No.00283 摩天楼

2. 摩天楼フィーバーに生まれた特別な作品


アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ

この宝物のポイント

1. ロッククリスタルを使った異例のデザイン
 1-1. 稀少性が高い大型で美しい天然水晶
 1-2. ロッククリスタルを使った宝物
 1-3. ロッククリスタル産業とジュエリーの関係
 1-4. ロッククリスタルのハイエンドのアールデコ・ジュエリー

2. 摩天楼フィーバーに生まれた特別な作品
 2-1. 19世紀後期に発生した超高層建設フィーバー
 2-2. 美しき鉄とガラスの建築
 2-3. 摩天楼とバウハウスの融合
 2-4. 建築とジュエリーのデザインの関係

3. 見事な造形
 3-1. センス抜群のロッククリスタルのカット
 3-2. 驚異的な立体交差デザイン
 3-3. ロッククリスタルのための特殊なセッティング
 3-4. ファイアと煌めきの魅力抜群のダイヤモンド
 3-5. ダイヤモンドの特殊なセッティング

4. アンティークジュエリーの最終形

 

2-1. 19世紀後期に発生した超高層建設フィーバー

ジュエリーから垣間見るニューヨークの摩天楼

この宝物が作られた1930年代は、世界の中心が大英帝国から移ったアメリカで摩天楼の建設フィーバーが起きていた時代です。宝物にも時代を反映してか、摩天楼を思わせるようなデザインと工法が感じ取れます。

ホーム・インシュアランス・ビル世界初の鉄骨を使った超高層ビル"ホーム・インシュアランス・ビル"(シカゴ 完成:1885年)当初の高さ42m、10階建て。1891年に2階追加された後の写真。

世界初の鉄骨を使った超高層ビル(摩天楼)は、シカゴに建てられました。

42mで10階建てでした。

現代では10階建てはそれほど高く感じませんが、それまで石やレンガ造りのどっしりした建物が当たり前だった時代を考えると、相当なインパクトがあったことは想像に難くありません。

これにより、シカゴには超高層建築ブームが起きました。

1880年代から1890年代にかけて市内で建設された建物は『シカゴ・スクール』と呼ばれています。

シカゴ・ビルディングシカゴ・ビルディング(シカゴ 完成:1905年) シカゴ・ウィンドウシカゴ・ウィンドウ

シカゴ・スクールには際立った特徴がいくつかあります。

その1つが大きな板ガラスを使った広い面積の窓です。『シカゴ・ウィンドウ』と呼ばれました。

その他、軽量化のために外部装飾の量を制限する、鉄骨を備えた石積み(通常はテラコッタ)という特徴がありました。

ギュスターブ・ドレ作のバベルの塔をモチーフにした『言語の混乱』バベルの塔をモチーフにした『言語の混乱』(ギュスターブ・ドレ作 1865年-1868年)

天にも届きそうな超高層ビルは、高い技術の証です。

また、威厳に満ちており、見る者に技術力と共に格調高さ権力なども誇示することができます。

だからこそ人間心理を見れば当然の流れと言えるでしょう、シカゴとニューヨークの間で世界一の超高層ビルの、意地とプライドをかけた建築競争が発生しました。

アメリカン・シュアティ・ビルディングアメリカン・シュアティ・ビルディング(ニューヨーク 完成:1896年)103m、21階建て

この初期の建築競争を制したのはニューヨークでした。

1894年に完成したマンハッタン生命保険ビルディングは高さ106mで、初めて100mの高さを超えた超高層ビルとなりました。

1896年に完成した当時で世界で2番目に高いアメリカン・シュアティ・ビルディングも103m、21階建ての超高層建築でした。

尖塔やアンテナを含むとどうかという細かいことは多々ありますが、以降1974年までの長い期間の大半を、ニューヨークが世界一高いビルがある街として君臨することになりました。

アメリカン・シュアティ・ビルディング(ニューヨーク 完成1896年) "100 Broadway IMG 9055" ©Gryffindor(2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0

アメリカン・シュアティ・ビルディングはマンハッタンのブロードウェイにあります。現代の感覚で見ても迫力がありますね。

装飾には古代ギリシャっぽい彫像や、古代ギリシャの象徴でありグリーク・キィとも呼ばれるメアンダーも使われています。

現代ではもっと高い建物に囲まれてしまっていますが、当時は世界一に相応しい威厳を格を皆が感じていたことでしょう。

この格段に高さのある建築を可能としたのが鉄骨構造と『カーテン・ウォール』でした。

2-2. カーテンウォールによる美しき建物

2-2-1.最初のガラス・カーテンウォールの建築物

1851年のロンドン万国博覧会のクリスタルパレス

世界最初のカーテンウォールは1851年、世界最初の万国博覧会で建てられたロンドンのクリスタルパレス(水晶宮)です。鉄骨構造の建築に鉄とガラスを組み合わせたプレハブ工法の先駆的な建物です。水晶の宮殿と名付けられるほどなので、実物はかなり美しかったことでしょう。透明な美しさは絵や画像では殆ど伝わりませんからね〜。

PDロンドン南郊シデナムに移設後のクリスタルパレス(1854年)

『カーテンウォール』は建築構造上、取り外し可能な壁です。建物の自重および、地震や風圧などによってかかる荷重は全て壁を除いた柱、梁、床、屋根等で支え、建物の荷重を直接負担しない壁をカーテンウォールと言います。日本の建物で言うならば間仕切り壁と同様なので、障子や襖を想像していただければ良いです。

2-2-2.超高層建築とカーテンウォール工法

従来の一般的な高層建築では鉄筋コンクリート構造を採用することが多く、外壁は柱や梁と同様に建物自体の荷重を支える他、地震や風圧によって建築物にかかる力に対抗する役割を果たしていました。

しかしながら19世紀後期以降、超高層建築の高層化がさらに進んだ結果、外壁自体の重量が設計上無視できない問題として浮上してきました。

建設中のウールワース・ビルディング(ニューヨーク 1912年2月)
建設中のウールワース・ビルディング(ニューヨーク 1912年4月)

そこで問題を解決するために採用されたのがカーテンウォールです。

建築物の荷重を支える構造は柱と梁によるものとし、外壁はそれらの構造物に貼り付けるのみとるす工法が開発されました。

これにより外壁荷重の軽量化、建物のしなりによる歪みの影響を極力小さくすることが可能となったのです。

ウールワース・ビルディング完成したウールワース・ビルディング(ニューヨーク 1913年頃)241.4m、57階建て

そしてマンハッタンに1913年に完成したのが高さ241.4m、57階建てのウールワース・ビルディングでした。

ネオ・ゴシック様式で建てられており、最上部のゴシック様式の装飾が一際目を引くデザインになっています。

ウールワース・ビルディングのロビー "WTM3 PAT M IN NYC 0021" ©PAT M IN NYC (Wikis Take Manhattan 2009 participant)(10 October 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

外装もさることながら、内装も豪華ですね。

ヨーロッパのゴシック教会を思わせる壮麗さから、オープニング・セレモニーではS.パークス・キャドマン牧師から『商業の大聖堂』と称されたそうです。

実業家フランク・ウィンフィールド・ウールワース(1852-1919年)

このビルのオーナー、フランク・ウィンフィールド・ウールワースは小売業で成功した実業家ですが、建設費である1350万ドルを何と現金で支払ったそうです。

アメリカンドリーム、恐るべしといったところでしょうか。

1910年代、アメリカがいかに力を付けていたのかが伝わってきます。

第28代アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソン(任期:1913-1921年)

このニューヨーク摩天楼の先駆的建築のオープニングでは、当時のウィルソン大統領がホワイトハウスから全館点灯のスイッチを押したそうです。そして1913年の完成から1930年までの間、世界一高いビルとして君臨しました。

ウールワース・ビルディングのエレベーター
"Woolworth Building Elevator" ©Mary Browlee(15 October 2017, 10:27:49)/Adapted/CC BY-SA 4.0

超高層建築物を可能にしたのが水圧ポンプと電動エレベーターなどの機械装置の発達でした。

現代の日本の簡素なエレベーターと違い、ウールワース・ビルディングのエレベーターは驚くほど豪華ですね。

この57階建ての建物にはエレベーターが34機あったそうです。

ニューヨークのマンハッタン中心部 "Panorama clip3" ©Jleon(2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

その後、第一次世界大戦による好景気もあり、1920年代にはニューヨークで摩天楼の建設ラッシュが起きました。1914-1918年までに第一次世界大戦で疲弊し、王侯貴族が主導した旧世界が終焉を迎えたヨーロッパとは反対に、破竹の勢いで発展するアメリカという国そのものを象徴するのがまさに天高く伸びる摩天楼群だったのです。

2-3. 摩天楼とバウハウスの融合

2-3-1.バウハウスの画期的な発明

アメリカン・シュアティ・ビルディング(ニューヨーク 完成1896年) "100 Broadway IMG 9055" ©Gryffindor(2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ここまでの超高層建築物を見ると、デザイン的には外観・内観共にヨーロッパを意識した、どこかクラシックな印象をお受けになったのではないでしょうか。

世界貿易センター(開業1973年)とウールワース・ビルディング(開業1913年)
"New york city 1985" ©Jeff5102(1985)/Adapted/CC BY-SA 4.0
ウールワース・ビルディングのロビー "WTM3 PAT M IN NYC 0021" ©PAT M IN NYC (Wikis Take Manhattan 2009 participant)(10 October 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0 ウールワース・ビルディングのエレベーター
"Woolworth Building Elevator" ©Mary Browlee(15 October 2017, 10:27:49)/Adapted/CC BY-SA 4.0

当時のアメリカにはヨーロッパの上流階級や文化への憧れがあったため、それを取り入れたものが多く存在するのです。1920年代くらいからアールデコを始めとする、建物や内装にもモダンな印象が強くなってくるのですが、建築物に関しては『バウハウス』の影響が大きいと言えるでしょう。

PDバウハウスのデッサウ校(1925年頃)

バウハウスと言えばモダニズム建築の源流であり、ファンも多いのでこの有名なデッサウ校のデザインはご存知の方も多いのではないでしょうか。

PDバウハウスのデッサウ校舎のガラス・カーテンウォール(1925年頃)

このデッサウ校舎もガラスのカーテンウォールで作られています。

バウハウスは1919年、ヴァイマル共和政期のドイツで設立された、工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校です。

その流れを汲む合理主義的・機能主義的な芸術を指すこともあります。

ケムニッツのバウハウスの建物(完成1928年) "Bauhaus Chemnitz hb" ©Hbar.cc at English Wikipedia(6 July 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

学校として存在したのは1933年にナチスによって閉校されるまでの僅か14年間ですが、当時、他には類を見ない先進的な活動は『モダニズム建築』や『20世紀美術』として現代美術に大きな影響を与えました。

PDデッサウの舞台用照明器具が取り付けられた天井(1925-1932年頃)

19世紀までの装飾性に富んだ歴史主義建築等と異なり、バウハウスのアーティストたちが生み出したデザインは極めて合理的かつシンプルなデザインでした。

バウハウスのデザインのタイプライター(シャンティ・シャウィンスキー 1936年) "Olivetti-schawinsky-bauhaus-typewriter" ©ChristosV und/oder Christos Vittoratos(11 August 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

そのため機械を使った大量生産に適しており、産業革命によって20世紀初頭に巻き起こった、製品の合理性を追求するモダニズムの流れの中で、バウハウスのデザイン手法も派生を繰り返しながら爆発的な広がりを見せて行きました。

エドワーディアン アールデコ
前期 後期
白い輝きが美しいエドワーディアンのダイヤモンド・ネックレス『Shining White』
エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス
イギリス又はオーストリア 1910年頃
SOLD
モンタナサファイアのスカイブルーが印象的なアールデコのネックレス『天空のオルゴールメリー』
イギリス 1920年頃
¥1,230,000-(税込10%)
【参考】ダイヤモンド ブローチ(ブシュロン 1930年代)
【参考】ジョージズ・フーケ作 アールデコ・リング、クリスティーズにて7万5千スイス・フランで落札(約825万円)

ジュエリーにも同じことが起きました。1910年代のエドワーディアンから1920年代のアールデコ前期くらいまでは、モダンなデザインの中にクラシックさも感じられるデザインがありました。このクラシックな雰囲気を醸し出す部分は特に、高度な技術を持つ職人が1つ1つ丁寧に作業しなければ具現化できない箇所です。
アールデコ後期、1930年代頃からは高級品として作られたものであっても、楽して量産するための"手抜きのためのデザイン"、"大量生産のためのデザイン"になっていきます。手抜きして安っぽく見えることを誤魔化すために、ダイヤモンドだけはゴチャゴチャとたくさん使うようになっていきます。

【参考】ダイヤモンド ブローチ(1940年代) 【参考】ダイヤモンド ブローチ(ブシュロン 1940年代)

古の教養と美的センスを持つ王侯貴族たちであれば、これらを見たら一瞬でいかにも安っぽい手抜き品と看破したことでしょう。しかしながら教養やセンスを持たない成金(庶民)たちは、「大きなダイヤモンドがたくさん付いてさえいれば高級品」という販売者側の宣伝文句を簡単に鵜呑みにして大金を払ってくれます。こうして手のかかる仕事は施されなくなっていき、美しいジュエリーを作る技術も失われ、戦後は完全にジュエリーは終わってしまったのです。

PDデッサウのカフェテリア(1925年頃)

バウハウスはデザインの合理性から幅広い分野に影響を及ぼしており、特に理由がない限り現代でも標準的なデザインとして採用されています。バウハウスが発明した合理性を追求したデザインは、現代人が意識する必要がない程に日常化したと言えます。

PDデッサウのフェストザールの舞台(1925-1932年頃)
だからバウハウスの作品を見ても古さを全く感じず、むしろ現代よりも先進的でモダンな印象すら受けるのではないでしょうか。バウハウスが追求したのは機能美であり、"単なる機能"と"コストダウン"だけを優先したものではありません。現代では「機能さえ備わっていれば安いほど良い」という方向に劣化しているので、1920〜1930年代より進化しているかと言えばその逆で退化してしまっているからです。
【参考】アールデコ後期の量産ジュエリー
ジュエリーくらいは芸術的なものとして、"女性を心から輝かせてくれる高級で特別な宝物"として生き残って欲しかったのですが、この時代あたりから大量生産・大量消費的な工業製品化してしまい、遂には着けないほうがまだマシというくらい酷いものになってしまいました。
【参考】鋳造の量産ダイヤモンド・リング

進化したのはより手抜きしてもっともらしく見せる、コストダウン技術だけです(笑)

早く安く作る。でも、高そうに見せることで実際のコストには見合わないくらい高値で売る。金儲け的には賢いやり方ですが、こんなやり方をして楽しいのでしょうかね。心が腐りそうです。

ダイヤモンド・ブローチ(カルティエ 現代)¥3,628,800-(税込)2019.2現在
【引用】Cartier HP / PLUIE DE CARTIER BROOCH
ダイヤモンド・ブローチ(ブシュロン 現代)¥9,306,000-(税込)2019.2現在
【引用】BOUCHERON HP / WOLF BROOCH

高いから、高級ブランド品だからなどと、根拠のない理由で1点物の価値あるジュエリーだと思い込む人も少なくありません。1点物ならば、全世界に向けてネットで販売したり、そこらへんにたくさんある店で販売するなんて無理に決まっています。同じものをたくさん作っていることは、少し考えればすぐに分かることです。量産するために当然鋳造で作られているので、どれもボテっとした作りにしかなりません。

使う道具に機能美を求めたり、最低限の機能性があれば良いというのは通用しますが、ジュエリーにまでそれを適用してはいけません。それなのに適用してしまったから、ジュエリーがこのようにおかしなことになっているのです。

2-3-2.ドイツ工作連盟で起きた規格化論争

現代ジュエリーは同じようなデザインのつまらないものばかりですが、そのタネは既にバウハウスの少し前の時代から存在しました。

【参考】パンテール ドゥ カルティエ リング(カルティエ 現代)¥20,064,000-(税込)2019.12.5現在
【引用】Cartier / PANTHERE DE CARTIER RING ©CARTIER
ヴァイマル大公ヴィルヘルム・エルンスト(在位:1901-1918年)

歴史を見て行くと、国家レベルで芸術文化が花開くその背景には必ずキーとなる大きなパトロンが存在します。

莫大な財力を持ち、制度にも影響を与えてバックアップすることが可能な"君主クラスのパトロン"です。

ドイツのバウハウスの場合は、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公ヴィルヘルム・エルンストでした。

大公自身には芸術的センスが全くなく、気難しい性格で狂暴な上に怒りっぽい人物だったと言われていますが、その豊かな財産を文化の領域に費やし、治世下で『新しいヴァイマル』という文化状況を生み出しています。

建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

このヴィルヘルム・エルンストが大公に就任してさっそく招聘した芸術家の1人が、ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデでした。

アールヌーヴォーの人ですね。

アール・ヌーヴォー建築のホーヘンホフ(ヴェルデの設計 1908年建設)
"Hagen - -Hohenhof ex 30 ies" ©Frank Vincentz(6 June 2010, 13:46:57)/Adapted/CC BY-SA 3.0

『アールヌーヴォー』という言葉は、1894年にベルギーの雑誌L'Art moderne(現代美術)において、ヴェルデの芸術作品を形容する言葉として用いられたのが最初です。

美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) 建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

そのヴェルデが1895年にオープンしたサミュエル・ビングの店『Maison de l' Art Nouveau』(アールヌーヴォーの店)の内装を手がけ、ビングが当時評価の高かった芸術作品、美術工芸品を企画展示・販売しました。店はアールヌーヴォーの発信地として一躍有名になり、さらにアールヌーヴォーが独自に拡大しながら想像を遥かに超える大流行を起こし、「ヴェルデ、ビングと言えばアールヌーヴォー」というようになったのです。

【参考】アールヌーヴォーの安物

しかしながら様式全体を指す言葉になっていった『アールヌーヴォー』は、彼らが意図したような真の芸術ではなく、流行に乗って金儲けだけをしたいと群がる無数の人々によって作り出された粗悪品の大流行に飲み込まれていきました。それをビングとヴェルデは「はびこる粗製濫造の装飾品」と告発しましたが、この大流行はヨーロッパにおいてアールヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことになりました。

PDトシェビエフフのサナトリウムの階段(アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデのデザイン) Bloemenwerfのためにデザインされた椅子(アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデのデザイン 1895年)
"Henry van de Velde - Chair - 1895" ©Chris 73/Wikimedia Commons(2006)/Adapted/CC BY-SA 2.0

真面目にこういう作品を作っていた才能ある人物からしたら、「え!?俺、そういうのと違うし!!!」と言いたくなりますよね。才能豊かな芸術家は、アールヌーヴォーという世界的大流行を作り出すほどの作品を完成させ、名声を得て成功してもそこにとどまることはありません。新たなる高みを目指します。

バウハウスのヴァイマル校(ヴェルデの設計) "Van-de-Velde-Bau in Weimar(Draufsicht" ©R.Mohler(2005-04-20)/Adapted/CC BY 3.0

ヴァイマル大公に招聘されたヴェルデは、大公の後援を得て1902年ヴァイマルに私設の『工芸ゼミナール』を設立し、1908年に『大公立美術工芸学校』に発展しました。さらに1911年にはヴェルデの設計による工芸学校の校舎が建てられました。

その間、ドイツ国内でも様々な動きがありました。

1906年にドレスデンで第3回ドイツ工作展が開催されたのをきっかけに、ドイツの産業育成を目指し1907年にミュンヘンでドイツ工作連盟が結成されました。

その当初の目的は製造メーカーとデザイナー・設計家が協力することで、グローバル市場でドイツ企業の競争力を向上させることでした。

大英帝国やアメリカ合衆国に対抗する力を付けるためのものでした。

そのためには伝統的なモノづくりを大量生産に移行させることが一番重要で、芸術的な動きというよりは産業的な動きと言えるものでした。

第1回ドイツ工作連盟ケルン展のポスター(1914年)
ケルン展のグラス・パビリオン(ブルーノ・タウト設計 1914年)

ドイツ工作連盟には当初12名の建築家と12名の企業が参加しました。

この中にはベルギー人であるヴェルデも含まれていました。

左は第1回ドイツ工作連盟ケルン展で展示された、ブルーノ・タウトによる有名なグラス・パビリオンです。

PD建設中のグラス・パビリオン(ブルーノ・タウト設計 1914年)

この展覧会ではモデル工場やモデル劇場も出展されており、画像は入手できませんでしたがヴェルデはモデル劇場を設計しています。

このグラス・パビリオンはドイツのガラス産業協会が資金を提供し、建築用の様々なタイプのガラスの実証実験のために作られました。

PDグラス・パビリオンの内装(ブルーノ・タウト設計 1914年)

この作品は機能性のみを重視というよりは、手間もかかる芸術的な要素も強く見られますね。

しかしながらこの展覧会は1914年という時代からも分かる通り、第一次世界大戦の勃発により早めに終了し、建物は予定より早く解体されてしまいました。

PDヘルマン・ムテジウス(1861-1927年)1900年頃

このケルン展後、ヴェルデとプロイセン政府の建築家だったヘルマン・ムテジウスの間に『規格化論争』が勃発しました。

ムテジウスは明治時代の日本に赴き、明治時代の首都計画である『官庁集中計画』に建築技師として従事したり、市ヶ谷のアトリエのご近所である東京の麹町に作られた日本で初めてのドイツのプロテスタント教会の設計も担当した人物です。

ウィリアム・モリス(1834-1896年)

その後、1896-1903年の期間は「プロイセン政府の官吏としてロンドンの大使館に勤務し、ウィリアム・モリスの提唱したアーツ&クラフツ運動から大きな影響を受けました。

1904年には『イギリスの住宅』(Das englischer Haus)を刊行し、ドイツ国内ではアーツ&クラフツの紹介者として知られるようにもなりました。

実はヴェルデもアーツ&クラフツから大きな影響を受けている人物の1人です。

ウィリアム・モリスの私邸『レッドハウス』(完成 1860年 "Philip Webb's Red House in Upton" ©Ethan Doyle White(15 May 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 PDアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの私邸『ブロメンヴェルフハウス』(完成 1896年)

左の『レッドハウス』は建築家フィリップ・ウェッブとモリスが共同設計したアーツ&クラフツ建築で、モリスの私邸です。この作品に触発されてデザインされたのが、右のヴェルデの私邸『ブロメンヴェルフハウス』です。家とインテリア、家具に至るまでをヴェルデが設計しています。

PDヘルマン・ムテジウス(1861-1927年)1911年 建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

このように同じウィリアム・モリスのアーツ&クラフツに強く影響を受けた2人ですが、解釈と実践の仕方には大きな違いが出ました。

鶏のティアラ(ルネ・ラリック作 1897-1898年)
"Tiara de Lalique - Calouste Gulbenkian" ©Antonio(2008)/Adapted/CC BY-SA 2.0
【参考】アールヌーヴォーの安物

2人とも産業化に伴う俗物根性や成金、粗悪な機械生産品を忌み嫌い、それらが氾濫する社会を文化的危機として危惧していました。ムテジウスは品質性という古くから存在する価値を擁護しつつ、デザインの模倣や珍奇を生み出す原因が、倫理的な行動を行わない製造業者にあると考えました。

【参考】アールヌーヴォーのネックレス

珍奇で悪趣味なものを製造せぬよう、規格を作って遵守させようとしたのがムテジウスです。

規格化は製品を単純化させることでコストダウンになり利益にもつながりますが、単にそれだけではなく、ムテジウスは視覚環境の醜悪さから文化的国民性を救い出すことにもなるはずだと考えたのです。

機械製品の『規格化』を通して美的環境の質の回復を求める方針に立ちました。

それは個人主義に基づく創造的なデザイナーの制作活動を著しく制限するものであるとして、ヴェルデが異議を唱えました。

これがドイツ工作連盟で勃発した『規格化論争』です。

【参考】アールヌーヴォーのサインドピースのネックレス

醜悪な視覚環境から大多数の消費者を救い出すために、量産に必要不可欠な『規格化』を認め、そこから統一化された機械製品が生み出される文化の形式を是とするムテジウス。

一方で、個人主義的唯美主義に動機づけられて創造される、統一性よりはむしろ多様性をその特徴とする文化の形式を是とするヴェルデ。

両者の間には明らかに大きな隔たりが存在していた。

しかもどちらの主張も、間違いとも正解とも言い難いのです。

そもそも消費者が醜悪な製品は選ばなければ、市場から淘汰され消滅する運命にありますが、美的感覚のない消費者は商売人の上手な宣伝文句に踊らされて買ってしまうのです。

いつまで経っても醜悪な製品は消え去りません。

だから消費者任せにせず、規格化することでそもそも市場に醜悪な製品が出ないようにしようというのがムテジウスですね。

【引用】Cartier / PANTHERE DE CARTIER RING ©CARTIER 【引用】Cartier / PANTHERE DE CARTIER BRACELET ©CARTIER 【引用】Cartier / PANTHERE DE CARTIER HITH JEWELRY BRACELET ©CARTIER 【引用】Cartier / PANTHERE DE CARTIER RING ©CARTIER 【引用】BOUCHERON HP / WOLF BROOCH ©BOUCHERON
【参考】現代の似たような量産の超高級品

かと言って規格で芸術家を縛ると、芸術的には全く面白みのある作品が生まれてこなくなるという、痛し痒しな話です。この論争で多くの支持が集まったのはヴェルデでした。しかしながら第一次世界大戦によってドイツ国内にいられなくなったベルギー人のヴェルデは、同じくドイツ工作連盟の初期メンバーだったヴァルター・グロピウスに後継者として工芸学校を託し、1915年にドイツを去りました。

2-3-3. バウハウスの開校

バウハウス創立者ヴァルター・グロピウス(1883-1969年)

第一次世界大戦に敗戦後、1918-1919年にドイツ革命が起こり、ドイツ帝国は崩壊して大公の統治は終焉を迎えました。

ヴァイマル共和国が成立すると、工芸学校と美術学校が合併して『国立バウハウス・ヴァイマル』が設立されました。

初代校長としてグロピウスが就任し、1919-1928年に初代校長を務めました。

このためバウハウスは、インダストリアルデザインを行うドイツ工作連盟の理念に大きな影響を受けています。

設計革新と根本的に簡素化したデザインによって合理性と機能性、大量生産が、個々の芸術的精神と調和するという考え方です。

バウハウスのエンブレム

グロピウスは1919年の創立宣言で、

「芸術家と職人の間に本質の差はない。階級を分断する思い上がりをなくし、職人の新しい集団を作ろう!」

と呼びかけました。

アンティークジュエリー・ルネサンス

Genの
アンティークジュエリー ルネサンス

Genもルネサンスのカタログで宝物をご紹介する際、「芸術家が作った」ではなく「アーティスティックな才能を持つ職人が作った」とよく表現していました。

グロピウスの話は知らないので受け売りではないはずですが、本質を感覚的に理解して、評価の高い有名人物たちと本質的に同じことを言っているのが興味深い所です。

さすが、日本でアンティークジュエリーという市場を作ったレジェンドだけあります(笑)

ヴェルデが設計したヴァイマル校
"Van-de-Velde-Bau in Weimar(Sudgiebel)" ©R.Mohler(2005-12-03)/Adapted/CC BY 3.0

さて、ヴェルデが設計した旧工芸学校の校舎を使用し、以後バウハウスは様々な優れた作品を生み出していくことになりました。

バウハウスのデッサウ校(初代校長グロピウスの設計 1925年頃)
"Bauhaus in Dessau" ©Charlotte Nordahl from Dresden, Germany(13 March 2007)/Adapted/CC BY-SA 2.0

1925年にはヴァイマルからデッサウに移転し、『市立バウハウス・デッサウ』となりました。デッサウ校の校舎はグロピウスの設計で、当時最先端の建築デザインかつモダニズム建築の代表作として各国に紹介されました。1928年にグロピウスは校長を退き、後継者にハンネス・マイヤーが指名されました。

第2代校長ハンネス・マイヤー(1889-1954年)1940年頃 "Hans Emil Meyer OB.F0496c cropped" ©Unknown auther(1940)/Adapted/CC BY-SA 4.0

第2代校長となったマイヤーはムテジウスの系譜に連なっており、唯物論の立場から全てを規格化・数値化・計量化し、合目的性・経済性・科学性を徹底的に重視させました。

これによりドイツ表現主義的な審美性は無くなり、有名な"バウハウスらしい"表現へと変化していきました。

このマイヤーの手腕でバウハウスは初めて黒字を生み、国際的な評価が高まり、バウハウスのデザイン活動は最高潮に達しました。

モリス商会の壁紙を職人が手作業で印刷する様子(1890年)メロトン・アビー

通常、芸術性を求めると黒字化は困難ですからね。

優れた手仕事にのみ芸術が宿るという思想の元、中世のギルドの精神に立ち返りモノづくりを行ったモリスのアーツ&クラフツの活動も、結局ビジネス的にはうまくいきませんでした。

高度な技術を持つ丁寧な手仕事にはコストがかかり過ぎるため、万人のための安価な大量生産品づくりには向かないのです。

親鳥から蛇が卵を奪う野生を表現したイギリスのアーツ&クラフツのゴールドペンダント『WILDLIFES』
アーツ&クラフツ ゴールド・ペンダント
イギリス 1900年頃
SOLD
高度な技術を持つ職人による丁寧な手仕事で作られた、芸術性の高い工芸品やジュエリーは、ごく少数の富裕層のためだけが楽しむことのできる贅沢な宝物なのです。

2-3-4.バウハウスの終焉

PDデッサウ校の学生寮のバルコニー(1925年頃) 第2代校長マイヤーの元、活動も評価も最高潮を迎えたバウハウスでしたが、マイヤーが公然たる共産主義者であったこともあり、ナチスら右翼勢力から敵視されるようになりました。
第3代校長ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)1912年頃 【引用】wikimedia commons / Adapted

その結果、1930年にマイヤーは解任され、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが第3代校長に就任しました。

PD機械で開閉するデッサウ校舎の窓(グロピウスの設計 1925年頃)

1932年にはデッサウ校は閉鎖され、首都ベルリンに移転して私立学校になりました。

第3代校長ローエの方針は、デザイン活動の方向性としては合目的性・経済性・科学性を重要するマイヤーの方針を継承しつつも、政治色を払拭するものでした。

ベルリンにあるバウハウス記念館
"Bauhaus Archiv Berlin - Haupteingang" ©Oliver Reichardt(220:03, 1 June 2005)/Adapted/CC BY 2.0

しかしながら結局1933年、ナチスに閉校される前にバウハウスはローエによって解散しました。

同年、ドイツ工作連盟もナチスによって解散させられています。

しかしこれでドイツの優れた芸術家たちの活動が途絶えたわけではありませんでした。

2-3-5.バウハウスの世界への波及

バウハウス閉鎖後、関係者の中には強制収容所の設計・建設に協力した者や強制収容所で獄死した者もいましたが、国外に出て活躍し、多くの成果を残した人も多数存在しました。

近代建築の三大巨匠として有名な第3代校長ローエは、学校閉鎖後アメリカに亡命しています。

第3代校長ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)【引用】wikimedia commons / Adapted
バルセロナ・パピリオン(第2代校長ローエの設計 1929年を復元)
"The Barcelona Pavilion, Barcelona, 2010" ©Ashley Pomeroy at English Wikipedia(20 October 2010, 18:42)/Adapted/CC BY 3.0
優秀な人物であれば仕事に溢れ流ことはありません。このカッコ良いバルセロナ・パビリオンはローエが設計した作品です。1929年のバルセロナ万国博覧会で、ドイツ館の出展作品として建設されました。鉄とガラスで構成され、大理石の壁を配した作品で、モダニズムの空間を実現したものとして建築史上ではかなり有名です。
バルセロナ・パピリオン(第2代校長ローエの設計 1929年を復元)
"Barcelona mies v d rohe pavillon weltausstellung1999 03" ©Hans Peter Schaeger(2000)/Adapted/CC BY-SA 3.0
バウハウスの校長という経歴や、こんな実績があれば引く手あまたなのは当然でしょう。1938-1958年の間はシカゴのアーマー大学(後のイリノイ工科大学)建築学科の主任教授を務めたりもしています。
ファンズワース邸(第3代校長ローエの設計 1950年)
アメリカのイリノイ州に建てられたファンズワース邸もローエの代表作の1つです。週末別荘として建てられたもので、四方をガラスの壁で囲まれた建物はめちゃくちゃカッコ良いですね。ただ、建設費が当初予算を大幅に超えたため、施主のエディス・ファンズワースと訴訟沙汰になったそうです。結果はローエの勝訴でしたが、理想とする芸術の追求のためには予算を簡単に無視するあたりは真の芸術家という感じですね(笑)
エドワーディアンの進化形ガーランドスタイルのアクアマリン・ペンダント アンティーク・ジュエリー『ヴェルサイユの幻』
エドワーディアン アクアマリン ペンダント
イギリス又はヨーロッパ 1910年代
SOLD

アンティークジュエリーでも、アーティスティックな優れた職人が凝りすぎて予算を遥かにオーバーしてしまったなんてことは結構あったのではないかと思います。

「凝りすぎちゃった、テヘペロ。でも、良いものができたから良いよね♪」

確かに予算オーバーは困ります。

でも完成した作品が十分に素晴らしければ、むしろありがとうと気前よくお金を払い、次もオーダーし、良きパトロンとして優れた職人をバックアップするくらいじゃないとダメですね(笑)

アーティストに対して訴訟なんて起こしたら、自由な芸術活動なんてままならなくなってしまいます。

まあでも、それには莫大な財力を持っていないと無理ですが・・・(笑)

ファンズワースさんは明細を見て、笑い飛ばして「こんなに素晴らしい別荘を完成させてくれてありがとう!」と言えるほどのお金は持っていなかったということでしょう(笑)

バウハウス創立者ヴァルター・グロピウス(1883-1969年)1955年 "1955 01-Oct HansGConrad Portrait-WalterGropius HfGUlm-Opening" ©Rene Spitz(1 October 1955)/Adapted/CC BY-SA 3.0 DE

ちなみにローエをバウハウスの第3代校長として推薦した初代校長グロピウスも、学校の閉鎖後はドイツを脱出しています。

1934年に亡命した先がイギリスでした。

しかし1937年にはハーバード大学に招かれてアメリカに赴いています。

世界の経済活動の中心がアメリカに移行したこの時代に、優れた人々がアメリカに集まるのは当然の流れではありますが、特に優れた建築家にとって活躍の場となるのがアメリカとも言えました。

マンハッタン島にそびえるエンパイア・ステート・ビルの夕景
"Empire State Building 15 Dec 2005" ©robertpaulyoung" (10 December 2005)/Adapted/CC BY 2.0

1930年代の世界の超高層ビルのランキングは以下の通りです。

1930年代の世界の超高層ビル ベスト10
順位 名称 高さ 階数 所在地 完成年
1 エンパイア・ステート・ビル 381m 102階 米国・ニューヨーク 1931
2 クライスラー・ビル 318m 77階 米国・ニューヨーク 1930
3 ウォール街40番地ビル 282m 71階 米国・ニューヨーク 1929
4 ウールワース・ビル 241m 57階 米国・ニューヨーク 1913
5 シティ・バンク・ファーマーズ・トラスト 225m 57階 米国・ニューヨーク 1931
6 ターミナル・タワー 215m 52階 米国・クリーブランド 1930
7 メトロポリタン・ライフ・ビル 213m 50階 米国・ニューヨーク 1909
8 500・5番街ビル 212m 60階 米国・ニューヨーク 1931
9 チャニン・ビル 207m 56階 米国・ニューヨーク 1929
10 リンカン・ビル 205m 53階 米国・ニューヨーク 1930
エンパイア・ステート・ビル(ニューヨーク 完成1931年) "Empire State Building(aerial view)" ©Sam Valadi(17 July 2012, 17:44:06)/Adapted/CC BY 2.0

トップ10は全てアメリカで、ほぼ全てがニューヨークにあります。

1930年代でどれも200mを超える高さがあり、一番高いエンパイア・ステート・ビルは102階で381mもあります(最頂部は443.2m)。

ところでアメリカ強しと言えども、少し前までは圧倒的な世界の中心だった大英帝国に、ランキング入りしたビルが1つもないことに疑問を抱かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ロンドン・アイからのロンドン市街の眺め
"London 360° Panorama from the London Eye " ©Farwestern Photo by Gregg M. Erickson(1 October 2009)/Adapted/CC BY 3.0
古い時代からの建物が存在し、歴史と伝統を重んじるイギリスでは歴史的な建物の景観を保護するため、ロンドンの建築物には高さ制限が課されています。だから19世紀後期からアメリカで摩天楼フィーバーが起こっても、ロンドンでは建築競争は発生し得なかったのです。制約なく自由に才能を発揮し、新しい未来を創造していきたい、やる気に満ち溢れた建築家にとっては楽しい場所ではありませんよね。
クライスラー・ビル(ニューヨーク 完成1930年) "Chrysler Building by David Shankbone Retouched" ©Overand(27 May 2009, 22:36)/Adapted/CC BY-SA 3.0

第一次世界大戦による好景気もあり、1920年代にはニューヨークで摩天楼の建設ラッシュが起きました。

1929年にウォール街で世界恐慌の幕開けとなる株価の大暴落が起こったものの、意地とプライドをかけた摩天楼ラッシュに関しては勢いは止まらず、1930年代に入っても益々加速しました。

国際的に高い評価を得たバウハウスの影響もあって、摩天楼も伝統的なヨーロッパ・スタイルを思わせるようなものから、もっとモダンなデザインへと進化をしています。

2-3-6. 摩天楼へのガラス・カーテンウォールの適用

【アメリカ合衆国国家歴史登録財】リーバ・ハウス(SOMのゴードン・バンシャフト設計 1951年)
"Lever House by David Shankbone" ©David Shankbone(8 May 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

これは最も優れたデザインの超高層ビルの1つと称されるリーバ・ハウスです。

1936年にシカゴで結成された、アメリカ最大級の建築設計事務所で、翌年1937年にはニューヨーク事務所も開いているスキッドモア・オーウィングズ&メリル(SOM)の作品です。

本社のあるシカゴでは、1938年からアーマー大学建築学科でバウハウス第3代校長のローエが教鞭をとっていましたね。

SOMは特に超高層ビルで高い評価を得ており、鉄とガラスからなる箱状の『インターナショナル・スタイル』と呼ばれるモダニズム建築様式を世界中に広めたと評価されています。

リーバ・ハウスの上層階 "Lever House Curtain wall" ©Seth Tisue from Boston, MA, USA(5 September 2005, 11:22)/Adapted/CC BY-SA 2.0

インターナショナル・スタイルは国際的な展開をしていた近代建築において、個人や地域などの特殊性を超えて共通の様式に向かおうとする様式を言います。リーバ・ハウスはインターナショナルスタイルの精髄とも呼べる簡素なガラス箱のような摩天楼で、ニューヨークに建てられた最初のガラス・カーテンウォール工法の建物です。

PDシーグラム・ビルディング(第3代校長ローエの設計 1954年)

このインターナショナル・スタイルの代表例として挙げられるのが、バウハウス第3代校長のローエの一連の作品です。

ローエが設計したニューヨークのシーグラム・ビルディングも、SOMのリーバ・ハウスと並んで最も優れたデザインの超高層ビルと評価されています。

ガラス・カーテンウォール工法によるシンプル設計のみならず、ブロンズのフレームとトパーズ・グレイのガラスで構成された色合いのカッコ良さが素晴らしいですね。

この美しいガラスの塔は当時の建築界のみならず、社会にも大きなインパクトを与えたと言われています。

現代の感覚で見ると革新性は感じられないかもしれませんが、それはこの芸術作品の成功の証とも言えるでしょう。

作品が当時革新的なインパクトを与え、見本となって続く作品がたくさん作られ、スタンダードとなったことに他なりません。

傑出した才能によって生み出された作品が、次の時代を作っていくのです。

【世界遺産】ファグスの靴型工場(初代校長グロピウスらの設計 1911年)
"Fagus Gropius Hauptgebaeude 200705 wiki front" ©Carsten Janssen(27 September 2007)/Adapted/CC BY-SA 2.0 de
実はこのインターナショナル・スタイルを最初に指摘したのが、バウハウスの初代校長グロピウスでした。1925年にバウハウス叢書第1巻『国際建築』で言及しています。超高層建築でガラス・カーテンウォールが適用されたのはもっと後の時代ですが、1911年にグロピウスが設計したファグスの靴型工場では既にガラス・カーテンウォールが適用されています。
ファグスの靴型工場の側面(初代校長グロピウスらの設計 1911年) "Fagus-Werke-03" ©Traveler100(20 August 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0
この靴型工場は初期モダニズム建築の重要な例証として2011年に世界遺産に登録されています。現在でも靴型工場として稼働していますが、かつては木製の靴型のみだったものが、今ではプラスチック製の方が多く生産されているそうです。しょうがないですかね・・。いずれにせよ、この1911年に設計されたガラス・カーテンウォールの建物が1920年代のバウハウス・デッサウ校舎につながり、近代のガラス・カーテンウォールの超高層建築につながっていくのです。

2-4. 建築とジュエリーのデザインの関係

アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ

もはや何のページだっけと思われてしまいそうな気もしますが、主役はこの宝物です(笑)

1930年代に作られたこの特別な作品は当時の最先端、いえ、むしろもっと先の時代のアーキテクチャを彷彿とさせるようなデザインに感じるのです。

まるで次の時代を作り出した、バウハウスの才能ある建築家がデザインして生み出されたかのような・・。

2-4-1.イングランドの宮廷画家ハンス・ホルバイン

イングランド王ヘンリー8世(宮廷画家ハンス・ホルバイン作 1491-1547年)49歳頃

Genもルネサンスのカタログで何度も言及している通り、ルネサンスの時代は建築家が最初の勉強としてジュエリー制作をやっていたと言われています。

16世紀の最も偉大なる肖像画家の一人とされるイングランド王室の宮廷画家ハンス・ホルバインも、余技としてジュエリーのデザインなどを行なっていました。

クリソライトと大きなガーネットを使ったホルバネイスク・ペンダントホルバネイスク・ペンダント
イギリス 1860年〜1870年頃
SOLD
ペンダントのデザイン(ハンス・ホルバイン作 1532-1543年)大英博物館 【引用】Brirish Museum © British Museum/Adapted
19世紀のルネサンス・リバイバルが流行した時期には、そのデザイン画を元にホルバネイスク・ペンダントも制作されています。
PD暖炉のデザイン(ハンス・ホルバイン 1538-1540年)大英博物館 PD砂時計のデザイン(ハンス・ホルバイン 1543年)大英博物館

稀代の才能を持つホルバインはキャリアの最後まで新しいものへのチャレンジ精神も旺盛で、暖炉や砂時計までデザインしています。大企業でサラリーマンをやっていた感覚からすると、日本人は専門性の高いスペシャリストを好み、幅の広いジェネラリストを嫌う傾向にあるように感じますが、才能ある天才の中にはこのように多方面で才能を発揮できる人も存在します。特にルネサンスの時代は多方面で輝かしい才能を発揮する天才たちが数多くいたように感じます。

2-4-2. 神聖ローマ帝国の宮廷画家ジュゼッペ・アルチンボルト

アルチンボルドに依頼した公式肖像画『ウェルトゥムヌスに扮するルドルフ2世』(1590-1591年) 宮廷画家ジュゼッペ・アルチンボルト(1526-1593年)

同じくルネサンス期の神聖ローマ帝国の宮廷画家として活躍したジュゼッペ・アルチンボルトも非常に多彩な人物でした。伝統的な宗教画に加え、それ以外の絵画はもちろん、宮廷の装飾や衣装のデザインも手がけています。さらには祝典や馬場槍試合の企画、楽器の発明、水量技師でも非凡な才能を発揮した多才な人物だったそうです。

パトロンであった神聖ローマ皇帝ルドルフ2世も教養に富んだ優れた文化人と言われており、才能ある芸術家が思う存分活躍できる環境を与えた結果なのでしょうけれど、それにしても多才ですね。

宮廷画家ハンス・ホルバイン(1497/1498-1543年)44-46歳頃

そういうわけで、特別な芸術的才能に恵まれた人物は特定の種類のモノをデザインするだけでなく、トータル・デザインというものが可能でした。

2-4-3. アーツ&クラフツ運動のウィリアム・モリス

"モダンデザインの父" ウィリアム・モリス(1834-1896年)

だからアーツ&クラフツ運動を提唱したウィリアム・モリスは自宅を設計し、さらには生活を精神的に豊かにしてくれる壁紙やテキスタイルの柄もデザインし、ステンドグラスや本の装丁のデザインまで行なっているのです。

ウィリアム・モリスの私邸『レッドハウス』(完成 1860年) "Philip Webb's Red House in Upton" ©Ethan Doyle White(15 May 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 『いちご泥棒』の壁紙(モリスのデザイン 1883年)
PDステンドグラス『アーサー王と騎士ランスロット』(モリスのデザイン 1862年) モリスによる本の装飾
ウィリアム・モリスの自画像(1856年)22歳頃 『La belle Iseult』(モリス 1858年)
もちろん、普通の絵画も得意です。多才な人でも多才さではなく、どこか一部の才能や実績だけがフォーカスされてそれだけが有名になるのはよくあることですが、モリスは多方面の芸術的活動に才能を発揮できる人物です。

2-4-4. アールヌーヴォー〜モダニズムの建築家ヴェルデ

建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

アールヌーヴォーと、さらにモダニズムへの移行を促したことで有名なアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデも肩書きは建築家ですが、内装や調度品もトータルで手がけています。

サミュエル・ビングの『アールヌーヴォーの店』では内装を手がけていますし、その他の様々な建物を内装から調度品を含めてトータル・デザインしています。

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの私邸『ブロメンヴェルフハウス』(完成 1896年) アール・ヌーヴォー建築『ホーヘンホフ』(ヴェルデの設計 1908年) "Hagen - -Hohenhof ex 30 ies" ©Frank Vincentz(2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0
トシェビエフフのサナトリウムの階段(ヴェルデのデザイン) Bloemenwerfのためにデザインされた椅子(ヴェルデのデザイン 1895年)"Henry van de Velde - Chair - 1895" ©Chris 73/Wikimedia Commons(2006)/Adapted/CC BY-SA 2.0

2-4-5. モダン・スタイルのマッキントッシュ

チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928年)

スコットランドの産業都市グラスゴーで19世紀末芸術家集団『The Four(4人組)』を結成した、グラスゴー派のチャールズ・レニー・マッキントッシュも建築家、デザイナー、画家などの肩書きを持つ多才な人物でした。

マッキントッシュの素晴らしい作品は多々ありますが、私が特に好きなのはウィロー・ティールームズです。

ウィロー・ティールームズ(マッキントッシュ設計 1903年頃) "The Willow Tearooms" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

19世紀末と20世紀初めにオープンした多くのグラスゴーのアート・ティールームの中で最も有名なのが、1903年にオープンしたウィロー・ティールームズです。

優れた建築家であるだけでなく、デザイナーや画家としても優れていたマッキントッシュが手がけたトータルデザインは、ヴィクトリア朝が終わったばかりのイギリスとは思えないモダンな印象があります。

ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年)
"Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

現代的というよりは、今見ても未来的に見えると言っても、過言ではない気がします。

『芸術愛好家のための音楽室』のデザイン(マッキントッシュ夫妻 1901年)

素人が部屋の模様替えしようとしても、意外と難しかったりします。適当に選ぶとチグハグになってしまったりします。また、理想のデザイン且つ適した完璧なサイズの家具を揃えるのも大変です。だから少なくとも古い時代は建物を設計する建築家が内装、家具、調度品に到るまで、トータルでデザインすることが当たり前のように行われていました。

『芸術愛好家のための音楽室』のデザインの再現(マッキントッシュ夫妻 1901年)
"Music room house for an art lover" ©marsroverdriver(20 December 2011)/Adapted/CC BY-SA 2.0

全てオーダーメイドだなんて、相当お金がかかる贅沢なことですが、とてもオシャレです。

キャビネット(マッキントッシュのデザイン)
"Charles Rennie Mackintosh Cabinet(8030216621)" ©Tony Hisgett from Birmingham, UK(4 Sptember 2012, 13:06)/Adapted/CC BY 2.0

アート・ティールームも女性のためには明るく、男性のためには暗くなど、様々な部屋の内装には各種テーマがあり、それに合わせてトータルでデザインしていました。

『中秋の名月』(マッキントッシュ作 1892年) ヒルハウス・ラダーバック・チェア(マッキントッシュのデザイン 1902年) " National Museum of Ethnology, Osaka - Chair "Ladder-back chair" - Glasgow in United Kingdom - Made by Charles Rennie Mackintosh in 2006 (originally 1903) " ©Yanajin33(22 December 2013, 13:41:19)/Adapted/CC BY-SA 3.0
絵画など2次元で平面的に表現するアートだけでなく、3次元で立体物をデザインするなんて特別な頭脳がないとできないことです。しかも耐久性に問題ない、機能的には十分というデザインをするだけでなく、オシャレだと思わせる感動的なデザインを構築するなんて、センスの良さも持ち合わせていなければ不可能です。素晴らしいトータルデザインができる建築家って、本当にすごいですね!

2-4-6. インターナショナル・デザインのローエ

第3代校長ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)1912年頃 【引用】wikimedia commons

インターナショナル・デザインの摩天楼で有名なローエも、素晴らしいトータル・デザインができる人物でした。

バルセロナ・パピリオン(第2代校長ローエの設計 1929年を復元)
"The Barcelona Pavilion, Barcelona, 2010" ©Ashley Pomeroy at English Wikipedia(20 October 2010, 18:42)/Adapted/CC BY 3.0

バルセロナ・パビリオンも建物自体が非常に芸術的ですが、内装や調度品も素晴らしいです。

バルセロナ・パピリオンの内装(第2代校長ローエの設計 1929年を復元)
"Van der Rohe Pavillion overview" ©MartinD(1 August 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

左の大理石の模様をうまく使った仕切り壁は圧巻ですね。手前の柱もセンスが光ります。その奥に見える椅子は現代でも有名な『バルセロナ・チェア』です。

バルセロナ・チェア(ローエのデザイン 1929年)
"Pavello Mies 05" ©vicens(29 October 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

この角度からもカッコ良いですね〜。

傑出した才能を持つ人物がトータルでデザインするからこそのアートです。

PDヴァイセンホフ・チェア(ローエのデザイン 1927年頃) バルセロナ・チェア(ローエのデザイン 1929年) "Ngv design, ludwig mies van der rohe & co, barcelona Chair" ©sailko(12 March 2009, 00:21:03)/Adapted/CC BY-SA 3.0
ちなみに建築家は建築物に加えて、家具なども単独ではなく誰かと共同デザイン&制作することが多いです。ローエの作品として有名なこの2種類の椅子も、女性初のドイツ工作連盟の理事となり、ローエと特別な関係にあったリリー・ライヒと共同でデザインしたものです。ライヒも優れた建築家ですが、ヨーゼフ・ホフマンのウィーン工房で刺繍を学び、ベルリンに戻ってからは家具や衣服もデザインしており、左のヴァイセンホフ・チェアの籐編みはライヒが行なっています。

2-4-7.ジュエリーのデザインと制作

ペンダントのデザイン(ハンス・ホルバイン作 1532-1543年)大英博物館 【引用】Brirish Museum © British Museum/Adapted

3次元を含めたトータルデザインができる、優れた芸術家たちがジュエリー・デザインもできることは間違いありません。

制作に関してはまた別の特殊な才能が必要なので、どんなケースでも、デザインした本人が実際に制作していたわけではなかったでしょう。

アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ

この宝物はバウハウスの優れたデザインが世界に波及し、アメリカで摩天楼ラッシュが起きていた1930年代に作られた作品です。

トータルデザインができる当時の優れた建築家、ひょっとしたらバウハウス関係者の誰かがデザインしていてもおかしくない特別なデザインです。

むしろそのような人物が特別にデザインしたと考えた方が、しっくりきます。

2-4-8.同年代の一般的なハイジュエリーとの明らかな違い

【参考】1930年代の一般的な高級ダイヤモンド・ブローチ
アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ
アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ

ぜ〜んぶ同じにしか見えない、同年代の他の高級ダイヤモンド・ジュエリーと比べて、このブローチは全く作行きが異なることは一目瞭然だと思います。

【参考】アールデコ・ダイヤモンド・ブローチ(1930年代)

この年代はハイジュエリーの主要購買層が、旧来のヨーロッパの王侯貴族からアメリカの成金富裕層に移っています。

だからジュエリーのデザインや作りも、選び方がよく分からない、教養もセンスのない成金向けのものが大半となっているのです。

【参考】アールデコ・ダイヤモンド・ブローチ(1930年代)

特徴としては、とにかくダイヤモンドをたくさん使うことで、"ダイヤモンドの総カラット数が多いから高級品"と成金に訴えやすい商品です。

デザインに個性がなく、似たり寄ったりなのも特徴です。

フランスのベルエポックの精神を表現したジュール・シェによるレポスターベルエポックの精神を表現したポスター(1894年)ジュール・シェレ

この現象はベルエポックの時代のパリと同じとも言えます。

ナポレオン3世が普仏戦争でドイツの捕虜となり、フランスが再び帝政から共和政に移行し、驚異的な戦後復興を遂げたパリで需要を牽引したのは中産階級の若い女性たちでした。

彼女たちも教養やセンスはないものの、高そうに見える成金ジュエリーは大好きでした。

そんなベルエポックのパリで流行したのがゴールド・チェーンでした。

特にミドルクラス以下は、かなり似たようなデザインが多いです。

独自の美的センスを持たないが故、皆と同じ物の方が安心ということなのでしょう。

個性ある素敵なオシャレができるのは、絶対的な美的センスと教養を持つ人だけです。

【参考】単純な作りのベルエポックにフランスで流行した18ctチェーン

さらには、

「ジュエリーってよく分からないけど、とにかくゴールドって高いのよね?」

という感じで、無知な中産階級向けに、高級な印象があるゴールドという素材で訴求したのでしょう。

【参考】単純な作りのベルエポックにフランスで流行した18ctチェーン
カリフォルニアに向かう船の広告カリフォルニアに向かう船の広告(1850年)

確かに古い時代はゴールドは超高級素材でした。しかしながら1948年にカリフォルニアで砂金が発見され、ゴールドラッシュが起きてからはかなりゴールドの価格は低下しています。1880年頃からのベルエポックの時代は、金は王侯貴族ら教養と財を持つ真の富裕層にとってはただ単独で成立するほど特別な高級品では既になくなっています。

しかしながら最新の知識をアップデートしていない無知な中産階級にとってはまだ「金ってお高いんでしょ?」というイメージがあるため、ベルエポックの時代のフランスではゴールドジュエリーが大流行したわけです。

【参考】作りが雑なベルエポックにフランスで流行した18ctチェーン
オーストリアの小さなお花のダイヤモンド・リング アンティークジュエリー『Winter Flower』
ダイヤモンド リング
オーストリア 1880年頃
SOLD

同時代、他の国ではベルエポックに大流行したようなタイプのジュエリーは作られていません。

イギリスもオーストリアも君主政でした。

教養と美的センスを持つ王侯貴族たちは、無知な中産階級が適当な宣伝文句で踊らされて買うようなつまらない安物は絶対に身に着けません。

さらにその王侯貴族が国民たちのファッションリーダーとなるので、中産階級たちもフランスの中産階級をファッションリーダーとしてモノマネするなんてあるわけがないのです。

笑えるのが、ダイヤモンドがふんだんに使用されているこのブローチも、南アフリカのダイヤモンドラッシュによってダイヤモンドの価値が格段に低下した後のものです。

教養と美的センスを持つヨーロッパの王侯貴族だったら絶対に好まないジュエリーです。

【参考】アールデコ・ダイヤモンド・ブローチ(1930年代)
アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ

その点でこの宝物は、教養のある人が見れば明らかに驚くほどお金と手間をかけて作られていることが分かる最高級品で、センスのあるヨーロッパの王侯貴族がいかにも好みそうなブローチです。

でも、それ以上にこれはコンテストジュエリーとして作られたのではないかと直感的に感じます。

2-4-9. モダニズム建築が注目された時代の特別なジュエリー

ロシアン・アヴァンギャルド 第三インターナショナル記念塔の模型 タトリン設計『第三インターナショナル記念塔の模型』タトリン設計(1919年)

20世紀は国を超えてデザインが進化し、新しい時代を彷彿とさせるモダンな建築物が次々と建てられた時代でした。

残念ながら実現はしませんでしたが、このタトリンが設計した第三インターナショナル記念塔は"鉄とガラスを使ったロシアン・アヴァンギャルドの象徴的作品"と言われています。

ロシアン・アヴァンギャルド モスクワのラジオ塔 シューホフ『モスクワのラジオ塔』(ウラジーミル・シューホフ設計 1922年) "Shukhov tower shabolovka moscow 02" ©Lite(10:16, 18 Npvember 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

世界の中心だったにも関わらず、建築制限のせいでこの時代らしい有名建築物が思い浮かばないロンドンだけ見ていると分からないのですが、世界ではモダニズム建築競争が起きていたと言っても過言ではない時代でした。

これも面白いデザインで作られた、ロシアン・アヴァンギャルドのラジオ塔です。

大きな建築物は目立つので万人に訴求する力があり、国家としても技術力や文化レベルのPRになるので、各国力が入ったのでしょう。

国家事業でなくとも、愛国精神がある人々は国家のために力を尽くします。

アールデコのステップカット・ダイヤモンドとカリブレカット・ルビーのリング後期アールデコ・リング
フランス 1930〜1940年頃
SOLD

そうやって各国ヒートアップした先進的でデザインに優れたアーキテクチャを明らかに意識していると見られる作品が、やはり1930年代のリングに1つありました。

10年前にルネサンスでご紹介した、Genがかなり好きな宝物です。

この角度だけだとどう傑出しているかが分かりにくいと思いますが、いくつかの角度で見ると明らかです。

ステップカット・ダイヤモンドを使ったアーキテクチャ的なアールデコ・リング

あっと驚く構造デザインですよね!♪

ステップカット・ダイヤモンドを使ったアーキテクチャ的なアールデコ・リング ステップカット・ダイヤモンドを使ったアーキテクチャ的なアールデコ・リング

どの角度から見ても非常に芸術性の高い、高度に設計デザインされた作品です。このような作品は他には見たことがなく、流行デザインではなく明らかに特別にデザインして制作されたものです。

ステップカット・ダイヤモンドを使ったアーキテクチャ的なアールデコ・リング

"傑出したコンテスト・ジュエリーあるある"なのですが、一球入魂、採算度外視して魂を込めて制作するので同じようなものは基本的に作ることができないのです。

これを作るのにかなりの技術と手間がかかったはずです。

さらに、ジュエリーとして100年近くの使用に耐える耐久力を持たせつつ、これだけのデザイン的な面白さや美しさを両立させるためには、デザインする人物もかなり頭を悩ませたはずです。

このアーキテクチャ的面白さは、当時最先端の技能を持つ優れた建築家がデザイナーとして関わっていたに違いありません。

ヴァイセンホフ・チェアに座ってくつろぐルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
自身がデザインしたヴァイセンホフ・チェアに座ってくつろぐルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
鑑賞するだけの絵画はただただ芸術性の高さだけを追求すれば事足ります。しかしながら建築や家具、ジュエリーは耐久性まで考えねばならないため、デザインや設計の難易度は遥かに高いです。あっと驚く奇抜な構造とオシャレさを持つヴァイセンホフ・チェアも、座って壊れるようなものならばアーティストの自己満足のためだけのただのゴミです。お腹が出てきたローエが、これだけリラックスして体重を預けられるチェア。素材を知り尽くし、精密に構造計算して作る。建築も家具も、ジュエリーにも共通することです。
アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ
立体交差を含めた見事な立体デザインと、当時最先端だった、ガラス・カーテンウォールのアーキテクチャを思わせるような透明なロッククリスタルを使った他には類を見ない見事なデザインは、建築デザインを取り入れて、コンテストジュエリーとして特別に作られたものと確信します。建築家自身がジュエリーをデザインしたのか、それとも優れた職人が最先端の建築デザインを取り入れて作ってみたのか・・。
PDバウハウス創立者ヴァルター・グロピウス(1883-1969年)1919年頃、36歳頃

世界遺産となった、ガラス・カーテンウォールを使った初期モダニズム建築ファグスの靴型工場を設計し、初代バウハウス校長として超有名なデッサウ校舎を設計したヴァルター・グロピウス。

「芸術家と職人の間に本質の差はない。階級を分断する思い上がりをなくし、職人の新しい集団を作ろう!」

絵画を描いたりするだけならば職人ではなく芸術家と言えるでしょう。

でも、建築物もジュエリーもデザイン画を描くだけでなく、制作によって具現化しなければなりません。

優れた建築物やジュエリーを作るのはただの芸術家では無理で、アーティスティックな才能を持つ職人です。

アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ

フラットな意識で、様々な確信的なことに喜びをもってチャレンジできるアーティスティックな職人。

そういう人物が意地とプライドをかけ、魂を込めて作り出したのがこの宝物なのです。

 

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