No.00257 SUKASHI |
エドワーディアンからアールデコへの過渡期のジュエリーの傑作
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『SUKASHI』 |
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プラチナにゴールドバックの作りからするとエドワーディアンですが、幾何学的なデザインは間違いなくアールデコと言え、総合的にはアーリー・アールデコというカテゴライズが一番相応しいように思います。日本人が感覚的に好むこのタイプの透かし細工は英語にはピッタリくる単語が存在せず、透かし細工の最高傑作であるこのリングには『SUKASHI』というネーミングこそピッタリだと感じます。 |
過渡期ならではの傑出したデザイン×超絶技法の細工物リング
「こんなリングがあったとは!!(大感動)」 魅力1. デザインエドワーディアンからアールデコに時代が移り変わる過渡期ならではのスタイリッシュで傑出したデザイン魅力2. 超絶技法の細工・驚異の透かし細工・エドワーディアンの第一級のミル・ワーク ・デザインとしての粒金状のグレイン・ワーク ・アーティスティックなダイヤモンドの使い方 ・緻密に計算された立体デザイン ・見えない細部までのこだわり |
魅力1. 過渡期ならではの傑出したデザイン
時代が大きく移り変わる過渡期は、世相や文化を反映して傑出した独特の魅力を放つジュエリーが生み出されやすいという特徴があります。 新しい時代に向けての、とにかくエネルギー溢れる作品が多いのですが、それ以外に時代ごとに過渡期にも特徴があります。 このリングの場合は、エドワーディアンからアールデコにかけての過渡期の作品です。 |
-ジョージアン末期〜アーリー・ヴィクトリアンの過渡期ジュエリー-
ジョージアン プチ フラワー・ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
ジョージアン末期の19世紀初期は『ジョージアンの女王』で詳細をご説明した通り、イギリスにおいて至上最も金価格が高騰しました。 このため、通常は天然真珠が王族の富と権力の象徴であったにも関わらず、この時代だけは例外的にゴールドが富と権力の象徴となったのです。 だからこそ王侯貴族のためのゴールド・ジュエリーにおいて、なるべく少ない金で大きく華やかに見えるような細工であったり、"ゴールドの芸術"を極める超絶技法の金細工技術が発達したのです。 |
『愛の花』 アーリー・ヴィクトリアン ルビー クラスターリング イギリス(チェスター) 1838年 SOLD |
ヴィクトリアンになる頃にはだいぶ金価格も落ち着いて、ある程度の分量のゴールドを使えるようになりました。 それでもアーリーヴィクトリアンは、まだまだジョージアンの優れた金細工技術も残っていた時代でした。 |
ジョージ4世(即位時:57歳) | ウィリアム4世(即位時:64歳) | ヴィクトリア(即位時:18歳) |
ジョージアンのイギリス国王は、しばらく老いた駄目オジサン続きでした(※参考)。そのような中でついにうら若き18歳のヴィクトリア女王が即位し、世の中が明るい未来に期待し浮かれていたのがアーリー・ヴィクトリアンです。 |
『黄金の花畑を舞う蝶』 色とりどりの宝石と黄金のブローチ イギリス 1840年頃 SOLD |
このため、ジョージアン末期からアーリーヴィクトリアンにかけての過渡期のジュエリーは愛らしくフレッシュな雰囲気のデザインと、極上の金細工という特徴を併せ持っていることが特徴です。 |
-レイト・ヴィクトリアン〜エドワーディアンの過渡期ジュエリー-
ゴールド バー・ブローチ フランス 1910年頃 天然真珠、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド、ローズカットダイヤモンド、18ctゴールド、プラチナ SOLD |
せっかくの金細工技術ですが、後の時代はプラチナが主流となってしまい、彫金やマットゴールドなどの素晴らしい金細工技術は失われてしまいます。 |
-エドワーディアン〜アールデコの過渡期ジュエリー-
『ストライプ』 イギリス 1910年頃 SOLD |
『Quadrangle』 オーストリア? 1910年頃 SOLD |
エドワーディアンからアールデコにかけての過渡期の特徴は、何といってもそのデザインに現れます。 プラチナにゴールドバックという、プラチナが超高価な時代のエドワーディアンとしての作りの特徴を持ちながらも、デザインにはアールデコを思わせる直線や幾何学模様やシャープでスタイリッシュさが見られます。 |
エドワーディアン バー・ブローチ イギリス 1912年 SOLD |
王侯貴族らしいエレガントな雰囲気がデザインの特徴であるミッド・エドワーディアンとは一線を画す、スタイリッシュで気の利いたデザインには特別な魅力があります。 |
GENも私も細工物好きですが、なぜかデザインの好みもほぼ一致というくらい似ていて、実はデザイン的に一番好みの物が多く出てくるのがこのエドワーディアンからアールデコにかけての過渡期のジュエリーです。 何でもデザインに関しては、出始めが一番優れているものです。 デザイナーはインスピレーションとエネルギーに満ちており、エッジが効いた、チャレンジングで遊び心溢れる物が初期段階でのみ生み出されるのです。 |
デザインが使い古されておらず、とにかく新しい時代に向けて必ずポジティブなエネルギーでいっぱいです。 当時作った人、オーダーして愛用していた人たちと直接逢うことは叶わずとも、そのポジティブなエネルギーは宝物を通して伝わってきます。 |
好みという観点では、実はGENも私もスタイリッシュでカッコ良いものが一番好きです。 エドワーディアンからアールデコへの過渡期のジュエリーは、アールデコのスタイリッシュでカッコ良い傑出したデザインの魅力を持ちつつ、エドワーディアンの時代に高められた素晴らしいプラチナ細工の技術による優れた作りも併せ持っているので、特に私たちが魅了されるものが多いのです。 |
ダイナミックに時代が変化する激動のエドワーディアン
イギリス王エドワード7世(在位1901-1910年) | 20世紀に入り、1910年代頃までのエドワーディアンの時代は、かつてないほど短い期間で大きく時代が変化しました。 |
詳細は『清流』でもご説明しましたが、19世紀中期頃から陸海の各種乗り物の発達と共に、世界は急速に狭くなっていきました。 日本もその動きの中に巻き込まれ、1853年には黒船が来航し、1854年には開国しています。 19世紀後期には世界をつなぐ各種航路が整備されたことで、商業的な世界一周旅行が始まりました。 初期は特殊な立場にいる特権階級だけだったのが、1872年にはトーマス・クックによる世界初の世界1周団体旅行も始まり、ある程度の富裕層であれば庶民でも世界旅行が楽しめる時代となったのです。 |
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トーマス・クックの団体旅行のポスター(1890年頃) |
第5回パリ万国博覧会のパノラマビュー(1900年) |
1851年にロンドンで始まった万国博覧会も、回を重ねるごとに規模が大きくなり、各国が国のプライドと威信をかけたものとなっていきました。 19世紀最後の年、世紀末を飾る国際博覧会かつ新世紀の幕開けを祝う1900年のパリ万博は意味もあり、各国が総力を上げ、過去最大の4800万人を動員する大規模なものとなりました。会場としてグラン・パレとプティ・パレが建てられ、ロシア皇帝ニコライ二世の寄付によってセーヌ川両岸を結ぶアレクサンドル三世橋が架けられました。さらにエッフェル塔の左側に見える大観覧車は、この万博の目玉の1つとして建てられたグラン・ルー・ド・パリです。 |
グラン・ルー・ド・パリの着色写真(1920年解体) |
イギリスの退役軍人ウォルター・B.バセットの企画により建設されました。当時の世界最大の観覧車で、100m近い高さがありました。 アールヌーヴォーの祭典と称されるこのパリ万博は、ジュエリー部門では『天空のオルゴールメリー』でご紹介した通り、"芸術的かつラグジュアリー"と評される当時の世界のビッグ3ジュエラーであるロシアの天才プロデューサーのファベルジェ、フランスのアールヌーヴォーの巨匠ルネ・ラリック 、アメリカの天才ルイス・カムフォートのティファニーが一堂に会した最初で最後の万博となっています。 日本も芸者や茶店、五重塔などが人気を博しただけでなく、深川製磁が最高名誉のメダーユドール、北村醤油酒造製造の醤油が金賞を獲るなどしています。この万博には夏目漱石も訪れています。 |
フランス・ヴァンセンヌでフランス軍を閲兵するイギリス王エドワード7世(1903年) |
各国のプライドと威信をかけた文化面での静かな戦いは、万博を通して繰り広げられたわけですが、時を同じくして帝国主義うずまく世界情勢は、19世紀後期から20世紀初頭にかけて不安定化していきました。そのような中でも、卓越したコミュニケーション術や人柄もあり皇太子時代からエドワード7世が『ピースメーカー』として、世界の均衡を何とか保っていました。 |
ロシア皇室ヨット『スタンダルト』上のイギリス王エドワード7世とロシア皇帝ニコライ2世(1908年) |
しかしながら激動の20世紀、各国がしのぎを削る帝国主義の動きは激しいもので、1909年4月から1910年1月にかけてはエドワード7世は9ヶ月近くに渡って休む暇がないほどの激務を遂行しました。『エレガント・サーベル』で詳細をご紹介した通り、結局は過労で1910年に崩御してしまいました。昏睡状態の中で、「いや、私は絶対に降参しない。続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ。」と最期の言葉を呟いて亡くなるほどの激務だったようです。 |
『PRO PATRIA(祖国のために)』 プリカジュール・エナメル ペンダント フランス 1914〜1915年 SOLD |
その後は各国の野心的な動きを止める役割を果たせる者が存在せず、1914年には第一次世界大戦が勃発してしまいました。 『PRO PATRIA』で詳細をご説明した通り、西欧の列強諸国がこぞって参戦し、人員や経済力、工業技術を大規模に動員する国家総力戦でした。 航空機や化学兵器(毒ガス)、潜水艦や戦車などの新兵器が大規模、または史上初めて投入され、4年3ヶ月にも渡る戦闘期間の長さもあって戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上の計1,600万人以上が死亡するという、史上死亡者数の最も多い戦争の1つとなりました。 |
13万人以上の身元不明のフランス人兵士が眠るドゥオモン墓地 "VERDUN-OSSUAIRE DE DOUAUMONT5" ©Ketounette(Feburary 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ペストやスペイン風邪などでもヨーロッパでは大きな数の犠牲者を出していますが、人類による災禍とは全く訳が違います。この大戦で4年を超える戦いの最前線となり、消耗戦の舞台となってしまったのがドイツと国境が近いフランス北東部でした。 |
フランスのレッドゾーン(立入禁止区域) "Red Zone Map-fr" ©Tinodela, Lamiot(16 September 2008, 15:35)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
現代でもフランスにはZone Rouge、レッドゾーンと呼ばれる立入禁止区域が存在します。第一次世界大戦の汚染によるものです。最も激しい戦闘が繰り広げられたフランス北東部には、そのような場所が広がっています。 |
当時の焼け野原となった戦場 | 現代に撮られた戦場跡地。激しい爆撃により地形が変わった痕跡が、今なお残っています。 |
途方もない数の不発弾が残され、人間や動物の遺骸の回収は今もって為し得ず、地図上から抹消された村もいくつか存在します。 |
爆撃を受けたイーペル付近の森(1917年) | 最近の調査でも、土壌から17%という極端に危険なレベルのヒ素が見つかった森もあります。 |
東部戦線のガス攻撃。右側は後続攻撃を準備している歩兵(1916年) ©Bundesarchiv, Bild 183-F0313-0208-007 /Adapted/CC-BY-SA 3.0 |
水からは生物許容量の300倍ものヒ素が検出され、付近の猪の肝臓からは異常な量の鉛が見つかっています。汚染を取り除く作業をしようにも、作業者がガス弾から漏れ出る毒素で致命的な被害を被ることが珍しくありません。 |
イギリスの公式カメラマンが撮影したポジエールの戦場(1916年8月28日) |
鉛、水銀、亜鉛は微生物による生分解ができず、少なくとも1万年は土壌に留まると言われており、不発弾除去を含めレッドゾーンを完全に綺麗にすることは不可能と言われています。 大戦から100年以上経った今なお、植物も動物もほとんど生きることができないレッドゾーンが広大なエリアに広がっているのです。 |
ロシアン・アヴァンギャルド リング ロシア 1910年頃 SOLD |
1914年から1918年までの第一次世界大戦は、イギリス、フランス、ロシアを中心とした協商国と、ドイツ・オーストリアを中心とした同盟国の二陣営の構図となっていました。 その大戦中、ロシアでも世の中がひっくり返る大きな動きがありました。 |
『ツァーリ ニコライ2世(ボリス・クストーディエフ 1915年) | 『ボリシェヴィキ』(ボリス・クストーディエフ 1920年)トレチャコフ美術館 |
1917年のロシア革命です。王侯貴族のみに極端に特権が集中する身分制度が世界で最後まで残っていたロシアでは、以前から不安な情勢が渦巻いていました。1914年に第一次世界大戦が勃発したことで一時的に庶民の愛国心が高まっていたのですが、ついに革命で皇帝一家は殺害され、社会主義の国へとロシアは変貌したのです。 |
『ロシアン・アヴァンギャルド』 ロシア 1910年頃 SOLD |
1960年に全盛期となる通常のアヴァンギャルドを50年も先取りしたロシアン・アヴァンギャルド。 革命前夜の不思議なエネルギーに満ちた、これらロシアン・アヴァンギャルドの見事な芸術作品が生み出されたのもエドワーディアンからアールデコ初期にかけての時期に重なります。 贅沢品とされるジュエリーに関しては、1917年のロシア革命で全て終わってしまいました。 『ロシアン・アヴァンギャルド』のような作品も、GENも私も極めて好みのデザインなのですが、エドワーディアンからアールデコにかけての、不安な世界情勢と新しい時代への期待渦巻く不思議なエネルギーに満ちた時代だからこそ生み出せたこと、もう新たに生み出されはしないことを思うと、切なく残念な気分にもなります。 |
前線近くで観測気球に乗っているアメリカ軍の少佐(1918年) | 第一次世界大戦は最終的には1917年にアメリカが参戦したことで、イギリス、フランス、ロシアを中心とした協商国側の勝利に終わりました。 この大戦を経て、それまでのイギリスを中心とした19世紀の成熟した西欧社会は崩れ、世界の中心がアメリカに移っていきます。 |
ポジエールの戦場で亡くなった兵士の共同墓地(ウィンドミルの丘 2010年) "PWindmuhlenhugel" ©Bodoklecksel(19 January 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
フランスは人口の15%が戦死、もしくは負傷した酷い状況です。同盟国として戦ったイギリスも多くの死者を出しました。 |
革命前のフランスの紳士と淑女(1778年) | "ヨーロッパの貴族"と言うと、オホホと浮ついた生活の軽薄なイメージしかない方もいらっしゃると思います。 実際、フランス貴族は宮廷に引き籠もって贅沢三昧することを好んだと言われています。 |
イギリス王チャールズ1世(1600-1649年) | しかしながらイギリス貴族は男らしさ、カッコ良さをめちゃくちゃ大事にします。 大陸貴族は兄弟全員が爵位を継ぐことができますが、イギリスでは最年長の息子しか爵位は継ぐことができませんでした。 イギリス貴族は複数の爵位を持つことも多々ありますが、相続によって分けることはなく、全てがただ一人に相続されます。 このため、兄弟であっても最年長の息子以外は庶民となります。 |
『アンズリー家の伯爵紋章』 ジョージアン レッドジャスパー フォブシール イギリス 19世紀初期 ¥1,230,000-(税込10%) |
富も権力も分散しない世襲貴族の仕組みが厳密に運用されていたからこそ、イギリス貴族は大陸貴族とは比較にならない財力と権力を長年維持してきたのです。 その分、家系を維持することは難しいことでもありました。 『アンズリー家の伯爵紋章』の最後の持ち主だった第2代マウントノリス伯爵ジョージ・アンズリーも、跡継ぎがいなかったのでマウントノリス伯は断絶してしまいました。 『アンズリー家の伯爵紋章』でマウントノリス伯爵ジョージ・アンズリーを始め、イギリス貴族の暮らしぶりの一端をご紹介していますが、その莫大な富と権力は圧倒的です。 |
イギリス貴族は大地主なので、領主として治める地にカントリーハウス、社交や政治のために使うロンドンのタウンハウスを持ち、基本的には地主としての収入で暮らしていました。 兄弟が全員相続できる上に、逼迫した財政の足しにするために金で爵位を乱発した革命前のフランスでは、貧乏人に毛が生えた程度の貴族も多数存在しましたが、実はイギリス貴族と大陸貴族では全く次元が異なるのです。 |
アンシャンレジームを風刺した絵(1789年) | 左はフランスのアンシャン・レジームを風刺した絵です。 貴族が同じだけ贅沢をしても、国民全体で特権階級の割合が高いと支える側が支えきれなくなりますが、イギリス貴族は数が少ないのでどれだけ贅沢をしても大きな負担とはならないのです。 フランスは早々に貴族は存在しなくなっていますが、1880年時点でもイギリス貴族は僅か580人しかいませんでした。准男爵でも856人です。 |
兄弟全員が爵位を継げると、ネズミ算式に貴族は増えます。 同じ1880年にドイツでは推定2万人の貴族がいましたし、ロシアは1858年の時点で60万人もいたそうです。 |
1860年代の皇太子バーティ(1841-1910年) | まさにイギリス貴族はごく限られた者だけの特権階級です。 イギリスでは努力で貴族になれることはほぼありません。生まれながらにして得るものです。 だからこそノブレス・オブリージェ(持つ者の責任)の精神が厳密に息づいているようにも感じます。 王侯貴族は政治家として無償奉仕したり、軍務にも就きます。軍では王侯貴族が将校となります。 エドワード7世も19歳の皇太子時代に陸軍近衛歩兵連隊に入隊し、アイルランドで訓練も受けています。 |
負傷兵と語るヘンリー王子(2013年) "Prince Harry talks to an injured soldier" ©Military Health(15 May 2013)/Adapted/CC BY 2.0 |
軍務に就くのはパフォーマンスではありません。 以前ヘンリー王子も戦闘地域で、相当に危険の伴う任務に就いていたことが話題になりました。 タリバン兵を殺害し、イギリスの新聞では「英雄的行為」として称賛されていますが、一歩間違えれば自身の命も落とすような状況でした。 身分の高い偉い人は、安全な場所で命令を下すだけが当たり前というイメージの日本人には想像しにくいですが、イギリスの王侯貴族にとってはこれは普通なのです。 第一次世界大戦でも多数のイギリス貴族が将校として前線に赴き、戦いました。 |
ロイヤル・ブリティッシュ・リージョン・ポピー | 11月になるとイギリス人が赤いポピーの花飾りを身に着けているのを見たことがある方もいらっしゃると思います。 これは第一次世界大戦の終戦日11月11日にあわせて、死者を追悼するものです。 |
フランスのハイウッド・セメトリー(2013年) "High Wood cemetry, France" ©Tinelot Wittermans(21 May 2004, 10:09)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
戦争では爆撃や化学兵器によって完全に地面が破壊されてしまいましたが、戦後唯一そこに咲いた花がポピーであり、兵士の墓の近くには特に多くのポピーが花を咲かせたと言われています。このためイギリスでは赤いポピーが第一次世界大戦における犠牲の象徴となりました。 前線に赴いたイギリス貴族も多数の犠牲者を出しました。指揮官として最前線に立ったため、戦死者の比率は庶民の兵士たちより遙かに高かったと言われているほどです。 戦争はイギリス人にとって、悲しみだけではありませんでした。あまりにも勇猛果敢に貴族も最前線に出て戦死してしまったため、当主も跡継も亡くなってしまい、爵位を継ぐものがいなくなってしまう家まで出てきてしまったのです。第二次世界大戦でも同様に多くの貴族が亡くなったたため、叔父や従兄弟が爵位を継ぐしかない家もあったほどでした。 将来の当主として幼い頃からお金も労力もかけて帝王教育を受けた者と、そうではない者が突然爵位を継ぐのでは大きな違いがあったはずです。第一次世界大戦をきっかけに世の中、特にヨーロッパは大きく変わってしまったのです。 |
ヴィクトリアン後期 | ヴィクトリアン〜エドワーディアン過渡期 | ミッド・エドワーディアン | アールデコ初期 | |
時代ごとのジュエリーを比較すると、ヴィクトリアンからエドワーディアンに入るとプラチナ素材ならではの透かし細工やミル・ワーク、南アフリカからダイヤモンドが豊富に採れるようになった影響によるダイヤモンドをふんだんに使っているなどの特徴が見られます。しかしながら雰囲気などには、デザイン上では極端な変化はあまり見られません。 一方でアールデコになると突如として直線や幾何学的な、シャープな印象のデザインに大きく変わります。それはエドワーディアンに起こった第一次世界大戦やロシア革命を受けて、世の中が大きく変化したことを反映しているのです。 |
世相を反映するハイ・ジュエリー
上流階級のために作られたハイ・ジュエリーには当時の文化、世相、科学技術など、様々な世相が反映されています。 だからこそ優れたアンティークジュエリーを読み解くことで、当時の上流階級の人たちの教養や文化に関して推定することができるのです。 |
髪の毛を使ったラブ・ジュエリー(ブローチ) | ||
『ライア(竪琴)』 天然真珠ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
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【参考】ジュエリーの大衆化が進んだ19世紀後期の低レベルなメタル・ブローチ | ||
庶民用の低レベルなジュエリーから見えてくるのは、庶民の文化と暮らしぶりだけです。ファッションリーダーたる王族が提案した新しいスタイルを、周囲の上流階級の貴族たちが取り入れ流行し、その流行が最終的に庶民に降りてきて陳腐化していきます。 王侯貴族のためのハイクラスのジュエリーには当時最先端の技術が取り入れられ、素材も最高級のものが使われますし、モチーフや細部に至るまでのこだわりにも教養の高さを伺い知ることができます。上では同じ髪の毛を使ったラブ・ジュエリーを比較していますが、庶民向けの低レベルなジュエリーは髪の毛は編んでいるとは言えないくらいの雑な扱いですし、使われている素材もメタルで、デザインもないようなレベルです。 大衆向けアンティークジュエリーは大量に作られているので、市場にはまだゴロゴロ残っています。枯渇しているのは優れたハイクラス以上のアンティークジュエリーだけです。たくさんあるのですが、低レベル品には好奇心が全く湧かないのでヘリテイジでは扱いません。写真の人、ごめんなさい(笑) |
新時代を迎えた直後の明るいジュエリー
-喪が明けたジュビリー・エナメル-
世相がガラリと変わるタイミングをジュエリーに見いだすのは、知的好奇心の観点からとても楽しかったりします。 これはヘリテイジの記念すべき100番目の宝物としてご紹介した、『幕開けの華』です。 ヴィクトリア女王が26年にも渡る長すぎる喪から明けて、即位50周年も祝うとてもめでたい年に作られた作品です。 喪のジュエリーと言えば、ウィットビージェットの黒やピケの地味な色合いのジュエリーですよね。 最初こそ目新しいのですが、だんだん国民も飽きてきます。 その反動で、国のトップの喪が明けたとなると祝賀気分満載、ジュビリー・エナメルという見ているだけで明るく楽しい気分になれる、エナメルだからこそ実現できた色鮮やかなジュエリーが作られたのです。 色合いだけでなく、透かし細工や天然真珠、ダイヤモンドを使ったセンス良いデザインには当時の大英帝国の勢いやエネルギーをも感じられます。 |
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『幕開けの華』 ジュビリー・エナメル ブローチ イギリス 1887年 SOLD |
-旧世界が終わり世界が新時代を迎えた初期アールデコ-
第一次世界大戦が終わり、世の中がガラリと変わり、ヨーロッパの王侯貴族が主導する旧態依然の旧世界から、エネルギー溢れるフレッシュな新しい勢力が主導する時代へと生まれ変わる。 その期待に溢れた、勢いとエネルギーに満ちあふれるジュエリーを生み出す環境が、アールデコ初期にはあったのです。 |
新時代を迎える直前の不思議なエネルギーに満ちあふれたジュエリー
エドワーディアンから初期アールデコにかけての過渡期のジュエリーには特別な魅力があります。 その原因は世界全体で、時代が大変貌を迎えるタイミングだったからです。 |
アールデコ 天然真珠 ペンダント&ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
その過渡期を越えると、一気に新世界の新しい芸術が花開きました。 それがアールデコです。 |
プリカジュール・エナメル ペンダント&ブローチ フランス 1920年頃 SOLD |
0から1を生み出すまでの産みの苦しみと、1を100へ、100を10,000へと大きく育てるのは全く別物です。 0から1を生み出すことは、運も含めた特別な才能を持つ天才にしかできないことですが、1を100へと大きくすることは才能ある人物であればできます。 逆に、0から1を生み出す天才には1を100にする能力がない場合も少なくなかったりします。 両方できる天才もゼロではありませんが、世界的に見てもごく僅かと言えるほど少ないでしょう。 |
アールデコ ダイヤモンド ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
それでも0から1が生み出されればしめたものです。後は一気に世界各地で天才ではなくともたくさんの才能あふれる人々によって1が100となり、100が10,000となり、アールデコの勢いは加速しながら全世界に広まるのです。 |
アールデコの帯(昭和初期)HERITAGEコレクション | アールデコの帯(昭和初期)HERITAGEコレクション |
もちろんアールデコは日本にも波及しており、その影響はアンティーク着物のデザインにも見ることができます。戦前に生きた時代の人たちの話を聞いたり、このような時代の生き証人であるアンティーク着物1つ見ても、戦前の日本は国際色豊かで芸術あふれる国だったことが伺えます。インターネットもない昔の時代の方が、今より遙かに国際色豊かな時代だったようにも感じます。 |
アールヌーヴォーの劣化 | ||
第一級品 フランス 1890年〜1910年頃 SOLD |
【参考】中級品(ヘリテイジでは扱わないレベル) | 【参考】低級品(ヘリテイジでは扱わないレベル) |
産みの苦しみを経て新しい芸術が生まれ、勢いにのって一気に花開き、全体に普及すると飽きられ陳腐化する。求められるのは芸術性の高さであなく安さとなり、手抜きによる量産の進行によって、やがては安さに飛びつく人々ですら見向きもしなくなり、流行は終わる。 アールヌーヴォーで起きた現象は、アールデコでも同様でした。 |
アールデコの劣化 |
アールデコ エメラルド リング フランス 1920〜1930年頃 SOLD |
これはリングには見えないかもしれませんが、アールデコのエメラルドとダイヤモンドのリングです。 デザイン、石、作りの三拍子が傑出して揃った見事な作品です。 |
これはアールデコでも後期、劣化が進んだ頃のリングです。 石ころでしか判断できない人にはこれが高級品に見えるかもしれません。 でも、明らかに手抜きのためのデザインで作られています。そこがアールデコの劣化のポイントです。 "不要な物が極限までそぎ落とされたスタイリッシュなデザイン"がアールデコのイメージの1つですが、実際の所、後期は手抜きして量産するために デザインとして極度に不要なものが削ぎ落とされたとも一説には言われているほどです。 このリングも四角を敷き詰めただけの単純なデザインで、手間のかかるミル・ワークはありません。メインのエメラルドは透明感も色鮮やかさもない低級な石ですし、ルビーも天然ではなく合成です。 |
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【参考】作家物のエメラルドと合成ルビーのアールデコ・リング |
実際の所はただの手抜きなのですが、ミルがないスッキリしたデザインがスタイリッシュで先進的だと謳い、見る目のない消費者には販売していたのでしょう。 南アフリカのダイヤモンドラッシュ以降はダイヤモンドは需要統制しないと価格が暴落するほど、希少性はない宝石となってしまったのですが、ダイヤモンドが大きければ高級というイメージ戦略を使って、見る目のない消費者はダイヤモンドだけに目が行くようにしたのです。 駄目押しは、作家名やブランドを使った販売方法です。 明らかに消費者を馬鹿にした販売方法ではありますが、結局消費者に受け入れられ、淘汰されることなく定着しました。 消費者が受け入れてくれる範囲でどんどん劣化は進みます。メーカーが楽にボロ儲けしたいからです。 |
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【参考】作家物のアールデコ・リング、クリスティーズにて7万5千スイス・フランで落札(約825万円) 【引用】CHRISTIE'S ©Christie's |
【参考】鋳造で量産する現代のダイヤモンド・リング |
こうして現代に至っています。もはや高度な職人の手仕事による心のこもった芸術品ではなく、ジュエリーはただ量産の工業製品と成り果てました。感性のある方だと現代ジュエリーを見ても全く興味が湧かないようで、ルネサンスやヘリテイジで扱うアンティークジュエリーに出逢う前はジュエリーは1つも買ったことがないという方も少なくありません。実は私もその一人でした。こんな安っぽいものを着けるくらいならば、何も着けない方がマシとしか思えないのです。 |
第一級品 | 【参考】石ころだけを変えてバリエーションを出した量産の低級品 | ||
同じアールデコの範疇であっても、とても同じ"ジュエリー"とは思えないです。最初は左の第一級品の素晴らしいペンダントのように、デザイン、作り共に素晴らしい作品が作られていたアールデコも、結局は手抜きで劣化し、飽きられて流行は終わるのです。 |
過渡期のジュエリーがなぜ最高に面白いのか、もうお分かりいただけたと思います。 抑圧された世界の中で、それを打破しようと新たな世界をあれこれ思い描きながら試行錯誤する、産みの苦しみを味わいながらも無限に湧いてくる不思議なエネルギーに満ちた時代。 そのエネルギーが反映されたジュエリー。 溜め込んだエネルギーが一気に加速しながら花開くアールデコにはない、人を惹き付ける特別な魅力があるのです。 |
レイト・ヴィクトリアン〜エドワーディアンの過渡期との違い
レイト・ヴィクトリアン〜エドワーディアンの過渡期のジュエリー | レイト・ヴィクトリアン〜エドワーディアンの過渡期のジュエリーでは同じようなことが発生しなかったのか、不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれません。 はっきり言って、アンティークジュエリーなどの時代区分なんて結果論であって、後世の人による後付けです。 |
イギリス王エドワード7世(在位1901-1910年) | 1901年にヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世が即位しました。 ちょうど同じ頃にプラチナがジュエリーの一般市場に出始め(※参考)、プラチナにゴールドバックのジュエリーが分かりやすい特徴でもあったため、オールプラチナとなる1920年代以降のアールデコ以前に作られた、1900年代から1910年代頃までのジュエリーをエドワーディアンと呼ぶようになりました。 |
レイト・ヴィクトリアン〜エドワーディアンの過渡期のジュエリー | 素材に関してはプラチナという革新的な変化があったため、作りにはその特徴がよく現れています。 |
ヴィクトリア女王の喪服(1894年)メトロポリタン美術館 | イギリス皇太子妃アレクサンドラとその娘夫妻(1896年) |
しかしながら『Transition』や『エレガント・サーベル』で詳細はご説明した通り、1861年にアルバート王配が亡くなって以降はヴィクトリア女王が喪に服して引き籠もったため、女性のファッションリーダーはアレクサンドラ皇太子妃や孫娘たちに移っていきました。 ミッド・ヴィクトリアンのジュエリーは背が低くかなり太めの体型だったヴィクトリア女王に似合うボテッと迫力あるものが流行しましたが、スタイルが良く美しさや心優しさでも評判の高かったアレクサンドラ妃がファッションリーダーとなってからは、アレクサンドラ妃に合わせてジュエリーも洗練されたデザインになっていったのです。 |
イギリス王エドワード7世(1901年、60歳頃)と王妃アレクサンドラ(1905年、61歳頃) |
ヴィクトリアンからエドワーディアンへと移るタイミングでファッションリーダーに特に代わりがなかったため、ジュエリーのデザインもそこまで変化がなかったわけです。 第一次世界大戦やロシア革命によってヨーロッパの王侯貴族が中心だった旧世界は終わり、明確なファッションリーダーは不在のまま、自然発生的に生まれたのがアールデコです。 |
2. 超絶技法の細工
傑出したデザインの特徴
アールデコとして花開く以前、新世界に向けてのエネルギーをたっぷりと蓄えた時代の特別な作品です。パッと見るとデザインはアールデコなのですが、作りはゴールドバックのエドワーディアンです。 模様は透かし細工で表現されています。幾何学模様の透かしで、しかもその透かし細工がメインのリングなんて44年間で初めて見る極めて珍しいものです! |
透かし細工とその活かし方
オープン・ワーク ダイヤモンド・ブローチ フランス 1920〜1930年頃 SOLD |
ダイヤモンドとプラチナやホワイトゴールドなどの白い金属だけの色のないジュエリー、且つ透かし細工とミル・グレインによる繊細なジュエリーは20世紀ならではの表現です。 透かしやミルの繊細な細工は日本女性が世界で最も理解できるものです。 透かし細工にもいろいろあって、左のような透かし細工は英語で『ラティス・ワーク』や『オープン・ワーク』という表現があります。 |
『清流』 アールデコ ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
しかしながらこのようなタイプの透かし細工には、適した英語表現がなぜかないのです。 作った民族の言語に適した表現がないのは謎なのですが、アンティークジュエリーの技法の中にはいくつかそういうものがあったりします。 当時はもしかすると定義された言葉があったのかもしれません。 いずれにせよ、この『清流』のように宝石よりも透かし細工をメインにした、完全に"アート"のジャンルに入る作品はトップクラスのアンティークジュエリーの中でも非常に稀な存在です。 |
だからこそこの高度な透かし細工が施されたリングには、史上最も天然真珠が評価され、ダイヤモンド以上に高い値段で取引されていた時代の素晴らしい天然真珠が2つも使われており、それに見合う大きなダイヤモンドもセットされているのです。 この作品ではもちろんメインは天然真珠とダイヤモンドで、透かし細工はその惹き立て役です。 |
アールデコ 天然真珠リング フランス 1920年頃 SOLD |
アールデコ サファイア リング イギリス 1920年頃 SOLD |
この2つのリングにも美しい透かし細工が施されています。大きな天然真珠であったり、約3ctもある見事なサファイアであったり、宝石を見ただけでもかなりの高級品として作られたことが分かります。その特別に高価な宝石の名脇役として施されているのが、素晴らしい透かし細工なのです。 |
どれも素晴らしい透かし細工ですが、あくまでも名脇役なので正面から見ると透かし細工自体は殆ど目立たないですね。あくまでも宝石がメインのリングです。 |
このリングももちろん素晴らしいダイヤモンドが全面に鏤められてはいるものの、あくまでも主役は透かし細工です。 こんなアーティスティックな作品が存在するなんて本当に驚くばかりです。 最高に嬉しくて楽しい驚きです♪ |
透かし細工の難しさ
『ETERNITY』 メアンダー模様 ダイヤモンド ネックレス イギリス 1920年代 SOLD |
細かな透かし細工が、ハイクラスの中でも特に上級のものでしか見ることができないのには理由があります。 宝石などのメインではなく、ある地味な存在なのでその価値が普通は分かりにくいかもしれませんが、実は一握りの職人しかできないほど難しい細工だからです。 |
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このリングは、「こんな透かし細工が可能なのか?!」とGenが仰天していた作品です。 リングの大きさを想像すれば、少しはその驚きが伝わるでしょうか・・。
実はGenがここまで確信を持って驚くのには理由があります。 透かし細工についてはGenがルネサンスでも毎回熱を込めてご説明しており、米沢箪笥の透かし金具についてご来店されたお客様でも聞いたことがある方もいらっしゃると思います。 この奇跡的な宝物の魅力をきちんとお伝えするためにも、今回はこのあたりをきちんとご説明しておくことにしましょう。 |
職人の手仕事による透かし細工の技法
-透かし金具が特徴の米沢箪笥-
6歳頃のGenと家族(左:父、中:Gen、右:継母)1953年 | もともと米沢の骨董商の3代目として生まれたGenでしたが、Genが大人になった1970年代には和骨董は既に枯渇し、良いものがなかなか出てこない状況にありました。 取り扱う骨董品の一部には米沢の伝統工芸品である、骨董の米沢箪笥もありました。 朱塗と透かし細工が美しい米沢箪笥は非常に人気があったのですが、優れた骨董品の数は限られています。 そんな時、米沢箪笥を新たに作る話が持ち上がったのです。 |
製造した米沢箪笥の上にアンティークジュエリーを並べて、米沢のとある蔵で展示会を開くGen(左、29歳頃) | 箪笥は江戸時代後期に日本各地に広まり、明治以降は各地で盛んに作られるようになりました。 そんな中で地方色ある箪笥も誕生したのですが、織物の一大産地である米沢で誕生したのが米沢箪笥でした。 Genがプロデュースした米沢箪笥は大人気で、百貨店からは接待されて出店するほどでしたし(※)、日本の富裕層のみならず独特のデザインが受けて当時の外国人エリート層にも飛ぶように売れました。 |
(※)百貨店はそのブランド力による強力な集客力と信頼性を背景にした場所貸しビジネスです。出店者は売上の一定割合を手数料として支払うビジネスモデルなので、売上高が高い店ほど百貨店にとっては美味しい客です。 現代は大型のショッピングモールやECサイトなどの競合の出現によって、百貨店の販売手数料は30%くらいに下がっているようですが、昔は40%以上あったそうです。百貨店は場所を貸すだけで何もする必要はありません。出店者が売れば売るほど儲かる仕組みです。だから売上高が非常に高い美味しい客(出店者)である場合は手数料を下げ、百貨店側がお願いして出店してもらうこともあります。百貨店の格を上げ、集客効果を期待できる海外高級ブランドの場合も同様です。 一方で契約通りの割合で手数料をきちんと支払う店舗でも、売上高が低いと手数料ビジネスである百貨店は儲かりません。ブランド力がないとみなされた店舗は百貨店内でもどんどん悪い立地に追いやられ、最終的には退去させられます。それでも『百貨店』の名前がないと集客できない店は出店せざるを得ないため、百貨店にとっては替えはいくらでも存在するという状況でした。 お歳暮、お中元1つとってみても、中身は同じでも百貨店の包装紙がついていないと駄目だったり、複数の百貨店がある地域だと百貨店の序列があって「どこどこの百貨店の包装紙じゃないと」などの変テコな慣習があったりで、出店する店舗にとっては大変な時代でした。販売手数料が40%も取られると、当然出店者はその分を転嫁して高く販売せざるを得ません。しかしながら実際の価値に見合わない高い価格で売っても、百貨店で売ってあるものだからというだけで買う顧客が多かったのです。手抜きしても、ブランド力を駆使するだけで売れる。アンティークジュエリー同様、日本の優れたモノづくりもこのような背景によって終わってしまいました。 |
スキーをしに月山に登る若かりし頃のGen(1966年、19歳) Genと小元太のフォト日記より |
さて、GENは職人ではないので実際に高度な作業が必要な細かい作業をしていたわけではありませんが、統括者としての立場上、企画や販売などの流通部分のみならず、製造における各工程についても熟知していました。 材木を選んだり、寝かせる工程は新たに土地を借りて自身の手でやっていました。材木を落ち着かせるために、ひっくり返しながら野ざらし陽ざらしにする工程は非常に重労働で、GENがムキムキだった理由の1つです。と言いつつ、ルネサンスのフォト日記で自慢げに披露していた上の写真でムキムキなのは、単に中学・高校時代の体操部とスキー部での活動によるものです(笑) |
Genプロデュースの米沢箪笥 | 材木は原木を丸太から選ぶので、木を選ぶ段階から詳しい知識が必要です。 製材、組み立て、漆塗り、透かし金具作りなどの各工程にそれぞれ高度な技術を持つ職人によって作業が行われるのですが、今回は透かし金具細工のごく一部についてのお話です。 大きさは違えど、アンティークジュエリーの透かし細工と技法自体は共通する非常に大切な部分です。 |
-米沢箪笥の透かし金具作り-
透かし金具を作る道具 | これが透かし金具を作るのに必要な道具一式です。 材料は1枚のただの鉄板です。 |
1枚の鉄板からパーツの大きさに合わせて切り出す工程 | まずはそれぞれの透かし金具のパーツの大きさに合わせて、鉄板を切り出す所から始まります。 |
透かし金具のデザインを罫書きする行程 | 切り出すパーツのデザインに合わせて罫書きを入れます。 |
罫書きに沿って鉄板を打ち抜く行程 | 罫書きに沿って、鏨(タガネ)と金槌を使って鉄板を打ち抜きます。 箪笥に使う硬くて厚い鉄板を打ち抜くには、柔らかくて薄いプラチナ板などを使うジュエリーとは異なる大変さがあります。 |
打ち抜いた鉄板から、不要な部分を引きはがします。 この状態ではパーツの端部はバリだらけで、なめらかさはないどころか迂闊に指で触ると怪我をするくらい粗いです。 |
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打ち抜いた鉄板から不要な部分を引きはがす工程 |
ここから磨いて仕上げる作業が時間と手間と集中力を必要とする、最も困難な作業です。 1つ1つ異なる形状のパーツに合わせて、丹念に鑢(ヤスリ)で磨いていくのです。 磨き仕上げは一度で終わるわけではなく、ヤスリの番手を徐々に上げながらバリを無くし、表面をなめらかにしていきます。 |
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鑢で丹念に磨いて仕上げる行程 |
道具一式を見ても、ヤスリの種類がいかに多いかがお分かりいただけると思います。 |
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透かし金具を作る道具 |
鑢で丹念に磨いて仕上げる行程 | 金具の形状が複雑になるほど箪笥に飾り付けた後の優美さは増しますが、ヤスリで整える作業の難易度は格段に上がります。 |
鑢で丹念に磨いて仕上げる行程 |
特に細かい透かし部分は、高度な集中力と忍耐力を必要とします。リズム良く一定方向に一定の力を加えて磨いていきます。このような細かい部分を磨くためのヤスリは市販品で購入することができないため、道具を一から手作りすることになります。 私も大学での研究や大企業での研究開発活動では、やはり最先端や極度に高度な取り組みをする際には市販品では道具や材料が手に入らないこともよくあり、高度な技術を持つ零細企業に特注したり、時には自身で作ったりカスタマイズするなどしていたので、体感としてよく分かります。簡単なものではピンセットの先端を削って鋭くしたり、よくあることです。 ヤスリは元々が消耗品な上に、このような細いヤスリは硬い鉄板を磨くと折れることも多々あります。材料となる鉄板自体の質が落ちるだけでも、折れてまともに磨けなくなることがあったそうです。「鉄板は鉄板でしょう?材料の質が落ちるなんてよく分からない。気のせいでは?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。 |
GFPパッケージ用のリードフレーム "TQFP Leadframe" ©NobbiP(7 September 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
サラリーマン時代の経験のお陰で、私はこれが実感としてよく分かります。 高度経済成長に合わせて大量生産・薄利多売がビジネスモデルの大企業で様々な物を作っていましたが、その1つにリードフレームがあります。電子デバイス製品の内蔵部品の1つで、スマートフォンの部品だったりするのでかなり薄くて小さく、1つ1円にも満たない世界です。 パターンによってサイズは色々ですが、使用する銅板の板厚は1mmありません。厚みものでも0.4mmくらい、薄いものだと0.1mmのものもあります。ぺらっぺらです。 |
【参考】銅板ロール | これも銅板などの金属板から作ります。 余程パターンが大きければ、型を使って機械的に打ち抜きで作ることも可能ですが、1ミリ以下のミクロンオーダーの世界なので物理的な手法は不可能で、化学薬品を使って作ります。 詳細は高度な企業秘密なので開示できませんが、銅板にレジストという保護膜を塗って作ります。 穴を空けたい部分以外に保護膜を塗り、その後は銅板を解かすことができる酸に漬けて、保護膜がない部分だけを解かして除去します。 |
リードフレーム "DIP zagotovka" ©Sergei Frolov, Soviet Digital Elections Museum, www.leningrad.su/museum/(11 September 2018)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
レジストに十分に密着性を出すための塗工条件や、銅を解かす際の酸の温度や濃度、溶解時間などはシビアに決まっています。完全に工業製品に見えるこのような製品でも、実は現場では高度な職人の勘頼りだったりします。あの人がいないと作れないなんてものは結構あって、不測の事態に対応できなかったりするのでモノづくり現場ではかなり問題視されていたりもします。 大量生産の現場では想像を絶する数量の製品を毎日同じ条件で作り出しているわけですが、不良品は突如発生します。毎回その原因は様々ですが、ある時どうしても原因が分からないことがありました。どうやら材料に原因がありそうなのですが、仕入れ先からは同じスペックのものを購入していますし、同じものだと主張しています。 |
同じ化学組成でも分散状況が異なるイメージ | |||
調査を進めると、やはり材料が原因であることが判明しました。確かに化学組成は以前と変わらなかったのですが、分散状況が以前の材料とは異なっていたのです。『銅板』と言っても純度100%ではありません。銅鉱山から採掘する際には天然のものなので鉄や亜鉛など酸化物や硫化物が微量成分として含まれます。 これら微量成分について、まとめて分析すると銅97%でその他3%と数値として結果が得られるのですが、同じ化学組成でも分散状況は異なる場合も少なくありません。上の4つのイメージでは青と黄がすべて同じ割合で存在しますが、細部を見ると分散状況が全く異なっています。 微細な加工であればあるほど、加工の際にこれらの違いがシビアに効いてくるのです。結局私が分析した際も、微量元素の分散状況が以前と異なっていたことが分かりました。実は材料メーカーが調達先の鉱山を変更していたようなのですが、化学組成が変わらないので提示義務はないだろうと思っていたそうです。ちなみにどうやって突き止めたのかも高度な企業秘密なので開示できません。たぶん大体の方はご興味ないと思いますが・・(笑) |
透かし金具細工の作業場 |
このような材料の僅かな変化、道具のちょっとしたコンディションの違いなど、機械ではわかり得ない、勘に頼った高度な作業をこなすのが高度な技術を持つ特別な職人です。 「1日でも休むと勘が鈍るから」と、冠婚葬祭など余程特別な理由がない限り職人たちは休むことはありませんでした。冬の寒い山形でも板間にムシロを敷いただけの作業場で作業し、暖房も感覚が鈍るからという理由で使用せず、かじかみ過ぎた時にのみ火鉢で少し手を温めるだけだったそうです。 |
透かし金具細工師の兄弟 | この資料として非常に価値ある貴重な写真は、当時Genが必要性を感じて職人さんに撮らせてもらったものです。 どれだけ地道に高度な作業を続けても、その価値を分かってくれる人は年々減る一方。 戦後から高度経済成長期にかけての日本の状況からもご想像いただける通り、職人の地位は低くみられ、どの分野の職人でも子には跡を継いで欲しくない、子もやりたがらないという状況に陥ってしまいました。 その結果、各地にあった日本の優れたモノづくりは終わってしまいました。 高い意識を持つ人たちによって中には復活させようとする動きもありますが、道具や作られたモノは残っていても、見て学ぶしかない"感覚値"の技術はどんなに頑張っても復活できません。 とても同じものとは思えない代物を、伝統工芸の名前だけとってさも尤もらしく高値で売ってあることもあります。ブランド名だけを利用した、昔の人たちに対する冒涜です。『Demantoid Flower』でご説明した現代のくだらない『ファベルジェ』と何ら変わりはありません。 |
最高級の米沢箪笥 | 通常品の米沢箪笥 |
左は、最後の優れた職人が作った最高級の米沢箪笥です。通常品と何が違うかと言うと、透かし金具についてはその厚みが全く異なります。最高級品は鉄板がかなり厚いです。鉄板が少し厚くなっただけでも、磨きの手間は3倍、10倍にもなるそうです。その分、重厚感や高級感はまるで違いますね。 それでも手に入る材料の違いなどもあり、50年前の高度な技術を持った職人が作る透かし金具でも、戦前の最高級品には明らかに及ぶことはなかったそうです。 |
Atrier Katagiri店舗内の様子(ベルビー赤坂1年目、1979年) |
アンティークジュエリーの仕事を始めてからも、しばらくは家業の米沢箪笥の販売を行っていました。アンティークドレスのページではベルビー赤坂のリニューアル後の店舗の様子をご紹介したのですが、これは1年目の店舗内の様子です。幸運が重なったことによる、お金がない中での突然の出店だったので突貫工事感は否めませんが、いくつか米沢箪笥も見えます。 朱塗の米沢箪笥が人気を博したのは良かったのですが、それを見て真似する人が出てくるのも当然のことです。デザインを真似ただけ、材料も酷い安物の粗造乱造品だったのですが、悪貨は良貨を駆逐する例に漏れずGenの米沢箪笥の製造は終わりを遂げました。 |
ウィリアム・モリスによる壁紙デザイン『トレリス』(1862年) | Genからはイギリスのウィリアム・モリスの話をよく聞きます。 1851年のロンドン万博にて、産業革命による粗造乱造の量産の安物が溢れる状況にショックを受け、中世の優れた手仕事へ原点回帰しようとした人物です。 量産の安物がモノづくりの主流となった当時のイギリスでは、職人は既にただの雇われ労働者と成り果て、言われたものを言われた通りに作るだけの存在でした。 職人の地位が高く、プライドを持ってアーティスティックなモノづくりをしていた中世のギルドの精神に立ち帰り、生活と芸術を統一することをモリスは主張しました。 これがアーツ&クラフツ運動へとつながっていったのです。 |
モリス商会の壁紙を職人が手作業で印刷する様子(メルトン・アビー 1890年) |
この主張自体は良いものでしたが、結局19世紀という時代にはフィットしませんでした。 職人による優れた手仕事の製品は高くつき、デザインだけを真似た粗造乱造品がさらに溢れかえることになり、モリス商会などによる真面目に作られた優れた製品は理解されず、終わりを迎えました。 |
モリスが主張した"生活と芸術の統一"。 芸術とは何か、そのことについて古代ギリシャの哲学者は優れた定義を遺しました。 「芸術とは熟練した洞察力と直感を用いた美的な成り行きであり、絶対的な美の本質は、見る者をどれくらい感動させられるかにある。」 |
"モダンデザインの父" ウィリアム・モリス(1834-1896年) | ではその"芸術"はどうしたら作れるのか。 モリスは「人間味のある製品こそ真の美術品」と考え、「全ての芸術の根本と基礎は手芸にある」と遺しました。 |
透かし金具細工の作業場 | 芸術は1つ1つ、才能を持つ人物がプライドと魂を込めなければ生み出すことはできません。 昔はこうして芸術品として作られる美術工芸品が存在できたのです。 工芸品の場合、用途が事足りれば良いという人が増えるに連れて、コストのかかる美術的な部分が不要なものとして削ぎ落とされておきます。 |
大量生産のプラスチックの安物タンス © Fructibus / CC0 | 悲しいかな、最終的にはこんなものが箪笥として成立してしまいます。 これでも十分満足できる人を否定しませんし、私が否定する権利もありません。 |
でも、手仕事の優れた美術品の価値を理解できるほんの一握りの人たちのために、ヘリテイジでは妥協することなく優れた美術品をご紹介して参りたいと思っています。 当時高級品をオーダーする教養の高い人たちにとっては当たり前の知識だったとしても、現代人には分かりにくい知識や技術がたくさんあります。 それをお伝えすることも1つの使命と考え、これからも詳細にご説明していくつもりです。 |
製造した米沢箪笥の上にアンティークジュエリーを並べて、米沢のとある蔵で展示会を開くGen(着席した人物、29歳頃) | 今回透かし金具を資料を元にご紹介できたのは若かりしGenがアーカイブとして残していてくれたお陰です。 その先見の明にはさすがだと感心するばかりですが、なぜルネサンスの時に活用しなかったのか、全く困ったものです。 アトリエの奥深くに封印されていた段ボールを漁ったら、大量の資料写真が整理もされずゴチャっと出てきました。本人も忘れていた感じです。 撮って満足、それがGenです(失笑) |
デジタルアーカイブのイメージ |
WEBミュージアムでもご説明している通り、ヘリテイジではデジタルアーカイブの重要性も強く認識しております。 実は経験値と知的財産の観点ではヘリテイジは日本一の老舗なので、それを生かした今回のようなご説明ページも増やしていきたいと思っております。忙しすぎて、実は写真の発見からは時間がかかりましたが、透かし金具はようやく日の目を見ました〜(笑) |
驚異の透かし細工
ジュエリーと米沢箪笥の透かし金具で大きさや素材は違うとは言え、基本的な透かし細工の作り方は同じです。1枚の板からタガネでパーツを取り出し、透かし部分はさらに糸鋸で挽いて透かしにし、端部はヤスリで丹念に削って仕上げます。 |
この指輪の透かしの幅は1mmどころか1mmの3分の1くらい、300ミクロンほどしかありません。しかも直線だけでなく、かなりRのきつい曲線部分もあります。とても人間業とは思えない驚異的な細工です! | |
この指輪を作るために、特別な糸鋸と仕上げ用のヤスリをわざわざ作らなければ制作不可能です。道具を作るだけでも想像を絶しますが、神懸かり的な集中力でこの細かく精密な細工を完成させるなんて驚愕の極みです!! こういう幾何学的な模様の透かしを全面に打ち出した作品は今まで見たことがありません。それは、単純な形状が連続するラティスワーク(格子状の透かし)より遙かに作業が難しく、作ることができる職人がより限られていたこと、時間と手間がかかりすぎて作ることができなかったことなどがあると思います。 |
見事なミル・ワーク
繊細緻密な透かし細工のフチに一切の乱れなく施された、エドワーディアンのトップレベルのミル・グレインも実に見事です。タガネで1つ1つミルを打った後、丁寧にヤスリで磨いて半球状にして仕上げてあります。 これほどの細かでアーティスティックな透かし細工ができる職人にとっては、ミルの頭を1つ1つ緻密に磨き上げるなんて造作ないことかもしれませんが、どれだけの手間と集中力をかけてこの作業を完遂したのか、本当に驚くばかりです。 |
センスの良いグレイン・ワークの使い方
この作品には透かしやフレームの縁に打たれたミル・グレイン以外に、注目すべき細工が施されています。 一番上の左側、そしてその対称となる一番下の右側に、連続した五つの半球の粒状の装飾がデザインされています。 この時代のプラチナやホワイトゴールド・ジュエリーの中でも、特にレベルの高いハイクラスのジュエリーのみ見られる難しい細工で、一つ一つ彫り出してあるのです。 さらに面白いのがその使い方です。 |
『Quadrangle』 エドワーディアン 天然真珠 ネックレス オーストリア? 1910年頃 SOLD |
この細工が最も多く見られるのは、サイズにグラデーションを付けてセットされたダイヤモンドの連続部分です。 『Quadrangle』だと中央のパーツに見られます。 上に行くほどに細くなるなる構造で、下から上にいくに連れてセットされたローズカット・ダイヤモンドが小さくなっていきます。 これ以上小さなダイヤモンドはセットできない大きさの箇所は、粒金を削りだしたような細工でフレームの隙間が埋められています。 ダイヤモンドが留められないからといって、そこだけ何もないと不自然な印象になります。 連続する煌めきのサイズ・グラデーションを断続させず、余韻を印象づけるためにわざわざ粒金のようなものを削り出してデザインするのです。 |
『モダン・アート』 エドワーディアン 天然真珠 リング イギリス 1910年頃 SOLD |
優れたデザインの『モダン・アート』も、3つの大きなダイヤモンドに連結する、天然真珠を囲むフレーム部分にこのグレイン・ワークがありました。 右はその部分の拡大画像ですが、プラチナの白い輝きは強いので、グレイン部分もダイヤモンドに負けない輝きを放っていることがお分かりいただけると思います。 サイズがグラデーションとなったダイヤモンドと自然な流れで連続できるこのグレイン・ワークは、ダイヤモンドととても相性の良い細工なのです。 |
『清流』 アールデコ ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
アールデコ ダイヤモンド ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
しかしながら手間も技術もかかる細工です。普通はダイヤモンドでスペースを埋める方が楽で早いと言えるほどの高度な細工です。第一級品にのみ、このグレイン細工を駆使した見事な作品を見ることができます。 『清流』は笹の葉の質感をローズカット・ダイヤモンドだけでなく、このグレイン・ワークを巧みにデザインすることで見事に表現しきっています。 右のアールデコのプチペンダントは、大きさの異なるグレイン・ワークの使い分けによって見事に高貴さや高級感を出しています。バチカン部分まで徹底してグレイン細工です。ダイヤモンドという宝石に頼るのではなく、アーティスティックな職人のプライドとクラフトマンシップが極まった作品で、「これ大好き。WAKAちゃんにいいんじゃない。」とGenが惚れ込んでいた作品です。ヘリテイジを開店する直前でとてもそんな余裕は無かったので、残念ながらあきらめました。価値を分かってくださる常連のお客様がお求めくださって安堵しました。 |
この作品は全面にグレイン細工を施しているわけではありませんが、その使い方が面白いのです。惹き立て役ではなく確実にデザインの一部として、これほどメインとして印象的に使ってある作品は初めてです。 その他、単独で大きなダイヤモンドのすぐ隣に使ってあったりもします。これらグレイン細工は丁寧に磨いて仕上げてあります。さらに驚くのが、小さなダイヤモンドを留めた爪までピカピカに磨いて仕上げられていることです。肉眼で見てもカチカチしない、なめらかで美しい印象になっています。 大変な手間と高度な技術がなければ出来ない細工なだけに、最高級品の徹底ぶりには感服するのみです! |
全面に敷き詰められたダイヤモンドの華やかな煌めき
このリングは長方形のシンプルな形のキャンバスに描かれた複雑な幾何学模様の透かしが一番の見所です。 つい、その美しい透かし模様にだけ注目しがちですが、実はかなりダイヤモンドも使用された贅沢な作品です。 ダイヤモンドが全面に敷き詰められているので、その輝きもなかなか贅沢な雰囲気があります。 これは、手作業による古いカットのダイヤモンドだからこその美しさです。 |
ダイヤモンドのカットと輝きについては『目眩ましのダイヤモンド』で詳細をご説明しました。現代のブリリアンカットは、取り込まれた光がダイヤモンドの底面から全て反射して戻ってくるよう数学的に計算されたカットです。対称性も高く、一見良さそうに聞こえるのですが、実は"芸術"の観点からはそうではありません。 |
統一された規格に忠実に従って、機械を使って正確にカットされたダイヤモンドは、工業製品的な観点からは優れていると言えますが、全く個性が感じられません。 そこに生命の息吹は微塵も感じることはできず、魂のないロボットのような存在です。 正確に対称にカットされた底面からまんべんなく返ってくる光は均一すぎて、ワサワサというかモゾモゾというか、迫力が全く感じられない違和感ある輝きにしか感じられません。 |
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【参考】現代のダイヤモンド・リング |
職人が手作業でカットした古いダイヤモンドには手仕事ならではのゆらぎがあり、光を反射せず透明に見える瞬間とダイナミックに光を反射して煌めく瞬間の印象差が非常に大きいです。金剛光沢を放つことができるダイヤモンドならではの魅力を最大限発揮できるのが、手仕事による古いカットなのです。 |
【参考】現代のダイヤモンド・リング | 【参考】現代のダイヤモンド・リング |
結局底面で漏れなく全ての光が反射するとは言っても、入ってきた光が均一に分散されて放たれるため、1つ1つのファセットからの輝きは小さくなってしまうのです。 |
【参考】現代のダイヤモンド・リング | 【参考】現代のダイヤモンド・リング |
左のリングなんてダイヤモンド以上に爪が目立っていて笑えますが、これらのダイヤモンド・リングは完全に同じ大きさのダイヤモンドを敷き詰めるから美しく見えないのでしょうか・・。 |
そうでもありませんでした。 大きさの異なるダイヤモンドを敷き詰めてもブリリアンカットの相似形に過ぎず、やはり違和感を感じます。 人間には本能的に美しい、心地よいと感じるものとそうでないものが明確に存在します。 結局モリスも気づいていた通り、人間味のある製品こそが真の美術品たり得ます。 機械だけで作った量産の工業製品に、1つ1つ丹念に心を込めて手作りした美術品と同様の感動を人間に与えられるわけがありません。 |
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【参考】現代のダイヤモンド・リング |
【参考】ブリリアンカット・ダイヤモンドのルースの売買 | 現代ジュエリーのダイヤモンドは完全に量産工業製品なので、決められた規格で生産され、売買されます。 手に入れられるルースに合わせてジュエリーをデザインする、ルース販売者側主導の図式です。 |
しかしこのリングが作られた時代はまだルース販売者側ではなく、あくまでもオーダーする側、ジュエリーを作る側が主導の時代です。 作りたいジュエリーに合わせてダイヤモンドのカットをオーダーしたり、手作業に基づく個性あるたくさんのダイヤモンドの中から、丹念に選び抜いて使っていました。 |
電動のダイヤモンド・ソウや研磨機が使えるようになったとは言え、まだまだ現代のコンピュータ制御のカットほどカットが楽ではない時代です。職人が手作りする、真に芸術品と言えるジュエリーのコストの内訳を見ると、材料費以上に作業費・技術料がかかるものです。教養がない人でも見てすぐに分かる石ころなど、素材の価値だけでジュエリーを高級か否か判断するのは教養も感性もない証拠です。 単純に現代ジュエリーのダイヤモンドと比べてはいけません。これらのダイヤモンドをカットするために、どれだけの高度な技術と時間がかかったことか・・。真に優れたアンティークジュエリーは、想像を絶する手間と技術、そして愛情をかけて作られているものなのです。 |
注目すべきは、圧巻の透かし細工に負けない存在感を放っている2つの大きなメイン・ダイヤモンドです。 対角線上に配置されたこのダイヤモンドがなぜこれだけ印象的なのか、それには作りに基づく明確な理由があります。 わざわざ外周を透かしにして独立させることで、印象を強めています。 さらに外周の透かしには他の部分と同様にミルが打ってありますが、ダイヤモンドのフレームだけはミルがないのです。 |
さらにこの角度で見るとお分かりいただける通り、この2つのダイヤモンドだけ意識的に面から飛び出したセッティングになっています。 さらに、ベゼルの面全体も緩やかにアールが付いています。 画像は2次元になってしまうので立体感が伝わりにくくなってしまうのですが、この立体的な作りによって、実物はより躍動感のある美しさを感じることができるのです。 単なる平面上のデザインだけでなく、立体構造までも緻密に計算してデザインができる力量に、作者のアーティストとしての卓越した才能を読み取ることができます。 |
この作品が作られた時代はまだ馬が交通手段として存在しつつ、自動車が普及し始めた頃でした。 左はアールデコのスーパーカーで、2つの目玉のようなライトが印象的なのですが、Genが「思いついた!」と嬉々としてこのイメージビジュアルを作成しました。 確かに印象的な2つのダイヤモンドが、スーパーカーのデザインとピッタリとマッチしていますね。 かなり気に入ったらしく、画像にGenの名前でサインを入れてあります(笑) |
エッジの効いたデザイン
ベゼルの圧倒的なデザインと細工に比べて、シャンクとベゼルを連結するショルダー部分はかなりシンプルなデザインです。 |
正面から見るとこんな感じです。 あえてショルダーがすっきりして、メリハリのきいたデザインになっているのが面白いです。 ショルダーにまで細かなデザインがあると、ちょっとうるさい印象になっていたかもしれません。 でも、実はここにも面白い秘密が隠されています。 |
シンプルなデザインのショルダーの下を見ると、面白い透かしのようなデザインが施されています。 |
ショルダーは横幅があるため、この細工は糸鋸とヤスリによる透かしではなく、ゴールドの板を曲げて蝋付けした作りです。 実物の大きさを考えると、よくこれだけ細かな作業をしたものだと驚いてしまいます。しかも正面からは見えない部分にです。こういう部分に、作者やオーダー主の高い美意識が現れるのです。 |
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一見シンプルに見えても、アールデコ後期の手抜きのためのシンプル・デザインとは全く別物なのです。 |
プラチナにゴールドバック
このリングはプラチナにゴールドバックの典型的なエドワーディアンの作りです。技術的・産出量的な問題がクリアされ、1905年頃からプラチナが本格的に一般のジュエリー市場で使われるようになりました。この画期的な新素材は金と比較しても極端に高かったため、エドワーディアンのプラチナ・ジュエリーはゴールドバックの作りになっています。 |
【ノーベル化学賞受賞者】ヴィルヘルム・オストヴァルト(1853-1932年) | 何でも出始めは高価でも、次第に価格はこなれてくるものです。 しかしながらプラチナは軍需産業で重要な物質でもありました。 オストワルト法(アンモニア酸化法)で合成する硝酸、接触法で合成する硫酸はいずれも軍事用のメジャーな酸で、化学兵器や爆薬の材料になります。 これらの酸を合成するための触媒として、プラチナが必須だったのです。 1914〜1918年までの世界最悪の第一次世界大戦の勃発によってプラチナの需要は一気に伸び、ジュエリーに使用するどころではなくなりました。 |
赤の広場を行進するボリシェヴィキ軍(1917年) | さらに大戦中の1917年に当時世界有数のプラチナ供給国だったロシアで革命が起き、一時的にプラチナの供給が制限されてしまいました。 外貨を稼ぎたい新政府によって比較的早くプラチナの供給は再開されましたが、しばらくは各国政府が統制するほどプラチナは貴重な存在となったのです。 |
この特別な宝物は史上最悪の戦争が終わり、本格的にアールデコの時代が到来する直前。 プラチナの価格が十分に下がりきっていない、ごく短期間の特別な時期に作られたものと推測します。 |
短い期間の時代を完全に特定出来ることも、エドワーディアンならではの魅力です。 もしこの作品がすべてプラチナだったら、デザインや作りからだけでは、エドワーディアンなのかアールデコなのか時代の特定は難しかったことでしょう。 |
表はプラチナとアールデコのようなデザインによる現代的なイメージがあるのに、裏側の金細工からは、ヨーロッパの王侯貴族が主導した旧世界のクラシックな雰囲気を感じます。19世紀のような優れた金細工と、最先端のプラチナ細工をたった1つの小さな宝物で同時に楽しめるのがエドワーディアンにしかない魅力です。 |
高度な技術によって丁寧に手作りされたからこその、細部に至るまでのスッキリとした美しい作りが見ていて気持ち良いです。 |
これまでに体験したことのない世界最悪の戦争によってたくさんの人の命がなくなり、旧世界が終わった時代。 でも、人の死がもたらすのは深い悲しみだけではありません。 身近な愛する人々の死を間近に見ることで、人はいつ死ぬか分からないことを残された人たちは再認識するのです。 周りの人たちを大切にしなければ。 |
飢饉が発生すると出生率が増えるという統計も聞きます。 死を身近に感じることで、残された人々は無意識に生きるエネルギーをより強くするのです。 悲しみを乗り越え、生命エネルギーに満ちあふれ、新しい時代を作ろうとする人々の勢いが爆発的に高まっていた時代。 そんな時代だからこそ生み出された奇跡的な芸術品、それがこのリングなのです。 |
ブローチで細工を全面に押し出したアーティスティックなジュエリーはまだありそうですが、リングでこれほどまでのアーティスティックな細工物が出てくるなんて予想していませんでした。 長方形の小さなキャンバスに表現されたアートは、品の良さを保ちつつも大きさ以上に存在感を放ちます。細工物ならではの魅力です♪ そうは言いつつもご覧の通り、ダイヤモンドが全面に敷き詰められているので思った以上に光を放ちます。 アンティークジュエリーの魅力はまだまだ底知れません・・♪ |