No.00301 The Great Wave |
さすがアンティークジュエリー業界のレジェンドGen、このブローチに秘められた秘密にも気づきました。 この、躍動感を感じる独特の曲線は、何となくヨーロッパのものではないような感じがしたので、もしやと思って葛飾北斎の有名な作品『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』に重ねてみたそうですが・・ |
ブローチのピンを見えなくして、左右反転して重ねて見ると波の形がピッタリ一致しました! |
『The Great Wave』 葛飾北斎の代表作にして世界で最も有名な絵の1つである『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けた傑出したデザイン、日本の海を表現した北斎ブルーの特別なサファイア、この作品にしか見られない作りなど、コンテスト・ジュエリーに必要な条件が全て揃った素晴らしい作品です。 一見すると日本美術の影響を受けているようには見えず、西洋美術と見事に融合・昇華した、時代も人種も超越した傑作です!! |
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この宝物のポイント
1. ジャポニズム・モダンスタイルの傑作 2. 世界一有名な浮世絵『神奈川沖浪裏』 |
3. モダンスタイルのジュエリー 4. コンテスト・ジュエリーと言えるデザインと作り |
1. ジャポニズム・モダンスタイルの傑作
このエレガントでスタイリッシュな印象を受けるブローチは、パッと見ただけでは分かりにくいのですが、ジャポニズムのモダンスタイル・ジュエリーです。 |
1-1. 日本開国によって大流行した日本美術
1-1-1. ヨーロッパにおける鎖国時の日本美術・文化
長崎の出島(1897年) |
「日本人が本当にそんなことするの?」と思えるような、かなりけしからんことを当時のキリシタン大名がやっていたこともあり、江戸幕府は鎖国政策をとっていました。一般的には1639年の南蛮(ポルトガル)船入稿禁止から、1854年の日米和新条約締結までに期間を『鎖国』と呼びます。 |
長崎の出島(1727年)エンゲルベルト・ケンペル著『日本誌』より |
キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策です。貿易を完全に全面禁止にしていたわけではないため、日本の玄関口とされた長崎の出島を拠点にして海外の品々や文化が日本にもたらされ、浸透することもありましたし、その逆に日本の品々が海外に渡ることもありました。 |
長崎の出島(アーノルド・モンタヌス 1669年) |
鎖国下の出島に滞在したヨーロッパ人の中には、『出島の三学者』と呼ばれる、日本を博学的に研究した学者たちがいます。 |
出島の三学者 | ||
滞在期間:1690-1692年 | 1775-1776年 | 1823-1829年 |
ドイツ人の医師・博物学者 | スウェーデン人の医師・植物学者 | ドイツ人の医師・博物学者 |
エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716年) | カール・ツンベルク(1743-1828年) | フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866年) |
シーボルトは有名ですが、それ以外の2人は日本国内の歴史の大局に於いては大きな存在ではないため、日本ではあまり知られていないかもしれません。 しかしながら、出島の三学者の中で最も古い時期に日本にやってきたドイツ人の医師・博物学者、エンゲルベルト・ケンペルはヨーロッパでの"日本のイメージ"に多大な影響をもたらしています。 |
『日本誌』エンゲルベルト・ケンペル著(1727年の英語版の表紙) | ケンペルは1690年に来日し、オランダ商館付きの医師として約2年間、出島に滞在しました。 そこで見聞きしたことを帰国後に記述したのが『日本誌』で、ヨーロッパに於いて日本を初めて体系的に記述した書物として知られています。 左は『日本誌』の表紙ですが、独特のデザインが何だか面白いですね。 現代の日本人の感覚で見ると、日本のモチーフがありながらもイマイチ日本っぽい雰囲気がしないような、中国っぽさもあるような・・。 でも、これが当時のヨーロッパの人たちにとっては不思議な国『日本』のイメージだったのでしょうね。 |
江戸城で将軍に西洋のダンスを披露するケンペル(1727年の『日本誌』より) | 第5代将軍・徳川綱吉(在職:1680-1709年) |
ケンペルは江戸も訪れており、将軍・徳川綱吉に謁見もしています。 ケンペルは様々な経験を積み、たくさんの日本の品々を蒐集して帰国したのでした。 |
準男爵ハンス・スローン(1660-1753年) | ケンペルの死後、遺品の多くはイギリスのハンス・スローン準男爵に売却されました。 スローンの父はスコットランド王ジェームズ1世がアイルランド王国に派遣したスコットランド人植民団の団長で、スローンは幼い頃から博物的な物や奇妙な物を蒐集する癖があったそうです。 それが元で薬物への興味が芽生え、スローンは医師となっています。 |
イギリス君主 | ||
在位:1702-1714年 | 在位:1714-1727年 | 在位:1727-1760年 |
アン女王(1665-1714年) | ジョージ1世(1660-1727年) | ジョージ2世(1683-1760年) |
スローンは上流階級を相手にした医師として成功し、3代に渡るイギリス君主にも仕えています。1716年に準男爵を叙爵し、1719年には王立内科医の会長となりました。1722年には軍の医官に任命され、1727年にはイギリス国王ジョージ2世の筆頭侍医になっています。同1727年はアイザック・ニュートンの後を継いで王立協会の会長にも就任しています。華々しい経歴ですね〜。 |
準男爵ハンス・スローンの胸像(ミカエル・リズブラック作 1730年頃) "Bust of Sir Hans Sloane (1730s) by Michael Rysbrack, currently housed in the British Museum in London " ©Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg)(12 March 2016, 17:46:50)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | 爵位自体は準男爵ですが、子供達で爵位や財産を相続できる大陸貴族と比べて、長兄の一子相伝であるイギリス貴族は数が極端に少ないです。 17世紀末時点で爵位貴族は170家、18世紀末でも270家という少なさで、1880年時点で爵位貴族は580名、準男爵も856名しかいませんでした。 フランスだと大陸ルールな上に、1789年の革命前に爵位を乱発したこともあり、貴族は40万人にまで膨れ上がっていました。 ドイツは1880年の時点で2万人、ロシアは1858年の時点で60万人も貴族がいたそうです。 イギリス貴族はヨーロッパの貴族の中でも別格扱いされるというのは有名ですが、数字を見れば納得ですね。 イギリスの準男爵の方が、そこら辺のありふれた大陸貴族よりよほど稀少価値(笑)が高かったと言え、財力・権力・知力、さらには知名度も遥かに上だったと言えるでしょう。 |
『ホット・チョコレート』(ライムンド・マドラゾ 1841-1920年) | 知性が高く、好奇心が強く、面白いもの大好きなコレクター気質の上流階級が有り余る程お金を持てば、当然ながら好きなものを好きなだけ買い集めます。 スローン準男爵は上流階級の医師として大成功を納めており、医師としての能力はもちろん高かったでしょう。 ミルクや砂糖を使うホットチョコレートを考案し、それまでは苦すぎてとても飲めなかったチョコレートを、薬として美味しく飲めるようにしたのもスローン準男爵です。 でも、上流階級の間で大人気を得るためには、医師としての腕前だけでは不十分だったはずです。 腕の良さは必要条件ではありますが、十分条件ではありません。 腕が良い医師ならば、イギリス中を探せば他にもいたはずなのです。 |
江戸に向けて長崎街道を行くケンペルら一行(1727年の『日本誌』より) |
スローン医師だけが上流階級に提供できた、『唯一無二のもの』とは何でしょう。 それは彼でしか提供できない、特別な情報や知識です。 出島の三学者でドイツ人医師、ケンペルの死後、遺品の多くを買い取ったスローン医師は、遺稿を英訳させ、1727年にロンドンで『日本誌』として出版しました。『日本誌』は原著者ケンペルではなく、イギリスの準男爵スローンが出版していたのです。 |
『日本誌』を愛読した知識人たち | |||
フランス | ドイツ | ||
哲学者、男爵 | フランスの哲学者、文学者、歴史家であり、啓蒙主義を代表する人物 | 哲学者 | 詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家 |
シャルル・ド・モンテスキュー(1689-1755年) | ヴォルテール(1694-1778年) | イマヌエル・カント(1724-1804年) | ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832年) |
英語で出版された『日本誌』はフランス語、オランダ語にも訳されました。1777-1779年にはドイツ語版も出版され、ヨーロッパの知識人たちの間で『日本誌』は一世を風靡しました。モンテスキュー、ヴォルテール、カント、ゲーテなど、著名な知識人も『日本誌』を愛読したことで知られています。 |
『百科全書』表紙(フランス 1751-1772年) | 特にフランスではフランス語版『日本誌』の出版に加えて、20年以上もかけて完成された大規模な百科事典、『百科全書』の日本関連項目がほぼ全て『日本誌』を典拠したものだったこともあり、『日本誌』は知識層の間で一躍有名になりました。 フランスの『百科全書』は、イギリスのイーフレイム・チェンバースによる『百科事典(サイクロペディア)』(1728年出版)に刺激され、企画されたものです。 『百科事典』に目をつけたフランス在住のイギリス人ジョン・ミルズが、フランス語への翻訳をパリの王室公認の出版業者アンドレ・ル・ブルトンに企画を持ち込んだことから始まりました。 |
フランスの『百科全書』の編集の中心人物 | |
哲学者、美術批評家、作家 | 哲学者、数学者、物理学者 |
ドゥニ・ディドロ(1713-1784年) | ジャン・ル・ロン・ダランベール(1717-1783年) |
『百科全書』はフランスの啓蒙思想家、ディドロとダランベールらが中心となり、1751年から1772年までという20年以上もの長い年月をかけて編集し、完成されました。総執筆者は184人にもなり、その中には『日本誌』を熱心に愛読したモンテスキューやヴォルテール、さらにルソーなども含まれました。 |
ポンパドゥール夫人とその左手の先に描かれた大判の『百科全書』の第1巻(1755年) | ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人のこの肖像画には『百科全書』の第1巻も描かれており、夫人が出版を公に保護していることを意味します。 『百科全書』は全28巻、総ページ数16,142ページ、項目数は71,709以上にも及ぶボリュームとなりました。 初版の発行部数は4,250部で、当時としては大成功であり、フランス国外でも好評でした。 予約購買者の中心となったのは新興のブルジョワ階級で、フランス革命の推進派とも一致するそうです。 |
糸車と若い女性(フランス Juste Chevillet&Johann Casper Heilmann作 1762年) | 髪の毛を紡ぐための蒔絵の糸車(フランス 1750-1770年)ヴィクトリア&アルバート美術館 |
このように、フランスでは『日本誌』や『百科全書』で紹介され、知識階層の間で持て囃されたため、日本に関する深い教養や日本美術を持つことは"憧れ"となり、大きな"ステータス"となりました。 右は私が初めてロンドンを訪れた際、ヴィクトリア&アルバート美術館で撮影してきた糸車です。髪の毛を使ったヘアワークは上流階級の女性の重要な手習の1つですが、この糸車は漆工芸技法の一つである日本の『蒔絵』を使ったものです。当時はHERTAGEをオープンして4ヶ月ほどで、今ほどアンティークジュエリー関連の知識がなく、なぜ18世紀中期のフランスで日本の蒔絵がこのような使われ方をしているのか分かりませんでした。 当時のフランスでは『日本』が非常に高く評価をされ、特に身分の高い人たちに日本の美術工芸品が愛されていたことが分かれば、この糸車の存在も納得です。 ポンパドゥール夫人は日本の蒔絵も非常に高く評価しており、蒔絵を使った収納机などの調度品を所有していました。ロンドンでは複数の美術館に行きましたが、各所で上流階級が使っていた、日本美術を使った品々を観ることができました。ヨーロッパに渡った日本の美術工芸品はそのまま飾るだけでなく、糸車や収納机に組み込むなど、現地で使いやすい形にすることも多々あったようです。 |
ジャポニズム ナイフ&フォークセット 芝山象嵌のハンドル:日本 1882年 銀細工:イギリス 1882年 SOLD |
『秋の景色』 赤銅高肉彫り象嵌ブローチ 日本 19世紀後期 フレームはイギリス? 19世紀後期 SOLD |
後の年代でもこのように、日本美術をヨーロッパでアレンジしたものが作られています。 当時、優れた日本美術が手に入れるのが難しい、希少価値の高いものだったことが伝わってきますね。 |
ギロチン台へ引き立てられるマリー・アントワネット |
優美を極めたヴェルサイユの宮廷文化は、1789年のフランス革命によって完全に終わってしまいます。宮廷文化の担い手だった、教養と高い美意識を持つ上流階級が、国王夫妻を始め相当な人数が処刑されてしまい、そうでなくとも力を落とした結果、経験に基づく知識や文化としてまともに残らなかったからです。 革命後、皇帝ナポレオンや復古王政、皇帝ナポレオン3世の時代に貴族という存在はありましたが、その多くは革命前とは異なる新興貴族であり、宮廷文化の時代の教養を備えていたり、優れた品々を代々受け継いでいるような人々ではなかったのです。 革命前の時代をイメージして今のフランスに行くと、人によってはガッカリするでしょうけれど、それは当然なのです。 |
フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793年) | 私たちが通常触れるのは"勝者の歴史"です。 革命や処刑を正当化するために、王妃マリー・アントワネットには"軽佻浮薄でオツムの弱い、贅沢とファッションにしか興味のないワガママさん"というレッテルが貼られ、イメージが作りあげられてしまいました。 |
王妃の村里 "Pano - Hameau de la Reine vu depuis la tour de Marlborough" ©Trizek(17 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
農婦姿の王妃マリー・アントワネット(1755-1793年)1791年、36歳頃 | しかしながら、子供達には王族として正しくあるために貧しさや我慢することをきちんと教えていました。 また、最も愛し、王妃にとって心落ち着ける場所だったのは素朴な雰囲気で王妃自身で作りあげた『王妃の村里』だったと言われています。 これも真に価値あるものが分かる、稀代のセンスの持ち主だったからこそできたことでした。 日本では特に豪華なドレスを着てキャッキャうふふと、贅沢や恋愛にいそしんだというイメージが作りあげられ、ろくに調べもせず鵜呑みにしている人が多いのでファッションセンス以外はおバカさんと思われていたりするのですが、実際はヨーロッパの文化の中心で王妃を務めるに足る、非常に多岐に魅力あふれる人物でした。 |
【参考】フランス王妃マリー・アントワネットの日本の蒔絵コレクション(江戸中期 17世紀後半-18世紀半ば) | マリー・アントワネットに興味がある人は、作りあげられたキャッキャうふふなイメージの世界に憧れている場合も少なくなく、そういう人は日本美術は全く興味がないか、好きではないという人が多いです。 しかしながら、マリー・アントワネットは当時ヨーロッパで最も優れた漆細工(蒔絵)コレクションの1つを所有していました。 |
マリー・アントワネットの蒔絵コレクションはおよそ80点に及びます。 母であるオーストリアのマリア・テレジア女大公が1780年に亡くなった際、50点の蒔絵の小箱コレクションを任されました。その価値と美しさを理解していたマリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿内のプライベートなリビングルームのキャビネットを、コレクションを飾るためにわざわざ改装しています。 さらに次の8年間で、コレクションは約30点追加されました。 中国にも漆細工はありますが、稀代の美的感覚を備えていたマリー・アントワネットは、「漆は日本のものでなければダメ!」と言っていたそうです。 |
6歳頃のGenと家族(左:父、中:Gen、右:継母)1953年 | Genは以前、米沢箪笥の企画・製造・販売のプロデュースも家業でやっていました。 元々は、骨董屋の2代目だった父親が骨董の米沢箪笥を販売していました。 しかしながら本当に価値ある骨董の箪笥は数が限られており、すぐに市場から枯渇し、需要に対して数が足りなくなりました。 |
製造した米沢箪笥の上にアンティークジュエリーを並べて、米沢のとある蔵で展示会を開くGen(着席した人物、29歳頃) | 高度経済成長期にかけて旺盛な消費意欲に湧く日本人に販売するために、百貨店関係者などから新規の製造を依頼され、始めたのです。 |
1枚の鉄板からパーツの大きさに合わせて切り出す工程 | 高度な技術を持つ職人による、昔ながらの真面目な手仕事による製造でした。 |
透かし金具のデザインを罫書きする行程 | 若かりし頃のGenは木材や漆、透かし細工の金属など材料選びから全て関わっていました。 この時に、アンティークのハイジュエリーと共通する"職人による優れたモノづくり"を経験することができたのは、今の仕事にとってとても大きな財産となりました。 |
GENと小元太のフォト日記『戯れ♪』より |
昔ながらのやり方で高度な技術とかなりの手間をかけ、真面目に作られた米沢箪笥は日本人だけでなく、当時日本に来ていた外国人のエリート層にも大いに受け、百貨店の催事でもナンバーワンの売上を計上するほど売れました。しかしながらそれを見て、形だけ真似をする者が多々現れました。 儲かりそうだと思って気軽に参入する人たちは、儲けることだけが目的なので真面目なモノづくりはしません。真似るのは形などデザインだけです。ろくに寝かせもせず、寸法がすぐに狂うような木材を使うだけでなく、米沢箪笥の大きな特徴である朱塗りに、中国産の安い漆や合成漆を使った安物が続々と出現しました。 中産階級の大半の日本人は、真に優れたものを見抜き美的感性はありませんでした。悪化は良貨を駆逐する、米沢箪笥も低品質の安物に良質なものが追いやられていきました。それでも本当に違いが分かるごく少数の人たちを対象にして、細々と続けることはビジネス的に不可能ではなかったのですが、Genにとって耐えることのできないもっと大きな問題がありました。 高度経済成長期に入ると日本は環境汚染が始まり、良い材木や漆が手に入らなくなっていきました。職人さん曰く、金属の質もダメになっていったそうです(透かし金具を作ろうとしても細いヤスリがすぐに折れるなど)。田舎から都市に人が流れ、木々などを十分に世話して育める環境も失われていきました。職人は幼い頃から技術を磨き続ける必要があり、本当に高度な技術を持つ職人の場合は調子が狂うからと、お葬式以外は半日も休むことがないような仕事ぶりでした。しかしながら学歴のない職人の仕事の地位や評価は低く、「子供にはとても継いでほしいとは言えない。」という状況でした。 材料の観点からも、職人の技術の観点からも、戦前のレベルには到底及ばない上に、維持することすらも無理ということがはっきり分かった結果、Genは米沢箪笥の仕事を辞めたのでした。 |
Genプロデュースの米沢箪笥 | 優れた塗師はもちろん、Genも日本の漆の別格の価値を理解しています。 現代では国産漆の生産量は消費量の1〜2%と言われており、文化財の維持に限定したとしても十分な量が確保できないほど絶滅に近い状況です。 現代の国産漆自体、普段身近に見ることは難しいのですが、戦前の国産漆は別格で質が違うそうです。 |
漆塗りのお椀(大正時代)WAKAのフォト日記『京都の骨董市の戦利品』より |
そういうわけで、Genと共にちょっと立ち寄ってみた京都の骨董市では、戦前の物に限定して日用品を探してみました。そして手に入れたのが、大正時代の漆塗りのお椀5客セットです。100年ほど前の物とは思えないモダンなフォルムと色使い、使っていないのではと思えるくらいグッド・コンディションなお椀セットでした。 日本の骨董屋の3代目として生まれ、アンティークジュエリーの買付も誰よりも長くやってきた目利きのGen曰く、筋の良いものは筋の良い店からしか出てこないそうです。結局、和骨董も優れた物を買付けるには、こういうものを所蔵しているような人たちとコネクションがないと無理なんですよね。 このクラスを持っていた家の人たちは、当時の日本人の中でも当然庶民ではなく、ある程度の身分やお金を持っていた人たちだったはずです。これ以外にも色々所有して使い分けしていたでしょうし、適切な使い方や保管管理の仕方も理解していたからこそ、このコンディションで残っていたのでしょう。使い方が悪ければ、どんなに高級品でもすぐダメになりますしね。アンティークジュエリーも和骨董も一緒だと感じます。 |
漆塗りのお椀(大正時代)WAKAのフォト日記『京都の骨董市の戦利品』より |
蓋を開けると、手描きならではの美しく雰囲気のある蒔絵が現れます。 中国産の漆は日本の漆より質が劣ると常々言われています。気が育つ土壌や水、空気の質、気候の違いもあるでしょう。採取法の違いなどもあるでしょう。様々な要因が複合した結果、分かる人にだけは分かる質の違いが生まれてくるのだと思います。 Genが感じていた日本産と中国産の漆の違い。それは18世紀末のフランス王妃マリー・アントワネットも確かに感じていたのでしょう。全ての人が鋭く違いを認識できるわけではありません。でも、同じように違いが分かり、優れた価値あるものを提供してくれる人は、知識や教養、美的センスを兼ね備えた王侯貴族たちにとっては非常に価値ある存在なのです。 |
準男爵ハンス・スローン(1660-1753年) | だから『日本誌』を出版して面白く新しい知識を提供し、日本の貴重で素晴らしい品々を保有し見せてくれるスローン医師は上流階級に大人気だったのです。 スローン準男爵はアイルランドで植民団の団長の息子として生まれたに過ぎず、しかも父は6歳の時に亡くしているのですが、優れた人はどのような家に生まれ、育っても頭角を現すものなのでしょうね。 スローン準男爵は博物に興味があっただけあって、コレクションの内容も日本のものだけでなく多岐に渡りました。 動植物などもありましたが、一番有名なのは古美術の蒐集です。 当時の著名な蒐集家たちから様々なコレクションを買い集めたため、最後は約8万点にも及ぶ、価値ある凄いコレクションとなったそうです。 |
大英博物館(1753年設立、1759年開館) "British Museum from NE 2" ©Ham/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
その価値を理解していたスローン準男爵は遺言で、コレクションは一括管理し、一般人の利用に提供することを指示しました。管財人たちによってコレクションは破格の安さで国に一括で売却され、このコレクションと国王ジョージ2世が所有していた蔵書を核として博物館が設立されることになりました。 それが1759年に開館した大英博物館です。一代で財をなした個人のコレクションが元となっていたなんてビックリです。一代で財をなしても成金的に、無価値なものに自己顕示欲丸出しでお金をバラ撒くのではなく、ケチケチして遺族など限られた人にだけにお金や物を遺すでもなく、こういうお金の使い方ができるのは本当に立派ですね。300年も後の時代に生きる私たちですらその恩恵にあずかれるのですから、その功績は偉大すぎるほど偉大と言えます。 |
ファウンディング・ホスピタル(1741年設立)1753年に描かれた俯瞰図 "The Foundling Hospital, Holborn, London; a bird's-eye view o Wellcome V0013461 " ©Wellcome Collection gallery(2018-04-03)/Adapted/CC BY 4.0 |
その他にもロンドン初の孤児院である『ファウンディング・ホスピタル』の創設に尽力するなど、イギリスの上流階級らしく慈善活動にも力を入れています。孤児院の設立は、父が6歳で亡くなった影響もあるでしょうかね。大変な経験もたくさんあったでしょうけれど、ここまで偉大な人物になる前にも周りのいろんな人たちに良くしてもらったからこそ深く感謝し、成功した後もできるだけ人のためになることをやったのでしょう。 |
南蛮屏風の一部(狩野内膳 16-17世紀)リスボン国立古美術館 | このように、スローン準男爵の功績によって鎖国中もヨーロッパの上流階級の間では日本美術ブームがあり、特に知識階層の間では強い興味がありました。 しかしながら鎖国体制故に、日本からもたらされる輸入品の数もかなり限られており、王族やかなり高位の身分の人しか日本美術は持つことができませんでした。 傑出した美的センスを持つ人が高く評価する芸術的価値、知識階層が持て囃す知的好奇心をくすぐる面白さがありながらも手に入れることが極めて難しい稀少性の高さ。 こうして、密かに日本美術への憧れはヨーロッパの中で強固に根付いていったのです。 |
1-1-2. 開国によって手に入るようになった憧れの日本美術
『日本の屏風を眺める若い貴婦人たち』(ジェームズ・ティソ1869-1870年) | このように、ヨーロッパでは手に入らないながらも強い憧れがあった、"飢餓"のような状況でした。 開国によって日本美術が入ってくるようになれば、当然ながら大ブームが起きるわけです。 |
エミール・ゾラ(1840-1902年)の肖像(マネ作 1868年) | 古の著名な知識階層が愛読していた『日本誌』や『百科全書』などの影響もあり、開国後は上流階級に加えて、知識階層にとっても日本文化や日本美術が非常にホットなものとなりました。 |
1-2. 各地で影響を与えた日本美術
1854年に日米和親条約が締結され、ついに鎖国が終わりました。 |
サウス・ケンジントンのロンドン万博会場(1862年) | 開国した日本の物品が初めて万博で紹介されたのが、1862年のロンドン万博でした。 |
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | イギリス領事館が置かれた東禅寺(1860年代) |
日本の出展体制は整っておらず正式参加はしていませんが、1859年からイギリスの初代駐日総領事として来日していたラザフォード・オールコックが蒐集していた物品が展示されました。漆器や刀剣、版画などの美術品の他、蓑笠や提灯、草履なども紹介されました。 |
文久遣欧使節団(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862.5.24号) | オールコック総領事の支援もあり、この万博に合わせて文久遣欧使節団もロンドンに訪れていました。 招待客として手配してもらい、開会式にも参加したそうです。 |
柴田剛中(着席)他使節一行(1862年) |
文久遣欧使節は外交と視察を目的に、江戸幕府として初めてヨーロッパに派遣した使節です。通訳2名を合わせて総勢38名の使節は、当然ながら当時の身分の高い人やエリートたちです。 そういう人たちにとって、オールコックが出展した日本の品々は全く大したことがない物で、「古めかしい雑具ばかりで、粗末なものばかりを紹介している。」と嘆いていました。しかしながらオールコックのコレクションはヨーロッパで大絶賛で、日本人の国民性を見事に表現したものだと評価され、その後のジャポニズム・ブームの契機になりました。 |
文久遣欧使節団、左から2番目が福沢諭吉(オランダ 1862年) | 使節一行はロンドン万博の会場を何度も訪れて、熱心に見学しました。 一行の姿は奇異な目で見られた一方、礼儀正しい態度や振る舞いは感心されたそうです。 1862年のロンドン万博は来場者数610万人にものぼりました。 今でこそ様々な媒体のメディアが発達していますが、当時は世界レベルで最先端の物、面白い物を見ようと思ったら万博が一番の場所です。 古の上流階級や知識階層に持て囃された日本はやっぱり面白そうだということで、一気に流行の最先端の、世界が注目する国となったのでした。 |
『日本誌』エンゲルベルト・ケンペル著(1727年の英語版の表紙) | 出島の三学者ケンペル医師の『日本誌』が様々な言語に翻訳され、ヨーロッパ各地の上流階級や知識階層に持て囃されていた下地もありました。 だからこそ、以後、ヨーロッパ各地で日本からの輸入品が上流階級や知識階層に持て囃され、様々な分野で各地のヨーロッパ美術に、日本美術が強い影響を与えることになったのです。 |
1-3. 様々なジャポニズム・ジュエリー
『うちわを持つ少女』(ピエール=オーギュスト・ルノワール画 1881年)クラーク・アート・インスティテュート | 19世紀後期からのジャポニズムは絵画の分野がメジャーで、様々なジャポニズムの作品が描かれています。 でも、それらジャポニズムの絵画の購買層や、興味を持つ上流階級や知識階層層はヘリテイジでお取り扱いするアンティークのハイジュエリーを購買したり、そのようなジュエリーを身につけた人たちが出入りする社交の場に参加できる人たちでした。 このため、ハイジュエリーも同様に、様々なジャポニズムの作品が作られています。 ただ、『ジャポニズム』というカテゴライズの仕方だとあまりにもざっくりし過ぎています。 西洋美術と日本美術を融合した『ジャポニズム』は、主に4つに分類できます。 |
ジャポニズムの4つのスタイル | |||
1. 日本美術をそのまま生かす | 2. 和のモチーフを使う | 3. 日本人による西洋スタイルでの制作 | 4. 西洋と日本美術が完全に融合し昇華 |
1857年の広重の浮世絵の模写(ゴッホ 1887年) | 『ラ・ジャポネーズ』(モネ 1875年) | 『徳川家茂像』(川村清雄 1884年頃 | リトグラフのポスター(ロートレック 1892年) |
『秋の景色』 赤銅高肉彫り象嵌ブローチ 日本 19世紀後期(フレームはイギリス?) SOLD |
『道を照らす提灯』 クラバットピン フランス 1910年頃 ¥420,000- (税込10%) |
『清流』 ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
『静寂の葉』 ヨーロッパ 1890-1900年頃 SOLD |
詳細は以前ご説明しておりますが、ジュエリーに関してはこのようにカテゴリー分けできます。各ジュエリーの上に掲載した絵画は、厳密ではありませんが同カテゴリーに相当する作品です。 市場で最も多く見かけるのが、和のモチーフをヨーロッパの職人が解釈して作り出した、スタイル2のジュエリーです。スタイル1の赤銅も日本から一定数が輸出されており、ヨーロッパでは今でも人気が高く、コレクターが多いです。 スタイル3と4は制作された数自体が少なく、ハイクラスのアンティークジュエリーの中でも滅多に見る機会がありません。西洋美術と日本美術が完全に融合し、新しい芸術として昇華したと言えるスタイル4に関しては、それがジャポニズムであることを、誰からも説明されずに認識できる人自体が非常に少ないです。 |
今回の宝物は、そのレアなスタイル4、西洋美術と日本美術が完全に融合し、昇華した"新しいスタイル"の作品です。 |
2. 世界一有名な浮世絵『神奈川沖浪裏』
この作品は葛飾北斎の浮世絵、『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けて作られています。 |
2-1. 葛飾北斎の波を描いた傑作
葛飾北斎(1760-1849年)79歳頃の自画像 | 葛飾北斎は世界でもトップクラスの知名度を誇る画家(浮世絵師)であり、日本でも知らない人はいないと言えるほどの有名人です。 |
2-1-1. 1831-1834年版行『富嶽三十六景』の三大役物
神奈川沖浪裏 | 凱風快晴(赤富士) | 山下白雨(黒富士) |
今回の宝物のインスピレーションの元となった『神奈川沖浪裏』は、1831年から1834年にかけて版行された葛飾北斎の名所絵揃物『富嶽三十六景』全46図中の1図です。その中でも『三大役物』と呼ばれるのが上の3作品です。その中でも最も有名で、人々にとって印象に残っているのは『神奈川沖浪裏』でしょう。 |
2-1-2. 葛飾北斎の波を描いた作品
『賀奈川沖本杢之図』1803年 | 『おしおくりはとうつせんのづ』1805年 | 千絵の海『総州銚子』 1833年 |
波を描いたもの自体も様々ありますが、並べてみると『神奈川沖浪裏』はやはり別格であることが分かります。 |
『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) | 『神奈川沖浪裏』は版木の摩耗状態からも、当初から高い人気があったようで、数千枚は摺られており、その内の数百枚が現存しています。 日本人の美意識。その琴線に触れる、奇跡のような傑作がこの北斎の『神奈川沖浪裏』なのです。 |
2-2. 欧米における『神奈川沖浪裏』の地位
2016-2017年のベルギーでの浮世絵展オープニング・エキシビジョンで挨拶するマティルド王妃(2016年)【引用】在ベルギー日本国大使館HP/浮世絵展オープニング/Adapted | 欧米で今でも、日本の優れた古美術は特に上流階級や知識階層の間で高い人気があります。 2016年から2017年にかけて、ベルギーでも王立歴史芸術博物館が所蔵する浮世絵による企画展が開催されました。 この展示会には、日本大使館も協力しています。 |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) | ベルギー王立歴史芸術博物館は、サミュエル・ビングが納品した世界屈指の浮世絵コレクションを所有しています。 |
ビング発行の『芸術の日本』(Le Japon ARTISTIQUE)1888-1891年 |
ベルギーの浮世絵展での『神奈川沖浪裏』の展示(2016年) |
浮世絵の所蔵数ではもっと多い美術館もありますが、ベルギー王立歴史芸術博物館は質と保存状態の良さが高く評価されています。 |
ベルギーの浮世絵展のイメージビジュアルとパンフレット(2016年)【引用】Art & Histry Museum HP |
その浮世絵展で、目玉としてイメージビジュアルに選ばれたのが『神奈川沖浪裏』です。『神奈川沖浪裏』が最も目立つウェブサイトの表紙や、パンフレットにデザインされました。 |
ベルギーのマティルド王妃(中央)らと『神奈川沖浪裏』のタペストリー(2016年) 【引用】在ベルギー日本国大使館HP/マチルド王妃によるサンカントネール博物館「浮世絵展」視察/Adapted |
巨大なタペストリーも制作されています。ヨーロッパでも別格の知名度と、別格の評価を誇るのが北斎の『神奈川沖浪裏』です。 これほどプロモーションされるほどなので、芸術に興味がない欧米人でも一度は見たことがある作品と言えます。断トツでナンバーワンの作品なのです。 |
2-3. 『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けた芸術作品
冨嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎作 1831年頃) |
奇跡の作品とも言える『神奈川沖浪裏』は、時代も人種も問わず様々な人々の心をとらえてきました。特に芸術への感度が高い人ほど強く影響を受けるようです。 |
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890年)34歳頃 | 1886年にパリに移住し、ビングの店で初めて浮世絵を見たオランダ人画家ゴッホも浮世絵に魅了され、多数コレクションした人物の一人です。 数千点は刷られたとされる『神奈川沖浪裏』の一部は、1870年代にヨーロッパに渡っています。 ゴッホは画家仲間宛の手紙の中で、『神奈川沖浪裏』を大絶賛しています。 その他たくさんの芸術家たちに衝撃と感動を与えました。 一部にはインスピレーションをもたらし、新たなクリエーションにもつながっています。 |
作品1. カミーユ・クローデルの彫刻作品(1897年)
彫刻家カミーユ・クローデル(1864-1943年)1884年、20歳頃 | 『波』(カミーユ・クローデル作 1897年)ロダン美術館 |
フランスの彫刻家カミーユ・クローデルの『波』も、『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けて作られた作品です。私は作品自体にはあまりピンときませんが、クローデルさんのかなりの美人具合についつい目が行きます。 19歳で彫刻家オーギュスト・ロダンの弟子となり、愛人でもあったそうです。20代後半にロダンの子を妊娠しますが、ロダンは産むことを許さず中絶することとなり、肉体的にも精神的にも大きなショックを受けたようです。不幸な育ちもあって後に統合失調症を患い、寂しい最期を遂げています。せっかくの美人さんなのに可哀想・・。 |
作品2. 作曲家ドビュッシーの代表作『海』の表紙(1905年)
作曲家クロード・ドビュッシー(1862-1918年)1908年、46歳頃 | ドビュッシー 作曲『海』の初版スコアの表紙(1905年) |
19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響力を持った作曲家とされる、フランスのクロード・ドビュッシーの代表作の1つ『海』のオーケストラスコアの表紙にも『神奈川沖浪裏』からインスピレーションを受けた絵が描かれています。これはドビュッシーたっての希望だったそうです。 |
ドビュッシー(左)とストラヴィンスキー(右)、部屋の後方に『神奈川沖浪裏』が飾られている(1910年) | ドビュッシーは若い頃、先ほどのカミーユ・クローデルと親しくしており、彼女から北斎の浮世絵や日本美術について色々と教えてもらっていたそうです。 ドビュッシーの自室にはクローデルの彫刻作品も飾られていたそうですが、左のように『神奈川沖浪裏』などの浮世絵も飾られていたことを示す写真も残されています。 |
作品3. ロックバンド ピンク・フロイドのドラムセット(1970年頃?)
その他の作品
現代でも『神奈川沖浪裏』のグッズは人気があり、様々なものが製作・販売されています。こんな浮世絵は他にはないと言えるでしょう。 |
江戸兵衛を演じる 三代目大谷鬼次東洲斎写楽画 1794年 |
富嶽三十六景 「駿州江尻」葛飾北斎 1830年 |
名所江戸百景 『こいのぼり』 歌川広重画 1857年 |
『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) | 有名な浮世絵は数あれど、ただ観賞するのみならず、これほど様々なインスピレーションの元となり、たくさんの芸術家たちに長年影響を与えてきた作品は他にはありません。 『神奈川沖浪裏』はその意味でも別格の作品なのです。 |
3. モダンスタイルのジュエリー
『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けたジュエリー | |
アールヌーヴォー(フランス) | モダンスタイル(イギリス) |
『マーメイドの宝物』 アールヌーヴォー 天然真珠 リング フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
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これほど長く様々な芸術たちに影響を与えている『神奈川沖浪裏』ですから、当然ながら上流階級であり知識階層だった人のために作られたハイジュエリーの中にも、同作品にインスピレーションを受けて作られたものが存在します。 以前には『マーメイドの宝物』をお取り扱いしました。 |
『マーメイドの宝物』は、分類としてはジャポニズム・アールヌーヴォーにカテゴライズできます。 |
サミュエル・ビングによる大判美術月刊誌『芸術の日本』の表紙(1888-1891年) | 『アヤメ』 プリカジュール・エナメル ブローチ フランス 1890年〜1900年頃 SOLD |
当時、パリではアールヌーヴォーの発信源となった美術商サミュエル・ビングが相当な数の日本美術を取り扱い、積極的に紹介していました。このため、ジャポニズム・アールヌーヴォーの作品はしばしば目にすることがあります。 |
ルイス・カムフォート・ティファニー(1848-1933年) | アメリカではティファニー創業者チャールズ・ルイス・ティファニーの息子、ルイス・カムフォート・ティファニーがアールヌーヴォーの第一人者とされ、『ティファニー』という名称でアールヌーヴォーが流行しています。 |
エドワード・C・ムーア(1827-1891年) | 1848年のフランス2月革命を契機に、宝飾事業に参入したティファニーは、世界中の上流階級が買い物に来る職人の街パリに追いつけ追い越せと力を入れていました。 ヨーロッパの上流階級に認められるには、上流階級が好む教養に満ちた商品作りが不可欠です。 1851年から1891年まで、ティファニーでジュエリーデザイナー兼シルバー部門の責任者として活躍し、ティファニーの大帝国の礎を作ったエドワード・C・ムーアはエドワード・ムーアは偉大な美術品コレクターでもありました。 ムーアは統率するアーティスト達に、世界中の様々な年代のジュエリーや工芸品から勉強するように指導しました。 そんなムーアの作品の中でも最も重要かつ有名なのが、"ジャパネスク"及び"考古学風"の作品です。 |
エドワード・C・ムーアによる銀器(ティファニー 1878年) " Edward c. moore per tiffany & co., brocca in argento, oro e rame, new york 1878 " ©Sailko(28 October 2016, 22:05:06)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | どちらも上流階級の知識階層に好まれる、教養深いジャンルですね。 故に、ジャポニズム・アールヌーヴォーはアメリカの作品でも見ることがあります。 あくまでも上流階級向けに作られた、数少ない高級なアールヌーヴォー作品の中だけです。 |
【参考】庶民向けの安物アールヌーヴォー・ジュエリー | |
アールヌーヴォー・ジュエリーと聞くと、このようなジュエリーをイメージされる方もいらっしゃるかもしれません。日本では、このレベルのものを「フランスの素晴らしいアールヌーヴォー」と称して販売するアンティーク・ショップが多かったからです。 これは庶民向けの大量生産の安物で、上流階級のためのハイジュエリーではありません。一応ゴールドなので、庶民にとっては高級品(もっと安物だとシルバーや金メッキなど)ですが、この時代の普通の庶民は教養を持たないため、デザインも分かりやすくただ女子ウケしそうなつまらないものばかりなのです。 |
『静寂の葉』 アールヌーヴォー プリカジュールエナメル ペンダント オーストリア or フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォーの庶民向けの安物は、発信源となったサミュエル・ビングらが「はびこる粗造乱造の装飾品」と告発するほど大量に出回り、『アールヌーヴォー』全体のイメージを悪くしました。 しかしながら、数少ない上流階級のために作られた少数のアールヌーヴォー作品には間違いなく魅力があります。 そのハイクラスのアールヌーヴォーの中には、比較的ジャポニズムの作品もあるというわけです。 |
しかしながら、モダンスタイルでジャポニズムのジュエリーは過去45年間で、今回が初めてのご紹介となります。 |
3-1. モダンスタイルが生まれたグラスゴー
【参考】チャールズ・レニー・マッキントッシュのデザインのチェア | ウィロー・チェア(マッキントッシュのデザイン 1904年) "Chair from Inception" ©Shannon Hobbs from New York, Noew York, USA(15 August 2011, 13:28)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
マッキントッシュ家のリビングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
これは、マッキントッシュ夫妻が1906年から1914年まで住んでいた家の内装を再現したものです。1900年に結婚した夫妻がヴィクトリア朝の家を大改装して再構築したものですが、それまでヴィクトリアンらしい重厚かつ装飾過剰な空間があったとは思えない、今見ても未来的で先進的と思えるような抜群なセンスのデザインが特徴です。 |
『芸術愛好家のための音楽室』のデザイン(マッキントッシュ夫妻 1901年) |
1900年頃と言えば、欧米では曲線を使った、退廃的でいかにもヨーロッパ的なデザインが世の中を埋め尽くしていました。そんな時代とは思えないほど、マッキントッシュのデザインは未来を先取りしている印象です。 |
マッキントッシュ家のダイニングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
実際の所は、"未来を先取りしている"のではなく、このモダンスタイルが"次の時代を作り出した"と言えます。 |
ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956年)32歳頃 | 『STUDIO』でマッキントッシュらの存在を知ったオーストリアのセセッション派(ウィーン分離派)が、1900年の第8回分離派展に招待しました。 そこでマッキントッシュらのモダンスタイルの作品は一大センセーションを巻き起こし、その名を轟かせました。 「ヨーロッパにおいて最も著名な建築家」と評する者もいたそうです。 『モダニズム』で現代でも評価の高い、ヨーゼフ・ホフマンは特に大きな称賛を送ったとされており、モダンスタイルはホフマンを始め、芸術家たちのその後の制作活動にも大きな影響を与えたとされています。 |
プルカースドルフのサナトリウムの内装(ウィーン工房 1904年) "Purkersdorf Sanatorium Gallerie 1" ©Thomas Ledl(23 September 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 AT |
ホルマン率いるウィーン工房によるプルカースドルフの作品は「アールデコを20年先取りしている」と、高く評価されています。 |
プルカースドルフのサナトリウムの内装(ウィーン工房 1904年) "Purkersdorf Sanatorium Eingangshalle 3" ©Thomas Ledl(23 September 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 AT |
しかしながらこれは彼らによって新しく創造されたというより、1900年にマッキントッシュらのモダンスタイルに強い影響を受けて生み出されたというのが実際のところと言えるでしょう。 |
時代も民族も超える、普遍とも言える強い魅力を持つモダンスタイルのデザインは、マッキントッシュ夫妻だからこそ生み出せたものでした。 |
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マッキントッシュ夫妻(夫チャールズと妻マーガレット) |
マッキントッシュ夫妻の作品 | |
夫:チャールズ・レニー・マッキントッシュ | 妻:マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ |
【参考】デザイン・チェア | 『白いバラと赤いバラ』(1902年) |
夫、チャールズの直線的で男性的なスタイル。そして妻、マーガレットの曲線的なライン、そして甘美なモチーフや色使いによる女性らしいスタイル。 |
ヒルハウスの内装(マッキントッシュ夫妻 1902年)【引用】National Trust HP ©National Trust for Scotland |
そのどちらかが一方を飲み込み支配するのではなく、互いに影響し合い、融合し、作品として完璧に昇華する。2人の天才が愛で結びつき、互いに尊敬しあっていたからこそ生み出された奇跡のデザイン。モダンスタイルは、この夫婦だからこそ生まれたスタイルと言えるのです。 |
グラスゴー美術学校(マッキントッシュのデザイン 1895年、完成は1899年) 'Glasgow Scool of Art' JBU 002" ©Jörg Bittner Unna(20 July 2009, 12:30:40)/Adapted/CC BY 3.0 |
そんな2人の出逢いは、グラスゴー美術学校時代でした。 実はモダンスタイルが生まれた要素としてもう1つ、"グラスゴー"という場所的な要因があります。 |
3-2. グラスゴーと日本
現代のグラスゴー "View of Glasgow from Queens Park" ©John Lindie(28 July 2008, 14:02:58)/Adapted/CC BY 2.0 |
1960年代と比較して人口が半分近く減ってしまった(1961年:105万人代→2001年:57万人代)グラスゴーは、現代はあまりメジャーなイメージがありません。スコットランド最大の都市ではありますが、イギリスではイングランドのロンドン、バーミンガム、リーズに次ぐ第4の都市です しかしながらかつてはロンドン、パリ、ベルリンに次ぐ、ヨーロッパでは4番目に人口が多く、イギリス第2の都市として非常に栄えていました。 |
ウィロー・ティールームズ(マッキントッシュ設計 1903年頃) "The Willow Tearooms" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 | それこそ『アート・ティールームズ』という、流行の最先端が生み出されるような、流行の中心地と言える大都会だったのです。 |
ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年) "Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
グラスゴーの位置 ©google map | グラスゴーがなぜそんなに栄えていたのかと言うと、クライド川があったからです。 |
クリストファー・コロンブス(1451頃-1506年) | 16世紀に入るとクライド川の水運を用いた貿易が盛んになり、アメリカ大陸のタバコ、カリブ海の砂糖などがグラスゴーを中継してイギリス国内に運ばれるようになりました。 |
クライド湾に注ぐクライド川とグラスゴーの位置 "Clyde.tributaries" ©ETOPO2, GLOBE, SRTM, Notuncurious(14 July 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
産業革命が始まると工業化が進んで産業の街としても栄えるようになり、海運を通じて造船業も発展しました。 イギリスは、1890年代には世界の進水量の70〜80%のシェアを占めるほど造船業が発達していました。 |
日本郵船の最初に造船された船『西京丸』(1888-1927年) |
これは日本郵船が1885年に創立後、初めて新造船した『西京丸』です。この船もグラスゴーにあったロンドン&グラスゴー造船所で建造されています。 世界に君臨する大英帝国の優れた造船技術を学ぶために、日本からも多くの優秀なエリートたちがグラスゴーにやってきました。それ故に、グラスゴーは貿易の拠点として様々な日本の美術工芸品を目にしやすい環境にあっただけでなく、優秀な日本人に出会いやすいという、ヨーロッパ人が日本美術に触れるという点では、当時かなり特殊な環境にあったのです。 |
3-3. マッキントッシュとジャポニズム
ヒルハウス・ラダーバック・チェア(マッキントッシュのデザイン 1902年) " National Museum of Ethnology, Osaka - Chair "Ladder-back chair" - Glasgow in United Kingdom - Made by Charles Rennie Mackintosh in 2006 (originally 1903) " ©Yanajin33(22 December 2013, 13:41:19)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
マッキントッシュは日本美術の影響を受けていることで有名ですが、よくあるジャポニズムとは全く雰囲気が異なります。 |
文久遣欧使節の代表、左から松平康直、竹内保徳、柴田剛中、京極高朗(1862年) |
1862年にロンドン万博を視察した文久遣欧使節のコメントが残っています。開会式に出席した感想を聞かれ、「全体としての情景はまことに感銘深い。そして音楽も壮大である。ただ時々音が高すぎると思う。イギリスの音楽は到底理解されないだろうし、日本の音楽もイギリスでは理解されないだろうが、両方とも甚だ立派であることは同じだ。」と答えているそうです。 優れた芸術には系統やジャンル、好みの違いなどはあっても、本来その種類によって優劣がつくものではありません。自分たちのものを理解しろと、改宗を迫るような姿勢は微塵もありません。自分たちに理解できないものを、即ち劣っているものであると断言しないところも高い教養や知性を感じます。さすが、日本国の代表を任された当時のトップレベルのエリート兼、高い身分の人たちですね。 |
漢学者/国学者 市川清流(通称は渡:わたる)(1822-1879年) | もう1つ、漢学者で国学者の市川清流による、興味深い感想が残っています。農民出身ながら勉学して江戸に上り、国学と漢学の両方に深い知識を蓄え、幕末の外交官・岩瀬忠震に仕えた人物です。 岩瀬家が断絶して主君を失った直後、大名かつ老中だった松平康直の従者として使節の一員になりました。 市川はヨーロッパの写実的な絵画について、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」と記しています。 無知と断言していますね(笑) |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)一番左 | なかなかその違いが一般的な欧米人には分からないみたいですよね。 パリで日本美術を数多く取り扱ったビングも、日本人から見ると「その着物の着方はヘンだ。」とツッコミたくなる感じです。 |
ジャポニズム・アールデコのジュエリー | |
『清流』 アールデコ ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
『桜満開』 アールデコ ジャポニズム ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
これはどちらもジャポニズム・アールデコのハイジュエリーです。『清流』は、いかにも日本人が作ったような作行です。美しいありのままの自然と、それを愛する日本人の心を感じる作品です。まさに"形を超えた気品や真髄を伝えている作品"と言えるでしょう。 『桜満開』は、単純明快さを好む欧米人らしい作品です。欧米人のフィルターをかけるとこのような解釈になるのかと興味深く、これはこれで1つのジャンルとしてとても魅力があります。そして、こういうジャポニズム・ジュエリーが欧米人には魅力的だったからこそ、ハイジュエリー市場でたまに見ることがあるのでしょう。 |
『ラ・ジャポネーズ』(クロード・モネ 1875年)ボストン美術館 | 当時は"日本美術"自体が教養であり、ステータスアイテムの一種でした。 だから、見てもそれと分からなければ意味がありません。 だから見れば誰でも分かる、あからさまなものが一般的なジャポニズムには多いのです。 「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」 日本人全員がそうではありませんが、こう認識できる日本人にとってはこのジャポニズムは気をてらった面白さは感じても、感動はなく、ただ「ふうん。」くらいの感想で終わるのではないでしょうか。 ついでに言うと、このように着物や団扇、扇子や提灯など、分かりやすくて派手でゴージャスなものを一般的な欧米人は好み、これを"日本美術"と思い込む人もいるようですが、日本人にとってこれはかなり特殊ですよね。 芸者や忍者なども、日本人にとっては『日本』を表すような、"一般的な日本のもの"ではありません。 |
フランス国王ルイ14世(1638-1715年)のヴェルサイユ宮殿のベッドルームの再現 |
一般的に、ヨーロッパ人は日本人にとっては装飾過多と感じる室内デザインや調度品を好んできました。王侯貴族のような、教養ある身分の人たちでもそうです。 これも日本人だと、ここで寝るのかと思えるような落ち着かないベッドルームですね。Genもヨーロッパには100回を優に超える回数、足を運んでいますが、貴族の部屋だけは落ち着かないし疲れるから本当に嫌だと語っていました。 |
鹿苑寺(金閣寺) | 慈照寺(銀閣寺) |
(室町幕府3代将軍 足利義満1397年) "Kinkakuji 2004-09-21" ©Keith Pomakis(21 September 2004)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
(室町幕府8代将軍 足利義政1490年) "Ginkakuji Kyoto03-r" ©Oilstreet(7 October 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
どちらが好きか、よく比較される金閣寺と銀閣寺ですが、日本人は圧倒的に銀閣寺を好む人が多いと言われています。上流階級などの特殊な人たちではなく、普通の人でも銀閣寺を好む人が多いのです。 |
日本の書院造の民家 "Takagike Kashihara JPN 001" ©ignis(5/Nov./2006)/Adapted/GFDL,CC BY-SA 2.5,2.0,1.0 |
日本の住宅は書院造に強い影響を受けています。書院造は書院を建物の中心とした武家屋敷の様式で、無駄のなさと美しさが両立した、シンプル・イズ・ベストのスタイルです。1490年に創建の慈照寺(銀閣寺)が書院造の原型と言われています。 |
1586年の豊臣秀吉の黄金の茶室を再現(MOA美術館) 【引用】MOA美術館 HP |
日本の歴史の中で、『黄金の茶室』なるものを作った関白 豊臣秀吉という人物もいますが、これを本気で褒める日本人は現代でもかなり少数派でしょう。"成金的で悪趣味"と思わす失笑するのが、一般的な日本人だと思います。 農民が天下取りした成金だしね、サルだしね、芸術・文化の面ではまあしょうがないよねと扱われてしまうのが豊臣秀吉です。 ヨーロッパや他の文化圏では上流階級の中でもかなり稀少な数の人たちしか持たない、鋭い感性と飛び抜けた美意識をアヴェレージで持つ特殊な民族。それが日本人なのです。Genは「優れたアンティークジュエリーを世界で一番理解できるのが日本人。」と常々語っているのは、このためです。 |
【登録有形文化財】明治21年創業 伊藤屋の書院造の部屋(大正初期)【引用】伊藤屋HP |
これは大正初期の書院造の部屋です。シンプルですが、手抜きやみすぼらしさとは正反対で、精神で感じとる研ぎ澄まされた美、"冴え"の美しさを感じる、いかにも日本らしい雰囲気です。 機能性のみを重視しただけの味気ない部屋とも違う、これが本来の日本の『シンプルイズベスト』な装飾なのです。そこには幾何学模様の美、直線の美、エッセンス的に効かせた曲線の美、独特の間(ま)の使い方が存在します。 |
マッキントッシュ家のダイニングルーム(1906-1914年)の再現【引用】MACKINTOSH ARCHTECTURE HP / ©Mackintosh Architecture, University of Glasgow | サミュエル・ビングのフィルターを通って紹介される、パリの『日本美術』とは異なる、本来の『日本美術』の真髄に触れやすい環境にグラスゴーはありました。 さらにマッキントッシュ夫妻自身が天才と称するに相応しい、類稀なる美的感覚を持ってたという奇跡的な条件が揃ったからこそ、本来の日本美術の真髄と、西洋美術が融合した真に素晴らしいモダンスタイルという様式が生まれたと言えるのです。 |
『中秋の名月』(チャールズ・レニー・マッキントッシュ 1892年) | マッキントッシュら、グラスゴー派の初期の作品は中世のロマンに憧れをいただくウィリアム・モリスのアーツ&クラフツの影響下、故郷のスコットランドの伝統である古代ケルト美術の造形美などを取り入れた幻想的な曲線装飾を特徴にしていました。 元からマッキントッシュらがモダンスタイルの様式を感覚的に備え、ゼロからこの新しいスタイルを生み出せたわけではなかった証拠です。 様々な様式を模索し、日本美術のシンプルイズベストの真髄に触れた結果、モダンスタイルを生み出したのです。 |
マッキントッシュ家のリビングルーム(マッキントッシュ夫妻のデザイン 1906年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. | ホーヘンホフの内装(ヴェルデのデザイン 1908年) "HAGEN Hohenhof JBU 3822" ©Jorg Bittner Unna(2014年5月24日, 13:00:15)/Adapted/CC BY-SA 3.0 DE |
右はアールヌーヴォーからモダンデザインへの展開を促した人物として有名な建築家、アンリ・ヴァン・デ・ベルデの内装作品です。マッキントッシュの自宅より後のデザインですが、壁と天井の装飾がやはり日本人の感覚では気になってしまいます。対して床の色は薄く、重さのバランスに違和感があります。天地が逆になったような、上から押し潰されそうな落ち着かなさを感じます。 マッキントッシュ夫妻はあまりにも先進的過ぎたこともあり、大半のヨーロッパ人には結局理解されなかったようです。後年は建築の仕事がなくなり、チャールズは後年は水彩画家に転向してしまったそうです。ただ、ヨーゼフ・ホフマンやグスタフ・クリムトを始め、当時の才能ある一部の芸術家たちがそれを理解し、後のアールデコ、さらには現代のモダンデザインにつながっていったと言えるでしょう。インターナショナル・デザインとして、現在世界で受け入れられ、スタンダートになっている現代のデザインは、実は日本美術が元と言えるというわけです。 戦前の日本人は日本人として高いプライドを持っていましたが、現代は日本人自体が日本美術を下に見る傾向があります。だからこのことに気づく人はあまりいませんが(皆無かも)、これが真実です。 |
マッキントッシュ家の照明やインテリア(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
マッキントッシュ夫妻の自宅を灯す、この照明は灯籠や提灯を彷彿とさせますね。西洋美術と昇華させると、これほど印象が変わり、オシャレに見えるだなんて。これは日本人の感性だけだと生み出せないデザインですね。まさに西洋と日本の美的感覚が融合し、昇華した作品です。ほ・・、欲しい!(笑) |
セセッション館(分離派会館)(1897-1898年) "Secession Vienna June 2006 005" ©Gryffindor(June 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
マッキントッシュ夫妻らが招待された1900年のウィーン分離派主宰のセセッション展は、『ジャポニズム展』でした |
日本美術の影響が見られるクリムトのジャポニズム作品 | |
『Liebe』(1895年)ヴィエンナ美術館 | 『ユディトI』(1901年) |
ウィーン分離派の一人、グスタフ・クリムトも日本美術に影響を受けたことで有名です。分かりやすいのは琳派に影響を受けた金箔使いですが、縦長の構図など、いかにも日本の掛け軸から影響を受けたと見られる構図のものなどもあります。 |
『風のオペラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1903年) | 『接吻』(グスタフ・クリムト 1907-08年) |
さらに、クリムト黄金時代の代表作『接吻』は、マッキントッシュの妻マーガレットの代表作『風のオペラ』にインスピレーションを受けて描かれたとされる作品です。日本美術に影響を受けたマーガレットの作品。それにさらにインスピレーションを受けて、別の新しい作品が生み出される。こうして日本美術は徐々に西洋美術に浸透し、融合していったのでしょう。 |
グラスゴーで生まれたモダンスタイルはその後アールデコ、モダンデザインへと変化していきました。 |
バウハウスのデッサウ校のカフェテリア(1925年頃) |
それを進化と言っても良いのやら。 20世紀に入ると"量産のためのデザイン"に力が注がれ、発達していきました。元々は数が必要な日用品や、台頭してきた各国の庶民たちが広く使うような物を量産するためのものでした。機能性が同じならば、オシャレな方が売れますしね。しかし安さも重要です。だから、工業デザインにはコストダウンとオシャレさを両立したものが求められます。 |
バウハウスのデザインのタイプライター(シャンティ・シャウィンスキー 1936年) "Olivetti-schawinsky-bauhaus-typewriter" ©ChristosV und/oder Christos Vittoratos(11 August 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 早く簡単に、安く作ることができる。 その範囲内でなるべくオシャレなデザインにする。 デザインは一番ではありませんが、世界中の中産階級に行き渡らせるためには避けられないことでしょう。 これはしょうがないことだと思います。 |
【参考】アールデコ後期の量産ジュエリー | ||
しかしながら、本来は量産するべきものではない"ジュエリー"にまでそれをする、金儲け主義の宝飾店が相次いだのです。 |
【参考】ジョージズ・フーケ作 アールデコ・リング:7万5千スイス・フランで落札(約825万円)【引用】CHRISTIE'S ©Christie's | アールデコ前期まではそこまで酷い動きは見られませんが、アールデコ後期になるとハイジュエリーですら酷い手抜きのものが大半を占めるようになります。 これも簡単の作るためのデザインとして、単純な直線デザインが採用されています。 これは無駄なものが削ぎ落とされたスタイリッシュなデザインではなく、単なる手抜きです。 石ころの大きさや作家の名前だけで、大して価値のないものを高く売ろうとすることが見え見えで、買う側を馬鹿にした悪意のようなものしか感じません。 |
【参考】鋳造の量産ダイヤモンド・リング |
それが現代まで続いているのです。 |
【参考】ダイヤモンド・ブローチ(カルティエ 現代)¥3,628,800-(税込)2019.2現在 【引用】Cartier HP / PLUIE DE CARTIER BROOCH | 【参考】ダイヤモンド・ブローチ(ブシュロン 現代)¥9,306,000-(税込)2021.5現在 【引用】BOUCHERON HP / WOLF BROOCH |
第二次世界大戦後のジュエリーは高度な技術を持つ職人による、魂を込めた丁寧なモノづくりは終わっています。現代ジュエリーは高級ブランドの高額商品であっても当たり前のように量産品で、デザインもしょぼく、そこに芸術的な価値は微塵もありません。 |
アンティークジュエリーには様々なデザインの様式がありますが、私が感覚的に一番好きなのはモダンスタイルです。一般的に見ると、これ以降はさらに良くしようというより、手抜きの方へと意識がシフトしていくようです。19世紀まで脈々と続いてきた、王侯貴族が主導するヨーロッパ美術のデザインの進化形にして、全世界における最終形。それが日本美術の真髄と融合し、デザイン様式としての頂点を極めたこの『モダンスタイル』のように感じます。 |
4. コンテスト・ジュエリーと言えるデザインと作り
4-1. 西洋美術では異例の非対称デザイン
皆さんの殆どは、世界で最も洗練された日本美術の様式に子供の頃からごく当たり前に慣れ親しんでいるので、このデザインを見ても違和感は感じないかもしれません。 |
Genとアローのフォト日記『フレンチシメントリー』より | しかしながら、Genが以前のフォト日記で『フレンチシメントリー』とも呼んでいる通り、西洋では基本的に左右対称にデザインされます。 日本人にとっては、ちょっと人工的過ぎて違和感を感じますよね。 |
4-1-1. 対称性の高さが特徴の西洋美術
モリスのデザイン(1876年) | アーツ&クラフツ運動を提唱し、ありのままの身近な自然にデザインを求めたウィリアム・モリスですら様式化されたデザインはどれも対称性が高いものです。 対称性を維持するということが西洋美術の根底にはあり、それが無意識のルールとして欧米人の意識には存在するのでしょう。 |
4-1-2. 対称性の高さが特徴の西洋美術
『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けたジュエリー | |
アールヌーヴォー(フランス) | モダンスタイル(イギリス) |
『マーメイドの宝物』 アールヌーヴォー 天然真珠 リング フランス 1890年〜1900年頃 SOLD |
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同じように『神奈川沖浪裏』にインスピレーションを受けた特別なジュエリーを比較してみましょう。 『マーメイドの宝物』はイーグルヘッドの刻印がある、確実にフランスで制作された作品です。 このアールヌーボーのリングは、左右上下共に高い対称性を持つデザインです。このため、ジャポニズムというよりはヨーロッパらしさを強く感じます。 一方で、今回のモダンスタイルの宝物は対称デザインにはなっていません。非対称なデザインや、独特の間の取り方はいかにも日本美術の真髄を取り入れたものです。 |
4-2. ダイナミックな波の表現
4-2-1. 知的な観点からも人を刺激する『神奈川沖浪裏』
『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) | 『神奈川沖浪裏』だけが醸し出す、人間の心をとらえて放さない特別かつ普遍の魅力の原因は何なのか。 その特別な魅力は一見美術の世界とは関係なさそうな、、科学者の知的好奇心すらも魅了します。 そもそもこれはただの大波なのか、神奈川沖裏ではこういう波が発生しうるのか。それとも津波なのか。 |
オックスフォード大学(設立 1096年以前) "Magdalen-may-morning-2007-panorama" ©Romanempire at English Wikipedia(May 2007)/Adapted/CC BY 2.5 |
エディンバラ大学(設立 1583年) "Old College,University of Edinburgh" ©Su Hongjia(15 December 2011)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
2019年にイギリスのオックスフォード大学とエディンバラ大学の一発大波(フリークウェーブ)の研究にて巨大波の生成に成功し、その波の形状が『神奈川沖浪裏』の形状に酷似しており、津波ではなく一発大波の可能性があると示唆されました。興味深いですね。 オックスフォード大学は世界大学ランキング1位の常連ですし、エディンバラ大学も2020年のランキングで20位を取っており、これは日本でトップの東京大学の22位より上です。国内の微妙な大学が注目を狙い、奇をてらって研究した微妙なものではなく、現代の世界トップクラスの頭脳が本気で研究する対象となっているのです。 |
『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) | また、一筋一筋の水の流れ、波濤のうねり、波に合わせた舟の動き、奥に見える富士山のなだらかな稜線など、構図に描かれたもの全てが幾重にも折り重なる対数螺旋の構成要素となっています。 |
ピッチが10度の対数螺旋 "Logarithmic spiral (1)" ©Pbroks13 on en wikipedia/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
黄金長方形と黄金螺旋 "FakeRealLogSpiral" ©Cyp, Silverhammermba & Jahobr(29 August 2009, 17:15)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
オウムガイの殻は綺麗な対数螺旋である "NautilusCutawayLogarithmicSpiral" ©Chris 73 / Wikimedia Commons(12:40. 5 May 2004)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
対数螺旋は自然界によく見られる螺旋の一種です。 |
アイスランド南西沖の寒冷低気圧(2003年9月4日) | 歴史上、初めて渦巻銀河と確認された銀河M51 "Messier51" ©NASA, ESA, S. Beckwith (STScI), and The Hubble Heritage Team STScI/AURA)(January 2005)/Adapted/CC BY 3.0 |
人間界と自然界を切り離して語ることは多々ありますが、結局は人間も自然界の一部です。対数螺旋で構成された『神奈川沖浪裏』を見て、人種や年代を問わず心地よく感じられるのは、人間という生き物に備わった本能によるものかもしれませんね。 |
葛飾北斎(1760-1849年)82歳頃の自画像 | 葛飾北斎は90歳、卒寿を迎えてから亡くなっています。 十分長生きに感じますが、本人的にはそうでもなかったようです。 臨終の様子は次のように伝えられています。 |
「翁死に臨み、大息し天我をして十年の命を長ふせしめバといひ、暫くして更に謂て曰く、天我をして五年の命を保たしめバ、真正の画工となるを得べしと、言吃りて死す」 死に臨む翁(北斎)は大きく息をして、「天があと10年私を生かしてくれたら。」と言い、しばらくして更に「天があと5年、生かしてくれたら私は本物の絵師(芸術家)になれただろう。」と言って亡くなった、と言うことです。 これはおそらく北斎が単なる天才肌の芸術家ではなく、努力するタイプの天才だったことを示しているのだと思います。天才は早熟で、晩年の創作意欲は薄れたり、つまらないものしか生み出せなくなるなどとも言いますが、これは大した才能を持っていなかったか、才能に胡座をかいて努力を怠ったのが原因でしょう。最初から完成し、他者が築いた素晴らしいものと相互作用せずに進化できるなんてことはあり得ません。内面を探索し、さらに外界から影響を受け、その相互作用によって変化した内面をさらに探索する。その繰り返しによって、長い人生をかけて人は精神的に進化していくのです。それは死ぬまで続けることができます。 |
『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) | 北斎が71歳の頃に描いた奇跡の作品、『神奈川沖浪裏』は北斎が天才的な感覚だけで何となく描き完成させたのか、それともそこには高度なデザインの計算があったのか・・。 しかもあと5年、95歳まで生きていたら本物の絵師になれたのにと言う・・。 北斎はどのような世界を見ていたのでしょうね。 |
4-2-2. 浪を表現した素晴らしい曲線
冨嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) |
北斎はもっとたくさん描きたいと思い、もっと素晴らしい作品を頭の中に思い描いていたのかもしれません。でも、『神奈川沖浪裏』が奇跡的な傑作であることは間違いありません。 人間では敵わない大自然の怖さと迫力があり、それでいて心地よさも感じる不思議な浪の形。このブローチの作者は『神奈川沖浪裏』の魅力を十分に理解し、それを余すことなく自分の作品に表現しようとしたと感じます。 |
ブローチを左右反転させて、『神奈川沖浪裏』に重ねてみましょう。 |
このブローチの波の形状と、背景の波の曲線にご注目ください。 |
ブローチの作者も、明らかに対数螺旋の波の形状を意識して造形したことが分かります。 |
4-2-3. ゴールドを駆使した見事な奥行の表現
『波』(カミーユ・クローデル作 1897年) | 英語では『The Great Wave』とも呼ばれる『神奈川沖浪裏』。 富嶽三十六景の中の1作品ではありますが、ここで注目されるのは遠目に見える富士山よりも『偉大な波』と称される"大波"です。 実際の波には奥行があり、それが迫力を感じさせるのです。 彫刻で立体的に作るならば、立体表現は容易です。 |
しかしブローチでは立体的に作るにも限界があります。しかしそれは言い訳にはなりません。葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』は日本の浮世絵の手法でのっぺりと描いてあるはずなのに、あれだけ奥行と大迫力を感じるのです。使うべきは視覚効果です。どうしたら良いか・・。 |
このブローチはエドワーディアンに作られており、プラチナにゴールドバックの作りです。しかしながら正面からゴールドが見える部分があります。これは今までの45年間で見たことのない例外的な作りです。 |
なぜゴールドが見えるデザインになっているのか。ブローチ全体を見たとき、ゴールドがどの部分に使用されているのかを考えれば自ずと答えが見えてきます。浪の先端と浪しぶきはプラチナ、浪の根元がゴールドです。迫力ある波の見せ場は、浪の先端と波しぶきです。それらを、ダイヤモンドと白く硬質な輝きが特徴であるプラチナで表現しているのです。 ゴールドで穏やかな浪の根元を表現することで、迫力あるダイヤモンドとプラチナの浪の先端と波しぶきを惹き立たせているというわけです。主役は名脇役がいてこそ何十倍、何百倍にも惹き立つのです。 |
4-2-4. グレインワークを駆使した迫力ある浪
重なりながら押し寄せる浪。 迫力ある浪の先端は、根元を表現したゴールドから続くグレインワーク、さらにはサイズがグラデーションになったオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドで見事に表現されています。 |
サイズがグラデーションになったグレインワークは、エドワーディアンの最高クラスの美しいものです。整った形状はもちろんのこと、完璧に磨き上げられたからこそのプラチナの輝きが見事で、浪の先端に向かって蓄えを増していく浪のパワーをよく表現しています。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのエドワーディアン・ブローチ | 高度な技術と手間を必要とするため、グレインワーク自体が庶民用の安物には施されません。 ヘリテイジが扱わないクラスの、上流階級のためのミドルクラスのジュエリーには施されていることもありますが、そういうものは職人の技術が伴わず汚い作りです。 このブローチは、左右に長く連なったグレインワークが施してあります。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないレベルのエドワーディアン・ブローチ |
グッチャリ・・。 グレインワークは、粒金のような金属の玉を鑞付け(ろうづけ)するのではなく、彫り出した後にヤスリで磨き上げて作ります。このため強度が高く、鑞付けした粒金のように脱落するような可能性もありません。しかしながら実際にはとても困難を極める作業であるため、綺麗なグレインワークが施されたハイジュエリーは滅多に市場には出てこないのです。 |
ヘリテイジはヨーロッパの卸専門のディーラーからも、上澄み中の上澄みしか買い付けていかないと言われるほど、厳選したトップクラスのハイジュエリーしか扱っていないのでグレインワークはどれを見ても綺麗ですが、その中でも特にこれは素晴らしいです。 ダイヤモンドに違和感なくつながっていくためには、強く輝くための磨き仕上げは重要です。上流階級のミドルクラスのジュエリーに見られる様なグチャグチャの形状で、ろくに表面を磨いていないものだと綺麗な輝きが出てきません。それはたとえグレインワークが施されていても意味がないのです。 |
グレインワークから浪の先端へと続くオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドは見事なサイズ・グラデーションになっています。 上質でクリアな石が使われており、ダイヤモンド上部のクラウンにかなり厚みがあるのでダイナミックに煌めきます。 |
寄せる浪・・。 それは人間がちっぽけな存在であることを実感させる、人間では到底敵わないパワーを秘めています。 この作品では、小さなダイヤモンドも含めて全てオールドヨーロピアンカットになっています。透明感と繊細な輝きが特徴のローズカットでは、このパワフルな浪を表現するには相応しくないのです。オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドはローズカット・ダイヤモンドより高価なことからも、明らかに細部まで計算され、意図してこのデザインと作りになっていることが分かります。 ダイヤモンドを留める爪も、グレインワークに負けぬほどよく磨き上げられており、よく輝きます。浪全体から放たれる、複雑かつ力強い輝きが見る者を感動させます。 |
4-3. 独創的な浪しぶきの表現
この作品が『神奈川沖浪裏』と気づいていなかった時は、サファイアの右にデザインされた3石のダイヤモンドが何なのか分かりませんでした。 読み解くための、『神奈川沖浪裏』という鍵を手に入れると、これが浪しぶきであることはすぐに分かりますね。ゴールドで表現された浪の谷間。その上にほとばしる波しぶき。 |
冨嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎作 1831年頃) |
ザバーン!! クライマックスを迎えた浪からほとばしる波しぶきは、1つ1つがそれまで蓄えていた浪のエネルギーを秘めています。 |
この角度から見るとお分かりいただける通り、浪の重なりは実際に段差をつけて立体的に造形しています。浪しぶきに注目すると、一段と高い部分にデザインされていることが分かります。中空に舞う浪しぶきだからです。 |
この浪しぶきにも、厚みのある上質なオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドが使われているので、とても印象的に煌めきます。 |
その浪しぶきの煌く美しさが活きるのも、名脇役としてゴールドを効果的に使ったからこそですね。 |
4-4. 北斎ブルーの特別なサファイア
1900年パリ万博グランプリ受賞のモンタナサファイアの『アイリス』(ティファニー 1900年頃)ウォルターズ美術館 【引用】THE WALTERS ART MUSEUM / Iris Corsage Ornament ©The Walters Art Museum /Adapted. |
職人としてのプライドをかけ、コンテストに出展するために魂を込めて制作されたとみられる『コンテスト・ジュエリー』にはいくつか特徴があります。 1. その職人にしかできないアッと驚く神技の作り 2. 最先端のデザイン 3. 最先端の素材、もしくは唯一無二の貴重な素材 技術的に革新的で優れた要素(1)を持っていれば、必ずしも高価で特別な素材(3)は必要としません。 1〜3までが揃っていればコンテストジュエリーとして作られた可能性が高いと言えますが、それは滅多にあるものではありません。 魂がこもった作品、かつ人を感動させる力を持つ作品は、どんなに才能を持つ職人であっても何度も作れるものではないからです。 |
『夢でみた花』 アメリカ 1900年頃 |
傑出した美しさによりコンテストで人々に感動を与えた後は、類似したもっと劣る物で利益を稼ぐだけです。それらにはオリジナルが放つような魂のこもったエネルギーは感じられず、間近に見ても感動はありません。 『夢でみた花』も高い確率でコンテスト・ジュエリーです。感動的に美しく、ある程度簡単に作れるなら量産されていておかしくありませんが、市場では類似のクラスですら見たことがありません。 |
私は、買い付けでは知識は使いません。ゴチャゴチャと頭でっかちに考えるのではなく、感覚的に優れていると感じるか、好きか嫌いかだけで作品の価値を瞬時に判断します(※その後のコンディションチェックには時間をかけます)。 この作品がかなり特別なものとして作られていることは見てすぐに分かっていたのですが、カタログを作る際には「なんとなく感覚的に良いと思います。」という個人の感想みたいな内容ではダメで、優れている理由を根拠をもって説明する必要があります。 細工やダイヤモンドについてはどう良いのかすぐに分かったのですが、なぜこのサファイアを使ったのかだけはなかなか分かりませんでした。 |
4-4-1. サファイアの色
【参考】ブルーサファイアのカラーバリエーション | サファイアと言えば美しいブルーが特徴の宝石ですよね。 ただしブルーとは言っても、色の濃さや色味は様々で、ブルー・サファイアだけ見ても色のバリエーションはかなり豊富です。 |
宝石屋の説明を見ると、どのような色が良くて高価なのかを熱心に語るものもありますが、たぶん勉強熱心な方ほど混乱すると思います。業者によって言うことが結構違うからです。自分の売りたいものを良く見せたいだけの、商業的に意図がある偏りのある内容であることが殆どだからです。もしくは自分の好みの色につい肩入れしていると思われる、第三者的な立場の人もいます。 天然の非加熱サファイアで、全く同じ色のものはあり得ませんから、どの色が一番と定義すること自体が意味がありません。このような定義は、自身の美的感覚で選べない人たちにも売りやすくするために作りあげられたものです。この色は高価ですよと言われれば、それに納得してお金を出す人たちが対象です。これは庶民がジュエリー市場の主な顧客となった、第二次世界大戦後に一般化されたことです。 アンティークの時代は見て素直に綺麗、好きだと思える石がハイジュエリーに使用されていました。このため、現代の基準で宝石を見ると、アンティークジュエリーの価値を正確に判断することはできません。 |
様々な色の美しいサファイアのハイジュエリー | |||
イギリス 1910年頃 SOLD |
フランス1920〜1930年頃 SOLD |
イギリス 1880〜1900年頃 SOLD |
ヨーロッパ 1910年頃 SOLD |
加熱などの処理石や、合成でいくらでも作ることのできるサファイアが当たり前のように宝石として出回っている現代では想像しにくいですが、本来、天然で無処理の美しいサファイアは本当に稀少なものでした。だから欲しい色を探して手に入れるということ自体が困難を極めるもので、たまたま手に入った石に対して最高の作りを施すというのが当然でした。 アンティークの時代、極上のサファイアはハイジュエリーにしか使われていません。これらはどれもハイジュエリーとして作られていますが、これを見ればどの色が高級かという発想はなかったであろうことが感じていただけると思います。 あえて言うならば、左の3つは宝石の価値で魅せるジュエリー、一番右はトータルのデザインで魅せるデザイン&細工物のジュエリーと言えるでしょう。一番右のデザインは、淡い色のサファイアを使うと雰囲気がボケます。引き締めた印象を出すため、この独特の色が大きな役割を果たしています。 |
4-4-2. 宝石で表現する海の色
1つの芸術作品として、デザインを重要視して作られたこのブローチのサファイアで表現したいのは"海の色"です。 |
冨嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎作 1831年頃) |
今回のブローチに使う宝石で表現すべきなのは、海だったら何でも良いわけではなく葛飾北斎の絵に見られる様な『神奈川沖浪裏』のような青です。 |
まさにそのような色と雰囲気を持つサファイアが使われていますね。この色は偶然ではなく、明らかに作者が意図したものです。 |
4-4-3. 北斎ブルー
紺青(ベルリンブルー) |
『神奈川沖浪裏』に使われているのはベルリンブルーです。現代の日本では紺青(こんじょう)と呼ばれている顔料です。1704年に、ベルリンで錬金術師ヨハン・ディッペルの元、顔料の製造を行っていたヨハン・ディスバッハが偶然発見したとされています。 |
『動植綵絵』の「群魚図」(伊藤若冲 1765年頃) | 日本でベルリンブルーを最初に紹介したのは平賀源内(1728-1780年)です。 現在確認されている最初の使用例は、1765年から1766年にかけて描かれた伊藤若冲の『動植綵絵』の中です。 左の「群魚図」の左下に描かれたルリハタにベルリンブルーが使用されています。 しかしながら一般的に日本で使用されるようになったのは、清国商人を経由してイギリスからベルリンブルーがたくさん入ってくるようになった1826年頃以降です。 |
富嶽三十六景の一部 | ||
2. 江都駿河町三井見世略圖 | 4. 東都浅艸本願寺 | 9. 隠田の水車 |
12. 御厩川岸より両國橋夕陽見 | 16. 武陽佃島 | 36. 東海道江尻田子の浦略圖 |
ベルリン藍がなまってベロ藍と呼ばれたベルリンブルーは、1831年から1834年に描かれた葛飾北斎の富嶽三十六景に効果的に使用されました。この深い青は、豊かな漁場に恵まれた日本の海や、高貴なイメージにピッタリですよね。 |
冨嶽三十六景 『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎作 1831年頃) |
それ故に、この青は海外では『北斎ブルー』、『ジャパンブルー』などと呼ばれて知られています。特に、高波に小舟が翻弄される荒れた海を描いた『神奈川沖浪裏』は、紺色に近い青が印象的です。 |
この、『神奈川沖浪裏』の荒れた日本の海を表現するために、作者はわざわざこれ以外にはないという見事な色と質感を持つサファイアを見つけ出してきたわけです。デザインや細工だけにとどまらない、妥協が一切感じられない芸術家魂はアッパレとしか言いようがありません! |
4-4-4. これより相応しいものはないと言える見事なサファイア
このサファイアがただの透明で均一な石だったならば、ジュエリーとしては十分に美しさを感じられても、心揺さぶる芸術の域に達することはなかったでしょう。 |
このサファイアは非常に美しい青を持っています。インクリュージョンを含んでおり、青が濃いので一見しただけでは気づきにくいのですが、実は透明度も高い上質な石です。 |
それを裏付けるかのように、このサファイアからは虹色のファイアも観測しています。ファイアはプリズム現象によるものです。サファイアの内部に進入した光が内部で屈折と反射を繰り返すことで、それぞれの波長(色)の光が分散し、外に出てきたものが虹色のファイアとして見えるのです。 透明度が低いと石の内部で光が拡散してしまうため、光の強度を保ったまま何度も反射することが条件となるファイアは見られません。それにしても、サファイアのファイアは私も初めて見ました。サファイアが大きすぎず小さすぎず、透明度の高さだけでなくファセットの角度など様々な条件が整っていたからなのでしょう。 |
サファイアは屈折率が高く、強い煌めきを放つことができるのも特徴です。カットを仕上げる際、できるだけ表面形状を滑らかに、ピカピカに仕上げるほど表面から光を反射する力が強くなります。このサファイアはさすがに良く磨き上げられており、キラキラと強く煌めいて綺麗です。 サファイアをセッティングしたゴールドの覆輪のミルも、波や波しぶきを表現したプラチナのフレームのミルも、1つ1つが丁寧に磨き上げられており見事です。 |
4-4-5. 特別なサファイアによって完成するアート
サファイアで表現されているのは海です。このブローチ全体で、終わることなく繰り返される波が表現されています。 波が現れ、徐々に力を蓄えてクライマックスを迎える。そして最後は飛沫となり、海に還る。その繰り返し。 ブローチの中央に海が表現され、無限∞を表すような独特の形状でデザインされているのは、ただ1つの波を表現したのではなく、無限に繰り返される海の波を表現したかったから・・。 葛飾北斎の傑作にインスピレーションはもらったものの、模倣でも未消化でもなく、完全にこの作者自身の芸術作品として昇華しています。 |
せっかく大きくなっても、最終的にはまた元いた場所に戻る儚き運命。 |
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | 初代駐日総領事オールコックは、『大君の都』にて日本人に関して次の様に著しています。 「彼らは偶像崇拝者であり、異教徒であり、畜生の様に神を信じることなく死ぬ。呪われた永劫の罰を受ける者たちである。畜生も信仰は持たず、死後のより良い暮らしへの希望もなく、くたばっていくのだ。」 「何だこの野郎、全然分かってないな!!」と私的には感じるのですが(笑)、オールコックのこのコメントはキリスト教原理主義的な考え方ですね。 |
葛飾北斎(1760-1849年)82歳頃の自画像 | 日本人は古来より、万物に神は宿るという意識を持っています。 北斎も"天"という大いなる存在を感じ、死の間際に「天があと10年、自分を生かしてくれたならば。」とも語っています。 |
キリスト教のイメージが強いヨーロッパですが、実際のところ、全てがオールコックのような原理主義の人間ではありません。 18世紀には既にキリスト教の神を信じているとは到底思えない知的階層が、上流階級の中にも一定数存在しました。 その中には理神論者も少なからず存在しました。 理神論では、一般に創造者としての"神"は認めますが、神を人格的存在とは認めていません。 世界を超越する創造主ではありますが、その活動性は宇宙の創造の際に限られており、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つと考えます。そこに神の啓示の存在は否定されます。 |
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ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年) |
循環する大自然。ちっぽけな人間なんてその一部に過ぎない。そうしたことをも感じさせる作品です。真に日本人の精神性を理解したヨーロッパの天才的なアーティストが、こうして新たな芸術作品として『神奈川沖浪裏』を昇華させたと言えるでしょう。 これだったら市川清流さんにも、「形を超えた気品や真髄を伝える点で、日本人同様、いやそれ以上に理解している。」と感動してもらえたのではないでしょうか。
「あと5年生きられたならば、本物の絵師になれたのに。」と遺した稀代の芸術家、葛飾北斎。 人間はいつか死ぬものです。死ぬからこそ命は尊く、生きることに誠実かつ一生懸命でなければならない。それでも「もっと生きていられたら 。」と思って死ぬことはあります。才能ある芸術家ほど、まだあれもやりたい、これもやりたいと頭の中で描き出せる世界も多いことでしょう。 でも、人間は一人で完結する者ではありません。北斎亡き後も素晴らしい作品は世界中の人々に時代を超えて感動を与え、こうしてさらに優れた芸術作品としての昇華にもつながって行くのです。 人類全体で1つの存在。私たち一人一人が波、そして人類全体が母なる海のような存在ではありませんか。相互作用し、最後は1つの場所へと還る・・。 |
裏側
ブローチの針は着用した後に抜けにくいよう、返しを付けたオリジナルのものです。ダイヤモンドの裏に開けられた窓は、この時代のトップレベルの素晴らしい出来です。一見シンプルなデザインのブローチですが、私たちには裏側を見ただけで、トップクラスのジュエリーとして作られたことが分かるのです。 |
ブローチとして着用時は、ピンが隠れてこのような雰囲気になります。 何となくモダンスタイルのジュエリーのは特別な魅力を感じていましたが、これほどまに精神に訴えかけてくる作品があっただんて驚きました。ヨーロッパにも、形を超えた気品や真髄を表現できる素晴らしいアーティスト兼職人がいたことを嬉しく感じます。 |
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