No.00294 愛のメロディ |
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『愛のメロディ』 イギリス 1826年 マリー・アントワネットも愛奏していた、ジョージアンの時代に王侯貴族の女性の教養として流行したペダル・ハープがモチーフの優美なブローチです。 |
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この宝物のポイント
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1. ジョージアンの小さなブローチ
この宝物は19世紀初期のジョージアンらしい特徴をいくつも持つ、魅力溢れるブローチです。 |
1-1. 金価格が史上最も高かった時代のジュエリー
1-1-1. 19世紀初期のジョージアン・ジュエリー
ジョージアン | ヴィクトリアン | エドワーディアン | アールデコ |
『忘れな草』 18世紀後期 SOLD |
『Tweet Basket』 1880年頃 SOLD |
『Shining White』 1910年頃 SOLD |
『摩天楼』 1930年頃 SOLD |
アンティークジュエリーとしてある程度市場で見ることができるのはジョージアン以降のもので、年代別にするとジョージアン、ヴィクトリアン、エドワーディアン、アールデコという大別の仕方が最もポピュラーです。 |
ジョージアン | ||||
ジョージ1世 在位1714-1727年 |
ジョージ2世 1727-1760年 |
ジョージ3世 1760-1820年 |
ジョージ4世 1820-1830年 |
ウィリアム4世 1830-1837年 |
ジョージアンはイギリス国王ジョージ即位した1714年から、ヴィクトリア女王が即位するまでの1837年までのおよそ123年間です。ヴィクトリア女王の治世1837-1901年を指すヴィクトリアン、約64年間より遥かに長期ですね。十年一昔とも言いますが、ジョージアンも非常に長く、細かく見ればそれぞれの年代で異なる特徴があります。 |
通常、宝物が制作された年代は様々な特徴から総合判断するしかないのですが、この宝物は裏側に年号が彫金されているため、作られた年が正確に分かります。 1826年3月23日と記されています。 |
『アートな骨壺』 ローズカット・ダイヤモンド 骨壺ブローチ イギリス 1849年 SOLD |
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年号が彫金されたアンティークジュエリーは何でもかんでもモーニングジュエリーと思われる方もいらっしゃいますが、そういうわけではありません。 『アートな骨壷』は命日として年号が記載されていますし、骨壷というモチーフからも故人を偲ぶモーニングジュエリーであることは明らかです。 |
『セント・ジョージ男爵から娘ルイーザへのクリスマスプレゼント』 ピンクトパーズ ゴールド ブレスレット イギリス 1829年 SOLD |
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しかしながらセント・ジョージ男爵から娘ルイーザに贈られたこのクリスマスプレゼントのブレスレットのように、特別なタイミングで愛する人に贈られたジュエリーにも年号が彫金されていることはあります。 |
そうは言っても年号が彫金された宝物自体が、アンティークジュエリーの中では稀少な存在です。 制作された年が明確なジュエリーは時代背景がはっきりと分かり、当時の文化から持ち主のことなども想像しやすくて、とても面白いのです♪ |
1-1-2. 金価格が高騰していたイギリスならではのゴールドがメインのジュエリー
アンシャンレジームを風刺した絵(1789年) | 以前、詳細を追いながらご説明しましたが、18世紀末に起きたフランス革命の影響で、イギリスは19世紀初期に史上最も金が高い時代を迎えました。 |
海軍船 |
1797年にフランス海軍が襲ってきたという、イギリス北部の小さな漁村で起きたパニックによるイングランド銀行取り付け騒ぎに端を発し、イギリスにおける金価格は勢いを増しながら高騰していきました。 金価格の爆騰に伴う急激なインフレも問題となり、1810年には英国議会に金地金の高価格に対策をうつための委員会、いわゆる地金委員会が設けられるほどでした。 イギリスという国だけで局所的に起こった『史上最も金が高い時代』はしばらく続きました。その間、"王侯貴族の富と権力の象徴"となったゴールドによる、他の時代には見られないゴールド・ジュエリーが制作されました。 |
イギリス国王ウィリアム4世妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン(1792-1849年)1831年頃 | 『ジョージアンの女王』 ジョージアン ロング ゴールドチェーン イギリス 1820〜1830年頃 SOLD |
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その代表的なゴールド・ジュエリーの1つが、ジョージアンならではの軽くて見た目はボリュームがあるロング・ゴールドチェーンです。 |
当時の最高級素材が分かる王族のネックレス | |||
天然真珠 | ゴールド | 天然真珠 | プラチナ&天然真珠 |
エリザベス女王(1575年頃) | キャロライン王妃(1820年) | アレクサンドラ王妃(1905年) | モード王妃(1906年頃) |
身体の正面で最も目立つ位置にあるロングチェーンは、王侯貴族の富と権力を象徴するジュエリーとして肖像画に描かれたり、写真撮影をされてきました。何の素材が最も高価だったかは時代や地域、文化などによって異なりますが、1820年頃から1830年代初頭までのイギリスではゴールドが富と権力の象徴たる最高級素材として君臨していたことが当時の肖像画からも分かります。 |
『フレンチ・エレガンス』 ゴールド スーパー ロングチェーン フランス 1890年頃 SOLD |
1900年前後のベルエポックのフランスでもロング・ゴールドチェーンが流行し、かなりの数が作られていますが、最高級として作られたものを比べても、イギリスのジョージアンのチェーンとは何もかもが異なります。 |
1-1-3. 19世紀初期のイギリスのゴールド・ジュエリーの特徴
金塊 | 金を融かして固めただけの金塊と、加工されたゴールド・ジュエリーとでは全くその評価基準は異なるはずです。 しかしながら『ジュエリー』とは何なのか、それを本質的に理解できている人は現代ではごく僅かしかおらず、大半の人たちは重さ、すなわち地金としての価値だけで全ての価値を判断しようとします。 |
『OPEN THE DOORS』 マルチロケット ペンダント イギリス 1862年頃 SOLD |
ゴールド・ペンダント ティファニー 現代 【引用】TIFFANY & CO / Gold Necklaces & Pendants |
財産性を持つほどの、真に価値ある『ジュエリー』は昔から限られた上流階級や特別な富裕層だけが持てるものでした。 そういう人たちは数が少ないです。 現代、『ジュエリー』と呼ばれている物を買うのは大半が庶民であり、本当の価値あるジュエリーの選び方を教えてくれる庶民向けの指南書なんてものもありませんし、教えてくれる人もいませんから、現代の庶民が正しい判断ができなくても当然です。 |
時代別のゴールド・チェーン | ||
ジョージアンのイギリス | ベルエポックのフランス | 現代 |
王侯貴族用 | 庶民用 | 庶民用 |
当時の最高級品 | 当時の中級品 | 高級品(カルティエ) |
同じ"ゴールドのチェーン"でも、王侯貴族のために作られた最高級品なのか庶民のために作られた安物なのかで驚くほどデザインや細部の作り込みに違いがあります。 |
【参考】ゴールドのロングチェーン(カルティエ 1991年) |
極度にダサくて安っぽく、こんなものがこの世に存在すること自体が驚きです。 でも、カルティエと刻印されているだけで大喜びする人は意外と多いようです。 |
さて、時代ごとのゴールドチェーンを比較してみましたが、ジョージアンの特徴はなるべく少ない金でボリュームを出して華やかに見えるようにしていること、手間を惜しまず金細工技術の域を極めた細工が施してあることが特徴です。それは金が極端に高かったこと、当時ジュエリーを身に着けることができたのは成金(庶民)ではなく、教養と美意識の高い貴族だけだったことが原因です。 |
【参考】中級品のベルエポックのフランスのゴールドチェーン |
ベルエポックのフランスではロング・ゴールドチェーンが量産されていますが、その時代のフランス人がお金持ちの貴族たちだったから多く作られたわけではありません。1870年に帝政から共和政に以降しているので、フランス人に貴族は存在もしていません。でも、1848年に起きたカリフォルニアのゴールドラッシュによって既に金価格がかなり低下していたので、王侯貴族クラスの財力を持たなくても、小金持ちであれば庶民でも買えたのです。 |
【参考】中級品のベルエポックのフランスのゴールドチェーン | 知識を持たぬ庶民にとって、未だに"金は高いもの"というイメージだけはありました。 安い金を使って楽に儲けたい業者と、消費意欲旺盛な成金庶民の思惑が一致し、ゴールドチェーンが戦後復興後の好景気に沸くベルエポックのフランスで大流行したのです。 |
【参考】中級品のベルエポックのフランスのゴールドチェーン |
ヘリテイジでご紹介できる、優れたデザインと技術、驚くほどの手間をかけて作られたベルエポックのゴールドチェーンも稀ですが存在します。でも、この時代は技術が低いのか、手抜きによるものなのか分かりませんが、明らかに雑な作りの中級品も少なくありません。 |
【参考】中級品のベルエポックのフランスのゴールドチェーン |
現代ジュエリーを買うのと何が違うのか分からない、単純なデザインと作りのものも本当に多いです。でも、金は十分に使われており、イーグルヘッドの刻印による安心感もあるので「金」や「刻印」だけで判断する人にはウケが良く、ヘリテイジでは扱わないクラスのものでも結構な値段で取引されているようです。アンティークジュエリーでさえも、本場ヨーロッパのディーラーでも「おブランド」的な選び方をする人は本当に多いのです。ヘリテイジは当時の上流階級同様、独自基準です(笑) |
このペンダント&ブローチは金が史上最も高かった時代に作られているため、使われている金の量自体は少ないです。 でも、メッキで大きく見せようとするのでもなく、コンパクトに作ってしまうのでもなく、少ない金でいかに美しく華やかに見せようと技術と努力を結集させたか、それが非常によく分かる作りになっています。 |
シトリン ネックレス&イヤクリップ イギリスorフランス 19世紀初期 シトリン、18ctゴールド SOLD |
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少ないゴールドで華やかに見せたり、最高級素材『ゴールド』の美しさを最高に引き出すために、ジョージアンの中でもこの特別な時代には特にゴールドに関して、様々な技法が極限まで追求されることになりました。ゴールドは表現の幅が非常に広く、ジュエリーとして最高に優れた素材と言えます。19世紀には様々な美しいゴールドジュエリーが制作されていますが、この時代にカンティーユ、カラーゴールド、粒金、彫金、マットゴールド加工など、あらゆる技術がこの時代に最高に高められた恩恵とも言えるでしょう。19世紀後期に作られたものでも素晴らしいものは本当に素晴らしいのですが、特にゴールド・ジュエリーに関してはジョージアンのこの時代は別格なのです。 |
1-2. お花以外のモチーフのジョージアンのブローチ
晩年のジョージ3世(1738-1820年)1817年、79歳頃 | 摂政王太子時代のジョージ4世(1762-1830年)1814年、52歳頃 | |
イギリス国内で金価格が高騰し、地金委員会が組織されるほどとなったのが1810年のことです。ジョージ4世が国王として即位するのは1820年ですが、先代の王ジョージ3世は晩年には精神疾患に煩わされ、政治的には不能の状態に陥っていました。このため、1811年からはジョージ4世が摂政王太子として統治していました。このため1811年から1830年まで、実質イギリスという国のトップはジョージ4世だったと言えます。 |
『PEACE』 |
現代のようにメディアが発達しておらず、王侯貴族が絶対的な力を持っていた時代にファッションリーダーとなるのは国のトップでした。だから誰が国のトップなのかによって、流行するスタイルや傾向も変化します。 イギリスで史上最も金が高かった時代は、ちょうどジョージ4世の統治期間に当たります。 |
イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃 | ジョージ4世は放蕩王とも呼ばれるほど壮大にお金を使いまくった人物で、財政的には王室に多大なダメージを与えていますが、イギリス1のジェントルマンとも言われたほど英国紳士としては優れており、ファッションリーダーとして文化には大いに貢献しています。 そのスタイルは『リージェンシー』と呼ばれ、この時代の家具に限ってはフランス貴族たちも高く評価し、こぞって購入していたと言われています。 |
『パイナップル』 スリーカラー・ゴールド フォブシール イギリス 1820年頃 SOLD |
『バッカスのワイン樽』 ゴールドスライダー・ペンダント イギリス 1811〜1820年 SOLD |
当然ながらジュエリーに関してもすぐにこの年代のものと分かる、気品と教養に満ち溢れた特別にセンスが良いものが作られています。 |
ジョージアン プチ フラワー・ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
ネックレス、フォブシールなど様々な種類のジュエリーがありますが、ブローチに関してはお花をモチーフにしたものが多いです。 |
ピンク・トパーズ フラワー・ブローチ イギリス 1800年頃 SOLD |
トルコ石 フラワー・ブローチ イギリス 1800-1820年頃 SOLD |
アイボリー フラワー・ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
使う宝石は様々ですが、いずれもゴールドの細工に贅が尽くされており、他の時代には見ることのない繊細美は『アート・オブ・ゴールド』を名乗るにまさに相応しい宝物となっています。 |
そのような中で、19世紀初期のこのタイプの小さなゴールド・ブローチで楽器をモチーフにしたものは、初めて見る珍しいものです。 |
2. ハープのモチーフ
2-1. 貴族の教養 『音楽』
【参考】1860年頃のゴールド・ブレスレット | ヴィクトリアン中期くらいになると、産業革命によって台頭してきた中産階級もジュエリーを買い始めるため、美意識や美的センス、教養が感じられない、いかにも成金的なジュエリーも市場に出てきます。 |
しかしながらこの宝物が作られた19世紀初期の時代は、ジュエリーは王侯貴族だけが持てるものでした。 このハープのブローチは、いかにも貴族のオーダー品らしいジュエリーです。 |
オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年) | 現代人の中には、昔の王侯貴族はキャッキャうふふと遊び暮らし、いくらでもお金を使える贅沢三昧と勘違いしている人も少なくありません。 でも、実際は人々にとって身分相応の貢献ができるようになるために、高い身分の者ほど熱心に勉学に励んでいました。 ハプスブルク家出身のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世もそうでしたが、それこそよく過労死しなかったと思えるレベルで、幼い頃から教育されまくります。 |
マリー・アントワネット(1755-1793年)1762年頃、7歳頃 | 男女で教育内容は異なりますが、王侯貴族の女性は政略結婚が当たり前の時代なので、そのためのあらゆる教育が幼い頃から行われます。 語学、マナー、プロトコルの習得のみならず、上流階級にとって必要な全ての教養が教え込まれます。 |
兄、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の結婚式で祝いで踊る9歳のマリー・アントワネット(右)1765年 | ハプスブルク家のマリーアントワネットも幼少期から様々な教育を受けました。 ダンスにも非常に上手だったそうで、神聖ローマ皇帝である兄ヨーゼフ2世の結婚式でもお祝いのために踊っています。 |
スピネットを弾くマリー・アントワネット(1755-1793年)1769年頃、14歳頃 | 音楽も重要な教養の1つでした。 聴くだけでなく、美しい姿で心地よいメロディを奏でられることもとても重要です。 さすが音楽の都ウィーン仕込み、幼い頃から良い音楽を聴き、優れた教師に教わって育ったマリー・アントワネットは作曲もできるほど、音楽家としても優秀だったそうです。 残念ながら作曲した作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられましたが、少なくとも12曲の歌曲が現存しているそうです。 演奏に関してはハープ、ハープシコード、フルートを学びました。 |
ハープを奏でる王妃マリー・アントワネット(1777年、22歳頃) | 美しい声も持っていたため、家族の夜の集まりでは皆のために歌声を披露していたそうです。 フランス王室に嫁いでからも、特にハープは愛奏していました。 |
1792年8月10日のカルーゼル広場での戦闘を描いた『テュイルリー宮殿の襲撃』(1793年制作) |
その後フランスでは革命が発生し、革命期のフランスでパリの民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃する事件が起きました。国王一家が民衆に捕らえられた事件です。フランスで王権が停止されることになった、事実上の革命だったため『8月10日の革命』とも呼ばれています。国王一家の身辺警護はスイス衛兵隊が行なっていたのですが、ルイ16世から民衆への発砲を禁止されたために多くが民衆から虐殺されました。多くの血が流れた、想像するだけで恐ろしい事件です。 |
タンプル塔(1795年) |
捕らえられた国王一家はタンプル塔に幽閉されました。その際には、マリー・アントワネットのハープも持ち込まれたそうです。タンプル塔ではルイ16世が子供達にラテン語やフランス文学、歴史、地理を教え、叔母エリザベート王女が数学を教えたそうです。不自由ながらも、できることを最大限にやる国王一家。マリー・アントワネットが奏でるハープのメロディが、少しでも皆の心を癒したでしょうか・・。 |
フランス王ルイ16世(1754-1793年) | その後、ルイ16世は処刑されました。 長女のマリー・テレーズ王女には死の間際、「憎しみを捨てるように。」と諭しています。 また、断頭台では民衆に向けて「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることがないように神に祈りたい。」と語っています。 享年38歳、この達観具合は現代の庶民(私)からは想像し難いほどですが、これこそが真の王なのだと強く感じます。 古い時代の真の王侯貴族は、教養だけでなく精神性も別格なのです。 |
民衆に示される国王ルイ16世の首(1793年) |
そして、民衆はいつの時代も民衆です。王様も自分たちと同じ人間だったと思いたかったのでしょう。ルイ16世がギャーギャー泣き喚き、命乞いをし、呪いの言葉でも吐いて処刑されれば少しはスカッとしたのでしょうけれど、あまりにもあっさりと、しかも自分たちでは到底不可能な高潔過ぎる最期を遂げたため、溜飲が全く下がりませんでした。 |
ギロチン台へ引き立てられる王妃マリー・アントワネット |
王妃マリー・アントワネットも軽佻浮薄な愚かなワガママお嬢ちゃんかと思えば、そうではなくやはり命乞いすらせず高潔な最期を遂げました。庶民的には完全に意味不明で、むしろ自分たちの方が悪者の気さえしてきて、全く気分が悪いのです。だから、とにかく何となく気に入らない人物は何だかよく分からない理由をつけてでも、スカッとするまで処刑してみることにしました。これがフランス各地に吹き荒れたギロチンの嵐の理由です。 |
ルイ15世の公娼デュ・バリー夫人(1743-1793年) | 元々は貧しい庶民だったルイ15世の公娼デュ・バリー夫人だけは、民衆も狼狽するほど激しく泣き叫び、命乞いしたそうです。 その生来の美しさがデュ・バリー子爵の目に留まり、囲われて貴婦人のような生活をするようになったことで、社交界に通用する社交術を身に付けたデュ・バリー夫人ですが、見た目だけは貴族のように取り繕えても、中身は庶民と貴族では絶対的に違うという・・。 本で読むと「デュ・バリー夫人ってカッコ悪い」なんて、上から目線で思うこともあるかもしれません。 |
結婚前のマリー・アントワネット(1755-1793年)14歳頃 | でも、残念ながら私はデュ・バリー夫人側の人間だと思います。 昔の王侯貴族たちは凄すぎるのです。 それは、生まれと育ちによるものも強く感じます。 プライドを持てる出自、十分な教育を施せる環境を保つための『生まれ』というものは特に重要かもしれません。 昔よりは遥かに『平等な社会』となった現代は庶民の教育が底上げされ、その恩恵に預かれていると感じますが、一方で昔の王侯貴族のような心から尊敬できる真の『王侯貴族』というものも存在できなくなってしまったようにも感じます。 |
マリー・アントワネットと子供達(ヴィジェ=ルブラン作 1787年) | ルイ16世とマリーアントワネットの間には4人の子供が生まれていますが、天寿を全うできたのは長女マリー・テレーズ王女だけです。 長男で王太子として生まれたルイ=ジョゼフ王子は脊椎カリエスで1789年に7歳で亡くなりました。 次男ルイ=シャルル(ルイ17世)はタンプル塔に幽閉されたまま、おおそ2年をかけて残酷な形で衰弱死させられました。 第4子で次女ソフィー王女は革命よりも前に、結核によって10か月21日で夭逝しています。 |
王妃マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女とルイ=ジョゼフ王太子(1785年) | 当たり前のことですが、マリー・アントワネットは王族として相応しい人間となるよう、子供達にもしっかりと教育を施していました。 子供達は幼い頃から母が奏でる、美しいメロディにも触れて育ったことでしょう。 マリー・アントワネットは生物学上の子供達以外に4人を養子にしています。 その中には政治家からプレゼントされたセネガルの奴隷の少年もいました。 |
ルイ16世の長女マリー・テレーズ王女(1778-1851年)5歳頃 | 王族としての富と権力を持つからこそ、その分しっかりと人の痛みが分かる優しい子に育って欲しい。 そういう思いを込めて育てられた子供達は、確かに気品と優しさを兼ね備えた人に育っていく気配がありました。 タンプル塔で幽閉生活を送るマリー・テレーズ王女が聴いたであろう、母が奏でる優しいハープのメロディ。 殺気立つパリの心落ち着かない空気の中、それはとても癒しになったに違いありません。 |
フランス国王ルイ17世:ルイ・シャルル(1785-1795年)1792年、7歳頃 | タンプル塔に幽閉された時、マリー・ルイーズ王女は13歳、弟のルイ=シャルルはまだ7歳でした。 しかしながら王家の唯一の生き残った男子であり、ルイ16世亡き後、戴冠式はできていなくても反革命派や亡命貴族にとってはフランス国王ルイ17世という立場にありました。 両親や叔母の処刑後、止めることのできる大人もおらず、歯止めが効かなくなった周りの大人たちは、明らかに最終的には殺すことが目的と言えるような扱いを始めました。 未必の殺意というべきか、明確な意思があったのか。7歳の子供が死刑相当の罪を犯したはずもなく、両親のように罪をでっち上げて処刑することはできませんし、わざと殺すのも後味が悪いだけでなく自身の罪になりかねません。 徐々に弱らせ、最終的には死に至らしめる。わざとじゃないけど弱ってしまった、死んでしまった。最終目的に向け、虐待を行う者たちの感覚は次第に麻痺し、予定通り最終的には手の施しようもないくらい衰弱し、ルイ17世は10歳で亡くなりました。あまりにも残酷です。 |
10歳頃のマリー・テレーズ王女と4歳頃の弟ルイ17世(1789年) | 父が殺され、母も殺され、弟との面会も許されないタンプル塔の独房で13歳のマリー・テレーズが聞いたのは訳も分からず残虐な扱いを受け、精神的にも肉体的にも弱りいく幼い弟のすすり泣く声でした・・。 マリー・テレーズは後にタンプル塔を出られたものの、誰とも会話をすることなく2年近く過ごした彼女は発声異常を患い、ガリガリと話す発声異常は生涯治ることはなかったそうです。 想像を絶する状況下、マリー・テレーズが正気を保てたこと自体が驚異的と感じますが、発育期におけるこの生活は喉以外にも深刻な影響を与えたようで、結婚した後1度だけ妊娠していますが。妊娠がかなり進んだ時期に流産してしまい、二度と妊娠することはなかったそうです。 このため、ルイ16世夫妻の子孫は残っていません。 |
マリー・テレーズ王女(1778-1851年)16歳頃 | 美しい声を持ち、その歌声で愛する人たちを癒し、豊かな気持ちにしていたマリー・アントワネット。 その娘マリー・テレーズの美しかったであろう声が、このような形で失われてしまったことは非常に残念なことです。 |
ハープを奏でる王妃マリー・アントワネット(1777年、22歳頃) | マリー・アントワネットが愛奏したハープ。 そのメロディは、もしかしたらマリーテレーズにも受け継がれていたかもしれませんね。 |
ハープのレッスン(ジャン・アントワーヌ・セオドア・ジルー 1787 or 1791年) | ヨーロッパの王族や貴族の女性は、外国に嫁ぐことも当たり前にありました。 だからマリー・アントワネットの出身地であるオーストリアのみならず、ヨーロッパのどの国でも音楽は王侯貴族にとって教養の1つでした。 16歳でようやく釈放され、亡命したマリー・テレーズは各国を転々としています。どこかでハープの奏でを聴き、愛に溢れた家族の幸せな時を思い出すこともあったかもしれませんね。 |
ルイ・アントワーヌ王太子(1775-1844年)1796年頃、21歳頃 | ルイ・アントワーヌ王太子妃となったマリー・テレーズ(1778-1851年)1817年、38歳頃 |
マリー・テレーズはロシアに亡命中だった1799年、20歳で同じく亡命貴族で3歳年上の従兄弟ルイ・アントワーヌと結婚しています。ロシアにフランス亡命宮廷を開いていたブルボン朝の生き残り、ルイ18世の勧めによるものでした。ルイ18世はルイ・アントワーヌの叔父にあたり、復古王政でルイ18世の後を継いだシャルル10世の長男がルイ・アントワーヌです。亡命中は彼らとともに各地を転々としていました。 |
初代バッキンガム侯爵ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル(1753-1813年) "Dublin St. Patrick's Cathedral North Aisle Statue of George Grenville Nugent Temple 2012 09 26 " ©Andreas F. Borchert(26 Sptember 2012)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | イギリスに亡命した時期もありました。 イギリスのバッキンガム侯爵ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルが国王ジョージ3世に仲介し、ロンドン北東部のゴルフィールド・フォールをフランス亡命宮廷の定住地となりました。 1808年にマリー・テレーズとルイ18世の妻マリー・ジョゼフィーヌも到着し、亡命宮廷としてイギリスの地で暮らし始めました。 |
ハートウェル・ハウスでのルイ18世夫妻(1810年頃) | 翌1809年にはバッキンガム侯爵がバッキンガムシャーのカントリーハウス『ハートウェル・ハウス』をフランス亡命宮廷に貸し、ナポレオンが退位して復古王政が始まる1814年までの5年間はここがフランス亡命政府となりました。 この田園地域の城で、マリー・テレーズは夫や親族、廷臣たちと共に暮らしました。 |
【王妃の村里】マールバラ塔と王妃の家 "Marie Antoinette amusement at Versailles" ©Daderot(30 May 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
フランス革命前、マリー・アントワネットは息苦しい宮廷生活から逃れ、心穏やかになれる場所を求めて夫が即位してすぐにプチ・トリアノン宮殿を求めました。元々はルイ15世が公娼ポンパドゥール夫人のために建てたもので、18歳のマリー・アントワネットは自身の価値観や傑出した美的センスによって次々と改装していきました。このプチ・トリアノンの一角に作ったのがル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ、『王妃の村里』でした。 |
ヴェルサイユ宮殿のオランジェリー(建設1684-1686年) "Vue aérienne du domaine de Versailles par ToucanWings - Creative Commons By Sa 3.0 - 094 " ©ToucanWings(19 August 2013, 21:02:33)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
当時はフランス式庭園が当たり前で、ヴェルサイユ宮殿のオランジェリーもフランス式庭園を代表する庭園です。フランス式庭園は王侯貴族の富と権力を誇示するために発達した、平面的で左右対称の人工的なデザインで、見る者にとって権威を感じるものではあっても、植物らしい自然の美を感じるような心落ち着けるものではありませんでした。 |
【王妃の村里】王妃の家の12m背後にある調理場とリネン室 "Ferme1" ©Urban(september 2004)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
この権力志向のお成金的な庭園様式を好まなかったマリー・アントワネットが理想として取り入れたのが、当時最先端だったイギリス式庭園でした。自然の美しい姿を生かし、心安らぐ場所を王妃の村里に作り上げていったのです。 |
王妃の村里 "Vue aérienne du domaine de Versailles par ToucanWings - Creative Commons By Sa 3.0 - 037 " ©ToucanWings(19 August 2013, 19:25:10)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
マリー・アントワネットは当時も農村共同体を維持していたトゥーレーヌ出身の家族も村里に迎え、様々な家畜を飼い、農場、製粉所、漁業、酪農場、見張り塔なども備えた1つの『理想の農村集落』へと仕立てました。 |
農婦姿の王妃マリー・アントワネット(1755-1793年)1791年、36歳頃 | 単なる余興的な遊びではなく本気の取り組みだったため、村里は野菜、果物、穀物、家畜などそれぞれが最高品種を集め、信頼できる農夫たちによって完璧に管理されました。 マリー・アントワネットも農民服の姿で作業し、細かな指示を出すなど村里を楽しんでいました。 |
【王妃の村里】鳩小屋 "LeHameau" ©tk(17 Sptember 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
この場所は子供達の教育も兼ねており、家畜の飼育環境はとても清潔で、ここで採れた食べ物を子供達にも食べさせたりもしていました。 |
【王妃の村里】マルボロ塔と酪農場 |
雌牛に関しては特にスイス産が好まれ、マリー・アントワネット自ら乳搾りにも立会い、農場でとれた良質な食べ物を食していました。村里には乳製品の加工場もあり、チーズやバター、フレッシュクリーム、アイスクリームなども作って食べていたそうです。子供達にとっても、すごく良い『食育』ですよね。 |
王妃の村里 "Pano - Hameau de la Reine vu depuis la tour de Marlborough" ©Trizek(17 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
マリー・アントワネットは時折、気の置けない友人たちを招き、村里でとれた素材で作った食事を皆で楽しんだりもしていたそうです。農民小屋のようなボロ小屋で農民ごっこを楽しんでいたのでしょうか。 |
【王妃の村里】ビリヤード・ルームを備えた王妃の家 "Pano - Maison de la Reine" ©Trizek(17 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
いえ、そうではありません。村里全体は牧歌的な雰囲気がありますが、王妃の家の中だけはビリヤード・ルームや様々な美しい調度品で飾られた華やかなものでした。ここまでご覧になって、気づいた方もいらっしゃるでしょうか。 |
ノーフォーク公爵が居住するアランデル城と周辺 "1 castle arundel aerial pano 2017" ©Chensiyuan(28 June 2017, 15:33:03)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
マリー・アントワネットの王妃の村里は、イギリス貴族を彷彿とさせるものです。イギリス貴族は所領にカントリーハウス、ロンドンにタウンハウスを持ちます。イギリス貴族が最も愛するのがカントリーハウスでした。 |
第4代ダンモア伯爵ジョン・マレー(1730-1809年) | ダンモア伯爵のパイナップル温室(建設1761年) |
カントリーハウスの敷地に温室を作り、南国の草花や果実を愛でるだけでなく、栽培したフルーツを食べて楽しむこともありました。 |
デヴォン伯爵のパウダーハム城 "Powderham Castle, 2009" ©raymond cocks(13 April 2009, 10:26)/Adapted/CC BY 2.0 |
パウダーハム城の鹿公園 "Deer park, Powderham Castle - geograph.org.uk - 1416619 " ©Roger Cornfoot(24 July 2009)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
王侯貴族の社交の1つに狩猟がありますが、いつでも気軽に楽しめるようカントリーハウスの敷地内に、鹿狩りのための鹿公園を作ってしまう場合もあります。 |
ダラムのウィンヤード・パーク(1880年頃) |
時には人を招いて狩りを楽しんだ後、獲ってきた獲物をメインにディナーを楽しむこともあります。 このカントリーハウスはダラムにあるロンドンデリー侯爵のカントリーハウス『ウィンヤード・パーク』で、広大な舞踏会場もある大邸宅でした。イギリス王エドワード7世とアレクサンドラ妃の夫妻もお気に入りでよく遊びに訪れ、シューティング・パーティなどの社交を楽しんでいたそうです。 |
緑色のゴム長靴を着用したハディントン伯爵 【引用】『英国貴族の暮らし』(田中亮三 著 2009年)河出書房新社、p.59 |
左は緑色のゴム長靴を履いたハディントン伯爵です。 革命前は40万人もいたとされるフランス貴族と異なり、イギリスの爵位貴族は僅か数百名しかおらず、広大な領地を治める小国の王のような存在でした。 貧乏人に毛が生えた程度の貴族まで存在していた革命前フランスと異なり、イギリス貴族は圧倒的な富と権力を持つ領主なのです。 |
ハディントン伯爵のスコットランドのカントリーハウス『メラーズテイン・ハウス』 "Mellerstain Lake" ©Steve Kent(11 September 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
元々はイギリスは農業国です。 所領の牧草地や農地の視察なども貴族にとっては大切な仕事で、身近に自然に触れることも、ハディントン伯爵のようにそのための格好をするのも当たり前にあることでした。 フランスの場合、ある程度の身分の貴族たちはルイ14世によってヴェルサイユ宮殿内もしくはその周辺に住まわされました。 しかしながら、各領内に建設されるイギリス貴族のカントリーハウスは自由です。 |
ハディントン伯爵のメラーズテイン・ハウスの庭 "Mellerstain House" ©Steve Kent(11 September 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
外観、内装、庭園に至るまで持ち主の趣味が行き届き、調度品や貴重品などは扱いを理解した使用人達によってしっかりと管理されます。そのような贅沢で心地よい空間で、ディナーだけでなく談笑したり、時には音楽を奏でて皆で楽しむこともあったでしょう。 |
同時代の王妃 | |
イギリスのジョージ3世妃 | フランスのルイ16世妃 |
シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(在位:1761-1818年) | マリー・アントワネット(在位:1774-1792年) |
ちなみに18世紀後期のイギリスとフランスの王妃はどちらも神聖ローマ帝国出身です。イギリス王妃シャーロットは1761年の17歳、フランス王妃マリー・アントワネットは1770年の14歳で嫁いでおり、実際に会ったことはありませんでしたが、熱心に手紙をやりとりしていました。音楽や芸術への情熱が非常に共通しており、とても仲が良かったそうです。 |
クリームウェア(1770-1775年)ウェッジウッド美術館 | シャーロット妃はジョサイア・ウェッジウッドが開発した『クリームウェア』を気に入り、王妃御用達にしてウェッジウッドの名を上げることにも一役かっています。 |
イギリス王ジョージ3世とシャーロット夫妻と上の6人の子供たち(1770年) |
シャーロット妃は政治には決して口を出さず、夫婦円満で子だくさん、芸術文化にも秀でておりイギリス国内でも高い人気がありました。宮廷では「オーストリア女」と陰口をたたかれ、市民にも嫌われていた同国出身のマリーアントワネットとはえらい違いようですが、同じ感性を持つシャーロット妃からマリー・アントワネットがイギリスの王侯貴族達の優雅な楽しみ方を色々と聞き知っていた可能性は高いでしょう。 |
【王妃の村里】王妃の小さな家 "Boudoir au Hameau de la Reine(1)" ©Starus(16 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ファッションや流行のリーダーとして新しいスタイルを考案したり、自国にまだない優れたスタイルを他国から取り入れ、自国に浸透させて文化を発展させるのは王妃の大切な仕事の1つです。マリー・アントワネットも真面目な取り組みとして、優れていると思ったイギリス貴族たちのスタイルを取り入れ、自身の傑出したセンスと昇華させてこの王妃の村里を創り上げたに違いありません。 |
【王妃の村里】王妃の家の一角 "Maison de la Reine(4)" ©Starus(16 June 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
マリー・アントワネットが最も愛した王妃の村里の心地よい風景。それは13歳くらいまで、愛する母たちとこの場所を楽しんだ娘マリー・テレーズにとって幸せな時を思い出す原風景であり、最も心地よい場所だったはずなのです。 |
ハートウェル・ハウスでのルイ18世夫妻(1810年頃) | イギリスの亡命先、ハートウェル・ハウスは自然豊かな田舎にあります。 大都会パリのヴェルサイユ宮殿からこんなイギリスのド田舎なんて、さぞかしつまらなくて辛かっただろうという想像は当てはまりません。 むしろマリー・テレーズにとっては母が愛した村里の優しい景色を思い出す、心落ち着ける場所だったはずです。 |
マリー・テレーズ(1778-1851年))48歳頃 | 王妃の村里のような暮らしをマリー・テレーズが大切に思っていたことは、後の行動からも分かります。 結局子供が生まれることはなかったマリー・テレーズは、後にベリー公の遺児となった甥と姪を育てることになりました。 母マリー・アントワネットがしてくれたように、同じようにクリスマスのプレゼントを使って「ありがたみと貧困」を教えたりもしました。 |
未亡人となったベリー公爵夫人と子供達(1822年) | また、パリ西部にある緑豊かなヴィルヌーヴ・レタンの屋敷を購入し、甥と姪のために動物を集め、農場も作っています。 そこでとれた新鮮なミルクや生クリームを、甥や姪に食べさせたりしていました。 マリー・テレーズも母がしてくれたことが楽しかっただけでなく、次の世代の子供達にとって大事な教育にもなると思っていた証と言えるでしょう。 農場でとれた乳製品はマリー・テレーズにとって自慢でもあったようで、パリに持ち帰っては友人たちと楽しんだりもしていたそうです。 |
ハートウェル・ハウス |
そういうわけで自然に囲まれたハートウェル・ハウスで、家族に囲まれてのどかな心地よい生活を楽しんだであろうマリー・テレーズですが、時には都会で社交を楽しむこともあったようです。 |
復古王政のブルボン朝最後のフランス王シャルル10世(1757-1836年) | 叔父であり義父であるシャルル10世はロンドンの館に暮らし、長男夫妻であるマリー・テレーズらを社交の場に招いて楽しませることもありました。 イギリスの人々も、フランス亡命宮廷に優しく接したそうです。 |
摂政王太子ジョージ4世(1762-1830年)52歳頃 | 王太子妃マリー・テレーズ(1778-1851年)38歳頃 | |
亡命中に国のトップが国王ジョージ3世から摂政王太子ジョージ4世に代わるという事態も起きましたが、ジョージ4世は引き続きフランス王室と廷臣たちに安全な場を提供し続け、亡命王室には多額の手当を出し、亡命貴族たちにも愛を持って接していたそうです。 |
イギリス王ジョージ4世の戴冠式(1821年)ウェストミンスター寺院 |
放蕩王とも呼ばれ、その散財っぷりはさすが王族と言えるほど桁違いのジョージ4世ですが、イギリス1のジェントルマンとも言われた英国王室屈指のイギリス紳士らしいふるまいですね。 |
マリー・テレーズ(1778-1851年)1816年、37歳頃 | 女性の妊娠とストレスは強い相関があると言われています。 革命以降ずっと続いた不安でストレスの強い環境でしたが、イギリスの美しい自然と人々の優しい気遣いがマリー・テレーズの心と身体を癒したのか、舞踏会の翌年1813年に、マリー・テレーズは結婚13年目にして懐妊し、王室は喜びに包まれました。 残念ながら、その子は流産してしまいました。 1814年にナポレオンがロシア遠征で敗れたのをきっかけにパリに戻ったのですが、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族達は「マリー・テレーズがイギリスの田舎臭い格好でパリに戻った。」と嘲笑したそうです。 |
マリー・テレーズ(1778-1851年) | マリー・テレーズは二度と妊娠することができませんでしたが、それは大事な成長期に体験したタンプル塔での過酷な生活による身体への深刻な影響によるものだったのか、それとも絶えず強いストレス下にある精神的な影響によるものだったのか・・。 いずれにせよ、最初の亡命先ロシアでは生きる気力が感じられないとさえフェルセン伯爵に心配されていたマリー・テレーズが呪いの塊にならず、一度でも安心して妊娠できたのはイギリスでの優しい時間があったこともあるでしょう。 |
マリー・アントワネットが愛想していたハープは神聖ローマ帝国だけでなく、ヨーロッパのどの国でも共通する上流階級の教養の1つとして奏でられていました。 19世紀初期に作られたこのイギリスの宝物を見ていると、マリー・テレーズの心を癒したイギリス貴族たちの優しい心と、美しいメロディが感じられるのです。 |
2-2. ハープだからこその魅力
楽器には様々な種類がありますが、ハープにはこの楽器ならではの強い魅力があります。 |
アイルランドの国章 | ハープと聞くと、アイルランドのアイリッシュ・ハープを連想する方も結構いらっしゃると思います。 |
ペダル・ハープ(1826年) | アイリッシュ(ケルティック)・ハープ "Celtic harp dsc05425" ©David Monniaux(2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
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しかしながら形状などの特徴からも、この宝物のモチーフはアイリッシュ・ハープではなく、当時上流階級に流行していたペダル・ハープと推測します。 |
コンサート・ハープ "M217 - pedalharpa - Erard Freres - före 1902 - foto Olav Nyhus " ©Musik- och teatermuseet(12 May 2008, 13:52:59)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | ハープは詳しくないと何となく手だけを使うイメージがありますが、ハープは時代と共に進化した歴史があります・ 17世紀後半に、演奏中にキーチェンジができるレバー・ハープが生まれ、さらにそれが発展して近代的なコンサートハープが確立しました。 現在、独奏やオーケストラなどで広く用いられるコンサート・ハープはダブル・アクション・ペダル・ハープと呼ばれるもので、足も使って演奏します。 |
ペダル・ハープ(1826年) | 1810年頃、フランスのS.エラールによって精巧な機能を持つペダル式のハープが発明され、それがオーケストラ・ハープの原型になったとされています。 しかしながらマリー・アントワネットの時代に既に類似のペダル・ハープが存在し、この流行の中で進化していったことが伺えます。 |
ペダル・ハープ(ジョルジュ・クシノー 1785年頃) 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted | |
一人でより複雑なメロディを奏でることができますし、演奏しない時も装飾が施された豪華なハープは、調度品として王侯貴族の部屋にピッタリです。ちょっと日本人の感性には装飾過多に感じますが・・(笑) |
ローズ・アデレード・デュクルーの自画像(1791年)30歳頃 | ハープの良さはそれだけにとどまりません。 指を使って演奏するハープは、立ち居振る舞いの美しい女性が演奏すれば、彼女がより魅力的に見える楽器でもあります。 左はマリー・アントワネットの有名な肖像画も描いているフランス貴族、ジョセフ・デュクルー男爵の娘ローズ・アデレード・デュクルーの自画像です。 彼女は画家であり音楽家でもありました。 当時女性で画家という職業は一般的ではなく、男性的な努力とみなされていました。 だからこそ女性ならではという観点から、そして自らの美しさや音楽家としての才能全てを生かすために、この等身大のハープを演奏する女性らしい肖像画を描いたそうです。 |
ハープ奏者(チャールズ・ヴァン・ベヴェレン 1824-1850年) | みなさん、きっと心当たりがあると思います。 顔立ちや体型など、姿形が美しい女性は見てすぐに美しいと感じます。比較的たくさん存在します。 でも、しぐさがとにかく美しい、心をとらえて離さない強い魅力を放つ特別な女性をご覧になったことが1度くらいはあるのではないでしょうか。 前者は写真で判断できますが、後者は静止画だけでは判断できません。でも、とにかく前者より後者の方が魅力が強いのです。 |
フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793年) | 何かと話題のマリー・アントワネットですが、決して顔や体型が造形的に整っていたわけではないようです。 顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎はボッテリして『ハプスブルク家の下唇』と呼ばれる下顎前突症の特徴も持っていました。 |
マリー・アントワネットの舞踏会用ドレス(ローズ・ベルタン 1780年代)ロイヤルオンタリオ博物館 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
また、以前マリーアントワネットのドレスのオーダーについてご説明した際、実際のドレスもご覧いただきました。 そこからも分かるように、身長は高くありません。 身長は154cmで、現代に日本人女性の平均よりかなり低いです。 |
マリー・アントワネットの舞踏会用ドレス(ローズ・ベルタン 1780年代)ロイヤルオンタリオ博物館 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
太さについては裁縫師のエロフ夫人が計ったところ、ウエストはコルセットで58cmまで締め付けるものの、バストは112cmを超えていたそうです。 ・・・。 |
フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793)1783年、28歳頃 | そんなマリー・アントワネットをよく知る人は、 「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」 「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている。」 「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、透き通って一点の曇りもなかった。」 「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった。」 と語っています。誰も顔の造形は褒めていませんが、彼女自身が美しいと感じてていたことがよく伝わってきます。 |
マリー・アントワネットの舞踏会用ドレス(ローズ・ベルタン 1780年代)ロイヤルオンタリオ博物館 【引用】The Metropolitan Museum of Ar / Formal Ball Gown (robe parée) ©ROM, The Royal Ontario Museum/Adapted |
ルブラン夫人は「フランス中で一番立派に歩く夫人だった。」とも語っています。 王妃の前を歩く貴族はいません。 後ろを付き従う侍従の女性たちが見るのが、このような後ろ姿です。 よくデザインされていますね〜。 ハイヒールには限界がありますが、これならば身長が低くても綺麗に歩けば荘厳で美しい女性に見えたことは間違いありません。 |
ルイ16世の長女マリー・テレーズ王女(1778-1851年)5歳頃 | 単なる顔や体の造形以上に立ち居振る舞いは重要です。 マリー・アントワネットは誰よりもそれを理解し、実践できていたから誰も勝てない美しさを持っていたとも言えるのです。 単に美しい顔を持っているだけでは、優美な表情や典雅な所作を持つ女性には勝てないのです。 だからこそ娘マリー・テレーズにも幼い頃から自分の体重と同じくらいの重さのパニエをに身につけ、公式行事や社交の場に出るようにしていたのです。 |
6歳頃の王女マリー・テレーズと王妃マリー・アントワネット(1785年) | 大人からすると可哀想、子供は子供らしくとも思いそうですが、こういうものは物心つく前から初めないと、真の意味で身につけることは難しいのです。 マリー・アントワネットの教育により、娘も美しい立ち居振る舞いがごく自然に、当たり前の所作として身についたようです。 両親が処刑され、幽閉から解かれ亡命後、亡命先で再開したルイ18世はマリー・テレーズを |
姉マリー・アントワネット夫妻を訪ねてきた弟のオーストリア大公マクシミリアン・フランシスとルイ16世夫妻(1776年) | 女性らしい優美な美しさに特に重要なのが、しなやかな指の動きです。 私もダンスやお茶のお稽古では、単なる正確な動きのみならず指先にまでしっかりと気を払うよう先生から指導された記憶があります。 先生のお手本を見ると、洗練された指先の動きによって全ての優美さが格段にアップしていました。 古の王侯貴族たちもそれは当たり前のように理解していたようで、どの肖像画を見ても、指先の角度まで入念に計算してポーズをとっていたことが分かります。 左の絵画も、シルクの手袋を脱いだ右手でマリー・アントワネットが夫の手をとっています。ルイ16世の表情が、なんだかとても嬉しそうに見えますね♪ |
ハープを奏でる王妃マリー・アントワネット(1777年、22歳頃) | 小姓だったド・ティリー男爵は王妃マリー・アントワネットを、「肌は素晴らしく、肩と顎も素晴らしかった。これほど美しい腕や手は、その後2度と見たことがない」とも語っています。 音楽に優れ、立ち居振る舞いに秀で、誰もが魅了される美しい手を持つマリー・アントワネットを惹き立てるのに最も相応しい、かつ当時最先端の楽器がハープだったのです。 |
結婚前のハーモニー(ジェームズ・ギルレイ 1805年) |
女性の美しさを惹き立ててくれるハープが当時の上流階級に流行していたであろうことは、イギリスの有名な風刺画家(イラストレーター)ジェームズ・ギルレイの作品にも現れています。 |
この美しいハープのブローチは、そのような時代に作られたイギリス貴族の宝物なのです。 |
3. 見事な造形
この宝物はハープの立体的な造形を、360度の細工で見事に表現した素晴らしいものです。 |
コンサートハープの基本的な構成要素 "Harp" ©Martin Kraft(31 March 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
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正面はもちろんリアルで美しい造形です。カンティーユとガーネットでデザインされたネックは実際のハープのように、とても優美な曲線を描いています。 |
また、フットは自立する実際のハープ同様、どっしりとした土台でデザインされています。 カラムも安定感ある黄金の棒でしっかりと作られています。 ゴールドが史上最高に高かった時代に於いて、とても贅沢な作りですが、だからこそこの宝物がステータス・ジュエリーとして意味があったとも言えます。 |
サウンド・ボードとボディの形状もリアルです。ゴールドは高価なので少しでも少なくしたいはずですが、ケチってはいけない部分はよく分かっていたという感じです。金額以上に美意識が重要視された結果でしょう。弦はブローチとして200年近くも使用された歴史があり、若干歪んでいる部分はありますが、特に弱過ぎる作りということはなく、丁寧に扱えばこれからも問題なく楽しんでいただけるはずです。 |
左右に力が加わることは通常はないため、弦の歪みは左右ではなく奥行き方向です。 着けて楽しむ際の見た目には問題ありません。 |
ペダル・ハープ(ジャン-アンリ・ナデルマン 1780年頃) 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted | |
これはマリー・アントワネットのハープも作っていたフランスのメーカー、ジャン-アンリ・ネーダーマンによるハープです。弦を張る構造上、ハープには一応オモテとウラがあるのですが、どちらにも可能な限りきちんとデザインと装飾が施されていることがお分かりいただけると思います。 |
このブローチも、ブローチとして可能な限り装飾が施してあります。ボディは表裏にお花がデザインされていますが、オモテとウラで完全に同じデザインではないのが気が利いていますね。 |
ボディの花と葉の金細工は立体的で、あらゆる角度から見て美しいです。 フットの底部はハート型で、ヘアコンパートメント(髪の毛入れ)がついています。 |
イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃 | 恋多き男性だったことでも知られるジョージ4世は、亡くなった後の遺品からおびただしい量の様々な女性の髪の毛が出てきたそうです。 愛しい人といつでも一緒にいたいという思いを込めて、愛しい人の髪の毛をジュエリーに入れて身につけることはヴィクトリアンでも大流行していますが、このようにあからさまではない、センスの良いデザインが、いかにも愛と極上のセンスに溢れるジョージアン・ジュエリーらしいです。 |
4. ジョージアンらしい優れた金細工
この宝物は金が高価だった時代のジョージアンらしい、優れた金細工も見所です。 |
4-1. カラーゴールドの草花
ボディはカラーゴールドで優美な草花が立体的に表現されています。土台と植物の茎はイエローゴールド、花と葉はグリーンゴールドです。 艶やかなゴールドで生き生きとした茎を表現する一方、土台と草花には魚子打ちのような細工で黄金の輝きをコントロールし、格調高い雰囲気が生み出されています。草花の1つ1つも丁寧に造形されているだけでなく花びらやガク、葉脈などがきちんと彫金されています。拡大すると粗く見えがちなのですが、実際は小さなブローチなので肉眼で見ると繊細な美しさが印象的です。 |
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↑↓等倍 |
2次元で表現する『画像』だと元々立体感が感じにくい上に、金属の撮影は光が飛んでしまってなだらかな凹凸は分かりにくいですが、実物ははっきりとした彫金細工だけでなく、なだらかに施された彫金細工との相乗効果で、輝きに見事なエレガントさを感じます。 |
カラム上部を装飾する3枚の葉もグリーンゴールドです。 魚子打ちによる高級感ある輝きと、彫金による繊細な葉脈の表現のコラボレーションが実に美しいです。 |
葉はフラットではなく、カラム上部からヘッドにかけてデザイン的に自然とつながっていくよう、グッと反った形になっています。こういう細かい所まで行き届いたデザインと細工が、ジョージアンの優れた金細工らしさを感じます。ハープ本体にしなやかに沿う葉の装飾デザインは実にエレガントです。 |
4-2. 優美なカンティーユの装飾
ネックの装飾にはカンティーユの技法が使われています。ペンダントと異なり、ブローチは使用の際に力が加わりやすいので、耐久性を出すために厚めの金の板を使い、ガッチリとロウ付けしてあります。 |
ゴールドがたっぷりと使えたゴールドラッシュ以降のヴィクトリアン・ジュエリーと違い、ジョージアンのこの時代のジュエリーは、耐久性という観点からはゴールドの量が十分ではなく、しかもヴィクトリアンより年代が古いのでコンディションが良くない場合も少なくありません。 そんな中で、ブローチでカンティーユにも関わらずこれだけのコンディションを保っているのは、ゴールドをケチることなく使い、耐久性を考えてしっかりロウ付けをしたからに他なりません。 |
斜めから見るとお分かりいただける通り、カンティーユを作る際の金の板はかなり高さが出る巻き方になっています。立体的なデザインは実物を見たときの奥行きの感じ方や輝きに大きく影響するため、ハイクラスのジュエリーほど立体デザインには気が遣ってあるものです。実物をご覧になると、その奥行き感とゴールドの繊細な輝きの美しさに驚かれると思います。 |
4-3. 高級感ある粒金細工
カンティーユやカラム上部の葉の根元など、随所に施された粒金細工も見事です。 一般的に見るハイジュエリーの粒金よりも黄金の輝きが一際素晴らしく、存在感たっぷりです。 |
ゴールドの板をハート型にして作られたフットの上端も、特殊な細工が施されています。板の上部に刻みを入れて熱で融解し、表面張力によって粒金のような形状にしています。粒金を1粒1粒付ける手法だと200年ほどの年月の間にいくつかは脱落しているはずですが、土台を利用する特別な技法で加工されているので完璧な形で細工が残っています。存在感ある黄金の輝きが見事です。 とにかくゴールドに存在感を出し、ゴールドの美しさを追求した、他の時代には見ない作行きからも、金がステータス・アイテムだった特別な時代のジュエリーらしさを感じます。 |
4-3. 黄金の弦
現代でこそナイロンが開発されて、ハープにもナイロン弦が使われていますが、昔はワイヤー弦とガット弦だったはずです。ガット弦は羊の腸で作りますが、弦の詳しい素材や作り方はメーカーごとに異なり、当然ながら高度な企業秘密なので製法などは明らかではありません。一般的にはワイヤーやガットを芯材にし、糸状の金属ワイヤーを巻きつけた巻線になっているようです。それを金細工で見事に再現しています。 |
通常人の目に触れる正面にのみ、弦の表面に線を打つだけでもそれっぽく見えるはずですが、360度完璧に本物の弦のような形状になっています。ゴールドの細い円柱状のワイヤーを精密に削り出してこの形状を作ったのか、それとも本物の弦のように、ゴールドの芯材にゴールドの細いワイヤーを巻いてロウ付けして作ったのか。 |
光学顕微鏡でもっと拡大して見てもどうやって作ったのか結論が出せなかったのですが、弦1つ取って見ても、この宝物を作り上げるために特別な技法を考え出され、実践されたことが分かります。よほど特別な思いを込めて作られた宝物ということなのでしょう。 |
5. 愛を感じる真紅のガーネット
【参考】ヴィクトリアンの大衆向けガーネットジュエリー | ||
ガーネットと言えば、アンティークジュエリーではメジャーなイメージの方も多いと思います。日本のアンティークジュエリーの一般市場で出回っている"アンティークジュエリー"の大半は、ヴィクトリアン中期以降に作られた中産階級向けの安物ジュエリーで、その中には小さなガーネットを寄せ集めて作られたものが多くあるからです。 |
【参考】ヴィクトリアンの大衆向けガーネットジュエリー | ||
ヘリテイジのラインナップにガーネットが滅多に存在しないのは、私たちがガーネットが嫌いだからではなく、王侯貴族のための高級品として作られたガーネット・ジュエリーがあまり存在しないからです。なぜヴィクトリアン中期以降の大量生産された安物ジュエリーにこれだけ大量のガーネットが使えたのかと言うと、ちょうどその時代にボヘミアの地で巨大な鉱脈が発見されたからです。これにより、一定以上の大きさや特別な色を持つガーネットを除き、ガーネットという宝石の希少価値は無きに等しくなったのです |
『永久の天然真珠』 天然真珠&ガーネット ペンダント&ブローチ イギリス 19世紀初期 SOLD |
それ以前はガーネットも稀少価値が高く、王侯貴族のハイジュエリーに使われる高価な宝石でした。 |
小さな真紅のガーネットを使った王侯貴族のハイジュエリーは、この時代だからこそ存在するのです。 |
ゴールドと至極相性の良い、温かみある真紅のガーネットがその華やかさと優美さに大きく貢献していることは間違いありません。 本物の楽器のハープはかなり大型なので、装飾は高価なものでも金メッキですし、このように宝石を豪華に鏤めることなんてできません。 このデザインはジュエリーならではであり、ネックの優美な曲線に沿うガーネットの配置も、実にセンスに優れています。 |
一番右のガーネットの右端に小さな欠けがありますが、200年ほども経過していることを思えば問題ない範囲内です。 |
←↑等倍 | |
着けた時には全く目立ちませんし、言われて注意深く見ないと気づかないくらいです。 |
本物のハープ同様、裏側が透けるデザインなので、着ける衣服の生地によっても雰囲気が変わります。 コーディネートを考えるのも楽しそうですね♪ |
裏側
さすがはジョージアンの特別な宝物、裏側まで美しいです。 芸術品として、見ているだけでも楽しいブローチです♪ |
ガーネットをセットしたゴールドの土台の裏に年号とイニシャルが彫ってあります。年号は1826年3月23日です。誕生日の贈り物だったのか、持ち主たちにとって何か特別な日だったのか・・。 |
心を癒し、豊かな気持ちにさせてくれる愛のメロディ。 そんな優美なメロディが聞こえてくるようなハープの宝物は、ジョージアンのどのような貴族の女性のものだったのでしょうね・・。 |