ヨーロッパ貴族を知る

 歴史的に見ると、世界中にごく自然に貴族階級が存在してきました。日本では長年、武士階級が歴史のメインストリームで活躍してきたため、『貴族』という存在がイメージしにくくなっています。日本貴族と聞くと、平安貴族だけを思い出す方も多いでしょうか。
 定義にも依りますが、日本では少なくとも3世紀から始まるとされるヤマト王権から貴族が存在しました。古墳時代まで遡ります。長い歴史を持つ日本貴族ですが第二次世界大戦後、1947(昭和22)年5月3日に施行された日本国憲法によって堂上貴族も含めて貴族が廃止され、日本貴族は存在しなくなりました。最も国民の目が行く皇族が残されたため、あたかも日本貴族が途切れることなく存続し、その伝統や文化が現代まで続いているように感じている人も少なくありません。また、大多数は貴族のことを分かっていると思い込む一方で、本来の貴族を理解できているとは言い難い状況です。そんな状況である日本の庶民が、異文化のヨーロッパ貴族を知識なく理解するのは不可能です。

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 HERITAGEでご紹介するアンティークジュエリーは、元々ヨーロッパの上流階級の持ち物でした。現代の名ばかりの超高級ジュエリーと違い、一点物として一からデザインして作られたアンティークのハイジュエリーには持ち主の人となりが如実に反映されています。
 憲法によって『法の下の平等』が定められ、皇族以外の全員が庶民となって70年以上経ちました。アンティークジュエリーのパイオニア、1947年5月5日生まれのGenですら日本に貴族がいた時代は経験していません。記憶があり理解もしているという観点では、今の殆どの日本人は貴族が存在する社会を知らないと言えます。戦後は庶民全体の生活水準が劇的に向上し、教育によって平等意識が洗脳レベルにまで浸透した結果、王侯貴族も自分たち庶民と何ら変わらないと思い込む人が殆どとなりました。命の重さという点では平等かもしれませんが、人間は工場で量産される統一規格の無個性な製品ではありません。人種のるつぼとも称される国際都市ロンドンやパリ、ニューヨークなどと異なり、民族の多様性が極めて低く『阿吽の呼吸』や『空気を読む』という言葉すら存在する日本では、他の人も当然自分と同じように考えていて体質も同じ、価値観も経験してきたものもほぼ同じと思い込んでいる人が少なくありません。しかもそれは無意識にです。『偏見』の正体です。

 HERITAGEでご紹介するアンティークのハイジュエリーを真に理解するために、少しでもヨーロッパ貴族について理解を深めていただければ幸いです。

 

目次

 

 

持ち主の身分が特定できるアンティークジュエリー

 作られてから100年以上が経つアンティークジュエリーは、元の持ち主が特定困難な場合が殆どです。イギリス貴族の場合、爵位を継げるのは嫡男の長子のみです。貴族家に生まれた子女のために作られたものでも、長男以外の兄弟や姉妹の持ち物は結婚などのタイミングで共に家を出ることになります。貴族家に代々伝わるジュエリーの方が稀なのです。家を出たジュエリーはさらに親から子に受け継がれ、家を出て、それが繰り返されることで市場に出てきた殆どのジュエリーは最初の持ち主が不明となっています。
 それでも40年を超えるお取扱い実績の中で、奇跡的な確率で持ち主や家柄が分かる時があります。それらはどういう身分の人がどういうクラスのジュエリーを持っていたのか、貴重な情報を教えてくれます。ここではそういう奇跡の宝物をいくつかご紹介いたします。ご覧いただけばHERITAGEでお取扱いする他の宝物も、小学生の持ち物のように名前など書かれていなくても特別な身分の人の持ち物だったことをご理解いただけるはずです。

イギリス貴族
マウントノリス伯爵

イギリスのマウントノリス伯爵アングルシー家の紋章フォブシール

 

アイルランド貴族
セント・ジョージ男爵家

 

オランダ北部の貴族
ジュブリー家

オランダ貴族ジュブリー家のプラチナ&カラーゴールドの結婚祝いのブレスレット

 少なくとも16世紀まで遡ることができる名門アンズリー家の、伯爵位を示すフォブシール。爵位を継げる嫡男がおらず1844年に廃絶。最後の当主ジョージ、或いはその父アーサーのオーダー品。    アイルランド貴族セント・ジョージ男爵家のアーサー・フレンチ・セント・ジョージが娘ルイーザへのクリスマスのプレゼントとして1829年に作らせた、当時最も注目された最高級素材を惜しみなく使ったブレスレット。    オランダ北部の貴族ジュブリー家が結婚の祝いに作らせたブレスレット。プラチナがジュエリーの一般市場に登場する遥か以前、特殊な技法を駆使してプラチナ&カラー・ゴールドで作られた、技術的にも興味深い逸品。

 

スコットランド貴族
ガスリー氏族

スコットランド貴族のガスリー氏族のランパントの紋章フォブシール

 

スコットランドの上流階級
バラントレー教区長の一族

スコットランドのバラントレー教区長の息子のダッチローズカット・ダイヤモンドのモーニング・ブローチ

 
 22代続くスコットランドの名家貴族、ガスリー氏族のフォブシール。15世紀に建築された代々の居城、アンガスのガスリー城で使用されていたとみられる。戦後は貴族が力を落とし、ガスリー城も1984年に手放されている。    スコットランドのバラントレー教区長の息子であり、グラスゴー大学でアートの修士号も取得したジョン・ドナルドソンのモーニング・ブローチ。贅沢な宝石や極上のシャンルベ・エナメルから、支配階級としての教区長一族の莫大な財力が伺える。    

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持ち主の身分が推定できるアンティークジュエリー

 特定に至らずとも、総合的に見て持ち主の身分を100%に近い確信で推定できるものもあります。特定に至った宝物とはまた別の、想像力や知的好奇心を掻き立ててくれる強い魅力がこのような宝物にはあります。夢を与えてくれると同時に、どの身分の人がどういうジュエリーを持っていたのかも教えてくれます。

古代ギリシャ
スパルタの王族

古代ギリシャのスパルタの王族のエレクトラムのヘラクレス・リング

 

イギリス
王族

イギリスの王族を示すフルール・ド・リスがデザインされたルビー&ダイヤモンド・リング

 

スコットランドの功労者
& 準貴族以上

イギリスのシッスル勲章のミニチュア・ブローチ

 神を祖先に持つことが王権の正当性の根拠とされた古代ギリシャで、ヘラクレスの子孫とされたスパルタ王家の物とみられるリング。モチーフのみならず人類の知能が最も高かったとされる時代の圧巻の彫りと、生死をかけた戦いに耐える頑丈なエレクトラム素材に納得。    王族を示すフルール・ド・リスがデザインされたリング。360度の手の混んだ贅沢な作り、神技の石留はハイクラスのリングの中でも類を見ない水準。成金ジュエリーとは真逆と言える、控えめながらも気品溢れる佇まいには王族クラスの風格が漂う。    スコットランドの最高勲章、シッスル勲章の夜会用のミニチュア。代々受け継ぐことのできる爵位と異なり、本勲章は本人の国家レベルの功労の証であり極めて名誉な物。王室の許可を得て製作されるミニチュアは、王室御用達の第一級の職人によるさすがの作り。

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ヨーロッパ各国の貴族の稀少性

 欧米では、ヨーロッパ貴族の中でもイギリス貴族は別格とされます。これは稀少性と、それに基づく桁違いの財力・権力に依ります。国家における貴族の総数は以下が影響します。
 @新しく貴族に叙せられる基準
 A代々の継承システム
@は明確な決まりがありません。どうしたら貴族になれるのかは、時代ごとの様々な情勢に依ります。ヨーロッパの大陸貴族とイギリス貴族で大きく違うのがAです。

【爵位継承システム】

 大陸貴族:兄弟全員
 イギリス貴族:嫡男・長子1人のみ、生前譲位なし、養子不可

 これは年月が経過するほど差が拡大します。大陸貴族の場合、10人兄弟だと次の代は人数が10倍になります。同じことを繰り返すと、さらに次の代は貴族が100倍の人数となります。しかしながら領地や財産は限られています。分割相続によって領地や財産は10分の1、100分の1となっていきます。
 イギリス貴族のシステムだと、どれだけ子供が増えても貴族の人数は増えません。領地や財産も1人が丸ごと継ぐので、分割で減っていくこともありません。代を重ねても財力・権力は安定です。ただ、女性も非嫡出子も、親戚からの養子すらも認めないため、継承者不在で廃絶となることも少なくありません。

【数字で見る各国の貴族の割合】

アンシャンレジームを風刺した絵(1789年)

フランス国王ルイ16世(1754-1793年)

 大陸貴族のシステムが最終的に破綻するのは明らかです。特に革命前のフランスは国庫の財政悪化補填のため、爵位をカネで乱発してさらに貴族を増やす有様でした。結果、アンシャンレジームのフランスでは
 第一身分(聖職者):14万人
 第二身分(貴族):40万人
 第三身分(平民):2,600万人

という社会構造となりました。第一身分と第二身分は年金支給と免税特権が認められ、49人に1人が特権階級でした。まさに風刺画の状況です。宮廷貴族だけでも約4,000家あり、彼らが我先に寄ってたかって国庫を収奪したことが財政破綻の原因でした。

 フランス革命は元々は王政打倒が目的ではなく、アンシャンレジーム体制への不満で始まりました。フランス王ルイ16世自身は良き王として尽力しており、市民からも絶大な人気がありました。フランス革命の変容についてはここでは割愛しますが、増えすぎた貴族のパワーバランスが複雑化し、ルイ16世が王位に就いた頃には誰が王になっても破綻していたとされるほど状況は深刻化していました。

 第二身分だけ見ても66人に1人が貴族です。日本でも「先祖は武士」と言う人は多いですが、直系に限定しなければ移民以外のフランス人はほぼ「元貴族の家系です。」と名のれそうなほどの割合です。稀少価値はありません。

 フランスほど乱発しなくても、時代と共に増えるシステムによってロシアでは1858年時点で60万人、1880年頃のドイツでも推定2万人の貴族がいたとされます。
 以前、ヨーロッパ某国の大陸貴族の末裔が委託販売の相談にいらしたことがあります。ご連絡いただいてGenがワクワクしていたのですが、実物を見て酷くガッカリしていました。安物の他、ヴィンテージも混ざっており、念の為にX線検査した真珠は養殖でした。庶民の持ち物と変わりない、「想い出だけが価値」の中古のガラクタです。当時は今より知識が浅かったので驚きましたが、今なら納得です。HERITAGEのお取扱い基準は上流階級の持ち物だったかではなく、純粋にそのものが優れているかどうかなので委託販売はお断りしました。ガラクタなんて酷い言い方と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、相談者は若い方で、ご自身が使わない不要物だけを選んでお持ちでした。十分に楽しんだ後、大切で価値ある物だから次世代に託したいということならば良いですが、現役世代のご自身が使いたいと思えないような物に誰かが何万、何十万円も出すなんてあり得ません。無意識でしょうけれど、他者と言うか私たちのお客様をバカにしています。タダで手に入れた、ジュエリーとして魅力のないガラクタであぶく銭が手に入ればラッキーという程度の考えであり、そこにはその方にとっての想い出の価値すらもないのです。
 別のお店ならば「貴族の末裔から出た逸品ですよ!」とPRできる、売りやすい品物かもしれません。良いものかどうかは関係なく、とにかく貴族にまつわるアイテムが欲しい顧客にはマッチしているので、こういう物は適材適所に行けば良いのです。こういう選び方は高級ブランドの名前で箔付けしたい成金と全く同じだと思っています。

 さて、イギリス貴族もお金や政治的な理由で爵位を乱発した時期はいくつかありますが、厳格な継承システムもあり、大陸貴族と比べると圧倒的に少ない人数を維持してきました。中世末から16世紀のテューダー朝までは概ね50家に留まっていました。
 17世紀のステュアート朝は金欠により爵位をお金で乱発しましたが、それでも17世紀末時点で170家です。16世紀と比べると3倍以上ですが、無尽蔵には増えていません。増えるほどに、既存の貴族は貴族院における影響力が低下します。新規に増やしたくないという貴族同士のパワーバランスが、抑止力として機能した側面もあるでしょう。 それでも18世紀に成立したハノーファー朝では、王朝の基盤安定化のため乱発されました。18世紀末までに270家、1830年代に350家、1870年代に400家、1885年に450家と急増しました。
 20世紀に入るとさらに乱発され、1999年に世襲貴族は750家、2020年には814家となりました。数字だけ見ると脈々と続いているように感じますが、その大半は20世紀中に爵位を受けた新興貴族です。嫡男長子のみ継承できるシステムは極めてハードルが高く、最も多い時期で40家あった公爵家も2021年には24家(王族は除く)にまで減っています。新陳代謝していると言えば聞こえが良いですが、新興貴族はそれなりでしかありません。近代は貿易や商業で財を成した者の叙爵も多々あり、社交界で成金扱いされたりしました。そんな新興貴族も100年、200年と続くと貴族らしい立ち居振る舞いが板に付き、由緒ある伝統的貴族と見られるようになります。ここでは割愛しますが、現代の貴族は制度改正もあっていろいろな意味でアンティークの時代の貴族とは全く異なります。イギリスも戦後は貴族の時代は終わっており、今のイメージで昔のイギリス貴族を想像すると正確性を欠きます。ただ、イギリスは常に数百家以内の限られた人数のみが爵位貴族として存在してきました。

 日本人にとってはフランスは革命前の王政時代のイメージが強いため、イギリス貴族とフランス貴族を同列に考える人は多いです。最後に、同時代のそれぞれの国の貴族の割合を比較してみましょう。

【イギリス貴族】

 ブリテン諸島の人口:1,600万人(1800年の推定)
 爵位貴族:270家(18世紀末)
→0.0017%(6万人に1人程度) 


 

【フランス貴族】

 人口:2,654万人(1789年の革命前)
 第二身分(貴族):40万人(革命前)
→ 1.5%(66人に1人程度)
 宮廷貴族:4,000家(革命前)
→0.015%(6,600人に1人程度)

特権階級と言える宮廷貴族と比べてもイギリス貴族は桁違いに少ないです。庶民から見れば富豪のトップ270もトップ4,000も莫大なお金持ちに見えますが、その財力はまるで違うことはご想像いただけるでしょう。さらに66人に1人の割合でいる人なんて、富豪というよりは多少裕福な庶民程度です。日本より状況を知っている欧米でイギリス貴族が別格視されるのは、このように明確な理由があるからです。


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どうしたら貴族になれるのか?

 叙爵は特別なことです。世襲貴族の嫡男長子として生まれることで自動的に得られる爵位と異なり、新規あるいはより上位の爵位の叙爵は、それに値する特別な功績の証です。叙爵の理由は時代によって様々ですが、例をいくつかご紹介します。

イギリス 1716年
スローン準男爵

 

イギリス 1892年
ケルヴィン男爵

 

イギリス 1896年
ストレットンのレイトン男爵

【出生】アイルランド王国に派遣されたスコットランド人植民団長の息子
 国王を始め、上流階級の医師として実績を重ねる・趣味を兼ねた文化面での貢献は著しく、一代で大英博物館の礎を作ったことやホットチョコレートの考案で有名。
  【出生】農家出身で独学で大学に入り数学教授となった秀才の次男
 10歳で大学入学、22歳で教授となった神童が凡人になることなく80代まで大活躍。大西洋横断ケーブルの敷設成功でナイトを叙爵。絶対温度ケルビンの名称の由来。
  【出生】輸出入専門業者の息子
 芸術家として優れた才能を発揮し、1900年のパリ万博では出展作がイギリス展示の象徴とされるほど国際的にも高い評価を得る。65歳で叙爵した翌日に狭心症で急死。1日で男爵家断絶という貴族最短記録を作っている。

 

イギリス 1931年
ネルソンのラザフォード男爵

 

オーストリア 1853年
騎士 ヨーゼフ・エッテンライヒ

 
【出生】ニュージーランド植民地のスコットランド出身の農夫の4子
 α線やβ線、ラザフォード散乱による原子核の発見など、原子物理学の父と呼ばれ高校物理で名を聞くほど実績多数。ノーベル化学賞受賞。夏のビーチでもジャケットを脱がない英国紳士。
  【出生】宿屋の息子
 肉屋になった後、オーツ麦の取引で一財を築き45歳で引退。いつもの散歩中、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の襲撃現場に居合わせ、53歳にして元肉屋パワーで刃物を持つ襲撃犯を素手で殴り倒し取り押さえる。その功績が高く評価され、世襲貴族に叙せられる。
   

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ヨーロッパの王侯貴族が受けるスパルタ教育

 ヨーロッパの王侯貴族にとって身分は特権を得るものではなく、むしろ重い責任を運命付けるものとみなされました。全ての領民の幸せに責務を負う、生まれながらに特別な存在として庶民では考えられないほどの教育を幼少期から施されました。子供らしいことは許されず、それこそ今で言うアダルトチルドレン揃いですが、当たり前だと思っているので不条理に対して不満を漏らす者はいません。現代だと20代でも自らを若いと称し堂々と甘える庶民がいますが、昔の王侯貴族は10代で国家や所領を背負うこともありました。重責を自覚し、高潔な生き方をした古の王侯貴族の姿勢やその美しさには気付かされること、学ぶことも多いはずです。

 ちなみに日本だと明治天皇は1867年に14歳で即位し、同年に大政奉還で政権を返上されています。15歳、中学3年生に相当します。父である先帝、孝明天皇が35歳で崩御したことが若い即位の原因ですが、父に相談することもできない状況で突如国のトップとなり、前例なき困難な状況に善処していかなければならないなんて、義務教育でノロノロと育つ現代の中学3年生では絶対に覚悟も知識も無理ですね。

オーストリア皇帝
フランツ・ヨーゼフ1世

 

イギリス王
エドワード7世

 

フランス王妃
マリー・アントワネット

【即位】1848年、18歳
 健康不安による先帝の退位により、例外的に18歳で成人とみなし即位。将来の即位が確定していたため、ストレスで病気になるほど幼少期から帝王教育が施される。王権神授説の考えに基づき国王として国民のために尽力し、68年に及ぶ長い治世で『国父』と呼ばれるほど絶大な敬愛を得た。
  【即位】1901年、59歳
 放蕩の限りを尽くした先代の国王らのようにならぬよう、ド真面目なヴィクトリア女王夫妻が半ば虐待と言って良いほどの教育を施す。精神面に大きな暗い影響を及ぼしたことは間違いないが、特に外交面で才能を発揮。帝国主義が渦巻く中、優しい人柄でピースメーカーとして大きな役割を果たす。
  【結婚】1770年、14歳
【即位】1774年、18歳

 政治や外交を司る男性に対し、文化面の貢献が役割とされる女性はそれに応じた教育が施される。10代での結婚が一般的なため、男性以上に早い習得が求められる。ファッションが有名だが、嫁ぎ先では音楽、食育、庭園など、教養と稀代のセンスに基づき新しいスタイルを生み出し文化に貢献。

 

フランス王女
マリー・テレーズ

 

フランス王
ルイ17世

 
【結婚】1799年、20歳
 結婚7年目で授かった子として愛情深いルイ16世は甘やかそうとしたが、高慢にならぬようにとマリー・アントワネットは幼少期から他者の痛みが分かるよう教育。体重と同じくらい重いパニエに不満を漏らしたりもしたが、母譲りの優雅な振る舞いと心優しさを身に付けた、高潔な女性に育つ。
  【即位】1793年、7歳
【死去】1795年、10歳、衰弱死

 6歳で幽閉されたタンプル塔では、父ルイ16世や叔母エリザベート王女から各種教育を受ける。散歩を許された際は、処刑を知らぬ花好きの母マリー・アントワネットのために花を摘み部屋の前に置いたり、独房で衰弱する中、壁に花の絵を描くなど次期国王として思い遣りある子に育っていた。
   

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イギリスの爵位貴族の種類

5種類の爵位

英国王室の王冠のエドワーディアン・ジュエリー

 

最高位の公爵の特殊性

 
 イギリスは君主を頂点に5種の爵位貴族が存在し、上流階級の最上位を構成。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵それぞれがコロネットと呼ばれる宝冠で象徴される。複数の城を所有し、領内を治める小国の王たる存在である。    爵位貴族の最高位、公爵は王族も存在する極めて高い身分である。後に国王となるジョージ4世も生まれてすぐにコーンウォール公爵とロスシー公爵を叙爵しており、次期君主クラスの王族と臣民が併存する身分となっている。    

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イギリス貴族のグランドツアー

 イギリスは『紳士の国』と言われますが、それは王侯貴族が紳士らしく振る舞い庶民の模範となったからです。その王侯貴族も古い時代は粗野でマナーの欠片もありませんした。

ヨーロッパ全体で見ると辺境の田舎者だったイギリス貴族が『紳士』と称されるほど洗練されたのは、グランドツアーの影響が大きいです。

大半は壮大なカネの無駄遣いに終わりましたが、実ったごく一部が物凄い成果をもたらし、国家全体としては大きなプラスとなりました。グランドツアーはイギリスの特殊性の要因の1つです。


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当たり前に過労死レベルで働くイギリス貴族

 ノブレス・オブリージュが息づくイギリス貴族は戦争でも率先して危険な最前線に立ち、領民のために命を落とすことを厭いません。戦争でなくとも領民のために激務をこなし、過労死する貴族すら存在しました。それは王族でも例外ではありません。派手に遊び暮らすのが貴族ではありません。敬愛され、貴族として成立できたのはきちんと理由があるのです。

イギリス王配
アルバート公

 

イギリス王
エドワード7世

 
【享年】1861年、42歳
 新婚旅行すらまともに時間が取れないことに驚きつつ、愛する妻ヴィクトリア女王のために全てを捧げる。十分な教養がなく、9人の子女を産んだ女王に代わり、実質君主の役割を果たす。真面目過ぎる性格故に体調悪化の中でも休まず激務をこなした結果、42歳の若さで衰弱死する。
  【享年】1910年、68歳
 帝国主義渦巻く世界情勢の中、9ヶ月近くに渡り休む暇もない激務で体調を崩し、その後もろくに休養を取れず衰弱。昏睡状態の中、「続けるぞ。最後まで仕事を続けるぞ。」と呟いて生涯を閉じる。最期を看取った妻アレクサンドラ王妃は「彼は国のために命を落とした。」と語っている。
   

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アンティークの時代の知られざる日本貴族

 1947年に廃止される以前は日本にも貴族が存在しました。日本人ほど知的好奇心が高く、オシャレが大好きな民族はいません。江戸時代には庶民ですら自ら進んで寺子屋などで勉学に励みました。ヴェルサイユで宮廷文化が花開いた時期には既に庶民向けのファッション誌が出版され、男女共に競ってファッションを楽しんでいたほどです。いわんや貴族階級をやです。
 開国後、日本の上流階級は眼を見張るほどの勢いで欧米列強の文化に順応し、欧米の上流階級に勝るとも劣らぬほどの教養やマナー、センスを身に付けた日本貴族も存在しました。戦前のアンティークの時代の日本には、HERITAGEでお取扱いしているようなハイジュエリーやアイテムをリアルタイムで使いこなしていた日本貴族がいたのです。

近代の日本貴族とは?

PD1889/明治22年の『憲法発布式』

 そもそも近代の日本貴族がどういうものだったのか、正確にご存知でしょうか。
 開国して明治政府が発足した後、ヨーロッパに倣った貴族制度ができました。この近代日本の貴族階級は『華族』と呼ばれます。
存在したのは1869(明治2)年から1947(昭和22)年までの約78年間です。この期間に存在した貴族の総数は1,011家と極めて限られていました。

 彼らは日本国民にとってどういう存在だったのでしょうか。

 

アンティークジュエリー&アイテムをリアルタイムで使いこなした日本貴族

大山捨松 公爵夫人
(1860/安政7-1919/大正8年)

 

公家・華族会館館長 岩倉具視
(1825/文政8-1883/明治16年)

 

金メダリスト・西竹一 男爵
(1902/明治35-1945/昭和20年)

 会津藩の家老の娘として誕生。11歳で日本初の女子留学生として岩倉使節団に随行し渡米。良家の女性が集まる名門ヴァッサー大学で上流階級女性に必要なあらゆる教養やマナーをトップクラスの成績で習得。卒業生総代も務める。美貌と知性、人柄は当地でも人気が高く、学級委員長やソサエティー会長にも選任されており、まさに全てが揃った世界基準の才媛。帰国後は鹿鳴館の花として異次元の存在感を放つ。恋愛結婚した夫はルイ・ヴィトンで初めて買物した日本人としても知られる大山巌公爵。    日本文化を重要視し髷のまま渡米するも、現地で外見が重要と判断するや即断髪し洋装で首脳会談に臨む。上質な仕立服やウォッチチェーンなどはさすが貴族の着こなし。ヨーロッパ各国で政治や文化面での貴族の役割も見聞し、具体的に何をする存在か不明確だった明治初期の華族を導く。貴族のパトロンとしての役割を熟知し、芸術保護等の文化政策も推進。好んだ能楽はギリシャ悲劇にも通ずる芸能であり、華族による後援団体設立に動く。アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントを自邸に招いて上演もしている。    最末期の近代日本貴族。天賦のセンス、人柄、男らしさ、世界一の運動神経は、欧米の社交界で世界的スターや名士たちを虜にした。西太后から与えられたシナ茶の専売権により巨万の富を手にした西男爵家の跡取りとして、幼少期から大富豪として生活する。大富豪数十人分にも相当する桁違いの資産を持ち、外見の良さに稀代のセンスも兼ね備えたため、ロサンゼルスで乗りこなす高級オープンカーも軍服もカスタマイズ。馬具はフランスのエルメスで揃えるなど、ヨーロッパ貴族顔負けの貴族ぶりで羨望の的となった。

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