No.00330 楽園の乙女 |
『楽園の乙女』 HERITAGE好みの"小さくて良いもの"です。王侯貴族のために作られた高級品らしい、アンティークジュエリーの魅力がたくさん詰まった宝物です♪ |
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ウィッチズハートと呼ばれる愛のジュエリーの一種ですが、古い時代のヨーロッパのオーソドックス・デザインとは一線を画す、当時最先端の様式でデザインされたオシャレなハートが目を引きます。まるで本物の植物のようにハートに絡む黄金の蔓は見事ですし、7つの黄金の花々には当時の第一級の職人による神技の彫金が施されており、繊細で美しい輝きに心奪われます。上質な天然真珠の爪留も素晴らしく、派手さはないながらも相当なお金と手間をかけて作られたことは間違いありません。想い人に贈るためにオーダーした男性の真心と卓越したセンスの良さが伝わってきます。 |
この宝物のポイント
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1. ウィッチズハートのジュエリー
これはとてもセンスの良い、ヴィクトリアン終わり頃のウィッチズハートのブローチです。 |
1-1. バリエーション豊富なハート・ジュエリー
『REGARD』 ジョージアン REGARD ロケット・ペンダント イギリス 1820年頃 SOLD |
ハート型はジュエリーの定番モチーフの1つです。 |
カトリック教会のステンドグラス All Saints Catholic Church(St. Peters) 設立1823年 "All Saints Catholic Church (St. Peters, Missouri) - stained glass, sacristy, Sacred Heart detail " ©Nheyob(8 July 2014, 17:31:19)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
元々ハートにはキリスト教に由来する意味がありましたが、いつの間にか本来の意味を離れ、普遍のモチーフとして広く愛されるようになりました。 |
1870年頃 | 1880年頃 | 1900年頃 |
『クラシック・ハート』 ピケ ロケット・ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
『乙姫の宝物』 ホワイト・コーラル&ターコイズ ペンダント イギリス 1880年頃 SOLD |
『アール・クレール』 ハートカット・ロッククリスタル ロケット・ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
純粋にハート型のデザイン自体を楽しむ場合もありますし、持ち主や贈り主が自分の愛を表現するためにハートをデザインすることもあります。普遍のモチーフだからこそ、いつまでも古びることがありませんし、長い歴史の中で様々な表現が生み出されているのもハート・ジュエリーの特徴です。 |
『愛の誓い』 ダブルハート リング イギリス 1870年頃 SOLD |
最も定番のハート・ジュエリーと言えば、ダブルハートが思い浮かびます。 2つのハートが1つになったモチーフです。 とっても素敵なモチーフですよね♪♪ 2人の愛は唯一無二。 愛の数だけ様々な愛の表現があります。 |
【参考】安物のダブルハート・ブローチ(19世紀後期) | 申し訳ないのですが、庶民向けの安物だと材料も似たりよったりで見ていて面白くありません。 ジュエリーのオーダーに慣れている上流階級と違い、教養がなく婚約などのタイミングしかジュエリーを買う経験がない庶民の場合、欲しいものを具体的にイメージして的確にオーダーするのは無理です。 |
【参考】成金(庶民)向けの中級品のダブルハート・ブローチ(19世紀後期) | 故に既製品から選ぶしかなく、デザインも素材もありきたりで個性がないのです。 |
ラピスラズリ ダブルハート・ブローチ フランス 1870年頃 SOLD |
ブリストル・レッド・グラス ブローチ イギリス 19世紀初期 SOLD |
2人の愛のために上流階級がオーダーしたハイジュエリーだと、デザインも素材も様々です。 宝物を見るだけで、当時の持ち主たちがどういう人たちだったのか伝わってきます。 |
ムーンストーン ダブルハート・ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
『美しき愛』 ダブルハート・ブローチ フランス以外のヨーロッパ 1916年 SOLD |
伝わってくるのは2人の愛し合う真心だけではありません! 同じ宝石を使ったダブルハートのブローチでも、ハートの重なり方が違うだけで随分と印象も変わるものです。そして、上流階級のハイジュエリーは本当に細部にまでこだわりが行き届いています。グリーン・カルセドニーとパドルロックの個性的な組み合わせはご説明するまでもないでしょう。 ムーンストーンのダブルハートは、一見すると個性が分かりにくいかもしれません。脇石のダイヤモンドにご注目いただくと良いです。これは成金だったら何も考えずにオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドを使うはずです。ムーンストーンはシラーや透明感など、この石独特の雰囲気が魅力です。ギラギラと強い輝きで主張するオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドを合わせると、悪目立ちして主役であるムーンストーンのハートを邪魔します。このダブルハートは透明感と繊細な輝きが魅力であるローズカット・ダイヤモンドだけで構成されており、まさに2人が主役の美しいダブルハート・ジュエリーになっています。個性をあからさまには主張せず、それでいて内側にはきちんと独自の芯を持つ、強く誠実な2人らしい宝物です♪ |
1-2. 動きを感じるオシャレなハート・フォルム
様々なハート・ジュエリー | ||
ウィッチズハート | ノーマル | ダブルハート |
『Bewitched』 ウィッチズハート ペンダント&ブローチ(ロケット付) イギリス 1880年頃 SOLD |
『アール・クレール』 ハートカット・ロッククリスタル ロケット・ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
『美しき愛』 ダブルハート・ブローチ フランス以外のヨーロッパ 1916年 SOLD |
様々な個性ある表現がなされるハートのハイジュエリーですが、ウィッチズハートの特徴は特徴的なハートのフォルムです。ハートはプックリさせたりシャープにしたり、様々なフォルムが可能ですが、ウィッチズハートは下部が左右どちらかにツイストしています。 |
ハートを少しツイストさせるだけで、途端に動きが出てオシャレな雰囲気が増しますね。 ウィッチズハートが1つのジャンルとして確立されるほど人気が出たのは、デザイン的な魅力も大きな理由の1つと言えるでしょう。 |
2. 知的階層を兼ねる上流階級らしいジュエリー
2-1. 19世紀後期に流行したウィッチズハート
ウィッチズハートは、19世紀後期に流行したジュエリーの1つです。 "Bewitched" そのような意味を込めた愛の証として、ウィッチズハートが愛する人へ贈られるようになりました。 |
『取り替え子』(マルティノ・ディ・バートロメオ 15世紀初期) | しかしながら初期のウィッチズハートはラブ・ジュエリーではなく、身に付けた者を邪悪な存在から守るための、護符のようなものとして用いられていました。 ジョージアン頃までは妊婦を護ったり、母乳の出を良くしたり、赤ちゃんを邪悪なものから護るためのものとして贈られたようです。 男女の愛ではなく、母の慈愛のジュエリーという感じですね。 |
それがなぜ、男女の愛を表現するジュエリーへと変容したのでしょうか。 それはイギリスの社会の変化に起因します。 |
2-2. 魔女のイメージの変遷
魔女のイメージ | 魔女と聞いて、皆様はどういう魔女をイメージされるでしょうか。 そもそも日本古来の存在ではなく、近代に西洋から入ってきた存在なので、具体的にイメージするのは難しいです。 童話や映画などを元に想像されると思うのですが、どの童話や映画をご覧になったのかは人それぞれです。 Genに負けず私も本の虫でしたが、たくさん読んだり観たりされている方ほど、魔女のイメージは絞りにくいと思います。 |
魔女と言ってもおばあさんだったり若かったり、良い魔女だったり悪い魔女だったり。飛んだり飛ばなかったり、道具無しで魔法が使える魔女もいれば、尤もらしい儀式をして魔術を行使する魔女もいたり・・。 ヨーロッパの歴史の中でも、画一的な魔女のイメージはありません。魔女の種類は様々ですし、時代によっても変化しています。魔女と歴史や文化は欧米の有名大学なども研究対象としており、詳細を追うと、とてもここでは扱いきれないボリュームになります。ここではウィッチズハートの宝物の魅力を分かっていただくために、概要をご説明いたします。 |
2-2-1. 魔女の成り立ち
『占星術を司る王』 バンデッドアゲート インタリオ 古代ペルシャ 紀元前1,000年頃 SOLD |
そもそも魔女の定義自体が困難で、成り立ちははっきりしていません。魔女や魔法はシャーマニズムに通じる面があると指摘されていますが、日本も含めて世界共通で古代からシャーマニズムは存在します。 |
『魔除けの瞳』 古代ローマの魔除けのアゲートリング 古代ローマ 2〜3世紀 SOLD |
目には見えない神や精霊の存在。 表現の仕方こそ違えど、どの民族にも共通してこのような概念は存在します。 古代ローマでも、呪術的な手段を行使して他者を害することは刑罰の対象でした。 古代ローマの邪視除けのリングも、呪いの力が本当に信じられていたからこそのものです。単なるファッションリングを、これほどお金や特別な技術を使って作ることは有り得ませんからね。 |
このような見えないものの存在を感じ取る性質は、人間に本能的に備わっている根源的なものと言えるでしょう。"見えないもの"に関する様々な表現の中で、具体化していった存在の1つが魔女と言えます。 |
2-2-2. 中世以降の魔女狩りに遭った魔女
サバトに集う悪魔と魔女(ヨーハン・ヤーコプ・ヴィックの年代記 1559-1588年) |
中世以降の魔女狩りはご存知の方も多いと思います。 15世紀になると、単なる"呪術を使う邪な者"の中から新たに魔女像が生まれました。「悪魔と契約を結んで得た力により、災いをもたらす存在」としての魔女です。 悪魔との契約。嬰児を食すという食人儀式、悪魔の肛門に接吻する、悪魔と性的な交わりを持つなど、その内容は嫌悪感を感じずにはいられないものです。 |
悪魔のイメージ | ところで悪魔と聞くと、どういう存在をイメージされますか? 悪魔も近代に西洋から入ってきたものなので、いまいちピンと来ない方が多いのではないでしょうか。 アニメやゲームなどでも様々な"悪魔"が登場します。なんとなくそれっぽいものを思い浮かべることができても、具体的なイメージがある方はそう多くないと思います。 |
ルシファー(ギヨーム・ジーフ 1848年) "Lucifer Liege Luc Viatour" ©I, Luc Viatour / https://Lucnix.be(2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
キリスト教で悪魔と言えば、創造主である神に仇なすサタンです。 元々は天使の中で最も美しい天使の長たる存在でしたが、神と対立して自ら堕天使となり、以後は神に対立する悪魔となりました。 天使の時の名がルシファー、堕天使となった後の悪魔としての名がサタンです。 |
『失楽園』ガブリエルに降伏するサタン(ギュスターヴ・ドレ 1866年) | 天使も人間も、創造主である神の創造物です。
ルシファーは神が創った人間に嫉妬し、神に敵意を示して、賛同する天使たちを集めて大天使ミカエルやガブリエルが率いる神の軍団との戦いを開始しました。 |
『失楽園』地球に向かうサタン(ギュスターヴ・ドレ 1866年) | 長く続いた戦いは神の軍団の勝利に終わり、ルシファーと賛同した天使たちは天から追放ということで、投げ落とされました。 ルシファーたちは死んではいません。 悪魔となった堕天使たちは神への敵意を保持し、戦いはその後も形を代えて続くこととなりました。 地球に住む人間を介しての戦いです。 |
『大アントニオスの苦悩』様々な誘惑をする悪魔たちにもがき苦しむ大アントニオス(ミケランジェロ・ブオナローティ 1487-1488年) | 創造主である神は人間を愛していましたが、人間は悪魔の誘惑によって犯した罪により神の楽園を追放されました。 その人間を誘惑し、罪を犯すように仕向け、堕落させるのが悪魔の神に対する攻撃です。 |
魔女の火刑(1555年) | キリスト教に於いて、この世(地球)は神 vs. 悪魔という構図です。 神側に付き、神の求めることを行うのが正しい生き方です。 悪魔と契約を交わした魔女は、キリスト教的には敵となった存在とみなされるのです。 同じイエス・キリストを信じるキリスト教徒であっても、カトリックはプロテスタントというだけで大量虐殺するような状況でした。 当然、敵なる存在である魔女は率先的に見つけ出して殺そうとなるわけです。それが恐ろしい魔女狩りです。 |
2-2-3. 上流階級における啓蒙時代以前までの魔女
王侯貴族が世界を主導していたアンティークの時代はあらゆる種類の富も知識も上流階級が独占しており、庶民とは完全に別世界でした。現代の庶民、私たちが学ぶ歴史は上流階級や一部の知識階級などごく一部の人たちがメインの歴史であり、文化は王侯貴族を中心とした上流階級が作り出してきたものでした。 産業革命によって庶民が力を付け始めると、衣食住が足りた庶民も徐々に流行や文化を楽しむようにはなりましたが、流行や文化を作り出すのはあくまでも王侯貴族でした。故に、王侯貴族にフォーカスして"魔女"を見ていきましょう。 |
『愛の魔法』(フランドル絵画 1470-1480年頃) | 魔女は授かった超自然的な力により様々なことができます。 占いや予言、治癒やその逆、天災や疫病あるいは飢饉をもたらす呪い、失せ物や宝物探し、あるいは人を恋させたり興味を失わせたりなど愛の呪術もできました。 儀式や道具を使うこともあります。 それらは本気で信じられ、上流階級の身近な生活にも密着していました。 |
フランスの太陽王ルイ14世のロイヤルタッチ(1690年) | 啓蒙時代を経ると、魔女など目には見えない力を行使したり、目には見えない"オカルト的なもの"に対する意識が変化します。 故に啓蒙時代以前、ヨーロッパの流行や文化の中心となっていたルイ14世の治世下での出来事を例に挙げます。 |
ルイ14世治世で最大の醜聞『黒ミサ事件』
ルイ14世の治世で最大の醜聞となった『黒ミサ事件』は一時期ルイ14世の最も寵愛を受けた公妾フランソワーズなど、多数の有力貴族が関与した事件です。 宮廷文化が花開いたフランスでは最後の王妃マリー・アントワネットを除き、王妃よりも公妾の方が有名です。ルイ14世や15世の王妃は誰だったか、聞いたことがあっても記憶に残っていらっしゃらない方も多いのではないでしょうか。 |
ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュの婚儀(1660年) |
ルイ14世の妻はスペイン・ハプスブルク家出身のマリー・テレーズ・ドートリッシュ王妃です。父はスペイン王フェリペ4世、母はフランス王アンリ4世と王妃マリー・ド・メディシスの娘であるイザベル・デ・ボルボンで、由緒正しい王族の家系です。 関係がややこしいですが、ルイ14世とマリー・テレーズは父方と母方の双方で従兄妹です。ちょっと前の時代までは日本もそうでしたが、貴賤結婚はあり得ませんでした。上流階級も十把一絡げに見てはいけません。王族は自国の貴族とは結婚しません。王族は王族同士で結婚します。故に、他国の王室から迎えるのが一般的なのです。 同じ言語圏の国であったり、よほど言語能力がある人ならば問題ありませんが、外国語圏から嫁いでくるのは大変です。マリー・テレーズはフランス語を上手く話すことができず、周囲の人たちはそのスペイン語訛りのフランス語を気に入らなかったそうです。 |
ルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュ王太后、ルイ王太子、マリー・テレーズ・ドートリッシュ王妃(1663年頃) | 政治や文学などにも興味を持たなかったため、同じスペイン・ハプスブルク家出身で義母となる王太后アンヌ・ドートリッシュと共に祈ったりトランプで遊んで過ごしました。伯母に当たり、同じ経験をし、母国のスペイン語で会話できるので無理もありません。 マリー・テレーズは猜疑心のない善良な人柄だったそうです。ただ、それが逆につまらないと言うことでルイ14世の興味を失ってしまいました。そしてルイ14世はたくさんの公妾や愛人に走りました。 |
フランス王ルイ14世の公妾 モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス・ド・モルトゥマール(1641-1707年)1660年頃、19歳頃 | フランス王ルイ14世の第一の公妾となって宮廷で絶大な権力を振るうようになったのがモンテスパン侯爵夫人フランソワーズです。 名門貴族モルトゥマール公爵ガブリエル・ドゥ・ロシュシュアールの次女として生まれ、快活で才気があり、優れた話術と機知と辛辣なユーモアセンスを持っていました。 王族の侍従や侍女になるのは王族より下の身分の者ですが、庶民ではありません。フランソワーズは1660年に嫁いできた王妃マリー・テレーズの侍女となりました。 気性が激しく、権力欲の強い野心家のフランソワーズはかねてから国王の寵姫となる機会を窺っていました。 |
ルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュ王太后、ルイ王太子、マリー・テレーズ・ドートリッシュ王妃 (1665年頃) |
その機会となったのが、1666年に亡くなったルイ14世の母アンヌ・ドートリッシュ王太后の追悼ミサでした。 この追悼ミサで初めてフランソワーズに会ったルイ14世は、優れた話術に金髪に青い瞳の豊満な体型を持つ美女に急速に惹かれていきました。 |
フランス王ルイ14世の公妾 モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス・ド・モルトゥマール(1641-1707年)1660年代、18-28歳頃 | 寵姫となったフランソワーズは邪魔な夫モンテスパン侯爵と離婚し、1669年にルイ14世との第一子となるルイーズ・フランソワーズを生むと、国王第一の公妾として誰にもはばかられることなく宮廷で絶大な権力を振るうようになりました。 国王ルイ14世に寵愛を受けるフランソワーズに何か言うことができるとすれば王妃マリー・テレーズくらいだったでしょうけれど、王妃がそのような女性ではなかったのも増長の要因だったでしょう。 |
フランス王ルイ14世の公妾 モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス・ド・モルトゥマール(1641-1707年)17世紀後半 | フランソワーズはルイ14世からの寵愛の深さに自信を深め、驕り高ぶり、元々見せていた傍若無人な態度はますます露骨になっていきました。 王妃マリー・テレーズのことさえ長い間王に顧みられぬ冴えない王妃と軽んじ、「王妃は無知なお人好し」とまで発言しました。 さすがにこの発言にはルイ14世も激怒しましたが、依然として寵愛は衰えず、フランソワーズは女王のように振る舞いました。 自己顕示欲が高いフランソワーズは権力を誇示するため、カネに糸目をつけず豪華なジュエリーやドレスを注文しました。 |
HERITAGEコレクション | |
ピエトラドュラ バングル イタリア 1860年頃 SOLD |
ピエトラドュラ ピアス イタリア 1830〜1840年 SOLD |
こういう自己顕示欲が強い人のジュエリーは、王侯貴族のハイジュエリーであっても美しいと感じられませんし、見ていて豊かな気持ちにはなれません。 私たちは他人の目しか気にしていない自己顕示のためのジュエリーではなく、見ているだけで心豊かになれる美しいジュエリーを何よりも愛しています。自己満足的なジュエリーですが、何よりも贅沢な宝物だと思っています。アンティークジュエリー市場にも、ドヤ顔のドヤドヤした王侯貴族のハイジュエリーは存在しますが、心が受け付けないので扱っていません。 そういうものが好きなディーラーの店にはそういうものがラインナップされ、フランソワーズに共通するような方が顧客として集まるでしょう。どちらが良い悪いというものではなく、心の在り方や、幸せの定義、趣味嗜好の方向性の違いなのだと思っています。 |
ルイ14世の公妾フランソワーズと4人の子どもたち (1678年頃) |
但し。驕れる者久しからず、です。 いつまでも続くかのように思われたフランソワーズの権勢も、ルイ14世の寵愛の衰えと共に限りが見え始めました。 1678年、ルイ14世は新たな寵姫としてフォンタンジュ公爵夫人マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュを迎えました。マリー・アンジェリクは17歳と若い上に、当時の画家たちのモデルとして人気となるほど評判の美人でした。 自分は特別な存在であり、他の女性たちとは違うのだと思っていたフランソワーズは常に自分が一番でないと気が済みませんでした。しかしながら既に37歳。しかも9人もの子どもたちを産み、容姿の衰えを感じていた頃でした。 |
フランス王ルイ14世の公妾 フォンタンジュ公爵夫人マリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ(1661-1681年) | 10代のマリー・アンジェリクは美人だけど頭は良くなかったそうで、20歳も年下で出産経験もないマリー・アンジェリクに、子供を9人も産んだフランソワーズが嫉妬する必要なんてないと思うのですが、全てが一番でないと気が済まない性格だとそうもいかなかったのでしょう。 フランソワーズはマリー・アンジェリクに激しい嫉妬心と脅威を感じました。 失われいく若さや美しさへの恐怖は病的な域となっており、突然若い女官を解雇し、周囲を年老いていて醜い女官たちばかりにするなどしました。 |
魔女 ラ・ヴォワザン(1640-1680年)39歳頃 | それでは飽き足らず、具体策として頼ったのが魔女ラ・ヴォワザンでした。 嫌な流行ですが、当時のフランスでは毒殺が流行していました。気に入らない人は殺して排除、欲のために殺すというのが当たり前だったという、恐ろしい環境です。感覚が麻痺して、殺すことに抵抗がなくなっていくのでしょうかね。パリ警視総監すらも妻に毒殺されるような流行ぶりでした。それら毒殺事件の主犯であり、黒魔術や毒薬の製造・販売をやっていた人物です。 宝石商の夫と娘の3人で暮らし、豪邸に客を招いて夜会を催すなど、表向きは上流階級を相手にする趣味の良い女性でした。夫を亡くした後も、占い師や助産師をやっていました。 |
これらは特にフランスの上流階級の女性に大人気で、彼女たちは身分を隠して密かに媚薬や堕胎剤、毒薬などを買い求めていました。ラ・ヴォワザンはこうして莫大な収入を得ていました。 公妾フランソワーズは1678年頃から魔女ラ・ヴォワザンの元へ通い始めました。ルイ14世の寵愛を取り戻すために媚薬を求めたり、黒ミサを行ったりしました。ライバルを呪い殺すための黒ミサを行うこともありました。 |
キリスト教の儀式用にワインを注ぐ様子 |
カトリック教会では古代から現代に至るまで、毎日絶えることなくミサが続けられています。 最後の晩餐でイエスは賛美の祈りの後にパンを"自分の体"、葡萄酒を"自分の血"として弟子たちに与え、「これを私の記念として行え」と命じました。それを実行しているのがミサです。 イエスの体と血に変わったパンと葡萄酒を信徒が分かち合うこと、すなわち聖体拝領こそがミサの中心です。他人の肉を食べ、血を飲むなんて、日本人としては想像するだけで生理的に受け付けないのですが、こういう意識がキリスト教文化圏には根付いているのです。 キリスト教が信じるのは神です。聖なる儀式によって体内に取り込むのは、聖なるキリストの血です。 神に対抗する者。悪魔を崇拝する悪魔側の者たちは様々な儀式を行いますが、そのどれもに意味があります。ただおどろおどろしいこと、不道徳なことをやるのではなく、神を冒涜するための強い意思があります。 |
『黒ミサの儀式』 魔女 ラ・ヴォワザン、カトリック神父 エティエンヌ・ギブール、公妾フランソワーズ |
黒ミサには司祭も必要です。魔女ラ・ヴォワザン主宰の黒ミサの儀式には様々な司祭が参加していました。モンテスパン侯爵夫人フランソワーズの黒ミサを執り行ったのが、カトリック神父のエティエンヌ・ギブールでした。アンシャンレジームの時代なので、聖職者である神父は第一身分の特権階級でもあります。神に仕えるはずの身分なのに、悪魔崇拝の儀式を行うなんて怖いですね。 黒ミサでは何も身に着けていないフランソワーズが黒いベルベットの祭壇の上に横たわり、いくつかの儀式の後、生贄の嬰児の首を切り裂いてフランソワーズに血が注がれました。キリスト教では聖なるキリストの血を飲みますが、黒ミサではそれとは対象的に嬰児の血を飲み干したりするそうです。 吸血鬼は生き血をすすると言うことで、生き血はそんなに美味しいのかと思って、結構流血する怪我をした際に自分の血を口にしてみたことがありましたが、全然味がしなくてがっかりしたことがありました。量が足りないのか、自分の血だからなのかと思案したのですが、美味しいからではなく神の冒涜が目的だったわけですね。おバカですみません。 さて、黒ミサの儀式の効果虚しく、フランソワーズがルイ14世の寵愛を取り戻すことはありませんでした。こういう時、「効果がないではないか。」と魔女に詰め寄ることになれば良いのですが、こういう類の人たちは一流になるほど言い訳上手で、弁償するどころかよりお金を注ぎ込ませる方向に持っていくことができます。効果がないのは祈りや生贄が足りなかったからだとでも言ったのでしょう。 翌1769年、ある占い師が毒殺商売の罪で逮捕され、その自白によりラ・ヴォワザンも逮捕されました。豪邸で密かに行われていた数々の悪事が露見し、関連する360人もの黒ミサ参加者も逮捕される『黒ミサ事件』が起きました。取り調べによって国内のかなりの著名人たちが顧客となっており、宮廷の有力者が何人も関与していることが判明しました。ルイ14世にとって最悪の醜聞です。 |
フランス王ルイ14世の公妾 モンテスパン侯爵夫人フランソワーズと子どもたち(1677年) | 特に王妃のように権力をふるっていた公妾フランソワーズの名が公表されれば、ルイ14世自身の破滅にもつながりかねません。 警察も本格的な捜査はできず、王は特別審問会を中止し、証拠書類は焼却され、一連の事件の真相や顧客の秘密は隠蔽されました。それでも110人ほどは告訴され、魔女ラ・ヴォワザンは火刑、ギブール神父は終身刑に処されました。 この事件でフランソワーズは黒ミサに使用するために、何と1,500人もの嬰児を誘拐・殺害した罪で告訴されていたそうです。 |
ラ・ヴォワザン邸の庭からは2,500人もの嬰児の遺体も発見されています。儀式に使用する嬰児は売春婦から買うこともあったそうです。 色々と想像を絶しますが、この時代は知識を有する高位の身分の人たちまで広く悪魔や魔女の存在、目には見えない力を本気で信じていたと言えます。黒ミサは魔女裁判が下火になった17〜18世紀のフランス、イギリス、イタリアの貴族や知識階級に盛んに行われていたとされています。 |
2-2-4. 啓蒙時代を経て変化した魔女のイメージ
ルイ15世の公妾 ポンパドゥール夫人とその左手の先に描かれた大判の『百科全書』の第1巻(1755年) | 17世紀後半から18世紀にかけて、ヨーロッパ各地で啓蒙時代が訪れました。 ただ自然のままの光を用い、自ら超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性の自立を促そうというのが啓蒙思想です。 それまでのヨーロッパでは、キリスト教を元に様々な概念が形成されていました。しかしながら啓蒙時代に入ると、カトリックにもプロテスタントにも「個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然的な力ではなく、あくまでも個人にある。」という概念が生まれました。 こうして啓蒙思想の中心となった上流階級や知識階層を中心に、魔女信仰は衰退して行きました。 |
2-3. 魅惑の美女のイメージも持ち始めた魔女
イギリスの男女別の識字率の推移 【引用】Our World in Data / Literacy by Max Roser and Esteban Ortiz-Ospina(First published 2013; last revision September 20, 2018) © Max Roser /Adapted/CC-BY |
19世紀に入ると近代化の推進や識字率の向上などが後押しし、ますます魔女や目に見えぬ力の存在は人々の意識から薄れていきました。日本人の意識から妖怪の存在が急速に薄れていったのと似たような感じだったかもしれませんね。 |
魔女モチーフの絵画 | |
18世紀後期 | 19世紀後期 |
『魔女のサバト』崇拝する悪魔を囲む魔女たち(フランシスコ・デ・ゴヤ 1789年) | 『サバトに赴く魔女たち』(ルイス・リカルド・ファレーロ 1878年) |
その一方で、気軽に芸術や文学作品の題材に用いられるようになっていきました。
絵画からも魔女のイメージの大きな変化が見て取れます。アンチ神としての邪悪なイメージがあった古い時代、魔女の姿は醜く堕落しており、生贄としての嬰児を差し出す姿も背徳的です。神を冒涜する意味での悪魔崇拝が意図して表現されています。 19世紀後期ともなると、本気で悪魔や魔女の存在を信じる人は上流階級や知的階級では殆どいないと言って良いほど意識が変わりました。同じサバトを題材にした絵画でも、魔女の描かれ方が18世紀のものとはかなり違います。怖そうな山姥みたいな魔女もいますが、メインは若く肉感的で美しい魔女たちです。 |
『魔法円(魔法陣)』(ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 1886年) | ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスの『魔法円』に描かれた魔女も若く美しい女性の姿で、巫女のようにも見えます。 中東の女性のようなエキゾチックな雰囲気が特徴で、髪型は初期のアングロ・サクソン人のものに似ています。 ドレスの裾にはペルシャ、或いはギリシャの戦士の姿が描かれています。 左手に持つのはギリシャ神話の月と魔術の女神を象徴する三日月型の鎌です。 右手で描く魔法円の外には邪悪を象徴するカラスと、右下にカエルがいます。 一方で魔法円の内側には魔女と花、"美しいもの"が描かれています。 |
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(1849-1917年)1886年頃、37歳頃 | 作者ウォーターハウスは何を意図し、伝えようとしているのか・・。 ああでもない、こうでもないと知的な議論を重ねて楽しむのが当時の上流階級や知的階級の楽しみ方でした。 |
魔女(1700年頃) | 魔女は邪悪で醜い存在であることを警告するような昔の絵画と違い、19世紀後期にもなると、空想上の存在と化した魔女は様々な知的要素を取り込んだ文化的モチーフとなっていったのです。 どうでも良いですが、左の悪魔は少年マンガの主人公の少年のように瞳が純粋そうで、キラキラと輝いていますね。 |
『魔女たちの祭日』(ルイス・リカルド・ファレーロ 1880年頃) | それはさておき。 醜い老婆の姿で描かれていた魔女ですが、19世紀後期は若い魅惑の美女の姿で描かれた魔女の作品が多数発表されました。 "Witch(魔女)"にあった悪いイメージもいつの間にか薄れていき、絵画や物語などを通してロマンティックなイメージすらも持たれるようになりました。 |
ヨーロッパには災いをなす悪い魔女とは逆に、良い魔術で人々を助ける白魔女も存在してきました。 イギリスでは『器用な人(cunning man、cunnning woman)』、フランスでは『占い師兼病気治し(devins-guerisseurs)』などと呼ばれ、医者、薬剤師、看護師、占い師などを兼ねた地域社会の重要な構成要因として機能し、魔女狩りの時代にも狩る対象にはなりませんでした。 |
カニングウーマン(ウィッチクラフト美術館) "Cunning Woman" ©Midnightblueowl at English Wikipedia(12 Decembe 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
薬草に精通し、呪文などと組み合わせて人々や動物を治療したり、失せ物や宝探しをしたり、占いや愛の呪術を施したりもします。 愛のまじないや惚れ薬を提供するのは邪悪な魔女と共通しますが、背景にある目的が純粋か邪悪かの違いと言えますね。 ウィッチクラフト美術館の白魔女のイメージは老婆の姿で作られています。 知識や経験を要する仕事だからこそ、一般的にはある程度の年を重ねている姿の方が信頼できると言うか、納得感があるかもしれませんね。 それでも美女の良い魔女も存在します。 |
『アーサー王の最後の眠り』の細部、アーサー王と9人の魔女 (エドワード・バーン=ジョーンズ 1898年) |
イギリスで人気の高いアーサー王ですが、戦で致命傷を負い、アヴァロン島で最期を迎えます。これは瀕死の重傷を負ったアーサー王を見守るアヴァロンの守護者、『9人の魔女』です。9人の乙女でもあり、姉妹です。 |
『アーサー王の死』魔導書でアーサー王の救命を探る魔女モーガン・ル・フェイ (ジェームズ・アーチャー 1860年) |
その中でも長姉であり女王であるモーガン・ル・フェイは別格で美しく、賢く強く、美声を持つ歌姫であり、役立つ知識と医術を兼ね備えていたとされます。この絵画では漆黒のローブを纏ったモーガンが魔導書を探り、アーサー王の命を救う方法を探す様子が描かれています。最期を看取るアーサー王の守護者としての役割も果たしています。 モーガンには黒魔術を使う邪悪な魔女、あるいは妖姫などとして、ネガティブなイメージをお持ちの方もいらっしゃると思います。物語を通して、アーサー王の異父姉であり、変身能力を駆使してアーサー王と近親相姦したり、アーサー王の最強の敵としてご存知の方もいらっしゃるでしょう。 実はモーガンがアーサー王の異父姉というのは12世紀末に追加された設定で、カトリック(シトー派)の修道僧によってアーサー王との近親相姦などネガティブな要素が書き加えられました。15世紀以降にはモルガンが黒魔術を使う邪悪な魔女へと変更されています。 |
『チャリオットに乗り戦いに挑むクー・フーリン』(J・C・ライエンデッカー 1911年) | モーガン・ル・フェイは古い読みでは「モルガン・ル・フェ」と言い、『妖精モルガン』を意味します。 ケルト神話における三位一体の戦いの女神モリガンと同一視されており、戦場には黒いカラスの姿で出現することも多い女神です。 左は『クアルンゲの牛捕り』の様子で、ケルト神話の半神半人の大英雄クー・フーリンの盾の奥に女神モリガンが描かれています。 19世紀後半からはナショナリズムの高揚により、ヨーロッパの各地域で自分たちルーツであったり、歴史や文化を見直す活動が活発に行われました。そして、ハイジュエリーを含む芸術作品にその成果が反映されました。この絵画もその1つと言えます。 |
モルガン・ル・フェイを描いた絵画作品 | ||
エドワード・バーン=ジョーンズ 1862年 |
ジョン・R・スペンサー・スタンホープ 1880年 |
ウィリアム・ヘンリー・マージェットソン 1908年 |
『モルガン・ル・フェイ』 | 『モルガン・ル・フェイ』 | 女子修道院で魔法を修業するモルガン・ル・フェイ |
そのナショナリズムの環境下で、イギリス由来の女神が原型となるモーガン・ル・フェイは特にイギリスで人気のあった女性です。かなり早い時期から絵画のモチーフとして好んで描かれ、長い間にたくさんの作品が制作されています。 |
"モダンデザインの父" ウィリアム・モリス(1834-1896年)1887年頃、53歳頃 | 『いちご泥棒』の壁紙(モリスのデザイン 1883年) |
アーツ&クラフツ運動を提唱したウィリアム・モリスは今でも普遍の人気を誇る壁紙やテキスタイルの柄で有名ですが、その創作活動は多岐に渡りました。 |
ステンドグラス『アーサー王と騎士ランスロット』(モリスのデザイン 1862年) | モリスによる本の装飾 |
産業革命以前、心を込めた優れた手仕事が人々の暮らしに息づいていた中世の時代。そんな時代に強い憧れを抱いていたモリスは、その時代をモチーフにしたステンドグラスであったり、架空の中世的世界を舞台にした多くのロマンスを創作しています。『指輪物語』で有名なJ・R・R・トールキンにも影響を与えたとされ、モダン・ファンタジーの父とも目されるほど功績を残しています。 |
『モーガン・ル・フェイ』(フレデリック・サンズ 1863年) | そのような時代背景があったからこそアーサー王の最強の敵であり魔女として有名だった絶世の美女モーガンが注目され、そのイメージが見直されるようになっていったのでしょう。 異教徒の女神だったモーガンは中世に於いて、キリスト教に意図的に邪悪な魔女へと変えられてしまいました。 キリスト教の支配によって見えなくなっていたものを理性の光で照らし、真の姿を明らかにし理解していく。 モーガンは、啓蒙主義を経て見直された女神の一人と言えるでしょう。 |
『円卓の騎士の1人トリスタンに盾を渡すモーガン・ル・フェイ』(オーブリー・ビアズリー 1893年) | 上流階級の知的階層は知的な会話が大好きです。 モーガンは邪悪な魔女だったのか、楽園を守る美しく賢い美女だったのか。長い時の流れの中でどうイメージが変遷していったのか、それは何故なのか、元々はどういう存在だったのか。 ここまでイメージが変えられた物語の女性はそうはいません。しかもアーサー王伝説はかなり古い時代から人気が高かった、イギリス人にとって普遍の物語の最重要人物です。 |
アーサー王子と妖精の女王モーガン・ル・フェイ(ヘンリー・フセリ 1788年頃) |
古い読み方だと妖精モルガンを意味するモーガンの名。その正体を探ろうとすれば、相当古い時代にまで議論は遡ることになります。そして、各時代の人々はどう解釈してきたのか。きっと議論は尽きなかったはずです。 |
『モルガン・ル・フェイ』(ジョン・R・スペンサー・スタンホープ 1880年) | モルガンの元とされるケルト神話の女神モリガンは背が高く、膝まである知的なグレーの長い髪を持ち、真っ赤なドレスを纏った美しい姿で戦場に現れるそうです。 モリガンに魅入られ、その愛を受け入れた男性はその戦女神の御加護を受けることができました。 ウィッチズハートはイギリスで流行したジュエリーですが、不特定の魔女ではなく、同時代に話題となっていたアーサー王伝説のモルガンがインスピレーションの元だった可能性が高いと見ています。 正体がはっきりしない、追っても追っても謎に包まれた絶世の美女。そんな女性は、単に見た目が美しいだけの女性以上に見る者を虜にします。 "Bewitched" 誰よりも美しく賢く、魔法まで使いこなす魅惑の魔女。そんな魔女に愛の魔法をかけられ、私は貴女以外に見えなくなってしまった。 |
悪魔と契約した邪悪な魔女とは全く関係のない"魔女(witch)"です。 謎多き魅惑の美女の愛の魔法。 これこそがウィッチズハートのジュエリーの正体なのだと思います♪♪ |
イギリスの古代の女神が元となっているということで、ナショナリズム・ジュエリーにカテゴライズしても良いかもしれませんね。 |
3. モダンな感覚とエレガントさを備えたウィッチズハート
ウィッチズハートのハイジュエリーは今までクラシカルなものが多いイメージでしたが、この宝物にはとてもモダンな印象を受けます。 ヴィクトリアン、特にミッドヴィクトリアンはふくよかな体型だったヴィクトリア女王を反映して大ぶりで主張の強いジュエリーが流行していますが、このウィッチズハートは軽やかでエレガントなデザインなので、若い方や細身の方でも違和感なく使いやすいと思います。 当時の最先端の感覚でデザインされた、ファッションリーダー的な存在の王侯貴族のジュエリーだったからからこそと言えます。 |
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3-1. ダブル・オープンハートの最先端デザイン
これは布に刺して撮影した画像で、着用するとこのようになります。 透かしのデザインを駆使した、ダブル・オープンハートのデザインがこのウィッチズハートの大きな特徴です。 |
3-1-1. 一般的なウィッチズハートの高級品
『Bewitched』 ウィッチズハート ペンダント&ブローチ(ロケット付) イギリス 1880年頃 SOLD |
【参考】ウィッチズハート イギリス 1890年頃 2006年にクリスティーズに出品 【引用】CHRISTIE'S ©Christie's |
ウイッチズハート ペンダント イギリス 1890年頃 SOLD |
ラグジュアリーな宮廷文化とは別に、研ぎ澄まされた美を持つ武家文化や活気溢れる町人文化など様々な文化が発達した特異な歴史を持つ日本人は、何もない空間に空間に形を超えた美しさを見出すという独自の感覚を確立していました。開国によってこの日本人特有の"美意識"がヨーロッパの上流階級に影響し、受け入れられていくことで空間の美や透かし細工を駆使したジュエリーが新しい美しさの基準として作られるようになっていきました。 19世紀後期はその過渡期です。元々ヨーロッパでは形のある美しさ、物質的なものだけを見る文化でした。隙間なく全て埋め尽くすのがラグジュアリーの基準だったため、それを踏襲したオーソドックスなものもあれば、空間を活かすという最先端の表現を取り入れたものも並行して作られています。 |
3-1-2. ウィッチズハートの安物
HERITAGEでご紹介している宝物は、ヨーロッパの上流階級のために作られたハイジュエリーです。日本人だと「莫大な資産を持つ上流階級」とご説明しても、中途半端な小金持ちや成金、派手で目立つだけの"セレブ"をイメージされてしまう方が多いようなのですが、実際は今以上に庶民とは隔絶された世界に生きていた人たちで、庶民がその経験を元にイメージするのは困難です。 HERITAGEでご紹介する宝物の中でも、特に最高級品はビリオネア・クラス(資産10億ドル、約1,100億円以上)の人たちが所有していたものであり、そこまではいかないものでもそれに準ずる立場の人たちの持ち物でした。 そういう人たちはジュエリーを買う時に値段なんて気にしません。気にするわけがありません。それよりもとにかく持てる技術や才能を駆使して、美しいジュエリーとなることを望みます。故に上流階級のために作られたハイジュエリーの場合、どういう宝石を使っているのか、どういうデザインなのかは安いか高いかではなく、本人の好みによると言えます。 一方で成金も含めて、庶民はそうはいきません。ジュエリーにかけられるお金はたかが知れています。一部にはセンスがある人が作ったとみられるオシャレなものもありますが、そういうものでも素材や作りの良さに限界があるので、HERITAGEではお取り扱いしていません。 |
【参考】安物のウィッチズハート | ||
スコティッシュアゲート | ハーフパール | ペースト&エナメル |
ご参考に、同時代の安物のウィッチズハートの特徴をご説明いたします。 左の2つはオープンハートのデザインですが、これは空間を埋めるお金がなかったからです。空間を埋めるには宝石や貴金属、細工にかかる職人の技術料や作業費などが必要です。そこまでのコストがかけられないため、オープンハートのデザインになっています。傑出したセンスを持つ一部のファッションリーダー的な上流階級を除き、隙間なく埋め尽くすのがラグジュアリーという意識がまだ根強い時代でした。スコティッシュアゲートに関しては、正確にはウィッチズハートではなくラッケンブースにカテゴライズされるものです。『Royal Memories』と比較すると石の質も彫金のレベルも劣っており、高級品とは全然違うことがお分かりいただけると思います。それでも庶民向けに作られたスコティッシュアゲートの中では中級〜高級品とは言えます。本当の安物はデザインも石も細工ももっと酷いですから・・。 本当は隙間なく埋めたい。その思いは、右のウィッチズハートから感じ取っていただけるはずです。ペーストも古い時代であれば、その品質によってはゴールド・ジュエリーに使用されることもある材料でした。19世紀後期はダイヤモンドの代替となる安物材料に過ぎません。ゴールドラッシュによって、上流階級にとってはダイヤモンド自体が以前ほど高価な宝石ではなくなっているのですが、現代と違い、庶民にとってはまだとても手が出る宝石ではありませんでした。安い材料を使い、隙間なくデザインを施して高そうに見せようとした成金ジュエリーがこのペースト&エナメルのウィッチズハートです。 安物もそれぞれに理由があってこのデザイン、この素材となっているわけです。 |
3-1-3. 時代の最先端デザイン
上流階級のウィッチズハート | |||
1880年頃 | 1890年頃 | 1900年頃 | |
【引用】CHRISTIE'S ©Christie's |
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今回のウィッチズハートは以前ご紹介したものより少し新しくて、プラチナがジュエリーの一般市場に登場する直前の1900年頃に作られたものとみられます。古いものほど日本美術の影響が薄く、隙間なく埋め尽くすというオーソドックスなヨーロピアン・ラグジュアリーの思想の元にデザインされています。 次第にヨーロッパの上流階級にも"空間の美"という概念が受け入れられていきますが、1890年頃だとまだ過渡期という感じです。 西洋美術と日本美術の様式が融合・昇華したモダンスタイルが出てくる1900年頃になると、当時の中でも特に傑出したセンスを持つ特別な人物によって、今回の宝物のような最先端の感覚を持つウィッチズハートが作られたということです。 |
大きな空間は、埋める財力がない安っぽいものという意識が根強くあった西洋文化の美意識に於いて、この宝物は大きな転換点を示す時代の生き証人でもあるのです。 優れたデザインは時代を超越する。 現代人の感覚で見ても古びた印象がなくモダンな印象を受けますが、当時はかなり驚きを持って迎え入れられたデザインだったはずです。 |
3-2. エレガントさを感じる優美な花々
3-2-1. 高級品らしいデザインとこだわりのハート・シェイプ
上流階級の高級品 | 【参考】庶民向けの安物 |
コストカットのために手抜きされる安物と、お金に糸目つけずとにかく美しさを追い求める高級品では、デザインのこだわりもまったく異なります。 成金嗜好の庶民は、宝石さえ付いていれば満足します。デザインに凝ると、コストは跳ね上がります。デザイナー費もそうですし、凝ったデザインほど作る技術も手間も必要となってくるため、職人の技術料や人件費も高くなります。成金嗜好の庶民は宝石には喜んでお金が出せますが、そういう職人の技術や手間にはどうにもお金を出したがらないのです。だから安物はデザインも簡素でつまらないジュエリーとなるのです。 今回の宝物はとても手間をかけて作られています。ハートの形にもこだわりがあり、少し縦長ですし、下部の捻りも大きくデザインされています。ハートを二重に重ねたデザインなので、普通のハート型だと重たい雰囲気になっていたでしょう。 |
オープンハートの軽やかさを強調し、魔法をかけられたような魅惑のイメージをより強調するための工夫が、ハートの形からも伝わってきます。 |
3-2-2. ラグジュアリーを感じるお花のデザイン
外側の黄金のハートに、わざわざ黄金の花の蔓を絡ませているのがいかにも高級品らしいです。 とても手間がかかることですし、高度な技術も必要です。 コストカットでオープンハートにしたわけではないことが、ここからも明らかです。 |
ハイジュエリーの主要購買層がそれまでのヨーロッパの王侯貴族ではなく、アメリカなどの新興成金に移ったアールデコ後期になると、ハイジュエリーでもコストカットのためのデザインへと変わっていきます。 全てのハイジュエリーは「ダイヤモンドさえ付いていれば良いでしょ!」というデザインで作られるようになり、手間とお金のかかる細工は施されなくなりました。 アールデコ初期までは当たり前のように施されていたミルグレインすらも見られなくなっていきます。 |
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【参考】ダイヤモンド ブローチ(ブシュロン 1940年代) |
【参考】ジョージズ・フーケ作 アールデコ・リング、クリスティーズにて7万5千スイス・フランで落札(約825万円) 【引用】CHRISTIE'S ©Christie's |
「無駄なものを削ぎ落とす。」、「スタイリッシュ」、「シンプルイズベスト」などの大義名分を隠れ蓑に、コストカットのための単純化されたデザインがスタンダードになっていきました。 20世紀に入り、プラチナがジュエリーの一般市場に出回り始めると、ハイジュエリーの金属はプラチナやホワイトゴールドなどの白一色になりました。 |
その後、白い金属にも飽きてきてゴールドが見直される時期になっても、かつてあった高度な金細工技術は残っていません。 2度と素晴らしい金細工のジュエリーも、素晴らしいデザインのジュエリーも作ることはできなくなってしまったのです。 |
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【参考】モンタナサファイア&ムーンストーン・ブローチ(ティファニー 1940年代) |
高度な技術と手間をかけた、優美なデザインの金細工ジュエリーはプラチナが登場する以前にしか存在し得ない宝物です。 |
空間の美を駆使した1900年頃の革新的なゴールド・ジュエリー | ||
今回の宝物 イギリス 1900年頃 |
ラティスワーク サーキュラー ペンダント オーストリア 1900年頃 SOLD |
『STYLISH PINK』 イギリス 1900年頃 SOLD |
ここまで大胆に空間の美を生かしたゴールド・ジュエリーは、本当にごく僅かな期間にしか作られていません。 ヨーロッパの王侯貴族がようやく"空間の美"を認識し、これからより空間の美を意識した素晴らしいゴールド・ジュエリーが作られようとしたその瞬間に、プラチナがハイジュエリー市場を席巻してしまったからです。 |
日本人好みの空間の美を持ち、それに加えてヨーロッパの上流階級らしいエレガントなデザインも持つラグジュアリーなゴールド・ジュエリー。 それは有りそうでない、とても珍しくて貴重な宝物なのです♪ |
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4. 王侯貴族らしい作りの良さ
4-1. ゴールドのアーティスティックな表現
『ルンペルシュティルツヒェン』 ゴールド・アート ブローチ イギリス 1870年頃 SOLD |
19世紀はゴールドが最も高価な金属として君臨し、要求の高い上流階級の美意識を満足させる素晴らしい金細工技術が数々考案され、磨き抜かれ、芸術作品の域に達したゴールド・ジュエリーが生み出されてきました。 |
『Shining White』 エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス イギリス or オーストリア 1910年頃 SOLD |
しかしながら20世紀に入り、今回の宝物から少しでも時代が後にずれると、ハイジュエリー市場はプラチナなどの白一色になってしまいました。 |
【参考】20世紀初期の安物ジュエリー | ||
プラチナが出てきた後もゴールド・ジュエリーは作られていますが、プラチナを買えるほどの財力は持たない人のための安物ばかりです。 それでもゴールドは依然として非常に高価な金属であることに違いはありません。故にそれら安物は使っているゴールドの分量が少ないですし、安物を扱う職人は腕も良くないので作りも稚拙で雑です。技術が伴わなければ優れたデザインも無理です。 こうして、19世紀にあった素晴らしい金細工技術は急速に失われてしまいました。 |
この宝物は優れた金細工が残っていた時代の、最後の"ゴールドによるハイジュエリー"と言えます。 黄金を駆使した、アーティスティックな表現が魅力です。 |
4-1-1. ハートに絡まる黄金の蔓
正面から見ると印象的な、ハートに絡みつく蔓ですが、どのアングルから見ても立体的で美しいです。これは実際に立体的に作っているからです。後ろ側まで丁寧に作っているからこそですが、オーダーした人物のその美意識の高さと、依頼を受けた職人の高度な技術には感心します。 |
通常は見ることのないアングルですが、この角度からでも蔓が絡んでいる様子が伺えますね。 |
ゴールドは柔らかいとは言っても、金属なので本物の植物の蔓のように変幻自在に動かせるわけではありません。 |
ここまで違和感なく、植物の蔓らしい自然な絡ませ方をできるのは凄いことです。 作者のセンスと、高度な金細工技術があってこそです!♪ |
4-1-2. 美しい花々の表現
蔓に咲き乱れる黄金の花々も、センスの良さを感じる表現になっています。 |
花びらは魚子打ちのような技法を駆使して、マットな質感が表現されています。 花芯も同様に、鏨(タガネ)を打ってまるで本物のように表現されています。 チューブ状のハートと絡みつく蔓は、表面を磨き上げて強い黄金の輝きを放つよう作られている一方で、お花は同じゴールドの素材でも繊細な輝きを放ちます。 そのコントラストが実に美しいです!♪ |
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『アメジストの楽園』 ヘキサゴンカット・アメジスト ゴールド・ブレスレット イギリス 1880〜1890年頃 SOLD |
迫力ある上質なアメジストに負けることなく、名脇役としての役目を存分に発揮できるよう、光沢のある表現がなされた『アメジストの楽園』の黄金の花々とは対照的ですね。 |
黄金の小花はとても美しいですが、手間も技術も必要なため、実はハイジュエリーでもあまり見る機会はありません。 さらに魚子打ちのような細工で質感を出そうとすると、相当な手間と技術が要求されるため、ハイジュエリーの中でもかなり高価なものとして作られたと言えます。 |
『黄金の花畑を舞う蝶』 色とりどりの宝石と黄金のブローチ イギリス 1840年頃 SOLD |
『情愛の鳥』 卵形天然真珠 ブローチ イギリス 1870年頃 SOLD |
これまでHERITAGEでご紹介したものだと、ジュエリーがまだギリギリ王侯貴族のためだけのものだったアーリー・ヴィクトリアンのブローチ、そして恐らくコンテスト・ジュエリーとして制作された作品くらいです。アンティークのハイジュエリーの中でも特別クラスのものとして作られているので、これくらい手間がかけられているのです。 1点1点、鏨で均一に点を打っていくという想像を絶する手間をかけています。鏨を押し当てる力、つまりゴールドに押し込む深さが均一でないとムラになりますし、打つ場所も考えながら均一に打っていかないとムラになります。集中力と忍耐力、センスを兼ね備えないと実現不可能な細工です。 ところで、上の2点は花芯を宝石で表現しています。 |
HERITAGEがお取り扱いするクラスのジュエリーの持ち主は、お金を気にする必要はありません。 この小花にもシードパールなりローズカット・ダイヤモンドなり、小さな宝石をセットしようと思えばできたはずです。 そうしなかったのが持ち主の先進的なセンスです。 |
たとえ控えめなシードパールであっても、花芯に宝石をセットしたらゴチャっとして冗長です。 オーソドックスなヨーロピアン・スタイルのラグジュアリーならばここに宝石をセットするでしょうけれど、ここは敢えて金細工にして正解です。大正解です!! |
実際にいくつかの花々の花芯はこんな感じですよね。花を愛でる心を持ち、花のことをよく知っている心豊かな人物がデザインしたのは間違いありません!♪ |
花芯の1粒1粒が丹念に磨き上げられており、その黄金の微粒子の輝きがとても美しいです。 磨かなければこんな輝きは不可能ですが、実際の大きさを考えると到底、人の技とは考えられません。まさに神技の職人だからこそなせる仕事です。 |
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少し暗くしたこの画像をご覧いただくと、黄金の微粒子が放つ繊細な輝きの美しさを感じていただけるのではないでしょうか。 派手好きな方や成金嗜好の方だと宝石が付いていた方が喜ぶかもしれませんが、これはアーティスティックなものがお好きな方にはたまらない細工だと思います♪ これは素晴らしいです!! |
満開で咲き誇るお花に付けられた、花びらの角度はごく緩やかです。でも、平坦ではなく確実に角度は付けてあります。
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それをごく自然により美しく見せているのが、花びらの角度に合わせて施されている彫金模様です。 魚打のような技法で花びらにきめ細かな質感を出しているだけでなく、彫金で花脈のような筋まで表現しているのです。 こんなに小さなお花に秘められた、驚きの神技!!! |
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それぞれのお花を取り付ける角度も絶妙です。 全てが正面を向いていたら違和感がありますし、単調でつまらない雰囲気になっていたでしょう。 |
どの角度から見ても心地よく自然な美しさを感じられるのは、卓越したセンスを持つ作者が、細部にまで完璧にデザインを行き渡らせているからなのです。 |
4-2. 上質なハーフパールの高度な爪留
この宝物のハーフパールは白く光沢のある、とても上質な天然真珠が使われています。 22粒のハーフパールは全て質が揃えられており、そこだけ見てもこの宝物がいかに高級品として作られているのかが分かります。 HERITAGEでは厳選したハイクラスのジュエリーしかお取り扱いしておらず、基本的に真珠の質は当たり前のように揃っています。 |
あこや養殖真珠 "Akoya peari" ©MASAYUKI KATO(17 February 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
現代は養殖真珠が『本真珠』という詐欺まがいの名称で、まるで本物の価値ある真珠であるかのように販売されています。業界の一部がそうならばここまでスタンダードになることはなかったはずですが、大手や百貨店が率先してそういう売り方をしたため、戦後の知識がなかった日本人庶民は鵜呑みにし、まかり通ってしまいました。悲しいことですが、全てを性善説で見てはいけないのです。 宝石は美しいだけでなく、稀少性があって初めて価値あるものとなります。無尽蔵に量産できる養殖真珠は、宝石の定義に当てはまりません。人造宝石である養殖真珠はもはや扱いが工業製品と化しており、品質を一定にするため、脱色と染色(一連を調色と呼んでお茶を濁しています)をするのが当たり前です。漂白すると不自然な色になるため、ピンク色などの染料に浸けてそれっぽくするわけです。さらに表面を磨いて突起を除去したり、ツヤツヤにすることもあります。磨きすぎて不自然なほどピカピカになっているものもあります。 |
【参考】シードパールが脱落している安物 | アンティークの時代の天然真珠は高級品と安物の違いはあっても、そんな不自然な処理はしていませんでした。 故に、安物を見るとやっぱり質が悪かったり、不均一だったりします。 安物を扱う職人は腕も良くないため、ハーフパールが取れていることもしばしばあります。 |
【参考】接着剤で修理された安物 |
取れた後、接着剤で修理していることも多々あります。性善説で見る日本人の場合、意識して目を凝らさないと普通は気づかないと思います。 今はインターネットが発達して、画像を掲載してアンティークジュエリーを販売する店もたくさんありますが、なぜHERITAGEのように大きな画像を載せないのかと言えば、粗が目立つので載せられないからです。ハーフパールを留める爪もグチャっとしていて汚いです。しかしながら小さい画像ならば稚拙な作りには気づかれず、誤魔化せます。 |
【参考】ハーフパールのセッティングが隙間だらけの稚拙な安物 |
これなんかもフレームとハーフパールの間が隙間だらけで、いかにもハーフパールは落ちそうです。爪も汚いですね。ハーフパールのセッティングはとても難しく、手間もかかります。ハーフパールの形状に合わせてゴールドの土台を削り出し、そこにハーフパールを収めて爪で留めます。1つ1つ個性の異なるハーフパールに合わせて、精確にフレームを削るだけでも高度な技術を必要とします。 成金嗜好の人だとそういう細部の作りには目もくれず、「大きなダイヤモンドが付いているわ!高級〜♪」と言ってこういう安物を喜んで買います。 |
そういう人はこの宝物を見ても、「ダイヤモンド付いてないの?」と笑うかもしれませんね。 この宝物のハーフパールは隙間なくピッタリとセットされています。また、爪もハーフパールをセットした後、丹念に仕上げがなされているため、黄金の輝きを放ち、真珠の輝きに華やかさを添えています。依頼主が「ハーフパールが留まってさえいれば良い。後はできるだけお安く!」という人物だったら絶対にできない細工です。依頼主がお金に糸目をつけず、とにかく美しさの追求を求めたからこそです。実物の大きさを考えると凄い技です。 |
正面から見ると大きさも均一に揃った天然真珠に見えますが、サイドから見ると高さがこれだけ違うことが分かります。これこそが天然の証でもあるのですが、正面から見た時に均一に見えるよう、いかに微調整をしながらハーフパールが整えられていったのかが伝わってきます。 当然、土台のゴールドもこの個性ある形状に合わせてピッタリと削り出さなければなりません。凄いことです。 |
フレームは磨き上げられており、ハーフパールの脇から美しい黄金の輝きを放ちます。 美意識の高い王侯貴族のために作られた高級品は、細部まで徹底して美意識が行き届いているのです。 |
裏側
裏側もスッキリとした、とても良い作りです。 |
衣服から抜けにくいよう返しがついた、オリジナルのブローチピンが付いています。 |
ピンを受ける金具もゴールドがタップリと使用されており、高級感もバッチリです♪ |
着用イメージ
左のウィッチズハートはハートの大きさは殆ど同じですが、デザインのせいか、実物で見るとかなり大きさが違う印象を受けます。 今回の宝物はオープンハートな上に、縦長のスタイリッシュなデザインです。宝石もダイヤモンドの強い煌めきとは一線を画す、天然真珠ならではの清楚で優しい輝きが特徴です。 |
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このため、普段用のジュエリーとしてもお使いいただきやすいと思います。 天然真珠のネックレスやゴールドのソートワールなどと組み合わせれば、少し華やかな場所でも地味すぎずオシャレに見えるはずです。 オープンハートだからこそ、組み合わせるお洋服の色次第で雰囲気もガラリと変わるはずで、コーディネートを考えるのもとっても楽しい宝物だと思います♪ |
余談
『アーサー王の最後の眠り』の細部、アーサー王と9人の魔女 (エドワード・バーン=ジョーンズ 1898年) |
戦いで致命傷を負い、癒やしを求め、最期を迎えるためにアーサー王が向かったのがアヴァロン島でした。美しい林檎で名高い楽園だったとされ、『恵みの島』、『幸福の島』、『林檎の島』というイメージを持たれています。島を守護するのがモーガンを女王とする、魔術に長けた9人の乙女でした。 |
『ヘスペリデスの園』(エドワード・バーン=ジョーンズ 1869-1873年頃) |
これは先の『アーサー王の最期の眠り』と同じ作者、エドワード・バーン=ジョーンズが描いた『ヘスペリデスの園』です。ヘスペリデスの園は以前、古代ギリシャの英雄ヘラクレスの12の功業の1つとしてご紹介しました。美しいニンフが守護するヘスペリデスの園には最高位の女神ヘラの果樹園があり、そこには黄金の林檎がありました。 美しいニンフ、花々が咲き乱れる林檎の楽園。アヴァロン島とヘスペリデスの園には、類似性が指摘されています。当時の教養ある上流階級であれば、どちらの話も間違いなく知っていたはずです。 |
『ヘスペリデスの園』の一部(エドワード・バーン=ジョーンズ 1869-1873年頃) |
花咲き乱れる楽園で美しい乙女が守護する、黄金の林檎。 林檎の花々も黄金なのでしょうか・・・。 |
林檎の花 "Malus domestica a1" ©Opiola Jerzy(Poland)(10 May 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
本物の林檎の花は花びらが5枚で、雄しべと雌しべはこのような感じです。 |
花びらは4枚でも6枚でも良かったはずですが、この宝物の花びらの数は5枚です。 そして、粒金で表現しても良かったはずの花芯を、なぜこれだけの神技を駆使してまでこの形にしたのか・・。 林檎は蔓性ではありませんが、楽園のイメージでハートに巻き付かせたもので、この花々は黄金の果実をなす楽園の林檎の花としてデザインされたと想像します。 お花への、デザインや作りに対する作者や依頼主の並々ならぬ情熱も、そう考えると納得がいくのです。 |
『アーサー王の最後の眠り』(エドワード・バーン=ジョーンズ 1898年) |
カトリックの一部によって邪悪な魔女の汚名を着せられ、長きに渡って悪いイメージが付いてしまったモーガン・ル・フェイ。本来は伝説の林檎の楽園『アヴァロン島』を守護する妖精、あるいは女神のような存在でした。癒やしの力を持ち、知性と美しさを兼ね備えたモルガン。 |
『アーサー王の死』魔導書でアーサー王の救命を探る魔女モーガン・ル・フェイ (ジェームズ・アーチャー 1860年) |
長い歴史の中で様々な描かれ方をしたため、その真の姿は謎に包まれてしまいました。しかしながら、それこそがモーガンならではのミステリアスな魅力ともなっているのです。 もっと知りたい! |
それこそがまさに「Bewitched.」。 この宝物を贈られた女性も、きっとモルガンのように謎を秘めた、知的で美しい女性だったのだと思います。 |
貴女の、心の奥深くの真なる美しさを感じています。どうかその楽園の心を私に開いて下さい。他の人が理解できなかったとしても、きっと私だけは貴女を理解できます!! この素晴らしい宝物を見れば、きっと贈られた女性もその真心が分かったはずです♪ |
『アーサー王の死』(ジェームズ・アーチャー 1860年) |
よ〜くご覧ください。 果樹の根元に横たわり、偉大なる人生の最期を迎えようとするアーサー王。必死に救命しようとするモーガンの優しさを感じながら、見上げれば、眼前にはたわわに実った黄金の林檎の景色が広がります。死ぬことは決して怖くない。生を全うしたアーサー王が最期に見たのは、心優しい女性が佇む美しく穏やかな楽園だったはずです。 こう生きていきたい・・。 ウィッチズハートの黄金の花々に込められた意味。知的でセンスの良い依頼主だからこそ、確実に深い意味があったと私は感じるのです。 |