No.00274 古代の太陽

エトラスカンスタイルの粒金被覆&赤エナメルの古代の太陽のような神々しいブローチ


エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
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ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

『古代の太陽』
エトラスカン・スタイル ブローチ

イタリア 1850〜1870年代(FASORI)
天然真珠、15〜18ctゴールド、レッドエナメル
直径2,7cm
重量5,4g
SOLD

古代エトルリアの発掘品を見ているような、視認困難な見事な金細工が施されたエトラスカン・スタイルのブローチです。一番の見所は、微少な粒金を敷き詰めて独特の輝きを出した『粒金被覆』の細工です。カステラーニによって古代とは異なる方法で再現されたものの、あまりにも高度かつ手間がかかるため、通常のジュエリーには適用できなかった細工です。44年間で初めて見るもので、その他についても超高度な技術に相応しい徹底したデザインと作りが施されています。イタリア人のプライドにかけて、魂を込めて作られた前代未聞の作品はまさにミュージアムピースと言える、魂を揺さぶる宝物です。

 

この宝物のポイント

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

1. 考古学風ジュエリー
 1-1. 上流階級らしいジュエリー
 1-2. 古代ローマ遺跡の発掘と考古学フィーバー
 1-3. 古代エトルリアの墳墓の埋葬品
 1-4. 金細工の頂点"エトルリアのジュエリー"

2. エトラスカン・スタイルのジュエリー
 2-1. イタリア人のプライドとイタリア統一運動
 2-2. 模倣から始まる新たなチャレンジ
 2-3. 上流階級におけるエトラスカン・スタイル・ジュエリーの流行

3. 類を見ない粒金細工
 3-1. カステラーニが最も驚いた粒金被覆の細工
 3-2. カステラーニも実現不可能だった古代技術
 3-3. ファソリによる神々しい粒金被覆ワーク

4. 新たなクリエーションに相応しいデザイン
 4-1. 神々しい太陽を思わせるデザイン
 4-2. 躍動感を感じるプロミネンスのような外周の透かし&粒金デザイン
 4-3. 神秘的で優しい光を放つ最外周の天然真珠

 

1. 考古学風ジュエリー

1-1. 上流階級らしいジュエリー

エトラスカン・スタイルのラムズヘッドのラピスラズリのブローチラムズヘッド ブローチ
イタリア or イギリス 1870年頃
SOLD

19世紀後半のヨーロッパでは、上流階級の間で考古学風のジュエリーが流行しました。

左のラムズヘッド・ブローチもその1つです。

【参考】ヴィクトリアン中期の中級品

19世紀後半は『アール・クレール』などでもご説明している通り、産業革命によって台頭してきた中産階級がこぞってジュエリーを買うようになった時代でもありました。

そのような人たちは王侯貴族に憧れ、ファッションリーダーとして上流階級を参考にはするものの、真に美的感覚が備わっているわけでも教養があるわけでもありません。

だからこそ、真の上流階級とはやはり持つものも違います。

エリザベス女王の戴冠式(1953年) "Coronation of Queen Elizabeth II Couronnement de la Reine Elizabeth II " ©BiblioArchives / LibraryArchives from Canada(2 June 1953)/Adapted/CC BY 2.0

『アンズリー家の伯爵紋章』でもご説明している通り、古のイギリス貴族は教養が高いだけでなく、圧倒的な財力を持つ存在でもあります。

『ロイヤル・コロネット』でご説明した通り、大陸貴族と異なり、イギリス貴族はさながら小国一国の王というような存在です。

大英帝国の君主は、それら小国や植民地の国すべてを統べる王という別格の存在です。

アイルランド貴族のセント・ジョージ男爵が娘ルイーザのクリスマスプレゼントのためにオーダーしたジョージアンのピンクトパーズ&コロンビア産エメラルドのアンティーク・ブレスレット『セント・ジョージ男爵から娘ルイーザへのクリスマスプレゼント』
イギリス 1829年
ピンクトパーズ(オープンセッティング)、エメラルド(コロンビア産)、天然真珠、18ctゴールド(イエロー、グリーン、ピンクのスリーカラー・ゴールド)
SOLD

革命前のフランスに至っては王室の財政難で爵位を金で販売し、貴族が増えまくり、貧乏人に毛が生えた程度と言われるような貴族も存在しました。

制度的にゆるい大陸貴族とは異なり、イギリス貴族とは、各地の君主ただ一人がなることができる非常に限られた地位です。

時代が下ると力を徐々に力を落としていきますが、古い時代は特に相当な財力があります。

だからこそ、王侯貴族のためのジュエリーに使用される宝石は超高級、作りも超高級なものなのです。

 

19世紀初期の天然シトリンのカンティーユ・ネックレス ジョージアンの非加熱の大型の天然シトリンのイヤクリップシトリン ネックレス&イヤクリップ
イギリスorフランス 19世紀初期 
シトリン、18ctゴールド
SOLD

以前、宝石主体のジュエリーと細工物のジュエリーの違いについて簡単にご説明しました。宝石の価値だけに頼り、ろくな細工やデザインが施されていないジュエリーは、成金ジュエリーとして特にGenが嫌うものです。一見すると、このシトリンのネックレスとイヤクリップも宝石主体のジュエリーに見えるかもしれません。

天然シトリン 非加熱 黄水晶 ジョージアン フランス ネックレス アンティーク・ジュエリー

でも、ルネサンスやヘリテイジのカタログをいつもご覧いただいている方であれば、フレームに施された美しい金細工を見れば宝石主体のジュエリーではないことはすぐにお分かりいただけると思います。気の遠くなるような細工です。当時の第一級の技術を持つ職人が、相当な時間をかけなければこれだけの素晴らしい作りにはなりません。それには技術料や人件費にどれだけお金がかかったことか・・。

天然の大きな非加熱シトリン

『社交界の花』でも触れた通り、天然シトリンは非常に稀少な宝石です。

だからこのようなジョージアンの第一級のジュエリーの宝石として使われているわけですが、この細工は下手するとこの宝石以上にお金をかけて作られた可能性だって十分にあるのです。

2カラーゴールド&天然真珠のフランス製のロケット・ペンダント アンティークジュエリー『豊穣のストライプ』
2カラーゴールド ロケットペンダント
フランス 1880年頃
SOLD

莫大なお金をかけて、ジュエリーをオーダーで制作させていた王侯貴族であれば、このように高度な細工にかなりのお金がかかることは当然のように知っています。

しかしながら庶民はそうではありません。

天然シトリン 非加熱 黄水晶 ジョージアン フランス イヤリング アンティーク・ジュエリー ネックレスシトリン ネックレス&イヤクリップ
イギリス or フランス 19世紀初期 
シトリン、18ctゴールド
SOLD

だからこのような素晴らしいジュエリーを見たとき、庶民たちはジュエリーの価値をパッと見て分かりやすい宝石のみに見いだしてしまうのです。

【参考】ミッド・ヴィクトリアンの中級品

だから台頭してきた中産階級、いわゆる"にわか成金"のジュエリーはいかにも宝石のみが目立つものが多いのです。但しイギリス貴族のような莫大なお金はさすがに持っていないので、稀少価値の高い本当に高価な宝石は買えません。だから小さな石ころを寄せ集め、大きく高そうに見せるデザインになっています。

【参考】ヴィクトリアン中期の中級品

『宝石』と『作り』と『デザイン』、トータルとしての価値が分かる当時の王侯貴族から見れば、このような成金ジュエリーはいかにも庶民用の安物に見えたことでしょう。

英語圏では成金を『nouveau riche(ヌーヴォー・リーシュ)』と言います。

フランス語ですね。

フランスの娼婦の誘惑から逃げるイギリス貴族の若者
【引用】『グランド・ツアー』(本城靖久著 1983年)中央新書688, p95

フランス語はヨーロッパ上流階級の共通語でした。

だからこそ『ディアナ』の通史などでもご説明している通り、イギリス貴族の師弟のグランドツアーの行き先の1つがフランスだったのです。

Nouveau riche.

英訳すると『new rich』、つまり成金ということですが、『nouveau riche』は急にお金持ちになっただけでなく、さらに社会的には受け入れられていない、或いはマナーがないという意味も付随します。

『急に金持ちになった行儀の悪い人』と言う意味があり、日本語の『成金』以上に対象を蔑む強烈な意味があります。

【参考】ヴィクトリアン中期の中級品

フランス語を操る当時のイギリスの上流階級も、台頭してきた中産階級が誇らしげにこのような成金ジュエリーを自慢する姿を見て、「Nouveau riche.」なんてこっそり笑っていたのかもしれませんね。

Nouveau richeは、現代でも英語圏の人ならばよく知っている言葉です。

ファニー・ケンブル(1809-1893年)

イギリス紳士を表す言葉として有名な『noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)』と言う言葉もフランス語でした。

これと同じような感じですね。

この言葉を初めて使ったのはイギリス人女性ファニー・ケンブルです。

詳しくは『Winter Flower』をご参照ください。

イタリア考古学風ジュエリー 古代エジプトのアメン神の化身「雄羊」を表現したエトラスカンスタイルのラムズヘッドのアンティークのゴールド・プチ・ペンダント『RAMS HEAD』
イタリア考古学風ジュエリー 
ラムズヘッド プチ・ペンダント
イタリア or イギリス 1870年頃
SOLD

以上の通り、にわか成金である中産階級はいかにも高そうに見える成金ジュエリーを好みます。

しかしながら、左の『RAMS HEAD』からも分かる通り、考古学風ジュエリーは一見してはそのような人たちにとって高そうに見えません。

考古学は教養の1つであり、上流階級のものでした。

『心の扉の鍵』でもご説明している通り、19世紀中期くらいまでのイギリスでは庶民の女性の識字率も低い状況でした。

これらを踏まえると、成金ジュエリーと違って考古学風ジュエリーは絶対に上流階級のものだったと言えるのです。

エトラスカン・スタイルのコーネリアンのスカラベを使ったスカーフリングスカラベ スカーフリング
イタリア or イギリス 1870年頃
SOLD

時代が下ると、もしかすると知的階層の上流階級に憧れた庶民による"なんちゃってインテリ"を標榜するための安物の考古学風ジュエリーが作られた可能性も十分に考えられます。

でも、考古学風ジュエリーの初期から中期にかけての作りの良いものは確実に上流階級のものです。

いかにも目立つ派手な宝石に頼らない、お金をかけた作りや、考古学の知識がないと意味を理解できない面白いデザインやモチーフの考古学風ジュエリーは、いかにも当時の上流階級のジュエリーと言えるのです。

1-2. 古代ローマ遺跡の発掘と考古学フィーバー

太陽のようなエトラスカン・スタイルのエナメル・ブローチ アンティーク・ジュエリー

では、この素晴らしい考古学風ジュエリーが作られるようになったきっかけは何なのか。

それは詳しくは『ディアナ』の通史でご紹介した通りです。

東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(483-565年)

古代世界で繁栄を極めたローマ帝国でしたが、領内でキリスト教が広まるに連れて学芸が衰退し、最終的には滅亡し、ヨーロッパは文化や芸術的に暗黒の時代を迎えました。

素晴らしい古代世界の芸術文化が、長きに渡って忘れ去られた存在となってしまったのです。

ナポリ・シチリア王カルロス3世ナポリ・シチリア王カルロス3世(1716-1788年)

時代は下り・・。

1738年、イタリアのエルコラーノで、ナポリ・シチリア王カルロス3世の夏の宮殿を建てる工事が行われていました。

その基礎工事中に、古代ローマのヘルクラネウムの遺跡が発見されたのです。

黒い雲:79年のヴェスヴィオ火山噴火によって降下した灰と噴石の大まかな分布 "Mt Vesuvius 79 AD eruption" ©MapMaster(October 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ヘルクラネウムは79年のヴェスヴィオ火山噴火で埋没した、古代ローマの都市の1つです。

発掘されたポンペイの街 "Ruins of Pompeii with the Vesuvius" ©ElfQrin(28 November 2015, 10:14:05)/Adapted/CC BY-SA 4.0

10年後の1748年にはポンペイ遺跡が発見され、次々と古代ローマの当時をそのまま残した遺物が、人々の前に姿を現しました。

宴の様子を描いたフレスコ画

18世紀のヨーロッパの人々は、古代ローマの豊かな生活や文化、高度な土木建築技術などに驚きました。

ポンペイのメインストリート "Via Dell'Abbondanza 1" ©Mentnafunangann(18 March 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

これを期に、各地で古代遺跡の発掘が各地で積極的に行われるようになりました。考古学フィーバーが起こり、発掘と研究活動が熱心に進められたのです。

1-3. 古代エトルリアの墳墓の埋葬品

Regolini-Galassiの墓の広間(紀元前7世紀)のスケッチ

詳しくは『エトルリアの知性』でご紹介していますが、1836年にイタリアで考古学者が古代エトルリアの、Regolini-Galassiの墓を発見しました。

この発掘は特に重要なエトルリア文化の発見となり、墳墓からは良好な保存状態の美しい宝飾品がたくさん見つかりました。

フォルトュナト・ピオ・カステラーニ(1794-1865年)

古代エトルリアと言えば、エトラスカン・スタイルのジュエリーで有名なカステラーニですね。

カステラーニは父親の工房で金細工師として仕事を始めましたが、ほどなく1814年にイタリアのローマに最初の店をオープンしました。

当初のデザインは当時の上流階級の好みを反映した、フランスやイギリスのジュエリーに基づくものでした。

しかしながら1820年代後半から古典、特に当時イタリアで発掘されていた古代エトルリアの作品にインスピレーションを受けたデザインを取り入れるようになっていきました。

この知見に加えて有力者カエタニとのコネクションがあったため、ローマ教皇からの依頼を受けて1836年に発掘隊顧問として調査に参加することになったのです。

ミケランジェロ・カエタニ サルモネタ公爵(1804-1882年)

1826年に出会ったカエタニは、カステラーニの生涯の友人でありスポンサーでもありました。

当時はダンテの学者で歴史家だったのですが、木工細工や宝飾細工に精通したアーティストでもありました。

古代ローマの高等な社会をこよなく愛し、後に著名な考古学者で、サルモネタ公爵となる人物です。

カステラーニはこの発掘で発見された古代エトルリアの作品を目の当たりにし、強い衝撃を受けました。

特に金細工の宝飾品はカステラーニのその後の人生を変えるほどインパクトがありました。

1-4. 人類史上の金細工の頂点 "エトルリアのジュエリー"

『シレヌスの顔のついたネックレス』(エトルリア 紀元前6-紀元前5世紀)国立博物館(ナポリ)
【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.54

カステラーニの心境はよく分かります。実は私がアンティークジュエリーの世界に飛び込むきっかけと言えるの作品も、やはり古代エトルリアの金細工ジュエリーだったからです。初めてルネサンスのアトリエに言った時、Genから書籍に掲載されたこの古代エトルリアのネックレスの写真を見せられて、人生観を変えられるほどの衝撃を受けました。

【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.27

背景の布と同じ太さの金線を編んだチェーン、それ以上に衝撃なのがこれだけ拡大してもまだ粉のように微細な粒金細工。古代にこれだけの物が人間の手で作られていただなんて、衝撃でした。その頃はただのサラリーマンで、転職や起業でアンティークジュエリーの世界に飛び込む発想は微塵もなく、餅は餅屋に任せておけば良いという意識でしたので、「優れたアンティークジュエリーはルネサンスで手に入る!美術館を見て憧れていた個人蔵も、ミュージアムピースが手に入るGenのお店なら実現可能!すごく良いお店を見つけ、たラッキー♪」くらいに思っていました(笑)

白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)とカンティーユのピアス(アンティークジュエリー)ピエトラドュラ ピアス
イタリア 1830年〜1840年
SOLD
白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)のアンティーク・バングルピエトラドュラ バングル
イタリア 1860年頃
SOLD

Genから「実物はイタリアの美術館にあるから、ぜひ行って見てみるべき。」と言われ、すぐに行きたかったのですが、まずは感動したこの2つの宝物を手に入れました。Gen曰く、「初心者は分かりやすい宝石が付いているものを普通は選ぶし、その若さで、これだけ価値が分かりにくいものに最初からこの金額を出せる人はいない。これまでの41年間でそういう人は一人もいなかったし、これからも絶対にいないだろう。」とのことでした。

その頃の私はアンティークジュエリーはおろか、現代のジュエリーや宝石に関してもろくに知識がありませんでした。完全に感覚だけで選んだ感じですが、どちらもピエトラドュラでイタリアのジュエリーです。何かご縁があるのでしょうか、イタリア。私は絶対に行かなくてはならない国です。

『シレヌスの顔のついたネックレス』(古代エトルリア 紀元前6〜5世紀)ナポリの国立博物館 【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.54

この素晴らしい出逢いがなければ、私もここまでアンティークジュエリーの深淵なる世界に魅了されることはなく、機会が訪れたタイミングで必ずしもサラリーマンを辞めてこの世界に飛び込むことは無かったかもしれません。

何世代もの遙かなる時代を超えて人を魅了する、人類の叡智が詰め込まれた偉大なる芸術。

それは人の人生を変えてしまう、強大なるパワーがあります。

金細工の耳飾り(古代エトルリア 紀元前530〜480年)大英博物館

人類史上、金細工技術が最も高かったとされているのは、紀元前1千年紀の古代エトルリアと古代ギリシャです。

古代エトルリアの方が圧倒的に有名で、古代ギリシャの金細工はあまり有名ではありません。

ゴールドの冠の一部(古代ギリシャ 紀元前320-紀元前300年頃)"Fragment of a gold wreath" ©Claire H.(25 April 2010, 14:14:51)/Adapted/CC BY-SA 2.0

古代ギリシャの芸術については、『英雄ヘラクレス』でその一部をご紹介しました。彫刻や陶器などがメジャーですが、古代ギリシャでも優れたゴールド・ジュエリーが制作されていました。副葬品だったので金が薄く繊細な作りですが、この冠の造形もさすが古代ギリシャと感じる、デザイン性が高い見事なものです。ドングリの笠もリアルですし、葉っぱのギザギザも細かく表現されていますね〜。

ゴールドの髪飾り(古代ギリシャ 紀元前3世紀頃)
"0320 - Archaeological Museum, Athens - Gold hairnet - Photo by Giovanni Dall'Orto, Nov 11 2009 " ©Giovanni Dall'Orto.

こちらも古代ギリシャらしい芸術性の高さに加えて、圧倒されるような見事な作りです。

それでも、古代エトルリアの方がさらにその技術レベルが高かったのです。

イタリア半島におけるエトルリアの領域(濃い草色:紀元前750年、薄い草色:紀元前750-紀元前500年にかけての拡張、二重丸:12の都市国家)
 "Etruscan civilization map" ©NormanEinstein(26 July 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

この高度な技術の存在に加えて、古代エトルリア人は謎の民族でもあります。

古代エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群です。

最盛期は紀元前750-500年で、裕福で高度な文字文化を持つ文明を築いていましたが、文献としては残っていません。

エトルリアを吸収したローマの体制側が、意図的に隠滅したというのが通説です。

テラコッタの女性像(古代エトルリア 紀元前4世紀後期-紀元前3世紀初期) メトロポリタン美術館
"Femme étrusque (Terracotta) " ©AlkakiSoaps(5 August 2011)/Adapted/CC BY 2.0

エトルリア人は温厚で宴会と音楽を好み、贅沢を愛し、裕福で文化的にも豊かな生活を送っていたと言われています。

『英雄ヘラクレス』でご紹介した通り、古代の戦いは、女性では身体能力的に到底無理な戦い方でした。

民族の存亡に関わる、命を懸けた大事な役割は男性が担っていたため、古代ギリシャや古代ローマは男尊女卑が激しかったのです。

しかしながら平和を愛する心穏やかなエトルリア人は、他の民族と違って女性の地位が高く、男女平等の社会だった考えられています。

夫婦のサルコファガス(古代エトルリア 紀元前520年頃)ルーブル美術館
"Louvre, sarcofago degli sposi 00" ©sailko(5 December 2013)/Adapted/CC BY-SA 3.0

エトルリアの民がどこからイタリア半島にやってきたのかは分かっていません。また、古代ローマに吸収されて同化していったため、いつの間にか消えていきました。さながら謎の超古代文明といった所なのです。超高度な金細工技術に加えて、この謎の民族という側面もあって、古代エトルリアの金細工ミステリーはカステラーニのみならず当時の知的好奇心の高い多くの人々を心をとらえたのです。

2. エトラスカン・スタイルのジュエリー

2-1. イタリア人のプライドとイタリア統一運動

古代ローマの120年頃の領土 "Roman Empire 120" ©Andrei nacu(5 May 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

カステラーニが当初フランスやイギリスに基づくデザインでジュエリー制作をしていたのは、当時のヨーロッパ情勢が原因です。かつては古代ローマの中心として、さらにはルネサンス発祥の地として文化的にも繁栄したイタリアでしたが、この頃はすっかり力を落としていました。

天然真珠&コーネリアンのシックなドロップ型イヤリング アンティーク『CHIC』
コーネリアン ドロップ型イヤリング
イギリス 19世紀後期
SOLD

『CHIC』 で、イタリアのトスカーナ州に起源を持つ古い血統貴族だったナポレオンの、イタリア人としての側面を詳しくご紹介しました。

ナポレオン・ボナパルトナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)

ナポレオンはイタリアの血に誇りを持っており、常々ローマ帝国を指して「私は帝国を設立した種族だ。」と自慢し、「私はコルシカ人というよりはイタリア人もしくはトスカーナ人である。」と言っていたそうです。

偉大なる古代ローマ帝国はイタリア人の誇りなのです。

コルシカ島は1768年にフランスに売却される以前はイタリア(ジェノヴァ共和国)であり、本来ナポレオンはイタリア人だったはずでした。

また、コルシカという出自に強いプライドを持つ母に育てられたため、自身がフランス人という意識はずっと低かったのです。

ナポレオンはフランス革命でのし上がった人物ですが、フランス人という意識が低く、内戦で容赦なくフランス人に砲弾を向けることができたため、より活躍できたとも言われています。

子供時代は名目上は同じフランス貴族同士なのに、コルシカ出身を理由にフランス貴族にいじめられたりもしていますしね。

ナポレオン・ボナパルト(1769-1821年)

こんなナポレオンなので、かつての超大帝国ローマ帝国を復活させたいという野望を持っていました。

だからフランス国王ではなくフランス皇帝なのです。

ただしフランス皇帝は最終目標の足がかりに過ぎません。

エジプトやイタリア、ロシアなど各地に遠征して領土拡大をはかったのはローマ帝国を復活させたいという、生粋のフランス人だったら考えないような、イタリア人らしい思惑もあったからなのです。

日本人には想像しにくいかもしれませんが、イタリア人にとって、古代の栄光は心の拠り所として非常に大きな存在です。

Fortunato Pio Castellani(1794-1865年)

そういうわけで、当初はフランスやイギリス的なジュエリーを制作していたカステラーニも、古代のイタリアの叡智にインスピレーションを受けた作品を制作するようになったのです。

金細工師として、特に優れた古代エトルリアのゴールドジュエリーを見て、これほどまでに優れた金細工を作ることができたイタリア人の血統に誇りと自信を持ち、復活させたいと強く思ったのは至極当然の流れなのです。

1843年のイタリア "Italia 1843" ©Gigillo83(1 February 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ちょうどこの頃、イタリアではイタリア統一運動が起こっていました。

中世以降イタリアは小国に分裂し、それぞれの国家はオーストリアやスペイン、フランスの後ろ楯で権力争いが行われていました。

19世紀初頭にナポレオンの勢力に入り改革が行われたものの、ナポレオンが没落した後はオーストリア帝国の影響下で旧体制が復活しました。

PD政治結社『青年イタリア』

しかしながら人民の中から、イタリアの国家を統一せんとする声が高まり、青年イタリアなどの政治結社も結成されました。

イタリアでは1815-1871年、およそ半世紀にもわたる統一運動『イタリア統一運動』が展開されることになったのです。

第一次イタリア独立戦争の主要因『ミラノの五日間』(1848年)

1848年にフランス王国で発生した2月革命がヨーロッパ中に飛び火し、1848年から1849年にかけて『諸国民の春』と呼ばれる革命の嵐が各地で吹き荒れたことは『Winter Flower』でご説明しました。

イタリアでも第一次イタリア独立戦争の主要因となる『ミラノの五日間』が発生しています。

ミラノで起こった、オーストリア支配に対する反乱です。

カステラーニ エトラスカンスタイル アンティークジュエリー 珊瑚 ブローチ

『イタリア考古学風ジュエリー』
Castellani カステラーニ
イタリア 1860年頃
SOLD

19世紀のイタリアはこのような状態にありました。

だからこそカステラーニのみならず当時のイタリア人の金細工師たちは、かつての偉大な民族の血を継ぐ者として祖国統一を願い、古代の優れた技術の復活に並々ならぬ情熱を燃やしたのです。

2-2. 模倣から始まる新たなチャレンジ

PDゴールドの円盤(古代エトルリア 紀元前6世紀後期)メトロポリタン美術館

そうは言っても、古代エトルリアの金細工技術は完全に途絶えています。文献も残っていません。あるのは古代の最高の職人たちが作った発掘品のみです。

発掘品から"習う"しかありません。

『ポートランドの壺』(古代ローマ 5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n5" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 ポートランドの壺の再現(ウェッジウッド 1790年)V&A美術館 "Portland Vase V&A" ©V&A Museum(11 August 2008)/Adapted/GNU FDL

どういうことかと言うと、まずは真似してみることです。再現を試みる試行錯誤の課程で、同等の技術を確立していくことができるはずです。"過去に生み出された偉大な作品の模倣"というトライアルは、当時のヨーロッパではごく当たり前に行われていたことでした。ジャスパーウェアで有名なジョサイア・ウェッジウッドも『春の花々』でご説明した通り、熱心な模倣と研究開発によって新たな作品を次々と生み出しました。

『ヘリオス神』ストーンカメオ(ジュゼッペ・ジロメッティ作 1836年頃)7.4cm×5.1cm×2.6cm、 バチカン美術館 【出典】Musei Vaticani HP ©MVSEIVATICANI 『ヘリオス(セラピス・ゼウス)神』(紀元前4世紀後期にブリアキスが制作したオリジナルを古代ローマで複製)バチカン美術館所蔵(Inv.No.245) (сс) 2005. Photo: Sergey Sosnovskiy (CC BY-SA 4.0).© 1986 Text: Chubova A.P., Konkova G.I., Davydova L.I. Antichnie mastera. Skulptory i zhivopiscy. — L.: Iskusstvo, 1986. S. 33./Adapted

最初は模倣から始まりますが、精密な複製を作ることが最終目標ではありません。複製によって古代の偉大なる芸術家たちに学び、同等となり、さらにはより優れた新たなクリエーションにまで結びつけることが目標です。『ユリウス・カエサル』を制作したジュゼッペ・ジロメッティも、バチカンのローマ教皇の支援を受けてカメオを制作し納めています。左の『ヘリオス神』が作られたのが1836年頃ですが、カステラーニがローマ教皇の依頼を受けてエトルリアの墳墓の調査隊に参加したのも1836年でしたね。

1843年のイタリア "Italia 1843" ©Gigillo83(1 February 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

イタリアでは、この時代もローマ教皇の影響力はかなり強いです。

"ローマ教皇"と聞くと、現代ではただの宗教の一宗派のトップとしか感じないかもしれません。

しかしながら昔は教皇国家とも呼ばれる通り、教皇領は国家としての体を持っており、そのトップであるローマ教皇は一国の王と言っても過言ではない権力を持っていたのです。

このような存在は、強力なパトロンにもなり得ます。

ジョージ4世 イギリスイギリス国王ジョージ4世(1762-1830年) イギリス ジョージ4世 戴冠式ジョージ4世の戴冠式(1821年)

多大なる権力や財力を持つ者が芸術家や学者などのパトロンとなるのは、歴史的にはよくあることです。国王クラスがそれらを強力にバックアップする時代には、芸術文化が花開いたりするくらいインパクトがあります。イギリスでは『パイナップル』でもご紹介した放蕩王、ジョージ4世が有名ですね。

摂政皇太子として有名なイギリス王ジョージ4世の若い頃イギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃 カンバーランド公ヘンリー・フレデリック(1745-1790年)20歳頃

『ダイヤモンドの原石』でご紹介した通り、叔父のカンバーランド公爵ヘンリー・フレデリックと遊びまくって鄙びた寒村に過ぎなかったブライトンを、国内屈指のリゾートに成長させたりもしています。

リージェンシーの葡萄とワイン樽がモチーフのゴールド・スライダー・ペンダント『バッカスのワイン樽』
リージェンシー ゴールドスライダー・ペンダント
イギリス 摂政王太子時代(1811〜1820年)
SOLD

もちろんジュエリー文化にも多大なる影響を与えています。

『バッカスのワイン樽』でご紹介した通り、ジョージ4世が国王になる前、摂政王太子としてイギリスを治めていた時代にはリージェンシー・ジュエリーと呼ばれる、特にデザインと質に秀でたジュエリーが制作されています。

ジョージアンのハンドバック型の美しいゴールド・ペンダント ジョージアンのエナメルのアイ・ポートレート・ジュエリー(アイ・ジュエリー) ルビーが印象的なパドルロック・ペンダント アンティークジュエリー『愛の錠前』
パドルロック ペンダント
イギリス 1850年頃
SOLD
ジョージアン アイ・ポートレート ペンダント
イギリス 1790〜1800年頃
SOLD

ラヴァーズ・アイ(アイ・ジュエリー)やパドルロック(愛の錠前)など、情熱的かつ抜群のセンスを感じるジュエリーも、ファッションリーダーであり優れた宝飾家にはいくらでもお金を出してくれるジョージ4世が考案し、流行させたと言われています。

ディレッタンティ協会(1777-1779年頃)

イギリスが面白いのは、王族のみならず貴族も強力なパトロンとして機能していたことです。

1734年にグランドツアー経験者のグループによって結成された『ディレッタンティ協会』が特徴的です。

古代ギリシャやローマ、エトルリア美術の研究を行う学者、それらの様式にインスピレーションを受けた"新たな芸術作品"を生み出すための芸術家、そしてそれらのスポンサーとなったイギリス貴族・ジェントルマンたちの協会です。

ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー蔵

ディレッタンティ協会メンバーの1人、ウィリアム・ハミルトン卿はナポリ王国の英国大使を務めていた1764年から1800年まで古代の美術品を買い集めまくりました。イタリアで発掘が活発化し始め、ナポレオンが強奪しにくる前と言うかなり良い時期ですね。

それらを莫大な富を持つイギリスの王侯貴族や博物館が買ってくれるので、ハミルトン卿は無尽蔵にお金を使ってお買い物できる最強状態です(笑)

イギリスは17世紀からグランドツアーで貴族の子弟たちが古美術を買い集めまくって来た歴史もあり、規模が違うわけです。

第2代ポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンク(1715-1785年) 古代ローマングラスの最高傑作『ポートランドの壺』(古代ローマ  5-25年頃)大英博物館 "Portland Vase BM Gem4036 n4" © Marie-Lan Nguyen / Wikimedia Commons(2007)/Adapted/CC BY 2.5 ジョサイア・ウェッジウッド(1730-1795年)

古代ローマの傑作『ポートランドの壷』をハミルトン卿から紹介されたのが、当時イギリスで最もリッチと言われ美術品コレクターでもあったポートランド公爵夫人マーガレット・ベンチンクでした。手に入れた『ポートランドの壷』を気前よく貸してくれたお陰で、ウェッジウッドのジャスパーウェアによるポートランドの壷の複製が生まれています。

ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年)

優れた芸術作品を生み出すには、芸術を理解し、気前よくお金を出してくれる優れたパトロンが必須なのです。

その点ではイギリスはかなり特殊な印象です。

余談ですが、学芸のパトロンであるディレッタンティ協会創設者、ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッドは『4 faces』でご紹介した通り、イタリアで教皇領を出入り禁止になりましたね(笑)

ローマ教皇レオ10世(1475-1521年)37歳頃

さて、イタリアに話を戻しましょう。

イタリアではローマ教皇が学芸のパトロンとして機能していました。

『ディアナ』の通史でご紹介している通り、特にルネサンス教皇は有名です。

歴代ローマ教皇は名門貴族出身の人物が多く、芸術文化を含めて様々な分野の教養を持つ人たちでした。

"宗教のトップ"と聞くと"平民あがりの偉い坊さん"みたいなイメージを持つ方もいらっしゃるかもしれませんが、実際の所は貴族が国王に就任したとイメージするのが妥当です。

『マルティン・ルター』でご紹介した通り、左のレオ10世もフィレンツェの富豪メディチ家の次男でした。

ローマ教皇アレクサンデル6世(在位:1492-1503年) ローマ教皇ユリウス2世(在位:1503-1513年) ローマ教皇クレメンス7世(在位:1523-1534年)

特に中世からルネサンス期にかけては、ローマ教皇がパトロンとなって宗教美術や宗教建築が大いに発展しました。レオ10世ほか、上の3人の教皇もルネサンス教皇として有名です。

ローマ教皇グレゴリオ16世(在位1831-1846年)

そしてカステラーニやジロメッティが活躍した時代も、やはりローマ教皇が芸術活動に大きな影響を及ぼしています。

グレゴリオ16世は若くして秀才の誉れ高く、その学才によって修道会内外に名を知られる存在でした。

1831年に教皇就任後、1836年にはバチカン美術館の一部であるグレゴリオ・エトルリア美術館を建設し、19世紀初頭に古代エトルリアの都市から発見された発掘品を収蔵しました。

ヴルチのネクロポリスの副葬品(古代エトルリア 紀元前4世紀中期)バチカン美術館
"0 Couronne et bbijoux etrusque de Vulci - Museo Gregoriano Etrusco" ©Jean-Pol GRANDMONT(29 Sptember 2011, 10:08)/Adapted/CC BY-SA 3.0

国家のトップと言える教皇のバックアップがあったからこそ、イタリアで古代エトルリアの研究が進み、カステラーニのみならず当時の様々な宝飾家たちが維持とプライドを賭けたエトラスカン・スタイルのジュエリーに取り組むこととなったのです。

2-3. 上流階級におけるエトラスカン・スタイル・ジュエリーの流行

ファベルジェの時代のロシアは、有名なファベルジェ以外からも優れた作品が次々に生み出されました。

環境など様々な条件が揃っている時代は、ただ1人が"個"として傑出した存在になるのではなく、"全体"としてアヴェレージがアップするものなのです。

ロシアン・アヴァンギャルドなルビー&サファイアのリング アンティーク『ロシアン・アヴァンギャルド』
ロシア 1910年頃
SOLD
ロシアン・アヴァンギャルドなダイヤモンド&ブラック・エナメルのリングロシアン・アヴァンギャルド リング
ロシア 1910年頃
SOLD

同時代の優れたアーティスト同士、互いにインスピレーションを感じ合い、切磋琢磨しながら全体としてより高いレベルに到達できるということなのでしょう。

エトルスカンスタイルのヴィクトリアンの天然真珠&ゴールド・バーブローチ『真珠の花』
エトルスカン・スタイル ブローチ
イギリス 1870〜1880年頃
SOLD
エトラスカんスタイル ゴールドジュエリー アンティークジュエリー 金細工 スカラベ 縒り線 竜金 ブローチ『黄金のスカラベ』
エトラスカンスタイル ブローチ
イギリス 1870年頃
SOLD
エトラスカんスタイル ゴールドジュエリー アンティークジュエリー 金細工 ブドウ 縒り線 竜金 ネックレスエトラスカンスタイル ネックレス
イギリス 1870年頃
SOLD

エトラスカン・スタイルのジュエリーも同様でした。有名なカステラーニ以外からも次々と優れたエトラスカン・スタイルのジュエリーが生み出され、考古学に興味を持つ知的好奇心の高いヨーロッパの上流階級の間で流行することとなったのです。

3. 類を見ない粒金細工

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

今回の宝物は他には類を見ない、細かく美しい粒金を使った細工が見所です。

エトラスカン・スタイルのジュエリーを語る上で、粒金を使った細工は特に重要なポイントです。

3-1. カステラーニが最も驚いた粒金被覆の細工

ゴールドの円盤(古代エトルリア)バチカン美術館
"Placche etrusche d'oro con filigrana da collezione falcioni, proven. laziale ma sconosciuta 02 " ©Sailko(26 November 2013, 13:01:04)/Adapted/CC BY 3.0

古代エトルリアの遺跡から見つかったゴールド・ジュエリーにはカンティーユ撚り線粒金など様々な金細工を見ることができます。

どれも圧巻の作りですが、自身も金細工師だったカステラーニが最も驚いたのが粒金を使った細工でした。

17世紀のスチュアート朝のロッククリスタル・ペンダント『古のペンダント』
ステュアート朝 ロッククリスタル ペンダント
イギリス 17世紀(1600年代)
ロッククリスタル(水晶)、ハイキャラット・ゴールド(約22ct)、髪の毛、金線
2,1cm×1,8cm(本体のみ)
SOLD

普通の粒金細工は当時も通常の技法でしたし、カンティーユも金が高かった19世紀初期には積極的に使われています。

撚り線の技法もずっと存続しており、500年前のステュアート朝時代には驚異的な細さの撚り線細工も作られています。

左の作品の髪の毛より細い撚り線細工も、1億円以上もするようなジュエリーを制作していた現代のトップクラスの職人も、口をあんぐりして驚いていたそうです。

実際に手を動かした経験のある職人の方が、実感としてその凄さは分かりやすいものなのでしょう。

ゴールドの円盤(古代エトルリア)バチカン美術館
"Placche etrusche d'oro con filigrana da collezione falcioni, proven. laziale ma sconosciuta 02 " ©Sailko(26 November 2013, 13:01:04)/Adapted/CC BY 3.0

金細工師カステラーニが驚いたのは、粉のような粒金を敷き詰めた粒金細工です。大きな粒金を並べて模様を作ったり、デザインの一部とする粒金細工は19世紀にも存在しましたが、粒金で表面を被覆してマットな質感を出すような粒金細工はありませんでした。この細工にカステラーニは仰天したのです。

『シレヌスの顔のついたネックレス』(古代エトルリア 紀元前6〜5世紀)ナポリの国立博物館
【引用】ジュウリーアート(グイド=グレゴリエッティ著、菱田 安彦 監修、庫田 永子 訳 1975年発行)講談社 ©GUIDO GREGORIETTI, Y.HISHIDA, N.KURATA p.27

私も古代エトルリアの金細工を見たときの一番の驚きが細かな粒金でした。シレノスの頭部やドングリの笠に施されていますが、「???!粉??金が粉!!!」と狼狽えてしまいました。しかも正確にあるべき箇所に金の粉が付いているという・・。

サイベリアン・アメジストのように鮮やかで美しいアメジストのブローチアメジスト ブローチ
フランス 1830年頃
SOLD

粒金細工(グラニュレーション)は粒金を使った細工全てに使われる言葉です。

左のように、装飾の1つとして使用される大きな粒金も粒金細工と言います。

粒金細工が見事なヨーロッパ貴族ゴールド・ブレスレットフランス? 1820年頃
ゴールド ブレスレット
SOLD

左も粒金細工が見事な19世紀初期のブレスレットです。

アンティークの最高級ジュエリーのカラー・ゴールドと彫金と粒金による美しい金細工

小さな粒金を配列して模様を描くなど、デザインを作るためのものも粒金細工と呼ばれます。


"Placche etrusche d'oro con filigrana da collezione falcioni, proven. laziale ma sconosciuta 02 " ©Sailko(26 November 2013, 13:01:04)/Adapted/CC BY 3.0

しかしながら表面に粉のような細かな粒金を敷き詰めることで、表面に独特のマットな質感を出す粒金細工と、デザインとしての粒金細工では明らかに思想が異なります。技術的難易度も全く別物です。英語でも全てグラニュレーションと言ってしまうようですが、ヘリテイジではきちんと分けて、表面を被覆して質感をコントロールする粒金細工を『粒金被覆』という言葉で新たに定義します。

3-2. カステラーニも実現不可能だった古代技術

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

『粒金被覆』の目的は、ゴールドの質感をコントロールことです。

これだけ拡大すると金の粒が1つ1つはっきり見えてしまうので、ただ金粒が並んでいるだけにしか見えません。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

でも、実物は小さなブローチです。

粒金被覆が施された箇所の金の粒を肉眼で認識することは難しく、感じられるのはただただ神々しい、素晴らしく見事な黄金の輝きだけです。

フランスのベルエポックのマットゴールドのピアス アンティークジュエリー
ハイクラスのゴールド・ピアス 【参考】安物のゴールド・ピアス

教養や美的センスのない人ほど、素材の価値だけで判断します。それは現代もアンティークの時代も同じです。

上は2つともベルエポックの時代のフランスで作られた18ctゴールドのピアスです。素材しか見ない人にとっては同じスペックなので、選ぶときは単純に安い方を選ぶかもしれません。しかしながら私が見れば、左は圧倒的に作りに技術と手間がかけられた高級品、右はちゃちな安物です。

左の高級品は、ゴールドの質感に非常にこだわった作りになっています。全体はマットゴールド、天然真珠の周囲の星形デザインの部分だけは艶のある光沢仕上げになっています。シンプルな素材の使い方ながらも、マットゴールドの独特の輝きがあるからこそ高級感が出るのです。マットな質感を出すのは高い技術と手間がかかります。右の安物は明らかに手を抜いた適当な仕上げなので、安っぽい輝きしかありません。ただ高級素材ゴールドを使えば高級感が出るというわけではないのです。

黄金の花畑を舞う宝石の蝶々 ←↑等倍

だからこそ、高い教養と美的センスを持つ王侯貴族たちを満足させるためのマットゴールドの技術が古い時代には非常に重要視されており、様々な方法がありました。

その1つが鏨(タガネ)で無数に跡をを付ける、魚子打ちのような手法です。

『黄金の花畑を舞う蝶』
色とりどりの宝石と黄金のブローチ
イギリス 1840年頃
SOLD
アーリー・ヴィクトリアン・ジュエリーの魚子打ちによる見事なゴールドのマット仕上げ

タガネの先端の形状や大きさを変えることで、マット感など黄金の輝きをコントロールすることができます。ただしこれは非常に高い技術と手間がかかる技法です。

【参考】現代人による心を込めた魚子打ち

手先が器用と言われる日本人といえども、趣味的に作った現代の作品では、心を込めて作ってもせいぜいこのくらいにしか仕上げられません。

ちょっとでも乱れがあると、全体の質感にムラのようになって現れてしまうのです。

左もよくやったものだと思いますが、販売しても手間と価格が合わないでしょう。生計を立てるために、職業としてこれをやるのは現代では不可能です。

勿忘草を加えた黄金の鳩のブローチ ←↑等倍

完全に終わってしまっている現代の手仕事の技術は論外としても、アンティークジュエリーの時代でもこの『マットゴールド』という技術はかなり難しいものでした。

才能のある職人が職業として毎日、長時間この作業をし続けることで、感覚が鈍ることなく研ぎ澄まされていきます。

才能と努力の2つが揃った昔のトップクラスの職人ともなれば、柔らかな鳩の羽毛の質感さえも表現することが可能です。

『勿忘草をくわえる鳩』
鳩 ゴールド ブローチ
イギリス 1830〜1840年頃
SOLD
鳥の羽毛のような柔らかな質感のゴールドの彫金 グリーンゴールドの鳩の尾羽
人間がやったとは思えないほど乱れがありません。まさに「神の技?」です。ヘリテイジは選ぶ基準が世界一厳しく、当時のトップクラスの職人による作りのものしかご紹介していません。このため、これがアンティークジュエリーの普通レベルと思われる方もいらっしゃると思います。
忘れな草をくわえる鳩 ゴールドブローチ アンティークジュエリー『勿忘草をくわえる鳩』
鳩 ゴールド ブローチ
イギリス 1830〜1840年頃
SOLD

しかしながら、同じように高級品としてお金をかけて相応に職人によって作られたものであっても、トップクラスの職人とそこまでの才能はない職人とではゴールドの質感をコントロールする能力には恐ろしいまでの開きがあります。

【参考】出来の悪い高級品 【参考】出来の悪い高級品(V&A美術館蔵)
© Victoria and Albert Museum, London/Adapted

これらを見れば、ゴールドの質感をコントロールする技術がいかに難しいものなのかが分かりますね。ちなみに右のブローチは一応ヴィクトリア&アルバート美術館蔵です。あまりにも酷いので驚かれたでしょうか。美術館は基本的には優れたものを所蔵しますが、ジュエリーに関しては必ずしも『特に優れたもの』を所蔵しているわけではありません。

美術館が作品を購入することもありますが、それは"集客によって稼げそうな作品"だけです。運営上、集客力がなかったり、主客で稼げる額が購入金額に見合わない作品は購入できません。ジュエリーの場合は寄贈が多いです。しかし考えてみてください。ジュエリーの場合、まだ使えるものは自分が不要となっても子供たちや知り合いにあげて、使って喜んでもらおうと思いますよね。美術館に寄付しても展示してもらえるとは限りません。むしろ展示してもらえるのはかなり稀です。使うために作られたのに、永遠に死蔵として誰からも使われず忘れ去れるのは悲しいことです。

そういうわけで、ジュエリーに関しては「もう使わない。」、「要らない。」と判断された"ジュエリーとして見た場合には不要品"が集まる傾向にあるのです。もちろん全てがそういうわけではありませんが、美術館は人々が見て文化や学術的に意味のある"資料的な価値があるもの"を展示する場所であって、高級だからという理由では展示しません。ヘリテイジで"使って楽しむこともできるミュージアムピース"が手に入る理由でもあります♪

彫金が素晴らしいゴールドのマルチロケット・ペンダント アンティーク『OPEN THE DOORS』
マルチロケット ペンダント
イギリス  1862年頃
SOLD
マルチ ロケット ペンダント
アンティーク
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

マットゴールドに話を戻しましょう。

魚子仕上げ以外に、左の『OPEN THE DOORS』のドアノブの付いた扉部分の地金にあるように、細い線を無数にひく方法もあります。

間隔の開いた太い線ならばただの縞模様に見えますが、肉眼では見えないほどの浅く狭い間隔の細線ならば、見た人が感じるのは"模様"ではなく"質感"です。

浅く均一に、この細かな面積に線をひくことがいかに難しいことか・・。

でも、昔のトップクラスの職人たちはこうやってゴールドの輝き方を制御する技術を持っていたのです。

ローズカットダイヤモンド付 ゴールド ロケットペンダント アンティークジュエリー『格調のゴールド』
ローズカット・ダイヤモンド ゴールド・ロケット・ペンダント
イギリス 1880年頃
SOLD
時雨ヤスリのようなアンティークジュエリーのゴールドの表面

他には『格調のゴールド』のように、表面を擦って時雨ヤスリのように浅い細線を付けて高級感ある輝きを出すテクニックもあります。

ゴールドの円盤(古代エトルリア)バチカン美術館 "Placche etrusche d'oro con filigrana da collezione falcioni, proven. laziale ma sconosciuta 02 " ©Sailko(26 November 2013, 13:01:04)/Adapted/CC BY 3.0

当時でもこれだけ様々なマットゴールドの技法を操っていたにもかかわらず、古代エトルリアの、粒金を精緻に敷き詰めて美しいマット感と輝きを表現するという手法は当時の金細工師たちにとって見たことのないものでした。

なぜこの技法だけは伝わってこなかったのか。

それは恐ろしく高度な技術と手間のかかる、超難度の技法だったからに他なりません。

ゴールドの円盤(カステラーニ 1858年)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

金細工師としてのプライド、そしてイタリア人の誇りにかけてカステラーニは粒金被覆の技術の再現に取り組みました。そして出来たのがこの作品です。大きさは5cmあります(今回ご紹介の宝物は2.7cm)。細かな仕事ぶりはなかなかのものですね。

そうは言っても完璧ではありません。

粒金の接着が弱く、脱落してしまったとみられる箇所が結構あります。

また、粒金被覆の配列の仕方自体があまり密になっておらず、歯抜けのようなガタガタな印象だったりもします。

ゴールドの円盤(カステラーニ 1858年)ボストン美術館
【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted
【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

実際にはこんなものなので、肉眼で見れば十分に素晴らしく、素人目には気にならないと思います。

しかしながらカステラーニ本人は納得いかなかったようです。

「私たちは古代に編み出された素晴らしい技術を失ってしまった。」と語っていたそうです。

↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
PDゴールドとガラス・ペーストの円盤(古代エトルリア 紀元前530-紀元前480年)大英博物館

実は粒金を接着させる手法はいくつかあり、それぞれ外観や結合力が異なります。カステラーニは当時通常に行われていたロウ付けでエトルリア技術の再現に挑んだのですが、古代エトルリアの職人たちは全く別の技法で粒金を付けていたのです。

アルカイック時代の黄金の王者の指輪『王者の指輪』
古代ギリシャ 紀元前6世紀(アルカイック時代)
22〜24K
SOLD

これを聞いて、古代ギリシャのアルカイックのリング『王者の指輪』を思い出された方は素晴らしいです。

この宝物は本当に凄いものだったので、Genが制作したルネサンスのカタログもめちゃくちゃ気合いが入っており、由来だけでなく作りに関しても熱心に書かれています。

この宝物はデザインに加えて、ヨーロッパの有名な古代美術商フリーダ・チャコス氏のプライベート・コレクションから出てきたという面白さもあります。

でも、それだけで面白がっていては、十分に古代美術の魅力を理解しているとは言えません。

アルカイック時代の黄金の王者の指輪

このリングにはビーデッド・ワイヤーと呼ばれるアルカイック特有の装飾が上下に施されています。

アルカイック時代の黄金の王者の指輪

リングのベゼルやアーム、ビーデッド・ワイヤーはそれぞれが別に作られて接着されているのですが、これもやはり通常のロウ付けではない方法で行われていました。

例の1億円以上のジュエリーを作っていた日本のトップクラスの職人さん曰く、金と金を直接付けているらしいやり方です。

フュージングと呼ばれる同素材の金属を直接くっ付ける手法です。

この手法はフラックスや半田が残らないという利点がありますが、温度の精密なコントロールも必要とする超難度の技術です。

金の融点を超えた状態が続くと、くっつくどころか、全てがドロドロに溶けて一緒になってしまいますからね。

ゴールドの円盤(カステラーニ 1858年)ボストン美術館
【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

カステラーニもやれることは十分やって、人類の最高到達点だった古代エトルリア技術の再興は無理と悟ったということなのでしょう。

無理と悟ることができるだけでも十分に凄いことだと思います。才能ある優れた人物だったことは間違いないでしょう。

PDゴールドとガラス・ペーストの円盤(古代エトルリア 紀元前530-紀元前480年)大英博物館

ちなみに超絶技法の古代エトルリアのゴールド・ジュエリーですが、実際にジュエリーとして使用するにはペラペラな上に、繊細過ぎて心許ない印象です。

実はこれらは副葬品として作られたものです。

死者を共に納めるものであり、実際にジュエリーとして使うものではないため、使用に耐える強度は必要としません。

だからこそ、これだけ繊細な細工で作ったということもあります。

ゴールド・ペンダント(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

かつてイタリアの地に存在した古代エトルリアの偉大なる金細工技術の完全再現という、19世紀のイタリアの金細工師たちの夢は叶いませんでしたが、それは最終到達点ではありません。

古代の優れた芸術からインスピレーションを受け、(19世紀の)現代においてより優れた新たな芸術を生み出すのが目標です。

古代エトルリアの技術まで行かずとも、研究開発によって格段に高まった金細工技術によって優れたエトラスカン・スタイルのゴールド・ジュエリーが生み出されたのは大きな成果です。

1851年にフォルテュナト・ピオ・カステラーニ自身は引退するものの、息子のアレッサンドロとアウグスト・カステラーニが1858年に店を再開しました。

パリのシャンゼリゼに店をオープンして古代のジュエリーに関する講演を開き、パリの上流社会とも交流し、ナポレオン三世の支援を得て宝飾品コレクションも発表しました。

1861年にはフィレンツェ、1862年にはロンドンでの国際展示会にも出展し、考古学の新たな発見や人気の高まりと共に、メーカー『カステラーニ』はとても有名になりました。

フォルテュナト・ピオ・カステラーニは1865年に亡くなりましたが、大きな名声を手に入れた『カステラーニ』ブランドは息子たちに引き継がれ、1870年代に全盛期を迎えました。

アウグスト・カステラーニ(1829-1914年)
古代コインのゴールド・ピアス(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

有名なのは『カステラーニ』という家族経営のメーカーです。

アンティークジュエリーのファンであっても、実際のところはブランドでしか判断できない人たちが大多数です。

芸術作品としての真の価値ではなくブランドでしか判断しない、このような人たちにとっては初代と息子たちの代の作品の違いはどうでも良かったりします。

プロとしてやっているディーラーであっても、ほぼ100%はそうです。

ゴールドと琥珀のネックレス(カステラーニ 1880年頃)ボストン美術館
【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

少し考えれば分かることですが、ディーラーは普通、ただモノを買って販売するだけの存在であり、その道の学術的な専門家ではありませんから。かと言って基本的には学術的研究対象にはならない分野なので、きちんとした専門家も存在し得ません。ヘリテイジはオタクがやっている、かなり特殊な専門店なのです(笑)

『カステラーニ』も名声を手に入れてからは、儲けに走ってしまったのか大したことのない作品も多々作られたようです。ブランド信仰とブランドの名にアグラをかいたボロ儲けは今に始まったことではないということなのでしょう。ブランドをゼロの状態から作り上げた初代ならば絶対にそんなことはやらないでしょうけれどね・・。『天空のオルゴールメリー』でご紹介したティファニーも同じことです。

ローマン・モザイク・ペンダント(カステラーニ 1865-1870年)大英博物館 【引用】Brirish Museum © British Museum/Adapted

結局は"カステラーニの作品"というブランド名さえあれば、喜んで大金を出す人たちが世の中は大半なのです。これはまだ初代が亡くなって間もない頃なのでなかなかの面白さがある作品ですが、手抜きの量産によるボロ儲けは次第に自身の首を絞めることになり、最終的には滅びにつながります。当たり前のことなのに、ジュエリー業界に限らずこの歴史は繰り返されます。

古代コインのネックレス(カステラーニ 1880-1890年)ボストン美術館
【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

これは最早『細工物』ではなく『宝石主体のジュエリー』ですね。細工ではなく、単に古代コインに頼っただけの作品です。『春の花々』でご紹介した通り、通貨として日常で利用されていた古代のコインは稀少価値も芸術性もありません。現代でもジャラジャラと発掘されているような代物です。発掘が始まったばかりで古代コインが珍しい時代、古代コインをジュエリーに適用すること自体が画期的なことだった時代に優れた作りで制作されたならば価値もありますが、これは『宝石の価値』すらない駄作です。

ゴールド・ペンダント&ブローチ(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted ゴールド・ペンダント(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted ゴールド・ピアス(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館
【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted
これらは衝撃的なことに、全てミュージアムピースです。ボストン美術館なので、言い方は良くありませんが、当時の成金アメリカ人が買い、子孫が不要品として寄付したというものが多いのかもしれません。全盛期にこんな商売をやっていたら後は下り坂にしかならないことは目に見えています。上流階級に受け入れられて名声を上げたメーカー『カステラーニ』ですが、こんなものは目利きができる上流階級が買うわけありません。有名ブランドのものを手に入れたいと思う、教養も美的感覚もないヌーヴォー・リーシュたちが喜んで買う"分かりやすい"成金ジュエリーの数々。やがてはそれらも飽きられ、誰も見向きもしなくなり、ブランド『カステラーニ』は1930年にアウグストの息子アルフレドが亡くなると幕を閉じるのです。
ジャチント・メリロのエトラスカン・スタイルのゴールド・ブレスレット

実はカステラーニを超えたと言われる金細工師は何人かいたと言われています。

その一人はおそらくジャチント・メリロ(1845-1915年)でしょう。

日本では知られていない存在ですが、17歳の時にフォルテュナト・ピオ・カステラーニ(1794-1865年)に弟子入りした人物でいた。

【参考】ゴールド・ブレスレット(ジャチント・メリロ 1880年頃)
Carlo Giuliano ジュリアーノのエンジェルのジュエリー『愛の松明を持つエンジェル』
カルロ・ジュリアーノ Carlo Giuliano (1831-1895)
制作年代 1880年頃
SOLD

カステラーニの弟子と言えば『愛の松明を持つエンジェル』も制作したカルロ・ジュリアーノ(1831-1895年)が有名ですが、知られざる弟子ジャチント・メリロは金細工に関してかなり才能がある人物だったようです。

初代から直接教えを受けたメリロは、見習い期間を半分しか修了していない時点でカステラーニのナポリの店の責任者となるほど頭角を現しました。

1865年に初代が亡くなった後、25歳となる1870年にはナポリの店を引き継いで制作活動を続けました。

ゴールド・ブレスレット(ジャチント・メリロ 1870年代)サザビーズ 【引用】Sotheby's ©Sotheby's

この時代にはよくある事ですが、独立後もメリロは『カステラーニ』に作品を納めたりしていました。デザインを共同で使うこともあり、このタイプのブレスレットもアレッサンドロ・カステラーニのサインがあるものとジャチント・メリロのサインがあるものの両方が存在します。『カステラーニ』の方が有名ですが、メリロが贋作を作ったわけではありません。

ジャチント・メリロのエトラスカン・スタイルのゴールド・ブローチ【参考】ゴールド・ブローチ(ジャチント・メリロ 1870-1900年頃)

メリロは粒金被覆を始めとする古代の技術の巨匠として知られるようになり、1878年のパリ万博に出展されたアレッサンドロ・カステラーニの展示品の多くを実はメリロが制作したと言われています。

メリロは真面目な制作活動を続け、『MODERN STYLE』でもご紹介した世界のビッグ・スリーが集ったアールヌーヴォーの祭典、1900年のパリ万博にも出展しています。

ここでブランド『ティファニー』がモンタナ・サファイアの『アイリス』やステンドグラス『四季』でグランプリを受賞していますが、メリロもグランプリを受賞しています。

さらにメリロはフランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章も受章しています。

ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

そういうわけで、現代の日本では知られていませんが当時は人気作家の一人であり、現代でもヨーロッパでは知る人は知っている存在です。

ジャチント・メリロのエトラスカン・スタイルのエンジェルのゴールド・ピアス【参考】ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870年頃)£34,000-(2019.8現在) ジャチント・メリロのエトラスカン・スタイルのエンジェルのゴールド・ピアス【参考】ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃)

メリロもオリジナルのホールマークはあるものの、打たない場合もありますし、このような小さな作品には刻印されないことも多いです。そういう場合は作風などから総合的に判断します。左の作品もホールマークはありませんが、ボストン美術館にメリロの類似作があり、メリロと推定できるということで£34,000-の値段が付いています。ヨーロッパでは無名作家ではないのでブランド価格がついていると言うことです。高い!しかもデザインを使い回したようで、類似品はいくつも存在します。そんなものに約500万円ほども出したくないですね〜。

しかもデザイン使い回しは、作家としては気合いが入らないらしく、一見同じように見えても出来が違ったりします。右も本物ですが、鳥の尾の造形にエレガントさがなく尻切れトンボ調で全くイケていません。さらに拡大したエンジェル頭部の粒金被覆にご注目ください。

ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃)ボストン美術館
【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted
【参考】ゴールド・ピアス(ジャチント・メリロ 1870-1880年頃)

同じデザインで作っていても、粒金被覆の出来がまるで違うことにお気づきいただけるでしょうか。右は鳥の尾羽も駄目ですが、エンジェル頭部の粒金被覆も粒が大きく、接合もピアスとして実際に使用するには不十分だったせいか、粒金がいくつも脱落しています。コンテスト・ジュエリーのように、作者が魂を込めて一世一代の作品として作るものもあります。そういう、本当に魂の籠もった心揺さぶる作品は唯一無二の存在です。同じ作者であっても同じものは二度と作ることはできません。

食べていくために、人気が高いデザインを使い回して類似品を作ることはあるでしょうが、同じ出来にはならないのです・・。ちなみに右側のエンジェルは、粒金サイズが絶妙なためか大仏様にも見えますね。黄金の大仏様、ありがたや(笑)

ゴールド・ブレスレットの拡大(ジャチント・メリロ 1870年代)サザビーズ 【引用】Sotheby's ©Sotheby's

いずれにしても、イタリア人の初代カステラーニが"エトラスカン・スタイルのゴールド・ジュエリー"という新たなジャンルを確立した後、それを超える者たちがさらに新たな作品を生み出していったのは興味深いことです。この頃のイタリアは、互いに刺激し合える高い才能のある芸術家たちが揃った、とても良い時代だったのでしょう。

PDゴシック様式 ゴールド ペンダント&ブローチ
カルロ・ジュリアーノ(Carlo Giuliano)作
イギリス 1880年頃
メトロポリタン美術館

カルロ・ジュリアーノはエナメルで有名ですが、左のようにゴールドだけの作品も存在します。

デザインも優れていますし、細工もさすがに素晴らしいですが、純粋な金細工技術としてはメリロには全く及びません。

17歳のメリロが初代カステラーニに弟子入りした際、ジュリアーノは31歳くらいでした。

30代と言えばちょうど職人として脂がのっている頃だと思うのですが、14歳も下の早熟の天才が入ってきたら大変ですね。

ロバート・フィリップル作のエリザベス1世の肖像画を元にしたネオ・ルネサンスのエナメル・クロス・ペンダント『女王の十字架』
ロバート・フィリップス作 ネオ・ルネサンス クロス・ペンダント
イギリス 1870年頃
SOLD
ロバート・フィリップスのゴールド&エナメルのPAXペンダント『PAX』
ロバート・フィリップス作 エトラスカン・スタイル ロケット・ペンダント
イギリス 1873年
SOLD

1865年に初代カステラーニが亡くなった後、1867年にカルロ・ジュリアーノは独立してロンドンに渡りました。そこでイギリスのジュエラーとして唯一1867年のパリ万博で金賞を受賞した、ロバート・フィリップスのためにジュエリーを制作したりしました。

ファイヤーオパール カルロ・ジュリアーノ ネオルネサンス様式 エメラルド ヴィクトリアン エナメル アンティークジュエリーネオルネサンス様式 ファイヤーオパール ペンダント
カルロ・ジュリアーノ(Carlo Giuliano)作
イギリス 1880年頃
SOLD
カルロ・ジュリアーノの美しいエナメルのクロスペンダントエナメル クロス・ペンダント
カルロ・ジュリアーノ(Carlo Giuliano)作
イギリス 1880年頃
SOLD

1874年にはジュリアーノ独自の店をオープンし、ルネサンスのエナメル・ジュエリーにインスピレーションを得た独創的な作品を制作しました。その独特の色彩感覚がラファエル前派のサークルや、審美眼主義の上流階級たちに絶賛されました。独特のエナメルは"ジュリアーノ・スタイルのエナメル"として当時の作家たちにも取り入れられ、1つのジャンルとして確立しました。

得意・不得意を見極め、己の得意分野を正しく理解し、そこに注力して花開かせる。金細工技術はメリロに遠く及ばずとも、やはりジュリアーノもただ者ではなく別分野での天才だったということですね。それにしても当時のイタリアに、初代カステラーニを起点として才能ある人物たちが集中して存在していたことに驚きます。

3-3. ファソリによる神々しい粒金被覆ワーク

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

同時代のイタリアには、カステラーニ一族やメリロ以外にも優れたエトラスカン・スタイル・ジュエリー作家がいました。

その一人がこの宝物を作ったファソリです。

イタリアのFASORIのホールマーク FASORI

裏側にFASOLIのメーカー名があります。

ファソリは1853年に創業のイタリアのジュエリー・メーカーです。

現在もブランドは存続していますが、他の老舗ブランド同様、優れた手仕事のモノづくりは見る影もない店となっています。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

しかしながら、当時は上流階級向けの素晴らしい高級ジュエリーを制作していました。

フェデリコ・ファソリという優れた職人なども当時いたようです。

【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

買い付けの際、私は見た瞬間に絶対にこれを買うことを決断したのですが、Genは最初はいまいちピンと来なかったようです。

なぜならば、あまりにも細工が細かすぎて超絶技巧の細工物だとは視認できなかったからです。

それほど、これまでに見たことがないほど細工が細かかったのです。


↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

Genも日常生活では眼鏡は不要で、新聞も裸眼で読めるくらい目が良いのですが、70代になってからは仕事中は老眼鏡があった方が良い程度に老眼が入っているそうです。

私はまだ老眼が出ていないのですぐに驚異的な細工に気づけたのですが、それでも、よくよく目をこらしても、いまいちどういう状態になっているのかはっきり分からないレベルです。

この宝物を早く光学顕微鏡で見たり、高画質撮影して拡大して見たくてたまりませんでした。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ヘリテイジの撮影担当はGenですが、撮影部屋から「うわー!!凄いっ!何これ、どういう細工?!!」という叫びが聞こえてきました(笑)

「あの歴史上最も小さな粒金と言われているエトルリアの粒金細工の発掘品かと思いたくなるような、超極小の粒金細工!!44年間この仕事をしていて初めて見る細工。こんなに長く仕事をしていても、まだ初めて見るような驚きの細工が出てくる。衝撃的な、もの凄い細工の物に出会う度に昔の職人の技に感動する。本当に、つくづくアンティーク・ジュエリーの奥の深さを思い知らされるし面白い。」と語っていました。

この道44年、細工好きのGenも衝撃を受けた、二度と出会うことのないミュージアムピースと言える希有な作品です♪

ゴールド・ピアス(カステラーニ 1870-1880年頃)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston / ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

粒金被覆の難しさは、粒金を細かく作るだけではありません。それ以上に難しいのが美しく並べること、そしてジュエリーとしての使用に耐えられる強度で接合することです。これはピアスなので、着脱の際に粒金被覆の部分に力は加わらないはずですし、美術館蔵なので市場にあるジュエリーよりは使用も少ないはずです。それでも右側のピアスを見ると、粒金が結構脱落しています。

ゴールド・ブローチ(アレッサンドロ・カステラーニ 1870年頃)RISD美術【引用】RISD Museum / ©RISD MUSEUM/Adapted

平坦な部分であっても、小さくて球状の粒を精緻に並べて固定するのはかなり難しいのです。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

二次元で表現する画像では立体感が分かりにくいのですが、粒金被覆が施された花びらのようなそれぞれのパーツは、いずれも上に向かってなだらかに凸形状になっています。この複雑な形状に、見事に粒金が敷き詰められています。また、これはペンダントやピアスと違い、使用する際に力が加えられやすいブローチで、しかも150年ほども使用されているにも関わらず粒金の脱落はごく僅かです。

花びら中央のお饅頭のようなパーツは、粒金被覆の粒が際立っておらずなだらかになっています。これは一番出っ張っている部分なので、150年ほどの使用ので徐々に摩耗してこうなってしまったと推測されます。これだけの技術を持ち、徹底して作られているものが最初からこの状態だったなんてことはあり得ないからです。この部分に粒金が脱落した痕跡はありませんし、下の方の粒金は粒が際立っているので、トップだけ熱を加えすぎて粒金が溶けてしまったということもあり得ませんし、万が一溶けてしまったとしてもそのまま使って完成させるわけがありません。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー 【引用】RISD Museum / ©RISD MUSEUM/Adapted
これらは等倍ですが、アレッサンドロ・カステラーニの作品の粒金被覆の歯抜け感とは全く異なる出来映えです。
【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
【引用】RISD Museum / ©RISD MUSEUM/Adapted ←↑等倍
それ以上に注目したいのが、粒金被覆部分のゴールドの光沢の出具合です。ファソリの作品は凸形状に沿って、粒金被覆が非常によく輝いているにも関わらず、カステラーニの作品は輝きが感じられません。

大きな粒金はしっかり輝いているので、撮影のライトのせいではなさそうでうす。

ゴールドの円盤(カステラーニ 1858年)ボストン美術館 【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted
ゴールド・ブレスレットの拡大(ジャチント・メリロ 1870年代)サザビーズ 【引用】Sotheby's ©Sotheby's

初代カステラーニの技法を受け継いだ粒金被覆の巨匠、メリロの作品も同様です。大きな粒金はある程度輝いていますが、粒金被覆の部分は輝きが感じられません。カステラーニらは粒金を小さくすることには成功していますが、おそらく表面形状がファソリの粒金と比べて粗いのだと思います。SEM(走査型電子顕微鏡)で観察して比較すればすぐに証明できるのですが、今はトライできないのが残念です。仮説を立て、実験でデータを取得し証明する。元研究者の血が騒ぎます(笑)

こうして見ると、仕切り弁当にゴマ団子を詰めたみたいですね。

それはさておき、右上のお団子が分かりやすいのですが、粒金が押しつぶれた感じに見えます。

粒金被覆は地金にきちんと接合させるのが難しさの1つなので、もしかすると実際に加工の際に表面から力を加えて接着力を高めていたのかもしれません。

その代わり、滑らかな球状だった粒金が潰れたり、表面が滑らかではなくなってしまったという可能性が考えられます。

ゴールド・ブレスレットの拡大(ジャチント・メリロ 1870年代)サザビーズ 【引用】Sotheby's ©Sotheby's
エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ファソリの粒金被覆はそんなことをしなかったため、球状の滑らかな粒金が黄金の美しい輝きを失わなかったのでしょう。

大きな粒金も、粒金被覆の極小の粒金も、球体ならではの強く美しい輝きを放っています。

これこそが、魚子仕上げや彫金では表現することのできない、粒金被覆ならではの、独特の神々しい黄金の輝きなのです。

【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー本作 エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー【引用】RISD Museum / ©RISD MUSEUM/Adapted

ファソリの作品は粒金被覆が凸形状に沿って神々しく輝いています。

カステラーニの作品も凹凸部分に施された粒金被覆はありますが、黄金ならではの輝きが感じられず、ゴールド・ジュエリーとしての魅力に乏しいです。

カステラーニは研究者や技術者的な職人、ファソリはアーティストと言える職人だったということなのでしょう。

←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

4. 新たなクリエーションに相応しいデザイン

4-1. 神々しい太陽を思わせるデザイン

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

素晴らしい芸術的才能を持つファソリの宝物は、デザインも優れています。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

この宝物を見ていると、小さくても神々しい、偉大な輝きを放つ太陽というイメージがあります。

地球から見る太陽はとても小さいですが、世の中全体を照らし、そして暖めてくれる偉大なパワーがあります。そんな存在感が、この宝物からは感じられるのです。地球開闢の時代から、古代エトルリアの人たちも19世紀のファソリの時代も、そして現在の私たちにも、途切れることなく多大なる恩恵をもたらしてくれる太陽。

カステラーニ一派も確かに優れた金細工技術を確立はしているのですが、正直デザインはオーソドックス過ぎて面白みが感じられないものが多いです。Genもこれまでに殆ど扱いたいと思えるものがなかった理由の1つです。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ファソリのこの作品が神々しい太陽に見えるのは、きちんと理由があります。計算されたデザインは随所に見られます。まずは中心から外に向かってエネルギーが放出されていくような、独特の放射状の美しいデザインです。ファソリは撚り線の技術も素晴らしく、太さが異なる撚り線をデザイン状で巧みに使い分けています。

細い撚り線で作った放射状のデザインの内側に施された、透明感ある赤エナメルがとても美しいです。地金の金の色を反映して朱色のような色味が感じられ、これが太陽らしさを惹き立たせています。

ロバート・フィリップスのエトラスカンスタイルのペンダント『PAX』
ロバート・フィリップス作 エトラスカン・スタイル ロケット・ペンダント
イギリス 1873年
SOLD
【参考】エトラスカン・スタイル ゴールド・ブレスレット(ロバート・フィリップス 1870年頃)

エナメルが使用されたエトラスカン・スタイルは非常に珍しく、他にはロバート・フィリップスによるこのタイプのエナメルしか見たことがありません。

このエナメルは透明感のないエナメルです。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ファソリのこの透明感のある赤エナメルによる朱の色合いと、粒金被覆の黄金の輝きのコントラストが実に美しいです。

肉眼では粒金には見えないので、実物からはただただ荘厳な輝きが感じられるのみです。

中心から外に向かうデザインも躍動感を演出する効果がありますが、立体的な作りがそれをさらに惹き立てます。

粒金被覆が施された中央の花びらのようなパーツは、立体的に積み重ねて蝋付けされています。

また、4箇所の放射状の粒金被覆も、中央が一番高くなるように曲率を付けてセットされており、両端はエナメル細工を囲む撚り線の下に来るように取り付けられています。

このような、細かい部分1つ1つが見る時の印象に大きく影響してきます。

すべてデザインを細かく計算して作っているからこそ、手間をかけてもこのような複雑な作りになっているのです。

驚くほど才能のあるアーティスティックな職人です。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
裏

中央部分の下の大きな花びらには、重なって見えない部分にもしっかり粒金被覆が施されています。

その上に、別に作った粒金被覆の小さな花に足を付け、裏まで通してかしめて留めるという、手間はかかるものの耐久性が確保できるやり方をしています。

4-2. プロミネンスのような外周の透かし&粒金デザイン

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

計算されたデザインの素晴らしさは、円盤の内部だけにとどまりません!

外周部分のデザインも見事です。

この宝物の外周を見ていると、反時計回りの方向に螺旋を描いているように感じられませんか?

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ゴールドの透かし細工にご注目ください。

これは細い金の板で作ってあるのですが、カマボコのような左右対称の弧ではなく、波のような形状になっているのです。

裏 エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

裏側を見ると、実際に本当に波のような形状で作られていることが分かります。

そして、正面からは2つの粒金が並んでいるように見える、透かし細工の内側部分にご注目ください。

1つは粒金がそのまま見えますが、もう1つは波の渦に重なって見えません。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

どういうことかと言うと、裏側からは見えなかった粒金は、透かし細工の渦巻きの上に蝋付けされているのです。

金の透かしで描かれた波と同じ方向に、奥から粒金が湧き上がって見えるような立体配置で2ずつ粒金をセットしているというわけです。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

外周のデザインに関しても、波型という2次元方向のデザインに加えて、粒金を3次元方向に立体配置することで、躍動感あるスパイラル・エネルギーのようなものを表現しているのです。

奥の粒金は円盤のフレームに密着させる必要がありますが、手前の粒金は金の透かしの渦巻き部分に固定できるので、円盤フレームからは意図的に少し離してセットされています。

このことからも、スパイラル・デザインが狙ってやったものであると分かります。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

球状である粒金は接地面積が小さいので、このようなデザインの場合は150年もの間にいくつか脱落しておかしくないのですが、1つも取れた痕跡がないのも驚異的なことです。

奥の粒金は一部変色していますが、頑強に蝋付けするために蝋材を多めに使った結果なのでしょう。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

奥の粒金が暗い色となっているため、肉眼で見たときに余計に奥行きを感じられる結果となっています。

この作品が出来てすぐは変色しておらず、今ほど奥行きは感じられなかったはずです。

まさかこの変色すらもファソリの計算ずくだったのか・・。

ファソリが天才的なアーティストの才能を持つ職人だったことを考慮すると、その可能性も十分にありそうです。

PD太陽

太陽表面を走るような、ファソリのゴールドの透かし細工と2粒ずつの粒金細工。

それはまるで本物の太陽のプロミネンス(紅炎)や太陽フレア(太陽面爆発)でも表現しているかのようです。

人間の力はまるで及ばない、人智を越えた偉大なる存在である太陽。

ちなみに太陽フレアは1859年にイギリス人の天文学者、リチャード・キャリントンが初めて観測しています。1859年の太陽嵐(1859 Solar Superstorm, Carrington Event)では、キャリントンによって現在記録に残る中ではもっとも大きな太陽フレアが観測されています。

このフレアでは大規模なコロナ放出があり、世界中で磁気嵐が観測されています。ヨーロッパや北アメリカ全土の電報システムが停止しました。

電信用の鉄塔は火花を発し、電報用紙は自然発火しました。電源が遮断されているのに送信や受信が可能だった電報システムもあったそうです。

PDオーロラ(当時の写真ではありません)

一般人にとってもっと身近な所で言えば、オーロラの発生です。1859年9月1日から2日にかけて記録上最大の磁気嵐が発生し、ハワイやカリブ海沿岸までも、世界中でオーロラが観測されています。

ロッキー山脈では明るさのために鉱山夫が朝と勘違いし、起きて朝食の支度を始めてしまうほどだったそうです。アメリカ北東部では、たまたま起きた人がオーロラの明かりで新聞を読むことができるほどの明るさでした。

アメリカのある新聞が伝えた所によると、数日後に再びオーロラが観測されています。最初に見たオーロラと似ていましたが、その光はより明るく、色相はより変化に富んで豪華でした。光は明るい雲のように空全体を覆い尽くし、夜空の明るい星々は不明瞭に輝いていました。オーロラの明るさは満月よりも明るかったが何とも言えず柔らかく、全ての物を包み込む繊細さがあったそうです。夜中の12時から1時にかけて明るさは最大となり、街の静かな通りはこの奇妙な光に包まれて奇観を呈する美しさがあったと言われています。み・・、見たい!羨ましい!!

バンデッドアゲートとゴールドで格調高い太陽を表現した、大英帝国を象徴するアンティーク・ブローチ『太陽の沈まぬ帝国』
バンデッドアゲート ブローチ
イギリス 1860年頃
SOLD

1859年の人類のこの経験を考えると、このブローチも本当に太陽がモチーフだった可能性が高いと言えます。

美しいバンデッドアゲートから燃え上がるように放たれたデザインの金線細工の模様も、1859年にイギリス人によって初観測された太陽フレアを表現したのかもしれません。

この時の観測を機に、太陽についての研究も進みました。

知識階層にとってホットな話題だった太陽を純粋に表現したのか、このホットな話題と"太陽の沈まぬ帝国"大英帝国を掛けたものか、いずれにしても『太陽』がこの時代の流行・文化に大きく影響を与えたことは間違いありません。

4-3. 神秘的で優しい光を放つ最外周の天然真珠

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ファソリによって徹底してデザインされたこの宝物は、ゴールドのプロミネンスのような透かし細工のさらに外側に、たくさんの天然真珠がセットされています。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

着脱の際に力が加えられやすいブローチの一番外側、しかも接着面が稼げないこんな位置に付けて脱落していないことも驚きです。高度な蝋付け技術の証とも言えるでしょう。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

小さな天然真珠は筒状のパーツにセットし、フチを倒して花びらのように見える爪で留めてあります。

それを一つづつ透かし細工に蝋付けするという、極めて手間のかかる丁寧な作りになっています。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

鋭い煌めきを放つダイヤモンドでは表現できない、天然真珠だけが放つことのできる、内部からにじみ出てくるような柔らかく暖かな輝き。無限に広がる冷たく広大な宇宙の中で、紅蓮のエネルギー渦巻く灼熱の太陽。しかしそこから離れれば、暖かな光が優しく私たちを照らしてくれます。

遙かなる太古の時代から、太陽は分け隔てなく私たちを照らし続けてくれました。豊かな実りをももたらしてくれます。

人間には太陽に対して畏怖の念を抱くよう、本能的に刷り込まれています。世界共通です。『Celebration』で触れた通り緯度の高いヨーロッパには太陽信仰があり、今でもヨーロッパの人々は太陽が大好きです。日本も日本神話の主神は、太陽神の性格を持つ天照大神ですね。

この宝物が作られた背景についての推論

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
この宝物は金線を効果的に使ったデザインも素晴らしいです。円盤外周も太いロープのように形作った金線を、外側と内側の細い撚り線で挟むという手間のかかったデザインと作りにしてあります。何から何まで、全てに於いて徹底しています。
【引用】Museum of Fine Arts Boston / Brooch ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー本作 エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー【引用】RISD Museum / ©RISD MUSEUM/Adapted

カステラーニは粒金被覆の技術を手に入れましたが、その製品にこの技術はあまり見られません。

恐ろしく高度な技術と手間、集中力を必要とするからです。

だから、元からたくさんは作ることができないのです。


←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
最上級の顧客向けのオーダー品として、余程お金を出してくれる人に対しては作ることができるでしょう。

もしくは、コンテストに出展するための特別な作品としてしか作るかです。

だから残っているものもミュージアムピースが大半で、粒金被覆が施されているような作品は、市場には滅多に出回らないのです。

【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted 【引用】Museum of Fine Arts Boston ©Museum of Fine Arts Boston/Adapted

まあ、『カステラーニ』という名前さえあればこんなレベルのものでも顧客が喜んで買っていくような状況だったら、職人も魂を込めた制作活動の意欲は失われるでしょうね。

魂がこもった作品とこんなものが同じ扱いをされたら、とてもモチベーションは保てません。

この程度のものならば材料費も安いですし、手間もかからず制作できるので職人の工賃も浮きます。量産してブランド名でどんどん売って儲かるので、どうしても経営者は誘惑に負けます。経営者だけが悪いとは言い難く、結局は顧客がモノづくりを駄目にしていくのです。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

この宝物は小さな作品ですが、想像を絶する高度な技術と手間、そして集中力と忍耐力を以て作られています。

到底、人間技とは思えず、まさにこれぞ神の技です。

いくらトップクラスの職人といえども、これだけの作品をいくつも作るなんて不可能です。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ファソリの最高到達点の技術を詰め込み、徹底して作り込んだデザインと作りは、これが普通の商品として作られたものではないことを物語っています。

ちょうどコンテストや展示会が活発に行われ、ヨーロッパ中の上流階級たちもそれに注目し、職人たちのプライドをかけた戦いが行われるようになった時代。

職人としての魂がこもったこの宝物は、おそらくコンテスト用に製作されたファソリにとっての特別な作品だったと推測されます。

コンテスト・ジュエリーと見られる作品はいくつか扱ってきましたが、それらは単に高価な材料を使って丁寧に作られた作りが良い高級品とは違った輝きを放ちます。

心揺さぶる何かを感じる宝物・・。
大金をもらっても、オーダーを受けて作るものと、自身のプライドをかけて作りたいものを作る、魂の籠もる作品とではやはり訴えかけてくるものが違うのです。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

たくさんの他のアンティークジュエリーたちと共に、ポツンとあった、特別存在感を放つ小さな宝物。

時を超えた不思議な出逢い・・。

このような宝物に出逢えたことはとても光栄ですし、ご縁があったことに感謝し、余すことなくお伝えしなければと使命感を感じるのです。

 

裏

裏側も見ていて楽しい、美しい作りです。

エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー

ミュージアムピースの貴重で素晴らしい宝物ですが、ここまで細かい作りだと美術館向けではありません。ガラス越しだと全く良さが伝わりませんからね。

こういう宝物は眺めるだけでも楽しいですが、ぜひ使って楽しんだりもしていただきたいです。

美術館に展示した場合のように、一度にたくさんの人たちを楽しませることはできません。でも、長い年月をかけて、本当に大切にしてくれる歴代の持ち主に喜んでいただくのが、この宝物には一番良いと思います。150年ほどのこれまでも、そして私たちがいなくなった後の未来までも、ずっとずっと・・。