No.00324 LOVE

極上の色彩を持つ非加熱ルビーのアンティークのウェディングリング

 

 

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

『LOVE』
ルビー リング

イギリス 1880〜1900年頃
ルビー、18ctゴールド
サイズ:9号
重量:2.7g
SOLD

一石でハイクラスのリングとして成立する、大きさと極上の色彩を兼ね備えた素晴らしいルビーのリングです。

非加熱ルビーのゴールド・リング
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

ウェディングリングとして作られたとみられ、ルビーのカットにもリングの作りにも、唯一無二の美しさと耐久性を考慮した気遣いが行き届いています。シンプルなデザインだからこそ、上質か否かではっきりと美しさや着け心地に違いが生じます。実際に着けてみると、まるで着けていないかのような着用感に驚かれるはずです。

通常のルビーリングは定番デザインでも、ダイヤモンドなど脇石が使用されているものです。稀少な天然ルビーの中でも極上の石でしか成立しないデザイン故に、ありそうでないデザインと言えます。成金ジュエリーのように主張せず、それでも上質さに基づく確かな存在感を放つ、極上のルビーリングです♪♪

 

 

この宝物のポイント

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪
  1. ルビーのウェディング・リング
    1. 戦後の庶民用の婚約・結婚指輪との違い
    2. アンティークの高級品ならではの上質なルビー
  2. シンプルイズベストのデザイン
    1. 結婚指輪だからこそのデザイン
    2. ハイジュエリーならではの上質な作り
  3. 美しい彫金文字
    1. オーダーした人の特別な宝物である証
    2. アンティークならではの心地よい字体

 

 

1. ルビーのウェディング・リング

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

シンプルなデザインながら、上質なルビーと優れた作りをしたハイクラスの美しい結婚指輪です♪

こういう結婚指輪も、アンティークのハイジュエリーならではです。

1-1. 戦後の庶民用の婚約・結婚指輪のとの違い

1-1-1. ジュエリー文化の歴史が浅い日本の庶民

石田和歌子の深川江戸資料館でのお正月のアンティーク着物の装いサラリーマン時代のお正月のおでかけ(深川江戸資料館 2016.1.2)

日本は長い期間、ジュエリーの歴史がありませんでした。

庶民がジュエリーを身に着けるようになったのは戦後、洋装がメインになり、高度経済成長によって中産階級に経済的なゆとりが出てきてからです。

良家の女性が着ていたオシャレ着用のハイクラスの着物は、現代のただ高いだけのつまらない着物からは想像もできないくらい色も柄も華やかで、芸術性が高いものも多く、ジュエリーを必要としません。

Genの明治生まれの祖母ウメ(今は無き米沢の実家にて)

Genを育ててくれたおばあちゃんは、1900年前後の明治生まれです。

Genは戦後の1947年生まれですが、おばあちゃんはいつも着物で、洋装は見たことがないそうです。

私の祖母は大正の終わり、1926年生まれです。私が見た姿は洋装がメインでしたが、4〜5時間はかかる長旅でも普通に着物で出かけるということはありました。

日本人の庶民が当たり前のようにジュエリーを身に着けるようになったのは、現代人が想像する以上に最近のことなのです。

1-1-2. ジュエリーを選ぶ際のお手本

1-1-2-1. 戦前の日(アンティークの時代)のファッションリーダー
PDピアズ・クラブ(華族会館)の内装(1912 / 大正元年)

日本にも、西洋に倣った貴族階級が存在した時代がありました。1869(明治2)年から1947(昭和22)年までです。戦後は貴族階級が存在しなくなってしまったと認識して良いでしょう。ちなみにGenが1947年生まれです。Genも日本に貴族が存在した時代は経験していません。

この近代日本の貴族階級は『華族』と呼ばれます。

CC0 by Saigen Jiro 京都御所の清涼殿

その構成は公家の堂上家に由来する堂上華族、江戸時代の大名家に由来する大名貴族、国家への勲功により新規に加えられた新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族の皇親華族となります。

堂上家は上級貴族に相当し、公卿になれる家柄で、御所の清涼殿南廂にある殿上間に昇殿する資格を世襲していました。1869(明治2)年に華族となったのは公卿142家、諸侯(大名)285家の計427家となります。1874(明治7)年の華族の人数は2,891名と記録されています。

ねずみ算式に増えた上、財政難故に爵位をお金で乱発して貴族が増えすぎた革命前の王政フランスの宮廷貴族だけで約4000家、貴族階級の第二身分は40万人もいたことは論外として、これはかなり限られた特権階級だったと言えます。ヨーロッパ貴族の中でもイギリス貴族が特別視されるのは、爵位を継げるのが先代が亡くなった後、しかも男性の長子だけしか継ぐことを許されず、圧倒的に人数が少ないからです。そのイギリスの爵位貴族が1880年時点で580人なので、同等レベルで少なかったと言えるでしょう。

華族制度では子孫も華族となる永世華族の他に、本人一代に限られた終身華族も併用されました。創設から廃止までの約78年間で存在した華族の総数は1,011家と、極めて限られました。

PD日本の貴族院と明治天皇(1890 / 明治23年)

イギリス貴族も貴族院で政治に携わっていましたが、日本もそうでした。これは学校の授業で学ぶのでご存知の方も多いと思いますが、アンティークジュエリーを知る上では別の部分に踏み込みましょう。

PD婦人画報(1920 / 大正9年11月巻)

婦人向け生活情報誌『婦人画報』は現代でも月刊で販売されていますが、現存する日本最古の女性誌で、創刊は1905(明治38)年まで遡ります。

華族は現代の芸能人のような扱いもされており、このような雑誌に華族の子女や夫人のグラビア写真が掲載されることもよくありました。

上流階級の綺麗な女性は憧れ、且つお手本にする対象だったわけですね。

ちなみに1900年頃生まれのGenのおばあちゃんも当時は評判の美人だったそうで、ブロマイドが販売されるほどだったそうです。

テレビもなく、現代のような芸能人もいない時代ならではですね。

PDオックスフォード大学在学中の王太子バーティ(イギリス国王エドワード7世)1860年、18歳頃

それだけでなく、華族の私生活も一般庶民の興味の対象となりました。

これは国が違っても同じと言えます。イギリスではプリンス・オブ・ウェールズのバーティ(後の国王エドワード7世)が、ゴシップで世間を騒がせました。初ゴシップは大学在学中の19歳の時で、アイルランド女優のネリー・クリフデンと初体験したという話は瞬く間に海外メディアにまで伝わっています。本人には騒がせるつもりも、騒いで欲しいと思うこともなかったでしょうけれど、その身分故と言えるでしょう。気の毒な話ですね。

日本では白蓮事件、千葉心中、男性交換や自由恋愛の不良華族事件などの華族のゴシップが、新聞や雑誌を賑わせたそうです。騒がれ方が違うだけで、庶民の興味の対象は現代と変わらないですね。

PD白蓮事件当日の宮崎龍介と柳原白蓮(1921 / 大正10年 10月)

世の中には望まずとも注目されてしまう目立つ人と、誰からも興味を持たれぬ人が存在するものです。

結婚していながらも、社会運動家で法学士だった宮崎龍介と駆け落ちした柳原白蓮の白蓮事件は当時大きな話題を呼び、今でもご存知の方は少なくないでしょう。

PD柳原家21代当主 柳原前光伯爵(1850-1894年) PD鹿鳴館(1883-1900年頃)

白蓮の父は柳原前光伯爵で、柳原家21代当主でした。大正天皇の生母である柳原愛子の伯父にあたるため、白蓮は大正天皇の従妹となります。

父が華やかな鹿鳴館で社交中に、白蓮が誕生した知らせを聞いたそうです。リアル貴族ですね〜。

PD大正期の芸者遊び(1912-1926年)

白蓮は正妻ではなく、前原伯爵の妾の一人だった奥津りょうとの娘です。

りょうは没落した士族の娘で、かつて東京都台東区の柳橋にあった花街で芸妓をしていました。

PD大正三美人の一人 柳原白蓮(1885−1967年)

白蓮は大正三美人の一人とされるほどの美貌を持っていました。

ハンサムで有名だった西竹一男爵が話題になった時、Genが「本妻の子じゃないから顔が良かった(笑)」と、「ちょっとけしからん、でもなるほど!」なことを言っていましたが、やっぱりなるほど(笑)

このように、特別な身分で顔立ちも美しい女性は、憧れの的として一挙手一投足が大注目される時代だったのです。

それは今のように誰でもが好きなものを買い、思う存分オシャレを楽しめる時代ではなかったからとも言えるでしょう。

白蓮さんが着用している刺繍の半襟も、当時はこのような身分の人しか買えない特別高価なものだったはずです。

Genが生まれる2日前の1947年5月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定を定めた日本国憲法の施行によって華族制度は廃止されました。

昭和天皇は首相、幣原喜重郎に対して「堂上華族だけでも残す訳にはいかないか。」と発言されています。男爵であった幣原首相もそれには強いこだわりを見せ、政府内で以下の2点についてアメリカ側と交渉すべきか議論が行われました。

1. 天皇の皇室典範改正の発議権の留保
2. 華族廃止については、堂上貴族だけは残す

議論の場で「陛下の思し召しとして米国側にそのような提案をするのは、内外に対して如何かと思う。」という意見があり、閣僚たちが同調したため、結局「致し方なし。」と断念されました。華族制度は衆議院で即時廃止として可決され、貴族院でも衆議院を通過した原案通りで可決されることとなりました。

PD華族の集合写真(1930年以前)

こうして日本の貴族文化は終焉を迎えました。

皇族や王族が単独で存続しても文化は発展しません。社交界で切磋琢磨することで新しいスタイルが生まれ、流行し、文化として根付いていくのです。それは日本もヨーロッパも同じです。

本来は上流階級がいち早く、新しいくて優れたものを提案したり取り入れたりする役割を担っていました。優れた伝統を守るのも、新しく優れた文化を創り出すのも上流階級の役割でした。まさに文化の担い手です。その担い手が失われ、皇室だけがポツンと存在しています。新しく文化を作れる環境にはありません。伝統を守るという部分だけがフォーカスされ、時代に合わせて柔軟に変化することを許されません。新しいスタイルを提案しようものなら、伝統を守らないと叩かれてしまうでしょう。変化していく時代と共に、ファッションは古臭さがどんどん強くなっています。おかしな状況です。

王侯貴族が世界を主導していたアンティークの時代のヨーロッパでは、君主を始めとする王侯貴族がファションリーダーとして新しいスタイルを提案し、周りがそれを取り入れることで流行が作られていきました。今でも英国王室の女性が着用した物や持ち物が注目され、売り切れとなることは多々あります。

今の日本に、皇族のファッションを真似したいと思う人はどれほどいるでしょうか・・。お手本にしたいと憧れられるファッションリーダーが新しいスタイルを提案し、皆がそれを真似るのは経済を回すという観点からも重要なことです。今の日本の皇室を取り巻く状況は、皇室を利用しようとする御用聞きだけが利するような状況と感じます。広く経済が回り、多くの国民が豊かになれるような状況にはありません。

戦前と戦後では全く違う国と認識をした方が良いと言えるほど、日本は変化しました。現代の常識やイメージで戦前を見てはいけません。

1-1-2-2. 日本の上流階級が参考にする対象
PD旧友の再会(1910年代後期)津田梅子、アリス・ベーコン、男爵夫人 瓜生繁子、公爵夫人 大山捨松

和装に関しては、文化の担い手として長年機能してきた上流階級はお手の物です。

しかしながら開国後、文明国として欧米の列強に見下されぬよう男女ともに洋装もセンス良く着こなしていく必要がありました。

男性の例としては、1871年から岩倉使節団の代表として欧米に渡り、文化も含めて様々なものを視察してきた公家出身の岩倉具視をご紹介しました。

女性の例としては、この1871年の岩倉使節団に随行して渡米した日本最初の女子留学の一人であり、アメリカの大学を卒業した初の日本人女性、公爵夫人 大山捨松を見てみましょう。

PD会津戦争の鶴ヶ城攻防戦(1868年)

大山捨松は会津藩の国家老、山川尚江重固の末娘として1860(安政7)年に誕生しました。1868年に会津戦争が勃発し、降伏すると会津23万石は改易となり、陸奥斗南3万石に封じられました。

斗南は青森の下北半島最北端に位置します。最高の山菜やキノコ、海の幸が食べられるGenの定宿『薬研荘』もある場所ですが、薬研荘が寒すぎて冬期は営業していないことからもご想像いただける通り、斗南藩は不毛の地で3万石とは名ばかり、実質の石高は7千石足らずしかありませんでした。

飢えと寒さで命を落とす人も出る中、捨松は伝手をたどってフランス人の家庭に引き取られることになりました。時期は不明ながらアメリカ人宣教師に預けられたこともあるそうです。

PD新政府の米国留学女学生(1871年)
永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松

捨松が満11歳の頃、政府主導による10年間の官費留学の、女子留学生の再募集がありました。うら若き良家のご令嬢を10年間も単身異国の地に送り出すなんて考えられず、1度目は応募者ゼロだったそうです。

捨松は利発で、フランス人家庭での生活によってある程度ヨーロッパの生活習慣に慣れており、兄が男子留学生として先に選抜されていたこともあって、いざという時には兄に頼れるであろうと、再募集に応募することとなったのです。そして5人の女子留学生の1人となりました。再募集も低調で、全員合格だったそうです。

捨松は11歳でしたが、その隣にいる津田梅子はまだ6歳でした。そんな年齢で日本初、且つ重責あるお役目を受けるなんて、現代の庶民の感覚では考えられないことですね。でも、超優秀な人たちが強い自覚と相当な覚悟を以て尽力すれば、できてしまうのです。凡人は無理ですし、才能があっても自覚や覚悟、努力なくして達成することはできません!

自我がはっきりする以前から自覚を促すのは、とても重要なことです。そうでないと本人に無理を感じさせず、自然体で己を律することはできません。フランス王妃マリー・アントワネットもたった5歳の長女、マリー・テレーズ王女にオモチャを我慢するよう教育しています。上流階級は庶民とは権限だけでなく、責務も違うのです。

PDヴァッサー大学在学中の山川(大山)捨松(1877-1881年)17-21歳頃

11歳の捨松は5人の中ではちょうど真ん中の年齢でした。

上の2人は数え年で16歳でした。当時の女性は10代で結婚するのが当たり前、20代に入れば既に婚期を逃した売れ残りと見られる時代でした。

年長の2人も相当な覚悟を以て臨んだはずですが、先達もおらず、思春期も過ぎた2人には文化もまるで違う異国の地での順応が難しかったようで、病気を理由にその年のうちに帰国してしまいました。

捨松は11歳にして女子留学生の年長者となりました。
現代だとまだ小学生の年齢です!!

捨松は14人兄弟のいるコネチカット州の牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿し、4年近くを娘同様に過ごして英語を習得しました。

PDヴァッサー大学(1862年)

一流とされる公立のヒルハウス高校を卒業後、ニューヨーク州にある全寮制の女子大、ヴァッサー大学に進学しました。アメリカを代表する女性知識人を輩出し、アイビー・リーグに匹敵する地位を持っていた大学です。今は男女共学ですが、各紙の大学ランキングで最難関校またはリベラル・アーツ教育のトップ大学の1つとされる名門校です。

PDヴァッサー大学在学中の山川(大山)捨松、永井繁子、その友人(1881年)

永井しげは音楽科の特別学生として入学しましたが、英語をほぼ完璧にマスターしていた捨松は通常科に入学しました。

東洋人の留学生自体が珍しい時代、ヴァッサー大学では初の白人以外の学生となったサムライの娘Stematz(※)は、その美貌と高い知性ですぐに学校の人気者となったそうです(※本人がより正確な発音に合わせた綴り)。

英文学を専攻し、学内誌にもたびたび寄稿していました。

2年生になると学級委員長に選ばれ、創立記念日では着物を着て実行委員長をやっています。

PD池坊の立花のお稽古(2007年2月)

欧米文化に憧れを抱く人の中には、日本文化を下に見てろくに勉強せず現地に渡る人もいますが、一定以上の階級の人たちと仲良くするには日本人として日本の教養をある程度習得しておくことは必須なんですよね。

教養があって、知的好奇心を持つ欧米人ならば、リアルな日本文化を興味津々で知りたがるはずですから。

サラリーマン時代に会社の華道部でお稽古していただいていた先生は、外務省でも教えていらっしゃったそうです(今はお嬢様にバトンタッチ)。

一旦海外で働いて、戻ってきてから必要性を感じて学びに来る方が多かったとのことでした。

シェイクスピアのモスアゲート・インタリオのフォブシール『シェイクスピア』
モスアゲート・インタリオ フォブシール
イギリス 1820-30年頃
SOLD
フリーメイソン マソニックボール シルバーギルト ペンダント 仕掛け物 十字架 アンティークジュエリー 『フリーメイソンの十字架』
マソニックボール ペンダント
イギリス 1900-1930年頃 
SOLD
フリーメイソン マソニックボール シルバーギルト ペンダント 仕掛け物 十字架 アンティークジュエリー

捨松は日本の上流階級ならではの日本文化をPRするだけでなく、欧米の上流階級に必要とされる様々な教養や文化も身に付けました。傑出した知性を持つ学生のみが入会を許されるシェイクスピア研究会に招待され、4年生の時にはヴァッサー大学最大のソサエティーであるフィラレシアン協会の会長にも選任されています。フィラレシアン協会はフリーメイソンの研究会です。

PDヴァッサー大学の卒業写真(1882年)手前から4列目の左から5人目が捨松

捨松はどの科目でもトップクラスの成績を維持し、1882年6月14日に通年成績で3番目、成績上位者にのみ与えられる『偉大な名誉(magna cum laude)』の称号を得てヴァッサー大学を卒業しました。

卒業式には卒業生総代の1人にも選ばれています。そこで、卒業論文『イギリスの対日外交政策』を元にした講演を行いました。捨松は生物学を得意科目としましたが、官費留学生という特別な立場を強く自覚しており、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも精通していました。

捨松の講演に対して、ニューヨーク・タイムズは「完璧なまでにイギリスの保守主義政策を理解し、アメリカの自由と友愛の精神に対して惜しみない賛辞を送っている。」と論評し、地元新聞シカゴ・スタンダードでも称賛されています。

PD帰国報告に参内した捨松(1882年)

こうして無事にアメリカで学士号を取得し、滞在を少し延長して看護を学んだ後、1882年11月20日に11年ぶりに日本の地を踏んだのです。

これは帰国報告に参内した様子ですが、まさに日本の貴族という感じですね〜。

知性と教養に加えて、見た目も美しい女性に成長して戻ってきたのですね。

ただ、11年で国内情勢は大きく変化していました。

新時代の女子教育の中心機関として1872年に設立された官立の東京女学校は1877年に廃校となっており、政府の女性教育に対する動きは著しく鈍くなっていました。

帰国後は教職に就いて女子教育に努めたいと思っていた捨松が活躍できる場はありませんでした。

PD神田乃武 男爵(1857-1923年)1913年

もはや結婚するくらいしか道が残されていない状況でしたが、英語学者の神田乃武 男爵からの縁談をにべもなく断っています。

23歳だった捨松は、アメリカの寄宿先だったベーコン家の末娘にして生涯の親友だったアリス・ベーコンに宛てた手紙で「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる?母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの。」と書いたそうです。

普通の人という感じの母に対して、あらゆる面で優秀すぎる捨松との対比がいやはや・・(笑)。

PD大山巌 公爵(1842-1916年)

アメリカの大学を卒業し、日本で英語や欧米の上流階級の教養の1つであるラテン語を教えていた神田男爵の縁談を断るなんてと思いますが、もっと相応しい人物に巡り合うことができました。

産褥で妻に先立たれた大山巌 公爵(※当時は伯爵)です。

3人の娘がいたのですが、世話をすることになった大山公爵の姉、國子とは教育方針が合わず、穏便に事態を収拾するために後妻を探していました。

國子は女性に学問は要らないという考えでしたが、この部分が大山公爵とは合いませんでした。当時も、身内であっても考え方はいろいろですね。

創業者ルイ・ヴィトンと2代目ジョルジュ・ヴィトン(息子)、3代目ガストン・ヴィトン(孫)ら
工房の職人たち(1888年頃)

大山公爵は捨松がアメリカに向けて船出した翌日に、ヨーロッパ留学に向けて船出しています。留学先はフランス語圏に属するスイスのジュネーヴです。

1871年に普仏戦争の視察でパリに赴いた際はルイ・ヴィトンで旅行カバン一式をオーダーしており、ルイ・ヴィトンで初めての日本人顧客として顧客名簿に自筆のサインが残っています。ビーフステーキやフランスから輸入したワインが大好物で、自他共に認める西洋かぶれでもありました。

PD鹿鳴館時代の捨松(1860-1919年)

古い時代の良家の女性が集う女子大への留学は、現代の庶民の留学とは全く異なります。

ヴァッサー大学ではラテン語、ドイツ語、ギリシャ語、数学、博物学、作曲、文学、デッサン、化学、地質学、歴史、哲学など、ヨーロッパの上流階級に必要とされるあらゆる教養を学びました。それをトップクラスの成績で修めているのです。

大学ではチェスやホイストも習得しました。

ホイストはイギリスを発祥とする、トランプを使ったトリックテイキングゲームの1つで、2人ずつの2チームに分かれて4名でゲームします。

18〜19世紀にかけて流行した、社交にはピッタリのゲームです。

『バースのカードルーム』(1837年)

イギリスの有名な社交の場の1つだった、バースにあるアセンブリー・ルームズのカードルームでも興じられていました。

欧米では政治や外交の重要事項は社交の場で決まることも多いです。

そして、社交の場では夫人同伴が求められます。

PD第一次伊藤内閣成立時の高官(1886 / 明治19年)大山公爵は陸軍大臣

政府の中心メンバーとして列強と肩を並べていかなければならない大山公爵にとって、捨松ほど理想の女性はいませんでした。欧米で通用する教養やマナー、プロトコルを身に付けた女性はまだいなかった時代に於いて、欧米の上流階級の女性以上に教養を身に付け、英語だけでなくフランス語やドイツ語も堪能だった捨松は"存在すること自体がビックリ!"だったはずです。

大山公爵が捨松を初めて見たのは、女子留学生仲間の永井繁子の結婚披露宴の余興で捨松が『ヴェニスの商人』を演じていた時とも、津田梅子らとテニスしている時とも言われています。いずれにせよ、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさに心を奪われ、大山公爵はひと目で恋に落ちました。

さっそく山川家に縁談を申し入れしましたが、即座に断られてしまいました。捨松ではなく、長兄の山川浩によってです。

PD西南戦争『城山の戦い』(1877 / 明治10年)

会津藩出身の捨松に対して、大山公爵は薩摩藩出身で西郷隆盛は従兄弟に当たる人物です。イギリスの爵位貴族は小国の王と呼べる存在でしたが、大名も一国を治める王と呼べる存在でした。会津戦争や西南戦争で薩摩人と会津人は因縁を重ねており、敵国同士の男女の婚姻に近いイメージがあったのです。

さらに兄の浩にとって、大山公爵は上司でもありました。出世のために妹を差し出したと噂されることも考えられ、浩が縁談を断ったのも至極当然なのです。

でも、捨松に魅了された大山公爵は諦めませんでした。従弟の西郷従道 侯爵(西郷隆盛の弟)に頼んで、徹夜で説得させました。浩が「山川家は賊軍の家臣ゆえ!」と述べれば、西郷侯爵も「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内!!」と応戦しました。西郷侯爵の連日の説得に断りきれなくなった浩は、本人の意思を聞くということになりました。

兄としては本人が断れば円満だったはずですが、捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません。」とデートを提案しました。『オールドミス(明治時代に作られた言葉)』やら、現代でも『負け犬』やら、"婚期が過ぎた女性"に対する目線にプレッシャーを感じる人も少なくありませんが、それらを気にする様子のない捨松は凄いですね。しかも、兄から断ることを期待されていたであろう空気も読まない(笑)

PD大山巌 公爵(1842-1916年) PD大山捨松 公爵夫人(1860-1919年)

18歳も年の差のある2人でしたが、問題はそこではありませんでした。

今でも「鹿児島と青森の人が話しても、互いに通じない。」なんて言われ方がありますが、2人も薩摩弁と会津弁でお互いにさっぱり言葉が理解できませんでした。ただ、2人は普通の人たちではありません。ヨーロッパの上流階級の共通語、フランス語で話し始めた途端、一気に会話がはずみました。

デートを重ねるうちに、捨松は大山公爵の心の広さや茶目っ気ある人柄に惹かれていき、交際から3ヶ月で結婚を決意しました。

捨松には彼女しかできないこと、やりたいことがありました。しかしながらそれが実現できる、女性が就ける仕事はまだない時代でした。大山公爵と結婚することで、その妻の立場として女性のために何かできることがあるはずと考えたのです。もちろん愛なくしての結婚はあり得ず、最高の知性と教養を持つ者同士、おしどり夫婦としても有名な夫婦となりました。

ちなみに捨松は兄の期待を見事にスルーしたわけですが、やはり郷里の人々にとっては感情として受け入れられるものではなかったそうで、婚姻後、大山家は薩摩と会津の両方と親戚づきあいが途絶えたそうです。

PD鹿鳴館(1883-1900年頃)

1883(明治16)年11月8日、2人の婚儀が厳かに行われました。その1ヶ月後、完成したばかりの鹿鳴館で盛大な結婚披露宴が催されました。招待客は千人を超えたそうです。西洋かぶれの大山公爵は披露宴の招待状を全てフランス語で書いて人々を仰天させたそうですが、フランス語も堪能、ヨーロッパの上流階級にも通用する教養やマナーまで身に付けた若く美しい妻は自慢だったに違いありません。

PD『貴顕舞踏の略図』鹿鳴館での舞踏会(1888年2月8日)

鹿鳴館時代の幕開け、まさにそのタイミングで捨松は公爵夫人になりました。

ヨーロッパでは長年、政治や外交は王侯貴族を始めとした上流階級が担っていました。このため、欧米の外交プロトコルでは夫人を同伴する夜会や舞踏会が大きな役割を果たしていました。時にはそうした席で外交上の重要な駆け引きが行われることもあり、キャッキャウフフと気を抜いて遊んでいるだけのようなことは有りえませんでした。

相手の力量を見定めるのに、教養やマナー、プロトコルをどれほど身に付けているのかは重要な尺度となります。また、夫人を見れば、夫の力量も詳らかに分かるものです。ただ、欧米文化に触れ始めたばかりの当時の日本には、ヨーロッパ独特の上流階級のルールの中で然るべき対応ができる女性はいない状況でした。

慣れぬ洋装、勝手の分からぬ西洋のダンスや食事のルールなど、連夜日本の上流階級は四苦八苦していました。欧米諸国の外交官たちは、陰では滑稽だと嘲笑する者もいたようですが、見たことも聞いたこともない異質のものを初めてやるのですから、ぎこちなくて当然です。

PDヴァッサー大学の卒業写真(1882年)奥の左から5人目が捨松

ここで捨松が目立たぬわけがありません。12歳から本場で身に付け始めた社交ダンスは堂々たるものでした。諸外国の外交官たちとは英語、フランス語、ドイツ語を駆使して知的で優雅な会話を楽しみました。アメリカの上流階級のお嬢様が集う女子大を優秀な成績で卒業した捨松にとっては、まさに学んだことを一番活かせる立ち位置だったと言えるでしょう。

チャリティーやボランティアにも熱心で、日本赤十字社のパトロンとなったり、留学中に看護を学んだ経験を生かして政府高官夫人を動員し、包帯作りなどの活動も行っています。アメリカの赤十字社に寄付金を送る傍ら、積極的にアメリカの新聞に投稿して日本が置かれた立場や苦しい財政事情を訴えるなどもしています。日本軍の総司令官の妻、しかもヴァッサー大卒という驚きもあり、捨松の投稿は現地で好意的に受け取られ、アメリカの世論を親日的に導いたそうです。こうしてアメリカで集まった義援金を元に、日本で様々な慈善活動を行いました。

女子留学生だった津田梅子の、女子英学塾(津田塾大学)のパトロンにもなっています。ヨーロッパの王侯貴族の男性が政治や外交を司る一方で、女性は妻として学芸や文化の発展に貢献することが求められました。優れた芸術家や学者の活動をパトロンとして支援するのがその方法ですが、まさにそれを実行していたわけですね。

しかも財産管理もお手の物で、捨松は不動産による大山家の資産運用も行い、大山公爵は「自分が知らない間に広大な邸宅を手に入れた。」と驚いていたそうです。欧米の上流階級の基準で見れば、まさに理想の女性ですね。

PD『於鹿鳴館貴婦人慈善會之圖』(1884/明治17年)
鹿鳴館で行われた日本初のチャリティバザー、中央の黒服の女性が大山捨松

内面的な能力値も極めて高いですが、捨松はその外見的な美しさも際立っていました。立ち居振る舞いのみならず、当時の日本人女性にしては珍しい長身、センスの良いドレスの着こなしも光っており、人々はやがて『鹿鳴館の花』と呼ぶようになったそうです。

日本の上流階級 ヨーロッパの上流階級
PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)1880年代? イギリス王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマークとその家族(1880年)
【出典】Royal Collection Trust / The Prince and Princess of Wales with their shildren, 1880 [in Portraits of Royal Children Vol.26 1880] / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020 / Adapted

そんな捨松がファッションを参考にしていたのは、当然ながら欧米の上流階級の女性です。そして、当時の上流階級の女性のファッションリーダーは大英帝国のプリンセス・オブ・ウェールズ、アレクサンドラ妃です。ヘアスタイル、衣服、ジュエリーや小物などにその影響が現れています。

アレクサンドラ妃の首にあった瘰癧の傷を隠すため、首元が詰まった衣服が流行し、それに合わせて横長のバーブローチが流行しました。スリムに見せるためのレッグオブマトン・スリーブ(ジゴ袖)のシルエットも、当時の欧米の上流階級の女性に流行したものです。

日本の上流階級 ヨーロッパの上流階級
PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)1880年代? ロニエットを持つ淑女(19世紀後期)

エレガントなアイテム、例えばロニエットを手に持つポートレートの構図なども、欧米の上流階級のやり方そのものです。

日本の上流階級 ヨーロッパの上流階級
PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)1919年以前 ノルウェー王妃モード(1869-1938年)1906年、37歳頃(英国王エドワード7世の三女)

この写真でも、欧米の流行を取り入れてジュエリーや小物まで着けこなしていたことが分かります。カラー写真ではないので素材ははっきりしませんが、捨松もロングチェーンを着けています。

PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)

HERITAGEでお取扱いしているのは、アンティークジュエリーの中でもハイクラスのものだけです。

ヨーロッパでは上流階級のみが持てるものでしたし、日本でも限られた上流階級の女性しか身に着けられないものでした。

アンティークの時代、ジュエリーを身に着けることができるのは日本では上流階級の女性だけで、彼女たちが参考にするのは欧米の上流階級でした。

1-1-2-3. 日本の庶民が参考にする対象

衣食住が満ち足りると、庶民も流行やジュエリーなど、プラスアルファの贅沢を楽しむようになります。

世界に先駆けて産業革命を迎えたイギリスであれば、産業革命によって中産階級が台頭してきた19世紀半ば頃からです。

フランスであれば普仏戦争で敗戦した後、見事な戦後復興を遂げた19世紀後期のベルエポックの時代からです。

日本だと第二次世界大戦後、高度経済成長期を迎えた後です。高度経済成長が始まったのが1954(昭和29)年で、1970(昭和45)年までの約16年間に日本は飛躍的に経済成長しました。食べ物にも困った戦後の混乱期を乗り越え、三種の神器と呼ばれる冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが出現し、昭和30年代(1955−1964年)にはマイカーブームが起きました。

1958〜1961年の岩戸景気では若年サラリーマンや労働者の収入が急激に増加し、国民の間に『中流意識』が広がっていきました。この時期を転換期として、日本経済における消費の牽引役が、日本にかつて存在した上流階級から国民の多数を占める中産階級へと移ったのです。

全国初 歩行者天国始まる(銀座通り 1970年、昭和45年8月2日) 【引用】東京都WEB写真館 ©東京都

衣食住が満ちたり、便利な家電製品、さらにはマイカーさえ手に入るようになった庶民が次に買い始めるのがジュエリーなどの贅沢品です。

ただ、どういうものを選んで良いのかが分かりませんし、使い方やコーディネートの方法も分かりません。

貴族がいた時代は憧れの貴族の女性を参考にすれば良かったのですが、残念ながらお手本となる人が国内にはもう存在しません。

迷走する庶民がとりあえず殺到するのが百貨店です。

「安い」を意味するボン・マルシェ百貨店に殺到する中産階級(1887年)

これは普仏戦争の敗戦後、ナポレオン三世を廃位にして共和政に移行し、貴族階級がなくなってしまった後のベルエポックのフランスと全く同じ現象です。

フランスでも、何を選んで良いのか分からない庶民が百貨店側の販売戦略にまんまとひっかかり、くだらないものに散財したり、果ては窃盗症や買い物中毒によって身を滅ぼす人まで出てくるほどでした。

フランスにおけるファッションリーダーの変化
戦前:王侯貴族 戦後:女優や歌手などの大衆のスター
フランス皇后ウジェニー・ド・モンティジョ(1826-1920年) 1854年、28歳頃 フランスの舞台女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1876年、32歳頃

戦後のフランスでは女優や歌手などが、庶民の女性が憧れるお手本となりました。今で言う"セレブ"と呼ばれる人種です。その外見の美しさや表現者としての特別な才能で平民の憧れの存在とはなりますが、成り上がりセレブは代々続いてきた上流階級のように、物心付く前からの教養や知性を身に付けるための徹底した教育は受けていません。

同人物(クレオパトラ)に扮する同時代の上流階級とセレブ
イギリスの上流階級 舞台女優(フランスの大衆のスター)
アーサー・パゲット夫人(1897年) サラ・ベルナール(1899年)

さらに財力もまるで違います。セレブは目立ちはしますが、だからと言って無尽蔵に資産を持つわけではありません。

セレブという名の成金庶民は、上流階級のファッションを真似るか自分で新しいスタイルを無理やりにでも出すかです。上流階級を真似るにしても、新しいスタイルを作りにしても、限られた財力の中でなるべく高そうに見えるものを作るしかありません。その結果、真に上質なものではなく、「ほら、高そうでしょ!凄いでしょ!!!」という主張が激しいだけのハリボテ的なものとなります。

そのセレブをお手本にした結果が、ベルエポックに作られた庶民向けの安物のアンティークジュエリーの数々です。

PDアメリカの映画産業の中心地ハリウッド Public Domain by Jon Sullivan

日本の場合はどうなったかと言うと、1880年代のフランスとは異なる状況にありました。2度の大戦を経てイギリスの王侯貴族もすっかり力を落とし、世界を主導するのはヨーロッパの王侯貴族からアメリカの新興勢力に移っていました。

敗戦後、日本はアメリカの植民地と言って良い状況となりました。一家に1台、テレビがあるのが当たり前ではなかった時代、子供や若者たちは映画館で観るアメリカの中産階級の豊かな暮らしに憧れを抱いて成長しました。Genのような戦後に生まれた世代は"正義の国アメリカ"、"豊かな国アメリカ"というイメージが強く醸成されているはずです。

まだ国内の芸能界も未発達だった時代、上流階級を失ってしまった日本の庶民の女性が参考にするのがアメリカの"セレブ"だったわけです。

1-1-3. 日本の庶民に一般的となった婚約・結婚指輪

1-1-3-1. 戦後になって日本の庶民に入ってきたジュエリー文化
PD婚約指輪と結婚指輪
"Wedding and Engagement Rings 2151px" ©Photo by Derek Ramsey (Ram-Man)(2 October 2004)/Adapted/CC BY-SA 2.5

現代の日本で存在するジュエリー関連の常識は、戦後に新しく作られたものです。

経済の主役となった庶民から儲けるために作られた、業界主導の"常識"です。

いつも着ける結婚指輪は、ダメージに強いシンプルなものが一般的です。

子供の頃の私には到底価値あるジュエリーとは感じられず、単語帳を綴る金属製の輪っかと何が違うのかがさっぱり分かりませんでした。

子供の素直な感想かと言うとそうでもなく、大人になった今でもさっぱり違いが分かりません。

日本の場合はどうなったかと言うと、1880年代のフランスとは異なる状況にありました。2度の大戦を経てイギリスの王侯貴族もすっかり力を落とし、世界を主導するのはヨーロッパの王侯貴族からアメリカの新興勢力に移っていました。

敗戦後、日本はアメリカの植民地と言って良い状況となりました。一家に1台、テレビがあるのが当たり前ではなかった時代、子供や若者たちは映画館で観るアメリカの中産階級の豊かな暮らしに憧れを抱いて成長しました。Genのような戦後に生まれた世代は"正義の国アメリカ"、"豊かな国アメリカ"というイメージが強く醸成されているはずです。

まだ国内の芸能界も未発達だった時代、上流階級を失ってしまった日本の庶民の女性が参考にするのがアメリカの"セレブ"だったわけです。

セシルローズデビアス創業者セシル・ローズ(1853-1902年)1900年、47歳頃 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年)

そこで幅を利かせたのがデビアス社でした。1869年頃からの南アフリカのダイヤモンドラッシュに目をつけ、ダイヤモンド市場を手中にすべく、ロスチャイルドの支援によってセシル・ローズが設立した会社です。

紆余曲折がありつつも市場を掌握し、価格統制したり、品質に関するルール作りをできるほどの力を手に入れたデビアス社は、1929年の大恐慌後に落ちた販売数のテコ入れのためにマーケティング戦略を強化しました。

ブラジルと南アフリカのダイヤモンド産出量の推移 【出典】2017年の鉱山資源局の資料

需要を上回る膨大な量が得られるようになったダイヤモンドは、もはや上流階級のためだけの稀少な宝石ではなく庶民のための宝石です。デビアス社は「ダイヤモンドは永遠の愛の象徴」として、欧米の庶民に向けてダイヤモンドは婚約・結婚指輪の理想であると宣伝しました。

PD『Diamonds Are a Girl's Best Friend(ダイヤモンドは女の子のベストフレンド)』を
歌唱するマリリン・モンロー(紳士は金髪がお好き 1953年)

ロマンス映画の中でプロポーズする瞬間に印象的に使用したり、有名人を使って雑誌や新聞にダイヤモンドのロマンチックな面を想起させるストーリーを掲載したり、ファッションデザイナーや流行仕掛け人を雇ってラジオやテレビなどのメディアを通して流行を広めたりしました。

ダイヤモンドを広めるために英国王室に献上したりもしています。世界のファッションリーダーを利用する意図ですね。日本人が将軍家への献上品であったり、皇室御用達だと言われればありがたがるのと同じ心理を利用したものです。

PDビークマン卿夫人におねだりして高価なティアラを着けるローレライ役のマリリン・モンロー
(紳士は金髪がお好き 1953年)

稀少性を失ったダイヤモンドは、この時点でもはや王侯貴族の強い興味の対象ではありません。

庶民にもギリギリ手が届くくらいまで価格を下げ、無数に存在する庶民に広くダイヤモンド・ジュエリーを買ってもらうのが、ダイヤモンド業界が生き残る道です。もはやターゲットは完全に大衆庶民となりました。王侯貴族やセレブに着用してもらうのは、庶民に対する宣伝目的に過ぎません。

こうして、ダイヤモンドも特別なイメージのある宝石ではなくなっていきました。

1947年にはマーケティング史上最も成功したキャッチコピーの1つとされる、「A Diamond is Forever」が生み出されました。広告代理店NW アイレ&サン社に所属する、当時31歳だったコピーライターの女性メアリー・フランシス・ゲレッティが生み出したものです。

全国初 歩行者天国始まる(銀座通り 1970年、昭和45年8月2日) 【引用】東京都WEB写真館 ©東京都

美味しい市場へとブクブク成長した1970年代の日本。

戦前に当時のハイジュエリーを知り、ヨーロッパの上流階級を参考に着用の仕方を知っていた日本のごく僅かな上流階級と異なり、庶民たちはジュエリーに関しては何も知らない"生まれたてのヒヨコ"同然です。

そこに入ってきたのが、デビアス社の「A Diamond is Forever(ダイヤモンドは永遠の輝き)」のフレーズでした。

PDロングアイランドのコモ一家(アメリカ 1955年)

映画などのメディア・コンテンツを観て、アメリカ人は庶民でも郊外の広い庭付き一軒家に住み、犬を飼い、優雅に暮らす専業主婦の美しい奥様が夫や可愛い子どもたちの帰りを待つというイメージが、戦後の日本人にはインプットされていました。

アメリカは理想国家だ、全てをアメリカ様に学べ、アメリカ様は正義、アメリカ様万歳!
そういう意識があった日本人庶民は、海外からもたらされた「婚約・結婚指輪はダイヤモンドが理想!ダイヤモンドは永遠の輝き!」というプロパガンダをスポンジのように吸収しました。

1970年代から2000年頃まで、特に1990年代を中心に"ダイヤモンドは永遠の輝き"というフレーズは映画館やテレビなどでしつこく使用されました。まあ、洗脳するには一番効果的な方法ですしね。

バブル崩壊後、長い経済低迷期に入った日本はもはや美味しい市場ではなくなり、洗脳広告も激減しました。未だに洗脳が解けておらず、ダイヤモンド一辺倒の人も一定数存在しますが、洗脳が浅い、あるいはほとんど洗脳されていない世代も増えてきたというのが2021年の今と言えるでしょう。

1-1-3-2. 日本で一般化してしまった婚約・結婚指輪
PD婚約指輪と結婚指輪
"Wedding and Engagement Rings 2151px" ©Photo by Derek Ramsey (Ram-Man)(2 October 2004)/Adapted/CC BY-SA 2.5

戦前の日本の庶民にはジュエリー文化は存在しませんでした。故に、新しく入ってきた文化がそのまま常識として確立してしまったのです。

自発的に生まれた文化ならばまだしも、最初から商業目的で作られた文化に過ぎないため、業界側にとって都合の良いものにしかなっていません。

婚約指輪はお給料の3ヶ月分、ダイヤモンドは大きくなければなど、教養や知性のある上流階級からすれば滑稽でヌーヴォー・リーシュ(成金)的なものです。

今あるジュエリーの常識やルールは1970年代頃からの歴史の浅いものあり、遵守すべき根拠があるものでもないのです。

1-1-3-3. 明治期には日本に存在した婚約・結婚指輪の文化
PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)

ヨーロッパの王侯貴族も持っていたハイジュエリーを着けこなす女性がいたことからもご想像いただける通り、上流階級に限っては明治時代に既に結婚指輪の文化は入ってきていました。

PD明治天皇による立憲体制の公布(1889 / 明治22年)

キリスト教式の結婚式ではリングの交換も行われており、明治の終わりには結婚指輪の広告記事も見られます。戦前の百貨店は上流階級や超富裕層が対象顧客で、広告記事も対象は上流階級や超富裕層です。

庶民は相変わらず素朴な生活をする者が大半だったはずですが、上流階級に限っては殆どの現代日本人が想像する以上にヨーロッパのスタイルに順応していたのです。

PD1889年の『憲法発布式』(和田英作 1936年)

日本の貴族階級に属した人の家には、アンティークのハイジュエリーに相当するジュエリーもあったはずです。

しかしながら日中戦争から太平洋戦争にかけての物資不足を補うため、1941年に金属類回収令が公布されました。

激化する戦争の中、官民所有の金属回収が強制されました。

寺の鐘などは有名ですね。

PDベーゴマ(貝独楽) "Beigoma 01" ©Σ64(29 March 2012)/Adapted/CC BY 3.0

そうは言っても、当時の庶民が提供できるのは鍋やベーゴマくらいだったそうです。

PDベーゴマで遊ぶ子どもたち(1914年)
"Spinning Top Season in Japan (1914 by Elstner Hilton)" ©A.Davey from Portland, Oregon, EE UU(1 September 1914, 00:00)/Adapted/CC BY 2.0

戦後復興を遂げる前までの庶民は、本当に貧乏な暮らしだったのでしょうね。貧乏か裕福かと、幸せかどうかとはまた別の話ですが・・。

エドワーディアン アクアマリン ペンダント アンティーク・ジュエリー『ヴェルサイユの幻』
エドワーディアン アクアマリン ペンダント
イギリス or ヨーロッパ 1910年代
アクアマリン、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド、ホワイトゴールド&ゴールド
SOLD

ところで、この金属回収は日本に限った話ではありません。

20世紀は科学の時代でした。

1914〜1918年までの第一次世界大戦は、大量の爆薬や毒ガスなどの化学兵器を使った未曾有の大戦争となりました。

ホワイトゴールドは、化学兵器や爆薬を作るのに必要な触媒として使用するプラチナの代替品として研究開発されたものです。

アメリカ化学会事務局長チャールズ・L・パーソンズ博士(1867-1954年)69歳頃

アメリカですら、1918年1月にパーソンズ博士がアメリカの主婦向け雑誌の中で、「プラチナなくして戦争には勝てない。」と寄稿し、一般女性にジュエリーとしてのプラチナの使用を控えるよう呼びかけたほどでした。

さらにアメリカでは第二次世界大戦の1939年から1945年までは、プラチナジュエリーを作ること自体が禁止されました。

特にプラチナは国の存亡を左右するほどの超重要戦略物資だったのです。

このように、日本のみならず第二次世界大戦中は多くの国で金属を始めとした戦略物資が不足し、回収活動が行われています。

アールデコ 天然真珠 リング アンティークジュエリー『影透』
アールデコ 天然真珠 リング
イギリス 1920年頃
天然真珠、オールドヨーピアンカット・ダイヤモンド、プラチナ
SOLD

ジュエリーとは最後に行き着く最高の贅沢品です。

衣食住が満ちたり、ファッションにも目が行くようになってまず手が出るのは衣服です。

そこから靴やバッグなどの小物、そしてアクセサリー。さらにアクセサリー以上の贅沢ができるようになってようやくジュエリーに手が出ます。

美しいジュエリーを楽しめるのは本当に幸せなことです。

国家存亡の危機に於いて、愛する人たちや自身の命とジュエリーが引き換えになるわけはありません。

日本の上流階級が持っていた当時の数少ないジュエリーはもう残ってはいないでしょう。

そして、古くはヤマト王権期から続いてきた日本の貴族の廃止と共に、1度は生まれた日本の上流階級のジュエリー文化も途絶えてしまったのです。

1-2. アンティークの高級品ならではの上質なルビー

1-2-1. アンティークの時代のウェディングリング

サファイア リング アンティークジュエリー『煌めきの青』
サファイア リング
イギリス 1880〜1900年頃
SOLD

婚約指輪と結婚指輪の両方を揃えたり、ダイヤモンドを指定されたりするようになったのは、ダイヤモンド業界がアメリカと日本の大衆で儲けるためです。

故ダイアナ妃の影響もあり、ヨーロッパではサファイアの婚約指輪が好まれると聞いたことがある方は多いかもしれません。

オパール リング アンティーク『神秘なる宇宙』
オパール リング
イギリス 1880〜1900年頃
SOLD

しかしながらアンティークの時代には、宝石やデザインに特にルールなどはありませんでした。

ヴィクトリア女王によるプロモーションの結果、19世紀後期以降はオパールのウェディング・リングなども好んで作られています。

婚約・結婚指輪のデザイン
ダブルハート トワエモア
ダブルハート リング(エンゲージメント・リング) アンティーク・ジュエリー『愛の誓い』
イギリス 1870年頃
SOLD
天然真珠&ダイヤモンドのトワエモア『貴方と私』のアンティークの婚約指輪『Toi et Moi』
フランスもしくはイギリス 1910年頃
SOLD

デザインもいくつかタイプがあり、それぞれ好みに合わせて宝石の種類や細部のデザインはカスタマイズされています。そもそも決まりなんて存在したら、新しい様式なんて生まれていません。

新しいものを生み出せない凡人にとっては、決まった様式あると選ぶ手間が省けて楽ですが、才能がある人には窮屈でつまらないのが現代の状況です。

1-2-2. アンティークの時代のウェディングリングの宝石

デイ・ジュエリーやナイト・ジュエリーなど遵守すべきTPOはあるものの、アンティークの時代の王侯貴族はジュエリーに余計なルールは必要としませんでした。

だから婚約指輪や結婚指輪の宝石が指定されることもなかったのですが、事情はそれだけではありません。

人造宝石やイミテーションが溢れかえった結果、宝石のイメージがガラリと変わってしまいました。今ではお金さえあれば欲しい時に欲しい物が手に入るイメージを持たれている宝石ですが、古い時代は稀少性が保たれており、だからこそ財産としての価値もあったのです。

昔からジュエリーはリメイクが繰り返されて来ました。イギリスのメアリー王妃はリメイク好きで有名ですが、それは英国王室クラスであっても欲しいだけの宝石を手に入れるのは不可能で、リメイクせざるを得なかったからです。本来、宝石とはそれほど稀少なものなのです。

需要曲線と供給曲線
"Supply Demand" ©Sugarless(25 April 2004)/Adapted/CC BY-SA 3.0

需要に対して供給量が足りない、そういう状態にあったからこそアンティークの時代は宝石が正しく『宝石』として存在できたのです。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

そんな時代だったからこそ、ウェディングリングはそれぞれの持ち主にとって特別な思いで宝石が選ばれていたのです。

ダイヤモンドは選択肢の1つに過ぎません。

1-2-3. 稀少な美しい非加熱ルビー

1-2-3-1. 宝石の中でも特別だったルビー
枢機卿の宝石 "Cardinal Gems" ©Mario Sarto, Robert M. Lavinsky, Humanfeather, JJ Harrison, GeeJo(11 April 2010, 21:36)/Adapted/CC BY-SA 3.0

キリスト教に支配され、宗教者が権力者として地域を統治してきた歴史のあるヨーロッパでは、枢機卿の石と呼ばれる宝石が存在します。

ダイヤモンド、サファイア、ルビー、エメラルド、アメジストです。

鉱物学が進んでいない時代にルビーとガーネット、スピネル、或いはエメラルドとペリドットが混同されることは多々あったため、色で分類されていたと見るのが自然でしょう。

ダイヤモンド 一文字リング アンティーク・ジュエリー
ダイヤモンド
19世紀初期のフランスのアメジストのリングアメジスト 天然ルビー 極上 一文字リング アンティークジュエリー
ルビー
最高級のコロンビア産エメラルドの一文字リング アンティークジュエリーエメラルド 非加熱サファイアの一文字リングサファイア

アンティークのほぼ全ての時代で至高の宝石として王侯貴族に愛された天然真珠が無色のとして選ばれていないのは、女性らしい宝石だったからかもしれませんね。枢機卿や司教など、高位の宗教家は男性でした。

どの色が好みなのかは個人差があり、どの宝石が最も優れているのか、美しいのかというのは議論自体がナンセンスです。しかしながらダイヤモンドのカットが未熟だった時代までは、天然真珠を除く宝石の中でルビーが最も高く評価されていました。ダイヤモンドのカット技術が開発されてからも、依然としてルビーはカラーストーンの中で1番の地位にありました。

その理由は取りも直さず、稀少性が最も高かったことが理由です。

いずれの宝石も、稀少性が失われた瞬間に評価が下がっています。アメジストは19世紀後半にブラジルで大きな鉱脈が発見されたタイミング、ダイヤモンドは1869年頃からの南アフリカのダイヤモンドラッシュ、ルビーはベルヌーイ法による合成ルビーの量産技術が確立された1907年以降、サファイアも同じく量産技術が確立された1910年以降、エメラルドは1935年にキャロル・チャザムが高品質の合成エメラルドの合成に成功し市場に投入したとみられる1940年初頭が転換点です。

脱落時期はタイムラグがあるものの、メジャーな宝石全てが、現代では稀少価値のある雲の上の存在というイメージを失ったのです。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

ルビーの場合は巨大な鉱脈が発見されたわけではないので、合成技術によって量産が可能になって以降も天然ルビーは高い価値があります。

1960年代からは屑石を加熱して見た目を良くした石が多く出回り始め、1970年代以降は当たり前のように加熱処理されるようになりました。

激増する庶民からの需要に対して、天然のままで美しい石が枯渇していった結果です。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

現代では95%以上が加熱ルビーで、非加熱ルビーは5%にも満たないと言われています。

非加熱ルビーでもランクがあります。黒ずんでいたり、色が薄くピンピサファイアに近いルビーもある中で、明るく鮮やかな色彩を持つルビーはさらに割合が少なくなります。

合成ルビーまで含めれば、天然のままで美しいルビーは驚くほど稀少性が高くなります。

ダブルハート リング(エンゲージメント・リング) アンティーク・ジュエリー『愛の誓い』
ダブルハート リング
イギリス 1870年頃
SOLD

同じコランダム系の宝石としてルビーとサファイアを同等にイメージされる方もいらっしゃいますが、サファイアと比較してルビーは圧倒的に少なく、その分だけ稀少価値も高いです。

それはサファイアより、ルビーの方が量産技術の開発が先だったことにも現れています。

市場の大半が加熱ルビーや合成ルビーとなった結果、ルビー本来の価値が見えにくくなった現代ですが、本来ルビーとは極めて価値の高い宝石だったのです。

1-2-3-2. ルビーの稀少価値が高かった時代のリング
初期の合成ルビー&ダイヤモンド・リングシンセティック・ルビー ダイヤモンド リング
イギリス? 1910年頃
SOLD

1907年に合成ルビーの量産技術が確立されました。

20世紀の科学の時代、それを象徴するような合成ルビーは当時の上流階級の注目の的となりました。

量産技術が確立された直後、あるいはラボレベルで上質なルビーの合成に成功したばかりの頃は話題性や珍しさもあり、王侯貴族のために作られたハイクラスのシンセティック・ルビーのジュエリーも作られています。

左の宝物も、脇石の上質なダイヤモンドの贅沢さをご覧になれば、いかにハイクラスのリングとして作られたのかは一目瞭然でしょう。

PDベルヌーイ法で合成された小さなルビーのブール Public Domain by Aram Dulyan

合成ルビーが市場に多く出回るようになって以降は、上流階級は以前ほどルビーに特別な印象を持てなくなりました。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

しかしながら、それ以前のルビーは上流階級にとっても手に入れるのが容易ではない、特別な宝石でした。

19世紀後期の庶民向けの安物リング
イギリス フランス

女性と言っても多種多様ではありますが、ジュエリーを好む女性は民族や時代を問わず宝石が好きな方が多いです。現代ではタダ同然の上質なイミテーションがいくらでもありますが、アンティークの時代は高級宝石は庶民にとってまだ手が届かない憧れの存在でした。

ご紹介のルビー・リングが作られた同時代の庶民用のリングを見ると、一般的にはこのような感じです。世界に先駆けて産業革命を経験し、植民地政策も相まって最盛期を迎えたイギリスは、世界的に見れば庶民ですらお金持ちでした。フランスと比較して、最大7倍の経済格差があったとされています。このため、庶民用の安物にも宝石が使われています。

ベルエポックのフランスでも、普仏戦争からの復興によって旺盛な消費意欲に湧く若い庶民の女性たちがジュエリーを買いまくりました。しかしながらイギリスの中産階級ほど財力がなかったこともあり、さらに安物となります。宝石を使わず、作りも早くて安い鋳造によるもので、コストのかかっていない量産の安物となります。

【参考】ヴィクトリアンの大衆向けガーネットジュエリー

19世紀、ボヘミアで巨大なガーネット鉱脈が発見されました。一般大衆にまでジュエリーの需要が拡大した、世界最大の英国市場を獲得できたことによって、ボヘミアではガーネットが一大産業化しました。最盛期は採掘工400人、研磨職人3,300人、貴金属職人500人、宝石商3,500人もいたそうです。このため、市場には今でもたくさんのガーネット・ジュエリーを見ることができます。

但しその殆どは庶民向けのものです。美意識や教養を持たない石コロ好きほど、石の種類や大きさだけで判断するものです。それは今も昔も、民族も変わりません。天然の宝石は大きくなるほど稀少性が指数関数的に上がり、その価値も跳ね上がります。逆に小さい石は稀少価値がなく、ダイヤモンドであってもタダ同然の値段となります。

19世紀後期のガーネット・リング
庶民の中級品 庶民の高級品 上流階級クラス
カボションガーネット&天然真珠のデイジーのヴィクトリアン・リング

ガーネットは上流階級向けのハイジュエリーにも、庶民向けの安物にも使用されました。但しそれらのガーネットには明確に違いがあります。

庶民向けの中級品の場合は価値のない小さな石を寄せ集め、低コストで大きく見せようとします。もっと安物だと、寄せ集めることすらできません。

庶民向けの高級品の場合は、中級品より大きな石も使われます。天然真珠やダイヤモンドを脇石に使うこともありますが、上質な天然真珠やダイヤモンドは例え小さくても庶民には手が出ない値段なので、かなり汚い低品質のものが使用されます。ガーネット自体も、多少大きさがあっても質やカットのレベルが低いです。一般的にアンティークジュエリー・ショップで高級ジュエリーとして販売されるのがこのランクに属するジュエリーです。このためアンティークジュエリーは汚らしくて作りも稚拙、石も質が良くないと勘違いする人が多いのです。HERITAGEにとっては営業妨害的で甚だ迷惑です(笑)

王侯貴族のハイジュエリーとして作られたものだと、ガーネットは横方向の大きさだけでなく石に十分な厚みがあるものです。表面の磨き仕上げも完璧で艷やかです。

カボッションガーネット 天然真珠 リング アンティークジュエリー『Day's Eye』
ガーネット&天然真珠 リング
イギリス 19世紀後期
SOLD

また、ガーネットの下にゴールドの箔が敷いてあるため、光の加減によってガーネット独特の鮮やかな真紅を印象的に感じることができます。

このようにガーネットは庶民向けの安物にも、王侯貴族のハイジュエリーにも使用される宝石ですが、ルビーは宝石としての稀少価値自体が違うため、庶民の中でもかなりの富裕層以上でなければ使用されません。

1ctオーバーの非加熱ルビーが付いたバタフライのトレンブラン蝶々のトレンブラン ブローチ&髪飾り
イギリス 1880年頃
ルビー(1キャラットオーバー)、サファイヤ、エメラルド、ローズカット・ダイヤモンド、シルバー&18ctゴールド
SOLD

大きな石ならではの魅力をの楽しめるガーネットと異なり、ルビーは大きくて宝石品質の美しい石が極めて少ないという特徴があります。

安物のルビー・リング

大きくても汚らしい石をジュエリーにしたってどうしようもありません。現代の中途半端に小金持ちの成金庶民ならば喜ぶかもしれませんが・・(笑)

これはアンティークリングとして紹介されていましたが、さすがにアンティークでこのデザインと作りはあり得ないので、リプロダクションの可能性が高いと思います。石コロ好きがこういうものに高いお金を出すので、市場にこういう物が存在するわけです。ある程度大きさはありそうですが、汚すぎて私は失笑を我慢できません。

【参考】安物 高級品
ルビー リング アンティークジュエリー

さて、ルビーの場合、大きさ以上に重要と言えるのがルビー独特の色です。ルビーを使ったジュエリーは、一応どれも一定以上の高級品として作られているものの、品質には大きな開きがあります。

これらは全て、ルビーとダイヤモンドをセットしたゴールドの一文字リングです。安物と高級品を判断する材料は"作り"の良し悪しです。宝石の質を厳密に鑑定するには、専用の道具と設備が必要です。千点を超えるようなジュエリーを見て選ぶ買付の場では、1つ1つ詳細に宝石を見て検討するなんてことはできませんから、実際"作り"で判断しています。

そうは言っても高級品として作られたジュエリーには相応の宝石がセットされているものです。安物のルビーは色が黒ずんでいたり薄かったり、ルビーならではの強い魅力が感じられないものです。石のカット自体もレベルがまるで違います。ルビーは煌めきが出やすい宝石とは言われますが、上質なカットを施さないとそのポテンシャルを引き出すことはできません。

アーリー・ヴィクトリアンの非加熱ルビーのクラスターリング アンティークジュエリー『愛の花』
ルビー クラスターリング
イギリス(チェスター) 1838年
SOLD

私たちはアンティークジュエリーの中でも最高級のものしかお取扱いしていません。

加熱品や合成品が溢れる現代のルビー市場の影響もあって、ルビーはどれも色鮮やかで美しいものと思い込む方も少なくなりませんが、ルビーらしい魅力を持つ美しい石を手に入れるのはとても大変なことなのです。

非加熱ルビー&ローズカット・ダイヤモンドのパヴェ・リングイギリス 1880年頃
SOLD
アールヌーヴォーの非加熱ルビーリングフランス 1890-1900年頃
SOLD
エドワーディアンの非加熱ルビー&ダイヤモンド・リング アンティークフランス 1910年頃
SOLD
8角形のベルエポックのルビー・リングフランス 1910年頃
SOLD

ルビーの色の良さは、美的感覚がない人にとっては難しいことなのですが、天然の石なので「この色が唯一の正解!」と断定できるものではありません。いくつか並べてみても、これだけルビーの色彩には違いがあります。

色味、そして非加熱ならではのインクリュージョンが魅せる唯一無二の景色。

アンティークの時代は、上流階級がジュエリーの主要購買層でした。現代の4C基準や鑑別機関などは、マニュアルがないと宝石が選べない庶民が必要だったものです。それもあって、現代の宝石は画一的で個性のない工業製品同然のものになってしまいました。

評論家のお墨付きなど必要とせず、自身の美的感覚で好きかどうかを判断していた王侯貴族のためのハイジュエリーは、宝石すらも唯一無二で個性に溢れています。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

生涯を共にしたい・・。

それほどまでに愛する女性に贈るため、特別に選ばれたのがこのルビーなのです。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

光を強く当てると、裏側のファセットが分かるほど透明度の高いルビーです。

非加熱ルビーのゴールド・リング

肉眼だと、まるでインクリュージョンがないようにしか見えません。実際にはインクリュージョンが全くない天然ルビーは存在しません。

加熱ルビーはルチルと呼ばれる針状結晶のインクリュージョンを高温の炉で加熱し、融かして結晶中に拡散させることで色を良くします。色が良くなるだけでなく、インクリュージョンが融けて拡散してしまうため、透明度も上がります。故に、他の種類のインクリュージョンがないと色付きガラスのように味気ないものになってしまいます。

ルチルが交差したシルクインクリュージョンの有無で加熱の有無が鑑別できるのですが、宝石品質の非加熱ルビーはあまりにも数が少なく、非加熱ルビーのみを天然とすると商売にならないため、世界でも日本でも加熱ルビーを『天然ルビー』と名乗れる決まりになっています。鑑別のルールなんて、実際のところ業界のためのものでしかありません(笑)

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

このルビーもバックライトを当てて光学顕微鏡で拡大して観察すれば、非加熱ならではのルチルが見えるのですが、少ないと透明に見えるわけですね。

非加熱ルビーのゴールド・リング

これだけのルビーを手に入れるのは、現代よりはまだ石が豊富に採れた時代であっても容易なことではなかったでしょう。

脇石を使わず、一石だけで様になる大きさがあり、しかも鮮やかな色彩と透明度を兼ね備えたルビー。贈り主の妻となる女性も、この見事なルビーに男性の真心と深い愛を感じ、心打たれたに違いありません♪♪

2. シンプルイズベストのデザイン

非加熱ルビーのゴールド・リング

このリングはハイクラスのウェディングリングだからこその、シンプルなデザインと上質な作りが魅力です。

2-1. 結婚指輪だからこそのデザイン

2-1-1. ハイクラスのリングのデザイン

シンプルな定番デザイン 意匠性の高いデザイン
ベルエポック フランス ルビーリング アンティークベルエポック ルビーリング
フランス 1910年頃
SOLD
ルビー リング アンティークジュエリー『心の焔(ほむら)』
ルビー 一文字リング
イギリス 19世紀後期
SOLD
アールヌーヴォーの非加熱ルビーリングアールヌーヴォー リング
フランス 1890-1900年頃
SOLD

ハイクラスのリングのデザインの方向性は2つあります。1つは定番で使える、何にでも合わせやすいシンプルなデザインです。もう1つは意匠性の高いデザインです。

作りの良さとデザインの良さは表裏一体です。高い技術と、手間を惜しまない作業、この2つが両立しなければ耐久性と美しさを兼ね備えたジュエリーは成立し得ないからです。

【参考】安物のルビーリング

故に安物にはデザイン性を極めたジュエリーは存在しません。

シンプルと言えば聞こえが良いですが、技術や手間をかけられなかった簡素なデザインというのが妥当です。

ルビー 一文字リング アンティーク・ジュエリー【参考】安物のルビーリング

せいぜいこの程度です。

現代ジュエリーと比べればまだ手をかけた作りと言えますが、アンティークのハイジュエリーと比べれば残念なほどチャチです。

大きなダイヤモンドを買う予算がなく、小さなダイヤモンドでなるべく大きく見せようとした結果のケチ臭いデザインです。

綺麗に見えるならばこのデザインもアリなのですが、ゴチャゴチャ見えて美しくありません。

2-1-2. シンプルなハイクラスのリングが入手困難な理由

ベルエポック フランス ルビーリング アンティークベルエポック ルビーリング
フランス 1900〜1910年頃
SOLD
ベル・エポックのフランスのオシャレな非加熱ルビー&ダイヤモンド・リング
アールヌーヴォー ルビーリング
フランス 1900〜1910年頃
SOLD

センスの良さを感じる、意匠性の高いハイクラスのリングは手に入れるのが難しいです。しかしながらそれ以上にシンプルなデザインのハイクラスのリングは入手が困難です。その理由はいくつかあります。

意匠性が高いリングの場合、しょっちゅう着けていると「また着けていらっしゃるのね。よほどお気に入りなのね。」と言われかねません。こういうリングはジュエリーをいくつも所有しており、取っ替え引っ替えできるほどの莫大な財力を持つ王侯貴族の女性のためにオーダーされたものです。

このような女性はハイジュエリーの適切な使い方を知っていますし、たまにしか使いませんから、100年以上経っているとは思えないほどグッド・コンディションで出てくるものです。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

一方で、何にでも合わせやすいシンプルなデザインの場合、100年以上の年月ヘビーローテーションされた結果、ご紹介できない残念なコンディションになっていることが少なくありません。

一度でもハイジュエリーの使い方を分かっていない人の持ち物となり、不適切な使い方をされればアウトです。

非加熱ルビーのゴールド・リング

そうでなくとも着用者やシーンを選ばないリングは使い勝手が良く、手放す人が少ないので市場に出てくることは稀なのです。

【参考】リプロダクションの可能性が高い安物リング

高い需要がありながらも全く供給が追いついていないのが、石物のアンティークジュエリーにリプロダクションが多い理由です。

2-1-3. ヘビーローテーションに耐えられるデザイン

2-1-3-1. シンプルな定番デザインのルビーリング
非加熱ルビーのゴールド・リング今回のウェディングリング ルビー リング アンティークジュエリー『心の焔(ほむら)』
ルビー 一文字リング
イギリス 19世紀後期
SOLD
ベルエポック フランス ルビーリング アンティークベルエポック ルビーリング
フランス 1910年頃
SOLD

何にでも合わせやすいシンプルなデザインはファッションのために作られた可能性と、婚約あるいは結婚指輪としていつでも着けておきやすいように作られた可能性の両方が考えられます。

今回のリングは内側にイニシャルと日付が彫金されており、ウェディングリングとして作られたと推定できます。デザインに注目すると、定番デザインの中でも特にシンプルであると言えます。ここにウェディングリングならではの心遣いがあります。

2-1-3-2. テーブルの面積が広い特別なカット
トルコフスキーのアイデアルカット(考案 1919年)

宝石はカットによって煌めき方が大きく変わります。

強い煌めきを出すのに効果的なのが、クラウンを厚くしてトップのテーブルの面積を狭くし、クラウンの各ファセットの面積をなるべく広くすることです。

アイデアルカットをさらに進化させたと言われる(実際にはスペック的に進化したわけではなく、コストダウンを成功させたもの)現代のブリリアンカットの場合は逆で、クラウンが薄くテーブルの面積は広いです。

【参考】ブリリアンカット・ダイヤモンドの魅力のない輝き

現代のダイヤモンドが下部ファセットからのチラチラとして弱い輝き、もしくは広いテーブルから放たれる白っちゃけた輝きしか見せられないのは、ダイヤモンドの質ではなくカットが原因です。

天然真珠 バーブローチ アンティークジュエリー『キラキラ・クロス』
天然真珠 バーブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD
天然真珠 バーブローチ アンティークジュエリ

王侯貴族が主要顧客だったアンティークの時代、宝石のカットに規格なんて存在しませんでした。好みや予算、入手できた石に合わせて自由にカットされます。

『キラキラ・クロス』はこれまでの46年間で一番高さのあるカットが施されており、その輝きは眼を見張るものがありました。

なぜこのカットの秘密に気づいたのかと言えば、あまりにも輝きが他のアンティーク・ダイヤモンドと違ったからです。さすがにアンティークの時代でもこのカットは贅沢すぎるためか、ここまで厚みのあるカットが施されたものは他には見たことがありません。

ダブルハート リング(エンゲージメント・リング) アンティーク・ジュエリー『愛の誓い』
ダブルハート リング
イギリス 1870年頃
SOLD
初期の合成ルビー&ダイヤモンド・リングシンセティック・ルビー ダイヤモンド リング
イギリス? 1910年頃
SOLD

これはダイヤモンドに限ったことではありません。ルビーやサファイアなど、強い煌めきを出すポテンシャルを持った石には基本的にこの考え方の元でカットが施されます。

ただ、高さがあるほど、長年の使用によってファセットのエッジが摩耗しやすいデメリットがあります。使用頻度が低ければ問題となることはあまりありませんが、使用頻度が高いと気になってくる可能性があります。

作られてから100年以上も経ったジュエリー、特にダメージが出やすいリングであれば、通常は多少なりとも摩耗しているものです。ダイヤモンドとコランダム系のルビー&サファイアではモース硬度は1しか違いませんが、耐久性で見ると大きな差です。ルビーやサファイアはダイヤモンドよりダメージが生じやすいです。

上の2つのリングも肉眼では特に気になりませんが、拡大すると多少消耗していることが分かります。これはアンティーク・リングの通常のコンディションの範囲です。

非加熱ルビーのゴールド・リング

このリングはあまりにもコンディション良く見えたため、一瞬だけ本物かどうか心配になりました。

パーフェクト・コンディションはリプロダクションの可能性が多々考えられるからです(※わざとダメージを与えて古い感じに仕上げるリプロや、殆ど使用されなかった本物もあるので、イコールではありません)。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

でも、ヘビーユーズが想像されるウェディングリングであっても極めてコンディションが良いのは、きちんと原因がありました!

このルビーはテーブルをなるべく広く、クラウンに厚みがないシェイプでカットしてあるのです。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

サイドから見ると、ルビーに高さが出ないようにカットしてセットされていることが分かります。

安物と違って、ルビーそのものに厚みがないわけではありません。だからこそ、しっかりとルビーらしい鮮やかな色が感じられます。

リングは出っ張った部分が集中的に摩耗します。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

よくよく見れば、ルビーのファセットのエッジには多少摩耗が見られます。

ゴールドの部分にも、長年愛用されたからこその摩耗による自然な艶消しが感じられます。

この宝物はルビーに高さを出さないことで、ウェディングリングとしてヘビーユーズされながらも抜群のコンディションを保っていたのです!

2-1-3-3. 特別なカットならではの輝き
非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪 非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

フラットな面積が広いオモテ側に対して、厚みのあるルビーの裏側は多面のファセット・カットが施されています。一般的なルビーとは異なるカットが施されたこのルビーは、この石にしか出せない特別な輝きを魅せてくれます♪

独創的なカット 一般的なカット
非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪 非加熱ルビーとダイヤモンドのレイト・ヴィクトリアンのアンティーク・リング エドワーディアンの非加熱ルビー&ダイヤモンド・リング アンティーク

一般的なカットでは、ルビーのオモテ側のファセットが強く煌めくことで、華やかな輝きが感じられます。今回の宝物の場合、フラットなオモテ側のファセットはあまり煌めきませんが、代わりに裏側のファセットが煌めきます。宝石の奥から放たれるルビーレッドの複雑な輝きは、単純な華やかさとは異なる、秘めた情熱を表現したかのような奥深い美しさを感じさせてくれます。

裏側のファセットを活かすには、ルビーがインクリュージョンの少ない透明度の高い石であることが必須条件です。また、ルビー自体に十分な大きさがないと、この奥からの煌めきを楽しむことができません。この特別なカットは、稀少価値の高いルビーの中でも特別な石にしか施すことができないのです!

まさにこのウェディング・リングの贈り主が選んだ女性のように、選び抜かれた特別なルビーなのです♪

2-2. ハイジュエリーならではの上質な作り

2-2-1. 珍しいセッティング法

爪留 覆輪留
非加熱ルビーとダイヤモンドのレイト・ヴィクトリアンのアンティーク・リングルビー ダイヤモンド リング
イギリス 1880年頃
SOLD
エドワーディアンの非加熱ルビー&ダイヤモンド・リング アンティーク『グランルー・ド・パリ』
ベルエポック ルビーリング
フランス 1910年頃
SOLD

ハイジュエリーは1つ1つ、宝石をどういうセッティングにするのか入念に考えてデザインされるものです。宝石を使った女性用のジュエリーの場合、主役の宝石をより華やかに魅せるため、高さを出した爪留や、宝石を強調するための覆輪留が選ばれるのが一般的です。

非加熱ルビーのゴールド・リング

この留め方は、女性用として作られたルビーリングとしては極めて珍しいものです。

2-2-2. エンシェント・ジュエリーを彷彿とさせるセッティング

古代ローマ 1世紀 イギリス 1880〜1900年頃
双子座のポルックスをモチーフにした古代ローマのガーネット・インタリオ・リング 非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

今回のルビーのセッティングは、古代ギリシャやローマのエンシェントジュエリーを彷彿とさせるものです。

偉大な帝国を築き、科学技術や文化などのあらゆる点で栄華を極めた古代ギリシャ・ローマは、ヨーロッパの上流階級や知識階級にとって憧れであり、重要な教養でもありました。

グランドツアーでイタリアに赴いたイギリス貴族の子弟たちの重要な役目の1つが、古代の優れた美術品を目利きして買い求めてくることでした(実際に目利きできる人は稀で、持ち帰った大半はジャンクみたいな物だったようですが・・)。

ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、31歳頃

ナポリ王国の英国大使となったウィリアム・ハミルトンも趣味と実益を兼ね、コレクターのみならずディーラーとして大活躍しています。

もたらされた古美術品は王侯貴族や大美術館が買い求めました。

その中には古代ローマの傑作、『ポートランドの壺』も含まれています。

当然オブジェだけでなく、ジュエリーなどももらされました。

古代ローマでは、インタリオは字が書けない人にとって『印鑑』の役割があり、庶民だけでなく剣闘士など奴隷の身分に至るまで着けていました。

紀元前753年から紀元後476年まで、古代ローマには約1,230年もの長い歴史があります。古代ローマに生きた全ての男性がインタリオを持っていたと考えればご想像いただける通り、本物の古代ローマのインタリオ自体は珍しいものではありません。

アンティークの時代から遺跡の発掘が行われていますが、現代でも枯渇することなくゴロゴロ出てくる理由です。

発掘品のコーネリアン・インタリオ・リング【参考】発掘品のコーネリアン・インタリオ・リング

ただ、当時は後の時代より遥かにシルバーやゴールドの量は限られていました。

このためブロンズや鉄で作られたリングが大半です。

それらは土中で腐食が進み、左の鉄のリングのような状態で発掘される場合が少なくありません。

オール・オリジナルの貴重なエンシェント・ジュエリー
古代ギリシャ(ヘレニズム)の木の葉のインタリオ・リング『木の葉』
アゲート インタリオ・リング
古代ギリシャ(ヘレニズム) 紀元前2〜紀元前3世紀頃
SOLD
「ディオニュソスの杖」をモチーフにした古代ローマのガーネットのインタリオ・リング『黄金の輝きの中に浮かび上がるディオニュソスの杖』
ガーネット インタリオ・リング
古代ローマ 200年頃
SOLD

腐食しないゴールドは着用が可能な状態で出てくることもあります。しかしながらゴールドで作られたリングの割合は極めて少ないです。よほど高位の身分の人や富裕層しか持てなかったことは間違いありません。

ギリシャ悲劇の男性の仮面がモチーフの古代ローマのインタリオ・リング『ギリシャ悲劇の男性の仮面』
コーネリアン インタリオ・リング
古代ローマ 2世紀頃(シャンクも全てオリジナル)
SOLD
ギリシャ悲劇の男性の仮面がモチーフの古代ローマのインタリオ・リング

それこそ、ギリシャ悲劇のパトロンとなれるクラスの人です。

ギリシャ悲劇の男性の仮面がモチーフの、オールオリジナルのこのリングも、ギリシャ悲劇のパトロンが身に着けていたと推測できます。

エピダウロスの劇場(古代ギリシャ 紀元前4世紀末) "Epidaurus Theater" ©Olecorre(July 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

このエピダウロスの劇場は最大13,000-14,000人が収容可能とみられているのですが、古代ギリシャやローマに於いて、ギリシャ劇場は市民教育のために重要な地位にありました。設備や役者、コーラスなどを必要とするギリシャ劇場には莫大なお金が必要となります。

一般市民が知的教育を受けるための高尚な場である、ギリシャ劇場を運営するための有力なパトロンとなることは名誉なことでもありました。どれだけ財力があっても、人の役に立たないことにしかお金を出せないようでは誰からも尊敬は得られません。

紀元前5世紀にも、自己顕示欲など私欲のためだけにお金を使う成金が少なからずいたらしく、ソクラテスは以下の言葉も遺しています。
「金持ちがどんなにその富を自慢しているとしても、彼がその富をどのように使うかが判るまで、彼を褒めてはいけない。」

人間の性質とは、驚くほど今も昔も変わらないですね。

太陽神ミトラスの古代ローマのコーネリアン・インタリオ・リング『太陽神ミトラス』
古代ローマ 250年頃(シャンクも全てオリジナル)
コーネリアン・インタリオ リング
SOLD

陰刻のインタリオは、陽刻のカメオよりダメージを受けにくいです。

さらに石に高さが出ないこのセッティングはダメージ防止の効果が期待でき、印鑑代わりにいつも身に着けるリングのデザインとして最適と言えます。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

高い教養と知性を持つ王侯貴族の男性が、古代のリングに着想を得て、いつも安心して身に着けられるウェディングリングとしてこの宝物をデザインしたのではないかと想像します。

アルバート王配がヴィクトリア女王のためにデザインしたサファイアのティアラ(1842年)
 【引用】V&A museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted

知的レベルが高く、才能のある王侯貴族の男性が愛する女性のためにジュエリーをデザインすることはありました。高い教養と知性で知られていたアルバート王配も、新妻ヴィクトリア女王のためにいくつかジュエリーをデザインしています。

このティアラもその1つです。可動できる構造になっており、大きさを変えて様々な着け方ができる優れものです。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

この宝物は一見シンプルに見えますが、王侯貴族の中でも特に知的だった2人の特別なウェディングリングだったに違いありません!♪

2-2-3. 上質な作り

後の時代のオーダーメイドのシャンク
ヨーロッパ 1670年頃 フランス 1830年頃
「パリスの審判」モチーフの古代ローマのブルー・カルセドニーのインタリオとバロック時代のシャンクによるアンティークリング『ゼウス&ヘルメス(パリスの審判)』 
ブルーカルセドニー インタリオ・リング
インタリオ:古代ローマ 1世紀
SOLD
太陽の使い「鶏」モチーフのササン朝 ペルシャのニコロ・インタリオ・リング『太陽の使い』
ニコロ インタリオ・リング
インタリオ:ササン朝ペルシャ 7世紀頃
¥1,880,000-(税込10%

先にご説明した通り、古代のインタリオはそのままでは使えない状態で発見されることが少なくありません。そのような状態のものであっても、インタリオとして極めて芸術性や歴史・文化的に価値の高いものが稀に存在します。

各時代の王侯貴族に高い価値を認められたインタリオのルースは、相応しいデザインと作りによって、再び着用が可能なリングへと命が吹き込まれるのです。

後の時代のオーダーメイドのシャンク
ヨーロッパ 19世紀 ヨーロッパ 20世紀
人物と山羊を彫刻した古代ローマのニコロ・インタリオ・リング『人物と山羊』 
ニコロ インタリオ・リング
インタリオ:古代ローマ 2世紀
SOLD
古代ローマのイルカのコーネリアン・インタリオ・リング『イルカ』
コーネリアン インタリオ・リング
インタリオ:古代ローマ 1〜2世紀頃
SOLD

シャンクのデザインは様々ですが、いつの時代も人気があったのが、オリジナルでよく見るこのセッティングです。但し、同じデザインで作られていても作りの良し悪しには差があります。

このデザインはアンティークの時代に作られたもの以外に、ヴィンテージや現代のものも存在します。ルースをお取扱いする際に、私たちで現代の職人にオーダーすることもあります。ちなみにGenがそれをイギリスのディーラーに見せたら、イギリスより日本の職人の方が上手いと言っていたそうです。

同じデザインのシャンク
古代ローマ 250年頃 ヨーロッパ 19世紀 ヨーロッパ 20世紀
太陽神ミトラスの古代ローマのコーネリアン・インタリオ・リング 人物と山羊を彫刻した古代ローマのニコロ・インタリオ・リング 古代ローマのイルカのコーネリアン・インタリオ・リング

同じ時代でも職人によって上手い、下手があるのは当然のことながら、時代ごとで比べても作りの良し悪しはあります。やはり古代のオリジナルは指へのフィット感や、手に持った時の心地よさがまるで違います。19世紀でもアンティークの作りなので、腕の良い職人が作ったものは馴染みが良いものです。

ヴィンテージは、アンティークの技術が既に失われた時代です。下手な職人が作ったものだと作りが良くないため、気に入らなくてGenがお金と手間をかけて現代の信頼できる職人に作り直しを依頼するほどです。ただ、1億円以上もするジュエリーの製作も依頼されるような、現代のトップクラスの職人に依頼して上手に作ってもらったものでも、アンティークのハイクラスのものには明らかに及びません。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

このリングは19世紀の腕の良い職人が作ったものです。

シンプルなデザインですが、無骨に見えず、まるで着けていないかのような嵌め心地を実現した作りはさすがだと感じます。

シンプルなデザインだからこそ、より難しいのです。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

格調の高さを強調した方が良いメンズジュエリーとは方向性が異なる、女性用のウェディングリング。

エレガントなフォルムからは作者のセンスの良さを感じますし、隙間なくルビーをセッティングした高度な技術も見事です♪

規格化されていない、個性ある宝石の形状に合わせて隙間なくセッティングするのは想像以上に難しいものです。

非加熱ルビーのゴールド・リング

爪留した場合、長年の使用により緩んできた爪を締め直したり、摩耗した爪をメンテナンスしたりする必要が出てきます。

使用頻度が高くないリングならば問題が生じてくることはあまりありませんが、ウェディングリングとしてしょっちゅう着ける場合、この問題は避けて通れません。

適切なメンテナンスをすれば良いだけの話ではありますが、このセッティングだとより安心して使えます。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

愛する女性にいつも着けていて欲しい・・。

そう願った贈り主の真心ということでしょう。

3. 美しい彫金文字

3-1. オーダーした人の特別な宝物である証

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

このリングの裏側にはイニシャルと日付が彫金されています。

アンティークのウェディングリングのイニシャルと日付の彫刻 アンティークのウェディングリングのイニシャルと日付の彫刻

判別が難しい箇所もありますが、以下のように読めます。

イニシャル: B.T.
日付: april 18

西暦は記載されていませんが、4月18日が2人の大切な結婚記念日ということでしょう。西暦があると、宝物をアンティークジュエリーとして見る私たちにとってはありがたいことですが、2人にとっては西暦より具体的な結婚記念日の日付の方が重要ですからね。

このリングは後ろにいくほど細くなるようにデザインされており、文字を彫金できるスペースが限られているため、最も大切なイニシャルと日付だけが彫金されたようです。彫金文字の存在によって、この宝物が大切なウェディングリングとして作られたものだと推定できるのです♪

3-2. アンティークならではの心地よい字体

3-2-1. 機械彫刻と手彫りの違い

【参考】現代の機械彫刻

現代でも刻印するサービスはあり、書体もゴシックだけでなく筆記体も選べたりします。

ただ、それらはフォントごとに規格が決まった、機械制御の味気ないものです。

完璧と言えるほど整った文字であっても、そこには個性も真心も入り込む余地はありません。

誰が彫刻機にセットしても同じものしか出来上がりませんし、同じ名前の人がオーダーすれば全く同じものができてしまいます。

モダンデザインの父 ウィリアム・モリス(1834-1896年)

産業革命によって機械による大量生産の味気ない安物で溢れた19世紀後半のイギリスに於いて、アーツ&クラフツ運動を提唱したウィリアム・モリスは「人間味のある製品こそ真の美術品」と捉え、「全ての芸術の根本と基礎は、手芸にある。」と語っています。

【参考】現代の機械彫刻

深さも均一、太さや形に一切の揺らぎがない文字に、本来心を動かすような美しさを感じることはありません。

手間とコスト、技術がかかる手彫りが駆逐され、安価で大量生産が可能な機械彫りが主流となったのは、優れた感覚や美意識を持たない人が増えた結果でしょう。

3-2-2. 美意識の高い人がこだわる美しい文字

Public Domain by Abasaa文化交流の一環としてアメリカ軍人に習字を教える自衛官(2012年1月)

美しい文字。

『芸術』もそうですが、美しい文字の定義とは何でしょう?

これが、ありそうでないんですよね。

 

私は5歳から習字を習いに行きましたが、お手本の通り精密模写したものが美しい文字とは思いません。

精密模写の上手い、下手はあるのですが、美しいと感じられるアーティスティックな要素とはちょっと違うのです。

例1. 夭逝した才媛 樋口一葉
Public Domain by Abasaa樋口一葉記念館(東京都 台東区)

私が"美しい文字"の魅力に驚き、感銘を受けたのは樋口一葉記念館で見た樋口一葉の和歌の文字でした。

岡山に住んでいたサラリーマン時代、東京出張の際に泊まったホテルの近所だったので、東京観光がてら何となく立ち寄っただけなのですが、今仕事の役に立つ時が来るとは・・(笑)

樋口一葉(1872-1896年)

ご紹介のリングと同時代に生きた樋口一葉は『たけくらべ』や『にごりえ』などの小説で有名ですが、中島歌子の歌塾『萩の舎』で和歌や古典文学も学んでいました。

萩の舎は公家や大名などの旧体制の名家の他、明治政府の特権階級の夫人や令嬢など、上流階級の女性が通う塾でした。

和歌は内容だけでなく筆跡も重要です。

千蔭流創始者 加藤千蔭(1735-1808年)

書道にも流派があり、萩の舎では千蔭流を教えていました。

流れるように美しい文字で、私はこの千蔭流の樋口一葉の文字に感動したというわけですね。

千蔭流は明治期に人気があった流派です。

美しい文字に唯一無二の正解というものは存在しませんが、多くの人が見て「美しい!」と感じる文字はあるんですよね。

1886年に樋口一葉が入門した当時、萩の舎には1,000人を超える弟子がいたそうです。でも、並み居る上流階級の女性たちの中でも樋口一葉は特に優秀で、中島歌子は養女にして跡を継がせたいと要請したほどだそうです。どうりで文字も綺麗だったわけですね。

14歳頃に萩の舎に入門する前、樋口一葉は私立青海学校の高等科第四級を首席で卒業していました。それにも関わらず上級に進まず退学することとなったのは、母である多喜が女性には学業は不要と考えていたからだそうです。向学心やまない娘のために和歌を習わせたのが父、則義でした。

女性の活躍を阻むのは男性かと言えば、案外そうでもないんですよね。男性女性に二分するのは、あまりも雑な捉え方です。現代も女性活躍支援が叫ばれる時代ですが、活躍を望む女性の足をひっぱっているのはまた別の女性だったりします。明治にも大山公爵や樋口則義(下級役人)のような男性がいたわけで、物事をなるべく偏見なく丁寧に見ていくのは難しいながらも大切ですね。

例2. アメリカ独立宣言の最初の署名者 ジョン・ハンコック
ジョン・ハンコック(1736-1793年)

美しい文字へのこだわりは日本人や女性だけに限りません。

どの国、どの性別にも、その割合は極めて少ないながら、強い美意識と卓越したセンスを持つ人物は存在するものです。

例えばアメリカでは知らない人はいないくらい有名人、ジョン・ハンコックのサインもその美しさで有名です。

アメリカ独立宣言に最初に署名した人物で、ニューイングランドで最も裕福な男性の1人であり、高い教育を受けて知識や教養も持っていました。

ジョン・ハンコック(1736-1793年)1765年頃、29歳頃

だからと言って、美意識やセンスの良さを持つとは限らないのですが、ハンコックは高価な服でオシャレすることが大好きで、オシャレを楽しんでいたそうです。

1776年のアメリカ独立宣言のコピー(1823年) ジョン・ハンコックの署名

そんな人物だったからこそ、署名のデザインにも並々ならぬこだわりがあったのでしょう。

スプルーアンス級駆逐艦 ジョン・ハンコックの船尾(就役:1979年、退役:2000年)

やはり多くの人が見て「美しい!」、「オシャレ!」と感じられる文字は存在しますね。それは違和感を感じるまでに整ったものではなく、全体のバランスなのです。人間、しかも卓越したセンスを持つ特別な人にしか生み出すことはできません。

この領域に達すると、意図を伝えるための単なる"道具"という域を超え、感動を呼び起こす芸術作品と呼べるものに昇華するのです。

例3. モダンデザインの父 ウィリアム・モリス
PDウィリアム・モリスによる装飾写本、イラストは准男爵エドワード・バーン=ジョーンズ(1875年)

アーツ&クラフツ運動を提唱したウィリアム・モリスは、生活空間の全てに手仕事の美しさを行き渡らせることを理想としました。

モリスは中世に強い憧れを抱いていました。

モリスの理想が実現されていた時代が中世でした。

ウィリアム・モリスは美しい本の装飾も手掛けています。

机で作業する装飾写本作家(14世紀)

15世紀半ばにヨハネス・グーテンベルクによって活版印刷による本の大量生産が可能になると、本の稀少性と価値は一気に下がりました。

しかしながら専門家が手書きで作るしかなかった時代は、本は特別な身分や富裕層しか持てない超高級品でした。

装飾写本(1450年頃)

才能ある職人たちが心を込めて作り上げた書籍は、その1つ1つのページが芸術作品と言って良いものです。

ウィリアム・モリスによる本の装飾(1896年発行) "Kelmscott Chaucer" ©Cullen328(4 September 2016)/Adapted/CC BY-SA 3.0

明らかにモリスは古い時代の装飾写本を意識してデザインしていますね。

ゴチャゴチャしていて日本人の感覚からすると微妙ですが、日本美術を取り込んで洗練される前の西洋美術は隙間を埋め尽くすゴチャゴチャが基本スタイルなので、こんなものでしょう。それはさておき、文字のフォントには高い美意識を持つモリスの強いこだわりが感じられます。

例4. スティーブ・ジョブズ
PDマックのソフトウェアのリリース・イベントで祝うスティーブ・ジョブズ(左)(1984年) "Steve Jobs with Wendell Brown in January 1984, at the launch of Brown's Hippo-C software for Macintosh " ©Carol Rukomii Holladay(16 October 2014)/Adapted/CC BY-SA 4.0

一般的な企業ではパソコンはマイクロソフト社のウィンドウズが主流ですが、それでもアップル社のマックは淘汰されず、根強い支持があります。

それは代えがきかない機能であったり、魅力があるからです。

サラリーマン時代は社内留学で企画系の部署にいたこともあるのですが、アーティスティックな業務も担当する社員はウィンドウズとマックのパソコンを2台を使い分けて仕事していました。

マックの魅力の1つが多彩なフォントと言われています。

文字なんて意味が通じれば良いという人には意味のない機能ですが、必要とする人がそれだけ存在するということですね。

秘匿義務があるので具体的なことは書きませんが、アップル製品は消費者に見えない部分にまで強い美意識を行き渡らせていました。性能とは関係ない、美的部分にまでです。これは他の企業にはみられない特徴でした。

その美意識の高いジョブズがフォントにこだわるきっかけとなったのが、大学を退学した後にもこっそり忍び込んでいたと言うカリグラフィーの授業でした。

PDペルシャの能書家ミールエマード・ハサニーのカリグラフィー(1600年頃)

カリグラフィーはヨーロッパや中東などにおける、文字を美しく見せるための手法です。

アルファベットに限らず存在します。

カリグラフィーの起源は1世紀後半から2世紀にかけての古代ローマの碑文とされており、古い歴史があります。

古代ギリシャ・ローマは西洋美術の原点とされていますが、ここでも出てきましたね〜。

古い時代、羊皮紙やベラムは高価なものでした。

限られた面積に情報を詰め込むため、本自体が小型化されることもありましたが、より多くの文字を詰め込みつつ美しさも備えた表現を試みた結果、カリグラフィーが発達していきました。

PDイギリスの工芸家、タイポグラファー、カリグラファー エドワード・ジョンストン(1872-1944年)

15世紀以降、印刷技術の普及によって手書きの文字は次第に廃れていきました。

しかしながら19世紀後期に先述のウィリアム・モリスによって古典的な手書き文字の見直しが行われたことを契機に、イギリスのタイポグラファー(書体デザイナー)エドワード・ジョンストンやアメリカのジョン・ハワード・ベンソンらによって普及活動が行われています。

PD若き日のスティーブ・ジョブズ(1955-2011年)1972年、17歳頃

大学でカリグラフィーを聴講したのは興味本位に過ぎませんでした。

まさか自分の人生の中でこれが実際に役立つ時が来るとは思いもしなかったそうですが、10年後、最初のマッキントッシュをデザインしている時、ふと全てが蘇りました。

そしてその全てを詰め込んだそうです。

まさに点と点がつながった瞬間です。

案外そんなものなんですよね。

ローリング・ストーン誌(2011年)
fair use ©Jann Wenner? publisher of the magazine Rolling Stone

強烈な野心がある人は自分にとって役立つ(と思い込んでいる)ものだけを選び取り、そうでないものは全て排除して野心を実現させようとする傾向にありますが、案外閃きというものは、自分の外から偶然もたらされるような気がします。

ウィリアム・モリスも16歳の頃、1851年のロンドン万博で見に行ったことが後のアーツ&クラフツ運動につながっています。

ところでジョブズの写真を見ると、モリスはカッコいい写真の撮り方にも大きな影響を与えているように感じます。

美意識の高い有名人男性のポートレート
モダンデザインの父 バウハウス創立者 アップルCEO
ウィリアム・モリス(1834−1896年)1887年、53歳 ヴァルター・グロピウス(1883-1969年) スティーブ・ジョブズ(1955-2011年)fair use ©Walter Isaacson, or pulisher Simon & schuster, or the cover artist Albert Watson

そのまま真似するとダサいのでバリエーションは付けていますが、バウハウス創立者で初代校長のヴァルター・グロピウスもジョブズもモリスのポートレートを真似していると思います。2人ともモリスを知らないなんてことはあり得ないですしね、

グロピウスは1919年のバウハウス創立宣言で、
「芸術家と職人の間に本質の差はない。階級を分断する思い上がりをなくし、職人の新しい集団を作ろう!」
と呼びかけました。

現代アートは「天才アーティストが天才的な閃きでチョチョイと創り上げるもの」と思い込む人が多いですが、あれは投機が目的なので一定数を量産してもらわないと困るのです。芸術家としてブランディングし、作品を量産してボロ儲けする、美的感覚のない成金しか集まらないビジネスです。量産しないといけないので、職人と呼べるほど手間や技術をかけることはできません。

『人間国宝』も同じようなことが言えます。人間国宝の作品を見て、一体何が良いのか分からないということが多々ありました。私の美的感覚がないのかと思ったのですが、そもそも人間国宝が作った作品の全てが優れていることはあり得ないのです。コンテストジュエリー然り、才能あるアーティストがその全ての才能と魂を込めて創り出す『心震えるアート』は一生で一度しか生み出せないようなものです。手っ取り早く稼ぐために、手抜きした作品を売ることはあるものです。人間国宝のブランドがあれば、ありがたがって大金を出す人はたくさんいます。ろくに価値を分かりもしない成金がむらがってくることを避けるために、敢えて『人間国宝』への指定を辞退する人もいるそうです。良質なパトロンが育ちにくい現代の日本に於いて、活動を継続するために人間国宝に指定してもらわざるを得ない人もおり、全員がプライドを持たない人たちと言うことはできません。それでもプライドを捨てず、自力でパトロンを得て、妥協しない活動を継続できるほど才能のあるアーティストは存在するということです。変にブランディングしないので、見つけ出して知り合いになるのはかなり難しいですけどね。

ヴァルター・グロピウス(1883-1969年) バウハウスのエンブレム

芸術家と職人に境界はない。

これはモリスも思っていたことですし、Genも優れたアンティークジュエリーをご説明する際は常々アーティスト兼職人という言い方をしています。

そして、それが分かるほど美意識の高い人たちは、一様にフォントにも美意識を行き渡らせるものです。

例5. 現代の某麗人
美しい文字による春のご挨拶(2021年3月)

これは3月初めに届いた、お客様からのメッセージカードです。
封筒にフランス語で『Salutaions de Printemps(春のご挨拶)』と書かれているのですが、この美しい字体を見て驚くほど心揺さぶられました。実際にトライしてみると実感できますが、オリジナルでこういうアーティスティックな文字を上手に書こうとすると、想像以上に難しいものです。

優れた宝物ほど、各時代の最も相応しい方の元へと、強いご縁で惹かれ合って旅立つと感じます。HERITAGEでは上流階級の中でも、特に卓越したセンスと教養を持つ人の持ち物だけを厳選してお取扱いしているため、現代のお客様でもそういう方が多いと感じるのですが、この贈り物はグッときました!

しかも良い香りが付けられていました。嗅覚はより本能に近い部分に働きかけると聞きますが、美しい文字とともに良い香りがするなんて、心揺さぶられないわけがありません。現代のように便利なメールや電話がなかった時代、相手の姿を見ずとも当時の上流階級はこのようなやりとりで相手を想像し、その美しさや真心を感じたでしょう。

こういう心地よく美しい文字は教えられてどうこうできるものはなく、本人の美意識の高さとセンスの良さで生み出されるものです。どの時代にも、文字にまで意識を行き渡らせることができる美しい人がいるものだと改めて感じました。

それでも思うのが、このような方が現代に存在できる凄さです。同じ高い意識をもって、切磋琢磨することは重要です。それがなければ文化なんて発展できません。1,000人を超えるライバルがいた樋口一葉の時代と異なり、現代では孤軍奮闘のような状態です。孤立した環境で高い美意識を保ち、技術や教養を磨き続けることは並み外れた精神力もあってこそです。だからこそ現代ではよりその孤高の美しさが惹き立つわけですが、こういう方が今も各地に存在してくださることはHERITAGEにとっても勇気になります!♪

3-2-3. 美しい文字から伝わる美意識の高さ

参考1. 19世紀初期の宝物
シャンルベ・エナメルとカンティーユ&粒金のフランス・アンティークのデミ・パリュール『古からの贈り物』
シャンルベ・エナメル&カンティーユ&粒金のデミ・パリュール
フランス 19世紀初期
SOLD
19世紀初期のアンティークジュエリーのオリジナルケース

これはGenに、「今まで見た中で、総合的に一番良いオリジナルケース!♪」と言わしめた素晴らしいケースです。

このケースだけでも見どころがたくさんありますが、イニシャルのSの字体を1つとってみても、強いこだわりと美意識の高さが感じていただけるのではないでしょうか♪♪

参考2. 大英帝国最盛期のブローチ
太陽 バンデッドアゲート ブローチ 縞瑪瑙 パクス・ブリタニカ アンティークジュエリー『太陽の沈まぬ帝国』
バンデッドアゲート ブローチ
イギリス 1860年頃
SOLD
UFO型? バンデッドアゲート ブローチ アンティークジュエリー

イギリスが太陽の沈まない帝国を実現し、産業革命と植民地政策によって、世界の工場として最盛期を迎えたパクス・ブリタニカの時代に作られたこの宝物にも美しいフォントの彫金があります。

流れるような優雅な文字だとエレガントさを感じますが、この宝物は格調の高さを感じさせる、宝物にピッタリの字体となっています。

センスの良さを感じますね♪

参考3. シルバー・カードケース
シルバー カードケース アンティーク『エレガント・リボン』
シルバー・カードケース
イギリス(チェスター) 1903年
SOLD

シルバー・カードケースにも美しい文字を見ることができます。

社交界で名刺を交換する際には、現代の日本と同じようにプロトコルがあります。

人に見られるものであり、自身の美意識やセンス、財力を相手に伝える超重要ツールであるからこそ、シルバー・カードケースには持ち主の並々ならぬこだわりが詰め込まれているものです。

アンティークシルバーに彫金された美しいイニシャル

イニシャルのデザインを見ても、その美意識の高さが感じられますね。手彫りによる装飾文字は実に美しいものです。ウィリアム・モリスの活動によって、上流階級のフォントへの意識が高まった時代だからこそかもしれませんね。

3-2-3. 美しい文字は美意識の高さの証

アンティークのウェディングリングのイニシャルと日付の彫刻 アンティークのウェディングリングのイニシャルと日付の彫刻

美しい彫金文字はオーダーした人物の高い美意識の証であり、製作を依頼された職人の腕の良さの証でもあります。あるだけで嬉しくなってしまいます♪

男性用として作られたハイジュエリー
フォーウエイ ウォッチキイ ペンダント アンティーク『4 FACES』
フォーウェイ ウォッチキィ・ペンダント
イギリス 1830年〜1840年頃
¥255,000-(税込10%)
リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール アンティークジュエリー 『大切な想い人』
リージェンシー フォーカラー・ゴールド 回転式フォブシール
イギリス 1811-1820年頃
¥1,200,000-(税込10%)

王侯貴族のだめに作られたアンティークのハイジュエリーを見ていると、一般的に女性よりも男性のために作られたジュエリーの方が、細部まで強いこだわりが感じられるものが多いです。Genも同じように言っているので、その傾向は間違いなく存在するでしょう。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

一見シンプルに見えるデザインながら、この宝物に並々ならぬこだわりが詰め込まれているのは、これから生涯を共にする最愛の女性のために、美意識の高い王侯貴族の男性がオーダーしたウェディングリングだからなのだと思います。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

知的ながらも、燃えたぎるような情熱と深い愛情を感じるのはルビーという宝石のせいでしょうか・・。

美しい非加熱ルビーが付いたアンティークのパドルロック『愛の錠前』
パドルロック ペンダント
イギリス 1850年頃
SOLD

特別に選ばれた美しい色彩を持つ上質なルビーは、男性にとって愛する女性そのものなのかもしれませんね。

PD PD 非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪
大山公爵夫妻(1883年に恋愛結婚)

大山公爵夫妻と同時代に作られた美しいウェディングリング・・。

特別な知性を共有し、お互いに唯一無二の存在として尊敬しあった運命の2人。

これだけの宝物なのですから、このウェディングリングの絆で結びついた2人も、当時のヨーロッパ社交界の中で特別な存在だったに違いありません。そんな宝物が大切に受け継がれ、今ここに存在するのも何だか嬉しいことですね。

裏側

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

裏側の作りもとても綺麗です。

安物は宝石の裏側の窓の開け方がガタガタだったりするものですが、この宝物は磨いて完璧に仕上げてあります。

アンティークのウェディングリングのイニシャルと日付の彫刻 アンティークのウェディングリングのイニシャルと日付の彫刻

リングの幅は後部にいくほど狭くなっており、まるで着けていないかのような違和感のない着け心地の秘密です。アンティークのハイジュエリーをよく知らないと、この華奢な見た目に不安になる方もいらっしゃるかもしれません。

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

サイドから見ると、細い後部もゴールドにしっかり厚みがあることが分かります。

鋳造で作る現代ジュエリーは金属自体に強度がないので、金属に厚みが必要で、ボテッとしたデザインでしか作ることができません。

金属は叩いて鍛えると、鋳造の倍以上の強度が出ることもあります。変形にも摩耗にも強くなります、

非加熱ルビーの鮮やかな色が美しいアンティークの結婚指輪

高度な技術を持つ職人が心を込めて作ったジュエリーならば、140年ほどの使用にも十分に耐えられるのです。

見た目の美しさと高い耐久性の両立。

美しいアンティークジュエリーは人間にしか創り出すことのできない、時を超える小さな宝物です♪

着用イメージ

非加熱ルビーのアンティークの結婚指輪の着用イメージ

上質なルビーは、ダイヤモンドを取り巻いて定番デザインにすることが多いです。

しかしながらこの宝物は、ダイヤモンドがあったらむしろ蛇足だっただろうと感じさせるくらいルビー自体に魅力があります。

シンプルですが、このクラスの石が手に入らないと成立しない特別なデザインと言え、案外ありそうでないリングとなっています。

コーディネートしやすく質も良い、初心者の方にもジュエリーをたくさんお持ちの方にもオススメのルビーリングです♪