Antique JEWELLERY & KIMONO MUSEUM |
今、ジュエリーや着物に憧れる女性はどれくらいいるでしょうか。現代のジュエリーや着物は決して安くありませんが、庶民でも買える物でしかありません。現代の主要購買層は庶民です。無数に存在する庶民の需要を満たすには大量生産せざるを得ず、価格設定も庶民の手が届く範囲になります。結果、材料は大量仕入が可能な稀少価値のないもの、デザインと作りは量産できる簡単なものとなります。さらにデザインに関しては、なるべく多くの人に買ってもらうため、万人受けする当たり障りないものとなります。 |
INDEX | |
【引用】Alchetron ©Alchetron |
©Walters Art Museum/CC BY-SA 3.0 |
1. 草花のモチーフに見る互いの影響
『外来種』という言葉がありますね。開国後、明治期になって日本にもたらされた草花や新品種は多種あります。それらをモチーフとした着物が生み出されました。一方、西洋では日本美術の影響で、それまで美術作品のモチーフとしては見られてこなかった草花が新たに注目され、多様な作品が生み出されています。 |
1-1. 【西洋→日本】洋バラ
19世紀初期、皇帝ナポレオンの妻ジョゼフィーヌは皇后としてマルメゾン城に『ヨーロッパで最も美しく興味深い庭園、良き洗練のモデル』を実現させるべく、世界中からたくさんの薔薇を集めました。それを元に育種がなされ、1867年にモダンローズ『ラ・フランス』が誕生すると、より美しく華やかな新品種を求めて薔薇の育種ブームが起きました。新しい薔薇には、薔薇の花を捧げたい特別な女性や高貴な女性の名前が付けられました。 |
『夢叶う青いバラとアクアマリン』 アクアマリン ゴールド ブローチ ヨーロッパ 1880年頃 SOLD |
また、それと時期を同じくして、上流階級のジュエリーのモチーフも薔薇が流行しました。故に、個性のある薔薇の名品が他の時代よりも多く生み出されています。 |
薔薇の着物と刺繍帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
『薔薇』 アールヌーヴォー オパールセント・エナメル&天然真珠 ブローチ イギリス 1900年頃 SOLD |
ラ・フランスが誕生した翌年の1868年に発足した明治政府は、『ラ・フランス(和名:天開地)』を農業試験用の植物としてヨーロッパから取り寄せ、青山官性農園(現:東京大学農学部)で栽培を始めました。その後、皇族や華族などの日本貴族、高級官僚などがパトロンとなり、モダンローズの栽培が普及していきました。庭園や設備、薔薇を栽培したり増やすための優秀な職人には相応のお金がかかりますから、上流階級の間での流行でした。大正から昭和の頃には一般的にも知られるようになり、日本文学の題材にも登場するようになっていきました。 日本にも野生のノイバラは存在しましたが、白い花びらが5枚の一重咲き、香りが少なかったこともあって、万人を惹きつける華やかさはなく、着物のモチーフとして選ばれることは殆どなかったようです。 |
薔薇の紋綸子の訪問着(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
着物のモチーフとして、それまで百花の王と言えば華やかな『牡丹』でした。それが、モダンローズの登場によって薔薇に取って代わられたのです。 最初は脇役の存在だった薔薇が次第に主役として描かれるようになり、日本の上流階級の女性の一番人気の花として様々な表現がなされました。 この訪問着では地紋に牡丹や菊、桜や梅などの百花が表現されていますが、主役は薔薇です。 人種や年代を超え、万人を魅了してしまう薔薇。まさに花の女王です。
【参考文献】『薔薇 日本テキスタイルデザイン図鑑 / 明治大正昭和の着物模様』2018年 永田欄子 著、誠文堂新光社 |
黒薔薇の御召 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGEコレクション | それだけにハイクラスの着物ほど、自分らしい唯一無二の個性を出そうと凝った表現になります。 私は初めてこれを見た時、アンティークではなく現代物かと思ってしまいました。 モノトーンの生地に黒薔薇、モダン過ぎます! |
乗り物の羽二重の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
静止画だと分かりにくいのですが、黒薔薇はキラキラと黒く輝く糸で織られています。一部には金糸で刺繍が施されており、全体はモノトーンでも華やかさがあります。 |
黒地にそのまま黒薔薇を表現してしまうのもセンスの良さを感じます。 質感が異なる黒なので、同化してしまうことはありません。 着物の表現は、思いのほか幅が広いようです。 |
とは言え、現代の着物の職人さんによれば、失われて今はできない技術も多いそうです。このあたりもアンティークジュエリーと同じですね。 |
1-2. 【西洋→日本】洋蘭
『洋蘭』は熱帯性の蘭で、1731年に西インド産の蘭がイギリスに持ち込まれたのが始まりとされます。 趣味としての洋蘭の栽培が活発になったのは、温室の技術が大きく発展した19世紀半ば頃からで、この頃に専門書なども出版されるようになりました。 温室の建設や維持には莫大な費用が必要で、富と権力の象徴として洋蘭栽培が上流階級に流行しました。 |
『蘭のブローチ』(1889年パリ万博のティファニー出品作品)ジョージ・パウルディング・ファーナムのデザイン 【引用】Alchetron / Paulding Farnham ©Alchetron/Adapted. |
昔の万国博覧会は国の威信をかけ、各国が最先端の文化や技術を発表する場でした。 1889年には洋蘭の流行を反映し、アメリカの新しいジュエリー・メーカー、ティファニー社が洋蘭のジュエリーを出品しました。 カリスマ創業者チャールズ・ルイス・ティファニーが率いる当時のティファニーは、各分野の天才が揃う全盛期でした。 天才デザイナーとして名高いジョージ・パウルディング・ファーナムがデザインし、最高のエナメル技術で制作された鮮やかな洋蘭のジュエリーは金賞を受賞しています。 |
洋蘭のアールデコ小紋(昭和初期)HERITAGE COLLECTION | |
この洋蘭栽培の趣味が、明治期の日本に入って来ました。テイファニーが洋蘭のジュエリーで金賞を受賞したパリ万博と同じ1889(明治22)年に、フランス留学から帰国する子爵 福羽逸人が日本に持ち帰りました。後に宮内省で宮廷園芸技師として活躍する人物です。 1894(明治27)年には新宿御苑に温室が建設され、日本でも本格的な洋蘭栽培が始まりました。それが皇族や華族の間に流行しました。温室の建設や維持には莫大な費用が必要で、上流階級の趣味やせいぜい専門業者による高級切花として販売されるに留まる高嶺の花でした。 大量増殖が極めて困難という性質もあり、極めて高級な花だった洋蘭は第二次世界大戦後でも月給が1万円台の時にシンビジウムは4〜5万円(現代の貨幣価値で約170万円)、良質のカトレアは10万円(現代の貨幣価値で約336万円)もしたそうです。 戦前はより高価だったはずです。アンティーク着物のモチーフで洋蘭は非常に珍しいのですが、それは上流階級の中でも特にお金持ちでないと、育てるのは難しかったからかもしれません。 |
百花の紋綸子 訪問着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | |
これは洋蘭の着物より古い時代の、百花の訪問着です。左は春蘭、右はエビネランあたりでしょうか。 派手な西洋の蘭に比べて、東洋の蘭は清楚で凛とした雰囲気がありますね。どちらも素敵だなと思います。 |
百花の羽織(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | |
これは洋蘭の着物より古い時代の、百花の訪問着です。左は春蘭、右はエビネランあたりでしょうか。 派手な西洋の蘭に比べて、東洋の蘭は清楚で凛とした雰囲気がありますね。どちらも素敵だなと思います。 |
1-3. 【日本→西洋】菖蒲
花鳥図『あやめにきりぎりす』(葛飾北斎 1835年頃) | 美術月刊誌『芸術の日本』(サミュエル・ビング 1888-1891年) |
日本の花と言えば『菖蒲』と言って良いほど、欧米で菖蒲は日本らしいイメージがありました。それは開国後に輸出され、欧米の上流階級や知的階級、芸術家たちの間で流行した浮世絵などの日本美術に菖蒲が多く見られたことが大きな原因でしょう。 |
『杜若』一越 訪問着(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
『アヤメ』 アールヌーヴォー プリカジュール・エナメル ブローチ フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
それ以前のヨーロッパで菖蒲がモチーフになったジュエリーは見たことがありませんが、ジャポニズム・ジュエリーのモチーフとして見られるようになります。 『アール・ヌーヴォー』は19世紀末から20世紀初頭にヨーロッパを中心として世界で流行した美術様式を総称する言葉で、いくつかの要素を含んでいます。その1つが日本美術を取り込んだジャポニズム・アールヌーヴォーです。 |
ティファニーのジャポニズム・アールヌーヴォー作品 | |
【1900年パリ万博グランプリ受賞】『アイリス』(ティファニー社 1900年頃)"Tiffany and Company - Iris Corsage Ornament - Walters 57939" ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 | ステンドグラス(ルイス・カムフォート・ティファニー 1904-1910年頃)NYのアンソニア・ホテル 【引用】Arthur HP / Landscape Window from the Ansonia Hotel New York |
アメリカのアールヌーヴォーの代名詞となったティファニー社の同時代の作品にも、菖蒲モチーフが見られます。 創業期のティファニーで活躍したデザイナー統括者、エドワード・C・ムーア(1827-1891年)は当時ヨーロッパの上流階級に持て囃されていたジャポニズムや考古学風の作品で重要作品を遺しており、統率するデザイナー(アーティスト)たちには世界中の様々な年代のジュエリーや美術工芸品から勉強するよう指導していました。それがこのような作品に反映されています。 |
エドワード・C・ムーアによる銀器(ティファニー 1878年) " Edward c. moore per tiffany & co., brocca in argento, oro e rame, new york 1878 " ©Sailko(28 October 2016, 22:05:06)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | これは1878年、エドワード・C・ムーア作のジャポニズムの銀器です。 蜻蛉の右側に、菖蒲がデザインされていますね。 |
1-4. 【日本→西洋】笹・竹
小泉八雲、ラフカディオ・ハーン(1850-1904年) | 『知られぬ日本の面影』(小泉八雲 1894年) "HEARN(1895)Glimpses of unfamiliar Japan" ©Sarah Wyman Whitman, Boston Public Library(27 November 2007)/Adapted/CC BY 2.0 |
中国にも竹や笹はありますが、美しい日本の自然の景色を連想する際、竹や笹がイメージされるようになったのは小泉八雲の書籍の影響も大きかったでしょう。ギリシャ出身の小泉は日本人女性と結婚し、田舎も含めて実際に日本の各地に住んでいます。その小泉が欧米に日本文化を紹介するために著した『知られぬ日本の面影』(1894年)の表紙には竹、もしくは笹がデザインされています。 菖蒲という既にメジャーな日本の花もありましたが、小泉が表紙に選択したのは華やかな花ではなく潔い竹(笹)です。 一般的には好まれる"分かりやすい『花』"と違い、葉や枝をメインにしたモチーフは玄人好みです。良さは分かりにくいですが、小泉の著書を好むような知的階級はこういう渋かったり、幽玄の美を感じたりするようなモチーフは大の好みなのです。 |
雉と牡丹・菊・竹と清流の色留袖(大正時代) HERITAGE COLLECTION |
『清流』 ジャポニズム・アールデコ ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
静謐な空間を感じさせる笹竹。 あまりにも玄人好みなので、女性用のハイジュエリーでも笹竹をモチーフにしたものは『清流』以外に見たことがありません。理解できる人は極めて限られますが、一部の人を強く虜にする植物です。 万博では日本庭園が紹介され、閉会後は設備や植物などが販売されてヨーロッパ各地に広がりました。日本庭園を造園した上流階級や富裕層もおり、プライベートに楽しまれていたのでしょう。ヨーロッパにもこれほど笹竹の魅力を理解し、美しいジュエリーとして楽しんだ女性がいたと思うと本当に嬉しくなります。お会いしてお喋りしてみたいものです。 |
竹林 錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | 女子に一般的に人気があったのは花などの華やかであったり、可愛らしいデザインです。 だからアンティーク着物市場も多くはそのような着物です。一般的に皆様が連想されるアンティーク着物も、そのようなカラフルで華やかな場合が多いと思います。 ここでご紹介するのは私好みの着物ばかり故、HERITAGEのアンティークジュエリーと共通するものを感じていただけるはずです。 この着物に関しては葉っぱすらなく、竹の幹だけです。渋いですよね〜。赤みを帯びた薄紫の竹林。とても幻想的で、幽玄の美を感じます。 |
こういう作品は市場には滅多にありません。でも、このような作品をこよなく愛する人が、数は少ないながらも確実に存在したのです。 |
笹竹の御召 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | |
アンティークジュエリーも、葉だけをモチーフにした作品は本当に数が少ないです。ただ、そういうものは抜群に作りが良く、惜しみなくお金や技術が詰め込まれ、細部まで美意識が行き届いていることが共通します。 着物の場合も、見えない部分にどれだけ美意識が行き届いているのかで持ち主の人となりが想像できます。"通常は見えない部分"に相当する箇所はいくつかありますが、その1つが裏地の八掛です。止まっている時は見えませんが、歩いたり風が吹くとチラリと見える瞬間があります。オシャレな人はここまでこだわります。もちろん、特殊な八掛ほどお金がその分だけかかります。 この笹竹の着物の八掛は燕脂色の斜めストライプです。シンプルイズベストの削ぎ落とされた美がありつつも、スタイリッシュさや華やかさを感じる着物です。笹竹と縦のストライプは金糸・銀糸で表現されており、キラキラと輝くので実物は思いのほか華やかです。 実際に着用し、動いた時に最も美しく見えるよう工夫が詰め込まれた着物。それは揺れる構造を駆使した、アンティークの優れたジュエリーとも共通します。 ジュエリーと着物。表現手法は違えど、人種や文化を超えて共通する美意識や美的感性を持つ人たちがいたというわけですね。 |
1-5. 【日本→西洋】シダ
夜のシダ 紗 小紋(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
『シダ』 ローズカット・ダイヤモンド ブローチ フランス 1880年頃 SOLD |
シダがモチーフと言うのは、竹や通常の葉っぱ以上にマニアックと言えるでしょう。初めて見た人は「その手があったのか!」と驚き、一部の人はこの独特の造形や渋さに感激したに違いありません。 シダをモチーフにしたジュエリーも古い時代は見ることがありませんでしたが、開国の影響が見られるようになる時期から、一部のハイジュエリーで見るようになります。 |
『シダ』 トレンブラン ブローチ&髪飾り フランス 1870年頃 SOLD |
まさかのトレンブランまであります!! シダのようなマニアックな植物を好む貴婦人は、まさに知性と気品に富む、社交界の中でも別格の女性です。 |
シダの雰囲気にそぐわないオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドは一切使用せず、瑞々しさや凛とした雰囲気を表現できるローズカット・ダイヤモンドだけを使ったデザイン。細部まで美意識が行き届いた、徹底した作りの良さ。シダのジュエリーに共通する特徴です。 明らかに莫大な財力を持つ女性の持ち物であることが伝わってきます。それ以上に伝わってくるのが知性とセンスの良さ・・。 そういう特別な感性を持つ上流階級が日本美術に触れ、このような新しいジュエリーが生まれたのです。 |
1-6. 【日本→西洋】紅葉(モミジ)
珍しいもの大好き、知的で面白いもののためならばいくらでもお金を出すと言う上流階級がアンティークの時代には存在しました。19世紀は新種の動植物の商業化にも伴い、名だたるプラントハンターが活躍し、世界の中心たる大英帝国には世界各地から様々な植物が集まりました。 |
舞い散る紅葉&竹の帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
アールヌーヴォー オパールセント・エナメル ペンダント フランス 1900年頃 SOLD |
日本人にとっては馴染み深い紅葉ですが、ジュエリーのモチーフとして見られるのは開国後です。ジャパニーズ・メープルとして知られていますが、ジュエリーのモチーフとしてはオパールセント・エナメルの本作しか見たことがありません。 いざ貴金属で造形しようとすると、美しく仕上げるのは大変難しそうです。他に見ることがないのは玄人好みのモチーフであることに加えて、ジュエリーとして美しく表現するのは困難を極めたためかもしれませんね。 |
舞い散る紅葉&竹の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | この帯の場合は染めと刺繍の組み合わせで、立体感や光を表現しています。 全て刺繍で表現した葉、葉脈のみ刺繍した葉、染めだけの葉。刺繍は針を刺す方向や位置、金糸の使い分けなど巧みな技術で立体感を強調しています。 風に舞う紅葉の葉は、角度もそれぞれ。ひと葉ひと葉が心を込めて丁寧に表現されています。 刺繍は大変な技術と手間がかかる細工であり、刺繍は高級品の証でもあったそうです。刺繍は凹凸が出せると共に、上質な生糸の光沢は美しい輝きを放ちます。 |
京都だと、昔は1つの通りに1軒は刺繍職人の工房があったそうです。アンティーク着物が花開いた大正から昭和初期にファッションリーダーだった良家のお嬢様には、刺繍職人が1人だけでは足りず、3人もお抱えで刺繍職人がいたそうです。現代では想像もできない、オシャレへの情熱とお金のかけ方ですね。 |
舞い散る紅葉&竹の帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
現代では六通帯という、全体の6割にしか柄がない帯もあります。胴へ2周巻く際に見えなくなる部分の柄を無くし、コスト抑えるというものです。美しさではなく安さを求めた、いかにも現代的な考え方の代物です。 左の帯は、明らかに見えなくなる部分にまで刺繍も施されています。 こういうものは、美術品として飾っても絵になります。 見えない部分にまで技術や手間、お金を惜しまず施された見事な細工。 この美意識の高さは、まさにヨーロッパの上流階級のために作られたハイジュエリーに共通します。 Gen曰く、世界中の民族の中で日本人女性が最もアンティークジュエリーを理解できるそうです。それは、このような高い美意識の存在する世界で育んできた感性が、まだ少なからず日本人女性の中に残っているからなのでしょう・・。 |
楓のダイヤモンド・マルチユース・トレンブラン フランス(ブシュロン社) 1880年頃 SOLD |
トレンブランは社交界の華やかな場所で使用する、当時の王侯貴族にとっても特別なジュエリーです。 故にほぼ100%、花をモチーフにしたゴージャスなデザインで作られています。 紅葉(楓)をモチーフにしたトレンブランがあること自体が驚きです。 当時も特別な美的感性を持った女性が、ヨーロッパの上流階級にいたということですね。 |
マルチユースでブローチやペンダント、髪飾りなど様々な使い方ができますが、その全ての構成要素が葉っぱです。花は1つもありません。 |
ブローチは付ける角度が完全に自由ですが、ペンダントが上下に使えるのも驚きです。中央の葉先は少しだけ裏返っているのも特徴的です。日本人にとっては違和感がありませんが、当時のヨーロッパの美術様式からするとかなり際立っています。 紅葉をデザインしたのは"ありのままの自然"にモチーフを求めた、イギリスのウィリアム・モリスが提唱したアーツ&クラフツの流れと言えなくはありません。ただ、モリスのデザインは自然を要素としているものの、美術様式はオーソドックスなヨーロピアン・スタイルから抜けていません。オーソドックスなヨーロッパの美術様式は理想化された、謂わば『完璧な美』を求めます。『Beau Ideal』と呼ばれるものです。欠点は許さず、完璧な状態を是とします。 葉っぱは完全な形であり、裏返ったりしていない完璧な姿勢であるべきで、舞い散る葉ではなく最も生き生きとした状態であるべきです。 この紅葉は葉先が裏返っており、そこにわざわざ高度な技術でダイヤモンドまでセットされています。恐るべき美意識と美的感性です!! 開国前から、ヨーロッパの一部の上流階級や知的階級から日本の美術品は別格視はされていたものの、実物を見る機会は極めて限定されていました。開国後、欧米人は様々な日本美術に触れました。その中で、日本美術の真髄を理解できた人が僅かながら存在し、このような心に深く響く宝物が生み出されたのだと想像します。 |
2. 人工物に見る西洋文化の影響
長く鎖国政策していた日本人にとって、西洋文化の中で生み出された様々なテクノロジーや人工物も驚きの対象でした。その中のいくつかは、当時最先端だった着物のモチーフにも直ぐに取り入れられました。 |
2-1. 乗り物
クラシックカー クラバットピン フランス 1900〜1910年頃 SOLD |
19世紀後半から20世紀にかけて様々な乗り物が発明され、驚くべきスピードで進化していきました。 馬を好み続ける旧タイプの王侯貴族がいる一方で、超高価な新しい乗り物をいち早く楽しむ好奇心旺盛な王侯貴族も存在しました。 |
ブレリオXI クラバットピン フランス 1909年 SOLD |
人類は遂に空を飛べるようになりました。 飛行家・技術者たちは我先に新記録を目指して挑戦し、世界中の人々が注目し、成功に沸きました。 |
隠しロケット付き ペンダント フランス 1906年 SOLD |
飛行家アルベルト・サントス・デュモン(1873-1932年) | |
気球、飛行船、飛行機がデザインされたペンダントも制作されています。ロケットの中には、カルティエのサントス・ウォッチで有名な飛行家アルベルト・サントス・デュモンの写真も入っています。 |
オーダー主にとって様々な意味が込められた宝物ですね。クラバットピンや、Genが買い付けたディーラーも気づいていなかったほどの精緻な隠しロケット・ペンダントはメンズ・ジュエリーです。 乗り物モチーフはほぼ男性用です。まあ、そうでしょうという感じですね。男性用なので、お金をかけた作りが良いものが多いです。 |
『ノルマンディー号』 後期アールデコ ペンダント フランス 1935年 SOLD |
そうは言っても、ごく稀に女性用の乗り物のジュエリーも存在します。 アールデコの時代、豪華客船がブームとなりました。 このノルマンディー号は『洋上の宮殿』と呼ばれたほど華麗な船でした。 現代では豪華客船も飛行機も庶民が乗れるものですが、今で置き換えると、宇宙に行くロケットのような超高価な存在だったでしょうか。 莫大なお金持ちだけが楽しめる、最先端の乗り物・・。乗り物モチーフのジュエリーは当時を想像させてくれる、歴史的にも最高に楽しい宝物です♪ |
乗り物の羽二重の帯、元は男性の羽裏 or 男児の着物(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | この羽二重の帯は元々は女性用ではなく、男性の羽裏か男児の着物だったとみられる布から仕立て替えされたものです。 車、自転車、電車、大型の船、飛行機、蒸気機関車など当時最先端だった乗り物が詰め込まれています。 まだ見たことのない、遠い土地に連れて行ってくれる乗り物たち・・。 今では写真や画像、動画などで行かなくてもその土地を"見る"ことができますし、行った気分になることすら可能です。 昔は伝聞や絵、画質の良くないモノクロ写真で知る程度。実際に行ってみないと分からない旅は、現代では比較にならぬほど冒険心をくすぐるロマンあふれるものだったでしょう。 そのような旅を実現させてくれる乗り物は、男性にとって夢と憧れの存在でもありました。 |
乗り物の羽二重の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
松林を抜けた先には、一体どのような景色が広がっているのでしょうね。 日本国旗が掲げられた大型船は、遠い異国にも安全で快適に旅ができそうです。錨や救命ボートなど、細かい部分まで詳細に描かれています。 木々より遥か高く、自由に空を飛ぶ飛行機。そこから見える当時の日本は、一体どのような景色だったでしょうか・・。 |
乗り物の羽二重の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
トンネルを抜けた蒸気機関車。強烈なスピードで走り抜ける車窓からの景色は楽しいけれど、トンネルはご注意を。うっかり窓を開けたままだと、顔が石炭のすすで真っ黒けになっちゃいます。汽笛が鳴ったら窓を閉めましょう♪ 私としては、当時を連想させるセンターステアリングのカッコ良いアールデコ・カーがツボです。日本で車が一般的になったのは戦後、高度経済成長を迎えて昭和30年代にマイカーブームが起きてからです。この車が描かれた時代はまだ、ごく限られた人しか乗ることのできない超高級な乗り物でした。 |
西竹一(バロン西)と愛馬ウラヌス(昭和7/1932年) | それこそ、金メダリストの西竹一男爵のような上流階級や大富豪が乗っていたような代物です。 西家は西太后からシナ茶(中国茶)の専売権を与えられたことで、百万長者数十人分にも相当するような桁違いの資産を所有していました。 そんな家の当主だったからこそバイク(ハーレーダビッドソン)やモーターボート、自動車など、当時の日本では考えられないほどの超高級な乗り物を購入し、スピードとスリルに打ち込む生活をしていたそうです。 少尉候補生の頃には既にアメリカ・リバティー社製を乗り回し、その後もクライスラー、リンカーンのオープンカーという派手さでした。 |
1932(昭和7)年のロサンゼルス・オリンピック出場の向かった現地では、当時アメリカでも珍しかったラジオ付きの高級12気筒スポーツカー、パッカード・コンバーチブルを現地で購入し、オリジナルでゴールドの塗装をして毎日馬場や社交界のパーティに出かけました。 175cmという当時としては長身、ハンサムな見た目、花形競技での金メダリスト、抜群のセンス、社交性の高さなども相まって、現地でも相当な憧れの的となったそうです。当時、日系移民は差別を受けていましたが、上流階級の中で大人気となり、ロサンゼルス市の名誉市民にまで選ばれたバロン西は現地の日本人にも高い人気を得ています。 |
愛馬による車越え "Imperial Baron Nishi" ©キノトール(2006年6月2日)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
そんな西男爵が時折披露していたのが、愛馬による車越えでした。 一見楽々とやっているように見えても、一歩間違えれば人馬転倒の命をさらすような危険な荒技です。超高価なクライスラーが駄目になる可能性もあります。 |
西とウラヌス柄の子供用の着物(昭和7/1932年) | それを成功させるからカッコ良くて、皆の憧れの的となるわけですけどね。 日本国民の英雄であり、子供たちの憧れの的となったことは、着物の柄にもやはり反映されています。 |
クラシックカー ブローチ ヨーロッパ 1930年頃 SOLD |
車はカッコいい大人だけが乗り回すことのできる憧れの存在でした。こんな贅沢な車モチーフのジュエリー、現代ではあり得ないですね。間違いなく高級車を所有していた人物の、自慢のジュエリーだったはずです。 |
クラシックカーの方が、ボディのフォルムもカッコ良いように感じます。クラシックカーは現代でも根強い人気があります。単にメカニカルな面で好きという人もいるでしょうけれど、このカッコ良い見た目こそが一番の人気の理由だと思います。 この車はヘッドライトとテールランプが色石で表現されています。こういう細部のこだわりもグッときますね〜♪ハンドルなども、ミルグレインの応用のような削り出しの細工で質感が表現されており、お金に糸目をつけない徹底したこだわりぶりが、いかにもメンズジュエリーです。 |
異国の帆船&カモメの紋綸子 訪問着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
ちなみに数は多くありませんが、乗り物モチーフの女性用の着物も存在します。これは異国の帆船が描かれた訪問着で、Genもとても驚き、感動していました。上杉藩の城下町、米沢で骨董屋の3代目としてGenは生まれていますが、1947(昭和22)年生まれのGenの時代はアンティーク着物の市場なんてありませんし、当時の『骨董』と言えば江戸時代か、せいぜい明治以前のものでした。 アンティークの着物にはこんな素晴らしいものがあるだなんてと大感激し、あまりの感激ぶりで「今のうちにたくさん買っておきなよ!!」と言われてしまいました。お金があったら今はその分だけ良いアンティークジュエリーを買い付けたいと、却下しました(笑)まあでも、それだけアンティークの着物はGenの心を感動させたのです。 |
フランスのガレー船(オールで漕ぐ船)とオランダの武装帆船(17世紀) |
16世紀スペインのガレオン船 | |
迫力ある異国の帆船。胴体部分には艦砲が並んでいます。帆を張る水夫、遠くを望遠鏡で眺める水夫の姿も見えます。3色国旗が掲げられており、日本ではなく異国の船のようです。 |
異国の帆船&カモメの紋綸子 訪問着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
乗っているのは洋装の人たちです。右側のシルクハットの紳士が一番偉い人でしょうか。3色国旗には3色の金駒刺繍で縁取りがなされています。相当な高級品として作られた、アーティスティックな着物です。 |
異国の帆船&カモメの紋綸子 訪問着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | 『ノルマンディー号』 後期アールデコ ペンダント フランス 1935年 SOLD |
女性用だと、乗り物モチーフとしては着物もジュエリーも船が選ばれる傾向にあるのが興味深いです。乗って優雅な時間を過ごすのを好む女性と、自ら運転して自由に動かしたいという男性の、性差的な傾向が反映されているのかもしれませんね。 |
2-2. お城の風景
開国後は江戸幕府や各藩が我先に使節を欧米に送り、その後も新しく発足した明治政府が次々と公式な使節団や留学生を派遣しました。まだ渡欧するだけで莫大な費用がかかり、現地に長期滞在するとなれば為替などの面からも相当な費用が必要な時代でした。富と権力、教養を集中的に持っている日本貴族を中心としたエリートたちが、公費や私費で留学、視察を行うようになっていきました。1921年には当時皇太子だった昭和天皇が、訪れたスコットランドのブレア城でアソル公爵からもてなしを受けています。 自然豊かな広大な敷地にそびえ建つ、ヨーロッパ独特の威厳あるお城(カントリーハウス)・・。鎖国中も絵を見たり、伝聞などを通して世界情勢にはある程度精通していた日本人ですが、現地でリアルな風景を見た時の感動たるや如何ばかりか。 |
初めて見て感動した景色 | |
城の風景の綴れ帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
シオンエナメル(スイスエナメル) ブローチ スイス(サインドピース) 1880年頃 SOLD |
庶民でも簡単に世界のどこにでも足を運び、気軽にいくらでもカラーの画像を撮影できるようになった今とは異なる時代。特別な身分の人だからこそ、普通の人では知り得ないリアルな景色を現地で見ることができました。その"感動"を残すため、身に着ける贅沢なアートへと昇華させたのです。莫大な財力を持つ上流階級でしか不可能な、とても贅沢なことですよね。 かつて見た感動的な景色。 それを最も再現できるのは、やはり人の真心を通して表現するアートなのです。単なる精密模写では、情動は不可能なのです。この景色に感動した当時の上流階級の人たちは、それを理解していたからこそ、お金や技術のかかる方法で感動を永遠なるものにしたのでしょう。手法はそれぞれですが、その感性や振る舞いは国を問わず共通しているのも面白いですね。 それにしても『風景』とは別に、『情景』という言葉がきちんと存在するのも面白いですね。 |
3. 表現手法における日本美術の影響
3-1. 不完全さに基づく幽玄の美の表現
先にも述べた通り、ヨーロッパは完璧なものを理想美とします。これは長い年月、日本が見習ってきた中国も同じでした。日本人だけは特殊です。もちろん全員と言うわけではありませんが、不完全なものをむしろ好み、こよなく愛すると言う、世界的に見て他に例がない民族なのです。 |
Genが読み込んだ『日本人の美意識』ドナルド・キーン著 1990年 | この辺りの詳細は、Genから必読図書として指定された1990年の『日本人の美意識』(ドナルド・キーン著)にも書かれています。 文学も含めた芸術作品を見るに、日本人は昔から完璧性を嫌い、均整や規則正しさを避ける傾向がありました。 |
吉田兼好(1283年頃〜1352年頃)鎌倉末期〜南北朝時代 |
日本三大随筆の1つとされる『徒然草』を著した吉田兼好は、日本人がなぜ歪さを好むのか、その理由を次のように説明しています。 「すべて、何も皆、ことのととのほりいたるはあしき事なり。しのこしたるを、さて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。」 さらに、弘融僧都が「何でも物を一揃い完璧に調えようとするのは、あまり賢明ではない人間がすることだ。不完全な方が良いのだ。」と言うのを聞き、なかなか良いことを言うものだと感心したことがあるとも述べています。 まあ、昔も"賢明ではない人間"は日本人の中にも少なからず存在し、鋭い美的感性を持つ人はそう多くはなかったのだろうと想像します(笑) |
藤原定家(1162〜1241年)平安末期〜鎌倉初期 | 藤原定家が詠んだ、次の歌があります。 「見渡せば 花ももみぢも なかりけり 花も紅葉すらもない、ただみすぼらしい漁師の小屋だけが存在する秋の夕暮れの景色を詠んでいます。 これを聞いて、「ふうん。それで?」と終わってしまう人もいるでしょう。 |
一方で、豊かな感性を持つ人ならばその情緒的な景色を想像し、これから迎える厳しい冬の季節であったり、満開の桜や鮮やかな色彩の紅葉を想像したり、各人がその経験を元に、それぞれにとっての美しい景色を心に思い浮かべることでしょう。 完璧なものだと、想像力を働かせる余地がありません。だから深みがなく、つまらぬものとなってしまうのです。 想像の余地を与え、深い美への意識を揺り動かす。暗示や余情を使うことによる『幽玄の美』の表現。それこそが日本美術の特徴です。 満月や満開の桜では想像の余地を与えません。三日月や蕾の桜、あるいは花も葉も散って春を待ち侘びる枝となった桜こそ、クライマックスの最も美しい姿を連想させてくれます。 実物や写真より、心の中の想い出の景色の方が圧倒的に美しいという経験はありませんか?通常、感動はその時にしか味わうことができません。でも、『想像力』を使えば、心の中で何度でも心を揺さぶる美しい景色を見ることができるのです。情景・・。 単純なモノとしてだけ見るのではなく、心の眼でも見ることを想定して作られた芸術作品。それが日本美術の真髄にはあるのです。 【参考文献】『日本人の美意識』1990年 ドナルド・キーン 著(金関寿夫 訳)、中央公論社 |
竹の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | その様式が反映されているのが、この虫喰い葉の竹の着物です。 完璧主義の西洋美術様式だったら、まずあり得ない表現ですね。 現実には虫に喰われた葉があっても、それを積極的にアートとして表現しようなんて思いもしないでしょう。 華道を習っていた頃、先生が突然『虫喰い葉』を作ると仰って、葉っぱを素手で無造作にむしり始めて驚いた経験があります。 生花で表現するために、わざわざ虫に喰われたような葉を作ってしまう。昔からある、いかにも日本人らしい表現です。 |
竹の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
ただ、この着物の場合は描かれているのが全て虫喰い葉なのが特殊です。無事な葉が大多数な中に、ちらほら虫喰い葉があるのが通常です。強烈に虫喰い葉を意識した、美意識の極みのような作品です。 この着物がいかにこだわりを持って、莫大なお金と手間をかけて作られたのかは、地紋を見ても分かります。 |
竹の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | 織を駆使して表現された地紋は、光の加減で時折強く現れます。 この着物の地紋は竹です。しかも染めによる竹と完璧にコラボレーションしています。 確実に特別にオーダーして作らせた生地です! 地紋の竹の葉は虫喰い葉ではなく、全て無傷の葉です。 面白すぎる作品です!!♪ |
着物制作は分業の世界です。生地は生地屋、染めは染屋。しかも得意不得意の技法があり、それぞれが特定の技法だけを特化して作業します。手を動かすだけの職人だけではコラボレーションは無理で、ファベルジェのようなトータルプロデューサー的な人物が存在しないと、様々な技法を掛け合わせた作品は生み出せません。 現代、生地からフルオーダーして作ることは殆どありません。ロットで一定数オーダーできる販売業者ならばまだしも、個人レベルでのフルオーダーはまず無理です。昔も生地屋が一定数作った既製品を使って染めるのが普通だったはずです。 万人受けする花や吉祥文様ならばまだしも、竹のみという超マニアックな生地を生地屋が既製品としてロット生産するなんてあり得ません。よほどのこだわりを持っていた人物が、見合ったお金を払っていたからこそ実現した特別な作品なのです。 こういう技法は『地紋起こし』と呼ばれるそうで、たまにこのような特別な作品に出逢うことができます。1つのジャンルとして存在していたという事実。芸術という観点から、アンティーク着物の幅の広さに改めて感動します。 |
竹の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | 一箇所だけ、竹の節に新しい枝の赤ちゃんが表現されているのも良いです。 これからどのように成長していくのでしょう・・。 まさに想像を掻き立ててくれる、心で見て楽しい作品です♪ |
白菊&木目の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | |
木目模様が印象的な白菊の着物にも、虫喰い葉の表現が見られます。これは赤い実が付いた植物の、一部の葉だけです。この植物の枝は、多彩な色彩で表現されています。本当に、ありのままの植物をよく見て表現しているなと感じます。 |
笹竹の御召 小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | |
先にご紹介した、笹竹の御召でも虫喰い葉が表現されています。美意識が高い人ほど、完璧すぎる表現は好まなかったことの現れと感じます。但し、稚拙な作りの方が良いというのとは違っています。細工技術には完璧を求めて当然です。織でも虫喰いや、繊細かつ絶妙なグラデーションを表現できるんですよね。 こういう作品が見ていて飽きることがないのは、想像の余地があって心の眼で楽しめるからです。その時の心であったり、経験してきたものによって見えるものは違います。人生経験を積み重ねれば、より美しく深みのある景色を見ることも可能です。 |
『破れ団扇』 エナメル ブローチ フランス 1880〜1890年頃 SOLD |
不完全なものに見る、奥行きのある美。 感性の優れた人しか楽しむことのできない、高尚な世界です。日本人は世界で最も優れた感性を持つ民族ですが、全ての日本人がそこまでの感性を持つわけではなく、むしろ日本人の中でも少数派です。 |
そして、日本人より割合はさらに低くとも、欧米人にも不完全なものに心揺さぶる美を見出せる、感性の豊かな人物は必ず存在します。ドナルド・キーン氏は日本の凡人など言うに及ばず、日本人の中で優れた人と比較しても圧倒的に優れていると思えるほど卓越した感性と知識を持っていました。 破れ団扇。 わざわざ破れ団扇を再現したハイジュエリーが存在すること自体が驚きですが、それほどまでにこの日本独特の幽玄の美を理解し感動した人が当時のヨーロッパの上流階級にもいた証です。 |
『Tweet Basket』 小鳥たちとバスケットのブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
|
そのような宝物は46年間で2点だけです。もう1つが『Tweet Basket』です。 この宝物はバスケットの裏側に、修復したような表現がなされています。さすがGen、私より先にこれに気づき、感激して大喜びしていました。 |
←↑等倍 | 実際の大きさや、位置を想像するとお分かりいただける通り、これは最初から意図してこのように作られたものです。完全なものを理想とする西洋美術に於いて、意図して不完全性を表現するなんて画期的すぎることです。 |
実際のピクニック・バスケットは使う道具であって、飾って楽しむためのものではありません。使えば痛みもきます。でも、それがお気に入りのバスケットであるならば、修理して大事に大事に長く使いますよね。代々使うアンティークのハイジュエリーは当然ですが、使う道具だって現代のような消費財の扱いではありませんでした。 |
妖怪となった古道具たち(付喪神:つくもがみ) 【引用】付喪神絵巻2巻より 京都大学付属図書館蔵 |
付喪神という言葉がある通り、うっかりすると九十九年(=長い年月)もお世話になっていたということだってあります。 |
路地に捨てられ、人間への復讐を企てる古道具たち 【引用】付喪神絵巻2巻より 京都大学付属図書館蔵 |
道具にも魂が宿る。 大切に使うのは当たり前。 感謝と尊敬の心、礼儀を忘れてはならない。 |
サウス・ケンジントンのロンドン万博会場(1862年) | 開国後、日本の物品が初めて万博で紹介されたのが、1862年のロンドン万博でした。 |
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | イギリス領事館が置かれた東禅寺(1860年代) |
まだ日本人が出展するのは無理な時期で、紹介されたのは1859年からイギリスの初代駐日総領事として来日したラザフォード・オールコックの蒐集品でした。漆器や刀剣、版画などの美術品の他、蓑笠や提灯、草履なども紹介されました。 |
柴田剛中(着席)他使節一行(1862年) |
このロンドン万博は文久遣欧使節も視察しています。そこらへんの庶民の寄せ集めではなく、当時の貴族や知的階層に相当する、日本を代表するトップエリートたちです。当然、日本の上質な美術工芸品にも造詣が深いです。 彼らによれば、展示品は「古めかしい雑具ばかりで、粗末なものばかりを紹介している。」と嘆く内容だったそうです。 まあ、そうでしょうね(笑) |
ほうき・ざるなどの行商、Basket and broom peddler(1890年頃)【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.127 |
まあでも、当時の日用雑貨は手の込んだ細工や工夫が凝らされた、庶民の工芸品です。現代の日本人から見れば十分に面白いものだと思います。 日本人エリートたちが嘆いた日本の展示品でしたが、オールコックのコレクションはヨーロッパでは大絶賛で、日本人の国民性を見事に表現したものと評価され、その後のジャポニズム・ブームの契機になりました。ヨーロッパの人々にとっては、高尚な美術工芸品と言えるクオリティだったのです。 |
茶摘み(静岡 1890年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.100 |
花売りの老婆(1890年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.126 |
カゴは至る所で使用される身近な道具でした。販売するための新品ではなく、輸出品を入れるための道具として使用されることもあったでしょう。修復を繰り返しながら、大切に使用されるカゴをヨーロッパの人々が実際に目にすることもあったはずです。 |
『Tweet Basket』 小鳥たちとバスケットのブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
修復は、そのバスケットが大切にされていた証。 ピクニックの楽しい想い出とともに在るその姿。 どんな楽しい想い出があったでしょう。 愛する人たちと楽しい時間を過ごすためのバスケット。 どれだけ大切にされてきたのか・・。 まさに余情が感じられる、日本人の美意識に深く通ずる宝物です。きっとその誕生には、日本人の美意識が詰まった"日本のもの"がかかわっていたはずです。 |
3-2. 自然が魅せる色彩の表現
日本人の色彩感覚には目を見張るものがあります。江戸時代の画家、伊藤若冲の作品の色彩表現なども研究が進んでいるので、ご存知の方も多いでしょう。アンティークのハイクラスの着物は、絵画作品と言って良いレベルにあるものがたくさんあります。 |
刀の鐔(大森秀永 18世紀)メトロポリタン美術館 | 『秋の景色』 赤銅高肉彫り象嵌ブローチ 日本 19世紀後期(フレームはイギリス?) SOLD |
明治維新後、刀の鐔などを作っていた職人が仕事を失いました。代わりに、その優れた金工の技でヨーロッパ向けの美術工芸品を作るようになりました。 活躍する場が変わっただけで、見ていて飽きることのない美術品ということは変わらないですね。 ひと昔前ならば証券や不動産業界、今ならばIT業界に優れた人材が集まるように、時代ごとの活況な業界に才能ある人たちが集まります。 大正から昭和初期にかけてはアンティーク着物が花開き、才能ある人たちが多数集まって切磋琢磨しました。着物を作る職人たちは、職人兼アーティストとしてプライトをかけて創作活動を行いました。優れた職人には当然アンティークジュエリーと同じく、優れたパトロンもいたでしょう。 まだ人に知られぬうちから才能を見出し、お抱えの職人として自分だけに作品を作ってもらうのは、上流階級にとっても楽しく誉なことです。その職人が有名になり、人気作家となるのも楽しいことです。自分が見出したのだと目利き自慢できます。 |
椿&枝垂れ梅の紋錦紗 小紋(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
優れた作品を望む上流階級と、プライドをかけて制作活動に打ち込みたい職人たちとの、最良の環境がこの時代にはありました。 これは椿と枝垂れ梅の着物です。 特に葉っぱにご注目ください。 緑の単色ではなく、様々な緑色を使い分けて表現してあります。 枝もいくつかの鼠色を斑らに染めて、いかにもありのままの自然の色を投影させています。 見事なものです。 |
松の雲取に白南天の紋綸子 訪問着(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
この着物の白南天の葉の表現も、相当な気合いが入っています。 通常、常緑樹である南天は紅葉しませんが、条件を満たすと冬の間に葉の色が変化することもあるそうです。 ただ、白南天は赤南天のように赤く紅葉することはなく、黄緑色に変化する程度だそうです。 |
松の雲取に白南天の紋綸子 訪問着(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
これは、作者にとって"理想の美しい姿"を表現したものだったかもしれません。 それでも、まるで本物を写し取ったかのような表現が物凄いです。 葉の向きに注目すると、左右だけでなく手前や奥など、あらゆる方向を向いたものが表現されています。葉の反り返った裏側も、各々の角度に合わせて見事に表現されています。 縁起物の南天。虫喰い葉はありませんが、葉の至る箇所に鼠色や薄黄色でガサガサとした痛みもしくは汚れのようなものが表現されています。 |
松の雲取に白南天の紋綸子 訪問着(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
写実ではないはずなのに、まるで自然の植物そのものです。左奥の鼠色の枝にも同様の表現がなされています。本物の植物をよく観察して理解している作者だからこそ、理想の姿をこのように想像し表現できたのだと思います。色のチョイスと言い、表現と言い、素晴らしい才能です! |
紅葉した蔦 織に刺繍の京袋帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
本物の紅葉を写実した作品と言えば、この帯があります。 これは染めではなく、何と刺繍で表現されています。 |
Genと小元太のフォト日記(2008年秋)『僕の紅葉スポット』より |
塀を這う、紅葉する蔦と言えば、Genのお気に入りの紅葉スポットがご近所にあります。私も実際に連れて行ってもらいましたが、紅葉する時期は色彩に溢れた見事な景色が広がります。絵の具があったら、皆様はどの色を使って表現されますか? |
紅葉した蔦 織に刺繍の京袋帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
この作品はオレンジ色や茶色、黄色や緑色系の糸だけでなく、ワインレッドの糸も駆使して表現しています。 一葉一葉、全ての表情が異なっており、見ていて飽きることがありません。 この帯を生み出すために、作者はどれほど丹念に、どれほど愛おしく紅葉した蔦を観察したのでしょう・・。 この帯は美意識の極みと言える作品で、随所にそれが現れています。 分かりにくいかもしれませんが、蔓の部分も、何色もの糸を巧みに使い分けて表現してあります。 |
紅葉した蔦 織に刺繍の京袋帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
垂れ下がった蔓には、節か新芽のようなものまで表現されています。 染めや織りではなく、刺繍でここまでやるなんて常軌を逸しています。 アンティーク着物は優れたものがたくさんあるとは言っても、ここまでの作品は滅多にありません。 アンティークジュエリーで言うならば、コンテスト・ジュエリーに相当する唯一無二の美術品クラスです。 お金に糸目をつけず、採算なんて考えず、とにかく優れたものを生み出そうとする心意気が伝わってきます。 |
『うつろい』 アールヌーヴォー オパールセント・エナメル ネックレス ヨーロッパ 1890年頃 SOLD |
日本美術に見られる、繊細な色彩の表現。 1890〜1900年頃という僅かな期間にしか見られない、オパールセント・エナメルによる繊細で美しい色彩のジュエリーは、この日本美術に触発されて生み出されたと想像します。 |
アールヌーヴォー エナメル ブローチ イギリス 1890-1900年頃 SOLD |
ドギツイ色のお菓子などからもご想像いただける通り、欧米人が好む色彩は日本人から見るとケバケバしく、下品にも感じられることが少なくありません。 そういうアンティークジュエリーはあっても買い付けませんが、ハイクラスのオパールセント・エナメルのジュエリーはむしろ日本人の方が好みそうな色彩だったりします。 これらの宝物は、当時この絶妙な色彩の良さが分かるヨーロッパの上流階級がいたという証ですね。 |
4. 着物にまとめて入ってきた各様式
ヨーロッパの美術様式として、日本でもアーツ&クラフツやアール・ヌーヴォー、アール・デコは有名です。何となくスタイルは知っていても、それぞれの誕生背景や年代を意識して語る日本人はそう多くないように感じます。 アーツ&クラフツはイギリスのウィリアム・モリスが提唱した、1880年頃からの美術工芸運動です。アール・ヌーヴォーはアーツ&クラフツ運動や日本美術などを取り込み、フランスを中心として19世紀末から20世紀初頭に流行した美術様式の総称です。アール・デコは、日本美術と西洋美術の様式が融合・昇華し、工業デザインの発達とも相まってヨーロッパでさらに発展してできた美術様式で、1920年代から1930年代に流行しています。 それぞれ、ヨーロッパで流行した時代は異なります。流行は、大流行しては廃れるものです。時代遅れになったら見向きもされなくなるのが通常ですが、着物の場合、花開いたのは大正から昭和初期、1910年代から戦前までの1930年代までの時期でした。 日本人は外国のものが大好きです。中国製のものならば何でも珍重した時代もありました。ヨーロッパのものならば何でも崇め奉る『舶来品信仰』が戦後の日本に存在したことからもご想像いただける通り、着物の柄にもヨーロッパへの憧れが多く見られます。 本場では既に陳腐化していたものでも、そんなことは関係ありません。そういうわけで、当時の着物には各様式が同じくらいの年代で取り入れられていたりします。大正時代(1912-1926年)の着物だとアール・ヌーヴォーの様式が強く見られ、時代が降るごとにアール・デコの様式が多くなっていく傾向はありますが、はっきりと区別されているのではなく良いとこ取りして上手く昇華させていたり、日本独自で進化させているのも面白いところです。 |
4-1. アーツ&クラフツ
アーツ&クラフツの紋綸子の布(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
ウィリアム・モリスのデザイン(1876年) |
左の布を初めて見た時は驚きました。「アーツ&クラフツの柄?!」、と。 生地は日本のアンティークの上質な絹で、和柄の地紋もあります。 |
アーツ&クラフツの紋綸子の布(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
型染めによるものですが、型を作るのはいかにも大変そうな細かい柄です。細かいからこそ、染める難易度も高かったはずです。 ウィリアム・モリスの真の意図は一般的には理解が難しく、残念ながら現代では"ただのデザイン"として認識してる人が大半です。元々は高度な技術を持つ職人の真心のこもった手仕事が生き、日常に美術工芸品が在った中世のモノづくりに立ち帰ろうと提唱したものでした。世界に先駆けて産業革命を経験したイギリスは、高度な技術を持つ職人からただのオペレーターと成り果てた労働者たちが大量生産する、味気ない日用品に溢れた時期でした。モリスの理想とした高度な技術と手間(真心)をかけた上質で美しいモノづくりは高価すぎるものとなり、結局は時代に合わず淘汰されてしまいました。 当時の日本には、モリスが理想とする環境がまだ存在しました。この気合いの入った、手間のかかるデザインからもそれが伝わってきます。それにしても、デザイン的にもイギリスのアーツ&クラフツをよく表現していますし、華やかな色彩の方が有名なアンティークの時代の着物にあって、モノトーンに近いシンプルでスタイリッシュな色彩の表現は卓越したセンスを感じます。 |
ウィリアム・モリスのデザインの進化 | ||
1862年 | 1872年 | 1875年 |
モリスは数十年に渡って制作活動しています。クリエイティブな人物ですから同じものを作り続けることはあり得ず、年代を追って見るとデザインも進化していることが分かります。 もともと、デザインのモチーフはありのままの自然の中に求められました。初期の作品だと、ヨーロッパ人らしい理想化は入っているものの、ありのままの自然に近いデザインです。それがだんだんとデフォルメされていきます。後期は"ありのままの自然"ではあり得ないほど、曲線が強調された表現となっていきます。 |
ウィリアム・モリスのカーペット(1889年) | なぜここまでニョロニョロ&ゴッチャリになったのかは分かりませんが、この後期アーツ&クラフツのデザインがアール・ヌーヴォーにつながっていったのです。 |
アーツ&クラフツの刺繍の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
それを踏まえると、刺繍と織によるこの大作の帯も後期アーツ&クラフツのデザインであると言えます。想像を絶する気合いの入った超大作です。一体どれほどの時間をかけて作ったのやら・・。 |
アーツ&クラフツの刺繍の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
ニョロニョロ加減はアールヌーヴォーに通ずるものがありますが、植物や葉のデザインが明らかにイギリスのアーツ&クラフツのものです。こんな作品がアンティーク着物の中に存在するのも面白いですよね。着用すると見えない部分にまで贅沢に刺繍が施されており、オーダーした人物の徹底した美意識の高さも伺えます。 |
アールヌーヴォーの小紋(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
これもアールヌーヴォーと言えなくないものの、花の雰囲気を考慮すると後期アーツ&クラフツと言う方が相応しいように思います。 アールヌーヴォーほどは、お花のデフォルメが強くありません。 葉っぱもリアルさを感じる表現です。 |
アーツ&クラフツのハイジュエリー | ||
アンティークのハイジュエリーでも、アーツ&クラフツのデザインの進化を見ることができます。ありのままの自然をベースに少しだけ装飾的にしたものから次第にデフォルメが強くなり、よりデザイン性の高い表現へ・・。 最初はもの珍しく魅力的に見えても、同じものではどうしてもやがて飽きてしまう、好奇心旺盛な人間の性も透けて見えてきますね。それがなくては進化もあり得ないのです。 |
4-2. アール・ヌーヴォー
大正時代(1912〜1926年)はアンティークジュエリーで言うならば、エドワーディアンからアールデコ初期に相当します。 アールヌーヴォーの祭典とも呼ばれるパリ万国博覧会が開催されたのは、世紀末となる1900年です。フランスを中心にアールヌーヴォーは世界で流行しましたが、アーツ&クラフツ運動の流れを組むアールヌーヴォーは、アーツ&クラフツ運動が一段落し流行遅れとなったイギリスの上流階級の間では流行しませんでした。 |
モダンスタイルのイギリスのハイジュエリー | |
『Samurai Art』 アクアマリン&天然真珠 ネックレス イギリス 1900〜1910年頃 SOLD |
『The Great Wave』 モダンスタイル サファイア ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
アールヌーヴォーが流行した時代、イギリスの海運の要衝であるグラスゴーで日本美術と西洋美術が融合・昇華したモダンスタイルが生まれ、デザインは現代のインターナショナル・スタイルに向けてさらに進化していきました。 |
エドワーディアン〜アールデコのトランジション・ジュエリー | ||
『ストライプ』 イギリス 1910年頃 SOLD |
『Quadrangle』 オーストリア? 1910年頃 SOLD |
トライアングル・ブローチ ヨーロッパ 1910年頃 SOLD |
1920年代のアールデコ以前から、既にこのようなスタイリッシュなデザインは生み出されています。 もちろん、このような時代を先取りしたかのようなジュエリーは超特別な存在です。当時のジュエリーは、まだまだ古いスタイルでデザインされているのが一般的です。 |
エドワーディアン バー・ブローチ イギリス 1912年 SOLD |
実際のところ、こういうジュエリーは"時代を先取りしている"のではなく、時代を牽引するジュエリーでした。 |
新しいスタイルが生み出されても、それが優れていなければ忘れ去られて終わりです。 新しいスタイルが、多くの人を魅了できる魅力を備えていた場合、人々はそれを真似します。それが流行となり、普遍の魅力を備えていたならば『定番』として定着します。 この時代はまだヨーロッパの王侯貴族が世界を主導していました。ファッションに於いては王侯貴族が新しいスタイルを作り出し、周りの上流階級がそれを取り入れることで社交界で流行し、時間差を経て地方など下位の上流階級で流行し、最後に庶民に流行が降りてきて陳腐化します。 現代はファッション業界が儲けるために、無理やり流行を作ります。すみやかに陳腐化させなければ新しいものを買ってもらえないため、毎年流行のスタイルを変えます。それに慣れてしまい、毎年流行が変わるのは当たり前のように思う現代人も少なくありませんが、昔のように自然発生的に生まれた流行は、長い場合は数十年かけて庶民に降りてくるまで流行し続けました。 大正時代(1912〜1926年)、最先端を行くイギリスの上流階級の中では既に新しいスタイルが生まれていましたが、世界全体で見るとまだまだアールヌーヴォーが主流でした。 |
アールヌーヴォーの色留袖(大正時代)HERITAGE COLLECTION | そのため、大正時代の着物にはまさにアールヌーヴォーという作品がいくつも存在します。 とは言え、この着物は地紋に縦ストライプが見えるので、くどくなり過ぎずスタイリッシュさも感じられます。 光の加減によって浮かび上がる地紋は、着物独特の魅力ですね。 デザインの要素として『地紋』が存在することで、着物の表現の幅は無限大とも言えるほど広くなっています。 センスは必要ですが、うまくいくと至極のアートとなります。 |
ピーコック・フェザー エナメル・ブローチ ヨーロッパ 1890〜1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォーの孔雀の羽の小紋(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
アールヌーヴォーで流行した、孔雀の羽根をモチーフにした着物もあります。黒地に孔雀の羽根を描くだなんて、大胆な着物ですよね。羽根の目玉に相当する部分は赤&ピンクのハート型で表現されており、可愛らしいエッセンスもあります。渋さやカッコよさだけを追い求める女性とも違います。一体どのような女性がオーダーしたのでしょうね。 黒という着物の地色も独特です。夜遊び用だったのか、純粋にカッコ良い黒好きの女性だったのか・・。 |
アールヌーヴォーの初夏の訪問着(大正時代) HERITAGE COLLECTION |
柳や初夏の花々が描かれた、この訪問着もアールヌーヴォーです。 その最大の特徴と言えるのが、円形状にデフォルメした表現です。 |
アールヌーヴォー グリフィン ブローチ&ペンダント フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
アールヌーヴォーの初夏の訪問着(大正時代) HERITAGE COLLECTION |
花やグリフィンなどを、通常ならばあり得ないほどデフォルメし、円形で表現するのはアールヌーヴォーの定番です。 和花、和の技法による表現だと、随分と雰囲気が違いますね。ゴールドを贅沢に使ったアールヌーヴォー・ジュエリーだと荘厳で、威圧感さえ感じる迫力がありますが、この着物の菖蒲は何だか優しい雰囲気です。金糸による刺繍もあるのですが、繊細な表現なのでギラギラ感が全くないんですよね。 |
アールヌーヴォーの初夏の訪問着(大正時代) HERITAGE COLLECTION |
日本独自で昇華させたアールヌーヴォーと言えそうです。 |
アールヌーヴォー 蛇の目傘の帯(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION |
中国的な雰囲気を感じるアールヌーヴォーの帯もあります。 交通手段の発展に伴い、世界各地の文化や芸術が入り乱れる時代となりました。 ジャポニズムだけでなくシノワズリやエジプト風、ペルシャやイスラム風など異国情緒あふれる様々なスタイルが流行します。 それらを取り入れたアールヌーヴォー、アールデコの時代を経て、国境のないインターナショナルスタイルが確立されます。 |
アールヌーヴォー 蛇の目傘の帯(大正〜昭和初期)(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
西洋がグリフィンならば、東洋は鳳凰(フェニックス)と言ったところでしょうか。傘を生かして、アールヌーヴォーらしく円形に意匠化しているのがセンスを感じます。 何だか妖艶さを感じる鳳凰の表情は日本らしくなくて、幻想的な中国の桃源郷を想わせます。こんな作品もあるなんて、当時の日本の美術世界は本当に幅が広かったんですね。 |
4-3. アール・デコ
アールデコの帯(昭和初期)HERITAGE COLLECTION | これぞアールデコと言えるような、直線と直角だけで表現された帯が存在します。 最初の持ち主は、どういう着物と組み合わせていたのか気になるところです。 |
アールデコ後期のモダンアートのようなペンダント フランス 1930年頃 SOLD |
||
こういう帯だと、このようなアールデコ・ペンダントを根付として使っても楽しそうです。 このペンダントも全て四角形で構成されているのがオシャレです。ダイヤモンドもステップカットだけ、バチカンも通常の形ではなくわざわざ四角形で作るこだわりぶり。アイボリーも単純な長方形ではなく、削り出して段差を付け、長方形と正方形を表現しているのが素晴らしいです。 アールデコも後期になると手抜き(コストカット)のためのシンプルデザインが多くなりますが、これは間違いなくその逆で、アーティスティックな表現のために手間を惜しまず作られた、センスの良い高級品です。 |
アールデコの麦草&蜻蛉 紬の単衣 黒留袖(大正〜昭和初期) HERITAGE COLLECTION | 芸術性の高いアールデコ着物としては、紬の単衣の黒留袖があります。 着物の知識がある方ならばご存じの通り、紬で単衣で黒留袖ということ自体が超マニアックなのですが、構図やモチーフも激シブです。 Genも私もカワイイではなく綺麗やカッコ良いが好みなので、こういう作品は琴線に触れます。 水辺なので、乾田で栽培する麦ではなく、雑草の麦草と陽炎を描いた作品とみられます。 この麦草の表現がまさにアールデコですね。 |
アールデコの麦草&蜻蛉 紬の単衣 黒留袖(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION |
これはただの着物ではなく、完全に芸術作品と言えるものです。月明かりの夜の幻想的な風景を描いているのでしょう。薄暗い水辺に舞うトンボは青〜黒で表現されています。ここで赤トンボなんて描いたら興醒めです。暗い場所のトンボは黒っぽく、月光に照らされて明るくなっている場所のトンボは鮮やかな青で描かれています。 麦草は色彩があるものと、モノトーンで描かれたものの2種類があります。闇に紛れるかのように墨色の濃淡で描かれた麦草が、この構図を極めて奥行きのあるものにしています。一番気合いが入っているのがアールデコ様式の麦草の表現ですが、モチーフにこのマニアックな雑草を選んでいるのがいかにも美意識の高い日本人らしいです。日本人以外だと、名前も分からないような雑草なんて無視ですからね。視界に入っていたとしても意識できない、雑魚扱いの存在です。だからこそ"雑草"なわけですが・・(笑) |
アールデコの麦草&蜻蛉 紬の単衣 黒留袖(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | でも、とても面白い造形なんですよね。 まさにアールデコの傑作です。 この作品は、一度も着用されていない状態で私の元に来ました。故にパーフェクトコンディションです。 このあたりも、王侯貴族のために作られたアンティークのハイジュエリーと共通しています。 着物もジュエリーも、庶民用の安物はヘビーローテーションされるのが常なのでコンディションも悪いです。いくつも買うことができないからです。 上流階級は高級品をいくつも持っており、ヘビーローテションはしません。1回しか使わないもののために莫大なお金をかけるのも普通です。だから私たちがご紹介する真の高級品は、まるで今作ったかのような美しい状態のものも少なくないのです。 |
1回も使っていないなんて至極贅沢な話ですが、こういう身分の人たちは1つのイベントのためにいくつか作らせ、その中で好きなものを選ぶということもします。選ばれなかったものが、一度も使われない状態で出てくるということがあります。 単衣の着物はルール上、6月もしくは9月しか使えません。晩春に現れる蜻蛉も存在しますが、季語としては蜻蛉は秋のものなので、9月用の黒留袖だったと推測します。本番用に仕立てたものの、季節がずれてしまったという可能性もあります。オーダーした人物と着用者が違っており、オーダーした人は気に入っていても着用者は好みではなかった可能性もあります。 この着物の良さが分からなかったらダメだと思いますが、未使用で手にできた私は非常に幸運と言えるわけで、私のために100年ほど前の人がお金をかけて作ってくれたのだと思うことにします。恐れ多過ぎて着るか分かりませんが(笑)、眺めているだけで豊かな気持ちになれる宝物です♪ |
デコ・ヌーヴォー 芙蓉&菊の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION | この帯の場合、背景の同心円はアールデコですが、花はアールヌーヴォー様式で表現されています。 アンティーク着物はこのようなアールヌーヴォーとアールデコの折衷様式が結構あるそうです。 私が色々な意味で物凄くGenと類似性があると思っているアンティーク着物の権威、永田欄子氏が『デコ・ヌーヴォー』と定義しています。
【参考文献】『薔薇 日本テキスタイルデザイン図鑑 / 明治大正昭和の着物模様』2018年 永田欄子 著、誠文堂新光社 |
流行が終わると、ヨーロッパに於いて『アールヌーヴォー』の記憶は長きにわたり汚れた黒歴史となりました。故にアールヌーヴォーとアールデコの折衷様式はヨーロッパには存在しません。 日本にはアールヌーヴォーとアールデコが間をおかずに入ってきました。「2つの様式があって、どちらが好み?どちらを選ぶ?」というような状況だったのでしょう。当時、ヨーロッパのものならば何でも持て囃される状況にありました。黒歴史化するような事態を知らない日本人には、アールヌーヴォーがヨーロッパでは流行が廃れてしまった後も、『ヨーロッパの素晴らしい芸術』としてそのまま取り入れられたわけです。黒歴史の印象を持たない日本人がバブル期などに改めてアールヌーヴォーを持て囃し、値段が吊り上がり、欧米でも再注目されるという状況も発生しました。 悪趣味としか思えないものを、憧れのヨーロッパのものという理由だけでありがたがる日本人は少なくありません。むしろそちらの方が多数派です。優れた美的感性と美意識を持つ人は今も昔も少数派だったのだろうと想像しています。 まあそれはさておき、日本ならではのデコ・ヌーヴォーという表現スタイルも面白いものですね。戦後はジュエリー同様、着物も優れたものは作られなくなってしまいました。 『日本人の美意識』の著者、ドナルド・キーン氏は日本語の通訳として第二次世界大戦にも従軍しました。別の著書で、「戦争をすれば美しい日本の文化はなくなるということです」とも述べています。戦争がなければ、日本の優れたアーティストたちはどのような新しい作品を生み出していたでしょう。見てみたかったなと残念に思います。 |
あとがき
実はもともと私は着物が嫌いでした。昔から健康診断で要所見(大きなお世話!笑)がつくほど細いのですが、中学三年生の真夏に、母親からバスタオルを巻いて既製品のフリーサイズの浴衣を着付けされたことが一番の原因です。真夏の真っ昼間にそんな格好で外出したら当然すぐに熱中症になるわけで、あまりの具合の悪さに耐えられず、待ち合わせ場所に友人たちが到着する前に帰宅するはめになりました。死ぬかと思いました。完全にトラウマです(笑) 就職した大企業は1876(明治9年)創業の古い会社で、花嫁修行の名残なのか茶道部や華道部、着付部が存続していました。お菓子目当てで茶道部に入り、初釜などの際には先生がお嬢様のために仕立てた正絹の着物を貸してくださりました。毎回お借りするのは申し訳ないと思い、自分で買うことにしました。 せっかく買ったのでお茶とは関係なく着物を着るうちに人脈が広がり、アンティーク着物を知る友人たちに出逢いました。骨董市などに連れていってもらい、アンティーク着物の世界を知るようになりました。これだったら積極的に着たいと思えるオシャレな着物がたくさんありました。その多様さと素晴らしさに驚いたものです。 骨董市で様々な古いものに触れ、着物以外も古いものは面白いなぁと好奇心が湧くのは自然の流れでした。ただ、骨董市で見るアンティークジュエリーだけは汚らしいのに異様に高いのです。古いものだからデザインが古臭くて薄汚れており、昔は技術が未熟だから作りが稚拙なのだろうと考えたのですが、何となく気になってインターネットで検索した所、Genのルネサンスに辿り着きました。本当に驚きましたし、Genの紹介する美しい宝物の世界に感動しました。一般市場に溢れかえる庶民用の安物と、王侯貴族のためのハイジュエリーでは、同じ『アンティークジュエリー』でも全く違うわけですね。 その後、私はアンティークジュエリーの世界にドップリと浸かって、着物を着ることは殆どなくなりました。その間に、たっぷりと仕事をしまくりました。でも、ご縁とは本当に面白いもので、最良のタイミングでフッとつながっていくんですよね。 アンティークジュエリー同様、アンティーク着物も優れたものは筋が良いディーラーからしか出てきません。アンティーク着物ならばこの方と決めているL氏がおり、たまたま出先で立ち寄れる機会があって、GenにL氏を紹介しました。さすが和骨董の目利きも得意なGen、速攻で理解しました。L氏の審美眼に惚れ込み、アンティーク着物の魅力にもすぐに魅了されていました。 それでもその後も私は仕事が忙しく、しばらくL氏とはご無沙汰していました。2021年、いくつかのご縁があって、再びL氏と何度かお話できる機会がありました。そこで、『着物』と言ういかにも日本の分野に在りながら、L氏がいかに西洋の歴史や文化にも詳しいかを知りました。アンティーク着物もアンティークジュエリー同様、安物からトップクラスまで様々なものがあります。TPOも、晴れ着から日常着まで様々です。L氏がそれだけ知識豊富なのは、どのジャンルであっても厳選したハイクラスの着物だけを扱っているからに他なりません。ちなみに、小物までお取り扱いしているのも私たちと共通しています。 私たちが扱うアンティークジュエリーは2千年以上も前、紀元前の時代からあります。一方でアンティーク着物の多くは大正から昭和初期、1910年代から1930年代までのもので、私が知っておかなくてはならない時代の中では、ごく僅かな期間です。でも、それまでの歴史の集大成がそこにあります。この時代は西洋文化と日本文化が出逢い、さまざまな試みがなされ結実していった、稀に見るダイナミックな時代です。古代ギリシャ、ヘレニズム時代もこんな感じで優れた文化が次々に生まれたのではないかと思うほどです。 アンティークジュエリーを探るほどに私が日本の美術や文化に詳しくなっていくのは当然の流れであり、アンティーク着物に真摯に向き合うL氏が西洋の美術や文化に精通するのも必然なのです。L氏のその真心と真摯な姿勢は、まさにGenと共通しています。当時のデザイナー(図案家)、そして職人のことも心から尊敬しているからこそ、技法や素材にも本当に詳しいです。私がこの仕事を積み重ね、このことがようやく理解できるようになった今のタイミングで再びご縁がつながりました。 Connecting the dots. 今回、スパークが起きて見えるようになった世界の一部をまとめてみることにしました。 |
大正頃の日本貴族の和装&洋装 | |
公爵夫人 大山捨松(1910年代後期)一番右、50代 | 公爵夫人 大山捨松(1860−1919年) |
戦前にオシャレな洋服を着ていたのは都会の上流階級や富裕層の一部のみで、庶民の普段着が洋装に変わっていったのは戦後のことです。 価値あるものかどうかは別にしても、現代のようにモノに溢れかえってもいませんから、そもそも庶民がふんぱつしてオシャレをするということも稀です。だからこそ『晴れ着』と呼んでいました。「娘三人持てば蔵が空っぽになる。」と言われるほど、オシャレ着物にはお金がかかったそうです。でも、お金がモノがあるから幸せとは限りません。そんなものがなくても、日本人は精神的に豊かで幸せな生活を送っていました。 殆どの人は庶民ですから、そのような話を聞く機会はあったとしても、戦前の上流階級の具体的な日常生活やファッションなどの文化を知る機会はなかった方が大半だと思います。義務教育で習う機会もありません。 現代では想像できないほど貧富の差があり、莫大な財力を持っていた戦前の上流階級や富裕層。開国から戦前までのごく短期間、ヨーロッパの王侯貴族も使っていたハイクラスのジュエリーや小物に加えて、今回ご紹介したような芸術的な着物も使いこなす時代がありました。戦争が始まると「日本の婦人が世界で最も被服費を使って居る。」と非難の的になるほど、女性たちはオシャレを楽しんでいました。 その小さな世界はいかに美しいものに満ちあふれ、豊かだったでしょう・・。 |