No.00298 真心 |
『真心』 イギリス 1880年頃 宝石の選択やデザインなどから、洗練された美意識を持つ王侯貴族が特別にオーダーしたと言える、これまでに見たことのない作りの宝物です。 外周360度に施された彫金はこれまでに見たことがない特殊なパターンで、ロケット内部にも両面に彫金が施された手の込んだ細工です。上質なカットが施されたアメジストも煌めきが美しく、両面でデザインが異なるため、宝石のペンダントとしても、彫金が美しいゴールド・ペンダントとしても楽しめる、アンティークの魅力が詰まったロケット・ペンダントです。 |
|||
|
この宝物のポイント
|
|
1. 表裏が異なるデザインのロケット・ペンダント
この宝物は小さなペンダントですが、全周に手間をかけた、真心を感じる細工が施されており、デザインも表裏で異なっています。 |
しかも内部は写真が2枚入るロケットになっており、彫金まで施されています。 |
持ち主にとって『大切な宝物』とするために、特別にオーダーして作られたペンダントであることは間違いありません。 |
2. 独特の魅力を放つアメジスト
2-1. ゴールドを反映した独特の色味のアメジスト
この宝物を初めて見た時、使われている宝石がアメジストなのかガーネットなのか迷いました。 アメジストは高貴な紫色が特徴ですが、クローズドセッティングで下地のゴールドの色味を反映し、肉眼では少しピンク色を帯びて見えます。 |
『愛のメロディ』 ジョージアン 竪琴 ブローチ イギリス 1826年 SOLD |
ガーネットと言えば、まずイメージするのが深く美しい紅色です。 |
様々な色を示すガーネットのグループ "Garnets 1920x1920 ccby nc lina jakaite strike dip com" ©Lina Jakait?(22 April 2019)/Adapted/CC BY 4.0 |
しかしながらガーネット族は、ちょっとした組成の違いで様々な色を示する石です。 「無い色はない。」と言われるくらい、カラー・バリエーションが豊富です。 |
デマントイド | ヘソナイト |
『アール・クレール』 ロッククリスタル ロケット・ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
『大自然のアート』 デンドライトアゲート プレート(壁掛) イギリス 19世紀後期 ¥387,000-(税込10%) |
だからハイクラスのアンティークジュエリーには、持ち主が「美しい!」と感じた個性あふれる色彩を持つガーネットに合わせて様々なデザインが施され、素晴らしい宝物へと昇華したものがいくつも存在します。 |
『ペルピニャン・フラワー』 ペルピニャンガーネット リング フランス 19世紀初期(ホースヘッドの刻印) SOLD |
ペルピニャンガーネット リング フランス 19世紀初期(ホースヘッドの刻印) SOLD |
その中には、このように紫色を帯びていたり、ピンク系の色味を感じるガーネットの宝物もありました。 |
だからこの赤紫やピンクの色味を感じる宝石が何なのか、少し迷ったのです。 この宝石はオープンではなくクローズド・セッティングであるため、下地のゴールドを反映した色が見えています。 |
角度を変えて色味の変化を見たり、かなり斜めから純粋な宝石の色を見てみると美しい紫色のアメジストであることが分かります。 |
ゴールドバックのセッティングは、カラーストーンの色をより鮮やかで美しく見せる効果があります。 ガーネットではその効果を活用したジュエリーを見る機会が度々あります。 |
||
『Day's Eye』-太陽の眼- カボッション・ガーネット 天然真珠 リング イギリス 19世紀後期 SOLD |
でも、アメジストはそのような印象があまりありません。 |
2-2. 紫色を楽しむ通常のジュエリーとは異なるアメジスト
『フェズを被った男』 アメジスト カメオ ピン イタリア(?) 1870年頃 SOLD |
アメジストはルビーやサファイア、エメラルドなど、他のカラーストーンとは異なる高貴な紫色が魅力の宝石です 煌めきが魅力のダイヤモンドとは異なり、カラーストーンの最大の魅力は何と言っても『色』です。 |
『慈愛の泪』 アメジスト ネックレス アメリカ 1900年頃 SOLD |
||
『美しき魂の化身』 蝶のブローチ イギリス(推定) 1870年頃 ¥1,600,000-(税込10%) |
||
だから多くの場合、『慈愛の泪』のように360度カットした石を下げて使ったり、何かにセットする場合はオープンセッティングにして宝石の色そのものを楽しみやすい作りにします。 |
ジョージアン アメジスト ペンダント イギリス 1830年頃 SOLD |
|
古いジョージアンのジュエリーを見てもその傾向にあります。 |
アメジスト リング フランス 19世紀初期 SOLD |
|
小さなリングでもオープンセッティングになっており、アメジストの純粋な紫色が楽しめます。 |
アメジスト インタリオ リング フランス 18世紀後期 SOLD |
|
なかなかハイジュエリーでクローズドセッティングのアメジスト・ジュエリーを見ることはないのです。 これは18世紀後期のインタリオ・リングで、珍しくゴールドによるクローズド・セッティングになっています。 |
左のように角度を付けて見ると純粋な紫色のアメジストであることが分かりますが、正面から見るとゴールドの色味を反映してすごく雰囲気があります。 インタリオのモチーフとの相乗効果で、素晴らしい総合芸術作品になっていますね♪ |
この宝物のアメジストも、ゴールドのクローズドセッティングならではの独特の雰囲気が楽しめます。 でも、どうやらそれは副次的な効果であって、この宝物を特別オーダーした持ち主にとっては、アメジストは"美しさ"以上に大切な意味があったようです。 |
2-3. キリスト教におけるアメジスト
2-3-1. キリスト教のアンティークのハイジュエリー
この宝物は片面にクロスがデザインされており、持ち主はキリスト教を信仰していたと想像できます。 |
『古のモダン・クロス』 ステップカット・ダイヤモンド クロス フランス 18世紀初期 SOLD |
同じキリスト教というカテゴリーでも、細部まで見るとその宗派は多岐に渡ります。 |
『古からの贈り物』 シャンルベ・エナメルとカンティーユ&粒金のコラボレーションによるデミ・パリュール フランス 19世紀初期 SOLD |
素材や細工へのお金のかけ方である程度、持ち主の身分が想像できるだけでなく、デザインからどの宗派を信仰していたのか何となく想像できるのもこのタイプの宝物の魅力の1つです。 |
『教会のある風景』 カーブドアイボリー ブローチ ドイツ 1840〜1850年頃 SOLD |
『オリーブの枝を加えた鳩』 ローマンモザイク ブローチ イタリア 1850年頃 SOLD |
美意識に加えて教養ある王侯貴族のためのハイクラスのジュエリーほど細部までのこだわりが強く、面白いものが多いです。いずれにせよ、アンティークの時代のヨーロッパではキリスト教を信仰するのはごく一般的なことでした。 |
『平和のしるし』 ローマンモザイク デミパリュール イタリア 1860年頃 ¥2,030,000-(税込10%) |
ところでここまでいくつかキリスト教のアンティークのハイジュエリーをご紹介しましたが、宝石を使ったジュエリーはあまりないことにお気づきいただけましたでしょうか。 |
ダイヤモンドの切削加工場(1710年頃) | 細工の手間が分かりやすく目に見えるジュエリーではありませんが、カットにかかる今では絶対に考えられないような手間を思うと、成金ジュエリーではなく真心のこもった細工物のジュエリーと見るのが相応しいと感じます。 |
2-3-2. キリスト教徒の宝石
【重要文化財】空也上人像(康勝作 13世紀)六波羅蜜寺 | 長年仏教が主流だった日本では、お坊様に対して高級感や政治などのイメージはないと思います。 俗世とは一線を画す、清貧の印象が強いのではないでしょうか。 下手すると小汚いイメージすらあるかもしれません。 これらのイメージでヨーロッパの宗教を見ると、かなり誤った理解になってしまいます。 |
イエス・キリストの死(ディエゴ・ベラスケス 1632年頃)プラド美術館 |
紀元前6年から紀元前4年頃の間にナザレ(もしくはベツレヘム)で誕生し、磔刑の後に神の子となったイエスの教えを信じる宗教です。 |
弟子たちに復活を証明するキリスト | 元々は人々がより良く生きるために民衆から始まったものなので、政治色などはありませんでした。 しかしながら政治が宗教を利用するのはどこでもいつの時代でもよくあることで、キリスト教も古代ローマの皇帝によって利用されることとなりました。 |
古代ローマ人の信仰が伝わってくる古代ローマのジュエリー | ||
『パリスの審判』 インタリオ:古代ローマ 1世紀 シャンク:1670年頃 SOLD |
『ディアナ』 ガーネット インタリオ・リング 古代ローマ 1世紀〜2世紀 SOLD |
『ディオニュソスの杖』 ガーネット インタリオリング 古代ローマ 200年頃 SOLD |
古代ローマは多神教でした。主神ゼウスのみならず、様々なジャンルの神々が存在し、人々から信仰されていました。日本神話も様々な神がいて、それぞれを祀る神社が各地にありますね。時には神というより、人のような振る舞いをすることもあります。 |
女神イシスの大理石像(古代ローマ 117-138年:シストラムと水差しは17世紀に追加)カピトリーノ美術館 | 『魔術師イシス』 古代ローマ 3世紀頃 SOLD |
古代エジプトの女神イシスも、古代ローマのほぼ全土で信仰されるような高い人気を誇っていました。 |
【世界遺産】フィラエ神殿(イシス神殿) "Philae Temple R03" ©Marc Ryckaert(MJJR)(13 March 2012)/Adapted/CC BY 3.0 |
東西で共同統治していたローマ皇帝 | |
在位:西方副帝306-312年、西方正帝312-324年、全ローマ皇帝:324-337年 | 在位:東方正帝308-324年 |
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世 " 0 Constantinus I - Palazzo dei Conservatori (1) " ©Jean-Pol GRANDMONT(07:39, 24 April 2013)/Adapted/CC BY 3.0 | ローマ皇帝リキニウス "Licinius" ©Diet Coke Diego(23:28, 11 August 2020)/Adapted/CC BY 4.0 |
古代ローマでキリスト教が普及しただけでなく、勢力と権力を拡大させたのは皇帝の意向に依ります。拡大し過ぎた古代ローマは、領土の隅々まで皇帝の強力な支配力を維持することが困難になり始めました。東と西で統治したりしながら不安定化し、弱体化していきました。 |
ローマ皇帝テオドシウス1世(在位379-395年) "Theodosius I. Roman Coin" ©Michail Jungierek Finanzer(00:33, 14 January 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ローマ皇帝は専制君主として、多神教ではなく唯一神だけを尊ぶキリスト教を統治の理念とし、権力の強化を図りました。 そのために、私生活での祭儀を含め、多神教は法令で完全に禁止され、確実にそれを守らされるようになったのです。 |
アレキサンダー大王(紀元前336-紀元前323年) | 信仰の対象である神と、皇帝の関連が現代の感覚だといまいちピンと来ないかもしれませんが、古い時代は最高権力者は神のような存在とされてきました。 古代エジプトのファラオは代々エジプトの最高神アメンの息子とされていましたし、それを倣い、エジプトを征服したアレキサンダー大王も自らをアメンの息子と名乗っています。 |
東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(483-565年) | ローマ皇帝テオドシウス1世が395年に崩御した後、ローマは東西分裂統治となりました。 東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世は、帝国の統一は宗教の統一が100%前提だという信念を持ち、異教徒迫害などを強力に推し進め、ビザンティン帝国と呼称される東ローマ帝国は395-1453年続くことになりました。 一方で西ローマ帝国は蛮族(笑)の侵攻に耐えきれず、5世紀中に消滅してしまいます。 このあたりが世界史を習うとゴチャッとして分かりにくく、ちっとも面白くいありませんよね。笑。 |
ビザンティン帝国(東ローマ帝国)関連の宝物 | ||
『生命の樹』 ゴールド・リング ビザンティン帝国 7世紀頃 SOLD |
シルバー・リング ビザンティン帝国 9〜11世紀頃 SOLD |
ビザンティン・スタイル バード ブローチ 東欧? 19世紀初期 SOLD |
ビザンティン帝国は脈々と歴史が続いており、歴史や文化に関してもなんとなく想像することが可能です。でも、西ローマ帝国方面はいまいちイメージが湧きません。 |
476年に蛮族の指導者オドアケルに帝冠を渡す西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルス | 西ローマ帝国は蛮族(主にゲルマン人)の侵攻に耐えられず、476年に西ローマ皇帝は廃位となりました。 この場合、蛮族のトップが皇帝なり王なりに就くだけになりそうなものですが、蛮族の指導者オドアケルはローマ皇帝にはならなかったのです。 オドアケルは元老院を通じて「もはや西ローマ帝国に皇帝は必要ない。」とする勅書を東ローマ帝国のゼノンに送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を返上したのでした。 その結果、ヨーロッパは明確な統治者が見えない『蛮族が住む地』という時代に突入したのです。 |
スミルナの司教ポリュカルポス(69頃-155年頃) | これらヨーロッパの変化の中で、力を大きく増していったのがキリスト教でした。 古代ローマ帝国内に興ったキリスト教は勢力拡大に伴って都市ごとに教会が作られ、さらには地域にも教会を増やしていきました。 その結果、統括者が必要となり、司教が教区を監督・指導するようになっていきました。 |
古代ゲルマン系のゴート人に福音書を解説する4世紀のウルフィラ司教 | 信者を統率する力。 すなわち"民衆を統率する力"には、権力者にとって非常に高い価値があります。 |
アレクサンドリアのキリスト教徒たちに惨殺される学者ヒュパティア(作者不明 1865年) |
統率者である司教を中心とし、市民裁判に変わって裁判権を与えられるなど、キリスト教はローマ帝国内で政治的な力を増していきました、さらに力を落とし、十分な数を徴兵できなくなったローマ皇帝に代わり、各地の司教が教区の教徒(民衆)を率いて蛮族と戦うなど軍事的な力も増していきました。 |
アウグスブルクの司教君主ヨハン・オットー・フォン・ゲミンゲン(在位:1591-1598年) | こうして一部には、世俗の権力者とキリスト教の権力者が一致するケースも多々出てきました。 その結果現れたのが『司教君主(プリンス・ビショップ)』と呼ばれる存在です。 司教領、もしくは司教国の君主としての資格を有する司教で、世俗的な権力により領土を支配する存在です。
|
1780年頃の神聖ローマ帝国内のキリスト教の領土 "HRE Dioceses Prince-Bishoprics, c. 1780" ©LUbiesque(10 February 2013, 13:55:47)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
キリスト教の土地は神聖ローマ帝国の領域を中心に、中世のヨーロッパや十字軍国家に多数存在していました。 地図で見ると、神聖ローマ帝国内では1780年頃の時点でこのようになっています。 |
司教領の一例 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』司教領 2021年3月13日(土) 13:58 UTC | 現代で存在するのはローマ教皇が元首のバチカン市国と、ウルヘル司教がフランス大統領と共同公となっているアンドラ公国のみで、その他の司教領は存在しませんが、過去には一例だけ見てもこんなにたくさん存在しました。 日本は政教分離の原則を強く教育されており、さらには20世紀後期に台頭してきた新興宗教に対して強くアレルギー反応を示す人も少なくないため、政治と宗教は分離していて当たり前という意識が一般的にはあります。 |
強訴する僧兵(天狗草紙絵巻 興福寺巻) 【引用】TOKYO NATIONAL MUSEUM Image Search / 天狗草紙絵巻(興福寺巻) |
日本にも『僧兵』なる武装信者は存在しましたが、寺院同士の勢力争いや、権力者に対して仏神の権威を誇示して自分たちの要求を通そうとしただけで、自ら民衆を治める権力者になろうとしたような話は聞きません。と言うか、本人たち自身があまり仏神のことは信じていなくて、要求を通すために神様仏様を利用しようとしていた雰囲気すらあります(笑)日本人の宗教は改宗させようとか、権力を持って政治をしたり贅沢しようという意識が見えないんですよね。 |
聖ランベール大聖堂とリエージュ司教の宮殿(18世紀) |
これは司教君主が治めていたリエージュの司教の宮殿です。立派な宮殿ですね。 |
プリンス・ビショップの紋章 "05 CoA Prince-Bishop 02 - mantle no scroll " ©Adelshaus(16 July 2018)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | リエージュ司教領の国章 | このように司教君主の紋章や、司教領の国章なども存在します。 |
バイエルン公&リエージュ司教君主ヨハン3世(1374?-1425年) | このような司教君主にはどのような人物がなるのかと言うと、王侯貴族の長男以外の息子がなる場合が多かったようです。 王侯貴族の家督を継ぐのは長男で、それ以外の息子たちが就くのに適していたのが、血族による相続制ではない司教君主という立場でした。 1389-1418年までリエージュ司教君主だったヴィッテルスバッハ家出身のヨハン3世は、アルブレヒト1世の三男でした。 |
バイエルン公アルブレヒト1世(1336-1404年) | アルブレヒト1世は父が神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世で、母はエノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯相続人マルガレーテでした。 アルブレヒト1世は長男でなく、兄弟も複数いました。 父が崩御した後、遺領は分割相続されたのですが、その後も親族の死などにより様々な爵位を獲得したため、以下の爵位を保有していました。 バイエルン公:在位1347-1349年 イギリス貴族が男系長子1人にしか爵位も財産も相続されないのに対し、大陸貴族は本当にややこしいです。時代が下ることに、ややこしさが増すシステムですね〜。 |
ネーデルランドと司教領の地図:青紫色がリエージュ司教領 "The Low Countries" ©Fresheneesz(8 December 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
さて、1389年にリエージュ司教君主に就いた三男ヨハン3世ですが、強圧的だったため市民と対立し、1394年、1402年に反乱があり、1406年には市民から廃位を宣告されています。 対立候補を選出され、1408年に兄や義兄などの力を借りて鎮圧していますが、反乱に参加した市民や聖職者を容赦無く処刑し、都市の自治権や役職も剥奪・廃止にするなど徹底的に弾圧しました。 もはや人を救済する宗教と言うよりは、宗教も聖職位も、所領を思い通りに治めるための大義名分でしかありませんね。 |
フランス王太子妃ジャクリーヌ・ド・エノー(1401-1436年) | そんなリエージュ司教君主ヨハン3世でしたが、兄ヴィルヘルム2世が亡くなった後、その一人娘だった姪のジャクリーヌと相続争いとなりました。 神聖ローマ皇帝の妻であり、ヨハン3世の母だったマルガレーテの爵位エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯はヴィルヘルム2世が相続しており、それを娘ジャクリーヌが相続するのは反対となったからです。 これをきっかけにヨハン3世はリエージュ司教君主を辞任し、下バイエルン=シュトラウビング公となり、戦争を始めています。 日本人にとっておそらく司教らしいイメージは皆無ですが、これがヨーロッパにおけるキリスト教政治の1側面なのでしょう。 |
『受胎告知』(ヤン・ファン・エイク 1434-1436年頃)ナショナル・ギャラリー | 『ターバンの男の肖像(自画像の可能性あり)』(ヤン・ファン・エイク 1433年)ナショナル・ギャラリー |
ヨハン3世はこの下バイエルン=シュトラウビング公時代には宮廷画家としてヤン・ファン・エイクを召抱えたりもしています。 |
『ファン・デル・パーレの聖母』(ヤン・ファン・エイク 1434年)グルーニング美術館 |
これはヨハン3世ではなく、聖ドナトゥス協同教会の司教座聖堂参事会員ヨリス・ファン・デル・パーレからの依頼で描かれたものですが、昔の『司教』という立場が富と権力を有するかなり特殊な立場であったことを感じていただけるのではないでしょうか。 |
1789年の教皇領 "Papal States 1789" ©maix, Alphathon(14 April 2013, 03:58)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | ところで、一番上位の司教はローマ司教です。 ローマ司教がローマ教皇であり、ローマ教皇領の君主であり、カトリック教会の最高位聖職者です。 教皇領は歴史的には国家の体裁を持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれています。 |
『獅子』 コーネリアン・インタリオ リング 古代ローマ 2世紀頃(シャンクはローマ教皇領 1860年頃) SOLD |
教皇領のホールマーク | 教皇領の国章 |
教皇国家は752年に成立し、1870年まで存続した国家です。国章のデザインに準拠したオリジナルのホールマークもありました。 ちなみに広大な領地をどう手にしたかと言うと、最初の土台は寄進に依るものでした。 |
長崎港 "Nagasaki City view from Hamahira01s3©663highland(22 December 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本最初のキリシタン大名で有名な大村純忠も、1580年にイエズス会へ領内の長崎と茂木を教会領として寄進したことは有名ですね。純忠の入信はポルトガル船がもたらす利益目的と見られており、実際、貿易など商売に関して様々な優遇措置を行なっています。 "穏やかな日本民族"と"過激なヨーロッパ民族"というより、キリスト教という宗教の強い性質はあるのかもしれませんね。 |
フランク王 | |
メロヴィング朝の最後の王 | カロリング朝の最初の王 |
『メロヴィング朝の最後』縄で拘束したフランク王キルデリク3世の髪を修道士が切る様子 "Beaux-Arts de Carcassonne - Le dernier des Mérovingiens - Evariste-Vital Luminais -Joconde 04400000403 " ©Didier Descouens(2 November 2018)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | フランク王ピピン3世(在位:751-768年) |
当時、フランク王キルデリク3世は名目だけの王となっており、実権は宮宰のピピン3世が握っていました。ピピン3世は王位に就くため、ローマ教皇と結びついたのでした。キルデリク3世を廃位し、ピピン3世はローマ教皇に王位承認のお墨付きを得ることで王位に就く正統性を得るものでした。 |
ピピンの寄進(756年) | その見返りとして、フランク王となったピピン3世はランゴバルド王国と戦い、ラヴェンナの地を奪って756年にローマ教皇ステファヌス3世に献上したのです。 このピピンの寄進によって教皇の世俗的領土としての教皇領が形成されることとなりました。 |
キリスト教の主流ローマ=カトリック教会のヒエラルキー 【引用】浜島書店『アカデミア世界史』 | こうしてキリスト教世界のトップとして君臨するローマ教皇は、教皇領の領主として富と権力も増大していきました。 ところでキリスト教の主流であるローマ=カトリック教会のヒエラルキーは左のようになっています。 司祭は各教区の監督者で、神父や牧師をイメージすれば良いです。 大司教と司教はそれぞれ大司教区と司教区を監督します。 ローマ教皇にはどうやったらなれるのかと言うと、司教から選ばれる枢機卿の中から、教皇選出選挙(コンクラーヴェ)で選出されます。 コンクラーヴェの選挙権を持つのは枢機卿のみで、教皇は後継者を自ら選ぶことはできません。 |
『7つの秘跡』の祭壇画に描かれた司教(15世紀) | ヒエラルキーやその役割からもご想像いただける通り、司教の地位はかなり高く、司教座に就くのも簡単ではありません。 ローマ教皇には自由に司教を任命し、適法に選出された者を認証する権限がありますが、司教に任命・認証されるには以下の条件を満たす必要があります。 |
カトリックの司教 " Dom Licínio Rangel " ©Amalário de Metz(22 June 2012, 22:05:03)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
1. 堅固な信仰、品行、信心、司牧に対する熱意、英知、賢明及び人間的諸徳に優れ、かつ当該職務上適当な才能を有する者 2. 世評の高い者 3. 35歳以上の者 4. 司祭叙階後、少なくとも5年を経過している者 5. 使徒座認可の高等教育機関において聖書学、神学もしくは教会法の博士号または少なくとも教授資格を授与されている者、またはそれらに精通している者 なかなかの絶妙な基準設定ですね。コネがあれば解釈次第でいくらでも都合良くできそうですし、コネがなくて愚直になろうとすれば結構ハードルは高そうです。 |
枢機卿&カンタベリー大司教レジナルド・ポール(1500-1558年) | それもそうで、司教は俗世で言うならば上流階級クラスと言って過言ではありません。 さらに司教・大司教の中から選ばれる枢機卿ともなれば、高位の貴族階級と言える存在です。 枢機卿の起源は5世紀まで遡り、教皇がローマに在住する司祭・助祭の中からある者を選び、自らの顧問団に任じたことが始まりとされています。 中世に入ると、教皇が君主であるのと同時に枢機卿団が教皇宮廷の貴族のような色合いを持ち始め、強い力を持ち、聖職者以外の信者の男性が加わるようにもなっていきました。 イギリスのレジナルド・ポールは16世紀の有名な枢機卿ですが、枢機卿を18年以上も務めた後で司祭叙階を受けたそうです。 |
イングランド王ヘンリー8世(1491-1547年)とトマス・ウルジー枢機卿(1475-1530年) | 一方で、イングランドやフランスでは宰相、あるいは主席閣僚が枢機卿を務めていた時期もありました。 以前、フルーツポマンダーの原型を作った人物としてご紹介したイングランドのトマス・ウルジーが該当します。 ヘンリー8世による治世の初期に信任を得て内政・外交に辣腕を振るいました。 ヘンリー7世の時代に宮廷付司祭となり、ヘンリー8世に認められて36歳で枢密院議員となり、その後1514年にヨーク大司教、1515年に枢機卿、1518年に教皇特使となっています。 父親は肉屋でしたがオックスフォード大学で学んでおり、英国王室一のインテリと言われるヘンリー8世から気に入られるくらいなので頭も相当良かったのでしょうね。 |
枢機卿&ウィーン大司教セオドア・イニッツァー(1875-1955年) | 現代では、枢機卿に任命される最低限の条件として、司祭であることが必要とされています。 通常は司教団から任命されます。 13世紀初頭は僅か7名でしたが、16世紀に入ると急速に枢機卿団の規模が拡大し、ローマ教皇シクトゥス5世の時代に70人という枠が設けられました。 この制限は20世紀半ばまで守られました。 この規模だと、枢機卿はイギリスの爵位貴族の上位クラスと同等とイメージできます。 |
ローマ教皇アレクサンデル6世(在位:1492-1503年) | ローマ教皇はまさに大国の君主という立場にあり、実際に世俗の君主同様、相応の贅沢や文化貢献をしてきました。 |
『Road of The Ring』 中世のカボション・サファイア リング 西ヨーロッパ 13〜14世紀頃 SOLD |
小国の君主である司教君主や、大国の高位の貴族たる枢機卿クラスも同様で、ジュエリーに関しても相応しいものを身につけていました。 枢機卿以上の高位の聖職者、国のトップである司教君主などが身につけることを許されていたのがサファイアのリングでした。 |
司教のリング(18世紀) | そして司教クラスが身に着けるリングには、伝統的にアメジストが選ばれていました。 |
『無限の飲酒を可能にする壷』 アメジスト・インタリオ 古代ローマ 1世紀頃 SOLD |
古代ギリシャや古代ローマでは、アメジストは酩酊を防ぐ宝石として愛されてきました。 キリスト教に支配された中世ヨーロッパの時代になってからは、戦いの場において身につけた者を癒し、冷静さを保たせてくれるお守りとして兵士たちに愛されました。 |
中世のサファイア リング 西ヨーロッパ 13世紀頃 SOLD |
サファイアはアメジストより遥かに稀少性が高かったため枢機卿以上の身分の宝石として扱われましたが、稀少性が逆だったならば、きっとアメジストの方が高位聖職者の宝石だったでしょう。 |
『アレキサンダー大王』 アメジスト・インタリオ 古代ギリシャ 紀元前2〜紀元前1世紀頃 ¥4,400,000-(税込10%) |
『古の王妃』 アメジスト・インタリオ 古代ローマ 紀元前2〜紀元前1世紀頃 SOLD |
『アポロに扮装した人物の肖像』 アメジスト・インタリオ アウグストゥス帝時代 紀元前27〜紀元後14年頃 SOLD |
紫色は様々な文化圏で高貴な色として扱われており、サファイアが殆ど手に入らなかった古代では、アメジストが特に身分の高い人物のための高級宝石として選ばれています。これらのモチーフは酩酊には関係がありませんが、彫刻された高貴な人物たちの雰囲気にピッタリです。 |
キリスト教にとっては司教の宝石であり、持ち主を癒し、冷静さを与えてくれると言う特別な意味があったアメジスト。 |
それは、敬虔なキリスト教信者だった持ち主がアメジストという石自体の美しさより、アメジストという宝石に特別な意味を感じて作られたからに他なりません。 |
2-5. 煌めきが美しいアメジスト
ジョージアン サイベリアン・アメジスト ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
シャンルベ・エナメル&アメジスト&天然真珠 ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
色が最大の魅力とも言えるアメジストは、通常は煌めきではなく高貴な色をより惹き立たせるためのカットが施されます。ファセットの面数が多くて細かいと、煌めきが強調されます。一方で、テーブルの面積を広くし、表面反射ではなく内部に侵入する光を多くすると、より色彩を楽しめるカットとなります。アメジストの場合、テーブルの面積を広くするカットが多いのはこのためです。 |
『慈愛の泪』 アメジスト ネックレス アメリカ 1900年頃 SOLD |
しかしながらアメジストはファセットを細かくし、表面を丁寧に磨き上げてツルツルに整えれば、実はかなり煌めくことができる宝石です。 ブリオレットカットが施されたアメジストを初めて実物で見たときは、アメジストはこんなに煌めきが美しい宝石なのかと驚いた記憶があります。 |
この宝物のアメジストは、小粒なサイズに合わせてブリリアンカットのようなカットが施されています。このカットは本当によく煌めきます。 |
『海の煌めき』 アーツ&クラフツ アクアマリン ネックレス イギリス 1890年頃 SOLD |
以前、このカットが施されたアクアマリンをお取り扱いしたことがあるのですが、他のカットのアクアマリンとは全く別の石と思えるほど煌めきが素晴らしく、とても印象的でした。 穏やかなアクアマリンの海の中を覗くというよりも、心地よいリズムで揺れる波に、燦々と太陽の光が降り注ぎ、真夏のアクアマリンの海がキラキラと光り輝いているような、見事な煌めきでした。 このカットはカラーストーンの美しい色と、煌めきのコラボレーションが楽しめるカットなのです。 |
ゴールドバック特有の絶妙な色合いのアメジストがキラキラと煌めく様子は、人を惹きつける強い魅力があります。 高貴で孤高の印象を与える青み系の紫色とは異なり、ピンク色を帯びた独特の紫色は、温かみや優しさなども感じます。 前者は神のような慈愛、後者は人間らしい温かみある慈愛という印象を与えます。 |
ジョージアン アメジスト ペンダント イギリス 1830年頃 SOLD |
||||
|
||||
同じアメジストを使ったキリスト教系のペンダントでも、この2つの宝物は方向性が異なります。 ジョージアンのペンダントは、華やかな装いに合わせて"見せるために作られた"豪華なジュエリー"です。 一方で今回の宝物は、特別オーダーでお金をかけて作られているのは同じでも、他人に見せるためではなく、自身の信仰のために作られた"非常に私的なもの"と言えるでしょう。 |
悪魔として描かれた贖宥状を販売する聖職者(1490-1510年頃) | 新興宗教アレルギーを持つ人が少なくなかったり、キリス教世界とイスラム世界の対立を見て宗教イコール良くないものというイメージの方もいらっしゃるでしょう。 でも、宗教はナイフや包丁と同じであって、最初から殺人や恫喝目的で作られた兵器などとは異なるものです。 良からぬ考えを持つ人が使えば恐ろしい凶器となります。 |
『パリでのカトリック同盟の武装行進』(1590年)作者不明 カルナヴァレ博物館蔵 |
宗教を大義名分にして、人殺しすら罪の意識なくできてしまいます。痛がる人を見れば心が耐えられず、他人に酷いことなんて絶対にできないのが人間の本能のようにも感じますが、それでも妄信すると痛がる人を見たり、殺人を犯しても正しいことをしたとしか思わなくなるのです。自分に利益をもたらすために、この事象を悪用する権力者たちは昔も今も存在しています。 |
カトリックにおける贖宥状の販売 | そういう人はより自分の都合の良いように事を進めるために、それまでは存在しなかった"新ルール"を作ることも少なくありません。 贖宥状(しょくゆうじょう)を購入すれば犯した罪が許されるという新ルールも、まさにカネ集めのためでしたね。 元々キリスト教では、洗礼を受けた後に犯した罪は告白(告解)により許されるとされていましたが、告解だけでは不安だった人々や、「カネを払えばOK」と単純化されたことで安心感を得る人も少なくなかったのではと想像します。 "お金を払った"という事実は、すごく安心感につながる気がします。 |
『マルティン・ルター』 開閉レンズ付き ゴールド リング ドイツ? 1817年 SOLD |
「贖宥状のことは聖書に書いていない。それによって人は本当に救われるのだろうか・・・。」 新ルールに疑問を持った1人がマルティン・ルターでした。 人々を救いたい。 心からそう強く願っていたルターは、ラテン語の聖書が読めない民衆のためにドイツ語に翻訳するなど、"ローマ教皇庁が提示する正義"ではなく、自身が本当に神のため、人々のためになると信じることをやったのです。 |
ルターによるドイツ語訳の旧約聖書(1534年) | 当時の聖書はラテン語でしたが、ギリシャ語やヘブライ語にまで遡って聖書を読むほどルターは熱心で頭も良い信者でした。 古代ローマの公用語だったラテン語は、古い書物を読むための上流階級の教養の1つでもあり、それが読めるのは知識を独占できる特権階級の地位にいるということも言えました。 教会が独占していた"聖書を読める"という特権を、ルターは人々のために解放してしまったのです。 |
ドイツで最も古い教会の1つで中世に再建された『ボンの大聖堂』(13世紀) "Bonner Münster 2010-07-07" ©Hans Weingartz(7 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0 DE |
ルターの疑問をきっかけとした宗教改革によってキリスト教はカトリックとプロテスタントに別れました。 カトリック信者にとっては『教会』は神へと通じる唯一の手段であり、単なる建物ではなく神の組織そのものなのです。 バチカンのローマ教皇を頂点とし、「教会」そのものをとても重要視する組織立った宗派です。 |
ラテン語の聖書写本(ベルギー 1407年) |
一方でプロテスタントにとっては『聖書』が大事です。聖書さえあればどこでも神に通じることができるというのが教義で、教会は単なる集会の場に過ぎません。個々人がそれぞれ聖書を通して神に通じることができるため、組織意識は低いです。 |
『最後の晩餐』 レオナルド・ダ・ヴィンチ作(1490年代) |
先の述べた通り、キリスト教は支配者にとって都合よく支配を推し進めるために利用されてきた歴史があり、それに伴って『異端』や『贖宥状』、教会に毎週通うなどの新ルールが適宜追加されて、変容した背景があります。しかしながら、本来はより良く生きるため、人のためになるためのものだったことは間違いなく、大抵の人はそのために信仰したはずなのです。 |
ヴァルトブルク城(1900年) | ヴァルトブルク城に残るルターの部屋 |
予期せず宗教革命の中心人物となったルターだってそうだったはずです。ローマ教皇から破門されたルターに安全な場所を提供し、聖書の翻訳や出版するためのパトロンとなった有力者だってそうでしょう。人々の役に立ち、より良くするための純粋な信仰心があってこそです。 |
自分を飾って美しく見せるためではなく、明らかに私的な目的のために作られたこの宝物には、そのような純粋な美しい心を感じます。 その真心こそが、この宝物が醸し出す独特の心地よい雰囲気を生み出しているのでしょう。 |
ところでこれは推測に過ぎないのですが、アメジストをゴールドバックにしたのは『ワインカラー』にする意図もあったのではと思っています。 |
ディオニュソス(古代ローマ 2世紀)ルーブル美術館 "Dionysos Louvre Ma87 n2" ©Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2009)/Adapted/CC BY 2.5 | ワイン。 葡萄酒の神様として、古代ギリシャや古代ローマではディオニュソス(古代ローマでは習合してバッカス)が信仰されてきました。 この時代には酩酊を防いでくれると信じられた宝石アメジストですが、女神ディアナに仕えていたニンフのアメジストに由来します。 諸説ありますが、ヘラクレス同様、ゼウスと人間の女性の子として生まれたバッカスは、その不当とも言える試練などのためにイライラして飲み、悪酔いしていました。 |
『葡萄酒を作るバッカス』 ストーンカメオ ルース 古代ローマ 1世紀 or イタリア 17世紀 SOLD |
飲んでも飲んでも腹の虫がおさまらない若いバッカスは、今日一番始めに出会った者をお供の虎(豹)に食べさせようと思いつきました。 運悪く出会ってしまったのが、女神ディアナの美しく信仰深い女官アメジストでした。 |
ヴェルサイユのディアナ(古代ローマ 1-2世紀)ルーブル美術館 "Diane de Versailles Leochares 2" ©Sting(July 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.5 | 女官アメジストの危機に気づいた女神ディアナは、アメジストをクリスタルに変えて救いました 酔いと狂気から覚めた後、バッカスは自分がした愚かなことを心底後悔しました。 「私の葡萄の実は、未来永劫アメジストへの懺悔となろう。」と言いながら、バッカスはクリスタルに葡萄酒を注ぎました。 すると無色透明だったアメジストは見る間に美しい紫色に変わったのです。 以後、バッカスは良い葡萄酒づくりを心がけ、行く先々で豊穣の実りと美味しく楽しいお酒をもたらす良い神様となりました。 そして、アメジストは悪酔いを防いでくれる美しい宝石となったのです。 |
アメジストの結晶 "Amethyst. Magaliesburg, South Africa" ©JJ Harrison(18 July 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 『美しき魂の化身』 蝶のブローチ イギリス(推定) 1870年頃 ¥1,600,000-(税込10%) |
古代や例外的な宝物を除き、ヘリテイジで扱っているハイジュエリーは石の良い部分だけを使っていることが多いので、現代の人工処理されたカラーストーンのように、どのカラーストーンはインクリュージョンがなく色が均一なのが当たり前のように思ってしまうかもしれません。でも、実際のアメジストを見ると、本当に無色透明なロッククリスタル(天然水晶)にワインを注ぎ込んだようにも見えますね。 |
キリスト教の儀式用にワインを注ぐ様子 |
この『ワイン』は、キリスト教にとって重要な意味があります。もちろん飲酒もします。 |
仏教の五戒が刻まれた銘版(ネパール) "Plaque with the five precepts engraved, Lumbini Park, Nepal" ©Farang Rak Tham(2018年3月1日)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
長年仏教の強い影響を受けてきた日本では、この辺りがイメージしにくいですよね。五戒で飲酒は禁止されているため、お坊様が酒を飲んだら『生臭坊主』だったり、俗物っぽいイメージになってしまいます。 【五戒】 仏教に於いて、飲酒はお坊様のみならず、在家信者が守るべき基本的な5つの戒(シーラ)、五戒で禁止されています。 |
ワインのテイスティングをする食料保管係の修道士(フランス 13世紀後期) | このため、日本人の感覚では違和感を感じるかもしれませんが、ワインはキリスト教につきものです。 |
『最後の晩餐』(ホアン・ド・ヨアネス作 1562年頃) |
最後の晩餐にて、イエスが賛美の祈りの後にパンを"自分の体"、葡萄酒を"自分の血"として弟子たちに与え、「これを私の記念として行え」と命じました。この絵画だと食卓上にワインのデキャンタが描かれていますね。『パン』はイエスが手に持つ、ペラペラの白い円盤状の物です。 |
ベネディクト16世によるミサの司式 "BentoXVI-51-11052007 (frag)" ©Fabio Pozzebom/ABr(11 May 2007)/Adapted/CC BY 3.0 BR | カトリック教会、聖公会、および一部プロテスタントで用いられる無発酵パン(ホスチア) "Hostia i komunikanty" ©Patnac(27 July 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
カトリック教会では古代から現代に至るまで、毎日絶えることなくミサが続けられています。聖体の秘跡。つまりパンと葡萄酒がイエスの体と血に変わること(聖体変化)と、それを信徒が分かち合うこと(聖体拝領)こそがミサの中心です。葡萄酒はイエスの血という、キリスト教にとってとても重要な意味があるものなのです。 |
聖ウルバヌス(ジェイコブ・ラス作 1500年頃) | 『アンティノウスのディオニュソス』(古代ローマの複製、オリジナルはブリアキス作 紀元前4世紀後期)バチカン美術館 | |
そんな大事な存在なので、キリスト教にも『ワインの守護聖人』なるものが存在します。 本当に大事な存在なのでその数も極めて多く、なんと50名ほどはいるそうです。 左はその一人、聖ウルバヌスです。葡萄と杖を持つ姿が何となく古代の葡萄酒の神様、ディオニュソスに似ている気もします。 |
古典的搾汁方法 "Must" ©Nicubunu(20 October 2012, 15:58:44)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | さて、現代の澄んだワインを見るといまいち血のイメージは湧きにくいですが、こうして見ると確かに血のように見えますね。 |
山梨のワイナリーで収穫した葡萄(2015.10) | ワインのテイスティング "Tempranillowine" ©Mick Stephenson mixpix(20:28, 2 April 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | |
ワイン用の葡萄は様々な種類があり、色も青紫色だったり赤紫色だったり様々ですが、赤ワインすればまさに『赤い色』になります。 |
ヨーロッパの上流階級にとって、古代の文芸も大切な教養の1つでした。 司教の石というだけでなくキリストの血、すなわち葡萄酒を意識して、あえてアメジストが美しいワインレッドを呈するようゴールドバックでセッティングしたのではと感じます。 |
この雰囲気を出すために、デザインだけならば似た色を出せるガーネットでも良かったはずなのです。 それを敢えて、この時代では珍しいやり方でアメジストを使っているのは、確実に意味があると考える方がしっくりきます。 |
それ故に、このロケット・ペンダントが他には似たものがない、唯一無二の宝物と言えるのです。 |
3. ハンドメイドの金細工の魅力
3-1. 全面に施された超難度のパターン
この宝物に使われているアメジストは、大きなサイベリアン・アメジストのように一般で言う最高級宝石とは少し違いますが、オーダー主にとって非常に価値のある宝石であり、さすがにその価値に相応しい優れた作りが施されています。 |
まず面白みを感じるのが、立体的なロケットの全面に施された変わったデザインの彫金模様です。 |
渦巻きのような模様で手彫りされています。 こんなパターンの彫金は見たことがありません。 なぜ見たことがないかと言うと、想像以上に超難度だからです。 |
『豊穣のストライプ』 2カラーゴールド ロケットペンダント フランス 1880年頃 SOLD |
ツヤツヤに光り輝かせたり、マット感を出すなど、ゴールドの質感をコントロールするための手法はいくつか存在します。 アンティークのハイジュエリーで最もよく見かけるのが、魚子打ちのような手法を使ったマット仕上げです。 様々な形状に整えた、鏨(タガネ)の細い先端を金属表面に押し当て、その痕の集合によって形成される表面形状による質感の変化でマット感を出すのが魚子打ちの手法です。 |
かなり拡大して見ると表面形状の差として認識できますが、肉眼ではゴールドが反射する光が散乱することによる、柔らかなマット感のみを感じることができます。タガネの先端形状やサイズを変えることで、マット感自体もコントロールが可能です。土台のイエローゴールド部分と比較すると、葉っぱを表現したグリーンゴールド部分はより小さなタガネが打ってあります。 |
魚子打ちをせず、磨いて艶出し仕上げをしてある外周のフレームや、天然真珠がセットされたストライプの溝やフレームとは、同じゴールドという素材でも全く雰囲気が異なることがお分りいただけると思います。 |
『黄金の花畑を舞う蝶』 |
やれと命じられてもぜ〜ったいにやりたくない、気が遠くなるような作業を要する細工ですよね。だからアンティークでも比較的新しい時代になってくると見られなくなる細工ですし、古い時代でもかなり高級なものとして作られたジュエリーにしか施されていません。 これ1つ1つが点を打っているだなんて、今だと到底やってみようという気にはなれませんよね。忍耐力のみならず、かかる時間を考えると人件費がかかり過ぎて、商業的にも不可能です。 |
『黄金の花畑を舞う蝶』のような広い面積を魚子打ち仕上げするジュエリーだなんて、アンティークの細工物のハイジュエリーを見慣れている私でちょっと考えられないものです。 この細工が難しいのは、想像を絶する忍耐力だけではありません。 均一に仕上げるというのが、最も高い技術を要する困難な部分です。 |
||
|
【参考】現代人による心を込めた魚子打ち | これは現代人が趣味の一環でトライした魚子打ちです。 人件費は考えずに作業できるので、時間を十分にかけて丁寧に施されたものです。 それでも相当乱れがあり、強く不均一さを感じる仕上がりです。 |
これで見ると、左の方から、縦のラインでタガネを打っていったことが想像できます。左の方はある程度まっすぐなラインで打ってありますが、徐々に乱れが激しくなり、段々とラインが斜めになっています。一番右側を見ると、斜めになってできてしまった隙間に追加でタガネが打ってあることが感じ取れます。 人間の眼は認識力が優れており、不均一さはすぐに違和感となって認識できてしまうのです。これは現代人にしてはよくできていると思うのですが、最初はよくてもこのように忍耐力が続かないのです。トライするくらいなので、ある程度器用さにも自身があったでしょう。でも、古の王侯貴族はこのレベルでは満足してくれません。 |
集中力を一秒たりとも切らさず、均一に仕上げるのはまさに神技です。高度な技術を持つだけでは成立せず、それに追加して驚くべき集中力と忍耐力を要するのです。だから『黄金の花畑を舞う蝶』のような宝物は他には存在しないのです。 |
さて、点を打つ魚子打ちがどう難しいかはお分りいただけたと思いますが、タガネを打つのではなく彫金で均一なパターンを作るなんて相当技術がないとできないことです。 手彫りなので若干の揺らぎはありますが、先ほどご紹介した現代の魚子打ちのように斜めになって誤魔化すというような気配は一切感じ取れず、全体では心地よく調和しています。 |
魚子打ちのように単純に点を打つのではなく、1つ1つが渦巻きの彫金になっているので、点と比べて数は少なくても手間や集中力は遥かに必要だったでしょう。 |
ロケットなので厚みがあるのですが、正面だけでなく側面まで綺麗に彫金が施してあります。正面から側面にかけての曲率の高い部分にも均一に彫金が施された技術の高さは圧巻です!! |
もちろん上下の側面も完璧に彫金が施されています。誰もトライしないような超難度の細工にも関わらず、美しく仕上がっていることには、よくやったものだと驚くばかりでした。当時の職人は趣味ではなく、責任のある仕事としてやっているので、かなり自信があったのだろうなと思います。 |
でも、それだけ腕が良く仕事が早い職人でも作業にはそれなりに時間はかかるので、その分の高額な人件費を気前よく支払ってくれる人がいないと作ることはできません。 職人にとっては、このロケットをオーダーした人物はやりたいことにトライさせてくれる、ありがたい神様のように思えたかもしれませんね。 |
ジョージアン | ミッドヴィクトリアン | |
『OPEN THE DOORS』 マルチロケット ペンダント イギリス 1862年頃 SOLD |
||
『優雅な羽の小箱』 ジョージアン ゴールド ロケット・ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
||
これらはそれぞれの時代のトップクラスの彫金が施されたゴールド・ロケット・ペンダントです。『優雅な羽の小箱』も魚子打ちの部分はありますが、メインは優美な彫金模様でデザインされています。サイドは溝のような段差を作った、シンプルなデザインです。『OPEN THE DOORS』は全面に彫金が施されていますが、4面ロケットという動作機構が主役なので、今回のロケットのように、正面から側面にかけて曲率を付けた彫金の難易度が高い構造にはなっていません。 |
ブック型 ゴールド ロケット・ペンダント イギリス 19世紀後期 SOLD |
このロケットペンダントも両面に施されているのは均一なパターンではなく、優美なデザインです。 優美なデザインは非常に魅力がありますが、それ以外に細工する際のメリットがあります。 手彫りの場合、どうしても揺らぎが出ます。 デザイン性が高い方が、揺らぎが出ても細工をしながらバランスを調整し、全体で整合性が取りやすいのです。 |
『Geometric Art』 ゴールド ロケット・ペンダント イギリス 1840年頃 SOLD |
違和感のない均一なパターンを彫金しようと思ったら、人間技では不可能なので普通はエンジンターンを使います。 手彫りでしか出せないのが心地よく優美な彫金細工であり、違和感のない精緻な均一パターンを出せるのが機械と言えます。 |
シルバー カードケース(名刺入れ) |
そのことを上流階級や職人たちはよく理解していたため、1つの作品でも手彫りとエンジンターンを使い分けたものは時折見かけます。 人間が心から美しいと感じることができる"優雅なデザイン"は、自身の美的感覚と優れた技術を頼りに人間が手彫りするしかありません。 |
だからこそ本来ならばありえないパターンの手彫りの彫金であり、存在すること自体に驚いてしまう宝物なのです。 直線パターンならばまだできそうなものですが、丸ですらなく渦巻き模様で均一なパターンを作ろうなんてよく思ったものです。 |
真心を込めた手仕事にこそ、純粋な信仰心に相応しい真心がこもると考えたのでしょう。 しかも、自分が褒めらられるためであったり、自己満足のためであってはならないからこそ、華美になることを避け、優美なデザインではなく精緻なパターンを選択した・・・。 持ち主にとっての、信仰する神のための大切な宝物だったからこそ、このような作りになったのです。 |
磨いて艶仕上げを施されたクロスの部分と、周囲の彫金細工によるゴールドの独特の質感との対比が美しいです。 彫金部分も磨き仕上げが施されているので、滑らかに光り輝きます。 それを背景に光り輝く黄金の十字架は、まさに神々しいものです。 高い技術を持つ職人がプライドを持ち、真心を込めて作ったからこそ放たれる美しさと言えるでしょう。 |
3-2. ゴールドを贅沢に使ったアメジストの装飾
現代人だと、宝石とジュエリーについて知識が浅い場合、ダイヤモンドやルビー、サファイア、エメラルドなどの4大宝石だと高級、アメジストやアクアマリンだとそこまで高価な石ではないと言ったような、種類でしか判断しない、稚拙な評価しかできないことも少なくありません。 宝石は『種類』、つまり何という石であるかということ以上に『質』が大事です。 |
【参考】約10カラットの天然ダイヤモンド(鑑別証代別途、8%税込600万円) | ||
天然の鉱物であるが故にそれぞれ質が異なり、1つ1つ判断しなければ真の価値は分かり得ません。でも、それが手間だったり、顧客層も含めて宝飾業界にそれを見極める能力がない人たちが多すぎるため、石の種類という単純過ぎる方法で判断する流れができてしまったのです。これはもちろん誤りも多々含む危険な方法です。 「知らぬが仏」。 |
エドワーディアン アメジスト ペンダント イギリス 1910年頃 SOLD |
現代ジュエリーはどんなに高い値段が付いていても、殆どが庶民用であり、宝石の質や作りなんてあまりにも低レベルすぎて議論したくもありません。 でも、アンティークジュエリーの時代は高級品、中級品、安物で宝石の質や作りに"完璧"と言えるほど相関性があります。 価値ある宝石には優れた職人による素晴らしい作りが施されていますし、価値のない宝石はハンドメイドであっても技術のない職人がやる気のない雑な作りでジュエリーになっています。 アメジストもそうで、上質で高価なアメジストには、エドワーディアンであればプラチナにゴールドバックというハイジュエリーの作りになっています。
|
サイベリアン・アメジスト ペンダント フランス 1830年頃 SOLD |
プラチナ以前の時代だと、最高級の金属であるゴールドだけ、もしくはシルバーにゴールドバックで作ります。 |
サイベリアン・アメジスト ブローチ ロシア 1870年頃 SOLD |
デザイン的に白い金属を使いたいという場合に、プラチナ以前はシルバーを使っていました。 シルバーは黒ずむ性質があるため、高価な衣服を汚さぬよう裏側はシルバーより遥かに高級な素材であるゴールドを貼り合わせて作ります。 |
サイベリアン・アメジスト ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
異なる金属を貼り合わせて加工する高度な技術や手間を考えると、オール・ゴールドのジュエリーに勝るとも劣らない高級品であり、白い金属(シルバーにゴールドバック)で作るのか、黄色の金属(オール・ゴールド)で作るのかは単なるデザイン上の好みだったと言えるでしょう。 |
【参考】安物のアーツ&クラフツのムーンストーン&アメジストのシルバー・ネックレス(1900年頃) | オール・シルバーで作られたジュエリーは基本的に安物と判断して問題ありません。 作りも低レベルの職人が加工したものだと雑ですし、時間(=人件費)もかけられないので簡素です。 使われているアメジストに注目すると、インクリュージョンが多そうな明らかに質の良くない石であることが分かります。 |
【参考】安物のアーツ&クラフツのアメジストのシルバー・ブローチ(1890年代) | これもオール・シルバーの簡素な作りの安物です。 アメジストはメイン・ストーンに関して、インクリュージョンは見えないものの、アメジストの一番の魅力と言える紫色が薄すぎて、ジュエリーとして魅力が感じられません。 |
【参考】安物のアーツ&クラフツのアメジストのシルバー・ネックレス(1900年頃) |
これも色の薄い安物のアメジストが使われた安物ジュエリーです。日本人だとこういう淡い色が似合い、好む人も一定数いると思うのですが、欧米人の好みではなく似合う色でもありません。人気がなく、価値の安い石を使った安物ジュエリーなのです。 |
【参考】安物のアメジストのシルバー・ブローチ(1910年代) | 職人によるハンドメイドが当たり前だった時代だと、ある程度手間をかけたシルバージュエリーもたまに存在はするのですが、あくまでも安物なので石は良くないです。 これも色が薄すぎます。 |
サイベリアン・アメジスト&デマントイドガーネット リング ロシア 1910年頃 SOLD |
宝石の価値を決める基準は大きさだけではありません。 特にカラーストーンは小さくカットするほど厚みがなくなり、見た目の色が薄くなります。 だから、小さくカットしても十分な色が出せる、色が濃くてクリアな美しいカラーストーンはその石ならではの魅力があると言えます。 小さな石には、小さくないと成立しないデザインを施せば良いだけなのです。 小さな宝石で作られたこのリングも、ハイジュエリーとしてオール・ゴールドで作られています。 石が小さいから安物ともならないのです。 |
この宝物に使っている宝石は小さなアメジストですが、オール・ゴールドの明らかに高級な作りです。 |
金位が高いこともあって、ゴールドの色が美しく、作られてから140年ほど経過した今でも変色は感じられません。4石のアメジストは、このゴールドという最高級素材をたっぷりと使ってセッティングされています。 |
アメジストの覆輪は厚みのある金の板で作ってあります。だからこそ、これだけ高さを出してアメジストをセッティングしても十分に強度があり、約140年もの長い年月、ロケットとしての使用に耐えているのです。下地の渦巻き模様に合わせてデザインされた、金の細長い板を巻いて作ったスパイラルの装飾も厚みがあって高級感があります。少し角度をつけてセッティングされていることにもセンスを感じます。 |
下地の黄金のスパイラルがキラキラと輝く中、このスパイラルが時折強く黄金の輝きを放つ姿は実に荘厳です。 |
アメジストの煌めきも負けておらず、このワインレッドの宝石が放つ生き生きとした煌めきと、スパイラルの黄金の輝きのコラボレーションが見事なまでの美しさを感じさせます!♪ |
さらにロケットの上部にも同じサイズの粒金がセットされています。 ロケットはバチカンに連結する丸カンと、この粒金をとっかかりにして開ける構造です。 |
ただの開けるための金具に過ぎないのですが、そこをガーネットの装飾に使った粒金と同じサイズにするという、デザイン的な配慮がさすがです。 華美なデザインは避けていますが、華美にならないことと、ダサいことや手抜きとは全く違うことです。 間違いなくオーダー主は、センスの良さと高い美意識も持つ人物だったでしょう。 |
3-3. ロケット内部の優美な彫金模様
ロケットは写真が2枚入る構造です。そして、内側には両面共に繊細な彫金が施されていることがグッときます。ここは均一なパターンではなく優美なデザインの彫金なのです。 |
|
彫金は拡大すると繊細さが感じられなくなってしまうのですが、実物の大きさをご想像いただくと、いかに狭い面積に優美な彫金が施されているかお分かりいただけると思います。 |
外観は神のため、信仰のためのパーフェクトなデザイン。内側は写真の人物のための、優美なデザインだったということでしょうか。高度な技術を持つ職人の手彫りならではの、優美な彫金の美しさも持ち主はしっかりと理解しており、加工にかかるお金も出し惜しみしなかったということでしょう。人からは通常見えない部分までの、行き届きた美意識こそが、王侯貴族のためのアンティークのハイジュエリーならではの魅力です。 |
狭い面積に施された優美な彫金には、「均一パターンだけでなく、優美な彫金もこれくらいできるんだぞ!」という、第一級の職人ならではの強いプライドも感じ取ることができます。 |
写真を2枚入れられるロケットとしての実用性もありますが、両面でかなり雰囲気が異なるため、2wayのオシャレなペンダントとしても楽しめます。実用性や作りの良さを楽しむだけでなく、ジュエリーとしても魅力あふれる素敵な宝物です♪ |