No.00285 草花のメロディ

モダンスタイルのバイオリンのような非加熱サファイヤのネックレス

 

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー
実物大
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ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

『草花のメロディ』
サファイア&天然真珠 ネックレス

イギリス 1900年頃
サファイア、天然真珠、15ctゴールド
4,2cm×1cm
重量3,5g
チェーン43cm(オリジナル)
SOLD

アールヌーヴォーが世界を席巻した時代において、それよりも遥かに時代を先取りしたグラスゴー派によるモダンスタイルの傑作です。

直線や幾何学、それに曲線を絶妙に組み合わせた造形は、バイオリンやビオラ、チェロやコントラバスのような弦楽器を連想させます。絡みつく植物のようなデザインも相まって、まるで草花の美しいメロディが聞こえるかのようです。

凛とした北国の可憐な花を思わせる、深青のサファイアと純白の天然真珠の組み合わせはアンティークジュエリーでは非常に珍しいものです。

デザインだけでなく、上質な宝石と全体的に作りの非常に優れたハイジュエリーながら、小ぶりで現代の日本人が使いやすい雰囲気なのも素晴らしいです♪

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

 

この宝物のポイント

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

1. 草花が奏でる音楽が聞こえて来そうな優れたデザイン
 1-1. アーツ&クラフツ運動と植物モチーフ
 1-2. イギリスの先進的なモダンスタイル
 1-3. バイオリンのような美しい立体造形

2. 天然真珠とサファイアの珍しい組み合わせ
 2-1. 一般的なサファイア・ジュエリー
 2-2. 一般的な天然真珠のジュエリー
 2-3. 純白と深青の印象的な色合わせ

3. 王侯貴族の日常用のジュエリー
 3-1. 上質な宝石
 3-2. 黄金の"輝きのデザイン"
 3-3. 耐久性への配慮
 3-4. 優れた立体デザイン

 

1. 草花が奏でる音楽が聞こえて来そうな優れたデザイン

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー
凛とした雰囲気を放つ、植物モチーフの流れるように美しいデザインのネックレスです。いかにも自然を愛するイギリスの貴族の宝物らしさ感じます。

1-1. アーツ&クラフツ運動と植物モチーフ

アーツ&クラフツを提唱した「モダンデザインの父」ウィリアム・モリス"モダンデザインの父" ウィリアム・モリス(1834-1896年)

美しい植物のデザインと言えば、誰よりも先にウィリアム・モリスが思いつきます。

1880年頃から始まったデザイン運動(美術工芸運動)、アーツ&クラフツ運動を提唱した人物です。

産業革命

世界に先駆けて産業革命を成し遂げたイギリスは、19世紀半ばには誰が作っても同じと言える、機械による大量生産の品々がごく当たり前になっていました。

万人に行き渡らせることが可能な安い価格、その一方で味気なく粗く適当な作り。

工場に従事してモノづくりに取り組む者はただのオペレーターと成り果て、高度な技術を持つ職人が作る、魂や真心のこもった手仕事の工芸品は次々に失われていきました。

モリス商会の壁紙を職人が手作業で印刷する様子(メロトン・アビー 1890年) モリスのアプローチは2種類に大別できます。

1つが中世の手仕事に帰り、中世のギルドの精神を実現させて高度な技術を持つ職人による芸術性が高いモノづくりを、生活に身近な製品でも復活させることです。

ウィリアム・モリスによる壁紙デザイン『トレリス』壁紙デザイン『トレリス』(ウィリアム・モリス 1862年)

もう1つが美しい芸術的なデザインを施すことです。

人々を感動させる美しいデザインの具現化は、丁寧な手仕事以外では不可能です。

だからモリスはデザインにも熱心に取り組んだのですが、その思想を真に理解できる人は少数派だったせいか、現代ではただの『デザイン運動』と認識している人も少なくないのが至極残念です。

それはさておき、デザインに関しては工業化に対する自然界として、本来私たちの身近にあったはずのもの、"自然界"をモチーフが積極的に用いられたのです。

ウィリアム・モリスの苺泥棒の壁紙壁紙デザイン『苺泥棒』(ウィリアム・モリス 1883年)

生活の全てを芸術性の高い手仕事の工芸品で満たすことを目指したモリスがデザインしたのは壁紙、ステンドグラス、本の装飾、建築物まで様々なものがあります。

そしてそれらは当時だけでなく後世の様々な世界の芸術家や建築家たちに影響を及ぼしました。

今では『モダンデザインの父』と言われるほど、モリスの影響は大きなものでした。

『アーサー王と騎士ランスロット』ウィリアム・モリスによるステンドグラスステンドグラス『アーサー王と騎士ランスロット』(モリスのデザイン 1862年) モリスによる美しい装飾の書籍モリスによる本の装飾
ウィリアム・モリスの私邸『レッドハウス』(完成 1860年)
"Philip Webb's Red House in Upton" ©Ethan Doyle White(15 May 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0
壁紙デザイン『苺泥棒』(ウィリアム・モリス 1883年)

生活の全てを芸術性の高い手仕事の工芸品で満たすことを目指したモリスがデザインしたのは壁紙、ステンドグラス、本の装飾、建築物まで様々なものがあります。

そしてそれらは当時だけでなく後世の様々な世界の芸術家や建築家たちに影響を及ぼしました。

今では『モダンデザインの父』と言われるほど、モリスの影響は大きなものでした。

アーツ&クラフツのダイヤモンド・フラワー・ブローチ アンティークジュエリー『フラワー・ステッキ』
ダイヤモンド フラワー ブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD

このため、同時代のハイジュエリーにもアーツ&クラフツ運動の影響を見ることができます。

植物は普遍のモチーフなので、様々な時代のジュエリーに見られますが、通常はデフォルメされた姿で表現されます。

アーツ&クラフツでは、"ありのままの自然を理想化"して表現するのが特徴です。

忘れな草がモチーフの18世紀のギロッシュ・エナメルとダイヤモンドのペンダント『忘れな草』
ブルー・ギロッシュエナメル ペンダント
フランス? 18世紀後期
¥1,400,000-(税込10%)
アーツ&クラフツのブルーギロッシュエナメル・ダイヤモンド・ブローチ『可憐な花』
ブルーギロッシュエナメル ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD

同じお花のモチーフでも、『可憐な花』は他の時代とは全く毛色が違います。咲いたお花だけが主役で茎や葉は脇役というのが通常ですが、アーツ&クラフツの影響下では茎や葉も含めて"植物としてのありのままの全体の姿"が主役というデザインです。

アーツ&クラフツのダイヤモンド・フラワー・ブローチ アンティークジュエリー

自然そのものをただ模写するのではなく、茎や葉に曲線を付け、優雅で躍動感ある表現をしたのが画期的ですね。

これが後にアールヌーヴォーに繋がっていきます。

1-2. イギリスの先進的なモダンスタイル

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

1900年頃のイギリスで作られたこの植物モチーフの宝物は、アーツ&クラフツよりももっと進化したデザインになっています。

同時代はイギリス以外の国で世界的に流行したアールヌーヴォーが有名です。

アールヌーヴォーと言えば曲線や植物モチーフですが、この宝物はアールヌーヴォーではありません。

『モダンスタイル』のジュエリーです。

アールヌーヴォーの定義がいまいち曖昧なのと、日本語で調べるときちんと分かっていない人が書いた情報が多くて、イギリスのアールヌーヴォーがモダンスタイルと言われたりもしていますが、きちんと美術史で流れを理解すると全くそうではないことが分かります。

1-2-1. アールヌーヴォーとは

アールヌーヴォーの各種スタイル
ジャポニズム 生き物系モチーフ 女性モチーフ
ジャポニズム アール・ヌーヴォー プリカジュール・エナメル ペンダント アンティークジュエリー『静寂の葉』
プリカジュールエナメル ペンダント
オーストリア又はフランス 1890〜1900年頃
SOLD
アールヌーヴォーのグリフィンのブローチ&ペンダントグリフィン ブローチ&ペンダント
フランス 1890〜1900年頃
SOLD
アール・ヌーヴォーのサファイアリングのシルバーによるプロトタイププロトタイプ・シルバーリング
フランス 1890〜1900年頃
SOLD
アールヌーヴォーには複数のカテゴリーがあります。ジャポニズムも大きな要素の1つです。その他、グリフィンなどの架空の生物を含めて動物や鳥類、昆虫などの生き物をモチーフにしたものがあります。全身や顔だけの女性のモチーフも有名ですね。
アールヌーヴォーのフラワー・ゴールド・ペンダントアールヌーヴォー ゴールド ペンダント
フランス 1890年頃
SOLD

その中でも最もアールヌーヴォーのイメージとして知られているのが、植物と優美な曲線による表現です。

イギリスで発生したアーツ&クラフツの影響を受けて生まれたものです。

なぜアールヌーヴォーがイギリスでは流行しなかったのかと言えば、フランスが嫌いだとか後進国として下に見ていたわけではなく、アーツ&クラフツ運動によって植物と曲線による表現は既に流行した後だったため、フランス系のアールヌーヴォーはイギリス人にとっては目新しさがない、流行遅れのデザインに感じられたからです。

ルビー&シードパールのイギリス・アールヌーヴォーのブローチ『生命の躍動』
ルビー&シードパール ブローチ
イギリス 1900年頃
SOLD

そうは言っても、イギリスで作られたアールヌーヴォーのジュエリーが完全にないかと言うとそうでもありません。

例外的ですが、これまでにもいくつかお取り扱いはしています。

ただフランスの一般的なアールヌーヴォーと明らかに違うのは、例外的な存在故に明らかに特別オーダーで作られており、明らかに高価な宝石が使用されていたり作りが良いなど、特別な一点物らしい特徴があります。

ベルエポック ポスター ワイン 女性 フランス ジュール・シェレベルエポックの精神を表現したポスター(ジュール・シェレ 1894年)

アールヌーヴォーが大流行した時代、共和政フランスで消費を牽引したのは中産階級の若い女性たちでした

エネルギー溢れるフランスの若い女性たちは、お金はあまり持っておらず、優れたものを見抜く教養や経験も持っていませんが、消費意欲は旺盛です。

教養も美的センス、さらに莫大な財力も保有するイギリス貴族を相手にジュエリーのビジネスをする場合、技術や手間をかけてごく少数の特別優れたものを作り、それに見合う価格を出してもらえば成立します。

イギリス王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844-1925年)1884年、40歳頃
【参考】安物のアールヌーヴォー・ジュエリー

しかしながら中産階級の若い女性を相手にする場合、大量生産して薄利多売しなければ商売としては成り立ちません。だから大流行したフランスのアールーヴォーは安物の量産品が大量に存在するのです。シルバーやそれ以下の安い素材であったり、鋳造で作った作りの悪い当時の量産品は数も多く作られたため、現代でも市場に溢れています。"おフランス製"や"アールヌーヴォー"というだけで喜ぶ、品質を見る目も知識もない人たちには今でも一定の人気があるようです。

安物は型を使って大量生産するのですが、あまりにもたくさんの数を作るので次第に型がヘタっていきます。

それにより、ヌルんとした気持ちの良くない印象のノッペリしたものがたくさん出回る結果となっています。

デザインを変えずに同じものを量産するにしても、ある程度型がヘタったら新しい型を作り直すべきなのですが、安物で満足できる層は"気にしない女子"が多すぎたせいか、平気でこういうものが高級品ヅラ(笑)して出回ったようです。

それが現代の同じく"キニナラナイ女子"たちの手元に収まっているようです。

ゴールドでできていたり、ちょっとダイヤモンドが付いているだけで高級品と思い込むようです。

【参考】安物のアールヌーヴォー・ジュエリー

この"気にしない女子"は何も一般の女性だけに当てはまるものではなく、低レベルのアンティークジュエリー・ディーラーも同様だったりします。

私もサラリーマン時代に一般客としてそういうディーラーと会話したことがありますし、お客様からも聞くことがあります。

有りえない変な修理をされたのでクレームを出したところ、「アタシは気にならないけどー!」と言われたそうで・・。

ろくなものを売っていない店はろくな修理もしません。でも、潰れて淘汰されないのは不思議です。

業界全体の印象が悪くなるので変な商売の仕方は辞めて欲しいと常々Genが言ってましたが、胡散臭い人が多いのも骨董業界ですからね。それも含めて骨董の魅力でしょうか(笑)

【参考】安物のアールヌーヴォー・ジュエリー
イギリスのアールヌーヴォーのシードパール・ネックレスアールヌーヴォー シードパール ネックレス
イギリス 1900年頃
SOLD
イギリスのアールヌーヴォーのダイヤモンドブローチ『ベルエポックの華』
イギリス 1900-1910年頃
SOLD

さて、イギリスのアールヌーヴォー・ジュエリーを見ると、どれも植物モチーフと共に曲線で表現されてデザインになっています。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー ルビー&シードパール ブローチ アンティーク・ジュエリー

しかし1900年頃という同じ頃に作られた植物モチーフのジュエリーながら、今回の宝物は円と直線も組み合わせた、もっと先の時代のアールデコのようなスタイリッシュさも感じるデザインになっています。

アールヌーヴォー作品とは異なる雰囲気があるのは、この幾何学や直線の要素が存在するからです。

1-2-2. アールデコにつながるモダンスタイル

アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ『摩天楼』
アールデコ ロッククリスタル&ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1930年頃
SOLD

サラリーマン時代は特にヨーロッパ美術自体に興味を持っていなかったため、アールヌーヴォーとアールデコは「曲線と直線の違い?」くらいの認識しかありませんでした。

一方で、中途半端に知識がある芸術好きはヌーヴォーとデコを同列に語ったり、ヌーヴォーからデコに繋がっていくと思い込んでいる人も少なくないようです。

そういう人は勉強熱心な場合も多く、感性で判断するのではなく情報を鵜呑みにし、その知識を元にしか判断できない頭でっかちになっている場合も多い印象があります。

アールヌーヴォー アールデコ
アールヌーヴォーのフラワー・ゴールド・ペンダントアールヌーヴォー ゴールド ペンダント
フランス 1890〜1900年頃
SOLD
アールデコのエメラルドカット・ダイヤモンドのブローチアールデコ ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1920年頃
SOLD

しかしながら芸術文化に関しては己の感覚のみで判断する私にとって、いきなりヌーヴォーからデコに移行するというのは違和感があります。クラシックな雰囲気を持つニョロニョロの曲線だけで表現していたものが、スーパースタイリッシュな先進的デザインにつながる理由が見えてきません。この違和感は、美術史をきちんと理解すると納得できるようなります。まずはヌーヴォーとデコの正体を正しく理解してみましょう。

1-2-2-1. アールヌーヴォーの正体
建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

日本人にとってアールヌーヴォーとアールデコは名前が似ていることも、誤解が生じる理由の1つだと思います。

しかしアール(Art)はフランス語で『芸術』という意味の言葉に過ぎません。ヌーヴォーは『新しい』という意味です。

アールヌーヴォーは『新しい芸術』で、建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの作品を形容するために、1894年にベルギーの雑誌L'Art moderne(現代美術)が使ったのが語源です。

アールヌーヴォーとジャポニズムに貢献したパリの美術商サミュエル・ビング美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) サミュエル・ビングのパリのアール・ヌーヴォーの店「Maison de l'Art Nouveau」の入口ビングの『アールヌーヴォーの店』

ヴェルデが内装を手がけた、パリの美術商サミュエル・ビングの店が『アールヌーヴォーの店(Maison de l'Art Nouveau)』と名付けられ、当時の芸術文化の発信地となりました。

元々は日本美術ディーラーとして成功したビングですが、アールヌーヴォーの店では日本美術に加えて同時代の作家の工芸品も広く扱うようになり繁盛しました。

世紀末のベルエポックのフランスで開催された1900年のパリ万国博覧会第5回パリ万国博覧会(1900年)

1900年のパリ万博では装飾美術のジャンルで『アールヌーヴォー・ビング館』というパビリオンを出展し、一躍注目を集めたことで店名であった『アールヌーヴォー』がこの万博を象徴する表現となったのです。この一大センセーションを利用して一儲けしようと思ったたくさんの商業家たちによってこの流れは拡大し、ビングの想像を遥かに超えるものとなりました。

アールヌーヴォーとジャポニズムに貢献したパリの美術商サミュエル・ビング美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) 建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

【参考】はびこる粗製濫造の装飾品

美術商ビングも建築家ヴェルデも元々はきちんとモノづくりされた真正の美術工芸品を良しとし、それが認められてアールヌーヴォーという流れに発展したはずですが、作品は意図せず粗悪品の大流行に飲み込まれてしまいました。それらはビングとヴェルデによって「はびこる粗製濫造の装飾品」と告発されましたが、ヨーロッパにおいてアールヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことにもなりました。

フランスの蝋型の鋳造によるアールヌーヴォーのプリカジュール・エナメルの傑作ペンダントBiranger社 アールヌーボー プリカジュールエナメル ペンダント
フランス 1890〜1910年頃
SOLD
【参考】粗製濫造の安物

アールヌーヴォーも初期には間違いなく優れた作品が作られていました。

しかしながらやがては、はびこる粗造濫造の粗悪品がアールヌーヴォーとなった結果、最終的には誰も見向きもしないものとなってしまったのです。

だからヌーヴォーが進化してデコになるということは有りえません。

また、粗悪品のイメージが記憶に強く残っているからこそ、特に昔は欧米では未だ評価が低かったのです。

しかしながら昔は"おフランス製"というだけで大喜びする無知なブランド好き成金日本人が一定数存在したため、それに目をつけた日本人ディーラーが国内で結構売り捌いたようです。

欧米では見向きもされないダサい安物を、おフランスのアールヌーヴォーの高級ジュエリーですよとPRしてボロ儲けです。

目利きができるレジェンドGenは、プライドにかけてこういうものは扱っていないのですが、広く委託販売を受けていた際は他のお店で購入したというこのような安物も結構持ち込みがありました。

ヘリテイジの取り扱い基準は他の店とは全く違っており、ご相談いただいても扱いようがないので、ルネサンスやヘリテイジでお取り扱いした宝物以外は委託を受けないことにしたのです。

【参考】粗製濫造の安物

「アンティークジュエリー業界は腐ってる!」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、この手法はアンティークジュエリーだけにとどまりません。

養殖真珠も実はそうです。

天然真珠を駆逐した養殖真珠ですが、ココ・シャネルがコスチュームジュエリーを提案したことで模造真珠のアクセサリーが大流行しました。

ココ・シャネル(1883-1971年)

偽物(模造真珠)を使うことに後ろめたさを感じる意識が取り払われたのは、非常に大きなことでした。

また、当時の人々はまだ天然真珠の存在を知っており、真珠自体にヨーロッパの王侯貴族が使っていた憧れの最高級の宝石というイメージもありました。

イギリス王妃アレクサンドラと娘ヴィクトリア王女イギリス王妃アレクサンドラと娘ヴィクトリア王女(1900年代初頭) 激しくダンスするアールデコのフラッパー模造真珠のロングネックレスを着けてダンスするフラッパー(1920年代)

大流行した結果、飽きられて最後は見向きもされなくなってしまいました。しかも真珠にはすっかり安っぽいイメージが付いてしまいました。せっかく作った養殖真珠は模造真珠に駆逐され、さらには真珠自体が流行遅れとなってしまった結果、ヨーロッパで全く売れなくなってしまったのです。

戦後、ヨーロッパで売れないならば高度経済成長によって購買力が増し始めた国内で売れば良いやと思ったのが養殖業界でした。

日本人が憧れる皇室を利用してプロモーションを行い、冠婚葬祭には真珠を身につけなければならないという新しい慣習を作り出し、国内で積極的に販売するようになりました。ヨーロッパでは見向きもされない養殖真珠を日本人に売ってボロ儲けです。

ろくに考えもせずありがたがる国内消費者はバカにされているらしく、見る目のない日本人購買層に合わせて時代が下るごとにどんどん真珠層は薄くなり、ほぼ"貝殻の核"という状況になっていきました。ヨーロッパでは見向きもされないものを、さも高級品のように謳い日本人に売ってボロ儲けするのは日本人自身です。

「誰も教えてくれなかったから。」と言い訳するのも日本人消費者です。お店の人など業界の人に聞いたり、雑誌などで必要な情報が得られると思い込むのも日本人です。

正しいことを正直に言うと、自分たちの商品が売れなくなってしまいます。儲かりさえすれば良いとしか思っていない人たちが、自分の首を締める行動をするわけがありません。ただの店員クラスだと消費者に少し毛が生えた程度の浅い知識しかなく、良いものと思い込まされた状況で悪気なく勧めている方が多いでしょうけれどね。

このような感じで、養殖真珠もアールヌーヴォーも日本ではまだまだ正しく認識されていないのが現状です。

アールヌーヴォーは一度飽きられて完璧に終わった流行です。

また、日本美術を含めた様々な美術品を扱うビングの店が元となっており、さらにビングの手を超えて自発的に拡大していったため、アールヌーヴォーには特定の明確な様式や作風がないのです。

【参考】粗製濫造の安物
1-2-2-2. アールデコの起こり
モンタナサファイアを使ったアールデコの天然真珠&ダイヤモンドのラグジュアリーなネックレス『天空のオルゴールメリー』
アールデコ 天然真珠&サファイア ネックレス
イギリス 1920年頃
¥1,230,000-(税込10%)

アールヌーヴォーからはつながらないとしたら、スタイリッシュで直線的な印象があるアールデコはどのように発生したのでしょうか。

現代装飾美術・産業美術国際博覧会の会場風景(1925年)

アールデコという名称は、1925年に開催された現代装飾美術・産業美術国際博覧会(Exposition Internationale des Arts Décoratifs et Industriels modernes)にちなんで付けられました。『Arts Décoratifs』と言う部分を略してアールデコです。デコラティフが装飾と言う意味で、アールデコは『装飾芸術』になります。

アールデコ博覧会の会期中に行われたシトロエン提供のエッフェル塔のイルミネーション(1925年)

アールヌーヴォーもアールデコもアールという響きが共通するので、日本人には共通点のある類似の美術様式と誤認しがちです。

しかしながら実際のところはどちらも当時新しく生み出された最先端の美術様式であり、それぞれに『新しい芸術』と『装飾芸術』という名称が付けられたに過ぎません。

そして、アールデコはアールデコ博とも呼ばれる現代装飾美術・産業美術国際博覧会に出展された服飾品や建築に見られる、当時の精巧で官能的な装飾芸術やデザインを表す名称です。

アールデコ博会場のメインストリート(1925年)
アールデコ博はパリで開催されました。20世紀初頭のフランスでは、近隣諸国でドイツ工作連盟や連盟を母体とする教育機関バウハウスに代表されるようなデザイン教育の組織化や、工業の大量生産化に応じたデザインの開発が進行する一方でフランスの産業デザインが取り残されていることに対し危機感が高まっていました。そこでフランス製品の独自性や優位性を内外に示すために、装飾芸術の国際博覧会を行うべきだという主張が起こり、開催に至りました。
ネオ・ゴシック様式のウールワース・ビルディング(ニューヨーク 1913年頃) 代表的なインターナショナル建築シーグラム・ビルディング(バウハウスの第3代校長ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエの設計 1954年)

時代の最先端の流行や文化を知るには、当時の最先端の建築物を見るのが有効です。ジュエリーが20世紀初頭からアールデコにかけて、クラシックなデザインからモダンな印象のデザインに変わったのと同様に、高層建築のデザインもクラシックなスタイルから現代に通じるモダンなデザインへと変化しています。

第1回ドイツ工作連盟ケルン展のポスター(1914年)

その立役者とも言えるのが、1907年に産業育成を目指してドイツで結成されたドイツ工作連盟でした。

製造メーカーとデザイナー・設計家が協力することで、グローバル市場でのドイツ企業の競争力を向上させ、ドイツという国全体で大英帝国やアメリカ合衆国に対抗する力を付けることを目的としていました。

バウハウスのデッサウ校のカフェテリア(1925年頃)

伝統的なモノづくりを大量生産に移行させることが一番重要で、芸術的な動きというよりは産業的な動きと言えるものでした。

大量生産と優れたデザインが両立する、所謂"産業デザイン"のジャンルです。

バウハウスのエンブレム

ドイツでは少し前から大公によって積極的に芸術文化振興のための活動が進められており、1902年には『工芸ゼミナール』が設立され、1908年には『大公立美術工芸学校』に発展しました。

第一次世界大戦後の1919年には、工芸学校と美術学校が合併して『国立バウハウス・ヴァイマル』が設立されました。

所謂『バウハウス』です。

代表的なモダニズム建築バウハウスのデッサウ校(1925年頃)

1933年にナチスによって閉校されてしまうため、活動期間は僅か14年間と短いものでしたが、当時、他には類を見ない先進的な活動は『モダニズム建築』や『20世紀美術』として現代美術に大きな影響を与えました。

【世界遺産】ファグスの靴型工場(初代校長グロピウスらの設計 1911年)
"Fagus Gropius Hauptgebaeude 200705 wiki front" ©Carsten Janssen(27 September 2007)/Adapted/CC BY-SA 2.0 de

バウハウスの初代校長グロピウスが1911年に設計した、ガラス・カーテンウォールのファグスの靴型工場は初期のインターナショナル・スタイルの建築物として世界遺産にも登録されています。

バウハウスのデザインのタイプライター(シャンティ・シャウィンスキー 1936年) "Olivetti-schawinsky-bauhaus-typewriter" ©ChristosV und/oder Christos Vittoratos(11 August 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ドイツ工作連盟やバウハウスなど、この時代のドイツの産業デザイン活動に関わった芸術家達による作品は現代にも通用する普遍の魅力を放っています。

デッサウのフェストザールの舞台(1925-1932年頃)
当然ながら当時は非常に画期的なデザインであり、国際的にもドイツの産業デザインは高い評価を得ていました。
ケルン展のグラス・パビリオン(ブルーノ・タウト設計 1914年) 建築中の様子
グラス・パビリオンの内装(ブルーノ・タウト設計 1914年)

第一次世界大戦直前に開催された第1回ドイツ工作連盟ケルン展も、ブルーノ・タウトによるグラス・パビリオンなどが高い評価を得ており、産業デザインに関しては、この時代に最先端を走っていたのはドイツと言える状況でした。

フランスが焦るのも無理はないですね。

パビリオンが立ち並ぶアールデコ博の会場風景(1925年)
"Postcard of Exposition des Art Decoratifs et Industriels Modernes" ©SiefkinDR(19 September 2016, 13:09:11)/Adapted/CC BY-SA 4.0
まともに戦えば負けてしまい、ドイツの引き立て役になってしまいかねないデザイン後進国フランスは、ドイツを出展させないために手を打つことにしました。招待をせず、通知が届いた時期には既に準備が間に合わないタイミングとなるように謀ったのです。建前上は第一次世界大戦での敗戦国だからとは言っていますが、オーストリアは出展していますし、ロシア革命によって新しく誕生したソビエトもフランス政府としては認めていないにも関わらず招待しています。
バルセロナ万国博覧会(1929年)
まあでもその判断は間違っていなかったと言えるでしょう。1929年にスペインでバルセロナ万国博覧会が開催され、ここにはドイツ館が出展されました。
第3代校長ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)1912年頃 【引用】wikimedia commons / Adapted

そのドイツ館として建設されたのが、バウハウス第3代校長ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエの設計によるバルセロナ・パビリオンでした。

バルセロナ・パピリオン(第2代校長ローエの設計 1929年を復元)
"The Barcelona Pavilion, Barcelona, 2010" ©Ashley Pomeroy at English Wikipedia(20 October 2010, 18:42)/Adapted/CC BY 3.0

バルセロナ・パビリオンはモダニズム建築の傑作として知られ、今も建築史に燦然と輝く素晴らしい作品です。

バルセロナ・パピリオンの内装(第2代校長ローエの設計 1929年を復元)
"Van der Rohe Pavillion overview" ©MartinD(1 August 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

内装含めてトータルデザインされており、奥に見える『バルセロナ・チェア』もモダンデザインの傑作としてとても有名です。

バルセロナ・チェアバルセロナ・チェア(バウハウスの第3代校長ローエのデザイン 1929年) "Ngv design, ludwig mies van der rohe & co, barcelona Chair" ©sailko(12 March 2009, 00:21:03)/Adapted/CC BY-SA 3.0

普遍のデザインであるバルセロナ・チェアは現代でも製作・販売されており、お持ちの方もいらっしゃると思います。

アールデコ博と聞いても特に代表的な作品は見当たらないのですが、「バルセロナ万博と言えばこれ!」というほど、ローエによるバルセロナ・パビリオンは有名です。

これを出展されたらフランスのアールデコ博は完全にドイツのイメージで終わっていたでしょうから、フランスの采配は正解だったのです。

ちなみに当時世界一の大国になりつつあったアメリカも参加を辞退し、フランスはアールデコ博で無事に存在感を示すことが できました。ヨカッタ、ヨカッタ(笑)

1-2-2-3. セセッション派
クーブス・チェア(ヨーゼフ・ホフマンのデザイン 1910年)
"Josef Hoffmann - Kubus Fauteuil(1910)" ©Sandstein(19:57, 5 December 2010)/Adapted/CC BY 3.0

ちなみに私はバルセロナ・チェアではなく、オーストリア・ウィーンのセセッション派、ヨーゼフ・ホフマンが1910年にデザインした立方体型のクーブスチェアをアレンジしたソファを持っています。

オフホワイトで、この画像のソファよりももっとワイドな3人掛けです。社会人2年目の時に、広かったつくばの1LDKのリビングに合わせて購入しました。その後、異動で何度も引っ越したのですが、かなり狭かった秋葉原の部屋でも無理やり使っていました。

当時、昔の有名デザイナーの設計とは知らなかったのですが、デザインが気に入って買いました。今は小元太Jr.に噛られてボロボロですが、アールデコにつながるまでの流れとしてはこのセセッション派についても把握しておく必要があります。

今こうしてつながってくるとは、いやはや。(笑)

『接吻』(クリムト黄金時代の代表作 1907-08年)

オーストリアでは19世紀末に史上稀に見る文化の爛熟を迎えました。

『世紀末ウィーン』と呼ばれ、ヨーゼフ・ホフマンやグスタフ・クリムトなどの芸術家が有名です。

この世紀末ウィーンの到来には、もちろん理由があります。

オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年)

フランス革命とその後のナポレオンによる周辺諸国への侵略戦争によって、19世紀初期はフランスを中心にヨーロッパは国境線もグチャグチャな状況になってしまいました。

その状況を収束させるべく1815年にウィーン体制が敷かれますが、1848年には崩壊して『諸国民の春』と言われる革命の嵐が各国で吹き荒れるなど、オースオリアも治安の良くない不安な状況にありました。

そこで新皇帝として位に就いたのが弱冠18歳のフランツ・ヨーゼフ1世でした。

城壁に囲まれたウィーン市街

1853年の皇帝襲撃事件をきっかけに、先史時代から存在しウィーン市街を取り囲んで街を守ってきた城壁を取り払い、綿密な都市計画に基づく大規模な再開発が行われました。

セセッション館(分離派会館)(1897-1898年)
"Secession Vienna June 2006 005" ©Gryffindor(June 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

それによってウィーンは新しい街へと見事に生まれ変わり、芸術文化が醸成し、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンは『世紀末ウィーン』と称されるほどの状態を迎えたのです。

その中で特に有名なのがセセッション派(ウィーン分離派)です。

『分離派』と言うだけあって、分離した派閥です。

グスタフ・クリムト セセッション ウィーン分離派グスタフ・クリムト(1862-1918年)52歳頃

当時ウィーンにはクンストラーハウスという芸術家団体が存在しましたが、その保守性に不満を持つ若手芸術家らがクリムトを中心とし、1897年に分離派を結成したのです。

絵画だけでなく、彫刻、工芸、建築など様々な分野の芸術家が参加しました。

ただこれは長くは続きませんでした。

総合芸術、つまり工芸品までも含めた芸術を目指す一派と、純粋芸術を目指す保守派とで商業主義を巡る対立が起き、総合芸術を目指すクリムトやホフマンらが脱退してしまったからです。

1-2-2-4. 産業デザインの起こり
ウィリアム・モリスウィリアム・モリス(1834-1896年)

モダンデザインの父と言われるウィリアム・モリスは様々な芸術家たちに後世まで影響を与えており、その影響の大きさは計り知れません。

セセッション派にも当然ながら影響を与えています。

モリスは生活のあらゆる場所に芸術を行き渡らそうとしたため、純粋美術を追うのではなく、日常で使う工芸品もたくさんデザインしました。

建築物、壁紙、ファブリック、ステンドグラス、本の装丁など、純粋芸術とは異なる様々なものをデザインしています。

クリムトやホフマンも工芸品まで含めた総合芸術、つまりトータル・デザインを目指したというわけですね。

産業革命による工場での大量生産産業革命

モリスがなぜ工芸品にまで芸術を行き渡らそうとしたかと言えば、産業革命によって魂のない機械による大量生産品で溢れたことに危機感を抱いたからでした。

ただ、機械による大量生産という流れは止められるものではありません。

産業革命によって中産階級がより豊かになっていくことで激増する需要に対応するためにも、機械生産は必須と言えたのです。

コーヒー沸かし機(ラッセル・ライトのデザイン 1935年)ブルックリン美術館 【引用】『Wikimedia Commons』Russel Wright. Coffee Urn, ca. 1935 /Adapted

大量生産とデザインの両立。

こうして産業革命に伴い、産業デザインが必要となったわけです。

産業革命がいち早く起こったからこそ、ウィリアム・モリスのような人物が世界に先駆けてイギリスに現れたのも自然な流れと言えるでしょう。

 

テキスタイルを印刷するための木型(モリス商会)

残念ながらモリスの取り組みは失敗に終わりました。

あまりにも手がかかるものを作っていたためコストが嵩み、それによって価格も庶民では手が届かない程の高額となってしまったからです。

19世紀までの装飾過多とも言えるオーソドックスなデザインだと、手間や技術を省いてコストカットするにも限界があるのです。

そういうわけで、19世紀後期にかけてモダニズムの概念が生まれ、大きくなっていきました。

それまでの装飾過多なデザインは時代遅れとされ、より洗練されたモダンデザインへと進化していくことになりました。

1-2-2-4. イギリスのモダンスタイル
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928年)

この流れの中で、モダニズム運動の先駆者として世界で知られていたのがイギリスのチャールズ・レニー・マッキントッシュでした。

グラスゴー美術学校(マッキントッシュのデザイン 1895年、完成は1899年)
'Glasgow Scool of Art' JBU 002" ©Jörg Bittner Unna(20 July 2009, 12:30:40)/Adapted/CC BY 3.0

マッキントッシュは在学中に多くの学校賞を受賞し、グラスゴーやロンドン、ウィーンの各地で展覧会を開いて名声を確立させるなど、早熟の天才でした。27歳の若さで母校グラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペにも優勝するほどで、その才能は多岐に渡ります。コンペが開催されたのは1895年ですが、ヴィクトリアンの作品とは思えないほど未来的ななデザインですよね。

ヨーロッパにおける初期モダニズム建築
グラスゴー美術学校(1896-1899年)チャールズ・レニー・マッキントッシュ設計
"Schoolofart1" ©Twid(16 October 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0
フランクリン街のアパート(1903年)オーギュスト・ペレ設計 "Paris 16(25437741212)" ©Guihem Vellut from Paris, France(6 March 2016, 09:25)/Adapted/CC BY 2.0 ウィーン郵便貯金局(1904-1906年)オットー・ワーグナー設計
"Vienna - PSK Otto Wagner's Postparkasse - 5977" ©Jorge Royan / http://www.royan.com.ar(2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0
AEGタービン工場(1909年)ペーター・ベーレンス設計
"Berlin AEG Turbinenfabril" ©Doris Antony(5 February 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0
ウィーンのシュタイナー・ハウス(1910年)アドルフ・ロース設計 パリの階段式コンクリート・マンション(1912-1914年)アンリ・ソヴァージュ設計 "01Sauvage2rueVavin" ©O.Taris(September 2013)/Adapted/CC BY-SA 3.0 ファグスの靴工場(1911-1913年)ヴァルター・グロピウス&アドルフ・マイヤー設計 "Fagus-Werke-01" ©Trabeler100(20 August 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 グラス・パビリオン(1914年)ブルーノ・タウト設計

このグラスゴー美術学校は初期モダニズム建築とされています。ヨーロッパの初期モダニズム建築をいくつか年代順に並べてみました。恣意的にならぬようWikipediaのモダニズム建築のページを参考にし、設計者が重複する場合はより古い方の作品を並べています。これを見ると、マッキントッシュの作品がダントツで一番古いことが分かります。

世界遺産登録されているファグスの靴工場と比べても古いです。マッキントッシュは他の才能ある建築家と比べて、数年以上も時代を先取りしていた天才的なデザイナーだったというわけです。

マッキントッシュ家のダイニングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.

マッキントッシュの才能は建築にとどまらず、デザイナーや画家としても様々な作品を遺しています。建築物に加えて内装までの、トータルデザインもお手の物です。個人宅の他、当時イギリスで流行していたアート・ティールームなどの商業施設も様々なコンセプトに合わせてトータルデザインしています。

ヒルハウス(マッキントッシュの設計 1902-1904年)
"HillHouse" ©Jeremy Atherton(2002)/Adapted/CC BY-SA 2.5
ヒルハウス・ラダーバック・チェア(マッキントッシュのデザイン 1902年)" National Museum of Ethnology, Osaka - Chair "Ladder-back chair" - Glasgow in United Kingdom - Made by Charles Rennie Mackintosh in 2006 (originally 1903) " ©Yanajin33(22 December 2013, 13:41:19)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ヒルハウスで使うためにデザインされたラダーバック・チェアは今見ても先進的な普遍のデザインです。イギリスのアールヌーヴォーが『モダンスタイル』とカテゴライズする自称専門家も存在しますが、どう考えてもニョロニョロの曲線だけで構成するのが特徴であるアールヌーヴォーにカテゴライズするは無理があります。アールヌーヴォーはクラシックさを持つデザインですが、モダンスタイルは遥かに先進的なのです。

ウィロー・チェア(マッキントッシュのデザイン 1904年) "Chair from Inception" ©Shannon Hobbs from New York, Noew York, USA(15 August 2011, 13:28)/Adapted/CC BY-SA 2.0

歴史的背景を正しく理解すると、世界に先駆けて産業革命を成し遂げ、世界に先駆けてアーツ&クラフツ運動が起こったイギリスの方が、どの他の国よりもデザイン的には先に進むことができたことは納得できるのです。

自称専門家は現代のフランスのイメージに固執し、ろくに知識も得ず、フランスがいつの時代もデザインの最先端だという『確証バイアス』がある状態で話を帰結しようとするからおかしなことになるのです。

雑誌のポスター(チャールズ・レニー・マッキントッシュ 1896年)
【引用】MoMA ©Acquired by exchange from the University of Grasgow / The Museum of Modern Art

ただ、このイギリスの天才はあまりにも天才だった故に、時代を先取りし過ぎていました。

マッキントッシュのこの新しいスタイルの評判は当時散々なもので、特に1896年のアーツ&クラフツ展では主催者から「奇妙な装飾の病」と批評家から非難され、以後の出品が禁止されてしまったそうです。

ウィロー・ティールームズ(マッキントッシュ設計 1903年頃) "The Willow Tearooms" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

これだけ優れていた建築の才能も当時は評価されず、建築の仕事がなくなってしまったため後年は水彩画家に転向したそうです・・。

グラスゴー美術学校のポスター(四人組 1885年)

しかしながら1893年創刊の美術工芸誌『STUDIO』だけはグラスゴー派を評価し、その活動を大きく取り上げました。

凡人に天才を理解したり、天才たちのそれぞれの違いを想像することは不可能ですが、天才であればそれも可能です。

当時も新しく出てきたマッキントッシュらの才能を評価できる、一定以上の才能を持つ人たちが僅かながらも存在したと言うわけですね。

左はグラスゴー派の中心となる芸術家集団『4人組』による作品です。1885年のものですが、かなり先進的なデザインです。

あまりにも天才すぎたり、時代を先取りし過ぎたりしていると、普通の人に理解してもらえないというのはあることですね。

THE STUDIO(イギリス 1893年)

でも、万人の理解は無理でも、"傑出した天才"を理解できる天才が一部にはいるものです。

1896年に散々な評価を批評家から受けたマッキントッシュらグラスゴー派の作品ですが、国際的に影響力の高いイギリスの美術工芸誌『THE STUDIO』だけは高い関心を示しました。

当時の雑誌関係者に理解できる人がいたというわけですね。

この雑誌はセセッション派などのモダンアートを切り拓いた芸術家たちが熟読しており、当時の芸術界でマッキントッシュは広く知られるようになりました。

ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956年)32歳頃

マッキントッシュの存在を知ったセセッション派は、工芸を中心としたセセッションの展覧会に招待しました。

そこでマッキントッシュらの作品は一大センセーションを巻き起こし、その名を轟かせました。

「ヨーロッパにおいて最も著名な建築家」と評する者もいたそうです。

特にモダニズムで現代でも評価の高いヨーゼフ・ホフマンは大きな称賛を送ったとされており、モダンスタイルはホフマンを始め、芸術家たちのその後の制作活動にも大きな影響を与えたとされています。

1-2-2-5. 世界に影響を与えたモダンスタイル
プルカースドルフのサナトリウムの内装(ウィーン工房 1904年)
"Purkersdorf Sanatorium Eingangshalle 3" ©Thomas Ledl(23 September 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 AT

これはマッキントッシュらを招待したセセッション展の後、1904年にウィーン工房を率いるヨーゼフ・ホフマンによってトータル・デザインされたルスカースドルフのサナトリウムです。ウィーン工房は職人集団ですが、ギルド方式にしたのはモリスのアーツ&クラフツ運動の影響です。トータルデザインにはもってこいですね。幾何学的で直線を多く用いた洗練されたデザインはアールデコよりも20年時代を先取りしていると高く評価されています。

プルカースドルフのサナトリウムの内装(ウィーン工房 1904年)
"Purkersdorf Sanatorium Gallerie 1" ©Thomas Ledl(23 September 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 AT

実際のところ、マッキントッシュによるモダンスタイルの影響が強く感じられます。家具や内装などのトータルデザインのみならず、絵画のジャンルにも影響は及びます。

マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ(1864-1933年)

この女性はマッキントッシュの妻、マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュです。

グラスゴー美術学校でデザインを学んでおり、そこでマッキントッシュと出逢い1900年に結婚しています。

このマッキントッシュ夫妻とマーガレットの妹夫妻の4人で、『4人組』と言う名前で活動していました。

建築物の内装や装飾品のなどでは夫と共同で仕事しており、マッキントッシュの作品はこのマーガレットとの共同作品とも言えます。

実はこのマーガレットがかなり才能ある人物だったようです。

現代では夫の影に追いやられて目立たぬ存在となっていますが、当時は多くの仲間たちから称賛されており、マッキントッシュが妻に向けた手紙の中に、「マーガレットには天才がある。私には才能しかない。(Margaret has genius, I have only talent.)」と書いたと伝えられています。意味深いですね。

『日本のマンサク』(マッキントッシュ夫妻が出版した植物画集 1915年)

マーガレットはスケッチブックを持ち歩くことがなかったそうです。

写実ではなく、自身の想像力で作品を描いていたのです。

それでこれを描けるのは凄いですね。

『アネモネ』(マッキントッシュ夫妻が出版した植物画集 1915年)

でも、茎と葉が重なった部分の表現方法などは、やはり想像で描いているからこそのようにも感じます。

1915年に出版されたこの植物画集はマッキントッシュ夫妻の共同制作で、下のフレームにある文字の中にそれぞれのイニシャルが記載されています。

CRM: Charles Rennie Mackintosh

MMM: Margaret MacDonald Macintosh

マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュの「冬」『冬』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1898年)

植物画集からも分かる通り写実的に忠実に表現することもできたようですが、天才マーガレットは想像力が素晴らしく、様々な幅広い実験的な作品を遺しています。

伝統的なテーマやシンボルを独創的に再解釈しています。

また、『時間』や『季節』などの幅広い抽象概念を高度に様式化された人間の形で表現したりしています。

グラスゴー派のマッキントッシュの「The Wassail」『The Wassail』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1900年)
マーガレットの作品の多くは落ち着いた自然な色調、細長い人間の身体、幾何学的なモチーフと自然のモチーフの相互作用で表現されています。マーガレット自身の想像力で再構築し、デザインされるからこそ他の芸術家達と区別できる明らかな独創性があるのです。この作品は1900年11月のセセッションに出展されています。
クリムトの「ソニア・クニップスの肖像」ソニア・クニップスの肖像(グスタフ・クリムト 1898年) クリムトの「ピアノを弾くシューベルト」ピアノを弾くシューベルト(グスタフ・クリムト 1899年)

これはその直前のクリムトの絵です。クリムトと言えば独特の印象的な表現方法が有名なので、こんな風に写実的にも描けるのかとちょっと意外ですが、崩す表現を正確に行うには基礎的な能力が備わっていてこそです。納得と言えば納得ですね。

クリムトの「ベートーベン・フリーズ」ベートーベン・フリーズ(グスタフ・クリムト 1901-1902年)

そしてセセッション展の直後に描かれたのがこの『ベートーベン・フリーズ』です。マッキントッシュの影響を受けている可能性があると言われていますが、間違いなく絶対に受けていますよね。

クリムトの「ベートーベン・フリーズ」ベートーベン・フリーズ(グスタフ・クリムト 1901-1902年)

芸術家が何らかのインスピレーションを受けて新しい創作を行うことは普通です。また古の優れた作品や、同時代の優れた芸術家の作品から学び、自身の創作活動に生かすことも1つの効果的な手法としてヨーロッパではずっと昔から行われてきました。『ベートーベン・フリーズ』も単なる模倣などではなく、クリムトという天才的な芸術家の才能によって新たに生み出された優れた芸術作品と言えるでしょう。

『The Wassail』 5月の女王(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1900年)
"The May Queen" de Margaret Macdonald (Glasgow)(3803689322)" ©Jean-Pierre Dalbera from Paris, France(1900)/Adapted/CC BY 2.0
セセッション展で非常に高い評価を得たマッキントッシュ夫妻らは、その後各地の展示会に招聘されています。
1902年のモスクワのニュー・スタイル展のマッキントッシュ夫妻の出展作品モスクワのニュー・スタイル展の出展作品(マッキントッシュ夫妻 1902年)

ブダペスト、ミュンヘン、ドレスデン、ベネチア、モスクワなど多くの国を回っています。

優れた芸術家ほど非常に勉強熱心です。

やる気に満ち溢れた各国の第一級の芸術家たちが、世紀末ウィーンの有名な芸術家たちに高い評価を得たマッキントッシュの作品を見に行ったことは想像に難くありません

ロシアン・アヴァンギャルド リング アンティークロシアン・アヴァンギャルド リング
ロシア 1910年頃
SOLD

1902年にロシアにも行っていることから、ロシアン・アヴァンギャルドにも影響を与えた可能性があります。

ロシアン・アヴァンギャルドは19世紀末以来、とりわけ1910年代から1930年代初頭までのロシア帝国・ソビエト連邦における芸術運動をさします。

1918年にロシア革命を挟んでいますが、帝政か社会主義政治なのかは関係がなかったということですね。

ロシアン・アヴァンギャルド リング アンティークジュエリー サファイア 帝政ロシアロシアン・アヴァンギャルド リング
ロシア 1910年頃
SOLD

これまでにもロシアン・アヴァンギャルドのジュエリーはいくつか扱っているのですが、他のヨーロッパのジュエリーにはない傑出した魅力があります。

先進的なデザインとロシアらしさが融合した、不思議な強い魅力があるのです。

百合もしくはマドンナ・リリーの花束のエッグ(ファベルジェ 1899年) "Bouquet of lilies clock 01 by shakko" ©shakko(2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

20世紀前後のロシアと言うとファベルジェを思い浮かべる方も多いと思います。

ファベルジェ工房は従業員500名、ロシア最大の宝石商として1882年から1917年までの間に15万から20万もの作品を制作しています。

もちろんそれだけの数全てがジュエリーというわけではなく、どちらかと言えば小物がメインの会社です。

イースター・エッグが有名で、1885年にロシア皇帝アレクサンドル3世からロシア皇室特別御用達に指名されており、作風としてはオーソドックスで格調高い、いかにも貴族階級らしいモチーフや雰囲気が多いです。

ブローチ(ファベルジェ工房 19世紀後期) 【引用】『Faberge: Lost and Found』(A Kenneth Snowman著 1990年)Thames and Hudson Ltd, London ©Electa, Milan、p60

リボンや月桂樹はいかにもガーランドスタイルを連想させる貴族らしいモチーフですね。

ロシアのジュエリーのリーディング・カンパニーは、このようなオーソドックスな貴族スタイルの作風だったのです。

ファベルジェ Iceシリーズ ペンダント
ファベルジェ商会 1913年
ロッククリスタル(水晶)、ローズカット・ダイヤモンド、プラチナ
【引用】『Faberge: Lost and Found』(A Kenneth Snowman著 1990年)Thames and Hudson Ltd, London ©Electa, Milan、p134

それが1913年頃にはこのような作品だ生み出されるまでに進化しているのです。

ロシアン・アヴァンギャルド リング アンティークジュエリー 帝政ロシア エナメルロシアン・アヴァンギャルド リング
ロシア 1910年頃
SOLD

ただし皇室御用達だった故に保守生も必要だったためか、ロシアン・アヴァンギャルドの優れたジュエリーはファベルジェ工房以外のものが多いイメージです。

新進気鋭のノリに乗ったロシアの芸術家達が、新しいロシアの芸術としてモダンなスタイルを取り入れた作品を生み出し、進化させていったのかもしれませんね。

ロシアン・アヴァンギャルド 第三インターナショナル記念塔の模型 タトリン設計『第三インターナショナル記念塔の模型』(タトリンの設計 1919年)

 

その流れはジュエリー業界のみならず、建築や調度品などでも同じだったでしょう。

だからこそ1917年にロシア革命が起こり、1918年にファベルジェ工房がボリシェビキによって国有化され、株が没収されて消滅した後の時代にもロシアン・アヴァンギャルドはさらに進化をしていったのです。

社会主義国に於いては、ジュエリーは特権階級の贅沢品として自由に制作活動ができなくなってしまい、より進化することができなかったのは残念です。

建築物については実現はしませんでしたが、タトリンが設計した第三インターナショナル記念塔は、鉄とガラスを使ったロシアン・アヴァンギャルドの象徴的作品として有名です。

ロシアン・アヴァンギャルド モスクワのラジオ塔 シューホフ『モスクワのラジオ塔』(ウラジーミル・シューホフ設計 1922年) "Shukhov tower shabolovka moscow 02" ©Lite(10:16, 18 Npvember 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ラジオ塔も面白いですよね。

『対称性アート』アレキサンダー・レドチェンコによるチェステーブル・デザイン(1925年)
" Alexandr rodchenko, scacchi da dopolavoro, progettaz. 1925, ricostruito nel 2007, 01 " ©Sailko(12 March 2016, 12:17:466)/Adapted/CC BY-3.0
この年代まで来るとアールデコらしさも強くなります。とは言え、色使いや随所に見られる幾何学的な面白さが、やっぱりロシアン・アヴァンギャルドらしいキラリと光るセンスも感じさせますね。これらの先進的なデザインはドイツ工作連盟やバウハウスの影響も大いにあるはずですが、でもやはりその大元にはマッキントッシュらのモダンスタイルの影響がありそうです。
第1回ドイツ工作連盟ケルン展のポスター(1914年)

1907年にバウハウスの母体であるドイツ工作連盟が結成されたミュンヘンでは、1900年のセセッション展の後にマッキントッシュの展示が行われています。

ミュンヘンはドイツ世紀末芸術の中心でした。

ここに1897年のウィーン分離派に先駆けて、1892年にミュンヘン分離派が誕生しています。

ドイツとオーストリアはドイツ語圏ですが、ドイツ語圏の世紀末美術の傾向を『ユーゲント・シュティール』と呼びます。

保守を嫌い、それまでにない新しいスタイルを生み出したい芸術家達によってミュンヘンで分離派が生まれました。

それがベルリンやオーストリアにも波及し、1899年にベルリン分離派、1897年にウィーン分離派が誕生したのです。

雑誌『ユーゲント』の表紙(1896年)
建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

ユーゲント・シュティールにはウィーン分離派や、建築家アンリ・ヴァン・デ・ベルデも含まれています。

ベルデはバウハウスの元となる美術学校を創設し、ドイツ工作連盟の初期メンバーにもなった人物ですね。

建築家ペーター・ベーレンス建築家ペーター・ベーレンス(1868-1940年)

ペーター・ベーレンスという建築家、デザイナーも含まれています。

ミュンヘン分離派に属し、後にドイツ工作連盟にも参加しています。

ベーレンスの建築事務所にはバウハウスの初代と第三代校長のヴァルター・グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエやル・コルビジェも一時期在籍していたことがあります。

ペーター・ベーレンスの作品
椅子(1901年頃) " Chaise et fauteuil de Peter Behrens (musée de la colonie dartistes, Darmstadt) (7951754520) " ©Jean-Pierre Dalbera from Paris, France(25 August 2012, 12:24)/Adapted/CC BY 2.0 初期モダニズム建築AEGタービン工場(1909年)
"Berlin AEG Turbinenfabril" ©Doris Antony(5 February 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

マッキントッシュらの作品を見る機会は、同時代であればその気になればいくらでもあったはずですが、ウィーン分離派展で一躍脚光を浴び作品をミュンヘンで開かれた展示会で、分離派の芸術家が見なかったとは考えられません。また、間違いなく大なり小なり影響を受けたはずなのです。

1-2-2-6. モダンスタイルの特徴
ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年)
"Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

マッキントッシュのいくつかのデザインに触れた際、感動しつつもある種の違和感を覚えたことを記憶しています。現代の感覚で見てもあまりにも未来的なデザイン、というだけではありません。

『芸術愛好家のための音楽室』のデザイン(マッキントッシュ夫妻 1901年)

とても男性的なようで、すごく女性的でもあるのです。ファッション業界ではホモセクシュアリティの男性が活躍することが結構あります。両方の性を内包することで、どちらかの性が確定している創造はできないような絶妙なバランス感覚の誰もが美しいと感じられる特殊な美を生み出せたりします。ホモセクシュアリティ全員がそれができるわけではなく、やはり相当傑出した才能を持たないと無理ですけれどね。

『芸術愛好家のための音楽室』のデザインの再現(マッキントッシュ夫妻 1901年)
"Music room house for an art lover" ©marsroverdriver(20 December 2011)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ただ、ちょっとそれとも違う印象なのです。ここまで来ると言葉では定義されていない領域であり、言語化してご説明することは不可能なのですが、同じように感じる方もいらっしゃるでしょうか・・。

キャビネット(マッキントッシュのデザイン)
"Charles Rennie Mackintosh Cabinet(8030216621)" ©Tony Hisgett from Birmingham, UK(4 Sptember 2012, 13:06)/Adapted/CC BY 2.0

その答えは一人の人間ではなく、かなり融合度が高い状態で二人の人間が制作していたことに依ると考えます。

しかも同類ではなく男と女、それぞれ違う個性を持ち、どちらも天才だった二人ということが要因です。

【参考】チャールズ・レニー・マッキントッシュのデザインのチェア 『白いバラと赤いバラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1902年)2008年のオークションで約3.6億円

チャールズの直線的で男性的なスタイル。マーガレットの曲線的なラインやバラなどの女性らしいスタイル。どちらか一方が影響を受けるのではなく、相互作用して作品として昇華する。

ヒルハウスの内装(マッキントッシュ夫妻 1902年)【引用】National Trust HP ©National Trust for Scotland

直線と曲線が絶妙なバランスで融合し、完全に調和したデザイン。それがマッキントッシュ夫妻が作り出した新しいデザインの様式、モダンスタイルの特徴です。調和はしているものの、直線と曲線は絶妙なバランス下で完全には融合していないことがポイントです。どちらかが支配的にもなっていません。

マッキントッシュ家のベッドルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.

一人の人間が生み出そうとしても、一人の人間の中でもっとデザインが融合してしまうためこうはならないのです。

数名が集まってアイデアを出し合う企画会議をしたり、企画系の職種でなくとも、学生時代に同級生達でアイデアを出して創作活動をやった経験は殆どの方があると思います。一人で作り出す場合とは全く異なる、予想もしない完成品ができたりするものです。

マッキントッシュ家のダイニングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.

ただ、支配的な人がいたりやる気がない人がいると、作品にも偏りや不協和音が生じます。そうでなくとも複数の意見が共存するときちんと調和がとれることは滅多になく、さらに優れた作品として完成していることは奇跡的な確率です。

チャールズはマーガレットを天才で、自分はただ才能があるだけに過ぎないと発言していましたが、これは夫側の意見です。

一方でマーガレット自身は、チャールズのことを十分に天才だと認めていただろうと思います。

マッキントッシュ夫妻
バラと涙(マッキントッシュ夫妻)

お互いに尊敬し合っているからこそ対等であり、独自性を保ちつつも影響し合い、どちらも進化する・・。

グラスゴーの女性芸術家たちグラスゴーの女性芸術家たち(1893年)

当時は女流芸術家の評価は高くない時代でした。

そんな中で、グラスゴーでは『グラスゴー・ガールズ』と呼ばれる女流芸術家たちがいました。

1885年から1920年の『啓蒙の時代』において、グラスゴー美術学校の校長フランシス・ヘンリー・ニューベリーが進歩的な人物だったため、グラスゴーで女性芸術家の活動が盛んになりました。

グラスゴー派のマッキントッシュ夫妻ら4人組と女性芸術家たちグラスゴー派のマッキントッシュ夫妻ら4人組と女性芸術家たち(1894年頃)

マーガレット姉妹もグラスゴー・ガールズでした。まだまだ女性の地位自体が低い時代において、マッキントッシュ夫妻は珍しいカップルだったように感じます。男性性や女性性の存在はプログラムされて脳に刷り込まれているものであり、どんな時代でも男性は勝ちたい・威張りたい、支配したい、主役になりたいという意識を持つ傾向が強いです。一方で女性は調和を望み、主役にはならずその代わり矢面には立たない縁の下の力持ち的な存在、もしくは支配されても文句1つ言わない側になりがちです。

100年以上も昔の時代に活躍した才能ある男性が、妻に「あなたには天才があるけれど、僕には才能しかない。」と言ったことには非常に驚きを覚えます。普通は嫉妬に燃え、認めたくなくて足をひっぱるはずです。もしくは才能を認めるまではできても、特に才能ある男性ほどプライドが高い傾向にあるので褒めるなんて考えられません。

マッキントッシュ家のリビングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.

これはマッキントッシュ夫妻が1906年から1914年まで住んでいた家の内装を再現したもので、グラスゴーのハンタリアン美術館で観ることができます。1900年に結婚した夫妻がヴィクトリア朝の家を大改装して再構築したものです。ヴィクトリア時代の定番だった重厚かつ装飾過剰な雰囲気は微塵も感じさせない、とびきりモダンなデザインとなっています。

マッキントッシュ家のリビングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.
夫妻のプライベートはあまり知られていませんが、訪れた人々はその洗練された空間に心を打たれたそうです。
マッキントッシュ家のリビングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.
知人の一人は、「家はいつも綺麗で暖炉には火が入り、上品なお菓子と美味しい紅茶を振舞ってくれた。」と語っています。温かく家庭的な空間だったことでしょう。それにしても暖炉があって、それを生かした空間がめちゃくちゃオシャレです。
マッキントッシュ家の照明やインテリア(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.
夫妻ともにあまり身体は強くなかったようで、二人に子供はいませんでした。でも、互いに思いやり、才能を尊敬し合い、愛に満ちた二人であったことが伝わってきますね。
マッキントッシュ家のダイニングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.
それにしてもモダンなインテリアです。一瞬、現代かと思いました。これはダイニングルームですが、昨日までヴィクトリア朝のデザインだった空間がいきなりここまでスーパーモダンに変貌するなんて、ちょっとタイムスリップしたとしか思えない感覚に陥りそうです。
マッキントッシュ家のダイニングルーム(1906-1914年)の再現 【引用】MACKINTOSH ARCHTECTURE HP / ©Mackintosh Architecture, University of Glasgow

ビル一棟丸ごとを住宅兼事務所にしている、建築事務所を経営する夫婦の知り合いがいて、そこから見える川沿いの桜が最高に綺麗なので毎年呼んでくれる知り合いがいるのですが、モデルルームとしても使っているのでオシャレでいつも綺麗な空間だったことを思い出します。

建築家はトータルデザインができるので、全てを調和させた空間が作り出せるんですよね。

その夫婦も子供はまだいないのですが、どちらも料理上手かつ明るい人柄で、毎回美味しい料理と温かい空間でおもてなししてくれて心地よい空間です。

マッキントッシュ家もきっと、そういう心地よい空間だったでしょうね。

マッキントッシュ家のダイニングルームの椅子と壁(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.
それにしても傑出し過ぎです。現代人の感覚だと"未来的でセンスの良いオシャレなデザイン"と素直に捉えることができますが、ヴィクトリア朝の重厚かつ装飾過剰な空間が当たり前で慣れ親しんだものだった時代に於いては、感覚的に受け入れられない人もたくさんいたことでしょう。
マッキントッシュ家のベッドルーム(1906-1914年)の再現 【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.
スコットランドは緯度も高いので、暖炉は各部屋に必須ですね。シンプル・イズ・ベストという言葉がまだ存在しなかった時代において、あまりにも時代を先取りし過ぎています。
建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957年)

アールヌーヴォーの起点となり、そこからさらにドイツで活躍してモダンデザインへの移行を促した人物として、ベルギーの建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデが有名です。

建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデによるホーヘンホフアール・ヌーヴォー建築のホーヘンホフ(ヴェルデの設計 1908年建設)
"Hagen - -Hohenhof ex 30 ies" ©Frank Vincentz(6 June 2010, 13:46:57)/Adapted/CC BY-SA 3.0

マッキントッシュ夫妻が超モダンな自宅をデザインしたのと同じ頃の作品として、『ホーヘンホフ』があります。

アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデが設計したホーヘンホフの内装ホーヘンホフの内装(ヴェルデのデザイン 1908年) "HAGEN Hohenhof JBU 3822" ©Jorg Bittner Unna(2014年5月24日, 13:00:15)/Adapted/CC BY-SA 3.0 DE
その内装はまだ洗練とは程遠いものです。これでも当時最先端のデザインだったはずですが、現代人の感覚からすると古臭くてあまり好まれるものではないように感じます。マッキントッシュ夫妻の作品はこれよりも古い時代のものです。
ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年)
"Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

それぞれに違う才能を持つ天才、かつ人間的にも包容力のある男女。この奇跡の出会いがあったからこそ生まれたのがモダンスタイルです。いくら才能ある二人が個別に存在しても、一緒にならなければこのスタイルは生まれなかったでしょう。スタイルを真似することはある程度の才能があればできますが、『創造』ができるのは一部の天才だけです。二人にしか生み出せなかった新しいスタイル。それがモダンスタイルです。

100年近くも後・・。ようやく時代が追いつき始め、マッキントッシュ夫妻が再び評価され始めたようです。

1-3. バイオリンのような美しい立体造形

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

この宝物はグラスゴー派が活躍し、モダンスタイルが生み出された頃に作られた典型的なモダンスタイルのジュエリーです。

曲線だけで表現するアールヌーヴォーとは異なる、直線や幾何学を組み合わせた新しいスタイルでデザインされています。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー イメージ画像

しかしそれだけではありません。

これはGenが最初に気づいたのですが、弦楽器の形とそっくりです。

デフォルメはされているものの、あまりにも似過ぎています。

何も考えず適当に作る現代の量産ジュエリーとは異なり、アンティークのハイジュエリーにおいて偶然というものはありません。

これは意図的に弦楽器をデフォルメしてデザインした可能性が非常に高いです。

1-3-1. 王侯貴族の教養 -音楽-

ハープを奏でる王妃マリー・アントワネットハープを奏でる王妃マリー・アントワネット(1777年)

昔から音楽は王侯貴族の教養の1つでもありました。

肖像画は自身を宣伝するためのプロモーション・ツールの1つなので、女性らしさをPRするために扇を持つ姿で描かせたり、ポンパドゥール夫人のように本を手に持ち知性をPRすることもあります。

マリーアントワネットのように、音楽の教養をPRするために楽器と共に描いてもらう場合もあります。

また、音楽をモチーフにしたジュエリーや小物もそれぞれの年代で作られています。

音楽がモチーフのジュエリーや小物
ジョージアンの素晴らしい楽譜モチーフのゴールドのペン
『音楽の捧げ物』
エナメルの楽譜のゴールド ペン
イギリス 1820年頃
SOLD
エナメルの楽譜

これはジョージアンの素晴らしい宝物です。造形で表現しやすい楽器と違って、楽譜をエナメル技法によってまるで本物のように作り出してしまうなんてびっくりです。

ジョージアンのライア&パドルロック&鍵がモチーフのハーフパールのブローチ『ライア(竪琴)』
天然真珠 ブローチ
イギリス 1820年頃
SOLD
古代のハープがモチーフのエトラスカンスタイルのゴールド・ブローチ『古のハープ』
エトラスカンスタイル ゴールド ブローチ
イギリス 1870年頃
SOLD

楽器も同じ弦楽器だったとしても様々な種類があります。表現方法も多種多様で、持ち主の好みや当時の流行などが伝わってきます。

マンドリンがモチーフのゴールド・ブローチ
マンドリン ゴールド ブローチ
フランス 19世紀後期
SOLD

このマンドリンはゴールドだけの見事な造形が美しいですね。

楽器の形状は美しくて好きということで、Genの琴線に触れる宝物も比較的多く、好んで扱ってきたそうです。

リュートがモチーフのダイヤモンド&ゴールド・ブローチ『吟遊詩人のリュート』
ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD

素材の使い方やちょっとした装飾はそれぞれですが、どれも一目で何の楽器なのかが分かる忠実な表現です。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

しかしこの宝物はかなり抽象化されています。

実はこれがまた"モダンスタイルらしい作風"と言えるのです。

1-3-2. 音楽とモダンスタイルの作品

コロマン・モーザー(1868-1918年)

ウィーン分離派に参加していたホフマンとコロマン・モーザーが1903年に共同でウィーン工房を設立していますが、芸術家は普通はお金がありませんから、もちろんパトロンがいます。

それが実業家のフリッツ・ヴェルンドルファーでした。

このヴェルンドルファーが地元の芸術家たちの作品を飾るための別荘を建設しており、その内の2つの部屋をホフマンとモーザーに設計依頼していました。

そして1902年に音楽室をヴェンドルファーがマッキントッシュ夫妻に設計を依頼したのです。

芸術家たちは完全に自由を与えらえ、最大の能力を発揮することができました。

これこそ芸術家たちを伸ばす最高のパトロンであり、文化貢献する偉大な人物と言えるのです。

ブリュッセルのストックレー邸(ウィーン工房 1905-1911年)
"20120923 Brussels PalaisStoclet Hoffmann DSD06725 PtrQs" ©PtrQs(23 September 2012, 11:59:25)/Adapted/CC BY-SA 4.0

ウィーン工房の代表作の1つで、モダニズム建築として世界遺産にも登録されているストックレー邸は、金融業者アドルフ・ストックレーの依頼で作られたものです。

ストックレー邸のクリムトによる装飾『生命の樹』

ヨーゼフ・ホフマンが設計し、クリムトとフェルナン・クノップフが内装を手がけました。

アドルフ・ストックレー(1871-1949年)

ストックレーはホフマンに仕事を依頼した際、計画面で白紙委任しただけでなく予算の上限も設けなかったそうです。

だからこそ才能ある芸術家たちが存分に力を発揮し、世界遺産登録までされるような大作が完成したというわけですね。

ファンズワース邸(バウハウス第3代校長ローエの設計 1950年)

アメリカのイリノイ州に建てられたファンズワース邸も、才能ある建築家ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエが予算を考えずにありったけ自由に制作した、傑出したデザインのローエの代表作です。芸術的に真に優れたものを新しく創造しようとすれば、お金の制約なんて以ての外です。お金を考えなかったからこそ、これだけの作品が完成したのです。

第3代校長ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969年)【引用】wikimedia commons / Adapted

ただ、オーダー主が許可しくれたお陰でお金を考えずに制作活動ができたわけではなく、ローエが勝手に予算を無視したようです。

建設費が当初予算を大幅に超えたため、施主のエディス・ファンズワースと訴訟沙汰になってしまいました。

結果はローエの勝訴でしたが、この事件はその後の芸術家たちに制作活動に大いに影響したに違いありません。どんなに優れた作品を作ったとしても、訴えられてもし敗訴でもしたら破産しかねません。それだったら予算を厳守し、予算に収まる範囲内で良いものを作ろうとしかなりません。

優れたパトロンは古い時代にとうに消え失せ、芸術家たちが好きなだけ才能を発揮することができなくなった現代に於いて真に優れた芸術はもう生み出されることはないのです。そういう環境なのです。

象牙細密彫りの18世紀のフランス・アンティークの虫籠『この世で最も贅沢な虫籠』
カーブドアイボリー 虫籠
フランス 1770〜1780年頃
SOLD

王侯貴族が莫大な財力を持っていた時代はお金を気にせずオーダーし、芸術家たちもお金や時間など、生活を気にせず全身全霊をかけて制作活動に打ち込むことができました。

だからアンティークのハイクラスの作品は1つ1つが、芸術作品として非常に優れているのです。

ローマンモザイク 鳩 聖霊 スタロウグラム AΩ アルファオメガ イタリア デミパリュール ペンダント&ブローチ ピアス セット アンティークジュエリー『平和のしるし』
ローマンモザイク デミパリュール
イタリア 1860年頃
¥2,030,000-(税込10%)

また、パトロンがきちんと芸術家を育てるということもきちんとしていたからこそ、優れた芸術家もある程度の人数がいたはずなのです。

優れたパトロンは財力だけでなく、感覚的に才能を見抜く眼を持っています。

才能は磨かなくては輝きません。

制作のチャンスを与えたり、会って意味がありそうな人物を紹介したり、見ておくと良いものを見に時には外国にも行かせたり。

そうやって目をかけた芸術家の卵たちが素晴らしい芸術家になってくれれば、パトロンにとっては十分に満足です。

紳士と淑女を描いたフランスのアンティークの扇 
『紳士と淑女』

フランス 1870年頃
¥ 387,000-(税込10%)

なぜならば文化貢献したと言えるからです。

ノブレオブリージュ。

高貴なる者の責任。持つ者は責任を果たさねばならない。それはただむやみにお金を使うのとは違います。お金を有効に使い、それによって芸術家たちが育つことで文化が発展する。

白鷺を描いたアンティークのピケのカードケース(名刺入れ兼手帳)&コインパースのセット
『白鷺の舞』
舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット
イギリス 1870年
SOLD

自分自身が芸術家として才能を持ち、新しい芸術を生み出すことによって文化貢献するということはできなくても、貴族らしい、貴族にしかできない素晴らしい社会貢献と言えるのです。

「黄金馬車を駆る太陽神アポロン」を描いたアンティークのシェルカメオの傑作(アンティークジュエリー)にバックライトをあてた所『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』
シェルカメオ ブローチ&ペンダント
シェルカメオ:イタリア 19世紀後期
フレーム:イギリス? 19世紀後期
¥1,330,000-(税込10%)

このことを理解している日本人は、現代では残念ながら殆どいません。

昔の王侯貴族たちがたくさんのお金を使いまくるのは、単に無責任な贅沢というわけではありません。

それなのに現代の成金と同じような見方をするからおかしな解釈になるのです。

シュールなモダンアート

現代の成金は金儲けは上手かもしれませんが、教養がつく育ち方はしていません。

だから芸術家の卵を見抜くこともできませんし、目利きして優れた芸術作品を掘り起こす能力もありません。

だから既に有名となった作家の、間違いなく値は下がることのない作品だけを買うのです。

投機になりますし、芸術作品を持つ己は教養があると思い込むこともできるので一石二鳥です。

金儲けにしかなっておらず、文化貢献なんて微塵にもなっていません。

シュールなモダンアート

ネームバリューさえ手に入れれば、適当に量産したものでもプレミアが付いて高値で売れます。

だから芸術家たちは腕を磨くのではなく、自身のブランディングに走ります。

真面目な芸術家たちは食べていけず、妥協した制作をせざるを得ません。

一方で、奇をてらっただけの稚拙な芸術がさも"価値ある芸術"のように持て囃され、はびこる現代。

現代アートは意味不明と感じる人も少なくありませんが、それは感覚的に間違っていません。ジュエリーだけでなく、芸術の全てが終わっているのです。

マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ(1864-1933年)

さて、マッキントッシュ夫妻に話を戻しましょう。

実業家フリッツ・ヴェルンドルファーによって自由な制作活動を許された夫妻は、素晴らしい作品を提供しました。

その中でも、音楽室に飾るフリーズとして完成させた3つの連作は、マーガレットの最高の作品と評価されています。

『風のオペラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1903年)
『7人の王女』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1903年)

幻想的で美しい世界に思わず惹き込まれてしまいますね。ところで『風のオペラ』の左側の構図をご覧になって、ピンときた方もいらっしゃるでしょうか。

『風のオペラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1903年) 『接吻』(グスタフ・クリムト 1907-08年)
実はクリムト黄金時代の代表作『接吻』は、マーガレットの代表作『海のオペラ』にインスピレーションを受けて描かれたとされる作品です。独特の構図は間違いないでしょう。
アールデコ ボヘミアン ガラス 花瓶 アンティーク『パラソルを持つ女』
ボヘミアン・イングレイヴィング・グラスの花瓶
チェコ 1930年代初期
¥713,000-(税込10%)

『パラソルを持つ女』の花瓶もモネの『Woman with a Parasol』にインスピレーションを受けて作られたものですが、このように他の優れた芸術家の作品にインスピレーションを受けて制作されることはよくあることなのです。

そのまま真似しただけだと盗作ですが、うまくいけば新しい優れた芸術作品へと昇華します。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー 『海のオペラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1903年)

オペラの歌声や演奏が聞こえてくるようなマーガレットの『海のオペラ』。『時間』や『季節』などの幅広い抽象概念を高度に様式化して表現したマーガレットならではの作品です。

同様に、そのままの形で表現せずに、抽象化して表現された今回の弦楽器の宝物からは草花のメロディが聞こえきそうです。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー マンドリンがモチーフのゴールド・ブローチ リュートがモチーフのダイヤモンド&ゴールド・ブローチ

同じ弦楽器のモチーフと比べてみていかがですか?

右の2つの宝物のように忠実に表現してあると、「どんな人が何を奏でるんだろう?」と感じます。何のメロディが聞こえてくるのかは演奏者次第です。

一方で今回の植物をモチーフにして抽象化された弦楽器からは奏者のイメージはあまり湧かず、宝物自身から自然と草花の優しく楽しいメロディが聞こえてきそうです。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

この抽象化というのが意外と曲者で、デフォルメし過ぎると一体何なのか、作者以外誰にも分からなくなってしまいます。

でも、Genのように感性豊かな人はすぐに気づく、絶妙なバランスの美しい弦楽器のモダンスタイル・ジュエリー。

主張しすぎず、それでていて間違いなく唯一無二の美しさを放ちます♪

2. 天然真珠とサファイアの珍しい組み合わせ

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

傑出した優れたデザインのハイジュエリーは、宝石の使い方も他のジュエリーとは異なるものです。

この宝物はサファイアと天然真珠という組み合わせが変わっています。

2-1. 一般的なサファイア・ジュエリー

サファイア リング アンティーク・ジュエリー『Purity』
サファイア リング
イギリス  1880年頃
SOLD
セイロンサファイア&ダイヤモンド リング アンティーク・ジュエリー『Blue Impulse』
ビルマ産サファイア リング
イギリス 1880〜1900年頃
SOLD
ヘキサンゴン・カット・サファイア   のエドワーディアンのネックレス『エレガント・ブルー』
サファイア ネックレス
イギリス 1910年頃
SOLD

サファイアは色が濃い宝石で、モース硬度が高く煌めきも強いです。だから脇石として使用されるのは通常はダイヤモンドです。

ダブルハート リング(エンゲージメント・リング) アンティーク・ジュエリー『愛の誓い』
ダブルハート リング
イギリス 1870年頃
SOLD
他の色石と組み合わせる場合は、やはり同じくらい色の鮮やかさがあり、モース硬度や煌めきを持つルビーが最も一般的です。

2-2. 一般的な天然真珠のジュエリー

エドワーディアンの天然真珠&ダイヤモンドを使ったスタイリッシュなアンティーク・ネックレス『Quadrangle』-四角形-
エドワーディアン 天然真珠 ネックレス
オーストリア? 1910年頃
SOLD
天然真珠 バーブローチ アンティークジュエリ『キラキラ・クロス』
天然真珠 バーブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD

一方、天然真珠は淡い色と優しい輝きという、上品で清楚な雰囲気が魅力の宝石です。

天然真珠が主役の場合、脇石には同じ無色のダイヤモンドを組み合わせるのが一般的です。

アクアマリン ピンクトルマリン ペリドット シトリン
エドワーディアン アクアマリン ペンダント アンティーク・ジュエリーイギリス 1900年頃
SOLD
天然ピンクトルマリンと天然真珠のナイフエッジのネックレスイギリス 1900年頃
SOLD
ペリドットとハーフパールのブローチイギリス 1900年頃
SOLD
シトリン&ハーフパール&マベパールのブローチ&ペンダント アンティーク・ジュエリーイギリス 1870年頃
SOLD

もっと後の時代になると淡い色の色石でもダイヤモンドとの組み合わせはよく見かけますが、1900年頃までは淡い色の宝石と天然真珠の組み合わせが一般的です。

アールデコ パール&ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー『天空のオルゴールメリー』
アールデコ 天然真珠&サファイア ネックレス
イギリス 1920年頃
¥1,230,000-(税込10%)
エドワーディアンのモンタナ・サファイヤ&天然真珠&ダイヤモンドのリング『モンタナの大空』
エドワーディアン サファイア リング
イギリス 1910年頃
SOLD

サファイアと天然真珠の組み合わせがこれまでに1つもなかったかと言うとそうでもなく、ネックレスやリングでありました。

ただ、どちらも1895年頃に見つかり、アメリカのヨーゴ峡谷でしか採れなかった澄みきったクリアなスカイブルーのサファイア、モンタナサファイアを使ったものです。

今回の宝物のサファイアのように、通常の濃いブルーのサファイアとの組み合わせではありません。

2-3. 純白と深青の印象的な色合わせ

ルビー&シードパール ブローチ アンティーク・ジュエリー『生命の躍動』
ルビー&シードパール ブローチ
イギリス 1900年頃
SOLD
アーリーヴィクトリアン ルビー クラスターリング アンティークジュエリー『愛の花』
ルビー クラスターリング
イギリス(チェスター) 1838年
SOLD

鮮やかな色合いを持つルビーと天然真珠を組み合わせた宝物も滅多にありません。しかしながら幸運なことに、明らかに特別にオーダーしたと推測できる、第一級の作りが施されたジュエリーで見ることはありました。実は鮮やかなルビー・レッドと純白の天然真珠のコンビネーションは、琴線に触れるという表現が一番しっくりくるほど私も大好きな組み合わせです。どちらの宝石も温かみがあり、意思の強さも感じるような特別な組み合わせなのです。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

しかし、ありそうでなかったのが濃いブルーのサファイアと天然真珠の組み合わせです。

澄んだ濃いブルーと清らかな白の組み合わせが、赤み系のルビーを使う場合とは全く異なる、寒い真冬でも凛とした強さを見せる北国の花のような美しさを感じさせてくれるのです。

思わずハッとする美しさです。

ウラル産デマントイド・ガーネットのスズランのアンティークのロシアン・ジュエリー『A Lilly of valley(鈴蘭)』
デマントイドガーネット ブローチ
ロシア 1910年頃
SOLD

ロシアのジュエリーには、北国の凛とした花のような美しさを感じる、いかにも厳冬のロシアらしい宝物が結構多いです。

ロシアン・アールヌーヴォー リング アンティークジュエリー デマントイドガーネットロシアン・アールヌーヴォー リング
ロシア 1900年頃
SOLD
ウラル産デマントイド・ガーネットのスノードロップのロシアン・ジュエリー『スノードロップ』
デマントイドガーネット ブローチ
ロシア 1900年頃
SOLD
ロシアン・アヴァンギャルド リング アンティーク『ロシアン・アヴァンギャルド』
ルビー&サファイア リング
ロシア 1910年頃
SOLD

どのお花のジュエリーも花のモチーフやデザインは全く異なるものなのに、可憐でいて力強さも感じる、凛とした美しさが共通しています。

ファベルジェ作のデマントイドガーネットとエナメルによる春の花々のエッグ『春の花々』(ファベルジェ 1899年)ファベルジェ美術館

鮮やかなデマントイドガーネットが効いている、ファベルジの『春の花々』もそうですね。

アイリス(ティファニー 1900年頃)ウォルターズ美術館
【引用】THE WALTERS ART MUSEUM / Iris Corsage Ornament ©The Walters Art Museum /Adapted.
アイリス(ティファニー 1900-1901年頃)プリマヴェラ・ギャラリー
【引用】Alchetron / Paulding Farnham ©Alchetron/Adapted.
ロシアン・ジュエリーはウラルの宝石デマントイドガーネットを使っているものが多いです。独特の魅力を持つデマントイドですが、デマントイドを使いさえすれば、厳冬の国の花を思わせるような凛とした雰囲気が出るというわけではありません。ティファニーの作品を見ても分かる通り、あくまでも組み合わせなどの使い方次第です。
サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

純白と深青の組み合わせは、作者が明らかに意図してデザインしたものです。

モダンスタイルは当時スコットランドのグラスゴーで生まれた最先端のデザインです。

時代の先を行きすぎて、保守派には受け入れられなかったほど先進的なものでした。

エドワーディアンリボンと月桂樹モチーフのカリブレカット・ルビーのペンダント&ブローチ『永遠の愛』
エドワーディアン ダイヤモンド ペンダント&ブローチ
フランス? 1910年頃
¥1,220,000-(税込10%)
ヘキサンゴン・カット・サファイアのエドワーディアンのネックレス『エレガント・ブルー』
サファイア ネックレス
イギリス 1910年頃
SOLD

だから一般的なハイジュエリーでは、今回の宝物と同じか少し後の時代のものでも保守的なデザインのものが多いです。ロンドンにも他国にも、モダンスタイルはまだ受け入れられていなかったと推測します。

エドワーディアンからアールデコにかけての過渡期の天然真珠のバー・ブローチ
エドワーディアン バー・ブローチ
イギリス 1912年
SOLD

1910年代頃からは、アールデコに通ずるような直線や幾何学がポイントとなるスタイリッシュなデザインのトランジション・ジュエリーも結構出てくるようになります。

ただ、それらには曲線と直線の絶妙な組み合わせは殆ど見られません。

エドワーディアンの天然真珠&ダイヤモンドのストライプ・デザインのペンダント『ストライプ』
イギリス 1910年頃
SOLD
エドワーディアンの天然真珠&ダイヤモンドを使ったスタイリッシュなアンティーク・ネックレス『Quadrangle』
オーストリア? 1910年頃
SOLD

モダンスタイル自体が広まって一般化してきたというよりは、セセッションを経由してウィーン工房やドイツ工作連盟で花開いていき、そこでブラッシュアップされて直線と幾何学の重点が重くなった状態で再出荷され、イギリスなどにも再輸入されたのではないかと思います。

あまりにも時代の先を行きすぎたマッキントッシュら、モダンスタイルのデザインは取り残された存在となり、歴史の表舞台からは忘れ去られていったのでしょう。

ダイヤモンド ゴールド ブローチ アンティーク・ジュエリー『MODERN STYLE』
ダイヤモンド ゴールド ブローチ
イギリス 1890年頃
SOLD

モダンスタイルのジュエリーは制作された年代が短く、しかもおそらくは制作地もスコットランドのグラスゴーに限られていたため、滅多に出てこないのでしょう。

Genも私もデザインの様式としてはモダンスタイルが一番好きなのでとても残念です。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

さて、この宝物の制作地である可能性が高いグラスゴーは、イギリスでも北の方にあります。

グラスゴーの位置 ©google map

なんと、モスクワより若干緯度が高いくらい北にあります。

グラスゴーの緯度
:55.8642

モスクワの緯度
:55.7558

マッキントッシュの家の全ての部屋に暖炉があったのもこれで納得ですね。

冬のグラスゴー大学のメモリアル・ゲート

暖流の影響でモスクワほど寒くはなくても、冬は夜が長くロンドンと比べるとかなり寒いはずです。だからこそ人も植物も、長く厳しい冬の後の春の訪れを待ちわびるのです。

日本でも北国で生活した経験がある方ならば体感したことがあると思います。冬が長く厳しい地域では、春が訪れると一斉に花々が咲き乱れます。そうでない地域だと真冬でも椿などの花が見られたり、春に向かって少しずつ時間差で花が咲きます。一斉に咲くということはありません。

ロンドンの高級住宅街ハムステッドの民家の雑草に咲く白い花ロンドンの高級住宅街の庭に咲く草花
サラリーマン時代は転勤が多くて色々な土地に住みましたが、私が今まで住んだ中で最も北だったのは茨城県つくば市です。北国は全く経験がありませんでした。初めてロンドンに行ったのは5月です。王侯貴族に『The season』と呼ばれる社交の季節で、長い冬が終わり、この季節は一年で最も晴天率が高く花々も一斉に咲き乱れます。
ロンドンの高級住宅街ハムステッドの民家の庭に咲く雑草の青い花ロンドンの高級住宅街の庭に咲く青い小花

その時のロンドンでの感動はフォト日記『百花繚乱』でもご紹介した通りです。

一番心に残ったのは、この深く鮮やかな青が印象的な小さな花々でした。

至る所に群生しており、どちらかと言えば雑草に近いのかもしれません。

ロンドンの雑草の青い花 ロンドンの雑草の青い花
ロンドンの高級住宅街の庭に咲く青い花

でも、小さくとも力強く咲き乱れる青い花々は可憐ながらも孤高の美しさを放つ、それはそれは美しいものでした。たとえ日陰であろうとも、僅かな太陽の陽射しを薄暗さの中しっかり吸収して目一杯に咲いているのです。本当に感動したので、このお花は結構たくさん写真を撮りました♪

青も美しいですし、花びらの根元あたりがグラデーションにはならず突然真っ白になっているのもインパクトがあります。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

グラスゴーはもっと寒く、春の花はもっと可憐で力強いかもしれません。

そんな春の花々に感動した人が、通常では組み合わせない深青のサファイアと純白の天然真珠を意図的に組み合わせて、草木のメロディが聞こえてきそうな弦楽器型のこの美しい宝物をデザインして作ったのでしょう。

3. 王侯貴族の日常用のジュエリー

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

以前詳しくご説明した通り、王侯貴族のためのジュエリーは目立つ宝石を使った大きくて見栄えするジュエリーばかりではありません。富と権力を誇示するためのジュエリーを身に付けるのは王侯貴族の場合でも特別な時だけで、普段は日常用の小ぶりでパッと見ただけでは分かりにくいけでど上質で知性やセンスの良さを感じる優れたジュエリーを身に着けていました。

オパール ネグリジェ・ネックレス ネックレス アンティーク・ジュエリー『Rainbow World』
オパール ネグリジェ・ネックレス ネックレス
イギリス 1890年頃
SOLD
ピクニック・バスケットに留まった小鳥たちの愛らしい最高級ブローチ『Tweet Basket』
小鳥たちとバスケットのブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD

オフィシャルではなく、身近な人たち(王侯貴族や召使いなど)としか合わない、普段身に着けるためのものです。

だからこそ最も持ち主の好みやセンスが反映され、一番愛されていた宝物と言え、優れているものは本当に素晴らしいです。

3-1. 上質な宝石

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

この特別なデザインが施された宝物も小ぶりながら、かなり良いものとして作られています。

サファイアは深い青で色に濁りがなく、しかも澄んでおり、よく煌めく上質な石が使われています。

サファイアは天然非加熱の石であるにも関わらず3石とも色味も揃っており、それだけでもこの宝物が只者ではないことが分かります。

天然真珠も小さいながら、色味や質感が揃った白く清らかな石で揃えられています。

天然真珠3粒のクラスターで表現された部分は、もう少し大きな天然真珠を1粒使うだけでもデザイン的には成立しそうです。

でも敢えて同じような外観の天然真珠を3粒集めてデザインしている所に、作者の並々ならぬ拘りと妥協を許さぬ信念がはっきりと見えます。

現代感覚の皆さんがご想像される以上に、この差は遥かに大きいです。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー
3つの天然真珠はボタンパールが使われており、正面から見ると丸く大きさの揃った真珠に見えるようなものを選んで丁寧にセットされていることが分かります。小さな天然真珠にも質はピンからキリまでありますが、上質なものを厳選して使っているのは高級品である証拠です。
真珠の留め方

葉の形のフレームにはハーフパールが留めてあります。

小さいのに見事に固定されており、作者の高い技術が感じられます。

また、ハーフパールを留めた爪の両サイドにグレインワークが施してあります。

真珠の留め方

通常だったらハイジュリーであってもこの部分は爪で留めるだけで、わざわざグレインワークまで施したりはしません。

グレインワーク自体が非常に技術的に高いレベルを要求する技法で、しかもかなりの手間がかかるからです。

作者の高い技術を裏付けるかのように、サファイアの覆輪に施されたミルグレインのような細工も、緻密でとても美しいです。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

天然真珠の留め方が2種類あるのも、作者の高い技術の証とも言えます。

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天然真珠は上部の3つのクラスターと、葉の部分とでは大きさだけでなく高さも違うため、同じ素材を使っていても全く印象を違えることができるのです。

立体感が躍動感にも繋がりますね。

作者のセンスの良さの現れでもあります。

3-2. 黄金の"輝きのデザイン"

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

この宝物はゴールドだからこそ表現できる、黄金の輝きのデザインも見事です。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

一番下の円と、その上に取り付けた細長い棒状のパーツは完全にフラットな面に整えられています。

このため、この平らな部分が時折面反射して強い黄金の輝きを放ちます。

一方で植物を絡みつかせたかのような曲線のパーツは、フラットではなく少し丸みを持たせて正面を仕上げてあります。

だから、いつもどこかしらが優しく柔らかな暖かい黄金の輝きを放っています。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

一番上のサファイアのパーツをご覧になるとお分かりいただける通り、このネックレスはペンダントが美しく揺れる構造になっています。様々な角度を取ることができ、身に着けた人の動きに応じて軽やかに動き、その時その時で印象的な黄金の輝きを放つ構造になっているというわけです。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

才能のないデザイナーだと静止画像でしかデザインできないため、パッと見た時に形だけそれっぽいものしかデザインできません。奇をてらったりしがちなのも、他に工夫する能力がないからです。しかしながら才能あるデザイナーだと立体視して、しかも動いている状態を想像してデザインします。実際に身に着けた時にこそ、デザイナーの真の実力が露わになるのです。

3-3. 耐久性への配慮

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

棒状の部分がとても細く、繊細で一見すると耐久性は大丈夫なのか心配になるかもしれません。

しかしながら現在の鋳造の量産品と異なり、割金をした15ctで素材的に強度を上げている上に、職人が手間と技術をかけて金属を叩いて鍛えた鍛造の作りなので、見た目よりも遥かに強度があります。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー 裏

さらに裏側から見ると、細長い棒状のパーツの二重線の内側は完全にはくり抜かず、中央部分を削り残した構造になっていることが分かります。

裏側に近い部分だけを削り残し、正面側は深めに削っているため、正面から見た時にはこの補強部分が視認できません。

また、棒状の細長いパーツと一番したの円形のパーツは鑞付けではなく一枚のゴールドの板を削り出して整えられた構造になっています。

これだけの繊細なデザインと、120年ほどの使用にも耐える強度の両立のために、目には見えない部分で驚くほど手間と技術をかけて作ったということです。

これぞアンティークのハイクラスのジュエリーの中でも特に傑出した作品と言ったところでしょう♪

3-4. 優れた立体デザイン

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー
サイドからご覧になるとお分かりいただける通り、植物が絡みついているようなパーツは二次元方向のみならず、三次元方向にも複雑に立体デザインを施した作りです。デザイン力とそれを実現する技術力は素晴らしいです!
サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー
この角度から見ると、二枚の葉は少しだけ内向きにして、向かい合うようにデザインされていることも分かります。
サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

思わず惚れ惚れする見事な立体造形です。直線や幾何学デザインのパーツはフラットにしてシャープに、絡みつく植物のようなパーツは前後左右に曲率を付けて表現するという・・。完全にモダンスタイルとは何ぞやを理解し、体現しきった見事な作品です!!

オリジナルのハンドメイド・チェーン

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

ハンドメイド・チェーンは金具も含めてオリジナルなのも非常にラッキーなことです。120年も前のものとなると、どうしてもチェーンは磨耗して使うのが危険なくらい磨り減っていることが少なくありません。実体顕微鏡で確認しましたが、このチェーンは磨り減りが感じられず、歴代の持ち主が負担になるようなヘビーローテーションはせず、大切に使ってきたのだと思います。

お金がない人のための安物ほど、他にジュエリーを持っていないのでヘビーローテーションされて痛んでいることが多いです。一方でハイジュエリーはジュエリーの使い方が分かっている人たちに大切に扱われる上、お金持ちは他にも色々なジュエリーを持ち、TPOに合わせて使い分けるので今でも痛みが程んどなく、まるで今作ったばかりかのようなグッドコンディションである場合も少ないのです。

裏側の作り

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー 裏

裏側も全てに隙のない、非常に美しい作りです。

デザインだけではなく作りまで揃った、アンティークの見事なハイジュエリーです。

余談

現代のグラスゴーの都会的な夜の景色 "City of Glasgow at night, Scotland" ©Andy Farrington / Colours of Glasgow at Night(19 November 2013)/Adapted/CC BY-SA 2.0
グラスゴーは今ではあまりメジャーなイメージはありませんが、かつては造船業で栄え、イギリス第2の都市と呼ばれていたほどの都会でした。
ソーキーホール通り、右側にウィロー・ティールームズが見える(グラスゴー 1914年)
" Sauchiehall Street, Glasgow, around 1914 looking east. The Willow Tearoom is shown on the right " ©Unknown author(8 May 1914)/Adapted/CC BY-SA 240
今回の宝物が作られた1900年頃のグラスゴーは、今よりももっとうんと都会的なイメージがあったのです。
ブキャナン通りのティールームのためにマッキントッシュ夫妻がデザインしたフリーズ

禁酒運動によってティールームが注目され、アート・ティールームができ始めたのもこの頃です。

女性実業家キャサリン・クランストンの依頼でマッキントッシュ夫妻が最初に作ったのがブキャナン通りのティールームの壁画デザインで、1896年のことでした。

1898年には別のティールームで家具とインテリアを手がけ、1900年にはイングラム通りのアート・ティールームズの全部屋のデザインを依頼されました。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー

そして1903年にはソーキーホール通りのアート・ティールムズの全てを依頼されることとなったのです。

マッキントッシュ夫妻は初めてインテリアデザインと家具だけでなく、内部の間取りと外部の建築方法の全詳細について責任を委ねられることになったのです。

実業家ミス・クランストンは才能を見抜く目と、経営者としての判断力も非常に優れていたというわけですね。

ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年)
"Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

これが世に知られるウィロー・ティールームズ内部です。1903年頃の人々が楽しんでいた空間です。

当時のアート・ティールームズは都会の中心部のオアシスとして作られ、人々に楽しまれました。最先端の流行スポットがアート・ティールームズだったのです。

サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります。

宝物の最初の持ち主も、これでオシャレをしてティールームでお茶を楽しんだりしたのでしょうか・・。

当時最先端、それどころか時代を遥かに先取りしたモダンスタイル。この宝物もアート・ティールムも、時代を超えて私たちの心を打つ永遠の芸術なのです・・。