No.00321 大切な想い人 |
『大切な想い人』 |
|||
|
本来ならば風防を必要としない金細工を透明なロッククリスタルで閉じ込めた、Genも驚きの45年間で初めて見る回転式フォブシールです!ゴールドが市場最も高価だった時代ならではの多彩で高度な金細工技術を駆使した、立体絵画のような作品です。フォーカラー・ゴールドで表現した立体的でカラフルな花籠は、ゴールドだけで作ったとは信じられないほど生き生きとして美しいです!♪ ロッククリスタルを通して見る可憐な花籠には、持ち主の強く特別な想いを感じます。一緒になることが叶わない最愛の女性を思って作られたものなのか・・。ヴィクトリアンの直接的な表現とは異なる、暗示で愛を表現することが流行したリージェンシーらしいセンス抜群の宝物です。 ペンダントとして使ってもとてもオシャレですが、手元で眺めているだけで200年も前の切ない愛で心が揺さぶられる、最高に素晴らしい宝物だと思います。 |
この宝物のポイント
|
1. リージェンシーならではの芸術的な金細工
1-1. 切なく美しい愛のリージェンシー・ジュエリー
素晴らしいフォーカラー・ゴールドが特徴的なこの宝物は、リージェンシーに作られたものです。 いつの時代も愛を元に作られるジュエリーは多々存在しますが、時代ごとにその作風やスタイルも変化します。 愛の形は人それぞれ。 1つ1つの愛は個々のものであり、ジュエリーもその愛ごとに異なりますが、現代と違って君主が確固たるファッションリーダーとして存在したアンティーク時代は、各時代を大きく反映しているのも面白いです。 |
1-1-1. リージェンシーとは
ジョージアン | ||||
ジョージ1世 在位1714-1727年 |
ジョージ2世 1727-1760年 |
ジョージ3世 1760-1820年 |
ジョージ4世 1820-1830年 |
ウィリアム4世 1830-1837年 |
国王ジョージの名にちなみ、18世紀から19世紀初期までをジョージアンと呼びます。およそ140年ほどの期間となりますが、その中でも1811年〜1820年までの期間はリージェンシー(摂政王太子時代)と呼ばれています。22歳で即位したジョージ3世は、81歳という長寿によって59年96日間という長きに渡ってイギリスを統治しました。当時は歴代最長でしたし、今でもヴィクトリア女王とエリザベス2世に次ぐ長さとなっています。 |
晩年のジョージ3世(1738-1820年)1817年、79歳頃 | 摂政王太子時代のジョージ4世(1762-1830年)1814年、52歳頃 | |
ただ、在位中の1760-1820年の全てで、健全に統治できていたわけではありません。晩年のジョージ3世は精神疾患に煩わされ、政治的には不能の状態に陥っていました。このため、1811年からは長男であるジョージ4世が摂政王太子として統治していました。ジョージ3世が1820年に崩御すると、ジョージ4世は国王となるのですが、摂政王太子として国のトップに君臨していた1811年から1820年までが特別にリージェンシー(摂政王太子時代)と呼ばれています。 ファッションリーダーは君主となりますが、ジョージ3世がこのような状態だったため、リージェンシーは摂政王太子を務めていたジョージ4世が新しい流行や文化を作り出すファッションリーダーでした。 |
1-1-2. リージェンシーとヴィクトリアンの"愛"の違い
愛のジュエリー | |
リージェンシー | ヴィクトリアン |
『REGARD』 ジョージアン REGARD ロケット・ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
『Bewitched』 ウィッチズハート ペンダント&ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
同じように愛を示すジュエリーでも、ジョージ4世が統治していた19世紀初期のジョージアンと、ヴィクトリア女王治世下のヴィクトリアンではかなり違います。細工技術や宝石に時代ごとの違いがあるのは当然ですが、そうではなく愛の表現の仕方に大きな違いがあるのです。 宝石言葉で敬愛を示すジョージアンの『REGARD』には、秘めた深い愛を感じますね。一方、魔女のハート( Witch's heart)で「まるで魔法をかけられたかのように、貴方の魅力の虜です!」と、愛を直球表現するヴィクトリアン・ジュエリーは、分かりやさとアツアツの愛が伝わってきます。 どちらが好きかは好みの問題ですが、なぜこうなったのか、それぞれの時代の君主の人となりや愛を理解すると、ものすご〜く納得できて面白いです。 |
1-1-2-1. 平民とは異なる君主という特別な立場
戴冠時のエリザベス1世(1533-1603)25歳 | 国のトップたる君主という立場は本当に特殊です。王侯貴族の中でもその立場と責任の重さは別次元です。 古い時代のヨーロッパでは『王権神授説』と呼ばれる、国家は神により王権が付与された君主によって支配されるという考え方の元に統治が行われました。 王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対して人民は何ら反抗できないとされます。 |
プファルツ選帝侯、ボヘミア王フリードリヒ5世(1596-1632年) | 不可侵の絶対的権力を持つということで、私のような俗物だと「好きなように、いくらでもやりたい放題やって良い権利を持つ!♪」と解釈してしまうのですが、そうではありません。 そのような絶対的な権力を努力ではなく、生まれながらに持っているからこそ、全ての国民に対して責任があると解釈するのが古の王族です。 民の幸せは自分次第であり、民の幸せのために神より与えられた責任を全うすると考えます。 |
オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年) | どこまで真面目に実践するかはそれぞれですが、王権神授説を信じる絶対的かつ古いタイプの君主であり、自ら「フランツ・ヨーゼフは最後の君主である。」と語っていたオーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世も、自身を押し殺して何よりも民を優先する人物でした。 |
王太子時代のジョージ3世(1738-1820年)16歳頃 | 国王ジョージ4世&国王ウィリアム4世の父であり、ヴィクトリア女王の祖父である国王ジョージ3世も非常に真面目な王様でした。 その身分故に諦めねばならぬ恋もありましたが、「私は偉大な国の喜びや苦しみのために生まれた。従って私はしばしば感情に反して行動しなければならない。」と達観していました。 |
サラ・レノックス(1745-1826年)20歳頃、1765年 | 結婚前、ジョージ3世には恋する女性がいました。 リッチモンド公爵家のサラ・レノックスという女性です。 幼い頃から国王ジョージ2世のお気に入りで、招かれて宮廷に出入りしていた際、サラの姿に王太子時代のジョージ3世が恋したのでした。 『公爵』はイギリス貴族の爵位で最上位に位置し、王族が叙爵するような高貴な身分です。 身分的にも結婚は問題なさそうに感じられますが、当時は君主が王族以外の配偶者を持つことは通常ではありませんでした。 貴族の最上位でもダメなんですね! |
イギリス王ジョージ3世とシャーロット夫妻と上の6人の子供たち(1770年) |
君主が外国から配偶者を迎えるのはこのような事情があったからです。その分、君主の配偶者となる可能性がある各国王室の子女たちは、その身分に相応しい教育が施されていました。 結局ジョージ3世は神聖ローマ帝国のメクレンブルク=シュトレーリッツ公国を治めるメクレンブルク=シュトレーリッツ家の公女シャーロットを妻に迎えました。結婚式の日に初めて会ったにも関わらずジョージ3世は浮気一つせずシャーロット王妃一筋で、9男6女の計15人の子供たちに恵まれました。 シャーロット王妃も政治に口出しせず、宮廷行事で出しゃばること無く、一方で芸術文化のパトロンとしては大きく国のために貢献しました。故に国民からの人気も高かったそうです。このようにうまく行けば良いですが、高貴な身分の人たちの恋愛は君主であっても制約が大きくて、本当に大変そうです。 |
1-1-2-2. ヴィクトリア女王の恋愛
ケント公エドワード・オーガスタス(1767-1820年)51歳頃 | さて、今回の宝物が作らえたリージェンシーの摂政王太子ジョージ4世の前に、比較となるヴィクトリア女王の恋愛を見てみることにしましょう。
父はジョージ3世の四男となるケント公エドワード・オーガスタスです。 四男の娘が君主になるなんて、ちょっと普通じゃないですよね。 |
13歳の三男ウィリアム4世と11歳の四男エドワード(1778年) | 1日のうちの数時間を神への祈りに使うほどド真面目なジョージ3世でしたが、その真面目な精神で息子たちを厳しく育てようとした結果、全員が素行不良となりました(TT) 長男ジョージ4世さえしっかりしていれば問題はなかったはずで、どうせ王にはならないはずだった次男以下も好きやっていたようです。 長男、次男、三男、四男とも愛人はいたものの、嫡子を残そうとしませんでした。 |
王子時代のウィリアム4世(1765-1837年)35歳頃、1800年頃 | ドロシー・ジョーダン(1761-1816年)30歳頃、1791年頃 |
子供が作れない体質だったというわけでもありません。ウィリアム4世なんかは美しく機転が利き、知的なアイルランド人女優ドロシー・ジョーダンに一途で、20歳過ぎ頃から同棲を始め、20年余り夫婦同様に生活して10人の庶子を儲けています。ただ、王権神授説があるので庶子は君主として認められないんですよね。 |
母ヴィクトリアとヴィクトリア女王(1824-1825年頃) | このままでは本当に君主となる者がいなくなる!ヤバい!!! そういうわけで、なんとかしてようやく誕生したのがヴィクトリア女王でした。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)4歳頃 | 誕生した時点ではまだ王位に就けるかは不安定な状態でした。 しかしながら徐々にヴィクトリアの王位継承は避けられない状況となっていき、7歳にして騎士勲章の最高位であるガーター勲章を国王ジョージ4世から与えられています。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)11歳頃、1830年 | 1830年に国王ジョージ4世が崩御し、ウィリアム4世が即位した時点でヴィクトリアは王位継承権1位となりました。 議会からも『暫定王位継承者』に認定され、帝王教育も強化されました。 11歳のヴィクトリアは王位継承者であることを告げられると「私は思ったより玉座に近いところにいるのね。」と感想を述べ、「良い人になるようにしますわ」と応えています。 一人になった後に大泣きしたそうですが、人前では弱さを見せない精神的な強さはアダルト・チルドレンさながらであり、君主たるものはそうでなくてはいけなかったのでしょうね。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)14歳頃 | 「別に僕が世継ぎを残さなくても、弟たちが嫡子を残せば良かろう!」と、不安を抱くこと無くやりたい放題できたジョージ4世や、他にもいるから大丈夫と自由に生きてきた伯父や父たちと異なり、ヴィクトリアは幼少期から一身に責任を背負うこととなりました。 可愛そうに見えてくるほどですが、自覚を持って真面目に臨んだようです。 |
新女王ヴィクトリアの御前に跪き口づけする 宮内長官カニンガム侯爵とカンタベリー大主教ウィリアム・ハウリ |
ウィリアム4世が高齢だったこともあり、ヴィクトリア女王は成人直後の18歳で即位することになりました。今の日本だと、高校を卒業してすぐに王様になっちゃうようなものですね。のんびり義務教育をスロー・ペースで受けていては、とても務まるものではありません。幼少期から虐待レベルに詰め込まれるのも納得ですが、能力が追いついていないと本当に辛そうな世界です! |
ヴィクトリア女王の戴冠式(1838年)ウェストミンスター寺院 |
さて、新女王は即位当日の日記に「私が王位に就くのが神の思し召しなら、私は全力を上げて国に対する義務を果たすだろう。私は若いし、多くの点で未経験者である。だが正しいことをしようという善意・欲望に於いては誰にも負けないと信じている。」と記しています。 現代の日本の庶民だと、成人後でも若いから色々と許されて当然だと思っている無責任者も、見ているこちらが情けなく感じるほど存在します。でも、昔の日本人は庶民でも責任感のある人が多かったですし、さすがに全国民の幸せを双肩に担う古の君主の責任感は並々ならないですね。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)19歳、1838年 | とは言え、女性である上に若くて未熟な女王の周りには様々な思惑が渦巻いて当然です。 政略結婚もその1つであり、19歳の時点で信頼する首相メルバーン子爵に「私は当面いかなる結婚もしたくない。」と語っていました。 |
ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(1819-1861年)21歳頃、1840年頃 | しかしながらその半年後、周囲に流れる形で引見したザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバートに心を奪われてしまいました。 美男子である上に高い教養を持ち、善良で甘美さと知性を持つアルバートの虜になったのです。 |
ヴィクトリア女王の結婚式(1840年2月10日) |
翌日にはメルバーン子爵に「結婚に対する意見を変えた。」と語り、翌々日には「アルバートと結婚する意志を固めた。」と述べました。そしてアルバートを召し、君主であるヴィクトリア女王自らがプロポーズし、めでたく結婚したのです。 野心があれば、自分に首ったけの若き女王を意のままに傀儡することもできたはずですが、アルバート王配はヴィクトリア女王を最愛の女性として愛し、女王のために生きました。 今も昔も、とかく庶民には華やかで綺羅びやかな面だけがフォーカスされがちですが、君主キャッキャうふふと優雅な社交を楽しむのが日常ではありません。実際は地味な仕事も多いハードスケジュールです。各国の首相も分刻みのタイムスケジュールと言われていますよね。 |
ヴィクトリア女王の結婚式(1840年2月10日) |
結婚式翌日に2人の叔父であるベルギー王レオポルドに宛てた手紙で、「世界で私ほど幸せな人間はいないと思います。彼は天使のようです。昨日の披露宴は楽しくて熱気に溢れていました。ロンドン市内では群衆が果てしなく沿道に続いていました。」と書いています。 しかしながら新婚旅行はウィンザーまでの僅か42キロの旅で済まされました。2時間ちょっとで走っても行ける距離ですね〜、私は無理ですが(笑)なぜそんな簡素な新婚旅行だったのかと言うと、ヴィクトリア女王は大英帝国の君主である立場であったが故に超ハードスケジュールだったからです。 アルバート王配が不満を述べると、ヴィクトリア女王は「貴方は私が君主であることをお忘れなのね。今は議会の会期中であり、私が行わねばならない執務も山のようにあります。ほんの2、3日であっても私がロンドンを離れることは許されないのです。」と返したそうです。 |
ヴィクトリア女王とアルバート王配が乗った馬車への狙撃事件(1840年) | 新婚の熱も冷めやらぬ4ヶ月後、馬車で通過中のヴィクトリア女王夫妻を見物人が狙撃する事件が起きました。 20歳という若さのアルバート王配の勇敢さも感心しますが、21歳という若さで知らない者から命を狙われるという、女王の過酷な立場にも思うものがあります。 |
アルバート王配(1819-1861年) | それにしてもカッコ良い上に、身を挺して勇敢に悪者から自分を救ってくれるなんて、まさにヴィクトリア女王はアルバート王配を運命の王子様だと実感したことでしょう。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年) | それにしても君主は孤独で過酷です。 そういうものと言えばそれまでですが、自らの野心で地位を勝ち取った君主と異なり、本人が望んだわけでもないのに幼少期から甘えることは許されず、子供らしいことはできず、女の子らしい幸せも望んではいけない。強くあり、国民のために自身の幸せは全て犠牲にして生きねばならない。 一人の人間として見ると切なさも感じます。 本当は人間らしい愛情と、女性らしい可愛らしさを持つ若く小柄な女王の過酷な立場を理解したアルバート王配は、自分だけはこの女王の幸せのために生きることを決意したのでしょう。 |
メルバーン子爵ウィリアム・ラム(1779-1848年)65歳頃 | アルバート王配の非凡な才能は内外に有名で、それを早くから見抜いたメルバーン子爵はヴィクトリア女王に「アルバート公は実に頭の切れるお方です。どうかアルバート公の仰ることをよくお聞きなさいますように。」と進言しています。 |
第1回万博開幕をクリスタル・パレス内で宣言するヴィクトリア女王(1851年) | 政治面でも活躍し、1851年の第一回ロンドン万博でも大きな成果を残していますが、今それほど有名ではありません。 それはアルバート王配が男性にありがちな「俺が!」「俺が!」と自己主張するタイプではなく、女王の影でしっかりと支える立場に努めたからです。 |
アルバート王配の両親 | |
初代ザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世(1784-1844年)34歳頃、1818-1819年 | 初代ザクセン=コーブルク=ゴータ公妃ルイーゼ・フォン・ザクセン=ゴータ=アルテンブルク(1800-1831年) |
人は生まれながらに聖人君子ではありません。アルバート王配も、愛情面では決して幸せとは言えない環境で育っています。これは両親です。美男美女ですね。ただ、父エルンスト1世はかなり女好きで、浮気をしまくっていました。そのため、母も傭兵隊長だったアレクサンダー・フォン・ハンスタイン男爵と浮気をするようになりました。 |
アルバート王配、母ルイーゼ公妃、兄エルンスト2世(1823-1824年頃) | 1824年の別居当時、アルバート王配はまだ5歳くらいでした。 以降母に会えないなんて、とても寂しかったでしょうね。 母は決して男好きだったわけではありません。離婚が成立した後は浮気相手となったアレクサンダー・フォン・ハンスタイン男爵と再婚し、幸せな結婚生活を送っていました。 しかしながら1831年、30歳という若さで癌のため亡くなっています。 アルバート王配が12歳の頃です。アルバート王配にとっては、まさに薄幸の女性ですよね。 |
アルバート王配が好きだった宝石、オパールのティアラを着けたヴィクトリア女王(1819-1901年) | こういう幼少期を過ごすとグレたり、そうでなくとも「僕は不幸な人なんだから、周りは配慮して接してよね。」となりそうなものですが、優しくて強い心を天性で持っていたのでしょう。 自分よりも他の人を優先する清らかな人間として育ち、薄幸のまま亡くなった母を想って、自分が幸せにすることのできる唯一の女性に全てを捧げたということなのでしょう。 |
6歳頃のGenと家族(左:父、中:Gen、右:継母)1953年 | あまりにも高尚な精神故に、私のような凡人には理解しにくいのですが、Genと同じではないかと感じました。 Genの産みの母も薄幸の女性だったそうです。 戦前生まれで両親を早くになくし、親戚をたらい回しに育った母は決して幸せとは言えない幼少期を過ごしました。 職場だった郵便局で、戦争から奇跡的に生き残って帰ってきた父と出逢い、恋愛結婚しました。ただ、母は結核を患って寛解した状態にありました。 |
Genの明治生まれの祖母ウメ | 出産すると結核が再発して命を落とすことになることも分かっていたのですが、それでも母はGenを産むことを選びました。 案の定、結核が再発してしまったため産後は隔離病棟で過ごしました。毎週おばあちゃんがGenを連れてお見舞いに行ったのですが、母は一度も産んだ我が子を抱くことなくGenが3歳の頃に旅立ちました。 父は全くお見舞いに行かなかったそうで、Genはあまり好きじゃないそうです。その後父は再婚し、同居しながらもGenは祖父母に育てられました。だからGenはお婆ちゃん子です。おじいちゃんも自分で料理をするような趣味人で、優しくて人から好かれる性格だったそうです。 |
Genとアローのフォト日記(2006年4月)『夢を忘れていた頃・・』より |
そんなGenは強く美しい心を持つ、思いやり深い人間に育ちました。自分のことよりも人のことを心配し、優先する性格も、薄幸の母への思いがいつも根底にあったからでしょう。このように人間としては素晴らしい大人になりましたが、何か世の中のためになること、意味のあることをしたいという思いもありました。 それなのに思うようにいかず、『夢を忘れていた頃・・』のように人生に彷徨う時期もありました。人生でまだ何も楽しいことを経験していない母が命と引換えに産んでくれたのに、僕は何もできていない。迷って迷って苦しんで、それでも諦めず、そしてGenには最高の才能があったからこそ今のアンティークジュエリーという世界を作り出すことができたのです。私達にとっても幸運なことですよね。 Genがこの仕事を始めた1976年の28歳当時、ヨーロッパですらも今のような形でのアンティークジュエリーの概念はありませんでした。当時はレイト・ヴィクトリアン以降のジュエリーはアンティークではなく、ジョージアンくらい古くないとただの中古で、さほど価値なきものという扱いでした。Genは日本という枠で見るには評価が過小すぎます。世界で見ても最高と言えるレジェンドなのです!! |
Genお手製の赤カブのポタージュ(2020.12.13) | そんなGenなのに、私が存分に仕事できるようにと今では家事一切をやってくれます。 やったことがなかったという料理も、今はお手の物です。 季節の赤カブが手に入り、「赤カブのポタージュが食べてみたい。綺麗らしいよ。」とリクエストしたら、とっても上手に作ってくれました。 白い器で撮影しておけば良かったと思うのですが、優しいピンク色が綺麗で味も美味しかったです。 |
アルバート王配がヴィクトリア女王のためにデザインしたサファイアのティアラ(1842年) V&A美術館 【引用】V&A museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
|
これはアルバート王配がヴィクトリア女王のためにデザインしたティアラです。傑出した才能を備え、文化的なものに関しても深い教養を持つアルバート王配でしたが、自分が褒められるためではなく、その才能と愛情の全てを最愛の女性に捧げました。その背景にはやるせないほど切ない過酷な環境がありますが、だからこそ2人は深い愛情で結ばれたのでしょう。 |
ヴィクトリア女王一家(1846年)ロイヤル・コレクション |
私はGenのような人が身近にいるからこそ、アルバート王配のような男性が存在し得ることも理解できるのですが、Genに会う前だったらそんな男性は本当にいるのかと疑っていたと思います。かなり特殊ケースですよね。 たまにGenの知り合いと話す機会があり、Genより年上の方もいらっしゃって、歴史で学ぶようなメインストリームとは違う、昔の時代の日本のリアルな日常を教えてもらえることがあります。 現代と違って昔は出産や産後の肥立ちが悪くて命を落とすのはよくあることで、母の愛を知らずに育つのは特別なことではなかったそうです。夫が妻をそっちのけで外に出歩いたりすることも普通だったそうですが、似た経験をしてもGenのような人物に育つ場合とそうでない場合があるようです。通常はGenのような強く優しく思いやりのある大人には育たないので、その方もGenのことは特別視していました。 |
ヴィクトリア女王とアルバート王配(1854年) | 1861年、42歳の若さで突然アルバート王配を亡くしたヴィクトリア女王の気持ちはいかばかりだったか・・。 9人の子供がおり、既に孫までいるおじいちゃん、おばあちゃんだったとは言え、まだまだあと数十年は一緒にいて添い遂げられる心持ちだったはずです。 1850年代後半から徐々に健康状態は悪化しており、1861年の11月22日に豪雨の中サンドハースト王立陸軍士官学校の新校舎竣工式に出席して体調を悪化させていました。 |
ヴィクトリア女王とアルバート王配(1861年) | 12月に入ると食事も殆ど取れないほど衰弱していましたが、大英帝国の政治や外交を司るその地位故に激務をこなしました。 息子バーティ(エドワード7世)も体調が悪化しても国のために激務をこなし、過労死のように亡くなりましたが、あまりにも過酷な立場ですね。 侍従医は特に気になる症状はないとし、それを全面的に信頼したヴィクトリア女王は、首相パーマストン子爵が「他の医者にも診せるべきです。」と提案しても拒否しました。 さらに症状が悪化し、12月11日に他の医師を招集しましたが、手遅れの腸チフスと診断されました。 |
アルバート王配とヴィクトリア女王(1854年) | 12月13日午後遅く、アルバート王配は危篤状態に陥り、家族が集められました。 ヴィクトリア女王が枕元に近づくと、気配に気づいたアルバート王配は女王にキスをして手を握り、弱々しい声ながら「私の可愛い小さな奥さん」と声をかけたそうです。 翌14日朝には回復に向かっているように見えましたが、正午までに殆ど動けなくなりました。王配の息が荒くなると、女王は駆け寄って「貴方の小さな奥さんですよ」と囁き、キスをしたそうです。 |
イギリスのアルバート王配(1819-1861年)1848年、29歳頃 | 家族が見守る中、42歳でアルバート王配は旅立ちました。 冬の豪雨に打たれた後、1ヶ月も経たない旅立ちでした。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)80歳頃、1899年 | 跡継ぎがいなければ、君主の責務として誰かと再婚した可能性もあったでしょう。 でもその必要もありません。 面白おかしく、捏造してでもゴシップを流す下衆なマスメディアやそれを喜ぶ大衆はいつの時代も存在するものです。 アルバート王配の死後、他の男性とのゴシップをネタにされることもありましたが、アルバートという特別な人物の代わりになれる者はいるはずもなく、喪が明けた後も生涯地味な装いで夫のことを想い続けました。 |
プランタジネット舞踏会のヴィクトリア女王とアルバート王配(1842年) | 2人はお互いにこの人しかいないと言える、運命の相手だったのでしょう。 一生で一度でも、そのような相手に出逢えることは奇跡のようなことです。 それがおそらくは最初の恋の相手・・。 凄いですね。 お互いに求め合い、完全に信頼し合う、揺るぎない完璧な愛。 |
『愛の誓い』 ルビー&サファイア ダブルハート・リング イギリス 1870年頃 SOLD |
ヴィクトリアンはファッションリーダーである女王夫妻が満たされた恋を、公認の環境でできたからこそ分かりやすいデザインが流行したというわけです。 |
1-1-2-3. 国王ジョージ4世の恋愛
プリンス・オブ・ウェールズ時代のジョージ4世(1762〜1830年)18〜20歳頃、1780〜1782年 | ジョージ4世は違いました。 父王ジョージ3世は真面目一辺倒、風流がなく浮気もしないため、つまらないという評価もあるほどでした。 長男ジョージ4世はセンスが良く文芸に秀で、フランス語やドイツ語、イタリア語の習得も早く、学生としても非常に優秀だったそうです。 機知にも富み、その魅力と教養によって「イングランド一の紳士」と呼ばれるほどでした。 独立した邸宅を18歳で与えられ、その宮殿の装飾には莫大なお金を使いました。成金趣味とは一線を画すその品の良さは、高く評価されていました。 |
マリア・フィッツハーバート(1756-1837年)32歳頃、1788年 | 若さもあって多くの愛人を囲っていたジョージ4世ですが、21歳の時に運命の女性マリア・フィッツハーバートと出逢います。6歳年上で、2度未亡人となったカトリックの平民でした。 結婚を望んだジョージ4世でしたが、王位継承者は法律によって配偶者もイングランド国教会信徒のみしか許されておらず、さらに国王である父の許しも必要でした。 ジョージ3世は、毎日数時間を祈りに使うような人物でした。また、王族は王族としか結婚できません。平民でしかもカトリック信者である彼女を父王が許すわけがありません。しかし、マリアの虜になったジョージ4世は、結婚に同意するまで追いかけ回したそうです。 |
ジョージ4世がブライトンを気に入って購入し改装したロイヤルパビリオン "The Royal Pavilion Brighton UK" ©Fenliokao(2013年9月30日)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ジョージ3世が許可しないことは分かっていたため、2人は極秘結婚することにしました。カトリック信者との結婚が明るみに出ると、ジョージ4世は王位継承権を失います。故に結婚は秘密にし、マリアも結婚を公表しないことを約束しました。 愛する人との心穏やかで楽しい暮らしのために、王位継承権なんて捨ててしまってもとも思うのですが、ジョージ4世にはそうはできない問題がありました。伊達に『放蕩王』の名前が付けられてはいません。王室財政を破綻寸前に追い込むほど、趣味にお金を使いまくる人物です。それは1つの寂れた漁村を有名リゾートにするほどプラスの効果もあるものでしたが、絶えず借金には追われていました。 年金や補助金をもらったり、借金の穴埋めをしてもらうためにも、王位継承権は手放すことができなかったのです(笑)愛だけではなく、趣味もぜ〜んぶ心ゆくまで楽しみたかったのです。 |
イギリス王妃キャロライン・オブ・ブランズウィック(1768-1821年)30歳頃、1798年 | 政府からの再三の穴埋めにも関わらず、ジョージ4世の借金は1793年には40万ポンドに達していました。これは国王ジョージ3世の年間宮廷費83万ポンドの半分を占める額です。 困り果てたジョージ3世は借金の棒引きを引き換えに、息子ジョージ4世に正式な結婚を迫りました。 ジョージ4世は、肖像画でその美貌が謳われていたキャロライン・オブ・ブランズウィックを選びました。 父王ジョージ3世も結婚式当日まで妻となるシャーロットに会ったことはありませんでしたが、2人は仲睦まじい結婚生活を送ることができました。彼らもきっとうまくいくと思われたのですが・・。 |
プリンス・オブ・ウェールズ時代のジョージ4世(1762-1830年)30歳頃、1792年頃 | キャロライン・オブ・ブランズウィック(1768-1821年)27歳頃、1795年 |
残念ながら相性最悪でした。 1795年、ロンドンでキャロラインに初対面したジョージ4世は明らかにがっかりした様子で、お付きの者にグラスにブランデーを注いでくれと頼んだそうです。日本ほど入浴の習慣がないヨーロッパですが、その中でもキャロラインの風呂嫌いは有名で、体臭も凄かったそうです。一方で、キャロラインもジョージ4世は非常に太っており、肖像画ほどハンサムではないとがっかりしていたそうです。 その日のディナーの席では、キャロラインの口うるさいお喋りやジョージ4世の愛人であるジャージー伯爵夫人への酷評などにジョージ4世はゾッとしたそうです。キャロラインもキャロラインで、ジョージ4世が明らかに自分よりもジャージー伯爵夫人をえこひいきする様子に動揺し、失望しました。 |
イギリス王妃キャロライン・オブ・ブランズウィック(1768-1821年)36歳頃、1804年 | キャロラインはブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナンドと、ジョージ3世の姉であるオーガスタ王女の娘として、神聖ローマ帝国で生まれました。 両親は不仲で父は愛人と暮らしており、カヴァネス(女性家庭教師)から教育は受けていたものの、十分と言えるものではありませんでした。 |
プリンス・オブ・ウェールズ時代のジョージ4世(1762-1830年)36歳頃、1798年 | イングランド一のジェントルマンと言われるほど、飛び抜けたセンスと教養、魅力を持つジョージ4世からすれば、魅力不足に映るのはやむを得ないことだったのかもしれません。 不潔で魅力皆無の女性と望まない結婚しなければならないということで、結婚式当日はやけくそのように酔っ払い、弟たちに支えられて立っているような有様だったそうです。 未来の王様は忖度しないし、空気なんて読まない・・・(笑) ジョージ4世曰く、自身は歩み寄ろうと努力したものの、キャロラインは一切歩み寄ろうとしなかったそうで、性格的にも本当に合わなかったようです。 |
シャーロット・オーガスタ・オブ・ウェールズ(1796-1817年)21歳頃 | 嫌悪感でいっぱいだったため、友人に宛てた手紙によると子作りは初夜に2回、翌日に1回の計3回だけだったそうですが、式の9ヶ月後にシャーロット王女が誕生しました。 もう努めは果たしたということで、1797年に2人は別居し、ジョージ4世はキャロラインに二度と関わろうとしませんでした。 未来の女王となるはずだったシャーロット王女は成人はしたものの、残念ながら結婚した後に男の子を死産し、21歳の若さで死去してしまいました。 この時点でジョージ4世は55歳、キャロラインは49歳。突如、弟たちに嫡子の望みが託されることとなったのでした。 |
マリア・フィッツハーバート(1756-1837年) | さて、たくさんの愛人がいたジョージ4世ですが、結局人生を通して愛していたのはマリア・フィッツハーバートだったようです。 キャロラインとの結婚前に2人は一度別れていたのですが、シャーロット王女が生まれた3日後に新しい遺言書を作りました。 「全ての財産は"私の妻、私の心と魂の真の妻マリア・フィッツハーバート"に遺す。法によって公式な妻を名乗れずとも、過去も現在も、未来も彼女は私の"天国の瞳"であり続ける。」 キャロラインには1シリングを遺すとしたそうです。賢い人らしい嫌味だなぁ(笑) |
摂政王太子時代のジョージ4世(1762-1830年)54歳頃、1816年 | しかしながらマリアと再び一緒になることは叶いませんでした。その後も新しい愛人はいたものの、誰とも心からの愛情を持つことはできませんでした。 亡くなる際、ジョージ4世はマリアの瞳を描いたミニアチュールを首元に置いて埋葬するよう頼み、実行されたそうです。 亡くなった後、ジョージ4世がマリアからの手紙を全て保管していたことが発見されました。 まだ見つけていない運命の相手を探し、恋愛を繰り返し続ける人もいます。しかしながら、ジョージ4世は21歳で魂から愛する運命の相手を見つけました。普通ならば幸運なはずなのに、その特別な身分故に苦しい愛を生涯続けました。 |
マリア・フィッツハーバート(1756-1837年) | 愛しているのに満足させてあげられない。 一緒になることを許されない、秘めた愛・・。 |
ミニアチュール リング フランス 18世紀 SOLD |
||
ジョージアン アイ・ポートレート ペンダント イギリス 1790〜1800年頃 SOLD |
||
電話やメールでいつでも連絡が取れる現代と違い、古い時代は離れて会えない時間もたくさんありました。いつでも身近に感じていたい。そのような想いから、細密画のジュエリーはたくさんの王侯貴族たちに作られてきました。 しかしながら、知られてはならない秘密の相手をジュエリーとして身に付けていたい時、その人とあからさまに分かるような細密画を作るわけにはいきません。それでも、なるべくその人を具体的に想像できるものを身に付けていたい。そうやってジョージ4世が考案したのが愛する人の眼を描く、ラヴァーズ・アイ(アイ・ジュエリー)でした。 ジョージ4世自身もマリアの瞳を描いたミニアチュールを持っていましたが、1785年11月3日に日付が入ったプロポーズの手紙とジョージ4世の瞳を描いたミニアチュールを贈ったそうです。 |
『REGARD』-富のパイナップル- ジョージアン REGARD ロケット・ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
『愛の錠前』 パドロック ペンダント イギリス 1850年頃 SOLD |
ジョージ4世がファッションリーダーだった時代は、宝石言葉で秘密のメッセージを示すアクロスティック・ジュエリーも流行しています。 錠前でロックするほどの強い愛を示す、パドロックが考案されたのもこの時代です。 |
日本文学者・日本学者 ドナルド・キーン(1922-2019年)1938年のコロンビア大学入学時、16歳 【引用】nippon.com/ Donald Keene: A life in Japanese Literture |
Genから必読図書指定された『日本人の美意識』(ドナルド・キーン著 1990年) |
Genに必読図書指定されたドナルド・キーン著『日本人の美意識』によれば、日本人は"暗示"を使い、心を揺さぶる美を表現するという方法を知っています。想像力が及ぶ余地を作ることで、見る者、聞いた者まで巻き込み、それぞれの人物の中でその深い美が作り上げあれ、心を揺さぶる感動を与えるのです。 想像力の及ぶ余地のない作品はパッと見て良いねと思うことはできても、人に感銘をもたらすことはなく、印象に残ることはありません。人生をも変えてしまうような、心を揺り動かすような美しさは存在し得ないのです。 |
苦しい愛をしたジョージ4世の時代。 その時代に生まれた、暗示で愛を表現するジョージアン、特にリージェンシーのジュエリーは、まさに見る者を巻き込んで想像力を掻き立て、心揺さぶる美しいジュエリーが多く存在するのです。 心で美を感じるジュエリー。 安定した幸せな恋愛をしたヴィクトリア女王の時代にはない魅力です。 感性無き者には感じ取れぬ美の世界ですが、感性がある者には、リージェンシー・ジュエリーは何にも代えがたい魅力があるのです。 |
1-2. 見事なフォーカラー・ゴールド
19世紀初期のイギリスでは、フランス革命の影響で金価格が異様に高騰した時代がありました。 それ以前や以後の時代だと、宝石が主役のジュエリーが様々流行しているのですが、この特殊な時代だけはゴールドを主役、あるいは準主役クラスにした様々なハイジュエリーが作られています。 |
1-2-1. 細工の重要性
金塊 | 高価であっても、ただの塊だと芸術性は全くありませんし、もちろん美しいと感じることはできません。 |
【参考】ゴールドのロングチェーン(カルティエ 1991年) | 現代ではこのような道具みたいな物体が"高級ブランドのジュエリー"として当たり前のように販売されていますが、客層が芸術性を大切にする人たちから、素材やブランド名しか気にすることのできない成金趣味の人たちへと移ったことに依ります。 |
ハート型のゴールド・ペンダント(ティファニー 現代)【引用】TIFFANY & CO / ©T&CO | 【参考】パドルロック的なデザインのゴールド・クラスプ(カルティエ 1991年) |
本当につまらないデザインで、手間をかけた細工も皆無です。アーツ&クラフツ運動を提唱したウィリアム・モリスは、「"芸術"は優れた手仕事によってのみ生み出される」という思想を持っていました。はっきり言って、優れた手仕事のないこのような物体に美しいとか、心を癒やされる何かを感じたりすることはあり得ないのです。 ブランド品、金であるという根拠で成金思考の人たちはこれらの物体に喜んで大金をはたくわけですが、全く同じデザインと作りの物が100均などで販売されていた時に、同じように「綺麗!」「高級感があるわ!」なんて思ったりできるのでしょうかね。 |
『愛のメロディ』 ジョージアン 竪琴 ブローチ イギリス 1826年 SOLD |
古の王侯貴族は芸術における教養やセンスを何よりも大切にしており、それがないのはとても恥ずかしいことでした。 政治面では勝っていても、芸術面での教養やセンスに劣っている者がそれに秀でた者を強く嫉妬することすらもありました。 だからこそ王侯貴族のために作られたアンティークのハイジュエリーは、宝石だけにお金をかけるのでなく、デザインや細工に驚くほどの技術と手間(すなわちお金)をかけたものが多々存在するのです。 |
1-2-2. カラー・ゴールドの大きな魅力
『バッカスのワイン樽』 リージェンシー ゴールドスライダー・ペンダント イギリス 摂政王太子時代(1811〜1820年) SOLD |
ゴールドは表現の幅が極めて広い金属で、ゴールド・ジュエリーに関しても様々な技法が存在します。 様々に組み合わせて、独自のアーティスティックな表現がなされるわけですが、金価格が高騰した時代に駆使された技法の1つがカラーゴールドです。 『バッカスのワイン樽』も様々な金細工が施されていますが、その中でカラーゴールドは大きな役割を果たしています。 全体はイエローゴールドですが、葡萄の葉がグリーンゴールドです。 |
非常に魅力ある造形であり、ゴールドの表面形状をコントロールすることで輝きや質感にも大きな変化を与えていますが、それでも全てが同じ色だったら、これよりもかなり大人しい印象になっていたはずです。 同じゴールドという素材であっても、色による表現を与えることで、ここまで印象がダイナミックに変化させられるのです!!♪ |
1-2-3. 現代のカラーゴールド
現代でもカラーゴールドは存在します。現代の日本では、初めて買うジュエリーが結婚のタイミングであることも少なくないでしょう。シンプルな結婚指輪の場合、どの色のゴールドにするかという選択肢の中で、カラーゴールドにお目にかかることもあるでしょう。 |
【参考】14Kカラーゴールド・リング(現代) | カラーゴールドを組合わせたジュエリーも存在します。 これをカラーゴールドを駆使してデザインしたジュエリーと言って良いのかは、かなり疑問ですが・・(笑) |
【参考】14Kカラーゴールド・パリュール(現代) | 【参考】14Kカラーゴールド・リング(現代) |
高度な技法を駆使した、職人の手仕事によるジュエリー制作が行われなくなった現代では、できるデザインも限定されます。才能あるデザイナーがいても、制作技術がないため具現化できないのです。故にデザイン自体に全く魅力がありません。 特にカラーゴールドのジュエリーは色がゴチャゴチャして全く調和しておらず、美しくありません。返って安っぽく感じると言うか・・。こういうジュエリーは、世界一繊細と言える色彩感覚を持つ日本人には好まれません。故に日本ではこのようなカラーゴールドのジュエリー自体が売れず、ウィンドウ・ショッピングをしていてもあまり目にすることはないと思います。 |
【参考】18Kカラーゴールド・リング(現代) | ところで、デザインがつまらないのは置いておくとしても、色に関しても面白みがなく感じられませんか? どれを見ても同じような色の物ばかりで、個性がありません。 実はこれは国際標準規格(ISO8654)で、カラーゴールドの配合や色が指定されているからです。 工房ごとに門外不出の配合を持っていたアンティークの時代と異なり、色すらも想像力が及ばない領域となっているのです。 ジュエリーは工業製品とは違うのに、本当につまらない話です!! |
1-2-4. アンティークのカラーゴールドの魅力
金-銀-銅の三相系の色を表した図 "Ag-Au-Cy-colours-english.svg" ©Metallos(14 August 2009)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | ゴールドの色は幅が広く、金-銀-銅という単純な組み合わせですら、ちょっと組成が変わるだけで驚くほど色味が変化します。 割金はこれ以外にも様々選択肢がありますから、まさに表現の幅は無限です。 アーティスティックな職人ほど、燃える世界ですね♪ |
王の富と権力の象徴『パイナップル』 ジョージアン スリーカラー・ゴールド フォブシール イギリス 1820年頃 SOLD |
彫金と組み合わせることで、表現の幅はさらに広がります。 色も工房ごとにそれぞれで、だからこそ本当に個性があって、アーティスティックで美しいのです。 アンティークのハイジュエリーにしかない、強い魅力と言えるでしょう。 |
1-2-5. 特別なカラーゴールド
リージェンシー フォーカラー・ゴールド フォブシール イギリス 1811-1820年頃(摂政皇太子時代) SOLD |
アンティークジュエリーも、表現したいものに合わせてツーカラーであったり、スリーカラーであったり、様々な組み合わせがあります。 一番多くてフォーカラー・ゴールドまであります。 イエロー、ピンク、グリーン、ホワイトです。 |
『ヴェルサイユの幻』 エドワーディアン アクアマリン ペンダント イギリス or ヨーロッパ 1910年代 アクアマリン、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド、ホワイトゴールド&ゴールド SOLD |
ホワイトゴールドは、歴史的には1910年代に開発されたことになっています。 1912年にドイツのカール・リヒターによってゴールド、ニッケル、パラジウム合金によるホワイトゴールドが発明され、1913年に特許申請が行われて、1915年に特許を取得しました。 アメリカでも1917年にデヴィッド・ベレー社がホワイトゴールドの製法を発明し、1918年に特許出願して、1920年に特許が認められています。 私はサラリーマン時代にモノづくり系の大企業で研究員をやっており、特許にも携わったことがあるのでよく分かるのですが、特許は戦略的に取得する場合とそうでない場合があります。 特許を出願すると、内容は公開されます。分析しても分からない場合は、社内でブラックボックス化して特許は取らない方が戦略的に正しい場合もあるのです。 研究開発には莫大な費用がかかります。お金と労力をかけてようやく得た情報を、みすみす他社に公開して、簡単に真似したり参考にされたりしては報われません。場合によっては、案外抜け穴なんていくらでもあったりしますからね。 |
故にホワイトゴールドまで使用されたカラーゴールド・ジュエリーはジョージアンでも滅多に見ることがありませんし、使用されていた場合も他のカラーゴールドと比べてごく一部にしか使われていません。 表現したいものに合わせて意図して2色のみ、3色のみという場合もあり、3色以下だから最高級品ではないとは言えないのですが、一方で4色のものは確実に最高級品として特別に作られたものだと言えます。 |
1-2-6. はっきりとした美しい色彩
ホワイトゴールドを含むフォーカラー・ゴールドで作られたこの宝物は、間違いなく特別な想いで作られた当時の最高級品と言えます。 |
カラーゴールドは色の違いが微妙で分かりにくい場合も少なくありませんが、この宝物は驚くほどそれぞれの色彩がはっきりしています。ゴールドだけで表現されたアートとは思えないくらい、色とりどりですね。この鮮やかな色彩を出せるようになるだけでも、どれだけの労力を必要としたことか・・。 |
ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年) | ジャスパーウェアの試作品(ジョサイア・ウェッジウッド 1773-1776年) |
研究熱心で有名なジョサイア・ウェッジウッドもジャスパーウェアの開発では、完成させるまでに数千回の試作を繰り返したそうです。市場に出てきた後の完成品からは想像もつかない、地味な部分ですが、驚くほど時間も労力もお金もかかるものなのです。 |
それが分かる当時の王侯貴族であれば、この鮮やかなゴールドの色彩だけでも、特別な技術を持つ職人によって作られた驚きの宝物であることはひと目で分かったはずです。 |
1-3. 考えられないほどの手間をかけたアーティスティックな金細工
この宝物は、手元で楽しむことができる小さな絵画とも言えます。 素晴らしい絵画に合わせ、相応しい額装と、透明なロッククリスタルによる贅沢な風防があしらわれています。 万人で楽しむ大きな絵画と異なり、プライベートに楽しむための至極贅沢な宝物です。 メインの絵画は、さすがリージェンシーの最高級品と言える、素晴らしい金細工が見どころとなっています。 |
1-3-1. 立体造形
絵の具で描く絵画と異なり、花籠に入った色とりどりの花々は非常に立体的に作られています。 |
それぞれの花びらに、立体的に角度が付けられています。また、お花の向きも緩やかな角度ながら、非常に気を遣って配置してあります。 |
グリーンゴールドで表現されたギザギザの葉も非常に立体的で、それ故に植物らしい生き生きとしたエネルギーも感じることができます。一方でイエローゴールドの背景に描き出された葉はインタリオ同様、陰刻で表現されています。凸状に作ったグリーンゴールドの葉と、背景に彫って表現したイエローゴールドの葉という、2つの表現方法を駆使することで、手前に伸びる葉と奥に伸びる葉を見事に表現しているのです。 グリーンゴールドの葉には葉脈が彫金されている一方で、イエローゴールドの葉は葉脈はなく磨き上げられてフラットです。技術的にはこちらにも彫金することは可能だったはずですが、敢えてそうしていません。磨き上げられているからこそ、角度によってそのままの葉の形状で神々しい黄金の輝きを放ちます。葉脈はなく、シルエットのみが感じられます。手前にある花や葉、バスケットにフォーカスが合っている場合、奥にある葉はボヤケて見えているはずです。なんと、彫金によってそれを表現しているのです。なんてアーティスティックな表現手法でしょう!!♪ |
花籠は、上下の縁部分に厚みのある立体的な彫金が施されています。 編んで作った花籠の造形を、とても上手に表現しています。 |
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564年) | ルネサンス期の典型的な『万能人』として知られるミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の祭壇壁画『最後の審判』が特に有名ですが、絵画作品は軽視しており、自身の本業を彫刻家としていたそうです。 |
ミケランジェロが設計したサン・ピエトロ大聖堂のドーム Public Domain by Wolfgang Stuck |
万能と言われるだけあって、建築家でもあります。ルネサンス時代の建築家は、最初の勉強としてジュエリーを制作していたと言われています。どちらも立体的なもの処理できる頭脳がないとデザインはできません。美しいだけでなく、構造設計によりしっかりと耐久性を持たせないといけないのも共通しています。平面的な絵画とは比較にならないほどの高度な頭脳とセンスを必要とするのが、これら立体芸術作品なのです。 |
『ダヴィデ像』(ミケランジェロ 1504年)アカデミア美術館 "Michelangelos David" ©david Gaya(30 April 2005, 16:05)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | こういう作品も、ちょっと首を細くし過ぎて頭部の重量を支えきれず、ゴンっと落ちたらダメですからね〜。 この角度から見たら美しくても、別の角度から見たら歪だと作品としては完成度の低いものとなります。 彫刻ができるならば、絵画なんて当然簡単にできます。 しかしながらその逆は、必ずしも上手くできるとは限らないのです。 |
『ピエタ』(ミケランジェロ 1498-1500年) "Michelangelo's Pietà, St Peter's Basilica (1498–99) " ©Juan M Romero(17 December 2012, 10:53:30/Adapted/CC BY 4.0 |
『最後の審判』(ミケランジェロ 1536-1541年)システィーナ礼拝堂 |
立体彫刻の傑作を生み出すことができるほどの才能を持つミケランジェロが、絵画作品を下に見て彫刻家を自負するのは、分かる者にとっては至極当然のことなのです。 |
『ケンタウロスの戦い』(ミケランジェロ 1492年頃) "Michelangelo, centauromachia, 1492 ca.01" ©sailko(13 June 2009, 06:49:31)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
立体絵画とも言える、このようなレリーフ作品も立体デザインできる頭脳とそれを具現化する高度な細工技術を必要とする芸術作品です。平面的な絵画には出せない迫力が生まれますし、光の当たり方によって陰影が変化して驚くほど表情豊かな作品となります。見る角度によっても、受ける印象は変わるでしょう。 |
このフォブシールは、そのような立体作品を創造することができる、特別な才能を持つ作者によって生み出された芸術作品なのです。 しかもそれが、持ち主だけが手元で愛でるための小さな小さなものだなんて、本当に贅沢なことですね。 |
1-3-2. 細かな花びらの彫金
|
それぞれの花びらの先端には、細かいギザギザが表現されています。実際の大きさを考えると、わざわざこんなことをしなくてもと思えるほどの小さな細工です。 |
でも、この小さな彫金が肉眼で見た時の印象に大きく効いてくるのです。 |
ギザギザの無い単純な表現だったら、もっと漫画チックな安っぽいお花という印象になっていたでしょう。 この細かなギザギザのお陰で、花びらがゴールドという硬い金属でできているとはとても思えないほど柔らかな表情を与え、まるで本物のお花を封じ込めてしまったかのように感じられるのです。 |
1-3-3. 魚子の技法を駆使した優しい質感
この宝物は、眩いまでの優しい黄金の輝きが本当に美しいです。マットゴールドに見える部分は、鏨(タガネ)を1点1点押し当てて痕を付けることで質感を表現する、日本の魚子仕上げに相当する技法で作られています。適当に打っては、均一な質感にはなりません。高度な技術と想像を絶する集中力、忍耐力を必要とする細工です。現代では想像もできないような手間のかけ方ですが、ヨーロッパも日本も超高級品を担当する古の職人は信じられないようなことをやっていたものですね。 鏨の大きさによって質感は全然違ってくるのですが、この作品は黄金の微粒子の輝きを感じられる、実に美しい仕上がりです。フラットに磨き上げられた奥行きの葉っぱや、バスケットの縁の印象的な"面"の輝きとの対比によって、その美しさは益々惹き立っているのです。 |
2. ロッククリスタルの風防
この、最高に美しい黄金の立体絵画を、透明なロッククリスタル越しに見るのは何とも感動的なものです。 |
2-1. 深い愛を感じる透明な風防
『アール・クレール』 ハートカット・ロッククリスタル ロケット・ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
アールクレール。 透明な芸術。 ロッククリスタルのジュエリーはGenも私も大好きです。 優れたものが多いというのも、ロッククリスタル・ジュエリーの特徴です。 |
ただ、そのような透明な芸術とは全く別のジャンルとして、こよなくGenが好むのがロッククリスタルの風防が付いたジュエリーです。 「風防があるジュエリーは、昔から感覚的にとても好き!」と言っていました。 |
石英の結晶(ブラジル産)18×15×13cm " Quartz Brésil " ©Didier Descouens(2010)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
小さなロッククリスタル(天然水晶)はそれほど稀少価値はありませんが、風防として使用できるほどの大きさと透明度を併せ持つロッククリスタルはとても貴重です。 大地の奥底で長い年月をかけて少しずつ成長してできるロッククリスタルは、2cm以上の大きさになると極端にその存在が少なくなります。しかも結晶全てを使用できるわけではなく、風防として使うことができるのは先端の透明度が高い部分だけです。 |
故にロッククリスタルの風防は、当時の最高級品にしか見ることはありません。 当然ながら市場にも滅多に出てきません。 このロッククリスタルも2.0×1.5cmの大きさがあり、カットすることを考えるととても稀少価値の高い石を使っています。 ただ、「風防があるジュエリーは、昔から感覚的にとても好き!」とGenに言わしめる魅力は、最高級品だからといという単純な理由だけが原因ではありません。 豊かで繊細な感性を持つGenだからこそ感じ取るのとができる、特別な理由が秘められているのです。 |
2-1-1. 風防の目的
『柳と羊』 マイクロパール リング フランス 1792年 SOLD |
風防の目的としてまず考えられるのは、"中のものを守る"という機能的なものです。 マイクロパールが剥き出しのジュエリーだなんて、到底考えられませんよね。 |
マイクロパール ペンダント イギリス 1800年頃 SOLD |
風防でしっかりと守られているからこそ、作られてから200年以上もの時が経過した私達でも、当時のままの繊細で美しい芸術を見て楽しむことができるのです。 |
『モーニングリング』 イギリス 1792年 エナメル、髪の毛、ゴールド、ロッククリスタルの風防 V&A美術館 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
エナメルだけであれば風防でガードする必要はありませんが、このように髪の毛の細工が施されているものだと、ジュエリーとして使う場合は絶対に風防が必要です。 |
2-1-2. 機能性を目的としない風防の存在
ただ、ごく稀れに、そのような機能性を目的としない風防が存在します。 例えば『忘れな草』の風防の中は、シルバーのフレームでセッティングされたダイヤモンドと、エナメルのみです。 本来、ロッククリスタルの風防で守る必要はないものです。それなのに、高価なロッククリスタルでわざわざ守っている。 Genが、「中のものをいかに大切に想っているのか、その愛しい心がよく伝わってくる。」と言っていました。 |
|||
『忘れな草』 ブルー・ギロッシュエナメル ペンダント フランス? 18世紀後期(1780〜1800年頃) SOLD |
この宝物もそうです。 いつもカタログはGenが原型を作成し、私が色々と加筆して仕上げているのですが、この部分に関しては原型をそのままご覧に入れましょう。 |
Genのコメント
僕はこのフォブシールを見た時大変驚きました! |
2-1-3. 深い愛を象徴するロッククリスタルの風防
Genの言葉の意味をきちんと理解した時、私は本当に大きな衝撃を受けました。 Genも認めてくれている通り、私もGenと同様に、良いものとそうでないものを絶対的に見分ける事ができる目利きの能力を持っています。 でも、それだけではアンティークジュエリーを真に理解するには不十分です。 美しい宝物1つ1つの背景にある、愛する心を感じ取れる能力がないと駄目なのです!! |
『愛しきひと』 ジョージアン ミニアチュール・ポートレート リング イギリス 18世紀後期 SOLD |
『木の葉』 ヘアジュエリー メモリアル ブローチ イギリス or フランス 1820年頃 SOLD |
|
愛する人と共に在りたい・・。 スマホで気軽に画像を撮るどころか、写真すらもない時代、愛する人を象徴するものをロッククリスタルで封じたジュエリーが王侯貴族に流行しました。 |
ミニアチュール・シードパール(マイクロパール)ブローチ ホワイトエナメル(七宝)、極小真珠、18ctゴールド、シルバー、髪の毛 フランス or イギリス 1790年〜1800年頃 SOLD |
これは両面にデザインと細工が施されたブローチです。 両面に風防がある、古い時代ならではの特別なジュエリーです。 この宝物は相手を想像するだけでは足りず、2人が一緒になった最高に幸せな姿を表現しています。 オモテ側にエナメルで書かれた『GAGE D'AMOUR』は、愛の証という意味です。 フランス語は上流階級の共通語だったので、hランス貴族が作ったものなのか、イギリス貴族が作ったものなのかは分かりませんが、持ち主の愛する気持ちがひしひしと伝わってくる美しい宝物です。 こういう宝物からは、単なる見た目の美しさだけでは醸し出すことができない、心を揺さぶるような美を感じることができるのです。 |
『湖の畔で』 ミニアチュール(細密画)ブローチ イギリス 1780年頃 SOLD |
|
ロッククリスタルの風防。 それは機能的に中身を守るというだけでなく、持ち主にとっての特別な愛を象徴するものでもあるのです。 |
2-2. リージェンシーの中でも唯一無二の表現
アイ・ポートレート ブローチ(19世紀初期) |
前にご説明した通り、最愛の女性を見つけていながらも一緒になることが許されない、切ない恋愛をしたジョージ4世の時代は様々な特殊な表現が生み出されています。 秘密の恋であるが故に、あからさまではない方法で愛する人を表現するのです。 その、愛する人の象徴はロッククリスタルで守られます。 |
アイ・ポートレート ブローチ(イングランド 19世紀初期) |
王侯貴族のための特別なジュエリーとして作られているものなので当然と言えば当然なのかもしれませんが、すごく上手でリアルですよね。 描かれた人のことを知らない私でも、顔立ち全体や雰囲気まで想像できます。 |
写真や画像は便利ですが、想像の余地がありません。頭の中で描き出す、記憶の中の世界が一番美しかったりするものです。こうして見ると、想像の余地のない現代よりも、想像力を働かせていた時代の方が生き生きとした美しい世界だったに違いないと思ってしまいます。 |
流行した故に、愛する人を眼だけで表現したアイ・ポートレートのジュエリーはたくさん作られています。 しかしながら、この宝物は金細工だけで愛する女性を表現しているのだと思います。 花のように美しい女性だったのか、それとも花が大好きな心優しい女性だったのか・・。 持ち主は手元でロッククリスタル越しにこの花籠を見るたびに、愛する女性の美しい姿を、切ない想い出と共に想像したのだろう感じます。 想像力を働かせる余地を持つものは、単なる見た目以上に心揺さぶる美を感じさせてくれます。 |
Genがなぜこれほどまでに素晴らしいアンティークジュエリー・ディーラーになれたのか。それはきっと、モノとしての目利きができる特別な才能に加えて、人間としての繊細で豊かな感性を人並み外れて持っていたからに他ならないと思います。どちらか片方だけでは絶対に不可能です! Genがアンティークジュエリーの世界に導かれたのは必然だったのでしょうね。Genでなければ駄目です。これほどまでに素晴らしい仕事は、他の誰にも絶対にできません!! 生まれ持った繊細で豊かな感性だけでなく、人生で色々と経験して、絶えず感性を磨いてきたからこそでしょうね。恋愛で痛い目に遭ったり、切ない想いもたくさん経験したようですが、さすが恋多き男だっただけあります(笑)会いたいけど会えない、救ってあげたいのに何もしてあげられない、実ることのない切ない想いも幾度となく経験したそうです。そんなGenからは、「意識しておかないと感性はすぐに鈍ってしまうから、気をつけてね。」と、私も繰り返し言われています。 美しいものに気付き、Genのように心の眼でもアンティークジュエリーを愛でることができるよう、私もしっかりと感性を磨いて心を豊かにしておこうと思います! |
3. 王侯貴族らしい贅沢な回転式フォブシール
3-1. エレガントで高級感溢れるフレーム・デザイン
このフォブシールは回転式で作られています。ジョージアン貴族の男性が持つに相応しい、エレガントで高級感が溢れるフレームのデザインとなっています。 |
3-1-1. たっぷりと厚みのある額縁
素晴らしい絵画には、相応しい額縁が必要です。 黄金の絵画に合わせて、幅と厚みのあるゴールドの額縁がデザインされています。ホワイトカルセドニーがセットされた裏側も同様です。 |
正面から見るとストライプのデザインに見えますが、段差を付けて表現されたものです。 |
平面に溝を彫ってストライプをデザインしただけの場合とは比較にならぬほど、この立体デザインには高級感があります。 |
3-1-2. 回転を支持するセンスの良いフレーム
回転部分を支えるためのフレームも、同様に厚みのある立体デザインで作られています。違和感なく連続するデザインになっているからこそ、主役となる黄金の立体絵画の美しさに没入することができます。 |
3-1-3. 優美な曲線デザイン
ストライプのフレームに直接バチカンを付けるのではなく、優美な曲線デザインで装飾を施してあるのも素晴らしいです。無かったらもっと無骨な印象になっていたでしょう |
金属で造形したとは思えないくらい、軽やかで滑らかな曲線です。 溝を彫ってデザインしたり、ナイフエッジのように角度を付けて磨き上げたり、端部を粒金のように整えたり、細部に至るまでデザインに気を遣ってあります。 作者のセンスの良さが光ります。 |
どちらの面も美しく仕上げられています。透かしのデザインになっているからこそ軽やかさも感じることのできる、トータルとして上手くデザインされたフォブシールです。 |
3-1-4. 200年経過しても美しい耐久力
リングと連結するためのバチカン部分は、高さのある部分が摩耗して、若干シルバーが露出しています。フォー・カラーゴールドで作られた立体絵画は金無垢ですが、フォブシールはヴェルメイユで制作されています。 |
フォンテーヌブロー城のマリー・アントワネットの寝室(1787年) "P1290875 Fontainebleau chateau rwk" ©Mbzt(7 December 2014, 12:21:10)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | |
シルバーに厚く金メッキを施すヴェルメイユは、18世紀半ばのフランスで多く生産されるようになりました。 まだカリフォルニアでゴールドラッシュが起きる前、使用できるゴールドの量が極めて制限されていた時代、この技法によってふんだんにゴールドを使ったようなゴージャスな装飾ができるようになりました。 マリー・アントワネットの寝室もヴェルメイユの装飾によって、かなりゴージャスです。 |
ヴェルメイユのトレイサービス(ヨハン・ジェイコブ・カースティン 1786年) "Johann Jacob Kirstein 001" ©Gryffindor(2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
家具や調度品だけでなく、小物やジュエリーでも金無垢で作るのは無理な大きさのものは、ヴェルメイユの技法が使われていました。 |
このフォブシールもそうです。でも、現代の薄い電気めっきと異なり、ゴールドに厚みがあるからこそ200年経った今でも大部分は美しい色を保っています。摩耗しやすいバチカンの高さのある部分だけはさすがに消耗していますが、実物を見て気になるものではありません。 アンティークジュエリーは市場の枯渇が進んでおり、益々偽物が増えています。元々数が少なく、手に入れるのが難しいジョージアンのジュエリーですが、長い年月使用されることによって出来た摩耗は、愛されてきた歴史と共に古さの証でもあり、それ自体がむしろ価値を持つと言えるのです。 レベルの低いディーラーが同類の顧客に売りやすくするために、こういう摩耗したものに再度メッキを施してピカピカにして販売することもあるのですが、それではアンティークジュエリーの良さが台無しなのです! |
ヴェルメイユが摩耗するほど愛用された宝物ですが、同じく摩耗しやすいバチカンの内部は殆どすり減っていません。 |
【参考】金具の摩耗が激しいフォブシール | 【参考】金具の摩耗が激しいフォブシール |
安物は、いくつもはフォブシールを買えないような人たちが持つものです。1つをヘビーユーズするので、100年以上も経つとここまで金具がすり減ることもあります。 |
『真実の支持者』 ジョージアン ガスリーの紋章 シール イギリス 19世紀初期 SOLD |
ヘリテイジでお取り扱いするクラスの宝物だと、持ち主は宝物をいくつも持ち、ローテーションして使うような莫大な財力を持つような人物となるため、ヴェルメイユが薄くなる程度の摩耗は起きたとしても、明らかに金具の形状が変わるほど摩耗することは滅多にありません。 それに加えて、どうしても摩擦が避けられないこの部分には、より強度のある素材で内側が補強されています。 アンティークのハイジュエリーは、美しさや機能性の追求のためには手間やお金は惜しまないものです。 |
この宝物も内側がしっかりと補強されており、だからこそこれからも安心して楽しんでいただけるのです。 |
それにしても、ヴェルメイユは摩耗していても、ロッククリスタルはこれほどまでに透明で美しい状態を保っていることも見事です。 結晶構造を持たない、柔らかいガラスだったら200年も経過するうちに傷ついて白く濁っていたことでしょう。 ロッククリスタルが見事に中の大切な花籠、つまりは愛しい想い人を守りきっているのです。 |
3-2. 霧のようなホワイトカルセドニー
メインの黄金の立体絵画があまりに素晴らしくて、どうしても存在感が霞んでしまう裏面ですが、実は使われているホワイトカルセドニーも見事で美しいものです。 ジュエリーの中ではメジャーな宝石ではありませんが、Genも私も琴線に触れると言えるほど好きな、独特の雰囲気を持つ石です。 |
|||
|
3-2-1. ジョージアン貴族好みの宝石
Genの若かりし頃(ロンドンにて) | Genがホワイトカルセドニーの美しさを最初に知ったのは、今から四十年近く前のロンドンです。 ジョージアンの、凛とした気品を感じる美しいペンに出会った時だそうです。 |
『ジョージアン カルセドニー ペン』 イギリス 1820年頃 カルセドニー、15〜18ctゴールド 全長 7.5cm SOLD |
|
これがそのペンです。他の宝石にはない、霧の中にいるような独特の雰囲気は何とも言えない魅力があります。ジョージアンならではの美しい金細工にも目が行きますが、この吸い込まれてしまいそうな幽玄の雰囲気は、他の石にはない強い魅力があります。 |
【参考】ミッドヴィクトリアンの成金趣味のジュエリー | |||
大英帝国の最盛期を築いたヴィクトリアンになると、はっきりとした色を持つケバケバしくて成金趣味のジュエリーが流行します。 |
『ジョージアンの究極の美』 マルチーズクロス ブローチ&ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
しかしながらジョージアンは、このような幽玄の美を持つホワイトカルセドニーの魅力を理解し、好む人が少なくなかったようです。 心に余韻が残る美・・。 それこそ印象に残る美しさです。 ホワイトカルセドニーは、まさに切ない恋をしたジョージ4世時代の上流階級好みの宝石と言えます。 |
3-2-2. 大きさのある美しいホワイトカルセドニー
パワーストーン業界で小さなビーズがたくさん出回っているホワイトカルセドニーですが、ある程度の大きさで均一なものを手に入れるのは難しいことです。 他の石と同様、人工的に手を加えられたものも少なくなく、ホワイトカルセドニーだと脱色したものが無数に流通しています。それでも原料は天然のカルセドニーなので、『天然石』と謳って販売されます。そんなものにパワーなんてあるのやら(笑) |
このフォブシールに使われているのは均一で美しい、天然のホワイトカルセドニーです。面取りでカットされた石には厚みがあり、面積も2.0×1.5cmと大きさがあります。 |
ロッククリスタルもホワイトカルセドニーも厚みのある面取りが施されているからこそ、外周フレームのデザインと違和感なく連続してつながっています。 |
全体にとてもしっかりした見事な作りで、手に持ったときにも感じられる、この心地よい厚みが高級感を醸し出します。 |
裏側
表裏とも全く同じ、素晴らしい細工と仕上げです!! |
着用イメージ
|
ご希望の場合は高級シルクコードをお付け致します。 |
|
コーディネートによって、こちらの面でもオシャレです。クルッと回転させて見せれば、あっと驚かれそうですね♪ |
誰よりも早くアンティークジュエリーの魅力に気付き、誰よりも長い年月、この仕事に情熱を捧げてきたGen。 そのGenが驚き、感動した美しい宝物。 それは黄金の花籠をロッククリスタルで封じ込めた、リージェンシーの特別な宝物です。 |
Genは言います。 金が歴史上最も高価だったとも言われる時代にこの贅沢な金の使い方も、お金に糸目を付けない特別の想いがあって作られたからに違いないのです!! |
大量生産と大量消費が当たり前となった現代と違い、アンティークの時代のジュエリーは1つ1つが本当に特別な意味を持って作られています。
逢いたいのに逢えない、まるで霧の彼方にいるような最愛の貴方・・。 その姿が見えたとしても、直接触れることは叶わない・・。 それでもいつでも側に感じていたい。
200年もの時を超えて、今の私たちにもその深い愛を感じさせてくれる美しい宝物。ただ造形が整っただけのものには見せるのとのできない、心で見て感じる深遠なる芸術世界なのです。 |