No.00293 獅子座 |
『獅子座』 石に浮かび上がる煉瓦色や芥子色のインクリュージョンは実に幻想的で、それらの位置を入念に計算してデザインし、正確に彫刻されたネメアの獅子は非常に迫力があります。 アーティストとしての優れた才能と、信じがたいほどの天才的な立体処理能力、職人としての抜群の才能を全て持つ、神技の職人による奇跡的な芸術作品です。 |
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この宝物のポイント
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1. 普遍の人気を誇るライオンのジュエリー
1-1. いつの時代も大人気のライオン
「ガォーッ!!」 動物の王、ライオンは最高にカッコよく、本能的に畏敬の念と憧れが湧いてくる生き物です。『本能』というのは、基本的に人間という生物全体に共通して存在するものです。 |
『カプリコーンと戦うライオン』円筒形インタリオ シュメール(メソポタミア文明) 紀元前2900年頃 SOLD |
だからこそ非常に古い時代から今日まで、いつの時代も普遍の大人気モチーフとして親しまれてきました。 |
ヨーロッパの王侯貴族の紋章としても非常に人気があり、たくさんの紋章にライオンのモチーフを見ることができます。 |
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『魔法のクリスタル』 ジョージアン スモーキー・クォーツ フォブシール イギリス 1780年頃 SOLD |
『真実の支持者』 ジョージアン ガスリーの紋章 シール イギリス 19世紀初期 SOLD |
ジョージアン ライオン紋章 フォブシール イギリス 1830年頃 SOLD |
この2つのシールでは、ライオンは立ち上がった姿で表現されています。この姿勢のライオンは、『ランパント』と呼ばれます。 |
イギリス連合王国の王の紋章(ジョージ3世、ジョージ4世、ウィリアム4世が使用) "Coat of arms of the Hanoverian Prince of Wales (1714-1760)" ©Sodacan(25 September 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
紋章の各パーツ 【引用】『From Wikipedia, the free encyclopedia』Heraldry 23 April 2021, at 14:50 UTC |
百獣の王ライオンは本当に人気で、イングランド王を始めとしてスコットランド王、デンマーク王、オランダ王、ノルウェー王、フィンランド王、スペイン王、ベルギー王など各国王室が紋章として使うのみならず、クレストやサポーターにまでライオン・モチーフは広く使用されました。 |
ライオンの表現のバリエーションの一部 【引用】大修館書店 森護著『紋章学辞典』 p.166 |
高位の王侯貴族のみならず、ナイト級に至るまでライオン像を愛用したため、図形の区別が付かなくなったり、同一紋章が現れる問題が生じました。 その結果、ライオン・モチーフの中に様々なバリエーションが生まれ、きちんと定義して区別されるようになっていきました。 左はその一部ですが、それぞれに名称があります。 八つ裂きみたいだったりして、いまいちカッコよく感じられないものもありますね。 |
【参考】低レベルのライオンのインタリオ・リング(19世紀中期) | 爵位貴族のような超大金持ち以外も、ライオンをモチーフにした紋章にしてシグネット・リングなどを作っていたため、ライオン・モチーフのインタリオは結構たくさん作られています。 爵位貴族のみが持てる超高級品は市場でも極僅かで、大半は彫りの良くない中途半端な代物です。 |
【参考】低レベルのライオンのインタリオ・リング(19世紀中期) | |
安物はデザインが稚拙で、彫りも平面的かつ精細さに欠けるものであるため、全くライオンらしい迫力がなくカッコ良くありません。それでもライオンがモチーフというだけで人気が高く、低レベルの安物であっても高額で取引されています。持ち主が手放さないので滅多に市場には出て来ませんし、出て来たらすぐにライオン・モチーフというだけで売れてしまうのが現状です。 |
『ランパント』 ジョージアン インタリオ リング イギリス 19世紀初期 SOLD |
だからこそ、ヘリテイジが扱うレベルのハイクオリティのライオン・モチーフは余計に入手が難しく、滅多にご紹介できる機会はありません。 ライオンが売れ筋商品だから扱うということは絶対にやりたくないことで、いつも相当厳しく選んでいます。 |
↑【参考】低いレベルのランパントのインタリオ・リング ←ヘリテイジお取り扱い品 |
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左の超高級品と右の稚拙な彫りを見比べれば、同じモチーフでも、いかに躍動感や美しさに差があるかがお分かりいただけると思います。 |
【参考】ヴィンテージのファッション・リング |
このヴィンテージのファッションリングは一見それっぽいデザインで作ってありますが、かなり稚拙な出来です。立体視して彫刻する技能を持たない職人が彫ったためか、彫りがかなり平面的です。また、彫った後の磨きもろくにやっていないため、ライオン部分がしらっちゃけている上に、表面がカサカサした質感です。 |
19世紀初期のイギリス貴族の高級品 | 【参考】ヴィンテージのファッション・リング |
左は紋章として表現されているため、ライオンの足元にはトルスが彫刻されています。右はただのファッション・リングなのでライオンの足元はただの地面です。左の超高級品を着けるような教養がある王侯貴族階級であれば、たとえ美的感覚を持たずとも常識で2つの違いが分かるのですが、美的感覚もろくな知識もない現代の庶民だと、インタリオ・リングというだけでありがたがり、貴族のジュエリーと勘違いして買うこともあるかもしれませんね。 それはそうと、比べて見ると、ジョージアンのハイレベルの彫りのライオンがいかに迫力があるかがよりお分かりいただけるのではないでしょうか。猛々しい猛獣の1つ1つの筋肉、肋骨、恐ろしい爪など実に見事な表現です。 |
なかなかご紹介できるクラスの宝物は存在しないのですが、あった時は非常に迫力ある素晴らしい作品なのがライオン・モチーフです。 |
低レベルなものからハイクラスのものまで、時代を問わず愛され、数多く作られてきました。 そんなライオンのインタリオの中でも最高峰と言えるのが、この古代ローマのレッドジャスパーのインタリオなのです!!♪ |
2. 古代ギリシャの獅子座がモチーフ
このインタリオで特徴的なのが、ライオンと共に星が表現されていることです。 星の存在によってこのライオンがただのライオンではなく、獅子座であり、かつネメアの獅子であることが分かります。 |
2-1. ネメアの獅子
ネメアの獅子を絞め殺すヘラクレス(古代ギリシャ 紀元前620-紀元前480年頃)大英博物館 "ネメアーのライオン" ©遠藤 昂志(9 November 2013, 01:23:21)/Adapted/CC BY 4.0 | ネメアの獅子は、ギリシャ神話で最も有名な英雄ヘラクレスの話をご存知ならば、殆どの方が聞いたことがあるであろう有名なライオンです。
過酷な運命を背負って生まれたヘラクレスの、12の功業の最初の試練が『ネメアの獅子』でした。 |
12もある功業の中で、なぜネメアの獅子が最初の試練として選ばれたのでしょうか。 現代人より遥かに優れた頭脳を持っていたとされる、古代ギリシャの人々。 その中でも特に優れた人物がよく練って作り出した神話です。 |
ナミビアのライオン "Lion wating in Namibia" ©Kevin Pluck(26 July 2004)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
だからこそ当然、カッコいいし強いし何となくというような適当な選び方をしたのではなく、きちんと意味があって選ばれています。 |
2-1-1. 由緒正しい血統のネメアの獅子
ヘラクレスを産むミュケナイ王女アルクメネ | ヘラクレスは死後、ゼウスによって神格化され、オリュンポスの神の座に連ねられますが、元々はゼウスとミュケナイ王女アルクメネの息子として生まれた半神半人でした。 |
一方でネメアの獅子は諸説あるものの、純粋な神の血統として生まれています。 |
父 | 母 |
テュポーン(紀元前540-紀元前530年頃) | エキドナ "Echidna - Furia alata (6795077537)" ©Yellow Cat from Roma, Italy(2 October 2011, 12:28)/Adapted/CC BY 2.0 |
父は神々の王ゼウスに比肩する力を持つとされる巨人にして神、怪物であるテュポーンです。母は多くの怪物たちを産んだ不死の女神であり巨大な怪物であるエキドナです。ギリシャ神話を見る上で、『巨人』というのは1つのポイントです。原初の神に近い存在であることが分かります。 |
ガイアから赤子のエリクトニオスを受け取るアテナ(ヘルモナクス作 紀元前470-紀元前460年頃) | ギリシャ神話における原初の神はカオス、ガイア、エロス、タルタロスです。 これらの神々は人の姿で具象化して表現されることが多々ありますが、実際は姿形は持たない"空間"や"存在そのもの"、もしくは"概念"です。 |
科学雑誌Newton ©ニュートンプレス | 藪から棒なお話ですが、中学時代は科学雑誌Newtonにめちゃくちゃはまっており、将来は素粒子物理学か宇宙物理学の道に進もうかと考えたこともあったほどです。 研究ポストが限られており、マイナーな世界で食べていけるかという懸念があったので、結局これらは趣味の範囲内で楽しむことにしたので応用範囲が広そうな化学の道に進み、なぜか今私はアンティークジュエリー・ディーラーをやっているわけですが、実は『宇宙論』を知っているとリンクさせてギリシャ神話の内容が理解しやすくなります。 |
科学雑誌Newton ©ニュートンプレス | ガイアは母なる大地の女神と言われていますが、正確には"天と地を含む宇宙そのもの"です。 このガイアは突然現れた、もしくはカオスから生まれました。 つまり『無』もしくは『混沌(カオス)』から生まれました。 素粒子物理学では、素粒子レベルの微視的な世界で見ると、無は賑やかな空間です。 「無なのに?」と気になる方は、ぜひNewtonなどで勉強なさってみてください。 |
科学雑誌Newton ©ニュートンプレス | この『無』のゆらぎの中から突如として宇宙が生まれました。 少し前だと、宇宙はビッグバンで始まったと聞いた方が多いと思います。 無から有が生まれたというこの理論は、比較的最近のものです。 |
宇宙(ガイア) |
しかしながら、カオス(混沌)からガイア(宇宙)が生まれたという表現は、"無のゆらぎ"から突然宇宙が生まれたということを一般的な人にも分かりやすく表現したもののようにも感じます。古代ギリシャ人は当時既に全部分かっていたのだろうかとすら感じる、面白い世界です。 カオス、ガイアだけでなく原初の神エロス、タルタロスも概念や空間、存在そのものです。 タルタロスは冥界よりも遥か下に存在する奈落そのものであり、神々の牢獄です。地上からタルタロスに青銅の台を落とした場合、丸々9日かかって10日目にようやく底に辿り着くほど深い場所にあります。 |
父 | 母 |
テュポーン(紀元前540-紀元前530年頃) | エキドナ "Echidna - Furia alata (6795077537)" ©Yellow Cat from Roma, Italy(2 October 2011, 12:28)/Adapted/CC BY 2.0 |
ネメアの獅子の両親、テュポーンとエキドナはこの原初の神タルタロスとガイアの間に生まれたとされています。 |
石を産着でくるんでクロノスに渡すレア | ゼウス誕生秘話で、父のクロノスが子供達を次々に丸飲みにしたという話を知って意味不明だと思いました。 「父が子を!!」という感情的な部分もありますが、それ以上に気になったのがまずは物理的に可能とは思えないことが気になりました。 人間に置き換えて想像する場合、いくら成人男性と比べて赤ちゃんが小さいとは言っても丸呑みは不可能です。 実はクロノス神は巨人です。 |
アイオン-ウラノスとガイアのローマンモザイク(古代ローマ 200-250年) |
女神ガイアは自力で天の神ウラノスを産んだ後、ウラノスと親子婚してクロノス神らティターン12神をもうけました。ティターン12神はゼウスを主神とするオリュンポスの神々に先行する古の神々で、巨大な身体を持つ巨人というか、巨神です。だから巨人ではなかった子供達を丸飲みできたわけですね。 |
『ガイア』(フォイエルバッハ作 1875年) | 人間の姿で具象化すると一見理解やすいように感じますが、むしろ本質が見えにくくなり、かえって理解しにくくなってしまっているようにも思えます。 |
父 | 母 |
テュポーン(紀元前540-紀元前530年頃) | エキドナ "Echidna - Furia alata (6795077537)" ©Yellow Cat from Roma, Italy(2 October 2011, 12:28)/Adapted/CC BY 2.0 |
まあそれはさておき、原初の神タルタロスとガイアの間に生まれたテュポーンとエキドナは巨体を持つ由緒正しい神の血統であり、その両親から生まれたネメアの獅子は怪物界のサラブレットと言える存在なのです。 |
2-1-2. ネメアの獅子を育てたヘラ
諸説ありますが、怪物のエリート、ネメアの獅子はヘラが育てました。 |
『ゼウス&ヘラ』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント イギリス 1860年頃 ¥885,000-(税込10%) |
ヘラは最高神ゼウスを虜にする絶世の美貌を持ち、貞淑な妻であり、既婚女性を始めとする女性を守護する最高女神です。 既婚女性の鑑、かつ非常に女性らしい女性なので、ゼウスが浮気をしたらゼウス本人ではなく浮気相手やその子供にめちゃくちゃ厳しいです(笑) |
刺客の蛇を掴む幼いヘラクレス(古代ローマ 2世紀)カピトリーノ美術館 | ゼウスの浮気相手の子ヘラクレスにも生涯にわたって嫌がらせをし続けます。 半神半人ながら主神ゼウスの血をひき、神にすら勝るとも劣らぬ怪力を持つヘラクレス。 ゼウスに比肩する力を持つとされるテュポーンを父にもつ純粋エリート家系で、ヘラクレスと同等の力と持つとされ、ヘラに育てられたネメアの獅子。 |
因縁の対決として、ネメアの獅子が12の功業の最初に選ばれたというわけです。 |
2-2. ネメアの獅子とヘラクレス
『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント 19世紀後期 ¥1,330,000-(税込10%) |
ヘラクレスはデルポイでアポロンから、ミュケナイ王エウリュステウスに仕え、10の勤めを果たせとのご神託を受けました。 エウリュステウスから最初の功業として与えられたのが、ネメアの獅子退治でした。 |
2-2-1. ネメアの谷に住み着いたネメアの獅子
ある時、ネメアの谷に一匹の獅子が住みつき、人や家畜を襲うようになりました。 |
2-2-2. 古代都市ネメア
ネメアの位置 ©google map |
ネメアはどこにあるかと言うと、広域地図だとここです。 |
ネメアの位置 ©google map | ギリシャで見るとここです。 比較的アテネも近いですね。 |
ネメアのスタディオン "Nemea Stadion 2008-09-12" ©Michael F. Mehnert(2008)/Adapted/CC BY 3.0 |
日本人にとってはいまいちマイナーな『ネメア』ですが、古代ギリシャではネメア大祭と言われる、全ギリシャ的大祭が開催されていたメジャーな都市でした。ネメア大祭は古代オリンピック、イストミア祭、ピューティア大祭と並んでギリシャ四大大会の一角を占める競技会です。 |
ネメアのゼウス神殿跡 【出典】The Nemean Games HP/ © The Society for the Revival of the Nemean Games |
お祭りは何らかの神に捧げるために開催されるものですが、ネメア大祭は古代オリンピック同様、主神ゼウスの栄光を祝うための大祭でした。紀元前573年頃には存在したことが確認されており、古代ローマ時代のギリシャの著作家アポロドートスによれば競馬、重装歩兵走り、レスリング、ボクシング、戦車レース、槍投げ、弓術、さらには音楽コンクールまで行われていたそうです。 |
ネメアのアポディテリウム(浴場の更衣室)(古代ギリシャ 紀元前300年頃) "Nemea - Apodyteria" ©Ophelia2(16 August 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
1973年以降、発掘調査によってゼウス神殿の近くからは、遠方からの訪問者のための古代の宿泊施設や浴場など毎年様々な遺跡が見つかっています。 |
ネメアのスタディオンの入口(古代ギリシャ 紀元前320年頃) " Vaulted entrance tunnel of the Ancient Stadium of Nemea, Ancient Nemea, Greece (14095024904) " ©Carole Raddato(21 April 2014, 13:37)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
スタディオンは最近発見されたもので、アーチ型のトンネルで作られたこの入口は保存状態も良く、壁には古代の落書きなどもあるそうです。ネメアがゼウスの聖地の1つとして、とても栄えていたであろうことが伝わってきますね。 |
ネメアのスタディオンで裸足で100m走する現代人【出典】AFP通信 2008.6.22配信 ©Louisa Gouliamaki/Adapted |
現代ではこういうことになったりもしています。さすがギリシャ人(笑) |
ギリシャ歩兵のいでたちで競技を終えた選手たち【出典】AFP通信 2008.6.22配信 ©Louisa Gouliamaki/Adapted |
こういう気合の入った兜や盾はどうやって準備するのでしょうね。わりとしっかり作ってありそうな所からも、参加者の気合の入りようや、古代ギリシャ人への尊敬の念が伝わってきます。ちょっと私も参加してみたくなってきました(笑) |
ネメアのゼウス神殿跡 "Temple of Zeus, Nemea" ©Wlodek Kaluza fotorion.de(23 October 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
現代のお遊びはさておき、古代ギリシャ人にとってゼウスを祀る大切な聖地であり、重要都市であったネメアに恐ろしいライオンが住みつき、人畜を襲うようになったとは一大事なのです! |
2-2-3. 古代ペルシャの君主クセルクセスも襲われたギリシャのライオン
群のリーダーと2頭のメスのライオン "Pride leader" ©Caelio(24 September 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
『戦うライオン』と言えば、群のリーダーの座をかけてオスの成獣同士が戦う猛々しい姿や、集団でメスが草食動物を狩る姿をイメージされる方が多いと思います。人や家畜を襲う話はあまり聞きませんよね。実際、ライオンは賢く性質が他のネコ科よりも比較的温和なため、人を襲うことはほとんどありません。 |
ギリシャに野生のライオンはいませんし、ネメアの獅子退治の話は古代人が豊かな想像力で作り上げた、完全に想像だけの創作物なのでしょうか。 |
ライオンの生息域(赤:過去の分布、青:現代の分布) | ライオンはアフリカとインドの一部にしかいないイメージがありますが、実は過去には古代ギリシャにも生息していたのです。 |
【世界遺産】ショーヴェ洞窟のライオンの壁画(フランス 紀元前3万年頃) | それどころか、現在知られているものでは最古級とされる、約3万2000年前の旧石器時代のショーヴェ洞窟の壁画や、1万5000年前のラスコー洞窟の壁画にもライオンが描かれており、少なくとも1万5000年頃まではヨーロッパの広い地域に生息していたと考えられています。 |
古代ギリシャの歴史家 ヘロドトス(紀元前490から紀元前480年-紀元前430から紀元前420年 "AGMA Herodote" ©Marsyas(16:07, 23 December 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
古代ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384-紀元前322年) |
完本として現存する古代歴史書の中では最古の『歴史』を記したヘロドトスによれば、紀元前480年頃、ライオンは古代ギリシャでよく知られる動物だったそうです。しかしながらライオンは娯楽や栄光のためのハンティングの対象として人気が高かったことなどもあり、アレクサンダー大王の家庭教師もやっていた哲学者アリストテレスによれば、紀元前300年頃には既に稀少な動物となっており、この地のライオンは100年頃には絶滅したとみられています。 |
アケロオス(アへオロス)川とネッソス(メスタ)川の位置 ©google map |
2人によると、ライオンはアケオロス川とネッソス川の間にだけ生息していたそうです。狭い地域かと思ったら、地図で見るとギリシャの広い範囲に生息しています。 |
アケメネス朝ペルシャの君主クセルクセス1世(紀元前519-紀元前465年) "Xerxes Image" ©Flickr user dynamosquito(17 May 2010)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
紀元前5世紀のアケメネス朝ペルシャの君主、クセルクセス1世もギリシャの地でライオンに襲われたことがあるそうです。 |
『英雄ヘラクレス』 エレクトラム インタリオ・リング 古代ギリシャ 紀元前5世紀 SOLD |
スパルタ王レオニダスを倒すペルシャ王クセルクセスとも言われるシリンダー・シールを押した粘土(アケメネス朝ペルシャ 紀元前5世紀頃)メトロポリタン美術館 |
クセルクセス1世と言えば、このリングの持ち主だった可能性も十分に考えられるスパルタの英雄、レオニダス王を紀元前480年のテルモピュライの戦いで破った王ですね。 ペルシャからギリシャに進軍する際、クセルクセス1世が率いるペルシャ軍のラクダの積荷がライオンに襲われたそうです。 古代ギリシャ人にとって、想像以上にライオンは身近な存在だった可能性が十分に考えられます。 |
2-2-4. ヘラクレスの覚悟
怪力を持つ英雄ヘラクレスがネメアの谷に住みついたライオンを倒しました。 これだけ聞くと、いかにも最初から強く敵なしの英雄が悠々と獣を倒したかのような、いかにも単純なおとぎ話に感じてしまいますが、端折らずに物語を追うともっと深刻で大変なお話です。ヘラクレスも強いですが、相手はただの獣ではありません。獣の姿をした『神』と言える存在です。両親共に巨神という怪物界のサラブレットであり、人間の武器が効かないなどの神としての尋常ではない能力に加えて、ヘラクレスに引けを取らない怪力も持っていました。 |
『イデ山のゼウスとヘラ』(ジェームズ・バリー画 1790-1799年)シェフィールド美術館 |
12の功業はヘラクレスを強く成長させたり、英雄として有名にするためのものではありません。結局は嫉妬に燃える天界の最高女神ヘラがヘラクレスを抹殺するためのものです。だからネメアの獅子退治は、決して死の覚悟なしで挑めるものではありませんでした。 |
ヘラクレス(制作年不明) "Hercules Statue" ©遠藤 昂志(2 February 2015)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
街に辿り着いたヘラクレスはある一人の少年と出会いました。少年はこう言いました。
ヘラクレスが無事にネメアの獅子を退治し30日以内に生きて帰ってこれたら、街は獅子をゼウスへの捧げ物にするだろう。しかしながらヘラクレスが獅子に殺されるか30日以内に戻ってくることができなかったら、少年自身がゼウスへの捧げ物となる。 |
トロイア戦争の英雄ピロクテテスと死にいくヘラクレスから与えらえた強弓 | 人や家畜を襲う恐ろしいライオンがいるという情報はあっても、そのライオンが特別な力を持つことは誰も知りえませんでした。 ヘラクレスはネメアの谷でライオンを探しながら、ライオンを討つための矢をいくつか手に入れました。 いざライオンを見つけて太腿を射ると、毛皮や皮膚には全く傷がつかずに矢が跳ね返ってきてしまいました。 そこでヘラクレスは、ライオンの黄金の毛皮が人間のいかなる武器でも傷をつけることができないことに気づきました。 |
『ヘラクレスの棍棒』 古代ギリシャ 紀元前2世紀 SOLD |
ネメアの獅子の特別な力を理解したヘラクレスは機転を利かせて攻め方を変更しました。 その怪力によって棍棒で殴りつけ、悶絶する獅子を寝ぐらである洞窟になんとか追いやりました。 洞窟には出入口が2つあり、ヘラクレスはその1つを岩で塞ぎました。 |
第11の功業 ヘスペリデスの黄金の林檎『ヘラクレスと黄金の林檎を守るラドン』(古代ローマ後期)ミュンヘン州立古代美術博物館 | 服を取り替えたヘラクレスとオンファレ(古代ローマ 201-250年)スペイン国立考古学博物館 |
第1の功業で得たネメアの獅子の毛皮はヘラクレスを守る鎧となり、その後ずっとヘラクレスと共に苦難に立ち向かうだけでなく、リュディアの女王オンファレと服を取り替えるエピソードなどでも大きな存在感を示しています。 |
古代ギリシャの紀元前4世紀頃の『ヘラクレスと息子テレポス』の複製(古代ローマ 1-2世紀)ルーブル美術館 | こんな存在は他にはありません!! 棍棒はヘラクレスを象徴する代表的かつ印象の強い武器ではありますが、的確な状況判断によって弓や鎌、素手など様々な武器を使いわけており、必ずいつも棍棒を使うわけではありません。 |
『ヘラクレスの火葬』(ルカ・ジョルダーノ作 1697-1700年頃)カシータ・デル・プリンシペ | ヒュドラの血を塗った猛毒の矢じりで有名な強弓はヘラクレスの死の際、偶然火葬の場に居合わせたポイアースとピロクテテス親子に与えられたとされています。 しかしながらネメアの獅子の毛皮は誰かに受け継がれたという話はなく、1700年頃の左のヘラクレスの火葬をモチーフにした絵画でも、共に火葬される姿で描かれています。 死闘の後は、ずっとヘラクレスを守り続けた気高き英雄と言えるでしょう。 |
『神格化されたヘラクレス』(ノエル・コワペル作 1700年頃)ヴェルサイユ宮殿 | ヘラクレス部分の拡大 |
いや、それどころかヘラクレスが死後、オリュンポスの神々に迎え入れられて神になる際も一緒に描かれていますね。ネメアの獅子自体がもともと由緒正しい神の血統でしたし、一緒に神入りというのは相応しい姿のように思います。 |
『エジプトのファラオ バシリスの家来と戦うヘラクレス』(古代ギリシャ 紀元前470年頃) | 妻も武器もコロコロ変わっていますが、ネメアの獅子とだけはいつでも一緒でした。 数々の実績を残し、英雄として名を馳せるより前。 若きヘラクレスが互いに命をかけて死闘を戦い抜き、知力によって勝つことができた尊敬すべき敵。 三日三晩、一瞬も気を抜けない戦いは精神力の勝負でもありました。 力は等しく、相手が四つ足だったから勝てただけのこと。 |
『ファルネーゼのヘラクレス』古代ギリシャ紀元前4世紀の作品を複製(古代ローマ 216年) ナツィオーレ考古学博物館 "Hercules Farnese 3637104088 9c95d7fe3c b" ©Paul Stevenson(17 June 2009)/Adapted/CC BY 2.0 |
有名な怪力だけでなく知力、精神力そして勇気、色気の全てを備えながらも悠々自適の楽勝人生ではなく、想像を絶する苦難の人生を死ぬまで歩み続けた大英雄。 現代の端折り過ぎたり、変な編集をされたヘラクレスの話だけしか知らないと、常人離れした力のみで楽勝な英雄人生を過ごした『筋肉バカ』のイメージが強いかもしれません。少なくとも私はそうでした。だから紀元前4世紀にデザインされた、このヘラクレス像の複雑な表情を見て違和感がありました。力だけでどうにかなってきた豪快な筋肉バカ(笑)のような表情とは正反対の、思慮深く非常に高い知性を感じさせる表情をしています。しかしながら、これこそがヘラクレスの真の姿と言えるのです。 |
『英雄ヘラクレス』 エレクトラム インタリオ・リング 古代ギリシャ 紀元前5世紀 SOLD |
それに気づかせてくれたのが、先ほどの『ファルネーゼのヘラクレス』の像よりさらに古い時代に作られたこの『英雄ヘラクレス』のエレクトラム・インタリオ・リングです。 |
『ヘラクレスとヒュドラ』(アントニオ・デル・ポッライオーロ作 1475年頃)ウフィッツィ美術館 | ヒュドラと戦うヘラクレス(現代?) "レルネーのヒュドラと戦うヘラクレス" ©Ryunpos(3 February 2015)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
このようないかにも"脳ミソまで筋肉"という感じの、とにかく力でゴリ押ししてどうにかしようという表現が後世でまかり通っているため、悲しいくらい本来とは異なる印象がついてしまっているのです。左の『ヘラクレスとヒュドラ』はルネサンスの有名な芸術家による作品ですが、評価されているのは死体の解剖に基づく人体と動きに関する理解の深さであって、古代の神話を詳細に読み解いて理解していたわけではないのです。 それにしてもアントニオが興味があるのは人体だけだったのか、ネメアの獅子やヒュドラの描き方も酷いですね。小さすぎて到底恐ろしい怪物には見えず、棍棒もどこかで拾ってきた棒切れのようで、私には変態オジサンが動物虐待をしているだけに見えます。 |
2-3. 演劇による文化・道徳教育
2-3-1. 知を共有して後世にも伝える手段
『ファルネーゼのヘラクレス』古代ギリシャ紀元前4世紀の作品を複製(古代ローマ 216年) "Hercules Farnese 3637104088 9c95d7fe3c b" ©Paul Stevenson(17 June 2009)/Adapted/CC BY 2.0 |
『ファルネーゼのヘラクレス』が紀元前4世紀頃に作られた古代ギリシャの作品を、216年に古代ローマで複製したものであることからもご想像いただける通り、古代ローマの人々はヘラクレスを正しく理解していました。 古代ローマ人が思考停止に陥り、文化面でも中世の暗黒時代に突入したのはキリスト教が普及してからです。 あれだけ繁栄したはずの文化が、驚くほど完膚なきまでに消え去ってしまいました。 |
『ヘラクレス』 ジャコバン インタリオ 古代ローマ 1-2世紀頃 SOLD |
では、なぜ古代ギリシャで何百年も英雄ヘラクレスの話が引き継がれ、古代ローマでも引き続ききちんと伝えていくことができたのでしょうか。 現代のように電子的な記憶媒体はありませんし、気軽に誰にでも書物が手に入る時代でもありません。 |
古代ギリシャの哲学者ソクラテス(紀元前469-紀元前399年) | 古代ギリシャの偉大なる哲学者ソクラテスは著作を残しておらず、後世に伝わっている名言は弟子たちが書き残したものです。 会話と記憶だけで後の時代にまで情報が伝わっていたということになります。
余談ですが、ソクラテスは『本』に関しては下記の通り語っていたそうなのですが・・(笑) 「本をよく読むことで自分を成長させていきなさい。 本は著者がとても苦労して身に付けたことを、たやすく手に入れさせてくれるのです。」 |
マウントノリス伯爵ジョージ・アンズリー(1770-1844年)の著書 | 『アンズリー家の伯爵紋章』 レッドジャスパー フォブシール イギリス 19世紀初期 ¥1,230,000-(税込10%) |
左は『アンズリー家の伯爵紋章』の最後の持ち主だったとみられるマウントノリス伯爵ジョージ・アンズリーが、1802-1806年にかけて巡ったエジプト、紅海、インド、スリランカで見聞きしたことをまとめた著書です。交通網が発達していなかった当時、誰でもが現地で直接見聞きしてくることは不可能ですが、本を読むだけで皆が同じように疑似体験し、知見を得ることが可能となります。 ソクラテスは |
『ソクラテスの弁明』を著し、アカデミアを開設した古代ギリシャぼ哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347年) | 現代人より遥かに頭が良かったとされる古代人の中でも、ソクラテスやプラトンのように特に優れた人たちであれば伝聞だけで正確に推測・想像して理解し、完璧に記憶して後世に伝えることもできたでしょう。 でも、一般人レベルだと当時でもそれはちょっと難しかったかもしれません(それでも、そこらへんの古代人を現代に連れてきたら、その天才ぶりがちょっとした話題になるくらいIQが高いそうですが・・)。 |
スパルタの劇場跡 |
そんな時にお役立ちなのが紀元前6世紀後期にアテナイで発祥した『ギリシャ悲劇』に代表される、古代ギリシャの演劇です。 |
2-3-2. ギリシャ演劇が生まれた背景
『世界最初のデモクラシー』 古代ギリシャ(ヘレニズム) 紀元前2-紀元前1世紀 シャンクは19世紀 SOLD |
ギリシャ悲劇発祥の地アテナイは、世界で初めて民主主義が生まれた場所でもあります。 |
レオニダス王として伝わる重装歩兵の大理石像(紀元前5世紀)スパルタ市考古学博物館 "Helmed Hoplite Sparta" ©de:Benutzer:Ticinese(1994)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
もともと古代ギリシャでは多くのポリスで、王が神話時代に遡る正当な血統を継いでいることを以てその支配を正当化していました。 現代でもギリシャ人なら誰もが知る大英雄、スパルタのレオニダス王はヘラクレスの子孫、ヘラクレイダイです。 |
名門貴族出身のアテナイの民主主義者クレイステネス(紀元前6世紀後半-紀元前5世紀前半) ©http://www.ohiochannel.org/ | しかしながら古代ギリシャではアルカイック期に人口が爆発的に増え、ポリスによって足並みなどに違いはありますが、王政から貴族政・僭主(せんしゅ)政へと移行していきました。 紀元前6世紀半ば、アテナイでは僭主ペイシストラトスとその息子ヒッピアスが独裁政治を行っていました。 しかしながら紀元前510年にスパルタと組んだ名門貴族アルクメオン家によってヒッピアスは追放され、紀元前508年にアルコンとなったアルクメオン家出身のクレイステネスによって『クレイステネスの改革』が行われ、世界最初の民主主義がアテナイで始まりました。 |
【世界遺産】パルテノン神殿 "The Parthenon in Athens" ©Steve Swatne(26 August 1978, 13:45:00)/Adapted/CC BY 2.0 (着工:紀元前447年、竣工:紀元前438年、装飾等は紀元前431年まで実施) |
これによってアテナイは発展し、紀元前5世紀には『アテナイの黄金時代』と呼ばれる最盛期を迎え、人口もさらに増えていきました。アテナイが支配したアッティカ地方は佐賀県くらいの広さですが、最盛期の紀元前432年の推計によると、人口は23万人ほどとされています。 |
アッティカ地方とアテナイの位置 ©google map | 内訳としては、市民は家族を含み12万人(市民権を持つ成人男子は3万人)、メトイコイ(在留外人)が3万人、奴隷が8万人となります。 ご想像より多いでしょうか。 |
アテナイの最盛期を築き上げた政治家ペリクレス(紀元前495?-紀元前429年) | 気をつけたいのが、日本人は古代人と原始人をイコールと思っていらっしゃる方がいることです。 古代人は知識の積み重ねなく、日々の生活を懸命に送るだけの原始的な生活を送っていたわけではありません。 欧米だと古代世界の優れた知識や文化を知る人は多く、アテネの黄金時代を築き上げた政治家ペリクレスの演説は現代でも欧米の政治家の手本となっているほどです。 |
佐賀県の広さ "Map of Janan with hifhlight on 41 Saga prefecture" ©Lincun(01:05, 16 March 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 佐賀県の人口は81万人強なので、その広さに23万人ほどが住んでいたと考えると人口密度はかなり低いです。 でも、23万人というと人口で言えば中核都市クラスはあります。 Genの出身地である米沢市は8万人強なので、紀元前5世紀のアテナイの人口の方が遥かに多いです。 |
新庄村のがいせん桜まつり(2014.4.21) | 皆の顔が分かる集落としては、せいぜい規模1,000人くらいでしょうか。 サラリーマン時代に岡山に住んでいた頃、『がいせん桜まつり』を見に新庄村を調べた際に人口が1,000人に満たないことに驚きました。 今の村の人口は814人(2020.1.1時点)です。 |
サン・ピエトロ大聖堂の展望台から見たバチカン庭園の全景 "Vatican panorama from St. Peters Basilica" ©Marcus Winter from Potsdam, Germany(8 July 2009, 23:09)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
ちなみに一番人口が少ない国バチカンの458人は特殊だとしても、モナコの3万5千人やサモアの18万人よりも紀元前5世紀のアテナイの人口は多いです。国の人口順リストによれば、人口23万人というのは世界196ヶ国の中、第176位にランクインできるほどの規模です。 |
【世界遺産】アテナイのアクロポリス (パルテノン神殿の着工:紀元前447年、竣工:紀元前438年、装飾等は紀元前431年まで実施) |
村や町程度の規模で細々と暮らしていたのではなく、当時で人口23万人というかなりの大国であったからこそ、芸術文化も発展し、ペリクレスのような政治的天才やソクラテス、プラトンのような哲学的天才も出現できたということでしょう。 |
現代に残るアクロポリス南麓のディオニュソス劇場 "Athen Akropolis (18512008726)" ©dronepicr(15 May 2015, 17:00)/Adapted/CC BY 2.0 |
しかしながら市民の殆どは天才ではありません。数が少ない貴族階級がポリスの中心だった時代は、教育に関しては一対一や、少数に対してが通常だったでしょう。しかしながら市民12万人(市民権を持つ成人男子は3万人)という規模で民主主義を行うとなると、その教育も貴族政の時代のやり方は不可能です。そんな時に効率良く教育できるのが演劇でした。 |
ディオニュソス劇場の大理石の観覧席 "Theatre of Dionysus 03" ©sailko(10 June 2008, 09:55:07)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
アクロポリスの丘に作られた初期の劇場はオーケストラも含めてフラットな配置で、観覧席も2、3列だけの木製か石のベンチによる簡素なものでした。しかしながらペルシャ戦争で破壊された後、大理石を使って会場全体を立体的な作りに形にして再建され、アテナイの黄金期であるペリクレスの時代には最大の高さに達したとされています。さらに拡張が行われ、紀元前4世紀には最大収容人数がおよそ1万7,000人にも達したそうです。 |
古代ギリシャの劇作家メナンデルと新喜劇の仮面 (古代ローマ 紀元前1世紀-1世紀初期)プリンストン大学美術館 |
古代ギリシャや古代ローマで市民権を持つのは成人男子だけで、演劇は観客も役者も全てが男性でした。ステージに立つ役者は2、3名までとされ、男性が女性役をやったり、1人で数名の役を演じたりしました。演じる際は仮面を使いました。 |
アテナイのディオニュソス劇場の想像図(1891年制作) |
劇場には舞台と役者だけでなく、コーラスや効果的な音響設備もありました。古から伝わってきたギリシャ神話を劇で上演することは、ただ書籍で文字を追うだけだったり、口伝で聞いて想像したりするだけの時よりも、市民にとって楽しみながら視覚的かつ感情的に理解しやすく、道徳的かつ知的な教育のために非常に役立ちました。大人数に向けてかなり効率の良い教育方法ですね。 |
役者のブロンズ像(古代ギリシャ 紀元前150-100年頃) | 劇場の有効性を深く理解していた天才政治家ペリクレスは、経済的な政策によっても劇場の活用を促進させました。 富裕層には俳優やコーラスなどのパトロンとなって養う義務がありました。 劇場では8時間連続で上演され、最後は審査員によって勝敗を決めて勝者を宣言したりもしていました。 役者もやり甲斐がありますし、役者としての活動に専念でき、仮面や衣装もお金を気にすることなく最上・最適な物が使えるので、才能ある役者にとっては天国だったことでしょう。 |
ソクラテスの最期を描いた『ソクラテスの死』(ジャック=ルイ・ダヴィッド画 1787年) |
お金持ちにとっても最初は義務だったとしても、一般市民が知的教育を受けるための高尚な場、劇場を運営するための優れたパトロンとなるのは、単なる無学で人の役には立たない成金であるのとは比較にならぬほど栄誉なことです。 紀元前5世紀にも私欲や自己顕示欲のためだけにお金を使う成金が少なからずいたらしく、ソクラテスは以下の言葉も遺しています。 |
2-3-3. ギリシャに広まった劇場
『理想的なギリシャ劇場』 "Reconstruction of a Greek Theatre" ©Flammingo(2003)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
有効性の高いギリシャ劇場は、古代ギリシャ世界各地に広まりました。これはギリシャ語とラテン語で書かれた理想的なギリシャ劇場の構造と配置図です。殆どのポリスは丘の上もしくは丘の近くにあり、劇場は一般的には丘の斜面を利用して座席が作られました。適切な丘がないポリスでは、土手を作って建設されました。 |
エピダウロスの劇場(古代ギリシャ 紀元前4世紀末) "The Theatre of Epidairus" ©Andreas Trepte(17 October 2010)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
これは古代ギリシャの薬の神アスクレピオスの聖域の端にある都市、エピダウロスの古代ギリシャ劇場です。高い対称性と音響の素晴らしさ、美しさは古代より高く評価されており、最も完璧な古代ギリシャ劇場とされている劇場です。 |
エピダウロスの劇場(古代ギリシャ 紀元前4世紀末) "Epidairos" ©Hansueli Krapf(10 May 2007, 09:51:44)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
すり鉢状の劇場は迫力がありますね! |
エピダウロスの劇場(古代ギリシャ 紀元前4世紀末) "Epidaurus Theater" ©Olecorre(July 2007)/Adapted/CC BY 3.0 |
ちなみにこのエピダウロスの劇場には最大13,000-14,000人が収容可能とみられています。それがどれくらい大きな規模か、日本の施設と比較してみましょう。 |
【引用】東京都 ホール・劇場等連携フォーラム2018「都内・首都圏のホール・劇場等を巡る現状」東京都生活文化曲文化振興部 村田陽次 |
3814万人の人口を抱える首都圏の主な劇場・ホールの一部の収容人数です。HERITAGEのアトリエから近い日本武道館の収容人数は約1万4千人です。日本武道館や横浜アリーナが、エピダウロスの劇場とは規模が近い感じです。 |
横浜アリーナ【引用】横浜アリーナHP |
但し横浜アリーナの最大収容人数1万7,000人は立ち見も合わせてです。アリーナ席だけだと1万1,000人なので、規模としては1万4,000人くらい収容できるエピダウロスの劇場の方が若干大きいと言えるかもしれませんね。 |
デロスの劇場(古代ギリシャ) "Ancient Greek theatre in Delos 01" ©Bernard Gagnon(12 October 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
現代だと演劇は上流階級や、中流階級の中でも上だったり知識層の人だったりが楽しむイメージです。でも、古代世界では市民が普通に風光明媚な場所で、優雅に上質な演劇を楽しんでいただなんて羨ましい話です。当時は奴隷がいましたし、女性は市民権を持たなかったので、成人男子の市民クラスが現代でイメージするちょっとした貴族のような感じだったかもしれませんね。ちなみにこれは、アテナイを中心としたデロス同盟が結ばれたデロス島に造られた劇場跡です。 |
デルポイのアポロンの聖地の敷地計画 | 紀元前5世紀のスパルタの王レオニダスや、アテナイの哲学者ソクラテスがご宣託を受けたデルポイのアポロン神殿の近くにも劇場があります。 TEATRO(テアトロ)と書かれた左上の位置です。 |
デルポイの劇場(古代ギリシャ オリジナルは紀元前4世紀)"Delphi amphitheater from above dsco6297" ©2004 David Monniaux(2004)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
現代人が一般的に想像している以上に古代世界では知識が広く浸透しており、文化レベルの高い生活を送っていたのです。 |
2-3-4. 古代ローマ世界にも受け継がれた劇場文化
古代ローマの120年頃の領土 "Roman Empire 120" ©Andrei nacu(5 May 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
その後、古代ローマが力をつけ始め、最終的には紀元前146年の敗北によって古代ギリシャの独立は失われました。ギリシャ本土に属州アカエアが設置され、クレタ島は属州キレナイカの一部となり、各ポリスは属州内の地方都市として存続することになりました。 |
ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27-紀元14年) |
古代ローマはギリシャをローマ色に無理やり染めるようなことはしませんでした。ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(ユリウス・カエサル)は戦いによって疲弊していたギリシャ復興のために穀物を分配したり、貨幣造幣の特権を認めるなどの政策をとりました。また、新しい都市を建設し、ローマ市民や周辺住民の移住を促しました。 |
Gemma Augustea アラビア産オニキスのカメオ 古代ローマ 20-30年頃(ディオスクリスもしくはその弟子の作品) 22,8cm×19,6cm×2.54cm "Gemma Augustea" ©James Steakley(October 2013)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ギリシャ人の中にはローマ市民権を得る者も現れました。 アウグストゥス帝はローマの首都を比類なき都にするため、芸術振興にも非常に心血を注いでいました。 ギリシャから当代随一とされる宝石彫刻師ディオスクリデスをその弟子たちごと呼び寄せ、カメオやインタリオを制作させました。 これはディオスクリデスかその弟子の誰かの作とされる二層オニキスの最高傑作のカメオです。 当時の宝石彫刻師はカメオとインタリオの両方を彫る場合も多く、ディオスクリデスはアウグストゥス帝の肖像インタリオも彫刻しています。 |
『アポロに扮した人物の肖像』 古代ローマ(アウグストゥス帝時代)紀元前27-紀元14年頃 シャンクは19世紀 SOLD |
ギリシャから当代随一の優れた彫刻やその弟子たち自身が作る作品のみならず、その優れた技術がローマにもたらされたことによって、紀元前から紀元後にかけてのアウグストゥス帝時代には特に傑出した作品が出てくる傾向にあります。 『アポロに扮した人物の肖像』もその1つです。 傑出した作品はいつまでも記憶に強く鮮やかに残るもので、この作品もGenに「本当に素晴らしいものだった。」と、しょっちゅう自慢されます。 確かに羨ましいです(笑) |
ローマ帝国第5代皇帝ネロ(在位:54-68年) "Nero pushkin" ©shakko(November 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
その後もギリシャ文化を愛するローマ皇帝がアテナイの都市整備を援助したり、建造物や神殿の整備や修理を行いました。 その中でも特に第5代皇帝ネロや、第14代皇帝ハドリアヌスはギリシャ文化をこよなく愛したと言われています。 |
ディオニュソスの劇場の高位の身分の人用の観客席 "Acropolis in February 2005 14" ©Rnner1928(15 February 2005, 04:59:09)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
ネロ帝の時代にはアテナイのデォニュソス劇場に新しいステージが作られ、完成した暁にはディオニュソス神とローマ皇帝ネロに演劇が捧げられました。 |
ローマ皇帝第14代皇帝ハドリアヌス(在位:117-138年) | 五賢帝の一人で古代ローマが最大領土を持ち、特に栄えた時代を納めたハドリアヌス帝もギリシャに熱心に訪れていました。 そのギリシャ文化への愛は世界遺産にも登録されているティボリの別荘、ヴィッラ・アドリアーナからも窺い知ることができます。 |
イタリアのティボリの風景 "Tivoli overview" ©Kleuske(31 December 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ティボリはローマから東に約30kmの丘陵にある、穏やかな気候に恵まれ、豊かな森に囲まれた街です。古代ローマ時代から上流階級の保養地だった場所です。ここにハドリアヌス帝が巡察旅行で魅了された、各地の建物や風景を思い起こさせる別荘を建築させたのです。 |
ヴィッラ・アドリアーナの『海の劇場』 "Lazio Tivoli2 tango7174" ©Tango7174(19 Sptember 2001)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
別荘は敷地面積1平方km以上にもおよび、ポンペイの街以上に広いのですが、その大半はまだ発掘されていません。敷地にある建物の数は30を超え、随所にハドリアヌス帝のギリシャ好きを感じることができます。 |
『アンティノウスのディオニュソス』古代ローマ オリジナルはブリアキス作(紀元前4世紀後期)バチカン美術館所蔵(Inv.No.251) |
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別荘からはハドリアヌス帝の愛人として寵愛を受け、18歳くらいで死亡した青年アンティノウスを元にディオニュソス神を作らせた大理石像も見つかっています。 |
『悲劇と喜劇の仮面』ヴィッラ・アドリアーナのモザイクの一部 (古代ローマ 2世紀)カピトリーノ美術館 |
その他、ギリシャ演劇に用いる仮面をモチーフにしたローマンモザイクも見つかっています。ハドリアヌス帝はヴィッラ・アドリアーナを相当気に入っていたようで、128年からはここを公式の住まいとし、晩年はここからローマ帝国を統治していたそうです。 |
『悲劇の男性の仮面』フォーンの家のモザイクの一部 (古代ローマ 2世紀)ポンペイ遺跡 |
このようなギリシャ演劇用の仮面がモチーフのローマンモザイクはポンペイ遺跡からも見つかっています。当初は観劇できるのは市民クラスの成人男子のみでしたが、後に奴隷や外国人なども観劇していたことが明らかになっています。ローマ帝国内でも、ギリシャ文化が広く教養として浸透していたことは明白ですね。 |
古代ローマの詩人ホラティウス(紀元前65-紀元前8年) | そういうわけで、アウグストゥス帝と同時代に生きたラテン文学黄金期の詩人ホラティウスは、以下の有名な言葉を遺しています。
Graecia capta ferum victorem cepit. 征服されたギリシャ人は、猛きローマを征服した。
この後も多くのローマ人たちがギリシャを訪れ、ギリシャ諸都市は一種の文化観光都市として栄え、古代ギリシャの文化や知識は絶えることなくローマ帝国に浸透したのです。 |
『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント 19世紀後期 ¥1,330,000-(税込10%) |
その文化は後のヨーロッパでも尊敬と憧れを以って高く評価され続け、上流階級や知識階級のあらゆる芸術面に強い影響がみられます。 それはもはや影響というより、『ヨーロッパ美術の原点』と言えます。 ギリシャ芸術の痕跡は、ギリシャ神話の神々の姿という明確な形にとどまりません。 |
『アルテミスの月光』 ムーンストーン メアンダー ネックレス&ティアラ イギリス 1910年頃 SOLD |
『永遠の愛』 リボン&月桂樹 ペンダント&ブローチ フランス? 1910年頃 ¥1,220,000-(税込10%) |
『ギリシャ雷文』とも呼ばれる格調高いメアンダー模様や、愛を示す月桂樹の葉など、現代に到るまで古代ギリシャ美術は脈々と生きています。 |
415年にキリスト教の総司教と修道士らに惨殺される学校長ヒュパティア(作者不明 1865年) |
古代ローマで生まれたキリスト教が勢力を増し、古代の神々が排除され、知識階層がことごとく惨殺されたり国外に追いやられるなどした結果、古代ローマは文化面のみならず学術・技術などのあらゆる面で衰退しました。ローマ帝国の高度な文化やテクノロジーはここまで雲散するのかと驚くほど完全に姿形を消し、ヨーロッパはキリスト教が支配する思考停止の暗く長い暗黒時代に入りました。 |
『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n5" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 | ポートランドの壺の再現(ウェッジウッド 1790年)V&A美術館 "Portland Vase V&A" ©V&A Museum(11 August 2008)/Adapted/GNU FDL |
だから、一度ペルシャやイスラム世界へと移動してしまった古代ギリシャ・ローマの英知や芸術文化がルネサンス期にイスラム世界から再輸入され、さらに18世紀以降に熱心に行われた古代遺跡からの発掘の成果などを研究することで再び古代ギリシャ・ローマ文化は一応復活することにはなりました。しかしながら一度完全に途絶えてしまったものは二度と同じレベルで復活させることは不可能なのです。 |
古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 |
ウェッジウッドがジャスパーウェアで再現を試みた古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』は、実際にグラスカメオとして19世紀に再現を試みられたことがあります。 まだ優れたジュエリーを作ることができる、優れた手仕事の技術が残っていた時代です。 トライしたところ、信じがたいほど骨の折れる大変な作業であることが分かり、結局試行から2年もせずにオリジナルを作った当時の職人たちでないと無理だという結論になったそうです。 しかも当時の職人でも1世代ではなく、2世代に渡って制作されたと考えられている、信じられない超大作です。 |
モダンアート | 現代アートのような量産可能な名前だけでの投機用作品を優れたアートだと信じている人は、芸術には天才的な閃きや感覚さえあればOKだと勘違いしていることが多いです。 いかにも奇人変人のような見た目のお偉そうなお先生がサラサラサラっと描いて、チョコチョコっとサインしただけのものをありがたがるやつです(笑) 天才芸術家と言われても実際には才能のない芸術家ほど、自分の才能の限界を理解し、それをごまかすために奇抜の格好や行動をするものです。 |
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955年) | 特に人間に対しても均質であることを無意識の望む傾向がある日本人は、天才はどこかネジが外れている所があってプラスマイナスゼロであることを善しとします。 運動の得意な子は頭は良くない、太っている人は優しくてヤセは神経質、胸が大きい女性は頭が悪いなど、変なレッテルが多いことにもそれは現れています。 だから舌を出したアインシュタインの有名な写真を見て、やっぱり天才はちょっとネジが外れていると納得し安心したりするわけです。 ヘリテイジのお客様はなぜか一般的な傾向とは逆で、むしろご本人自身が色々揃っていらっしゃる場合が多く、そういう偏見はない方の方が殆どなのですが・・(笑) |
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955年)1893年、14歳 | ちなみにアインシュタインは他者と普通に共同研究もできていますし、大学だけでなく特許庁に就職した経歴もあります。 科学一辺倒の科学バカというわけでもなく、趣味のヴァイオリンは公の場でもしばしば演奏しています。 人前では滅多に笑顔を見せなかったと言われており、例の写真も1951年の72歳の誕生日の際、通信社のカメラマンの笑ってほしいというリクエストに危うく応えそうになり、それをとっさに隠そうとしたことでとってしまった表情です。 冗談も通じる人物だったようで、本人も気に入って9枚焼き増しを頼んだそうです。 |
最初期のノイマン型コンピュータの前に並ぶロバート・オッペンハイマーとノイマン(1952年) |
この人はその天才アインシュタインが天才と言うほどの、人類の域を超えた天才ですが、見た目はとても普通ですし人柄も特におかしなイメージはありません。 ただ、天才たちに共通して言えるのは天才的な閃きはあるものの、だからと言ってごく短時間で歴史上価値ある成果を作り上げたわけではないのです。 |
シュールなモダンアート | その点で、ごく短時間で作ることができ、何度でも同じものが作れるような作品が『アート』として成立する現代では古代の真の芸術を再現するなんて到底不可能ですし、真に理解することすら難しいのです。 |
その点では古代ローマは古代ギリシャの教養や文化が途絶えておらず、きちんと理解できる環境にありました。さらに2世代に渡る制作活動が許される優れたパトロンや、それに応えられる真の芸術家たちが存在しました。この獅子座のアーティックなインタリオを見ていると、これこそが真の芸術作品であると語りかけてくれていると感じます。情動を感じる、心を大きく揺さぶる魂の芸術と言えるでしょう。 |
2-4. 古代ローマでも人気を誇ったライオンのモチーフ
野生のライオン "Lion waiting in Namibia" ©Kevin Pluck(26 July 2004)/Adapted/CC BY 2.0 |
他の動物にはない、百獣の王としての威厳とパワー、そして美しさを誇るライオンは古代ローマでも非常に人気が高い動物でした。単なる憧れだけでなくトロフィー・ハンティングの対象となったり、わざわざ連れてきて調教し、見世物にしたり飼育するということもありました。また、娯楽として皇帝が剣闘士と戦わせるようになりました。 |
『ユリウス・カエサル』 ジュゼッペ・ジロメッティ作 ストーンカメオ ブローチ&ペンダント イタリア 1820年頃 SOLD |
スッラやポンペイウス、カエサルと言った有名な人物たちも、しばしば一度に何百頭ものライオンを集めて戦うよう命じていたそうです。 そりゃ、ライオンもヨーロッパで早々に絶滅しますね(><) |
ブローチや装飾などの大型インタリオではなく、リング用の小さなインタリオです。 |
ブルガリアで地下鉄工事中に発見された古代ローマ遺跡の発掘作業 【出典】EUobserver HP/ ©Plamen Stoimenov, Trud(2010) |
"アンティークジュエリー"は、王侯貴族のためのハイジュエリーだけではありません。むしろヴィクトリアン中期以降のイギリスや、ベルエポック以降のフランスで庶民用に量産された作りの悪い安物の方が市場では大半を占めます。 それと同様に、古代ローマのインタリオは字が書けない人たちも使える印鑑用として、市民どころか奴隷も持っていました。だから数百年に及ぶローマ帝国の歴史の中で作られた数は想像以上に多く、今でも発掘されてゴロゴロ出てきます。『古代ローマの本物のインタリオ』自体は、さほど珍しいものではないのです。 |
『RAMS HEAD』 イタリア考古学風ジュエリー ラムズヘッド プチ・ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
古代遺跡の発掘が熱心に進められた18、19世紀はヨーロッパの上流階級の中でも特に知的階層の人たちに考古学が大流行しました。 当時の上流階級、中でも家督を継ぐ立場にあったような人たちは現代では考えられないような時間と労力をかけて勉強しています。10歳にも満たない年齢から、それこそよく過労死しなかったものだと思えるレベルです。 そういう人たちは現代の一般庶民が勝てるわけがないほど広く深い知識を持っていました。 もちろん考古学や歴史・文化、ジュエリーなどの分野にもです。 |
これはバックライトを当てていない状態ですが、ライオンの筋肉の細かい表現のみならず、風になびく雄々しいたてがみまで彫刻で緻密に表現されていることに驚きです。 かなり小さな石に彫られたものとは思えない素晴らしさです。 |
【参考】低レベルのライオンのインタリオ・リング(19世紀中期) | 1700年ほど後の時代に、もっと大きな石に彫られたこの低レベルのインタリオ・リングを見ると、あまりの出来の違いにひいてしまいます。 浅く扁平な彫りで磨き仕上げも施されなかった安物インタリオのライオンは姿勢が変で、筋肉などの身体構造も変です。 |
檻の中で猛獣たちを手なづける調教師(19世紀) |
19世紀も、実物を見る機会がないわけではありませんでした。1838年にはアメリカ人調教師アイザック・ヴァン・アンバーグがイギリスを訪れた際、ヴィクトリア女王の前でライオンなどのサーカスを披露しています。その後、追随者も無数出てきて世界各地でライオンを使った見世物が行われました。 |
野生のライオンの親子 "Lion cub with mother" ©David Dennis(2007)/Adapted/CC BY 2.0, wikimedia commonsより |
現代でも動物園などに行けば、気軽に本物のライオンを見ることができますね。ただ、古代ローマの時代に見ることができたライオンとは根本的に違います。古代ローマでは野生のライオンを命懸けで捕らえて連れて来ていましたが、現代のライオンは動物園で繁殖されたものが殆どで、一度も野生を知りません。 |
動物園で飼育されたライオン |
動物園のライオンは『大きな猫』だと表現する人もいます。顔つきがまるで違いますし、体つきや動きも当然違います。動物園では飼育する動物たちの運動不足のみならず、メタボなどによる健康状態の悪さも問題となっています。檻に入れられまともに走ることもできず、野生で命の危機を感じたり狩りをすることもないライオンの、迫力のない姿しか今は見ることができません。 |
古代ローマ 2世紀 | 【参考】ヴィンテージ 20世紀 |
古代ローマとヴィンテージのインタリオを比べると、まさに野生のライオンと動物園のライオンというレベルで違いますね。飼いならされた大型の猫と化したライオンのインタリオ・リングなんて着けても、勇敢さや力強さのご加護なんてもらえる気がしません。それ以上にヴィンテージのインタリオ・リングは安っぽすぎて、私は着けたくないです(笑) |
2-5. 獅子座となったネメアの獅子
『ライオンと戦うヘラクレス』 アゲート インタリオ 古代ギリシャ 紀元前(ヘレニズム) SOLD |
モチーフがネメアの獅子なのかは、戦う相手がヘラクレスかどうかで判断できます。 |
それ以外の判断材料としては、星座として描かれているかどうかです。 |
獅子座と子獅子座(1824年)ウラニアの鏡 | ヘラクレスとの死闘の後、ネメアの獅子はゼウスへの供物として捧げられました。 ゼウスはその素晴らしい戦いと獅子の気高き魂を讃え、空に召し上げて獅子座としました。 |
だから獅子座の獅子イコール『ネメアの獅子』と判断できるのです。ギリシャ神話について深い教養のあった当時のローマ人たちも、当然同じように判断していたはずです。 |
2-6. ヨーロッパホラアナライオンとネメアの獅子
実は興味深いことに、このネメアの獅子は現代の私たちが知っているようなライオンではなく、ずっと昔に絶滅した別種の可能性があります。 |
樹上で眠る野生のライオンたち "Tree-climbing lions (Panthera leo)" ©Charles J Sharp(21 October 2016, 10:37:41)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
ネメアの谷に住み着いた獅子の寝ぐらは洞窟の中でした。ライオンが洞窟で眠るなんて聞いたことはなく、天敵のいない百獣の王ライオンは悠々と大草原で眠ったり、もしくはネコ科らしく器用に樹上で寝るイメージがあります。また、現代のライオンは群れで行動する習性がありますが、ネメアの獅子は単独行動でした。 |
これらの特徴を元に、ネメアの獅子をヨーロッパホラアナライオンだったのではないかとする説が存在します。 ヨーロッパホラアナライオンは約70万年前頃からヨーロッパに棲息し、既に絶滅した大型ライオンです。 |
アメリカライオンの骨格(ジョージ・C・ペイジ博物館) "Panthera atrox" ©Ed Bierman from CA, usa(2 June 2012, 13:24)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
体長は平均値で約240cmあり、現生ライオンの約190cmと比較して50cmも大きいです。史上最大のネコ科動物は約34万年〜1万1,000年前まで北米に棲息していたアメリカライオンで、現生ライオンより約25%大きいとされています。ヨーロッパホラアナライオンの最大個体の体長はこのアメリカライオンに匹敵しており、まさに怪物クラスです。人間が勝てる気がしません!! |
古代ギリシャの『神統記』の作者ヘシオドス(紀元前700年頃) | ギリシャ神話を文字として記録に留め、神々や英雄たちの関係や秩序を体系的にまとめたのは紀元前8世紀の詩人ヘシオドスでした。 しかしながらそれよりも遥か昔からギリシャ神話は存在しました。 古い時代は口承のみで伝わっていたため、いつから存在し、誰が作ったのかも分かってはいないのです。 |
ネッシー(1934.4.21撮影) | 私は『ネメアの獅子』は、ネッシー的なものが天狗や河童と化したものではないかと考えています。 ネス湖の怪物、通称ネッシーは、最古の目撃情報はアイルランドの聖職者コルンバによる565年の記録まで遡ります。 以来、多くの発見報告がなされており、特に1933年以降は目撃例が相次いで報告され、写真や映像なども公表されています。 |
ネス河畔のネッシー博物館にあるネッシーのイメージ銅像 "Lochneska poboba museumofnessie" ©StaraBlazkova at Czech Wikipedia(17 December 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本でもUMA(未確認動物)などがブームになった20世紀後期に、メディアなどで話題になったことがありますね。その正体については諸説が提唱されていますが、目撃談や写真に捉えられた形状から、恐竜時代に栄えた大型水棲爬虫類である首長竜プレシオサウルスの生き残りもしくは世代を経て進化した姿という説が、古くから最も知られています。 |
『ネメアの獅子退治』が成立した時代に、ヨーロッパホラアナライオンの生き残りがいたかどうかは分かりません。 でも、人類が絶滅前のヨーロッパホラアナライオンを実際に見て、それが口伝で後世に語り継がれ、それが神話のインスピレーションの元になった可能性は十分に考えられます。 |
アメリカライオンの骨格(ジョージ・C・ペイジ博物館) "Panthera atrox" ©Ed Bierman from CA, usa(2 June 2012, 13:24)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
もしくは洞窟で朽ち果てたヨーロッパホラアナライオンの骨を発見し、その通常では考えられないような大きさから、あの洞窟には恐ろしい怪物ライオンが住んでいたという伝説が生み出された可能性だってあります。 |
享和元年(1801年)に水戸藩東浜で網にかかった河童の姿 「身長三尺五寸、重さ十二貫目。胸が隆起し、猪首。背が曲がっている。」 |
それが単純に「怪物のように大きなライオンがいました。」だったり、ネッシーのように「恐竜の生き残り?」とはならず、神や怪物のような存在として伝説化したのではないでしょうか。 日本の河童も実際にはいるのかいないのか。 |
『天狗』(鳥山石燕 1776年)『画図百鬼夜行』より | 天狗なんかも日本の民間信仰では神や妖怪とも言われる存在ですね。 山岳信仰とも関連性が強く、霊峰とされる山々には必ず天狗がいると言われており、山伏の姿をしていると考えれています。 河童もそれぞれの川や沼、湖ごとに特定の河童が住みついて入るとされていますが、天狗も鞍馬山ならば『僧正坊(鞍馬天狗)』、愛宕山ならば『太郎坊』、筑波山ならば『法印坊』など、それぞれの山に固有の天狗がいるとされています。 |
『烏天狗』(江戸末期)個人蔵 "Karasu-Tengu-Statue" ©WolfgangMichel(29 November 2013)/Adapted/CC BY 3.0 |
ネメアの谷に住みついたから『ネメアの獅子』。 特定の霊峰に住むそれぞれの『天狗』。 実在の獅子と山伏が元ネタだったかもしれませんが、それぞれがただの獅子や山伏ではなく、巨大なヨーロッパホラアナライオンであったり、余程の体格を持つ修験者や、日本人の眼には奇異に映るような体格の良い外国人であったならば伝説が生まれても違和感はありません。 |
ただの空想上の怪物というフワッとしたイメージではなく、実在した怪力と巨体を持つ誇り高いライオン、『ネメアの獅子』を具体的にイメージして渾身の作品として制作されたからこそ、作者の魂を感じる偉大な芸術へと昇華しているのです。伝説の英雄ヘラクレスと互角に戦い、死後はヘラクレスを守護するために生涯共にあり、今でも煌めく星座として大空に駆ける獅子。 そういう尊敬の込めつつ、さらには古代ローマで獅子たちのリアルな死闘を見る機会に恵まれた作者だからこそ、これほどリアルに迫力ある獅子の筋肉や動きを表現できたとも言えるでしょう。 |
3. 最高にアーティスティックなインタリオ
この宝物は通常のインタリオと異なり、優れた彫刻のみならず素材となる石自体にも強い魅力があるのが特徴です。 |
3-1. 石の魅力
3-1-1. 古代ローマのシンプルな石のインタリオ
『豊穣の女神ケレス』 古代ローマ 2世紀頃 SOLD |
ヘリテイジの古代美術館をご覧いただくともっとイメージしやすいと思いますが、古代ローマのインタリオはあまり模様が入っていない、シンプルな石を使っている場合が多いです。 |
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『イルカ』 古代ローマ 1-2世紀頃 (シャンクは現代) SOLD |
『古代ローマのダブルフェイス』 古代ローマ 1世紀頃 (シャンクはエジプト 1950年) SOLD |
『ペガサス』 古代ローマ 紀元前1世紀頃 SOLD |
3-1-2. 石の積層構造を活かしたインタリオ
3-1-2-1. 縞模様と水平方向
『古代ギリシャの尊貴』 古代ギリシャ 紀元前(ヘレニズム)、シャンクは18世紀 SOLD |
石の積層構造をうまく活かした魅力的なインタリオとして、古代でも人気が高かったのがニコロです。 グレーや青みを帯びた白い層を持つ、加熱していない天然のままのオニキスをニコロと言います。 オニキスは紀元前から熱処理して白黒の2層をはっきりさせる手法もありますが、ニコロは天然のままの絶妙なグラデーションが醸し出す質感と雰囲気が魅力です。 インタリオの彫りの深さによって、色の濃淡を絶妙に変化させて表現できる面白さがあります。 |
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『古代ローマの黄金の輝き』 古代ローマ 1世紀頃 SOLD |
『勝利の女神ニケ』 古代ローマ 紀元前1-紀元前2世紀頃 SOLD |
『牧神パン』 古代ギリシャ 紀元前 (ヘレニズム) SOLD |
ニコロでも多層ニコロだと雰囲気が違いますね。また、ニコロに限らず、縞瑪瑙のどの層をどういう向きで使うかでも全く雰囲気が異なります。表現したいモチーフに合わせて、石選びもとても重要と言えますね。 |
3-1-2-2. 縞模様と垂直方向
3-1-3. 石の模様を活かしたインタリオ
『鷲』 古代ローマ 2世紀頃 SOLD |
層構造ではなく、ランダムな模様を持つ石を使ったインタリオもあります。 自然界で偶然に作り出された模様を、豊かな想像力と抜群のセンス、確かな技術で活かしたインタリオは見る者をあっと驚かせる素晴らしい作品が多いです。 |
3-1-4. 製作数が極端に少ない面白い石のインタリオ
今回のインタリオは石自体が持つランダムな模様を活かしたタイプです。 このタイプは特に数が少ないです。 |
こういうものは石の模様に沿う彫り方をしても全く面白くありません。 模様と彫刻は一致せず、でも、トータルとしてはそれぞれが美しく調和しているからこそ魅力ある作品となるのです。 彫刻の際、石の模様が目視による全体像の把握を邪魔するため、視認に頼らず脳内で立体視した上でその通り精密に彫る技術も持つ、特別な能力を持つ職人にしか作ることはできません。 |
普通のインタリオでも彫るのは難しいですが、模様によってさらに格段に難易度が上がります。 ただしこのタイプの宝物が殆ど存在しないのは、彫刻の難しさだけが原因ではありません。 |
3-1-5. 理想的な模様を持つ石の入手
『コロコロ スネーク カフリンクス』 |
現代の量産品に慣れてしまうと、製品は全て同じ外観・品質であることが当たり前のように感じてしまいます。 しかしながら天然でしかも希少な材料を使って何かを作ろうとすると、全く同じものはできません。同じ『縞瑪瑙』という素材で、同じ産地から採れたものであってもこれだけ個性に富むのです。 |
『幻想のガニュメデス』は石に現れた太陽と、海や雲のような背景が素晴らしいです。 しかしながらルースを横から見るとご想像いただける通り、少しでも石を切り出す位置が違えば表面に現れる模様もかなり異なっており、全く雰囲気が異なる作品になっていたことでしょう。 |
『ヒッポグリフ』 グレコペルシャ 紀元前4世紀頃 SOLD |
先ほどご紹介したグレコペルシャの『ヒッポグリフ』のオレンジアゲートは、これだけ厚みがあります。 |
そうすると同じ石とは思えないくらい、表裏で違う模様だったりします。 左のようにスッキリした流線模様が背景だと、ヒッポグリフが大きな翼でいかにも力強くカッコ良く羽ばたき飛んできそうです。 一方で裏面はモヤモヤした模様です。こちらに彫刻していたら、道に迷ってしまったヒッポグリフみたいになりそうです。その場合、芸術作品としては微妙な感じですね。 |
このような石を使ったインタリオは他の時代はもちろん、古代ローマでも見たことがありません。 ネメアの獅子に相応しい、獅子の勇気と力強さ、奥行きによる躍動感を感じる特徴的な模様を持つ石です。 これを手に入れることがどれだけ難しいことか、それを理解するとなぜ他には作られていないのかが納得できます。 |
3-1-6. 理想のレッドジャスパー
透明なスケルトンの石に、赤レンガのような赤茶色とマスタードのような黄土色の模様が絶妙なバランスで混じり合った、まさにネメアの獅子のための『完璧なレッドジャスパー』です。 |
3-1-6-1. 必ず不純物が入る宝石『ジャスパー』
アリゾナ州ケイブ・クリーク産レッドジャスパー原石(約4.2cm) "Jasper (32132824820)" ©James St. Jphn(24 January 2017, 22:34)/Adapted/CC BY 2.0 | ジャスパーは微細な石英結晶が集まってできた宝石で、古代より愛されてきました。 アゲートやカルセドニーと同じ種類ですが、ジャスパーの方が不純物を多く含みます。 |
ポピージャスパー "Poppyjasperpolished" ©Edward Rooks(7 July 2010)/Adapted/CC BY 3.0 |
『4 FACES』 フォーウェイ ウォッチキィ・ペンダント イギリス 1830年〜1840年頃 ¥255,000-(税込10%) |
ジャスパーは不純物の違いによって赤、緑、黄、褐色系などがあり、模様も様々です。ブラッドストーンもジャスパーの一種です。石の性質上、均質の石を手に入れるのは困難です。 |
ポーランド産レッドジャスパー(約2.5cm) | ある程度の大きさを手に入れようとすると、必ず不純物が入ります。 |
『アンズリー家の伯爵紋章』 ジョージアン レッドジャスパー フォブシール イギリス 19世紀初期 レッドジャスパー、18ctゴールド ¥1,230,000-(税込10%) |
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だからこそこのような伯爵家の紋章シールが存在するのです。 レッドジャスパー自体は比較的手に入りやすく、あまり高価な印象はない石です。しかしながら完全無欠のレッドジャスパーとなると、一体どれだけ希少性は高くなるのか? |
【参考】レッドジャスパーのブレスレット(現代) | 数cmの大きさで『完全無欠のレッドジャスパー』というのはそれこそ夢か幻のような存在です。 宝石は美しいことに加えて、希少性がその価値に大きく反映されます。成金的な発想しか持たない、勉強する気もゼロの無知な庶民がジュエリーを買おうとする場合、石の種類や大きさだけを気にすることが本当に多いです。 見事なまでに品質は気にしません(笑) |
【参考】現代の安物ジュエリー |
現代の成金ジュエリー | ||
それはジュエリーを買えるのがごく限られた王侯貴族だけだった時代の、宝石の本質を理解していた人たちの選び方とは違います。古の上流階級はダイヤモンドは高い、ジャスパーは安いというような短絡思考はしません。 「ダイヤモンドよ!良いでしょ!!大きいでしょ!」というような自慢の仕方は、教養もセンスもない成金(ヌーヴォー・リーシュ)と影でバカにされるのがオチです。 |
これを作らせたイギリスの伯爵は、この完全無欠のレッドジャスパーがいかに希少性が高く価値ある宝石なのかを理解していました。 だからこそ、インタリオ面だけでなくこの部分まで完全無欠の石であることが分かるよう、他には見たことのない、このような珍しいデザインでセッティングしているのです。 |
3-1-6-2. 模様が魅力のピクチャー・ジャスパー
マダガスカル産オーシャン・ジャスパー(約5cm) | 完全無欠のジャスパーは、通常では考えられない幻のような存在です。 そのような幻影を追い求めるより、ジャスパーにはこの宝石ならではのアーティスティックな魅力があります。 ジャスパーは不純物の多さが特徴ですが、その入り方によっては非常に芸術性の高い模様が現れます。 |
南アフリカ産タブタブ・ジャスパー "Tabu Tabu Jasper (South Africa)(41889473312)" ©James St.Jphn(7 April 2018, 15:43)/Adapted/CC BY 2.0 | アイダホ州サンダーエッグ産ブルノー・ジャスパー "Bruneau Jasper from Idaho Thundereggs" ©Chris857(3 August 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | ダルメシアン・ジャスパー "Jasper Dalmatian (212237453)" ©Sue Corbisez(16 May 2017, 20:07:23)/Adapted/CC BY 3.0 |
そのようなジャスパーは『ピクチャー・ジャスパー』として、通常のジャスパーとは別の価値を見出されてきました。 |
マダガスカル産オーシャン・ジャスパー "Freiberg, Terra mineralia, Augenjaspis" ©Dguendel(19 <arch 2019)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
大自然が描き出した石の模様は、見ているだけで楽しめるアートです。もちろんこれらは標本として美術館に収蔵されるクラスのピクチャー・ジャスパーなので、ここまで面白いジャスパーは滅多にない希少価値の高い宝石と言えます。 |
レッド&イエロージャスパーの飾り用の壺(ドイツ 17世紀初期)大英博物館、ワデズドン遺贈品 "Jasper vase WB.71" ©Jonathan Cardy(28 November 2019, 13:37:47)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ジャスパー 3面インタリオ・シール フランス 1758年 SOLD |
ピクチャー・ジャスパーは石そのものも非常に面白いのですが、それだけに飽き足らず、贅沢な小物やジュエリーにしてしまうのが、古い時代の王侯貴族たちの中でも特に美意識や知的好奇心が強い上に、莫大な財力を持つ僅かな人たちです。 |
『大自然のアート』 デンドライトアゲート プレート(9,5cm×12,2cm) イギリス 19世紀後期 ¥387,000-(税込10%) |
このようなアーティスティックな宝石の宝物を持つために、高い美意識や好奇心が必要なのはすぐにご想像いただけると思います。 では、なぜ莫大な財力まで必要なのでしょうか。 |
デンドライト・アゲートの手帳 イギリス? 1760年頃 ワデズドン・マナー(ロスチャイルドの邸宅)蔵 |
こういう作品は、実は煌びやかな宝石のジュエリーより遥かに莫大なお金をかけて作られたりしているものです。 だから煌びやかなジュエリーにすら飽きてしまうクラスのハイエンドの富豪であり、しかも高い美意識も併せ持つ人だけが好んで持つのです。 |
ピクチャー・ストーンを使った作品は非常に面白いのに、なぜ昔から数が少ないのかと言えば、ルースを手に入れるのが想像を絶するほど難しいからに他なりません。 一見、ダイヤモンドなどに比べて希少性が低く石は手に入りやすそうに感じるのですが、理想的な模様を持つルースを手に入れるのはダイヤモンドなど比較にならぬほど、手間と技術的に困難を極めるのです。 |
ダイヤモンドならばちょっと削り過ぎても品質的には殆ど問題ありませんが、この石を少しでも削り過ぎれば全く異なる模様になっています。ミクロン・オーダーの加工を必要とする、恐ろしいまでの精密精緻な技術と高い集中力を要する神技の加工です。『石』という観点からも、これは奇跡的な芸術作品と言えるのです。 |
3-2. 彫りの魅力
このインタリオは彫りも抜群に優れています。 |
【参考】低レベルのライオンのインタリオ・リング(19世紀中期) | 技術のない職人が彫るインタリオは、正面から見た時のデザインしか気にしていないため、総じて浅く平べったい彫りです。 |
【参考】低レベルのライオンのインタリオ・リング(19世紀中期) | 【参考】ヴィンテージのファッション・リング |
この獅子はかなり深く彫りこんであり、作者が明らかに獅子の体を立体的に正確に表現しようとしたことが分ります。 |
まさに神と言えるネメアの獅子の迫力が良く出ています。タテガミや筋肉、前後の足の細かい部分まで見事に表現されており、広大な夜空を駆け抜ける躍動感がこれでもかと伝わってきます。 |
獅子はただ彫刻しているのではなく、背景となるジャスパーの模様もしっかり計算してデザインされています。 獅子の体や頭の上部は意識的に赤い部分に彫ってあります。 一方で前後の足や尾は一部が透明な部分にかかっており、透けています。 |
獅子の迫力ある顔や、重そうな体躯などものともせず力強く大地を蹴り上げる、筋肉質の大腿と大臀筋。赤茶色の部分に彫刻してあるからこそ、顔や筋肉の力強さがより強調されて伝わってくるのです。もし透明な部分に彫られていたら存在感が薄れてしまい、獅子の力強さは最低でも半減したはずです。 |
一方で前後の足が透明な部分にかかっていることにより、いかにも宙空を駆け抜けるような幻想的な雰囲気を作り出しています。地を駆ける通常の獅子ではない、大空を駆け抜ける神、ネメアの獅子であることを石の模様と彫刻のコラボレーションで見事に表現しきっています!! |
肉眼で見ると石の模様のせいで、細部の彫りが分かりにくかったりもするのですが、粘土に押せば制作されてから1800年ほど経った今でもしっかりとコンディションを保っていることが分かります。粘土に押さずとも、角度によっては彫刻をはっきりと視認できるタイミングがあるので、お手元で美術鑑賞を楽しんでいただくこともできます♪ |
それにしてもよくこんな石があったものだと感じます。樹状に成長したり、ランダムに入った煉瓦色と芥子色のインクリュージョンが描き出す模様は実に見事で、冷たい夜空でもなく、空虚な大宇宙でもなく、熱き魂を持つ力強いネメアの獅子にこれ以上のものはないと確信できるほどピッタリです。 そして、今でこそコンピュータも発達して3D構築ソフトで断面を見たり、回転させて内包物を異なる角度から観察したりすることもできますが、このインタリオの作者は頭の中でそれができていたのでしょう。現代人にとって想像を絶する天才的な頭脳と言えますが、それを持たねばこの3次元構造の獅子と石の模様のコラボレーションの完成形を脳内に描き出し、デザインすることすら不可能です。当時でも天才と言える作者が作った、奇跡の芸術作品です。 |
4. 古代ローマを踏襲した形状のヴィンテージのシャンク
ゴールドのセッティングは数十年前に作られたヴィンテージです。 |
古代のリングは実際の指の形を意識して、真円ではなく楕円に作られている場合が多々あります。 このシャンクをオーダーした人物、もしくは加工した職人もそれを知っており、その古代ローマのスタイルを踏襲して少し楕円にして作ったようです。 |
着用した際の見た目に影響はありませんし、むしろ指にフィットして着け心地は良いと思います。 |
ゴールドを十分に使った、重厚感ある作りです。 |
着用イメージ
少し角度を煽るだけで、獅子座となったネメアの獅子の姿がはっきりと浮かび上がります。 ピクチャー・ジャスパーの模様を楽しむ瞬間と、獅子の姿を楽しむ瞬間・・。 手元で楽しむ小さな宝物。 これぞ、最高に贅沢な芸術作品の楽しみ方と言えるでしょう♪ |