No.00306 清楚な花 |
『清楚な花』 イギリス 1900年頃 これぞヨーロッパ貴族の王道と言える、正統派デザインのお花のピアスです。 アクアマリンとシードパールを使ったピアスの中では最高級品と言える、贅沢で魅力的な宝物です。 |
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この宝物のポイント
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1. 気品ある清楚な王道デザイン
1-1. 古き良き時代も思わせるクラシックな上品さ
天然真珠とアクアマリンを使った、白色と水色の組み合わせ。 黄金の作り。 可憐さと華やかさを湛える白い花。 このピアスは古き良き時代のヨーロッパの上流階級を思わせる、まさに正統派の王道デザインと言えます。 |
1-2. 時代が移り変わる転換期のジュエリー
1-2-1. 日本の開国の影響
『日本の屏風を眺める若い貴婦人たち』(ジェームズ・ティソ作1869-1870年) | 1854年に日本が開国すると、ヨーロッパにはたくさんの日本の美術工芸品がもたらされました。 |
ロンドン万博を視察する文久遣欧使節団(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862.5.24号) | 1862年の『文久遣欧使節団』のように公的な渡欧だったり、私的であっても有名な日本人の渡欧はよく知られています。 しかしながらあまり知られてないものの、意外と個人レベルで渡欧したマイナーな日本人もたくさんいます。 |
1-2-1-1. 海外で活躍した美術商 林忠正
明治時代に活躍した日本の美術商 林忠正(1853-1906年) | 富山県出身の林忠正もその一人で、1878年に渡仏し美術商として活躍しています。 蘭方外科医の次男として生まれ、従兄の富山藩士である林太仲の養嗣子となり、藩の俊秀を藩費で進学させる貢進生として大学南校に入学しました。 大学南校は洋学教育が担当で、授業はお雇い外国人教師によって全て外国語で行われました。ちなみに大学南校は、後の東京大学です。かなり頭の良い人物だったのでしょう。 林は1878年にパリ万国博覧会に通訳として参加するために渡仏しましたが、もともと幼い頃から海外への憧れがあり、従兄がパリ大学に留学していたこともあって、大学を中退してパリに残りました。自由人(笑)人間、このくらい自由で良いと思います(笑) |
1870年に投降したフランス皇帝ナポレオン3世と、プロイセン王国および北ドイツ連邦首相オットー・フォン・ビスマルクの会見 | 普仏戦争からの復興を祝って開催された1878年のパリ万国博覧会には36ヵ国が参加し、1616万人が来場しました。 捕虜となったフランス皇帝ナポレオン3世が廃位となり、共和政に移行して初めてのパリ万博ですね。 戦勝国であるドイツ帝国は招待されなかったそうです。 |
パリ南国博覧会の会場(1878年) |
林は起立工商会社の通訳としてパリ万博に参加しました。起立工商会社は明治時代初頭に日本の美術品や物産品を世界に輸出した、1874(明治7)年開業の国策会社で、日本の貿易会社の礎と言われています。日本に興味を持つ印象派の画家や評論家達が連日押し寄せ、林は流暢なフランス語で詳しく説明しました。 その熱のこもった解説を通じて彼らとの親密な交際が始まりました。欧米の上流階級や知的階級は日本美術に強い興味を持っており、林は日本美術を体系的に学び、また元起立工商会社の副社長であり日本工芸の第一人者だった若井兼三郎から鑑定の知識や資料も譲り受けました。 林にとっての若井は、さながら私にとってのGenと言う感じでしょうか。益々親近感が湧きます。林は私とは次元が違いますが(笑)でも、Genは間違いなく世界におけるアンティークジュエリーの第一人者で、とても凄いです。そんな人物から知識を譲ってもらえる私はラッキーですね。 |
フランスの画家 エドゥアール・マネ(1832-1883年) | 『エミール・ゾラの肖像』(エドゥアール・マネ 1868年)オルセー美術館 |
林はパリに拠点を起き、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギー、アメリカ合衆国、中国などを巡り、日本の美術品を売り捌きました。林は日本美術に関する確かな知識に加え、日本人らしい細やかな気遣いやその魅力的な人柄によって、世界中に友情を築き、尊敬されたそうです。その中の1人には、ヘリテイジでも度々ご紹介している『エミール・ゾラの肖像』を描いたエドゥアール・マネもいます。 |
日本美術の最初の専門家 ルイ・ゴンス(1846-1921年) |
販売のみならず、林はヨーロッパにおける日本美術の研究にも多大に貢献しています。 権威ある美術雑誌『ガゼット・デ・ボザール』の編集長だったルイ・ゴンスの『日本美術』の刊行に於いて、著述も手伝っています。 ゴンスは著書の冒頭で林の能力を高く評価し、協力への感謝を記しています。 |
林が執筆した絵入り雑誌『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号(1886年) | 1886年の『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号では、林自身が日本人による初のヨーロッパ向けの、日本紹介記事も執筆しています。 |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) | 同じくパリで活躍したドイツ人美術商サミュエル・ビングによる、1888年から1891年までの美術月刊誌『芸術の日本』(Le Japon ARTISTIQUE)よりも時期が早いですね。 |
『芸術の日本』(Le Japon ARTISTIQUE) (1888-1891年) |
アメリカの宝石・鉱物学者 ジョージ・フレデリック・クンツ(1856-1932年) | アメリカの実業家ヒーバー・レジナルド・ビショップ(1840-1902年) |
林はティファニーの有名な宝石・鉱物学者、ジョージ・フレデリック・クンツとも仕事しています。実業家であり慈善家でもあったヒーバー・レジナルド・ビショップは著名な翡翠コレクターで、1902年にメトロポリタン美術館に寄贈された翡翠コレクションのカタログを林はビショップ、クンツと共に制作しています。 フランス語ができるだけ、英語ができるだけの人ならば、現地にゴロゴロいます。日本人は当時はまだ珍しいですが、"日本人であること"だけでは価値はありません。言語を駆使した上で、林が唯一無二の学術的能力や一緒に仕事がしたいと思える人柄、優れたコミュニケーション能力を持っていたということなのでしょう。 |
フランスの画家・彫刻家 ポール・アルベール・バルトロメ(1848-1928年) | 林忠正のマスク(バルトロメ 1892年) 【引用】Musee d'Orsey / Albert Bartholome Tadamasa Hayashi |
それだけでなく、フランスの著名な画家・彫刻家のポール・アルバート・バルトロメの作品のモデルにもなっています。 これは1894年にフランスの国民美術協会で発表された作品です。 ドガのサークルで知り合ったとみられるバルトロメは、林のエキゾチックな顔立ちに魅了され、その顔を元に、日本の『能面』にインスピレーションを受けた作品を制作しました。 |
能面『翁』(室町時代 1336-1573年)東京国立博物館 | 当時、欧米の上流階級や芸術家などの知的階層の間では、能面は日本の美術彫刻に於ける、最も高尚な分野の1つとみなされていました。 これを聞いても一般的な方だと「ふうん。」で終わりそうですが、ヘリテイジのカタログを熱心にご覧いただる方だと「あっ、古代ギリシャ!」と思われたでしょうか。 |
エピダウロスの劇場(古代ギリシャ 紀元前4世紀末) "Theatre of Epidairis OLC" ©Olecorre(July 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
市民の教育のために古代ギリシャで生まれたギリシャ悲劇・ギリシャ喜劇ですが、古代ギリシャや古代ローマで市民権を持つのは成人男子だけで、演劇は観客も役者も全て男性でした。 |
役者のブロンズ像(古代ギリシャ 紀元前150-100年頃) | ステージに立つ役者は2、3名までとされ、男性が女性役をやったり、1人で数名の役を演じたりしました。 それもあって、演じる際は仮面を使います。 |
古代ギリシャの劇作家メナンデルと新喜劇の仮面 (古代ローマ 紀元前1世紀-1世紀初期)プリンストン大学美術館 |
古代ギリシャはヨーロッパ美術の原点とされ、古代ギリシャや古代ローマの時代に最高潮に達した美術や叡智は長い年月、ヨーロッパの上流階級や知的階級の人々に尊敬と憧れを以って見られていました。 |
『悲劇と喜劇の仮面』ヴィッラ・アドリアーナのモザイクの一部 (古代ローマ 2世紀)カピトリーノ美術館 |
実物はほぼ失われていますが、当時使われていたであろう仮面は様々な形で見ることができます。独特で、とても面白いですよね。 |
明治天皇(1872年、20歳頃) | 日本にもギリシャ悲劇のような高尚な芸術を愛でる文化があり、明治時代だと明治天皇が1878(明治11)年に青山御所に能舞台を設置し、数々の能楽を鑑賞したそうです。 |
大英帝国の王子 | アメリカ合衆国大統領 |
アルフレート王子(1844-1900年) | アメリカ合衆国 第18代大統領ユリシーズ・グラント(1822-1885年) |
この高尚な演劇は、海外からの客人にも披露されました。 1869(明治2)年には、イギリスのアルフレート王子が来日した際に上演されています。アルフレート王子はヴィクトリア女王の次男で、イギリス国王エドワード7世の弟です。 また、欧米外遊の際、各国における芸術保護も視察した岩倉具視は華族による能楽の後援団体設立に向けて動き始め、1879(明治12)年にはアメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントを自邸に招き、能楽を上演するなどもしています。 |
日本の能面
【重要文化財】『増女』(江戸時代)金春宗家伝来、東京国立博物館 | 【重要文化財】『姥』(室町〜安土桃山時代)金春宗家伝来、東京国立博物館 "No mask - Uba Type" ©Kakidai(1 October 2015)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
『黒式尉(こくしきじょう)』 | 『嘘吹(うそふき)』 |
19世紀後期の欧米人にとって、能楽は"日本の皇帝を始めとする王侯貴族たちに愛され、保護され、各国の上流階級や要人のもてなしにも上演される高尚な演劇"でもあったのです。 |
林忠正のマスク(バルトロメ作 1892年) 【引用】Musee d'Orsey / Albert Bartholome Tadamasa Hayashi |
そうは言っても、実際の日本人の顔立ちは様々です。 理想のエキゾチックな顔立ちを持つ林は、その知識や人柄のみならず顔立ちまでも芸術家たちを魅了したということでしょう。 |
有名作家による肖像彫刻
『ジョヴァンニ・バッティスタ・ソマリヴァの胸像』(ベルテル・トルヴァルセン作 1818年) 【出典】トルヴァルセン美術館HP © Thorvaldsens Museum/Adapted |
『ジョージ4世』(ジュセッペ・ジロメッティ作 1825-1850年頃) © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
普通、有名作家によるオジサンの肖像彫刻なんて、大金持ちが大金を積んでオーダーしないと制作なんてされませんが、林は凄いですね。 |
フランスの画家・彫刻家エドガー・ドガ(1834-1917年)21歳頃の自画像 | ちなみにドガも林のマスクを気に入ったらしく、石膏バージョンはドガ自身が保有していたそうです。 |
Genとジョルジュ・ドン | Gen曰く、今でも欧米の上流階級や芸術家など、美的感度が高く知的階級の人たちは能に興味を持つ人たちが多いそうで、親友であり世界的にも有名な天才バレエダンサー、ジョルジュ・ドンも来日した際に能面を買って帰ったそうです。 2人の出逢いは赤坂にあったGenの店で、「とても良いものを置いているね。」と、偶然入ってきたドンが数点買ってくれたことでした。 |
私たちがお取り扱いする宝物は万人向きではなく、鋭い美的感覚と知性を持つ限られた人たちにしか真の価値は分からない、一般的にはマニアックなものです。 でも、感性が共鳴できる人が、宝物を通して確実につながっていけるのはとても面白いですね。 鋭い感性だけでは面白くなくて、Genも外国の上流階級や知的階級が興味を持つ日本美術に関して、上質で優れた知識を持っていたからこそこれだけ仲良くなったのでしょう。 他にも、米沢から上京して赤坂に店を出すきっかけをくれた仲良しのエリート外国人がいたのですが、その話はまた別の機会に・・。 |
明治時代に活躍した日本の美術商 林忠正(1853-1906年) | 30年にも及ぶ、パリを中心とした林の活動は欧米の文化に多大に貢献しました。 それはフランス政府から与えられた 1894年 教育文化功労章2級 という実績にも現れています。 あまり知られていなくても、個人レベルで海外で活躍し、大きな影響を与えた日本人は意外といるのです。 |
1-2-1-2. 私費でフランスに渡り万博で金賞を受賞した久保田米僊
明治時代の日本画家・画報記者 久保田米僊(1852-1906年) | 他にも個人レベルでヨーロッパに渡航して活躍した日本人がいます。 林より1つ下の日本画家・画報記者である久保田米僊もそうですが、こちらはちょっと"変わり者"なエピソードが残っています。 代々割烹料理店を営む家の一人息子として生まれましたが、とにかく幼少期から絵を描くのが大好きで、寺子屋でも手習いはせず、絵ばかり描いていました。 |
『バスルームの窓からぶら下がる裸の男』(バンクシー 2006年) | 矢立(筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記用具一式)を腰に挿し、町内の白壁や門に勤王の武士の晒し首を描いてまわり、親を困らせたりもしていたそうです。 落書きアート。 家督を継がせようとする父から絵を禁じられても、深夜密かに起きて描いていました。 |
『内国勧業博覧会 美術館之図』(歌川広重:3世 1877/明治10年)国立国会図書館 |
しかし才能があったようで、父に内緒で絵を習いにいくなどして徐々に頭角を現していきました。 第2回内国絵画共進会展(1884年)で『朧月夜』が最高賞を受賞し、世に知られるようになりました。さらに、内国勧業博覧会でも受賞を重ねていきました。 |
パリ万国博覧会(1889年) |
米僊は1889(明治22)年にパリに私費で渡り、パリ万国博覧会に出品しています。1789年のフランス革命から100周年となる年に開催された万博で、パリのシンボルであるエッフェル塔が建設されたのもこの万博です。参加国35ヵ国、来場者は3,225万人の規模でした。 |
シカゴ万国博覧会(1893年)池の浮島に日本館が見える |
出品者は6万人以上(うち55%がフランス人)という凄い数ですが、米僊の『水中遊魚』は金賞を受賞しています。また、ギメ東洋美術館には『年中行事絵巻』を寄贈し、ローヤル・アカデミー賞を贈与されています。渡欧中には林忠正とも交流しています。 さらに1893(明治26)年には、これまた私費で渡米しシカゴ万国博覧会に出品しています。 |
鉄道王ら資本家たちを運ぶ労働者(雑誌パック 1883.2.7号掲載の風刺画) |
ちょうどアメリカの金ぴか時代の終わりの頃に開催された万博でした。アメリカにおいて資本主義が急速に発展を遂げ、政治腐敗や資本家の台頭、経済格差の拡大が起きた、"拝金主義に染まった成金趣味の時代"です。 |
シカゴ万国博覧会における世界初の巨大観覧車『フェリスの車輪』(1893年) |
コロンブスによる"アメリカ大陸発見"から400周年を記念して開催されたこの万博は金ぴか時代のクライマックスらしく、アメリカの繁栄を誇示するいかにも成金的なもので、『純粋な白人』のみで構成された万博委員会は公然と人種差別をしました。 |
『南天の茂みの雀』(久保田米僊 1901年)アーサー・M・サックラー・ギャラリー | 非西洋のものはアウェー感満載で、多くのものが排除・無視されたこの万博でしたが、それでも米僊は『鷲図』で受賞しました(※この博覧会では受賞の等級は設けられていません)。 該当作品が見つけられなかったので、左は後に描かれてアメリカの美術館が所蔵作品となっている鳥の絵です。 私費で渡航し出品するバイタリティー、そして高い評価を得る確かな実力。凄いですね。 |
『閣龍世界博覧会美術品画譜』(久保田米僊 1893年)大倉書店 | この万博では報道記者として博覧会の様子を描き、『閣龍世界博覧会美術品画譜』として出版しています。 この時代の欧米への渡航は莫大な費用と、旅のリスクが伴います。 今と違い、欧米に渡航しただけで凄いことです。 その見聞録に、当時の日本の上流階級や知的階級も興味津々だったに違いありません。 |
『大日本帝國萬々歳 成歡襲撃和軍大捷之図』(水野年方 1894年) |
右下に描かれた久保田米僊、その息子金僊、諸新聞記者たち | その翌年には従軍画家として日清戦争にも参加しています。 これは同じく明治時代の浮世絵師、日本画だった水野年方による作品です。 危ないでしょうに、画伯米僊君は新聞記者たちや息子金僊を差し置いて、一番前線に近い位置で描いています。 |
『日清戦闘画報』(久保田米僊 1894年) |
この時の米僊の作品は『日清戦闘画報』として出版されました。これらの幅広い活動と実績、そしておそらく米僊も高いコミュニケーション能力を持っていたのでしょう。画家のみならず各界の人々と交流を広げており、特に親しい人の中には森鴎外ら文人もいたそうです。 |
『広島県御安着之図』(楊斎延一 1894年) |
明治天皇からの信頼も厚く、日清戦争の戦争指揮のために設置された広島大本営にも召された際は御前揮毫もしています。欧米諸国に日本が文明国であることを示す必要が強くあった時代、米僊のように欧米で事績を残し、さらに国内にも知見を広めてくれる人物は、次の時代を作る大きな力として高く評価されていたということでしょう。 息子まで絵を描いており、結局父親が一人息子の米僊に継がせようとしていた実家の代々続く割烹料理店はどうなったのか気になるところですが、これほど実績を上げれば父親も納得せざるを得なかったでしょうね。実家を継がなければならなかったから憧れの職業に就けなかったなんて恨み節は、米僊を前にしたらダサ過ぎて言えません。 |
1-2-2. 各地でジュエリーにも影響を与えた日本美術
落成時の鹿鳴館(1883/明治16年) | 日本でも欧米文化が積極的に取り入れられ、欧米化主義が始まった明治10年代後半は『鹿鳴館時代』と呼ばれます。 |
『貴顕舞踏の略図』(楊洲周延 1888年)鹿鳴館での舞踏会の様子 |
しかしながら影響は一方通行にはなり得ません。日本美術も明らかに欧米各地で様々な影響を与えているのです。 |
1-2-2-1. 初期のジャポニズムのスタイル
『扇』 5カラー・ゴールド ブローチ アメリカ? 1890年頃 SOLD |
ジュエリーの場合、比較的初期の時代には日本のモチーフがそのまま表現されたりしています。 |
『提灯』 ロケット ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
『道を照らす提灯』 クラバットピン フランス 1910年頃 ¥420,000- (税込10%) |
それまでに見たことのない欧米人にとっては、日本の美術工芸品というだけでも珍しくて面白いです。 だからこそこのように、そのままモチーフにしたジュエリーが制作されているのです。 |
『破れ団扇』 エナメル ブローチ フランス 1880-1890年頃 SOLD |
『破れ団扇』を黄金と宝石とエナメルで表現しちゃうなんて、日本人から見ても面白いですね。 壊れた団扇に余韻のある美しさを感じるなんて、大量生産の消耗品に慣れた今の日本人でも驚く人が結構いそうです。きっと当時の欧米人も驚いたでしょう。 大半の人は「意味が分からない。」で終わりそうですが、当時、日本人のように破れ団扇の美に強く共感できる、豊かな感性を持つヨーロッパの上流階級がいて、特別に作らせたということでしょう。凄いです。 |
1-2-2-2. フランスでアールヌーヴォーの1ジャンルとなったジャポニズム
サミュエル・ビングによる大判美術月刊誌『芸術の日本』の表紙(1888-1891年) | 『アヤメ』 プリカジュール・エナメル ブローチ フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
フランスを中心とした19世紀末から20世紀初期におけるアールヌーヴォーでは、ジャポニズムが1つのジャンルとなっています。 |
ベルエポックの精神を表現したポスター(1894年)ジュール・シェレ | 折しもパリはベルエポックの時代。 1870年の帝政から共和政に移行したフランスは、ファッションリーダーが王侯貴族から女優などの有名庶民へと変化し、経済を牽引するのも旺盛な消費意欲に沸く若い庶民の女性へと変わりました。 |
ボン・マルシェ百貨店(1887年) |
教養や美的感覚がない彼女たちは大挙して百貨店に押し寄せ、ぱっと見には高そうに見える安物を大喜びで買いまくりました。 |
エミール・ゾラ(1840-1902年)の肖像(マネ作 1868年) | そのあまりの状況に知的階層はドン引きし、その一人であったエミール・ゾラもその様子を思わず著書『ボヌール・デ・ダム百貨店』に買いたほどです。 |
【参考】大衆向けアールヌーヴォー・ペンダント | |
彼女たちが喜ぶのは『ゴールド』というだけで価値があるように見えた代物であったり、ブランド物的に販売できる作家物、少女チックなチャチなものです。 19世紀末のフランスで日本美術が人気が高かったと言っても、正直それは一部の上流階級や知的階級の中だけです。庶民は日本美術の良さはさっぱり分かりませんし、興味も抱きません。故に庶民にまで販売しようとしていた日本商社のパリの店は次々と店を閉じています。パリにあった林の店舗も1891年には門を閉め、大金持ちの客のみを相手にするようになっていました。 |
1-2-2-3. アメリカにおけるジャポニズム
エドワード・C・ムーア(1827-1891年) | アメリカでは代表的な高級宝飾店であるティファニーで、ジュエリー・デザインと銀器部門を統括するエドワード・C・ムーアが、重要な作品としてジャポニズムと考古学風の作品を残しています。 |
エドワード・C・ムーアによる銀器(ティファニー 1878年) " Edward c. moore per tiffany & co., brocca in argento, oro e rame, new york 1878 " ©Sailko(28 October 2016, 22:05:06)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | アメリカはヨーロッパの上流階級から文化的には下に見られていました。 それを打破すべく、ムーアは古今東西の美術を熱心に研究し、弟子たちにもそうするよう指導しました。 |
ティファニーの天才デザイナー ジョージ・パウルディング・ファーナム(1859-1927年)1900年 | 【パリ万博グランプリ受賞作】アイリス(ティファニー 1900年頃)ウォルターズ美術館 Tiffany and Company - Iris Corsage Ornament - Walters 57939" ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
右は『アールヌーヴォーの祭典』とも呼ばれる1900年のパリ万博で最高賞のグランプリを受賞した、ティファニーの『アイリス』です。ムーアの元で学んだ天才デザイナー、ジョージ・パウルディング・ファーナムがデザインしたものです。おそらくこの『アイリス』もジャポニズムです。 |
サミュエル・ビングによる大判美術月刊誌『芸術の日本』の表紙(1888-1891年) | 『あやめにきりぎりす』(葛飾北斎 1820年) |
アヤメは世界でもトップクラスの知名度を誇る浮世絵師、葛飾北斎の作品の題材にもなっています。日本の美術を紹介するサミュエル・ビングの『芸術の日本』の表紙のモチーフにもなったことがあり、この時代にアヤメと言えば日本と言えるほど、欧米の上流階級や知的階級には強いイメージがありました。 |
ルイ・ゴンス著『日本美術』の装丁(カミラ・マーティン&ルネ・ウィーナー 1893年) |
林が著述を手伝ったこともある日本美術の専門家、ルイ・ゴンスの著書『日本美術』の装丁にもアヤメが描かれています。アヤメには日本の代表的な美しい花というイメージがあったのです。 |
創業者の息子ルイス・カムフォート・ティファニー(1848-1933年) | ティファニーの創業者チャールズ・ルイス・ティファニーの息子、ルイス・カムフォート・ティファニーはステンドグラス作家として非常に才能があり、連作『四季』は『アイリス』と同時に万博でグランプリを受賞しています。 ルイスはアメリカにおけるアールヌーヴォーの第一人者として知られ、アメリカではアールヌーヴォーを『ティファニー』と呼んでいたほどです。 そのルイスの作品もやはり日本美術の影響が見られるものがあり、アメリカでも特に高級なジュエリーや美術工芸品で、間違いなく日本美術は影響を及ぼしていたと言えるでしょう。 |
1-2-2-4. イギリスにおける日本美術の影響
『MODERN STYLE』 ダイヤモンド ゴールド ブローチ イギリス 1890年頃 SOLD |
イギリスでは他国よりもっと進んでいて、モチーフではなく日本美術の様式自体を高次で取り入れ、従来の西洋美術と融合・昇華させた『モダンスタイル』が生まれています。 |
『草花のメロディ』 ネックレス イギリス 1900年頃 SOLD |
『WILDLIFES』 天然真珠 ゴールド・ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
『STYLISH PINK』 ピンクトルマリン ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
それらは現代の日本人にとって、一見しただけでは日本美術の影響を受けているようには見えません。 |
『The Great Wave』 モダンスタイル サファイア ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
なぜならば、このスタイルこそが後のアールデコへとつながり、現代に通ずるインターナショナル・デザインへと進化していくからです。 100年以上も後の、今の"現代人"にとっては当たり前のデザインとなっているからこそ画期的デザインには見えないかもしれませんが、当時モダンスタイルは非常に革新的でした。 |
【参考】アールヌーヴォーの粗造乱造の安物 | |
ダメなものは瞬間的にはどれだけ持て囃されても、やがては飽きられ忘れ去られる運命です。 |
『Samurai Art』 モダンスタイル アクアマリン&天然真珠 ネックレス イギリス 1900〜1910年頃 SOLD |
一方で、真に優れた普遍の魅力を持つは一過性の流行に終わることなく、浸透した後は定番化します。 モダンスタイルは非常に強い魅力を持つ新しいデザインでした。 ファッションリーダーとなる上流階級ほど新しいものに敏感で、それはいち早くハイジュエリーや高級小物のデザインにも現れるものです。 |
『白鷺の舞』 舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット イギリス 1870年 SOLD |
王侯貴族の力が強く、大英帝国自体が財力もあったイギリスでは、かなり早い段階で和のモチーフを最高級の小物に取り入れることを経験しています。 |
だからこそ1900年頃となれば、もっと進化したデザインも多く出てきており、ジュエリーも旧来のヨーロッパ貴族らしい雰囲気のものは殆ど見なくなります。 その点で、このピアスはとても珍しい、古のヨーロッパ貴族らしい王道スタイルのデザインと言えるのです。 |
1-3. 意外と珍しい19世紀末頃の正統派デザインの高級品
デザインにおける時代の転換期と言えるこの時期に、高級品として作られた正統派の"王道デザインのジュエリー"は意外と珍しいです。 |
1-3-1. 流行の最先端を行く王侯貴族のハイジュエリー
フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793年) | ルイ15世の時代までに積み上げられ、最早誰にもどうしようもないほど酷い状況にあったフランスの財政難の原因を全て被せられたフランス国王ルイ16世妃マリー・アントワネットでしたが、ファッションリーダーとして新しいスタイルを提案し、流行と文化を作り出すのは当時の王族の重要な役目の1つでした。 |
ファニー・ケンブル(1809-1893年) | ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)、持つ者の義務。 貴族を始めとするイギリス紳士の精神を象徴して使われるこの言葉は、ファニー・ケンブルと言う女性が1837年の手紙に出てくるのが最初です。 「……確かに"貴族が義務を負う(noblesse oblige)"のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」 貴族に自発的な無私の行動を促す、明文化されない不文律の社会心理の核心としてこの言葉は定着しています。 |
兄、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の結婚式で祝いで踊る9歳のマリー・アントワネット(右)1765年 | "持つ者"の義務。 「あたしお姫様になりた〜いっ♪」 王族として生まれることで、自動的にお姫様になります。これは生まれ持つ宿命であり、努力せずとも生まれながらにお姫様にはなれます。 しかしながら、天から与えられた役割であり、その役割は全うせねばなりません。 努力せず生まれながらに富と権力を与えられても、その与えられたものに見合う役目を果たさねばならないのです。 |
オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年) | 君主として国を富ませ、文化的にも豊かにし、他国から守り、民を導く。 だから将来国のトップとなることが運命づけられた者は物心もつかぬような幼少期から、虐待ではないかというレベルで帝王学やあらゆる方面の教養を詰め込まれます。 |
イギリス国王エドワード7世(1841-1910年)5歳頃 | それはヨーロッパのどの王族でも同じです。 ヴィクトリア女王夫妻の長男バーティ(国王エドワード7世)への教育も、半ば虐待と言っても良いほどの内容だったそうです。 多少なりともグレたようなエピソードも残っていますが、最後はエドワード7世も大英帝国の国王として国のため、世界のために過労死しています。 でも、彼らはそれが"持つ者の当然の義務"として、不平不満を持つことなく当たり前のこととしてやるのです。 |
100人以上いたとされるエドワード7世の愛人の1人 女優サラ・ベルナール(1844-1923年) | 権利には必ず義務が伴う。 庶民の中でも愚かな者ほど"権利"にのみフォーカスし、ゴシップや王侯貴族としての振る舞いや持ち物を「贅沢だ!」と殊更に騒ぎ立てるものです。 楽して遊んでばかりいると勘違いし、"義務"の部分を見ようともしません。 でも、それも"持たない者"だからしょうがないこと。富と権力だけでなく、教育を施されず然るべき経験ないため、知識や想像力を持たないのですからしょうがないことなのです。 これこそ君主、貴族たち、庶民との厳格な違いであり、持つ者の義務があると同時に、持たぬ者に必要以上の義務を求めてはならないという考え方なのです。 |
準男爵ハンス・スローン(1660-1753年) | それでも持たぬ者として生まれながら、自身の才能を駆使して懸命に世の中に貢献し、人々の尊敬を集める者も結構いたりします。 ノブレス・オブリージュの精神が根付くイギリスには特に多いイメージがありますが、これがイギリスの強さの1つのようにも感じます。 愚民に甘んじ、愚民に徹し、愚民に終わるのも人生。与えられた義務以上に努力し、人々の役に立ち、尊敬を集めるのも人生。 |
スピネットを弾くマリー・アントワネット(1755-1793年)1769年頃、14歳頃 | とは言え、身分が高くなるほど万人への影響は大きくなります。 だからこそ王侯貴族はよりその責務を強く認識し、しっかりと努力を重ねるのです。 王侯貴族の女性に主に求められるのは政治経済や軍事面ではなく、芸術や文化の発展への貢献などです。 |
イギリス王ジョージ3世とシャーロット夫妻と上の6人の子供たち(1770年) |
18世紀末の神聖ローマ帝国からの花嫁たちも、嫁入り前にしっかりと必要な教養やプロトコル、マナーを身に付けて各国の王室に嫁ぎました。 イギリス国王ジョージ3世の妻となった神聖ローマ帝国出身のシャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツは夫婦円満で政治には決して口を出さず、芸術文化に秀でた王妃でした。そのためイギリス国内でもシャーロット王妃は高い人気がありました。 |
イギリス王妃シャーロット・オブ・メクレンバーグ=ストレリッツ(1744-1818年) | クリームウェア(1770-1775年)ウェッジウッド美術館 |
ジョサイア・ウェッジウッドにより新しく開発された白く美しい『クリームウェア』も王妃が称賛し、ジョージ3世も大変気に入ったことからウェッジウッドは王室御用達となり、しかも『クイーンズウェア』の命名まで許されました。 |
ロシア皇帝エカチェリーナ2世(1729-1796年) | フロッグ・サービスの1枚(ウェッジウッド 1774年)ブルックリン美術館 |
人気の高いシャーロット王妃のお気に入りということでウェッジウッドは名声を高め、ウェッジウッドは王妃のみならずたくさんの王侯貴族からオーダーされる一躍人気の陶工となりました。その名声は海外にも届き、ロシア皇帝エカチェリーナ2世からも『フロッグ・サービス』の制作という大きな仕事も受けています。 エカチェリーナ2世も神聖ローマ帝国連邦君主アンハルト=ツェルプスト侯クリスティアン・アウグストの娘であり、ロシア皇室に嫁いだ神聖ローマ帝国の花嫁でした。たまたま君主になりましたが、君主として国を治めるのみならず、嫁いできた女性として芸術分野でも貢献しています。 |
ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年) | ブラックバサルトのキャンドルホルダー(ウェッジウッド 1771年頃) © Victoria and Albert Museum, London/Adapted | 矢筒(ウェッジウッド 1785-1790年頃) |
このような形で王侯貴族が優れた才能を持つ芸術家や職人たちのパトロンとして、研究開発や制作に必要なお金や時間を惜しみなく提供してくれたからこそ、昔は優れた物が生み出せたのです。1766年に『王妃の陶工』を拝命したウェッジウッドは名声を得た後も惜しみなく研究開発に尽力し、クリームウェアのみならずブラックバサルトやジャスパーウェアの開発にも成功したわけです。 |
マリー・アントワネット(1755-1793年)1762年頃、7歳頃 | シャーロット王妃とマリー・アントワネット王妃は同じ神聖ローマ帝国出身で、音楽や芸術への興味が非常に共通しており、直接会ったことはないものの、手紙などのやりとりで非常に親しくしていたそうです。 マリー・アントワネット王妃もシャーロット王妃同様、君主の妻としてやるべき務めを真面目に行っていただけなのですが、嫁ぎ先でこれだけ違いが出てしまうとは。 フランス国王ルイ16世もイギリス国王ジョージ3世もそれぞれ全く浮気することなく妻一筋だったそうですが、どちらの女性が嫁いでもフランスでは王妃は悪口を叩かれ革命が起こっていそうです。 |
1-3-2. 19世紀末のアクアマリンのハイジュエリー
1-3-3. 時代を反映する王侯貴族の特別なハイジュエリー
実際に時代ごとに特徴的なジュエリーを並べてみると、いかに最先端のモチーフや素材、テクノロジーなどが取り入れられているのかが分かります。 |
【最先端の宝石】 南アフリカのダイヤモンドラッシュに伴う高品質の巨大ダイヤモンド |
【最先端の文化】 開国に伴う日本美術 |
【最先端のデザイン】 自然界のありのままの姿をデザインしたアーツ&クラフツ |
『財宝の守り神』 約2ctのダイヤモンド・ブローチ フランス 1870年頃 SOLD |
『白鷺の舞』 舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット イギリス 1870年頃 SOLD |
『Tweet Basket』 小鳥たちとバスケットのブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
【最先端の宝石】 ウラル山脈開発に伴う新発見の宝石 |
【最先端の新素材】 新開発の画期的な素材ホワイトゴールド |
【最先端のカット】 南アフリカのダイヤモンドラッシュに伴うカット技術の近代化 |
『ウラルの秘宝』 ウラル産デマントイドガーネット リング イギリス 1880年頃 SOLD |
『至高のレースワーク』 リボン ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
『The Beginning』 プレ・プリンセスカット・ダイヤモンド&エメラルド リング イギリス 1910年頃 SOLD |
【最先端の文化】 高級ホテルとフランス料理の進化による最先端デザート |
【最高級の素材】 戦争需要とジュエリー需要の増大に伴うプラチナ価格の高騰 |
【世界最速の豪華客船】 大西洋世界最速横断記録でブルーリボン賞に輝いた1935年建造の洋上の宮殿 |
『甘い誘惑』 天然真珠 ボンブリング イギリス 1920年頃 SOLD |
『ホワイト・レディ』 天然真珠&プラチナ スーパーロング・チェーン イギリス 1920年代 SOLD |
『ノルマンディー号』 後期アールデコ ペンダント フランス 1935年 SOLD |
挙げると本当にキリがないのですが、王侯貴族のために作られた本当のハイジュエリーにはかなり高い確率で時代ごとの流行の最先端が何らかの形で取り入れられています。当時の王侯貴族のような高い教養や想像力を持たない現代の一般的な人たちは、ただ高そうな宝石が付いているものだけが王侯貴族のハイジュエリーと勘違いするのですが、それはごく一部のハイジュエリーに過ぎないのです。 |
1-3-4. 時代の最先端を反映する以外の王侯貴族のハイジュエリー
1-3-4-1. 特別な石を使った宝石主体のジュエリー
式典での正装 | 普段着 |
イギリス王妃アレクサンドラと娘ヴィクトリア王女 | アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844-1925) |
大きな宝石が付いた派手で目立つジュエリーは、王侯貴族にとって特殊な場でしか使いません。普段接する上流階級の人々のみならず、教養のない庶民まで含め広く万人に富と権力を示す場で使います。 巨大な宝石やたくさんのジュエリーは、教養がない庶民にも高そうに見えるからです。このため庶民が普段目にするのはジャラジャラとゴージャスなジュエリーを身に着けた王侯貴族の姿であり、それ故に王侯貴族はいつもこのようなジュエリーを着けて社交を楽しんでいると勘違いする庶民が多数生まれるのです。 でも普段、王侯貴族が身に着けるのはもっと教養や美意識の高さを感じる、大半の庶民には分かりにくくても分かる人には分かる、上質なジュエリーです。こちらの方が本来の人物を反映しますし、本人も気に入っているものです。王侯貴族のジュエリーに派手で目立つ物と、教養の高さを感じる奥深くアーティスティックな物など、方向性が異なる物があるのはこのためです。 |
特殊な細工物のジュエリー | |
ピエトラドュラ バングル イタリア 1860年頃 SOLD |
『情愛の鳥』 卵形天然真珠 ブローチ イギリス 1870年頃 SOLD |
デザインや細工が重要なジュエリーの場合、"アーティスティックなデザインを想像する芸術家的な才能"であったり"超難度の作りを実現する神技の技術"であったり、その職人でなければ作れない『職人依存度の高いジュエリー』となります。 |
同じ工房名でも別の作家のジュエリー | ||
古代エトルリア | カステラーニ | |
初代 | 息子 | |
ゴールドとペーストの円盤 古代エトルリア 紀元前530-紀元前480年 大英博物館 |
ゴールドの円盤 イタリア 1858年 ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted |
古代コインのゴールド・ピアス イタリア 1870-1880年頃 ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted |
同じ工房名を標榜しても、その職人がいなければ二度と同じレベルの作品を作ることは叶いません。王侯貴族が主要購買層だった時代だと、目の肥えた上流階級にはレベルの落ちた物は支持されません。稀代の職人がどれだけ名声を確立しても、次やその次の代くらいで工房は終わりを迎えます。 それはカステラーニの例を見ても分かります。人類史上最も高度な金細工技術を持つ古代エトルリアの作品に憧れて制作された、初代カステラーニの作品は確かに各地の上流階級や知的階級から名声を得るに相応しいものでした。しかしながら1865年に初代が亡くなり、目を光らせる存在がいなくなった結果、右のようなショボ過ぎるジュエリーを平気で販売する店と成り果てました。 それでも初代が確立したカステラーニ・ブランドによって、ビジネス的には何とか成り立ったのでしょう。買うのは従来の上流階級のようには目利きができない、ブランド名だけが頼りの成金富裕層だけです。それでも19世紀後期はイギリスで中産階級が益々力を付けて新興成金が増えていましたし、金ぴか時代に湧くアメリカの成金富裕層も増えていましたから、ショボいジュエリーをブランド価格で販売して暴利を貪ることで存続できました。しかし、それでもやがて終焉を迎えました。 |
同じブランド名でも別の作家のジュエリー | |
創業者の時代 | 現代 |
懐中時計(ペンダントウォッチ) ティファニー 1880年〜1890年頃 SOLD |
【参考】合計0.28ctのダイヤモンドの時計 ティファニー 現代 【引用】TIFFANY & CO / ティファニー アトラス |
もう少し後の時代だと、内容が劣化しても主要購買層がほぼ庶民となるため、ブランド名だけで生き残りやすくなります。現代ジュエリーがそうです。内容は完全に劣化し、創業時とは似ても似つかない状態で、ブランド名だけが残骸のように残っています。 |
シトリン ネックレス&イヤクリップ イギリスorフランス 19世紀初期 シトリン、18ctゴールド SOLD |
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稀少価値の高い宝石の場合、デザインが飽きたり時代遅れになったりしたらリメイクする手もありますが、巨大だとデザインを施す余地が少ないですし、宝石を目立たせたいという意向もあるので定番デザインになる傾向が高いのでしょう。王侯貴族のハイジュエリーであっても、このように宝石主体のジュエリーの場合、様式は当時のものでも最先端のデザインや文化などを積極的には取り入れていないことがあります。 |
1-3-4-2. プライベートなジュエリー
『アンズリー家の伯爵紋章』 ジョージアン レッドジャスパー フォブシール イギリス 19世紀初期 ¥1,230,000-(税込10%) |
仕事で実用品としても使う、印鑑としての役割のあるフォブシールなども流行の最先端は取り入れられない傾向のあるジュエリーです。 |
『湖の畔で』 ミニアチュール(細密画)ブローチ イギリス 1780年頃 SOLD |
『木の葉』 ヘアジュエリー メモリアル ブローチ イギリス or フランス 1820年頃 SOLD |
特定の個人を描いたミニアチュールであったり、特定の故人を忍ぶジュエリーであったり、プライベートな要素が強いジュエリーも、一般的には流行の最先端は取り入れられないジュエリーと言えます。 |
1-3-4-3. 信仰のためのジュエリー
『古のモダン・クロス』 クロス・ペンダント フランス 18世紀初期 SOLD |
『平和のしるし』 ローマンモザイク デミパリュール イタリア 1860年頃 ¥2,030,000-(税込10%) |
『真心』 ロケット・ペンダント イギリス 1880年頃 SOLD |
これもプライベートなジュエリーと言えますが、信仰のためのハイジュエリーも同様です。王侯貴族のためのハイジュエリーらしく、お金をかけて極上の技術で丁寧に作られていても、最先端のデザインや文化を取り入れたものにはなっていません。 |
1-3-4-4. 定番で長く使うためのジュエリー
1-3-5. 珍しいタイプの王道デザインのジュエリー
このような中で、唯一無二の特別な宝石を使っているわけではなく、プライベートな意味のあるジュエリーでもなく、定番デザインで作られたジュエリーというわけでもないのに、当時の最先端がデザインに取り入れられていないハイジュエリーというのはかなり珍しいです。 定番ではありませんが、ヨーロッパの上流階級の王道と言える清楚で華やかで気品のあるデザインには、時代を超越した普遍の魅力があります。 |
岩倉使節団(1871年11月に横浜港を出港、1年10ヶ月に渡り欧米諸国を巡る) 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 |
この宝物をオーダーしたのは、西洋版の岩倉具視のような人物だったように感じます。岩倉は西洋の科学や文明は高く評価していたものの、文化面においては日本の伝統文化を重んじており、髷は日本人の魂であると考えていました。だからこそ1871(明治4)年8月に断髪令が出されても髷を落とすことを拒否し、11月に髷のまま遣欧使節団の代表として横浜港を出港しました。 周りは洋装なので超目立ちますね。日本人本来の格好をしているだけですし、少し前までは皆が岩倉のような出立だったはずなのに・・。 |
岩倉具視(1825-1883年) | この超目立つ日本の全権大使、岩倉をアメリカ人が見世物小屋のサルのように面白がって見物に来るため、仕事上の不利と照らし合わせ、国益を考えて結局髷を落とし、洋装にしました。 アメリカ人けしからん。いかにもアメリカ人っぽいですが(笑)
装いは変えても魂までは売らない。そう考えながらの、苦渋の決断だったことでしょう。 全権大使という責任ある立場でなかったら、きっと自国の文化にプライドを持ち、そのまま和装を続けたと思います。 |
このように従来のヨーロッパのデザインが好きで誇りを持ち、変わりゆく時代の中で守り続けたいと感じた誰かが、この特別な宝物を作らせたのでしょう。 |
岩倉も公家出身の日本の貴族ですし、このピアスの持ち主も貴族階級だったはずです。 変わりゆく時代の中で、このような王道デザインのジュエリーをオーダーするのは非常に特別なことです。 知性が高く、自身の生まれ育ちにプライドを持った、凛とした強くて美しい女性だったに違いありません。 それはこのピアスの作りの素晴らしさにもよく現れています。 |
2. 天然真珠を駆使した抜群のデザイン力
このピアスが作られたのは、史上最も天然真珠の評価が高かった時期です。 現代はいくらでも安く量産できる養殖真珠が本物の真珠ヅラして出回ったこと、ダイヤモンド業界による戦略的プロモーションが上手くいったことがあり、ダイヤモンドが最高級宝石というイメージを持たれていますが、この時代の天然真珠はダイヤモンド以上に高価でした。 その最高級の宝石を駆使して、非常に凝ったデザインで作られています。 |
2-1. 丸ごとの天然真珠とハーフパールの使い分け
一番上のパーツから順番に見ていきましょう。 4枚の花びらを持つお花がハーフパールと丸ごとの天然真珠を使って表現されています。 |
【参考】同時代の安物のアクアマリン&天然真珠のジュエリー | |||
安物の場合はコスト的メリットを理由に、確実にハーフパールが選択されます。ハーフパールにも質によってランクの違いがあり、安物のハーフパールは全く美しさが感じられません。ダイヤモンドだから高価、ルビーだから高価とは必ずしも言えないのと同じで、質は本当に重要です。 |
コストよりも美しさが優先される王侯貴族のハイジュエリーの場合、デザイン上どうすると一番美しく見えるかでハーフパールなのか丸ごと使うのかが選択されます。 ハーフパールは周囲に馴染みます。 一方で、丸ごと使うと高さが出ることによって際立ち、立体感のある印象的な美しさや存在感が感じられます。 |
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『草花のメロディ』 サファイア&天然真珠 ネックレス イギリス 1900年頃 SOLD |
それは金属の造形であったり、フレームを立体的に作ることで成されることもあります。 |
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『妖精のささやき』 ダイヤモンド・ピアス イギリス 1880年頃 SOLD |
『キラキラ・クロス』 天然真珠 バーブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
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カットして使う宝石であれば、高さは目的に合わせて如何ようにもできます。アンティークのダイヤモンドのカットには、それぞれのカットに名称はあっても、プロポーションに制約はありません。同じオールドヨーロピアンカットでも高さが欲しい時は、厚くカットすれば良いだけなのです。超贅沢な話ですが・・(だから現代ジュエリーではやりません)。 |
アクアマリン&天然真珠 ネックレス イギリス 1890年頃 SOLD |
そして、天然真珠を使って立体感を出すやり方が、ハーフパールと丸ごとの天然真珠の使い分けです。 このネックレスも今回のピアス同様、4枚の花びらはハーフパール、花芯は丸ごとの天然真珠で表現されています。 このような使い分けによって、天然真珠でデザインされた箇所に抜群に立体感が出ています。 これこそ高級品の証であり、見る者の瞳に印象的に映る美しいジュエリーとなるのです。 ちなみにこのネックレスも現代人にとっては正統派の王道デザインに見えますが、フランス革命からおよそ100年後の当時にとっては、ガーランドスタイル(ルイ16世様式、マリー・アントワネット様式)というリバイバルによる最先端のデザインだったと言えます。透かしのデザインもあるため、日本美術の影響を受けたモダンスタイル的な要素も入っていると言えます。 |
このピアスのお花の表現で素晴らしいのは、花びらのハーフパールと花芯の丸ごとの天然真珠の使い分けに加えて、花びらを造形したゴールドのフレームも立体的に作ってあることです。 花びらのフレームは単純な形状ではなく、先端に向けて緩やかに曲率が付けられた、余韻を感じる心地よい形状です。 |
立体的に厚く造形された花びらの深い位置に、照り艶の良い上質なハーフパールが丁寧にセットされています。 フレームも、ハーフパールをセットした爪も丹念に磨き上げられており、高級感のある黄金の輝きを放ちます。 |
4枚の花びらは少しだけ内向きにセットされています。これが清楚に見える重要なポイントです。お花は開ききったら後は枯れゆくのみです。全開のお花では初々しさを感じられませんし、清楚に見えません。一見、大したことがなさそうに見えますが、このようなデザイン上の細心の気遣いが全体に雰囲気に大きく影響するのです。 それにしても、この角度で見ると花びらにセットされたハーフパールにも、かなり高さがあることが分かりますね。安物だと高級品には使えない、質が悪く歪な天然真珠を無理やり使っているので、このような高さがあって美しい形状のハーフパールが使われることはありません。お花のパーツ1つ取ってみても、このピアスが最高級品として作られたことが分かります。 |
2-2. ナイフエッジによる点線の視覚効果
このピアスの上下のパーツを連結するのは、ナイフエッジで作られた縦長のパーツです。 このパーツはかなり特殊です。 |
ナイフエッジは裏側を厚く、正面は細く鋭角三角柱に金属を整えることで、ジュエリーとして100年以上の使用に耐える強度を確保しつつ、正面から見た時に金属の存在感を限りなく小さくすることで繊細な美しさを感じさせる技法です。 |
『シンプルイズベスト』 ペリドット ネグリジェ・ネックレス イギリス 1910年頃 SOLD |
『Demantoid Flower』 デマントイド・ガーネット&ダイヤモンド バーブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
『シンプルイズベスト』のように、限りなく細いながらも、強い存在感を放つ切れ味の鋭い"線の美しさ"を表現することも可能です。 逆に『Demantoid Flower』のように身に着けるとナイフエッジ部分が完全に存在感を消すことで、宝石で表現された部分がまるで宙に浮いているように見えるという、宝石を際立たせる名脇役的なことも可能です。 |
このピアスでは後者の、存在感を無くすことで宝石を際立たせることが目的のナイフエッジですが、通常のハイクラスのジュエリーでも見ないレベルの配慮がなされています。 |
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サイドからご覧になると、ハーフパールをセットした円筒形のパーツが、ナイフエッジのツラ位置に対してかなり飛び出してセットされていることがお分かりいただけると思います。 小さなピアスなので、これだけ狭い間隔でナイフエッジに天然真珠をセットしていること自体が驚異的なのですが、さらにこれだけ高さに差をつけて綺麗に円筒形のパーツを綺麗にセットするのは驚くべき高度な技術です。 |
でも、その神技の技術によって素晴らしい視覚効果が生まれています。 ただでさえ存在感が薄いナイフエッジですが、それが天然真珠よりもかなり奥まった位置にあることで、ピアスとして着けた際は天然真珠だけの点線にしか見えないのです。 白いお花から水々しい清らかなアクアマリンへと流れ落ちる、白い天然真珠の雫。 ナイフエッジを巧みに生かした、唯一無二の不思議な視覚効果から目が離せなくなってしまいます。 |
とても美しく、面白さもあるので類似のものが作られていても良さそうなものですが、45年間でこのような細工を他に見たことがありません。 類似品を作ることが困難な、非常に高度な技術を必要とする細工であるからに他なりません。 |
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←↑等倍 |
2-3. 華やかさを添える上下左右の天然真珠
アクアマリンの上下左右にあしらわれた天然真珠も、全体の雰囲気に大きく効いています。 単純にアクアマリンだけがセットされている場合を想像すると、いかにこの4粒ずつの天然真珠が大事なのかがお分かりいただけると思います。 無いと、一気に単純になってしまいます。 連続した1つのデザインとして全体をまとめ上げ、かつ清楚さの中に王侯貴族らしい華やかさを出すにはアクアマリンの周囲を彩る天然真珠は必須なのです。 |
連続して見せるために、ナイフエッジの天然真珠とアクアマリンの上下左右の天然真珠は同じ大きさに揃えてあるのもポイントです。かなり緻密に計算してそれぞれの天然真珠の配置がデザインされており、作者の美的感覚とデザイン力は見事と言う他ありません。 現代の養殖真珠のように脱色して染色(調色)していないため、工業製品のように完璧には色が揃っていませんが、天然真珠の証ですし、肉眼で見て違和感がないほど色だけでなく照り艶などの質感も揃っています。使用する天然真珠が1粒増えるだけでも色や質感、大きさや形を揃えるのが格段に難しくなりますが、その困難に妥協することなく最高に美しいデザインで作り上げようとしたからこそ、この宝物は生まれることができたのです♪ |
3. 揺れて煌くアクアマリン
3-1. 存在感のある水色のアクアマリン
このピアスのアクアマリンは色が濃すぎず、淡く清らかな水色です。 天然真珠の清らかな白色と相性ピッタリの水色で、これが清楚な雰囲気の元となっています。 |
涼やかなアクアマリンは暑い夏に似合う宝石というイメージがありますが、一方で白色と水色の組み合わせは清楚さを感じる正統派の組み合わせでもあるのです。 可愛らしいだけになりがちな白とピンクの組み合わせと異なり、知的な雰囲気もありますよね。 |
ピアスの全体の大きさからすると、大きめのアクアマリンが使ってあるので、アクアマリン自体にもしっかりと存在感があります。 |
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←↑等倍 |
3-2. アクアマリンの特徴を生かす揺れる構造
このピアスは2箇所で揺れる構造になっています。 一番下のパーツは上のパーツの揺れが重なり、揺れが増幅されるため、かなり揺れます。 2箇所とも左右のみならず、前後にも揺れる構造です。 |
但しとても驚いたのが、アクアマリンのパーツのみ正面より奥には揺れないよう金具の後ろにストッパーを付けてあることです。 ちょっと分かりにくいですが、アクアマリンの上にセットした天然真珠のフレームの、上部後方に小さな突起が付けてあります。 また、変に揺れ動き過ぎぬよう、一番下の天然真珠のフレームにはゴールドの板を取り付けて重さを足してあります。 |
実際にこのピアスを作り上げた後、実際に着用し、揺れを確認してから微調整した結果だと推測します。 単なる"静止した時の見た目の美しさ"だけでなく、揺れた時の美しさまで妥協することなく追求した証です。 その圧倒的な美意識の高さに驚くと共に、だからこそ変化の大きい時代に於いて、これだけ拘りの強さを感じる正統派の王道デザインでピアスをオーダーしたのだろうと感じます。 |
【参考】アクアマリン・ネックレス ¥1,001,000-(ティファニー 2019.12現在) 【引用】TIFFANY & CO / ティファニー ソレスト アクアマリン ダイヤモンド ペンダント | 現代ジュエリーには美意識のカケラも、知性のカケラもないため、ジュエリーをデザインする際に煌めきの美しさは殆ど考慮されません。 販売者、購買者の双方共が意識が低いため、気にするのは色と大きさくらいです。 だから黄ばみを消して青を濃くするための加熱処理がアクアマリンでも当たり前になっており、市場で見るのもどれも似たり寄ったりの水色の石ばかりです。 確かにアクアマリンの水色は魅力的ですが、アクアマリンの魅力は色だけではありません。 |
アクアマリンはその煌めきの美しさも特徴の1つです。水色の石に煌めきが重なった時の美しさには、他の宝石にはない魅力があります。アクアマリン色の海から反射する、溢れんばかりの陽光。 |
絶えず波で揺れ動く海のように、このアクアマリンのピアスは着用者の動きに合わせて耳元で揺れ動くことで、キラキラとその美しい輝きを放ちます。 |
このピアスの作者はアクアマリンの特性も理解し、最高に生かすために頭を悩ませて美しく揺れるよう設計し、技術と手間をかけて作り上げたのでしょう。そして、このピアスをオーダーした女性もこの素晴らしい出来栄えに満足したに違いありません。 |
裏側
裏側も、オールハンドメイドならではの完成度の高さを感じる細工と仕上げがしてあります。 鋳造で作る現代ジュエリーは、どれだけ高価なものでもボテっとしてスッキリ見えません。1億円以上の現代ジュエリーを制作していた職人さんに作品を見せてもらったことがありますが、現代のトップクラスの職人がハンドメイドで作っても、樹脂型を使った鋳造だとこれが限界なのかとGenもガッカリしていました。 アンティークジュエリーの全てが、今は作れないというわけではありません。当時の安物ならば、今でも十分作れます。でも、当時のトップクラスの職人が制作したこのクラスのジュエリーは、もう二度と生み出せません。それを身に染みて感じる、素晴らしい出来です。 |
着用イメージ
室内光で撮った画像ですが、それでもはっきりとアクアマリンが煌めいています。 清楚で気品ある雰囲気のピアスは、様々なシーンでお使いいただきやすいと思います。 華やかさもあるので、コーディネート次第でパーティ・シーンでも十分に映えることでしょう♪ |