No.00336 アレキサンダー大王

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオ

 

 

 

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン
『アレキサンダー大王』

アメジスト インタリオ
古代ギリシャ(ヘレニズム) 紀元前2-紀元前1世紀

30代前半で亡くなったアレキサンダー大王の、勇気と知性を感じる見事なインタリオです!!♪
たった1.4cmの小さな作品なのに、この迫力は見る者の心を捕らえて放しません!
そうです。インタリオは正に"小さな芸術"、この世で最も芸術的な小さな彫刻なんです!!

 緻密で完成度の高い彫りの18世紀以降のインタリオとは違う魅力が、古代のインタリオにはあるんです。18世紀以降のインタリオは便利な道具や機械を使って彫られていますが、古代のインタリオは機械など全く存在しない時代ですからね。だから、こんな小さな作品でも何ヶ月もかけて彫った筈なんです。彫刻の前、石をカットするだけでも想像を絶する時間がかかった筈です。ダイヤモンドカッターすら無かったんですから!
 それにインタリオは彫った後、綺麗に磨く作業がまた大変で、古代に於いては人間の爪で、もの凄い時間をかけて磨いたとも言われているんです。

  古代のインタリオは普通のジュエリーとは違って、人に見せる物ではなく自分の心を満足させる為にあるのです。 見る者を2,000年前の世界にタイムマシンで運んでくれる喜びがあるんです・・・。

by Gen Katagiri

 

 

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

ヘレニズム・アートの至高!!!

 

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

アレキサンダー大王の内面までも表現しきった古代の最高傑作!♪

 

 

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

『アレキサンダー大王』
古代ギリシャ アメジスト・インタリオ クラバットピン

古代ギリシャ(ヘレニズム) 紀元前2-紀元前1世紀
※ピン金具はRenaissance特製(Gen監修)
アメジスト、18ctゴールド
全長:8.0cm
インタリオのサイズ:1.4×1.2cm
重量:1.9g
¥4,400,000-(税込10%)

※リングやペンダント、片耳ピアスなどにお作り変え可能です。ご希望の際はお見積り致しますので、デザインのご要望等も含めてお気軽にご相談下さいませ。
※18Kのピンキャッチ(現代)は別売です。金価格によって変動するため、必要な際はお問合せ下さいませ。

←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

 

 

この宝物のポイント

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン
  1. 古代ギリシャのアレキサンダー大王
    1. 王侯貴族が憧れる不世出の大英雄
    2. 生まれながらの特別な身分
    3. 圧倒的な知力こそが最大の魅力
    4. 人を惹きつけるカリスマ性と人間性
    5. 魂を分かつ特別な友人の存在
  2. 各地で伝説となり王侯貴族の最大の憧れとなった大王
    1. 大王に憧れた歴代の英雄たち
    2. インタリオが制作された時代のアレキサンダー大王
  3. 心を揺さぶるアーティスティックなインタリオ
    1. 秀才の彫刻とは別次元の心に訴える表現
    2. 手間を惜しまず仕上げられた見事な彫刻
    3. アメジストを使ったロマンあふれる宝物

 

 

1. 古代ギリシャのアレキサンダー大王

1-1. 王侯貴族が憧れる不世出の大英雄

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

アレキサンダー大王について、どれくらいご存知でしょうか?

どのような印象をお持ちでしょうか。

東方遠征を行い、一度も負けることがなかった強い人。でも若くして亡くなった人物。ヘレニズム文化のきっかけを作った王様。

一般的な日本人が学校の歴史で学ぶ範囲だと、このくらいの印象でしょうか。

アレキサンダー大王は欧米の男性が憧れる大英雄です。しかも、庶民が憧れる英雄と言うよりは、特に高貴な身分の人たちが憧れる英雄と言う方がより正確です。だから、このインタリオの持ち主はオーダーした当時の人物も、歴代の持ち主も高貴な身分の人だったと推測します。

どういうことなのか、どうしてなのか、欧米人にとっては常識でも、日本人にはちょっと馴染みが薄くてご存知ない方が多いでしょう。全てを語り尽くすのは到底無理ですが、ご納得いただけるであろう程度に概要をご説明したいと思います。

1-2. 生まれながらの特別な身分

以前は日本にも階級差があり、皇族を中心とした公家や、将軍を中心とした武家という2種類の上流階級が存在しました。明治維新後は公家と上位の武家のを統合した華族が、日本の近代貴族として存在しました。

1947年に貴族制が廃止されて久しく、現代の日本人の殆どは階級差がある社会を体感していません。身分は等しくて当たり前、人は皆平等であり、等しく権利があって当然という意識が根底に染み付いています。

それ自体は構わないのですが、その意識のまま、階級差が存在した時代を想像しては不正確です。誤解すら生じかねません。

生まれながらの身分。これは現代の日本人が想像する以上に、それぞれの人の人生に大きな影響を与えます。

1-2-1. 生まれながらの身分の違い

天下を統一した有名人
王族出身 庶民出身
Giovanni Dall'Orto Permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年) 武家関白、太閤 豊臣秀吉(1537-1598年)

天下統一を成し遂げた人物としては、海外だとアレキサンダー大王、日本だと織田信長の後の豊臣秀吉が日本人にはメジャーだと思います。

ただ、この2人は生まれた時の環境がまるで違います。庶民(農民もしくは足軽)の子として生まれた豊臣秀吉に対して、アレキサンダー大王は元々古代ギリシャのマケドニア王国の王子として生まれています。

ご自身が男の子だったとして、庶民から天下人になった豊臣秀吉と、王家に生まれて君主の地位が最初から見えていたアレキサンダー大王と、どちらに憧れますか?

大出世の豊臣秀吉は、庶民が憧れる庶民のアイドルと言えるでしょう。アレキサンダー大王の場合、そもそも王族になること自体が庶民には不可能で、「同じようになれるよう頑張ろう!」という対象にはなりません。そして、王子が王様になっただけでは普通すぎて誰の憧れの対象にもなりません。

アレキサンダー大王は庶民ではなく、君主クラスの高貴な身分の男性たちが最も憧れる人物として君臨してきました。これには、君主クラスの高貴な身分の人々ならではの理由があります。

1-2-2. 古代ギリシャ最高の家系的栄誉を持つ生まれ

アレキサンダー大王の両親
Jastrow permittedマケドニア王ピリッポス2世(紀元前382-紀元前336年)3世紀のニケテリオン(勝利記念メダル) エピロス王女オリュンピアス(紀元前375-紀元前316年)"Coin olympias mus theski" ©Fotogeniss(12 April 2013, 19:36:40)/Adapted/CC BY-SA 3.0

古代ギリシャはギリシャという1つの国家ではなく、いくつかの都市国家の集合です。アレキサンダー大王はマケドニア王国の君主ピリッポス2世と、エピロス王国の王女オリュンピアスの長男として誕生しました。

以前ご説明した通り、古代ギリシャの王政時代の各国の王族の多くは、神話時代に遡る正当な血統を継いでいることを以って、その支配を正当化していました。

ヘラクレスの系譜 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』ヘーラクレイダイ 2020年2月9日(日) 13:15 UTC

アレキサンダー大王の父方、マケドニア王家は大英雄ヘラクレスの末裔ヘラクレイダイとされています。

マケドニア王アレキサンダー1世が古代オリンピック出場の際に自身のアルゴス人の血統を示し、認められたという歴史があります。これにより、アレキサンダー大王はヘラクレスの血統とされます。

Jona Lendering permitted大英雄アキレス(古代ギリシャ 紀元前300年頃の陶器絵の一部)

母オリュンピアスの出身、エピロス王国は紀元前6世紀頃からアキレスの息子ネオプトレモスの子孫を称する一族に統治されていました。

オリュンピアスの血を継ぐアレキサンダー大王は、アキレスの血統でもあります。

アキレスは『イーリアス』の主人公で、トロイア戦争では無双の力を誇った大英雄です。

アレキサンダー大王の両親の系統
父:大英雄ヘラクレス 母:大英雄アキレス
ヘラクレスの古代ギリシャ(クラシック期)のエレクトラム・インタリオ・リング『英雄ヘラクレス』
エレクトラム インタリオ・リング
古代ギリシャ 紀元前5世紀
¥5,900,000-(税込10%)
古代ギリシャの英雄アキレウスのストーン・カメオ・リング『英雄アキレス』
古代ギリシャ ストーンカメオ リング
ストーンカメオ:古代ギリシャ
シャンク:イギリス 19世紀初期
SOLD

ヘラクレスは父が最高神ゼウス、アキレスは母が海の女神テティスで、古代世界はもちろんのこと、現代のヨーロッパでも知らない人はいないくらいの大英雄です。まさに神懸かり的な力を持っており、ギリシャ劇場によって語り継がれた2人は、文字を読み書きできぬ者でも知っている男性たちの憧れの存在でした。

片方の血を継ぐだけでも特別に栄誉なことなのに、英雄中の英雄のヘラクレスとアキレスの両方の血を継ぐなんて、アレキサンダー大王はこれ以上はないと言えるほど最高の家系的栄誉を持って生まれたのです。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

喜ばしいことではありますが、見合う才能を持っていなければ、むしろプレッシャーにしかならなそうです。

両親が東大卒なのに勉強ができなかったり、両親が金メダリストなのに運動神経が悪かったら、期待外れとガッカリされたり、馬鹿にされたりして辛い気持ちになりそうです。

下手すると、"普通程度"の能力であっても期待外れとされかねません。

普通の家庭、普通の両親の元に生まれていればあり得ないことです。

古の王侯貴族は、職業選択が自由な現代の庶民とは異なります。責任を負う立場が既に確定している王族として生まれ、しかもそんな栄誉(壮大なプレッシャー)を持って誕生したのがアレキサンダー大王だったのです。

1-3. 圧倒的な知力こそが最大の魅力

1-3-1. 負けたことがないアレキサンダー大王

Diovanni Dall'Orto permitted古代ギリシャにおけるマケドニア王国の台頭&アレキサンダー大王の王子としての初陣
『カイロネイアの戦い(紀元前338年)』(エドモンド・オリエ 1882年)

紀元前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア王国の王子として初陣を飾って以来、32才で亡くなるまでアレキサンダー大王は負けたことがありません。

世界征服を成し遂げた大王だけあって戦いの数は多いですし、対戦した敵民族も多岐に渡ります。

アレキサンダー大王の戦歴

日付 種類 戦争 敵勢力 現在の国
紀元前338年8月2日 マケドニアの台頭 カイロネイアの戦い テーベ、アテナイ ギリシャ
紀元前335年 バルカン制圧 ハイモス山の戦い ゲタイ、トラキア ブルガリア
紀元前335年12月 ペリウム包囲戦 イリュリア アルバニア
紀元前335年12月 テーバイの戦い テーベ ギリシャ
紀元前334年5月 ペルシャ征服 グラニコス川の戦い アケメネス朝 トルコ
紀元前334年 ミレトス包囲戦 アケメネス朝、ミレー
紀元前334年 ハリカルナッソス包囲戦 アケメネス朝
紀元前333年11月5日 イッソスの戦い アケメネス朝
紀元前332年1〜7月 ティール包囲戦 アケメネス朝、タイリアン レバノン
紀元前332年10月 ガザ包囲戦 アケメネス朝 パレスチナ
紀元前331年10月1日 ガウガメラの戦い アケメネス朝 イラク
紀元前331年12月 ウクシオンの戦い ウクシオン イラン
紀元前330年1月20日 ペルシス門の戦い アケメネス朝
紀元前329年 キュロポリス包囲戦 ソグディアン トルクメニスタン
紀元前329年10月 ヤクサルテス川の戦い スキタイ ウズベキスタン
紀元前327年 ソグディアナ攻防戦 ソグディアナ
紀元前327年5月
〜紀元前326年3月
インド征服 コフェン戦争 アスパシア アフガニスタン
&パキスタン
紀元前326年4月 アオルノス包囲戦 アシュヴァカ パキスタン
紀元前326年5月 ヒュダスペス河畔の戦い ポロス
紀元前326年11月
〜紀元前325年2月
ムルタン包囲戦 マリ

列挙してみましたが、この全てを勝利しているなんて人間の所行を超えており、まさに神懸かりの強さです。

1-3-2. 剛の者としてのアレキサンダー大王

PD『ペルシャ侵攻 イッソスの戦い(紀元前333年)』
左:アレキサンダー大王、右:ペルシャ君主ダレイオス3世

アレキサンダー大王と言えば、イッソスの戦いを表現したこのモザイクは特に有名ですね。騎乗して最前線でペルシャ君主ダレイオス3世と闘う姿は勇ましく、武人である個人として強いイメージを持っていらっしゃる方も多いと思います。実際、最前線で戦うことも多々あり、それ故に時には酷い怪我を負うことすらもありました。

Diovanni Dall'Orto permitted『ペルシャ侵攻 グラニコス川の戦い(紀元前334年5月)』
(フランス王ルイ14世の宮廷第一画家シャルル・ル・ブラン 1665年)

ペルシャ侵攻の初戦、紀元前334年のグラニコス川の戦いでは21歳のアレキサンダー大王自らが敵将の一人にして、ペルシャ君主ダレイオス3世の娘婿ミトリダテスを討ち取っています。騎兵隊を率いるミトリダテスを発見したアレキサンダー大王が、顔に槍を突き立てて倒したそうです。

『ペルシャ侵攻 グラニコス川の戦い(紀元前334年5月)』(シャルル・ル・ブラン 1665年)

アレキサンダー大王は自身の槍を壊してしまうほど、激しい戦闘でした。

また、白い羽飾りの付いたド派手な兜姿だったため、ペルシャ軍の格好の標的となり、危うい場面も何度もあったと言われています。

そんな死戦を生き抜き、ペルシャの精鋭部隊を壊滅させ、アレキサンダー大王の名を轟かせたのでした。

ポリス(都市国家)の集まりであり、一国の形ではなかった古代ギリシャ。それを纏め上げ、先進超大国ペルシャに挑む初戦として、大王自らの勇気と強さを示すのは避けて通れない道だったと言えるでしょう。

そうは言っても、あっさり戦死してもおかしくない状況です。アレキサンダー大王はその一個人としての勇気と強さによってもギリシャ人の心を掴み、ペルシャ人を震え上がらせ、神の御加護があるとすら信じさせることに成功したのです。

1-3-3. 知の者:軍師・司令官としてのアレキサンダー大王

Shizhao permitted『三英戦呂布』
虎牢関の戦い(後漢 191年)で関羽、張飛、劉備を相手にする呂布

強い武将はいつの時代も大人気です。

三国志で最強と言われるのは呂布です。様々な武器を使いこなし、馬も得意。無敵の強さを誇り、虎牢関の戦いではただ一騎で数万を蹂躙し、張飛との一騎討ちでは互角で戦い、関羽と劉備が加わっても持ち堪えたというエピソードがあります。

三国志で誰が最も強いのか今でもランキングが作られたり、熱い議論が交わされたりしています。個人としての強さは憧れの対象ですし、注目が集まるものです。

ただ、最強と謳われる呂布は知性や人徳に関しての評価はさっぱりです。

後漢末期の武将 陳宮(生年不詳-199年)

同時代の武将、陳宮曰く呂布は無敵とのことですが、陳登は「勇のみで計りごとがなく、去就が軽はずみである。」と評しています。

少し後の三国時代の官僚、陳寿は「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾で裏切りを繰り返し、利益だけが眼中にあった。」と評しています。

呂布本人は強いものの、将軍として兵を率いる際の知略面での才能は微妙そうですね。

サラリーマンでもプレイヤーとしての能力の高さと、管理職として能力の高さは別だと言われます。

プレイヤーとして高い能力を発揮し、実績を上げて管理職に登用されても、チームとしてのパフォーマンスはさっぱりなんて話は日本全国にあります。

日本型雇用とも言われる日本のメンバーシップ型雇用に対し、世界では古くから存在するジョブ型雇用が一般的とされています。マネジメントのスペシャリスト、財務のスペシャリスト、営業のスペシャリストなど、それぞれ得意スキルを元に雇用され、契約以外の業務はしませんし、昇格や降格、異動や転勤もないのがジョブ型です。

全部がもの凄〜く得意という人は一般には存在せず、マネジメントはマネジメントが得意な人、プレイヤーはプレイヤーが得意な人というように、餅は餅屋的な働き方が通常です。野球やサッカーなど、スポーツの世界でも選手として活躍した選手が必ずしも名監督になるわけではないですしね。

後漢末期〜三国時代の武(軍師)・政治家 諸葛亮(181-234年)

三国志でも『軍師』というジャンルが別に存在しており、呂布のような個人として無双の武力を誇るのとは別にランキングされたりしています。

諸葛亮が自ら最前線に立ち、100人、1,000人もの敵をなぎ倒していくイメージなんてありませんよね。

高貴な者は歩兵や一騎兵などの個人的な戦い方をするのではなく、将として兵を率いて戦います。

Diovanni Dall'Orto permitted古代ギリシャにおけるマケドニア王国の台頭&アレキサンダー大王の王子としての初陣
『カイロネイアの戦い(紀元前338年)』(古代ギリシャ 紀元前338年頃?)

実際、王子として初陣を飾ったカイロネイアの戦いでも、18歳のアレキサンダー大王は将軍として参戦しました。62歳頃の将軍パルメ二オンと共にヘタイロイ(重装騎兵、側近騎兵隊将校)、テッサリアの騎兵部隊、軽装歩兵部隊を率いました。

敵は古代ギリシャのテーバイとアテナイで、アレキサンダー大王らが対峙したテーバイ軍には『神聖隊』と呼ばれるエリート部隊が存在しました。それまで世界最強と謳われたスパルタの支配を終わらせた精鋭部隊で、当時ギリシャ最強の歩兵部隊でした。
150組300名の男性カップルの部隊で、最愛の人に惨めな姿を見せぬよう、且つ最愛の人を守るために最大限の力を発揮することを見越して編成された部隊は実際に世界最強の歩兵部隊でした。ただ、あくまでも歩兵部隊です。

古代ギリシャにおけるマケドニア王国の台頭&アレキサンダー大王の王子としての初陣
カイロネイアの戦い(紀元前338年)の布陣

カイロネイアの戦いはアレキサンダー大王の父、マケドニア王ピリッポス2世が大将として指揮しています。左翼にアレキサンダー王子、右翼にピリッポス2世という布陣でした。

戦いはピリッポス2世の攻撃によって開始されましたが、対峙するアテナイと交戦するやいなやマケドニア軍は後退しました。押していると勘違いしたアテナイ軍は、まんまと罠にかかります。総攻撃を仕掛けようと前進したところ、テーバイ軍とアテナイ軍の間に隙間ができました。

この間隙にアレキサンダー王子が率いるヘタイロイが突入し、逆側からテッサリア騎兵部隊と軽装歩兵も突撃してテーバイ軍を挟み討ちにしました。

Giovanni Dall'Orto Permittedマケドニア王ピリッポス2世(紀元前382-紀元前336年) "PHilip II of Macedon Ny Carlsberg Glyptotek IN2263" ©Marie-Lan Nguyen(14 July 2017)/Adapted/CC BY 4.0

父王ピリッポス2世は幼少期に人質としてテーバイで過ごし、テーバイ軍の武器や陣形について学んだ経験がありました。

かなり頭も良かったようで、4.0-6.4mもの長槍サリッサを使用したマケドニア式ファランクスによる戦い方を考案し、この戦いに投入しました。

マケドニア式ファランクスは最強で、アレキサンダー王子が率いる重装騎兵と新たな戦い方をする重装歩兵と対峙した神聖隊はなす術もありませんでした。

取り囲まれるも降伏を拒否した神聖隊は壊滅しました。300人中254人が戦死しています。こうなると再編は無理で、二度と結成されることはありませんでした。

彼らの亡骸を見た父王ピリッポス2世は、それが誰であるかを理解すると泣き叫び、「彼らを侮辱するものがあれば、誰であっても滅ぼす!」と深い尊敬と哀悼の意を示したそうです。

ギリシャ最強、つまり世界最強としてその名を轟かせていた神聖隊を破り、しかも壊滅させたのは極めて大きなことでした。打ち破ったアレキサンダー大王の名も轟かせることになりましたが、誰もが恐れる伝説的部隊に初陣で臆せず立ち向かう勇気も只者ではありませんね。遊びではなく命懸けです。将軍は全ての部下の命にも責任があります。

Giovanni Dall'Orto Permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)

カイロネイアの戦いでもお分かりいただける通り、戦いは高度な頭脳戦でもあります。

心理を操る力、武器、隊の編成、布陣と隊の動かし方、地形を読む力、気候の計算、あらゆることが複雑に絡み合います。

一個人が強くても、戦争の大局は戦略や戦術の良し悪しが上回ります。敵も知の者が戦略や戦術を考えるはずで、勝つにはそれを上回る知力が必要です。

アレキサンダー大王はその圧倒的な頭脳を持っていました。

ペルシャ侵攻:紀元前333年のイッソスへの行軍 "Aleksanteri-Suuri-333" ©Jniemenmaa/Adapted/CC BY-SA 3.0

アレキサンダー大王の戦歴は先にご紹介した通りです。対峙した民族や地域が様々と言うことは、相手の戦略や戦術、武器も地形も様々ということです。相手の戦略・戦術を読み、熟考を重ねて用意周到に準備することも必須ですが、予期せぬ状況の変化に柔軟かつ迅速に対応する力も必要で、それが生死を分けます。

相手の方が圧倒的に兵の数が多いことも幾たびもありましたし、侵攻するということは、土地勘や地の利は基本的には相手方にあったと見るのが妥当でしょう。

全て勝つと言うのは、本当に信じられないことなのです。

グラニコス川の戦いの布陣(紀元前334年5月)
赤:ペルシャ軍(弓騎兵)&ギリシャ人傭兵部隊(歩兵)、青:マケドニア軍
"Battle granicus" ©Frank Martini. Cartographer, Department of History, United States Military Academy/Adapted/CC BY-SA 3.0

アレキサンダー大王が一個人として呂布並に強かったとしても全勝はあり得ません。なぜ全勝できたかと言えば、トップに立つ人間としての能力全てが圧倒的に優れていたからです。軍師としての能力も異次元で、その戦略や戦術は現代でも通用するほどです。

戦場における布陣を描いたこの図は、アメリカ士官学校予備校で制作されました。今回詳細は割愛しますが、2,300年以上も昔のアレキサンダー大王の戦術は、今でも世界中の陸軍士官学校で教えられているほど傑出していました。

テクノロジーの進化によって武器は時代遅れになっても、人間心理や地形を読んで戦い方を考える戦術は普遍です。優れたものは時代を超越し、普遍の存在として在り続けます。そこまで優れたものは滅多に存在しません。殆どは時代に淘汰され、忘れ去られていきます。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

アレキサンダー大王は普遍性があるものを幾つも生み出せるほどの、圧倒的な知力を持っていたのです。

呂布のような圧倒的な武力を持つ者、諸葛亮のような圧倒的な知力を持つ者、それぞれが憧れの対象となりますが、その両方を兼ね備えた信じ難い人物だったのです。

1-4. 人を惹きつけるカリスマ性と人間性

功績面で、アレキサンダー大王に並ぶ人物は歴史上存在しません。

全て勝つというのは個人の力だけでは無理です。本人の武力と知力だけでも不十分です。運に恵まれることも必要でしょう。

大帝国を築くには、それ以外に人を統べ、大王のために動こうと思ってもらえる圧倒的なカリスマ性と人間性が必要不可欠です。

この全てが揃っていないとたった一代、しかも32歳までに世界征服なんて無理です。これが全て揃っているだなんて人間の域を超えており、だからこそ追随する人物が存在しません。

大王のカリスマ性と人間性についても少しご紹介しておきましょう。

1-4-1. 信頼できる側近を作るカリスマ性

国家の君主というのは特殊な立場です。

私は以前、大企業に勤めていました。従業員数は連結まで含めると3万8,000人を超えます。会ったことすらない人もたくさんいますし、社長と喋ったこともありません。役員は40名を超えていますが、やはり喋ったことすらない人が大半です。この規模ともなると、それで全く問題ありません。

管理職は様々あります。部署の規模も様々です。新入社員の際、部長の他に『本部長』という役職も存在すると知り、「本部長って何?本物の部長?ただの部長は本物ではない?(笑)」なんておバカな思考を巡らせたりしたものでした。本真珠が本物の真珠というわけではないように(笑)、本部長は本物の部長というわけではなく、部署が『部』なのか『本部』なのかの違いでした。

小さな単位としてチーム、グループ、課などがあり、チームリーダーやグループリーダー、課長などが統括者として存在します。その集合が部、さらにその集合が本部、そして事業部などとして存在し、それぞれに長が存在します。

大きくなると100人、1,000人規模となります。トップが全ての人を把握するのは不可能で、分割した部署ごとの長に個別の管理は任せ、その長を統べるやり方で全体を統括します。

Giovanni Dall'Orto Permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)

ペルシャ侵攻の初戦、グラニコス川の戦いに於けるギリシャの戦力は2万5,000人です。内訳は下記です。
 騎兵:5,000
 重装歩兵:10,000
 軽装歩兵:10,000

当然ながら、いかに天才でもアレキサンダー大王が全ての兵士にリアルタイムで個別の指示を出すのは不可能です。

ちなみにペルシャ軍は3万5,000の兵力でした。数では劣っており、容易な戦いではありません。

この規模の軍を動かすのに重要となるのが、大王直属の側近たちです。

将軍を務める側近には父の代からの者もいましたが、共に学んだ子供の頃からの学友らの存在が非常に大きかったです。

1-4-1-1. アリストテレスのミエザの学園

ヨーロッパ最大の哲学者
アテナイ黄金時代の哲学者 ソクラテスの弟子 プラトンの弟子
Jastrow permittedソクラテス
(紀元前469-紀元前399年)
プラトン(紀元前427-紀元前347年) ©Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons / CC BY 2.5 アリストテレス
(紀元前384-紀元前322年)

ヨーロッパ最大の哲学者として古代ギリシャのソクラテス、その弟子プラトン、孫弟子アリストテレスがいます。アリストテレスがアレキサンダー大王の家庭教師だったことは有名ですが、少し詳しく見ておきましょう。

ソクラテスもプラトンもアテナイ出身で、プラトンに至ってはアテナイの王族の血を引く高貴な生まれでした(※アテナイは既に民主主義に移行)。

しかしながらアリストテレスはアテナイ出身ではありません。スタゲイロス(後のスタゲイラ)で生まれました。

マケドニア王アミュンタス3世(?-紀元前370年)アレキサンダー大王の祖父
"Coin of Amyntas III-11113" ©aMatia.gr(7 December 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0

アリストテレスの父二コマコスはマケドニア王アミュンタス3世の主治医にして友人で、アリストテレスは幼少期をマケドニアの宮廷で過ごしたようです。アミュンタス3世はピリッポス2世の父で、アレキサンダー大王の祖父です。ヘラクレスの血統なので、コインにはネメアの獅子の皮を被った姿で表現されていますね。

ただ、アリストテレスは13歳頃に両親を亡くしたため、以後は後見人となった義兄プロクセノスに教育を受けて過ごしました。

PDプラトン時代のアカデミアを描いたモザイク(古代ローマ 1世紀)

その後。17〜18歳となったアリストテレスはアテナイのアカデミアで哲学を学ぶことになりました。アカデミアは紀元前387年にプラトンが開設した学園です。

哲学は現代では狭義の意味で使用されていますが、古くは知的探究活動および学問全般を指しました。

アカデミアでは算術、幾何学、天文学等を学び、一定の予備的訓練を経てから、理想的な統治者が受けるべき哲学を教授していました。帝王学ですね。

アカデミアに通じるアテネの古代の道
"Athens - Ancient road to Academy 1" ©Tomisti(2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

特にアカデミアでは幾何学が基礎中の基礎として重視されました。感覚ではなく思惟によって知ることを訓練するために必須不可欠のものと位置づけられ、学園入口の門には「幾何学を知らぬ者、くぐるべからず」との額が掲げられていたそうです。

英雄アカデモスの聖林が囲む神域にあったアカデミア跡
"Athens Plato Academy Archaeological Site 2" ©Tomisti(2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

日本では文系にカテゴライズされる哲学ですが、文系・理系に分けてしまうこと自体がナンセンスです。複雑に絡み合う事象は本来、無理に分けるべきではありません。何かが削ぎ落ちたりするなどして、正確な把握が困難となります。

テクノロジーは進化していますが、人間の地頭、IQは2,000年から6,000年前の古代が最も高かった可能性があると最近の研究で言われています。古代ギリシャなどからそこら辺の人を現代に連れてきたら、ちょっとした話題になるくらいの頭の良さなのだそうです。

複雑なものは複雑なまま思考すべきです。現代人からすれば、古代人の平均値が現代人にとっての"天才"です。その中でも特に優れた"古代の天才"たちであれば、パソコンなど無くても複雑なまま思考することが当たり前に可能だったのでしょう。残念ながら削ぎ落として簡略化したり、無理やり分割しないと物事が理解できないくらい、現代の人間は平均的に知力が低下してしまったのでしょうね。

アテネのアカデミア(ラファエロ・サンティ 1511年)バチカン美術館

アリストテレスは古代の様々な天才たちが集うアカデミアで、紀元前347年にプラトンが亡くなるまで、20年近い年月を学問に励みました。師プラトンから『学校の精神』と評されたほど、アリストテレスは優秀だったようです。

プラトンの死後、アカデミアを出たアリストテレスはアッソス、続いてミュティレネに移住し、主に植物学や動物学の研究を行っていました。

その頃、マケドニア王ピリッポス2世は13歳だったアレキサンダー王子の家庭教師を探していました。それまでにも家庭教師は何人かおり、新しい家庭教師の候補も複数いたのですが、将来のマケドニア王候補であるアレキサンダー王子の家庭教師として最も相応しいと選ばれたのです。

アカデミアで学んだ実績、マケドニア王ピリッポス2世の父王アミュンタス3世の主治医を父に持つというコネクションなどもあって選ばれたのでしょう。

Christaras A pemitted古代ギリシャの都市スタゲイロスの城壁(遺跡)

アリストテレスの出身地スタゲイロスは紀元前348年にピリッポス2世に占領・破壊されていましたが、アレキサンダー王子を教育する見返りに故郷の再建と、奴隷となった元市民を開放し、亡命者を赦免させました。水道橋や豊穣の女神デメテルの神社を2社建築し、さらに多くの家屋や建築物を造って街が再建しました。人々はアリストテレスに敬意を表し、『アリストテレス』と呼ばれるお祭りを始めたほどだそうです。

相当お金がかかるはずですが、それほど哲学者としてアリストテレスがピリッポス2世から高く評価され、代わりの者がいないと判断されたということなのでしょう。

アレキサンダー大王らが学んだアリストテレスのミエザの学園
"20160518 092 mieza nympheum" ©Jean Housen(18 May 2016, 11:53:52)/Adapted/CC BY-SA 4.0

ピリッポス2世はマケドニアの都ペラから離れたミエザのニンフの神殿を、アリストテレスの学園として提供しました。アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師と言われることもありますが、ミエザの学園は実際にはマケドニア貴族の子弟が集まる寄宿学校のように機能しました。

1-4-1-2. ミエザの学園で学んだこと

アリストテレスから学ぶアレキサンダー王子(シャルル・ラプラン 1866年)

アレキサンダー大王は13歳から16歳まで、高貴な学友らと共にアリストテレスから医学、道徳、宗教、倫理、芸術、文学、弁論術などあらゆることを学びました。さすが『万学の祖』とすら呼ばれるアリストテレスですね。個別に極めるスペシャリストがいる一方で、総合的な力を持たねば成し得ないことがあります。帝王は1つ2つを極めるだけでは務まりません。

アレキサンダー大王はアリストテレスを最高の師として尊敬し、「ピリッポス2世(父王)から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ。」と語っています。

学習を終え、アレキサンダー王子が紀元前336年に20歳でマケドニア王に即位すると、翌年に50歳頃となったアリストテレスはアテナイに戻りました。

アテナイのアリストテレス学園リュケイオンの発掘現場
Athens Aristotle's Lyceum" © Ad Meskens / Wikimedia Commons/Adapted/CC BY-SA 4.0

そしてアテナイ郊外の神域に哲学の学園『リュケイオン』を開設しました。一介の家庭教師が自身の財産でゼロから学園を建設するなんてことはあり得ず、当然ながらマケドニア王となったアレキサンダー大王がパトロンとして協力しています。

お金としては400万ドル(現代で5億円弱)を寄付したとみられており、遠征中には様々な地域で収集した動植物を、アリストテレスの研究に役立てるために標本として送っています。一方、遠征中にアレキサンダー大王の要請でアリストテレスは『王道論』や『植民論』を書き送ったとされています。このパトロン関係は大王が32歳で亡くなるまで続きました。

王侯貴族らしい、学芸のパトロンとしての振る舞いを2,300年以上も昔に、20歳そこそこの人物がやっていたということですね。

大王には他にもブレーンとして遠征に連れて行った家庭教師らがいたそうです。一人で大帝国を築くに必要な知識を全て細々集めるのは、いかに天才といえども時間的にも労力的にも現実的ではありません。各分野のスペシャリストを見出し、必要に応じて最大限に活用する能力も傑出していた証でしょう。

現代では『やりがい搾取』と言われる嫌なやり方もありますが、搾取という方法ではなく、相手にとってもメリットのあるやり方なのも良いですね。アリストテレスらも、やる気を以って最大限に力を発揮してくれたことでしょう。

1-4-1-3. 側近として大活躍した学友たち

ミエザの学園の学友
マケドニア貴族
ラゴスの息子
マケドニア貴族
アンティパトロスの息子
マケドニア貴族
ドロピデスの息子
プトレマイオス朝
初代ファラオ
アンティパトロス朝
初代マケドニア王
アレキサンダー大王の騎兵親衛隊長&命の恩人
プトレマイオス1世(紀元前367-紀元前282年) カサンドロス(紀元前355年頃-紀元前297年)
©ArchaiOptix(27 November 2013)/Adapted/CC BY-SA 4.0
クレイトス(紀元前375年頃-紀元前328年)

ミエザの学園で、アレキサンダー大王は後の有力な側近となる学友たちにも恵まれました。当然ながら学友も皆、マケドニア王国の貴族の子弟たちです。共にアリストテレスから教えを受けました。知識や考え方を共有できたのも大きかったでしょう。以心伝心、遠く離れていても大王の考えを汲み取って動けたはずです。

学友の中にはディアドコイ戦争を生き抜き、ヘレニズム国家の君主となった者たちも存在します。エジプトのヘレニズム国家プトレマイオス朝の初代ファラオ、プトレマイオス1世はムセイオンと併設のアレキサンドリア図書館を造り、古代世界の学術の中心都市としてのアレキサンドリアの礎を築いていますが、アリストテレスの教えあってのことと言えるでしょう。

クレイトスを殺害するアレキクンダー大王、紀元前328年(アンドレ・カーステニャ 1898-1899年頃)

アレキサンダー大王の騎兵親衛隊長にして優秀な指揮官として活躍したクレイトスも、ミエザの学園の学友でした。

例のド派手な出立ちで自ら敵将を撃ち、目立つあまりに格好の的となったグラニコス川の戦いでアレキサンダー大王の命も救っています。

大王を背後から襲うペルシャの武将スピトリダテスの腕を切り落とすなど、司令官としてだけでなく戦いも勇猛果敢です。

アリストテレスからの教えを受けているだけあって、アレキサンダー大王と議論ができるほど優秀でもありました。

ただ、クレイトスは自身のバクトリア総督就任を祝う宴席でアレキサンダー大王を挑発し、激怒した大王に槍で殺されてしまいました。

強靭な親衛隊長を自ら殺害してしまえるなんて、やっぱりアレキサンダー大王は強いですね。これが大王の最大の失態とも言われています。酔いが覚めた大王は自身の行為に激しい衝撃を受け、三日三晩も自室に籠もって慟哭し続けたそうです。

宴席での話題は東方政策でした。侵攻するのは、攻めるだけで良いわけではありません。陥落させた後、どう治めていくかという方がむしろ重要です。攻め落とすより治める方が大変で、一介の武将ではなく大王だからこそその責任がありました。クレイトスも高貴な身分ですから、民のより良い暮らしに責任があり、大王や側近が集う酒席での議論は真剣そのものです。

【世界遺産】ペルセポリス宮殿群(アケメネス朝ペルシャ 紀元前520年着工)
"Persepolis reliefs 2005a" ©travelling runes(8 June 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0

以前ご紹介した通り、当時のペルシャ帝国はマケドニア王国にとって超先進大国でした。東方遠征でペルシャ帝国の高度な行政組織や軍制、文化に触れ、アレキサンダー大王は自分たちのレベルの低さに愕然とし、滅ぼすのではなくそのまま残し、取り込んでいくことにしました。

しかしながら伝統的なマケドニアの風習を重んじるクレイトスは、ペルシャの宮廷儀礼や服装を導入したり、異民族との融和を押し進めようとするアレキサンダー大王の方針を良く思っていませんでした。議論が白熱する中で、酒に酔った勢いもあってアレキサンダー大王に対して「貴方は幾つか判断を誤っている。汚らわしい東洋のライフスタイルに感化されて、高貴なマケドニアのやり方を忘れてしまったのでは?」と挑発しました。同じく酔っ払いだった大王は激怒し、クレイトスを突発的に殺害してしまったのです。

悲しい出来事でしたが、立場に関係なく熱い議論を交わしたり、命を預けて共に戦える仲間をアレキサンダー大王はミエザの学園で手に入れたのです。

ちなみにプトレマイオス朝の初代ファラオ、プトレマイオス1世は幼少期からヘタイロイ(側近騎兵隊将校)の一人を任されており、東方遠征では将軍として従軍し、側近護衛官にもなっています。

1-4-1-4. 10代で発揮していたカリスマ性

実はアレキサンダー王子の地位は盤石ではなく、確実にマケドニアの王位が約束されているわけではありませんでした。父王ピリッポス2世は一夫多妻制で、アレキサンダー大王の母オリュンピアス以外に複数の妻がいました。

マケドニア王ピリッポス2世(紀元前382-紀元前336年) "PHilip II of Macedon Ny Carlsberg Glyptotek IN2263" ©Marie-Lan Nguyen(14 July 2017)/Adapted/CC BY 4.0

ピリッポス2世とオリュンピアスの子としては長男ですが、いつ父王お気に入りの異母兄弟が新たに誕生するとも限らぬ状況でした。

異母兄:ピリッポス3世(紀元前359-紀元前317年)
異母姉:キュナネ
アレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)
妹:クレオパトラ
異母妹:テッサロニカ
異母妹:エウロペ
異母弟:カラノス(?-紀元前336年)

異母兄ピリッポス3世は庶子だったため、名目的な後継者はアレキサンダー王子だったものの、婚姻に関しては複数回、揉め事が発生しています。

最初に揉めたのは紀元前338年にピリッポス2世が7番目の妻、クレオパトラ・エウリュディケを娶る際でした。クレオパトラ・エウリュディケはピリッポス2世の重臣であるアッタロス将軍の姪であり養女で、マケドニア貴族でした。

アレキサンダー大王の母オリュンピアスがエピロスの王女だったことは先にご紹介しましたが、それ以外の妻フィラ、アウダタ、ピリンナ、二ケシポリス、メーダも他国出身で、クレオパトラ・エウリュディケはピリッポス2世にとって初めてのマケドニア貴族の妻でした。

マケドニアとエピロスのハーフであるアレキサンダー王子は、純粋なマケドニアの血を持つ弟が誕生するとその地位が危うくなる可能性がありました。実際、結婚式の祝宴で酔っ払ったアッタロス将軍は「クレオパトラ・エウリュディケがフィリッポス2世の正統な後継者を生みますよう。」と祈ったそうで、これは18歳のアレキサンダー王子への明らかな侮辱であったとされています。

アレキサンダー王子は激怒し、「貴方は悪党だ!私が正統な後継者ではないというのか!」とカップをアッタロス将軍の頭に投げつけました。

この際、フィリッポス2世がアレキサンダー王子の主張を擁護しなかったため、母オリュンピアス王妃とアレキサンダー王子らとの間に緊張関係が生まれました。

エピロス王アレキサンダー1世(紀元前370-紀元前331年)アレキサンダー大王の叔父
"Alexander the Molossian King of Epeiros 350 330 BC" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com/Adapted/CC BY-SA 3.0

翌、紀元前337年、アレキサンダー王子は母オリュンピアス王妃を連れて国外に亡命してしました。オリュンピアスの弟でありエピロス王アレキサンダー1世に彼女を預け、自身はさらにイリュリア王国に向かいました。

ただ、政治的にも軍事的にも十分な教育が身に付いた優秀な息子を手放すつもりはなかったため、ヘタタイロイであり王室の友人でもあったデマラトスの取りなしもあって、アレキサンダー王子は半年後にマケドニアに戻りました。

ピリッポス3世(紀元前359-紀元前317年)アレキサンダー大王の異母兄
"Macedonia, dinastia degli antigonidi, tetradracma di filippo III, 323-316 ac ca" ©Sailko(7 March 2014, 12:23:19)/Adapted/CC BY 3.0

しかし、事態はそのまま平穏にとはなりませんでした。3歳年上の異母兄ピリッポス3世はラリサ出身の踊り子ピリンナを母に持つ庶子でしたが、結婚に於けるゴタゴタでピリッポス2世とアレキサンダー王子の関係が険悪になった結果、相対的に地位が向上し、アレキサンダー王子のライバル視されるようになりました。

アレキサンダー王子が帰国した翌年、カリア総督ピクソダロスが長女をピリッポス3世の妻にと申し出ました。母オリンピアス王妃とアレキサンダー王子の友人らはフィリッポス2世がフィリッポス3世を後継者にする意図ではと推測しました。アレキサンダー王子は総督ピクソダロスに使者を送り、庶子の兄ではなく自分に娘を差し出すようにと伝えました。

これを聞いたピリッポス2世は交渉を中断し、アレキサンダー王子にはもっと相応しい花嫁を選んで欲しいのだと叱りました。年上の友人プトレマイオス1世、ハーパルス、ネアルコス、エリギュイオス、ラオメドンらは、まだ未熟な王子をそそのかしたとして国外追放としました。

立場の確定しないアレキサンダー王子よりマケドニア王フィリッポス2世のご機嫌とりをしていた方が貴族としての立場は安泰なはずですが、学友たちは当時からアレキサンダー王子に魅了され、熱烈な忠誠心を持っていたようです。

マケドニア王ピリッポス2世を暗殺する護衛官パウサニアス、紀元前326年(アンドレ・カーステニャ 1898-1899年頃)

その年、和平のためにエピロス王アレキサンダー1世(母オリュンピアスの弟)と妹クレオパトラ王女(ピリッポス2世とオリュンピアスの長女)が結婚することになったのですが、その祝宴でピリッポス2世は護衛官パウサニアスに暗殺されてしまいました。

パウサニアスの個人的な恨みもあったそうですが、黒幕がいるのか、真相は闇の中です。

暗殺後に逃走するパウサニアスは、ペルディッカスとレオンナトスに殺害されました。2人ともアレキサンダー大王と同い年のマケドニア貴族で、大王の時代には将軍や側近護衛官として活躍し、大王の死後はディアドコイとなっています。

口封じだったのか、いずれにせよピリッポス2世が亡くなったことで、20歳のアキサンダー王子はその場で貴族と軍隊によりマケドニア王と宣言されました。

Giovanni Dall'Orto Permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)

王位に就き世界征服を目指す際の学友たちの存在感は非常に大きいものでしたが、マケドニア王になる以前からアレキサンダー大王はたくさんの学友たちに熱狂的に支持されていたことが伺えます。

学友たちも優れた人物揃いで、だからこそ広域を征服し、維持できていたのでしょう。反乱があれば新しい場所を征服しに行くどころではないため、各地域を任された側近たちの統治能力も優れていたはずです。

いわゆる『天才』にもさらに優劣は存在します。身体的な能力以上に、精神的な能力は差があります。ただ、目には見えない部分なので一般にはその差が分かりにくいです。

ネメアのスタディオンで裸足で100m走する現代のギリシャ人【出典】AFP通信 2008.6.22配信 ©Louisa Gouliamaki/Adapted

身体的な能力の差は目に見えて比較できるので、誰でもその差が理解できます。それでも同一条件で比較することが必須です。

最初期のノイマン型コンピュータの前に並ぶロバート・オッペンハイマーとノイマン(1952年)

真の天才を見出すのは困難ですが、想像する参考としてジョン・フォン・ノイマンのエピソードがあります。あまりにも人間離れしすぎており、人類の天才ランキングからは外されたりするほどで、私のような凡人には信じ難いようなエピソードにも事欠かない人物です。

庶民に有名で、一般にも分かりやすい天才の代名詞と言えばアルベルト・アインシュタインでしょうか。

20世紀の科学の時代。そのアインシュタインも含め、同時代の天才たちが誰が最も頭が良いかを話し合ったことがありました。

満場一致でノイマンであるとなったそうです。より正確に言うと、ノイマン自身はアインシュタインを選んだそうです。アインシュタインの直感的な閃きの才能を評価したようですが、謙虚さもあってのことか、凡人には想像し得ぬ深淵なる思考の果ての結論だったのか。私如きには分かるはずもありません。

ジョン・フォン・ノイマン(1903-1957年)
©LANL/Copyright Triad National Security, LLC. All Rights Reserved.(2008)/Adapted
アルベルト・アインシュタイン(1879-1955年)

身体能力だと、筋肉ムキムキの人の方がヒョロヒョロの人よりも強そうなどの想像ができますが、外見では誰が天才なのか全く分かりません。

年齢的にはアインシュタインの方が24歳年上だったようですね。身体能力と違い、頭脳そのものの能力差に年齢は殆ど関係ないでしょう。

凡人から見れば全員が天才で、その違いは殆どないように見えるでしょう。でも、満場一致で選ばれるなんて、天才たちの中でもノイマンは圧倒的に抜け出ていたからに他なりません。

これは皆で同様の課題に取り組んでいたからこそ判断できたものとも想像します。社会人になると誰が賢いのか、いまいち分かりません。取り組む事柄や状況がそれぞれ異なり、正確な比較が困難だからです。でも、学校だと全員が同じテストを受け、それぞれ点数が出るので一目瞭然ですよね。

アレキサンダー大王らが学んだアリストテレスのミエザの学園
"20160518 092 mieza nympheum" ©Jean Housen(18 May 2016, 11:53:52)/Adapted/CC BY-SA 4.0

ミエザの学園でマケドニア貴族の学友たちと共に、最高の哲学者とも称される師アリストテレスから学んだアレキサンダー王子。相当高度な内容だったはずです。

アレキサンダー王子の頭がイマイチだったとしても、この環境ではそれが目に見えて明らかとなります。出自が高貴なだけで実力はないと馬鹿にされ、熱烈に支持されるなんてことはなかったでしょう。

歴史的にもアレキサンダー大王は『知の者』として知られていますが、実際にノイマンのように忖度なく圧倒的に頭も良かったのだと想像します。寄宿学校という形で同じ環境を経験し、断トツで秀でていたのでしょう。五十歩百歩の違いならばライバル心を煽るだけですが、圧倒的に違えばそれは『カリスマ性』として人を惹き付けます。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

プトレマイオス1世を始め、新しい王朝を作り君主となれるような人物を強く魅了するほど、アレキサンダー大王には圧倒的な知があったのでしょう。

天才でなければ真の超天才を理解できない。

そういう意味では、優れた人物ほどより強くアレキサンダー大王の魅力を理解できたことでしょう。

こうして若くして王となったアレキサンダーは、より広い世界に駆け出しました。

ちなみに父王ピリッポス2世の暗殺は黒幕の存在も疑われていますが、アレキサンダー大王は有力視されていません。野心があったとされる母オリュンピアス王妃が疑いの対象にはなっています。

アレキサンダー大王は頭は良いですが、実績を見てみると権謀術数、美しいとは言えない手で策略を張り巡らす印象はありません。側近が口出しできない独裁者タイプでもなく、議論を重ねて精査する印象です。酔っ払って手が出ることはあったようですが、汚さは感じません。

「勝利を盗まない」というエピソードもあります。紀元前331年のガウガメラの戦いの前夜、老将パルメニオンが夜襲を具申しました。初陣カイロネイアの戦いでも共に兵を率いた、父の代からの信頼できる側近です。しかしながら25歳頃のアレキサンダー大王は「私は勝利を盗まない。」と言い、翌朝の遅い時間まで悠々と寝続けたそうです。

経験豊かな老将が提案するだけあって、状況的には夜襲するのがセオリー通りだったのでしょう。敵対するアケメネス朝君主ダレイオス3世は劣勢のマケドニア連合軍が確実に夜襲してくると考え、軍には武装したまま一晩中警戒させました。その結果、ペルシャ軍は体力も気力も無駄に消耗する一方で、マケドニア連合軍は気力体力ともに充実して戦いに臨み、アレキサンダー大王は盗むことなく堂々と勝利を得ました。カッコいいですね。これが歴史的にも多くの人が憧れる所以です。たとえ全勝しても権謀術数、勝利のためにあらゆる手を使うような王だったら好き嫌いが分かれたはずです。

当時の天才中の天才なのでアレキサンダー大王は裏の裏をかいただけという可能性もありますが、残されたエピソードをいくつか見ても、ピリッポス2世の暗殺も黒幕がいたとしてもアレキサンダー大王本人ではない気がします。

1-4-2. 異文化の人々を魅了する人間性

攻め落として支配下においても、各地で反乱が起きたら鎮圧で手一杯になります。しかしながらアレキサンダー大王は世界征服を成し、ヘレニズム文化を花開かせる礎を作っています。これは自国のみならず、支配下に置いた地域の統治もうまくいったことを意味します。

これについても少し見ておきましょう。

1-4-2-1. ペルシャ侵攻の動機

そもそもアレキサンダー大王はなぜペルシャに攻め入ったのかご存知ですか?

「なんとなく世界征服がしたくて。」と言う、個人的な野心からの理由などではありません。

PDペルシャの戦士と古代ギリシャの重装歩兵(古代ギリシャ 紀元前5世紀)

詳細は以前ご紹介しましたが、紀元前5世紀にアケメネス朝ペルシャと古代ギリシャ間でペルシャ戦争がありました。

プラタイアの戦いにおける両軍の兵力 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』プラタイアの戦い 2019年11月23日(土) 15:45 UTC

都市国家ポリスの集合であったギリシャですが、一致団結して戦い、最終的には圧倒的に数で勝るペルシャを退けました。ペルシャ軍は凄い数ですね。ペルシャ側に、ギリシャ人の傭兵が相当数いるのも興味深いです。

アテナイのディオニュソス劇場の想像図(1891年制作)

それはさておき、紀元前480年にペルシャ遠征軍が襲ってきた際は各地の防衛戦が突破され、アテナイもアクロポリスを放棄せざるを得ない戦況となり、陥落しています。街はペルシャ軍によって破壊し尽くされました。苦々しい疎開生活も経験しました。

撃退後にアテナイは再興し、紀元前5世紀の黄金時代を迎えるほど繁栄しましたが、アテナイ人を始め、ギリシャ人たちはペルシャ戦争の恨みを忘れることはありませんでした。

1-4-2-2. マケドニア王を盟主としたコリントス同盟

紀元前338年、アレキサンダー王子が初陣を飾ったカイロネイアの戦いでアテナイ・テーバイ連合軍を破ったマケドニア王国は、紀元前337年にコリントス同盟を結成しました。

フィリッポス2世暗殺直後のマケドニア王国支配地域(紀元前336年)黄色:コリントス同盟
"Map Macedonia 336 BC-en" ©Marsyas, Kordas, MinisterForBadTimes/Adapted/CC BY-SA 3.0

マケドニア王ピリッポス2世を盟主とし、スパルタを除くギリシャの全ポリスが加盟しました。

この同盟では、5世紀のペルシャ戦争でギリシャに大きな損害を与えた復讐として、ペルシャ討伐が決議されました。討伐のために各ポリスは兵たちをマケドニア王国に派遣しています。

想像以上に、当時のギリシャ人の恨みは大きいものだったわけですね。それだけペルシャから酷い目に遭ったということでしょう。当時の人たちにとっては100年以上も前の話ですが、いつまたペルシャが攻めてくるか分からない中、備えは必須で、恨みを忘れることはなかったということでしょう。

1-4-2-3. 復讐を原動力に成し遂げたペルシャ征服

紀元前336年にピリッポス2世が暗殺された後は、マケドニア王に即位したアレキサンダー大王が結成して1年ほどだったコリントス同盟の盟主も引継ぎました。

安泰となっていた父の後を継いだのではなく、間違いなく困難な道のりが待つ中での即位だったと言えるでしょう。

Diovanni Dall'Orto permitted『ペルシャ侵攻 グラニコス川の戦い(紀元前334年5月)』
(フランス王ルイ14世の宮廷第一画家シャルル・ル・ブラン 1665年)

そうして開始したのが、弱冠21歳で挑んだペルシャ侵攻の初戦『グラニコス川の戦い』でした。自ら敵将を討った大王の勇敢な戦いぶりは、先にご紹介した通りです。

アクロポリスの想像図(1846年)

この初戦での勝利はアテナイの守護神アテネに捧げられました。アレキサンダー大王はアテナイのパルテノン神殿にペルシャ兵の武具を奉納しています。

【世界遺産】ペルセポリス宮殿群(アケメネス朝ペルシャ 紀元前520年着工)
"Persepolis, Iran, 2016-09-24, DD 64-68 PAN" ©Diego Delso(24 September 2016, 11:25:31)/Adapted/CC BY-SA 4.0

即位式なども執り行うアケメネス朝ペルシャの重要都市だったペルセポリスを陥落させ、文化レベルの高さに感動して「ギリシャよりも遙かに美しい。」と絶賛したアレキサンダー大王が、4ヶ月も滞在した後に火を放って破壊してしまったのも、アテナイの街を破壊した復讐でした。

破壊が趣味の破壊神的人物だったからとりあえず破壊してみた、というわけではないのです。

ペルセポリスの宮殿の破壊を主導するタイス(ジョシュア・レイノルズ 1781年)

実際は失火の可能性もあるそうです。一説にはアテナイ出身のヘタイラ、タイスの助言によるものともされています。

高級娼婦のような存在と言われますが、王侯貴族の側にいる女性の場合、美しさや夜のお相手だけが重要ではなかったりします。

タイスは当時プトレマイオス1世の恋人で、ペルシャ遠征にも従軍していました。非常に機智に富み、人を楽しませるのが得意で、アレキサンダー大王のお気に入りでもあり、側に置くことを好んでいたそうです。

会話を楽しみたい時、アレキサンダー大王ほどの頭の良さだと、相手も相応の頭の良さがないとまともな会話にすらならないでしょう。

劣る者がレベルを合わせることはできませんから、会話を成立させるには優れた者が相手のレベルに合わせざるを得ません。しかしそれではストレスが溜まるだけです。太鼓持ちが見返りを見越して地位の高い人にそれをすることはあり得ますが、アレキサンダー大王の場合は無意味で時間の無駄です。

タイスは頭もかなり良い女性だったのだと想像します。アレキサンダー大王の恋人だった可能性すら示唆されているそうです。大王の死後は、正式に結婚したのかは不明ですが、プトレマイオス1世との間に3人の子供を授かっています。

頭の良い男性たちにとって、本当に魅力的な女性だったのでしょう。

『ペルセポリス炎上』松明を持つタイスを抱き上げるアレキサンダー大王(ジョルジュ・ロシュグロス 1890年)

そんな女性が破壊をそそのかしたり、女性の意思だけで大王が破壊を決めるなんてことは考えにくい気もします。

しかしながら世の中にはスキャンダラスで低俗なことを好む人間も一定数存在し、そういう人たちが好みそうな絵画のモチーフになるなどの後押しもあって、その説がとりわけ広まったのかなとも思います。

何かのヤバイ儀式のようなこの絵は、私はちょっと・・(笑)

アレキサンダー大王に放火を仕向けるタイス(ルドヴィコ・カラッチ 1592年) アレキサンダー大王とタイス(ルドヴィコ・カラッチ 1611年)

これはもはや、そこら辺の小悪党と下品な娼婦にしか見えません。

いつの時代も高貴な人々を、ゴシップ的に下品に貶めて悦に浸る人種は存在するんですよね。アレキサンダー大王がこんな人物だったら、世界征服ができるわけありません(笑)

貶める方も貶める方ですが、絵として見せられると事実であると信じてしまう人も多いものです。ゴシップを作る側は、そうやって食べていっているわけです。この構図も昔から変わりませんね。

故意か失火か分かりませんが、街が炎上する様子を見てアレキサンダー大王は部下に消火を命じたとも言われています。

【世界遺産】ペルセポリス宮殿群(アケメネス朝ペルシャ 紀元前520年着工)
"General view of Persepolis, Iran (5)" ©Carole Raddato(22 April 2019, 08:33:34)/Adapted/CC BY-SA 2.0

当時の関係者たちの心は分かりようもありませんが、事実としてペルセポリスは再建できないレベルで破壊されました。

ペルシャ帝国に対して積年の恨みがあったギリシャ人たちの溜飲は、大いに下がったことでしょう。アテナイ人、マケドニア人など、それぞれのポリスごとにプライドがあったはずですが、全ギリシャとして心を統一するためにも大いに意味のあった出来事だったと想像します。

1-4-2-4. ペルシャ人を魅了してしまった大王の振る舞い

ペルセポリスの破壊はギリシャ人の結束を固めるには有効そうですが、いかにもペルシャ人との遺恨が残りそうな出来事ですよね。

恨みを恨みで返す、繰り返し。現代も報復の報復、その報復と、終わりのない恨みの連鎖が至る所で続いています。

遺恨が残れば、ペルセポリスからさらに東方遠征を進める際に、テロや暴動が起きて鎮圧に戻らねばならない状況も起こりえたでしょう。しかしながら実際にはアレキサンダー大王はその人柄によって、ペルシャ君主らを魅了してしまいました。

PD『ペルシャ侵攻 イッソスの戦い(紀元前333年)』
左:アレキサンダー大王、右:ペルシャ君主ダレイオス3世

ペルシャ侵攻の初戦グラニコス川の戦いでマケドニア連合軍に敗北後、ペルシャ君主ダレイオス3世は自ら指揮することにしました。

『ペルシャ侵攻 イッソスの戦い(紀元前333年)』(ヤン・ブリューゲル(父) 1602年)

マケドニア連合軍が約3万7千人に対して、ペルシャ帝国軍は5万〜6万人(古代の文献では25万〜60万人)という、東方遠征の中でも極めて大規模の戦いでした。

大規模な殺傷が可能な爆弾、銃火器の類は使わない戦闘です。兵自身の戦闘能力と士気の高さ、連携能力が物を言います。5世紀のペルシャ戦争でもあり得ないほどの強さを発揮した古代ギリシャ兵でしたが、相変わらずペルシャ兵と比較して圧倒的に強かったようです。

劣勢を察知したダレイオス3世は逃亡し、それを見たペルシャ軍の将軍らも陣を崩して逃げ出したため、この戦いはペルシャの大敗に終わりました。戦死者はマケドニア連合軍が452人に対して、ペルシャ帝国軍は2万から4万に上ったとされます。

こんな結果ではペルシャ兵も国民の士気もボロボロですよね。イッソスの戦いを契機にアケメネス朝ペルシャの衰退が始まったとされています。

ダレイオス3世の家族のテントに赴いたアレキサンダー大王
(セバスティアーノ・リッチ 1708-1710年)

ところでイッソスの戦いでダレイオス3世は無事に逃走しましたが、その多くの家族たちが戦場に取り残され、マケドニア連合軍に捕らえられました。その中にはダレイオス3世の母シシュガンビス、妻スタテイラ1世、娘のスタテイラ2世、ドリュペティスらが含まれています。

通常、弱小国の征服者が大国の王室を捕らえた際は、持て余して侮辱的な扱いをするのが通常ですが、アレキサンダー大王は礼儀正しく尊厳を以って接しました。

アレキサンダー大王を前にするダレイオス3世の家族(シャルル・ル・ブラン 1661年)

後で詳細をご紹介しますが、アレキサンダー大王には学友たちの中でも別格だったヘファスティオンという側近がいました。2人は同じような出で立ちでペルシャ王室の前に現れました。

2人は同い年でしたが身長や体格がアレキサンダー大王より優っており、アレキサンダー大王自身も高圧的で威張り散らした雰囲気がまるでなかったこともあってか、ダレイオス3世の母シシュガンビスは完全にヘファスティオンが大王だと勘違いしてしまいました。捕虜となったロイヤル・ファミリーの代表としてヘファスティオンの前に跪き、家族の命を懇願したのです。

誤りに気づいたシシュガンビスは狼狽しました。「無礼者めが!」と激怒され、即刻首を飛ばされてもおかしくない事態です。自分だけならまだしも、代表者の無礼を理由に全員が殺されても文句は言えないほどの状況です。顔面蒼白ですよね。

Neilwiththedeal permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)&ヘファスティオン(紀元前356-紀元前324年)

しかし怒ることなくアレキサンダー大王は「お母さん、貴方は間違っていませんでした。この男もアレキサンダーです!」と言い、シシュガンビスを安心させました。ちょっと意味が分からないかもしれませんが、これには歴とした理由があります。アレキサンダー大王は怒るどころか、むしろ内心では大いに嬉しかったと想像します。後でご説明いたします。

アケメネス朝ペルシャ君主ダレイオス3世(紀元前380-紀元前330年)
"Darius III mosaic" ©Carole Raddato from FRANKFURT, Germany(4 July 2014, 12:01)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ダレイオス3世は家族を返して欲しいと手紙で何度か懇願しましたが、アレキサンダー大王は自身をペルシャ帝国の新君主として認めぬ限り応じぬと跳ね除けました。

しかしながら家族の丁重かつ敬意ある扱いを伝え聞いたダレイオス3世はアレキサンダー大王の度量を賞賛し、もし不幸にも自分が帝国を失うとしたら、アレキサンダーこそがペルシャの新しい王となるよう神に祈ったと言われています。

マケドニア連合軍に磔刑にされるベッソス、紀元前329年(アンドレ・カステニャ 1899年)

ダレイオス3世は例の夜襲警戒事件によるガウガメラの戦い(紀元前331年)からの敗走後、バクトリア総督ベッソスらの裏切りによって暗殺されてしまいました。

ダレイオス3世を生きて捕らえたかったアレキサンダー大王は大いに失望しました。その遺体は丁重にペルセポリスに移送され、歴代のペルシャ君主と同様の盛大な葬儀を執り行い、王の墓に埋葬されました。

暗殺後にペルシャ君主を名乗ったベッソスはアレキサンダー大王の追撃を受け、同盟者スピタメネスの裏切りによって大王に引き渡されました。ベッソスはダレイオス3世が殺害された場所で磔刑にされたと言われています。

紀元前324年のスサでのアレキサンダー大王&ペルシャ王女スタテイラ2世
及びヘファスティオン&ペルシャ王女ドリュペティスの結婚式(19世紀後期)

アレキサンダー大王はシシュガンビスを実の母のように丁重に扱っていたようです。息子ダレイオス3世の暗殺を聞いたシシュガンビスは、「私には1人の息子(アレキサンダー)しかいない。彼は全ペルシャの王だ。」と言ったそうです。

家族を置いて我先に遁走し、求心力を失って味方に暗殺されてしまったダレイオス3世。対して、アレキサンダー大王の立派すぎる振る舞い。ふがいないながらも腹を痛めて産んだ実の息子の死への深い悲しみと、愛。辛く複雑な想いが伝わってきますね。

アレキサンダー大王を気に入ったシシュガンビスは紀元前324年に孫娘スタテイラ2世、大王と間違えた側近のヘファスティオンにはその妹であるドリュペティス王女を嫁がせています。嫌々ながらの政略結婚ではなく、ギリシャとペルシャが融合した佳き結婚だったと言えるでしょう。

征服したペルシャ帝国ではマケドニア式を押し付けようとせず、各州の総督(サトラップ)はそのまま起用して統治させるなど、ペルシャ帝国のシステムを生かした統治を行いました。自分本意ではなく相手本意で十分に思考された、最もスピーディで遺恨も残らない優れたやり方だったと言えます。

アケメネス朝ペルシャ最後の君主の母として、シシュガンビスも大いに安心したことでしょう。孫娘たちの結婚の翌年、紀元前323年にアレキサンダー大王は約10日間の高熱の後に亡くなりました。その死を聞いたシュシュガンビスは絶望に打ちひしがれ、部屋に閉じこもって食事を拒否し、4日後に悲しみと飢餓によって亡くなったと言われています。

現代ではスターなどの有名人の後追い自殺、古くは君主を追って臣下が自ら死を選ぶことはありますが、圧倒的なカリスマ性があってのことでしょう。

ちなみに大王が亡くなった後、民衆に不安が広がってインフレが発生しています。記録が残る世界最古のインフレです。相場は思惑で動くもの、経済が心理で動くのは有名です。

優秀な側近はたくさんいたはずですが、民衆にとっても、誰が君主になっても同じではなかったということでしょう。大王は人間としても君主としても、真の意味で唯一無二の存在として君臨し、人々を強く魅了したのでしょう。

1-4-2-5. 純粋なマケドニア人ではなかったからこその柔軟な姿勢

差別意識がなくても、無意識に差別しているということはよくあることです。むしろ無意識である方が厄介だったりするのですが、意識ができていないので、論理として理解できていたとしても矯正のしようもありません。

アレキサンダー大王の場合、超絶頭脳を持っていたので倫理的に判断して柔軟にペルシャ文化や各地の文化を取り入れたのかと言えば、それもあるでしょうけれど、純粋なマケドニア人ではなかったことも大きいと感じます。

クレイトスを殺害するアレキクンダー大王、紀元前328年(アンドレ・カーステニャ 1898-1899年頃)

学生時代からの盟友だった騎兵親衛隊長クレイトスを酒の席で殺害してしまったきっかけは、征服したペルシャの統治の方向性と手法に関しての意見の齟齬がきっかけでした。

アレキサンダー大王はペルシャのペルシャの宮廷儀礼を導入したり、異民族との融和を押し進めようと本気でした。

しかしながらマケドニア貴族出身のクレイトスは、伝統的なマケドニアの風習を重んじるべきと考えており、大王の方針には反対でした。

大王を挑発し、激怒した大王に槍で刺されてしまったそうですが、異文化を馬鹿にする差別的な発言を無意識的にそこまで悪意無くしてしまったのかもしれません。

【ディアドコイ】アンティパトロス朝 初代マケドニア王カサンドロス(紀元前355年頃-紀元前297年)
©ArchaiOptix(27 November 2013)/Adapted/CC BY-SA 4.0

同じくミエザの学園で学友だったマケドニア貴族カサンドロスも、同様のエピソードがあります。

東方遠征の際、やってきた人々がアレキサンダー大王に現地流の跪拝礼をやっているのを見て、伝統的なマケドニアの風習で育てられたカサンドロスは腹を抱えて笑ったそうです。
この行いに激怒したアレキサンダー大王はカサンドロスの髪を掴み、頭を壁に打ち付けました。

この体験でアレキサンダー大王への強烈な恐怖が染み付いたカサンドロスは、大王の像の前を通る際はいつも身体が震え、目眩を覚えるようになったそうです。

これはしらふだったはずで、本気でキレたということでしょう。自分が侮辱されるのではなく、異文化を侮辱されることに本気で怒るほど大王は異文化を尊敬しており、それを侮辱するのもは絶対に許せなかったというわけです。

Jastrow permittedマケドニア王ピリッポス2世(紀元前382-紀元前336年)3世紀のニケテリオン(勝利記念メダル) エピロス王女オリュンピアス(紀元前375-紀元前316年)"Coin olympias mus theski" ©Fotogeniss(12 April 2013, 19:36:40)/Adapted/CC BY-SA 3.0

稀代の頭脳のみならず、アレキサンダー大王自身が純粋なマケドニア人ではなく、マケドニア人とエピロス人のハーフという生まれだったことも強く影響したに違いありません。

ピリッポス2世の結婚の宴席でマケドニア貴族らが集まる中、純粋なマケドニア人ではないことを理由に王の正当な後継者ではないと遠回しながら侮辱されたことすらありました。

『心』という観点からも、大王の頭脳は傑出して優れていたように感じます。頭の回転が良すぎる上に、共感力があり過ぎて手が出やすいということはあったかもしれませんが、こんなアレキサンダー大王だったからこそ、東西の文化を融合するヘレニズム文化を作り出せたと確信します。

側近の貴族たちは、生粋のマケドニア人として抵抗勢力となった人も多かったように想像します。改めて大王の凄さに恐れ入ります。

Giovanni Dall'Orto Permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)

ちなみにヨーロッパ貴族が物心つかない幼少期からスパルタ教育を受けることは以前ご紹介しましたが、アレキサンダー大王もアリストテレス以前から次期マケドニア王候補として、様々な教養を専門の家庭教師らから教育されています。

その教育長が、母オリュンピアスの親戚でエピロス人のレオニダスでした。

厳格なエピロス人教育長レオニダスの元、アレキサンダー王子は読み書き、乗馬や戦い、狩り、ライアの演奏などあらゆる貴族の教養を身につけていきました。

ライアを持つアポロン(古代ギリシャ 紀元前480-470年)デルフィ考古学博物館
"Greece-0895 - Wide-bowled Drinking Cup" ©Dennis Jarvis(October 5, 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0

ライアは太陽神アポロンを象徴する楽器ですし、古代ギリシャではスポーツだけでなく芸術も競技として競いました。

四大競技大祭もそうであったように、古代ギリシャのお祭りで開催される競技は人間たちの自己満足ではなく、神に捧げるための神聖なものでした。オリュンピア大祭とネメア大祭はゼウス、イストモス大祭はポセイドン、ピューティア大祭はアポロンでした。

音楽競技を描いたパナテナイア祭の黒絵式の賞品アンフォラの類似品(古代ギリシャ 紀元前500-紀元前485年頃)
"Greek - Black-figure Pseudo-Panathenaic Amphora - Walters 482107 - Side B " ©Walters Art Museum(00:48. 24 March 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0

アテナイで守護神アテナに捧げるために開催されるパナテナイア祭では、碑文によると一般的には次のようなプログラムでした。

1日目:音楽と叙事詩(ラプソディー)の競技
2日目:少年と若者のスポーツ競技
3日目:大人のスポーツ競技
4日目:馬術競技
5日目:部族間の競技
6日目:聖火リレーとアテナへ生贄を捧げる儀式
7日目:ボート競技
8日目:表彰と饗宴

音楽もアレキサンダー大王が身に付けるような、重要な教養の1つだったわけですね。

出自に加えてエピロス人の母や家庭教師の存在もあって、大王は排他主義にならず、多様性のある考え方が育まれて行ったのだと思います。

初代アケメネス朝ペルシャ君主 キュロス大王のものとされる墓(パサルガダエ)
"Pasargad Tomb Cyrus3" ©Bernd81(15 September 2017, 02:48:16)/Adapted/CC BY-SA 4.0

ちなみにアレキサンダー大王はインド遠征からペルシャに帰還する際、パサルガダエのキュロス大王の墓の警備員が墓を冒涜したことを知り、即刻処刑しました。

猪狩りをするキュロス大王(ヴェルサイユ宮殿の装飾の一部)
"Painting of Cyrus the Great in battle" ©User Coyau on Wikimedia Commons(25 Marchl 2011)/Adapted/CC BY 3.0

キュロス大王はアケメネス朝ペルシャの初代君主で、古代エジプトを除く全ての古代オリエント諸国を統一して大帝国を築いた偉大な王です。

アテナイの哲学者クセノポン(紀元前427年頃-紀元前355年頃) アケメネス朝ペルシャ初代君主 キュロス大王(紀元前600年頃-紀元前529年)

アレキサンダー大王は幼少期からクセノポン著『キュロスの教育』を読み、キュロス大王に尊敬と憧れの念を抱いていました。

クセノポンはアテナイの騎士階級出身の軍人、哲学者で、哲学者ソクラテスの友人であり弟子の一人でもありました。そのクセノポンの代表作が『キュロスの教育』です。全8巻で、アケメネス朝を興したキュロス大王の生涯を理想化し、クセノポン自身の政治哲学的見解も混えて著された作品です。世界の王となる人物に相応しい教育本ですね。

冒涜されたキュロス大王の墓所に立つアレキサンダー大王
(ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌ 1796年)

アレキサンダー大王は冒涜されたキュロス大王の墓の修理を、親友であり建築家・軍事技術者であるカサンドレアのアリストブルスに依頼しました。

同じヨーロッパ人でも、異文化に対して『冒涜する自由』を主張する現代の一部人種とはえらい違いですね。某国はトップとなる首相自身が『冒涜する自由』を支持しているため、国民全体としての意識の変化は望めないでしょう。

処刑は穏やかな方法とは言えませんが、大王自らがこれくらいやったからこそ東西の文化が『ヘレニズム文化』として花開くまでに根底から融合・昇華できたのでしょう。

ダニング=クルーガー効果という認知バイアス仮説が存在しますが、無知な人ほど相手を自分より下に見る傾向は確かにあると感じます。アレキサンダー大王は貴族の学友と比較しても比較にならぬほどの、圧倒的な知識と知性を持ち、自国のみならず異国に関する造詣も誰よりも深かったからこそ異文化を心から尊敬し、良い部分を柔軟に取り入れることができたのでしょう。

一国の王の器ではなく、まさに世界の王に相応しい器だったと感じます。

1-4-3. 馬の心も読んで行動できる人間力

前項で『心』と大王の幼少期の話題を出したので、ついでに愛馬ブケパロスのエピソードもご紹介しておきましょう。

?州を襲撃する呂布と赤兎馬(三国志演義)

三国志最強の武将、呂布に対して愛馬赤兎馬は非常に有名です。個人でも最強の呂布ですが、稀代の名馬とされ、一日に千里を駆ける赤兎馬と、騎馬による戦いも非常に得意とした呂布がセットでは誰も敵いません。恐れられ、その名を世に轟かせました。

「人中有呂布 馬中有赤兎」
人間最強の呂布、馬最強の赤兎馬。

カッコ良さもあって、代々語り継がれるほど有名な存在です。

ブケパロスに騎乗して敵の王と闘うアレキサンダー大王(1763-1765年)"Porcelana de Alejandro Magno (M.A/N. Inv.2004-74-1) 01" ©Luis Garcia(3 December 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

アレキサンダー大王は一介の武将ではなく統率者として高く評価されていること、他にもエピソードがあり過ぎて日本では赤兎馬ほど有名ではありませんが、ヨーロッパでブケパロスは非常に有名な名馬です。

ブケパロスのソリドゥス金貨(ヘレニズム、セレウコス1世時代 紀元前305-紀元前281年)
"Seleucos I Bucephalos coin" ©Uploadalt(2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

後の時代のコインや、様々な美術作品のモチーフにもなっています。

ブケパロスを諫めるアレキサンダー王子(アンドレ・カーステニャ 1898-1899年)

愛馬ブケパロスの出逢いはアレキサンダー王子が10歳、あるいは12〜13歳の時でした。

ブケパロスはマケドニア王ピリッポス2世に売るために商人が連れてきた、テッサリア最高の系統とされる馬でした。

しかしながら名馬ほどプライドも高く、人を選ぶものです。自分より下と判断した者はぜ〜ったいに乗せません。

近代オリンピックの花形競技『大賞典障害飛越競技』という乗馬種目で優勝した西竹一男爵の愛馬ウラヌスもそうでしたよね。

体格に秀でたヨーロッパ貴族や将校が乗りこなせない馬でした。

ブケパロスも乗りこなすことができれば良い馬であることは間違いないため、ピリッポス2世の側近や思い当たる剛の者たちがトライしたはずですが、誰も乗りこなすことができませんでした。

どんなに良い馬でも、誰も乗れなければ無用の長物です。ピリッポス2世は「要らない。」と商人に連れて帰らせようとしましたが、アレキサンダー王子がトライしてみたいと申し出ました。

誰も制御がきかない暴れ馬、10代前半の小さな体躯では大怪我どころか下手すれば死ぬ可能性すらあります。しかしながらアレキサンダー王子には確信がありました。

ブケパロスを諫めるアレキサンダー王子(イギリス 19世紀)
"Alexander & Bucephalus by John Steell ©Stefan Schafer, Lich(3 Hyne 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0

乗りこなせない様子を洞察したアレキサンダー王子は、ブケパロスが自身の影に怯えて興奮していることに気付きました。影が見えぬよう太陽の方を向かせ、ヒマティオンなども駆使してブケパロスの興奮を鎮め、落ち着かせてから騎乗することに成功しました。


ヒマティオンで身を包み座る大英雄アキレウス(古代ギリシャ 紀元前500年頃)

ヒマティオンはヘレニズム時代まで使用されていた衣服です。マントのように使用したり、工夫次第で様々な応用ができる便利な衣服です。大量消費時代の現代と違って、布が貴重だった時代らしい衣服ですね。

見事ブケパロスを乗りこなし、以降アレキサンダー王子の愛馬となりました。

現代人は暴れ馬の乗りこなしなんてやったことがない人が殆どでしょうから、その凄さを想像するのは難しいでしょう。しかし実感として分かる父王ピリッポス2世は息子の勇気と器量に感激し、涙を流して喜んだそうです。そして、「息子よ、お前はお前にとって相応しい大帝国を探さねばならないだろう。マケドニア王国はお前にとって小さ過ぎる。」と語りました。

アレキサンダー大王&ブケパロスを諫めるアレキサンダー王子の青銅コイン
(ローマ皇帝セウェルス・アレクサンデル治世下 222-234年)
"Alexandre et Bucephale" ©Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com/Adapted/CC BY-SA 3.0

学習によって身に付ける能力もありますが、持って生まれた圧倒的な才能が別次元だったのでしょうね。

まだ10代前半の少年であり、腕力で従わせようとしても到底無理です。冷静さと恐ろしいまでの洞察力、勇気、馬の心を理解しての制御。『北風と太陽』の話で言えば、太陽のやり方です。誰よりも頭は良かったですが、自分本意で人を動かそうと考えるのではなく、相手の心を思い遣って行動できる心優しい人物でもあったのでしょう。

アレキサンダー大王の戦歴

日付 種類 戦争 敵勢力 現在の国
紀元前338年8月2日 マケドニアの台頭 カイロネイアの戦い テーベ、アテナイ ギリシャ
紀元前335年 バルカン制圧 ハイモス山の戦い ゲタイ、トラキア ブルガリア
紀元前335年12月 ペリウム包囲戦 イリュリア アルバニア
紀元前335年12月 テーバイの戦い テーベ ギリシャ
紀元前334年5月 ペルシャ征服 グラニコス川の戦い アケメネス朝 トルコ
紀元前334年 ミレトス包囲戦 アケメネス朝、ミレー
紀元前334年 ハリカルナッソス包囲戦 アケメネス朝
紀元前333年11月5日 イッソスの戦い アケメネス朝
紀元前332年1〜7月 ティール包囲戦 アケメネス朝、タイリアン レバノン
紀元前332年10月 ガザ包囲戦 アケメネス朝 パレスチナ
紀元前331年10月1日 ガウガメラの戦い アケメネス朝 イラク
紀元前331年12月 ウクシオンの戦い ウクシオン イラン
紀元前330年1月20日 ペルシス門の戦い アケメネス朝
紀元前329年 キュロポリス包囲戦 ソグディアン トルクメニスタン
紀元前329年10月 ヤクサルテス川の戦い スキタイ ウズベキスタン
紀元前327年 ソグディアナ攻防戦 ソグディアナ
紀元前327年5月
〜紀元前326年3月
インド征服 コフェン戦争 アスパシア アフガニスタン
&パキスタン
紀元前326年4月 アオルノス包囲戦 アシュヴァカ パキスタン
紀元前326年5月 ヒュダスペス河畔の戦い ポロス
紀元前326年11月
〜紀元前325年2月
ムルタン包囲戦 マリ

ブケパロスは長い戦いを共にしました。最期はインド侵攻時、ポロス王と戦ったヒュダスペス河畔の戦いで戦死しています。アレキサンダー大王が30歳の頃です。愛馬が戦死するほどの過酷な戦いだったということで、やはりアレキサンダー大王の戦い方は凄いですね。

ポイティンガー図に記された4世紀頃のアレキサンドリア・ブケパロス

この戦いでも勝利したアレキサンダー大王は愛馬ブケパロスを丁寧に埋葬し、その地に築いた都市をアレクサンドリア・ブケパロスと名付けました。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

アレキサンダー大王の人間らしさ、心の豊かさが伝わってきますね。

頭が良すぎて人間らしい心が置いてけぼりになっている超絶天才の話は創作も含めてよく聞きますが、誰よりも熱く、誰よりも優しい人物だったように思えます。

サヴァン症候群タイプは別として、真に頭が良い天才とは本来こういう人ではないかと感じます。サヴァン症候群タイプの方が目立ち、「天才は理解できないもの。」として納得しやすいので、一般のイメージとしては"天才=変人"となっているのだろうと想像しています。個人的な所感です。

1-5. 魂を分かつ特別な友人の存在

「まだあるの?!」と思われそうですが、もう1つ、大王について語っておくべき重要な人物の存在があります。

ペルシャ君主ダレイオス3世の母シシュガンビスが大王本人と間違えた、友人ヘファイスティオンについてです。

1-5-1. もう一人のアレキサンダー大王

Neilwiththedeal permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)&ヘファスティオン(紀元前356-紀元前324年)

アレキサンダー大王にはまだ王子だった10代の多感な時期を共に過ごし、アリストテレスの教えを授かった多くの優秀な学友たちがいました。東方遠征の際はそれぞれが側近の護衛であったり、将軍などとして活躍して大王を支えました。

優秀な者がたくさんいる中、ヘファスティオンはアレキサンダー大王にとって別格の特別な存在でした。理由は当事者たちでなければ分からぬことでしょう。考えても意味はないと思います。

ただ、アレキサンダー大王はヘファスティオンが魂の片割れ、つまりもう一人の自分だと思っていました。

【ヨーロッパ最大の哲学者】アリストテレス(紀元前384-紀元前322年)

現代は"魂の存在"はイロモノ扱いされる傾向にあり、魂など存在せぬと断言する科学者vs.オカルティストの対決という構図が作られることもあります。

しかしながら魂の存在は未だ証明されていない一方で、存在しないことも未証明です。

アリストテレスの時代は、当時の最高の頭脳を持つ科学者(哲学者)たちにとって重要な研究対象でもありました。

アリストテレスは教え子たちに『友情』について、1つの魂が2つの身体に宿った状態であると説明しました。

アレキサンダー大王を前にするダレイオス3世の家族(シャルル・ル・ブラン 1661年)

アレキサンダー王子はヘファスティオンとの関係もそうであると確信しました。

この前段を知らないと、間違えたシシュガンビスに「この男もアレキサンダーですから。」と笑って許した言動が意味不明に感じられますが、本気でもう1人の自分であると認識していたならば至極納得がいく話ですね。

ヘファイスティオンは外見が瓜二つだったわけではなく、見た目や武勇に優れてはいたものの、他の側近らと比べれば傑出してはいなかったとされます。しかしながら大王は共に育ち、全ての秘密を共有する特別な存在として扱いました。最終的にはヘファスティオンをマケドニア連合軍のナンバー2、副総司令に任命しています。

1-5-2. 御先祖の大英雄アキレウスと重ねた姿


親友パトロクロスに包帯を巻く大英雄アキレウス(古代ギリシャ 紀元前500年頃)

アレキサンダー大王はヘファイスティオンとの関係を、先祖であり大英雄のアキレウスとその親友パトロクロスに重ねていました。

2人ともホメロスの叙情詩『イーリアス』の登場人物です。パトロクロスはアキレウスと共に、アキレウスの父ペレウスの元で育ちました。大きくなってからも唯一無二の親友としてトロイア戦争で共に戦っています。

アレキサンダー大王はアリストテレスから『イーリアス』を詳しく学び、祖先アキレウスへの情熱を育みました。アリストテレスは注釈付きの『イーリアス』を渡し、大王はそれを東方遠征にも持って行くほどでした。

Marie-Lan Nguyen permittedアテナイ黄金時代のギリシャ悲劇作家エウリピデス(紀元前420年頃-紀元前406年頃)

大王自身は相当な記憶力があったようで、アテナイの三代悲劇詩人エウリピデスの作品を記憶から引用できるほどだったそうです。

完全な状態で現存するのは20作弱ですが、90作以上を作ったとされています。

ギリシャ悲劇は8時間連続で上演されるほど長大です。これを暗記できるなんて相当です。

天才中の天才ノイマンも子供の頃に電話帳を1冊完全に記憶したことがあるそうですが、天才の必要条件として『記憶力』は必須と言えそうですね。十分条件ではありません。

以前、速読に興味を持って調べたことがありますが、記載された文字群を精密に記憶するだけで、理解はまた別なのだそうです。

『イーリアス』に書かれたアリストテレスの注釈は、大王にとって金言となる様々なことが書かれていたのでしょう。優れた書籍や映画は何度読んだり観たりしても、新しい気付きがあるものです。経験を通して自身のレベルが上がることで、以前は見えなかったものに気付くようになります。

遠く離れていても、優れた師は謙虚で優秀な教え子を助け続けたのでしょうね。

Bibi Saint-Pol permitted
家庭教師フェニックスに葡萄酒を注ぐアキレウスの妻ブリセイス(古代ギリシャ 紀元前490年頃)

アリストテレス以前に、教育長としてエピロス人レオニダスがいたことを先にご紹介しました。2番目としてアカルナニアのリュシマコスという家庭教師がいました。

大した実績のない人物でしたが、太鼓持ちとしては有能だったようです。自身をフェニックス、アレキサンダー王子をアキレウス、父王ピリッポス2世をペレウスと呼んで王室に取り入り、家庭教師として2番目の地位を得ていたようです。

フェニックスはアキレウスの家庭教師で、ペレウスはアキレウスの父でプティア王でした。そこに唯一無二の親友、パトロクロスの代わりとなるヘファイスティオンがいてとなれば、大英雄アキレウスとしてのアレキサンダー王子にとっては完璧な状態ですね。

マケドニア王アミュンタス3世(?-紀元前370年)アレキサンダー大王の祖父
"Coin of Amyntas III-11113" ©aMatia.gr(7 December 2005)/Adapted/CC BY-SA 2.0

アレキサンダー大王は大英雄ヘラクレスと大英雄アキレウスの双方の血を継ぎますが、代々ヘラクレスの系統だったマケドニア王にはない、アキレウスの血を継ぐ特別な者としてアイデンティティーを育んでいったのです。

パトロクロスの死を嘆くアキレウス(ジョン・フラクスマン 1795年)

東方遠征の際はわざわざトロイへ立ち寄り、アレキサンダー大王は大英雄アキレウス、ヘファイスティオンはパトロクロスの墓所にそれぞれ花冠を献花したそうです。

『アレキサンダー大王とポロス王』(シャルル・ル・ブラン 1673年)
ヒュダスペス河畔の戦いで大王と共に戦うヘファイスティオン

愛馬ブケパロスが戦死した『ヒュダスペス河畔の戦い』ではヘファイスティオンも腕を槍で貫かれるという重傷を負いましたが、マケドニア連合軍は勝利を勝ち取りました。

1-5-3. ヘファイスティオンの死の影響

アレキサンダー大王の戦歴

日付 種類 戦争 敵勢力 現在の国
紀元前338年8月2日 マケドニアの台頭 カイロネイアの戦い テーベ、アテナイ ギリシャ
紀元前335年 バルカン制圧 ハイモス山の戦い ゲタイ、トラキア ブルガリア
紀元前335年12月 ペリウム包囲戦 イリュリア アルバニア
紀元前335年12月 テーバイの戦い テーベ ギリシャ
紀元前334年5月 ペルシャ征服 グラニコス川の戦い アケメネス朝 トルコ
紀元前334年 ミレトス包囲戦 アケメネス朝、ミレー
紀元前334年 ハリカルナッソス包囲戦 アケメネス朝
紀元前333年11月5日 イッソスの戦い アケメネス朝
紀元前332年1〜7月 ティール包囲戦 アケメネス朝、タイリアン レバノン
紀元前332年10月 ガザ包囲戦 アケメネス朝 パレスチナ
紀元前331年10月1日 ガウガメラの戦い アケメネス朝 イラク
紀元前331年12月 ウクシオンの戦い ウクシオン イラン
紀元前330年1月20日 ペルシス門の戦い アケメネス朝
紀元前329年 キュロポリス包囲戦 ソグディアン トルクメニスタン
紀元前329年10月 ヤクサルテス川の戦い スキタイ ウズベキスタン
紀元前327年 ソグディアナ攻防戦 ソグディアナ
紀元前327年5月
〜紀元前326年3月
インド征服 コフェン戦争 アスパシア アフガニスタン
&パキスタン
紀元前326年4月 アオルノス包囲戦 アシュヴァカ パキスタン
紀元前326年5月 ヒュダスペス河畔の戦い ポロス
紀元前326年11月
〜紀元前325年2月
ムルタン包囲戦 マリ

紀元前324年春には合同結婚式を挙げ、ペルシャ王室の王女姉妹を娶ったことで義理の兄弟にもなりました。インド征服も順調に進み、ますます大きな幸せの実現に向けて大いなる夢を抱いていたであろうアレキサンダー大王とヘファイスティオン・・。

しかし結婚式からたった4ヶ月後、ヘファイスティオンはエクバタナで突如旅立ってしまいました。高熱が7日間続いた後の死でした。アレキサンダー大王は危急を聞いて駆けつけましたが、間に合わなかったそうです。ヘファイスティオンの子供達の伯父さんになりたいと語っていたアレキサンダー大王の夢は叶いませんでした。

大王の悲しみは深く、3日間食事をとらず、身嗜みにも一切気を使うことなく、ただひたすら嘆き悲しみ続けました。

古代ギリシャの英雄&医学の神アスクレピオス
"Asklepios - Epidauros" ©Michael F. Mehnert(11 September 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

勇猛果敢に戦い英雄らしい立派な死を遂げた、或いは十分と思える年齢に達していたならまだしも、32歳頃の屈強な男性の突然死は想像もせず受け入れがたいものです。

なぜ助からなかったのか、どうにかできなかったのか、魂の片割れの突然死にアレキサンダー大王は様々なことを考えたでしょう。

この世には神も仏もいないのか?!!

まさにそう憤った大王は、エクバタナのアスクレピオスの神殿を灰塵に帰すよう命じました。古代ギリシャで信仰されていた医学の神です。

さらに1万タラントン、あるいは1万2千タラントンという莫大な費用を用いて、バビロンにて壮大な葬儀を行いました。現代の貨幣価値で約2億ドル(日本円で約250億円)、あるいは2億4千万ドル(約300億円)に相当する額です。

バビロンへの帰還の際、ヘファイスティオンの遺体を乗せた葬儀用の馬車はその友人ペルディッカスが運転しましたが、一部の道はアレキサンダー大王自身が運転したりもしたそうです。

葬儀や墓の製作など諸々を含め、大王は1万人以上の才能を費やすよう計画しました。

『フランソワの壺』(古代エトルリアの墳墓から出土 紀元前570-紀元前560年頃)
上から2段目:パトロクロスの葬礼競技で戦車競争するディオメデスとオデュッセウス
"Kleitias e vasaio ergotimos, cratere françois, 570 ac ca. giochi funebri per patroclo 01 " ©Sailko(20 March 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0

大英雄アキレウスが主催したパトクロスの葬儀を倣い、3千人もの競技者が参加した葬礼競技も開催されました。文学から陸上競技にまで多岐に渡る壮大なもので、費用と参加者数の両方で過去最高の葬礼競技だったそうです。

火葬場は60mもの高さがある壮大なものだったそうです。日本では60m以上の高さがあると『超高層建築』とされ、1階あたりが3mと換算すると20階建ビルに相当します。

1段目は黄金の船首で装飾された240隻の船を配し、赤い旗を持つ兵士たちの彫像が飾られました。
2段目は松明がデザインされました。土台は蛇で、中央に黄金の花輪があしらわれ、一番上には鷲に囲まれた炎が配置されました。
3段目は狩猟のシーン、4段目はケンタウロスの戦いのシーン、5段目はライオンと雄牛が全て黄金でデザインされました。
6段目はマケドニア王国とペルシャ帝国の紋章でした。

セイレーン(古代ギリシャ 紀元前330年頃)
"137-Sirene-vers--330" ©Codex(2 October 2012, 20:25:27)/Adapted/CC BY-SA 3.0

頂上となる7段目には、魅惑の歌声を持つ海の妖精セイレーンの彫像が配置されました。

嘆きの歌を歌う聖歌隊が中に入れる構造だったそうです。

丸ごと焼かれたのか、恒久的な記念碑として作られたのかは分からないそうです。

葬式の日、神殿の神聖な炎を消すように命ぜられました。通常、これは王様が崩御した際にしか行われぬことでした。

300億円規模のお葬式なんて、私のような庶民には一体何にお金を使えばそうなるのか想像も付きませんが、なるほどこうすればそれだけのお金はかかりそうですね。

アレキサンダー大王は帝国内に服喪期間を命じてもいます。全ての馬の鬣(タテガミ)と尾が短く刈られ、近隣の都市の胸壁が壊され、全ての音楽の演奏が禁止されました。

また、ヘファイスティオンが率いていたヘタイロイの連隊に、新しい指揮官も任命しませんでした。いつまでも『ヘファイスティオン隊』として名が残ることを望んだためです。

大切な人の記憶を、新しい記憶で塗り潰したくない・・。

ヴィクトリア女王とアルバート王配(1861年)

ところで、エドワード7世の父アルバート王配は過労が祟った形で42歳で突然死しました。

ヘファイスティオン同様、直接の原因は腸チフスだったとみられています。

アルバート王配も体調を崩した際に、侍従医は特に気になる症状はないとし、それを全面的に信頼したヴィクトリア女王が、首相パーマストン子爵の「他の医者にも診せるべきです。」との助言を拒否したことが切ないです。

女王には相当な後悔が残ったことでしょう。

イギリス王エドワード7世(1841-1910年)王太子時代

アルバート王配が体調を悪化させた直接の原因は1861年の11月22日に豪雨の中、サンドハースト王立陸軍士官学校の新校舎竣工式に出席したことでした。

しかしながら同11月、無理を押して"ダメ息子"のエドワード7世を説教しにケンブリッジ大学まで行っており、やるせない気持ちを処理できないヴィクトリア女王は"ダメ息子"のせいでアルバート王配が亡くなったのだと責任を押し付けました。

否定され続けて育ったエドワード7世は、生来の優しい性格もあって気に続けました。エドワード7世にとっては毒親すぎて可哀想です。

エドワード7世の長男アルバート・ヴィクター王子(1864-1892年)

自己肯定感が育ちようもなく、自身の長男アルバート・ヴィクター王子が1892年に28歳でインフルエンザと肺炎で亡くなった際は、ヴィクトリア女王への手紙で「自分の命に何も見出せない私としては、喜んで息子の身代わりになりたかったです。」と書いたそうです。

こういう人は自殺率も高い印象がありますが、プリンス・オブ・ウェールズとして全ての国民に責任ある立場だったからこそ、自殺の選択肢はなかったのだとも感じます。

後の時代には私欲のために全てをほっぽり出した無責任な王様(エドワード8世)もいましたが、エドワード7世は間違いなく生真面目すぎる両親の性質を受け継いだのでしょう。

イギリス王エドワード7世(1841-1910年)61歳頃

イギリス王となったエドワード7世も、父同様に過労死のように亡くなっています。

英国王室
息子
アルバート王配(1819-1861年)1852年、33歳頃
【出典】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020
プリンス・オブ・ウェールズ時代のエドワード7世(1876年)、35歳頃
【出典】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020

そんなエドワード7世はヴィクトリア女王が崩御し、イギリス王として即位する際の名前も父に配慮しました。

エドワード7世の名前は『アルバート・エドワード』だったため、通常ならばイギリス王アルバートとなるはずでした。しかしながら「アルバートと言えば父を思い出すようにしたかった。」という理由で、王名をエドワード7世としたそうです。テューダー朝のエドワード6世から、実に350年ぶりのエドワード王でした。

子を愛さない親はいても、親を愛さない子供はいないと言います。ヴィクトリア女王夫妻の場合は愛していなかったのではなく、愛し方に問題があったように感じますが、自己肯定感なく育ってしまっても父であるアルバート王配へのエドワード7世の深い愛と優しい心遣いが伝わってきます。

悲しみに囚われていつまでも前に進めなくなるもの問題ですが、亡くなった人の記憶が薄れ行き、やがて消え去るのを目の当たりにするのは悲しいものです。『ヘファイスティオン隊』も、アレキサンダー大王の深い愛と悲しみの現れですね。テクノロジーや文化は進化・変容を重ねても、人の心はいつの時代も変わらぬ普遍性がありますね。

シワ・オアシスのアモン・ゼウス神殿でアレキサンダー大王はアモン・ゼウスの子であると御神託を受けるアレキサンダー大王

失った愛する人のために直接的にできることはもう無くても、とにかく何でもやりたいものです。

アレキサンダー大王はシワ・オアシスに伝令官を送り、ヘファイスティオンを神として祀って良いかアモン・ゼウスにお伺いを立てました。

神ではなく、神の英雄としてならば許されるであろうとの御神託を賜り、アレキサンダー大王は喜んだそうです。

しかし神社などを作っても、壮大な葬儀をあげても、ヴィクトリア女王のように20年近くも周りの人にまで喪に服すことを強制したりしても、失った人は戻ってきません。

アルバート記念碑のアルバート黄金像(1872年)
"Close-up of Albert Memorial" ©User:Geographer(10 November 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ヴィクトリア女王も思い出の詰まったバルモラル城のアルバート王配の個室は一切の変更を許されず、使用人は毎日新しい服の交換や髭剃り用のお湯の準備を命じるなどして霊廟化したり、金ピカのアルバート像を作らせたりしました。

ウィンザー城でヴィクトリア女王が降霊会を行っていたという噂もありました。

それほどしても、一生悲しみが消えることはありませんでした。40年ほどの残りの人生を喪服で過ごし、二度と煌びやかなファッションで身を包むことはなかったそうです。

Neilwiththedeal permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)&ヘファスティオン(紀元前356-紀元前324年)

何をやっても気休めです。頭が良すぎるが故に、それは一番アレキサンダー大王自身が分かっていたことでしょう。

1つの魂を2つの肉体に宿した感覚・・。

これは、そのような存在に出逢ったことがある人にしか分からぬ感覚だと想像します。その片割れ、もう一人の自分を失ってしまうというのは一体どういう感覚でしょう。

アレキサンダー大王は耐えられませんでした。ヘファイスティオンを失った後、大王の精神状態は健康ではなくなっていったそうです。病気か毒殺か、これまたはっきりとは分かっていませんが、ヘファイスティオンを失った僅か8ヶ月後、32歳のアレキサンダー大王は約10日間に渡る高熱の後、友人の元へ旅立ちました。

あまりにもドラマチックで、伝説的な一生だったと言えるでしょう。

2. 各地で伝説となり王侯貴族の最大の憧れとなった大王

2-1. 大王に憧れた歴代の英雄たち

2-1-1. 伝説となったアレキサンダー大王

一般人ならば亡くなった後、年月が経てばその存在は忘れ去られます。直接関わった人々が死に絶えれば、人類の記憶から完全に消え去ります。

アレキサンダー大王ほどの存在だと、むしろ伝説の英雄と化し、尾ひれはひれすら付いて後世に伝わります。

英雄アキレウスに憧れたアレキサンダー大王ですが、その大王自身がアキレウスのように伝説化したと言われています。

アレキサンダー・ロマンスの一部(アルメニア 14世紀)

伝説化は生前から始まっていました。

凄い人そうに箔付けしておいた方が、何かと便利だったりします。

現代でも肩書きや権威、ブランドなどで箔付けしておいた方が大衆が思考停止で信用してくれるので、一般的に普及している手ですね。

アレキサンダー王子はゼウスの子である、アモンの子と御神託を受けた、或いは様々な凄いストーリーを作って箔付けしたりしていました。

噂は尾ひれはひれを付け、本人が想定した以上に大きくなっていくものです。

大王が亡くなった後もそれは続き、『アレキサンダー・ロマンス』という1つのジャンルを形成するほどに大人気となり、定番化しました。

『シャー・ナーメ(王書)』喋る果実のなる木に辿りついたイスカンダル/アレキサンダー大王(イルハン朝 1330-1340年頃)

4世紀から16世紀までの間に中世ヨーロッパの主要言語のみならず、殆どの地方言語にまで翻訳され、様々な文化に取り入れられたり、派生していきました。

ペルシャ語やアラビア語では、アレキサンダー大王の名はイスカンダルと呼ばれています。

Aliskandar(アリスカンダル)の語頭のAlが定冠詞と勘違いされ、さらにkとsが入れ替わってしまう現象(音位転換)が起きたことでイスカンダルとなったそうです。

アレキサンダー・ロマンスでは喋る人面果実が登場したりもしますが、ここまで来ると、少なくとも殆どの大人は実際の話だったとは思わないですね。御伽噺として楽しく読む、娯楽本の位置付けです。

Jon Bodsworth permitted太陽神アメン・ラー(紀元前690-紀元前664年頃)アシュモレアン博物館 タハルカ王を守護するアメン(紀元前683年頃)大英博物館

正当なファラオとして、雄羊の頭を持つとされるアメンの息子を名乗ったことから、アレキサンダー大王は双角を持つとされることすらありました。

チャック・ノリス(1940年-)1976年、36歳頃
"Chuck Norris (1976)" ©photo by Alan Light(1976)/Adapted/CC BY 2.0

比類なき強さを誇り、そのカリスマ性で熱狂的なファンを得ると、愛が強すぎてファン自身が伝説を創造する現象は現代にも存在します。

空手家でアクション俳優として世界的にも有名なチャック・ノリスも、『チャック・ノリス・ファクト』が創作されています。

「チャック・ノリスは腕立て伏せをする時、自分の身体を押し下げるのではない。地球を押し下げるのだ。」、「宇宙が膨張しているのはチャック・ノリスから逃れようとしているから。」というものもあれば、

「チャック・ノリスは一輪車でウィリー走行ができる。」、「チャック・ノリスはピアノでバイオリンが弾ける。」などの滅茶苦茶なものまであります。

2005年頃にインターネット上で発生し、瞬く間に人気が爆発し、現在では100万種類以上あると言われています。

その人気は世界レベルです。

この他、毎週のように強盗被害に遭っていたクロアチアの高級パン屋が、チャック・ノリスの等身大ポスターに「当店はチャック・ノリスが守っています」と書いて貼り出したところ、強盗がピタリと止んだそうです。まるで神様の姿を描いた、悪霊や厄災避けのお札ですね。チャック・ノリスもご利益アリです(笑)

これはジョーク化され過ぎですが、これと同じようにアレキサンダー大王の伝説も次第に一人歩きして壮大になっていったのです。なかなか興味深いですね。そう考えると、アレキサンダー大王の御先祖様であるヘラクレスやアキレウスも、人間離れしたエピソードはあるものの実在した人物だったのかもと思えますね。

アレキサンダー大王は文字文化や書物の歴史に於いて、実在が証明できる、ちょうど転換期の人物だったと言えるのかもしれません。

2-1-2. 高貴な人物にとってのアレキサンダー大王

子供や庶民の憧れの英雄としての、御伽噺的なアレキサンダー・ロマンスとは別に、具体的な人物としても高い人気があったのがアレキサンダー大王です。憧れるのは専ら高貴な身分の男性です。

世界征服を成し遂げ、ヘレニズム文化を作るほどのアレキサンダー大王の功績は軍師や司令官、統治者としてあらゆる面から参考になりました。高貴な身分の人たちの中でも特に身分の高い君主クラスであったり、君主の地位に野心を抱いていたりするような、トップの地位を想定する人たちが強く憧れる対象でした。

アレキサンダー大王に憧れた君主クラスの男性たち
カルタゴの将軍
-ローマ史上最強の敵-
オスマン帝国第7代皇帝
-東ローマ帝国を滅した征服王-
フランス皇帝
-大帝国を築く野心に燃えた皇帝-
Jastrow perittedハンニバル・バルカ(紀元前247年-紀元前183/紀元前182年) メフメト2世(1432-1481年) ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)

一国のトップとなるような人物は、視点もワールドワイドです。国籍や民族などの枠に縛られるようでは、複数の国や民族を統治することなんてできません。ただ"人"として優れているか否かを見る。時間すらも超越します。現代(当時)に最良のロールモデルがいるとは限りません。むしろ、唯一無二性の高い人物となればなるほど、時間枠にも捕われずに見ていく必要があります。戦術やテクノロジー的なことなど、時代や環境に合わない些事は今(当時)に合わせて応用すれば済むことです。

アレキサンダー大王は魅力が大きい上に多岐に渡るため、十分に理解するのが難しい人物です。やはり歴史的に見ても、相当な人物たちにとっての憧れの対象となってきました。

ローマ史上最強の敵として現代でもその戦術が各国の軍事組織から研究対象となっているカルタゴの将軍ハンニバル、東ローマ帝国を滅してオスマン帝国を大幅に拡大した征服王メフメト2世、フランス皇帝ナポレオンなど、まさに自分と重ねてアレキサンダー大王を見ることができるクラスの人たちです。高貴な身分に生まれ、古今東西の英雄たちを知る教養溢れる彼らが、その中でもナンバーワンとみなしたのがアレキサンダー大王でした。

実際に経験してみなければ、真に理解できないことは多いです。簡単そうに見えたけど実は難しかった、想像していたよりやらなければならないことは多かったなど、見るのとやるのでは大違いということはよくあることです。歴代の名だたる人物たちがナンバーワンとみなし憧れるなんて、アレキサンダー大王は征服者・統治者として物凄かったのでしょうね。

ちなみに征服王メフメト2世はアレキサンダー大王とアキレウスの両方に憧れたそうです。

2-2. インタリオが制作された時代のアレキサンダー大王

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

このインタリオは紀元前2世紀から紀元前1世紀頃の、ヘレニズム時代に作られました。

いつの時代にも憧れの対象となったアレキサンダー大王ですが、この時代はどういう人たちが憧れていたのか、宝物をオーダー主の人物像を探るために少し具体的に見てみましょう。

2-2-1. アレキサンダー大王崩御後の古代ギリシャ

ディアドコイ戦争イプソスの戦いの後の勢力図(紀元前301年)
"Diadochen1" ©Captain_Blood(6 March 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

知性や武芸に秀でた者は一定数いても、カリスマ性を持つ者は滅多に存在しません。努力して身に付くものでもありません。大帝国はアレキサンダー大王のカリスマ性と知性あっての存在でした。

代わりができる者はいるはずもなく、大王の死後は配下の将軍たちが後継者の座を争ってディアドコイ戦争が起き、帝国は早々に分裂してしまいました。最終的にはプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、アンティゴノス朝マケドニアのヘレニズム三国に収束しました。

紀元前301年のこの地図で、イタリア半島に存在するのが共和政ローマです。ヘレニズム三国もローマに取り込まれる形で、紀元前のうちに滅亡しました。紀元前168年にアンティゴノス朝マケドニア、紀元前63年にセレウコス朝シリア、紀元前30年にプトレマイオス朝エジプトが滅亡しています。

2-2-2. アレキサンダー大王のご利益とお墓

『アレキサンダー大王との別れ(紀元前323年)』(カール・フォン・ピロティ 1886年)

アレキサンダー大王の遺体は蜂蜜で満たされた黄金のアンスロポイド(貴人用の人型の棺)に入れられ、さらに黄金の棺に入れられました。

預言者アリスタンダーは、アレキサンダー大王の遺体が眠る土地は永遠に幸福に満ち、誰からも侵略されることがないだろうと予言しました。

生前のアレキサンダー大王を知るディアドコイらが予言をどれくらい信じたかは不明ですが、先王の埋葬は次期王の大役の1つであり、後継者としての正統性の証でもありました。故に、誰もが遺体を欲しがるわけです。

アレキサンダー大王の葬列(紀元前323年)(作者不明 19世紀中期)

アレキサンダー大王の葬列がマケドニアに向かう途中、プトレマイオス1世が棺を押収して一時的にメンフィスに運びました。

プトレマイオス朝のアレキサンドリア:7. アレキサンダー大王の墓とみられる位置
"Ptlemaic Alexandria Map - en" ©Limpzen, Redx360(23 February 2022)/Adapted/CC BY-SA 4.0

それを息子プトレマイオス2世がアレキサンドリアに移設し、少なくとも古代末期まで存在しました。

プトレマイオス朝の最後の後継者の一人 プトレマイオス9世(?-紀元前81年)
"PtolemyIX-StatueHead MuseumOfFineArtsBoston" ©Keith Schengili-Roberts(25 March 2007)/Adapted/CC BY 2.5

ただ、プトレマイオス朝も末期はお金に困ったようで、プトレマイオス9世がアレキサンダー大王の黄金の棺を金貨にするために、ガラス製に交換してしまったそうです。

けしからんと言うか、バチは当たらなかったんでしょうかね。

2-2-3. アレキサンダー大王に憧れた古代ローマの権力者

Giovanni Dall'Orto Permittedアレキサンダー大王(紀元前356-紀元前323年)

伝説の英雄と化したアレキサンダー大王は古代ローマ人の権力者たちにとっても憧れの存在で、自分も大王のようになりたいと思われるような存在でした。

歴代のローマ人指導者たちはアレキサンダー大王をロールモデルとして学び、お墓参りなどもしています。

共和政ローマの軍人・政治家 ポンペイウス
グエナエウス・ポンペイウス(紀元前106-紀元前48年) Pompeius Kopenhagen-contrast" ©Michel Manseur(9 June 2021)/Adapted/CC BY-SA 4.0 アレキサンダー大王の大メダル:直径5.34cm(古代ローマ 215-243年頃) "Roman - Medallion with Alexander the Gerat - Walters 591 - Obverse" ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0

第一回三頭政治を行った共和政ローマの軍人・政治家、ポンペイウスも小さい頃からアレキサンダー大王に憧れを抱いた一人です。髪型も真似しています。

センターで分けるこの髪型は『アナトール』と呼ばれ、アレキサンダー大王がやっていたヘアスタイルとしてローマ時代にも人気があったそうです。憧れの対象として、ファッションリーダーとしても機能していたわけですね。古代ギリシャはヨーロッパの美術・文化の原点と言われていますが、この頃から既に君主がファッションリーダーとして新しい流行や文化を作る役割も保持していたのです。

英雄ヘラクレスのエンシェント・ジュエリー
ヘラクレスの古代ギリシャ(クラシック期)のエレクトラム・インタリオ・リング『英雄ヘラクレス』
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ポンペイウスはアレキサンドリアのアレキサンダー大王のお墓参りにも行っています。

また、アレキサンダー大王が征服した東の土地で、アレキサンダー大王のものだったとされる260年ほども前のマントを探し出し、偉大さの象徴として使っていたそうです。

憧れの人に関するものを持っていたい、身に付けたいと思うのは今も昔も同じですね。

18世紀のアンティークジュエリー
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ブルー・ギロッシュエナメル ペンダント
フランス? 18世紀後期(1780〜1800年頃)
¥1,400,000-(税込10%)

それにしても、260年ほども前だとアンティークでもかなり古い部類です。現代を基準に見るならば、18世紀の代物と言えます。

アンティークジュエリーもヴィクトリアンと比較すると、ジョージアンは格段に数が少なくなります。また、ジョージアンでも19世紀初期と比べて18世紀まで遡ると桁違いに現存数が少なくなり、市場でも滅多に見る機会はありません。

かなり古いと言えますが、財産性を持ち、代々受け継がれていくことを想定して作られている古のハイジュエリーは、適切な使い方さえ心がけていれば半永久的に使うことができます。

アンティークジュエリー&アンティーク着物美術館アンティークジュエリー&アンティーク着物ミュージアム

しかしながら布はそうはいきません。

私がアンティークジュエリー&アンティーク着物ミュージアムでご紹介している着物は大正から昭和初期のもので、1910年代から1930年代くらいのものです。アンティークジュエリーの感覚で見ると、かなり新しいですね。

この年代だと着用に問題はありませんが、江戸や明治期まで遡ると、コンディション的に着用は困難です。

1835年のインディアンの毛織物インディアンの毛織物(アメリカ 1835年)HERITAGEコレクション

実はジョージアンの時代に相当する、1835年のアメリカ製の毛織物がHERITAGEにあります。Genが48年ほど前に結婚のお祝いとして、アメリカ人の親友ハイネケンからもらったものです。これで187年前ですね(2022年現在)。

使えなくはありませんが、一部が痛んでいます。布は貴重だったので、昔はつぎはぎして最後まで使い切っていましたし、動物性でなく麻や綿などの植物性の繊維の布だったらもっと寿命が長くて、260年ほど前のものでも問題なく使えたかもしれません。

グエナエウス・ポンペイウス(紀元前106-紀元前48年) "Pompeius Kopenhagen-contrast" ©Michel Manseur(9 June 2021)/Adapted/CC BY-SA 4.0

アンティーク・ディーラーは古代から存在しており、このように高貴な人物もアンティークの逸品を宝物として使用していました。

今の私たちと同じですね。

持ち主に想いを馳せて、より良く、心豊かに生きる。

アンティークの貴重な逸品は入手も困難ですから、当時からステータス・アイテムでもあったでしょう。

古代ローマ最大の野心家ガイウス・ユリウス・カエサル
PDガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100-紀元前44年)

ポンペイウスと共に第一回三頭政治の一頭を務め、内戦を経て永久独裁官となった古代ローマ最大の野心家、ガイウス・ユリウス・カエサルもアレキサンダー大王のお墓を訪れています。

ただ、カエサルの場合、アレキサンダー大王は憧れの対象と言うよりも嫉妬の対象だったようです。

紀元前69年にヒスパニアでアレキサンダー大王の像に対峙した際、自分の年齢(当時31歳頃)の頃にはアレキサンダー大王は既に世界を手に入れていたことに気づいたのです。ちょっとイラッとしたらしいです(笑)

嫉妬故か、古代ギリシャの偉大な彫刻家リュシッポスが制作した騎乗のアレキサンダー大王像の頭を自分の頭に挿げ替えてしまったそうです。

政敵でもあったポンペイウスが、少年時代から憧れだったアレキサンダー大王(Alexander the Great)を目指し(new Alexander)、マグヌス(「偉大な」の意)と称されていたこともあるかもしれません。ちなみに英語圏ではアレキサンダー大王のように、ポンペイウスもPompey the Greatとしても知られています。

カエサルは政務官・文筆家だったので、アレキサンダー大王とは元々の毛色が違っていたこともあるかもしれません。憧れるにせよ、嫉妬するにせよ、古代ギリシャのアレキサンダー大王は、当時の古代ローマの権力者たちが強烈に意識する存在であったことは間違いありません。

ちなみに髪型に関してはシーザー・カット(カエサル・カット)と呼ばれる、短い髪型をしていました。カエサルは「ハゲの女たらし」と凄い渾名が付いており、それ自体は許容していたようですが、前髪の薄さを隠すためにこのような髪型をしていたそうです。

君主クラスの身分の高い人が、自身の持つ欠点を隠すために新しいスタイルを考案し、それを周囲の貴族たちが真似して流行するのも既にこの時代からあったということですね。

19世紀のイギリスのファッションリーダー
イギリス王ジョージ4世(1762-1830年)59歳頃 王太子妃アレクサドラと次男ジョージ王子(後のイギリス国王ジョージ5世)(1879年)

19世紀初期のイギリスだと、暴飲暴食によって太りまくった国王ジョージ4世が少しでも細く見せるために濃い色の服を採用したり、二重顎を隠すために襟の高いファッションを流行させました。

19世紀後期だと、出産後の歩行困難の後遺症を補うための王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマークの傘使いや、首元の瘰癧の傷を隠すための首元の詰まった衣服やジュエリーなどが思い浮かびます。

シーザー・カットも2000年を超えて定番化しており、凄いですね。欠点は必ずしも"悪いもの" ではなく、唯一無二の"個性が際立つ魅力"にだってできるのです。

ローマ帝国初代皇帝 アウグストゥス
ローマ帝国初代皇帝 アウグストゥス(紀元前63-紀元後14年) "Statue-Augustus" ©Till Niermann(20 October 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

永久独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルから後継者として指名され、内乱を勝ち抜いて帝政を開始した初代ローマ皇帝アウグストゥスはカエサルとはちょっと違いました。

スフィンクスをモチーフとした古代ローマのガーネット・インタリオ『エジプトのスフィンクス』
ガーネット インタリオ リング
古代ローマ 紀元前150年頃
※リングはヴィンテージ
SOLD
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン『アレキサンダー大王』
アメジスト インタリオ クラバットピン
古代ギリシャ 紀元前2-紀元前1世紀頃
※ピンの金具は現代(Gen監修)

アウグストゥスもアレキサンドリアのアレキサンダー大王のお墓を訪れていますが、触発されたのか、一時的にインタリオ・リングのモチーフを元々のスフィンクスからアレキサンダー大王の横顔に変更したそうです。

文字が書けない者も多くいたため、当時は奴隷に至るまでインタリオ・リングを着用しており、その図柄で持ち主を表していました。単なるファッション・リングとして以上の地位があり、ステータスを象徴するものとしても仕事上重要な意味を持ちました。

『エジプトのスフィンクス』は年代的にアウグストゥス帝より少し古いので、アウグストゥス帝のものではありませんが、かなり高貴な身分の人が持ち主だったことが想像できますね。

一方で、今回の宝物は元々はインタリオ・リングのために作られたもので、アウグストゥス帝のものだった可能性すらもあります。今回の調査ではアウグストゥス帝のアレキサンダー大王のインタリオが彫られた素材が分かりませんでしたが、夢やロマンが詰まっているのもエンシェント・ジュエリーの楽しさの1つですよね。

アウグストゥス帝のものでなかったとしても、かなり高貴な身分の人の持ち物だったことは間違いありません。特定したい方はご自身でお調べください。もし私が特定し、アウグストゥス帝のものだと判ったら、ご紹介価格は最低でも2桁か3桁は高くなると思います(笑)

第3代ローマ帝国 カリグラ
第3代ローマ皇帝 カリグラ(12-41年)
"Gaius Caesar Caligula" ©Louis le Grand(March 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

第3代ローマ皇帝カリグラはアレキサンダー大王の墓を暴いて、胸当てを取り出したと言われています。

カリグラは預言者メンデスのトラシュロスから、「バイア湾を馬で渡るよりも、皇帝になれる可能性は低い。」と言われていました。

この予言に対する当て付けとして、泳げないカリグラはバイア湾に2マイル(約3.2km)の浮き橋を建設し、アレキサンダー大王の胸当てを着用し、愛馬インクタトゥスに乗って渡ったそうです。

壮大な余興ですね。そして、ローマ皇帝の権力と財力がいかに凄いものなのかが伝わってきます。それにしても、そのためにお墓が暴かれるとは・・。

 

他、ネロ帝(37-68年)やトラヤヌス帝(53-117年)、カラカラ帝(188-217年)などもアレキサンダー大王を称賛し、墓参りなどにも行ったとされていますが、今回のインタリオとは年代が違うので割愛します。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

古代ギリシャのアレキサンダー大王が歴代のローマ皇帝を含む、後世の名だたる権力者たちからも憧れられ、インタリオのモチーフになっていたことをお分かりいただけたと思います。

3. 心揺さぶるアーティスティックなインタリオ

3-1. 秀才の彫刻とは別次元の心に訴える表現

3-1-1. 精密模写と芸術の違い

心揺さぶるアート。

皆様はどのような芸術作品をご覧になると、心が揺り動かされるでしょうか。

そのような作品を作ろうと思った場合、どういう風に作ろうとされますか?

ありがちなのは、正確性を追求して作ることです。例えば写真のようにとにかく再現度を高めるであったり、1ミリどころか1ミクロンの精度を追求して文字を書いたり模型を作るであったり・・。

その場合、写真や工業製品の正確性には敵いません。

ボカシや光に加減に工夫を凝らした特殊な写真は別として、単に状況を写しただけの写真や、単なる量産の工業製品に感動することは普通はあり得ません。それがどんなに正確性の高い描写や作りであっても、情動は起こらないのです。ここに単に上手なだけの秀才の作品と、情動を起こす天才芸術家の作品との違いがあります。その差は絶望的なまでに大きく、秀才止まりの才能では絶対にその壁、或いは溝を飛び越えることはできません。
そもそも凡人では、その"差"の存在にすら気づかないのですが・・。だから権威やブランドを使ったプロモーション戦略が、商売としては成り立つわけです。一方で、「目利きの商売下手」という現象も生じます(笑)

画家・彫刻家イリヤ・レーピン(1844-1930年)43歳頃、1887年

ちなみに今のところ私が一番好きな人物画家が、イリヤ・レーピンです。

ジャンルとしては写実主義画家とされますが、単なる『写実画』としてカテゴライズするのは違和感があるほど、心理的迫力が伝わってくる作品が特徴です。

『イワン雷帝と皇子イワン』(イリヤ・レーピン 1885年)トレチャコフ美術館

私が初めて見たレーピンの作品が、高校の世界史の資料集で目にした『イワン雷帝と皇子イワン』でした。私には写真に見えましたが、当時(1581年)写真はなかったはずと思い直し、大変驚きました。

まるで当時をそのまま写真に写したかのような緻密な描写と、心が伝わってくるような人物たちのあまりの迫力に目を奪われました。レーピンにとっては約300年前を描いたもので、彼も実物は見ていないはずですが、想像でこれほどまでに描けるのかと思うほどリアルです。

当時は美術分野に特に関心がなく、イリヤ・レーピンの名前は知りませんでしたし、資料集にレーピン画の記載もなかったと記憶していますが、この絵は心底気に入って世界史の授業中にしょっちゅう眺めたものでした。

『クルスク県の復活大祭の十字行』(イリヤ・レーピン 1880-1883年)トレチャコフ美術館

同じくレーピンによる『クルスク県の復活大祭の十字行』を初めて見たときは、あまりの精緻な表現に写真かと思ってしまいました。でも、ただその時を切り取っただけの味気ない写真とは違う、様々な何かが表現されてます。まるでその場に居合わせたかのような、たくさんの人々の強いエネルギーが伝わってくるようです。上手に描いただけの絵ではあり得ないことです。

レーピンは"心理的洞察を持ち合わせた写実画"で名高いです。有名な天才画家として社会的名士の肖像画を制作する一方、しばしば貧困や差別にあえぐ社会の最下層をモチーフとして多くの作品を残しています。

『ヴォルガの舟曳き』(イリヤ・レーピン 1870-1873年)国立ロシア美術館

レーピンの名声を確立することになったのが『ヴォルガの舟曳き』です。見たことがある方も多いと思います。上流に大きな舟を移動させるには牛馬ではなく人間に曳かせるのが一番安上がりだったという、ロシア社会の最底辺で働く人たちの過酷な重労働を描いた作品です。

ヴォルガの舟曳き イリヤ・レーピン 国立ロシア美術館『ヴォルガの舟曳き』(イリヤ・レーピン 1870-1873年)国立ロシア美術館

レーピンが26歳から29歳頃にかけて、まだアカデミーの学生だった頃に描いた絵です。一部の批評家には「低い生活層の場面を壮大にしたことは、世界で最も大いなる芸術への冒涜だ」と非難されたそうです。ロシア帝国では定期的に飢饉が起き、1891-1892年にかけても40万人もの餓死者が出ているなど、最下層の生活は酷いものでした。

激しい感情と違い、複雑さ入り混じる感情であったり無力感であったりを表現するのは生身を使う役者でも難しいと思うのですが、どの人物たちからもそれぞれの思いが伝わってきます。

写実というだけならば、一定以上の技能がある人ならば写真のような正確な絵を描くことは可能でしょう。しかしながら他の有名画家たちの作品を見ても、レーピンの作品ほど強く豊かな内面が伝わってくる作品は記憶にありません。レーピンの才能、天才と言うほかないです。

【文久遣欧使節】漢学者・国学者 市川清流(通称は渡:わたる)(1822-1879年)

ヨーロッパでは写真技術が発明されるまでの長い年月、肖像画が王侯貴族の重要なプロモーション・ツールとして描かれてきた歴史があります。

財力や権力、男性らしさや女性らしさ、知性などの魅力を誇張する描き方はあっても、基本的には写実の追求が主流です。

それもあってか、文久遣欧使節(1862-1863年)の一員としてヨーロッパで写実的な絵画を見た市川清流が、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」と鋭く指摘しています。

『芸術』とは単に事実を伝えるための、とにかく正確さだけを追求した『資料』ではないことを分かっているからこその指摘と言えるでしょう。

古代ギリシャの哲学者による芸術の定義

ちなみに古代ギリシャの哲学者は『芸術』を以下のように定義しています。

「芸術とは熟練した洞察力と直感を用いた美的な成り行きであり、絶対的な美の本質は、見る者をどれくらい感動させられるかにある。」

見る者に情動を起こさないものは『芸術』ではありません。

3-1-2. 作者の力量が如実に分かるアレキサンダー大王の表現

感情を持たない単なる"モノ"と違い、人間を表現するのは非常に難しいことです。

造形のみを再現するのは一定以上の才能を持つ人ならば可能ですが、本質が伝わるようにとなると、よほどの才能あるアーティストでなければ不可能です。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン
↑等倍

1円玉より遥かに小さい、約1.4×1.2cmのアメジストに彫刻されたアレキサンダー大王の横顔は、驚くほど豊かにその内面を表現しているように感じます。

秀才によるアレキサンダー大王がモチーフの彫刻ジュエリー
【参考】『アレキサンダー・カメオ』
"AlexanderCameo" ©World Imaging(2 October 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0
【参考】『アレキサンダー大王』
コーネリアン インタリオ リング
古代ギリシャ(ヘレニズム) 紀元前2-紀元前1世紀
イギリスの某高級店で£55,200-(約921万円、2022.4.20現在) Bonham HP / A HELLENISTIC GOLD AND CARNELIAN INTAGLIO RING OF ALEXANDER THE GREAT ©Bonhams 2001-2022

これらもアレキサンダー大王がモチーフの彫刻ジュエリーですが、秀才の彫りという印象です。技術は高いので上手ではありますが、訴えてくるようなものがなく、見ても「ふーん。上手ですね。」という感想で終わってしまうのです。

それは私たちだけなのかもしれませんが、こういう物も買付はしません。高品質なので一瞬だけ迷うと思いますが、芸術作品として見たとき、心に訴えてくるような魅力がないと『宝物』としてつまらないのです。

卸のディーラーからは「上澄中の上澄だけしか買わない。」、「どういう物が好きなのかよく分からない。」なんて言われたりするのですが、それはこの"アーティスティック"な部分を視る眼があるか否かなのだと考えています。言語化や定義されていないので、言葉を使ってご説明するのは無理ですが、Genと私ではこの部分が完全に一致しているので、独りよがりではなく確実に存在するものだと思います。

『アレキサンダー・カメオ』 "AlexanderCameo" ©World Imaging(2 October 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

これはアモンの息子として雄牛の角を持つ、双角王としての姿を表現したものです。モチーフとしてはありきたりで、特に驚くべきものはありません。天然の石の色彩を上手く使った作品で、技術的には本当に上手ですが、感想としてはそれで終わりです。


『アレキサンダー大王』インタリオ リング(古代ギリシャ 紀元前2-紀元前1世紀)
イギリスの某高級店で£55,200-(約921万円)Bonham HP / A HELLENISTIC GOLD AND CARNELIAN INTAGLIO RING OF ALEXANDER THE GREAT ©Bonhams 2001-2022

これはご紹介の宝物と同時代に作られたコーネリアンのインタリオ・リングです。同じくらいのサイズとみられます。アレキサンダー大王はヘラクレスの子孫として、ネメアの獅子の毛皮を被った横顔で表現されています。これも、モチーフとしてはよくあるものです。

ゴールドのリングもオリジナルの状態とのことで、人気モチーフであることも相まって900万円以上の値段が付いています。

ロンドンの家賃の高さは有名で、これを扱う某高級店もかなり高級なエリアにあります。場所代やチヤホヤ代(人件費やブランディング費)などを乗せるとこの価格になってしまうのかもしれませんが、それでも随分と高いなと感じます。本物の古代のものを扱えるディーラーは世界的に見ても数名しかいないため、仕入れ元は私たちとある程度は共通しているはずです。

アレキサンダー大王のヘレニズムのインタリオ
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン Bonham HP / A HELLENISTIC GOLD AND CARNELIAN INTAGLIO RING OF ALEXANDER THE GREAT ©Bonhams 2001-2022

値段の違いはそのものの価値の違いではなく、様々なものを反映しているのだと思ってください。現地で買う方がむしろ高くなる現象も、こうやって起きるのです。

さて、某高級店のアレキサンダー大王のインタリオもかなり上質なものには間違いありません。オールオリジナルですので、卸価格によってはHERITAGEでもお取り扱いできるレベルです。ただ、やはり訴えてくるものが弱いです。見下ろす大王の目は、大帝国を築き上げた大王としての威厳を感じます。それでお仕舞いです。

ご紹介の宝物を見比べると、如何ですか?
人の心、さらには馬の心すらも大切に思い遣った、繊細な感性と豊かな感情を持つアレキサンダー大王。
誰よりも優れた頭脳を持ち、誰も見たことのない大きな夢を見て実現してしまった大王。
若き大王の見果てぬ夢。道半ばで途絶えてしまったその先に、大王はどういう世界を夢見ていたのか・・。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

秀才止まりの作品からは感じることのできない、無限に広がる世界が伝わってきます。大王が夢見た、誰もが幸せで美しい世界。その実現のために、力強く駆け抜けました。

ヨーロッパ美術では、英雄は威厳と自身に満ちた完璧な姿で表現されるのが通常です。目線は見下ろす方向、口は固く閉じた形。

しかしながらこの作品では、アレキサンダー大王は見上げた目線と、僅かに開いた口で表現されています。人間らしさを感じる、英雄のこのような表現はまさに例外中の例外であり、確実に意図されたものです。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

この作品は彫りも抜群に優れていますが、不思議なほど、技術的な面ではなく作品の描き出す世界そのものに意識が行きます。

上手な作品は一定数あれど、アーティスティックな魅力を兼ね備えたものは、どの時代も滅多に出逢うことはできません。

こういう芸術性の高いものこそが、いつまで眺めていても飽きることのない、見る者の心を豊かにしてくれる宝物だと思います♪

3-2. 手間を惜しまず仕上げられた見事な彫刻

3-2-1. 躍動感ある天才ならではの表現

アレキサンダー大王のヘレニズムのインタリオ
天才の作品 秀才の作品
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン Bonham HP / A HELLENISTIC GOLD AND CARNELIAN INTAGLIO RING OF ALEXANDER THE GREAT ©Bonhams 2001-2022

彫りの技術については、どちらも当時の第一級の腕を持つ高度な職人の彫りだと思います。特に、顔の立体的な造形についてはそれぞれ良くできています。

ただ、右のインタリオにいまいち躍動感が感じられないのは何故でしょうか。実物を見ていないので確信的なことは言えませんが、頭部の表現が立体感に欠けるからと推測します。髪の毛は細かく線が彫ってあって、一見すると繊細で上手っぽく見えますが、ネメアの獅子の皮も含めて頭部全体が扁平であるため、躍動感を十分に表現できていないのです。

キケロの石膏像の写生15歳の頃に写生したキケロの石膏像(石田和歌子 作、笑)

高校では選択制の授業で美術を少しかじりました。

ギリシャ彫刻の模型を写生する機会がありました。

顔の造形は問題なく模写できましたが、頭部は相当大変なことに気付きました。

限られた授業時間内に髪の毛まで精密に描く技量はなく、そもそも時間があったとしても面倒くさすぎて私には無理でした。

忍耐力も絶対に1つの才能だと確信しています。

軍神マルスの石膏像の写生16歳の頃に写生したマルスの石膏像(石田和歌子 作、笑)

翌年、髪の量が少ない模型になりましたが、やっぱり髪は雑です(笑)

精密模写を諦めた場合、どうデフォルメしてそれっぽく見せるかも悩みどころでした。

これでも5段階評価の5でした。

天才は滅多にいません。だから天才です。同学年には天才はいなかったのでしょう。自分で秀才と言うのも何ですが、こういうのが秀才止まりの作品だと思います(笑)

表情がない模型だったので課題としては初歩の初歩、簡単なものだったと言えるでしょうね。

アレキサンダー大王のヘレニズムのインタリオ
天才の作品 秀才の作品
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン Bonham HP / A HELLENISTIC GOLD AND CARNELIAN INTAGLIO RING OF ALEXANDER THE GREAT ©Bonhams 2001-2022

こういうインタリオを彫刻する場合、造形としては筋肉以外の部分が難しく、表現としては狙った表情をうまく浮かび上がらせるのが難しいです。

故に、作品として彫りの良さを判断したい時は、その部分が重要となってきます。技術の低い職人が彫刻したものだと、そもそも顔の筋肉部分の表現も怪しいですけどね。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

この作品は世界征服を成し遂げた後の威厳に満ちた大王としての姿ではなく、まだ見ぬ無限に広がる世界に立ち向かおうとする、夢に満ちた若きアレキサンダー大王の姿を表現しているように思います。

若いので特徴の出しやすいシワやタルミなどはないのに、ギリシャ彫刻らしい彫りの深い顔立ちと、人間らしい表情が巧みに表現されています。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

かなり立体的な彫りなので、少し光の当たる角度が変わるだけで驚くほど表情が変化します。小さな面積の中に、よくぞここまで表現したものだと驚きます。

天才だけが創り出せる、アーティスティックなインタリオ。

2千年以上もの壮大な時を超えて、見る者を感動させられる力。

人間の力って本当に凄いですね。

3-2-2. 細部までの見事な彫刻

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン←等倍

通常は肉眼で見るので分かりませんが、拡大してみるとここまでやったのかと思うほど、細部まで丁寧に表現されています。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

この作品で一番表現したかったのは、見果てぬ夢を見るアレキサンダー大王の瞳でしょう。瞳に宿る知性。勇敢さと優しさ、力強さ。

その全てを余すことなく表現すべく、特に目元は気合を入れて彫刻されています。ハッキリとした二重瞼に、慈愛を感じる涙袋。力強さを感じる、彫りの深い眉から瞼にかけての造形。鋭く先を見通すような切れ長の目尻。大王として揺るぎない安定感を感じるような、どっしりとした目元。

そして、間違いなく何かを映している、生気ある瞳。

石を彫っただけでこれだけ豊かな瞳を表現できるなんて、俄かに信じられません!!
無表情の神と違い、生気を宿した人間の瞳は彫刻ではかなり表現が難しいはずなのです!!

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン←等倍 少し斜めから見ると、より目元の立体感がお分かりいただけるでしょうか。
実際の大きさを考えると、2千年以上も前に一体どんな道具を使ったのか、本当に信じられないくらい凄い彫りです!
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン
アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

先にご覧いただいたのは、彫りが分かりやすいように照明の角度などを工夫した画像です。インタリオの素材は透明感があるアメジストです。故に、職人は不透明の石を彫るよりさらに状況把握が難しかったはずです。まさに頭の中で三次元の画像を処理できる、立体視の能力を持つ者でなければ作れない作品です。

古代人は現代人より遥かに高いIQを持っていたとも言われますが、その中でも別次元の天才だからこそ生み出すことのできた奇跡の作品と言えるでしょう。古代ギリシャの作品でも滅多に出逢うことのない、極めて芸術性の高い作品です♪

3-2-3. 丹念に磨き上げられた美しい表面

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

左の画像は斜めから、右の画像は正面から撮影したものです。

立体的に彫刻されているため、角度によって光る部分は異なりますが、いずれの場所も綺麗に光沢が出ることがお分かりいただけると思います。

18世紀以降、古代遺跡からの発掘品などに触発されてインタリオやカメオが新たに作られました。しかしながら近代や現代と異なり、このインタリオが制作されたヘレニズムの時代は便利な機械や道具はありません。その分だけ手間と技術をかけて1つ1つ丁寧に制作していたのです。

昔ながらの手作業でのモノづくりは、何でも磨いて仕上げる作業が一番大変だと聞きます。

米沢箪笥の透かし金具作りの、透かしを鑢で磨いて仕上げる工程鑢で丹念に磨いて仕上げる行程

Genがプロデュースしていた米沢箪笥の透かし金具もそうです。限界に挑むような高度なことをやろうとすると市販の道具では足りないため、職人自らが道具から自作しますし、道具の種類も多いです。

磨きの工程は一度では済みません。粗い鑢(ヤスリ)から徐々に細かい鑢に変えていくことで、綺麗に仕上げます。相当な根気と時間を要する作業です。

以前、京都の代々続く茶釜職人さんからお話を聞く機会があったのですが、やはり磨き仕上げが最も時間がかかるそうです。最後は灰をつけた手で金属のお茶釜の表面を丹念に磨くそうで、2週間、ひたすら磨き続けることも普通とのことでした。手の皮が頑丈になりそうですね。現代でこんなやり方をするのはあり得ないことで、昔ながらのこのやり方を頑なに守っている工房はそこくらいしかないようです。

茶道具はブランド力があり、高価な方が売れるヴェブレン財の一種であること、ジュエリーと違ってそもそも材料は銅などの安い金属のみということもあって、たくさんは売らないことでギリギリ成立できるのかもしれませんね。

ちなみに鋳造ですが、型は河底の砂で作ります。その砂は2代寝かせるのだそうです。現在使っている砂は先先代が取ってきたもので、その方は次の次の代が使えるよう、今の砂を取ってきて寝かせているそうです。

古い時代でもただの日用品にそこまではしませんが、美術工芸は信じられないほどの手間を平気でかけるのですね。

古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ  5-25年頃)大英博物館
"Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5

古代ローマングラスの最高傑作とされる『ポートランドの壺』も、古代ローマの職人が1世代ではなく2世代に渡って制作されたと考えられています。

19世紀に再現が試みられましたが、信じがたいほど骨の折れる大変な作業であることが分かり、試行から2年もせず「オリジナルを作った当時の職人たちでないと無理」という結論に至りました。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

古代に於いては、人間の爪で物凄い時間をかけてインタリオを磨いたとも言われています。

爪は人間にとってコントロールもしやすい身近な道具でもあり、ノコギリ状に整えて布を織る綴織(つづれおり)という技術も日本にはあります。正式名称は『西陣爪掻本綴織(にしじんつめがきほんつづれおり)』で、日本美術織物の最高峰とされます。

恐ろしく手間と時間がかかるもので、1891(明治24)年の大津事件のお見舞いとして明治天皇がロシア皇太子ニコライ2世に贈った川島織物の傑作『綴錦壁掛犬追物』は3年がかりで織り上げられたそうです。

爪で磨くなんて現代では想像を絶しますが、この2千年以上も前のインタリオも「美しいもの、情動を起こす美術品を創造するには当たり前である。」と言わんばかりに、古代ギリシャの職人が当然の如く、恐ろしいまでの手間と時間をかけて磨き上げられたのだろうと思います。

3-3. アメジストを使ったロマンあふれる宝物

3-3-1. 古代に於けるアメジストの稀少価値

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

この宝物に使われているのは色が淡く、半透明で雰囲気のあるアメジストです。

古代は後の時代と比べて、遥かにアメジストは貴重な宝石でした。

19世紀後期のアメジストのハイジュエリー
ヘキサゴンカット・アメジストの最高級ゴールド・ブレスレット『アメジストの楽園』
ヘキサゴンカット・アメジスト ゴールド・ブレスレット
イギリス 1880〜1890年頃
¥1,380,000-(税込10%)
非加熱シトリン&アメジストの蝶のブローチ アンティークジュエリー『美しき魂の化身』
蝶のブローチ
イギリス(推定) 1870年頃
¥1,600,000-(税込10%)

19世紀にブラジルでアメジストの巨大鉱脈が発見されると、たくさんの中から上質な石が選べるようになりました。故にハイジュエリーのアメジストは大きくてインクリュージョンが無い綺麗な石を使ったり、無駄が多く出る贅沢なカットが施せるようになりました。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

しかしながら古代はアメジストというだけで稀少で、高い価値がありました。

稀少でも美しくなければ価値はありませんが、高貴な紫色は誰もが惹かれます。

とても庶民に手が出る宝石ではなく、財力を持つ限られた身分の者だけがアメジストのインタリオを持つことができました。

3-3-2. アーティスティックな石の選び方

後の時代になるほど小綺麗なジュエリーが多くなっていきます。

古代の宝物には、選べる石に大きな制約があった時代ならではの強い魅力があります。

合成技術や人工処理技術、イミテーション技術が確立された現代は見た目だけは完全無欠の量産の石を使った、芸術性のカケラもないジュエリーばかりになりました。

通常、完全無欠の石には想像が入り込む余地がありません。

ワインの壺をアメジストに彫った、無限の飲酒を可能にする古代ローマのインタリオ『無限の飲酒を可能にする壺』
アメジスト インタリオ ルース
古代ローマ 1世紀
SOLD

古代は手に入れた石を最大限に生かすため、その石に最も相応しいモチーフを一生懸命に考えてジュエリーを制作していると感じます。

石の表情や雰囲気を最大限に生かします。

王妃をモチーフとした古代ローマのアメジスト・インタリオ『古の王妃』
アメジスト・インタリオ
古代ローマ 紀元前2〜紀元前1世紀頃
SOLD
古代オリンピックの英雄クロトンのミロをモチーフとした古代ローマのアメジスト・インタリオ『古代オリンピックの英雄クロトンのミロ像』
アメジスト・インタリオ
古代ローマ 紀元前1世紀頃
SOLD
アポロに扮装した人物をモチーフとしたアウグストゥス帝時代の古代ローマのアメジスト・インタリオの傑作『アポロに扮装した人物の肖像』
アメジスト・インタリオ
アウグストゥス帝時代 紀元前27〜紀元後14年頃
SOLD

高貴な女性には綺麗なアメジスト。孤高の男性、知的な男性にはその雰囲気にあったアメジスト。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

ヘラクレスとアキレウスの血を継ぐ特別な者として生を受け、『国』や『民族』のような矮小な括りなど超越し、全ての人を幸せにするという重責ある立場を自覚して。魂を分かつ存在と共に世界の果てを目指し、仲間たちを連れて広大な旅をし。見果てぬ夢を見たまま、衰えを感じる前にさらなる大きな世界へと旅立ったアレキサンダー大王。

若くして亡くなれど、その影響と功績は100年後も、数百年後も、数千年後も在り続ける・・。

透明すぎず、絶妙な雰囲気のあるこのアメジストは、まさにアレキサンダー大王を表現するに相応しい石です。真っ直ぐな心、強さだけでなく優しさも備えた人間性。勇気と知性。

彫刻の技術だけでなく、このアメジストの雰囲気もあってこその完成形です。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

裏側からは、アレキサンダー大王が何となく見えるくらいの透明度です。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

持ち主は表面的な知識だけでなく、アレキサンダー大王のことを深く理解した人物だったのだろうと思います。

そして、その大王に関する知識を信頼する彫刻師に余すことなく伝え、彫刻師もしっかりと理解できたからこそ実現できた作品でしょう。

これほどまでにアーティスティックで見事なアレキサンダー大王の作品は、他には絶対にないと確信します。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

御伽噺に出てくる、角が生えているような架空の英雄として憧れる庶民とも違う・・。

一兵卒として指示に従い、全力を尽くすだけの階層とも違う・・。

ヘラクレスの子孫としてネメアの獅子の毛皮と共に表現するのは分かりやすいですが、アレキサンダー大王が実際に憧れたのは、自分同様に、魂の片割れたる親友と共に生きたアキレウスでした。持ち主はアレキサンダー大王同様、幼少期から徹底して教養を身に付ける環境が整えられた、相当に身分の高い人物だったと想像します。

たくさんの人に対して責任を持つ、統率者クラスの身分にあったからこそ、具体的なロールモデルとしてアレキサンダー大王に憧れを抱き、このような表現でインタリオを作らせたのだろうと思います。職人の天武の才能によって実現したこの宝物は、きっと持ち主にたくさんの勇気と自信を与えてくれたはずです。

クラバットピンの金具

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

クラバットピンの金具はGen監修の、現代の職人によるハンドメイドです。

シンプルで使いやすいデザインです。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピン

丁寧に作ってあります。

オープンセッティングなので、ご着用の衣服によって雰囲気が変わります。

着用イメージ

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピンの着用イメージ アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオのクラバットピンの着用イメージ

アスコットタイに着用する場合と同様に、ピンが見えない形で着用すると、控えめな雰囲気で品良くコーディネートしやすいです。
ピンの金具を見せるコーディネートだと、個性やマニッシュさが惹き立ちます。ショールなどを留めるのに使ってもオシャレです。クラバットピンは元々は紳士用のステータス・ジュエリーでしたが、現代のファッションだと使い方次第で性別は関係なくいろいろ楽しめる、実はコーディネートの幅が広いアイテムなのです!♪

18Kのピンキャッチ(現代)は別売です。金価格によって価格は変動いたしますので、必要な場合は別途お問合わせください。

アレキサンダー大王の古代ギリシャ(ヘレニズム)のアメジスト・インタリオ・リングの着用イメージ

もともとはインタリオ・リング用に作られたサイズなので、リングに変更することも可能です。

オープンセッティングとクローズドセッティングでは、雰囲気は変わります。

オープンセッティングでは透明感が楽しめる一方で、クローズドセッティングだと、下地のゴールドの色を反映した鮮やかな色彩になると予想されます。

【参考】古代のインタリオを使った各種デザインのリング
古代ローマ インタリオ リング 『戦いに挑む戦士』『戦いに挑む戦士』
アゲート・インタリオ リング
古代ローマ 紀元前1世紀〜1世紀
※リングの作りは現代
¥693,000-(税込10%)

古代ローマ ヒッポカンポス ニコロ インタリオ リング『ヒッポカンポス』
ニコロ・インタリオ リング
古代ローマ 1世紀頃
※リングの作りはヴィンテージ
¥3,000,000-(税込10%)
人物と山羊の古代ローマのニコロ・インタリオ・リング『人物と山羊』
ニコロ・インタリオ リング
古代ローマ 2世紀頃
※リングの作りは19世紀
SOLD

リングにリメイクされる場合、デザインやサイズ、金価格によっても費用は変わります。必要な際はお見積もり致しますので、お気軽にご相談くださいませ。