No.00372 愛と尊敬の螺旋

サフラジェットの陰陽太極図のピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠ペンダント

 

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

ピンクトルマリン&ペリドットで女性と男性を表現した

愛と尊敬に満ちたサフラジェットの宝物です!♪


ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

8の字のスパイラルとストライプの透かしによる『動と静』の表現!

 

 

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

非常に立体的で奥行を感じる高度なデザイン&作り♪

 

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

裏側の様子です。
特に8の字スパイラル部分は、限界に挑んだ圧巻の透かし細工です!
正面側の高低差も考えると、信じがたい細さと完成度です!!

 

 

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

女性への尊敬を示す深い色彩のピンクトルマリン&精緻な爪留♪

 

 

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

『愛と尊敬の螺旋』
サフラジェット 透かしペンダント

イギリス 1900年頃
ピンクトルマリン、ペリドット、天然真珠、15ctゴールド
サイズ:3.4×2.4cm
重量:3.5g
¥380,000-(税込10%)

 イギリスで女性参政権への意識が最も高まった19世紀末から20世紀初頭にかけて作られた、宝石の3つの色彩でサフラジェットを示すデザイン性の高いペンダントです。歴史的には庶民の目立つ活動が注目され、上流階級のための美しいサフラジェット・ジュエリーは世に知られざる存在です。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 歴史では男性を敵と看做し、テロ活動で世の中を混乱に陥れた暴力的なサフラジェットが目立ちますし有名です。しかしながら19世紀初期に、英国議会で初めて女性の参政権を提唱したのは男性議員でした。その後も世代を超え、地道な活動を経て1918年の参政権獲得につながっていきました。理性的に権利を主張する知的な女性がおり、その側には彼女を尊敬し、愛し、共に活動したり協力したりする対等な立場の男性がいました。
 陰陽魚太極図のようにも見えるデザインは、女性と男性が互いに切り離せぬ1つの存在であることを表現しているように感じます。『尊敬』と共に『女性』を表現するピンクトルマリンは、現代のように加熱や放射線処理をしていないにも関わらず、深い色彩が美しいです。ペリドットと共にカットも高級品ならではの完成度で、煌めきが見事です。天然真珠も史上最も高騰した時代ながら照り艶の良いものが選ばれています。限界に挑んだ超難度の透かし細工も圧巻です。宝石を使った作りの良いバチカンも贅沢で、上流階級ならではの細部までのこだわりと、愛と知性に満ちた美しい宝物です。

 

 

この宝物のポイント

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
  1. サフラジェットの最先端デザインのジュエリー
    1. サフラジェットという時代背景
    2. 軽やかなドレスとジュエリーが流行した新時代
  2. センスを感じる複雑で美しい新時代の渦のデザイン
    1. 8の字のようなダイナミックな宝石の渦の表現
    2. 渦の『動』を強調する静的なストライプの透かし
    3. 高級品ならではの驚異の技術による立体造形
  3. 上流階級のジュエリーならではの細部のこだわり
    1. 高級品ならではのお金をかけたバチカン
    2. 宝石の手間をかけたセッティング

 

 

1. サフラジェットの最先端デザインのジュエリー

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 3種類の宝石を使ったアンティークのハイジュエリーは、あまり見かけません。特に色石を2種類使ったものは少数派です。

単に持ち主の好みの場合もあります。アンティークジュエリー好きの方だと組み合わせをご覧になって、すぐに『サフラジェット』とお分かりになったかもしれません。

1-1. サフラジェットという時代背景

1-1-1. サフラジェットを象徴する3色

 サフラジェットの宝物をHERITAGEでご紹介するのは、今回が初めてです。19世紀末から20世紀初頭にかけて起こった女性参政権運動の活動家が『サフラジェット』と呼ばれました。1918年まで、イギリスでは女性に参政権はありませんでした。

有名なサフラジェット
エミリー・デイヴィソン(1872-1913年)1910〜1912年、38〜40歳頃 メイベル・キャッパーに授与されたイギリス女性政治社会連合ハンガー・ストライキ・メダル(イギリス 1909年) "WSPU Hunger Strike Medal" ©Johnny Cyprus(11 June 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0

サフラジェットを象徴するのが『緑/白/紫』の3色です。有名なサフラジェット、エミリー・のモノクロ写真も、右のような3色デザインのメダルを着用しています。

Give Woman Vote(婦人参政権運動)
 Give→green(緑):希望
 Woman→white(白):純粋
 Vote→violet(紫):尊厳

1-1-2. サフラジェットの一般的イメージ

【サフラジェット】エミリー・デイヴィソン(1872-1913年)1908年、36歳頃

 主要なサフラジェットの殆どは庶民です。エミリー・デイヴィソンも庶民の出自です。

19歳となる1891年にロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ・カレッジで文学を学ぶ奨学金を得ましたが、父が亡くなると母が必要な費用を払えず、翌1892年1月に退学せざるを得ませんでした。

その後、屈指の名門校であるオックスフォード大学のセント・ヒュー・カレッジに在籍できるようになり、最終試験で優等を得ましたが、当時女性はオックスフォード大学の卒業学位を認められておらず、女性というだけで十分に才能を評価してもらえない環境にありました。

活動家となったのも納得ですね。

『パンチ』誌の風刺画 / 柔術で抵抗するサフラジェットの逮捕(1910年)

サフラジェットは暴力的で荒い手法でも知られます。最終目的達成のためには戦闘的対立も辞さないという戦略をとる勢力がいる一方で、それを糾弾する勢力もありました。1903年に結成された女性政治社会連合(WSPU)は後者でしたが、1906年に連合に入ったデイヴィソンは勝手に行動するようになり、すぐに戦闘的で暴力的な活動家として評判となりました。

放火で焼け落ちたクリケット競技場ネヴィル・グランドのパヴィリオン
(ロイヤル・タンブリッジ・ウェルズ 1913年4月11日)

会合などの妨害活動、投石から放火まで行い、9回も刑務所に収監されたそうです。頑張っても主張を取り合ってもらえなかったり、一向に成果が出なければ鬱憤が溜まり、話し合いではなく物理的な手段に出ようとするのは有り得る話です。同じ鬱憤を抱えた女性たちに感染していくのは無理もなく、イギリス中に放火運動が起きたり、爆破事件も広がりました。

全国の郵便ポストが燃やされたり酸を注ぎ込まれたり、手紙爆弾の送りつけもありました。即席爆弾は競馬場やクリケット競技場、ウェストミンスター寺院、セント・ポール大聖堂、イングランド銀行、ナショナル・ギャラリー、キューガーデンのティーハウス、鉄道駅などあらゆる場所が対象となりました。

エプソム・ダービーで最後の抵抗活動したデイヴィソン(1913年6月4日)

デイヴィソンの抗議活動で最も有名なのは、エプソム・ダービーでのトラック侵入と衝突事件です。英国王ジョージ5世の所有馬アンマーの走路に立ちはだかり、猛スピードで衝突しました。全力疾走する競走馬は急な進路変更や停止などできません。デイヴィソンは空中に投げ飛ばされました。地面に激しく打ち付けられ、意識不明となった4日後、頭蓋骨骨折と内傷により死亡しました。

騎手も投げ出され、脳震盪やその他にも怪我を負ったものの、2週間後には再びアンマーと共にレースに出場できたそうです。競走馬の高さを考えると騎手も命の危険がありましたし、アンマーも骨折などしたら安楽死の可能性もありました。

デイヴィソンの葬列の一部(1913年6月13日)

デイヴィソンの持ち物にはダービー後に行われるはずだったサフラジェットのダンス・パーティーのチケットなどもあり、殉教者になるつもりではなかったと考えられています。やり方としては身勝手で賢さも感じられません。この事件の1年前、明確な理由は不明ですが、デイヴィソンは放火で服役していたホロウェイ刑務所で10mの鉄の階段から投身し、頭と背骨に重傷を負っていました。エプソム・ダービー事件で亡くなるまでの12ヶ月間、その後遺症で苦しみ続けたようです。まともな判断ができない状態にあったのかもしれません。

第一次世界大戦が始まると戦争協力に活動が移り、収束していきました。そして1918年、部分的な女性参政権導入が実現し、条件を満たす870万人の女性が投票の権利を得ました。

20世紀初頭から第一次世界大戦までの期間にイギリスでは約1,000人のサフラジェットが収監されました。その社会的影響は大きく、権利を勝ち得たという良い側面もあれば、その手法から組織的なテロリストと見る歴史家もいます。大いに見方が別れるのがサフラジェットとその活動なのです。

1-1-3. 背後に上流階級を感じる教養とセンス

サフラジェットの資金集めで大量に販売された主要メンバーのエメリン・パンクハーストのバッジ(女性政治社会連合 1909年頃)

 これはサフラジェットの資金集めのために、女性政治社会連合(WSPU)が販売したバッジです。

資金の集め方もそうですが、意味を込めた3色を象徴として使うなど、明らかに上流階級の気配を感じます。

女性の識字率も十分とは言えず、女性に十分な教養が施されなかった時代、庶民の女性が主体になって、このような知的戦略が立案・実行できたと見るのは違和感があります。

教養や知識に加え、俯瞰して物事を判断できる視座、組織化と組織運営のノウハウ、人心掌握術や扇動術、資金集めの能力など広範囲に必須です。テロリスト同然の破壊活動を行った女性たちとは明らかに齟齬を感じます。

1-1-4. サフラジェットの興り

 フェミニズムを辿ると、女性だけでなく男性も重要な存在であることが分かります。本来、男女は対立構造ではなく、お互いに必要かつ尊敬し合える存在です。

英国国会で女性の参政権を提唱した最初の2人
国会議員ヘンリー・ハント(1773-1835年)1810年、37歳頃 国会議員/哲学・政治経済学者ジョン・ステュアート・ミル(1806-1873年)1870年、64歳頃

イギリスで最初に女性の参政権を提唱したのは国会議員ヘンリー・ハントで、ウィリアム4世の治世下の1832年のことでした。2人目として提唱したのがジョン・ステュアート・ミルでした。学者でもあったミルが1869年に出版した初期のフェミニスト作品『The Subjection of Woman』が、サフラジェットの発生に大きな影響を与えたとされます。直訳すると『女性の服従/隷属』となりますが、日本で出版される際は『女性の解放』と翻訳されています。

哲学者ハリエット・テイラー・ミル(1807-1858年)1830年、23歳頃

偉そうなおじさんがフェミニズを語ってもピンと来ないと思いますが、実は背景に運命の妻ハリエット・テイラー・ミルが存在します。

女性の人権啓発活動を行った哲学者で、新聞も含めて多くの著作を上梓していますが、本人名義で発表したものは少ないです。

匿名であったり、夫ジョン・ステュアート・ミルの名義で出版された書籍でハリエットの著述を読むことができます。

18歳で結婚したハリエットはミルに出逢った際、既にジョン・テイラーと結婚していました。

最初の夫テイラーは1830年、女性の権利に強い関心を持つ妻ハリエットのために、同じ関心を持つミルをディナーに招待しました。2人の友情はすぐに開花したそうです。ミルはハリエットに惹かれ、彼女を知的に平等に扱いました。

男性の中でも特に知的に優れた人は、誰とでも話題を共有して楽しめるわけではありません。楽しく会話できる女性なんて滅多にいるはずもなく、すぐにハリエットにゾッコンとなったようです。約18ヶ月後、我慢できなくなったミルはフランス語で情熱的なラブレターを送ってしまいました。フランス語は上流階級の共通語で、フランス語ができると今でもイギリスではモテるというほど特別感があります。しかしハリエットには3人の子供もおり、1度はその愛は断りました。しかし、すぐにそれまで以上に親しくなったそうです。

1833年の初秋、ハリエットの夫テイラーは裁判で別居に合意しました。

哲学者ハリエット・テイラー・ミル(1807-1858年)

自らが紹介した男性に速攻で妻を取られるなんて、世間的に大恥です。

間違いなくミルと非常に幸せに暮らし始めたハリエットでしたが、良心の呵責に耐えられず翌1834年の夏までに家に戻ったそうです。

ミルはハリエットの家を頻繁に訪れ、その後は約20年間テイラーと、時にはその子供たちも一緒に特にフランスに旅行しています。

そうして1849年、最初の夫テイラーが旅立ちました。そこから2年待ち、1851年にようやく運命の2人は結婚しました。

ジョン・ステュアート・ミル(1806-1873年)と妻ハリエットの娘ヘレン・テイラー(1831-1907年)

ミルの結婚は『完全な平等』を体現するもので、ハリエットはミルが制作した全ての資料を熟読し、コメントもしました。

しかし幸せな日々は1858年に終わりました。フランス南部に向かう途中のアヴィニョンにて、ハリエットは51歳で病死しました。

ミルは妻の墓の近くにいたいとアヴィニョンに家を購入し、ハリエットの娘ヘレン・テイラーと、亡くなるまでの15年間を暮らしました。

ハリエットとはヘレンを妊娠していた頃に出逢っており、もともと一緒に旅行などもしていたので、まさに父と娘のような感じだったかもしれませんね。

ヘレンは母ハリエットが、「全ての女性がいつか自由に生きていけること、自身で自由に選んだ仕事ができること」を望んでいたことを理解していました。継父ミルと一緒に暮らしながら働き、共に女性の権利の促進に情熱を捧げました。ロンドン教育委員会のメンバーになったり民主連邦に入党するなど、女性参政権の支持者として、一般庶民ではなくヘレンだからこそできることをしました。

対等な立場として尊敬し合った運命の2人
哲学者ハリエット・テイラー・ミル(1807-1858年)1830年、23歳頃 国会議員/哲学・政治経済学者ジョン・ステュアート・ミル(1806-1873年)1863年、57歳頃

ミルは多くの著作を残し、「自由主義と社会自由主義の歴史の中で最も影響力のある思想家の1人」、「19世紀で最も影響力のある英語圏の哲学者」など、女性の参政権、自由と権利獲得につながった影響の大きさから高く評価されています。

そのミル自身は自伝の中で、自身の名義で出版した殆どの書籍や記事はハリエットとの共同著書であると、妻の功績を主張しました。「2人が考えた推測を完全に共有している場合、独創性の問題に関して、どちらがペンを持っているのかは殆ど影響がない。」とも付け加えています。2人がいかに感性を共有していたか、無二の存在として尊敬し大切に想い合っていたのかが伝わってきますね。

1-1-5. 初期のサフラジェット

【デイム】経済学者ミリセント・フォーセット(1847-1929年)1873年、26歳頃

 男性に関しても1918年までは、全ての成人男性が参政権を認められていたわけではありませんでした。日本もそうでしたが、財力のある一部の男性のみが参政権を持ち政治参画する時代でした。

ミルが1865年に女性参政権の政策を提案した際、多数の男女が賛同しました。同1865年、そのミルの選挙演説会に出かけたのが当時18歳頃だったミリセント・フォーセットと29歳頃の姉エリザベス・ギャレット=アンダースンの姉妹でした。

貴族ではないものの裕福な大商人の家です。妹ミリセントは最終的にはその功績でデイム(男性のナイト相当)を叙勲しており、広義で上流階級を形成する層と見て良いでしょう。

姉エリザベス・ギャレット=アンダースン
英国初の女医エリザベス・ギャレット=アンダースン(1836-1917年)1866年、30歳頃

 姉エリザベス・ギャレット=アンダースンも有名で、イギリス初の女性医師として知られます。

裕福な家ということで家庭教師に教育を受けた後、13歳から上流階級のご令嬢のための寄宿学校に入学しています。特殊な教養やマナー、プロトコルなどを身につけたことが分かります。

医学を志したものの、当時のイギリスでは女性への医学教育そのものが門戸を閉ざしていました。訓練を受けても医師免許が降りないため、パリのソルボンヌが医学で学び1870年にフランスで医師免許を取得しています。

女性故の苦労をしながらも暴力的な手段に訴えることなく賢くエレガントに立ち居振る舞い、時代を開拓していますね。

英国初の女性首長エリザベスのオールドバラ町長就任セレモニー(1908年)

1883年から1903年まで女子医学校の共同創設者にして医学部長を務め、英国医師会に入会を認められた初の女性、英国教育委員会に選出された初の女性にもなりました。72歳となる1908年にはmイギリス初の女性首長としてオールドバラ町長に就任しています。

妹ミリセント・フォーセット
ヘンリー&ミリセント・フォーセット夫妻(1880年頃)
【引用】 ""The Woman's Library collection ©LSE Library

 妹のミリセントは20歳となる1867年に結婚しました。

夫ヘンリーはケンブリッジ大学経済学部教授で急進派の国会議員でもありました。

目が不自由だったため、ミリセントは研究助手や政治秘書を務めました。賢くないとできない務まりませんね。

ヘンリーは紳士農家(Gentleman farmer)の家に生まれました。財産の一部として農園を所有し、生活や利益ではなく趣味として農業を行う地主を言います。

ミリセントの家同様、アッパー・ミドルクラスの富裕層と言えます。

ヘンリー・フォーセット(1833-1884年) "Henry Fawcett, close up of Fawcett Memorial in Victoria Embankment Gardens, Kondon ©Stephencdickson/Adapted/CC BY-SA 4.0

最初から盲目だったわけではなく、1858年の25歳の時、拳銃事故で失明しました。それにも関わらず勉学を続けたそうです。

弁護士としてのキャリアは断念したものの、国会議員となってウィリアム・グラッドストン内閣の逓信相も務めています。

1863年にはケンブリッジ大学の初代経済学教授ちなり、1883年にはグラスゴー大学の学長にも選出されています。

政治家としては急進派で、1865年にブライトンの国会議員に初選出となりました。女性の参政権のためのキャンペーンも行っており、その活動を通じて1865年に例のエリザベス&ミリセント姉妹に出逢っています。

ジョン・ステュアート・ミル(1806-1873年)と妻ハリエットの娘ヘレン・テイラー(1831-1907年)

年の近い姉エリザベスにプロポーズしたものの、エリザベスは医師の道に集中したい想いもあり断りました。

社交界も政財界も狭い世界です。

ミルは演説会に来た姉妹とも顔見知りになり、妹ミリセントにも、様々な女性の権利活動家の男性を紹介していました。

ヘンリー&ミリセント・フォーセット夫妻(1872年)

結局1867年、妹ミリセントはヘンリー・フォーセットと結婚しました。

14歳差でしたが2人の結婚は「完璧な知的共感に基づく」と称されるほど、相性が良いものでした。

夫を助けながらミリセントは執筆活動や女性の権利運動にも励み、1870年に『初心者のための政治経済』を出版、1875年には女性の大学進学のためにケンブリッジ大学ニューナム・カレッジ設立に貢献しています。

夫への協力を通して知識を身につけたり、政財界へのコネクションや実績も増やせたはずです。良い関係性ですね。

フォーセット夫妻の一人娘フィリッパ・フォーセット(1868-1948年)1891年、23歳頃

夫妻の娘フィリッパもかなり賢かったようで、数学や流体力学などで才能を発揮しました。理系ですね〜♪

1890年に、ケンブリッジ大学の数学トリポスで最高点を獲得した初の女性となりました。

2位と比較して13%も高い点数を獲得していましたが、女性であるが故にシニア・ラングラーの称号は得られなかったそうです。

父ヘンリーは1884年に逝去しており、娘の偉業は見られませんでしたが、母ミリセントは女性の権利獲得のためのさらなる原動力となったことでしょう。

ケンブリッジ大学でシニア・ラングラーを受けるアーサー・ケイリー(1842年)

ちなみにケンブリッジ大学の数学部や数学トリポスは難易度の高さで知られ、そこで最高点を出したシニア・ラングラーは『英国で達成できる最大の知的成果』と称されるほどの存在です。歴代のシニア・ラングラーは数学、物理学、その他の分野で世界をリードする著名人揃いで、極めて栄誉ある称号でした。

女性であるが故に称号を得られなかったフィリッパでしたが、成績発表では『シニア・ラングラー』より上と紹介されたそうです。

1-1-6. 2系統が存在したサフラジェット

 ミリセントは1868年にロンドン参政権委員会に参加し、1869年22歳の時、ロンドンで開催された最初の女性参政権会議で講演して政治家としてのキャリアをスタートさせました。

フォーセットが議長を務めるサフラジェット同盟会議(ロンドン 1909年)
"Suffrage Alliance Congress, London 1909" ©Nasjonabiblioteket/Adapted/CC BY 2.0

1870年には夫の選挙区で講演するなど、地道に実績を重ねていきました。1897年には各地のサフラジェット協会をまとめ上げ、国際サフラジェット連合(NUWSS)を設立して会長に就任しています。

暴力系サフラジェットWSPU設立者エメリン・パンクハースト(1858-1928年)1911年、53歳頃

これは目的達成のためならば暴力的手段も辞さないとし、テロ同然の過激な行動で社会を混乱に陥れた女性政治社会連合(WSPU)と異なる団体です。

ミリセントは法に適うキャンペーン、リーフレットの発行、大会の組織、請願の提出などを地道に続けました。社会全体の変革を目指すのですから時間がかかるのは当たり前です。ミル夫妻からハリエットの娘、世代を超えて着実に歩を進めて来ました。

しかし活動が浸透してくると、目先だけで行動する者が出てくるものです。ミリセントらのやり方では効果がないと早々に判断し、6年後の1903年にエメリン・パンクハーストが設立したのがWSPUでした。

効果が見込めるなら戦闘的な対応も辞すべきでないという体制はすぐに過激化し、エメリン自身も7回も投獄されています。

有名な暴力系サフラジェット WSPU
アニー・ケネディと、設立者エメリンの長女クリスタベル・パンクハースト(1908年頃) 殉教者として死を報じられるエミリー・デイヴィソン(デイリー・スケッチ 1913年)

こちらの団体はやり方が汚く下品で共感しがたいです。WSPU設立者エメリンの3人の娘もすぐに運動に参加しました。その1人、クリスタベル・パンクハーストは警官に唾を吐きかけて逮捕されています。窓ガラスを割る、暴力を振るうなどから過激化し、放火や爆弾テロなど、一度タガが外れるともはや止まりません。被害者も誰しもやられっぱなしになるわけでもなく、報復が連鎖しながらさらに過激化していく状況となりました。

暴力系サフラジェット(ロンドン 1911年)
WSPU設立者エメリン・パンクハースト、長女クリスタベル、次女シルビア

『北風と太陽』。自分の主張を押し通すために、物理的手段で無理やり強制しようとするのは逆効果です。思い通りにならないからと、短絡的に暴力や脅しに走るのは、参政権獲得のためになるわけがありません。むしろ「女性はすぐヒステリーを起こす。」、「女性は理性的な判断と行動ができない。」と思われて、多くの女性にとっては大迷惑です。これで参政権を与えたら、むしろ"英国政府はテロに屈した"構図にしかなりません。

案の定、暴力系サフラジェットの振る舞いを見て、女性参政権運動に反対する人々に「女性が感情的すぎて男性のように理論的に考えられない証拠だ!」と主張させる結果となりました。

1-1-7. 地道な活動で達成した限定的な女性参政権の獲得

中央左:レディ・フランシス・バルフォア、右:NUWSS会長ミリセント(1911年)
"Millicent Garrett Fawcett and Lady Frances Balfour at Womaen's Coronation procession" ©LSE Library

 ミリセントらは暴力的手法に反対し、NUWSSとして地道な活動を着実に続けました。これはWUWSSの執行役員メンバーで、中央がレディ・フランシス・バルフォアと会長のミリセントです。

【サフラジェット貴族】レディ・フランシス・バルフォア(1858-1931年)1919年、61歳頃

レディ・フランシス・バルフォアはNUWSSに於ける貴族のメンバーとして影の会長のような存在でもあり、1896年から1919年まで執行役員の1人としてサフラジェットの指導的役割を果たしました。

スコットランド貴族の第8代アーガイル公爵ジョージ・キャンベルを父に持ち、曽祖父はあの1746年のカロデンの戦いで連隊を指揮しています。

公爵家は王族も連なる、爵位貴族の最上位です。父で8代目ということで、代々続く由緒正しい家柄です。

レディ・フランシスが着用した2連のネックレスは、ジョージアンのゴールド・ロングチェーンのようにも見えますね♪

ヘンリー&ミリセント・フォーセット夫妻(1872年)

会長ミリセントの亡くなった夫ヘンリーも閣僚経験者でした。政治を動かすのは男性ですが、そのような身分の男性の妻は意見を反映させたり、根回しすることができます。

貴族であるレディ・フランシスをはじめ、そのような立場の女性たちが集まったNUWSSだからこそ常に法に適う理性的な振る舞いを徹底し、第一次世界大戦中も地道にロビー活動を継続しました。

そしてようやく連立政府とNUWSSの間に合意がなされ、1918年2月6日、ついに国民代表法が通過しました。

英国の女性参政権獲得の歩み
国会議員ヘンリー・ハント(1773-1835年) ハリエット・テイラー・ミル(1807-1858年) ジョン・ステュアート・ミル(1806-1873年)&ハリエットの娘 フォーセット夫妻(1872年)

これにより、最小限の財産要件を満たす30歳以上の女性が参政権を獲得しました。840万人が相当しました。イギリスの当時の人口はおよそ4千万人です。

また、それまで一部の男性しか参政権がありませんでしたが、21歳以上の男性は全員参政権を得ました。同年11月、女性資格議会法も通過し、女性が議会に選出されることも可能となりました。その10年後、1928年には21歳以上の全ての女性に投票権が広げられ、男女の区別なく投票できるようになりました。

長い長い道のりでしたが、気品と理性を保ち続けた愛に溢れる人々によって達成されました。最初に女性参政権を提唱したヘンリー・ハントも詳細な背景は今となっては分かりませんが、尊敬できる最愛の女性が伴侶にいただろうと想像します。男女が対立するのではなく、どの人々も才能に溢れ、尊敬と共に愛し合える関係でした。

【デイム】経済学者ミリセント・フォーセット(1847-1929年)1873年、26歳頃

これらの功績により、ミリセントは1919年にバーミンガム大学から名誉博士号を授与され、1925年には大英帝国勲章のデイム・グランド・クロスを叙任しました。

女性には活躍が厳しい環境の中、姉エリザベスも女性初の医学部長や町長を歴任し、娘フィリッパもシニア・ラングラーを超えの称号共に学術の分野で活躍しながら、女性参政権運動にも尽力しました。

つないで来た皆で勝ち得た、誇るべき称号とみて良いでしょう。これこそがサフラジェットの真の姿です。

1-1-8. 知られざるサフラジェットの真実

 サフラジェットと言えば一般的には派手に暴れ回った暴力系の団体や人物が有名で、世間的にもそのイメージの方が強いです。それまで興味がなかった人々に課題を認識してもらい、意識を高める貢献はあったものの、実現に導いたのは人知れず陰で尽力した心美しい知的な人々でした。

サフラジェットの装飾品
資金集めグッズ 上流階級のハイジュエリー
前科7犯エメリン・パンクハーストの量産バッジ(WSPU 1909年頃) ペリドット&ピンクトルマリン&天然真珠のサフラジェットのネックレスネックレス
イギリス 1890年頃
SOLD
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント今回の宝物
イギリス 1900年頃
ネックレス
イギリス 1905年
SOLD

しかし、現代では大量生産された資金集めの粗末なバッジと、パンチ力のあるテロ活動や国王の馬にはねられ殉死したなどの話に埋もれ、真の功労者たちは身につけていたサフラジェットのハイジュエリーと共に知られざる存在となっています。

しかし、時を超えて語りかけることができる宝物が、そのような女性たちが確かに存在したことをこうして教えてくれるのです。優しく愛に包まれ、知性と理性を備えながら頑張った高貴な女性たちがいたのだと・・。

1-2. 軽やかなドレスとジュエリーが流行した新時代

1-2-1. ファッションリーダー移行に伴う流行スタイルの大きな変化

 イギリスのデザインは特に19世紀後半に大きく変化しました。1つは開国による日本美術の影響がありますが、特にジュエリーに関しては、ファッションリーダーがヴィクトリア女王からアレクサンドラ王太子妃に移ったことも大きいです。

ヴィクトリアンのファッションリーダー
ヴィクトリア女王
即位(1837年)〜服喪(1861年)
アレクサンドラ王太子妃/王妃
女王の服喪(1861年)〜エドワーディアン
英国君主ヴィクトリア女王(1819-1901年)1859年、40歳頃 アレクサンドラ王妃(1844-1925年)1905年、61歳頃

孫もいた42歳でアルバート王配を1861年に失って以降、ヴィクトリア女王は二度と華やかな衣装に身を包むことなく残りの生涯を喪服で過ごしました。新たにファッションリーダーとなったのが王太子妃のアレクサンドラ・オブ・デンマークでした。流行スタイルはファッションリーダーの個性や好みを反映しますが、この2人は特に個性の違いが大きく、同じ『ヴィクトリアン』でもミッド・ヴィクトリアンまでと、レイト・ヴィクトリアン以降では雰囲気はガラリと変わります。

1-2-2. 重厚なデザインから脱却した新時代

オーストリア皇后エリーザベト(1837-1898年)1865年、28歳頃

 ヴィクトリア女王は、20歳そこそこの若い頃から肥満体質を気にする女性でした。

現代人の感覚からすると気にするほど太かった感じはしませんが、美貌で誉れ高いオーストリア皇后エリーザベトが同時代にいました。

顔立ちのみならず身長172cm、ウエスト51cm、生涯の体重は43〜47kgというモデル体型でした。

ちなみにヴィクトリア女王は身長152cmでした。

ヴィクトリア女王がファッションリーダー アレクサンドラ妃がファッションリーダー
アレクサンドラ王女(1844-1925年)1860年、16歳頃
 【出典】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020
アレクサンドラ王太子妃(1844-1925年)1880年初期、30代後半

ヴィクトリア女王の場合はスタイルを強調するファッションではなく、隠したり欠点をカバーする方向になります。それがクリノリン・ドレスでした。当時デンマーク王女だったアレクサンドラ妃もクリノリン・ドレスを着用しています。美人は何でも似合うとは言え、魅力を生かしているとは言い難いです。

右はアレクサンドラ妃がファッションリーダーとなった時代です。エリーザベト皇后が自身とどちらが美しいか非常に気にするほど、アレクサドラ妃の美貌とスタイルの良さは際立っていました。そのような人々は隠すより、スタイルの良さを際立たせる方が惹き立ちます。

アレクサンドラ王妃の娘たち
次女ヴィクトリア王女(1868-1935年)20世紀初期 三女ノルウェー王妃モード(1869-1938年)37歳頃

エリーザベト皇后は過酷で不健康なダイエットで知られますが、アレクサンドラ妃は年子で6人も産み、現代のような延命治療のない時代に80歳の天寿を全うしています。スタイルに気を遣っていたとは思いますが、体質も大きかったのでしょう。その遺伝子は、次世代のファッションリーダーとなる娘たちにも引き継がれました。

ドレスに見る流行スタイルの変化
ミッド・ヴィクトリアン レイト・ヴィクトリアン エドワーディアン
PDクリノリンのドレス(1850年頃)
メトロポリタン美術館
PD
宮廷用ドレス(1885年)
メトロポリタン美術館
イブニングドレス 1902年
【引用】 Eveniing dress ©The Metropolitan Museum of Art.

ミッド・ヴィクトリアンはドレスにボリュームを出すため、張りがある厚めの生地が流行しました。アレクサンドラ妃の時代となり、レイト・ヴィクトリアンはまだ前時代を引きずった感がありますが、身体に寄り添うような柔らかな生地が流行するようになっていきます。1900年頃には生地も含め、重厚なヴィクトリアンからの脱却がはっきり感じられます。

ミッド・ヴィクトリアンのドレスだとボリュームと存在感のあるジュエリーが合いますが、1900年頃の最先端ドレスだと、もはやミッド・ヴィクトリアンのジュエリーは全く合わないですね。

1-2-3. ドレスとジュエリー

ミッド・ヴィクトリアンの流行スタイル
ヴィクトリア女王とアルバート王配(1861年)共に42歳頃 母が娘に贈ったヴィクトリア女王のオパール・ピアス(1850〜1860年頃)【引用】ABC News / Royal opals worn by Queen Victoria sent to Adelaide for SA Museum exhibition (24 September 2015, 5:57)

ドレスによって、合うジュエリーは全く異なります。ミッド・ヴィクトリアンに流行したボリュームある装いには、存在感のあるジュエリーでなければ吊り合いがとれません。

透け感のあるモスリンのレセプション・ドレス(ウォルトのメゾン 1900〜1910年頃) 【参考】ミッド・ヴィクトリアンのブローチ

レイト・ヴィクトリアンからエドワーディアンにかけてはシルク・オーガンジーや薄手のモスリンなど、柔らかく透け感のある素材が好まれました。

これは目の玉が飛び出るほど高価だった、世界の王侯貴族や新興成金に絶大な人気を誇ったウォルトのメゾンのドレスです。

重たいブローチは生地に負担をかけますし、そもそも雰囲気が合いません。

ヴィクトリアン末〜エドワーディアン頃のファッション
(1890〜1910年頃)

1900年頃は軽やかなドレスが好まれ、それに合わせてアイテムとしてはネックレスやペンダントが重宝され、デザインも軽やかさや優しい色彩が好まれることとなりました。

1900年頃の軽やかなドレスに合うネックレス
ペリドット&ホワイトエナメル ネックレス アンティークジュエリー『ゴールド・オーガンジー』
ペリドット ネックレス
イギリス 1900年頃
¥1,000,000-(税込10%)
天然真珠のフランボワーズのアールヌーヴォー・ゴールド・ネックレス『フランボワーズ』
アールヌーヴォー 天然真珠ネックレス
フランス 1890〜1900年頃
¥2,200,000-(税込10%)
オーストラリア産オパール&ダイヤモンドのロング・ネックレス『L'eau』
ロング・ネックレス
イギリス 1900年頃
¥3,300,000-(税込10%)

それが王侯貴族のために作られたハイジュエリーに如実に反映されています。

女性が強く主張する必要のあった女王の時代のミッド・ヴィクトリアンのジュエリーより、ヨーロッパの王族らしい気品を持つとされるアレクサンドラ妃の時代の清楚ながら品格に満ちたジュエリーの方が、一般的な日本人の好みには合うと感じます。

時代ごとのハイジュエリー
【参考】典型的なミッド・ヴィクトリアン 1900年頃
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント今回の宝物

左の2つは典型的なミッド・ヴィクトリアンのジュエリーで、一応は高級品として作られたものです。Genも私もミッド・ヴィクトリアンのジュエリーは極端にお取り扱いが少ないですが、その理由はお分かりいただけると思います。成金嗜好の人にはミッド・ヴィクトリアンのジュエリーの濃い色彩とボリュームある風体が高そうに見えるらしく、高度経済成長期やバブル期、それらの時代を引きずった世代には人気がありました。

そのような人たちには洗練されたジュエリーの価値は分からないようですが、時代ごとに社交界で流行したスタイルが違うだけなのです。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

いかにも軽やかなドレスに合いそうなデザインは、まさに当時の最先端を反映した王侯貴族のハイジュエリーと言えるのです。

2. センスを感じる複雑で美しい新時代の渦のデザイン

2-1. 8の字のようなダイナミックな宝石の渦の表現

陰陽魚太極図 ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 今回のサフラジェットの宝物は、デザインに強い魅力があります。動きを感じるスパイラルのような渦のデザインで、『陰陽魚太極図』を彷彿とさせます。

これは男女を表現している可能性が高いです。

2-1-1. 男女の平等を目指したサフラジェット

『天地創造』(ルーカス・クラナッハ 1534年)

光と闇、昼と夜、太陽と月、男と女。

陰陽は表裏一体にして片方のみでは成立しません。

陰陽魚太極図はシンプルな図像にして深い意味を持ち、男女は表裏一体で平等な存在であることも示します。

サフラジェットの装飾品
資金集めグッズ 上流階級のハイジュエリー
前科7犯エメリン・パンクハーストの量産バッジ(WSPU 1909年頃) ペリドット&ピンクトルマリン&天然真珠のサフラジェットのネックレスネックレス
イギリス 1890年頃
SOLD
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント今回の宝物
イギリス 1900年頃
ネックレス
イギリス 1905年
SOLD

色彩だけで、サフラジェットとしての意味は込められています。

Give Woman Vote(婦人参政権運動)
 Give→green(緑):希望
 Woman→white(白):純粋
 Vote→violet(紫):尊厳

しかし、今回のサフラジェット・ジュエリーはそれ以上の深い意味が込められた、実に見事な宝物です。

2-1-2. 女性の最大の理解者にして支援者となり得る男性

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 これは男性が贈り物として、最愛の女性のためにデザインした可能性が高いとみます。

暴力系サフラジェットは"男性を打倒すべき敵"と見ましたが、実際に運動を成功に導いたのはお互いを尊敬し想い合う男女の愛でした。

本来、男性は女性の敵などではありません。最大の理解者にして、最大の支援者になり得る存在です。

ヴォルテール&シャトレ夫人

 優れた女性と、その才能を理解して素直に敬愛できる男性の例はいくつも挙げることができます。たとえば18世紀のフランスには、愛人関係だった知的階層のヴォルテールとシャトレ夫人がいました。

ヴォルテール(1694-1778年) エミリー・デュ・シャトレ(1706-1749年)

詳しくは以前ご紹介していますが、シャトレ夫人は科学者として特別な数学や物理学の才能を持っていました。ヴォルテールもその頭脳もあって超有名人でしたが、数学や物理学に関してはシャトレ夫人の方が優れていたそうです。しかし女性であるが故に業績を正当に評価されず、ヴォルテールの影に隠れた存在でした。

シャトレ夫人は42歳の若さで亡くなっていますが、友人に宛てた手紙では「彼女は偉大な人物だった。唯一の欠点は女性だったことだ。」と書いています。

『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン著(初版1687年)のフランス語訳の扉絵(シャトレ夫人訳 1759年出版)

無二の才能を持つ女性の代わりはいません。傷心のヴォルテールはシャトレ夫人を想い続け、夫人の没後10年となる1759年に夫人名義でフランス語訳『自然哲学の数学的諸原理』を出版しました。

彼女の功績をしっかり遺したい、世の中に知ってもらい、きちんと評価してもらいたいという想いが伝わってきます。

扉絵には、ヴォルテールを知性の光で照らす知の女神としてシャトレ夫人が表現されています。

「僕自身が賢いのではなく、知性の光で照らしてくれる彼女こそが真の知の女神であり、本当に素晴らしい人なのです!!」、ということでしょう。

『ニュートン哲学の基礎』(ヴォルテール 1738年)シャトレ夫人と天使を描いた挿絵

12歳年下の女性を対等に扱い、正当に評価し、深く尊敬する姿がそこにはあります。ヴォルテール自身の真に優れた知性と人柄が伝わってきます。

女性を女性というだけで下に見たり、年下というだけで下に見る男性は、結局はそうしないとプライドが保てないほどチンケな存在である上に、それを無意識に自覚しているという哀れな事実があります。男性の中でも十分に高く評価されるような男性は、男性であるということに誇りを持つ必要がありません。世の中の半分は男性なわけで、それを女性に大して偉そうに振りかざしてプライドを保つなんて、大局的にみるとかなり滑稽な姿です。

フランス王ルイ15世(1710-1774年)1748年、38歳頃

顔が良いだけで女性ばかりに夢中だった、頭の軽いルイ15世とは相性が悪かったようで、ヴェルサイユ宮殿に出禁をくらったこともあります。王様にすら媚びを売ることなくプライドを保ち、意思や意見を主張できる男性でした。

フランスの政治や政府の批判も歯に衣着せず行い、22歳で投獄された経験もあります。このような振る舞いは確固たる自信もないとできません。

その鋭い言説は『辛辣』と評されることもありますが、自己顕示欲に基づく誹謗中傷の類ならば人を惹きつけることはありません。

サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世の食卓
左からフリードリヒ2世、前傾で話す紫コート:ヴォルテール、アルゲン侯爵、ジョージ・キース、アルガロッティ伯爵、ラ・メトリ、マルキ・ダルゲンス

優れた国家運営や教養の深さ、功績によって『フリードリヒ大帝』と呼ばれ、『哲人王』とまで称されたプロイセン王フリードリヒ2世からは高く評価され、宮廷に招かれています。フリードリヒ大帝とヴォルテールは知性や教養を介して非常に親密だったそうで、大帝が錚々たる教養人と食卓を囲むこの絵画でも、ヴォルテールは大帝の隣に描かれています。

前傾で話す紫色のコート姿の男性がヴォルテールですが、その楽しい話に皆々が興味津々で視線を送っています。これは後年1849年に描かれた絵画ですが、資料などを元に表現しているはずなので、ヴォルテールがどう評価されていたのか分かりますね。

頭が良すぎると理解できない人からは辛辣だ、無礼だなどの言われ方をされたりしますが、知的階層から高く評価されたのは純粋で誠実な人柄と、確かな頭脳の証と言えます。グランドツアーで渡仏したイギリス貴族の子弟もヴォルテールを尋ねる『ヴォルテール詣』は定番で、絶えず人気者でした。経験値の浅い若者でもアクティブに快く受け入れていたのでしょう。

エミリー・デュ・シャトレ(1706-1749年)

誰でもは理解できぬほど卓越した頭脳を持っていたからこそ辛辣などの批評もありましたが、類は友を呼び、国籍や民族を超えてヴォルテールを高く評価する人たちは多くいました。

理解できる人から正当に評価されれば心満たされ、楽しく過ごせます。

ヴォルテールは心満たされていたからこそ、シャトレ夫人のことも正当に評価し、さらには女性であるが故の不当な扱いに心痛め、彼女の死後ですら少しでも正当な評価が受けられるよう尽力したのでしょう・・。

マッキントッシュ夫妻
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 時代を降り、今回の宝物と同じ1900年頃のイギリスの事例をも挙げておきましょう。

HERITAGEでは何度もご紹介している、グラスゴー派のマッキントッシュ夫妻です。

チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928年) マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ(1864-1933年)

2人はグラスゴー美術学校時代に知り合った芸術家夫妻です。夫チャールズ・レニー・マッキントッシュはモダニズム運動の先駆者として世界的な知名度があります。実際、若い頃から頭角を現し、海外でも展覧会を開いたり、母校グラスゴー美術学校の新校舎の設計コンペに27歳で優勝するなど実績を重ねています。

そのチャールズに、「マーガレットには天賦の才がある。私にはただの才能しかない。(Margaret has genius, I have only talent.)」と言わしめたのが妻マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュでした。

『アネモネ』(マッキントッシュ夫妻が出版した植物画集 1915年)

マーガレットはスケッチブックを持ち歩くことがなかったそうで、写実ではなく感性で描く芸術家でした。

写実は極めれば"誰が描いても同じ"にしかなりません、感性で描く作品はその人だけの唯一無二の魅力を備えます。

ただ、それを『人の心を動かす作品』にまで昇華させるのは天才にしかできない技です。

真似しようと思ってもできるものではなく、それこそが天賦の才と表現された所以でしょう。その才はその凄さを想像できるレベルの才能を持つ人でなければ理解できないものだったと想像します。

モダンスタイル
-天才マーガレットの代表作-
セセッション
-クリムト黄金時代の代表作-
『風のオペラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1903年) 『接吻』(グスタフ・クリムト 1907-08年)

その点で、同じ芸術家同士だと理解しやすかったかもしれません。1900年のセセッション展に招聘されたマッキントッシュ夫妻らは、セセッションの芸術家たちに多くのインスピレーションをもたらしました。

マーガレットの影響が顕著に見られるのがグスタフ・クリムトです。クリムト黄金時代の代表作とされる『接吻』は、マーガレットの代表作『風のオペラ』にインスピレーションを受けて描かれたとされます。独特の構図は間違いないでしょう。他の作品にも影響が見られますし、クリムトの作品の変遷を見ればより強く納得できます。

『芸術愛好家のための音楽室』のデザインの再現(マッキントッシュ夫妻 1901年)
"Music room house for an art lover" ©marsroverdriver(20 December 2011)/Adapted/CC BY-SA 2.0

マッキントッシュの作品は夫婦合作と言えるものが多いですが、時代背景もあって男性のチャールズのみがフォーカスされ、世間一般の評価としてはマーガレットは影に隠れた存在だったようです。

マッキントッシュ家のリビングルーム(1906-1914年)の再現
【引用】University of Grasgow HP ©University of Grasgow.

二人がデザインした自宅は、まだ重厚なヴィクトリアンの内装が通常だった時代に人々を驚かせるものでした。皆がその洗練された空間に心を打たれたそうです。招かれた知人の一人は、「家はいつも綺麗で暖炉には火が入り、上品なお菓子と美味しい紅茶を振舞ってくれた。」と語っています。

『日本のマンサク』(マッキントッシュ夫妻が出版した植物画集 1915年)

1915年に出版した植物画集も、マッキントッシュ夫妻の共同制作です。下のフレーム内に夫妻のイニシャルが記載されています。

CRM: Charles Rennie Mackintosh

MMM: Margaret MacDonald Macintosh

 

愛する男女のどちらかが上でも下でもなく、マッキントッシュ夫妻は芸術家としてのお互いの才能、そして人間としても尊敬し合う平等な関係です。

自分はただの才能があるだけで、マーガレットは天賦の才を持っている。そう言える男性が、愛する女性を輝かせたことは間違いないでしょう。

2-1-3. お互いを高め合える男女の関係

 優れた女性の側に、優れた男性がいました。愛する女性の才能を理解し、尊敬の念を持てる男性たちは自身を卑下したり、寄生虫のような人たちではありません。自身も卓越した才能を持ちながら、同様の才能を持ちながらも女性というだけで正当な評価をされない、愛する存在のために心を痛め、どうにかしたいと尽力しました。

ヴォルテール(1694-1778年) ヘンリー・ハント(1810年) ジョン・ステュアート・ミル(1806-1873年) ヘンリー・フォーセット(1833-1884年) チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928年)

男性を敵と見做し、攻撃を加える暴力系サフラジェットに美しい愛の存在は全く感じられません。しかし、社会を変革に導いたサフラジェットや、苦難の時代を懸命に生きた女性の側には良き理解者にして、最大の支援者である優れた男性がいました。

陰陽魚太極図 ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

お互いに必要とする平等な存在であり、社会的な権利も等しくあって欲しいという願いを持って、愛する女性の活動を支援するためにデザインしたと想像します。ピンクトルマリンは女性、グリーンのペリドットは男性を象徴する図像です。

2-1-4. 想いを込めたピンクトルマリンの色彩と巧みなカット

前科7犯エメリン・パンクハーストの量産バッジ(WSPU 1909年頃)

 サフラジェットのシンボルを3色カラーにしたのも、実にヨーロッパ上流階級らしいです。秘密のメッセージを宝石言葉で表現するアクロスティック・ジュエリーの文化がありで、自然な発想だと感じます。

この運動の対象が上流階級だけならば宝石言葉で良いですが、すべての女性が対象です。だからこそ敢えて宝石ではなく、誰もが気軽に意思を示すことができるよう『色彩』に意味を込めたのでしょう。

サフラジェットのハイジュエリー
ペリドット×真珠/ダイヤモンド×ピンクトルマリン ペリドット×ダイヤモンド×アメジスト
ペリドット&ピンクトルマリン&天然真珠のサフラジェットのネックレスサフラジェット ネックレス
イギリス 1890年頃
SOLD
サフラジェット ネックレス
イギリス 1905年
SOLD

Give Woman Vote(婦人参政権運動)
 Give→green 希望
 Woman→white 純粋
 Vote→violet 尊厳

色彩指定であるが故に、宝石の種類は幅を持たせることができます。白は天然真珠やダイヤモンドを選べますし、紫もピンクトルマリンやアメジストのバリエーションがあります。

ピンクトルマリンのハイジュエリー
イエローを帯びたスウィート・ピンク ブルーを帯びたノーブル・ピンク
天然ピンクトルマリンと天然真珠のナイフエッジのネックレス 『PURE LOVE』
イギリス 1900年頃
SOLD
『SUFFRAJET』
イギリス 1900年頃
SOLD

天然宝石であるピンクトルマリンは、色彩にも個性があります。同じ『ピンク』でも、色味によって印象は変わります。

右はサフラジェットの紫(威厳)を象徴するため、青みを帯びた高貴な雰囲気のピンクトルマリンをわざわざ選んでいます。

ピンクトルマリンのハイジュエリー
ピンクトルマリン&ジュリアーノスタイル・エナメルのヴィクトリアンのペンダント エナメル ネックレス
イギリス 1880年頃
SOLD
ピンクトルマリン ペンダント アンティークジュエリー『STYLISH PINK』
イギリス 1900年頃
SOLD
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント今回の宝物

左の宝物からも分かる通り、ピンクトルマリンは豊かな色彩も魅力です。そして無理に色を均質化する必要はなく、全体でバランスが取れていれば美しいのです。むしろ左の宝物デザインだと、全てが同じ色だとのっぺりしたつまらない印象となったでしょう。これは着色や合成技術を使う現代ジュエリーや、ガラスやアクリル樹脂で量産するアクサリーのデザインにも言える落とし穴です。

並べてみると、どの宝物も宝石の種類だけでなく、1粒1粒の個性を入念に見極めて選んでいることがお分かりいただけるのではないでしょうか。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

天然で無処理のカラー・ストーンを使うアンティークジュエリーの場合、色彩をコントロールするために、石の厚みを微調整する技術があります。右端の赤が強いピンクトルマリンは、より深い色彩を出すために厚くカットされています。セッティングに高さも出るため、実物だと他のピンクトルマリンより印象的に感じます。

陰陽魚太極図 ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

サフラジェットの紫(威厳)を表現するために、芯の強さを感じる赤に近いペリドットと、それでいて女性らしい優しさも感じられるピンク色の石を選んだのでしょう。

そして敢えて女性性を象徴するピンクトルマリンを上方にデザインしたのも、贈り主の男性の特別な願いの現れと感じます。平等であって上でも下でもないけれど、サフラジェットの運動を成功させるために下でしっかり貴女を支えたい。女性を立てるこの配置だからこそ、やはり愛する人のために男性がデザインしたと思うのです。

2-1-4. デザイン性の高い優美なスパイラル

 陰陽魚太極図は英語圏では『Taijitu』として知られます。様々な表現があり、デザインによって雰囲気も変化しますが、示すものは同じです。

陰陽魚太極図のバリエーションの一部
1370年代 1599年 1613年

ただ、そのままデザインすると、サフラジェットではなくシノワズリ・ジュエリーのようになってしまいます。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

実にセンス良くアレンジしたものだと感じます。

8の字のようなフォルムを使うことでゆとりが生まれ、それがエレガントさにつながっています。シンプル過ぎるとスタイリッシュさが強くなり、それは包容力のある優しい女性とは印象が異なってきてしまいます。

8の重ね合わせにも意味があるかもしれません。数秘術も上流階級の極めて重要な教養の1つですが、蛇足なので今回は止めておきましょう。

2-2. 渦の『動』を強調する静的なストライプの透かし

2-2-1. 対称性を崩すことによる"動き"の発生

モダンスタイルのダイヤモンド・ゴールド・ブローチ『MODERN STYLE』
ダイヤモンド ゴールド ブローチ
イギリス 1890年頃
SOLD

 日本美術は高度な視覚効果テクニックがいくつも使われており、開国後は欧米の美術界の熱心な研究対象となりました。その成果の1つが『対称を意図して崩す』表現です。

『理想の美』を完璧さに求めた結果、ヨーロッパでは長らく人為的に作り出した対称性の高いデザインが好まれました。

対称性が高いと、そのバランスの均衡さ故に動きを感じられないものとなります。しかし僅かに対称性を崩すだけで、驚くほど動きや奥行が感じられるようになることを欧米人は気づきました。

これがネグリジェネックレスの流行などにもつながっているとみられます。

2-2-2. 波の『動』の表現

 動きを感じられるものは、より印象的な美しさへと繋がります。これに気づいたヨーロッパ社交界は、それを意識したデザインも創り出すようになりました。揺れる構造で現実に動きを出すことはお金と技術をかければ簡単ですが、デザインのみで"視覚的に動きを感じさせる"のは高度なデザイン力が必要です。

流線デザインがエレガントなイギリス貴族のハーフパールのゴールド・リング『Eternal Wave』
ハーフパール ゴールド・リング
イギリス 1880〜1900年頃
SOLD
神奈川沖浪裏をモチーフにしたモダンスタイルのサファイア・ブローチ『The Great Wave』
モダンスタイル サファイア ブローチ
イギリス 1910年頃
SOLD

この2つはどちらも波を表現しています。形を変えながら無限に循環していく存在です。具体的な形なきものを表現しようという発想も以前のヨーロッパ美術にはないもので、アンティークジュエリーのデザインの中でも最も高尚な部類に入ると言えます。

左のリングは同じ波形の連続ですが、左右の端は敢えて1粒のみで表現することで、永遠に次の波に続いていくことを示唆しています。余韻の残し方が見事です。最後まで同じ波形で表現していたら、そこでブツっと途切れた印象になったでしょう。

右のブローチはゴールドとプラチナを駆使して波の立体方向の奥行を表現したり、それぞれの弧の大きさや形に個性を持たせることでダイナミックな波を表現しています。海の水を思わせる北斎ブルーのサファイアの配置も見事で、飛沫をあげた波がまた戻り、新たな波となっていく永遠の循環を表現しています。

2-2-3. スパイラルの『動』の表現

セセッション(ウィーン分離派)のサファイア&天然真珠のアンティークの渦巻き型ゴールド・ブローチセセッション ブローチ
ウィーン 1900〜1910年頃
SOLD

 波と同様、渦も永遠の循環を示す動的な存在です。また、渦潮のみならず銀河や台風、人間のつむじやお臍、巻貝や植物の様々に至るまで、自然界のマクロからミクロまでの全てを支配する根源的なものでもあります。

だからこそケルトの渦巻きなど、アンティークジュエリーでも比較的よく目にするモチーフですが、あしらいではなく主役としたデザインは少ないです。

これは大胆な表現ですね♪

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

今回の宝物も、スパイラルそのものがデザインの主役と言えます。ただグルグル巻きの表現ではない上に、変化を付けた8の字型のスパイラルなので、動きを強調するための視覚テクニックが施されています。

それが背景のストライプです。これはスパイラルの『動』に対し、『静』を表現しています。

富嶽三十六景で描かれた波(葛飾北斎 1831年頃)
16. 武陽佃島
エドワーディアン サファイヤ&ダイヤモンド ブローチ
21. 神奈川沖浪裏
葛飾北斎「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
36. 東海道江尻田子の浦略圖

『動き』を繊細かつ豊かに表現したい場合、対比として『不動の存在』を共に描くのは効果的です。動くものだけを描くより、より強く動くものの動きを感じられます。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

それを応用したのが、この宝物のデザインです。

ストライプの有無をご想像ください。

あるのとないので、スパイラルの動的な印象が全く変わって感じられると思います。

2-3. 高級品ならではの驚異の技術よる立体造形

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 2次元で表現する画像の場合、どうしても奥行が感じにくいのですが、ストライプはかなり奥側にデザインされています。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑
外周の環や8の字スパイラル、宝石やバチカンには高さがある一方、スパイラルの透かしはこれだけ奥にあります。
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑
現代ジュエリーの感覚で見ると、細いストライプが折れないか心配になるほど繊細な印象です。しかし、裏側から見るとゴールドの板を削り出してこのストライプを表現していることが分かります。
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

拡大すると、叩いて鍛えた鍛造のゴールドの板を限界まで削り出して、繊細な透かし細工を実現していることが解ります。特に8の字スパイラル部分の細さは驚異的です!職人の手仕事ならではの、研ぎ澄まされた驚異の技を感じます!♪

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

蝋付では、これだけ繊細なデザインで100年以上の耐久性を持たせることは困難との判断で、この恐ろしく手間と技術のかかる方法を選んだのでしょう。ストライプとその周りのゴールドの壁ではかなり厚みに差があり、磨き仕上げにかかった時間は想像を絶します。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑
奥行方向に関して、少しでも斜めに削ると正面から見た時にスッキリと見えなくなります。通常は鋳造で作りたいデザインですが、それでは耐久性と型離れの問題でこれほど細い透かしはにはできません。
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑
ストライプと外周では高さにかなり差があり、これを削りの技術で作るのは「2度とやらない!」と思えるくらい大変だったはずです。
牡丹の刺繍帯牡丹の刺繍帯(2012年)HERITAGE COLLECTION

実際、着物作家さんがコレクションに出展するためにチャレンジングな刺繍を職人さんにお願いして作った帯で、同様のコメントをもらったそうです。

アンティーク着物では手刺繍の見事な刺繍を見ることができますが、現代人が見ると仰天するほど細い針を使っているのが特徴です。

そもそも道具から違うというわけです。その極細の針を折ることなく、極細の糸で刺繍するので、現代とは比べものにならぬほど繊細な表現ができます。

針を刺す回数は格段に増えるので、技術だけでなく手間も何倍もかかります。

牡丹の刺繍帯牡丹の刺繍帯(2012年)HERITAGE COLLECTION

それに準じる技が見られるのがこの帯です。機械刺繍では不可能な、繊細な美的感性に基づくひと針ひと針の高度な技が感じられます。京都の熟練のおじいちゃんの職人さんが作ったものです。あまりにも大変だったそうで、「もう2度とやりたくない。」と言われたそうです。

完成品も実に見事なので、「自分はこれだけのものができる!!」と証明できて満足すると、もう同じようなモチベーションは出せないかもしれませんね。職人のプライドと魂がこもったレベルの作品なんて、いくつも作れるものではないのです。

このようなものは職人さん頼りです。その人がいなくなれば、同等レベルのものは作れなくなります。今は機械刺繍に頼らざるを得ないようですが、デザイナーさん自体は同じでも全くの別物です。類似のものも作れません。できる技術に合わせてデザインせざるを得ません・・。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

この宝物の驚異の作りを見ると、その話を思い出します。

ストライプがかなり奥にあるからこそ、目立たず名脇役として主役のスパイラルを惹き立ててくれます。真心のメッセージが伝わる、美しい宝物に仕上がっています♪

このようなチャレンジングな依頼は、お金だけでの問題ではありません。オーダー主の真心と情熱に感激したからこそ、職人さんも頑張ってくれたのだろうと思います♪

3. 上流階級のジュエリーならではの細部へのこだわり

3-1. 高級品ならではのお金をかけたバチカン

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 サフラジェットを象徴する『白』は、本体の2粒の天然真珠で表現しています。だからバチカンにまで天然真珠を使う必要は、必ずしもありません。簡単な丸カンのバチカンでも、デザイン的には成立します。

お金と手間をかけたハーフパールのバチカンは、この宝物が美意識の高い貴族のために作られた高級品の証です。

そもそも天然真珠自体が高級宝石です。特に当時は史上最も高く評価され、高騰した時代です。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

だからこそ人気が高かったわけですが、色や照り艶など全ての質感が揃った天然真珠を複数揃えるのは想像以上に大変なことです。1粒2粒でも十分なところですが、極小真珠も駆使して隙間なく4粒もセットしています。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

注目すべきは、このバチカンがフラットではなく絶妙な曲率を持っていることです。ペンダントとして首元で収まりが良いよう奥側はフラットですが、正面側は立体感のある美しさを出すためにカーブを付け、ここにセットしているのです。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑
バチカンのフレームのフチは細くシャープです。ゴールドではなく天然真珠の存在感を極限まで際立たせるデザインを、高度な技術で実現しています。お金や手間がかかろうとも、とにかく良いものをという気持ちが伝わってくるバチカンです♪

3-2. 宝石の手間をかけたセッティング

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 この宝物はデザインと細工が抜群なので、宝石そのものには意識が行きにくいかもしれません。

しかしバチカンの驚異の石留のみならず、どの宝石のセッティングを見ても驚きます。

3-2-1. ピンクトルマリン&ペリドット

3-2-1-1. 爪の数と質に現れる宝石の真の稀少価値
【参考】ペリドット・ピアス(ヴィンテージ)

 アンティークジュエリーと、戦後ヴィンテージ以降のジュエリーでは作りが全く異なります。

これはヴィンテージなので現代ジュエリーよりまだマシですが、爪4つの簡素な爪留めです。

鍛造の作りなのでキャスト(鋳造)のようにボテっとはしていませんが、職人の技術がイマイチでシャープさがありません。

【参考】ペリドットの現代ジュエリー

キャストによる量産だと、職人の技量の差は殆どなくなります。ただ、少ない爪で機械的に何も考えず留めようとすると、1つ1つの爪が巨大になります。コストカットを追求した結果、職人に払う人件費よりこの方が安かった証です。

【参考】ティファニーのピンクトルマリン・リング(¥852,500-)2020.7.11現在、処理に関する記載なし
【引用】Tiffany HP ©Tiffany & Co, Ltd.

現代ジュエリーは高級ブランドの高額品でも爪は4つが基本です。

全世界で同じものをいくつも販売するスタイルからも想像できる通り、量産品です。使用している宝石は、同じものがたくさん手に入るということです。

稀少価値がない低品質の処理石であったり、合成石が当たり前に出回っています。

心理学で『投影(projection)』という概念があります。自分の価値観や思考回路を相手に当てはめ、相手の心理を想像したり行動原理を計ろうとする性質です。浮気性の人ほど相手の浮気を疑う性質が強いのは有名でしょうか。人を騙そうと絶えず考えている人ほど、人に対して疑い深く他者を信用しません。何かやらかしたわけでもないのに根拠なく疑ってくる人は、その人自身がそういう人なので関わらない方が無難です。貴方は悪くありません。

多くの人は、自身を投影して性善説で物事を見る性質があります。高いから良いものだろう。高級ブランドだから品質の良いものだろう。しかし、なぜかHPのカタログに宝石の詳細がありません。天然で無処理ならば、それだけで高い価値をPRできますから、書かないのはむしろ変です。

【参考】処理されたピンクトルマリン(現代)

ピンクトルマリンは色彩が重要は宝石ですが、現代は当たり前に加熱や放射線処理による品質改善が行われています。

特に放射線は照射しても科学的立証がほぼ困難という理由で鑑別書に記載の義務がなく、価値も変わらないとして扱われます。

詐欺師に都合が良いルールになっています。消費者保護なんて建前に過ぎず、業界ルールは業界のために存在します。

現代ジュエリーの宝石の殆どは稀少価値がなく、本来は宝石と呼べない代物です。落として紛失しても、同等のものが安価に手に入ります。だから爪など4つで十分という扱いなのです。

3-2-1-2. 完成度の高い6つの爪
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

 アンティークのハイジュエリーの爪の数は決まっていません。見た目の美しさと、宝石を落とさないための安全性の最高の兼ね合いを計算して作られます。

稀少価値の高いアンティークの宝石は、どれだけお金を出しても、紛失したら二度と同じものは手に入らないと言えるものだからです。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑
すべてのピンクトルマリンとペリドットは、それほど大きくないにも関わらず6つの爪で丁寧にセットされています。
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

高さを出して留めてあり、高度な技術が伝わってきます。また、それぞれの石も機械ではなくハンドカットなので、形に個性があります。その個性を1粒1粒見極めながらの正確なセッティングは、高度な職人技あってこそです。石のカットすら均一に揃えてしまう、現代の量産品とは全く違う部分です。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

宝石は素材そのものの質だけでなく、カットの良さも総合的な価値を考える際に重要です。カットの磨き仕上げもかなり良く、ファセットの輝きがとても豊かです。上等な宝石だからこそ、爪もこれだけ上質に作られています。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

裏側のファセットも大きさに対して非常に複雑で、これが正面から見た時の豊かな表情につながっています。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

高さのあるセッティングだからこそ裏側や周りからも光をたくさん取り込み、複雑に輝きます。ダイヤモンドもどの宝石も、磨きの仕上げ次第で照りの強さは変わります。このピンクトルマリンとペリドットは本当に仕上げが良いです♪♪

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

宝石に寄り添うよう、優しくフィットした強靭な爪が本当に見事です。第一級の職人技だからこそ、これだけ拡大しても美しいです。宝石の美しさに没入できますね♪

3-2-2. 不思議な配置の天然真珠

陰陽魚太極図 ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 バチカンに天然真珠を使っているので、サフラジェットを示す意味では、本体の2粒の天然真珠は必ずしも必要ありません。

それでも敢えてこの位置にデザインしているのは、やはり陰陽魚太極図を表すからだと感じます。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

万がいち落ちて紛失しても、『美しいデザイン』という見方しかしなければ無くてもいいやと思えるかもしれません。

しかし、オーダー主にとってはとても重要な存在でした。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

だからきちんと芯を立てて、天然真珠を貫通させて固定しています。これは裏側からの方が分かりやすいです。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント
ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ←等倍↑

正面からは固定のための芯が目に入らぬよう、奥側に向けて少しだけ斜めに固定しているようです。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダントの裏側

小さめですが極上の照り艶を持つ天然真珠で揃えられており、正面から見た時にその美しさに没入することができます。このような細部に至るまでの気遣いが、上流階級ならではの美意識の高さと余裕を感じさせます。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダント

 

留め方自体は当時のハイジュエリーとしては一般的ですが、現代人の感覚で見ると、一体どう留まっているのか不思議にも見えますね。

その不思議な感覚も、人を惹きつける魅力の1つです♪

裏側

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダントの裏側

 ひっくり返っても気づかないかもしれないと思えるほど、裏側も美しい作りです。

ピンクトルマリンとペリドットのフレームは裏側のU字金具で連結されており、正面から見た時の気配は消ししつつ、全体の強度UPに貢献しています。

見どころの多い宝物です♪

着用イメージ

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダントの着用イメージ
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

大胆な透かしが美しいデザインなので、お召し物の上から重ねると布地の色や柄で雰囲気が大きく変わります。長めのチェーンやリボンで下げても素敵です。撮影に使っているシルクコードをご希望の場合はサービス致します。

ピンクトルマリン&ペリドット&天然真珠の渦の透かしペンダントの着用イメージ
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

色石ならではの華がある宝物です。可愛らしさもありますが、込められた上流階級ならではの知性が只者ではない品格を醸し出します♪
撮影に使用しているアンティークのゴールドチェーンは参考商品です。