No.00305 Samurai Art |
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『Samurai Art』 モダンスタイル アクアマリン&天然真珠 ネックレス イギリス 1900-1910年頃 アクアマリン、天然真珠、15ctゴールド ペンダント部分 3.5cm×3cm チェーンの長さ 39cm 重量 3.4g SOLD |
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まるで水引アートのような、ゴールドの細い線を特徴的に透かしのデザインにした軽やかなネックレスです。それまでの西洋美術にはなかった、緩かやな曲線を強く意識したデザインの組み合わせは見事なもので、まさに新しい感覚のモダンスタイル・ジュエリーと言えます。美しい色彩の上質なアクアマリン、丸のまま使った天然真珠の配置も印象的で、当時最先端のハイジュエリーとして作られた、デザイン、作り、宝石の三拍子が揃った見事な宝物です。 |
この宝物のポイント
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1. 立体的かつ躍動感あふれる黄金のライン
1-1. 不思議な感覚をもたらす立体交差
この宝物は、ペンダントの上部が黄金のラインでデザインされています。 |
平面的に見るとただの左右対称デザインのようですが、立体的に見ると、ラインが積み重なったり交差しているようなとても複雑なデザインになっています。 |
一体どうなっているのだろうと、思わず考えて見入ってしまう不思議なデザインです。 |
1-2. 独特の空間使い
この宝物のデザインは、空間の使い方がヨーロッパのアンティークジュエリーとしてはかなり特殊です。 |
1-2-1. 王侯貴族の時代のオーソドックスなヨーロピアン・デザイン
【登録有形文化財】明治21年創業 伊藤屋の書院造の部屋(大正初期)【出典】伊藤屋 / 【本館52番】大正初期の書院造り(登録有形文化財】 |
日本は1490年に創建された室町時代の慈照寺(銀閣寺)が原型となった、シンプルイズベストの書院造が武家屋敷として長年定番として愛されてきました。"これ以上ベストな選択はない"と言える様式だったからこそ、これ以上のものが出てきて移行することもなく、飽きられることもなく、何百年も定番として存在し得たのでしょう。 |
漢学者・国学者 市川清流(通称は渡:わたる)(1822-1879年) | 物質的には"何もない"空間に、形を超えた美しさを見出してきた長い歴史があるからこそ、文久遣欧使節の一員として西洋で写実的な絵画を見た市川清流も、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」と鋭く指摘することができたのでしょう。 |
フランス国王ルイ14世(1638-1715年)のヴェルサイユ宮殿のベッドルームの再現 |
一方でヨーロッパは装飾過剰が追い求められた歴史があります。何もない空間があれば、とにかく豪奢に見える物で全て埋め尽くします。それにより、富と権力をPRする意図があったからです。「空間を埋められないのは、埋めたくても埋められない、お金と権力のない貧乏人だからだ。」という発想に基づくものと言えます。 庶民にまで美意識が行き渡っていた日本人からすれば、庶民の私から見ても浅薄な考え方ですが、ヨーロッパでは殆どの上流階級自体がこのような思想の元、ゴッチャリした好んで装飾を行っていたのです。 |
フォンテーヌブロー城のマリー・アントワネットの寝室(1787年) "P1290875 Fontainebleau chateau rwk" ©Mbzt(7 December 2014, 12:21:10)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | これが当たり前のヨーロッパ上流階級にとっては心地よい空間に感じられるのかもしれませんが、日本人だとこんな寝室では落ち着いて眠れなさそうです(笑) 床から壁面、天井に至るまでゴッチャリさせるのが、ヨーロッパ上流階級のステータスなのです。 |
ロスチャイルドの邸宅ワデズドンマナー(フォト日記『お城の内部』より) |
この傾向はヨーロッパのどの国も同じです。イギリスの"ヴィクトリアン・スタイル"も、いかにも格調高く重厚な雰囲気をイメージしますよね。 |
ロスチャイルドの邸宅ワデズドンマナー(フォト日記『お城の内部』より) |
壁面や天井に至るまで装飾が甚だしいため、天井が高くても圧迫感を感じます(笑)「自分は凄いだろう。」的な威圧感をひしひしつ感じる装飾。そのための"空間を隙間なく埋め尽くすデザイン"、それがオーソドックスなヨーロピアン・デザインと言えます。 |
『ハッピー・エンジェル』 ストーンカメオ&フェザーパール ブローチ フランス? 1870〜1880年代 ¥1,200,000-(税込10%) |
『財宝の守り神』 ダイヤモンド ブローチ フランス 1870年頃 SOLD |
それはアンティークのハイジュエリーのデザインにも共通しています。ヘリテイジでは作りだけでなくデザインにも傑出した魅力を感じ、日本人の美意識にも合致するものしか買付けていないので、典型的なヨーロピアン・デザインのジュエリーは少ないのですが、『ハッピー・エンジェル』が該当します。 『財宝の守り神』は珍しく空間をセンス良く使った、非常に立体的なデザインのジュエリーです。みすぼらしい雰囲気や寂しい雰囲気にならぬよう、黄金やダイヤモンドの装飾パーツはかなり気を遣って優美にデザインされています。アルカイックスマイルを想わせるような守護神の顔、約2ctの特別なダイヤモンドなど、空間は多く使いながらも特別なゴージャス感が満載のジュエリーに仕上がっています。 |
1-2-2. 細いゴールドの"線"で表現した空間
明らかにお金と技術をかけてハイジュエリーとして作られていながら、空間の美を細いゴールドの"線"だけで表現したデザインというのは、古い時代のヨーロッパでは考えられなかったものです。 |
"線"とは言っても、視認できないくらい存在感を消した細い線ではなく、細いながらもきちんと存在感は放つ"線"です。 このペンダントは上部がフラットな細い線、下部はナイフエッジによる線で構成されています。 |
正面 | 裏 |
正面を細く、裏側は厚みを持たせて鋭角の二等辺三角形の三角柱に整えるナイフエッジはハイジュエリーに見られる技法です。金属の存在感を極限まで消すことでセットした宝石を際立たせたり、ジュエリー全体を華奢で美しく見せながら、100年以上の使用も可能な耐久性を両立させる技術です。高い技術と手間を必要としながらも、デザインそのものではなく雰囲気に影響を与えるという、鋭い美的感覚を持つ人にしかその価値が分からない、まさに教養ある上流階級向けの技法なので、成金や庶民向けの安物ではまず見ることのない技法です。 |
そのナイフエッジの技法によって、ペンダント下部に下がったゴールドのラインは見事に存在感が消え、天然真珠とアクアマリンだけが際立っています。 一方で、上部は細いながらもフラットにし、見事に磨き上げられたゴールドが強く面で反射するため、実物は画像以上にこのゴールドの組紐部分が際立って見えるのです。 |
1-2-3. ヨーロッパの組紐デザイン
サットン・フーのゴールドのバックル(イングランド 7世紀) "Belt buckle" ©Michel wal(20:49, 27 June 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
組紐のデザインはバリエーション豊富で、世界各地で見られる人類共通のオーソドックスな模様と言えます。 これはサットン・フーで見つかったゴールドのバックルです。サットン・フーはイングランド東部サフォーク州ウッドブリッジ近くで発見された7世紀アングロサクソン時代の船葬墓で、中世初期のイングランドを知る上で極めて重要な副葬品が多数出土した有名な遺跡です。なかなかゴッチャリとした組紐模様がデザインされていますね。 |
リンディスファーンの福音書のカーペット・ページの一部 (リンディスファーン修道院 7世紀末-8世紀初期) |
これはリンディスファーンの福音書の、カーペットページの一部を拡大したものです。リンディスファーンの福音書は三大ケルト装飾写本の1つで、スパイラルと組紐のパターンがいかにもケルトらしい雰囲気です。それにしてもゴッチャリしていますね。 |
ケルズの書の一部(コルンバ修道院 800年頃) | 同左 |
三大ケルト装飾写本の1つにして、世界で最も美しい本とも呼ばれアイルランドの国宝となっている『ケルズの書』も組紐の装飾が多々見られます。 |
ケルトの十字架 "Bromptoncross" ©Andre Engels(26 May 2005, 03:25:01)/Adapted/CC BY 2.0 | ケルトの十字架(スコットランド 800年頃) "Aberlemno" ©Xenarachne at en.wikipedia(15 August 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本人だと聖なるシンボルは1つだけあれば効果を発揮すると発想しそうなのですが、ヨーロッパの方では聖なる模様で全て埋め尽くさないと、隙間がある箇所に脆弱性が生じるとでも考えたのかもしれませんね。さながら『耳なし芳一』的な発想でしょうか。目指す機能を発揮させることが目的であれば、ゴッチャリするのも理解できます。美しいとは感じられませんが・・。 |
1-2-4. アジアの組紐デザイン
伝統的な中国結び "Eight chinese knots" ©ProjectManhattan(28 January 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
アジア圏ではやはり4大文明の1つとして、発明大国にして、長年文化的にも先進国として君臨してきた中国が組紐を考案しています。 実際に紐を編んで装飾にするため、ヨーロッパの組紐デザインほどゴッチャリしていません。 中国における装飾結びの歴史は古く、春秋時代(紀元前770年-紀元前5世紀)の遺物にその原型が認められています。 当初は王侯貴族のみに使用が限られていましたが、次第に一般にも広まっていきました。 時代が下るごとに、結び方や用途も様々に増えていきました。 |
伝統的な中国の飾り結びとボタン結び | 単なる飾りだけでなく、ボタンとして機能性を持つ用途にも使用されるようになっています。 |
それが朝鮮半島や日本に渡り、それぞれの地で長い年月をかけて独自進化しています。 朝鮮半島の飾り結びは『メドゥプ』と呼ばれ、朝鮮時代には宮中に糸から組紐を組む専門の職人(タフェジャン)や、メドゥプを結ぶ専門の職人(メドゥプジャン)が置かれていました。飾り結びは装飾としてうの美しさに加えて、縁起的な役割を持っていたため、宮廷でも重要な扱いだったということでしょう。 日本の飾り結びは中国と共通するものも多いですが、独自進化したものも様々あります。今でもあちらこちらで見ることがありますよね。 |
中国共産党中央委員会首席 毛沢東(1893-1976年) | 中国結び |
残念ながら中国結びは中国共産党中央委員会首席、毛沢東が主導した1966年から1976年までの文化大革命で他の伝統工芸同様に廃れてしまいました。とても残念ですね。でも、幸い台湾では大きな影響を受けず、日常に根付いていたため、中国国内にその技術が再輸入され、近年は高度な技法の結びも改めて考案されるなどしているようです。 |
1-3. モダンスタイルのジュエリー
さて、組紐のような立体交差の面白さを感じるデザインのペンダントですが、世界各地にある組紐の中でも特に日本の組紐を感じるデザインと言えます。 日本の組紐デザインの中でも、特に『水引』に通ずる美しさです。 このネックレスは『モダンスタイル』のジュエリーです。 |
1-3-1. モダンスタイルが生まれたグラスゴー
グラスゴーの位置©google map | モダンスタイルは当時ロンドン、パリ、ベルリンに次ぐ、ヨーロッパでは4番目に人口が多く、大英帝国における第2の都市として非常に栄えていたグラスゴーで誕生しました。 海運が世界の流通における重要な地位を占めていた時代において、大英帝国の輸出入のハブとして、また世界の造船業の中心地としても栄えていたのがグラスゴーです。 |
ウィロー・ティールームズ(完成 1903年頃) "The Willow Tearooms" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 | ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年)"Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
かつてのグラスゴーは『アート・ティールームズ』という、流行の最先端が生み出されるような流行・文化の中心地であり、大都会でした。 政治的な失策もあって20世紀後半は人口が半減し、かつての活気はなくなりましたが、1990年には欧州連合(EU)の欧州文化都市に選ばれるほど、今でも文化レベルの高さが残っている場所です。 |
グラスゴーで造船された日本郵船の最初に造船された船『西京丸』(1888-1927年) |
1854年に日本が開国した後は、日本からも多くの優秀なエリートや技術者たちが、世界に君臨する大英帝国の優れた技術や文化を学ぶためにグラスゴーにやってきました。 |
『The Great Wave』 モダンスタイル サファイア ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
貿易や技術、文化の拠点として、優れた日本の美術工芸品に触れたり、日本の美術や文化を真に理解した日本人たちと触れる機会に恵まれたことで、西洋美術と日本美術が高度な次元で融合・昇華したモダンスタイルが生まれたのです。 |
1-3-2. モダンスタイルにおける日本美術の要素
『清流』 アールデコ ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
モダンスタイルは、日本らしいモチーフを取り入れた『ジャポニズム』とは一線を画します。 |
1-3-3. モダンスタイルにおける"線の美"と"空間の美"の表現
元々ヨーロッパのアンティークのハイジュエリーの技法として存在したナイフエッジは、とにかく存在感を消す方向性なので、この細い線を特定のタイミングだけ光らせることで強調する『フラット・ライン』は、全く別の発想に基づく新たな技法と言えます。 ちなみに『フラット・ライン』も新発見の技法なので、ヘリテイジで新たに命名して定義することにしました。 |
『線の美』、『透かしの美』、『空間の美』を供えたこの宝物は明らかにモダンスタイルのジュエリーと判断できます。 そして、モダンスタイルのジュエリーであるからこそ、何らかの日本美術の影響を受けている可能性が極めて高いと言えます。 |
1-4. 水引を彷彿とさせる面白さ
『線の美』、『透かしの美』、『空間の美』を供えたこれらモダンスタイルのジュエリーですが、今回の宝物は他と比べて方向性が異なることを感じていただけるでしょうか。 右の3つには、当該部分に関しては静謐の美しさを感じます。時折、ごく一瞬だけ鋭く強く黄金が煌く、不動の中の美しさです。一方で、今回の宝物は"線"で構成されたデザイン自体にダイナミックな躍動感ある美しさを感じます。 |
1-4-1. モダンスタイルにおける静謐な美
伊勢神宮の観月会 "Aki-no-nanakusa 01" ©N yotarou(2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
静謐の美を感じる『線の美』、『透かしの美』、『空間の美』については欄干や欄間、窓、灯籠、行灯など、建築物や照明器具などが主にインスピレーションの元になっているとみられます。 |
アメリカの雑誌に掲載されたウィーン万博における明治政府の出展に関する記事(1873年) | 開国後は万国博覧会などで世界に向けて日本の美術工芸品や文化が紹介され、展示物はその後は販売され、美術工芸品自体も各地に広まっていきました。 |
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | イギリス領事館が置かれた東禅寺(1860年代) |
ビジネスや観光目的の様々な欧米の上流階級や富裕層、エリート層が日本を訪れ、日本の美術工芸品を蒐集して母国に持ち帰るなども多くありました。これだけを聞くと、単に小物やせいぜい調度品程度しかないように感じるかもしれませんが、そうではありません。 |
お雇い外国人ゴットフリード・ワグネル(1831-1892年) | ウィーン万博に出展された竜が描かれた巨大提灯(1873年) |
お雇い外国人ゴットフリード・ワグネルに指導を仰いで出展したウィーン万博では扇子や団扇他、民芸品や伊万里焼などが飛ぶように売れました。 期間内に扇子が1日に3000本も売れた日もあり、値上げしてもその勢いは止まらなかったそうですが、もっと大物も売れています。 |
聖路易万国博覧会ニ於ケル日本庭園俯瞰図(1873年) 国立公文書館アジア歴史資料センター蔵 |
明治政府として初参加のウィーン万博では、威信をかけて約1,300坪の敷地に気合の入った神社と日本庭園が造られました。この屋外展示物の建物や庭園設備も、会期後はイギリスのアレクサンドル・パーク社が購入し、ヨーロッパ各地に広まっていきました。現代の日本人が想像する以上に、当時の欧米人は建築物も含めて日本の様々な文化に触れていたのです。 |
ウィーン万国博覧会日本庭園写真(1873年)東京国立博物館 |
これがウィーンで撮影された写真だなんて思えません。石灯籠に池までありますね。 |
マッキントッシュ家のリビングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
マッキントッシュ家の照明器具(1906-1914年の再現) 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow. |
モダンスタイルの生みの親、マッキントッシュ夫妻がデザインした照明器具が灯籠に見えると以前書きましたが、実際にヨーロッパで石灯籠に火を灯した姿を見れる環境にあったのです。 |
法師温泉(群馬 1895年建築) "Hoshi no yu 05" ©C.K. Tse(15 November 2009, 01:41)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
来日して実物を見るだけでなく、写真技術も確立されているので写真や人の話を通して日本美術に触れる機会もたくさんあったはずです。 |
大橋屋(愛知 1649年創立、1715年建築) |
中から見ても、外から見ても昔の日本建築は軽やかでスタイリッシュで美しいですね。重々しいヨーロッパの家屋とは全く趣が異なります。戦後の30年程度しか持たない、日本の中途半端に欧米を真似たヘッポコ住宅とも全く異なります。この大橋屋の2階の窓なんかは、マッキントッシュがデザインしたウィロー・ティールームズの豪奢の間を彷彿とさせます。 |
ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年) "Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
調度品や色使いによって、インターナショナルな近未来の空間にしか見えませんが、窓の雰囲気がソックリです。 |
【参考】ウィロー・ティールームズ(マッキントッシュ設計 1903年) | 大橋屋(愛知 1715年建築) "Oohashiya Inn, in Toyokawa(2012.08.13)2" ©Lombroso(13 August 2012, 09:43:10)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
そう思って外観を比較すると、外観はよりソックリです。2015年に残念ながら営業を終了していますが、大橋屋は愛知県豊川市にあった旅籠で、旧東海道五十三次の宿場町のうちで最後の旅籠でした。1715年に建築された建物は江戸時代の東海道の宿の佇まいを今に伝えてくれるものです。 開国後は、このような日本建築に宿泊した外国人も結構いたと想像します。その際に見た感動がヨーロッパにも伝わり、こうしてマッキントッシュのインスピレーションの元となった可能性は十分に考えられます。ウィロー・ティールームズはガラスと鉄を使っていてもヨーロッパの一般的なコンサバトリーとは少し違う、コンサバトリーの延長線ではない、日本建築に通ずる、静かな中に"冴"や"キレ"のある独特の美しさを感じるのです。テクノロジーとしてはヨーロッパで発展した鉄とガラスの建築工法が元となっており、まさに西洋と日本を融合させた建築物という印象を受けます。 他、あらゆる場面で透かしの美を感じる日本の建築や照明器具、日本刀の鐔なども、静謐を感じるモダンスタイルのジュエリー・デザインのインスピレーションの元になったと想像します。 |
1-4-2. モダンスタイルにおける躍動を感じる美
今回の宝物は、日本の建築物や照明器具などとは透かしの雰囲気や線の表現の仕方が、雰囲気的にも全く異なります。 思わずどうなっているのか考えてしまう、線の面白い立体交差や、意図的に空間を開けたデザインは水引を彷彿とさせます。 |
1-4-2-1. 水引の起源
祝儀袋(あわじ結び・熨斗あり) | 現代でも贈答品や祝儀袋、不祝儀袋などで使用する水引ですが、これも組紐を使った飾り結び同様、中国から入ってきた飾り結びが原型となっています。 その起源は定かではありませんが、飛鳥時代に遣隋使が帰還した際、答礼使が持ってきた宮廷への贈り物に航海の無事を祈って紅白の麻紐が結ばれており、以来宮廷への献上品には紅白の麻紐を結ぶ習慣ができたという説があります。 他には室町時代の日明貿易にて、明からの輸入品の箱全てに紅白の縄が縛り付けられていたことが始まりという説もあります。 |
明の第3代皇帝 永楽帝(在位:1402-1424年) | 日明貿易は室町幕府3代将軍の足利義満が博多商人の肥富から、対明貿易は莫大な利益を生むと聞き、明に打診して始まった貿易です。 偉大なる明の皇帝は、"冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する"という形でしか貿易を認めなかったため、日本から輸出する品は『献上品』、明から輸入する品は『下賜品』という形になりました。 故に、明皇帝からの贈り物に紅白の縄が縛り付けられていたということになるのです。 |
紫禁城の太和殿(元が建築した宮殿を明が1406年に改築) "Forbidden city 07" ©Eloquence(27 December 2004, 05:51:23)/Adapted/CC BY 2.0 |
紅白の縄は、明側が輸出品と他の品を区別するために使用していただけでしたが、日本側は中国では贈答品に紅白の縄を使用する習慣があると勘違いしました。当時の日本にとって中国は文化的にも憧れの先進国であり、見習うべき対象でした。このため、贈答品には紅白の紐をかける習慣ができたという説も存在します。 |
1-4-2-2. 水引を使用した贈り物文化の起こり
少なくとも室町時代までには、この習慣ができたようです。室町時代後期になると、麻紐の代わりに紙縒に糊水を引いて乾かし固め、紅白や金銀に染めた紙糸が使用されるようになりました。 日本人は古来より贈り物が大好きな民族でした。互いに相手にとってためになるものを慮り、贈り合い、助け合って生きるのが当然という考え方だった印象です。『お裾分け』という言葉にも、幸せを皆で分かち合うことで全体がより幸せになるという精神が現れていますよね。 相手のことを思い遣る文化が長年根付いてきた日本では、ただ"物を渡せば良い"という発想を良しとしませんでした。"心を込めてお渡しする"ことが、時としては贈り物の内容以上に重要でした。その"心"を示す手段の1つがラッピングだったのです。 |
源氏物語『早蕨』(1130年頃)文献初出は紫式部により1008年 |
古くは平安時代より、進物を和紙で包む文化がありました。当時の和紙はかなりの高級品です。やがて、包む際の紙の折り方にも趣向が凝らされるようになっていきました。それが折形(おりがた)として確立されました。 |
折形の一例 "Yamaneorigata" ©折形礼法(3 October 2014, 14:57:59)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | 古文書に拠れば、折形の原型は鎌倉時代に誕生したそうです。 真心を込め、自らの手で和紙を折り目正しく折り包み、相手に贈り物として渡す、600年以上もの歴史を持つ礼法です。 |
室町幕府第3代将軍 足利義満(在職:1368-1395年) | 室町時代に三代将軍の足利義満が、武家独自の礼法として明確に制定しました。 天皇家を中心とした公家社会にも和紙を使う折形はありましたが、絹の布で包み絹の紐で結ぶ方法が中心でした。 一方で武力を誇る武家では、強靭で白い和紙で包み、和紙を撚った紙縒や水引で結ぶ独自の文化が考案され、発展していったのです。 足利義満が始めた日明貿易にて、日本では進物に紅白の紐が結ばれる文化ができたという説とも重なりますね。 |
多彩な色の絹を使ったのが公家文化、それとは対照的に自然な生成り色の強靭な和紙を使ったのが武家文化です。 書院造もそうですが、日本文化は公家ではなく武家社会で発展し主流になったものが多いため、独特の"研ぎ澄まされた美"が確立していったのです。 |
天皇 | 将軍 |
第102代天皇 後花園天皇(在位:1428-1464年) | 室町幕府第8代将軍 足利義政(在職:1449-1473年) |
戦後の教育を受けた日本人としては、天皇と将軍の2大権力が長い年月並行した存在できたことは不思議にも思えるのですが、他国のように富と権力が1点に集中し、ゴテゴテとした成金的な文化だけが醸成するのではなく、洗練された武家文化も並行して発展していった原因にもなっており、非常に興味深くも感じます。他国に日本美術のような美術が存在しないのは、この『数百年に渡る日本独自の権力構造』に類似するものが存在し得なかったからに他なりません。 |
1-4-2-3. 庶民にも広まった武家文化
『関ヶ原合戦屏風』(1620年代の狩野貞信の作品を1854年に複製) |
折形礼法は将軍家を中心に門外不出で、上級武家にのみ伝承されてきました。しかしながら戦国時代が終わり、平和な時代が訪れると武家は仕事を失いました。 |
寺子屋 | 一方で江戸や大阪を中心に町人文化が栄えると、仕事を失った武家が秘伝であった折形礼法なども含めて寺子屋などで教えるようになり、折形は庶民にも普及していきました。 |
折形の一例 "Yamaneorigata" ©折形礼法(3 October 2014, 14:57:59)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | 日本人の生来の器用さに加えて、折形礼法は見た目の面白さもあり、江戸時代には様々な派生が生まれたり、儀礼部分が削ぎ落とされて単純に遊びとして楽しむための『折り紙』も生まれています。 |
折り紙で遊ぶ子供たち(宮川春汀 1873-1914年) | 折り鶴 |
不器用だと正確に折るという行為はストレスの溜まる苦行にしかなりませんが、器用な日本人にはこれが楽しい遊戯になっちゃうんですよね。 |
粉包み用の折形も様々あり、端午の節句用にはいかにも武家文化らしい兜を模したものもあります。器用な日本人は「こんなの余裕♪」なので、季節に合わせるだけでなく、胡麻塩やきな粉、山椒や薬など様々な粉物をこうして包んでいたそうです。ハレの日に祝いの膳に添える、胡麻塩などの貴重な粉物。祝いの目的や格などに合わせて、胡麻塩包みだけでもたくさんのバリエーションがありました。 |
『文学ばんだいの宝』寺子屋の筆子と女性教師(江戸時代末期 1842-1845年頃) | 上級武家の教養が、江戸時代では寺子屋などによって男女問わず庶民にまで広く行き渡り、当たり前のように日常に根付いていたのが日本です。 文化レベルや教養という観点で見ると、 |
水引を結ぶ女 | 進物を送る際は、当然ながら水引も自ら心を込めて正しく結んでいました。 江戸時代には寺子屋で、明治以降は義務教育にて、礼儀作法の一環として日本人は必ず折形を学びました。 教科書には20〜30種類の折形が必須項目として掲載されていたそうです。 |
Genの明治生まれの祖母ウメ | Genの母は出産後に寛解していた結核が再発し、一度も我が子を抱くことなくGenが3歳の頃に旅立ちました。故にGenは主に祖父母に育てられました。だからGenはお婆ちゃん子です。 明治女で(おそらく19世紀末頃生まれ)、長いキセルでタバコを吸う、気風の良いカッコいいおばあちゃんだったそうです。 北海道で生まれ育ち、17、8歳で家を飛び出し、親戚を頼って出てきた米沢でおじいちゃんに見初められて結婚したそうで、若い頃は『なんとか娘(詳細不明)』に選ばれてブロマイド写真にもなったくらい評判の美人だったそうです。通った鼻筋など、キリッとした顔立ちは在りし日が想像できますね。 |
兎の鎧(Genの古写真より) | そんなおばあちゃんはGenの記憶によると、やはり水引は自分で作っていたそうです。 Genの家は骨董屋でした。米沢は上杉藩の城下町で、当時は上質な骨董品がたくさんあって、甲冑も相当な数を美術館に納めたりしていたそうです。 故にGen自身、鎧の修復のために組紐を編まされたりもしていました。 |
1-4-2-4. 戦後に衰退した日本の贈り物文化
戦前までは心を込めて自作の水引で進物を結ぶ、日本独特の贈り物の習慣はごく当たり前に日常に根付いていました。 しかしながら第二次世界大戦(昭和14-20年)で敗戦した結果、日本の教育はガラリと変えられました。学校で子供たちが折紙礼法を学ぶことも一切なくなったのです。その結果、教育を受けていない戦中・戦後以降に生まれた世代は自分自身で進物を包むことができなくなっていきました。 それを業務代行するようになったのが百貨店です。今よりお中元やお歳暮が活発だった数十年前だと、百貨店にも"包装の達人"と言える女性従業員が結構いましたよね。立派な字で名前も書いてくれます。 最初はやり方が分からない人のための便利な代行サービスでしたが、次第にこれが当たり前になっていくと、本来の意味が忘れ去られていきました。自らの真心を伝えるための手段だったものが、誰か分からない人がただ業務としてやるだけの単なる"儀式的な物"に成り下がってしまったのです。どんなに上手に包装されていても、そこに贈り手の真心を感じるのは困難です。 さらに儲けしか考えていない百貨店業界が、最悪なことをやりました。水引や熨斗は多少コストがかかります。それを止め、利益を増やそうと画策しました。しかし、"百貨店が儲けるために包装を簡素にしましょう"では顧客が納得しません。大義名分が必要です。 1991年に日本百貨店協会が『環境対策委員会』なるものを設置し、お中元やお歳暮の時期に「簡易包装推進」ポスターを全国の百貨店で掲示するようになりました。一定以上の年代の方であれば、90年代に百貨店が「過剰包装は止めよう。」、「環境のために簡易包装を。」と積極的に呼びかけていた記憶があるのではないでしょうか。 |
印刷の御中元の文字と水引等 "Ochugen 001" ©norio_nomura(28 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 2.0 | これによって水引や熨斗は、デザインのみが記号のように残されたただの印刷物と成り果てました。 日本人の"心"を全く理解していない日本人が提案し、百貨店業界で通った施策だと思うのですが、さすがにこれはやり過ぎでした。 中身が同じでも、これでは高級感が出ないどころか安っぽさしか感じられません。それなのにお値段は百貨店価格なので、次第に顧客は離れていきました。 |
義理で贈ってもしょうがない。 相手に喜んでもらうために心を込めて贈るものだった御中元や御歳暮でしたが、その真心を込めるという要素が完全に抜け落ちた結果、日本の贈り物文化自体が衰退しました。御中元や御歳暮市場はどんどん縮小していますが、これは百貨店が自分で自分の首を締めた結果です。百貨店が儲からないのは自業自得と言えますが、文化の継承者ヅラをしながら日本の優れた文化を破壊した罪は非常に重いと思います。 |
阪急百貨店の雑誌広告(1936年) | 「百貨店で売ってあるものは良いものだ。」 「百貨店の助言は全て正しい。」 日本の庶民の大半がそう信じていました。今でもそう信じている人は少なくありません。 高くても本当に良い物、ハイクラスの物を、確かな知識を元に適正価格で販売し、日本の庶民を文化的に導く道もありました。全幅の信頼を得ている百貨店ならばそれはできたはずなのです。 しかしながら戦後の百貨店はボロ儲け主義の極みで、時代が下るごとにそれは酷くなる一方です・・。 |
創業者時代 | 創業者の手を離れた現代 | |
チャールズ・ルイス・ティファニー(1812-1902年) | 懐中時計(ペンダントウォッチ) ティファニー 1880年〜1890年頃 SOLD |
【参考】18Kペンダント ティファニー 現代 2018.2時点で¥302,400- 【引用】TIFFANY & CO / Necklaces & Pendants |
百貨店も創業当時は高い志しがあったはずですが、今では創業者の精神は微塵も残っていません。でも、創業者らが全力で作り上げたブランドだけは恥ずかしげもなく利用します。宣伝内容と中身があまりにちぐはぐで違和感しか感じませんが、『百貨店』というブランド名だけを気にして、質の違いが分からない人があまりにも多いからこそ今でもなんとか存続しているのでしょう。それはジュエリーも同じことです。 |
1-4-2-5. 欧米で評価される水引
戦後の日本人は日本の文化を下に見る傾向があります。忘れ去られたような伝統文化も多々あります。しかしながら、欧米では未だに日本の伝統的な美術や文化は特別視されており、その1つがラッピングです。 特に水引は驚きをもって受け入れられており、英語でも日本の伝統的な飾りむ結び『Mizuhiki』で通じます。英語版wikipediaにも、Mizuhikiという項目がしっかりと存在します。 世界各地に組紐でデザインする文化はありますが、水引レベルまで洗練されたものは他には存在しません。日本の水引は海外でも特集サイトがあるくらい知られており、今でも評価が高く人気がありますが、古い時代、初めて水引を見た欧米人は他に類を見ない、その繊細なアートの美しさに驚いたに違いありません。 水引を使う日本のラッピングが超特殊なのは、解くことが前提にはなっていないことです。欧米のラッピングはリボンを解いて開封するのと対象的です。 |
水引(リボン結び、慶事等に用いられる) |
中国の紅白の飾り結びを元にして、日本で独自の発展を遂げた水引は様々な結び方が存在します。 水引には未開封であるという封印の意味や、魔除けの意味、人と人を結びつけるという意味合いがあり、引けば引くほど強く結ばれることが多いです。 初めて水引で封印された進物を送られた欧米人はその美しさの一方で、解けない紐に混乱したに違いありません。 そして、その意味を聞いて感動したはずなのです。 |
グランドツアーで日本を訪れた際のロシア皇太子ニコライ2世(1891年) 長崎にて人力車に乗車 |
グランドツアーとして1891年に日本を訪れたロシア皇太子ニコライ2世は、日本の進物をたくさん見た外国人の1人です。日本のけしからん人物(警備にあたっていた警察官:津田三蔵)に突然サーベルで斬撃され、ニコライ2世は右側頭部に9cm近くの傷を負いました。命に別状はなかったものの、戦争が勃発してもおかしくない出来事です。 |
Genからの必読図書『ニコライ二世の日記』保田孝一著(1990年発行) | この『ニコライ二世の日記』もGenから指定された、私の必読図書の一冊です。 大津事件の後、ニコライ2世は京都の常盤ホテル(京都ホテル)に戻りました。 |
大津事件翌日の日記には、 「誰か偉い人が謝ればいいや。」ではなく、当時の日本人は皆が自分事と考え、個人レベルで誠心誠意、謝罪の意を伝えてきたようです。 |
大津事件の犯人 津田三蔵(1855-1891年) | 外国だったら絶対にこんなこと有り得ないですが、今では日本人でも有り得ないことですね。 「やった奴の責任。」、「やった奴が死んでお詫びすれば良い。」、「自分は何もやっていないから責任なんて皆無。」。 今だと完全に他人事扱いになりそうな案件です。 戦前までと戦後では、ずいぶん日本人の考え方も違うようです。 |
明治天皇(1852-1912年)1888年、36歳頃 | 明治天皇陛下ご自身も直接ニコライ2世の見舞いに赴き、『犬追物』の綴織壁掛も贈っています。 ニコライ2世の父であるロシア皇帝アレクサンドル3世は、天皇陛下自らのご訪問を非常に高く評価したそうです。 |
『犬追物図屏風』(江戸時代)東京国立博物館 【引用】Tokyo National Museum Image Search / 犬追物図屏風/Adapted 東京国立博物館 研究情報アーカイブズ |
ちなみにニコライ2世は薩摩の仙巌園で、薩摩藩最後の当主である島津忠義が開催した犬追物を観ています。鎌倉時代に始まったとされる犬追物は騎射三物の1つで、技術の維持や開催に莫大な費用と手間がかかるため作法を保持するのは困難なことでしたが、薩摩藩には江戸時代の終わりまで残っていました。壮観だったでしょうね。 |
内国勧業博覧会の規模 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』内国勧業博覧会 2021年2月5日(金) 09:47 UTC |
内国勧業博覧会は明治時代に開催された、国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として政府主導で開催された博覧会です。全部で5回開催されており、上野で開催された第三回内国勧業博覧会は会期122日間で入場者数102万人、出品点数は16万7千点にも及ぶ大規模なものでした。ちなみに日本が工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟し、海外からの出品が可能となった1903年の第五回内国勧業博覧会は14ヵ国18地域が参加し、海外からだけでも3万1千点もの出品が集まるという予想以上の充実ぶりとなっています。 1900年のパリ万博(アールヌーヴォーの祭典)は37ヵ国、1902年のグラスゴー万国博覧会は14ヵ国の参加となっており、事実上小さな万国博覧会とみなしても差し支えないものであったようです。 |
『内国勧業博覧会 美術館之図』(歌川広重:3世 1877/明治10年)国立国会図書館 |
戦後の教育を受けた日本人は、戦前の日本を貧しいイメージで捉えがちです。実際、田舎はそのような貧しい場所もありましたが、都会は目覚ましい発展を遂げていました。実際は諸外国が脅威を抱いて全くおかしくないほど文化レベルが高く、しかも産業その他の発展スピードも著しかったのです。 この大規模な博覧会で『綴錦犬追物壁掛』は入賞し、明治天皇がお買い上げとなりました。才能を持つ職人集団が一世一代の魂を込めて作り上げた作品は、見る者の魂を揺さぶったに違いありません。芸術作品の真の価値を理解できる人ほどそうだったことでしょう。 |
『アゾフ号の記憶』(ファべルジェ商会 1891年)クレムリン武器庫博物館 "Memory pf Azov Egg" ©Stan Shebs(August 2003)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
『綴錦犬追物壁掛』を贈られたニコライ2世ならばロシア帝国の皇太子として、23歳の若さでも、高度な技術を持つ職人による優れたモノづくりの価値は十分に理解していたはずです。島津家に伝わる犬追物をよくご存知だった明治天皇はニコライ2世が強い関心を示していたことを忠義から聞き、この品を選んだようです。明治天皇の心遣い、そして『綴錦犬追物壁掛』の日本の国宝的な価値もニコライ2世は十分に理解したとみられ、その証拠に贈られたことをきっかけに川島織物をロシア皇室御用達にしています。 フランスのカルティエなんかは今だにイギリス国王エドワード7世の御用達になったことを絶賛PRしていますが、優れた工房は国籍関係なく御用達になるのは当たり前だった時代を感じます。優れた職人や工房ほど、その作品の価値をPRするものです。皇室御用達だからという理由だけで、一生懸命に作ったものを真の魅力も分からず買われるのはとても嫌なことです。現代のカルティエが100年以上も前に英国王室御用達になったことばかりを殊更に主張するのは自ら無能を示しているようで、ダサくてマヌケな話でしかありません(笑) |
『あつまけんしみたて五節句』(歌川国貞)【引用】国立国会図書館 |
大津事件後、ニコライ2世はロシアの軍艦アゾフ号に移動し、船内で療養しました。事件から5日後の日記には 翌日も日本人のプレゼント三昧は続きました。 |
日本人の贈り物で埋まったアゾフ号の甲板 【引用】『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 増補』(安田孝一 著 1990年)朝日選書、p55 |
これらの情報がロシアに伝わった結果、ロシアのギールス外相から日本側に次のように伝えられました。 「日本の天皇、政府、国民がこぞって皇太子の凶変を嘆き、皇太子に深く同情しているので、ロシア皇帝、皇后は十分に満足しており、本件について何ら補償も要求しない。」 "国民も"というのが凄いですね。 |
ロシア皇太子ニコライ2世(1868-1918年)1880年代 | さらにその翌日の5月18日はニコライ2世の23歳の誕生日でした。 またも大阪から山のように贈り物が届き、天皇皇后両陛下からの誕生日の祝いの品ものあったそうです。 明治天皇からは掛け軸が一幅、皇后からは黒塗藤蒔絵書棚一台、北白川宮と接伴委員からは花輪二個を祝賀として贈られました。 ニコライ2世本人はすぐに母国に帰りたいという思いもなく、日本での旅を続けたい意思もあったようですが、心配した両親に帰国を促され翌19日に日本を立つことになりました。 |
ニコライ2世のグランドツアーで使っていたロシア帝国のお召し艦アゾフ号 (1892年のリトグラフ) |
相変わらず贈り物は続いたようです。 大津事件はたまたまロシア側が許してくれたわけではなく、国民も自分事として政府に率先して協力し、競ってロシア皇太子を慰問したり見舞いの品を贈るなどしました。官公庁、貴族院、衆議院、府県市町村会、各商工組合、政治団体、公私立学校、その他官民、個人レベルでもそれぞれにできる誠心誠意の心を伝えたわけです。 最終日の日記の書き出しで、ニコライ2世は次のようにも書いています。 各地の日本人からの膨大な贈り物は、真心を込めて結ばれた美しい水引が個性豊かに彩っていたに違いありません。ただモノを渡すのではなく、心を伝えるためにそれぞれの手で結ばれる日本ならではの素晴らしい装飾。ファべルジェの小物やジュエリーをこよなく愛したニコライ2世であれば、日本人の真心は十分に伝わった事でしょう。 贈り物が形式化されておらず、心を文章ではなく『水引』という特殊な装飾で伝え合う文化が当たり前だった時代ならではの出来事だと感じます。心が伝わるだけでなく繊細な美意識と知性、そして器用さが伝わるのも水引の魅力ですね。初めて見たら驚き感動するに違いありませんし、一体どうなっているのだろうと知的好奇心が刺激されます。 |
祝儀袋(あわじ結び・熨斗あり) | 知的好奇心が高いことに加えて、器用さにも自信がある人ならば、自分でもやってみたくなる強い魅力が水引にはあります。 海外でも真似てトライする人は今でも結構いるようです。 水引が日本人のみならず知的好奇心が高い人の心を刺激するものであることは間違いないでしょう。 |
そして、この宝物もきっと水引を初めて見て感動した、当時トップクラスの才能を持ったジュエリー職人が創作意欲を刺激されて作ったものだと感じるのです。 |
1-5. 極めて立体的なゴールドの作り
1-5-1. ジュエリーだからこそ実現できる水引アート
ケルズの書の一部 | 中国結び | 水引 |
水引は複雑に結ぶ必要があるものではありません。一見単純そうに見えて、でもどうなっているのかその立体交差を思わず目で追ってしまう造形が特徴です。密に結ぶものでもなく、独特の空間を開けることで躍動感や目には見えない奥行きも感じます。 この特殊な造形を可能としているのが、紙縒を糊で固めるという特殊な素材使いで、ハリのない縄や紐ではうまくいかない原因です。 |
しかしながら叩いて鍛えた金属であれば、水引のような造形美を再現することが可能です。 強度が出ない鋳造だと、水引のように繊細さを感じるほどの細さで作ることは叶いません。 でも、アンティークの時代のトップクラスの腕を持つ職人であれば、鍛造のゴールドでジュエリーとして100年以上の使用に耐える強度を持ちながら、繊細な美しさを持つデザインで作り上げることができるのです。 |
水引をインスピレーションの元にしたデザインのポイントは、複雑すぎる立体交差はないものの、どうなっているのだろうと思わず目で追ってしまう不思議な感覚と、空間を使った透かしの美しさと、曲線を使った躍動感です。 そこに強く和を感じるようでは日本美術の二番煎じで、新しい芸術を創造したことにはなりません。 |
1-5-2. 特別なハイジュエリーらしい緻密に計算されたデザイン
そうして生み出されたのがこの造形でした。ブローチと違い、必ず身体の中心位置に来るペンダントとして納まりが良いよう、左右は対象のデザインになっています。しかしながら奥行に関しては立体交差や曲率を付けるなどして、非常に立体的に作ってあります。 |
1-5-2-1. 最大の魅せ場である水引の立体交差の表現
まず一番上から見ていくと、アクアマリンを囲んだ菱形のフレームはゴールドの弧の上に設置されています。この菱形のフレームは、上の2つの辺が単純な直線ではなく、内側に曲率を持ってデザインされています。この大きな菱形のすぐ下にデザインされた小さな菱形のフレームは、奥から出てきたラインが自然に交差しているように見えるよう、その部分だけ奥に向けて緩やかに曲げて造形されています。 |
全体のデザインからすると、一見しただけではメインではなくオマケのようにしか見えない部分ですが、水引の魅せ場と言える立体交差に相当する箇所なので、よく見ると職人の気合いの入り様が最も伝わってくる部分でもあります。よくこれだけ複雑難解な立体交差デザインをゴールドという硬さのある金属で実現できたなと、技術の高さに驚きます。 |
2次元で表現する画像では、実物と違って立体感がかなり感じにくくなります。 それでもこの宝物は僅かな角度の違いによってゴールドの輝きがダイナミックに変化するため、このように正面から見てもある程度立体感を感じていただけるのではないでしょうか。 実物はもっと凄いです♪♪ |
1-5-2-2. 日本美術のような冴を感じる緩やかな『弧』
この類を見ない特徴的なデザインのペンダントを見たときに、一際印象に残るのが上方のアクアマリンが乗った緩やかで大きな黄金の『弧』です。 日本人が見てもこの"大きく緩やかな弧"に特別さを感じることはないかもしれませんが、実は日本以外の美術様式では見ることのないデザインです。 |
この弧を見て皆様は何をイメージされるでしょうか。私は三日月、もっと具体的には伊達政宗の兜の前立としてデザインされた三日月です。 |
伊達政宗公の300回忌の記念事業で制作された騎馬像(小室達(初代)作 1935年)1940年撮影 | 仙台藩の始祖にして伊達氏の第17代当主だった伊達政宗(1567-1636年)は、明治天皇が 「武将の道を修め、学問にも通じ、外国の諸事情にも思いを馳せて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗のことである。」 と評したとされるほど、多種多様の教養と才能に溢れた人物でした。 |
1944年の金属供出から逃れた部分で胸像化された伊達政宗騎馬像 (小室達(初代)作 1935年)仙台城三の丸 |
『伊達男』の由来になったとも言われるほど男性から見てもカッコよくオシャレということで、とにかく昔から人気の高い武将です。今でも人気ですよね。 |
【重要文化財】黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用(桃山 16世紀)仙台市博物館 【引用】平成28年度 文化庁「日本遺産」認定 政宗が育んだ"伊達"な文化 / 1 黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用 ©「" 伊達"な文化」魅力発信推進事業実行委員会 /Adapted. | 伊達政宗自身の美意識が反映された、重厚かつ華麗な所用の具足は"伊達"文化を代表する美しいものとされています。 黒漆の鎧に、金色に輝く兜『宗久』の細い三日月形の前立が見事で、400年以上経った今でも私たちを魅了する普遍の美しさを放っています。 お月様の形は毎日変化します。 少なくとも平安時代から日本人は月を愛でる文化があり、それぞれの形に名称がありました。 なかなか出てこないので座って待つ月、寝て待つ月などあります。 「わがつまを まつともいとわぬ 夏の夜の 寝待ちの月も ややかたぶきぬ」 |
古代ギリシャの月の女神セレネ(古代ローマ 4世紀)カピトリーノ美術館 "Diana-selene, da originale ellenistico, da porta s. sebastiano 02" ©Sailko(27 November 2013, 19:02:08)/Adapted/CC BY 3.0 | 古代ギリシャの月の女神セレネ(古代ローマ 3世紀初期)ディオクレティアヌス浴場 |
月を特別視するのは人類共通なので、様々な文化圏の芸術作品に月のモチーフを見ることができます。 これは古代ギリシャの月の女神セレネで、伊達政宗の兜と同位置かつ同じ向きで三日月が掲げられていますが、本物の月では有り得ないくらい角度を付けてデフォルメされています。 正直にコメントすると、ツノみたいでヘンです(笑) |
トルコの国旗 | 日本以外の文化圏だと、三日月はデフォルメして曲率を強調したデザインにする傾向が強いです。 |
三日月のアンティークジュエリー | ||
クレセント ブローチ イギリス 1870-1880年頃 SOLD |
クレセント ブローチ イギリス 1870-1880年頃 SOLD |
クレセント ブローチ フランス 19世紀後期 SOLD |
それはこうしてジュエリーにも現れています。 |
このペンダントが従来の西洋美術の様式だけでデザインされたならば、ゴールドの弧はもっと分かりやすく角度を付けてデザインされたはずです。 |
西洋スタイル | 日本スタイル |
月の女神セレネ(古代ローマ 3世紀初期) | 黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用(桃山 16世紀) 【引用】平成28年度 文化庁「日本遺産」認定 政宗が育んだ"伊達"な文化 / 1 黒漆五枚胴具足 伊達政宗所用 ©「" 伊達"な文化」魅力発信推進事業実行委員会 /Adapted. |
西洋美術は万人に褒められたいという意識が強く、だからこそ万人に理解しやすくかつ注目されやすいよう、強調したデザインになる傾向にあります。 一方で日本美術、特に武士が由来のものはその真逆で、自分の中に満足を求める意識があります。神経を研ぎ澄まし、感性を鋭敏に保たねば気づかないような僅かな違いに"美"を感じるのが日本美術です。自分が満足できなければそれは全く意味のないもので、他人から褒められることは副次的なオマケに過ぎません。この研ぎ澄まされた精神性に基づく美しさこそが、何人たりとも侵すことのできない孤高の美として、あらゆる意味で別格の領域に存在し得るのです。 |
緩やかで大きな弧には、そのような日本美術が持つ孤高の美に共通する美しさがあります。この画像では右端が強く光り輝いていますが、これはこの弧が奥行き方向に対しても角度を付けて、曲面で造形されているからです。 |
ペンダント上部、組紐デザインの部分はアクアマリンが一番手前に位置するよう造形されています。平面的に見えがちな二次元の画像であっても、かなり曲率を付けて造形されていることが感じていただけるのではないでしょうか。 |
相当高度な技術がなければこのような造形でジュエリーを作ることは不可能ですが、それ以上に驚くのがそのデザイン力です。平面でのデザインは誰でもできるものですが、優れた立体デザインは明晰な頭脳とセンスがないとできないことです。それができる天才によって緻密に計算されたデザインだからこそ、黄金の組紐がこれだけ印象的に光り輝くことができるのです。 |
細い線であるにも関わらず、美しく光り輝き確かな存在感を放つ、目を離せない存在。 まさに日本美術の真髄を、西洋スタイルのジュエリーで実現した驚くべき傑作です。 |
2. 抜群のセンスを感じる天然真珠の生かし方
2-1. 3粒の天然真珠の配置
この宝物のメインの宝石はアクアマリンですが、脇役の天然真珠の使い方が絶妙です。 身に着けたとき、3粒の天然真珠が正三角形を描くような位置にセットしてあります。 |
ゴールドのみならず、天然真珠までこのような形でデザインの要素として取り入れるのは、かなり異例のことです。普通は主役のオマケとして、主役を惹き立てるための脇役として使うことしかありませんが、これは明らかに1つの独立したデザインの要素として使われています。この3粒の天然真珠によって、オシャレなジュエリーとしてより広がりと深みのあるデザインとなっています。 |
2-2. 天然真珠を丸ごと使った珍しい作り
ナイフエッジとチェーンにセットされた小さな天然真珠は、いずれも丸ごと使ってある珍しい作りです。 |
アクアマリン&天然真珠 ネックレス イギリス 1890年頃 SOLD |
これは珍しい、ハーフパールと丸ごとの天然真珠、両方を使ったネックレスです。 これをご覧いただくと、丸ごとの天然真珠を使う場合の理由がお分かりいただけると思います。 高さが出るため、ハーフパールを使うより天然真珠に存在感が出ます。 より印象的に見せるために、デザインの計算によって丸ごとの天然真珠が選択されるのです。 |
これはゴールドではなく、プラチナにゴールドバックの作りですが、これも小さな天然真珠は丸ごと使ってあります。 高さがあることで正面から見たときにも、上質なアクアマリンに負けない名脇役としての存在感を放っていることを感じていただけると思います。 |
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アクアマリン&天然真珠 ペンダント イギリス 1910年頃 SOLD |
複数の天然真珠でこのようなセッティングをする場合、天然真珠の色や照り艶などの質感を揃えることに加えて、正面から見たときの大きさや高さ、形まで全て揃える必要があります。 削って調整したり、同じ真珠から2つ取ることで色や質感を揃えやすいハーフパールと比べると、宝石を用意するハードルが格段にアップします。 手に入れること自体が極めて困難な天然真珠に於いて、これは現代人が想像するより遥かに大変なことです。 |
だからハイジュエリーであっても、よほど理由がなければ複数の小さな天然真珠を丸ごと使うということは有り得ません。 このネックレスは理想とするデザインのために一切の妥協を許さず、相当なお金と情熱をかけて作られたことは間違いないのです。 |
2-3. 天然真珠の存在感を強めるための作り
2-3-1. ナイフエッジ上にセット
まず、ペンダントに下がったナイフエッジの中央に天然真珠がセットしてあります。 |
これはゴールドで台座を作って、丁寧に留めてあります。 |
←↑等倍 |
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小さな天然真珠の形に合わせて浅いお椀型の台を作り、それをナイフエッジに鑞付けしてセットしています。 かなり高度な技術と手間を要する作業であり、45年間で他には1点しか見たことがありません。 |
そのお陰で、どうなっているのか思わず考えてしまう不思議さと、美しい天然真珠がより印象に残る視覚効果が発揮されているのです。 これはトップクラスの職人でなければできない高度な技術で、お金も手間も相当かかったはずです。 |
でも、この宝物の作者や持ち主は、その僅かな違いに大きな価値を見出せる鋭敏な感覚と美意識の高さがあったからこそ、この宝物がこうして存在するわけです♪ |
2-3-2. チェーン上にセット
2粒の小さな天然真珠も、もう1粒と同様に浅いお椀型のフレームに留めてチェーンにセッティングしてあることに妥協を一切許さぬこだわりが感じ取れます。 |
『Shining White』 ダイヤモンド ネックレス イギリス or オーストリア 1910年頃 SOLD |
今回の宝物 アクアマリン&天然真珠 ネックレス イギリス 1900-1910年頃 |
『Shining White』のようにペンダントの両脇に天然真珠をセットしてもハイジュエリーとして十分に成立しますが、わざわざこのような特殊で手間のかかることをやったのは、どうしても天然真珠で正三角形を作りたかったからだと思います。大半の人はそこまでやらなくてもと思うでしょうけれど、稀代のオシャレセンスを持つ人というのはこういうものなのです。腕の良い職人ならば腕に縒り掛けて喜んでやったでしょうし、それにオーダーした人物はそれに見合うお金を気前よく支払ったでしょう。 |
『天空のオルゴールメリー』 アールデコ 天然真珠&サファイア ネックレス イギリス 1920年頃 ¥1,230,000-(税込10%) |
小さな天然真珠を丸ごと使ってチェーンにセットする場合、穴を開けて金属のワイヤーを通して留める方法もあります。 |
これもかなり高度な技術と手間を必要とするコストのかかる方法ですが、チェーンと一体化した美しいジュエリーに仕上がります。 これはプラチナですが、ゴールドでもできます。 |
しかしながらなぜ技術は存在しても、このようにわざわざお椀型のフレームに留めてセッティングしたのかと言えば、きちんと理由があります。 天然真珠にチェーンよりも高さを出して、目立たせるためです。 |
天然真珠をチェーンと一体化するようにセットすると、ナイフエッジにセットした天然真珠と比べて存在感が薄くなり、全体としてのバランスが崩れます。 理論はそういうことですが、具現化した技術の高さとこだわりようにはやはり驚かされます。 |
でも、だからこそ色彩が派手だったり、巨大で目立つ宝石を使っていないにも関わらず、これだけ印象的な美しさを放つのです。 これこそ、思わず目を留めてしまう『気品』となるのです。 |
3. 色彩の美しいアクアマリン
3-1. 小さくてもはっきりと色を感じる上質な石
この宝物のアクアマリンは小さくても美しい水色の色彩を持っています。 現代では大きさだけで価値を判断する人が驚くほど多いですが、ジュエリーで最も大切なのは「美しい。」と感覚的に感じられるか否かです。 |
英国王室御用達 D&J.WELLBY L.TD社 アクアマリン ネックレス&イヤリング イギリス 1920年頃 SOLD |
宝石は大きければ大きいほど良いというわけではなく、最も美しく見える大きさがありますし、どのようなカットを施すかも重要です。 大きくて美しいアクアマリンと言えば、過去にはこのデミ・パリュールがありました。 |
華やかなデミ・パリュールに使用されたアクアマリンは大きくても優しい水色で、気品に満ちた清らかな雰囲気を湛えていました。 このデミ・パリュールのアクアマリンはこの大きさが適切であって、もし今回のペンダントのような小さなサイズにカットしたら、色彩が殆ど感じられなくなることは目に見ています。 |
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←↑等倍 |
逆に言えば、この大きさでこれだけ美しい水色の色彩を感じることができる、とても上質な石がこの宝物には使われているということです。 |
上質なアクアマリンに相応しく、覆輪に打たれた精緻なミルグレインも1つ1つが丁寧に磨き上げられ、見事な黄金の輝きを放ちます。 |
【参考】同時代の安物のアクアマリン&天然真珠のゴールドペンダント | |||
宝石は大きいと稀少価値が上がるため、庶民のための安物ジュエリーには質が悪い上に小さい石が使われるものです。そういうものはデザインも使い回しで、どこかで見たようなつまらないものが多い上に、作りも手作りとは言え、技術の低い職人がプライドを持てずやる気なく作った粗末なものです。 そういうものでも、一般のアンティークジュエリー店では"ヨーロッパの上流階級が使っていた高級ジュエリー"として売られることが常ですし、一般市場で買い付けできるのはせいぜいこの程度でしょう。私もアンティークジュエリーに興味があるとは言え、安物は扱っても全く楽しくありません。 |
Genの仕入れルートを守る役目が天(?)から与えられなければ、修士号まで取って入った大企業のサラリーマンを辞めてこの仕事を始めることは100%ありませんでした。 さすが、Genの特殊な買付けルートだからこそ、このような特別なアンティークジュエリーが仕入れられるのだと改めて思います。 |
3-2. 非加熱の石ならではの心地よい水色
このアクアマリンは裏側まで、非常に綺麗なカットが施してあります。 |
アクアマリンという宝石は煌めきの美しさが特徴の1つでもあります。 美しい色彩に加えて、丁寧なカットが施されているため、アクアマリン本来の魅力を存分に楽しむことができます。 |
アクアマリンの原石 "Aquamarine P1000141" ©Gunnar Ries Amphibol(08. 12. 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
アクアマリンは内包物を多く含む石です。それに加えて、通常の天然のままのアクアマリンは淡い色しか呈しませんし、黄ばみがある場合も多いです。別にこのまま使えば良いと私なんかは思うのですが、工業製品のようなジュエリーを見慣れ、それが当たり前を思うようになった一般的な現代人には無処理の石はできそこないの安物のように感じてしまうようです。 |
【参考】非加熱のアクアマリンのラフカットされた石 |
現代の宝石は当たり前のように様々な人工処理が施されます。アクアマリンの場合は加熱処理することで石から黄ばみを取り除きつつ、青色を濃くすることが可能と分かり、現代では当たり前のように処理が行われています。 「加熱処理して当然」という状況なので、アクアマリンの鑑別書には"無処理"か否かは記されないルールです。"鑑別書"なんてものは、基本的には業界が売りやすくするために作られた、ただの販売促進のための道具に過ぎません。消費者を守るためというのは表向き言っているだけの、ただの大義名分です。真面目に運用すれば消費者を守るための道具にもなるでしょうけれど、現状では欺くための道具と成り果てています・・。 |
↑等倍 | ||
【参考】ティファニー ソレスト アクアマリン リング ¥1,078,000-(2019.12現在) →¥1,353,000-(2024.6現在) 【引用】TIFFANY & CO / ティファニー ソレスト リング |
【参考】ティファニー ソレスト アクアマリン ダイヤモンド ペンダント ¥1,001,000-(2019.12現在) →¥1,474,000-(2024.6現在) 【引用】TIFFANY & CO / ティファニー ソレスト アクアマリン ダイヤモンド ペンダント |
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このような状況なので、ほぼ100%のアクアマリンが加熱処理されていると業界人はみているようですが、誰もその実態は把握できていないそうです。ジュエリー市場は加熱処理によって黄ばみを除去し、青みを強くしたアクアマリンばかりです。人工処理された宝石はいずれも個性が失われ、不自然で違和感を感じるものとなります。 |
今回の宝物 | 【参考】非加熱のアクアマリン |
この宝物のアクアマリンは、天然であるにも関わらず非常に鮮やかな美しい水色の色彩を持っており、アクアマリンの中でも特に上質な石を選んで作られたことがお分かりいただけるのではないでしょうか。 |
違和感なく、心からごく自然に美しいと感じられる、天然のままの美しい宝石。 アンティークのハイジュエリーは宝石に作りにデザインに、たくさんの魅力に溢れています♪ |
裏側
裏側も、裏側に見えないほど完璧で美しい作りです。 |
軽やかなデザインなので、仰々しくならず清楚な雰囲気でお使いいただけます。 スタイリッシュな透かしが特徴のデザインなので、洋服の上に着けてもコーディネートが楽しみやすいです。むしろその方が透かしのデザインが際立つのでオシャレに見えると思います。 ぜひ、次の持ち主になってくださる方は、様々なコーディネートでお楽しみください♪ |
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