No.00325 ルンペルシュティルツヒェン |
『ルンペルシュティルツヒェン』 19世紀のゴールド・アートの最高峰の1つと言えるブローチです。金が史上最も高価だったジョージアンとは方向性が異なる、透かし細工やフリンジによる軽やかな美しさが魅力です。 |
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この宝物のポイント
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1. 作者が分かる特徴的な作行
この宝物に刻印やサインはありません。 でも、「あ、あの宝物と同じ職人が作ったものだ!♪」とひと目で分かりました。 |
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
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もう12年も前にご紹介した宝物ですが、これだけの素晴らしい細工が施されたジュエリーは、王侯貴族のための高級品でもそうあるものではありません。 まさに心に残る作品で、私自身はリボンブローチの実物は見たことがありませんが、すぐに記憶を呼び起こすことができました♪ |
1-1. サインがなくても作者が分かるジュエリー
例1. Mr. エセックス・クリスタル
『インコ』 エセックス・クリスタル ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
ミッド・ヴィクトリアンに活躍した、様々な鳥をモチーフにしたエセックス・クリスタル作家がいます。 ヨーロッパのディーラーにも知られる有名なアーティストですが、名前は分かっていません。 『Mr. エセックス・クリスタル』と呼ばれるこの作者は、工房印や一般的なサインを使いません。 |
『小鳥たちの囀り』 エセックス・クリスタル イヤリング イギリス 1860年頃 SOLD |
『コマドリ』 エセックス・クリスタル ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
代わりにサインとして使用しているのが、鳥が留まった枝の特徴的な表現です。一般人は鳥だけに目が行きがちですが、サインの枝はこの作者にしかできない神技で作られています。 |
『キジ』 ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
このマーク、この形状の枝があるからこの作者、という単純なサインではありません。 作品ごとに表現は違います。 共通するのが、この作者の腕がないと絶対に作成は不可能な、超難度の神技を駆使してあることです。
Gen曰く、 |
蟻に彫らせたの? |
『小鳥』 エセックス・クリスタル ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
まさにそういうサインだと確信します。 生き生きとした鳥の表現も実に見事で、当時は間違いなく、上流階級の誰もが名前を知る超有名作家だったに違いありません。 |
しかしながら20世紀に入り、王侯貴族が世の中を主導するアンティークの時代が終焉を迎えると、作者を知る人もいなくなっていきました。高度な技術を持つ職人による、真心のこもった美しいモノづくりができない時代となり、違いを見分ける眼や感性を持つ人々も少なくなっていきました。 有名な高級品の贋作作りは現代に限らず、古い時代からよくあることでした。Mr.エセックス・クリスタルの贋作を作る人もいたようです。もちろん当時作られたものなので、贋作作家が作ったものもアンティークジュエリーには違いありません。 |
『コマドリ』 エセックス・クリスタル ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
これはひと目でMr.エセックス・クリスタルの作品と分かる宝物です。 興味深いのが、この宝物を買い付ける際に同じディーラーから贋作が出てきたことです。明らかに出来が違うので、Genも私もすぐに分かりました。 しかしながら値段を聞いてみると、どう考えても同じ作者が作った同じクオリティと判断しているようなのです。 卸のディーラーから買い付ける場合、同じタイミングで同じ系統の物が出るのはよくあることです。コレクターが纏めて手放す場合に、このような現象が起こります。 |
イギリスのコレクターもディーラーも、見ても違いが分からなかったのでしょう。私たちから見れば彫りが稚拙で、鳥もボテッとしていて表現力がまるでない代物でした。同じ扱いにされているのを見て、悲しくなってしまいました。デザインだけ見て、同じように見えてしまうのでしょうね。 単品で見て分からない場合はしょうがないにしても、並べて見ても分からないなんて信じがたいです。ただ、何百人、あるいは数千人を超えるアンティークジュエリー好きに宝物を見せてきたGenも、「なぜ違いが分からないのかが分からない。でも、そういう人はいくら説明しても全然分からないみたい。」と言っていました。世の中的に見れば、おそらくは分からない人が殆どです。 作者は実際、草場の陰でほくそ笑めているのか否か・・。 |
例2. クローズド・パヴェ・セッティングの作品
『Tweet Basket』 小鳥たちとバスケットのブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
極小のローズカット・ダイヤモンドで埋め尽くすクローズド・パヴェ・セッティングを駆使したジュエリーも、ただ一人の作者だけが浮かび上がる、作者が特定できる作品です。 |
スリーバード ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
興味深いことに、この作者の作品にもサインや工房印はありません。 クローズド・パヴェ・セッティングもあまりにも高度な神技の技術を必要とするせいか、他の作者の作品では見たことがありません。 |
『二羽の小鳥』 |
この作行と技術を見れば、ひと目で分かるだろうという意気込みが感じられます。サインや工房印がないと価値を評価していもらえないなんて、こういう確かな技術と高いプライドを持つ職人にとってはカッコ悪いことなのでしょう。 |
誰が作ったから、どこの店で買ったからというのではなく、純粋に作品の良し悪しで選ぶ人にとってはサインや工房印なんてどうでも良いのです。芸術作品として優れている、それだけで十分であり、サインや工房印があっても手抜きされたショボいものだったら微塵も価値はありません。 新しい年代になるほど、サインや工房印があるものが増えていきます。見る目のない成金嗜好の人たちが、水戸黄門の御印籠のように喜ぶのがサインや工房印です。ヴィクトリアン中期以降は、産業革命によって台頭した新興成金(庶民)が旺盛な需要でジュエリーを買い始めるようになります。ブランド信仰が活発になっていく時期と一致しています。 クローズド・パヴェ・セッティングの作者が活躍した時代は、まだサインなどなくとも作りで判断できる上流階級が一定数存在したということでしょう。 |
例3. ジャチント・メリロの作品
ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted | カステラーニに師事したジャチント・メリロの作品も、その特別な作行から判断できるものが多々あります。 メリロのオリジナルのホールマークもあるのですが、打たれない場合も少なくなく、特に小さな作品は刻印されないことが多いです。 |
【参考】ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870年頃)£34,000-(2019.8現在) | 【参考】ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃) |
当時メリロはパリ万博など各種コンテストにも作品を多数出展しており、粒金被覆を始めとする古代技術の巨匠として知られていました。名が知られ、作品が有名になると、同じような作品を欲しがる人からのオーダーが入るものです。故に同じような作品を見ることができます。 左の作品もメリロの刻印はありませんが、ボストン美術館にメリロの類似作があり、メリロ作と推定できるということで£34,000-の値段が付いています。実力ある有名な作者の作品とは言え、唯一無二の作品ではないのに500万円超・・・。こういう作者が魂を超めて一世一代の作品として作ったコンテスト・ジュエリーならば高い価値がありますが、これは成金向けのおブランド価格です(笑) |
『エンジェルを乗せた小元太』Genと小元太のフォト日記(2013年10月)より |
実は8年前にメリロの作品をご紹介したことがあります。ピアスではなくブローチでした。有名作家だからではなく、Genが純粋に優れた金細工を気に入って買い付けたものです。優れた作品はインスピレーションを掻き立てるものですが、小元太と合成しちゃうほどGenもお気に入りだったようです♪ |
『エンジェルは鳥に乗って・・・』 |
有名作家の作品と分かっていましたが、成金プライスは付けていません。純粋に作品としてのクオリティを見て、他の名もなき作者と同じ土俵でご紹介価格を設定しています。 それができるのは、卸してくれたイギリス人ディーラーも真っ当な仕事をしているからです。 おブランドの威光で売るのは自分が目利きできないと語っているのと同義なので、私たちのような目利きに自信があるプライドの高いディーラーはやらないのです。 |
1-2. 知られざるブランドジュエリーの落とし穴
成金は成金の自覚がないものです。 自分の美的感性で判断する人たちにとっては頓珍漢な自慢をしてくるのも、成金の特徴です。 「これはダイヤモンドよ!」、「ゴールドよ!」、「カルティエよ!」、「シャネルよ!」、「100万円もしたのよ!」、「おフランス製よ!」など、意図がよく分からない自慢をしてくる人が周りにいらっしゃったりするでしょうか。 ダイヤモンドだから美しい、カルティエだから上質、シャネルだからデザインが優れていると、100%イコールの関係にはなっていません。だからそれ主張されても芸術的・品質的に優れているとは判断できません。ブランド物だからダメだとは全く思っていませんし、自慢に値するほど優れた物ならば、よく分かっていない私に具体的に分かりやすく説明してくれるだろうとワクワクしながら待つのですが、待てど暮らせどブランド名や価格以外の本質的な魅力が提示されないのです。 こういう人たちはダイヤモンドやブランド品、価格が高いものイコール全て一概に優れた物と信じ込んでいるため、その御印籠を見せたのになぜ私が羨ましがったり褒めたりしないのか訳が分からないのです。 完全に噛み合っていません(笑) こういう人は私にはどうでも良いです。理解し合うのは不可能で、お互いに関わらないのがベストです。ただ、見ても全く違いが分からないような美的感覚が鈍い人は論外として、本来はある程度感覚がある方でも、ブランド品は優れているという思い込みがあることで、せっかくの感覚が鈍らされているケースが多々あるように感じます。結局ブランド・ジュエリーとは何なのか、少し整理して理解してみましょう。 |
1-2-1. ブランドの成り立ちと店名
『Renaissance』は赤坂時代から取引している、Genが最もそのセンスを評価するイギリス人ディーラーに付けてもらった名前です。 実は『HERITAGE』もその人に付けてもらいました。間違いなくヨーロッパでも使う名前となるため、英語圏の人が聞いてもアンティークジュエリーの店名として違和感のないものをと考えて相談しました。 その際に印象的だったのが、「なぜIshida、あるいはWakakoという名前にしないの?」と不思議がられたことでした。ヨーロッパだと自分の名前を店の名前にするのが普通なんですよね。日本も昔はそうでした。 赤坂のお店も、Genにいろいろな助言をくれたオランダ系アメリカ人のビジネス・エリートであり親友のハイネケンが、「まだアンティークジュエリーは日本で知られていない存在だし、なるべく知られない状態を保つ方が良いから、店の名前もそれと分からないものを付けた方が良いよ。」言うので『Atelier Katagiri』と付けたのでした。 現代の日本では日本語以外の店名がすっかり定着していて、「アンティークジュエリー石田」なんて付けたら、むしろダサい物しかなさそうな印象すら与えかねません。しかしながら、欧米だと今でも創設者の名前であることが一般的です。 |
チャールズ・ルイス・ティファニー(1812-1902年) | TIFFANY&CO.の創業者はチャールズ・ルイス・ティファニーです。 1837年にチャールズとジョン・B・ヤングによって、ティファニーの前進となる会社『ティファニー&ヤング』を設立しました。 カルティエは1847年に宝石細工師ルイ=フランソワ・カルティエが、師アドルフ・ピカールからパリのジュエリー工房を受け継いだのが始まりです。 1858年に設立されたブシュロンの創業者はフレデリック・ブシュロンです。 |
どのブランドも『石田』と付けているのと同じことです。ハイジュエリーの店名が『石田』だとどうもピンときませんが、欧米の名前だと人の名前でも記号化しているかのように違和感なく受け入れられますね。これはしょうがないと思います(笑) |
1-2-2. 店の名前の変遷
例1. 新しい時代 『カルティエ』
ウィーン体制(1815年)のヨーロッパ |
まずは現代も存在する、フランスのカルティエについて見てみましょう。 先にご紹介した通り、カルティエは1847年に宝石細工師ルイ=フランソワ・カルティエが、師アドルフ・ピカールからパリのジュエリー工房を受け継いだのが始まりです。 19世紀のヨーロッパ、特に大陸部分はかなりややこしい状況にありました。1789年にフランス革命が起こり、フランス革命戦争(1792−1802年)に移行した後、フランスによる周辺国への侵略戦争へと変容し、ナポレオン戦争(1803−1815年)へと続いていきました。 これによって、ヨーロッパ大陸の国境がグチャグチャになってしまいました。周辺国にとっては超迷惑な話ですね。ナポレオン追放後、秩序再建と領土分割のために諸国代表が集まってウィーン会議が開催されましたが、利害が衝突して「会議は踊る、されど進まず」と評されるほど進捗しませんでした。 そこへナポレオンのエルバ島脱出の報が入り、危機感を抱いた各国が妥協することで1815年にウィーン議定書が締結されました。ヨーロッパに『ウィーン体制』と呼ばれる新たな国際秩序が誕生したのです。 |
1848-1849年のヨーロッパ "Europe 1848 map en" ©Alexander Altenhof(29 August 2016)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
不安定だったこのウィーン体制はそう長くはもたず、1848年から1849年にかけてヨーロッパ各地で革命が発生しました。『諸国民の春』と呼ばれます。 |
1848年のフランス二月革命(19世紀)カルナバル美術館 |
フランスでも例に漏れず革命が発生しています。これによって、オルレアン家のルイ・フィリップを国王とした7月王政が廃止されました。 このフランスの革命でチャンスを掴んだのがティファニー創業者、チャールズ・ルイス・ティファニーでした。ティファニーの前身となる『ティファニー&ヤング』は元々、高級な文房具や装飾品を扱う店として創業したのですが、このチャンスに乗じて貴族たちから重要な宝飾品を買ってジュエリー・ビジネスに参入し、後のティファニー帝国を築くきっかけを作ったのです。 ルイ=フランソワ・カルティエが師からパリの工房を受け継いだのは、このような時代でした。 現代でもサラリーマン的に働く雇われの職人と、自分で経営や営業も含めて何もかも行う職人がいます。もちろん、分業する人もいます。現代の高級ブランドのように、大量生産して全世界の無数の顧客相手に商売するビジネスモデルだと、経営者と職人が一致するスタイルは不可能です。 しかしながらハイジュエリーと言えば数少ない上流階級を相手に、上質な一点物のジュエリーを技術と手間をかけて手作りするのが当たり前だった時代は、職人が経営者なのは一般的なことでした。 職人は製作したジュエリーを販売できてようやく生活費を稼ぐことができるわけですが、販売スタイルにはBtoBとBtoCの2種類があります。 BtoB(Business to Business)の場合は卸しに当たります。個人顧客を専門に販売する店に卸すのです。職人の全てが、個人顧客を相手にオーダーを取ったり接客したりするのが得意なわけではありません。家族経営で家族に販売を任せる手もありますが、店を構えたりプロモーションするにも費用がかかりますし、ノウハウも必要です。顧客への販売は任せたい職人、或いは無名でブランド力がない職人の場合、有力な顧客と販売ノウハウを持つ高級宝飾店に卸すのは互いにメリットがあります。 BtoC(Business to Consumer)は直接個人顧客に販売するスタイルです。信頼できる家族や親戚がいて、ブランド力にも自信がある職人の場合、卸すよりも自分の店で販売する方が金銭的にも、さらに名を上げるためにもメリットがあります。 |
ウォルトのメゾンのドレスを纏ったフランス皇后ウジェニー(1826-1920年) | 1847年にルイ=フランソワ・カルティエが受け継いだのは、パリ1区にあったジュエリー工房でした。 1853年に、パリ2区に個人顧客を対象とした宝飾店を出店しました。 1859年に同パリ2区内で移転し、フランス皇后ウジェニーが顧客となりました。 昔は日本もそうでしたが、息子は家業を継ぐものです。1872年に創業者の息子アルフレッド・カルティエが共同経営者となりました。 1898年には孫のルイ・カルティエが共同経営者となり、社名が『アルフレッド・カルティエ&フィス』と変更されました。 |
父マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812年) | イギリス担当の三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777-1836年) |
フィス(fils)はフランス語で息子、或いは息子たちを意味します。 1811年にマイアー・アムシェル・ロートシルトと三男ネイサン・メイアー・ロスチャイルドによって設立されたロンドンの名門投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズも、『息子たち(Sons)』の名が付いていますね。家業として代々続ける店が多いため、"& Son (Sons)"が付く店は多いです。 |
妻と娘と創業者の孫ピエール・カミーユ・カルティエ(1926年) |
さて、創業者の息子アルフレッドにはルイ以外に、ピエールとジャックという3人の息子たちがいました。カルティエの名を世界的なものにしたのが、この創業者の孫たちでした。 1902年に『アルフレッド・カルティエ&フィス』はロンドン支店をオープンし、次男ピエールが経営を任されました。 1906年に三男ジャックがロンドン支店を引き継ぎ、ルイとピエールは共同経営を開始して社名も『カルティエ・フレール』としました。Frèreはフランス語で兄弟です。『カルティエ兄弟』ということですね。英語圏だと『リーマン・ブラザーズ』なんて社名もあります。私に兄弟はいませんが、高級ジュエリーブランドの社名が『石田兄弟』だと、やっぱり違和感がありますね。 それはさておき、勢いに乗ったカルティエ・フレールは1909年、マンハッタン区5番街にニューヨーク支店もオープンしました。 隆盛を極めたカルティエ・フレールでしたが、1925年に創業者の息子アルフレッド・カルティエが死去、1941年にアルフレッドの三男ジャック・カルティエが死去、翌1942年に長男ルイ・カルティエが死去しました。 1945年、次男ピエール・カルティエがパリとニューヨーク支店の経営責任者となり、三男ジャックの息子ジャン=ジャック・カルティエがロンドン支店を引き継ぎました。ピエールはパリを拠点に仕事しましたが、1947年にはジュネーブに引退しました。 1964年、カルティエ黄金期を築き上げた三兄弟の最後の一人、次男ピエール・カルティエも86歳の生涯を終えました。この時、ロンドン支店は三男ジャックの息子ジャン=ジャック・カルティエ、ニューヨーク支店は長男ルイの息子クロード・カルティエ、パリ本店は次男ピエールの娘マリオン・カルティエ・クローデルが統括していましたが、事業を売却し、カルティエ一族による経営は終わりました。 |
カルティエ銀座支店 "Cartier-1" ©江戸村のとくぞう(30 November 2008, 12:16:36)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
その後は投資グループや投資会社の支配となっています。 日本で初めてカルティエのブティックがオープンしたのは1974年です。 戦後復興を遂げ、高度経済成長によって日本の中産階級がジュエリーを買い漁り始めたタイミングですね。 投資家は美味しいタイミングを見逃しません(笑) そして、こういう人種はブランディングも得意です。ターゲット、この場合は一般大衆ですが、日本の大衆にはどういう訴求法が最も効果的か、よく分かっています。 |
朝見の儀を終えた皇太子・明仁親王殿下(当時)と美智子妃殿下(1959年) |
今は"セレブ"の方が効果が高いですが、当時はまだロイヤル・ブランドにも力がありました。1958年から1959年にかけて、日本では『ミッチー・ブーム』という現象が起きました。1947年生まれのGenですらまだ11〜12歳の小学生の頃なので、聞いたことはあってもリアルタイムで状況をはっきりと覚えていらっしゃる方は少ないと思います。 1947年に日本で貴族が廃止される以前、貴族や上流階級は今で言う女優やアイドルのような庶民の憧れの存在であり、ファッションリーダーとしても機能していました。廃止から11年後の当時、制度としての貴族は既に存在していませんが、貴族は憧れの存在という時代を知る人の方が圧倒的に多かったのです。 美的な絶対感覚がある超特別な人を除き、一般大衆にはお手本にするための憧れの存在は必須です。王侯貴族がいなくなれば対象を女優や歌手などに求め、それが機能しなくなっても別で対象を求めます。映画、雑誌、SNS、媒体は変化しても、ファッションリーダーは永遠に必要とされます。 貴族たちが存在した頃は、お手本になる年頃の美しい女性がいつでも必ず存在したはずですが、貴族が廃止されて皇室のみになると、必ずしもファッションを真似できる年頃の美しい女性がいるとは限らない状況に陥ってしまいました。 |
ミッチー・ブーム(1958-1959年)、 婚約期間中の美智子妃殿下(1958年10月) |
まだ芸能界なども今ほど発達していない時代、現れた皇太子・明仁親王殿下のうら若き婚約者、正田美智子さんが羨望の的とならぬ訳がありません。 出逢いの場となった軽井沢のテニストーナメントでお召になっていたと言う白地のVネックセーターや白い服装、身に着けていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、白の長手袋などの装いは『ミッチー・スタイル』と名が付けられ、大流行しました。 現代では考えられないほど、経済の波及効果があったのです。 |
皇太子明仁親王殿下と美智子妃殿下(東京パラリンピック 1964 / 昭和39年) "031164 - Crown Prince and Empress meet teams Tokyo Games - 3b - Scan" ©Australian Paralympic Committee(3 November 1964)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
この美味しい経済効果をお目当てに、養殖真珠業界は皇室を利用して大衆女性にPRしています。 本来は貴族や上流階級が切磋琢磨して新しい流行を作り出し、それが文化となっていくのですが、貴族が廃止されてからは皇室は自由に新しい文化を作ることを許されず、特定の人にとって都合の良い特定の伝統文化を守るだけの存在にされてしまいました。 立ち止まったものは、進化する世の中に於いて後退しているに等しい存在です。時代から取り残され、今の現代人にとって皇室ファッションは古臭くしか見えないようになってしまいました。若い女性が若いファッションリーダーを真似ることで経済も回るはずですが、今では皇族の女性のファッションを真似るなんて聞いたことがありません。 それが当たり前な時代になってしまいました。でも、昔は日本だけでなく各国に貴族や上流階級に憧れ、ファッションのお手本にする時代があったのです。 |
初ロンドンで現代の照明器具店を視察する28歳のGen(1975年) | カルティエが日本に上陸した1974年は高度経済成長によって衣食住が満ち足り、家電や車や旅行にも手が出せるようになって、ようやく大衆女性がジュエリーなどの高級品にも目が向き始めたばかりの頃でした。 そんな時期に知識ゼロからアンティークジュエリーに出逢ったGenは、やっぱり運命のお導きがあったのでしょうね。 貿易関係の仕事がしたいというイメージがあって、米沢の商工会議所が主催したヨーロッパ視察旅行に参加したのが始まりです。 『アンティーク』や『ジュエリー』にターゲットを絞っていたわけではないので、慌ただしい中で照明器具なども視察しています。 |
2回目の買付でロンドンに来た28歳のGen(1976年頃)フォト日記『始まりの地』より |
当時はまだ1£が800円もしたそうです。 変動相場制になって久しい今では、固定相場は「知らない時代」という人の方が多いと思いますが、1949〜1971年の約22年間は1ドル=360円もしました。1973年に変動相場制に移行しましたが、すぐに円高になるわけではありません。 今日時点(2021.7.1)で1ドル=111円です。1ドルが360円だと、今100万円で買えるものが300万円出さないと買えなくなるというわけですね。品質は全く同じでも、海外から輸入するとそうなってしまいます。 目利きできる人は品質を見て、価格との兼ね合いで判断できますが、そこまで絶対感覚を持つ人はそうそういません。価格が高いと高級というイメージを持つ人が世の中では大半です。ヴェブレン財の存在からもそれは裏付けられます。 ヨーロッパへの憧れ、そして手の出ない価格もあって、円安だった1970年代は『舶来品』への強い憧れを抱く人がたくさん存在しました。ブランデーやウィスキー、ワインなどの洋酒、外車、腕時計やカメラなどの精密機器、万年筆などの文房具、チーズなど加工食品、その他もろもろ、『輸入品信仰』とも呼ばれるほど欧米製品イコール『高級品』、『一流品』というイメージが庶民にも確立し、成金嗜好の庶民たちの自慢のためのステータス・アイテムと化しました。 |
フランス皇后ウジェニー(1826-1920年)1854年、28歳頃 | カルティエが日本に上陸した1974年はこういう時代でした。 舶来品信者が多かった当時の日本の庶民には"おパリ(笑)"と言うだけで水戸黄門の御印籠クラスの効果がありましたが、さらにロイヤル・ブランドを使って御威光を強化しています。 但しフランスは早々に、しかも自分たちの意思で貴族を廃止して共和政になっているので、自分たちのロイヤルは使えません。 一応、最後のフランス皇后ウジェニーもカルティエの顧客でしたが、ナポレオン三世が普仏戦争で捕虜となった後、テュイルリー宮殿の庭園に「スペイン女を倒せ!」と民衆が乱入して国外に追い出しましたしね(※ウジェニー皇后はスペイン貴族出身)。 |
イギリス王エドワード7世(1841-1910年)1900年代 | 使用した御威光はウジェニー皇后の亡命先、イギリスのロイヤル・ブランドでした。 世界の中心、大英帝国の君主として君臨したエドワード7世です。 |
エドワード7世は可愛がってくれたフランス皇帝ナポレオン3世を慕っており、フランスでの滞在を好み、『宝石王子』と呼ばれるほどお買い物もしまくっていました。 ナポレオン3世が廃位となった後もフランスを好み、皇太子からようやく王の座に就いた際は、フランス人からも祝福されるほどフランスでも高い人気がありました。 『フランス製のイギリス王』なんて風刺画を描かれるほどです(笑) パリにエドワード7世ホテルやエドワード7世広場、エドワード7世劇場、エドワード通りなどがあるのもその名残です。 |
今でも英国王室のゴシップを撮影しようとストーカーするパパラッチにはフランス人が結構多いですが、フランス人にとってはイギリスのロイヤル・ブランドに対して並々ならぬ意識があるのです。スペイン出身のウジェニー皇后よりイギリスの方が上という意識です。 カルティエはイギリス国王エドワード7世と同じ1904年に、スペイン国王アルフォンソ13世の御用達にもなっているんですけどね。他、1907年にはロシア皇帝ニコライ2世の御用達、1908年はシャム王国ラーマ5世の御用達にもなっています。 フランス人というよりパリジャンと言う方が正確だと思いますが、自分たち以外を下に見て行動するが故に「世界の嫌われ者」とすら称されるパリジャンが唯一対抗意識を燃やすイギリスの王が語った言葉が、今でもカルティエの宣伝文句となっています。 「Jeweller of kings , king of jewellers. (王の宝石商、宝石商の王。)」 気をつけたいのが、エドワード7世がこれを語ったのは三兄弟が活躍したカルティエ黄金時代であり、店が『アルフレッド・カルティエ&息子たち(Alfred Cartier & Fils)』或いは『カルティエ兄弟(Cartier Frère)』だった頃です。 素晴らしいジュエリーは、上質な宝石の原石を手に入れただけでは作れません。石コロはただの石コロであって、ジュエリーではありません。 デザイナー、神技の職人(石のカットも含む)、さらにはパトロンを掴んだり良い材料を入手したり、最新のテクノロジーや流行をいち早く掴んでくるような営業面での才能もあってこそ、優れたジュエリーを継続して作ることができます。一人でこれをほぼ全てこなせる天才的な人もいたでしょう。そうでない場合はそれぞれに担当できる優秀な人材が揃う必要があり、どれか1つでも欠けると成り立たなくなります。まるで薄氷を踏んで進んでいくような芸当です。 見落としがちなのが営業担当です。デザイナーが一番目立つ花形ですが、ジュエリーを作るには高価な材料も必要です。リメイクのオーダーならば新規で超高価な宝石を調達してくる必要はありませんが、一から作るとなると宝石物の場合は宝石が必要となります。オーダーを受けて製作する場合は依頼主に材料費の先払いをお願いすることもできるでしょうけれど、ジュエラーが自前で用意することも多々あります。経済面での体力もないと、ハイクラスのジュエリーは作れないのです。 良い宝石が発見された情報が入ればいち早く現地に飛んで目利きし、お眼鏡に適えば上手く交渉して入手する。唯一無二の宝石を手に入れることができれば、もうそれだけで他のジュエラーは同様のジュエリーを作ることは不可能です。創業者チャールズ・ルイス・ティファニーが作り上げた黄金期のティファニーでは、クンツ博士がこの担当でした。デザイナーは天才として当時名を馳せたジョージ・パウルディング・ファーナムです。 |
カルティエ創業者ルイ=フランソワ・カルティエ(1819-1904年) | カルティエの創業者ルイ=フランソワ・カルティエは宝石細工師で、当然ながら自分でジュエリーを製作していました。 師から工房を譲り受けたのが1847年なので、独立は28歳頃です。 その後は自力で販売するための店舗を出店し、顧客としてウジェニー皇后も獲得しています。所謂オールマイティー系の優秀な職人だったのでしょう。 長生きで、エドワード7世の御用達となる1904年まで存命です。85歳! |
一代で王族・皇族などの君主クラスを顧客にするほどの職人は、カリスマ的な才能も持っていたりするものです。その創業者の精神は重要ですが、どんなに気を付けて意識していても年月と共に失われていくのが必然です。「受け継ぐ」ではなく、「進化させる!」くらいの気合がある、同等以上のカリスマ性を持つ人が受け継げた場合は別ですが、それは例外的なケースです。進化させるくらいの気合がないと、現状維持すら困難です。 誰でもできる仕事であれば、困難な立上げと継続できる体制を構築してしまえば代々続けることは可能です。ただ、この人しかできないという特殊技能を必要とするスタイルだった場合、代々続けるのは不可能に近いです。残念ながらカリスマ性や特殊な才能が子孫に遺伝することは稀です。 手本となる創業者が存在し、創業者が指導し、その目が黒いうちはギリギリ維持するくらいは可能でしょう。ティファニーの創業者チャールズ・ルイス・ティファニー(1812-1902年)も、1900年のパリ万博で念願のグランプリを受賞するまで存命でした。こちらは90歳、もっと長生きです! |
カルティエ三兄弟 | ||
長男 | 次男 | 三男 |
ルイ・ジョセフ・カルティエ(1875−1942年) | ピエール・カミーユ・カルティエ(1878-1964年) | ジャック・テオデュール・カルティエ(1884−1941年) |
創業者ルイ=フランソワ・カルティエは孫の三兄弟が成人するまで生きていました。愛する祖父の職人魂のこもった真面目なモノづくりを直接知っていたからこそ、三兄弟も一切妥協することなく真摯に仕事をすることができたはずです。 カルティエを世界レベルのブランドにしたのが三兄弟の時代でした。ガーランドスタイルでひときわ有名になったのですが、デザインを担当したのが長男ルイでした。今日『カルティエ・スタイル』として知られているデザインを作ったのがルイです。ブラジル出身の富豪アルベルト・サントス・デュモンが友人ルイ・カルティエに特殊な腕時計をオーダーしたのも、ルイのデザイナーとしての才能を買っていたからなのでしょう。そうして生まれた『サントス・ウォッチ』は今でも高い人気があります。 ロンドンやニューヨーク支店を運営していた次男ピエールや三男ジャックは、主に経営や営業担当だったようです。各国の王室や上流階級のニーズを調査し、それをジュエリーに反映させるためのつなぎ役を果たしたり、顧客開拓のためのコネクションを作ったりしています。特に三男ジャックは、ティファニーではクンツ博士に相当する役割も果たしていました。完璧な天然真珠を手に入れるためにペルシャ湾に行ったり、インドのマハラジャから膨大なジュエリーや宝石を買い集め、リメイクしたり新しいジュエリーの材料としました。 |
ビスマルク・サファイア・ネックレス(カルティエ・フレール 1935年) | 唯一無二の宝石の権威を借りることで、20世紀に入り益々力を増す新興成金たちのニーズを大いに満たしたのです。 成金は一様に石コロ好きなので、新興成金が主要購買層へと移り変わる時代のニーズを上手くとらえて、カルティエの地位を不動のものにしたと言えます。 こういう、石コロだけでデザインに何の感動も美しさも感じられないジュエリーは成金臭が凄くて、見ると失笑が漏れ出てくるのですが、この時代のヨーロッパの王侯貴族はすっかり力を落とし、ジュエリーにお金をかけられなくなっています。 カルティエ三兄弟の本望だったか否かは分かりようもありませんが、事業を継続させるにはアメリカの新興成金を相手にせざるを得ず、そのニーズに応えるとこうなってしまうということでしょう。 |
マッケイ・エメラルド&ダイヤモンド・ネックレス(カルティエ・フレール 1931年) "Cartier 3526707735 f4583fda9a" ©thisisbossi(12 May 2009)/Adapted/CC BY-SA 2.0 | これもアメリカ人向けに作られたものですが、エメラルドが巨大過ぎてバランスの悪さしか感じられません。 相当ふくよかな女性ならば似合うかもしれませんが、痩身に命をかける女性がいるほどスリム信仰のある欧米文化圏で、これを着けこなすために太るというのは現実的ではありません。 それでも庶民や成金同士でもこういう宝石だけのジュエリーを見せつけると、大半は御印籠のように「ははあー!m(_ _)m」となるので虚栄心を満たすことができます。 ただ、私のような一部の庶民や真のハイジュエリーを知る王侯貴族からは失笑されるのみで、全く羨ましがる様子を見えてもらえません。 |
それでも良いじゃないかと思うのですが、成金は視界に入る全ての人から賞賛を浴びないと満足できないので、いつまで経ってもその虚栄心を十分に満たすことができないのです。 しかも、宝石(の大きさ)や価格にしか価値基準を持っておらず、美的感覚で図るという概念すら持っていないため、どうして羨ましがってもらえないのか、どうしたら良いのかが一生分かりません。食べても食べてもお腹が満たされることのない、餓鬼道に落ちた富裕餓鬼(多財餓鬼)のようです。 |
妻と娘と創業孫ピエール・カミーユ・カルティエ(1926年) |
20世紀に入ると、急速に優れたジュエリーを作ることができない時代となっていきました。 1941年に三男ジャック、1942年に長男ルイが相次いで死去しました。1947年に次男ピエールも引退し、経営は三兄弟の子どもたちに任せられました。創業者のひ孫にあたる彼らは最初から恵まれた環境で生まれた上、三兄弟のように創業者精神に身近に触れて育つということもありませんでした。創業者のような卓越した才能を持っていた可能性は低いでしょうし、持っていたとしても、もはや技術と手間をかけたジュエリー作りはできない時代となってしまいました。 だからこそ1964年、三兄弟の最後の一人ピエール・カルティエの死去と共に一族も店を手放したのでしょう。 カルティエが日本に上陸した1974年は、既にカルティエ一族の手を離れ、ブランド名と過去の威光だけを投資家が手に入れてブランド・ビジネス化させた時代のカルティエです。商標権を手に入れてカルティエと名乗っているだけで、中身はまるで別物としか言えません。でも、エドワード7世の言葉などを出して尤もらしくPRしているのです。 それを聞いて素直に納得する方がおかしいと思うので、このやり方は否定しません。誰かがツッコんで皆がおかしいと思えばこのやり方はとっくに止めているはずなので、現代のハイジュエリーの主要購買層は思考停止で受け入れる人が大半ということなのでしょう。 そうは言ってもブランド・ビジネスも簡単ではないようで、事業再編なども経て1993年には様々な有名ブランドを傘下に置く持株会社リシュモンの傘下となっています。 ティファニーも同様で、創業者一族の手からとっくに離れ、創業者精神は消失した状態でリシュモンの競合LVMH モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトンの傘下となっています。LVMH傘下はショーメ、ブルガリ、デビアスなどもあり、全く違う中身になった状態で名前だけ存続するハイジュエリー・ブランドがゾンビのように存在するのが現代です。 |
例2. 古い時代 『ランデル&ブリッジ』
懐中時計付きシャトレーン 英国王室御用達 Rundell & Bridge社 1790年頃 SOLD |
もっと古い時代、18世紀後期から19世紀初期にかけての英国王室御用達ブランド、ランデル&ブリッジ社についても見てみましょう。 この宝物はGenがしょっちゅう自慢してくる、ランデル&ブリッジの極めて貴重な懐中時計です。 本当に素晴らしい宝物だったそうです。 |
英国王室の歴代君主 | |||
ジョージ3世 在位:1760-1820年 |
ジョージ4世 1820-1830年 |
ウィリアム4世 1830-1837年 |
ヴィクトリア 1837-1901年 |
ランデル&ブリッジは1797年、ジョージ3世の時代に王室御用達となった宝石商です。金細工や最高級の銀製品も作っており、1804年には王室御用達の中でも最高位に任命されるほどの有名メーカーでした。ジョージ4世、ウィリアム4世、ヴィクトリア女王の4代に渡って王室御用達として王室のオーダーに応えてきました。 フィリップ・ランデル(1746-1827年)とジョン・ブリッジ(1755?-1834年)によって、1787年にロンドンで設立されました。 ジョン・ブリッジは詳細不明ですが、フィリップ・ランデルは大家族の息子として生まれ、ロンドンの金細工の工房シード&ピケットに弟子入りしました。1781年にピケット&ランデルになり、1787年にジョン・ブリッジとランデル&ブリッジを設立しました。 |
懐中時計付きシャトレーン 英国王室御用達 Rundell & Bridge社 1790年頃 SOLD |
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1804年に創業者フィリップ・ランデルの甥エドモンド・ウォルター・ランデルが共同経営者となったため、社名がランデル、ブリッジ&ランデルに変わっています。 故に、この宝物は社名がランデル&ブリッジだった1787年から1803年までに作られたと特定できます。 こういう素晴らしいものを作っていたからこそ、王のお眼鏡に適って王室御用達の最高位にまでなったわけですね。 |
英国国王が授与するガーター勲章 | ||
R.ブリッジ&ランデル社 1811-1818年【引用】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021 | R.ブリッジ&ランデル社 1820-1830年【引用】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021 | RS&ガラード社 1860-1867年【引用】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021 |
ランデル&ブリッジは1843年に活動を停止し、1845年に解散しました。その後はガラードがヴィクトリア女王にクラウン・ジュエラーに指定され、王室の重要なジュエリーなどを製作しています。現代まで名前が存続しているので、ガラードの方がご存じの方は多いでしょう。 でも、こうして同じガーター勲章を見比べると、圧倒的にランデル&ブリッジの方がデザインも細工も上ですね。分かりやすいほど違いがあります。 |
プリンス・オブ・ウェールズ時代のジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃、1780−1782年 | 稀代のセンスと、王室財政を破綻寸前に追い込むほどの散財の限りを尽くしたジョージ4世も、ランデル&ブリッジのジュエリーは大のお気に入りだったようです。 英国王室には13世以来、歴代の王に戴冠式で使用されてきた聖エドワード王冠もありましたが、さすが贅の限りを尽くした放蕩王、当然の如く新調しました。 |
イギリス王ジョージ4世の戴冠式(1821年)ウェストミンスター寺院 |
先代ジョージ3世が精神疾患によって政治に携わることが不可能となっていたため、ジョージ4世は1811年から摂政王太子として既に実質的には英国のトップとなっていました。1820年のジョージ3世の崩御に伴い国王に即位することになったのですが、権力の状況的にはそう変わりありません。故に盛大な戴冠式は必要なかったはずですが、歴史で語り草になるほど盛大に執り行われました。 質素な生活で有名だった先代ジョージ3世の戴冠式は約1万ポンドだったと言われていますが、ジョージ4世の戴冠式は約24万3千ポンドという盛大なものでした。現代の日本円に換算すると約30億円です。 現代の日本だと「けしからん!」と騒ぐ人が多く出そうですが、ジョージ3世が81歳と長寿だったために60年ぶりのおめでたい戴冠式でしたし、巨額を支出したのは王室なので、大衆には歓迎されたそうです。このために増税なんてされたらそれこそ「革命じゃー!」となったかもしれませんが、フランス革命を見ていたイギリス国民がそうならなかったのは王侯貴族と市民の関係が全く違ったからでしょう。 ジョージ4世は借金を肩代わりしてもらうために、最愛の女性を泣く泣く諦めて父王が指定する女性と結婚していますし、ジョージ4世の弟ケント公エドワード(ヴィクトリア女王の父)も借金地獄から逃れたいがために27年間も連れ添ったフランス人女性ジュリー・サン・ローランをあっさり捨てて、ヴィクトリア女王の母と結婚しています。しょうもない王子たちだと思う一方で、王子でも借金を踏み倒すことはできないことに興味深さを感じます。 どれだけ壮大な戴冠式を催しても、王室の財政が火の車になるだけならば民衆は怒りませんね。むしろ色々な業者に類を見ない多額の発注をすることで経済がまわり、皆が潤います。 |
イギリス王ジョージ4世の戴冠式用の王冠を運ぶウェストミンスター大主教(1821年) | 30億円の使い道の1つが、ランデル、ブリッジ&ランデルに発注した王冠でした。 12,314粒のダイヤモンドを鏤めたゴージャスなものでした。 宝石は貴重です。稀少だからこそ高値が付くわけで、高いから価値があるわけではありません。 1869年頃に南アフリカでダイヤモンドラッシュが起こり、20世紀に入ってからは世界各地で鉱脈が発見され、いくらでもダイヤモンドが手に入るようになった現代と違い、1821年時点では1万粒を超える上質な石を新調で揃えるのは、権力と財力を持つ英国王室でも不可能です。 |
ダイヤモンドは宝飾店ランデル、ブリッジ&ランデルからのレンタルだったのですが、戴冠式の延期などもあって最終的な請求額は石のレンタル料だけで£24,425に上ったそうです。現代の日本の貨幣価値に換算すると3億円を超えます。戴冠式費用の10分の1を占めます。富と権力の象徴なので高くて当然ですが、殆どの方が思っていらっしゃる以上にアンティークのハイジュエリーは莫大なお金をかけて作られているのです。 ジョージ4世は新しい王冠をとてもお気に召し、手放したがりませんでした。毎年の議会の席で使用できるよう議会に働きかけましたが、あまりにも高額となるため諦めざるを得ませんでした。レンタルだけで3億円、購入しようとするといくらだったのでしょうね。結局1823年に王冠は解体されてしまったそうです。宝石がいかに高価で稀少なものだったかが伝わってきますね。そして、王様だからと言ってリミットレスで好き勝手できるわけではないのもよく分かる話です。 |
ダイアモンド・ダイアデム(ランデル、ブリッジ&ランデル 1820年) 【引用】Royal Collection Trust / The Diamond Diadem 1820 © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020 |
ちなみに『ジョージ4世ステート・ダイアデム』とも呼ばれるこの冠も、戴冠式用にジョージ4世がランデル、ブリッジ&ランデルで新調したものです。戴冠式を執り行うウェストミンスター寺院への道のりで着用するための冠です。£8,216の費用は、ダイヤモンドのレンタル料£800込です。現代の日本円に換算すると費用は1億超、ダイヤモンドのレンタル料が約1千万円となります。 |
イギリス王ウィリアム4世妃アデレード・オブ・サクス=マイニンゲン(1832年) | ダイアモンド・ダイアデムはダイヤモンドを取り外し、必要な際は再度レンタル&セットして使用する運用が行われました。 やっぱり買取は難しかったのでしょう。 ジョージ4世は事情により王妃不在で公務を行っていましたが、ダイヤモンド・ダイアデムは次王ウィリアム4世の代からは王妃や女王に着用されました。 |
ヴィクトリア女王(1819-1901年)1859年、40歳頃 | 1837年以降は王室所有となっていますが、買取った証拠は残っていないそうです。 ジョージ4世が遺した豊富な宝石コレクションの中から、ランデル&ブリッジと物々交換した可能性があるとのことです。 宝石に稀少価値が合って、財産性があった時代ならではの話ですね。 |
ランデル&ブリッジの店舗(ロンドン 1826年) | ところで、ここまでである疑問を持たれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。 「王室が宝飾店からダイヤモンドをレンタルする。メーカーがそんなにお金を持ってるの?」、と・・。 ランデル&ブリッジは1787年に設立、1797年にジョージ3世御用達となりましたが、当代でも傑出した実力で瞬く間に超売れっ子となったようで、創業者フィリップ・ランデルは1799年時点で王族を除いてイギリスで8番目に裕福な男性となっています。 当時、億万長者として知られる10人の1人となり、資産は100万ポンドあったと推定されます。 現代の日本円に換算すると150億円近くになります。 |
金細工職人の見習いから始めたフィリップ・ランデルですが、当時のトップクラスのデザイナーや職人を雇って経営者としての腕も発揮しており、全ての作品を職人としてフィリップが作っていたわけではありませんが、現代人がイメージする『職人』とは全く異なるのではないでしょうか。資産150億!しかも王室御用達になってまだ2年しか経っていない時点で!!! この時代は唯一無二の素晴らしい仕事ができれば、相応の対価を支払ってくれる人が当たり前にたくさんいたということです。 現代、素晴らしい職人が存在できない理由はいくつもあります。職人は幼少期から腕を磨かなければ、十分な技術を身に付けることができません。一律に義務教育を強制される現代では不可能です。義務教育を終えてからでは、技術を習得し始めるには遅すぎます。幼少期から技術を磨いても、ランデル&フィリップのように頭角を現す職人は一握りです。 誰でもできる、代えがきく仕事しかできないと買い叩かれます。儲かるどころか、やればやるほど赤字になる事態もあり得ます。 現代は、職人は下請けとして下に見て買い叩く人がたくさんいます。一般消費者でも、こういう人が多くいることを話に聞きます。限界を超えて安くすることを強要された場合、バレないようにどこかで手抜きや材料費の削減などのコストカットをせざるを得ません。これを繰り返すことで、現代のモノづくりは品質が悪化していきました。「良いものをお安く提供するのが正義!」と言う、自分さえ良ければ良いという考えの人は、文化の破壊者でしかありません。 長年、新しい文化を創り出す担い手として機能してきたヨーロッパの王侯貴族の場合、良いものを作る職人には相応、あるいはそれ以上の対価を気前よく支払ってきたのです。これがより良いものを創り出す一番重要なポイントです。才能がある職人ならば「その期待に応えなければ!」と、自分の才能を極限まで生かして手間も惜しまず良いものと作ろうとします。こうして新しい優れたものが生まれるのです。 才能のない職人、お金さえもらえばOKの不真面目な職人に大金を支払っても意味がありません。優れた者を作る職人を見極める能力も、パトロンとしての王侯貴族には必須です。 |
英国国王が授与するガーター勲章 | ||
ジョージ4世の時代 | ヴィクトリア女王の時代 | |
R.ブリッジ&ランデル社 1811-1818年【引用】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021 | R.ブリッジ&ランデル社 1820-1830年【引用】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021 | RS&ガラード社 1860-1867年【引用】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021 |
ヴィクトリア女王夫妻はド真面目で散財しないタイプ、ジョージ4世は破綻の危機など顧みずとにかく良いものを求めるタイプでした。各治世下のガーター勲章を見ても、優れたパトロンがいると職人が存分にその才能を発揮し、文化的にも発展するかが分かりますね。 その結果がフィリップ・ランデルのような億万長者の職人の存在なのです。フィリップもそのお金を成金のように意味のないものに使うのではなく、より良い仕事をするために使いました。その1つが、欲しいと思ってもすぐに手に入るわけではい特別な宝石を、機会に恵まれた時に逃さず仕入れることです。そうしておけば、王侯貴族から突然難易度の高いオーダーが入った時、他の宝飾店では無理でもランデル&フィリップだけは期待以上に応えられるということにつながっていきます。 戦後はどんなに良い仕事をしても理解できない成金嗜好の庶民たちが、主要購買層へと移り変わりました。お金は必要なだけかかって良いから、とにかく良いものをと求めた古の王侯貴族とは対象的に、成金庶民は高そうに見えることを望みながらも、とにかく安く仕上げることを強く要求しました。 Genはアンティークジュエリーの仕事を始める前に、米沢箪笥の企画・製造販売に携わった経験はとても重要だったと語ります。手仕事頼りの各工程をそれぞれの職人に依頼して製作していたので、職人によるモノづくりを経験で理解しています。どんなに良いものを作っても理解されない時代となり、職人の地位は低く、とても子どもたちに跡は継がせられないと語っていたそうです。 |
イギリス王ジョージ4世のために制作されたシルバー・アイスペール (ランデル、ブリッジ&ランデル 1827年) "The Royal Ice Pail by Rundell, Bridge, and Rundell" ©Rau Antiques(2 January 1827)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
会社設立から12年、53歳で一代で資産150億円(100万ポンド)を築く職人なんて、それこそ超有力パトロン、ジョージ4世がいた時代だからこそと言えますね。昔は職人天国の時代だったとGenは言います。まさにそうです。 創業者フィリップ・ランデルは職人なのであまり詳しい記録が残っているわけではありませんが、『ケチな暴君』と揶揄する人がいたほど無駄遣いしない真面目な人だったようです。純粋な職人気質だったのでしょう。77歳となる1823年に会社から資本を引き上げました。結婚して家庭を持つことはなく、姪のマリア(姉の息子トーマス・ビッジJr.の妻)やエリザベス・バニスターなどと過ごすことを好み、13年間、大叔父フィリップの面倒を見たのはフィリップの姉妹の孫となるジョセフ・ニールドだったそうです。 フィリップ・ランデルは1827年、81歳頃に亡くなりました。会社に50万ポンド(現代の日本円で約75億円)を遺贈し、フィリップの世話のために"儲かる仕事"を13年間諦めた姪孫ジョセフ・ニールドに報いるためと遺された遺産は80万ポンド(約120億円)にのぼります。ビッジ家に遺産が遺された、その額は10万ポンド(約15億円)を超えると報告されています。総額140万ポンド(約210億円)を超える資産です! 一代で財を成しても、良い使い道が分かる人とそうでない人がいるものです。庶民から準男爵となり、大英博物館の礎まで作り上げた医師ハンス・スローンみたいな人は特殊中の特殊な存在なのです。 当時は突然使い切れないほどのお金を手にし、成金的な振る舞いをすれば、現代より遥かに眉をひそめ軽蔑する人が多かったでしょうから、『ノブレス・オブリージュ(持つ者の責任)』の精神が息づいていたイギリスにはあまりそういう人はいなかったと想像します。 フィリップ・ランデルは超職人気質だったので、お金があっても王侯貴族のように新しい文化を創り出すような良い使い方ができないため、そのまま無駄遣いせず溜め込んでいたようにも感じます。お金はあの世に持っていけませんが、より良いジュエリーを製作するための宝石を買ったりする以外に、使い道もなかったのでしょう。 こういう背景があって、王室にレンタルできるほどのダイヤモンドをランデル&ブリッジが保有していたのです。 |
シルバーギルトのタンカード(ランデル、ブリッジ&ランデル 1826年) "Silver Gilt Tankard by Rundell, Bridge and Rundell" ©Rau Antiques(8 February 2006, 17:00:50)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
1827年に創業者の1人フィリップ・ランデルが亡くなり、その姉の夫トーマス・ビッジが遺産の一部10万ポンドを継ぐと、1830年にランデル&ブリッジ社は経営体制を改めました。 トーマス・ビッジが経営者の1人となり、会社の25%を所有することになりました。但し、この人は職人ではなくただの政治作家&活動家です。 1834年に創業者ジョン・ブリッジも約79歳の生涯を終えました。 その後、ジョン・ブリッジの甥ジョン・ゴーラー・ブリッジと別の甥、トーマス・ビッジとその息子で新たなパートナーシップが形成され、社名も『ランデル、ブリッジ& Co.』と変更されました。 |
ただ、創業者ジョン・ブリッジの死によって高度な技術も失われてしまったようで、1834年以降は重要なメッキ事業は別の有力な工房に外注されるようになりました。結局1843年にランデル、ブリッジ& Co.は取引を停止し、1845年にパートナーシップも解散されました。 ブランド名さえあれば質が悪くなっても高値で売れてしまう現代と違い、この頃はブランド名など関係なく純粋な質の良さだけで判断する顧客が大半だったので、あっという間に淘汰され、名門ランデル&ブリッジと雖も10年ももたず市場からご退場となったわけです。 結局優れた職人がいなければ、良いモノづくりなんてできません。高い教養と美意識、優れたセンスを物差しに美術工芸品を選んでいた古の王侯貴族たちの時代は、質が落ちればすぐに淘汰されます。神技の職人がいくら技術を教え、本人たちが努力しても、才能までが子や孫に受け継がれるのは稀です。男性長子しか受け継ぐことが許されないイギリスの爵位貴族以上に、ブランドが代々存続するのは難しいことなのです。これが、古いブランドが存在しない理由です。 |
例3. 転換点の時代 『カステラーニ』
フォルテュナト・ピオ・カステラーニ(1794-1865年) | 転換期の例として、最後に『カステラーニ』についても見ておくことにしましょう。 カステラーニは父親の工房で金細工師として仕事を始めましたが、ほどなく1814年にイタリアのローマに最初の店をオープンしました。20歳くらいの頃です。 当初のデザインは当時の上流階級の好みを反映した、フランスやイギリスのジュエリーに基づくものでした。 このままだったら、大して有名にはならなかったはずです。 |
サルモネタ公爵 ミケランジェロ・カエタニ(1804-1882年) | 転換点となったのが、1826年のミケランジェロ・カエタニとの出会いでした。 カステラーニの生涯の友人であり、スポンサーにもなる人で、ダンテの学者で歴史家でしたが、木工細工や宝飾細工に精通したアーティストでもありました。 古代ローマの高等な社会をこよなく愛し、後に著名な考古学者サルモネタ公爵となる人物です。 カエタニとの出会いの後となる1820年代後半から、カステラーニの作品は古典、特に当時イタリアで発掘されていた古代エトルリアの作品にインスピレーションを受けたデザインを取り入れるようになっていきました。 |
『シレヌスの顔のついたネックレス』(エトルリア 紀元前6-紀元前5世紀)国立博物館(ナポリ) 【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.54 |
この知見に加え、有力者カエタニとのコネクションがあったため、ローマ教皇からの依頼を受けて1836年に発掘隊顧問として調査に参加することになったのです。そこで古代エトルリアの至高の金細工に魅せられ、熱心に研究を重ね、新たな作品を生み出したのです。 |
【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.27 |
私も古代エトルリアの、布を編んだ糸と同じくらい細い金線を編んだ細工、それ以上に細かい粉のような粒金には仰天したものです。初めてルネサンスに来てGenに写真を見せてもらった時、アンティークジュエリーの凄さに感動しました。これは紀元前6〜紀元前5世紀、2千年以上も前の職人が作ったもので、まさに目から鱗が落ちる思いでした。 「Genのお店ならばミュージアムピースを手に入れることができる、良いお店を見つけた!」、「初の海外旅行はイタリアにしよう。ナポリの美術館に実物を見に行こう!」なんて思っていたのですが、なぜか今サラリーマンを辞めて貯蓄や退職金を投じてアンティークジュエリー・ディーラーをやっています(笑) アンティークの優れた宝物って、縁をつなぐ不思議で強い力があるように感じます。それこそ人生を左右するような・・・。私もGenも、カステラーニも、アンティークジュエリー(エンシェントジュエリー含む)に魅入られた1人なのだと思います。 |
古代エトルリア | カステラーニ |
金細工の耳飾り(古代エトルリア 紀元前530〜480年)大英博物館 | ゴールドの円盤(カステラーニ 1858年) ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston / ©Museum of Fine Arts |
結局カステラーニが古代エトルリアの技術に到達することはなく、同時代にもっと上の技術に到達した職人が複数う存在したとも言われていますが、サルモネタ公爵カエタニという有力スポンサーの存在などもあり、カステラーニの考古学風ジュエリーは知的な物を好む教養ある上流階級に一躍有名となり、持て囃されるようになりました。 会社として最も好調だったのは1870年代です。ただ、創業者フォルテュナト・ピオ・カステラーニは1851年、55歳頃に引退しており、1865年に亡くなっています。右上のボストン美術館が所蔵する"カステラーニの作品"も、有名な創業者フォルテュナト・ピオ・カステラーニが製作したとは断言できないのです。 創業者フォルテュナトには3人の息子と2人の娘がいました。長男アレッサンドロ・カステラーニと次男アウグスト・カステラーニは父同様に金細工師を目指しましたが、三男グリエルモ・カステラーニは陶芸に興味を持ってしまい、兄たち同様に金細工師を目指して欲しい父の意思に反し、ポーセレンのミニアチュール職人カルロ・デ・シモーネに弟子入りしてしまいました。以降、陶芸に専念しました。 |
陶芸家 トルクァート・カステラーニ(1846-1931年) | 瓶(トルクァート・カステラーニ 1846-1931年) "Vaso Torquato Castellani P1000486" ©Carlomorino(17 January 2018, 18:15:18)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
長男アレッサンドロの息子(創業者の孫)、トルクァート・カステラーニも叔父グリエルモが取り組む陶芸に興味を持ち、陶芸に専念することになりました。 グリエルモとトルクァートの活動はカステラーニ家の金細工作品の影に隠れ、多くを語られることはありませんが、1870年にロンドンで開催された職人国際展示会では長男アレッサンドロと次男アウグストの宝飾品と共に、2人の陶芸作品も発表しています。 1878年のパリ万博では三男グリエルモは銅メダル、孫トルクァートは銀メダルを獲得しています。イタリアでは初とされる全国的な主要産業展示会、1881年のイタリア産業展示会にも出展しており、熱心に活動していました。残念ながら三男グリエルモの作品や資料は第二次世界大戦の戦禍で失われてしまい、陶芸家としての活動の詳細を知ることはできなくなっています。 |
カステラーニ家の金細工師 | ||
長男 アレッサンドロ・カステラーニ(1823-1883年) | 次男 アウグスト・カステラーニ(1829-1914年) | 孫 アルフレド・カステラーニ(1856-1930年)29歳頃 |
創業者フォルチュナト・ピオ・カステラーニ自身は1851年に引退しましたが、金細工師の道を進んだ長男アレッサンドロと次男アウグスト・カステラーニが1858年に店を再開しました。 イタリア人ですがパリのシャンゼリゼにも店をオープンし、エンシェント・ジュエリーに関する講演を開き、パリの上流社会とも交流し、ナポレオン三世の支援を得て宝飾品コレクションも発表しました。1861年にはフィレンツェ、1862年にはロンドンでの国際展示会にも出展し、考古学の新たな発見や人気の高まりと共に、『カステラーニ』ブランドはとても有名になりました。 1865年に創業者フォルチュナトは亡くなりましたが、時代に流れに乗った『カステラーニ』ブランドは息子たちの代となる1870年代に全盛期を迎えました。 実はこの背景にはサルモネタ公爵カエタニの存在が大きく影響していました。 |
カエタニ城 (イタリア、サルモネタ市)"Caetani Castle" ©Livioandronico2013(13 October 2013, 13:52:08)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
創業者フォルチュナトの友人サルモネタ公爵カエタニは、息子の代までパトロンとしてカステラーニ家の創作活動を支援しました。 男性長子だけが相続できる、数が少ないイギリスの爵位貴族と違い、大陸貴族は"貧乏人に毛が生えた程度"と称される、領地を持たないショボい貴族もたくさん存在します。しかしながらイタリアのサルモネタ公爵は、12世紀まで遡ることができる名門家です。 当然、当主となる人物は幼少期から良いものに囲まれて過ごし、然るべき教育を受けて育ちます。 |
サルモネタ公爵 ミケランジェロ・カエタニ(1804-1882年) | 当時のサルモネタ公爵ミケランジェロ・カエタニは自身が著名な考古学者だっただけでなく、宝飾細工に精通したアーティストでもありました。 創業者フォルチュナト・ピオ・カステラーニを巻き込んだ古代研究を通して芸術方面の趣味やセンスを洗練させ、それを金細工師カステラーニとの制作活動に反映させたのです。 職人としての才能があっても、当時のただの庶民がいきなり上流階級クラスの高尚な知識を得るのは無理があります。 現代ではカステラーニが単独でやったかのように思う人が多いカステラーニ作品ですが、実はカエタニ無しにはあり得ない成功だったのです。 |
マイセンの発明に関わった人々 | ||
ザクセン選帝候 | マイセン発明者とされる錬金術師 | 著名な学者 |
アウグスト2世(強健王)(1670-1733年) | ヨハン・フリードリッヒ・ベドガー(1682-1719年) | エレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウス(1651-1708年) |
こういう話はたまにあることです。夢の真っ白な磁器『マイセン』に関しても、発明したとされるのは錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベドガーですが、実際に核となる理論を発明したのは当時の著名な学者エレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスだったと考えられています。 チルンハウスはライデン大学で数学、哲学、化学を学び、スピノザ、ホイヘンス、ニュートン、ライプニッツなど同時代の最高の知性とも親交のある人物でした。数学分野では『チルンハウス変換』を考案しており、磁器に関してもヨーロッパで最も早く焼成に成功し、それをザクセン選帝侯アウグスト2世に売り込んだのです。 当時、東洋からもたらされる白磁はヨーロッパの上流階級の憧れの芸術品であり、白磁が完成すればそれこそ錬金術が成功したくらいのインパクトがありました。しかしながら、アウグスト2世はチルンハウスに対する技術提供の対価を出し渋りました。王様全員が太っ腹なわけではないんですね(笑) ゴネて出し渋るうちに、チルンハウスは57歳の生涯を閉じてしまいました。王様のゴネ得・・。 このベドガーは法螺を吹いてプロイセン王の不興を買い、ベルリンを追われてザクセン選帝侯の元へやってきた人物です。貨幣のマスターを制作する職人の家に、3番目の子供として生まれた庶民で、当然ながらチルンハウスのようなアカデミックな知識は持っていません。18歳から薬剤師・錬金術師の見習いとして化学に携わっていたので、チルンハウスからのアイデアや知識を元に、手を動かす役目を果たしていたというのが実際でしょう。 白磁の量産に成功した後、大金を稼ぎ出すこの技術が流出することを恐れてアウグスト2世はベドガーを幽閉してしまいました。その結果、ベドガーは酒に溺れて37歳で死んでしまったそうです。強健王と言うか、ケチ王のせいで結局チルンハウスもベドガーも報われない最期になってしまいましたね(T人T) |
ローマン・モザイク・ペンダント(カステラーニ 1865-1870年)大英博物館 【引用】Brirish Museum © British Museum/Adapted | |
誰の手柄なのかはこの際置いておくとして、立役者がいないと成立しなくなるものがあります。それがアートです。白磁の生産というテクノロジー的なものであれば、一度開発してしまえばそのレシピ通りに生産するだけなので、発明者がいなくなっても特に問題は生じません。しかしながらアートは才能ある個人への依存が高い、と言うよりもその人がいないと成立しないものです。創造性豊かなアーティストがいなくなってしまったり、アイデアが枯れると優れたものは新たに生み出せなくなってしまいます。 創業者フォルチュナトが亡くなった1865年以後も、名門貴族として上質なジュエリーを理解し、著名な考古学者としてエンシェントジュエリーにも精通し、アーティストとしての知見も合ったサルモネタ公爵の目が行き届いていた頃は、手を動かす役目の工房『カステラーニ』の制作活動にも然るべき助言がなされ、クオリティの劣化にもある程度の歯止めが効いていたはずです。 |
ゴールド・ペンダント&ブローチ(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted | ゴールド・ペンダント(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted | ゴールド・ピアス(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted |
しかしながら創業者が亡くなり、カエタニの影響が低下するとデザインとクオリティは急激に劣化したようです。1870年代がカステラーニの最盛期とされていますが、このようなチャチな物を量産して荒稼ぎし、販売数と売上を伸ばしたに過ぎません。まさにブランドの名に胡座をかいた商売です。 |
『イタリア考古学風ジュエリー』 |
『カステラーニ』は知的で高尚な考古学風ジュエリーとしてヨーロッパの上流階級がいち早く注目し、持て囃し、名声を確固たるものとしました。 その特徴は古代美術にインスピレーションを受けた独特のデザインと、高度な技術を持つ職人による技術の粋を極めた金細工です。 |
古代コインのネックレス(カステラーニ 1880-1890年)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted |
"楽して金儲け"に走った息子たちの時代のカステラーニ作品には、酷いものがたくさんあります。これも金細工なんてろくに施されていませんし、デザインは使いまわしで、使ってある古代のコインも発掘すればそこら辺からゴロゴロと出てくるろくに価値のないものです。 主要顧客がジョージアンのように上流階級だけの時代であれば、すぐに淘汰されたでしょう。しかしながら19世紀後期はアメリカの金ぴか時代にあたり、新興成金たちが高級品を買い漁った時期でした。成金は何を買ったら良いか分からないので、とりあえずヨーロッパの上流階級の真似をします。ファッションだとウォルトのメゾンに殺到しました。 ジュエリーだとどこが良いか。『カステラーニ』はヨーロッパの上流階級や知的階級が憧れる、高尚な考古学をモチーフにした素晴らしいブランドらしい。よし、カステラーニのジュエリーを手に入れよう! |
古代コインのゴールド・ピアス(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted | そういうわけで、ヨーロッパの上流階級が見向きもしないようなジュエリーがアメリカの新興成金たちに高値で売れ、『カステラーニ』は淘汰されるどころか売上を伸ばしまくることができたのです。 アメリカのボストン美術館に、このタイプの量産カステラーニ・ジュエリーがたくさん寄付されているのもその名残と言えます。 |
ゴールドと琥珀のネックレス(カステラーニ 1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted |
ただ、ある程度美的感覚がある方にとっては少し分かりにくいのが、中にはこういう細工の優れた作品もあることです。『カステラーニ』ブランドのジュエリーを職人カステラーニが1人で作っていると思い込むと混乱しますが、職人が複数いて違う人が作っていると考えればすぐに納得できるでしょう。 創業者フォルチュナト・ピオ・カステラーニは金細工師としてエトルリアの人類史上最高の金細工を研究し、その成果で名を挙げました。当然優れた弟子たちも集まるわけで、その中にはカルロ・ジュリアーニもいました。そのジュリアーニをも凌ぐ金細工師としての実力を持っていたのがジャチント・メリロでした。 |
創業者フォルチュナト・ピオ・カステラーニの金細工職人の弟子 | |
兄弟子 カルロ・ジュリアーノ (1831-1895年) |
弟弟子 ジャチント・メリロ (1845-1915年) |
ゴシック様式 ゴールド ペンダント&ブローチ(1880年頃)メトロポリタン美術館 | 【参考】ゴールド・ブローチ(1870-1900年頃) |
17歳のメリロが1862年頃に初代カステラーニに弟子入りした際、ジュリアーノは31歳くらいでした。職人としては十分に経験を積んでいる年齢ですね。 ただ、天才は存在するもので、創業者フォルチュナトから直接教えを受けたメリロは、見習い期間を半分しか修了していない時点で『カステラーニ』のナポリ店の責任者となるほど頭角を現しました。1865年に創業者が亡くなった後、25歳となる1870年にはナポリの店を引き継ぎ制作活動を続けました。 職人として独り立ちできると思えたからなのか、或いはメリロの天才ぶりを目の当たりにして金細工専門の職人としては限界を感じてなのか、1867年にカルロ・ジュリアーノは独立してロンドンに渡りました。 |
ロバート・フィリップスの宝物 | |
『女王の十字架』 ネオ・ルネサンス クロス・ペンダント ロバート・フィリップス 1870年頃 SOLD |
『PAX』 エトラスカン・スタイル ロケット・ペンダント ロバート・フィリップス作 1873年 SOLD |
そこでイギリスのジュエラーとして唯一1867年のパリ万博で金賞を受賞した、ロバート・フィリップスのためにジュエリーを制作したりしました。ブランド力がないと、どれだけ良いものを作っても最初は販売が難しいものです。 ブランド名ではなく美的感覚を元に、芸術作品としての価値で選んでくれる王侯貴族がハイジュエリーの購買層として機能していた時代であれば、腐ることなく努力すれば、才能がある人はそのうち芽が出るものです。新しい才能にいち早く気づき、発掘するのは王侯貴族にとって自慢にもなるものです。皆にもその素晴らしい作品の価値を分かってもらい、見出したアーティストが高い評価を受けるようになればパトロン冥利に尽きます。 実はそれをやっているのがHERITAGEでもあります。プレミア価格が付くほど有名になった作品を扱ってもディーラーとしては凡才でしかなく、面白くありませんし何の自慢にもならないのです。トレジャー・ハンターGenが"まだ世に知られざる良いもの"に並々ならぬ情熱を燃やしていたのはこういうことなのです。 プレミアが付いた物を取り扱うのもそれはそれで才能が要ることで、資金を集める能力、ブランディングや買える顧客を開拓するなどの営業力などの特殊な能力は必要です。おそらくGenや私の持つ才能では無理でしょう。ただ、全く魅力が感じられないのでそもそもトライする気も起こりません。成金相手の成金ビジネスとしか感じられないのです。 興味深いのは、成金がそのような所謂おブランド物を手に入れても、心から満たされないことです。自身は芸術が分からないことを意識的、あるいは無意識的に理解しており、そこに劣等感が生じていると推測しています。仲の悪さで有名なハプスブルク家の兄弟、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とマティアスの関係がまさにそれだと思います。芸術を理解する才能なんて数ある才能の1つに過ぎないようにも思えますが、それでも何か最も高尚で羨ましいもののように感じます。人間の根源的な何かなのかもしれませんね。 美しいものを見て、「美しい!」と思うだけで幸せで満ちた気分になれるものです。芸術を理解できる人は、その才能を持たぬ人より遥かに深く、多く幸せを感じることができます。これは物凄いことだと思います。まさに神様から与えられた『ギフト』と言える才能です。持っている人は100%幸せ者ですね!♪ |
カルロ・ジュリアーノの宝物 | |
ネオルネサンス ファイヤーオパール ペンダント カルロ・ジュリアーノ 1880年頃 SOLD |
エナメル クロス・ペンダント カルロ・ジュリアーノ 1880年頃 SOLD |
さて、1874年にジュリアーノは独自の店をオープンし、ルネサンスのエナメル・ジュエリーにインスピレーションを得た独創的な作品を制作するようになりました。その独特の色彩感覚がラファエル前派のサークルや、審美眼主義の上流階級たちに絶賛されました。独特のエナメルは"ジュリアーノ・スタイルのエナメル"として当時の作家たちにも取り入れられ、1つのジャンルとして確立しました。 金細工技術はメリロに遠く及びませんが、芸術作品は単一教科による単純な点取合戦ではありません。アーティストとして見た時、ジュリアーノはメリロに勝るとも劣らぬ才能を発揮したのです。 |
古代エジプト風ネックレス(ジャチント・メリロ 19世紀後期〜20世紀初期) "Giacinto Melillo - Egyptian-Style Necklace with Scarabs - Walters 571530 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
創業者フォルチュナト亡き後も、『カステラーニ』には金細工の天才メリロがいました。1878年のパリ万博に出展されたアレッサンドロ・カステラーニの展示品の多くを、実はメリロが制作したと言われています。 |
"Giacinto Melillo - Egyptian-Style Necklace with Scarabs - Walters 571530 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
独立後もメリロは『カステラーニ』に作品を提供していたそうです。創業者フォルチュナト亡き後もクオリティの高い作品が提供できたのは、このメリロがいたからに他なりません。 |
ゴールド・ブレスレット(ジャチント・メリロ 1870年代)サザビーズ 【引用】Sotheby's ©Sotheby's |
創業者の息子や孫たちにこれだけの作品を創り出す金細工師としての才能はなかったのです。 ただ、メリロも優れたデザインを創造するアーティストとしての才能や、自身の確固たるブランドを作る経営者としての才能は持っていなかったように感じます。 |
ゴールド・ブレスレットの拡大(ジャチント・メリロ 1870年代)サザビーズ 【引用】Sotheby's ©Sotheby's |
技術としては物凄いのですが、デザインがどれも似たりよったりで、最初は目新しくてもやがて飽きられるのは目に見えています。まあそれでもヨーロッパの上流階級がハイジュエリーを買えた時代ならば、メリロの唯一無二の腕があればフィリップ・ランデルほど巨万の富を築くことはできなくても、存続はできたはずです。オーダー主がデザインを決めれば良いだけですしね。王侯貴族が自身や大切な人のためにジュエリーのデザインをすることはありました。 しかしながら優れたデザインができず、唯一無二の技術を持たなければ価格競争しかできなくなります。ショボい店(職人)ほど安さでPRするものです。ただ、これは延命に過ぎず、行き着く先は廃業です。最初は「あのカステラーニがこの価格で?」と割安感を感じてもらえるかもしれませんが、慣れてくると割安に感じてもらえなくなります。 |
カステラーニ・ブランドのジュエリー |
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ゴールドの円盤(1858年)
ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston / ©Museum of Fine Arts |
ゴールド・ピアス(1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted |
ショボい職人はもっと安く提供することしかできることがありません。ただ、赤字で作り続けることはできません。同じクオリティのままお安く提供することはできませんから、材料費や人件費に相当する手間やデザイン部分を省きます。こうしてどんどん品質が劣化します。デフレ下の日本でも同じことが起こりましたし、飲食店でも同様のことは繰り返し起こるので、感覚的に分かっていらっしゃる方も多いと思います。最後は誰も見向きもしなくなります。 それでも成金が主役となる時代まで存続できれば、もしかすると『カステラーニ』ブランドも生き残れたかもしれません。 運の悪いことに、20世紀に入るとプラチナがハイジュエリーの主役となりました。金は魔法の金属です。金にしかできない表現は多々あり、優れた金細工技術を持っていてもそのままプラチナに適用することはできません。プラチナがジュエリーの一般市場に登場した1905年頃、メリロは既に60歳です。職人として全く新しいことにチャレンジできる年齢とは言えません。 ビジネスの世界でもよく言われる言葉。 『カルティエ』はいち早くプラチナを取り入れ、主要購買層がヨーロッパの上流階級からアメリカの新興成金に移り変わる劇的な時代の変化に合わせて成金ビジネスへと柔軟に変化し、現代まで生き残ることができました。創業者一族の手からは離れているので、本当に生き残っていると言えるかは微妙ですが・・。 宝石主体のビジネスだった『カルティエ』と異なり、金細工が主体だった『カステラーニ』はプラチナへの移行が難しい事情がありました。デザインも上流階級好みの考古学的な要素がポイントで、庶民(成金)には価値や魅力が分かりにくいものだったという事情もありました。劇的に移り変わる時代に変化に適応できず、1914年に創業者の次男で金細工師アウグスト・カステラーニが亡くなり、1915年に天才金細工職人メリロが亡くなり、1930年に創業者の孫で金細工師のアルフレド・カステラーニも亡くなると、『カステラーニ』ブランドは終わりました。 ブランドとして魅力があれば、『ファベルジェ』のように名前だけ権利を買って現代で立ち上げる投資家もいたでしょう。しかしながら考古学をメインとした知的な要素は、現代の成金嗜好の庶民が好むものではありません。成金嗜好の人たちが好むのは『王室御用達』、『巨大な宝石』などの要素だけです。 『カステラーニ』はこのような背景で淘汰されました。 |
1-3. 特定の職人にしか作れない高度な細工物ジュエリー
優れたジュエリーを手に入れようと考えた場合、ブランドの名前で買うことに意味がないのはもうお分かりいただけたと思います。 結局ブランドとして有名になるタイミングには、唯一無二の才能を持つ不世出のキーパーソンが存在するのです。 その人物がいなくなれば、ブランド名は残っても同等のジュエリーは生み出せません。 |
1-3-1. 誰でも作れる宝石主体のジュエリー
ビスマルク・サファイア・ネックレス(カルティエ・フレール 1935年) | 宝石主体のジュエリーの場合は、天才職人は必要としません。 一定以上の技術があれば誰にでも作ることができます。 上質な宝石が手に入るかどうかだけです。 |
1-3-2. 真似は可能なデザイン主体のジュエリー
ネオルネサンス ファイヤーオパール ペンダント カルロ・ジュリアーノ 1880年頃 SOLD |
エナメル クロス・ペンダント カルロ・ジュリアーノ 1880年頃 SOLD |
真に優れた芸術作品を生み出す職人は、アーティストでもあります。カルロ・ジュリアーノのように、独特のデザイン・センスを一番の魅力とする職人もいました。その人にしか生み出すことのできないアーティスティックな表現は、強い魅力で人を魅了します。 ただ、高度な技術を持つ職人が真似をして、全く同じようなものを作ることは可能です。魅力ある物をゼロから創造するのは特殊能力であり、細工技術があるからと言ってできるものではありません。しかしながらその人にしかできない神技というものでなければ、真似は可能です。 精密コピーの模造品には職人の芸術魂が宿ることはないので、心揺さぶるような魅力が備わることはありませんが、それっぽいものは作ることができます。 ジュリアーノのエナメルは真似が不可能と言えるレベルなので、厳密にはデザイン主体のジュエリーと言うより、デザインに神技の細工も備えたジュエリーと言えます。 |
1-3-3. 一代だけの"神技を必要とする細工物ジュエリー"
『キジ』 エセックスクリスタル・ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
『Tweet Basket』 小鳥たちとバスケットのブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
『ダイヤモンド・ダスト』 ペンダント・ウォッチ パリ 1910年頃 ¥15,000,000-(税込10%) |
その職人にしか作ることのできないジュエリーが存在するのは、神技を必要とする細工物だけです。宝石主体やデザイン主体のジュエリーは、一定の技術がある職人ならば作ることができますが、誰も真似できないほどの超難度の技術が必要なジュエリーは神技の職人だけしか作れません。 教えたからと言ってできるものではなく、努力しても天賦の才能がなければ無理です。 |
『情愛の鳥』 卵形天然真珠 ブローチ イギリス 1870年頃 SOLD |
『夢でみた花』 エナメル ブローチ アメリカ 1900年頃 SOLD |
『至高のレースワーク』 リボン ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
アンティークジュエリーの細工技術は多様です。各分野、各時代に神技の職人がいました。どの作品も特定の期間にしか見ることができないのは、その職人にしか作れなかったからに他なりません。 興味深いのが、これだけ素晴らしい作品であるにも関わらず、その殆どにサインがないことです。 |
『摩天楼』 ロッククリスタル&ダイヤモンド ブローチ イギリス 1930年頃 SOLD |
優れた職人は仕事が早いものですが、そうは言ってもこれだけ手間と忍耐力、技術を必要とする細工物が量産できるわけはありません。 ブランド化して商売するには一定の数をさばく必要があります。 ブランド・ビジネスを得意としたのが『ファベルジェ』で、創業者ピーター・カール・ファベルジェ自身は職人ではありませんでしたが、カリスマ・プロデューサーとして職人を2千人ほど抱えていました。だからピンキリでたくさん販売し、ブランドを確立できたのです。 |
『清流』 ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
量産できない神技のジュエリーなんて、ブランディングしても意味がありません。労力がかかるだけです。 ブランディングは楽に高く売るためにするものです。量産できるものにしか向いていません。 せっかくブランド化しても、売るものがないのでは徒労に終わってしまうのです。 職人としてのプライドがある人ならば、ブランディングに精を出すより技術を磨き、1つでも多くより優れた物を作ろうとしたでしょう。 そしてブランディングなどせずとも職人の才能を理解し、パトロンとなってくれる王侯貴族がいれば活動は継続できます。 どうせ多くは作れません。人数が少なくてもきちんと価値を理解し、相応の対価を支払ってくれる人がいれば、職人はプライドを持って楽しく仕事できるのです。 |
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
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今回の宝物もそういう超絶技巧の細工物ジュエリーです。やっぱりサインはありませんが、特定の作者が作ったことだけは分かります。 社交界は狭い世界なので、当時の上流階級は作行を見ただけで作者の名前も分かったと想像します。 |
サインがあってブランド化されなかったのは、ラッキーなことだと思っています。ブランド化されてプレミアが付くと、価値が理解できない成金の手に渡ったり、変な高値が付いたりしかねません。 製作数が少ないため、今後もブランド化してしまうことはないでしょう。46年間でこれが2点目です。でも、私たちに強く呼び寄せられて遥々ヨーロッパから日本に来ちゃうんですね〜♪ 超絶技巧の細工物は、当時それを選んだ王侯貴族同様、美的感覚で選べるディーラーの元にしかやってきません。価値が分からない人は、これだけの宝物が視界にあっても認識できずにスルーしてしまうのです。私たちにとっては本当にラッキーです♪ |
2. 軽やかなゴールド・ジュエリーの最高級品
ゴールドならではの神々しさと、軽やかさを極めた宝物の繊細美は、この時代の最高級品ならではのものです。 20世紀に入ってプラチナがジュエリーの一般市場に登場する以前、長きに渡ってゴールドは最高級の金属として様々なハイジュエリーに使用されてきました。 ファッションは絶えず変化するものです。 ゴールドのハイジュエリーも、時代背景によって様々に変化してきました。 |
2-1. ミッドヴィクトリアンまでの最高級品との違い
2-1-1. カリフォルニアのゴールドラッシュ以前
数十年間、殆ど価格が変わらなかった卵が『物価の優等生』と言われたり(実際は中身や品質が変わっていますが・・)、デフレが長く続いたりしたこともあり、現代の日本人には品質が同じであれば物価は変わらないというイメージを持つ人が多いように感じます。義務教育では経済の学習も十分ではないため、国民全体として見た時、欧米諸国と比較して経済に関する知識や経験が少ないとも言われています。 同じものであっても、需要と供給にバランスによって価格はガラリと変わるものです。 ゴールドは長きに渡って稀少性が保たれてきたため、最高級の金属として長年その価格を保ってきました。現代でも十分に高価ですが、その比ではありませんでした。 |
サンフランシスコ港を埋める商船群(1850〜1851年頃) |
歴史で見ると、金価格がガラリと変わったのは1849年頃からのカリフォルニアのゴールドラッシュのタイミングです。一攫千金を夢見て夢破れた人が多く出たとされています。 これは採掘しても得られなかったからではありません。カリフォルニアの砂礫層における金は含有率が高く、掘削すればするほど金が採れました。 あまりにも採れ過ぎ、それが無尽蔵に市場に投入されたため、金は価格が維持できず一気に価格が低下してしまったのです。稀少性を失った金の価格が以前のレベルまで戻ることはもうありません。 今でも高価なゴールドですが、現代の日本の庶民が想像もできないほど莫大な財力を持つ当時の王侯貴族にとって、ゴールドラッシュ前後でゴールドのイメージはガラリと変化したことを認識しておかないと、アンティークのハイジュエリーをきちんと理解することはできません。 |
『ジョージアンの女王』 ジョージアン ロング ゴールドチェーン イギリス 1820〜1830年頃 SOLD |
ゴールドラッシュ以前は、王侯貴族にとっても『金』というだけで金に非常に高価というイメージがありました。 『ジョージアンの女王』が製作された時代は特にイギリスで金価格が史上類を見ないほど爆騰し、金がステータスの象徴となったため、少ない量でもなるべく量を多く感じさせるデザインで製作されています。 |
ジョージアン ピンクトパーズ カンティーユ ブローチ イギリス 1820年頃 |
カンティーユもそのような金価格が異常なまでに高騰した時代ならではの細工と言えます。 金の糸を紡いだ繊細で優美な透かし細工はまさに日本人好みと言えます。ただ、この繊細美は例外的な状況で生まれたものです。 |
各文化に於ける"美意識の高い部屋" | |
日本の書院造 | ヨーロッパの王侯貴族 |
【登録有形文化財】明治21年創業 伊藤屋の書院造の部屋(大正初期)【出典】伊藤屋HP ©伊藤屋 | フランス国王ルイ14世(1638-1715年)のヴェルサイユ宮殿のベッドルームの再現 |
天皇家を中心とする貴族文化のみならず、将軍家を中心とする武家文化が併存した日本は、世界に先駆けてシンプルイズベストの美の境地に辿り着いていました。 シンプルイズベストは貧乏でそうなったのではなく、無駄なものを削ぎ落とし、必要なものはさらに冴え渡らせる、心身を研ぎ澄まさなければ辿り着けない美の極致です。 武家文化のようなものが存在しなかったヨーロッパでは、隙間なくとにかく装飾で埋め尽くすのがラグジュアリーと見なされてきました。「隙間が埋められないなんて、お金が足りなかったのかしら。」という考え方をするので、壁面や天井に至るまで装飾されてゴチャゴチャ感が満載です。引き算の美、空間をデザインするという発想は無かったのです。 |
ゴールド・ネックレス フランス 19世紀初期 SOLD |
『黄金の花畑を舞う蝶』 色とりどりの宝石と黄金のブローチ イギリス 1840年頃 SOLD |
故にイギリスのような国内での金価格の爆騰がなかったフランスでも、金価格がある程度は落ち着いた後のイギリスでも、ゴールドラッシュ以前はゴールドを全面に押し出したデザインが、ラグジュアリーなゴールドジュエリーとしては一般的だったのです。 |
2-1-2. カリフォルニアのゴールドラッシュ後
エナメル&ダイヤモンド ブローチ フランス 1860年頃 一番大きなダイヤモンド 約0.7ct 総キャラット約3キャラット SOLD |
『太陽の沈まぬ帝国』 バンデッドアゲート ブローチ イギリス 1860年頃 SOLD |
ゴールドラッシュ以降、ゴールドは依然として最高級の金属ではありましたが、王侯貴族にとってただゴールドと言うだけでステータスの象徴というイメージではなくなりました。故にゴールドのハイジュエリーは高価な宝石であったり、エナメルなどの高価な細工技術と組み合わせたデザインで作られるようになりました。 |
ヴィクトリアン中期以降は、産業革命によって台頭してきた中産階級(成金庶民)がジュエリーを買い始めた時期です。ゴールドラッシュによって金価格が下落した時期に重なります。 それまでジュエリーを買ったことのない成金にとっては、「ゴールドってお高いんでしょ!!」というイメージがあります。 故にゴールドを全面に押し出したジュエリーは成金ウケが良く、安くなった金で作れば無知な成金には割高で販売して儲けることができるため、王侯貴族ならば買わないような安っぽいゴールドジュエリーもたくさん作られているのです。 |
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【参考】1860年頃の成金庶民向けの安物ゴールド・ブレスレット |
2-1-3. 金細工に注目が集まった時代
2-1-3-1. エトラスカン・スタイルのジュエリー
『スカラベ』 エトラスカンスタイル スカーフリング イギリス 1870年頃 SOLD |
『黄金のスカラベ』 ブローチ イギリス 1870年頃 SOLD |
ネックレス イギリス 1870年頃 SOLD |
一旦は上流階級の間では下火となっていたゴールド主体のハイジュエリーですが、古代の金細工にインスピレーションを受けた考古学風ジュエリーが制作されると、知的な王侯貴族の間で一躍大人気となりました。 王侯貴族にとって金価格は最早かつてほど高くないため、必要なだけ金が使われています。それよりも惜しみなくかけた細工の技術と手間が、高級品の高級品たる証となっています。それは成金向けの簡素なデザインの安物ジュエリーとの違いを見れば明らかですね。 |
18K オープンハート・ネックレス(ティファニー 現代)$1,200-(¥161,700-)【引用】TIFFANY & CO / Open Heart Pendant ©T&CO | 成金嗜好の庶民は昔も現代も変わりありません。 重さだけ見て価値を判断しようとする人は結構います。 ゴールドとしての資産価値と、オシャレもできて一石二鳥と思ってゴールドジュエリーを買おうとする人がいますが、計算してみたりしないのか不思議に思います。 私も学生時代に興味が湧いて、一度計算してみたことがありますが、資産価値としては分が悪すぎて意味をなさないことが分かりました。 私のように計算してしまう輩を避けるためか、今のティファニーのカタログには重さが掲載されていませんが、さすが大量生産品、質屋のページに同じ物とみられる中古品の重さが書いてありました。 |
重量はチェーン込で約4.3gだそうです。本日(2021.7.7)の金価格は1gが7,081円です。単純な金の価値で計算すると以下の通りです。 4.3g × 7,081円/g ×0.75(18K相当)=22,836円 金としての価値は2万円ちょっとであり、残りのおよそ14万円はデザイン費や加工費などの製造コスト、広告宣伝費や店舗維持費、様々な人件費、流通、税金、利益などです。資産として見るなら、どう考えても金そのものを買うべきなんですよね。そういうわけで、私はサラリーマン時代に金相場に興味を持った際は素直に金を買いました。すぐに値動きするものではありませんし、相場で儲けるのではなく何となくリスク分散の勉強で買っただけなのでそのまま放置していますが、買った時と比べてかなり値上がりしています。 それでも8倍にはなっていません。オープンハートの場合は8倍近く金相場が上がらないとトントンになりませんね。まあ、本来ジュエリーはそういう買い方をすべき物ではないので重さなんて堂々と記載すれば良いのですが、ティファニーの客は重さで判断する成金嗜好の人が多いということかもしれませんね。類は友を呼ぶ、成金的な店には成金的な人だけが集まるものです。 |
2-1-3-2. 金細工を駆使した新しいデザインのジュエリー
『真珠の花』 ブローチ イギリス 1870年〜1880年頃 SOLD |
『エトルリアの知性』 アクアマリン ネックレス オーストリア? 1870年代 SOLD |
ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
ヨーロッパは往々にして古代や異文化の美術を研究・模倣し、そこから新しいスタイルを作っていくことで発展してきました。それをパトロンとして協力にバックアップしたのも王侯貴族です。 金細工技術の発展も単なる模倣では終わりませんでした。古代エトルリアのジュエリーには見られなかった宝石と組み合わせたり、現代(当時)のデザインと融合させるなど、新しい芸術を生み出すための様々な挑戦がなされ、美しい宝物へと昇華していきました。 |
2-1-3-3. 最先端の空間の美を取り入れた宝物
この宝物も古代のデザインにインスピレーションを受けた単なるエトラスカンスタイルのジュエリーではありません。 でも、特徴はそれだけにとどまりません。 |
他の同年代の宝物と見比べると、透かし細工が多用された、明らかに"空間の美"を強く意識した作品になっていることが分かります。 |
2-2. プラチナ以前のジュエリーならではの魅力
2-2-1. プラチナ以前から注目されていた透かしの美
アールデコ 天然真珠 ペンダント&ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
Genも大好きな"透かしの美"。 繊細さを極めた透かし細工が花開くのはアールデコ初期です。 強靭さと粘り気を併せ持つプラチナの特性が、どの金属よりも透かし細工に適していたためです。 ただ、この時代に突然ヨーロッパの王侯貴族が空間の美に気づき、透かし細工が生まれたわけではありません。 それまで西洋美術には存在しなかった空間の美が突如認識されるようになったのは、開国した日本から独自の美術様式が入ってきた影響です。 |
透かしの美がポイントのゴールド・ジュエリー | |
『心に咲く花』 シードパール&エナメル フラワー ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
ラティスワーク サーキュラー ペンダント オーストリア 1900年頃 SOLD |
初期は団扇や提灯など、見たことのないアイテムそのものに目が行きがちでした。しかしながらその中に、極々少数ながらも日本独特の様式美に気づくヨーロッパ人が現れ始めました。そういう、それまでの固定概念を打破できるほど傑出した美的感覚の持ち主たちによって、いち早く"透かしの美"を体現したジュエリーが製作されました。 元から透かしの美に慣れ親しんでいる日本人にとっては当たり前の表現手法に感じるかもしれませんが、当時のヨーロッパの常識から考えると画期的なデザインでした。生み出されても優れていなければ淘汰されて時代と共に消えていく運命を辿りますが、それまでに見たこともない透かしの美しさはヨーロッパの王侯貴族を魅了しました。 左の『心に咲く花』が最初期のもので、右のラティスワークのペンダントは日本美術の研究を重ねてより進化していった形です。 |
鐔(正阿弥伝兵衛 17世紀後期-18世期初期) The Metropolitan Museum of Art | ラティスワーク ペンダント オーストリア 1900年頃 SOLD |
裏側 |
日本には雅な貴族文化と、研ぎ澄まされたシンプル・イズ・ベストの武家文化、平和な江戸時代に醸成された心豊かな町人文化があります。侍が何に最も己の美的感性を反映させていたかと言えば、侍の魂と言える日本刀でしょう。特に鐔には持ち主の個性が反映され、日本の職人の技術の粋を極めた細工を見ることができます。 平和が続いた江戸時代には鐔としての耐久性を度外視し、美術品としての価値を競うような作品が次々と作られるようになりました。それが、透かし細工を極めた美しい鐔たちです。当時の美的感度の高い欧米の上流階級を虜にし、その人達がコレクターとなって蒐集しました。 そうして新たに生まれたのが、鐔と同じように一枚の金属の板を鏨(タガネ)で抜き、鑢(ヤスリ)で丹念に磨き上げて完成させるラティスワークのジュエリーです。 |
鉄 | ゴールド | プラチナ |
鐔(正阿弥伝兵衛 17世紀後期-18世期初期) The Metropolitan Museum of Art | ラティスワーク ペンダント オーストリア 1900年頃 SOLD |
『透かしの美の極致』 プラチナ ペンダント イギリス 1910〜1920年頃 SOLD |
素材が違うだけで、全然印象も変わるものですね。 |
2-2-2. シンプルイズベストに向かう前の過渡期のジュエリー
アールデコ前期 シンプルイズベストが完成 |
アールデコ後期 安く作るための手抜き主体へと退化 |
『影透』 アールデコ 天然真珠 リング SOLD |
【参考】ジョージズ・フーケ作 アールデコ・リング、クリスティーズにて7万5千スイス・フランで落札(約825万円)【引用】CHRISTIE'S ©Christie's |
ヨーロッパの王侯貴族のために作られるハイジュエリーには、時代のあらゆる最先端が如実に反映されます。日本美術の様式を取り入れ、切磋琢磨を重ねてジュエリーでシンプルイズベストが完成するのが前期アールデコの頃です。不要なものが削ぎ落とされ、本当に必要なものだけで構成したデザインには、サムライアートに通ずる研ぎ澄まされた美が宿っています。 アールデコ後期になるとヨーロッパの王侯貴族はさらに力を落とし、アメリカの新興成金がよりパワフルな購買層へと変化していくため、シンプルイズベストではなく必要なものまで削ぎ落とした"手抜きのためのデザイン"へと退化したものが主流となっていきます。 |
金細工ジュエリーのデザインの変化 | |
『古代の太陽』 エトラスカン・スタイル ブローチ イタリア 1850〜1870年代(FASORI) SOLD |
ラティスワーク ペンダント オーストリア 1900年頃 SOLD |
古代の金細工に触発されたことで、想像を絶するほど技術と手間をかけたゴールド・ジュエリーが作られるようになりました。ラティスワークも別に意味で恐ろしく技術と手間がかかっていますが、金細工も時代とともに以前ほど手間がかけられなくなっていきました。シンプルなデザインが好まれた結果とも言えます。 もう一度手間を惜しまない金細工が注目されれば、その技術が復活した可能性もあったかもしれません。しかしながら20世紀に入り、プラチナがハイジュエリーの主流となると高度な金細工技術は急速に失われ、美しさより安いことを望む成金が主流となったことで二度と復活することはありませんでした。 |
これはヨーロッパの王侯貴族が透かしの美に気づき、高まった金細工技術が保持されていた、過渡期と言える奇跡のタイミングに生まれた宝物なのです。 |
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
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同じ作者でも、左の宝物だとはっきりと透かしの美を意識してデザインされていません。 才能あるデザイナーは試行錯誤してデザインを進化させるものです。日本美術の流入によってヨーロッパの美術様式が激動した時代に於いて、次の時代を創っていく傑出した才能を持つ作者が創造した作品と言えるでしょう♪ |
2-3. 作者ならではの神技の金細工
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
12年前のGenも、この作者の金細工をべた褒めしています。 本当に素晴らしいし、オリジナリティにも溢れており、まさにこの作者が作ったことを示す出来の金細工です。 |
12年ぶりに、改めて私がご紹介できるのは光栄な限りです!♪ |
2-3-1. 撚り線アート
リボン・シェイプの宝物のカタログでGenもご説明している通り、一見カンティーユにも見えるこの細工は撚り線と粒金で作られた珍しいものです。 作者独特の細工と言えるでしょう。 |
2-3-1-1. フレーム
まずブローチのフレームとなる、骨格部分にご注目ください。 |
ブローチは着脱時に力が加わるアイテムなので、ペンダントやピアスなどに比べて耐久力が必要となります。このため、骨格は厚みをもたせたゴールドの板で作ってあります。 現代ジュエリーからすると厚みがないように感じられるかもしれませんが、現代ジュエリーがボテッっとしたデザインなのは、量産のために鋳造で生産するため金属に強度がなく、その分だけ金属を厚くせざるを得ないからです。昔よりゴールドの価値がかなり低下しているからできることです。叩いて金属を鍛える鍛造で作れば現代でもゴールドを薄くしたデザインは可能ですが、節約できるゴールドのコストより、職人の技術料や作業費の方が遥かにかかるからやらないのです。 |
この骨格の上に撚り線を鑞付けしています。精緻に作られた撚り線を、寸分の狂いもなく真上にセットした神技です!150年ほどブローチと使用されても当時のコンディションを保っており、繊細に見えても強固に固定されていることが分かります。驚くべき職人技です!!! |
ワイヤーを細くする原理 "Wiredrawing" ©Eyrian (talk I contribs)(05:32, 26 January 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
撚り線はまず細いワイヤーを作ることから始まります。 針金を細い穴に通し、少しずつ細くしていきます。 |
金属の細いワイヤーを作成する道具 |
一回で極端に細くすることはできません。少しずつ細くしていく技法なので根気が必要です。また、均等な力と速度で引いていかないと質の良いワイヤーにはなりません。 華やかな金細工ジュエリーを作ろうと思えば、かなりの長さが必要となります。太い金線ならば穴を通す回数は数分の1で済みますが、繊細な美しさは出ません。繊細さと神々しさを備えた美しい撚り線を作るために、想像しがたいほどの集中力と忍耐力が必要となるのです。 |
撚り線細工が難しいのは、細い2本のワイヤーをさらにロープ状に均一に撚らなければならないからです。ちょっと気分が変わって強めに撚ったり、緩くなってしまっては均一な見た目になりません。 人間の目は非常にシビアです。アーティスティックな表現の場合は全体で整合性が取れていれば気になりませんが、均一さが要求される細工の場合、僅かなミスでも目立ってしまいます。 |
これだけ違和感なく揃っているのは、人間技とは思えないほど驚異的なことです。 ただ、それだけではありません。 次は中央にルビーがあしらわれた、透かし細工のエリアにご注目ください。 |
2-3-1-2. 透かし細工
『楽器を奏でるキューピットとヴィーナス』 ジョージアン シェルカメオ ブローチ&ペンダント イギリス 1830年頃 SOLD |
今回の宝物の金細工は一見カンティーユに見えるけれど、そうではないとご説明しました。 本家本元、ジョージアンのお手本のように美しい『楽器を奏でるキューピッドとヴィーナス』のカンティーユと見比べると、どう違うのかが分かりやすいと思います。 |
このフレームも渦巻や、リボンのような帯状のデザイン、そして粒金でデザインされています。 渦巻とリボンのようなパーツは、薄い金の板に均一にミルを打ってゴールドが粒状の繊細な輝きを放つように設計してあります。 |
この金の板は、両側からミルを打つ方法で作られています。故に裏側にも同じように緻密なミルが見られます。 |
表裏を見比べると、このようになっています。 |
この宝物の透かし細工の裏側はミルのようになっておらず、滑らかです。 |
どういうことかと言うと、この部分はゴールドの板で造形した透かし細工の上に、撚り線が鑞付けしてあるのです。よくこんな、難しい上に手間のかかることをやったものだと驚き呆れ果てます。 |
通常のカンティーユのように上下にミルを打つ方法だと、真上から水平にミルを打っていくので、打った模様は垂直に入っているはずなのです。この宝物の場合、ゴールドの板に対して斜めに模様が入っているので、斜めにミルを打った特殊なやり方なのかと思ったのですが、よくよく見てみれば撚り線を鑞付けするというあり得ない細工で作ってあったのです。 叩いて鍛えた金の板にミルを打つやり方であれば、全体が一体化しているのでミルがポロッと取れるような心配はありません。でも、鑞付けの場合は正確な位置に付けるだけでも難しいですし、取れないよう強く接合させるのは至難の業です。大量に鑞材を使ったり、温度を上げてゴールドを強力に融かせば耐久性は出せますが、仕上がりの美しさとトレードオフとなってしまいます。あまりにも鑞材が目立つと美しくありませんし、金を融かし過ぎたら形状がダレてしまいます。本当にあり得ない細工です!! |
2-3-1-3. 渦巻の細工
中央にサファイアがセットされた、渦巻のパーツでデザインされたエリアを見てみましょう。ここは裏側にも、正面と同じようにミルのような模様が見えます。ここはカンティーユと同じ製法でしょうか。 |
よく見ると、やはりこの渦巻のパーツもミルのような模様は垂直ではなく斜め方向に入っています。しかも凹凸の細かさと立体形状は、鏨(タガネ)を打って鑢(ヤスリ)磨いてできるレベルではありません! Genからもイギリス人ディーラーからも目が良いとお墨付きを受ける私でも、肉眼ではどういうことか分かりませんでした。職人さんが細工の時に使うルーペより遥かに拡大して見ることのできる、HERITAGE自慢の光学顕微鏡を使ってようやく細工の詳細が判明しました。 |
かなり斜めの角度から見ないと分かりません。渦巻部分ではなく、帯が単独になっている箇所を見ると状況が分かります。どういうことになっているのかお分かりいただけたでしょうか。 |
どうやらロープ状の撚り線を潰して帯のように扁平にし、それを渦巻状に鑞付けしてこのデザインを造形していたのです。あまりの神技に空いた口が塞がりませんでした。 2本の金線を撚った撚り線を潰せば、通常はバラけます。そうならぬよう緻密に編んでいる上に、高度な鑞付けで強固にこの帯の形状を保っているのです。そしてそれを渦巻状に編んでさらに鑞付けするという、実現できたこと自体が信じられない驚異の細工です!!! |
渦巻の細工の裏側の色が気になった方もいらっしゃると思います。 「まさかメッキ?」と思うような色ですが、これはこの細工を永遠の芸術作品とするために、鑞材を多めに使ったからです。 裏側で奥まった箇所なので、使用するうちにここだけ摩耗するということはまずあり得ません。 剥がれたりしたものではなく、鑞材の残渣と顕微鏡でも確認しました。 |
なるほどと思いつつも、正面にはそれが見えていない完成度の高さは圧巻です。 繊細なデザインながらも、150年ほど経過しても美しさを保っている耐久性は見事です。 |
『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』 シェルカメオ ブローチ&ペンダント シェルカメオ:イタリア 19世紀後期 フレーム:イギリス? 19世紀後期 ¥1,330,000-(税込10%) |
この時代はまだカンティーユの技術が失われたわけではありません。 高度で手間もかかる技術なので、よほどの高級品として作られたものでしか見ることはありませんが、それでもできる職人は存在しました。 |
この撚り線による渦巻は、カンティーユよりさらに高度な技術と手間を要します。 カンティーユで済むならば、わざわざこんな手間をかける必要はありません。 作者は意味がないことをやったのでしょうか? いえ、そうではありません。 |
カンティーユのスパイラル | 撚り線のスパイラル |
水平に鏨を打つ通常のカンティーユの場合は整ったスパイラルとなり、これが重厚で格調高い雰囲気を醸し出します。 ロープ状に編む撚り線の場合、スパイラルには斜めに模様が入ります。中心へと進むスパイラル模様と斜めの線の相乗効果により、ダイナミックな動きが生まれます。作者はこれを狙ったのです。 |
『楽器を奏でるキューピットとヴィーナス』 ジョージアン シェルカメオ ブローチ&ペンダント イギリス 1830年頃 SOLD |
古代の神々をモチーフにした作品だと、こういう重厚な雰囲気の方が合いますね。 |
カンティーユと同じやり方で鏨を斜めに打てば、ある程度は撚り線を使った場合と同じ効果が得られます。ただ、実際に線を編んだからこそのこの立体感と線の細さは、撚り線を使う方法でしか実現できません。 |
ダイナミックな躍動を感じる、軽やかで力強い黄金のスパイラル・・・。 作者はどれだけ手間をかけてでも、作者にしか不可能なこの美しさを表現したかったのです。透かし細工の箇所も同じことが言えます。金の板にミルを打てば済んだことなのです。それをわざわざ上に撚り線を鑞付けしたのは、撚り線を使うからこその躍動感を出したかったからに他なりません。 普通の人は気づかないくらいの僅かな差です。ただ、Genも私もそれぞれ気付きましたから、当時も気付いて感動する人はいたはずです。撚り線でスパイラルを作ったからと言って、パッと見た時のデザインに大きな変化はありません。しかしその雰囲気には大きな違いが生まれます。 |
カンティーユのスパイラル | 撚り線のスパイラル |
雰囲気の違いにまでお金や手間を惜しまずこだわることができるのは、僅かな違いも敏感に察知できる、美的感覚が特別鋭い人だけです。当時のヨーロッパの王侯貴族でもかなり少数の人だけだったはずです。ただ、こだわる人が確実に存在し、そういう特別な人のために作られた美意識の行き届いたジュエリーが僅かながら存在するのです。 違いが分からない人には、「どうでも良い。そんなことにお金をかけるくらいならば、やらなくて良いからその分だけ早く作って!安くして!」という部分でしょう。 まだこの宝物の時代は、こういう至高の金細工が存在できたのだと嬉しく感じました。 |
2-3-2. 神々しい粒金
この宝物はポイントごとに大小様々の美しい粒金が配置してあります。 小さすぎず、注目して見ると存在感がありますが、全体で見ると悪目立ちせず調和しています。 もの凄くセンスの良いデザインなのだと思います。 |
たくさんあるのに、そうは見えないのが不思議です。粒金ならではの黄金の輝きが、宝物全体の高級感を惹き立てています。 |
これだけ粒金が多くて、しかも着脱時に力が加わりやすいブローチなので、1つくらい粒金が無くなっていてもおかしくないのですが、この宝物はその痕跡が見られません。 150年ほど経ってもこのコンディションが保てるなんて、当時の第一級の職人の技術は本当に素晴らしいです。 |
2-3-3. 精緻なチェーンワーク
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
リボンの宝物もそうでしたが、一番下に下げられたフリンジ状のチェーンも実に素晴らしいものです。 優雅に揺れる様子は、12年前のGenも「ご覧になれば感激されると思います。極めてグレードの高いジュエリーです!!」と語るほど見事なものです。 私はこの実物は見たことがありませんが、今回の宝物と同じく美しく揺れたようです。 チェーンは一見単純なようで、実はとても奥深いものです。 |
『ゴールド・オーガンジー』 ペリドット&ホワイト・エナメル ペンダント イギリス 1900年頃 ¥1,000,000-(税込10%) |
例えば同じようにチェーンを組み込んでデザインされた、『ゴールド・オーガンジー』を見てみましょう。 ペンダントとして下げるために使っているチェーンは、普段よくご覧いただくサイズでパーツが作ってあります。 ペンダントに組み込んだチェーンは、1つ1つのパーツのサイズがとても細かいことにお気付きいただけますでしょうか。 |
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現代ジュエリーならば確実に既製品のチェーンを使い回す所ですが、そうするとバランスが変でチェーンが悪目立ちします。揺れ方も美しくないでしょう。 ハイジュエリーはハンドメイドが当たり前だった時代、この宝物を作るためだけにオリジナルでチェーンをデザインして作るのは最高級品として当たり前のことです。 同じ長さでも、小さなパーツで作ろうとすると何倍も手間がかかりますし、より高度な技術も必要となります。 |
この宝物のチェーンも、目的に合わせて高度な設計が行われています。 ペンダントを下げるための通常のチェーンより何倍も細かいです。 でも、フリンジの美しさを際立たせるために存在感は欲しいです。 |
『ジョージアンの女王』 ジョージアン ロング ゴールドチェーン イギリス 1820〜1830年頃 SOLD |
原理としては、金が史上最も高価となった19世紀初期のイギリスで富と権力の象徴となったゴールドチェーンと同じ方法で作られています。 少ない量で、なるべくゴールドが存在感を放つように作られたジョージアンのゴールドチェーンは、その存在感と見た目より遥かに軽やかな付け心地が特徴です。 |
その秘密がこのフォルムです。単純に金線を所定の長さにカットして鑞付けするだけの単純なチェーンと異なり、1つ1つの幅のある薄いパーツが絶妙な曲率を持つフォルムに整えられているのです。これこそが少ない金でたっぷりあるように見せ、薄くても耐久性を出し、曲率のある表面ならではの黄金の輝きを放つ理由となっているのです。 |
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極めて細かいチェーンでこの特殊形状を実現するのは至難の技です。 美しい揺れ方と存在感のためとは言え、よくこれだけの数を1つ1つ作ったものだと驚きます。 |
滑らかに動くチェーンを作るには、高度な技術が必要です。 実際に触ってみたり、動きを見たりすると、良いものとそうでないものでこれだけ違うのかと驚くほどはっきり違います。 手に持つだけで繊細に揺れ動くフリンジのエレガントな美しさも、この作者にしか作り出せないものだったに違いありません。 撚り線細工はもちろん、全ての金細工技術がトップクラスの腕を持つ職人だったのでしょう。 |
3. 贅沢な脇役の宝石
戴冠式の英国王妃の正装 | 成金庶民が憧れるのは、宝石主体の分かりやすいジュエリーです。 王侯貴族が万人に富と権力を誇示する場では、万人に分かりやすいジュエリーが効果的です。 細工やデザインの優れた細工物は庶民には価値が分かりにくく、教養や美的感覚の優れた同じ階級の人たちが集まる場では効果的ですが、大半の人が理解できない庶民に見せても意味がありません。 故に、庶民が目にすることのできる王侯貴族のジュエリーは宝石主体の豪奢なものだけです。 左のアレクサンドラ王妃は戴冠式のための正装なので、ひときわ派手です。 コスチュームジュエリーなどの貴金属や本物の宝石を使わないアクセサリーならばこれくらいボリュームがあっても軽いですが、ジュエリーでこれだけ着けるとかなりの重量になります。 平安貴族の女性だって、いつでも十二単を着て過ごしたりはしません。あれは正装であって、普段着ではありません。 |
イギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844−1925年)1902年頃、58歳頃 "1902 alexandra coronationhr" ©Franzy89(9 August 1902)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
王妃の外出着 | 王妃の普段着 |
イギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844−1925年)1908年頃、64歳頃 | イギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844−1925年)1904年、60歳頃 【引用】Britanica / Alexandra ©2021 Encyclopædia Britannica, Inc. |
世界の中心として君臨する大英帝国の王妃であっても、外出の際はそれに適した服装ですし、日常で豪勢なドレスを着ることはありません。上流階級なので、ジュエリーは日常でも普段着に適した上質な物を着けています。 イギリス国内ではロイヤルファミリーのブロマイドが販売されたり、戴冠式などの大きな祝典以外も報道されたりするので、イギリス国民は王侯貴族が普段からドレスを着ているわけではないことを知っています。しかしながら大きな祝典での王侯貴族しか見る機会のない日本やアメリカの庶民の多くは、昔のヨーロッパの王侯貴族はいつも豪華な宝石のジュエリーを着けていたと勘違いしています。 だから成金嗜好の庶民たちは、王侯貴族に憧れながら宝石主体のジュエリーを普段から身に着けたがります。真似しているつもりですが、一張羅を毎日来ている感じなので、本物の上流階級からするとTPOをわきまえない品のない人たちです。 |
宝石主体の成金ジュエリー | |
【参考】サファイア・リング(現代) | エメラルド・リング(カルティエ 現代) 【引用】Cartier / SOLITARIO 1895 ©CARTIER |
成金嗜好の安物の場合、それっぽく目立つ宝石さえ付いていればOKという考え方で作られます。宝石自体が上質で価値があるかどうかはどうでも良く、目立ちさえすればOKです。高そうに見えて、でもなるべくお安いことが求められます。私にはこういうものは全く高そうに見えないのですが、私とは美的感覚が異なる成金はこういうものが高そうに見えるようです。 成金嗜好の人は石コロにしか目が行かないため、デザインや作りは必要最低限で済まされます。どのブランドで買っても似たりよったりと言うか、イミテーションとも違いがないレベルです。少なくとも私は現代のジュエリーとイミテーションの見た目の違いがよく分からないです。 |
宝石主体の王侯貴族のためのハイジュエリー | |
『Blue Impulse』 ビルマ産サファイア&ダイヤモンド リング イギリス 1880〜1900年頃 SOLD |
『エメラルドの深淵』 珠玉のコロンビア産エメラルド&ダイヤモンド リング イギリス 1880年頃 SOLD |
王侯貴族のために作られた宝石主体のハイクラスのジュエリーの場合、主役となる宝石が一番目立つようにデザインされています。よくよく見ると、細部にまでこだわりが感じられるオリジナルのデザインや緻密な作りが施されているものです。それらが名脇役としてより宝石を華やかに、美しく魅せます。 |
『財宝の守り神』 約2ctのダイヤモンド・ブローチ フランス 1870年頃 SOLD |
成金ジュエリーならば、大きなダイヤモンドが手に入っても当たり前のように単品でぶら下げるだけのつまらないジュエリーにされてしまいます。 それでも成金は喜んで大金を出します。 石ころ単品にそれだけの価値を見出しているわけですが、デザインにはお金を出せないなんて、全くオシャレじゃないですね。ただの自己顕示欲が丸出しの人です。自己顕示欲を持つことは否定しませんが、あからさま過ぎるのははしたないです。 |
デザインも備えた細工物の王侯貴族のためのハイジュエリー | |
『蒼の波紋』 ギロッシュエナメル ペンダント イギリス 1880年頃 SOLD |
『幕開けの華』 ジュビリー・エナメル ブローチ イギリス 1887年 SOLD |
興味深いのが細工物です。細工物の中でも最高級品として作られ、さらに優れたデザインを備えた物は、不思議な視覚効果を持っています。 絶対と言うわけではありませんが、最高級品として作られた物は細工物であっても極上の宝石が惜しみなく使われているものです。でも、宝石が目立たないのです。これはデザインと完全に調和しているからです。宝石の主張が激しい成金ジュエリーとは真逆です。 |
『清流』 ジャポニズム ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
『情愛の鳥』 卵形天然真珠 ブローチ イギリス 1870年頃 SOLD |
ジュエリーのデザインの美しさ、芸術作品としての見事さに目が行って見落としがちなのですが、よく見ると信じられないくらい贅沢に上質な宝石が使ってあったりするのです。 ハリボテ的な成金ジュエリーなんて比較にならぬほど、贅沢な宝石使いなのです。 |
この宝物もアーティスティックなデザインと見事な細工に目が行きがちなのですが、よくよく見ると極めて上質な宝石が思いのほか贅沢に使用されています。 |
3-1. 宝石とデザインの組み合わせ方の抜群のセンス
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
天然ルビーは稀少性が高く、色石の中で最も評価が高い宝石です。 また、南アフリカでダイヤモンドラッシュが起こり、ダイヤモンドの稀少価値が低下し始めてからは、相対的に天然真珠が唯一無二の至高の宝石として地位を高めていきました。 これだけ贅沢に天然真珠やルビーを使ったジュエリーを製作できることから、作者は当時有名で資金的にもかなり力があったと推測できます。 宝石に稀少価値があった時代、欲しい宝石がイメージできても、入手するのは並大抵のことではないのです。 |
この宝物にはカラーストーンの中でも特に価値が高い、ルビーとサファイアが使用されています。 小さいですが、ただ付いてさえいれば良いというオマケ的な石ではなく、小さくてもこれだけ美しく色鮮やかな上質な石が選んであります。 |
渦巻デザインのエリアにはサファイア、透かし細工のエリアにはルビーと、それぞれ組み合わせを変えているのが作者のセンスの良さを感じます。 カットも上質なので美しく煌めきますが、控えめな大きさなので悪目立ちすることもありません。 リボンの宝物と比べるとルビーの数自体は少ないですが、この宝物には宝石への特別なこだわりが見られます。 |
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
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リボンの宝物のルビーは全てオープンセッティングですが、今回の宝物はルビーもサファイアもクローズドセッティングになっています。 この時代のセッティングとしては極めて珍しいです。 |
『Day's Eye』 カボッション・ガーネット&天然真珠 リング イギリス 19世紀後期 SOLD |
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ガーネットの場合はこの時代でもクローズドセッティングにされることはあります。 ガーネットは黒ずんで見えがちですが、裏側に敷いたゴールドが光を反射することで、ガーネットの色が明るく鮮やかに見える効果があるからです。 |
ルビーのセッティングによる色味の違い | |
クローズドセッティング | オープンセッティング |
『愛の錠前』 パドルロック ペンダント イギリス 1850年頃 SOLD |
『LOVE』 ルビー リング イギリス 1880〜1900年頃 SOLD |
ルビーにも同じことが言えます。 どちらが高級ということはなくて、あくまでも時代ごとの流行であったり、それぞれの持ち主や作者の好みです。 |
19世紀後期のルビーやサファイアはオープンセッティングが一般的です。 通常ならば、宝石がメインではない作品の小さな宝石に、手間をかけてまでこの特別なセッティングを施すことはあり得ません。 ルビーとサファイアの特別に鮮やかで美しい色からは、この作品にかける、作者の並々ならぬ情熱が伝わってくるのです。 |
3-2. 繊細かつエレガントに揺れる天然真珠
この宝物に使われている天然真珠は大きなものではありませんが、普段上質な天然真珠を見ている私たちでも眼を見張るほど質が良いです。 |
【参考】ハーフパール&ペーストの15ctゴールド・リング(チェスター 1888年) |
天然真珠イコール全てが上質で美しいわけではありません。むしろ大半は美しくありません。美しい天然真珠は少ないからこそ、上質で美しい天然真珠に稀少価値が付くのです。 これはペースト(色ガラス)を使った19世紀後期の安物です。15ctゴールドの作りなので、庶民にとっては決して安い買い物ではなかったはずです。王侯貴族のためのハイジュエリーには使えない天然真珠が、こういうランクのジュエリーに使用されます。 |
【参考】ジャンクのリング | 最初からここまで汚い天然真珠を使用していたとは考えにくいですが、ちょっとこれは指に着けたくないですね。 |
【参考】ジャンクのクラスター・リング |
サイズや形の揃った核を使い、脱色と染色(調色)をして均質化してしまう養殖真珠と同じように考えると、色や質感、サイズの揃ったものを揃えるのは簡単なように感じるでしょう。 しかしながら天然真珠の場合、小さなものであっても色、照り艶、質感、大きさと形が揃ったものを複数揃えるのは困難なことなのです。 |
【参考】天然真珠が欠けた状態の安物のクラスターリング | 質が悪い状態で揃っていてもしょうがありません。 |
極上の照り艶を持ち、色や大きさがこれだけ揃った天然真珠を使っているというだけで、この宝物が最高級品として作られたことが分かります。真珠セメントでセットされた一番大きな天然真珠はボタンパールです。 |
養殖真珠のように真球だと、ポコンと飛び出てデザイン的に不細工になっていたはずです。ボタンパールとルビー&サファイアをセッティングする面位置は、高さをしっかり揃えてあります。何も考えずに美しいものを創り出すことはできません。最高級品は「ここまで?!」と驚くほど、隅々にまで高度に計算された設計が行き届いているものです。美しく寄り添うフリンジの動きも惚れ惚れします。 |
フリンジに下げた天然真珠も、よくここまで均質なものを揃えたものです。フリンジ中央の天然真珠は、他の真珠より少し縦長なものを選んでいるのも良いですね。軽やかでスタイリッシュな全体のデザインを一層惹き立てています。 |
片面だけが見えるハーフパールと異なり、揺れるフリンジの先端に付いた天然真珠はあらゆる角度が人目につきます。360度美しい天然真珠でなければなりません。それを集められる作者は、よほど有力な職人だったのでしょう。 |
天然真珠は穴に金線を貫通させて固定しています。どれだけ激しく揺れても、大切な天然真珠が落ちる心配はありません。貫通させたゴールドの先端も丁寧に磨き上げられて、神々しい黄金光沢を放ちます。 |
揺れる構造で惹き立つと言えば、煌めきが魅力のダイヤモンドがメジャーです。 でも、これだけ光沢のある天然真珠だと、揺れることでダイヤモンドに勝るとも劣らぬ魅力を放ちます。 金細工の様々な黄金の輝き、ルビー&サファイアの小さいながらも印象的な色の煌めき、天然真珠の清らかで神々しい光沢。それだけ贅沢なのに、透かし細工と繊細なフリンジが組み合わさるからこその、軽やかでエレガントな美しさ・・。 芸術作品と言える素晴らしい宝物です!♪ |
4. コンテストジュエリーの可能性
この宝物はデザイン、宝石、細工技術の観点から、作者が一世一代の魂を込めて作ったコンテスト・ジュエリーの可能性が高いです。 特に撚り線を駆使した細工に関しては、この作者にしかできない特別な技術を使って製作してあります。 極めてオリジナリティ溢れるものです。 |
エトラスカンスタイル ブローチ スイス 1870年頃 SOLD |
撚り線細工に関して、「あれは本当に素晴らしかった。」とGenが事あるごとに自慢するのはこのブローチです。 高級懐中時計の蓋として作られたとみられる作りはさすがの出来です。 コンテスト・ジュエリーだった可能性も否定できませんが、トップクラスの職人が最高級の既製品、或いはオーダー品として作ったようにも感じます。 |
誰かのためではなく、職人が己のプライドをかけて作るコンテスト・ジュエリーには芸術家としての魂が宿ります。 採算なんて考えずに作るので、細部までこだわり抜きます。 一切の妥協はなく、ここまでやるかと思えるほど徹底して作り込みます。 |
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
同じ職人でも、これは最高級の既製品として作ったとみられます。 リボンというデザインは一般性があるので、既製品として作っても確実に売れます。 |
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
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また、リボンの宝物にはゴールドの金位を示す刻印がある一方で、今回の宝物にはそれがないのもポイントです。 |
Common Control Mark(CCM) 【引用】ASSAY OFFICE BiRMINGHAM / INTERNATIONAL CONVENTION MARKS ©ANCHORCERT GROUP |
刻印に関して勘違いしているアンティークジュエリー好きが少なくないのですが、刻印は100年後の人たちがアンティークジュエリーを品定めするために打たれているものではありません。 1972年にヨーロッパの国々で共通の刻印を運用する条約(ホールマーク条約、ウィーン条約)が調印されましたが、これは輸出入の円滑化を目的としたものです。ここからもご想像いただける通り、消費者保護というよりは適切に税金を徴収するために運用されているのがホールマークなのです。 |
フランス製の18ctゴールドを示すイーグルヘッドの刻印 | 中途半端な知識を持つアンティークジュエリー好きにはフランスのイーグルヘッドの刻印をありがたがる人もいますが、フランスは1972年のこの条約には参加しておらず、現代でもアンティークジュエリーの時代から使われていたホールマークを使用しています。 だからアンティークの証にはなりません。イーグルヘッドから分かるのは、フランス製の18ctゴールドということだけです。 |
HERITAGEでお取扱いする宝物は、刻印がないものが少なくありません。 オーダーで作られるジュエリーの場合、流通に乗らないので刻印は必要がありません。打つ場合もあれば、打たない場合もあったでしょう。 既製品として作っていない、コンテスト・ジュエリーも同様のことが言えます。 リボンの宝物には刻印があるのに、この宝物にないというのはオーダー品、もしくはコンテスト・ジュエリーとして特別に作られた可能性を示しています。 オーダーではやれない、「作者の趣味では?!」というレベルの徹底した仕事ぶりからも、コンテストジュエリーの可能性が高いと言えるのです♪ |
リボン・シェイプ 天然真珠ブローチ&ペンダント イギリス 1870年頃 SOLD |
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透かしデザイン部分は今回の宝物の方がより難易度が高いものですし、渦巻デザインの精緻さも明らかに数倍上です。 |
最高級の既製品として作られたとみられるリボンの宝物の渦巻は、耐久性を持たせるためにおそらく高めの温度と多めの鑞材で鑞付けしています。それ故に撚り線が融着し、若干シャープさが失われているのです。 |
この宝物はより美しさを追求し、作者ができる限界までシビアな鑞付けを行ったのでしょう。まさに精神をすり減らすような作業で、同じ作者といえども何度も同じ作業ができるものではありません。プライドをかけたコンテスト・ジュエリーとして出展するためだからこそできた、神懸かりの奇跡の細工です!! |
4.0×6.5cm 15.3g |
2.7×4.2cm 6.7g |
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ちなみに上の画像では今回の宝物の方がより拡大しています。 リボン・ブローチが横幅4.0cmに対し、今回の宝物は横幅が2.7cmなのです。 本当に信じがたい細工です!!! |
作者にしか創り出せない、人間技を超えた撚り線細工は神々しいまでに美しい黄金の芸術です。 まさに撚り線の魔術師。 教えたからと言ってできるものではない、作者一代限りの細工。切なさや儚さも感じると共に、だからこそ心を打つ永遠の芸術作品へと昇華するのでしょうね。 |
裏側
これだけ繊細なデザインであるにも関わらず、裏側も一切のごまかしがない綺麗な作りです。鑞材は着用時に気になるものではありませんし、これくらいしっかり鑞付けしてあるからこそ150年ほど経過してもパーフェクトと言えるコンディションを保てているのです。 特殊な形のブローチ・ピンはしっかりとした丁寧な作りで、神技のブローチに相応しいものです。 |
針先を受ける部分は、粒金のような形で作られています。使う時に思いがけず着用者に針が刺さるのを防止する効果と、針が抜けにくくする効果があります。見た目の美しさだけでなく、実際に使う時のことまで配慮された、こういうちょっとした心遣いにもグッときますね♪ |
黒背景の左の画像は、実際に着用する際と同じように布に刺して撮影しています。このように針を受ける部分は着用した際に見えます。だからこそ粒金と同じくらい光り輝くよう、ピカピカに磨き上げられています。才能に満ち溢れる作者が持てる全てを投じた、渾身の作品なのです!♪ |
着用イメージ
大きすぎず小さすぎす、お使いいただきやすいサイズです。 透かしデザインなので、合わせる布地の色で印象が変わります。 19世紀の一般的なブローチと比べて軽やかなデザインと付け心地なので、布地が薄い衣服でも合わせやすいです。 フリンジの揺れがとても魅力的なので、着用する位置を工夫したり、お帽子に付けたりなど、揺れが最大限に活かせるコーディネートを考えるのも楽しそうです♪ |