No.00307 天国のメロディ |
天使たちが掲げる神の楽譜。パイプオルガンを奏でる音楽の守護聖人セシリア。 聞こえてくるのは全ての人を癒し、幸せにしてくれる天国のメロディ・・。 |
『天国のメロディ』 超拡大しても全く粗が見えませんが、実は直径わずか1.3cmしかないクラバットピンです。 |
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この宝物のポイント
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1. クラバットピンでも類を見ない芸術度の高さ
1-1. 紳士の最重要ジュエリー
クラバットピンは、男性にとって最も重要なジュエリーのアイテムの1つです。 |
1-1-1. アイテム数が少ないメンズジュエリー
女性用のジュエリーのアイテムは、種類がとっても豊富です。 |
ティアラ | ピアス | ネックレス |
『アルテミスの月光』 イギリス 1910年頃 SOLD |
『清楚な花』 イギリス 1900年頃 SOLD |
『Shining White』 イギリス or オーストリア 1910年頃 SOLD |
ブローチ | ブレスレット | リング |
『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』 カメオ:イタリア 19世紀後期 ¥1,330,000-(税込10%) |
『ターコイズ・ブルー』 フランス 1880年頃 SOLD |
『愛の誓い』 イギリス 1870年頃 SOLD |
最低でもこれだけのアイテムがあります。1回分をフルセット揃えるだけでも大変ですね。 |
エリザベス女王(1926年-)1959年、33歳頃 "Queen Elizabeth II 1959" ©Unknown / Library and Archives Canada, DrKay(1959)/Adapted/CC BY 2.0 |
TPOに依りますが、ピアスやイヤリング、ペンダントやネックレス、ブローチ、ブレスレット、リング、そして既婚女性の場合はティアラも必要です。 ブレスレットは両手に着用することもあり、その場合は2つ必要です。 ブローチやネックレス、リングなども重ね付けする場合は複数必要です。 上流階級はTPOに合わせてジュエリーも変える必要があります。そのたびにアイテムを揃えなくてはならないため、アイテム数の多い女性は本当にお金がかかります。 |
イングランド王ヘンリー8世 (1491-1547年) | 古い時代は男性も女性に勝るとも劣らぬほど華やかなジュエリーを身に着けていました。 |
ヴィクトリア女王一家(1846年)ロイヤル・コレクション |
しかしながら次第に男性はあまりジュエリーを着けなくなっていきました。ヴィクトリア女王夫妻を見ても、女王は華やかなジュエリーをフルセットで身に着けた正装の場で、アルバート王配は勲章やタイもしくはスカーフ飾り、リングくらいしか着けていません。 |
アルバート王配(1819-1861年)41歳頃 | 正装ではなく、普段着ほどカジュアルではないシーンでも、見えるのはウォッチチェーンくらいです。 後は、リングくらいは着けているのかなという程度です。 |
イギリス王エドワード7世(1841-1910年)王太子時代 | フランス皇帝ナポレオン3世に可愛がられ、フランスで宝飾品を買いまくって『宝石王子』と呼ばれたバーティ(後のイギリス国王エドワード7世)ですら、この写真で見えるのはスカーフリングらしきものだけです。 |
王太子時代のエドワード7世とアレクサンドラ妃の結婚式(1863年) | 女性はフルセットでジュエリーを身に着ける正装の場でも、男性はたくさんのアイテムは着けないのです。 |
イギリス国王エドワード7世と王妃アレクサンドラ(1900年代) | 勲章は重そうなくらいジャラジャラと着けたりしますが、比較的新しい年代では、男性が正装の際にジャラジャラとジュエリーを着けることはありません。 |
イギリス王エドワード7世(1841-1910年) | 近代の男性用のジュエリーと言うと、フル装備でも以下くらいでしょうか。 ・タイやスカーフ飾り そうは言っても、これらをフル装備するイメージはありません。 |
王太子時代のエドワード7世(1841-1910年) | アイテムを絞り、身の丈に合う上質で自分らしいものを品良く、カッコ良く着けこなすのが男性用ジュエリーのイメージです。 |
1-1-2. 顔に近いジュエリー
『財宝の守り神』 ダイヤモンド ブローチ フランス 1870年頃 SOLD |
ジュエリーが魅力的なのは、ステータスを誇示したり財産性を持つ"金銭的な価値"に加えて、"芸術的な価値"で持ち主の個性や教養を表現できる点です。 |
『ジョージアンの女王』 ジョージアン ロング ゴールドチェーン イギリス 1820〜1830年頃 SOLD |
金塊 |
同じ素材であっても、高度な職人による丹念な手仕事がなされていない物に個性や美しさ、教養などの"芸術的な価値"は存在し得ません。 |
イギリスのアルバート王配(1819-1861年)1848年、29歳頃 | さて、通常この時代の上流階級の男性はピアスやイヤリングは着けません。 そんな時、女性にとってのピアスと言えるのが、首元に着けるクラバットピンやスカーフリングです。 |
1-2. メンズ・ジュエリーならではの魅力
1-2-1. 小さなジュエリーに込められる個性とお金
王太子時代のエドワード7世とアレクサンドラ妃 | クラバットピンは小さすぎて、当時の写真では詳細が分かりません。 |
エドワード7世の長男アルバート・ヴィクター王子(1864-1892年) | しかしながら男性はアイテム数が少ないため、1つ1つのジュエリーに女性用のジュエリーでは考えられないほどお金をかけます。 そして個性も密度濃く詰め込みます。 |
天然真珠のクラバットピンを着けたイギリス国王エドワード7世(1900年代) | |
このポートレートでイギリス国王エドワード7世が着用しているのは、大きな天然真珠のクラバットピンのようです。史上最も天然真珠が評価され、ダイヤモンドより高価だった時代を反映しています。高価な天然真珠を使っただけのジュエリーなので、"個性"というよりも"富と権力"を庶民も含めた万人に誇示するための"オフィシャル用途のジュエリー"と言えるでしょう。 |
ヨーク公ジョージ王子(エドワード7世の次男、後のイギリス王ジョージ5世)(1865-1936年)1893年、28歳頃 | エドワード7世の次男で、後のイギリス国王ジョージ5世となるジョージ王子は、フラワー・モチーフとみられるクラバットピンを着用しているようです。 |
ジョージ王子のクラバットピン(1893年) | マットエナメル フラワー クラバットピン フランス 19世紀後期 SOLD |
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こんな感じのクラバットピンだったかもしれませんね♪ |
1-2-2. 上流階級の教養やセンスの競いどころ
女性用のジュエリー同様、男性用のジュエリーも社交界でモテるための重要アイテムです。 しかしながら上流階級の男性の場合、ジュエリーの目的は女性からモテるためだけではありません。 |
ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年)42歳頃 | 義務ではありませんが、ノブレスオブリージュ、持つ者の義務としてイギリス貴族は政治に参加することが多々あります。 15歳で父を亡くし、男爵領と爵位を継承した大富豪フランシス・ダッシュウッドも政治で活躍した貴族でした。 |
ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年) | ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年) |
かなり若い頃からやらかしている話も多々ある人物ですが、財務大臣も務めています。ちなみに上流階級の有名な社交クラブである『ヘルファイア・クラブ』はダッシュウッドが財務大臣に指名され、身辺整理するために閉鎖されたとも言われています。 |
庶民院議場のロビーの戯画(1886年)バニティ・フェア誌11.30号 |
上流階級の男性は女性からモテるだけでなく、仕事を有利に進めるために同性からも一目置かれる必要があります。 上は庶民院議場のロビーです。モノクルをかけた中央にいる人物ジョゼフ・チェンバレンの右4人目にはハーティントン侯爵、後の第8代デヴォンシャー公爵もいます。 |
ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)植民地相時代 | ジョゼフ・チェンバレンは庶民の出ですが、大企業を経営する実業家で、イギリスの上流中産階級と言える位置にいました。 故にしっかりとした教育も受けています。 会社を育てて大実業家になった後も労働者目線を忘れることなく、労働者たちのための夜間学校を開催して自ら文学、歴史、フランス語、数学の教鞭をとっていました。 持つ者の義務。ノブレス・オブリージュは貴族の地位に生まれた財力・権力的優位に限らず、優れた才能を持って生まれた者には果たすべき義務があるという考え方かもしれませんね。爵位貴族と変わりないと言えるでしょう。 |
ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)1905-1910年頃 | ヴィクトリア女王のダイヤモンド・ジュビリーを記念して作られた黄金のコンパス・ペンダント バーミンガム 1897年 SOLD |
チェンバレンは大実業家から政治家に転身しました。バーミンガムの市長を務めた後、国政に進出して植民地大臣も務めるなど活躍しました。即位60周年を祝う1897年のダイヤモンド・ジュビリーではヴィクトリア女王に進言し、各地の植民地から植民地大臣を呼び寄せ、世界の人口の4分の1以上を支配する大英帝国の祭典という側面も持たせるなどしています。女王に助言して聞いてもらえる立場だなんて、凄いですね。 |
3世代の写真(左:ジョゼフ・チェンバレン、中:孫ジョゼフ、右:長男オースティン) |
右はジョゼフの長男オースティン・チェンバレンで、オースティンも外務大臣在職中にノーベル平和賞を受賞している政治家です。2人ともクラバットピンが見えます。仕事の場でも上流階級の男性はジュエリーを着用しますし、この場合はそこで関わり合う同じ様に有能な人々から「この人は仕事ができる、優秀な人だ。」、「信頼できる。」と思われなくてはなりません。 |
誰が見ても高そうに見える成金的なジュエリーでは、優れた頭脳や鋭い感覚、深い教養を示すことはできません。 仕事ができること、男としてカッコ良いことを示すには、分かりにくいけれど明らかに優れたものを身に着けていることが重要です。 小さなクラバットピンには、他者との違いと自身が優れていることを示すために、持ち主にとってのありったけの教養や美的センスが詰め込まれるのです。 それぞれの個性が強く出るので大変面白く、それがハイクラスのクラバットピンならではの魅力と言えます。 |
1-2-3. 上流階級のクラバットピンが持つ無類の魅力
クラバットピンならば、どれでも優れているわけではありません。 やはり庶民向けの安物は面白味がありませんし、上流階級向けのハイジュエリーとして作られたものであっても、持ち主の教養や美的センスがイマイチだとこれまた全く面白味がありません。 |
1-2-3-1. 材料と作りとデザインの良さ
クラバットピンは男性が集中してお金をかける、プライドをかけたステータス・ジュエリーであるとは言っても、かけられるお金や教養には人によって大きく違います。 ヴィクトリアン中期以降は産業革命によって台頭してきた中産階級によるジュエリーの購買意欲が高まり、ジョージアンやヴィクトリアン初期には市場で見ないレベルの安物や、無教養を感じるジュエリーがたくさん作られるようになりました。 |
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【参考】庶民向けの安物の10Kクラバットピン |
庶民向けの安物は、自己顕示欲丸出しの成金的なジュエリーになる傾向が強いです。 庶民は王侯貴族ほど無尽蔵に、気にすることなくいくらでもお金をかけることはできません。 ジュエリーの価格を決める要素は主に以下の3つです。 庶民が一番コストをケチるのは加工費です。優れた細工を見分ける目のない人たちは、加工費にお金をかける意味が全く理解できません。そういう人たちは美意識も持ち合わせないため、見えない部分に気を配る必要性も全く理解できません。 故に、限られた予算を材料費にだけ集中させた、ハリボテのようなジュエリーとなります。パッと見て高そうに見えれば満足なのです。 デザインも自身の美的感覚でオーダーできるほど優れていないため、使い回しになります。安物はどこかで見たことがあるような、似たり寄ったりのものばかりなのはこのためです。 デザインは使い回しなのでデザイン費もほぼかからないと言え、庶民にとっては言うことなしです。 こういう考え方は現代の成金庶民と何ら変わりはありません。現代ジュエリーも同じ思想で作られています。 |
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【参考】庶民向けの成金ブレスレット(1860年頃) |
【参考】イギリスの19世紀の庶民の女性向けジュエリー
分かる人には庶民向けのジュエリーと、上流階級のためのジュエリーの違いは明らかです。ある程度お金をかけて作られた"成金富裕層(庶民)向けの高級ジュエリーもありますが、そういう人たちも基本的には普通の庶民と同じく、高そうに見せたいという自己顕示欲の元にジュエリーを持つので、高そうに見せたいけれど内容が追いついていません。 高そうに見えるよう、価値の低い宝石を寄せ集めて大きく見せたり、作りは必要最低限でよく見るとデザイン的に簡素、もしくはレベルの低いものであることが共通します。デザインも見た目を重要視しただけのもので、教養や知性などに基づく奥深い背景は微塵も存在しません。 |
【参考】フランスの19世紀後期ベルエポックの庶民の女性向けジュエリー
それは国が違っても、時代が違っても結局同じです。共和政となったベルエポックのフランスは王侯貴族が無くなり、深い教養や知性を持つファッションリーダーがいなくなったので、イギリスに比べると特に酷いですが・・。 特に1850年から1870年にかけて、大英帝国は『パクス・ブリタニカ』と呼ばれるほど繁栄を極めました。最大でイギリスとフランスの経済格差は7倍あったと言われており、19世紀後期のイギリスは庶民と言えども世界レベルで見ればある程度の小金持ちと言える経済力があったため、フランスと比べると庶民のジュエリーでもある程度お金をかけて、質は悪くても一応宝石が使われたものが多いです。 |
Biranger社 アールヌーボー ペンダント フランス 1890〜1910年頃 SOLD |
気をつけておきたいのが、フランス製ジュエリーの全てがそういうわけではないことです。酷いのは大衆向けジュエリーです。 共和政に移行した後も、パリは職人大国として世界中の上流階級や富裕層が買い物に来るファッションの中心地として機能しました。 フランス製でも、数少ない王侯貴族や特別な富裕層のために作られたジュエリーは素晴らしいものがたくさんあります。 フランスだから良い、イギリスだから良いと談じるのは粗視化し過ぎです。 |
材料と作りとデザインに見るクラバットピンのランク
女性用のジュエリーと同じことが、男性用のジュエリーにも言えます。 |
【参考】扱わないレベルのクラバットピン | ||
ルネサンス&ヘリテイジお取扱い品 | ミドルクラス以上のメンズジュエリーなので極端に悪くはありませんが、上の3つはヘリテイジ基準を満たしません。 上左は平凡なデザインに加えて、彫金のレベルも低いです。 上中はクローズド・パヴェ・セッティングと言えるダイヤモンドの高度な石留がなされていますが、デザインが平凡過ぎます。 上右は特徴的な天然真珠を使っているものの、ドングリとしては不自然な形であり妥協した結果です。枝の彫金は良いものの、カサの彫金やダイヤモンドのセッティングはルネサンスやヘリテイジでお取り扱いしたピンと比べると粗が目立ち、見劣りします。 |
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天然真珠 クラバットピン フランス 1910年頃 SOLD |
『ジョールチ』 天然真珠 クラバットピン ロシア 1890年頃 SOLD |
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定番モチーフだからこそ、心が湧き立つようなアーティスティックな魅力と作りの良さが必要です。左は豊かな実りを表すドングリに相応しい、黄金に輝く天然真珠を使っていますし、『ジョールチ』はよくぞ見つけてきたものだと驚く、まさにドングリのような色と形をした天然真珠を使っています。小さいものであるにも関わらず、どちらもダイヤモンドの石留も見事です。 |
右へ行くほどランクが上 | ||||
ミドルクラスのピンからハイエンドの『ジョールチ』までを、ランク順に並べました。ハイクラスのピンほど材料にも、作りにも、デザインにもお金をかけていることがお分かりいただけるのではないでしょうか。 |
1-2-3-2. ハイクラスのピンに見る並々ならぬこだわり
【参考】ヘリテイジでは扱わないクラスのクラバットピン | |||
他のアイテムと比較して、ヘリテイジではクラバットピンは選ぶ基準が特に厳しいです。作りや材料が良いだけでは買付けません。唯一無二のアーティスティックな魅力が必要不可欠です。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないクラスのクラバットピン | |||
上流階級の男性のためのクラバットピンは、持ち主の教養の高さと優れた美的センスを示すために作られます。しかしながら教養や美的センスを持たない人は、自身の個性を象徴する特徴的なデザインをオーダーする能力がないため、どうしても同じようなデザインになります。作りの良し悪し、材料の良し悪しによるランクの違いはあっても、ただの延長線上です。 |
【参考】ヘリテイジでは扱わないクラスのクラバットピン | |||
特にイギリスの貴族は人数が限られており、全員が大金持ちです。例えば財産が10万円の人に1億円のジュエリーを見せたら、ただそれだけで羨ましがるでしょうけれど(例外はもちろんありますが)、100億円の財産を持つ者同士だと1億円のジュエリーをひけらかしても「ふうん。それで?」としかなりません。 |
スエズ運河の建設で知られるフランスの外交官・実業家フェルディナン・ド・レセップス(1805-1894年) | 『レセップスのクラバット・ピン』 フランス 1880年頃 SOLD |
レセップスのクラバットピンだと、スエズ運河を建設した人物らしいオリエンタルなデザインと、見事なエメラルドと極上の細工によって莫大な財力が示されています。 |
『ダイヤモンドの原石』は王侯貴族の強いこだわりを以って作られたクラバットピンの中でも、特に傑出した魅力を放っています。 ダイヤモンドの原石をそのまま生かすという、当時の上流階級の人たちもあっと驚くジュエリーです。 持ち主の遊び心が伝わってくるジュエリーで、しっかりとお金をかけて作られています。しかしながら高そうには見えないので、余程特別な人物しか持てない代物です。 おそらくは財力を顕示する必要がないほど、誰もが知っているような大金持ちであり、有名な人物であったのだろうと思います。 |
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『ダイヤモンドの原石』 クラバットピン(タイピン)&タイタック イギリス 1880年頃 SOLD |
このように、高そうには見えないけれど驚くほどのこだわりを以って作られているクラバットピンは、王侯貴族のためのハイクラスのピンの中でも非常に稀です。 |
材料費以上に、はるかに芸術的価値にお金をかけて作られた素晴らしいクラバットピン。滅多にないものの、こういうものが存在するのが男性用のステータス・ジュエリーであるクラバットピンの魅力です♪ |
2. オーストリアらしいモチーフ
2-1. 歴史ある音楽の都オーストリア
このクラバットピンは14Kゴールドで、鍵盤楽器を弾く音楽のモチーフからもオーストリア製とみられます。 |
ハプスブルク家の紋章 "Counts of Habsburg Arms" ©lpankonin(31 October 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
オーストリアは中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアと並ぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていました。 ハプスブルク家はヨーロッパ随一の名門王家として、誰もが知る一族ですね。 |
オーストリア帝国(1804-1867年) "Austrian Empire(1815)" ©TRAJAN 117(12 August 2013)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
現代のオーストリア(薄緑色はEU) |
オーストリアはハプスブルク家が台頭する前、10世紀後半から270年間はバーベンベルク家が支配していました。戦争ではなく主に政略結婚で勢力を拡大していたため、音楽によって平和が維持され、文化が発展することは統治に有効であり、それ故にバーベンベルク家は音楽の振興を政策の1つとしていました。 |
神聖ローマ皇帝・ブルゴーニュ公・オーストリア大公マクシミリアン1世(1459-1519年)1519年、59歳 | ハプスブルク家はそれを踏襲し、大帝国を築きました。 「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ。」 その通り、ハプスブルク家は婚姻によって領土を拡大しました。 その最も成功した例が自身と子、孫の結婚政策で成功を収め、ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたマクシミリアン大帝です。 多産と豊穣を象徴する石榴を持つ肖像画も描かれています。 |
2-1-1. マクシミリアン大帝と音楽
神聖ローマ皇帝・ブルゴーニュ公・オーストリア大公マクシミリアン1世(1459-1519年) | マクシミリアン大帝は体躯に恵まれ、武勇に秀で、芸術の保護者であったことから『中世最後の騎士』とも謳われる人物です。 |
ブルゴーニュ女公マリー・ド・ブルゴーニュ(1457-1482年) | マクシミリアン大帝の最初の妻は、ヴァロワ=ブルゴーニュ家のブルゴーニュ公国最後の君主、マリー・ド・ブルゴーニュでした。 ルネサンスの文化は全般にイタリアが中心でしたが、15世紀のブルゴーニュは絵画と音楽の分野ではイタリア以上の発展を示したことでも有名です。 マリー女公はヨーロッパ随一の経済力と成熟した文化を誇っていたブルゴーニュ公国の唯一の後継者として、恵まれた少女時代を送りました。 |
庭園で語らうマクシミリアン大帝と妻マリー |
政略結婚ではあったもののマクシミリアン大帝とマリー女公の夫婦仲は極めて良く、絶世の美女としても知られるマリー女公は領民たちからも「美しき姫君」、「我らのお姫様」と慕われていたそうです。 |
ブルゴーニュ女公マリー・ド・ブルゴーニュ(1457-1482年) | しかしながら第4子を懐妊中、マリー女公は当然の如く夫の白鷺猟に同行し、落馬事故に遭いました。 重体となり流産し、マクシミリアン大帝が手を握ったまま25歳の若さで旅立ちました。 マクシミリアン大帝の悲しみは如何ばかりだったことか・・。 |
神聖ローマ皇后ビアンカ・マリア・スフォルツァ(1472-1510年)1493年頃、21歳頃 | マクシミリアン大帝の次の結婚も政略結婚でした。 再婚相手はイタリアのミラノ公国を支配するスフォルツァ家出身のビアンカ・マリア・スフォルツァで、莫大な持参金をもたらしてくれる女性でした。 スフォルツァ家側にとっては、王族と血縁になることで地位の向上を図るものでした。 前妻のマリーは政略結婚でもうまくいったのですが、このビアンカとはうまくいきませんでした。 |
神聖ローマ皇后ビアンカ・マリア・スフォルツァ(1472-1510年)1505-1510年頃、33-38歳頃 | 春が到来し、マクシミリアン大帝は先妻マリー同様にビアンカを狩猟に連れて行ったのですが、狩猟や自然には全く関心を示しませんでした。 また、互いに言語が通じない夫婦でしたが、マクシミリアン大帝がイタリア語を習得したのに対し、ビアンカはドイツ語を学ぶ気がさらさらありませんでした。 先妻マリーも言語は違っていたのに仲が良かったので、マクシミリアン大帝もがっかりだったでしょうね。 さらに不妊の体質も判明し、マクシミリアン大帝はビアンカに全く関心を示さなくなりました。 |
オーストリア大公女、ブルゴーニュ公女マルグリット・ドートリッシュ(1480-1530年)1518年頃、38歳頃 "Marguerite d Autriche par Bernard van Orley vers 1518 huile sur bois" ©Hugo Maertens/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
結局マクシミリアン大帝が51歳の時にビアンカは先立ったのですが、その翌年に長女マルグリット・ドートリッシュに宛てた手紙で 「私は二度と結婚したりしない。裸の女に触れることは無い。」 と書いています。 |
『マクシミリアン大帝一家』(ベルンハルト・ストリゲル作 1515年以降)後列左からマクシミリアン大帝、フィリップ美公、マリー女公、前列左からフェルディナント1世、カール5世、ラヨシュ2世 | マクシミリアン大帝は実際に再婚することなく、59歳で亡くなりました。 遺言により遺体は8歳で亡くした愛する母エレオノーレが眠る聖ゲオルク教会に埋葬されましたが、心臓だけはブルッヘ聖母教会にある最愛の妻マリーの墓に共に埋葬されたそうです。 ハート(心)は36年も前の23歳の時に亡くした最愛の妻と共に・・。 どれだけマリーを唯一無二の女性として愛していたのか、その真心と深い愛が伝わってきますね。 それだけマリーが魅力に満ち溢れた女性であったということでしょう。 |
甲冑姿のマクシミリアン大帝(1459-1519年) | マリー女公と共同統治していたブルゴーニュ公国は音楽の文化が発展していました。 マクシミリアン大帝は武勇に秀で、ラテン語、ドイツ語、フランス語、フラマン語、スペイン語、イタリア語、英語、チェコ語、ハンガリー語、スロベニア語と領内の様々な言語を学ぶ語学力にも長けた知性の高い人物でした。 それだけでなく各民族の文化を尊重し、言語を統一するようなことはせず、様々な民族から文化や技術の面でも優れたものは柔軟に取り込み、帝国全体に広げる教養の高さや優れたセンスの持ち主でもありました。 |
木版画セット『皇帝マクシミリアン1世の凱旋』戦車の上に立つマクシミリアン大帝(16世紀) | 旅から旅への日々を過ごしていたマクシミリアン大帝は、やがて楽団を同行させるようになりました。 |
木版画セット『皇帝マクシミリアン1世の凱旋』音楽団の馬車(16世紀) |
旅先での儀式はもちろん、旅の途中でも演奏させていたそうです。美しいメロディは人々を癒し、心を豊かにしてくれたことでしょう。それでも贅沢な話ではありますね。 |
ウィーン少年合唱団 "Wiener Saengerknaben" ©Andreas Praefcke" (2003)/Adapted/CC BY 3.0 | 旅の楽団員たちは1498年にウィーンの王宮礼拝堂の聖歌隊に参加させ、宮廷礼拝堂少年聖歌隊を創設しました。 これが『天使の歌声』で有名なウィーン少年楽団の前身となっています。 |
ウィーン宮廷楽団が演奏していた宮廷礼拝堂 "Wien - Hofburgkapelle" ©Bwag(4 January 2013)/Adapted/CC BY-SA 3.0 AT |
宮廷楽団には貴族の若い音楽家たちや皇帝一族のメンバーも参加し、時には皇帝自ら指揮や演奏をすることもありました。このため貴族のみならず一般市民も音楽に強い関心を持つようになり、1761年には一般市民のためのオペラ劇場も建てられています。これが現在のウィーン国立歌劇場の前身とされています。 |
フランスの作曲家・声楽家 ジョスカン・デ・プレ(1450/1455?-1521年) | マクシミリアン大帝は盛期ルネサンスの最も優れた作曲家とも評価される、ジョスカン・デ・プレを招いて作曲させています。 |
当時の雇用主メディチ家の紋章が入った楽譜(ハインリヒ・イザーク作 1484年) |
同じく同時代の最も重要な作曲家の1人と評価され、フィレンツェのメディチ家など各地で宮廷作曲家や宮廷音楽家をやっていたハインリヒ・イザークを招き、作曲させています。ドイツ各地の歴訪にも同行させており、当時のドイツの作曲界に多大な影響を与えたと言われています。文化の発展に対する君主の影響力は本当に大きいですね。 |
2-1-2. レオポルト1世と音楽
神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王レオポルト1世(1640-1705年) | ハプスブルク家の歴史の中でも特に音楽好きで有名なのが神聖ローマ皇帝レオポルト1世です。 ハプスブルク家の紋章を416カラットもある巨大なガーネットで表現したオーストリアのレガリアで一度ご紹介していますが、『バロック大帝』とも呼ばれる作曲家としても有名です。 |
神聖ローマ帝国皇帝、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王レオポルト1世(1640-1705年)1657-1658年、17-18歳頃 | レオポルト1世は神聖ローマ皇帝フェルディナント3世の次男として生まれたため、元々は聖職者になる予定でした。 聖職者とは言ってもおそらくは司教君主の類だとは想像しますが、それ故に高度な教育が施され、音楽に関する造詣の深さも育まれました。 学問と芸術をこよなく愛する平和愛好家の文人皇帝だったと言われています。 |
未来の花嫁スペイン王女マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャを宣伝するチラシ(1666年)15歳頃 | 1666年の最初の妻マルガレーテ・テレジア(15歳)との結婚式は、バロック時代の全ての結婚式の中で最も素晴らしい、バロック文化の粋を集めた大イベントとして評価されています。 公式な結婚式は7日間行われ、その後も2年間祝いの式典は続きました。 壮大なパレードや花火大会が催され、オペラの上演や豪華な展示物もありました。 |
オペラ『ガラテア』でアシスに扮する神聖ローマ皇帝レオポルト1世(1667年)27歳頃 | オペラの衣装に身を包む神聖ローマ皇后マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャ(1667年)16歳頃 |
叔父と姪で、従兄弟でもあり、さらに11歳の年齢差もあったものの、2人の興味には共通点が多く、特に音楽と芸術の分野で価値観を共有できたたため幸せな結婚だったそうです。1667年に開催したオペラには夫婦で主演しています。 |
1845年頃のホーフブルク宮殿の模型 |
さらに皇帝レオポルト1世は政治中枢であり居城だった、ホーフブルク宮殿の敷地内にある王宮庭園のすぐ側に劇場も造っています。 |
ブルクガルテン(ウィーンの王宮庭園) |
建設された野外劇場は5,000人の収容能力があり、1668年7月の皇后マルガリータの誕生日にはオペラ『黄金の林檎』の初演が催されました。 |
オペラ『黄金の林檎』の舞台(1668年頃) |
当時の有名な作曲家アントニオ・チェスティによる上演時間9時間にも及ぶ大作で、オペラ上演のために費やされた莫大な出費は長い間ヨーロッパで語り草になるほどでした。オペラの台本の一部は、新妻のために皇帝レオポルト1世自身が執筆しています。 |
神聖ローマ皇帝レオポルト1世の円柱 "Trieste Piazza-della-Borsa" ©Zinn(1 October 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
神聖ローマ皇帝レオポルト1世は優れた作曲家としても知られており、生涯で135曲のアリアと合唱曲、80曲の教会音楽、17のバレエ音楽、9の音楽劇を作曲しています。 また、パトロンとしても積極的で、アントニオ・ベルターリ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ、ヨハン・カスパール・ケルル、ヨハン・ヨーゼフ・フックス、ヨハン・ハインリヒ・シュメルツァーなど様々な音楽家も支援しました。 |
城壁に囲まれたウィーン市街 |
オーストリアは優れた文化人である神聖ローマ皇帝レオポルト1世の治世下で文化的に大いなる発展を遂げ、ウィーンは音楽の都として発展していくことになったのです。 |
エピダウロスの劇場(古代ギリシャ 紀元前4世紀末) "Theatre of Epidairis OLC" ©Olecorre(July 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
それにしても神聖ローマ皇帝レオポルト1世が建設した野外劇場は収容人数5,000人で多いと感じますが、古代ギリシャの劇場は1万人を超える収容人数がありましたね。この最も完璧な古代ギリシャ劇場と言われるエピダウロスの劇場だと、最大13,000-14,000人が収容可能とみられています。 |
アテナイのディオニュソス劇場の想像図(1891年制作) |
アテナイのアクロポリスの丘に建設されたディオニュソス劇場に至っては、紀元前4世紀には最大収容人数がおよそ1万7,000人にも達したと見られています。 |
現代に残るアクロポリス南麓のディオニュソス劇場 "Athen Akropolis (18512008726)" ©dronepicr(15 May 2015, 17:00)/Adapted/CC BY 2.0 |
ローマ帝国第5代皇帝ネロ(在位:54-68年)"Nero pushkin" ©shakko(November 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | ディオニュソスの劇場の高位の身分の人用の観客席 "Acropolis in February 2005 14" ©Rnner1928(15 February 2005, 04:59:09)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
ギリシャ文化をこよなく愛した第5代ローマ皇帝ネロの時代には、デォニュソス劇場に新しいステージが作られ、完成した暁にはディオニュソス神とローマ皇帝ネロに演劇が捧げられています。芸術の愛好家だったネロ帝は竪琴で独唱するのが好きで、数千人の観衆を集めてワンマンショーのコンサートを開く趣味でも有名でした。 レオポルト1世が夫婦で観劇のみならず演じたりもしていたと聞くと一瞬驚きますが、古代の時代からやっていたことなんですよね。 |
芸術を理解し、こよなく愛するハプスブルク家の歴代の君主たちの存在によってオーストリアは芸術、特に音楽の分野で大きく花開いきました。 故にこの宝物の音楽を奏でる構図はとてもオーストリアらしいと言えるのですが、もう1つ、カトリックというキーワードがあります。 |
2-2. 神聖ローマ帝国の成り立ちとキリスト教
王政フランスの戴冠式で使用されていたカール大帝冠 | 神聖ローマ帝国は、800年のカール大帝戴冠が始まりとされています。 ローマ教皇に支持された皇帝を認めた国家・地域のことを指します。 理念的には古代ローマ帝国と一体であり、カトリック教会の概念も含んでおり、教皇と皇帝は最高権威を2分する存在として、教会を通じて皇帝の権威は西ヨーロッパ全体に及んでいました。 |
西ローマ皇帝&フランク王カール大帝(742-814年) | 初代神聖ローマ皇帝とされるカール大帝は、実はフランク王国でカロリング朝を開いたピピン3世の息子です。 |
ピピンの寄進(756年) | フランク王ピピン3世は教皇領成立のきっかけとなった、756年の『ピピンの寄進』の人物ですね。 このような背景があるため、オーストリアは歴史的に非常にカトリックの影響が濃い地域でした。 |
2-3. 音楽の守護聖人セシリア
菓子製造人、料理人、栄養士、メイド、宿の管理人、肉屋、ワイン・ビール醸造者、図書館員、兵器製造者、ガラス工、ステンドグラス 製造者、コメディアン、学生などの守護聖人ローマの聖ラウレンティウス(フラ・アンジェリコ作 1447-1450年頃) | カトリックには様々な職業や地域などに守護聖人が存在します。 政治家、弁護士、医師、画家、看護師、漁師、猟師、船乗り、養蜂家、養豚家、教師、旅行者など、それぞれに守護聖人が存在します。 特にワインはカトリックに於ける最重要アイテムの1つなので、ワインの守護聖人は50人にも上ると言われています。 ローマの聖ラウレンティウスのように1人で様々な守護をする聖人も存在します。 |
そんな中で、音楽の守護聖人とされるのが聖セシリアです。 |
2-3-1. 古代ローマの貴族の女性だった聖セシリア
第24代ローマ皇帝アレクサンデル・セウェルス(在位:222-235年) Public Domain by Jastrow (2006) | 聖セシリアは皇帝アレクサンデル・セウェルス治世下の230年頃に殉教したとされる、ローマ帝国の貴族の女性です。 |
2-3-2. 聖セシリアの殉教
『聖セシリア』教会のステンドグラス "Saint Cecilia Wymondley" ©Shaggy359(1 April 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
セシリアは敬虔なキリスト教信者で、神に処女の誓いを立てていましたが、両親により異教徒の貴族ウェレリアヌスと結婚することになりました。異教徒と言うのは、従来の古代ローマ神話を信じる人々のことでしょう。 |
パイプオルガンを弾く聖セシリア "Guercino - St. Cecilia" ©Jabonsbachek(5 February 2019)/Adapted/CC BY-SA 4.0 | 結婚式では座ったまま、心の中で神のために歌いました。 |
聖セシリアとウェレリアヌスを祝福する天使(1330年代) "CeciliaCrownsItalianMaster" Svenbot, Dickstracke(22:22, 26 September 2011)/Adapted/CC BY 2.0 | 初夜のその時が訪れた際、セシリアは夫ウェレリアヌスに神への誓いを語り、こう述べました。 「私たちを見張っているのは主の御使いです。そのまま初夜を遂げようとするならば、御使いはあなたを罰するでしょう。私の主への誓いを尊重するならば、主はあなたを愛するでしょう。」 ウェレリアヌスは答えました 「天使に会うことを許されるならば、あなたの誓いを尊重します。」 |
聖ウルバヌス(第17代ローマ教皇ウルバヌス1世 在位:222-230年)(ジェイコブ・ラス作 1500年頃) Public Domain | ローマのフラットキエ地区にあるアッピア街道 Public Domain |
それに対してセシリアは答えました。 「アッピア街道を3マイルストーン行ったところにある教会で、ローマ教皇ウルバヌス1世から洗礼を受ければそれは叶うでしょう。」 |
『聖セシリアと聖ウェレリアヌス』(レリオ・オルシ作 1555年頃) | セシリアの助言に従い洗礼を受けて戻ってきたウェレリアヌスは、セシリアが天使と話している姿を見ました。 そして、その天使は2人に薔薇と百合のリースを被せました。 |
『聖セシリア』(オノリオ・マリナーリ作 17世紀) | 『オルガンを弾く聖セシリア』(カルロ・ドルチ作 1671年) |
カトリックで白薔薇と百合は純潔を象徴し、清らかで穢れない愛を示します。 |
夫ウェレリアヌス、聖セシリア、夫の弟ティブルティウス(フランチェスコ・ボッティチーニ作 1470年頃) | この時、天使の姿を見たウェレリアヌスの弟ティブルティウスも、その後キリスト教に改宗しました |
『貧しい者に施すセシリア』(ドメニキーノ作 1612-1615年) |
その後、キリスト教徒として活動するようになった兄弟とセシリアは貧しい人々に施しを与えるなどしていましたが、それが地方長官アルマキウスを激怒させ、改宗しなかった兄弟は斬首刑で殉教しました。 |
『裁判官の前に立つセシリア』(ドメニキーノ作 1612-1615年) |
セシリアも捕らえられ、火刑が命じられました。しかしながら炎はセシリアに何の害も及ぼしませんでした。 |
『聖セシリアの殉教』(カルロ・サラチェーニ作 1610年頃) | そのため、斬首刑に変更されました。 |
『聖セシリアの死』(ドメニキーノ 1612-1615年) |
セシリアは斬首刀を3回振り下ろされましたが首は落ちず、死刑は中止されました。教皇ウルバヌス1世に自宅を教会にするよう言い遺し、3日間耐え抜いた後、息絶えました。その後、セシリアの遺体はアッピア街道沿いにあるカリクトゥスの地下墓地に埋葬されました。 |
教皇の地下墓所(カリクトゥスの地下墓地) "Rom, Calixtus-Katakomben, Krypta der Papste" ©Dnalor 01(28 July 2007, 10:52:17)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
2世紀から4世紀にかけてのローマ教皇数名も埋葬されている、古代ローマの重要な墓地の1つです。ピーク時で15ヘクタールの敷地の中には16人のローマ教皇と、50人の殉教者の遺骨が納められていたとみられています。 |
トラステヴェレのサンタ・チェチーリア教会のファサード(1725年)と鐘楼(12世紀) "Santa cecilia in trastevere, esterno 02" ©Sailko(1 June 2016, 17:59:09)/Adapted/CC BY 3.0 |
ローマ教皇パスカル1世は822年に、再建したトラステヴェレのサンタ・チェチーリア教会を822年に聖セシリアの遺体を地下墓地から移しました。ローマにあるこの教会は、3世紀にローマ教皇ウルバヌス1世が聖セシリアの自宅に設けたことが始まりと考えられています。 |
トラステヴェレの聖セシリア教会の夜の身廊 "Santa-Cecikia-In-Trastevere-Interior" ©Dreamword at English Wikipedia(19 May 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
移す際、遺体は全く朽ちておらず美しい状態が保たれていたと言われています。祭壇の前にあるチボリウム(聖体容器)には、後期ルネサンスの彫刻家ステファノ・マルデノによる聖セシリアの大理石彫刻が納められています。 |
『聖セシリアの殉教』(ステファノ・マルデノ作 1600年) "Santa Ceciilia in Trastevere September 2015-5a" ©Alvesgaspar(12 September 2015, 14:02:35)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
ステファノ・マルデノによる傑作と言われる聖セシリア像は、枢機卿パオロ・エミリオ・スフォンドラティの依頼で制作されたものです。聖人の墓を開け、実際の遺体を見て大理石で再現するというものでした。聖セシリア像の前には、「聖女の墓が開けられた時に見たそのままの姿を写した。」と宣誓を刻んだ石板が置かれています。 |
永遠に朽ちることのない遺体は、キリスト教にとって聖人の証です。 キリスト教は最後の審判の日の後に肉体が与えられ、キリストと同じように超自然的生命として復活し、永遠に死ぬことのない祝福の新世界に生きられることを約束する宗教です。 聖人の朽ちない遺体は、来世の肉体を先行して授かったもので、神の恩寵によって永遠に朽ちないのだと信じられています。 |
朽ちない遺体なんて本当なのかと感じますが、日本でも屍蝋化した遺体の発見例があります。 中国の長沙馬王堆一号漢墓からは漢代(前漢:紀元前206-8年)初期の50歳くらいの女性の屍蝋が、デンマークのユトランド半島では紀元前4世紀の男性の屍蝋トーロンマンが見つかっており、千年以上も朽ちることなく瑞々しさが保たれた遺体というのは十分にあり得ます。 |
それでも滅多にあるものではないので、見たらビックリして神の奇跡を信じるのも違和感がありません。 |
2-4. 教会と音楽
守護聖人はたくさん存在し、守護するものも多岐に渡りますが、教会での儀式を特に重要視するカトリックでは音楽は非常に重要です。 |
女性演奏者たちのモザイク(シリア 4世紀)ビザンチン様式の別荘 |
イエス・キリストがこの世にいた時代から、祈りにあたって歌などが用いられていたことは聖書にも記載されており、キリスト教初期の時代から祈りは歌われていたとされています。今は誰でも文字が読めるのは当たり前ですが、文字が読めない者にも教えを暗記させたり、意識に染みつかせたりするには、繰り返し歌うことは効果的だったからでしょう。 |
ベネディクト16世によるミサの司式 "BentoXVI-51-11052007 (frag)" ©Fabio Pozzebom/ABr(11 May 2007)/Adapted/CC BY 3.0 BR |
カトリック教会では、古代から現代に至るまで毎日絶えることなくミサが続けられています。 教徒は結構な頻度で教会に通わなければなりません。 公祈祷や礼拝では様々な聖歌が演奏され、歌われます。 カトリックのミサでは4つの場面において讃歌を歌うことが通例で、このためミサ曲は最低でも4曲がセットになっています。 |
【世界遺産】セビリアの大聖堂(スペイン) "Sevilla Cathedal - Southeast" ©Ingo Mehling(15 November 2014)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
セビリアの大聖堂のパイプオルガン "Spain Andalusia Seviille BW 2015-10-23 12-30-25 stitch" ©Berthold Werner(23 October 2015)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
故に、多くの教会で大きなオルガンを構えています。 伝統のある大規模な教会には優秀なオルガニストがおり、聖歌を歌う時だけでなく、ミサの最中に司祭の動きに合わせて即興で伴奏を付けたりします。 |
聖セヴィリ教会のパイプオルガン(ドイツ) "Erfurt St. Severi 01" ©ErwinMeier(9 August 2017)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
讃歌の後、その旋律を引き継いで司祭が次の所作に入るまで後奏を付けたり、献金や聖体拝領の最中に完全な即興をしたりします。最も重要なのは入退場曲の時で、司祭の入退場に合わせて音楽を盛り上げる高度な即興技術が求められます。かなり難しそうですね。 |
サン=ジェルマン=ロクセロワ教会のパイプオルガン(パリ) |
オルガン即興技術は19世紀後半から20世紀にかけて、フランスで特に発達しました。優秀なオルガニストにとって、名だたる教会の専属奏者になることは大変な名誉とされています。 |
作曲家・オルガニスト セザール・フランク(1822-1890年) | 名だたる歴史的な作曲家・オルガニストが教会のオルガン奏者を務めています。 セザール・フランクもサン=クロチルド教会の正オルガニスト時代にはオルガニスト、即興演奏家としての名声が高まるに連れ、新設や改修したオルガンの除幕式や奉献式で演奏依頼されたりもしています。 |
サン=シュルピス教会の身廊(パリ) "Saint-Sulpice, Nave, Paris 20140515 1" ©DXR / Daniel Vorndran(15 May 2014, 1:04:33)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
サン=シュルピス教会の新しいオルガン(1862年)を始め、ノートルダム大聖堂、サンテチエンヌ・デュ・モン聖堂、サン=トリニテ教会などで演奏しています。 |
サン=クロチルド教会の身廊(パリ) "Basilica of Saint Clotilde Interior, Paris, France- Diliff" ©Photo by DAVID ILIFF(30 December 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
こうしてさらに名声を高めたセザール・フランクの演奏を聴きたいがために、フランクが担当するサン=クロチルド教会のミサや礼拝に訪れる人々もいたほどでした。フランクは自身の作曲のみならず、他の作曲家の作品も取り上げて聖堂でオルガン演奏会も開くようになりました。人を集められる強い集客力は、教会にとってもありがたい存在ですね。 |
作曲家・ピアニスト フランツ・リスト(1811-1886年)1843年、32歳頃 | 来場した有名人の中にはフランツ・リストもいました。 オーストリア帝国領内ハンガリー王国出身の作曲家・ピアニストで、ドイツやオーストリアなど、ヨーロッパ各地で活躍しています。 著名な音楽家だとかなり稼ぐこともできるので、上質な衣服に目立つクラバットピンも見えますね。 |
作曲家・オルガニスト アントン・ブルックナー(1824-1896年)1855年、31歳頃 | 一方で、セザール・フランクは1869年に、演奏旅行で訪れていたオーストリアのアントン・ブルックナーのノートルダム大聖堂での演奏を聴きに行っています。 ブルックナーは1855年から1868年まで、リンツ大聖堂の正オルガニストを担当していた作曲家・オルガニストです。 1855年、リンツ大聖堂の専属オルガニストが空席となり、登用試験が行われました。 ブルックナーは試験の観客として聴きに行ったのですが、受験者たちの冴えない演奏に痺れを切らした審査員の1人、デュルンベルガーが観客席にいた弟子ブルックナーの姿を発見し、演奏するように焚きつけました。 そこで受験者と審査員を圧倒する素晴らしいフーガ即興曲を演奏し、思いがけずリンツ大聖堂のオルガニストという大職を勝ち取りました。 |
ウィーン国立音楽大学(創立1812年) "University of Music and Performing Arts Vienna" ©PaulShunOSAWA(13 February 2019)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
1868年からは音楽と舞台芸術のための総合芸術大学、ウィーン国立音楽大学の教授に就任し、オルガニストとしてはホーフブルク宮殿礼拝堂の宮廷オルガニストやクロスターノイブルク修道院で活躍しました。 |
オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年)1865年、35歳頃 | ホーフブルク宮殿 "Wien Michaelerplarz Hofburg" ©Thomas Ledl(3 June 2015, 08:42:23)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
ホーフブルク宮殿、つまり皇帝の宮殿の礼拝堂で宮廷オルガニストをやっていたということは、68年に及ぶ長い在位期間と国民からの絶大な敬愛からオーストリア帝国の『国父』とも称される、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の御前でも素晴らしいオルガン演奏を披露していたのでしょうね。 ブルックナーは作曲した交響曲第8番を献呈もしています。 |
作曲家・オルガニスト アントン・ブルックナー(1824-1896年)1893年、69歳頃 | ブルックナーの演奏旅行ではフランスのノートルダム大聖堂などの他、イギリスにも渡ってロンドンのオルガン演奏コンクールに参加し、見事優勝しています。 この時、イギリスを発つ帰りの船に乗り遅れましたが、その船は沈没し、間一髪で難を逃れています。 ブルックナーは生涯を通じて非常に経験なカトリック教徒でした。 宗教も権力と結びつくと微妙なことになりますが、己の行動を律し、人のために善行に努めるという本来の形であれば非常に有効かつ有意義な存在と感じます |
作曲家・ピアニスト ベートーヴェンと作曲家・オルガニスト ブルックナー(1910-1924年頃)リンツ大聖堂のステンドグラス | リンツ大聖堂の正オルガニストの座と言い、命が助かった話と言い、神の御利益かもしれませんね。 |
ヴェルデベーレ宮殿の上部宮殿(ウィーン 1720-1723年) "Wien - Schloss Belvedere, oberes(1)" ©Bwag(21 April 2018)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
晩年、死の病に冒されていたブルックナーは建物の5階にある自宅への階段の昇降が困難になっていました。これを聞きつけた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、宮廷オルガニストを長年務めていたブルックナーのためにベルヴェデーレ宮殿の上部宮殿脇にある平屋建ての宮殿職員用の住居を賜与しました。 |
ヴェルデベーレ宮殿の上部宮殿からの眺望(ベルナルド・ベッロット 1758年) |
"美しい眺め"の意味を持つヴェルデベーレで、ブルックナーは最期の日を迎えました。ここでも何曲か作曲しています。 |
オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年)狩猟姿 | ブルックナーにも良くしてくれた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は狩猟が幼少期からの趣味で、芸術面では芝居を好んだものの、実は音楽にはほとんど関心を示さなかったそうです。 |
オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年) | そのように、芸術・音楽・文学には疎かったにも関わらず、それらの庇護者でした。 皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の人物像は、王権神授説を信じる絶対的な君主であり、自らも『旧時代の最後の君主』と認める古いタイプの君主でした。 幼少期から将来皇帝となるべく相当な教育を施されており、たとえ感覚的に芸術や音楽は理解できずとも、自国の文化発展のために、自国民のために何をやったら良いのか、しっかりと理解していたからに他なりません。 |
この聖セシリアのクラバットピンは、まさにその皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が治めるオーストリアで生まれました。 |
ヴォティーフ教会(1856-1879年建設)1900年当時 |
1853年にまだ23歳だった皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は暗殺者に襲われ、完治するまでに1年近くかかる大怪我を負いました。それでも命は助かり、皇帝の命が助かったことを神に感謝するために教会を建立しようと、弟のマクシミリアン大公が市民に呼びかけました。賛同した30万人の市民から寄付が集まり、ヴォティーフ教会が建てられました。 |
ヨハン・シュトラウス二世(1825-1899年) | 命が救われたことを祝って、作曲家・指揮者ヨハン・シュトラウス2世からは『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』も捧げられています。 |
オーストリア皇帝賛歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』1816年頃の楽譜 |
オーストリア皇帝賛歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』もあったりで、神聖ローマ帝国から続くオーストリア帝国の場合、カトリックと王侯貴族は切っても切り離せず深く結びついていることは否定できません。 |
イングランド王ヘンリー8世(1491-1547年) | イギリスの場合、イギリス王室一のインテリと言われるイングランド王ヘンリー8世が、離婚したいがために修道院を解散し、自らイングランド国教会の首長となりローマから破門された歴史があります。 それ故に、イギリスの王侯貴族は他のヨーロッパの国と比較すると宗教色が薄く、ハイジュエリーもそれを反映しています。 |
そのような観点から、これはいかにもオースリア帝国の王侯貴族のためのハイジュエリーらしい、非常にアーティスティックな音楽の宝物だと感じます。 |
3. 驚異の細工
この宝物は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の暗殺未遂を契機とした都市計画で、オーストリアが大きく生まれ変わり世紀末ウィーンを迎えた、絶頂期のオーストリアで作られた作品です。 世紀末ウィーンとは、19世紀末に、史上稀に見る文化の爛熟を示したオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンと、そこで展開された多様な文化事象を指します。 音楽、絵画、建築など様々な芸術文化が絶頂期を迎えましたが、王侯貴族のためのハイジュエリーは最もお金のかかる贅沢品の1つである上に、クラバットピンは男性のステータスを象徴するプライドをかけたアイテムとなるため、その極め具合が半端ありません!! これまでに45年間、様々なヨーロッパのアンティークのハイジュエリーをお取り扱いしてきた私たちでも初めて見るような、驚くほど芸術性の高い作品です。 |
3-1. 小さなキャンバスへの驚異の極小細工
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これだけ拡大しても全く粗が感じられませんが、実際は直径がたった1.3cmしかない、1円玉より遥かに小さなものです。 買付で肉眼で見た時、凄そうなことはGenも私も気配で分かり、絶対買うと即断しましたが、それでも撮影してみてこれほどまでとはと正直驚きました。 |
3-1-1. 鋳造の量産品とは異なる圧倒的に精緻な表現
【参考】量産の金メッキの聖セシリアのメダイ・ペンダント(現代の中古) | 音楽の守護聖人である聖セシリアは、いつの時代も普遍の人気があります。 音楽を仕事にしている人、趣味の人、演奏者のみならず聴くのが好きな人にもフィットします。 |
【参考】量産の14Kの聖セシリアのメダイ・ペンダント(現代) | 【参考】量産の14Kの聖セシリアのメダイ・ペンダント(現代) |
故に現代でも聖セシリアがモチーフのジュエリーはたくさん製造されています。これらはクラバットピンより遥かに大きなサイズのペンダントですが、型を使った鋳造の大量生産品なので、高度な技術を持つ職人の手仕事による彫金がキリッとした印象なのとは対照的に、ドロっとした雰囲気の作りです。 |
【参考】量産の金メッキの聖セシリアのメダイ・ペンダント(現代) | 量産の鋳造では複雑で細かい描写はできないため、構図も単純な場合が殆どです。 信仰やお守りなど、個人的な拠り所としてはこれで十分かもしれません。 でも、そういう個人的なものは関係なくて、芸術性の高さを最も価値基準として重要視するヘリテイジ では、これでは全然ダメです。 |
【参考】量産のシルバーのペンダント(現代) | そうは言っても、人の手で真心を込めて作られた宝物と、コストダウンばかりを考えて機械で大量生産された味気ないジュエリー(アクセサリー)では、御利益も全然違う気はしますが・・。 |
【参考】シルバーの聖セシリアのメダイ・ペンダント(フランス アンティーク) |
現代ジュエリーは全然ダメですが、アンティークも殆どは五十歩百歩です。ペンダントのサイズで見ると気にならない人は気にならないのでしょうけれど、鋳造の量産品なのでアンティークでもこの程度の描写力しかありません。アクセサリーとして見る分には良いかもしれませんが、ヘリテイジでお取り扱いする宝物のように芸術作品とは言えません。 |
【参考】シルバーの聖セシリアのメダイ・ペンダント(現代) |
これはアンティークのペンダントから型を取って鋳造した、現代のリプロダクションです。アンティークジュエリーとして販売されていたら、企画・製造した本人たち以外は誰も本物のアンティークなのかフェイクなのか分からないのではないでしょうか。 安物はアンティークで買う意味がないです。現代でも作ることができますし、アンティークとしての付加価値が乗せられているので新品で買うより絶対に割高です。 |
一方で、手の込んだ細工物のアンティークのハイジュエリーは絶対に割安です。 今はもう技術的に作ることができないだけでなく、細工にかかった手間と時間と技術料、つまり人件費を考慮すると、とても庶民が手を出せる価格にはなりません。 |
3-1-2. 驚くほど詰め込まれたモチーフ
【参考】シルバーの聖セシリアのメダイ・ペンダント(フランス 1919年) |
これはヘリテイジで扱うレベルにはありませんが、比較的しっかりしたミドルクラスのアンティーク・ペンダントです。背景やパイプオルガン、百合の花なども表現されていますが、ペンダントなので大きさは3.2×2.7cmあります。 |
実物の大きさを比較すると、ペンダントは4倍以上の面積があります。 |
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←↑等倍 |
等倍↑→ | |
等倍のまま拡大すると、その細かさには、全く別次元と言える圧倒的な違いがあることがお分かりいただけると思います。右は20世紀初期の鋳造の量産ペンダントとしては出来の良い高級品ですが、世紀末ウィーンで王侯貴族の男性のために作られた特別な1点物と比べると、まるで次元が違います。これこそ心を打つ感動のアートです。 |
【参考】アンティークのシルバー・ジュエリーの安物 |
【参考】アンティークのシルバー・ジュエリーの高級品 |
右もお守りとしては全然良いんですけどね。"芸術"とはアーティスティックな才能を兼ね備えた高度な技術を持つ職人だけが生み出せるものであり、"絶対的な美の本質"は見る者をどれくらい感動させられるかにあります。量産品には、見る者の心を揺さぶるような感動を与えることは無理です。左の安物と比べれば良いとは言ってもアート性は感じないので、ヘリテイジではお取り扱いしません。 |
【参考】量産の14Kの聖セシリアのメダイ・ペンダント(現代) | 【参考】量産の金メッキの聖セシリアのメダイ・ペンダント(現代) |
現代はもっとショボくて、キャンバスは大きいのにモチーフも簡素です。聖セシリアと共に表現されているのが楽器だけだったり、亡霊に見えるような、一体何だか分からないような天使であったり、テクノロジーが明らかに退化した感じです。表現力が稚拙なのでそのままだと何だか分からない、もしくは構図だけでは誰なのか分からないほど消費者は教養がないと思われているということなのか、わざわざSAINT CECILIA(聖セシリア)とまで記載されています。 |
↑等倍 |
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このクラバットピンは小さなキャンバスにオルガン、楽譜を掲げる天使たち、十字架、天国を示すような外周の雲のフレームのようなものまで、たくさんの要素が詰め込まれています。 |
しかもパイプオルガンは鍵盤が2段で表現されています。聖セシリアは人気モチーフなのでメダイ・ペンダントはたくさん作られていますが、ペンダントですら2段の鍵盤を表現するのはデザイン技術のみならず、作る技術的に困難なため作られておらず、見たことがありません。 |
3-1-3. クラバットピンの中でも別格のアート作品
クラバットピンは男性のステータス・ジュエリーであり、可能な限りお金と教養を詰め込んで作られているのは間違いありませんが、殆どはヘリテイジでお取り扱いできるレベルにはありません。 ゴールドで作られた、このようなタイプの1点物の彫金のクラバットピンは例外的な存在と言って良いでしょう。 |
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ゴールドのクラバットピン |
【参考】ヘリテイジではお取り扱いしないレベルのクラバットピン | これも細かい部分は手仕事での仕上げがしてありますが、鋳造で作った量産品なのでデザインが平凡です。 鋳造なのでシャープさも全く感じられません。 |
【参考】ヘリテイジではお取り扱いしないレベルのクラバットピン | |
これは今回の宝物(直径1.3cm)より一回り大きく直径1.5cmほどありますが、かなり酷い出来の鋳造品です。先ほどの物と比べても、より安物ですが、ダイヤモンドが入っているというだけで高級と喜ぶ人が男性にもいたということです。デザインも少女チックで、こんな安っぽく無教養そうで、美意識のカケラもない物を着けいたら、教養ある上流階級からはまともに相手にされなかったと想像します。まさに、着けない方がまだマシと言えるレベルです。 |
そうは言っても、遠目から見るとこれらの違いは殆ど分からないでしょう。 高そうには見えないのに、実はかなりお金をかけて作られている唯一無二の素晴らしい芸術作品。 よほど自信に満ち、実際、教養の高さや財力を周りの人たちの誰もが認めるほど持っていた人物だけが身に着けられる、別格のクラバットピンです。 |
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ゴールドのクラバットピン |
3-2. 才能の高さを感じる豊かな表現力
3-2-1. オルガンを弾く手
踊りでも手の表現は非常に重要で、指先にまでいかに神経が行き届いているのかが豊かな芸術性の違いに如実に現れるものです。そもそも小さな面積への細かな表現だけでも驚異的なのですが、今回の宝物はその豊かな表現力にも驚かされます。 女子向け(笑)の安物は両手とも鍵盤の上に乗せてあるだけです。ただオルガンを弾いているだけと言えるつまらない表現です。左は手がのっぺりしておかしな形です。中央は小さなペンダントにバランス良くデザインを収めるのが難しかったのか、大人の女性にしては腕が短く、詰まって見えて違和感があります。 |
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鋳造では不可能な領域で、神技の職人によって彫金された豊かな表現。天使の掲げる楽譜を見ながら、楽しそうに聖セシリアがメロディを奏でる様子が動きを持った細く美しい指先に良く表現されています。 実際の大きさを考えると信じがたい仕事であり、まさに人の技を超えた神の技です。 |
3-2-2. 楽しそうな表情が分かる彫金
【参考】アンティークで型を取ったリプロダクション(現代) | 立体物で人の顔を表現するのは難しいことです。 本当の安物だと、そもそも省略されて顔がなかったり、潰れていてまともに顔がなかったりします。 そうでなくても、アーティスティックな才能がある人がデザインしないと、見て美しいと感じる顔立ちであったり、心地よく感じる表情にはなりません。 |
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聖セシリアの頭部は3mmほど、天使たちの頭部は1mmほどしかありませんが、どこに目線があるのか分かるほど精密に彫金されています。 楽しそうな様子が伝わってくるほど、表情も豊かに表現されており、作者は職人として神技を持っていただけでなく、アーティストとしても天才的な才能を持っていたことが分かります。 |
とても肉眼で見えるサイズではなく、作者は拡大鏡を覗き込みながら作業をやったはずですが、その集中力と忍耐力という精神力の高さ、そして精密に指先をコントロールする身体能力の高さに驚きます。 世紀末ウィーンにおける第一級の職人だからこそ作れたものでしょう。 |
3-2-3. 立体的な表現が活きる黄金アート
貴金属を使う立体的なジュエリーでも、厚みのないのっぺりとした表現だと大人しく絵画的な雰囲気になります。しかしながら2次元的な表現にとどまらず、厚みもコントロールして3次元的に表現すると、奥行きや躍動感が出て一気にモチーフが生き生きとし始めます。 聖セシリアの衣服のドレープは、まるで本物のように身体に柔らかく沿って美しいです。エンジェルの幼児らしいプックリとしたボデイも、愛らしさを感じさせる要因です。 |
ゴールドだけで作られた物は思えない、豊かな表現力ですよね。作られてすぐの、当時はこれほど強い立体感はなかったはずです。100年以上もの時を経る中で、彫金の溝にパティナが付着することで陰影が強調され、今のような素晴らしい立体感が完成したと言えます。 パティナはアンティークジュエリーの隙間にゴミなどが付着し、長い年月をかけて石のように硬化したものを指します。アンティークの証であり、価値の1つと見なされているからこそわざわざ名称が存在するわけですが、このクラバットピンのパティナはとても良い感じです。 |
消耗品と成り果てた現代ジュエリーと異なり、王侯貴族のために作られた財産性を持つアンティークのハイジュエリーは、何世代にも渡って使うことを前提として作ってあります。 だからこそ100年以上の使用にも耐えられるよう、耐久性を考慮して作られるのですが、本当にアーティスティックな職人だとそれだけでなく、自分が死んだ後、100年以上も経った後に完成するような作り方も平気でやり遂げるのです。 まさにこれはそういう宝物で、芸術家魂ここに極まれりです♪♪ |
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564年) | 優れた立体表現は本当に難しく、絵画と彫刻を比べても彫刻の方が遥かに高度な技術が必要と言えます。 それは両方できるルネサンスの天才、ミケランジェロの行動にも現れています。 |
『最後の審判』(ミケランジェロ 1536-1541年)システィーナ礼拝堂 | 『ピエタ』(ミケランジェロ 1498-1500年)サン・ピエトロ大聖堂 "Michelangelo's Pietà, St Peter's Basilica (1498–99) " ©Juan M Romero(17 December 2012, 10:53:30/Adapted/CC BY 4.0 |
絵画、彫刻どちらも評価の高い有名作品を遺していますが、ミケランジェロ本人は絵画作品を軽視していたそうです。 |
立体表現がうまくいくと、黄金の輝きが明るく神々しく生き生きとしており、モチーフの素晴らしさが活きますね。 |
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ゴールドのクラバットピン |
3-2-4. 大胆な十字架の表現
聖セシリアをモチーフにしたジュエリーや芸術作品は様々な作られていますが、こんなに大胆に十字架を配置した作品は見たことがありません。 大胆な発想ができる人でなければ思いつかないデザインです。 |
クラバットピンなので小さな面積ですが、聖セシリアと天使たちの背景であっても、これだけ大胆にデザインされていると存在感があります。 |
かと言って、厚みは最小限に抑えて彫金されているので、十字架が悪目立ちすることもなく、背景として全体でうまく調和が取れています。 |
3-2-5. 絵画のようなフレームの表現
この宝物には他のクラバットピンに見ない表現として、フレームの存在があります。 波のような形の、天国の雲のようなフレームが外周に彫金されています。 |
フレームをデザインすることで、グッと奥行きが増しています。これがなかったら、かなり平面的な印象になっていたことでしょう。絵画作品のような格調高い雰囲気が感じられることに加えて、聖セシリアと天使たちが天国で神のメロディを奏でる様子を、私たちが覗かせてもらっているような、そんな不思議で嬉しい感覚を生じさせてくれる効果がこのフレームにはあります。 |
雲の形は整い過ぎた無個性な形ではなく、ランダムな表現なのも、天国らしいヘブンリーな心地よさを感じる理由です。ランダムでありながら、調和がとれた美しさをデザインするのは、整った無個性なデザインをするより遥かに難しく、やはりアーティスティックな才能がないとできないことです。 一番下には作者のサインと見られる、文字らしきものが彫金されています。「やってやったぞ!」とサインしたように感じます。魂を込めて作った一世一代の作品だからこそ、この極小の面積に誇りを以ってサインしたのでしょう。 |
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とは言え、小さすぎて判読はできませんでした。 これだけの作品を作れるとなると、当時は有名な作家だったでしょうから、予め名前を知っていれば読めたのだと思います。 |
3-3. ダイヤモンドの楽譜
3-3-1. 印象的なクリアなダイヤモンド
【参考】ヘリテイジではお取り扱いしないレベルのクラバットピン | |
アンティークジュエリーに於いて、ダイヤモンドは価値の評価が実は難しい宝石だったりします。安物を高そうに見せるために、質の悪いダイヤモンドをそれっぽく使うという手は昔からあります。現代でもダイヤモンドというだけで大喜びする無教養かつ美意識のない人はたくさんいますが、当時もそれは変わりません。 |
本物の高級品はむやみに意味なくダイヤモンドを使うことはありません。 意味のある場合に、選りすぐりの上質な石を使います。 |
この宝物には、極小ながら非常にクリアで上質なダイヤモンドがセットされています。 極小なのにオープンセッティングなのは、ハイクラスのジュエリーである証です。 |
通常、極小のダイヤモンドはローズカットなのですが、四角形にカットされており、カットも特別オーダーしたことが推測できます。なぜそこまでするのかと言うと、このダイヤモンドで表現するのが神から授かった、天国のメロデイを奏でるための"楽譜"だからです。まさに"宝物"ですよね。 |
3-3-2. 天使が掲げる神の楽譜
『バイオリンを弾く聖セシリア』(ドメニキーノ作 1617-1618年頃) | 聖セシリアの絵画は様々あり、芸術家たちがそれぞれ思い思いの構図で表現しています。 天使に見守られていたという逸話から、天使が楽譜を掲げる構図もいくつも描かれています。 聖セシリアは音楽の守護聖人で、使う楽器は様々です。 |
『聖セシリアと天使』(17世紀初期) |
そうは言っても、一番多い楽器はカトリックの教会で重要な地位を持つパイプオルガンです。心のうちで神に音楽を捧げていた聖セシリアらしい表現ですよね。聖女の真面目さ、敬虔な信者らしさが伝わってきます。 |
『聖セシリア』(ニコラ・プッサン作 1635年頃)プラド美術館 | でも、そういうちょっと窮屈で息苦しい暗い雰囲気よりも、このような明るくヘブンリーな感じが私は好みです。 聖セシリアの慈愛に満ちた表情、天使たちの楽しそうな様子。 そこから聞こえてくる、全ての者に幸せをもたらす天国のメロデイ。 |
『聖セシリア』(ミケーレ・ロッカ作 17世紀後期-18世紀中期) | これが今回の作品と、構図としては一番近いでしょうか。 天国の雲に座る上方の天使たちが、聖セシリアに弾いてもらう神からの楽譜を選んでいるようです。 |
聞きたい音楽が決まったようです♪ 「これをお願い!♪」 そうリクエストされ、さっそく聖セシリアがパイプオルガンを弾き始める。 なんてアーティスティックなクラバットピンなのでしょう!! |
音楽を聞くのが好きな王侯貴族の男性が着けていたのか、それとも自身も演奏したりする男性が身に着けていたのか・・。 きっとその両方を楽しめる、とびきり芸術の教養がある素敵な男性が身に着けていたのでしょう。 |
裏側
裏側も綺麗な仕上げです。 |
ピンキャッチ
ご希望の場合は18Kのピンキャッチを実費でお付けします。金価格によるため、必要な場合はお問い合わせください。針が太く、現代のノーマルなキャッチはこのままでは入らないため、削って調整します。加工費は当店で負担致します。 金色のメタル製のハットピン(※参照)は針を削らずにご使用が可能です。ご希望の場合はサービス致します。 |
イギリス国王エドワード7世(1841-1910年) | クラバットピンは当時ネクタイに着けて使っていましたが、現代だとジャケットの襟に着けてもオシャレに楽しんでいただけます。 ヘリテイジではクラバットピンをご購入される方は女性の方が多く、男性物を素敵に着けこなしていただくのは、とてもカッコ良いと思います♪♪ |