の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION

かつては人々が集まり、賑わいのあった場所・・。

廃墟なども、ピークを過ぎた後の余情あるモチーフです。

廃墟に関しては現代でも『廃墟マニア』なんてジャンルがありますから、敢えて詳しくご説明するまでもありませんね。

この帯も廃墟と朴訥とした羊たちで余情を表現した、日本人の美意識が詰まった作品です。

世界一アンティーク着物に詳しい方によると、羊自体が数十年に1度しか見ないような珍しいモチーフだそうです。

戦前まで存在していた日本の上流階級は、率先してヨーロッパ文化を取り入れていました。

誰かが現地で見てきてオーダーしたのだろうと思う、ヨーロッパの風と教養深い日本の美意識を感じさせる作品です♪

-欠陥のある表現-
虫喰い葉の竹の赤いアンティーク着物竹の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION

敢えて欠陥を持たせるのも、『不完全の美』の表現法の1つです。

華道の世界にも存在します。
花材の綺麗な葉っぱをわざわざむしり、虫に喰われたかのように表現します。

虫喰い葉を表現したアンティーク着物も作られています。

これは『地紋起こし』という技法で表現されています。

地紋に描かれた竹と葉は綺麗で"完璧"な状態ですが、着色部分は虫喰いになっています。

竹の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION

虫喰い葉は日本人にとって基本中の基本と言えるほど定番表現だったので、虫喰いを表現した作品は珍しくありません。ただ、全てを虫喰い葉で表現しているのは異例です。地紋起こしで"完璧な状態"も連想させるというセンスある表現法も、徹底した美意識と贅を尽くした上流階級らしさを強く感じさせます。

清水谷公園の初夏の虫喰い葉清水谷公園の虫喰い葉(2022.4.17)

完璧さを追い求める文化だと、虫に喰われてしまった葉なんて二度と完璧にはなれない落ちこぼれであり、取るに足らない"醜いもの"と見なすでしょう。

しかしながら、日本人は自然にできた虫喰い葉にこそ替えの利かない"無上の美"を見出し、こよなく愛してきました。

虫喰い葉からの透過光、穴を通して見る景色。喰べられた葉は尊き命の糧となり、生命は儚いながらも力強く循環する・・。

外観だけを追うのではなく、心で堪能することを大事にした文化だからこそ、日本人はむしろ虫喰い葉に魅力を感じたのです。

-歪(いびつ)な表現-
雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

不完全な状態というのはバリエーション豊富ですが、今回の宝物は『歪さの美』が該当します。

『歪さの美』に関しては二次元表現の着物ではなく、立体物で表現されるものが多いです。

日本人の美意識は、特にお茶の世界で追求されてきました。歪さの美は、茶道具で多く見ることができます。

志野焼きの茶碗と轆轤のカップ手捻りの志野焼きと轆轤のカップ(現代)

例えば御茶碗の形は手捻りで整えるものと、轆轤を使うものがあります。轆轤を使うと、手作りであっても対称性の高い、精緻な造形が可能です。

現代では女性の方が嗜む人が多いですが、日本の茶道は元々は男性社会で発達してきました。今のように、庶民の女性に広まったのは戦後のことです。

男性の中で発達・洗練されていった文化が女性に取り入れられ、陳腐化していくのは国を問わず同じなのかなという印象があります。良い悪いではなく、性別ごとの特徴と言うか、万人に当てはまるわけではない"傾向"のように感じます。

19世紀のエセックスクリスタルの名品(メンズ・ジュエリー)
エセックスクリスタル 鹿 アンティークジュエリー『大鹿』
イギリス 1870年
SOLD 
エセックスクリスタル 虎 アンティークジュエリー『タイガー』
イギリス 1870年頃
SOLD
エセックスクリスタル 狐 狩り アンティークジュエリー『狐狩り』
イギリス 1850〜1860年頃
SOLD
【参考】20世紀以降のエセックスクリスタルの安物(女性用)

男性は取っ替え引っ替えするのではなく、上質なものを愛用する着け方をするのが通常です。ステータス・アイテムとして男性用のジュエリーはお金と教養を惜しみなく注ぎ込んで作られるため、デザイン・作り・素材が三拍子揃ったものが多い傾向にあります。

女性は取っ替え引っ替えするのが通常なので、1つ1つにそこまでお金をかけられないこともあって、チャチなものが多くなる傾向にあるようです。だから女性向けのジュエリーで上質なものを探すのは本当に大変なんです!(笑)

上記のエセックスクリスタルの彫りを比較すると、違いは精緻さだけではありません。男性用は深く立体的な彫り、女性用は浅く平面的な彫りであることにもお気づきいただけるでしょうか。男性は空間認識能力が高いとされていますが、それ故に、男性は立体造形の美しさを女性以上に重要視する傾向にあるようです。

天目茶碗(南宋 12世紀)メトロポリタン美術館

さて、開国後はヨーロッパからの舶来品が珍重されるようになりましたが、古い時代は中国からもたらされるものが『唐物』として珍重されていました。

禅宗が盛んになった鎌倉時代に、中国の天目山への留学僧によって喫茶の習慣がもたらされました。

同時にもたらされ茶碗が室町の足利義政の時代に『天目茶碗』と呼ばれ、重要な茶会で用いる茶碗として珍重されるようになっていきました。

【国宝】曜変天目茶碗(南宋 12-13世紀)藤田美術館

天目茶碗の最上級とされるのが曜変天目茶碗、略して曜変天目です。

世界で3点が現存するのみで、いずれも日本にあり国宝指定されています。

黒地に『星』と呼ばれる斑点(結晶体)が浮かび上がり、瑠璃色あるいは虹色の虹彩が取り巻き、光の当たり方によって変幻自在な輝きを呈するのが特徴です。

この特徴から『星の瞬き』や『輝き』を意味する『曜(耀)』の字が当てられました。

この模様が出るメカニズムは未だ完全には解明されていません。

人工的ではない、自然にできた偶然の模様はいかにも日本人が好みそうな景色です。

中国からもたらされた天目茶碗

ただ、釉薬が魅せる自然の景色は面白いのですが、フォルムに関してはいまいち面白みがないことは事実です。轆轤による整い過ぎたフォルムは、整った茶碗を作るのが技術的に難しい時代には、物珍しい高級品としての地位があります。しかしながらそういうものが当たり前になってくると、段々と物足りなく感じるようになります。

わび茶 創始者 村田珠光(1422/1423-1502年) 臨済宗大徳寺派 一休宗純(1394-1481年)

天目茶碗を始めとして室町時代は高価な『唐物』を尊ぶ風潮にありましたが、茶の湯をより粗末でありふれた道具を用いる方向に変えていったのが浄土宗の僧侶、村田珠光でした。

臨済宗の一休宗純の元に参禅して禅思想に触れた珠光は、禅同様、「茶の湯を学ぶ上で一番悪いことは慢心と我執の心を持つことである。」とし、禅と茶の湯の一致を説きました(茶禅一味)。こうして形作られたのが、それまでの書院における豪華な茶の湯に対する『わび茶』でした。

千利休(1522-1591年)

以降、わび茶は安土桃山時代に流行し、千利休が完成させました。

16世紀後半、この千利休の意向で生み出されたのが楽茶碗です。

利休の侘茶に叶う茶碗を具現化するため、陶工もしくは瓦職人だった樂家初代長次郎にオーダーして生み出されました。

古の王侯貴族がフルオーダーでジュエリーやドレスを制作するのと同様、ああしたい、こうしたいと様々な意向を伝え、試作を重ねて完成した楽茶碗は歪な唯一無二の形状が特徴です。

黒楽茶碗『尼寺』(長次郎 16世紀後半)
"Black Raku Tea Bowl" ©Chris 73 / Wikimedia Commons)/Adapted/CC BY-SA 3.0

轆轤を使わず、手とヘラだけを使う『手捏ね(てづくね)』という方法で成形します。

利休のわび茶の思想を濃厚に反映した楽茶碗は、禅あるいは禅の考え方の出発点となる老荘思想の流れを汲んだ、極めて理念的な作行きとも評されています。

2点しか国宝指定されていない国産茶陶
【国宝】白楽茶碗『不二山』別名:振袖茶碗(本阿弥光悦 17世紀初期)サンリツ服部美術館 【国宝】志野茶碗『卯花墻』(桃山時代 16世紀後期)三井記念美術館 【引用】三井記念美術館HP / 館蔵品の概要 © 2022 Mitsui Memorial Museum

唐物が珍重されてきた日本の歴史に於いて、国宝指定された国産茶陶は2点しかありません。2点とも楽焼の茶碗です。1つが本阿弥光悦作の『不二山』、もう1つが志野茶碗の『卯花墻(うのはながき)』です。

完璧を追求すると、器用な人ならばいくらでも複製が作れます。はっきり言えば、機械で作った方がより上手くできるでしょう。しかしながら不完全の美を追求した作品は唯一無二であり、器用な人間でも完璧な贋作は作ることは無理ですね。造形はある程度似せることができても、自然の景色は完璧には再現不可能です。

不完全であれば何でも良いというわけでもなく、美的感覚の鋭い人にはその感覚を共有できる、何となくの『良い塩梅』が存在するのも面白いところです。だからこそGenと私で選ぶ宝物は完璧に一致していますし、感覚が鋭そうだと思える人とは「良い!」と感じるものに共通性を感じます。このあたりは定義不可能かつ言語化されていない領域なため、言葉を使ってのご説明が難しいです。分かる人だけの世界です。HERITAGEの宝物に何かを感じてくださる方ならば、このことはなんとなくお分かりいただけるのではないでしょうか。

マルチアーティスト 本阿弥光悦(1588-1637年)

国宝『不二山』を作った本阿弥光悦はマルチアーティストとして知られており、書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人などとして活躍しました。

本業は刀剣の鑑定だったそうですが、その傍で制作する陶芸にも秀でており、光悦の茶碗を欲しがるものは多くいました。

それだけのネームバリューがあれば、適当な作品をたくさん作って儲けることもできたでしょう。現代はそういう売り方をする、エセ芸術家の方が圧倒的に多いです。そういう人は芸術家ではなく、商売人でしかありません。最初は志高く始めても、いざやってみても今の時代では本物の芸術家は食べていけないため、心が折れて商売人化する中途半端な人が殆どです。

光悦は容易く作ることはしなかったため、現存するのは10点ほどです。その中でも一番の作と名高いのが国宝『不二山』です。

アールデコ ボヘミアン ガラス 花瓶 アンティーク 『パラソルを持つ女』
ボヘミアン・イングレイヴィング・グラスの花瓶
チェコ 1930年代初期
¥713,000-(税込10%)


HERITAGEで『コンテスト・ジュエリー』というジャンルを定義しています。

肩書きやブランド、素材の種類だけで判断する権威主義の人たちは高名なアーティストの作であれば、ただそれだけで崇め奉り大金を喜んで払います。

しかしながら、いかに高名なアーティストと言えども、毎回必ず傑作が作れるわけではありません。そもそもそんなことができたら、それはたくさん作れる"普通の作品"にしかなりません。

コンテスト・ジュエリーは、厳密にはコンテストに出品された作品とイコールではありません。

数合わせに出品された駄作も案外たくさんあります。そういうものはコンテスト・ジュエリーには指定しません。

才能あるアーティスト兼職人が己のプライドをかけ、魂を込めて作り上げた一世一代の作品こそを『コンテスト・ジュエリー』と呼んでいます。

ブルー ギロッシュエナメル ペンダントウォッチ アンティーク・ジュエリー『ダイヤモンド・ダスト』
エドワーディアン ブルー・ギロッシュエナメル ペンダント・ウォッチ
フランス(パリ) 1910年頃
(ムーヴメントは同時代のスイス製) 
¥15,000,000-(税込10%)

人間技とは到底思ない、神懸かり的な技と集中力を駆使して作られたコンテスト・ジュエリーは、同じ作家であっても二度は同じ物を作ることは叶いません。

技術的に類似のものは作れても、そこに同じレベルの魂を感じることはできません。

美的感覚がない人は見ても違いは分かりません。だから、誰々が作ったという作家名だけで、平気で魂の存在しない手抜き作品を高値で買います。

感覚が優れていれば見れば、一目瞭然に分かります。鋭い感覚を持ち、才能に基づく高いプライドも備えた真の芸術家ならば、作品を量産するなんてあり得ません。

もちろん上手になるための試作は別です。現代はその試作みたいなものが高額で売られたりするので、笑っちゃいます。

【国宝】白楽茶碗『不二山』
『不二山』(本阿弥光悦 17世紀初期) Alpsdake permitted雪が掛かった富士山

芸術家、本阿弥光悦の渾身の作にして、国宝に指定されるほど日本人から評価を得てきた『不二山』の不完全の美は実に見事です。

二度とは同じ景色を見せない富士山。長年日本人の心を魅了してきた富士山ですが、その雪化粧をした美しさは別格です。実物を見たそれぞれの人にとって、心の中に『最高に美しかった雪景色の富士山』が投影できることでしょう。

本阿弥光悦の『不二山』はその情景を心に思い浮かべるトリガーとしても機能します。あるいは雪景色の富士山を見たことのない人にとっても、記憶の中の山や雪景色を元にして、それぞれにとっての美しい富士山を想像できるはずです。

千利休と楽焼を完成させた初代長次郎や、本阿弥光悦の楽焼の銘をいくつか挙げてみましょう。
 □初代長次郎
   『無一物』
   『面影』
 □本阿弥光悦
   『雨雲』
   『時雨』
   『雪峰』

どれも具体像なきものです。いかにも想像力を掻き立てる、抽象的な銘の数々です。明らかに、見る人ごとに、頭の中で最高の景色を想像するよう作られています。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

世界に先駆けて"美の真髄"に気づき、意図して歪の美を美術工芸品として創り出そうとするなんて本当に凄いですね。

それでも大自然が作り出した『歪の美』に到達するのはとても難しいことだったでしょう。

大自然が作り出した歪の美。

そこに無上の美を感じ、理想の美として敢えて人の手で創り出そうとしたのが楽茶碗です。

そんな日本人だからこそ、大自然が作り出したこのバロックパールに最高の美しさを感じることができるのです。

不完全の美の総括

『徒然草』一部

 花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などにこそ、見所多けれ。歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかりけるに、早く散り過ぎにければ」とも、「障る事ありてまからで」なども書けるは、「花を見て」と言へるに劣れる事かは。花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊にかたくなる人ぞ、「この枝、かの枝散りにけり。今は見所なし」などは言ふめる。

 

吉田兼好の嘆き節とも言える文章ですね。この他、『徒然草』には酒の席や酔っ払いに関する愚痴のような内容もあったりして、現代と変わらないなぁなど面白く思うのですが、吉田兼好のように鋭く物事を洞察できる人は相当な少数派だったと想像できます。長い年月で淘汰されることなく、こうして歴史として残っているので、当時の代表的な人に見えてしまいがちですが・・(笑)

吉田兼好(1283年頃〜1352年頃)鎌倉末期〜南北朝時代

美について鋭く言及してる吉田兼好は、日本人がなぜ歪さを好むのかについても、理由を次のように説明しています。

「すべて、何も皆、ことのととのほりいたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。」

何事も、整って完璧なのは駄目だそうです。

さらに、弘融僧都が「何でも物を一揃い完璧に調えようとするのは、あまり賢明ではない人間がすることだ。不完全な方が良いのだ。」と言うのを聞き、なかなか良いことを言うものだと感心したことがあるとも述べています。

昔の日本人にも"賢明ではない人間"が少なからず存在し、鋭い美的感性を持つ人はそう多くはなかったことが想像できます。こうして嘆いて書くくらいですから(笑)

分かる人と分からない人がいる。これは間違いありません。ドナルド・キーン氏のような人もいるくらいですから、欧米人だから分からないということでもないでしょう。ただ、分かる人だけが個別に何となく持っていた概念を、日本人はこうして言語化し、時代を超えて共通認識として持っていたことが極めて異質です。

2-2. 岡倉天心が西洋世界で紹介した日本人の美意識

長い歴史があるため、日本人にとってはDNAに刻み込まれていると言って良いレベルに『不完全の美』は浸透していました。既に日本人にとっては"ごく当たり前"の概念となっていたのです。

だからこそ、日本ではこの概念を元にした美術工芸品や芸術作品が長年生み出されています。

ロンドン万博を視察する文久遣欧使節団(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862.5.24号)

開国後、互いの文化に触れ、日本とヨーロッパでは『理想とする美』に対する概念が何だか違うということに気づく人たちがいました。

概念的に理解していた人は既にいたと想像しますが、それを紐解き、欧米向けに分かりやすく英語で紹介したのが岡倉天心でした。

2-2-1. 岡倉天心のバックグラウンド

岡倉天心(本名:岡倉覚三)は日本の美術評論家として知られ、海外でも活躍し、東京美術学校(東京藝術大学の前身の1つ)の設立にも貢献しています。

飲兵衛の師匠と弟子(笑)
岡倉天心(1863-1913年)1905年以前、45歳以前 横山大観(1868-1958年)1952年、84歳頃

その東京美術学校の一期生として横山大観も指導しており、1904(明治37)年にはアメリカのボストン美術館からの招聘を受け、弟子の横山大観や菱田春草らを伴って渡米しています。

羽織袴で闊歩する彼らを、一人の若いアメリカ人が冷やかしました。
 What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?
(おまえたちは何ニーズ?チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?笑)

それに対し、岡倉はこう陽気に返しました。
 We are Japanese gentleman. But what kind of key are you?
 Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?
(私たちは日本の紳士です。そういう貴殿こそ何キーか?ヤンキー?ドンキー?それともモンキーか?)

これは馬鹿にしようとしたアメリカ人も面食らいますね。ヤンキーはアメリカ北東部に住む白人に対する俗称で、アメリカ国外に於いてはアメリカ人全体に対する俗称・蔑称です。ドンキーはロバ、モンキーは猿です。

怒って憤るでもなく、ネイティブでも頭の回転がかなり良い人でなければ不可能であろう、何とも鮮やかな返しです。岡倉天心とはそのような人でした。そのバックグラウンドについてご紹介しておきましょう。

ちなみに余談ですが、岡倉天心も弟子の横山大観も相当な飲兵衛だったそうです。横山は人生後半の50年はほとんど飯を口にせず、たまに食べる時も一粒二粒と数えるほどで、食事は酒と肴(少量の野菜)のみで済ませていました。毎日、約一升ほど飲んでいたそうです。

ただ、元々はお猪口2、3杯で真っ赤になるほどの下戸だったと言われています。酒豪は特訓の成果だったらしいのですが、なぜ特訓したのかと言えば、師であり5歳上の岡倉天心から「酒の一升くらい飲めずにどうする。」と叱咤されたからです。

岡倉は日に2升も飲んでいたとされるほどの酒豪でした。ワインをボトル1本なんて比ではありませんね。現代だと通常のワインボトルは750ml、アルコール度数は12%前後。日本酒の一升瓶は1,800ml、アルコール度数は15%前後。日本酒2升は、アルコール量に換算するとワインボトル6本分に相当します。

1日で飲む量とは言え、3食だとすると毎回ワインボトルを2本開けていた感じでしょうか。終日酔っ払っており、シラフの時間がなさそうなのですが・・(笑)
それでも岡倉、横山ともにアルコール中毒にはなっていませんし、歴史に残る功績を残しています。周りに迷惑をかけず、本人がそれだけ好きならば、お酒は無理して抑える必要なんてないのかもしれませんね。むしろお酒のお陰でそれだけの成果が出せたのかもしれません。或いはノイマン並に頭が良すぎて、お酒で少しくらい鈍らせないと、普通の人とはまともにコミュニケーションができなかったのかもしれません(笑)

(引用:「岡倉天心」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2022年4月3日(日) 18:58 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

『東海道名所之内横濱風景』(歌川貞秀 1860年)

これだけ英語を使いこなしていたのは、幼少期からリアルな英語に慣れ親しんでいたからです。

岡倉天心は岡倉覚右衛門の次男として1863年に横浜で誕生しました。父・覚右衛門は元々福井藩士でしたが、神奈川の警備を命じられた福井藩はここでの海外貿易の隆盛を見て生糸を扱う貿易商店を1860年に開業し、覚右衛門を赴任させたのです。

1858(安政5)年の日米修好通商条約を始めとする安政五カ国条約によって、貿易を前提として開港されたのは『開港五港』の箱館(函館)、神奈川(横浜)、新潟、兵庫(神戸)だけです。島国日本からの輸出入は船便だけしかない時代、当然ながらこれらの港はヒト・モノ・カネが今では想像もできないほど集中し、活気に満ち溢れたはずです。

岡倉天心は生糸商の店を訪れる外国人を通じ、幼少期から英語に慣れ親しむ環境にありました。

宣教師・日本基督公会の創設者 ジェームズ・ハミルトン・バラ(1832-1920年)1878年、46歳頃 岡倉由三郎(1868-1936年)1905年、37歳頃

1870年、7歳の時には再来日した宣教師ジェームズ・ハミルトン・バラの英語塾にも入っています。幼少期からのこのような環境によって、ネイティブ並みに英語が使いこなせるようになったのでしょう。

弟の岡倉由三郎は英語学者として活躍しており、英語発音練習カードを考案し、ラジオや通信教育による英語講座を日本で初めて行い、英語学習ブームも起こしています。兄・天心同様、英語の著書もあり、『The Japanese Spirit(日本人の精神)』(1905年)はイギリスを中心に広く読まれ、引用もされています。上の写真は1905年にロンドン大学で講演する際に撮影されたものです。

東海道五十三次『神奈川宿』(歌川広重 1833-1834年)復刻版

岡倉天心は神奈川宿の長延寺で漢籍も学びました。漢籍とは、中国大陸で漢文で描かれた書物のことです。神奈川宿は東海道五十三次の3番目の宿場です。

幕末には神奈川宿の寺を間借りする形で欧米諸国の領事館が置かれていた
"神奈川領事館" ©きゃからば(29 September 2019)/Adapted/CC BY-SA 4.0

幕末には、神奈川宿の寺を借りて欧米の領事館が置かれていました。なんだか凄くインターナショナルな感じですね。

イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) イギリス領事館が置かれた東禅寺(1860年代)

突然、欧米仕様の建物が建築できるわけもありません。イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコックも来日後は港区高輪の東禅寺に暫定のイギリス総領事館を開き、その後、開港する横浜の浄瀧寺に領事館を設定しています。立派なお寺は、本当に立派ですからね〜。

さて、1873(明治6)年、廃藩置県によって福井藩の生糸貿易の店が廃業になると、岡倉一家は東京に移転しました。当時10歳頃の天心は、官立東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学しました。

1875(明治8)年、12歳頃には東京開成学校(1877年に東京大学に改編)に入学しました。飛び級を重ねて16歳でコロンビア大学に入学したドナルド・キーン氏より早いですね!ここでは政治学・理財学(経済学)を学びました。

1880(明治13)年7月、17歳で東京大学文学部を卒業し、11月から文部省への勤務を開始しました。現代の日本だと成人して20代になっても子供っぽい人が少なくありませんが、もう立派な大人ですね。実際16歳の頃に13歳の基子と結婚しており、天心18歳、基子15歳となる1881年には長男一雄が誕生しています。やはり10代でも立派な大人です。

岡倉天心はこのようなバックグランウドで育ち、社会人として活躍を始めました。

2-2-2. 美術の世界に引き込まれたフェノロサとの運命の出逢い

岡倉天心(1863-1913年)1898年、35歳頃 お雇い外国人 アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)1890年、37歳頃

さて、長男が誕生したこの1881年に、岡倉天心は10歳上のアーネスト・フェノロサと日本美術を調査することになりました。これが運命のご縁でした。

フェノロサはスペイン出身の音楽家を父に持ち、アメリカのマサチューセッツ州で生まれました。マサチューセッツ州ボストン近郊にあるハーバード大学で哲学、政治経済を学びました。

お雇い外国人 エドワード・シルヴェスター・モース(1838-1925年)

卒業後、先に来日していたエドワード・シルヴェスター・モースの紹介で来日しました。

1878(明治11)年、フェノロサが25歳の時でした。

モースはお雇い外国人として、東京大学で教授を務めていたアメリカ人動物学者です。

フェノロサの専門は政治学や哲学で、美術は専門ではありませんでした。しかしながら来日前にボストン美術館付属の美術学校で油絵をデッサンを学んでおり、元々美術に関する関心はあったようです。

来日して日本美術を目の当たりにし、深い関心を寄せ、特に心酔した狩野派は江戸時代には御用絵師として活躍し、明治維新後も皇室関連の依頼を多く手掛けるなど第一線で活躍していた狩野永悳(かのうえいとく)に弟子入りしたほどでした。フェノロサは永悳から古画の研究と鑑定法を学び、一代限りの狩野姓を許可され、『狩野永探理信』の画号を与えられています。また、狩野愛が強すぎて、フェノロサは東京で生まれた長男にアーネスト・カノウ(Kano)と名付けています。

岡倉天心も美術関連に精通していたわけではありませんでしたが、教え子だった文部官僚であることに加え、英語が得意ということでフェノロサの助手を任されました。

最初から憧れて美術の世界に飛び込む人もいる一方で、運命による強力なご縁(お導き)でこの世界に呼び込まれる人もいるものですね。私も美しいものは好きで興味はあったものの、自分の進むべき道に在るとは全く思っていなかったので、心の準備どころか知識や経験的な準備も全くしていませんでした。面白いものですね。逆に、そうやって驚くようなご縁で強く導かれたからこそ、何か大事な使命があるのだと、強い自覚を以って取り組んでいます。彼らもそうだったでしょうか・・。まあ、一番は「これが自分にとって最も面白いから!♪」、なんですけどね。

2-2-3. フェノロサ&岡倉天心の日本での活動

廃仏毀釈で破壊された石仏(川崎市麻生区黒川)"Lelelenokeee" ©me, myself/Adapted/CC BY-SA 4.0

開国後、1868(慶応4)年に発せられた『神仏分離令』と、1870(明治3)年の『大教宣布詔』で天皇に神格を与え、神道を国教と定める国家方針が示されたことなどを契機に、明治に入ると暴徒化した民衆によって寺院関連の建物や物品が破壊される廃仏毀釈が発生しました。

加えて極端に新しい物好きのミーハーな日本人の性質もあり、明治期の日本はヨーロッパ崇拝の一方で日本美術が無価値なものとして打ち捨てられる状況にありました。

そんな中、欧米人の感性で日本美術を高く評価したフェノロサは、助手の岡倉と共に古寺の美術品を訪ね、蒐集なども行いました。

『谿間雄飛図』(狩野芳崖 1885年)ボストン美術館

最初は趣味に近い活動だったかもしれませんが、フェノロサは公式に美術に関わるようにもなりました。1882(明治15)年、第一回内国絵画共進会で審査官を務めました。同年、狩野芳崖の作品に注目し、親交を結ぶようになりました。

狩野芳崖(1828-1888年) お雇い外国人 アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)1890年、37歳頃

当時54歳で、肺を患っており、芳崖に残された時間は既に長くありませんでした。しかしながら日本画の伝統に西洋画の写実や空間表現を取り入れ、鮮やかな西洋顔料を使うなどして、和洋折衷様式の新しい日本画を創生することをフェノロサは芳崖に託しました。

面白いですね。以前、ヨーロッパの伝統様式にいち早く日本の美術様式を取り入れたアングロ・ジャパニーズ・スタイルをご紹介しました。来日経験のあるイギリスで活躍したデザイナー、クリストファー・ドレッサーがその代表でしたが、その逆がフェノロサらによって日本国内で行われていたわけですね。

『仁王捉鬼図』(狩野芳崖 1886年)東京国立近代美術館

そうして完成された狩野芳崖の『仁王捉鬼図』は明治初期の発足した美術団体、鑑画会の大会で一等となり、芳崖はたちまち売れっ子作家となりました。

東京美術学校:1887年設立、1889年開校(1913年)後の東京藝術大学

この『仁王捉鬼図』をフェノロサが当時の総理だった伊藤博文に見せて日本画の可能性を訴え、それが東京美術学校(後の東京藝術大学)設立の契機となりました。

【重要文化財】『悲母観音』(狩野芳崖 1888年)東京藝術大学

様々な試行錯誤の末、狩野芳崖が1888(明治21)年に最後に完成させたのが和洋折衷様式の『悲母観音』です。

重要文化財にも指定されています。

芳崖は東京美術学校の教授に任命されていましたが、1889年2月の開校を待たず、この絵を完成させた4日後に逝去しました。

まさに生涯現役ですね。

こんな絵を描き上げて天に召されるなんて、芳崖は最期にどんな景色を見たのでしょうね・・。

東京美術学校記念写真:最前列左から6番目が岡倉校長

1886年に総理・伊藤博文に芳崖の『仁王捉鬼図』を見せた後、翌1887年にかけて文部省図画取調掛委員として岡倉とフェノロサは欧米調査旅行を実施しました。こうして準備が整い、1889年に東京美術学校が開校しました。

教官の殆どが日本画家などの伝統的美術家でした。伝統美術の振興を目指す岡倉とフェノロサの理想が具現化された形となりました。岡倉が事実上の初代校長となり、フェノロサが副校長を務めました。

これは何だかこのまま楽しく飲み会が催せそうな感じですが、飲兵衛・岡倉校長の宴席記念写真ではありません。。ヨーロッパ人がヨーロッパ美術の原点が古代ギリシャにあると考えることに対し、岡倉は日本美術の源は奈良にあると考えました。それを反映して、講師と学生の制服に天平時代の官服のようなデザインを採用したのだそうです。

1890年の校長就任当時、岡倉はまだ27歳でした。現代の感覚だと、まだまだ若造ですよね。一期生だった横山大観が「酒の一升くらい飲めずにどうする。」と言われて猛特訓したのも、岡倉が校長先生様だったことを考えればまぁ納得ですね(笑)

救世観音菩薩立像(7世紀前半)法隆寺 夢殿

フェノロサは1884(明治17)年に文部省図画調査会委員に任命され、岡倉らに同行して近畿地方の古社寺宝物調査も行っています。

法隆寺夢殿の秘仏・救世観音像も開張して調査しています。

公式な活動として二人は活躍し、日本国内に大きな実績を残したのです。

特に日本美術が軽んじられる国内情勢の中、欧米人であるフェノロサが著述や講演を通じて日本美術の優秀性を説いたことは大きかったと言えるでしょう。

2-2-4. フェノロサのその後

フェノロサは37歳になる1890年に帰国し、ボストン美術館に新設された日本部(後に東洋部)の初代部長となり、日本美術の紹介を行いました。その後も1896年、1898年、1901年に来日しています。

1908年、ロンドンの大英博物館で調査をしている際に心臓発作で亡くなりました。55歳でした。フェノロサも生涯現役と言える最期です。

Daderot permitted分骨されたフェノロサのお墓(滋賀の法明院)

フェノロサは1896年に仏教に帰依しており、本人の遺志により火葬後は分骨され、受戒した滋賀の園城寺(三井寺)の法明院に葬られています。55歳でピンピンコロリだと、現代の感覚では遺志を遺せているなんて想像もできませんが、絶えず死を意識して懸命に生きることのできる世の中だったのでしょうね。

当時でも90歳前後まで長生きする人は案外いたようですが、現代と比べて不測の事故などに遭うことも多い時代でしたしね。

『平治物語絵巻』三条殿夜討(伝・住吉慶恩 13世紀後期)ボストン美術館

フェノロサが亡くなった後、コレクションはボストン美術館に寄贈されました。その中の『平治物語絵巻』三条殿夜討は、国宝級とされる鎌倉絵巻の最高峰の1つです。ちなみに『国宝』という概念はフェノロサが考えたものでした。

『松島図』(尾形光琳 18世紀初期)ボストン美術館

他、尾形光琳の『松島図』も国宝級とされています。国宝級を海外に流出させたということで批判されることもありますが、海外で認知されたことで日本の美術品の評価を高めることに貢献していますし、それがなければ日本国内での評価は低いままだった可能性が多分にあります。

日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政への多大な影響を考えると、フェノロサの日本美術への貢献は極めて大きかったと言えるでしょう。

2-2-5. ボストン美術館理事ビゲローと岡倉のつながり

岡倉天心はボストン美術館理事ウィリアム・スタージス・ビゲローの紹介で、1904年にボストン美術館中国・日本美術部に迎えられました。こうして海外でも活躍できる機会が与えられました。

ビゲローについても少しご紹介しておきましょう。

ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926年)1896年頃?、46歳頃? お雇い外国人 エドワード・シルヴェスター・モース(1838-1925年)

ウィリアム・スタージス・ビゲローは3歳下のフェノロサ同様、ハーバード大学卒のアメリカ人です。医学部の医師でした。

1881年、2度目の来日から帰国したモースの講演を聞いて日本に興味を持ち、32歳となる翌1882年に、モース3度目の来日に同行して日本を訪れました。

もともとビゲローは短期の観光旅行のつもりでしたが、実際の日本に触れてその魅力に魅了され、短期の一時帰国を除けば7年も日本に滞在することになりました。日本の文化や伝統をこよなく愛し、和服や日本食を好み、天台宗の園城寺(三井寺)には入門して修行し、『月心』という法名まで受戒しています。実はビゲローのお墓も遺言により分骨され、円城寺の法明院にあるフェノロサのお墓の隣に建てられています。

ご想像の通り、狭い世界です。ビゲローはモースやフェノロサらと共に見学や収集の旅に出ることもありました。英語が堪能で日本美術にも精通する岡倉とも、接点が生じるわけです。

ビゲローは日本滞在中、個人の趣味としてただ遊び暮らしたわけではありませんでした。様々な日本の物品や美術品を蒐集しただけでなく、日本各地の寺や画家、美術研究者などの援助活動も行っています。

東京美術学校記念写真:最前列左から6番目が岡倉校長

1889年に開校した東京美術学校ですが、1898年、日本美術界の旧弊に抗う美術研究の構想持つ岡倉は排斥され、辞職することになりました。岡倉の構想に賛同し、自主的に辞職した芸術家も多数存在しました。その中には、共にボストンに渡った弟子の横山大観や菱田春草もいました。

彼らをまとめる形で、美術研究団体『日本美術院』が結成されました。世紀末ウィーンの1897年にグスタフ・クリムトを中心として結成された、セセッション(ウィーン分離派)みたいですね。この時期、ヨーロッパでは各地で『分離派』が結成されていますが、日本でも同様の流れが起きていたというわけです。

しかしながらこのような活動にはお金がかかります。情熱だけでは具現化はできません。

この日本美術院の創設に際して、2万円を寄付したのがビゲローでした。19世紀後期の『金めっき時代』と言われる、拝金主義に染まった成金趣味の時代を経験し、成金嗜好に染まった者が多くいたアメリカですが、一部にはこういう人物もいたということですね。

現代はお金を得て美術の世界でお金を使う場合でも、値上がりを想定した投機的なお金の使い方しかしない成金ばかりです。自分がもっと儲かる物にはいくらでもお金を出しますが、新しい芸術を生み出したり育てたりするために、芸術家や研究者の活動を支援するというパトロン的なお金の使い方はしません。現代では、まともな新しい文化や芸術が生まれない大きな理由です。


『大日本帝國勲章鏡』(中澤年章作 1895/明治28年)

ビゲローは帰国後も法明院に寄進を行っており、その他の様々な活動も評価され、1909年には公務に対する褒章である勲三等旭日章を明治政府から受勲しています。

ビゲローの活動は日本とアメリカの双方にとって価値あるものでした。ビゲローのコレクションは、フェノロサとは異なる特徴がありました。

フェノロサのコレクションは絵画中心でしたが、ビゲローのコレクションは幅が広く、金工、漆工、染織、刀剣甲冑なども含みました。奈良時代、8世紀に描かれた『法華堂根本曼荼羅』は特に貴重です。肉筆浮世絵画700点を含む絵画4,000点、浮世絵版画は約34,000点で、これらは1911年にボストン美術館に寄贈されました。

ボストン美術館全体の浮世絵版画点数は約54,000点とのことで、ビゲローの蒐集品だけで全体の63%を占める計算です。

人々から価値を忘れ去られた状態で、"知られざる良いもの"として存在するラッキーな時代にタイミングが合うと、価値あるものがそれだけ多く集められるということですね。価値が評価され、人々に知られるようになると争奪戦が起こり、一人でたくさん集めるのは不可能となります。

アンティークジュエリーに於いて、この"ラッキーな時代"に優れたものを見出し、たくさん日本に持ち込んだのもトレジャーハンターGenなのです♪
アンティークジュエリー自体はジャンルとして確立され、そこそこ知られているものになった印象ですが、芸術は誰もが理解できるものではなく、目利きが難しいため、私たちが扱うような美術品としての価値があるアンティークのハイジュエリーに関しては今でも"知られざる良いもの"である気もします。

ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926年)1896年頃?、46歳頃? 岡倉天心(1863-1913年)1905年以前、45歳以前

さて、ビゲローは帰国後の1890年にボストン美術館理事に就任しました。そして1904(明治37)年、ビゲローは岡倉をボストン美術館の中国・日本美術部に招聘しました。これが例の『何ニーズ&何キー事件(笑)』が起きた背景です。岡倉は漢籍も学んでいますし、日本文化も大元や影響などを探ろうとすると必ず中国文化の知識が必要となりますから、どちらにも精通する最適人物だったでしょう。

以後、岡倉は日本とボストン美術館を行き来して活動することになりました。

国内のことは歴史で学びますが、国外で活躍した日本人の話は『日本史』としてはメインストリームでないため、その貢献が大きくても案外知られざる存在なんですよね。知っている人はよく知っていますが、何かをきっかけに興味を持って調べた人などでなければ、あまり知らないでしょう。岡倉もそんな日本人の一人です。

2-2-6. 欧米に日本人の美意識と日本美術の真髄を紹介した岡倉

フェノロサは欧米向けに日本美術を紹介する著述を英語で発表していますが、岡倉天心も日本人ではなく欧米向けに英語の著述を複数発表しています。

『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan』1903年 ジョン・マレー社(ロンドン)
(東洋の理想に密接に関連した日本美術)
→後世の日本語訳
 『東洋の理想 他』:「日本の覚醒」、「東洋の覚醒」を合わせて収録(訳:佐伯彰一、橋川文三、桶谷秀昭)1983年 平凡社東洋文庫
 『東洋の理想』(訳:冨原芳彰)1986年 講談社学術文庫

『The Awakening of Japan』1904年 ジョン・マレー社(ロンドン)、センチュリー会社(ニューヨーク)
(日本の目覚め)
→後世の日本語訳
 『日本の覚醒』(訳:夏野広)2014年 講談社学術文庫
 『日本の目覚め』(訳:村岡博)2017年 土曜社

『The Book of Tea』1906年 フォックス・ダフィールド社(ニューヨーク)
(茶の本)
→後世の日本語訳
 『茶の本』(訳:村岡博)1929年 岩波文庫:2019年に第118刷56万部発行
 その他多数
『The Awakening of the East』1902年稿、当時未公開
(東洋の目覚め)
→後世の日本語訳
 併せての収録という形で日本語訳がいくつか紹介されている

これらは岡倉が亡くなった後の時代に日本語に翻訳され、日本人にも読まれています。先にご説明した通り、日本美術の真髄や日本人の美意識は、日本人だからと言っても誰でも理解できるわけではないほど難しいものです。

それを、欧米人でも理解してもらえるよう、頭脳明晰な岡倉が可能な限り分かりやすく説明したのがこれらの著書です。翻訳して日本で紹介されているというのは、日本人にとっても必要かつ大変意味のある内容だった証です。

そのような著述は限られた者にしか書くことはできません。前提としてまず、日本美術の真髄や日本人の美意識を理解していなければなりません。

日本美術に心酔したフェノロサでしたが、彼には書くことができなかった内容です。

2-2-7. 欧米人の感覚で日本美術を捉えたフェノロサ

お雇い外国人 アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)1890年、37歳頃

フェノロサは入門するほど狩野派に傾倒しましたが、その一方で南画(文人画)は駄目な絵であるとして徹底的に攻撃したそうです。

『中国大陸』(王維 699-759年 or 701)
"ApoemofWangWei" ©AhaUFO(30 May 2013, 18:25:30/Adapted/CC BY-SA 3.0

中国に於いて、職業画家ではなく文人が余技として描いた絵画を文人画と言いました。

文人とは、「学問を修め文章をよくする人」を意味します。

唐代の王維が文人画の起源とされています。

学問を修めた人物の作品だけあって、絵には深い意味が込められているでしょうし、文章にも深い内容が書かれていそうです。

日本とは異なる、仙人が住んでいそうな中国大陸ならではの山々の雰囲気って良いですよね〜♪

『大陸』やこの独特の景色、仙人などに憧れ、漢文の深い魅力にもはまって、実は大学の第二外国語は中国語を選択しました。そして文系学生に一人だけ混ざって、理系学生には必要のない中国語IIまで単位を取得しています(笑)

文化大革命(1966-1976年)という酷い運動が発生しましたが、中国の奥深さは強く惹かれるものがあります。

『渓辺二美人図』(彭城百川 1697-1752年)

さて、もともと文人が描いた絵を『文人画』と呼んでいましたが、次第に文人画風に描いた絵も含むようになり、様式化していきました。

江戸時代中期以降に日本的解釈の文人画が描かれるようになりました。

これは日本南画の祖の一人、彭城百川(さかき ひゃくせん)の作です。

本姓は榊原でしたが、先祖が中国江蘇省彭城の出身ということで自ら彭城と名乗ったそうです。

当時、日本人にとって中国は憧れの先進大国でしたからね。

【国宝】『凍雲篩雪図』(浦上玉堂 1800-1820年頃)川端康成記念館

文人画の中で特に評価が高いのが、この『凍雲篩雪図(とううんしせつず)』です。

備中岡山藩の支藩、鴨方藩士だった浦上玉堂の代表作にして日本南画(文人画)に於ける傑作とされ、国宝にも指定されています。

雪に埋もれた大自然の寂寥感を表現した、心に響く作品です。

凍った雲は分かりますが、篩雪(しせつ)は現代は使われない言葉です。篩(ふるい・ふるひ)にかけたような、極めて細かい雪をさすようです。

相当気温が低い時に降る、細かく乾燥した雪をイメージするのが適当でしょう。

岡山は北部に豪雪地帯があるものの、そこまで寒い場所があるのかと思われる方もいらっしゃるでしょう。

浦上玉堂 (1745-1820年頃)1813年、68歳頃

玉堂は50歳で脱藩し、35歳の頃に手に入れた中国伝来の『玉堂清韻』の銘がある七弦琴を片手に諸国を放浪しました。

風雅ですね〜♪

奥羽遊歴中に目にした、東北の地特有の見事な雪景色をその時の感動と共に具現化したのが国宝『凍雲篩雪図』と考えられています。

福島から米沢に向かう電車の車窓から見た猛吹雪Genとアローのフォト日記『美しくて、悲しくて・・・』(2005.1〜2)

これはGenが2005年の冬に、福島から実家のあった米沢に向かう電車の車窓から撮影した画像です。

「どんよりと曇った空の吹雪の風景は、美しいのだけれど淋しくて涙が出て来そうになるような風景でした。銀世界というよりそれはグレーの世界。」

Genが57歳の頃です。そんなGenは子供の頃、真っ白な雪に覆われた静寂の景色を見るのが大好きだったそうです。米沢は特別豪雪地帯に指定されている日本屈指の豪雪地域で、当然冬になると根雪となりますし、冬季はトンネルが閉鎖になって陸の孤島となっていたそうです。

深く降り積もる雪は防音材として全ての音を吸収し、聞こえてくるのは「シ〜ン・・・」とした静寂の音だけでした。「なんて綺麗なんだろう。」と、子供の頃から思っていたそうです。

身も凍る寒さと、極限まで色のない世界がGenの美的感覚を研ぎ澄まし、豊かな感性を育みました。寒さ厳しく、生きること自体が大変な東北の豪雪地帯ならではだと感じます。

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スウェーデン 1900年頃
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日本海側に属する米沢やロンドンなどは、特に冬はずっと曇りか雨や雪で、晴れの日が殆どないとされます。そのような地域に暮らす人々らからこそ人一倍、春の訪れを待ち侘び、心地よい太陽を大切に想うのです。

何もかも恵まれているのは幸せに見えますが、それが当たり前になってしまうと感謝の心は失われます。極限世界はあらゆるものへの感謝と悦びを実感させてくれる、ある意味『人間の幸せ』にとっては必須のものと言えるでしょう。

南画『凍雲篩雪図』も、見る者のバックグランドによって感じるものはきっと違うでしょう。心を揺り動かす傑作として国宝指定されていますが、心の眼で見ることのできない人には何が良いのかよく分からない作品だと思われるかもしれません。

ちなみに玉堂は国宝以外に、重要文化財に指定されている作品が12点もあります。日本人にとっては、南画は価値あるものなんですよね。

2-2-8. 岡倉天心とフェノロサの大き過ぎる違い

漢学者・国学者 市川清流(通称は渡:わたる)(1822-1879年)

文久遣欧使節としてヨーロッパで写実的な絵画を見た市川清流が、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」と鋭く指摘しています。

南画も描かれたもの、目に見えるものだけを捉えるだけでは真の理解はできない芸術です。

繊細な美的感覚と豊かな想像力によって、受け手側も"形を超えた気品や真髄を捉える"という能力を持たねば、真の理解は不可能です。

それは、日本人ならば誰でも可能というわけではないことは先にご説明した通りです。岡倉はどうだったでしょうか。

【明治の女流南画家の双璧】奥原晴湖(1837-1913年) 『朝陽蒼松・満月梅華図』(奥原晴湖 1910/明治43年)茨城県立歴史館、73歳頃の作

実は岡倉もフェノロサ同様、ある程度は美術に関心があったようで、東大生(正確にはまだ当時は東京開成所)だった1876年、13歳頃に南画家の奥原晴湖に入門しています。

1871(明治4)年の散髪脱刀令に応じて断髪していますが、奥原は女性で明治の女流南画家の双璧とされる人物です。散髪脱刀令は男性が対象でしたが、法令の趣旨を「女子も散髪すべきである。」と誤解した女性が男性同様、髪を短くしてしまうことがあり、翌1872(明治5)年に東京府が女子断髪禁止令を出したほどだそうです。当時の女性でショートカットだなんて想像したこともありませんでしたが、男前でなかなか似合っていますよね。

『松上鷹図』(奥原晴湖 1867/慶応3年) 『芦雁図』(奥原晴湖 1880/明治13年)

中身も男前だったのか、男性が描いたとしか思えないようなドしぶな作品の数々です。私が描く絵やイメージビジュアルなんかも男性が作ったものに見えると言われたりしますが、こういう女性がたまにいるんですよね。

ここでご紹介するための、明治期の南画家の作品をいくつか探して見ていたのですが、事前情報なしで感覚的にピンと来たのが奥原の作品でした。私好みです。一番初めに「これは!」と思ったのが、右の『芦雁図』でした。

入門するくらいなので、岡倉もピンと来たのでしょう。

奥原は1870(明治3)年に家塾を開き、最盛期には門人が300人を超えたそうです。1874(明治7)年には他の男性南画家たちと雅会『半間社』を結成し、文人画隆盛に尽力もしています。古代世界に於いて、学術に於ける世界の中心だった古代ローマのアレキサンドリアで女性哲学者として活躍したヒュパティアがいました。新プラトン主義哲学校の校長も務めました。

これらの歴史的事実を見ると、男尊女卑の世界だったと言われる古代ローマや戦前の日本が、本当に現代でイメージするような男尊女卑の環境にあったのか疑わしくも感じます。男性の弟子たちも違和感なく教えを請い、師と崇めていたわけですしね。少なくとも知的階層の人々は性別ではなく、正しく才能で判断する社会だったかもしれませんね。

お雇い外国人 アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)1890年、37歳頃

南画(文人画)は駄目な絵であるとして徹底的に攻撃したフェノロサによる1882(明治15)年の講演『美術真説』以降、南画の人気は低迷しました。

南画は駄目な絵ではなく、大半の日本人にとってすら理解できない難解さ故にフェノロサが理解できなかっただけだと思うのですが、日本の大衆は白人様の仰ることは思考停止で正しいと信じ込む性質があるのは今も昔も変わらなかったということでしょう。

もちろんフェノロサ自身に全く悪気はなく、むしろ日本人自身が廃仏毀釈で価値ある文化を破壊する惨状を目の当たりにし、正しい方向を教えなくてはと使命感に燃え、一生懸命に活動していたことは間違いありません。

『唐獅子図』屏風(狩野永徳 1543-1590年)宮内庁三の丸尚蔵館

フェノロサが心酔し褒め称えた狩野派は、歴代の権力者に作品を納めてきました。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、室町幕府後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍に仕えました。これら君主クラスの人々は富と権力を顕示しなければなりません。故に万人にとって分かりやすい、いかにも凄そうで派手でドヤドヤした、典型的な成金的作風が必要とされます。

芸術家の個性の内面の表出を尊重する現代の日本に於いては、必ずしも評価が高いとは言えないとされていますが、実際に本来の日本人好みとは正反対なんですよね。

王室のジュエリーは案外面白くないとGenも言うのですが、君主クラスのジュエリーや持ち物も万人に分かること、いかにも高そうで凄そうに見えることが必要とされます。庶民の目に入らない場所では違う趣味のものを身に着けるかもしれませんが、威信を顕示する必要がある大衆の眼前や外交の席などでは成金的なドヤドヤしたものが必要です。だからGenや私にとっては、ロイヤル・ジュエリーの多くが興味をひく対象にならないのです。

万人に分かりやすい、狩野派だけを重視したのがフェノロサということです。

岡倉天心(1863-1913年)1898年、35歳頃 アーネスト・フェノロサ(1853-1908年)1890年、37歳頃

その点で、芸術をどこまで理解できるのかは本当に人によって違うものだと改めて感じます。岡倉は東大卒、フェノロサはハーバード大卒でどちらも間違いなく頭脳明晰だったはずですが、芸術は知識で理解できるものでもありません。必要ではあるものの、必要十分なものではありません。いくら知識を増やしても、理解できる感性がなければ頭でっかちにしかなりません。

13歳で南画家に入門するほどの岡倉ですから、一般的な日本人より遥かに日本美術の真髄を理解できていたと想像します。

岡倉も、内心ではフェノロサが日本美術の真髄を理解していないことは分かっていたと思います。その真髄を正しく欧米にも理解してもらうまでは死ねない。その使命感もあってボストンに渡り、様々な著述を発表したのだと想像します。

なぜフェノロサには説かなかったのか。理解する才能がない人には、いくら知識的に説明しても真の理解はできません。これはアンティークジュエリーの価値を理解してもらおうと、Genが40年以上の長きにわたってたくさんの方にご説明を繰り返した経験で分かっています。だから敢えて岡倉もフェノロサには説明しなかったかもしれません。或いは、フェノロサは10歳も年上ですからね。儒教の影響が強い日本人としては、空気を読んで説明しなかった可能性もあるでしょう(笑)

2-2-9. 欧米人の感覚を理解した上で日本人として日本美術を紹介した岡倉天心

フェノロサが恐らく表面的にしか日本美術を理解できていなかったことは、ある意味で良いことだったとも言えます。身近に接していた岡倉は、次のことを認識・理解したはずです。

 □知的階層かつ日本美術に強い興味を抱く人物であっても、日本美術の真の理解が難しいこと
 □欧米人の美術の理解の仕方

日本で生まれ育った日本人ならば、ごく自然に育まれる美的感覚や感性。それを持たない欧米人に、一体どうやったら日本美術の真髄を理解してもらえるのか。

日本人ですら万人の理解は無理ですから、欧米人も万人が理解できることはまずあり得ません。可能性があるとすればやはり、知的階層かつ日本美術に関心を抱く人だけです。

感覚での説明は無理です。いかに論理的に欧米人にも分かりやすく説明し、その中でも、元々本人に感覚が備わっている人だけにでも理解してもらえるか。最高難度の課題であり、且つ岡倉だけが達成できる可能性のある、大きな使命だったとも言えるでしょう。

2-2-10. ヨーロッパにも存在した幽玄の美を理解する上流階級

欧米人にも日本人の美意識に通じる、幽玄の美をこよなく愛する上流階級は存在しました。それはアンティークの特別なジュエリーの存在からも明らかです。

古代ギリシャ
ヘレニズムの木の葉を彫ったストライプのアゲートのインタリオ・リング『木の葉』
古代ギリシャ アゲート インタリオ リング
ヘレニズム 紀元前2〜紀元前3世紀頃
SOLD
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン『アレキサンダー大王』
古代ギリシャ アメジスト・インタリオ
ヘレニズム 紀元前2-紀元前1世紀
¥4,400,000-(税込10%)

想像力を掻き立てるアーティスティックな宝物は紀元前の時代から存在しました。Genも私も、そのような宝物には強く惹かれます。「見つけたら絶対買い付ける!」と言うくらい大好きですが、卸の市場でも滅多に見ることはありません。

今も昔も、このような豊かな感性と美意識を持つ人はごく少数派だったはずで、それ故に作られた数も少ないのです。ただ、時代ごとの理解できる人によって大切にされて来たはずで、他の魅力がないものと比較すると生存確率は高いかもしれませんね。Genや私の元に来てくれるなんて、こういう宝物は、やっぱり相思相愛で惹かれ合ってやってくるものと感じます。

古代ローマ
キューピッドをモチーフとした古代ローマのニコロ・インタリオ『キューピッドと星』
二コロ・インタリオ
古代ローマ 紀元前2-紀元前1世紀頃
SOLD
古代ローマ ヒッポカンポス ニコロ インタリオ リング『ヒッポカンポス』
ニコロ・インタリオ
古代ローマ 1世紀頃
¥3,000,000-(税込10%)

二コロも、Genが無条件と言って良いほど好む石です。二コロは加熱していない天然のままのオニキスです。加熱すると層がはっきりするのですが、非加熱だと層と層の境目がはっきりしません。その非加熱石ならではの自然なグラデーションと石の彫りが相まって、非常に幻想的な作品が作られました。

二コロのインタリオも、身分の高い人のために作られた特別な高級品でのみ見る印象です。当時も幽玄の美を理解できるのは、上流階級の中の特別な美的感覚を持つ人だけだったのでしょう。

18世紀後期
18世紀 マイクロパール リング『柳と羊』
マイクロパール ミニアチュール リング
フランス 1792年
SOLD
18世紀 マイクロ彫刻画『廃墟と旅人』
マイクロカーブド・アイボリー ネックレス
C. ハーガー 1770-1800年頃
SOLD

柳や廃墟は私も大好きなモチーフなのですが、これだけ技術と手間がかかった高価な作品で、華やかさではなく幽玄の美を追った作品がヨーロッパで作られていたことにも感動します。特にマイクロカーブド・アイボリーは各国の王室がオーダーし、宮廷所蔵で殆ど一般公開されることがなかったという歴史から、世の中には知られざる存在となっていました。『奇跡の作品』としてごく少数の高貴な人々の間だけで知られ、愛でられる存在でした。

何でもそうですが、一定数は存在しないとプロモーションして値を吊り上げる旨味がないので、こういう宝物は美術品でボロ儲けしようとする人々のターゲットにはなりにくいのです(笑)

ちなみにマイクロカーブド・アイボリーもやはり、1点が城1つくらいの値段だったと考えられています。絵画や彫刻と異なり、個人的に愛でるための小さな小さな美術品にそれだけのお金を惜しみなく出す人がいた時代ならではの作品ですね。

19世紀初期
カルセドニー ペン アンティークジュエリー ホワイト 天然 無着色 無漂白 ジョージアン 彫金
ジョージアン ホワイト・カルセドニー ペン
イギリス 1820年頃
SOLD
カルセドニー ペン アンティークジュエリー ホワイト 天然 無着色 無漂白 ジョージアン 彫金

朝霧の景色、或いは篩雪が舞う景色のような、幽玄の美しさを持つホワイト・カルセドニーもGenが特に好む石の1つです。華やかさとは真逆の、想像力を掻き立てる幽玄の美の世界は、いつまで見ていても飽きることのない永遠の魅力を放ちます。

ジョージアン マルチーズクロス ブローチ&ペンダント 勿忘草 forget me not カルセドニー ターコイズ 金細工『ジョージアンの究極の美』
マルチーズクロス ブローチ&ペンダント
イギリス 1820年頃
SOLD
リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール アンティークジュエリー『大切な想い人』
リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール
イギリス 1811-1820年頃(摂政王太子時代)
¥1,200,000-(税込10%)

ジョージアンとヴィクトリアンではイギリスの爵位貴族の絶対数が異なります。ジョージアンはより貴族の数が少なく、ジュエリーも贅を尽くした高貴でエレガントな雰囲気のものが多いです。

ヴィクトリアンも中期になると産業革命によって台頭した中産階級がジュエリーを買うようになり、力を持ち勢力が増す大衆の手本となるべくヴィクトリア女王がファッションリーダーとして流行を主導したため、大衆にも広く理解しやすいド派手なデザインや素材が主流となります。

決して叶うことのない、許されぬ恋をしたジョージ4世の19世紀初期のイギリス。イギリス1のジェントルマンと言われるほどの高い教養を持ち、稀代のセンスを備えたジョージ4世の時代はGen好みの想像力を掻き立てる美しいジュエリーが他の時代よりも多いです。

リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール アンティークジュエリー リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール アンティークジュエリー

風防が必要ない細工にロッククリスタルで風防を施すのも、Genがこよなく好む細工の1つです。

『大切な想い人』は回転式フォブシールで、裏面はホワイトカルセドニーです。

意識が高い人同士が集まると、切磋琢磨してより全体として意識が高くなっていくものです。ジョージ4世がファッションリーダーだった19世紀初期のイギリスはそのような、美術的観点からは素晴らしい時代だったかもしれませんね。

←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
19世紀中期以降
廃墟の鹿の家族がモチーフのペインティング・カーブドアイボリーのブローチ
『廃墟の鹿』
ペインティング カーブドアイボリー ブローチ
ドイツ 19世紀中期
¥275,000-(税込10%)

全体で意識が高まっている時代・地域ではなくても、よほど傑出した美意識や美的感覚を持つ人は少ないながらも確実に存在します。

人の気配がなくなった廃墟で草を食む、野生の鹿の家族。

まさに松尾芭蕉の「夏草や 兵どもが 夢の跡」のような表現の宝物です♪

カルセドニー ピアス アンティーク『朝霧』
カルセドニー ドロップ型ピアス
イギリス 19世紀後期
SOLD
モスアゲートの英国シルバーのアンティークのナイフセット 『幻想の美』
モス・アゲート ナイフセット(6本)
イギリス(シェフィールド) 1889年
SOLD

19世紀後期でも、上質なホワイトカルセドニーやモス・アゲートを使った幻想的なジュエリーや小物も少ないながら存在します。

日本と異なり、『幽玄の美』や『侘び寂び』のように定義され共通認識とはなっていませんでしたが、欧米人の中にも論理的に説明さえすれば深く理解できる素地を持つ人は必ず存在したはずなのです。

2-2-11. 岡倉天心の『茶の本』

ウィリアム・スタージス・ビゲロー(1850-1926年)1896年頃?、46歳頃? 岡倉天心(1863-1913年)1905年以前、45歳以前

欧米に向けて日本人が日本美術を紹介するには、それなりの支援がなければうまくいくわけはありません。

7年も日本に住み、パトロンとして日本美術を支援し、日本美術のコレクションの幅も広かったビゲローは、断定はできないながらもある程度日本美術の真髄を理解していたのかなと思います。

ハーバード大学の医学部卒ということもあり、間違いなく知的階層でもあります。ボストン美術館理事として1904年に岡倉をボストン美術館の中国・日本美術部に招聘したのも、理解が難しいその真髄をより広く理解してもらうためだったかもしれません。

岡倉の英語の著述、
 『The Awakening of the East』1902年稿、当時未公開
 『The Ideals of the East-with special reference to the art of Japan』1903年
 『The Awakening of Japan』1904年
 『The Book of Tea』1906年
の中で最も有名なのが、1906年の『The Book of Tea』(茶の本)です。

『THE BOOK OF TEA』(岡倉天心:覚三 1906年)

『茶の本』とは言っても、岡倉は茶人ではありません。

日本人は長い歴史の中で、茶の世界に日本人独特の美意識を体現し、磨き上げてきました。

故に茶道を仏教(禅)、道教、華道との関わりから広く捉え、日本美術の元となる日本人の美意識や文化を解説するという構成になっています。

『THE BOOK OF TEA』の出だしは次の通りです。

It is essentially a worship of the Imperfect, as it is a tender attempt to accomplish something possible in this impossible thing we know as life.

英文のままご理解いただいた方が良いと言うか、それでも難解ですが、意訳するならば次のような感じでしょうか。

「茶の本質は"不完全さ"の崇拝である。私たちが人生は達成し得ないものと知りながらも、何かを成し遂げようとする繊細な試みと同様のものである。」

現実にはあり得ない"完璧"、"完全性"を追い求める欧米に対して"不完全性"、すなわち"Imperfect"の中に理想の美しさを追い求める日本人の達観の境地を説いたのです。謂わゆる『不完全の美』です。

『THE BOOK OF TEA』(岡倉天心:覚三 1906年)1919年発行

ジャポニズム・ブームに加え、日露戦争(1904-1905年)の勝利によって『日本人』を知りたいという関心も重なって、『THE BOOK OF TEA』はフランスやドイツ、スウェーデンやスペインなどヨーロッパ各地にも翻訳されて読まれるようになりました。

それだけではありません。

岡倉没後の1929(昭和4)年には日本語にも翻訳されています。

本人は同内容を日本語で著述していないのですが、日本人ならば説明せずとも分かる内容というわけではなく、当時の日本人にとっても必要な内容であると、強い使命感を以って翻訳した日本人が存在するということです。

訳者は岡倉天心の弟、岡倉由三郎の弟子だった村岡博です。この、訳者のことばもまた興味深いです。

『茶の本』訳者のことば

 この『茶の本』はかつて『亡羊』に載せた訳に多少筆を加えまとめてこの文庫に収めたものである。『特殊の風格を備えたる先生の英文は翻訳をもってしては到底その真味を伝うる能(あた)わざるとともにその本旨にももとるものあるべきをおそれ......』その抄訳さえも天心全集に収められなかったものを、私ごとき者が全訳を企てたのは全く叛逆(はんぎゃく)である。しかし、日本人でありながらことに英文に親しまない人々の中にはこの名著を知らない人も多かろう、そういう人々にほんの『縦横の糸目』だけでも伝えたいと思ってこの叛逆をあえてしたのである。翻訳はよくいったところでただの『錦(にしき)の裏』を見せるに過ぎないもの、色彩意匠の精妙は到底伝えられないものである。それにこのような生硬不熟(せいこうふじゅく)な、邦文の体をなさない訳文をもってしてはせっかくの名著の名をけがさんことをおそれている。
 これを岩波文庫に収めるに当たり、原著者の令弟岡倉由三郎先生より『はしがき』をいただき、天心先生の御面影をしのぶとともに『茶の本』の申しぶんなき解説を得たことを喜び深く感謝する次第である。

昭和四年一月五日 村岡博

(引用:『茶の本』岡倉天心 著、村岡博 訳(1929年)岩波書店)

岡倉由三郎(1868-1936年)1905年、37歳頃

岡倉天心の弟、岡倉由三郎がはしがきを書いているのも当時だからこそですね。

訳者、村岡の天心への深い尊敬と、強固な使命感が伝わってくる『訳者のことば』ではありませんか。

当時の日本人でも、日本美術の真髄や日本人の美意識を深く理解していた人は少なく、問題意識を持つ人がいた証とも言えます。

この訳書は2019年始めの時点で118刷56万部に達しています。

日本語になっていても、日本人にとってすら難解なのは間違いないようで、2017年にも大日本茶道学会会長の田中仙堂によって『岡倉天心「茶の本」を読む』という解説書が出版されています。

わざわざ解説書が必要な本というのがもう失笑するしかありませんが、美意識・美的感覚・感性というのは万人に共通して理解できるものではないので、解説書があっても理解できない人は最後まで理解できません。

私もご紹介する宝物の魅力を万人が理解できるとは思っていません。でも、知識的にご説明すれば、元々素地があるごく一部の方は理解できるはずです。感覚的に理解できている方でも、知識はより深い理解への助けにもなるでしょう。そのために頑張っています(笑)

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

以上のことにより、ヨーロッパでも元々繊細で豊かな美的感性を持つ人物ならばこの宝物の魅力が当然分かるはずですし、上流階級や知的階級を中心にいち早く流入してきた日本美術の真髄を理解できた人ならば、意図的にオーダーすることもできたでしょう。

強い意志を持ち、19世紀後期というタイミングでこの宝物が生み出されたのだと思います。

3. バロックパールを活かした個性的で美しいチェーン

3-1. 想像力をかきたてるバロックパール

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

養殖真珠のように貝殻を削って作った核を使わず、母貝が無核の状態から、何らかのきっかけで長い年月をかけて育む天然真珠。

その多くは球体に近い形になりますが、稀に面白い姿を魅せてくれます。

1つ1つが個性に富み、想像力を掻き立ててくれます。

その愛すべきバロックパールを使い、アンティークの時代には様々な宝物が作られました。

その方向性としては2種類あります。

オーダーした人物、或いは作者が想像したものをジュエリーに落とし込んだものです。

もう1つは想像の余地を残したままジュエリーにしたものです。

3-1-1. イメージを作品化したジュエリー

『揺籠の赤ちゃん』
天然真珠(バロック)  オブジェ
オランダ(アムステルダム) 1695年頃
ウフィツィ美術館
LE GALLERIE DEGLI UFFIZI / Culla con bambino ©Firenze, Gallerie degli Uffizi, Museo degli Argenti
『キャニングの宝飾品』
天然真珠(バロック)  ペンダント
ヨーロッパ 1850-1860年
V&A美術館 
V&A museum / The Canning Jewel ©Victoria and Albert Museum, London

バロックパール・アートとして特に有名なのはメディチ家が所有した『揺籠の赤ちゃん』や、1862年にインド総督キャニング子爵によってイギリスにもたらされた『キャニングの宝飾品』です。

『キャニングの宝飾品』は1570年頃のルネサンス期に制作され、メディチ家のプリンスからムガール帝国皇帝に献上されたというのが以前の定説でしたが、研究によって現代では19世紀の作品の可能性が高いと考えられています。

いずれにしてもこの作品が1862年にイギリスにもたらされた効果は大きく、ルネサンス・リヴァイバルやバロックパールを使ったアーティスティックなジュエリーの流行に繋がっていったようです。

『古代ローマ軍の兜』
天然真珠(バロック) ペンダント
イギリス 1870年頃
真珠:20mm×15mm×13mm
SOLD
アンティークジュエリー 天然真珠 ルネサンス バロック ペンダント デマントイドガーネット ルビー『真珠のアート』
天然真珠(バロック) ペンダント
ヨーロッパ 1890-1900年頃
真珠:25mm×10mm
SOLD

そうは言っても、大きさがあって色や照り艶が美しい天然真珠は、欲しいと思っても簡単に手に入るものではありません。お金があるから手に入るわけでもなく、その時の運次第です。そして、出たタイミングで逃さず買える財力も必須です。

故にこのようなアーティスティックな宝物は46年間でも数点しかお取り扱いしていませんが、見ているだけで楽しいものばかりです。

モンキーのバロックパール&ピンク天然真珠のアンティーク・ペンダント『真珠を持った猿』
天然真珠(バロック) ペンダント
フランス 1910年頃
SOLD

モンキーのバロックパール&ピンク天然真珠のアンティーク・ペンダント

この天然真珠もピンク系の干渉光が見事ですね。猿はピンクの天然真珠を持っており、特別にお金をかけて作られたことは間違いありません。

猿の表情も絶妙ですし、遊び心も感じられて、どんな人がオーダーしたのだろうとワクワクしてします♪

3-1-2. 想像の余地を残したジュエリー

想像の余地を残したバロックパールのジュエリーはどのようなものがあるでしょうか。

実は、厳密にそのような趣旨で制作されたというアンティークジュエリーは、これまでに見た記憶がありません。

大珠天然真珠&ダイヤモンドのアールデコのフランス製ネックレス
アールデコ バロックパール ネックレス
フランス 1920年頃
SOLD

天然真珠は大きくなればなるほどバロックな形状となっていきます。

また、母貝に挿入する核の大きさでサイズが決まる現代の養殖真珠と異なり、全てが真珠層である天然真珠は大きくなればなるほど指数関数的に稀少価値も高くなります。

アールデコの大珠天然真珠&ダイヤモンドのフランス製リングアールデコ バロックパール リング
フランス 1920年頃
SOLD
大珠天然真珠のアールデコ・リング 『神秘の光』
大珠天然真珠リング
イギリス 1920年頃
SOLD

それほど歪さのないバロックパールは、稀少価値の大珠天然真珠による通常のジュエリーとしてデザインされました。上流階級の正装用ジュエリーとして最高級品ではありますが、想像力を膨らませて楽しむための芸術系の作品ではありません。

【参考】現代の養殖真珠による安物ジュエリー(アクセサリー)

「想像力の余地を残す。」というのは、デザイン的にはシンプルさが必要です。ただ、アンティークのハイジュエリーでここまで宝石に頼り切った、簡素なデザインはまずあり得ません。明らかにお金(技術・手間・デザイン費)をかけていない安物である上に、教養や個性が微塵も感じられないからです。

Genもこれまでに1粒石だけのこのような単純なアンティークリングは1つも見たことがないそうで、あればアンティークかヴィンテージの安物、或いはフェイクです。特定の現代人は好むデザインなのと、作るのに技術も手間もかからないので、こういうデザインのフェイクは多いようです(笑)

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

その点で、この宝物は極めて珍しいと言える、想像の余地を残した楽しいバロックパールのハイジュエリーなのです!♪

3-2. 天然真珠が流行した時代ならではの特別な逸品

3-2-1. 綺麗なバロックパールを揃える大変さ

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

この宝物は84粒のバロックパールを集めて作られています。同じ長さのチェーンを作るにしても、天然真珠の間隔を長くすればそれだけ数は少なくて済みます。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン
←↑↓実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

天然真珠の数が少ないと相対的にゴールドが目立つようになりますが、これはかなり天然真珠が密で多い印象です。

どれも個性に富む、ともて面白い形です。1粒ずつは小さいので、それぞれに対してアーティスティックなデザインを考え、ジュエリー作品に仕上げるには向きません。

こういうバロックパールは1粒1粒を愛着を持って眺めるのが、一番楽しいと思います♪

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン
2カラーゴールド ロケットペンダント アンティークジュエリー『豊穣のストライプ』
2カラーゴールド ロケットペンダント
フランス 1880年頃
¥595,000-(税込10%)

天然真珠はとっかかりとなる微小な核に何層もの真珠層が巻かれ、長い年月をかけて大きくなっていきます。

このため、通常は球体に近い形で成長します。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

これらはそれぞれの母貝の中で同時期にいくつか天然真珠が生まれ、偶然融着してできたと推測できます。ただでさえ採取が難しい天然真珠です。その中で、これだけ綺麗で融着も起きた天然真珠が得られる確率なんて、一体どれくらいの奇跡的な確率でしょう!!

類似の宝物を他に見たことがないのも当然なのです。これだけ楽しいネックレスなのですから、似たものが欲しいと思った人はいたはずです。でも、これだけのバロックパールを集めるのは、通常の高品質の天然真珠を揃えるより遥かに難しかったはずです。

相当な美意識と、並々ならぬこだわりを持った特別な女性がオーダーしたことは間違いありません!それはこの天然真珠を見ただけで明らかなのです!!

3-2-2. 見事な照り艶

あこや養殖真珠 "Akoya peari" ©MASAYUKI KATO(17 February 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

現代の養殖真珠は漂白して着色(一連を『調色』と呼ぶ)するため、色も好き揃えることができます。

化学薬品で漂白すると色が抜けすぎて違和感があるため、人工的に色を着けるそうです。女子ウケ狙いでピンク系にされることが多いようです。色水のような濃いピンクの染料にドブ漬けされた真珠の姿を見ると、普通は買う気が失せると思います(笑)

【参考】現代の「最高峰の花珠真珠」 最高級の天然真珠のピンク色の干渉光アンティークの最高級の大珠天然真珠 また、表面にできたブツを除去したり、質感を手っ取り早く均一にするために、現代の養殖真珠は表面を磨くことも多々あります。

内側から滲み出るような優しい輝きを放つ右側の天然真珠と異なり、左の養殖真珠は妙にピカピカと安っぽい光り方をしています。

これは質感を揃えるために磨いた結果ですが、表面粗さは研磨剤の番手でいくらでもコントロールできるので、やった人のセンスとも言えます。もう少しマットに仕上げた方が高級感が出ると思うのですが、養殖真珠に大金を出すような成金嗜好の顧客には、ピカピカと薄っぺらい輝きの方がウケが良いのかもしれませんね。

天然真珠は清楚な美しさが魅力な気がしますが、これでは美的感覚がある方は真珠に興味を持たなくなってしまいます。現代宝飾業界は自分で自分の首を締めまくるのが通常運転です。マゾなのではなく、目先の利益だけを追っているからです。ジュエリーが売れないなんて業界の話を耳にしますが、先細りは当然の結果です。

【参考】ジャンクのクラスター・リング

天然真珠で大きさ、色、照り艶などの質感を揃えるのはかなり大変です。

【参考】ジャンクのクラスター・リング

しかも、低品質のものを揃えても仕方がありません。安物は選別にそこまで手間をかけられません。手間=コスト(人件費・技術費)です。だから大きさくらいは揃えていても、色や質感までは揃えていなかったりします。

【参考】ジャンクのリング

安物は作りもデザインも悪く、素材も悪いです。

悪い方に三拍子揃っています。

安物に高価な宝石を使うなんてことはあり得ません。

【参考】ハーフパール&ペーストのリング(チェスター 1888年)

こういうジュエリーは天然真珠を使って言うというだけで喜ぶような人向けの安物ですが、宝石の種類だけを見て、品質には目がいかない人は今も昔も変わらず存在します。ただ、現代は人工処理や合成技術が当たり前となり、一見すると小綺麗な石は多いです。

それでも感覚がある人ならば、作りやデザインに違和感を覚えるようです。宝石より目立つ爪であったり、ボテッとした作りであったりです。

非加熱ルビー&サファイア&天然真珠の金細工が美しいフリンジ・ブローチ『ルンペルシュティルツヒェン』
ゴールド・アート ブローチ
イギリス 1870年頃
¥1,100,000-(税込10%)

天然真珠はダイヤモンドなどの他の宝石のように、カットによって大きさを揃えることもできません。

粒や質感の揃った質の良い天然真珠を複数使ったジュエリーは、ただそれだけでも相当高価なジュエリーと判断できます。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

この宝物の天然真珠は歪な形ではありますが、白く照り艶に優れたものが集められています。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

ダイヤモンドではありませんが、暗い場所でもこれくらい強烈に光沢が出ます。上質な天然真珠だからこそです。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

七色の干渉光も見ることができます。まるで夢のように美しい輝きです!♪幾重にも真珠層が重なる天然真珠ならではの美しさです♪♪

ダイヤモンドなども七色のファイアは見ることができますが、白い真珠から放たれる虹色の輝きはまた別の強い魅力があります♪♪

雪だるまのような天然真珠の虹色の干渉光 雪だるまのような天然真珠の虹色の干渉光

それぞれ異なる天然真珠ですが、よくぞここまでと思えるほど色や質感が揃えられていますし、上質です。

100年以上が経過しても、美しい照り艶は失われません。

そもそもアンティークの時代、簡単に持ち運びでき、換金もできるということでハイジュエリーには財産性もありました。数十年程度でダメになるようでは財産性は持ち得ません。古代の真珠でも照り艶は保たれており、天然真珠の美しさは永遠と言えるくらい寿命は長いです。

質を落とした結果、欧米で売れなくなった養殖真珠は、高度経済成長によって豊かになった日本の庶民がターゲット層として販売されました。少し前までは、「お嬢様が生まれたら、お嬢様にもお使いいただけます!!お孫さんの代にも!!!」なんて宣伝文句が当たり前のように使われていたはずです。

しかしながら真珠層が官製ハガキ前後の厚みしかない上に、脱色や染色に使う化学薬品等でさんざんダメージを受けた養殖真珠の真珠層は一代も持たずに変色します。貝殻の核と真珠層は密着性が悪く、隙間があります。ネックレスなどにするために穴を開けると、核と真珠層の隙間から大気中の汚染物質や、着用者の皮脂や化粧品などの汚れが入り込み、内側から徐々に変色します。

質の悪い養殖真珠の販売を始めてから数十年が経ち、変色に文句を言う消費者が無視できないほど出てきたのでしょう。最近では「真珠は20年くらいで寿命が来ます。」などと断って売り出す業者が続出する始末です。本真珠なんていかにも尤もらしい名前で売られていますが、質の悪い偽物の限界です。

天然真珠は適切な使い方を心がければ100年以上経っても変色しないのに、養殖真珠が本物の真珠と思い込んでいる消費者が多い現状では、真珠全体のイメージが益々悪くなります。迷惑な話です。時の経過が全てを露わにし、本当に価値あるものだけが残っていきます。ようやく養殖真珠にもそのタイミングがやってきたのでしょう。

3-2-3. 個性たっぷりのフォルム

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

雪だるまブラザーズ♪♪

個性たっぷりのフォルムが、見ていて飽きません♪

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

雪だるまの形だけでは数が揃わなかったのか、上段右から2つ目のように2粒を連結させて組んでいたり、雪だるまにはなっていないものもあります。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

雪だまをたくさんくっ付けたような天然真珠もあります。何とも愛らしいではありませんか♪

本来、ジュエリーは美術品であるべきです。個性や美しさ、面白さを大切にして表現するのがアートです。

しかしながら戦後、大衆が主要購買層になってから、多くの顧客がスペックを重視しました。いかに規格に忠実であるかです。それにより養殖真珠の無個性化と質の低下が進みました。

昔の日本人のように、繊細な美意識を持つ人はこういう個性的で質の良い天然真珠を見て愛らしい、美しいと愛でていました。

しかしながら表面的にしか見ない、スペック(業界が都合の良いように設定した規格)でしか判断できない頭でっかちな人は、これを見ても歪だ、色が完璧には揃っていないと文句を言うかもしれません。こういう人たちのせいでジュエリーの品質が地に落ちたわけですが、自覚はありませんし、今後それを認識すると思えません。

←↓実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

この天然真珠を美しいと感じられるか否かは、もはや備わっている美的感覚と感性次第だと思います。

分からない人は、無理に綺麗だと思い込もうとする必要もありません。価値観の押し付け合いは不毛です。

でも、分かる人には最高に楽しい宝物だと思います♪

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

3-2-4. 超難度の穴開け

アンティークジュエリーは100年以上に渡って使うことができる耐久性がありますが、メンテナンスフリーというわけではなく、適切にメンテナンスを行ってこそのものです。

たまに天然真珠ネックレスの糸替えを現代の職人さんにお願いするのですが、当時とは使う糸の太さが違うため、返しが必要なオールノットができない時があります。その際、天然真珠の穴径を大きくしてもらったことがあります。

針も特注で新調してもらいました。機械を使ってトライした所、もっともゆっくりした速さで行ったのに割れてしまったそうです。職人さんは天然真珠の貴重さをご存じなので、大ショックを受けていました。その後はひたすら手動でやってもらい、どうにか穴径の拡張に成功しました。

その経験から職人さんは、昔の人は上手に穴を開けているけれど、信じられないほど高度な技術だったはずと感想を述べていました。現代のトップクラスの職人さんです。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

84粒、1つ1つ個性が異なる天然真珠に穴を開けるのはどれだけ大変だったことか・・。

失敗しても同じものをすぐに用意できる、安価な養殖真珠とは状況が異なります。

1粒失敗しても大損害という世界です。

しかも球体ならば穴を開ける方向を考える必要がありませんが、この複雑な形では、1粒1粒に相当な集中力が必要だったでしょう。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

左側下、右側上の雪だるまは頭がとても小さいです。ボディはまだそこまで難易度が高くなくても、頭部は大きさに対して穴径が大きく、よく割れずに穴を開けたものだと仰天します。

穴を開ける方向もきちんと真上と真下になっており、精密にコントロールできています。

中央上の雪だるまも下部が尖っていますが、綺麗に先端に穴が開けられています。

金属に対する魚子打ち(ななこうち)や彫金のように見て分かりやすい細工と違い、宝石に対するこのような超絶技巧は凄さが分かりにくいですが、一見すると宝石主体のジュエリーに見えるこのチェーンも、神技の職人でなければ作れない宝物なのです。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン 雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

一番下のバロックパールは逆側から見ると、雪だるまの上下で貫通しているように見えますが、この方向から見ると斜めになった部分から貫通させていることが分かります。

作者はこんなに大変なことをやり遂げたのです。凄いです!!!

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

こんな作業を84回もだなんて想像を絶します。オーダーを受けた職人さんも完成した宝物に大満足しつつ、あまりにも神経を擦り減らす作業に、二度とやりたくないと思ったのではないかと思います(笑)

でも、大満足したオーダー主も、職人さんの成果に見合うお金を喜んで支払ったと想像します。

天然真珠が史上最も評価された時代・・。
上流階級の女性たちがこぞって天然真珠のジュエリーで身を飾る時代だったからこそ、その中でも別格の個性とセンスを光らせるために、このような特別な天然真珠の宝物をオーダーしたのでしょう。数ある天然真珠のハイジュエリーの中でも特別な輝きを放つ、日本人の美意識にも大きく響く作品です。

4. コーディネートが楽しいロング・チェーン

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

ロングチェーンは様々なコーディネートが楽しめる万能アイテムです♪

一連でシンプルに楽しむことができますし、天然真珠やゴールドを使ったブローチなどと組み合わせると華やかなコーディネートにもなります。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

2蓮にすると、より華やかさが出ます。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ブレスレット

ブレスレットとしてもお使いいただけます。

着用イメージでは6連にしています。

雪だるまのような天然真珠のアンティーク・ゴールド・ロングチェーン

引輪と丸カンはヴィンテージです。

チェーンには摩耗が見られないため、消耗して交換ではなく、もともと無かった所にコーディネートしやすいよう追加した可能性があります。

ステータス・ジュエリーとして着用していたアンティークの時代は、長さを強調するために1連で使っていたからです。

この部分にペンダントを通してコーディネートすることも可能です。

バロックパールのアンティーク・ゴールド・ロングチェーン&ペンダントのコーディネート

一連だと長めなので、ぶつけると危険なものは着用シーンに気をつけるか、避けた方が無難です。

バロックパールのアンティーク・ゴールド・ロングチェーン&ペンダントのコーディネート バロックパールのアンティーク・ゴールド・ロングチェーン&ペンダントのコーディネート

ペンダントと組み合わせる場合は2連で使うとおさまりが良さそうです。巻き方によっても雰囲気が変えられます。コーディネートは無限大ですね♪

参考商品のアールヌーヴォー・ペンダントはタイミングを改めてご紹介いたします。乞うご期待くださいませ。