No.00363 ソフィア |
半透明の小さな石の中に、神様が描き出した幻想的な世界 何を想い巡らせ情景として見るのかは、見る者の経験と知識と心次第です♪♪ |
啓蒙専制君主が世界を主導し、科学や思想を発展させて近代化へと導いた18世紀半ばから19世紀初期にかけ、啓蒙思想の知的な『リュミエール・ジュエリー』が社交界で流行しました。一般的な『宝石』とは異なる、知的に面白い石を使ったジュエリーは啓蒙時代の魅力満点です!♪ |
当時のヨーロッパにとって憧れの先進国だったオスマン帝国。それを彷彿とさせる鮮やかなトルコ石。 |
|
『ソフィア』 |
|||
面白い石を使うのは啓蒙主義のジュエリーの特徴ですが、ランダム模様と違い、具体的な何かをイメージさせるピクチャー・アゲートを使った珍しい宝物です。このようなアート系ジュエリーは目立つ宝石を使用していない場合が殆どですが、額縁の鮮やかなトルコ石が印象的です。知性で有名なモンタギュー夫人の著作『トルコ書簡』が知られていた時代、意味あって選択されたことは確実です。平面的なフィリグリーが組み合わさった、"静と動"を感じるカンティーユは、流行の最初期ならではの珍しいものです。 |
この宝物のポイント
|
|
1. 知的さ漂う啓蒙時代のリュミエール・ジュエリー
数千年の歴史があるアンティークジュエリーは多種多様ですが、奇石をメインストーンにしたリュミエール・ジュエリーには特別な魅力があります。 万人受けするものではありませんが、時空を超えて、特定の人の心を強く惹きつけます♪ |
1-1. ヨーロッパを大きく変えた啓蒙思想
啓蒙主義については以前詳細をご紹介しましたが、かなり複雑なので流れを簡単にご説明しておきます。ややこしい理由は、ヨーロッパが中世の暗黒時代に入る前、最低でも古代ローマまで遡って状況を把握する必要があるからです。 |
1-1-1. 現代を超える古代ローマの叡智/技術
ヨーロッパ美術の原点とされるは古代ギリシャですが、土木建築技術と言えば、古代エトルリアから技術を引き継いだ古代ローマが圧倒的でした。 |
パンテオン(古代ローマ 118-128年) 紀元前25年建造の建築を再建 |
|
正面と右側 "Pantheon (Rome) - -Right side and front" ©NikonZ711(27 March 2022)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
内部のクーポラ天井 |
これは118年に建築されたパンテオンで、紀元前25年に建造され、焼失した後に再建されたものです。木材や藁を使う日本建築では、1,900年前の建築物自体が想像もできませんが、古さ以上に驚異的なのがその構造です。建築技法や機能が未だ知られていない建築としてはピラミッドが有名ですが、古代ローマ建築もそれは同様です。 よく分からないものは適当に『墓』や『神殿』として納得する傾向にありますが、特定の機能を目的とした設計が示唆されており、パンテオンの幾何学的な構造のクーポラ天井も一種の『空洞共振器』である可能性が研究されているようです。現代でも造ることは困難ですし、現代人には未だに目的すら分からない技術が、繁栄した古代世界はあったようです。どのような夢の世界だったでしょうね。 |
1-1-2. キリスト教によって断絶した古代の叡智
歴史は連続しているように何となく思ってしまいますが、思いの外そうではありません。だから技術や知識も途絶えています。技術は時間軸と共にただ進化していくように感じられますが、何らかの理由があって失われたものは多いです。 古代ローマでは広すぎる帝国を維持するため、皇帝が神の威光を利用すべくキリスト教と結びつく道を選びました。「皇帝は神だから疑問を持ったり逆らうことは許されず、盲信して従うように。」という理論です。何も考えず、言われるがまま動くロボットが理想の民でした。自分の頭で考える人々は邪魔だと言うことで、体制側から意図的に排除されるようになりました。 |
古代エジプトファラオのプトレマイオス1世(紀元前367-紀元前282年) | アレキサンダー大王の後継者の1人としてプトレマイオス1世が創り上げたエジプトの首都アレキサンドリアには、学術研究所ムセイオンと世界最大の図書館アレキサンドリア図書館が整備され、古代世界の中心地として大いに栄えました。 |
世界最大の学術の中心地だったアレクサンドリア図書館の内部(想像図) | 貴重な書物を読んだり、優秀な学者と議論するために、世界各地から優秀な人々が集まる場所でした。 391年にローマ皇帝テオドシウス1世が非キリスト教施設の破壊許可を出した結果、アレクサンドリア図書館もキリスト教テロリストの破壊対象となりました。 |
『惨殺されるヒュパティア』(作者不明 1865年) |
建物や蔵書の破壊に収まらず、415年には著名な学者ヒュパティアの惨殺事件が発生しました。生命の危険すらある状況下、多くの学者が亡命することになりました。その多くはササン朝ペルシャに逃れ、学術の世界の中心としてのアレキサンドリアは終焉を迎えました。 |
プラトン時代のアカデミアを描いたモザイク(古代ローマ 1世紀) | アテナイの著名な哲学者プラトンが紀元前387年に開設した『アカデミア』も、東西分裂後の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の命によって529年に閉鎖されました。 916年もの歴史がありました。 日本で現存する古い高等教育機関だと東大が思い浮かびますが、創立は1877年でまだ147年の歴史しかありません(2024年現在)。 916年続いたことも凄いですね。 |
『太陽の使い』 ニコロ・インタリオ リング インタリオ:ササン朝ペルシャ 7世紀頃 シャンク:フランス 1830年頃 ¥1,880,000-(税込10%) |
人と共に叡智も古代ローマからペルシャに移り、それはこのようなハイクラスのインタリオにも現れています。宝物はただ美しいだけでなく、時空を超えた、歴史の生き証人でもあります。 混乱の中、完璧に失われた技術や知識も多くあったことでしょう。それは今となっては知る由もありません・・。 |
1-1-3. 暗黒の中世から長く続いた無知蒙昧な時代
ヨーロッパは知識を排除し、知的活動を禁じ、神と同等となった君主の言うことだけを盲信するよう強いました。その結果、文化や経済など社会活動全般がどん底まで衰退し、長く停滞しました。 |
『スキュリツェス年代記』イスラム軍を追撃するビザンツ騎馬隊 (ヨハネス・スキュリツェス 12世紀) |
宗教に支配され、宗教を根拠とした戦争が絶え間なく繰り返され、疫病や飢饉が起きてもただ神を恐れ、民は疲弊するばかりでした。読み書きできぬ一般人の詳細は、知る術もありません。 |
神聖ローマの彩色写本の挿絵(15世紀) ペストは神の天罰とされ、神が放つ『死の矢』を止めるよう祈る聖人たち |
悪魔として描かれた贖宥状を販売する聖職者(1490-1510年頃) |
マルティン・ルター(1483-1546年)の登場で、1517年の宗教改革が発生しました。しかしながら、疑問の対象はローマ教皇を神の代理人(頂点)とするカトリックの支配構造と、特権階級によって都合よく解釈したり秘匿された教義に対してでした。『神』そのものへの盲信は依然として強固に存在し続けました。 ルターが聖書をドイツ語に翻訳したことで、ラテン語が読めない人たちが聖書を自分自身で読めるようになったのは確かに画期的です。しかし、そもそも当時のヨーロッパは庶民の大半が文字の読み書きをできません。ドイツ語に翻訳されても一般人は読めないですし、読むための時間すら持てない状況でした。 |
神の威光を纏う救世主/君主の病人への手かざし | |
キリスト | 君主 |
『盲人を癒すキリスト』(ユスターシュ・ル・シュール 1645年頃) | フランスの太陽王ルイ14世のロイヤル・タッチ(1690年) |
神から生まれながらにして王権を与えらえた絶対王権の君主は、神の代行者であり神に等しい存在でした。手かざしで病を癒す奇跡の力すら持つとされ、ロイヤル・タッチも大人気でした。 ・イングランド王エドワード1世(在位:1272-1307年):年間で千人以上 17世紀末となる1680年の復活祭でも、ルイ14世が1600人もの人々にロイヤルタッチしています。政治と宗教が分離した現代日本では想像しにくいですが、古の君主は政治外交のみならず、このようなことも大事な仕事だったわけですね。 |
1-1-4. 暗黒の時代を知性の光で照らそうとした『光の時代』
フランチェスコ・ペトラルカ(1304-1374年) | 共和政ローマ末期の政治家/哲学者キケロを規範としたイタリアの学者ペトラルカは、古代ローマ以前の古典古代を『光』に例えました。 それに対し、中世初期から続く停滞の時代を『闇』と表現しました。 この概念が広がり、18世紀の啓蒙主義の時代につながりました。 |
『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン著(初版1687年)のフランス語訳の扉絵(シャトレ夫人訳 1759年出版) | これはニュートンの著書『自然哲学の数学的諸原理』のフランス語訳の扉絵です。 ニュートンが天界から得た知性の光を、翻訳者のシャトレ夫人が鏡で反射し、ヴォルテールを照らす様子です。 無知蒙昧な闇を照らしてくれるのが、知性の光なのです。 |
18世紀のフランスの著名な啓蒙思想家 | |||||
モンテスキュー男爵シャルル・ルイ・ド・スゴンダ(1689-1755年) | ヴォルテール(1694-1778年) | ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778年) | ドゥニ・ディドロ(1713-1784年) | エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック(1714-1780年) | コンドルセ侯爵ニコラ・ド・カリタ(1743-1794年) |
「ただ自然のままの(知性の)光を用い、自ら超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促そう。」 啓蒙思想が始まったのは17世紀後半のイギリスでしたが、18世紀にフランスに伝播し、大きなうねりとなっていきました。革命以前の当時のフランスは、世界中の上流階級や教養人が集まる文化の中心地として栄えており、闊達な議論がなされたのです。 『啓蒙思想』。日本語で聞くと光の要素が感じられませんが、英語ではEnlightenment、フランス語ではLumières、ドイツ語ではAufklärungと言います。『自然の光』は、ラテン語でlumen naturaleです。ここから偏見のない自然な光、理性の光、知性の光で照らすと言う意味で、『Enlightenment』や『Lumières』の名称が用いられるようになったわけです。啓蒙と聞くと硬い印象ですが、「闇に打ち克つ光」と想像すると分かりやすいですね。 |
科学の時代の宝物 | |
隠しロケット付き ペンダント フランス 1906年 SOLD |
|
この流れが、科学の時代として発展していきました。人間は自らの知性を駆使し、空をも飛べるようになりました。 |
リュミエール・ジュエリーはその転換点を示す、歴史的に見ても非常に面白い宝物なのです!♪ |
1-2. 古代ローマの博物学者プリニウスの『博物誌』
1-2-1. 古代ローマに意識が向くきっかけとなったポンペイ遺跡の発見
ヨーロッパの上流階級が古代ローマを強く意識するようになったのは、1748年のポンペイ遺跡の発見が大きなきっかけです。79年8月24日の昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山の噴火による火砕流で、都市全体が一瞬にして地中に埋もれました。 |
ポンペイの想像図(フリードリヒ・フェデラー 1850年) |
想像するだけで恐ろしい出来事です。しかし、そのお陰で街まるごとがそのまま保存され、1700年ほども前のリアルな生活文化を伝えてくれるタイムカプセルとなりました。 |
1-2-2. 古代ローマのプリニウスとヴェスヴィオ火山噴火(79年)
博物学者として有名な古代ローマのプリニウスですが、ヴェスヴィオ火山が噴火した79年当時はナポリのミセヌム(Misenum)で、艦隊の司令長官に就いていました。地図の右端にあります。ローマ海軍の最も大きな軍港があった、重要な港町です。 |
古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年) | 黒い雲:79年のヴェスヴィオ火山噴火によって降下した灰と噴石の大まかな分布 "Mt Vesuvius 79 AD eruption" ©MapMaster(October 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
火山や、ヘルクラネウムやポンペイなどの被災地とかなり近いです。当然ながら知り合いもいるわけで、その救出と、火山現象の調査がしたいという強い知的好奇心によって現地に向かいました。そこで上陸したのが、ナポリ湾(Gulf of Naples)づたいのスタビアエ(Stabiae)です。 |
スタビアエ(古代ローマ 1世紀) | 古代ローマ帝国の最盛期、スタビアエも立派な港町だったでしょうね。 救助艦隊の上陸時、火山性地震が活発で建物は倒壊の恐れがあり、海岸にも依然として濃い煙と硫黄が立ちこめた状態でした。 健常者はまだ何とか避難できる状況でしたが、喘息持ちだったプリニウスはその場で倒れてしまい、眠るように旅立ちました。 |
1-2-3. 1700年ほど前の著書『博物誌』と当時のリアルな物品
55歳、予期せぬ死を迎えたプリニウスの『博物誌』は未完でしたが、最初の10冊は出版されており、残りは養子にしていた甥の小プリニウスが引き継いで出版しました。全37冊、10巻のジャンルで構成される大作です。 |
『博物誌』(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス 1世紀後半) フランスのサン・ヴァンサン・ヴァン修道院 12世紀半ばの写本 |
写本の時代は、1冊の書籍を作るだけでも大変でした。高度な知識と技能を持つ専門技術者が手書きで写す人件費、高価な材料費、オリジナルを手に入れる或いは手に入れる費用や信頼。知識が詰まった書籍には、王族クラスの財産価値があったほどです。限られた人の中でも、さらに限られた人しか読めぬものでした。 |
ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃-1468年) | 状況を大きく変えたのが、15世紀半ばに発明された活版印刷です。ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷業は、特にルターの宗教改革の強力な推進力になったことで有名です。 元々聖書の大量印刷は要望が高く、最初の印刷聖書として1455年に180冊の『四十二行聖書』が印刷され、『グーテンベルク聖書』として50冊が現存します。テキストは従来のラテン語です。 その後、ルターが1534年に発行したドイツ語訳聖書は、何と100万部の大ベストセラーとなりました。当時の神聖ローマ帝国の人口はおよそ1,500万人です。世界が変わりますね! |
『博物誌』プリニウス著 1世紀後半(ヴェネツィアのシュパイヤーのヨハン&ウェンデリン兄弟による印刷 1469年) | 聖書は別格ですが、プリニウスの『博物誌』も要望の高い書籍の1つでした。 『博物誌』は、ヨーロッパ上流階級の最重要の教養の1つとされていました。 ただ、巻数も多く、内容は多岐に渡り膨大です。 |
実物を見たり、実際に楽しめるのであれば、文書や絵で具体的に想像したりもできます。 しかし、そうでなければ難解で膨大な文章なんて、普通は読んでも面白くなく頭に入ってきません。 だから多くの上流階級にとって、『博物誌』は具体的かつ身近には感じられぬ、古典教養だったことでしょう。 |
宴の様子を描いたフレスコ画 | だからこそ、古代の遺跡の発見によって具体的に想像できるようになった、当時の豊かな文化や科学技術は衝撃的でした。 昔の人の貧しい暮らしどころか、居酒屋のメニューには「お客様へ、私どもはキッチンに鶏、魚、豚、孔雀などを用意してあります」と、とても楽しそうです。 |
『未清掃の床』(ペルガモンのソーサスによる紀元前2世紀の作品の複製) |
中国も食い散らかしのマナーが有名ですが、古代世界でも『食べきれないほどのご馳走』による贅沢さを、トロンプルイユのローマンモザイクの床で表現しています。こんなことにすら物凄い手間や技術をかけられるなんて、当時の豊かな生活が伝わってきますね。 |
古代インドの女神ラクシュミのアイボリー像(1-50年頃) " Statuetta indiana di Lakshmi, avorio, da pompei, 1-50 dc ca., 149425, 02 " ©Sailko(29 Nobember 2013, 11:53:19)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 自宅に飾られた夫婦のフレスコ画(古代ローマ 1世紀)ポンペイ遺跡で発見 |
仲睦まじい夫婦の様子、広い交易が分かる美術調度品。貿易会社が存在し、クリーニング屋のような職業もあり、壁の落書きまでもが当時をそのまま伝えていました。 ローマ市民の別荘、冷たいものや熱いものを提供するバー、レストランや食物市場、製粉所や円形劇場、さらには河口にボートを浮かべてヴェネツィアのような船上生活をする人までいたようです。 |
1-2-4. 古代研究の大きな原動力となったリアルな物品
硬い文章と、何度も写しを重ねて伝言ゲームのように劣化した挿絵では、リアルなものを想像するのは困難です。人間の寿命は短いです。しかしながらその豊かな心と文化は、人の手で創り出された"永遠なる物"を通し、時を超えて伝えることができます。 『物質社会』を非難する声もありますが、物の全てが無価値なことはあり得ません。 |
『ヘリオス(セラピス・ゼウス)神』(紀元前4世紀後期にブリアキスが制作したオリジナルを古代ローマで複製)バチカン美術館所蔵(Inv.No.245) (сс) 2005. Photo: Sergey Sosnovskiy (CC BY-SA 4.0).© 1986 Text: Chubova A.P., Konkova G.I., Davydova L.I. Antichnie mastera. Skulptory i zhivopiscy. — L.: Iskusstvo, 1986. S. 33./Adapted | 『Gemma Augustea(アウグストゥスの宝石)』 オニキス・カメオ(23×19cm) ディオスクリデス or その弟子 20-30年頃 フレームはドイツ 17世紀 "Gemma Augustea" ©James Steakley(October 2013)/Adapted/CC-BY SA 3.0 |
子供が初めて描いた絵、形見の道具など。個人レベルならいくらでも大切な"物"がありますし、唯一無二の芸術作品として成立するレベルならば、皆にとっての宝物にすらなれます。 |
『アレキサンダー大王』 古代ギリシャ アメジスト・インタリオ ヘレニズム 紀元前2-紀元前1世紀 ※別途費用でピンからリングに作り替え可 ¥4,400,000-(税込10%) |
心を込めて創られ、大切にされてきたものに宿る美しい心は、私たち人類が生き続ける限り、普遍の魅力と永遠なる命を持つことができます。 |
『ヒッポカンポス』 古代ローマ ニコロ・インタリオ リング 古代ローマ 1世紀頃 (リングの作りはヴィンテージ) ¥3,000,000-(税込10%) |
古代ローマ遺跡を背景に描いた、イギリス貴族の子弟のグランドツアーの様子 |
物が人を動かす力は偉大です。 |
イタリアをグランドツアー(見聞旅行)中のイギリス貴族の若者 | |
古代ローマ・ファッションのグランドツアー中のサンダーランド伯爵(1641-1702年) | グランドツアー中の初代ダンスタンヴィル男爵フランシス・バセット(1757-1835年) |
古代世界をいかに意識し、これらが高尚なものとみられていたかは、当時の肖像画などからも分かります。グランドツアーで訪れたイギリス貴族の師弟たちは現地で様々なものを見聞きし、体験し、さらには持たされた莫大な予算を元に骨董品や美術工芸品を買いまくりました。その目利きなどの助けのために、さらに莫大なお金を払って優秀な家庭教師も同行させていました。 |
ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー | グランドツアーに送り出した跡取りたちに骨董蒐集させるのは有意義ですが、それだけでは足りません。貴族の数が少なく、富が集約していたイギリス貴族には莫大な資金と需要がありました。 それを元手として、1764年から1800年までナポリ王国の英国大使を務めたウィリアム・ハミルトン卿は就任直後から古代の美術品を集め始めまくりました。 イギリスの王侯貴族、美術館は超強力なパトロンとして機能し、イギリスに多くの価値ある美術骨董品をもたらしました。 ハミルトン卿の成果の1つが、古代ローマのグラスカメオの最高傑作『ポートランドの壺』です。 |
第2代ポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンク(1715-1785年) | 古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 | ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年) |
当時イギリスで最もリッチと言われ、かつ目利きと知性で名高い美術品コレクターでもあったポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンクによって、入手することができました。 手に入れた『ポートランドの壷』は初代ウェッジウッドに気前良く貸し出され、4年もの歳月をかけた熱心な研究開発によって、ジャスパーウェア製のポートランドの壷の複製が生み出されました。 |
『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n5" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 | ポートランドの壺の再現(ウェッジウッド 1790年)V&A美術館 "Portland Vase V&A" ©V&A Museum(11 August 2008)/Adapted/GNU FDL |
ジャスパーウェアと言えば、F器(せっき)によるカメオのような表現で知られています。デザインとして古代ギリシャ/ローマのモチーフが有名なのは、このような背景があったからです。 |
『ポートランドの壺の再現』(ウェッジウッド 左:1791年頃、右:1790年頃) "PortlandVaseCopy-Wedgwood-BMA" ©Sea Pathasema/Birmingham Museum of Art(16:12, 21 March 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
初版のレプリカはロンドンのショールームに招待客だけを招いて展示会が開かれ、英国王室御用達だったウェッジウッドの名声はさらに高まりました。古代の美術的価値の高い本物は、稀少かつ唯一無二です。欲しいと思っても、地位や財力があるからと言って必ず手に入るものではありません。だから上質なレプリカは需要があり、それなりの価値が付きました。 知的なパトロンとして、才能ある者に新しい技術開発を成功に導いたポートランド公爵夫人の名声も社交界でさらに上がったことでしょう。古代ローマの最高傑作を所有している。それだけでも羨望の対象にはなりますが、ただ持っているだけでは財力やコネの証にはなっても、知性の証にはなりません。 貴重なオリジナルを所有し、さらにそれを元に、価値ある新技術の開発成功を支援したという実績あってこそ、後世にまで名の残る社交界の華となるのです。 |
ジュゼッペ・ジロメッティ作『ユリウス・カエサル』 ストーンカメオ ブローチ&ペンダント イタリア 1820年頃 SOLD |
ポートランドの壺以外にも多くの古代美術を扱ったハミルトン卿は、1766年から1767年にかけて『大使のキャビネットのエトルリア、ギリシャ、ローマの古代美術』と題したコレクション掲載本を出版しました。 この書籍は大人気で、さらに1769年から1776年にかけて3巻が出版されました。 上流階級や知識人はかつてヨーロッパに存在した古代世界に夢中になり、最初は単なる蒐集から始まったものは、模倣と言う研究を経て、次第に新たなクリエーションに生かそうという力強い動きとなっていきました。 |
1-3. 博物学に於ける標本採取と体系化
当時のヨーロッパの上流階級にとって、古代世界は単なる興味の対象ではなく、少なくとも再現して超えるべきものでした。今は忘れ去られし高度なテクノロジーを持つ、『超古代文明』のようなものです。 |
ローマン・バスとスリス-ミネルウァの古代ローマの神殿の模型 |
ローマ浴場1つ見ても、水を引く技術、サウナ、高温浴室など、当時の叡智が忘れ去られたヨーロッパの人々にとっては驚異のロスト・テクノロジーでした。何とか同じ水準を実現したいと情熱を燃やすのは当然のことです。 現代に例えると、失われしアトランティス大陸やムー大陸が発見されて、バビロンの空中庭園や世界各地のピラミッドの技術もトライできるようになった感じでしょうか。フリー・エネルギーや反重力技術、ワープなど、可能性が見えてくれば、きっと誰しも夢中になるはずです。そういう時代を想像するのが近いでしょう。 |
1-3-1. 古代世界に倣らう学術・技術発展の手法
一体どうやって古代の人々は、凄い技術を発明できたのでしょう。手法を真似るのは基本です。残されている痕跡から探る以外ありません。そこで、貴重な古代の書物からヒントを探すことになりました。 |
薬物誌『ウィーン写本』鳥の項目(6世紀初期) | |
これは西ローマ帝国の皇女アニキア・ユリアナに献上するために作成された『ウイーン写本』です。薬理学と薬草学の父とされる、古代ローマの医師ディオスコリデスの著書『薬物誌』(1世紀後期)の写本です。各項目で様々な種類が網羅され、それぞれに詳細が記されています。 |
薬物誌『ウィーン写本』植物の項目(6世紀初期) | ||
古代ローマの医師ペダニウス・ディオスコリデス(40年頃-90年) | ヨモギの項目 | ウーリーブラックベリーの項目 |
この世に存在する種を集め、体系化し、個人の感覚ではなく、誰もが共有できる理論的な根拠を元に利用する。これが古代ローマの基本アプローチでした。 プリニウスの『博物誌』でも天文、地理、人種、動物、昆虫、植物、薬草、動物性薬品、鉱物、彫刻、絵画、建築、宝石という分野にカテゴリーが分けられ、それぞれに詳細が記されています。 |
1-3-2. "現代版"の博物誌としての百科事典の構築
1-3-2-1. イギリス
イギリス王ジョージ2世(1683-1760年)43歳、1727年頃 | 啓蒙思想が最初に興っただけあって、イギリスでまず現代版の博物誌『サイクロペディア』(正式名称:Cyclopaedia, or An Unversal Dictionary of Arts and Sciences、サイクロペディア、または諸芸諸学の百科事典)が編纂・発行されました。 編纂者はエフライム・チェンバースで、1728年に初版がイギリス王ジョージ2世に献呈されました。 |
『サイクロペディア』解剖学の項目(エフライム・チェンバース 1728年) |
10年後となる1738年に第2版が出版されました。総ページ数は2,466ページに及び、数千箇所に渡って修正が加えられ、記事が追加や拡張されました。 |
『サイクロペディア』博物学の項目(1728年) | 『サイクロペディア』測量術の項目(1728年) |
現状のデータを全て集めるだけでも大ごとです。新発見も日進月歩ですから、百科事典の編集は終わりなき道であり、永遠に完成することはありません。編纂者チェンバースは1740年に亡くなりましたが、この時点で既に第7版のための資料集めが手配されていました。 |
アブラハム・リース(1743-1825年)59歳、1802年頃 | 『サイクロペディア』は必要とされ、回を重ねるごとに改良や加筆が加えて出版されました。 1778年から1788年にかけてアブラハム・リースが出版した418冊の改訂版は全5巻、5,010ページ、159枚の図版で構成されたそうです。 初版の倍以上に膨れ上がっていますね。 世界に先駆けて百科事典として知識を体系化し、科学技術発展の土台を作ったことが、後の大英帝国の発展につながっていったとも言えるでしょう。 |
1-3-2-2. フランス
1728年に初版が発行されたイギリスの『サイクロペディア』ですが、1740年に編纂者チェンバースが亡くなった後、1748年から1749年にはイタリア語版がヴェネツィアで出版されました。イタリアに於ける、初の完全な百科事典とされます。 亡くなる前年となる1739年、フランス滞在中だったチェンバースはルイ15世に献呈するフランス語版の出版を提案されていましたが、断ったそうです。時間と手間的な事を考えると、手一杯で無理だったのかもしれませんね。 |
フランス1の美男と言われたルイ15世(1710-1774年) | 知性と美貌を兼ね備えた公妾ポンパドゥール夫人(1721-1764年) |
そういうわけで、フランスは国内でフランス版の百科事典を作ることになりました。革命前のフランスは上流階級や知識人が世界中から集う中心地であり、当時のヴェルサイユ宮殿は極限まで美意識が高まった時代ともされます。"美意識"には表面的なものだけでなく、むしろ知的に深淵博大なるものを含みます。まさに当時フランスの実質の君主だった、ポンパドゥール夫人に示される通りです。 |
フランス王ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人(1721-1764年)1755年、33歳頃 | 『百科全書』表紙(フランス 1751-1772年) |
知的なものを好む君主は、知的なものを振興させるための政策を行います。当時のフランスは著名な啓蒙思想家が集まり、活発に議論していました。懸賞論文に挑む者も多くおり、切磋琢磨して議論が磨き上げられていました。 ポンパドゥール夫人も公に保護する中、フランス版の百科事典はドゥニ・ディドロとジャン・ル・ロン・ダランベールを中心として編纂されました。広範囲を網羅しようとすると、それぞれに専門家が必要となります。総執筆者は184人にも上り、20年以上かけて制作され、全28巻、総ページ数16,142ページ、項目数は71,709以上にも及ぶ大作となりました。啓蒙主義はフランス革命にもつながったとされますが、"モノ"という具体的な形としては、啓蒙主義の最大の成果の1つとされます。 |
支援する『百科全書』が描かれたポンパドゥール夫人の肖像画(1755年)33歳頃 |
古の王侯貴族の肖像画は、様々なメッセージが込められます。プロモーションしたいものを一緒に描くのも常套です。ポンパドゥール夫人と共に様々な知的なものが描かれていますが、右側の地球儀の隣に『百科全書(ENCICLOPEDIE)』があるのは有名です。 貴婦人の外見が美しいのは当たり前、知性の光を纏ってこそ、真に美しい『社交界の華』と言える時代だったのです。 |
1-3-3. 面白いものを新発見する魅力
全てを網羅する百科事典を作ろうとすると、新種の発見も重要となります。現代では地上はほぼ調べ尽くされていますが、アマチュア天文家でも新発見した星に名前をつけるのは名誉でもあり、ロマンチックでもありますよね。探索初期は、新発見が相次ぐブルーオーシャンの時代でした。多くの王侯貴族が知的好奇心と、「我こそは新しいものを発見する!」という名誉のために夢中になりました。 |
1-3-3-1. 上流階級の知的な趣味としての標本採集の大流行
標本作りセット(イギリス 1838年) | 蝶の標本 " 04 Museum insect specimen drawer (Schmetterlings Exemplar) - Muzeum Gornoslaskie, Bytom, Poland " ©Marek Slusarczyk(18 May 2019/Adapted/CC BY 3.0 |
こうして、以前ならば見向きもされなかったものにも意識が行くようになり、ありとあらゆるものが蒐集されました。上流階級の、新しい『知的な趣味』です。興味の対象が"目立つもの"、"美しいもの"だけに限らなくなったのは大きな変化です。 |
昆虫採集のバリエーション(1877年) |
社交や趣味としての狩猟から派生して、上流階級にピクニックが流行しました。標本採集はそのついでにもできます。また、運動神経や体力を必要とする狩猟が苦手な人、子供や女性でも自然環境の中で楽しめます。貴族の趣味としての狩猟は莫大な費用も必要としますが、採集の趣味は狩猟ほどお金をかけずに楽しむこともできます。 裾野が広く、楽しみ方もそれぞれです。必ずしも新発見の栄誉を目指す必要もありません。集めて個人コレクションを完成させる楽しさは、現代にも多々存在します。野球カードを集めたり、ゲームのアイテムやキャラクターをコンプリートさえたり・・。 宝石コレクターもいますね。上質な宝石は高価ですが、コレクターの場合は「質はどうでも良くて、種類さえコンプリートさせれば満足。」という場合が大半です。質にこだわらなければ、ダイヤモンドでもルビーでも二束三文で手に入ります。 『蒐集』と言う趣味は非常に個人的なものであり、自身で自由に目標を設定できます。誰かと競り合おうとすると大変ですし優劣もついてしまいますが、誰でも自分次第で心の満足を得られる素敵な趣味でもあるのです。 |
1-3-3-2. 職業としての採集人の成立
バタフライ・ハンター(カール・スピッツウェグ 1840年) | 財力や権力を持って生まれた王侯貴族の場合、その地位に見合った、人類発展への貢献義務があります。 財力や権力がなければできないこと。まさに王侯貴族にしかできないことを率先してやる義務があります。 そこら辺で標本採集するのは簡単ですが、マニアックなものを探そうとすると、相応の知識や資金が必要となってきます。 こうしてプロ・ハンターとしての職業が成立することになりました。 |
新種の蝶々のためのバタフライ・ハンター、植物のためのプラント・ハンター、鉱物のためのジェム・ハンターなど様々な専門家が登場しました。上流階級がパトロンとなって遠征や道具などの資金を出し、名前を付けたり利用法の特許を取得したりなど、新発見の栄誉や利益を得る仕組みでした。 |
ティファニー創業者チャールズ・ルイス・ティファニー(1812-1902年) | 鉱物/宝石学者ジョージ・フレデリック・クンツ(1856-1932年) |
ティファニー創業者のチャールズ・ルイス・ティファニーが、クンツ博士の若き才能を見出し、お金に糸目を付けず活動を支援した話も同じことです。 10代で4,000点以上もの鉱物を蒐集していたクンツは、まさに鉱物ハンターです。「アメリカにはまだ発見されていない宝石がたくさんある!♪」と語る20歳そこそこのクンツに対し、「費用は気にせず、美しいと思う宝石を全て届けなさい。」と大金を渡したティファニーは、まさに活動を支援するパトロンそのものです。良いパトロンが才能を育て、学芸を振興し、新しい技術や流行・文化を作っていくと言えるのです。 現代のように、才能ある人が資金も自身で稼がなくてはならない状況では、その才能を十分に生かすのは不可能です。『平等』を変に解釈した社会システムは、せっかく天から与えらえた個々の才能を生かさないことになるのが残念ですね。 人の才能を見出して生かすことに喜びを感じる経営者向きの人もいれば、学術研究と新発見に喜びを覚える学者肌の人もいます。ひたすら絵を描いたり、彫刻したりして、何かを表現したい人もいます。そこに優劣などあり得ません。全員いなければ、社会として成立できないのですから・・。 |
1853年のペリー来航の記念切手(1953年) |
ちなみに1853年にペリーが黒船で来日した際も、プラントハンター2名が同船して植物採集しています。昔は移動だけで物凄くお金や時間がかかっていましたし、交流のない国ともなれば赴くチャンスは限られています。一方で新発見の期待も高く、政府やパトロンも資金を出す価値があったということでしょう。 |
1-3-3-3. 博物学ブームの成果
【世界遺産】『キュー王立植物園』パームハウス(ロンドン) "Kew Gardens Palm House, London - July 2009" ©Diliff(25 July 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
このような蒐集活動が特に活発だったのが大英帝国です。世界中から動植物を蒐集し、研究機関としてキューガーデンも設立しました。その膨大な資料は有名で、2003年には世界遺産にも登録されています。新発見された有益な動植物や素材は科学の発展にも生かされ、19世紀から20世紀にかけての科学の時代を経て、現代につながっています。中世からの朴訥とした暮らしからの急激な発展には、このような背景が原動力としてあったわけです。 |
2. 知性をジュエリーとして纏う社交界の魅力
2-1. 思想の巨人ルソーと『平等』への気づき
ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778年) | 啓蒙時代、叡智を発展させる『手法』としては古代世界に倣らう部分が大きかったと言えます。 人々に意識に大きな影響を与えたという意味では、ルソーの存在は大きいものでした。 『百科全書』の執筆にも携わっていますが、以下の三部作が有名です。 |
著書の中で、人が平等な『自然状態』を想像しながら、『欺瞞の社会契約』による不平等の制度化が議論されました。本来、人間に貴賤などないはずなのに、なぜか格上・格下などと言った幻想が、確固たるものであるかのように存在します。特定の職業は偉い、肩書きがあるから偉い、点数が高いから偉いなど、何事にも優劣が設定され競争を強いられ、偉い人とそれ以外の無価値な人のようにレッテルが貼られます。 |
宝石頼りの特徴のない現代ジュエリー | ||
人間に限らず、あらゆるものに優劣が設定されます。ダイヤモンドが一番価値が高い(石の種類)、大きいほど価値がある(品質は無視)、ブランド物だと価値があるなど、ジュエリーも様々な根拠で価値のあるなしが決められています。 人間も石も同じことです。宝石とそれ以外の違いは何なのか、優劣の根拠は何なのか、誰が何を根拠に決めたのか・・。 |
当たり前の『常識』として根拠を考えもしなかったものが、意識して思考すると、案外根拠がないことに気づきます。 無知蒙昧。まさに暗くて盲目なまま、硬く信じ込んでいた状態『盲信』です。 |
価値ある宝石とは一体何なのか。教えられた知識通りにしか思考できないのは、AIと同じです。知識は生かせば知性となります。一方で知識を詰め込んで満足し、その範囲内でしか動けないのは頭デッカチであり、そこから発展することもないのは死んでいる状態と同じです。 |
伝統的な『宝石』 | 伝統的な『芸術』 | 啓蒙時代に見出された 『大自然の芸術』としての宝石 |
ピンクトパーズ&アクアマリン ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
『楽器を奏でるキューピットとヴィーナス』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント イギリス 1830年頃 SOLD |
今回の宝物 フランス or イギリス 1820年頃 |
定義された鉱物だけが価値ある『宝石』と思い込んできたけれど、本当にそうなのだろうか。ルソーが人々に提示した『平等』の意識は、深く理解する人々に対して『宝石』に関する意識も広げるものとなりました。 自然界にはアーティストが存在し、知られないままの魅力的な作品が存在していた・・。大自然が描き出した面白い石の景色は、まさに神様が創ったアートとも言えるでしょう。石の種類だけにこだわり、今まで見向きもされなかった石が秘めた魅力が注目されるようになった時代でした。 |
2-2. 啓蒙主義の知的な紳士
第2代マウントノリス伯爵ジョージ・アンズリー(1770-1844年) | 啓蒙時代らしい紳士の人物像として、第2代マウントノリス伯爵ジョージ・アンズリーが挙げられます。 ただでさえ数が少ないイギリスの爵位貴族ですが、アンズリー家は代々続く名門の家系でした。 ボンボンだったジョージはお金に糸目をつけず、趣味人として貴族らしく生きました。 |
アンズリー家の伯爵紋章 | ||
※インタリオなので左右反転での彫刻 | アーサー・アンズリー(1614-1686年)の伯爵紋章 | アンズリー家の飾り皿の伯爵紋章(中国 1790年) |
『アンズリー家の伯爵紋章』 レッドジャスパー フォブシール イギリス 19世紀初期 ¥1,230,000-(税込10%) |
このフォブシールをオーダーした可能性が高い人物です。 ジョージは優秀な外交官でもあり、冒険家で学者でもあったヘンリー・ソルトを雇い、1802年から1806年にかけてインド、スリランカ、紅海、エチオピア、エジプトを巡りました。 莫大なお金がないとできない旅です。整備された観光地ではなく、誰も知らない土地へ、未知のものを求めての冒険に満ちた旅でした。 |
案内役のヘンリー・ソルトは画家としても優秀で、雄大な旅の様子が伝わってきますね。旅では様々な種類の標本や植物が蒐集されました。 |
アーリー城(1844年建築)大英博物館 |
持ち帰った大規模コレクションのために、ジョージはマウントノリス伯爵家が所有していたスタッフォードシャーのアーリー庭園に10エーカーの樹木園を造りました。1844年にはアーリー城も建設しています。この場所は今、アーリー・ハウス&ガーデンとして宿泊や食事もできるようです。 |
Voyages and Travels to India, Ceylon, and the Red Sea, Abyssinia, and Egypt, in the years 1802, 1803, 1804, 1805, and 1806 | 見聞録や蒐集した資料は、書籍としてまとめられました。 社交界でどのように自慢したのか、伝わってきますね。 蒐集した珍しい植物を庭園で披露したり、書籍に記載した冒険エピソードや得られた知見を語ったり・・。 知的な人が集まり、学術や冒険などの話で大いに盛り上がったことでしょう。 |
2-3. 知的な女性が特にモテた啓蒙時代
啓蒙時代らしい知的な男性が「話して楽しい!♪」と思えるのは、やはり知的な会話で盛り上がることができる女性です。中産階級を重視する必要が出てきたヴィクトリア時代は、中産階級の手本を意識してヴィクトリア女王が振る舞いました。このため、この時代は本来のヨーロッパ貴族のイメージとは乖離があります。 本来の貴族には、知的な会話ができる女性こそ社交界の華としてモテました。その例はたくさん挙げることができます。ポンパドゥール夫人は有名すぎるので、彼女以外でご紹介しましょう。 |
2-3-1. 女性科学者の先駆け『シャトレ侯爵夫人』
エミリー・デュ・シャトレ(1706-1749年)1748年、41歳頃 | シャトレ侯爵夫人エミリーは革命前、最も華やかだった時代のパリ社交界の有名人です。 革命前のフランスは爵位を乱発し過ぎた結果、「貧乏人に毛が生えた程度」と称されるような貴族まで存在しました。 第二身分とされる"貴族"は40万人存在し、宮廷貴族に絞っても約4,000家ありました。その家族まで含めると、『貴族』というだけでは凄いかどうか判断できません。 そのようなフランス貴族社会の中でも、シャトレ夫人はかなり上位の家柄の出身です。 |
ブルトゥイユ男爵ルイ・ニコラ・ル・トノリエ(1648-1728年)1691年、43歳頃 | 父ブルタイユ男爵はヴェルサイユ宮殿で書記長と、太陽王ルイ14世に大使を紹介する役職を勤めていました。これは王宮の社交活動の中心となるものです。知性や教養、マナー、センス、コミュニケーション能力、あらゆる才能を必要とする重要なポストです。 当然ながら一家は大変な良家とみなされており、実際にそのような環境の中、シャトレ夫人は当時の最高水運の教育を受けて育ちました。 フェンシング、乗馬。ダンス、ハープシーコード、オペラ。語学に関してはラテン語、イタリア語、ギリシャ語、ドイツ語が堪能で、数学や自然科学、文学などの教育も受けました。貴族は忙しいですね。 |
シャトレ侯爵夫人は女性科学者の先駆けとして知られています。文系ではなく理系です。熱と光の関係を研究し、光の本質を議論した『自然および火の伝播に関する論考』という論文を1737年に出しました。 目には見えない光、現在『赤外線』として知られる電磁波を予言した、136ページの論文です。パリ王立科学アカデミーの懸賞論文に応募したもので、他の応募作とは別格の秀逸さによって、学者としてのシャトレ夫人の評判を作るきっかけとなりました。 |
ドイツ出身のイギリスの天文学者ウィリアム・ハーシェル(1738-1722年)1785年、46歳頃 | シャトレ夫人が予言した不可視光の存在は70年後、ウィリアム・ハーシェルによって実験的に証明されました。 天王星や赤外線放射の発見など、天文学に於ける多数の業績で知られる人物です。 2009年にヨーロッパ宇宙機関によって打ち上げられた赤外線宇宙望遠鏡『ハーシェル宇宙望遠鏡』などで、名前を聞いた方もいらっしゃるでしょうか。 同じ時代に生きていれば、シャトレ夫人とも会話が盛り上がりそうですね。 |
『物理学講義』(シャトレ侯爵夫人 1740年)33歳頃 | シャトレ夫人はニュートンやライプニッツの著作を翻訳したり、自身でも書籍などを著しています。 当時の最先端の物理学も理解し、議論できる稀有な人物でした。 |
ヴォルテール(1694-1778年) | エミリー・デュ・シャトレ(1706-1749年) |
啓蒙時代のヴォルテールと愛人関係でしたが、42歳の若さで亡くなっています。ヴォルテールはシャトレ夫人の才能を理解した上で敬愛しており、友人に宛てた手紙では「彼女は偉大な人物だった。唯一の欠点は女性だったことだ。」と書いています。 ヴォルテール自身が啓蒙時代のフランスを代表するクラスの超有名人だったこともあり、シャトレ夫人はその愛人として見られる部分が多かったようです。実際にはかなり才能に溢れる女性でした。女性で傑出した理系の才能を持つこと自体が当時のヨーロッパ社会では前代未聞で、特に学会に於いては男性優位が強かったのでしょう。学者として功績に見合った評価は受けることなく、歴史に埋もれた女性です。 |
『ニュートン哲学の基礎』(ヴォルテール 1738年)シャトレ夫人と天使を描いた挿絵 | ヴォルテールは自身の著書にもシャトレ夫人を描いたりしています。 まさに知の女神の存在だったようです。 |
シャトレ夫人は1749年、42歳で亡くなる前に代表的な業績を完成させていました。ニュートンの『プリンキピア・マテマティカ、自然哲学の数学的諸原理』を、注釈を付けつつラテン語からフランス語に全訳したものです。ニュートンはイングランド人ですが、ラテン語だったわけですね。ラテン語が上流階級の必須教養の1つとされた理由の1つです。 内容には力学の原理を元に、シャトレ夫人が導いたエネルギー保存則の概念も含まれました。ラテン語の習得だけでも大変そうですが、物理や数学的な内容まで理解していないと注釈付きの翻訳なんてできません。"業績の凄さ"を理解するにも、相当な頭が必要そうです。天才を真に理解できるのは天才だけと言うことでしょうか。ヴォルテールは理解できても、大半の人はシャトレ夫人の業績の内容が理解できず、その結果、評価につながらなかった部分もあるかもしれませんね。 |
『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン著(初版1687年)のフランス語訳の扉絵(シャトレ夫人訳 1759年出版) | フランス語訳『自然哲学の数学的諸原理』はシャトレ夫人の没後10年、1759年にヴォルテールにより出版されました。 ヴォルテールを知性の光で照らすのが、知の女神シャトレ夫人が扉絵です。 シャトレ夫人がデザインした絵だと「自己顕示欲?!」とも解釈できます。しかしそうではなく、亡くなったシャトレ夫人への敬愛の心でヴォルテールがデザインしたものなのです。 「僕が賢いのではなく、知性の光で照らしてくれる彼女こそが素晴らしいのです!!」 |
エミリー・デュ・シャトレ(1706-1749年) | シャトレ夫人はヴォルテールより12歳年下でした。女性であること、年下であることなどを気にするのは、まさに偏見そのものです。 心からシャトレ夫人を敬愛できるヴォルテールは、偏見を取り去り、ありのままを見ようという啓蒙時代を代表するにまさに相応しい人物だったとも言えるでしょう。 実際、数学や物理に関しては彼女の方が優れていたそうです。 |
『ハレー彗星の回帰を発見したエドモンド・ハレー』 コーネリアン フォブシール ヨーロッパ 18世紀 SOLD |
|
ヴォルテールが遺作を刊行する前年の1758年、ハレー彗星の再来によってニュートンの万有引力の法則に注目が集まりました。 ニュートンを翻訳したシャトレ夫人の著作を出す好機と見て、翌年の出版に至ったようです。内容が難解だけに、このような機会にぶつけるのは重要ですね。刊行後、多くの称賛を得たそうです。 |
現代でも『自然哲学の数学的諸原理』のフランス語訳と言えば、シャトレ夫人の著が代表的なのだそうです。加筆修正が必要だと改訂版に埋もれていきます。難解な数学・物理学の著書を普遍と言える形で完成させていた、それほどの女性だったのでしょう。 |
2-3-2. 海外の知見豊富な公爵家令嬢『モンタギュー夫人』
メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年)1739年、50歳頃 | グランドツアーでイギリス貴族の子弟が会いに行く人物として、モンタギュー夫人も超有名でした。 有力なイギリスの政治家である初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポントの長女として、ロンドンで生まれた生粋のお嬢様です。 当時は良家であっても、女性が十分な教育を受けることは通常はありませんでした。しかしながら弟が教育を受けるのを身近に接し、教養を身につけました。王族に並ぶ爵位貴族の最高位、公爵クラスの教養ということですね。 |
何となくあり得そうな話に聞こえますが、よほど本人に興味がなければ、そんなやり方で教養は身につきません。知的好奇心が旺盛な上に、持って生まれた才能として、元々かなり賢かったのでしょう。10代半ばには、上流階級の教養ある夫人のサークルのメンバーになっていました。 |
父 | 夫 |
初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポント(1655-1726年)1709年、54歳頃 | 外交官エドワード・ウォートリー・モンタギュー(1678-1761年)1730年、52歳頃 |
父親のエヴリン・ピアポントが継いだ爵位は伯爵でしたが、その功績で公爵となり、ガーター勲章まで受章しているやり手です。イングランドとスコットランドの合同条約の交渉を務めたり、王璽尚書という現在は内閣の閣僚クラスの官職、枢密院議長なども務めています。オシャレな人物としても知られていました。 いかにもパワフルそうなお父上ですが、長女メアリー(モンタギュー夫人)も負けず劣らずだったようです。父が迫るクロットワーシー・スケッフィントン(後の第4代マッセリーン子爵)との結婚を押しのけ、文通して正式に求婚もされていたエドワード・ウォートリー・モンタギューと、1712年に23歳で結婚しました。 当時34歳だったエドワードは、初代サンドウィッチ伯爵の孫です。この結婚でエドワードは、「レディを救った義侠の士(The knight errant that has rescued the rady)」と言われ、メアリーも生涯、夫に感謝の気持ちを持ち続けたそうです。家同士の婚姻が厳格だった高位貴族社会で、かなり特異で目立ったことだったでしょう。 |
オスマン帝国の衣服を着たメアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年) | 結婚4年後となる1716年、夫エドワードが外交官として在オスマン帝国英国大使に任命されると、モンタギュー夫人も共にロンドンからコンスタンティノープル(現:トルコのイスタンブール)に移住しました。 |
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位:西方副帝306-312年、西方正帝312-324年、全ローマ皇帝:324-337年)" 0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (1) " ©Jean-Pol GRANDMONT(07:39, 24 April 2013)/Adapted/CC BY 3.0 | コンスタンティノープルはローマ皇帝コンスタンティヌス1世が330年、古代ギリシャの植民都市ビュザンティオンに建設した都市です。 |
ビザンチン帝国時代のコンスタンティノープル "Byzantine Cinstantinople-en" ©Cplakidas(28 October 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
この地は古代からアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易ルートの要衝で、西ローマ帝国滅亡後は新ローマの行政首都としてビザンチン帝国(東ローマ帝国)の隆盛と共に栄えました。大量輸送は船が必須で、現代でも海運が主役です。 |
ビザンチン帝国時代の競馬場(左)と共にコンスタンティノープルの街 "A view from The Sphendone of the Hippodrome" ©Hbomber(2 October 2022)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
30〜40万人の人口を誇るキリスト教圏最大の都市として繁栄しました。最盛期は「世界の富の3分の2が集まる場所」とも称されたほどです。 |
28歳頃のモンタギュー夫人と息子エドワード(1717年頃) |
モンタギュー夫妻がオスマン帝国に赴任した1717年当時、イギリスはヨーロッパの中ではまだ辺境の田舎という印象でした。長旅が危険だった時代、外交官が必ずしも夫人や子供たちを帯同する必要はありませんでしたが、コンスタンティノープルは憧れの大都会でもありました。 |
ビザンチン帝国時代の競馬場(左)と共にコンスタンティノープルの街 "A view from The Sphendone of the Hippodrome" ©Hbomber(2 October 2022)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
古代ローマやビザンチン帝国など建築や美術を直接見ることもできるとなれば、教養あるモンタギュー夫人にとって、この赴任は渡りに船だったに違いありません♪ |
【世界遺産】アヤソフィア(旧コンスタンティノープル 建設開始350年頃、再建537年) "Hagia Sophia Mars 2013" ©Arild Vagen(1 March 2013, 11:25:10)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
【世界遺産】アヤソフィア(建設開始350年頃、再建537年)内部の柱 "Hagia Sophia (15468276434)" ©Clay Gilliland(6 Novemober 2014, 01:04)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
しかしながら翌1717年に政変が起こり、帰国することになりました。滞在期間は18ヶ月でしたが、その間に長女メアリーを出産し、オスマン帝国の先進的な医療の知見も得て帰国後に広めています。また外交官の妻として、実際に住んで得たトルコ社会についての記録『トルコ書簡集』(Letters fom Turkey)の記述も有名です。 |
地中海を中心とした海路 "Repubblica di Genova" ©Kayac1971(31 January 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
イギリス貴族の子弟はグランドツアーでフランス、イタリアなどのヨーロッパ大陸を巡りますが、オスマン帝国まで足を伸ばせる人は多くはありません。加えて公爵家出身の女性視点のトルコということで、極めて貴重な知見となりました。帰国は1718年にコンスタンティノープルを経ち、海路でジェノヴァに向かいました。そこからアルプス越えしています。この辺りはグランドツアーの旅程の一例と共通しています。 ジェノヴァ共和国(1005-1797年)は海洋国家として栄え、商工業も発展しており、イタリアの金融業の中心地として長い歴史を持ちます。現代でもミラノやトリノなど北イタリアの産業都市を背景に持つ立地から、ジェノヴァ港はイタリア最大の貿易港となっています。 |
ジェノヴァ港に停泊する17世紀のガレオン船レプリカ『ネプチューン』(現代) "Pirates, Roman Polanski, boat Genova 2" ©Kayac1971(31 January 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
古い遺跡からルネサンス美術、最先端の物品が往来する1718年のジェノヴァも見どころ満載だったでしょうね。 |
【小谷コレクション】 『氷河またはサヴォイに於ける氷のアルプスに関する記述』(ピーター・マーテル 1744年) 【引用】信州大学 附属図書館HP / 書物で繙く登山の歴史1 -ヨーロッパ近代登山と日本- (1) / 1.ヨーロッパ近代登山の確立と展開 |
そこから陸路でアルプス越えをしていますが、1718年当時はまだイギリス貴族にとって一般的ではありませんでした。 アルプス越えの知名度が上がり、イギリス貴族の子弟が旅程として大挙して押し寄せるようになったのは、グランドツアーの若者たちによるパーティの登山記録が1744年にロンドンで初めて出版されて以降です。 |
『アルプスの溶けない氷』 アルプス産ロッククリスタル 回転式3面フォブシール イギリス 18世紀後半 ¥1,400,000-(税込10%) |
この宝物はアルプス越えしたイギリス貴族が、現地で購入したアルプス産ロッククリスタルに、見てきた美しい景色を彫刻させたとみられるフォブシールです。 年代的には、持ち主もモンタギュー夫人と会話した可能性が十分にあります。 |
Montanvert(モンタンヴェール):左右反転させた画像 |
持ち主やモンタギュー夫人も見たかもしれない景色・・。 永遠に溶けることのない氷の彫刻です♪ |
メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年)1716年以降、26歳以上 | 一家はその後パリに滞在し、ミシシッピ計画への熱狂を目の当たりにして帰国しました。 夫エドワードは議会やヨークシャー政界での活動を主にしましたが、モンタギュー夫人は同伴せず子育てと執筆活動等に専念しました。夫婦としての情熱は冷め、分かり合える友人のような感覚となっていったようです。 1736年には18歳となった長女メアリーも結婚しました。 1738年にイタリアの多才な著述家フランチェスコ・アルガロッティ伯爵と知り合うと、50歳となる翌年、イギリスを出てイタリアに暮らすようになりました。その恋愛が終わっても帰国はせず、南フランスのアビニョンで暮らしました。 帰国するのは夫エドワードが亡くなり、相続手続きが必要となった1762年のことです。この間も手紙でやりとりは続けていましたが、22年間も海外生活を送っています。 |
アヴィニョンの街 "Vue aerienne 2 JP Campomar" ©OT Avignon(6 September 2004)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
童謡『アヴィニョンの橋の上で』で有名なアヴィニョンは、1309年から1377年の教皇のアヴィニョン捕囚によって教皇庁が置かれ、7代69年間に渡り事実上のキリスト教界の首都となった場所です。元々アヴィニョン司教の宮殿(旧宮殿)がありましたが、当時の教皇の収入の大部分をつぎ込んで新宮殿も新たに建設し、当時の教皇の収入の大部分もつぎ込んだ両区画を合わせた教皇宮殿は非常に壮大なものとなりました。 フランス貴族出身だった第198代クレメンス6世は特に華美を好み、その豪奢な生活ぶりは「どんな君主も金遣いの派手さで敵う者はなく、気前の良さでも匹敵する者はいない。」と称されたそうです。イタリアから芸術家を招聘し、新宮殿の内装をフレスコ画、タペストリー、絵画、彫刻などで豪奢に装飾させました。このように金遣いが激しい人がいると、経済に加えて文化的にも発展します。 |
【世界遺産】アヴィニョン教皇庁 "Avignon, Palais des Papes depuis Tour Philippe le Bel by JM Roseir" ©Jean-Marc Rosier from http://www.rosier.pro(September 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
フランス革命期の略奪によって内装はかなり奪われてしまいましたが、教皇宮殿は現存するヨーロッパの中世ゴシック様式建築物の中では最大級を誇る重要なものとなっています。宮殿に加え、大司教座の建築物群およびアヴィニョン橋は『アヴィニョン歴史地区』として世界遺産登録されています。 フランス革命時は地方まで大混乱し、全土で略奪や大量の人口流出などかなり酷かったようですが、モンタギュー夫人が過ごしたのは略奪や破壊に遭う前の時代でした。アヴィニョンの邸宅にはグランドツアーの若者や多くの客を招いたそうです。 著述家アルガロッティとの話はヨーロッパ大陸に移住する言い訳のようなものだったかもしれませんね。もともと田舎くさいロンドン(当時)より大陸の豊かな文化と大都会の方が肌に合い、未知の世界への畏れよりも好奇心の方が勝る女性だったように感じます。 |
メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年)1725年、36歳頃 | 多数の著作で社交界の有名人となっていた上に、知見豊富で知己に富み、顔も広いモンタギュー夫人を尋ねるのはイギリス貴族の定番となったようです。 グランドツアーは数年かかるのが通常です。英語以外が苦手なイギリス人の若者たちにとって、遠い異国の地で英語が通じ、祖国の話もできる女性は超貴重です。 また、せっかくフランスからイタリアまで行ったのに、会ってこなかったとあっては、帰国後に周囲から呆れられることすらあったでしょう。 こうしてモンタギュー夫人はより顔が広くなり、自身の知見も増える一方です。 |
フランスの娼婦の誘惑から逃げるイギリス貴族の若者 【引用】『グランド・ツアー』(本城靖久著 1983年)中央新書688, p95 |
夫人曰く、「イギリスの若者たちの愚かな振る舞いや、その家庭教師の馬鹿さ加減や悪辣さのために、私たち(イギリス人)は光栄にも『金持ちの馬鹿者(Golden Asses)』とイタリア中で呼ばれています。」とのことです。 家庭教師もピンキリで、一流を連れて行けるのは上層中の上層だけです。荷物持ちや護衛ができればOKくらいの家庭教師もいたでしょう。 温室育ちで世間知らず、擦れていない上に金銭感覚もまだない若者たちが、大金を持たされれば鴨ネギ状態です。ぼったくり放題であり、行く先々で「イギリス人のボンボンはチョロい。」と言われるのは想像に難くありません(笑) |
28歳頃のメアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人と4歳頃の長男エドワード(コンスタンティノープル 1717年頃) | モンタギュー夫人はなかなか辛辣な表現ですが、イタリアに渡った当時既に50歳で、26歳となる長男エドワードもいました。 立ち寄る若者たちの未熟さも理解しつつ、母親のような目線で見守る感じだったかもしれませんね。 ちなみに長男エドワードは、母親の才能と奇抜さを受け継いだと言われています。 1718年にイギリスに帰国後はウェストミンスター学校に入学しましたが、何度も脱走したそうです。 |
テムズ川からのブラックウォール造船所の眺め(ロンドン 1784年) |
最初の脱走は13歳、1726年7月に1年間も姿を眩まし、ロンドンのブラックヤードで魚を売っている所を発見されたそうです。その次は14歳、1727年8月にポルトガル北部の湾岸都市ポルトまで向かう船で出国し、そこから田舎に行き葡萄畑で仕事を見つけました。しかしながら用事を任され、ロバを連れてポルトに戻った所でイギリス領事館の職員に見つかり、連れ戻されました。 |
トルコ衣装のエドワード・ウォートリー・モンタギュー(1713-1776年)1775年、62歳頃 | 帰国後、両親も学校は諦めたのでしょう。家庭教師と共に西インド諸島を旅行させ、その後は召使と共にオランダを旅行させました。 やりたいことが分かってきたのか、さらにオランダのライデン大学でアラビア語を真剣に学びました。 その後、将校として従軍したり、国会議員なども務めました。この辺りは上流階級の役割という感じです。 ただやはり自由人としての気質が強かったようで、長年に渡り各地を旅しました。このため、旅行家として知られます。 東へ長期旅行した際は、なぜかヴェネツィアでトルコ流の生活をしていたそうです。 |
トルコ衣装のエドワード・ウォートリー・モンタギュー(1713-1776年)1775年、62歳頃 | ヘブライ語、アラビア語、カルデア語、ペルシャ語が堪能で、優れた雄弁家でもありました。 ただ、借金をしまくっていたりと自由人ぶりは変わらずで、家族はもはや諦めていたようです。このため、モンタギュー夫人は長男に遺言で遺産を1ギニーしか残さず、残り全ては長女に継がせました。 父親の反対を押し切って結婚したモンタギュー夫人でしたが、長男はまさかの夫人以上の破茶滅茶っぷりです。 こんな長男がいたら、全てのグランドツアーの若者たちは可愛く見えそうですね(笑) |
モンタギュー夫人の長女 | |
ビュート伯爵夫人&初代マウント・テュアート女男爵メアリー・ステュアート(1718-1794年)1780年、62歳頃 | マウント・テュアート女男爵の紋章 |
一方、コンスタンティノープルで生まれた長女はしっかりしていたようで、「改めて申し上げる必要はないほど、ご性格が素晴らしく礼儀正しいお方」、「思慮深く忠誠心があり機知に富んでいて、夫君とご家族に実に献身的な女性」などと同時代の人から評価されています。 夫は1762年にイギリスの首相に就任しており、首相夫人として支えただけでなく、自身も1761年にグレートブリテン貴族の女男爵を叙爵しています。 |
メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年)1739年、50歳頃 | 伝統を守る保守的な人が必須な一方で、新しい流行や文化を創り出していくには常識や慣例に捉われない自由な発送と行動力が必要です。 後者は茨の道です。大半は一発花火のようであったり、淘汰されて人知れず消え去るのみです。多くの人に受け入れられ、後世まで記憶や形として残るのは稀有な才能を持つ人だけです。 知性に加え、誰にも真似できない行動力を備えたモンタギュー夫人は、当時の多くの上流階級を惹きつけたことでしょう。実際にお目にかかれたら本当に凄そうですね。 |
2-3-3. 類は友を呼ぶ社交界
様々な意味でモンタギュー夫人の知名度は高く、没後90年、ヴィクトリア朝でも絵画モチーフになっています。機知に富む優雅な女性はヨーロッパ貴族にとって理想であり、多くの紳士にとって憧れの対象でした。そのような評判の高いご婦人に相手にしてもらえれば、楽しいだけでなく紳士としての格も上がります。 |
モンタギュー夫人(1689-1762年)に愛を受け入れてもらえなかったアレキサンダー・ポープ(ウィリアム・フリス 1852年) | イタリアのフランチェスコ・アルガロッティ伯爵(1712-1764年) |
知性ある女性と楽しく会話するには、同等の知性が必要です。ヨーロッパ貴族は狭い範囲を深くと言うより、広範囲を深くする万能性が理想とされました。並の男性ではまともに相手にしてもらえません。モンタギュー夫人に相手にしてもらえたイタリアのアルガロッティ伯爵は、幅広い知識と多才さで有名でした。著述家で哲学者、詩人、エッセイスト、英国愛好家、美術評論家、美術家で、ニュートン主義、建築、オペラの専門家でもありました。 |
アルガロッティ伯爵がオーダーした『パンテオン(ローマ)内部』(ジョヴァンニ・パオロ・パンニーニ 1734年頃) | パトロンや美術品コレクターとしても評価が高く、プロイセン王フリードリヒ2世とも親しかったそうです。 |
プロイセン王フリードリヒ2世(1712-1786年) | フリードリヒ2世はその功績を讃え、『フリードリヒ大王』とも呼ばれます。 啓蒙思想を掲げて上からの近代化を図った啓蒙専制君主で、優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に務めました。 硬そうな人物に見えますが、本来は母親似で生来の芸術家気質でした。芸術的才能の持ち主であり、宮廷人らしい万能ぶりを発揮したことで知られています。 |
サンスーシ宮殿でフルートを演奏するプロイセン王フリードリヒ2世 (アドルフ・フォン・メンツェル 1850-1852年) |
サンスーシ宮殿の音楽室 "Schloss sanssouci potsdam von innen" ©Janstoecklin(14 April 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
特に音楽は幼少期から大好きで、表現力に富むドイツ・フルートを好み、23歳から44歳にかけて自身の楽しみのために多数作曲しています。 フルート・ソナタだけでも121曲あります。 宮廷には当時の第一級の音楽家が集い、皆で楽しんだり切磋琢磨し合いながら新しい文化が生まれ、交友関係も広がっていきました。 |
ジャガイモの収穫を視察するフリードリヒ2世 |
食糧政策も重視しており、食事事情を改善するためのジャガイモ栽培の奨励は大きな成果を発揮しています。ドイツ料理にジャガイモがよく使われる食材の1つとなったのは、この政策が背景にあります。 美食家としても知られ、ランチは8皿準備させていました。4皿はフランス料理、2皿はイタリア料理、残りはフリードリヒ2世が好む、香辛料をきかせた鰻やトウモロコシのお粥、ベーコン料理などです。新鮮なフルーツも好みました。来客時以外はディナーは食べませんでしたが、提供する際は30皿も準備させたそうで、宮廷の食事の予算はかなりのものでした。 |
サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世の食卓 左からフリードリヒ2世、前傾で話す紫コート:ヴォルテール、アルゲン侯爵、ジョージ・キース、アルガロッティ伯爵、ラ・メトリ、マルキ・ダルゲンス |
ベルリンをパリやロンドンに匹敵する文化の中心地とすべく、プロイセン科学アカデミーも復活させ、ヨーロッパ中から知識人を招待して議論や研究を行いました。これは1849年に想像で描かれた絵画ですが、実際にそうそうたる知識人たちが呼ばれています。 ご紹介したヴォルテールやアルガロッティ伯爵も描かれています。それぞれシャトレ夫人、モンタギュー夫人と、知性で有名な女性が恋人です。フリードリヒ2世はヴォルテールとも親密で、フランス文化を知り尽くすほど学問と芸術に明るく、全30巻にも及ぶ膨大な著作を著して『哲人王』とも呼ばれています。 |
啓蒙時代の有名人 | |||
シャトレ夫人(1706-1749年) | ヴォルテール(1694-1778年) | モンタギュー夫人(1689-1762年) | アルガロッティ伯爵(1712-1764年) |
各国の君主が率先して知的な議論が活発化した啓蒙時代は、特に知的な人物が持て囃されました。知的なものを好む紳士にとって、見た目だけ良い女性では一緒の時間を過ごす価値がありません。知的な物事を好んだフランス皇帝ナポレオンも、再婚した18歳の妻マリア・ルイーザが嫉妬するほど、離婚後も8歳年上のジョゼフィーヌの邸宅に入り浸っていました。ジョゼフィーヌも陽気な性格と知性で社交界の華だった女性です。モンタギュー夫人もアルガロッティ伯爵より13歳年上ですね。 会話して面白いことは重要です。また、これほどの女性に選んでもらえるというだけで、紳士としての力量を示すこともできます。知的な女性は、まさに自慢の恋人です。 |
『自然哲学の数学的諸原理』アイザック・ニュートン著(初版1687年)のフランス語訳の扉絵(シャトレ夫人訳 1759年出版) | この扉絵もまさに、ヴォルテールの自慢したい気持ちが抑えきれない様子が伝わってきますね。 高度に知的な女性を求めることができるのは、自分に自信がある男性だけです。 自分に賢くない自覚があると、賢い女性は妬みや嫉妬の対象にすらなり得ます。そして、どうしても自分より下の女性を求めがちです。 自分に真の意味で自信が持てる男性、高度に知的な女性から相手にしてもらえる男性。そのような紳士はほんの一握りだったと想像しますが、そのような男女が特に社交界で輝いたのが啓蒙時代だったと言えます。 |
2-4. 想像力を掻き立てるピクチャー・ストーン
面白い模様を持つ石は、無限の想像力を掻き立てます。見る者によって、見える景色は変化します。 日本人が理想とした『不完全の美』も、物自体には想像の余地を持たせることで、それぞれの心の中で完成させるものでした。 魅力的な模様を持つ石のルミエール・ジュエリーは、まさにそのジャンルの美術作品です。 |
2-4-1. 面白い模様が特徴の宝石
それぞれの想像力によって完成させる表現は、芸術作品のハイエンドです。豊かな経験と想像力があってこそ、最高の情景を心の中で楽しむことができます。それは誰もができることではありません。だから単純明快な表現の方が圧倒的多数です。 想像力を加味して作られたアートは、ごく少数の人しか堪能できない世界です。だからこそ数は少ないです。その一方で、昔から知的な上流階級を強く魅了してきました。このような人たちにとって、分かりやすいものを自慢するのは自身の才能や教養のなさを自ら暴露する行為であり、むしろ恥です。アンティークでもそのような単純なものは存在しますが、現代はそれで埋め尽くされています。 だからこそ、アンティークの知的なジュエリーはより異彩を放って見えるのかもしれません。 |
『獅子座』 古代ローマ ジャスパー・インタリオ リング 古代ローマ 2世紀(リングはヴィンテージ) ¥2,800,000-(税込10%) |
|
面白い模様を持つ石は、古代から使用されています。 これは古代ローマのレッドジャスパーのインタリオです。 ヘラクレスに由来する獅子座(ネメアの獅子)が陰刻されています。 |
アリゾナ産レッドジャスパー原石(約4.2cm) "Jasper (32132824820)" ©James St. Jphn(24 January 2017, 22:34)/Adapted/CC BY 2.0 | 【参考】レッドジャスパーのブレスレット(現代) |
ジャスパーは微細な石英結晶が集まってできた宝石です。アゲートやカルセドニーと同じ種類ですが、ジャスパーの方が不純物を多く含みます。適当にカットしたもので良ければ安価ですが、美しくはありません。完全無欠なもの、美しい模様のものを得ようとすると、相当な量の中から選び出さなければなりません。それこそが稀少価値です。 |
これはダイヤモンドを含めた全ての鉱石に言えることです。でも、洗脳が深い人はダイヤモンドというだけで「価値がある」と結びつけます。種類が大事なのではなく、選び抜かれた美しい石こそが、稀少価値の高い『宝石』と呼べるのです。 |
アンティークの本当に価値ある宝物を眺めると、なぜ持ち主がその石を選んだのかを、はっきりと感じることができます。2000年近く前に生きた人と感性を共感し、心の会話ができる魅力があります。このようなインタリオは天然の石の模様と、芸術家による彫刻モチーフのコラボレーションが面白いです♪ |
2-4-2. 啓蒙時代の宝石
リュミエール・ジュエリーの場合、インタリオはなく、"石そのもの"の天然の模様を楽しむデザインが大きな特徴です。 |
デンドライト・アゲートの手帳 イギリス? 1760年頃 ワデズドン・マナー(ロスチャイルドの邸宅)蔵 |
半貴石に分類される石の場合、インタリオやカメオなどが彫刻されるのが通常です。 ダイヤモンドやルビー、サファイアなど異なり、彫刻に適した大きさが手に入ること、硬度的に彫刻しやすいことも理由です。 古のヨーロッパでは、「とにかく手間と技術をかけることこそがラグジュアリー」という概念があるため、ありのままの自然の石の模様を楽しむという発想が生まれにくかったことが特に大きな要因です。 左の手帳は、要素を詰め込むことこそラグジュアリーという意識も感じるものの、中央のデンドライト・アゲートの模様の配置は、オーソドックスなヨーロッパの美意識とは一線を画すものです。『間(ま)』の取り方は、日本人の美意識に通ずるものを感じます。一見すると何もない空間にこそ、無限の広がりが見えてきます。 |
モスアゲート ブローチ イギリス 18世紀後期 SOLD |
モス・アゲート ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
ピクチャー・アゲート ブローチ フランス? 1830年頃 SOLD |
モス・アゲート リング フランス 1840年頃 SOLD |
『デンドライトの森と釣り人』 フランス 1850年頃 デンドライトアゲート ブローチ SOLD |
『ブラッカムーア』 フランス 1860年頃 カメオ ロケット ペンダント SOLD |
デンドライトアゲート プレート イギリス 19世紀後期 ¥387,000-(税込10%) |
モス・アゲート ブローチ ロシア 1900年頃 SOLD |
アゲート ブローチ ロシア(ファべルジェ) 1900〜1910年頃 SOLD |
『デンドライドの森と釣り人』のように、明らかに具体的イメージを示唆する作品もありますが、それ以外は自然が描き出した天然の石の模様そのものが主役のデザインです。絵画には、それに相応しい額縁が用意されます。面白い模様の石だけでも片手落ちで、素晴らしい額縁がセットになってこそ、芸術作品として完成します。 作りとデザインが理解できる方ならば、下手な宝石物のジュエリーより余程贅沢な作りであることがお判りいただけるでしょう。どの石も唯一無二で美しく、それぞれが強いこだわりを以って選ばれたことが伝わってきます。そこには数値などで示せるような単純明快な基準などなく、物差しは自身の美的感覚のみです。 |
私の場合は分かりやすい宝石よりも、このような面白い石の模様の宝物にこそ強い魅力を感じます。あれば必ず買い付ける好きですが、市場でもお目にかかれるのは稀です。 知的なことを考えるのが大好きで、しかも相当なお金持ちだけがオーダーできる宝物です。ピクチャー・ストーンは、持ち主の教養と知性、美的感覚を示してくれる、まさに啓蒙主義の宝石と言えるでしょう。 |
3. 特別なピクチャー・ストーン
3-1. センスと技術を要する職人技のカット
3-1-1. 想像しにくい宝石の高度なカット技術
アンティークジュエリーは、細工の凄さが一目で分かりやすいものがあります。その痕跡の1つ1つが見えるものは、背景にある高度な技術と手間を想像しやすいです。 |
『平和のしるし』 ローマンモザイク デミパリュール イタリア 1860年頃 ¥2,030,000-(税込10%) |
『EAGLE EYE』 イーグル クラバットピン フランス 1890年頃 ¥1,500,000-(税込10%) |
ローマンモザイクや細かな彫金は、一般に分かりやすいと思います。その一方で、神技を使っているにも関わらず、殆どの人はそのことに気づかない玄人向けの宝物もアンティークのハイジュエリーには少なくありません。特に一般人が想像しにくく、背景にある職人技を理解しにくいのがカットです。 |
3-1-2. 1つ1つの原石を見極めながらの古のカット
アンティークの時代と現代では、ダイヤモンドをカットする作業も全く異なります。前者は一種の芸術作品と言え、誰がカットするのかで、同じ原石でも仕上がりが変わります。現代は決められた規格通りにしかカットしないため、手作業でカットしたとしても、職人ではなくオペレーターによる作業です。 |
ブラジルと南アフリカのダイヤモンド産出量の推移 【出典】2017年の鉱山資源局の資料 |
この違いは、ダイヤモンドそのものの稀少価値の変化が原因です。ダイヤモンドそのものの稀少価値が高かった時代は、少しでも無駄にせぬよう、高度な技術を持つ職人が細心の注意を払ってカットします。現代はいくらでも無駄できるほど、無尽蔵に原石が得られます。稀少性はなく稀少価値はありません。 |
カットの近代化以前 | 現代 |
『ミラー・ダイヤモンド』 アーリー・ヴィクトリアン ダイヤモンド リング イギリス 1840年頃 ¥3,700,000-(税込10%) |
【参考】ブリリアンカット・ダイヤモンド リング(ハリー・ウィンストン 現代)560万円〜 【引用】HARRY WINSTON / The One by Harry Winston ©Harry Winston, Inc. 2024 |
現代のダイヤモンドは、無駄が出ることを気にする必要がありません。1つ1つの原石に対して、最大限のカットを考えたり手間をかけるのは、人件費や技術料の観点からむしろマイナスなのです。無駄が多かろうと、何も考えず同じ形にカットしてしまう方が総合的に安価です。 アンティークのダイヤモンドは、1つ1つの原石に対して最良のカットを施します。だから1粒ごとに個性がありますし、職人の美的センスや技術によっても仕上がりは変わります。 |
3-1-3. 職人のセンス次第で大きく変わるピクチャーストーンのカット
ピクチャー・ストーンの場合、職人次第で仕上がりが全く変わります。正解の方向が、全く定まっていないからです。 |
モス・アゲート リング フランス 1840年頃 SOLD |
|
模様の出方は平面方向のみならず、奥行でも全く変わります。厚みはどうするか、どの角度で切り出すか、形や面積によっても印象は激変します。 |
【参考】デンドライト・アゲートの原石スライス 【引用】Creema/デンドライトアゲート 原石 スライス ©Haruky(はるき) |
これはハイグレードのデンドライトアゲートで、透明度が高くここまで大きな原石は稀少とのことです。 スライスした端はそのままなので研磨しておらず、危険なので注意が必要だそうです。普通は売り物にすべきでない気がしますが、手間をかけない分だけ安いのでしょう。14,190円(送料別)です。 自然はお金を要求しません。ダイヤモンドだって原石の原価はタダです。鉱山の所有権、採掘に必要な工具や人件費、選別や加工に必要な工具や技術や人件費、流通や販売にかかるコストなどが乗ってくることで価値が出てきます。 |
【参考】デンドライト・アゲートの原石スライス 【引用】Creema/デンドライトアゲート 原石 スライス ©Haruky(はるき) |
ここからさらに良い部分を選び、カットして行きます。削り過ぎたり、角度を間違えてもやり直しはききません。職人の技術と手間を考えると、高価になっても違和感はありません。 大半は無駄になります。都合の良い色彩、大きさ、形、密度の模様はそうあるものではありません。 密集しすぎていても美しくありませんし、寂しすぎても見栄えしません。 想像以上に美しいピクチャー・ストーンを得るのは難しく、それぞれに並々ならぬ手間がかかっているのです。 |
『大自然のアート』 デンドライトアゲート プレート イギリス 19世紀後期 ¥387,000-(税込10%) |
|
原石を光のに透かしながら、理想の部分を狙って削り出していきます。「もう少し、もう少し」と思いながら、僅かでも削りすぎると模様は永遠に失われます。ミクロン単位の調整はまさに神技です。 |
この石は特に大型で、少しでも奥行や水平角度がずれると、この全面模様は出なくなります。 ピクチャー・ストーンのカットは美的センスに依存する上に、神技の技術も必要とします。 個人差が出やすく、どの職人に依頼するかも超重要なのです。 |
||
|
3-1-4. ドーム型の美しい石のカット
表面をフラットにするか、曲面にするかでも石の模様の出方や印象が変わります。 曲面にする場合、どのような曲率にするかでも大きく変わってきます。 |
モス・アゲート リング フランス 1840年頃 SOLD |
|
今回の宝物も、模様には奥行があります。石の模様が最も美しく見えるよう、明らかに意図してドーム型にカットしています。 |
3-2. 夜明けの時代を象徴する石の模様
3-2-1. 特別な価値を持つ模様
見る人によって、石の模様の見え方や解釈は異なります。本来はそれぞれが自由に解釈すべきものです。ただ、今回は限られた人たちだけが持つ知識がないと、持ち主が意図した解釈はできないかもしれません。 |
皆様は何を想像されるでしょうか? ランダム模様ではないので、ただ"綺麗なもの"を意図しただけの作品ではありません。しかも贅沢なカンティーユ、上質なトルコ石など、よほど石の模様に価値を見出していないとあり得ない作りです。持ち主にとって相当に価値のある、超特別な模様を持つ宝石なのです。 |
カンティーユが流行したのは、金が史上最も高騰した1820〜1830年代です。この時代のジュエリーは高級品でもゴールドの使用量が限られますが、ゴールドの色が良く、おそらく通常より金位が高いです。また、ブローチのピンやピン受け、ペンダントのバチカンまで贅沢にゴールドを使用しており、相当な財力を持つ高位貴族の特注品であることは確実です。 |
3-2-2. 覗き込むと見える壮大な景色
『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント イタリア 19世紀後期 ¥1,330,000-(税込10%) |
|
第一級品のカメオは、光にかざすと表情がダイナミックに変化します。これを想定して制作されていることは確実です。 |
今回の宝物も、光にかざすと面白い景色が浮かび上がります。焦茶色の模様の奥行がはっきり出てくるだけでなく、雲海のような模様が肉眼でも分かるよう現れます。 |
『朝霧』 カルセドニー ドロップ型ピアス イギリス 19世紀後期 SOLD |
ホワイト・カルセドニーの原石標本 【引用】Chalcedony Specimens(Botryoidal) ©2016-2024 Albion Fire and Ice |
これはカルセドニーです。アゲートとカルセドニーはどちらも石英の結晶が詰まった鉱物で、区別は曖昧な部分があります。右は標本用の高品質なホワイト・カルセドニーです。カットすると殆ど分からなくなりますが、白玉団子が幾つもくっ付いたような結晶が特徴です。 |
ジョージアン カルセドニー ペン イギリス 1820年頃 全長 7.5cm SOLD |
このペンは長さがあるので、なんとなくカルセドニーのマトリクスが感じていただけるでしょうか。透明感のある石は、光にかざすと思いがけない表情を見せてくれたりするものです♪ |
この模様を見て、山々あるいは雲海からの日の出に向かって飛ぶ鳥の姿を想像しました。 啓蒙時代の夜明けの到来。夜明けの光は『知性の光』。知性の光を放つ、神々しい太陽に向かって力強く飛翔する鳥の景色です。まさに明けの鳥であり、朱の鳥です。左の丸い模様が太陽です。 |
特に羽ばたく鳥の模様は奇跡です! 左右に広がる雄大な翼。太陽に向かって飛ぶ姿。その尾羽の様子も、まさに鳥そのものです!!♪ |
光にかざす前は「想像の範囲を出ない。」と考えましたが、この雲海の景色を見て、推測はほぼ間違いないと確信しました。 |
←↑等倍 |
薄曇りのような透明度が高い石で、模様の奥行も奇跡的です♪♪ |
日本だと、太陽の使いとして八咫烏や金鳶が有名です。天日鷲など、鳥と神の関係は密接です。ギリシャ神話でも、太陽神アポロンの使い鳥はカラスです。最高神ゼウスは鷲です。ゾロアスター教だと太陽の使いは鶏でした。キリスト教だと精霊は鳩で、日本の八幡神の使いも鳩です。 |
錬金術論文『哲学者のロザリオ』のイラスト(フランクフルト 1550年) | 古今東西に太陽崇拝が存在します。 『Winged sun』と呼ばれる有翼太陽のシンボルも、様々なバリエーションが存在します。 文化や表現が異なると気づきにくかったりしますが、意識すると至る所に該当のモチーフが存在することが分かります。 鳥の種類自体は一定していないことから、翼が重要と推測できます。 |
ラムセス3世(在位:紀元前1186/1184-紀元前1155/1153年頃)の神殿の有翼太陽 "Medinet Habu Ramses III. Tempelrelief 15" ©Olaf Tausch(8 March 2011)/Adapted/CC BY 3.0 |
エジプトと言えば太陽神で、赤い太陽が有名です。このような図像も存在します。真下に復活の象徴アンクがあり、その左に赤い太陽と鳥が描かれています。 |
アメネムハト3世のピラミディオン(中王国エジプト第12王朝 紀元前1850年頃) "Cairo museum 8" ©Leon petrosyan(3 January 2021, 17:44:42)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
これはフリーメイソンっぽいですが、古代エジプトのピラミッドのキャップストーン『ベンベン』です。有翼太陽が彫刻されています。 古代エジプトの歴史は長く、時の為政者によって神は代わったり変容したり、習合したりして一定しません。しかし第一王朝(紀元前3100年頃?-紀元前2890年頃?)以前から存在したとされるのが不死の霊鳥ベンヌの信仰です。「光り輝く者」、「ラーの魂」ともされ、原初の神ラーは鳥であるベンヌの姿で原初の丘ベンベンに舞い降りたと言われます。 ベンベンの丘を模したのが四角錐の石『ベンベン』で、ピラミッドやオベリスクのキャップストーンとしても使用されます。 |
イリネフェルの墓、太陽円盤を頭上に掲げたベンヌ |
ベンヌは金色に輝く青鷺、爪長鶺鴒(ツメナガセキレイ)、赤と金の羽がある鷲とも言われ、定まっていません。ホルスやフェニックス、鳳凰、シームルグ、ファイヤーバード、朱雀(朱鳥)などのモデルとも言われています。 ロンドンのテムズ川の西側にそびえるオベリスク『クレオパトラの針』は有名ですが、実はテムズ川は『イシス川』とも呼ばれていました。 ちなみに、先にご紹介したプロイセンのフリードリヒ大王もフリーメイソンでした。上流階級はこれらの知識を知らないわけはなく、知識がない人には分からない秘密の暗号で以心伝心していました。 |
ペルセポリスに残されたフラワシの彫刻(アケメネス朝) "Persepolis - carved Faravahar" ©Napishtim(January 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ゾロアスター教のモチーフも該当します。中世には、太陽への1日3回の礼拝がゾロアスター教徒の日課となったそうです。違うものに見えて、案外、根源は同じ物事だったりします。ご興味がある方は、調べてみると奥深い世界がきっと見えてきます。 |
ホワイト・カルセドニーの原石標本 【引用】Chalcedony Specimens(Botryoidal) ©2016-2024 Albion Fire and Ice |
|
それにしても、石のマトリクスと模様がうまくコラボレーションして現れた、天然の景色は見事です。 上質なホワイト・カルセドニーに都合良く面白い模様が入った石自体が、これまで見たことないほど珍しいです!! |
『ゼウス&ヘラ』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント イギリス 1860年頃 ¥885,000-(税込10%) |
神々しい天空の雲、彩雲と言えばこのようなイメージです。 これは人の手による、巧みな彫刻で表現しています。 |
夜明けの太陽に向かって飛翔する鳥。 神様が意図して描き出したようにも感じられるほど、奇跡的な存在です。分かる人にとっては何にも変え難い、価値のある宝石です。だからこそ、当時のジュエリーとしての最高の作りなのです。 |
透明感のあるアゲートなので、背景によって雰囲気も変化します。 待ちに待った夜明けの晩。朝焼け、夕焼けの赤い色彩はあっと言う間に変化します。太陽が出始めの朱み懸かった空を表現するのか、明けきったことを表現する青空にするのか・・。黄金の夜明けを一体どう表現するのか。この宝物は、持ち主が着用して初めて完成する芸術作品でもあるのです♪♪ |
奥行が分かりにくいと思いますが、半透明の石に現れた立体アートの景色は雄大です。実物をご覧いただくと、きっとこの感動を共感してくださると思います♪ |
4. 時代を感じる華やかで贅沢な装飾
4-1. ゴールドが爆騰した時代ならではの優美な装飾
1848年にカリフォルニアでゴールドラッシュが起きたことで、金価格は大暴落しました。以前とは比較にならないほど安価になったことと、豊富な供給量により、ジュエリーへのゴールドの使い方も大きく変化していきました。王侯貴族のための高級品であれば、より贅沢かつふんだんにゴールドを使用できるようになりました。台頭してきた中産階級(新興成金)でも頑張れば手を出せるようになり、庶民向けの安物(庶民にとっては高級品)でも使用できるようになりました。 |
4-1-1. ゴールドそのものがステータスの象徴となった特殊な時代
英国王ジョージ4世妃キャロライン・オブ・ブランズウィック(1768-1821年)1820年制作 | 大変換点となるゴールドラッシュ以前のゴールドは、王侯貴族にとっても特別でした。 ただ、特に1820年代から1830年代にかけてのイギリスはその中でも異質です。稀少性とは別に、ナポレオン戦争に伴う金融パニックの影響で金価格が爆騰しました。 この影響で、この時代だけは"ゴールドそのもの"がステータスの象徴となりました。 他の時代だと、肖像画にはステータス・ジュエリーとして天然真珠やその他、煌びやかな宝石のジュエリーが描かれているのが一般的ですが、この時代だけはゴールドそのものを強調した構図で描かれるのが特徴です。 |
英国王ウィリアム4世妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン(1792-1849年)1831年頃 | ヴィクトリア女王の母ヴィクトリア・オブ・サクス=コバーグ=ザールフィールド(1786-1861年)1832年 |
『ジョージアンの女王』 ジョージアン ロング ゴールドチェーン イギリス 1820〜1830年頃 SOLD |
暫定王位継承者ヴィクトリア(後のヴィクトリア女王)1832年、13歳頃、ロイヤル・コレクション |
王族のステータスの象徴となるほど、ゴールドが高価な時代でした。 ゴールドそのものの使用できる量が限られる一方、それに比較すれば、第一級の職人であっても人件費なんて安いものでした。 少ないゴールドでより華やかに見せるため、惜しみない技術と手間が込められたのが特徴です。 |
4-1-2. 金価格爆騰によって進化した金細工技法
金価格が爆騰した1820年代から1830年代にかけて、少ないゴールドでより華やかに魅せるための様々な金細工技術が発展しました。必ずしも古ければ古いほど良いと言うわけではなく、技術革新や進化にはきちんと相応の時代背景があるのが面白いです。 |
カンティーユがメイン | 打ち出しがメイン |
シトリン ネックレス&イヤクリップ フランス 19世紀初期 SOLD |
シトリン ネックレス&イヤクリップ フランス 19世紀初期 SOLD |
金細工技術は多くの種類がありますが、少量で華やかさを出す意向の元、カンティーユや打ち出しの技術が特に重宝されました。これらの宝物も、それらの技法が使用されています。素材は全く同じで、シトリンとゴールドだけでデザインされた華やかなデミ・パリュールです。メインの技法によって、雰囲気が全く異なります。 |
4-1-3. カンティーユの隆盛
特に持て囃されたのは、目新しさもあったカンティーユです。 |
細い金属線を駆使した細工としては、シルバー製のフィリグリー細工の小物がありました。平面的な作りですが、これが『金の刺繍』と表現される立体的なゴールドのカンティーユへと進化し、1820年頃から王侯貴族のゴールド・ジュエリーにデザインされるようになりました。 |
トパーズ カンティーユ ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
ピンクトパーズ カンティーユ ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
立体デザインは重要です。小物の場合は、耐久性の観点から平面デザインの方が良かったりしますが、ジュエリーの場合はノッペリとした平面より立体的な方が美しく見えるものです。見る角度、光が当たる角度が変わるごとに表情を変化させますし、奥行は印象に深みを与えます。 |
今回の宝物 フランス or イギリス 1820年頃 |
シェルカメオ ブローチ&ペンダント イギリス 1830年頃 SOLD |
フローレンスモザイク ピアス イタリア 1830〜1840年 HERITAGE コレクション |
カンティーユの装飾は、煌びやかな宝石をより一層華やかに魅せてくれますが、アーティスティックな作品を見栄えするジュエリーにしてくれる力は絶大です!♪ 私が初めて手に入れたアンティークジュエリーも、そのような宝物でした。宝石とも芸術作品とも相性が良く、デザインの幅も広いため、目新しさもあって、美意識の高い王侯貴族にカンティーユが大いに流行したのです。 |
4-1-4. 最初期の珍しいカンティーユ
この宝物のカンティーユは、通常とは異なる雰囲気を感じた方もいらっしゃると思います。 過去47年間でご紹介してきたカンティーユの宝物は、それぞれのデザイン自体は異なっていても、どの構成要素も『立体』を意識して作られています。 |
今回の宝物は平面デザインのフィリグリーと組み合わせているのが特徴的で、静と動の組み合わせになっています。 |
金細工の構成要素はゴールド・ワイヤーによる花びらパーツ、細長い黄金板を巻いたパーツ、粒金があります。 円形に巻いた渦状パーツは高さを出している一方で、菱形〜楕円状のフィリグリーは平面で巻いています。 |
巻いた黄金の板はミルが打たれています。単に鑽(タガネ)を打っただけでなく、鑢(ヤスリ)で磨いて滑らかな半円状に整えられていることが分かります。ジョージアンらしい、途轍もない技術と手間のかけようです!! |
←↑等倍 |
この極細のミルがそれぞれ、繊細で豊かな黄金の輝きを放ちます。花びらパーツのシンプルなワイヤーとの対比が、さらに緩急を生み出します。 |
←↑等倍 |
蝋付の技術も驚異的です。改めてジョージアンの別格さを感じさせてくれます♪ |
2次元で表現する画像ではどうしても分かりにくいですが、フィリグリーで意図的にデザインした『平面』は、他のカンティーユにはない魅力を放っています。 |
ローズカット・ダイヤモンド カンティーユ リング ヨーロッパ 1820年頃 SOLD |
|
平面的な巻きをしたカンティーユとしては、過去にこのリングがありました。Genも「二度と出会うことのない珍しい指輪です!!!」とご紹介しています。 リングなので、耐久性を考慮して平面的な作りと立体的な作りを組み合わせています。後方の粒金も、意図的にフラットな形状になっています。 |
耐久性の観点からカンティーユのリング自体が幻のような存在ですが、200年ほど経過してもコンディションを保っていることが驚異的です。 制作技術のみならず、計算されたデザインあってこそです。 ダイヤモンドのセッティングが古いタイプなこともあり、カンティーユとしては最初期のものと推測します。 |
流行の最初期 | 流行の真っ只中 |
フランス or イギリス 1820年頃 今回の宝物 |
アメジスト&カンティーユ ブローチ イギリス 1830年頃 SOLD |
カンティーユはフィリグリーから進化したことを考えると、今回の宝物も他より古く、カンティーユの最初期ならではの作りと推測できます。流行も真っ只中になると方向性が定まってきますが、最初期は試行錯誤が旺盛で、個性ある面白いものが生まれやすいです。これはそのような宝物です♪♪ |
←↑等倍 |
同じ『カンティーユ』でも、デザイン次第で雰囲気が全く異なるのが奥深いですね。 |
4-2. 上質なトルコ石を脇役にした贅沢な美しさ
4-2-1. 宝石を使った華やかな額縁
今回の宝物はピクチャー・ストーンが主役です。主役が芸術作品である場合、カンティーユの額縁には宝石をデザインしないのが一般的です。 |
4-2-2. 『トルコ石』が暗示する知の女神ソフィア
開国後、特に文化面に於いて、日本人はヨーロッパを目標に切磋琢磨しました。第二次世界大戦後はその対象がアメリカに移っていきましたが、Genくらいの年代までは、アメリカではなくヨーロッパの方が高尚で憧れのイメージが強いです。 一方のヨーロッパは、少し前までは世界の中で『辺境の田舎』と言うイメージでした。イスラムや中華が文化的先進国と言うイメージがありました。日本の上流社会では中国からの舶来品が『唐物(からもの)』として尊ばれてきましたが、ヨーロッパ社交界でも輸入品が珍重されてきた歴史があります。 |
イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃 | |
今回の宝物が作られたのは、イギリスではジョージ4世の時代です。 随一の教養や振る舞い、センスの良さなどでイギリス1のジェントルマンと称されたほどの人物でした。ジョージ4世が摂政を務めた『リージェンシー』の時代のイギリスの美術工芸品は現代でも特別視されていますが、当時でもフランス貴族が輸入するほど高く評価していたということで有名です。 |
現在のロイヤル・パビリオン "The Royal Pavilion Brighton UK" ©Fenliokao(2013年9月30日)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
『放蕩王』と呼ばれ、王室財政を破綻させかけたほどお金を使いまくったジョージ4世が最も好み、ありったけの財と教養とセンスを詰め込んで創り上げた離宮がブライトンのロイヤル・パビリオンです。多様なスタイルを取り入れる折衷主義と意外性を特徴とするピクチャレスク様式でデザインされており、インド、イスラム、中国を混合した独特の雰囲気があります。外見はペルシャ・イラン建築を彷彿とさせます。 |
ロイヤルパビリオンのシノワズリーの宴会室(1826年) |
宴会室はシノワズリーです。伝統的なものを好む保守的な君主もいますが、知性が高く好奇心が旺盛なジョージ4世の時代は異国文化に興味と憧れを強く持った時代でもありました。だからこそ、王侯貴族のセンスの良いオーダー品ほど、そのような時代背景が反映されています。 |
オスマン帝国の衣服を着たメアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年) | 【世界遺産】アヤソフィア(トルコのイスタンブール) "Hagia Sophia Mars 2013" ©Arild Vagen(1 March 2013, 11:25:10)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
『トルコ書簡』その他、様々な著作で有名なモンタギュー夫人ですが、1739年に『高貴な女性ソフィア(Sphia, a person of quality)』のペンネームにて、作者不明の形で出版を行っています。 トルコのイスタンブール在住中の肖像画の背景には、アヤソフィアが描かれています。 |
東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の代表的な遺構であり、ビザンチン建築の最高傑作とも評価されています。537年に完成した当時はキリスト教建築として使用されましたが、オスマン帝国時代も第一級の格式を誇るモスクとして利用されました。 ローマの名を持つビザンチン帝国はラテン語の印象がありますが、次第にギリシャ系住民が多くなった結果、620年以降は公用語がラテン語からギリシャ語に変わっています。アヤソフィアは元々『ハギア・ソフィア』と呼ばれており、ギリシャ語で「聖なる叡智」を意味します。日本語もそうですが、発音は変遷することがあります。中世にアヤ・ソフィアへと変化し、トルコ語名のアヤソフィア(Ayasofya)となりました。 |
プラトン時代のアカデミアを描いたモザイク(古代ローマ 1世紀) | 『哲学(philosophy)』の語源も、古代ギリシャ語のソフィアにあります。 古代ギリシャ語では哲学を『フィロソフィア』と言います。目には見えない論理のデッチ上げや、詭弁などを駆使して相手に言うことを聞かせようとするスタンスの『ソフィスト』に対して差別化するため、ソクラテスもしくは弟子ソクラテスが造語したとされます。 2人とも、紀元前5世紀のアテナイ黄金時代の哲学者として有名です。 |
『愛(友愛)』を意味する名詞「フィロス」と、その動詞形が「フィレイン」です。これと『知』を意味する「ソフィア」の合成語が『フィロソフィア』で、「知/智を愛する」という意味があります。『愛知/愛智』とも言えますね。 理論や方法論としての様相が強くなった現代と違い、古代ギリシャの『フィロソフィア(哲学)』は理性や知恵に従う生き方を指していました。まさに理性の光で物事を見極めようとする啓蒙主義に一致しますね。 |
人の姿をした知の女神ソフィア(トルコの古代都市エフェソス 2世紀)"Ephesus37" ©Traroth/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 知恵(智慧)、叡智を意味するソフィアは、ヘレニズム世界では知の女神ソフィアとして捉えられることもありました。 グノーシス主義やユダヤ教などでも、知の女神ソフィアは重要視されています。 これはトルコの古代都市エフェソスの女神ソフィア像です。 エフェソスは月の女神アルテミスに関連する遺跡や遺物でも有名で、古代ギリシャの名残も強い土地です。 |
オスマン帝国の衣服を着たメアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年) | |
本名など書かれていなくても、『高貴な女性ソフィア(Sphia, a person of quality)』のペンネームで当時の上流階級は瞬時にモンタギュー夫人と分かるわけです。 トルコ石は知の女神ソフィアや、古代ギリシャの知を愛する人々『フィロソフィア』を暗示する宝石なのです。 |
4-2-3. アンティークならではの美しいペルシャ産トルコ石
昔はトルコ石と言えばペルシャ産で、上流階級の憧れの高級宝石でした。現代のアメリカやメキシコ産の低品質のトルコ石とは、美しさも価値も全く異なります。 |
トルコ石のパリュールを着けたフランス皇后ジョゼフィーヌ(1812年) |
今回の宝物と同年代のペルシャ産トルコ石の評価は、フランス皇后のステータスを示す、パリュールの宝石に選ばれるほど高いものでした。 |
イギリスのマーガレット王女(スノードン伯爵夫人)(1930-2002年) "Princess Margaret" ©David S. Paton(Unknown date)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 1950年代以降、アメリカやメキシコ産の樹脂処理された低品質のトルコ石や模造品が市場に氾濫した結果、戦後のジュエリーしか知らない日本人にとっては安い石のイメージが付いています。 代々続くイギリスの王族だと、本物のトルコ石の美しさと価値は熟知しているので、センス良く現代のコーディネートにも取り入れています。 アンティークジュエリーのトルコ石は、知られざる高級宝石と言えます。 |
トルコ石 カンティーユ ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
天然真珠&トルコ石 ペンダント イギリス 1830年頃 SOLD |
ガーネット&トルコ石 ブローチ イギリス 1830年頃 SOLD |
19世紀初期はトルコ石の人気が高く、貴重なジョージアンのジュエリーでも目にする機会は多いです。高い評価の現れと言えます。 |
トルコ石は経年により緑色に変化するものもありますが、この石は200年ほど経過した今でも鮮やかなターコイズ・カラーです。 かなりゴールドの色が良く、トルコ石も高品質で色鮮やかなので、そんなに古いものと思えないくらい綺麗です。 |
←↑等倍 |
煌めくダイヤモンドと異なり、色石は小さいと埋もれてしまいがちですが、トルコ石は別格です。独特の色彩は小さくても人目を惹きます。必ずしも大きければ大きいほど良いというものではなく、小さくてもこれだけ存在感を出せるのがトルコ石の魅力とも言えます。作者と持ち主は、よく分かっていたみたいですね♪ |
4-3. ジョージアンの特徴的な石留
4-3-1. セッティングから分かる宝石の評価価値
アンティークジュエリーの宝石のセッティングは多種多様です。爪留、覆輪留などがあります。留め方を見ただけでも、その宝石の価値は分かります。 |
唯一無二の最高級宝石 | |
『L'eau』 オパール&ダイヤモンド ロング・ネックレス イギリス 1900年頃 ¥3,300,000-(税込10%) |
『MIRACLE』 ブラックオパール ペンダント イギリス 1905〜1915年頃 ¥10,000,000-(税込10%) |
合成石や低品質の石と異なり、天然の高級宝石はどれだけお金があっても、無くしたら同じものを手に入れることはできません。価値が高かったり、唯一無二性が高い宝石ほどセッティングには細心の注意が払われます。上質なオパールはその極地と言えるので、爪の数も凄いです。 |
現代の量産ジュエリー | |
合成ブラックオパール&プラチナ・リング ¥370,000-(2023年1月現在) 【引用】Kyocera odolly / ブラックオパールリング ©2015 京セラジュエリー通販ショップodolly-オードリー |
エメラルド・リング(ティファニー 現代)¥1,617,000-(2020.5現在)合成や処理については記載なし 【引用】TIFFANY & CO / Tiffany Soleste Ring ©T&CO |
複数の人が同じものを買うことができる現代ジュエリーは、間違いなく量産品です。使用されている宝石も、同じものをその数、準備できるということです。稀少価値がなく、紛失してもお金さえ出せば同じものが手に入ります。だから爪留もそれなりです。 |
4-3-2. ジョージアンらしい爪留
ジョージアンの宝石のセッティングは特に多種多様です。後の時代でも見られるようなものもあれば、ジョージアンでしか見ないようなものもあります。 |
←↑等倍 |
今回の宝物はピクチャー・アゲートもトルコ石も、覆輪留と爪留を組み合わせたような珍しいセッティングです。 |
今回の宝物 | 『La Dame pourpre』 アーリー・ヴィクトリアン アメジスト 一文字リング イギリス 1840〜1850年頃 ¥950,000-(税込10%) |
同系統のセッティングとしては、右のようなタイプがあります。覆輪的にふんわり留める箇所と、大きめの爪でガッチリ固定する箇所に分かれます。ジョージアンからアーリー・ヴィクトリアンにかけては、この留め方が比較的多く見られます。 今回の宝物は均等にギザギザが付いた覆輪状で、小さな宝石ではたまに見かけますが、今回のピクチャー・アゲートのようなサイズではこれまでに見たことがありません。 |
『愛のメロディ』 ジョージアン 竪琴 ブローチ イギリス 1826年 SOLD |
|
|||
比較的大きさのある宝石のセッティングとしては、同時代のガーネットの宝物で見ることができます。 できるだけ気配を無くす方向性の爪とも違いますし、ミルグレインのような繊細さを追う留め方とも異なります。 ミルの場合は微細な黄金粒子の輝きが繊細な印象となりますが、ギザギザの爪&覆輪はより存在感があり、格調高い雰囲気を感じさせます。 |
4-3-3. 黄金を強調する高難度のセッティング
←↑等倍 |
カンティーユの額縁に対して、宝石はかなり高さを出してセッティングしています。ゴールドが史上最も爆騰していた時代背景を考えると、これだけでもかなり贅沢な作りです。筒から爪にかけて、流れるような滑らかなフォルムです♪ |
←↑等倍 |
裏側を見ると、高さと強度を出すために、入念に設計して作られていることが分かります。宝石をセットする黄金の筒も、叩いて鍛えた鍛造の板を使用しているので、華奢な外見とは裏腹にブローチとしての強度がしっかり備わっています。 |
←↑等倍 |
カボションカットの曲面に、見事にフィットした爪留です。相当な技術がなければできないセッティングです。さすがジョージアンと惚れ惚れします!♪ |
『ハッピー・エンジェル』 ストーンカメオ&フェザーパール ブローチ フランス? 1870〜1880年代 ¥1,200,000-(税込10%) |
|||
←↑等倍 |
|||
シンプルな覆輪留と比較すると、今回の留め方は、黄金のボリュームと格調高い雰囲気を強調することが分かります。素材としてのゴールドそのものが、ステータスとなった時代ならではのセッティングと言えるでしょう。他の時代では見ない理由です。アンティークの極上品は、留め方1つ見ても細部まで美意識が行き渡っていますね♪ |
4-4. 贅沢な撚り線のバチカン
ハンドメイドの撚り線のバチカンも魅力です。バチカン用に作られた太めの撚り線は、繊細な撚り線よりも黄金の輝きが力強く、それが格調高い雰囲気につながっています♪ |
←↑等倍 |
古いものほど摩耗しているリスクが高くなりますが、殆ど擦り減りは感じません。作られてから200年ほど経過したジョージアンの宝物として、かなりラッキーと言えます。 |
←↑等倍 |
小さくて軽い作りということもありますが、ブローチとして使用する方が多かったのでしょう。 |
裏側
←↑等倍 |
裏側も誤魔化しのない、美しい作りです。物凄い蝋付技術です!!♪ |
ブローチとして使用する際、僅かに金具が見えます。実物では目立ちませんが、気になる場合は別途費用で折りたたみ式のバチカンなどに加工することも可能です。ご希望の場合は、お気軽にご相談くださいませ。 |
着用イメージ
|
撮影に使用しているアンティークのゴールド・チェーンは参考商品です。高級シルクコードをご希望の場合はサービス致します。 |
細めのリボンで、クラシカルな雰囲気にしても素敵です。金具も摩耗しにくく、お勧めです♪ |
小ぶりで宝石も控えめですが、カンティーユならではの黄金の華やかさがあります。 上品さと知的で格調高い存在感を併せ持つ、まさにジョージアンの貴族らしいジュエリーです♪ ブローチは着用位置が自由なので、ゴールドチェーンなど他のジュエリーと組み合わせても雰囲気がガラリと変わります。 コーディネートの幅が広く、美術品として手元で眺めても楽しめる、魅力いっぱいの宝物です♪♪ |