No.00312 黄金の叡智 |
『黄金の叡智』 45年間で他に見たことのない、黄金の背景に赤茶色の不思議な模様が浮かび上がるモス・アゲートのブローチです。 |
|||
|
啓蒙思想を背景に、上流階級の知識階層の間で流行したリュミエール・ジュエリーらしい魅力に溢れます。思考させる抽象画のような、黄金のモス・アゲートにあしらわれた黄金の帯のフレームは、ジョージアンの神技の職人に作られた見事な造形です。リュミエール・ジュエリーの中でもハイエンドと言える、ミュージアムピースの知的な宝物です。 |
この宝物のポイント
|
|
1. 知性が漂うリュミエール・ジュエリー
『愛の誓い』 ダブルハート リング イギリス 1870年頃 SOLD |
王侯貴族の宝石を使ったハイジュエリーと言えば、一般的にはダイヤモンドやルビー、サファイアやエメラルドなど、煌びやかな宝石を使った華やかなジュエリーをイメージします。 |
しかしながら、そのようなジュエリーとは一線を画す特別な雰囲気を持つこの宝物には、モスアゲートという特別な石が使われています。モスアゲートはピクチャーストーンとも呼ばれる、1つとして同じ模様は存在しないアーティスティックな石です。天然の石に浮かび上がる自然の模様を駆使したこの宝物は、啓蒙主義の影響で作られたリュミエール・ジュエリー独特の知的な雰囲気が魅力です♪ |
1-1. 啓蒙主義とは
啓蒙主義。 言葉自体は歴史を含めた社会系の授業で聞いた記憶がある方も多いと思いますが、それが一体何なのか、本質的に理解している自信がある方は少ないのではないでしょうか。 |
1-1-1. 日本語の『啓蒙』
『啓蒙思想』は英語ではEnlightenment、フランス語ではLumières、ドイツ語ではAufklärungと呼ばれ、これらを日本語訳した言葉になります。 |
手洗いを啓蒙するポスター "Poster "Stop microbes wach your hands"" ©SusanA Secretariat(27 January 2011, 12:56:58)/Adapted/CC BY 2.0 |
"啓蒙"自体が日常会話では聞かない言葉ですが、知らない人、つまり無知な者を教え導くという意味です。 現代だと、ある分野に於いてあまり知識のない人に対し、その分野の専門家がその知識や論理を元に正しく指導するといった意味で使用される場合が多いです。 |
大企業のサラリーマン時代に勤務していた岡山の工場(2014年) |
公衆衛生や教育などの社会活動、工場や現場の管理方法などの産業活動など、あらゆる面で使用されます。大企業の研究者だった頃は、様々な工場で働いた経験がありますが、それぞれの工場で啓蒙のためのローカル・ルールがあったり、共通して運用される『5S(ごエス)』と呼ばれるスローガンがあったりしました。5Sは整理、整頓、清掃、清潔、躾です。生産ラインで不良品を出したり、怪我したりせぬよう必ず手袋をしたり、マスク着用を守ろうというものなどがありました。 |
新型コロナ・パンデミックに於けるホワイトハウスの事実上の公衆衛生スポークスマン アンソニー・ファウチ(1940年-)2020年4月、79歳 |
そんなマニアックな工場勤務などなくとも、どなたにとっても身近なものとして、最近ではウイルス感染防止のため社会的距離を取ろうであったり、三密防止であったり、マスクを付けたりうがいや手洗いの徹底などの啓蒙活動がありました |
第5代国立アレルギー感染症研究所所長アンソニー・ファウチ(1940年-)1984年、43歳頃 "Anthony S. Fauci, M.D.,NIAID Director (26759498706)" ©NIAID(9 April 2007, 15:07)/Adapted/CC BY 2.0 |
最先端を知る人、最も知識を持つ人、最も賢い人(っぽい人)が、無知な民衆に専門家でなくとも理解できるよう、分かりやすく教え諭して正しい(とされる)方向に導いてやるというのが『啓蒙』です。 |
1-1-2. 昔の日本における『啓蒙』
【参照】カモイ伝(水木しげる 1966年)©水木プロ | 古い時代は、迷信を信じている人々に科学的な知識を教えて広めるといった意味で、"文明人"が"非文明人"に物の道理を教えるという感じで『啓蒙』という言葉は使われてきました。 漫画を含め、少し古い時代の書籍などを読むと、迷信や文明人などの単語が出てきたりしますね。 |
『百種怪談妖物双六』の「垢嘗」(歌川芳員画 1848-1854年?) | 『絵本百物語』より「二口女」(竹原春泉画 1841年) |
夜が暗かった古い時代には、妖怪が当たり前のように身近にたくさん存在してきました。欧米から各種のテクノロジーが入ってきて妖怪が姿を消した後でも、日本各地に様々な迷信は残っていました。 |
森のクマさんを見つけて死んだふりをせず大喜びで写真を撮るGen(栃木県日光市 2017.8.8) | ・夜に口笛を吹くと蛇(妖怪、お化け)が出る 多種多様な"迷信"が存在しており、一定以上の年齢の方であれば、一度は聞いたことがある迷信もあるのではないでしょうか。 |
千里眼と称する御船千鶴子(1886-1911年)1910年頃 | 超能力なども含め、こういうものは科学的見地から"非科学的"で論拠のない前時代的なものとされ、科学者らによって"嘘"、"存在しないもの"と大衆が啓蒙された過去があります。 日本人にとっては、このような妖怪や迷信などを信じないようになったことが、古い時代の『啓蒙』のイメージです。 |
詐欺行為で禁固刑と罰金刑を科せられたエドゥアール・ビュゲー(1840-1901年)1875年撮影 | 実際欧米でも同じような状況はあったのですが、17世紀後半から18世紀にかけてヨーロッパで主流となった『啓蒙思想』はそれとは異なっています。 啓蒙時代に於ける啓蒙思想は宗教が起因しており、ヨーロッパの宗教についてある程度詳しく把握していないと理解ができません。 授業では『啓蒙主義』の一言でサラッと流され、大多数の日本人にとっては内容は分からないまま、ただ言葉を覚えるだけに過ぎない存在だったりします。 |
でも、無数に存在するであろう世界史のキーワードの中で、選ばれて学ばされるのは、世界史の中でそれだけ重要なことだからです。 上流階級のジュエリーにも影響を及ぼしているヨーロッパの啓蒙主義について、ヨーロッパの視点で見ていくことにしましょう。 |
1-2. 古代ローマからの長いキリスト教による支配
端的に言ってしまえば、17世紀後半から18世紀にかけてのヨーロッパの啓蒙思想は、キリスト教支配からの思想の脱却です。 |
1-2-1. キリスト教以前のヨーロッパ
『ゼウス&ヘラ』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント イギリス 1860年頃 ¥885,000-(税込10%) |
ヨーロッパは元々は日本と同じように多神教でした。 ヨーロッパ美術の原点とされる古代ギリシャにも様々な神が存在します。 |
『ポセイドン&アンピトリテ』 ルネサンス アゲート インタリオ イタリア 1500年前後 SOLD |
認められて神となった者 | |
『英雄ヘラクレス』 エレクトラム インタリオ・リング 古代ギリシャ 紀元前5世紀 SOLD |
『ディオニュソス』 カメオ:古代ローマ 2世紀 シャンク:1700-1760年頃 SOLD |
人間だった者が試練を乗り越え、認められて神様になることもあります。半神半人の生まれなので普通の人間とは言い難いですが、ヘラクレスやディオニュソスがそうでした。世界的に見ると、通常は「は?人間が神になる?」と思われそうですが、大半の日本人にはさして違和感なく受け入れられるのではないでしょうか。 |
『月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香』11歳で漢詩を作った菅原道真(月岡芳年 1839-1892年) | 日本にも神様になった人間は多々存在します。 一番有名なのは、学問の神様として親しまれる菅原道真でしょうか。 平安時代の貴族であり、学者、漢詩人、政治家でした。 |
太宰府天満宮(福岡県太宰府市)全国天満宮の総本社とされる "20100719 Dazaifu Tenmangu Shirine 3328" ©Jakub Halun(19 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
日本には約8万5千の神社が登録されており、未登録の小神社を含めると10万を超える神社が存在します。人間が亡くなった後に怨霊となり、それを鎮めるために建てられたものが多くあります。怨霊になったとみなされた人間が信仰の対象となり、神社で拝まれる神となるのです。それは長い歴史の中で当たり前のように繰り返され、今では学校やコンビニの数より遥かに多い神社が存在しているのです。 |
東郷平八郎(1848-1934年) | 東郷神社(東京都渋谷区) "Togo jinja 2019" ©江戸村のとくぞう(19 March 2019, 15:55:01)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
怨霊でなくとも、神社で祀られることもあります。比較的最近と言える、20世紀にも人間を祀った神社はいくつか創建されています。人間が死後に神として祀られ、信仰の対象になるのは、日本人にとっては不思議と思わないレベルで当たり前のように古くから行われてきたことなのです。 |
菅原道真(845-903年) | 苦しい時の神頼みという諺があるくらい、多神教である日本人は神様に緩いです。 特定の神様は信仰しておらず、状況に応じてそれぞれの神様に頼るというのが一般的な日本人でしょう。 福岡出身なので、高校受験の際は何となく太宰府天満宮に元旦の初詣に出かけましたが、ビックリするほどの行列でした。 御利益のお陰で、高校受験はうまくいきました。 |
『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』 シェルカメオ イタリア 19世紀後期 ¥1,330,000-(税込10%) |
キリスト教以前の多神教であった古代ギリシャや古代ローマの人々も、こういう日本と同じような緩い信仰で成り立っていたのかなと想像しています。 現代の日本というより、少し前の時代の日本ですが・・。 |
1-2-2. キリスト教後のヨーロッパ
アブラハムの宗教の分布(ピンク)と東方諸宗教(黄色) "Abraha, Dharma" ©Dbachmann/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
キリスト教は0から1が生まれたように、突然生まれたわけではありません。世界には様々な宗教が存在しますが、比較宗教学の観点からはインド宗教、東アジア宗教と並ぶアブラハムの宗教の範疇にカテゴライズされます。 |
アブラハムの宗教のシンボルマーク "ReligionSymbolAbr" ©Tinette.(11 July 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
アブラハムの宗教に分類されるのはユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。 |
『平和のしるし』 ローマンモザイク デミパリュール イタリア 1860年頃 ¥2,030,000-(税込10%) |
『アブラハムとイサク』神にひとり子イサクを捧げようとするアブラハムと、それを制止する天使(レンブラント 1634年) |
アブラハムは堕落した全てのものを神が滅ぼすノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ、祝福された最初の預言者です。『アブラハム』はヘブライ語で"多数の父"という意味で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を信仰する人々の始祖とされます。 |
『イエスと洗礼者ヨハネ』(ヴォイチェフ・ゲルソン 1879年) | 初期はユダヤ教として共通していたのですが、途中でユダヤ教の一派として始まり、分離して勢力を拡大したのがキリスト教です。 紀元前6年から紀元前4年頃の間に誕生した、アブラハムの子孫であるナザレのイエスを神の子とし、メシアである大司祭であり大王と認め、キリスト(救い主)として信仰するのがキリスト教です。 |
『アテネで説教する聖パウロ』(ラファエロ・サンティ 1515年)V&A美術館 |
人々がより良く生き、皆が幸せになるようにと民衆から始まった宗教で、元々は政治色など無く、弟子たちによる布教も純粋な気持ちによるものでした。 |
ローマ皇帝テオドシウス1世(在位379-395年) "Theodosius I. Roman Coin" ©Michail Jungierek Finanzer/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
しかしながら、出来る限り広めて勢力を拡大したいキリスト教徒と、専制君主として権力の強化を図りたいローマ皇帝の思惑が一致し、次第にキリスト教と政治が癒着していきました。 |
プラトン時代のアカデミアを描いたモザイク(古代ローマ 1世紀) | 宗教にとっても、統治者にとっても、民衆は愚かであるほど都合が良かったりします。 何も考えず、ただ言われるがまま信じる。 論理的に考える頭の良い人々は邪魔でしょうがありませんし、民衆を理性的な方向に導く存在は最悪です。 |
新プラトン主義哲学校長ヒュパティア(350/370年頃-415年) | 古代世界の学術の殿堂アレキサンドリア図書館の館長の娘にして、自身も優れた数学者にして哲学者、男尊女卑が強い古代ローマに於いて新プラトン主義哲学校の校長を務め、しかも美人ということで否が応でも目立つヒュパティアが、自身の頭で考えることを推奨するのは許容できないことでした。 男性だったら同じようなステータスを持ち、同じような主張をしていていも、そこまでは民衆にも注目されず、目を付けられることもなかったでしょうけれど・・。 |
『惨殺されるヒュパティア』キリスト教徒による有名哲学者の惨殺事件(作者不明 1865年) |
結果、ヒュパティアはキリスト教の総司教キュリロスが指導する修道士たちによって惨殺されました。ローマ皇帝から破壊の許可を得たキリスト教徒らによって、学問の中心地として長年栄えたムセイオンやアレクサンドリア図書館も破壊され、900年以上続いた哲学の中心地アカデミアも閉鎖されてしまいました。古代からの叡智が詰まった貴重な書物も多数失われてしまいました。 |
賢人をもてなす宴会を開くササン朝ペルシャ帝国君主ホスロー1世(在位531-579年) | アレクサンドリア図書館の内部(想像図) |
このようなキリスト教からの迫害から逃れるため、古代ローマから多数の学者たちが、当時学芸を熱心に保護し、自身も『哲人王』と呼ばれたホスロー1世が治めるササン朝ペルシャに移住しました。これにより、以後はペルシャやイスラム世界で学芸や文化が発展することになりますが、ヨーロッパは研究し思考する学者も、知識の詰まった書物も乏しいまま中世の暗黒時代を過ごすことになったのです。 |
1-2-3. キリスト教と権力が結びついたヨーロッパ世界
ピピンの寄進(756年) | 1789年の教皇領(教皇国) ©maix(2007)/Adapted/CC BY 3.0、©Alphathon(2013)/Adapted/CC BY 3.0 |
現代の日本は政教分離原則とされているものの、多神教な上に、特定の宗教が権力を奮って極端な害悪を及ぼした歴史がない日本では政教が癒着している状況がいまいちピンと来ないかもしれません。でも、ヨーロッパではキリスト教は相当な国家権力を保持していました。ピピンの寄進によって形成されることになった教皇国は、もちろんローマ教皇が君主です。 |
西ローマ皇帝&フランク王カール大帝(742-814年) | 初代神聖ローマ皇帝とされるカール大帝は、ローマ教皇にピピンの寄進を行ったフランク王ピピン3世の息子です。 神聖ローマ皇帝は、キリスト教の最高位の聖職者でありキリストの代理者とされるローマ教皇に支持されることで、神のお墨付きを得た君主として君臨します。 神聖ローマ帝国は、このローマ教皇に支持された皇帝を認めている国家・地域の集合です。 |
アウグスブルクの司教君主ヨハン・オットー・フォン・ゲミンゲン(在位:1591-1598年) | 1780年頃の神聖ローマ帝国内のキリスト教の領土 "HRE Dioceses Prince-Bishoprics, c. 1780" ©Lubiesque(10 February 2013, 13:55:47)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
それぞれの国家・地域には君主がいますが、その中にはキリスト教の司教がそのまま君主として世俗的な統治も行うエリアも多々存在しました。そのような統治者は司教君主と呼ばれています。 |
ネーデルランドと司教領の地図:青紫色がリエージュ司教領 "The Low Countries" ©en:User:Fresheneesz(8 December 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
司教君主が統治するエリアは、神聖ローマ帝国以外のヨーロッパの地域にも多々存在しました。 日本の仏教でイメージするならば、国民は全員が仏教徒でお坊様(役人)には従い、お布施し(税金を納め)、大僧正が君主みたいな感じでしょうか。 かなり適当な割当ですが、イメージした場合、共同体としては強固そうですね。 権力者の言うことを聞かないとバチが当たりそうというか、何と言うか・・。 |
1-2-4. 神の威光を纏うようになった君主
ポーランド王、ザクセン選帝候アウグスト3世のレガリア | オーストリアのクラウン・ジュエルの宝珠 "Wien - Schatzkammer - Orb" ©Andrew Bossi(30 June 2007)/Adapted/CC BY-SA 2.5 |
デンマーク王室のレガリアの宝珠 "Denmark gloubus cruciger" ©Ikiwaner(14. Juli 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
ヨーロッパでは、君主権を示すレガリアの1つとして宝珠がある場合が多いです。世界そのものを表す球体に、キリストによる支配を示す十字架がデザインされています。 |
キリスト | 君主 |
王としてのキリスト(ハンス・メムリンク作 1485年頃) | プファルツ選帝侯、ボヘミア王フリードリヒ5世(1596-1632年) |
ヨーロッパでは司教領でなくとも、国家は神により王権が付与された君主によって支配されるという考え方の元、統治が行われました。『王権神授説』と呼ばれ、王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対して人民は何ら反抗できないとされます。 |
イングランド王ヘンリー8世からの離婚許可申請を断ったローマ教皇クレメンス7世(在位:1523-1534年) | 各国の君主にとって、いちいちローマ教皇のお墨付きを得たりする必要があるのは面倒くさいことです。 キリスト教としての見地から普遍的な史上権・支配権を主張する皇帝・ローマ教皇はある意味うっとおしい存在です。 故に、対抗手段として君主自らにある種の霊威や超自然的な権威を付加させることで、民衆にとっての神聖性や霊性を獲得し、統治力を強めようとしました。 |
『盲人を癒すキリスト』(ユスターシュ・ル・シュール 1645年頃) |
その代表的な例が、超自然的な力を持つ王が手をかざして病を癒す『ロイヤルタッチ』と呼ばれるものです。まさしく『手当て』と言えますが、イエスがメシアであることを立証するために行ったとされる『イエスの奇跡』が明らかにアイデア元ですね。 |
霊威を王権に付加させた君主 | |
フランス | イングランド |
フランス王フィリップ1世(在位1060-1108年) | イングランド王ヘンリー1世(在位1100-1135年) |
初期の例としては、フランスではフィリップ1世が行ったとされています。昔は結核菌によって頸部のリンパ節が腫れる瘰癧(るいれき)に悩まされる人が多く、フィリップ1世はその手で患者に触れることで治療を行ったそうです。イングランドにおける最初の例はヘンリー1世によるものです。 |
フランス王フィリップ4世(在位:1285-1314年) | 王によるロイヤルタッチは大人気で、フランス王フィリップ4世の時代にはフランス全土ばかりか全西ヨーロッパ規模で『瘰癧さわり』が評判となり、教皇領にあるウルビーノやペルージャからも治癒を求めて民衆がやってきたほどだそうです。 |
フランス王ルイ8世と王妃の戴冠式(在位:1223-1226年) | 現代人の感覚からするといかにも胡散臭く感じますが、瘰癧治療の霊威の根源は、国王が塗油され聖別されたことに由来するとされました。 キリスト教国の戴冠式では、高位聖職者が新君主の頭に聖油を注ぎ、神への奉仕を誓わせる儀式が主体となります。 このため戴冠式はイギリスでは聖別式、フランスでは成聖式と言われました。 |
聖油を頭に注がれて戴冠した王 | |
神聖ローマ帝国 | イングランド |
西ローマ皇帝&フランク王カール大帝(742-814年) | ウェセックスのアルフレッド大王(849-899年) |
ヨーロッパ大陸ではカール大帝が神聖ローマ帝国を再興して、ローマ教皇から帝冠を受けた800年から、皇帝フリードリヒ3世がローマに赴いてローマ教皇から帝冠を受けた1440年まで、聖油を注ぐ習慣が行われました。イギリスではデーン人の大軍を破りイングランドを死守したアルフレッド大王が、872年に聖油を頭に受けて即位したとされています。 |
カンタベリー大主教に宝珠を渡されるエリザベス女王(戴冠式 1953年) 【出典】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020 |
イギリスの戴冠式の様式は、1189年のリチャード1世の時にほぼ確立されました。今でもロンドンのウェストミンスター寺院で行われる戴冠式では、カンタベリー大主教によって国王の頭と胸、両掌に聖油が注がれます。 |
イングランド女王メアリー1世(在位1553-1558年) | 瘰癧に手をかざすメアリー1世(16世紀) |
聖油を受けるという宗教的儀式によって、王は神により聖職者的性格や奇跡的治癒能力を付与されると解釈され、王は聖職者に対して優位性を主張する根拠となりました。 |
イングランド王/スコットランド王 チャールズ2世(1630-1685年) | こうした神による霊威の付加によって、王権は超自然的な権威の獲得に成功し、教権に対して一定の自立性と優位性を確立することとなりました。 特に16世紀から17世紀にかけての到来した絶対王政期に於いては、この神的な権威は長らく"神の代理人"とされてきたローマ教会の権威・権力からの王権の独立と、国民に対する絶対的支配の理論的根拠とりました。 |
イングランド/スコットランド王チャールズ2世のロイヤルタッチ(1684年) |
記録に拠れば、13世紀のイギリスではイングランド王エドワード1世は年間で千人以上の人々にロイヤルタッチをしたとされています。17世紀のチャールズ2世の時代にはさらにその数が膨れ上がり、1660年5月から1664年9月までの期間で2万3千人もの人々にロイヤルタッチをしました。 25年間の治世では延べ10万人にロイヤルタッチしており、そこら辺の教祖やヒーラー程度では遠く及ばないほどの大人気ぶりでした。メチャクチャ忙しそうというか、これでは公務にも支障が出そうなほどです。 |
フランク王クローヴィスのロイヤルタッチ(在位:481-511年) | 初期のロイヤルタッチは場所も定められず、病人が願い出るたびに王が応えていました。 このため、無秩序に王が取り囲まれるような事態も起こっていたそうです。 まるで人気スターや人気アイドのようですが、患者は命がかかっていますし、藁にもすがる思いというのもあったでしょう。 |
キリスト | 王 |
『盲人を癒すキリスト』(ユスターシュ・ル・シュール 1645年頃) | フランク王クローヴィスのロイヤルタッチ(在位:481-511年) |
本当にいるのかどうかよく分からない、聞いたことがあるだけ存在よりも、目の前にいる分かりやすい存在にすがりたいのは人の性とも言えるでしょう。公務に支障が出ぬよう、また、尤もらしさを演出することでより霊的な威光を強めるために、時代とともに様々な様式が定められ、特定の期間のみ行われるようになっていきました。 |
アウクスブルク同盟戦争の頃のフランス王ルイ14世(1692年) | 絶対王政期のヨーロッパには各地に絶対君主の王朝が存在しましたが、とりわけフランスのブルボン朝がその典型例とされています。 家臣による「そんなことをなさっては国家と民のためになりません。」との諫言に対する、フランス王ルイ14世の「民だけで良い。陳は国家なり。」という言葉は、絶対王政を端的に表すものとされています。 |
古代ギリシャの太陽神アポロンに扮して踊るフランス王ルイ14世(1653年)15歳頃 | 古代ギリシャの最高神ゼウス(ユピテル)として描かれたフランス王ルイ14世(1655年)17歳頃 |
4歳で即位したルイ14世は、物心ついた頃から王でした。一神教であるキリスト教の神の威光を纏っているはずなのに、古代ギリシャの神々に扮したりしていて「それは良いのか?」と思ったりもしますが、ロイヤルタッチも熱心に行っていたそうです。 |
フランスの太陽王ルイ14世のロイヤルタッチ(1690年) | 1680年の復活祭では、1600人もの人々にロイヤルタッチしています。 |
1-3. キリスト教支配が解け始めた時代らしい宝物
1-3-1. キリスト教に支配された長い暗黒時代からの目覚め
荘厳の聖母(ジョット・ディ・ボンドーネ 1306-1310年) | ローマ帝国滅亡後の、キリスト教に支配された中世ヨーロッパは『暗黒時代』とも称されています。 人々から知識を奪い、考えることを奪い、ただひたすら聖書を学び、神の代理たる教会の教えに従うだけの時代は、学術分野のみならず芸術文化も停滞しました。 |
荘厳の聖母(ジョット・ディ・ボンドーネ作 1306-1310年) Public Domain |
海外でも、なぜ中世の絵画に描かれている赤ちゃんは醜くて気味が悪いのかと議論されたりするほど、芸術面でも低迷しています。 しかしながら、キリスト教の普及に伴いヨーロッパからペルシャ・イスラム世界へ移動した古代の叡智が再輸入されたことで、千年ほどにも及ぶ長い暗黒時代が終わり、ルネサンスが始まったのです。 |
アテネのアカデミア(ラファエロ・サンティ 1511年)バチカン美術館 Public Domain |
『ルネサンス』とはフランス語で復活・再生を意味する言葉です。14世紀のイタリアで始まり、西ヨーロッパ各地に波及したルネサンスは一義的には古典古代、つまり古代ギリシャ・ローマの文化を復興しようとする文化運動でした。 |
暗黒の中世 | 再生・復活のルネサンス |
クレヴォレの聖母(ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ作 1283-1284年) | カーネーションの聖母(ラファエロ・サンティ作 1506-1507年) |
古代の様々な叡智を知ることで、芸術面でも大きく進化しました。 |
古代ローマの建築家にインスパイアされたルネサンス作品 | |
『ウィトルウィウス的人体図』(レオナルド・ダ・ヴィンチ 1492年) | 古代ローマの建築家ウィトルウィウスの『建築論』に影響を受けて造られたフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード(1470年完成)"Santa Maria Novella(Florence)-Facade" ©Suicasmo(11 August 2015, 19:53:17)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
学術の面でも大きく飛躍しました。科学と芸術の融合として、様々な優れた建築物なども創り出されています。 |
ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃-1468年) | 活版印刷技術の発明も画期的なことでした。 |
手書きの写本 | 量産の活版印刷 |
ウィーン写本の一部『ウーリーブラックベリー』(6世紀初期) | ルター訳聖書(ドイツ 1534年) |
以前は人の手で写すしかなく、故に書物はたくさん作れない上に非常に高価なものでした。知識は限られた上流階級のみのものだった大きな理由の1つです。それが活版印刷の発明によって早く、安く大量生産できるようになったのです。大ベストセラーとなったルターのドイツ語訳聖書は100万部も印刷されました。手書きの写しではあり得ない数です。 |
『マルティン・ルター』 開閉レンズ付き ゴールド リング ドイツ? 1817年 SOLD |
知識が広く一般に広まることができたことが、1517年に始まった宗教改革が形となった要因でした。 |
紀元前240年頃に地球の周長を算出した古代ギリシャの学者&ムセイオン館長エラトステネス(紀元前275-紀元前194年) | 世界最古の地球儀を生み出したマロスのクラテスの地球儀(紀元前150年頃) |
ヨーロッパの多くの人々が、キリスト教以前のヨーロッパ人の豊かな暮らしや、素晴らしい叡智を持っていたことを知るようになったのです。そして、神学以外の様々なことに興味を持ち、考えるようになっていきました。 |
『ヒュパティア』(チャールズ・ウィリアム・ミッチェル画 1885年) | 「考えるあなたの権利を保有して下さい。なぜなら、全く考えないことよりは誤ったことも考えてさえすれば良いのです。」 「真実として迷信を教えることは、とても恐ろしいことです。」 このような発言でキリスト教徒を激怒させ、葬りされた古代ローマの優れた哲学者ヒュパティアでしたが、ようやくヨーロッパの人々がこの言葉のように再び行動し始めたのです。 まさに、悪い意味で権力に利用され、歪められたキリスト教の呪いが解け始めた時代と言えるでしょう。 |
1-3-2. ヨーロッパの人々の気付き
ただ自然のままの光を用い、自ら超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促そうというのが啓蒙思想です。 自然の光。 |
キリスト教に支配され、超自然的な偏見で満ちた世界が暗黒時代で、それを照らすのが理性で物を見るための自然の光というわけです。 |
1-3-2-1. 17世紀後半のイギリスで始まった啓蒙時代
水木しげるの漫画【引用】©水木プロ |
啓蒙思想はあらゆる人間が共通の理性を持つと措定し、世界には何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるという考え方をします。文明社会を形成する以前の人間を『自然人(homo naturalis)』と捉え、どのような法則が働き、どのような理由で社会が形成され、国家が形成されていったのか、"今"と対比して思考されるようにもなりました。 |
水木しげるの漫画【引用】©水木プロ |
本来人間は平等なのでは?神が概念的に存在するようになった時代は不平等が存在するが、生まれながらの高貴な身分というのは論理的に正しいのか?そもそも神は本当に存在するのか?など、それまで当たり前と捉えて疑問すら感じなかったことを改めて深く考え、議論するようになったのです。 |
イングランドの哲学者トマス・ホッブズ(1588-1679年) | イングランドの哲学者ジョン・ロック(1632-1704年) |
一番最初にこの啓蒙思想が興ったのが、17世紀後半のイギリスでした。具体的に言及し始めると内容が膨大すぎるため今回は割愛しますが、『リヴァイアサン』(1651年)で有名なトマス・ホッブズや、『市民政府二論』(1689年)を著したジョン・ロックがその始まりとなっています。 |
『市民政府二論』初版本(ジョン・ロック 1689年) | イングランド/スコットランド王チャールズ2世のロイヤルタッチ(1684年) |
『市民政府二論』の第一論では、ロバート・フィルマーによる「国王の絶対的支配権は人類の祖アダムの子供に対する父権に由来する」という王権神授説に対する反論が述べられています。第二論では、政治権力の起源を王権神授ではなく『社会契約』にあるとして、その範囲や目的についても論じてあります。 ロイヤルタッチを求め、王の元へ25年間で10万人もの人々が押し寄せた時代に於いて、これはかなり画期的な理論だったと言えるでしょう。 |
1-3-2-2. フランスでの強い影響
アンシャンレジームを風刺した絵(1789年) | イギリスのジョン・ロックは1689年の『市民政府二論』の中で、「人は皆、平等です。国民は人の権利を守らない政府を変更しても良いのです。」と記しました。 これらのイギリスの啓蒙思想が、18世紀にフランスに伝播しました。 フランスが持っていた素地によって、より旧弊批判が激しい過激なものとなり発展・普及し、フランスが啓蒙思想の中心地となり、フランス革命や共和主義的な近代改革へとつながっていったのです。 |
バスティーユ襲撃(ジャン=ピエール・ウエル 1789年)フランス国立図書館 |
ジョン・ロックが著した通り、フランス市民にとって、元々の変更の対象は政府であって王様ではありませんでした。あくまでも当時の社会体制(アンシャンレジーム)の改革を目標としたものでしたが、様々な要因が複合的に重なったことでフランス革命があの形で成立してしまいました。今回、その詳細は割愛します。 |
18世紀のフランスの著名な啓蒙思想家 | |||||
モンテスキュー男爵シャルル・ルイ・ド・スゴンダ(1689-1755年) | ヴォルテール(1694-1778年) | ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778年) | ドゥニ・ディドロ(1713-1784年) | エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック(1714-1780年) | コンドルセ侯爵ニコラ・ド・カリタ(1743-1794年) |
18世紀の著名な啓蒙思想家の中には、『法の精神』(1748年)のモンテスキュー男爵や、『社会契約論』(1762年)のルソーなど、社会の授業で聞いた記憶がある人物もいるのではないでしょうか。 |
イングランドの自然哲学者、数学者、物理学者、天文学者、神学者アイザック・ニュートン(1642-1727年)1702年、60歳頃 | ヴォルテール(1694-1778年) |
パリの公証人の息子として、裕福な中産階級の家に生まれたヴォルテールは、フランスの政治や政府を痛烈に中傷する詩を書き、流布し続けるなどして何度も投獄された経験のある啓蒙思想家です。 1726年から1728年にかけてイギリスに滞在し、イギリスで当時大きな影響力を持っていたジョン・ロックやアイザック・ニュートンらの哲学を深く知り、イギリスの哲学研究に強く惹かれるようになりました。帰国後にイギリスの啓蒙思想を伝えるのみならず、1733年にはロンドンにて英語で『哲学書簡』を発表するなどもしています。 |
フランスの太陽王ルイ14世のロイヤルタッチ(1690年) | そんなヴォルテールは、 「ルイ14世はその手でたくさん触れていたはずのに、愛人が瘰癧で亡くなっている。」 と痛烈に批難したりもしています。 そこを言及されると困っちゃいますね。気づいちゃっても言ってはいけないやつです(笑) |
1-3-3. 啓蒙時代の博物学の大流行
ドイツ人医師・博物学者エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716年) | 『日本誌』エンゲルベルト・ケンペル著(1727年の英語版の表紙) |
さて、フランスの著名な啓蒙思想家の中には、出島三学者の1人、エンゲルベルト・ケンペルによる『日本誌』(1727年出版)の愛読者がたくさんいました。『日本誌』はヨーロッパの知識人たちの間で一斉を風靡した、日本に関する博物学的な書物です。 |
『日本誌』を愛読したフランスの著名な啓蒙思想家 | ||
モンテスキュー男爵シャルル・ルイ・ド・スゴンダ(1689-1755年) | ヴォルテール(1694-1778年) | ドゥニ・ディドロ(1713-1784年) |
啓蒙思想は超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性で物事を見て思考するというものですが、研究や思考の対象は政治や社会に関する分野に限りません。啓蒙のための方法論としては、自然科学的なアプローチが重視されました。 |
古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年) | 1669年版『博物誌』表紙(プリニウス 1世紀) |
これは古代ギリシャや古代ローマの影響に依るところが大きいです。古代ローマのプリニウスによる地理学、天文学、動植物、鉱物など当時のあらゆる知識を網羅した全37巻の『博物誌(Naturalis Historia)』が古の上流階級や知識階級の必読書にして、最重要の教養の1つだったことはご存知の方も多いと思います。 |
ヒッパルコスによる太陽と月までの距離の算出法『博物誌』で紹介 "HipparchusConstruction" ©Dedwarmo(2 June 2016)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
アレクサンドリアの空を観察する古代ギリシャの天文学者ヒッパルコス(紀元前190年頃-紀元前120年頃) | 聖書の大量印刷により宗教革命を後押ししたグーテンベルクの活版印刷ですが、『博物誌』が大量印刷され、キリスト教以前の古代の知識が広く知られるようになったのも、歴史的に非常に大きなことでした。 |
プリニウスの『博物誌』 | |
写本 | 印刷本 |
12世紀 | 1499年 "Plinius ty Venezia 1499 IMG 3886" ©Bjoertvedt(30 October 2012, 18:28:37)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
最初はただただ、古代の叡智をインプットするだけだったでしょう。しかしながら次第に「ここは間違っている。」、「ここは言及されていない。」など、誤った箇所や不足箇所が議論・研究されるようになっていき、少しずつ物足りなくなっていきました。 |
『百科全書』表紙(フランス 1751-1772年) | フランスの百科事典『百科全書』(1751-1772年)は、啓蒙主義の具体的成果で最大のものの1つとされています。 イギリスのイーフレイム・チェンバースによる『百科事典(サイクロペディア)』(1728年出版)に触発されて制作されました。 |
フランスの『百科全書』の編集の中心人物 | |
哲学者、美術批評家、作家 | 哲学者、数学者、物理学者 |
ドゥニ・ディドロ(1713-1784年) | ジャン・ル・ロン・ダランベール(1717-1783年) |
総執筆者は184人にも上り、20年以上かけて制作された全28巻、総ページ数16,142ページ、項目数は71,709以上にも及ぶ大作です。古代ローマで著されたプリニウスの『博物誌』では足りていない、日本やその他の様々な知識が詰め込まれました。 |
『百科全書』第一巻の挿絵 |
『百科全書』初版の発行部数は4,250部で、当時としては大成功であり、フランス国外でも好評でした。啓蒙思想の一部はキリスト教の聖書と矛盾する場合もあり、啓蒙思想家エルヴィシウスによる『精神論』(1758年)の出版許可取り消し及び焚書処分の煽りを受け、1759年に『百科全書』の出版許可が取り消されました。 しかしながらディドロらは非合法に地道な編集作業を続け、1765年に刊行が再開されました。こうしてヨーロッパの人々はキリスト教の支配によって知識的にも停滞していた暗黒時代から脱却し、人々の知的好奇心が最大に高まった、まさに知性の光に照らされた時代となったのです。 |
1-3-4. 啓蒙時代に流行した知的なもの
『読書』(子爵 黒田清輝 1890年) | 嗜好の方向は人それぞれ、多様ですが、"知的なこと"は当時の上流階級や知的階級の人々を大いに魅了しました。 物欲だけで満足できる人、食欲だけで満足できる人もいるでしょう。 でも、知的好奇心が強い人にとって、新しいことを知るということは無常の喜びです。 寝る時間を割いて絵を描きたがる絵師がいる一方で、寝る間を惜しんで本を読んだり、食べる時間すら惜しんで研究に没頭してしまう学者の話はよくあることです。 |
古代ギリシャ(古代ローマの属州)の医者、薬理学者、植物学者ペダニウス・ディオスコリデス(40年頃-90年) | 新しいことを知る喜び。 大いなる自己満足の世界ですが、自己満足こそが"幸せ"には絶対に必要不可欠なことです。 どれだけ他人から称賛されようとも本人が満足していなければ、そこに本人の幸せは存在し得ません。 でも、知り得た知識がさらに皆の役に立てば、それ以上の嬉しいことはありません。しかも、知識は自身の肉体が滅んだ後ですら、後世の人々の役に立つことができるのです。 楽しいことが嬉しいことへもつながる・・。 |
『ウーリーブラックベリー』 | 『ヨモギ』 | 『鳥』 |
『薬物誌(ギリシャ本草)』(ペダニウス・ディオスコリデス 1世紀) が原本のウィーン写本(6世紀初期) |
||
知的探究は幸せへの道なのです。もちろん得意不得意や嗜好性もあるので、人類全員にそれが当てはまるわけではありませんが、知的好奇心が高い人、知的な分野に才能のあるにとっては持てる全てを注ぎ込んで没頭できるほど、楽しくてしょうがないことです。 博物学的なこと実行するにあたり、まず行うのが資料の収集です。資料を収集し、整理し、法則性を見つけ出し、体系的に纏め上げたものが研究成果となります。 |
『アンズリー家の伯爵紋章』 ジョージアン レッドジャスパー フォブシール イギリス 19世紀初期 ¥1,230,000-(税込10%) |
このフォブシールの最後の持ち主だったマウントノリス伯爵ジョージ・アンズリーも、1802-1806年にかけて巡ったエジプト、紅海、インド、スリランカで様々な植物やオブジェクトを収集しています。 スタッフォードシャーにあるマウントノリス伯爵のアレイ城には、持ち帰った大規模なコレクションで10エーカーの樹木園が造られています。 |
Voyages and Travels to India, Ceylon, and the Red Sea, Abyssinia, and Egypt, in the years 1802, 1803, 1804, 1805, and 1806(マウントノリス伯爵ジョージ・アンズリー、ヘンリー・ソルト) |
そういうわけで、啓蒙主義の影響でヨーロッパの上流階級の中で、知的なことが一躍流行の最先端となりました。社交界では知的な議論を重ねたり、新しく発見された知識を披露したりするのが最もホットなこととなったのです。 |
1-3-5. 啓蒙思想によって上流階級に流行した知的なジュエリー
"理性の光で物事を見る楽しさ"を知ったこの時代には、今まで全く注目してこなかった様々な物に視点が行き、興味の対象となりました。 植物だけでなく、動物、鉱物、自然に存在する様々なものが熱心かつ網羅的に収集されることになったのです。 |
それによって、実は今まで注目してこなかった石の中にも、芸術的な観点から物凄く魅力あるものが存在することに気づいたのです。 |
『獅子座』 ピクチャー・ジャスパー インタリオ リング 古代ローマ 2世紀(リングはヴィンテージ) ¥2,800,000-(税込10%) |
ヨーロッパを長く支配してきたキリスト教による偏見が、まだ存在していなかった古代のジュエリーを見ると、実に多様な石が使われています。 そのどれもが魅力に富んでいます。 |
枢機卿の宝石 "Cardinal Gems" ©Mario Sarto, Robert M. Lavinsky, Humanfeather, JJ Harrison, GeeJo(11 April 2010, 21:36)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 司教のリング(18世紀) |
価値があるとされる『宝石』は存在しますが、通常の石ころと何が違うのか。違いは何なのか。根拠はあるのか。 啓蒙主義では、人は生まれながらにして平等と考えます。鉱物に関しても、種類によって尊い、尊くないの違いがあるのかと疑問に思うのは当然でしょう。 |
白 | 紫 | 赤 | 緑 | 青 |
ダイヤモンド |
アメジスト | ルビー |
エメラルド | サファイア |
枢機卿の石は価値がある、4大宝石は価値があると当たり前に信じ込み、疑問にも感じなかったが、本当にそうなのか。それ以外は価値がなく、美しくもないのか。 |
デンドライト・アゲートの手帳 イギリス? 1760年頃 ワデズドン・マナー(ロスチャイルドの邸宅)蔵 |
啓蒙時代、当然の流れとして"半貴石"の面白い石を使った、上流階級の新たなスタイルのジュエリーや小物が出現しました。 |
『ジョージアン カルセドニー ペン』 イギリス 1820年頃 カルセドニー、15〜18ctゴールド 全長 7,5cm SOLD |
|
持ち主の卓越した知性と美意識が伝わってくる、強い魅力のある宝物です。このような宝物を持っているだけで、周囲の人々は持ち主が教養と知性を持つ人物であることが分かります。 |
モス・アゲート ブローチ イギリス 18世紀後期 SOLD |
知的なジュエリーを身に着けて、様々な啓蒙主義的な談義に花を咲かせる。 このような面白い半貴石を使ったジュエリーや小物は、上流階級や知的階級の間で啓蒙主義が主流となった時代に一躍流行の最先端として持て囃されることになったのです。 |
ポンパドゥール夫人とその左手の先に描かれた大判の『百科全書』の第1巻(1755年) | 残念ながら啓蒙主義の中心地となったフランスは、革命によって優れた王侯貴族の文化が終焉を迎えました。 |
イギリスでは王侯貴族が存続したため、これらの上流階級のための、啓蒙思想らしい魅力あふれるジュエリーが19世紀にも作られました。王侯貴族自身が知的なものに強い興味を抱き、理性の光の元で様々な思考を重ねたことを感じさせる、魅力あふれるジュエリー。 |
リュミエール・ジュエリーが他のジュエリーにはない特別な雰囲気を持ち、強い魅力を放つのは、こうした知的な背景を持つことが理由です。 本物のジョージアン・ジュエリー自体、現存数が少なく専門的にお取り扱いできるディーラーが本場ヨーロッパでも極めて限定されます。そもそも、残念ながらジュエリー業界自体、学術方面で優秀な人材が集まる業界ではありません。頭の良い人たちはIT業界や医療業界、各種研究機関など、ジュエリーではない業界に殆ど行ってしまいます。よってきちんと体系的に研究され、纏められている分野でもないため、特に古い時代のアンティークジュエリーについては、背景まで十分に理解できている人は世界的に見ても殆ど存在しません。ゼロではないはずですが、個人的に理解はしていていも、書籍やHPなどに明文化したりはしないでしょう。本来ディーラーは販売するのが仕事であり、そんなただの趣味のようなことをやる時間はありません。生産性がないにも関わらず、大変な手間でもありますしね。美術館や学術機関の職員であれば、研究活動が仕事なので時間は割けるでしょうけれど、オブジェクトなどと違い高価なジュエリーは十分な数の資料を集めることが不可能なので、別の意味で不可能です。 |
故に、このような半貴石の古いアンティークジュエリーの存在自体は知っていても、定義する人は今までいなかったようです。名前がないため、ヘリテイジで新しく啓蒙主義のジュエリーとして『リュミエール・ジュエリー』と定義しました。 Lumièresはフランス語ですが、英語のEnlightenment jewelleryだと日本語ではいまいちゴロが良くないのと、ヨーロッパの上流階級の共通語はフランス語だったのでLumières jewelleryとしました。英語圏では成金を『nouveau riche(ヌーヴォー・リーシュ)』とフランス語で表現するので、外来語的な感覚で良かろうと考えました。 |
2. 面白く珍しいモスアゲート
2-2. 美意識の高い知的階層が好むピクチャーストーン
見た目に分かりやすい煌びやかな宝石と異なり、半貴石を使ったジュエリーは感覚的に見て美しいと思えるか否かが重要です。 感覚で判断する以外に特に指標がないため、美的感覚のない成金は最も苦手とし、価値を理解できないジュエリーとなります(笑) |
『4 FACES』 フォーウェイ ウォッチキィ・ペンダント イギリス 1830年〜1840年頃 ブラッドストーン、アゲート、10ctゴールド ¥255,000-(税込10%) |
|
半貴石の宝物は、唯一無二の面白い模様を楽しむものもあれば、石の独特の質感を楽しむものもあります。 |
『大自然のアート』 デンドライトアゲート プレート(9,5cm×12,2cm) イギリス 19世紀後期 ¥387,000-(税込10%) |
人それぞれ感覚は異なるため、特に石の模様を楽しむピクチャー・ストーンについては何を以って良しとするか難しい所です。 |
しかしながら、当時この『大自然のアート』をオーダーした人物が美しいと思ったであろうデンドライト・アゲートのこの模様は、今、日本人の私が見ても面白くて美しいと感じます。様々なアンティークのハイジュエリーを見ていると、美的感覚に関しても人間には共通するものがあるのかなと感じます。まさに啓蒙思想的な思考ですね(笑) |
上手に彫刻し、芸術作品を作り上げるというのは人の手で可能です。しかしながら、ピクチャー・ストーンの独特の模様は人間がコントロールして作る物ではない、自然ならではの面白さと魅力があります。 |
どこで面出しするかで全く模様は異なるので、卓越した職人の技術はもちろん必要です。 この薄いデンドライト・アゲートのプレートの表裏をご覧になるとお分かりいただける通り、数ミクロンでも面出しの位置を誤ると、全く異なる模様になってしまいます。神の力、あるいは大いなる大自然の力によって石の中に面白い模様は描かれていますが、それをうまく取り出してアート作品として仕上げるのは人間による技です。 |
ジャスパー 3面インタリオ・シール フランス 1758年 SOLD |
『幻想のガニュメデス』 インタリオ ルース フランス 18世紀後期 SOLD |
『キューピッドと鷲』 ジョージアン ストーンカメオ フランス? 19世紀初期 SOLD |
なぜこのような模様が生まれたのだろう・・。 面白い模様を持つ石には、知的好奇心と美的感覚を満たしてくれる魅力があります。 |
独特の模様が魅力のピクチャー・ストーンは、まさに美意識の高い知的階層が好む宝石なのです。 それに加えて、さらにこうして高価なジュエリーに仕立てられたものは、美意識と知性を併せ持つ上流階級がオーダーしたことによる、特別な存在と言えるのです。 |
2-2. 類を見ないモス・アゲート
モス・アゲートの優れたハイジュエリーは作られた数自体が少なく、市場でもあまり見ることはありませんが、Genも私も感覚的に大好きなので、これまでにもいくつかお取り扱いしています。 しかしながら、このモス・アゲートは今までに見たことがないほど変わっています。 |
『幻想の美』 モス・アゲート ナイフセット(6本) イギリス(シェフィールド) 1889年 SOLD |
モス・アゲートは日本語では『苔瑪瑙』と呼ばれます。 デンドライト・アゲートとの境界も曖昧だったりしますが、モス・アゲート自体が色も模様も実に多様です。 |
モス・アゲート ブローチ イギリス 18世紀後期 SOLD |
『幻想の美』 モス・アゲート リング フランス 1840年頃 SOLD |
モス・アゲート ブローチ ロシア 1900年頃 SOLD |
苔と言われるくらいなので、模様は緑から黒色系の苔のような形状が多いです。背景は透明から白色系が多いイメージです。 |
『幻想の美』 ロシア(ファべルジェ) 1900〜1910年頃 デンドライトアゲート ブローチ SOLD |
『デンドライトの森と釣り人』 フランス 1850年頃 デンドライトアゲート ブローチ SOLD |
『ブラッカムーア』 フランス 1860年頃 カメオ ロケット ペンダント SOLD |
中には背景の色が茶系のものもありますが、大体は感覚的に見て"同様のもの"と思える範囲内です。 |
このモス・アゲートのように、半透明の黄色い石に赤茶色の模様が浮かび上がった石は見たことがありません。特徴的な模様によってモス・アゲートに分類されることは一眼で分かるのですが、こんなモス・アゲートがあったのかと驚いてしまうほど変わっています。 |
|
リュミエール・ジュエリーで使用される石は、珍しくて面白いものほど尊ばれました。 この石は色が変わっている上に、広い面積に面白い模様が存在するのが特徴です。 |
|
例えばこのファべルジェのモス・アゲートもこうして見るとサイズがありそうですが、実際はとても小さなブローチです。 |
本体:4.7×5.7cm | 本体:1.7×2.0cm |
←↑等倍 | |
大きな面積にしっかりと模様が入っている面白い石は、実は非常に貴重です。だからこそ、当時の王侯貴族たちも価値を見出したのです。 |
【参考】モス・アゲートのルース | |
モス・アゲートも同じことです。モス・アゲートだからどれも知的な雰囲気だというのはあり得ません。模様のなさすぎる石、模様が美しくない石、ゴチャゴチャし過ぎた石、色が美しくない石。殆どのモス・アゲートは美しいと感じられない、ただの石ころです。ピカピカに磨いてあると、それなりに綺麗っぽくは見えますが・・(笑) 割合に関しては今も昔もさほど変わらないと思うのですが、現代採掘されたダイヤモンドの約80%は工業用となります。 |
【参考品】メレダイヤ(極小ダイヤモンド) | ||
【参考品】メレダイヤを寄せ集めた現代ジュエリー | ||
残り約20%のダイヤモンドも、全てが優れた品質なわけではありません。 大きさが十分でないものがかなり多いです。現代ジュエリーはこういう石も漏れなく有効利用します。総カラット数をPRして高く売ろうとしますが、恐ろしく原価は安いです(笑) |
『財宝の守り神』 ダイヤモンド ブローチ フランス 1870年頃 SOLD |
最高級のジュエリーに使われる宝石は厳選に厳選を重ねた、美しくまさに稀少性の高いものだけを使用しているのです。 |
45年間で他に見たことのない、独特の魅力を持つモス・アゲートも、たくさんのモス・アゲートの中から厳選に厳選を重ねて選ばれた、最高品質の石と言えます。 |
このモス・アゲートのブローチは、強い光にかざすと裏側のピンが透けて見えるくらいの透明感があります。 |
左の画像では、石の後ろ側に中指を透かしています。後ろ側に何もない右側の画像と比較すると、絶妙な透明感が感じていただけるでしょうか。二次元で表現する画像だとちょっと分かりにくいのですが、この透明感と石の厚みのバランスにより、浮かび上がる模様に複雑な奥行きが感じられてとても美しいです。 |
黄金の湖の畔に浮かび上がる、躍動する万物の叡智。それは万物にとっての宝物・・。 黄金に光り輝く叡智の世界に吸い込まれてしまいそうな、特別なモス・アゲートです。これほどリュミエール・ジュエリーに相応しい宝石はないでしょう。 |
これはバックライトによる撮影です。 モス・アゲート独特の模様のみならず、所々赤い色をした半透明の不思議な模様も浮かび上がっています。 |
これの石の景色を見て、当時の持ち主や社交界の人々はどのような思考と議論を重ねたでしょうね。 |
3. ピクチャーストーンに相応しい金細工のフレーム
私はモス・アゲート自体が好きなので、個人的に所有する分に関しては、石にさえ魅力を感じれば購入したでしょう。 しかしながら、アンティークのハイジュエリーとしてHERITAGEでご紹介するにあたっては、この素晴らしい黄金のフレームがなければ、どれだけ石が気に入ろうとも買付はしません。 |
【参考】モス・アゲートの現代アクセサリー | ||
モス・アゲートは現代でも採れるので、根気良く探せば気に入る石自体は見つかる可能性があります。そういう物はパワーストーンやオブジェ的に、ルースで持てば良いかなと思っています。 |
【参考】モス・アゲートの現代ジュエリー | |
モス・アゲートの現代ジュエリーも存在しますが、優れたジュエリーの技術が失われてしまった今となっては、同じ素材で作られていても細工にもデザインにも全く魅力が感じられません。 |
【参考】現代のモス・アゲートのリング | ジョージアンにも、この現代ジュエリーと同じようなシンプルなデザインのモス・アゲート・ジュエリーが作られていますが、そんな物は扱っても意味がありません。 現代でも作ることができるレベルの低品質のジュエリーなんて価値がありません。 同じクオリティならば、ダメージがない新品を買う方が良いに決まっています。 |
【参考】ジョージアン・スタイルの現代のモス・アゲートのリング | これはジョージアン・スタイルの新品として販売されていた、現代のモス・アゲートのリングです。 アンティークジュエリーの枯渇が進行しているため、明らかなフェイクが市場にかなり増えています。 これは"ジョージアン・スタイル"として販売されていましたが、アンティークジュエリーを標榜する店で販売されていたら一般には見分けることは難しいと思います。 |
【参考】モス・アゲートのリング(ジョージアン?) | 【参考】モス・アゲートのリング(1930年代?) |
左はジョージアン、右は1930年代として販売されいてるモス・アゲートのリングですが、私はその年代が本当なのか分かりません。と言うよりも、そもそも興味がありません。現代でも簡単に作ることができるようなレベルの低いジュエリーは、アンティークの時代のハイジュエリーではなく安物です。仮に本物であっても、安物は興味の対象外なのです。 |
【参考】ヴィクトリアンの安物のモス・アゲートのブローチ |
|
特に高い身分の王侯貴族の間で、ジョージアンの時代にリュミエール・ジュエリーが流行しました。古の時代、流行は長い時間をかけて高い身分の王侯貴族から、上流階級の下層、さらには庶民へと降りて行きます。ヴィクトリアンになると、ジョージアン期より作りもお金のかけ方も劣るモス・アゲートのジュエリーが現れます。この程度のデザインや作りでは、やはりアンティークジュエリーとしての魅力が感じられません。 |
一番の肝と言えるのが、ジョージアンならではのこの黄金のフレームなのです。 |
3-1. つなぎ目のない黄金の帯によるフレーム
素晴らしい絵画には、相応しい額縁が必要です。格が合わないと頓珍漢な印象になりますし、うまく惹き立て合えば相乗効果でどちらも何倍にも素晴らしく見えます。 |
このブローチのフレームはまるで新体操のリボンの動きのように、複雑な形状をした黄金の帯で作られています。とてもエレガントな雰囲気です。思考の世界を表現しているかのような形状ですが、一体どうやって作ったのか謎なのです。 |
19世紀初期のイギリスのジョージアン・ジュエリーならではのゴールドの薄さと、流れるような美しい形状によって一見柔らかそうに見えますが、実際はブローチとして200年ほどの使用にも耐える耐久性を持っています。それにしても、一体どうやって硬いゴールドでこの複雑な造形を完成させたのか分かりません。 |
気になるので表裏をじっくりと見てみたのですが、帯につなぎ目が見当たりません。鑞付けの痕跡がないのです。 |
4箇所が立体交差していますが、この部分につなぎ目を隠してあるわけでもありません。 |
この立体交差箇所は、ペシャンコに潰れぬようAのようなゴールドの支柱で補強されています。 |
この強固かつ的確な位置への支柱によって、一見頼りなく見える柔らかそうな帯も、200年ほど経った今でもそのエレガントな形状を当時と変わりなく保っていられるのです。 |
通常は鑞付けで作るはずですが、謎なのがその痕跡が見えないことです。鑞材を使うつなぎ目は色が若干違って見えたり、長い年月の間に変色したりしているものなのですが、そのような色の違いが見られません。 まさかゴールドの板を削り出して造形したのか・・。作った職人に聞くしか分かりません。きっと当時の上流階級たちも、これを見て驚き頭を悩ませたことでしょう。 |
改めてアンティークジュエリーの細工技術の奥深さに驚くと共に、ジョージアンのトップクラスの職人がなせるアイデアと神技に感動を覚えます。 |
理性を使い、深く思考することが流行した時代に作られたリュミエール・ジュエリー。 そのために選ばれた、複雑かつ知的な雰囲気を持つモス・アゲートの額縁として、これほど相応しいフレームはないと言えるでしょう。 |
3-2. 額縁として美しさを添える繊細な彫金
黄金の帯の造形自体が非常に面白く魅力的ですが、そこにジョージアンならではの繊細かつエレガントな彫金が施されているのがさらに良いです。 |
幅3.5mmほどの帯には、手彫りならではの流れるような美しい彫金が施されています。彫金は拡大すると無骨に見えがちですが、実際は細い線なので、肉眼で見るとその繊細な黄金の輝きによって高級感が感じられます。 |
ジョージアンやアーリー・ヴィクトリアンのゴールド・ジュエリーの中には、繊細さを極めた彫金を見ることがありますが、この宝物で驚きなのはフラットではない、これだけ複雑な形状に美しく連続的に模様を彫金してあることです。 |
見える限り、立体交差の部分にも連続して彫金が施されています。その美意識の高さと共に、高度な技術に脱帽です。 |
この不思議さがフレーム、ひいてはモス・アゲートのブローチ全体をより魅力的なものにしています。 |
モス・アゲートの黄金カラーと、黄金の帯の組み合わせも相性抜群です♪ |
波打つ帯のダイナミックな黄金の輝きと、彫金された模様の繊細な輝きが複雑に絡み合うことで、より格調の高さと知的な雰囲気が醸し出されています。 |
面白いモス・アゲート自体、見ていて飽きることがありませんが、この黄金の帯もいつまでも眺めていたくなるほど知的好奇心と、美しいものを見ていたいという心をを惹きつけます。 |
面白い石の模様は自然が作り出したものですが、このフレームは完全に人の手で作り出したものです。 |
自然界にあったただの鉱物が、神技を持つ職人の手によって、人間の叡智が詰まった素晴らしい宝物へと昇華したのです。 |
裏側
裏側も綺麗な作りです。アンティークならではの、返しが付いた衣服から抜けにくいピンが付いています。 |
着用イメージ
煌びやかな宝石物ジュエリーではありませんが、大きさがあるのでしっかりと存在感があります。大きくても成金的な雰囲気にならず、品良く個性的なのも良いですね♪ |