No.00313 影透 |
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『影透』 |
欧米の上流階級や知的階層の間で、芸術的価値の高い日本刀の鐔のコレクションが流行した時代に制作された、鐔モチーフとみられる透かしのリングです。デザイン性の高いハイクラスのリングは、天然真珠の価値が極めて高かった時代だからこそのものです。弧を駆使したデザイン、センスの良い空間の使い方、まるで宙に浮いたように見える4粒のダイヤモンド、特に細く繊細なミルはトップクラスの職人による高度な技術だからこそ成せるものです。デザインと作り共に、まさに高い美意識と教養を感じる、特別な王侯貴族のためのハイジュエリーです。 |
この宝物のポイント
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1. デザイン性の高い珍しい天然真珠リング
このリングはデザイン性の高さが特徴です。 |
1-1. ハイクラスの宝石を使った一般的なリングのデザイン
ハイクラスなものとして制作されたリングの場合、デザインはシンプルかつ定番な場合が多いです。 リングは現代でも最も人気が高いアイテムです。 市場にはある程度の数が流通しているものの、作りの良さとコンディションに加えて、デザインの良さも重視するHERITAGEではご紹介できる数が限られる原因となっています。 |
シンプルかつ定番なデザインが多い理由としては、指に着けるリングならではのデザイン上の制約があります。 |
様々なブローチ | |||||
『摩天楼』 イギリス 1930年頃 SOLD |
『循環する世界』 イギリス 1880年頃 SOLD |
『The Great Wave』 イギリス 1910年頃 SOLD |
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例えば最も自由度が高いと言えるブローチだと、ある程度、大きさも形も自由にデザインできます。 |
1-1-1. 指の大きさによる制約
『ミラー・ダイヤモンド』 ダイヤモンド リング イギリス 1840年頃 ¥3,700,000-(税込10%) |
リングの場合は指のサイズによる制約があるため、デザインできる範囲がかなり制限されます。 |
1-1-2. 宝石の大きさによる制約
『エメラルドの深淵』 珠玉のエメラルド&ダイヤモンド リング イギリス 1880年頃 SOLD |
さらに、一般的には、ハイクラスのリングにはステータスを示すための上質な宝石が使用される場合が多いです。 宝石の価値を決める重要な要素は"質"、及び"大きさ"です。 透明度や色彩の美しさなどの"質"に加えて、大きいほど稀少性が高く高価になります。 |
『ウラルの秘宝』 デマントイドガーネット リング イギリス 1880年頃 SOLD |
ベルエポック ルビーリング フランス 1910年頃 SOLD |
サファイア リング フランス 1920〜1930年頃 SOLD |
故に、ハイクラスのリングになるほど宝石は大きくなる傾向にあります。その分、デザインできる面積が狭くなり、凝ったデザインのものが作れなくなります。 |
『万華鏡』 オパール リング イギリス 1880年頃 SOLD |
どうしても、通常のハイクラスのリングは凝ったデザインにできないのです。 |
1-2. 小さくても高価な天然真珠だからこそのデザイン
天然真珠の場合、他の一般的な宝石とは異なる状況があります。 2. 大きくても美しくなければ評価は低い 1について、真珠は母貝が体内で育むという性質上、母貝以上の大きさになれないのは当然ですね。 |
『アラーの真珠』もしくは『老子の真珠』 (1934年にフィリピンのパラワン島で160ポンドのオオジャコガイから採取)23.8cm、6.37kg ©Bonhams/Adapted |
2について、大きいだけで価値を見出せる成金はもちろん存在しますが、美意識の高い古の王侯貴族にとっては大きいだけでは価値はありません。 "宝石としての真珠"は美しい色や輝り、艶があってこそです。 小さくても上質であれば評価は高いですし、上質で且つ大きければ、その稀少性によってもちろん価値は跳ね上がります。 |
欲しいだけ幾つでも人工的に量産できる養殖真珠は、本来宝石とは呼べません。 稀少価値がないからです。 |
天然真珠を採取した後の廃棄された真珠貝の貝殻(1914年頃) |
『小さなたくさんの宝物』 ジョージアン 天然真珠 三連ネックレス イギリス 1830年頃 SOLD |
故に、美意識が高く教養のある古の王侯貴族たちは、美しい天然真珠は大きさだけで価値を判断することはありませんでした。 極めて小さな天然真珠でも、上質であれば価値ある宝石としてハイジュエリーに使用されてきた歴史があります。 適材適所、それぞれの天然真珠の"質"に合うジュエリーに仕立てられてきたのです。 |
1-2-1. リング・サイズを超える大きな天然真珠
『キャニングの宝飾品』 天然真珠(バロック) ペンダント ヨーロッパ 1850-1860年 全長10,2cm V&A美術館 ©Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
『古代ローマ軍の兜』 天然真珠(バロック) ペンダント イギリス 1870年頃 真珠:20mm×15mm×13mm SOLD |
『真珠のアート』 天然真珠(バロック) ペンダント ヨーロッパ 1890-1900年頃 真珠:25mm×10mm SOLD |
球形の核に数百ミクロン程度の極めて薄い真珠層を巻いただけの養殖真珠が、『本真珠』という景品表示法違反まがいの名称の元、真珠市場を占有する現代では真珠は球体で当然というイメージががあります。しかしながら何らかのきっかけによって偶然、母貝の中で長い年月をかけて少しずつ育まれていく天然真珠は大きくなるほど歪な形になります。 工業製品みたいな扱いで笑えますが、養殖真珠の場合は少しでも歪だと"規格に合わない"として低品質とみなされます。しかしながら自身の美的感覚で判断し、ジュエリーに芸術性を求めた時代のハイジュエリーでは、特徴的な形状を持つ天然真珠は人工的には作れない、芸術家にインスピレーションを持たらす天然の恵みとしてアーティスティックなジュエリーに仕立てられてきました。 |
1-2-2. ギリギリでリング・サイズの大きな天然真珠
このクラスの宝石だと、現代ジュエリーでは石の価値に頼って簡素なデザインで終わりそうなものですが、これはかなりデザインにも気を遣ったリングと言えます。 もちろん、デザインを実現するための高度な技術もアールデコのハイエンドのジュエリーに相応しいものです。 とは言え、主役はあくまでもデザインではなく天然真珠です。 |
このサイズの天然真珠でリングを作ると、デザインできる面積はかなり限られます。デザインは惹き立て役となります。但しこのサイズの天然真珠を使ったリングは45年間で他に見たことがないので、かなり例外的なものと言えるでしょう。 |
1-2-3. 通常のハイクラスの天然真珠リング
一般的にハイクラスのリングに使用される天然真珠は、色と照り艶に優れた上質なものです。 さらに形状に関しては、正面から見たら真円、横から見ると扁平なボタンパールが選ばれます。 工業製品同然の現代ジュエリーの感覚(偏見)で見る人には、天然真珠も球形ほど良いという思い込みがあったりしますが、指に着けるリングの場合は飛び出ているとデザイン的におかしい上に、ぶつけて痛むリスクが増えるので意図的にボタンパールが選ばれていたようです。 |
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『Toi et Moi』 エドワーディアン トワエモア リング フランスもしくはイギリス 1910年頃 SOLD |
1-2-4. 天然真珠ならではのデザイン性の高いハイクラスのリング
天然真珠ならではと言えるのが、デザイン性の高いハイクラスのリングです。 1粒の小さな石だけをメインにしたデザイン性の高いハイクラスのリングは、通常他の宝石には見ないものです。 通常小さな石は、1粒でハイクラスのリングのメインストーンとして使われることはありません。上質であっても、大きな宝石と比較して稀少価値が付きにくいからです。 |
古代から続くアンティークジュエリーの長い歴史の中で、殆ど全ての時代で王侯貴族のための富と権力を象徴する至高の宝石として君臨してきた天然真珠は、他の宝石とは別格なのです。 |
英国王室の女性の天然真珠の装い | ||
イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603年) | イギリス王妃アレクサンドラと娘ヴィクトリア王女(20世紀初期) | |
特に19世紀後期からは南アフリカのダイヤモンド・ラッシュによってダイヤモンドの稀少価値が低下し、相対的に価値が上昇した天然真珠は、随一の稀少価値を誇る至高の宝石として史上最も高く評価される時代を迎えました。代々続き、数百年以上にも渡って至高の宝石『天然真珠』を収集し続けられた家系は、これだけの大きな天然真珠を使ったジュエリーを所有できますが、1代2代では到底集められるものではありません。 |
たとえ大きくなくても、一定以上の大きさと質の良さが揃っていれば、特にこの時代は超高級宝石だったのです。 但しだからと言って、この時代の美意識の高い王侯貴族は宝石頼りの簡素なデザインにすることはありませんでした。 |
デザインに気を遣った天然真珠1粒のハイクラスのリング | ||
アールヌーヴォー | エドワーディアン | アールデコ初期 |
『マーメイドの宝物』 フランス 1890〜1900年頃 SOLD |
『モダン・アート』 イギリス 1910年頃 SOLD |
『甘い誘惑』 イギリス 1920年頃 SOLD |
最高級のボンブリングとして作られた『甘い誘惑』は天然真珠が大きいですが、これは当時流行の最先端のデザートだった『ボンブグラッセ』を表現するためのもので、天然真珠のためのデザインではなくデザインのための天然真珠と言えます。 特に左の2つのリングは、他の宝石ならばハイクラスのリングのメインストーンにはされない大きさの天然真珠が使われていることがお分かりいただけると思います。この大きさでも上質な天然真珠であれば、他の種類の大きくて上質な宝石と同等の価値があった証です。メインストーンの価値は同等でも、大きさがない分、自由にデザインできる面積が広くなるため、アーティスティックなリングを作ることが可能だったというわけです。 |
リングを制作するのにかかるコストは宝石などの材料費のみではありません。 場合によっては、デザインや加工費は材料費以上にかかります。 |
複雑なデザインになるほど技術も手間もかかりますから、その分コストがかかります。余程高級品として作られたものでなければ、美しいデザインは無理なのです。 他の宝石とは別格で高価だった天然真珠だからこそ、小さな1粒でメインストーンになることができ、そこに魅力的なデザインが施された特別なハイジュエリーが存在できるのです。 |
『モンタナの大空』 エドワーディアン サファイア リング イギリス 1910年頃 SOLD |
さすがに一定以下のサイズになるとメインストーンとして使われることはありませんが、稀少な宝石だからこそ適材適所、上質な天然真珠は大小関係なく漏れなくジュエリーに使用されるのです。 |
2. 日本刀の鐔のような特徴的な透かしデザイン
このリングは、アンティークジュエリーでは見ないデザインをしています。 幾何学的と言ってしまえばそれまでです。 |
デザインさえ良ければOKというような、庶民のための現代ジュエリーであれば例え高級品であってもそれはあり得るのですが、教養を大事にしていた古の王侯貴族のハイジュエリー、しかもこれだけの上質な作りをしたリングにそれはあり得ないのです。 何らかの教養的な意味が、このデザインに隠されているはずです。 じ〜っと見て、日本人の私は「日本刀の鐔かな?」と感じました。 |
2-1. 開国により西洋美術に影響を与えた日本美術
開国後は人の往来のみならず、日本の様々な美術工芸品も欧米に輸出され、美術や文化面などでも欧米に大きな影響を与えました。 |
2-1-1. ジャポニズムの絵画
『ラ・ジャポネーズ』(モネ 1875年) | リトグラフのポスター(ロートレック 1892年) | |
19世紀後期から20世紀初期にかけては、有名なジャポニズムの絵画も多いですよね。 |
2-1-2. ジャポニズムのジュエリー
『The Great Wave』 エドワーディアン サファイア&ダイヤモンド ブローチ イギリス 1910年頃 SOLD |
誰でも目にしやすい絵画と違い、アンティークジュエリーは一般的には知られざる世界なのでご存知ない方が多いですが、アンティークジュエリーは歴史的に見ると想像以上に日本美術の影響を受けています。 |
『日本誌』エンゲルベルト・ケンペル著(1727年の英語版の表紙) | これは出島三学者の1人、ドイツのケンペル医師によって書かれ、三代の英国国王に仕え大英博物館の礎を作ったイギリスの準男爵ハンス・スローンによって出版された『日本誌』です。 長い間、ヨーロッパの上流階級や知識階層の間で日本に関する知識は教養の1つでした。 |
髪の毛を紡ぐための蒔絵の糸車(フランス 1750-1770年)ヴィクトリア&アルバート美術館 | また、日本ならではの高度な技術や、繊細な美的感性に基づく素晴らしいデザインによる美術工芸品は上流階級の羨望の的でもありました。 |
ジャポニズムの4つのスタイル
『桜満開』 アールデコ ジャポニズム ブローチ イギリス 1920年頃 SOLD |
だからこそ安物ではなく、成金用のジュエリーでもなく、教養と美的感覚を持つ上流階級のためのハイクラスのものほど日本美術の影響を受けたジュエリーが作られています。 日本美術の影響の出方は様々です。詳細は以前ご説明しましたが、主に4つに分類できます。 |
1. 日本美術をそのまま生かす | 2. 和のモチーフを使う | 3. 日本人による西洋スタイルでの制作 | 4. 西洋と日本美術が完全に融合し昇華 |
『秋の景色』 赤銅高肉彫り象嵌ブローチ 日本 19世紀後期(フレームはイギリス?) SOLD |
『道を照らす提灯』 フランス 1910年頃 ¥420,000- (税込10%) |
『清流』 ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
『STYLISH PINK』 ペンダント イギリス 1900年頃 SOLD |
1と2が一般には最も良く知られる、且つ誰にでも見て分かりやすいジャポニズムと言えるでしょう。3は例外的なものなので滅多にありません。 アンティークジュエリーの歴史やヨーロッパの美術史の観点からは、実は4は非常に重要な存在と言えます。19世紀までの古いスタイルの西洋美術が新たに日本美術の様式を取り込むことで進化し、洗練されたアールデコへとつながり、それが世界に浸透することで現代まで続くインターナショナル・スタイルになっていったからです。 |
2-1-3. 西洋美術に影響を与えた日本の美術工芸品
2-1-3-1. 浮世絵
濱屋川岸の涼み(鳥居清長 1785年頃) | 欧米にもたらされた日本の美術工芸品として最もメジャーなのは『浮世絵』と言えるでしょう。 |
ドビュッシー(左)とストラヴィンスキー(右)、部屋の後方に『神奈川沖浪裏』が飾られている(1910年) | 著名な芸術家などを始め、たくさんの上流階級や知的階層の人々がこぞって浮世絵をコレクションしたことは有名ですね。 |
『神奈川沖浪裏』(葛飾北斎 1831年頃) | 浮世絵は当時の芸術家たちに様々なインスピレーションをもたらし、新たなクリエーションの元にもなりました。 その影響力たるや計り知れません。 |
2-1-3-1-1. 高級品と廉価品が存在する浮世絵
江戸兵衛を演じる 三代目大谷鬼次東洲斎写楽画 1794年 |
富嶽三十六景 「駿州江尻」葛飾北斎 1830年 |
名所江戸百景 『こいのぼり』 歌川広重画 1857年 |
そんなヨーロッパの上流階級や知的階層を強く惹きつけた浮世絵ですが、日本人にとってそれは想像もしないことでした。 |
『名所江戸百景』「亀戸梅屋舗」(歌川広重画 1856-1859年) | 現代の立ち食い蕎麦屋のメニュー "そばは、食べても太らない。 名代 富士そば (14592938702)" ©Tamaki Sono(27 June 2014, 05:32)/Adapted/CC BY 2.0 |
江戸時代の一般的な浮世絵の価格は、そば一杯と同じと表現されます。 |
摂津名所図会『砂場いづみや』店内(竹原春朝斎 1796-1798年頃) |
これは江戸時代の有名な蕎麦屋、砂場『いづみや』の様子です。江戸時代の庶民のファーストフードの1つだった蕎麦は、現代の価値に換算するとかけそば1杯で320円くらいと考えられています。 |
錦画製造之図(1879年頃) | 浮世絵には肉筆画と木版画(印刷物)があります。 |
見返り美人図(菱川師宣 17世紀後期) | 初期の浮世絵は肉筆画のみでしたが、木版画の技術が進化し、大量生産と低価格化が実現したことで庶民に広まった背景があります。 肉筆画はそれこそ才能豊かな絵師が魂を込め、手間を惜しまず時間をかけて描くものですから、ごく少数しか存在しません。 そういうものは当然ながら庶民の手が届くような値段であるはずもなく、然るべき家にて所蔵され、庶民には知られざる存在、或いは欲しくても手に入らない憧れの存在として日本に君臨することになるのです。 |
【国宝】『彦根屏風』(作者不明 1629-1634年頃) |
中には国宝級も存在します。浮世絵の源流とも言われる、江戸初期の『彦根屏風』も国宝です。とは言っても指定されたのは1955年です。狩野派とは考えられているものの、作者ははっきりしません。でも、感性や自身の美意識で判断できていた当時の日本人たちは"作家名"や"国宝"などと言った、ブランドや権威によるお墨付きなどなくても素晴らしいものは素晴らしいと判断できるのです。 |
2-1-3-1-2. 欧米に渡った庶民用アートの廉価版浮世絵
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) | ヨーロッパで浮世絵を紹介した人物として最も有名なのは、パリで美術商を営んだユダヤ系ドイツ人サミュエル・ビングと言えるでしょう。 ハンブルク出身で、実家は祖父の代からフランスの陶器やガラス器の輸入業を営んでいました。 ビングは普仏戦争(1870-1871年)後に日本美術を扱う貿易商となり、1870年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功しています。 |
ビング発行の『芸術の日本』(Le Japon ARTISTIQUE) | |||
ビングが発行した『芸術の日本』はフランス語だけでなく英語、ドイツ語にも翻訳され、日本美術の権威としての地位を確立したビングは有名な美術館を始め、各国の上流階級や知的階層に多数の浮世絵を販売しました。 |
ベルギーの浮世絵展(サンカントネール博物館 2016年)【出典】在ベルギー日本国大使館HP/浮世絵展オープニング/Adapted |
世界屈指の浮世絵コレクションを誇る、ベルギー王立美術歴史博物館が所蔵する4000点の浮世絵もビングからの購入品です。パリの装飾美術博物館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館など、ヨーロッパ各地の名だたる美術館にビングは日本美術を納品しています。数千点単位だなんて凄い数ですね。 |
『今様見立士農工商』より「職人」(歌川国貞 1857年) |
当然ながらポッと出てきた外国の庶民が、日本で本当に価値の高い日本の美術品を入手できるわけはありません。その数からも想像がつく通り、海外流出した浮世絵の大半は量産の安物です。 |
『北楼及び演劇図巻』の一部(菱川師宣 1672年)【出典】ColBase(https://colbase.nich.go.jp/) |
制作数の少ない肉筆浮世絵は鑑賞する機会が限られており、当時の外国人にはほぼ知られない存在だった上に、高価な肉筆浮世絵は価値を理解する日本人に大切にされたこともあって、比較的日本国内にとどまっています。 |
ナポリ王国の英国大使ウィリアム・ハミルトン卿(1744-1796年)1775年、国立ポートレート・ギャラリー蔵 | 古代からアート・ディーラーやアンティーク・ディーラーという職業は存在しますが、それ以外に各国や地域に派遣された人物が、メインの仕事とは別にその地域の価値ある美術工芸品を買い集め、持ち帰って美術館や上流階級に販売するということは昔からありました。 1764年から1800年までナポリ王国の英国大使を務めていたウィリアム・ハミルトン卿は、その業績でもとても有名です。 イタリアなので、古代ギリシャやローマ、エトルリアの貴重な古美術品を数多くイギリスにもたらしました。 |
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | イギリス領事館が置かれた東禅寺(1860年代) |
鎖国政策中も、日本美術はヨーロッパの限られた上流階級の中では垂涎の的として存在しました。当然、1859年からイギリスの初代駐日総領事として来日したラザフォード・オールコックも、特権を生かして滞在中には様々な物品を蒐集しました。 |
サウス・ケンジントンのロンドン万博会場(1862年) | 開国後、日本の物品が初めて万博で紹介されたのが、1862年のロンドン万博でした。 |
文久遣欧使節団(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862.5.24号) | 日本人による出展はまだ無理な時期でした。 このため、日本の品として出展されたのはオールコックが蒐集した漆器や刀剣、版画などの美術品の他、蓑笠や提灯、草履などでした。 日本人としては、文久遣欧使節団が視察を目的に参加しています。 |
柴田剛中(着席)他使節一行(1862年) |
文久遣欧使節はそこらへんの庶民の寄せ集めではなく、当時の貴族相当の階級であったり、知的階層として極めて優秀な人たちです。当然、日本の上質な美術工芸品にも造詣が深いです。 案の定と言うか、オールコックの蒐集品は庶民でも買えるような代物ばかりでした。日本国内でも良家にしかないような素晴らしい美術品が、よく分からない外国人の手に渡るはずがありません。故に、展示品を見た文久遣欧使節団は「古めかしい雑具ばかりで、粗末なものばかりを紹介している。」と嘆いたわけです。 |
飾り棚職人の家(1880年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.118 |
しかしながらオールコックのコレクションはヨーロッパで大絶賛で、日本人の国民性を見事に表現したものだと評価され、その後のジャポニズム・ブームの契機になりました。 当時の日本人にとっては庶民が気軽に使っているような"粗末な雑具レベル"であっても、ヨーロッパの人々にとっては高尚な美術工芸品と言えるクオリティだったのです。 |
古道具屋(1890年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.122 |
100年以上前の時代でももちろん古道具屋はあり、庶民に至るまで美意識の行き届いた豊かな世界に日本人は生きていました。これは上流階級と庶民で生活や持ち物、教育のレベルに圧倒的な格差があったヨーロッパでは想像もつかないことでした。 |
『白鷺の舞』 ピケ 舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット イギリス 1870年頃 SOLD |
戦後は日本人の性質もかなり欧米化してしまいました。 「機能性を満たしてさえいればOK。」と言うのが欧米人の大多数です。 そこに美しさもなければ満足できないのは、ヨーロッパの上流階級の中でも特に美意識の高かったほんの一握りの人たちだけです。
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左:歌川広重の浮世絵、右:ゴッホの模写(1887年) |
故に、そもそも庶民が日常的に絵を買って愛でるということ自体が、ヨーロッパの人にとっては無い発想でした。だからこそ大量印刷による庶民のための廉価品と雖も、世界一品質に厳しい日本人の基準を満たす、器用な日本人による木版画浮世絵が、欧米の上流階級や知的階層の間で高尚な日本美術として大流行したのです。 |
ボン・マルシェ百貨店に押し寄せるベルエポックのパリの庶民(1887年) |
一見おマヌケな話に感じるかもしれませんが、日本人もベルエポックの消費意欲に湧く庶民向けに大量生産されたアールヌーヴォーの安物ジュエリーを"フランスの上流階級の高級ジュエリー"と思い込んでありがたがる状況がある以上、馬鹿にすることはできません(T_T) |
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【参考】庶民向けの量産の安物アールヌーヴォー・ペンダント |
2-1-3-1-3. 林忠正らの活躍により徐々に知られ始めた日本美術の真髄
明治時代に活躍した日本の美術商 林忠正(1853-1906年) | 日本国内での知名度は低いですが、1878年に渡仏し、世界を股に掛けて活躍した林忠正という日本人美術商が存在しました。 こちらはビングと違って、元々美術品商や貿易商などの家系だったわけではなく、今で言う奨学金で後の東京大学となる大学南校に進学した超絶エリートです。 |
フランスの画家・彫刻家 ポール・アルベール・バルトロメ(1848-1928年) | 林忠正のマスク(バルトロメ作 1892年) 【出典】Musee d'Orsey / Tadamasa Hayashi ©Musee d'Orsey |
頭脳明晰で知識豊富、それだけでなく人柄も良し、美術品を視る眼も良し、もちろん日本人だからこそ日本のことを深く理解しており、流暢なフランス語でコミュニケーションも問題なく楽しめるため、上流階級や知的階層などとも多く親交がありました。 林を題材にした、当時の有名芸術家による作品も残っているほどです。 |
日本美術の最初の専門家 ルイ・ゴンス(1846-1921年) | アメリカの宝石・鉱物学者 ジョージ・フレデリック・クンツ(1856-1932年) |
ただ現地の言葉でコミュニケーションできる程度の語学レベルではなく、学術的にも高度な知識と語学力を備えていたため、権威ある美術雑誌『ガゼット・デ・ボザール』の編集長だったルイ・ゴンスの『日本美術』の刊行に於いて、著述の手伝いも行っています。ちょろっと手伝ったというレベルではなく、ゴンスが著書の冒頭で林の能力を高く評価し、協力への感謝を記したほど貢献したそうです。 この他、ティファニーの有名な宝石・鉱物学者、ジョージ・フレデリック・クンツとも仕事しています。 |
林が執筆した絵入り雑誌『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号(1886年) | 林自身でも、1886年の『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号で日本人による初のヨーロッパ向けの、日本紹介記事を執筆しています。 林の知識は、親交のあった元起立工商会社の副社長、若井兼三郎からのものです。 |
林忠正のマスク(バルトロメ作 1892年) 【出典】Musee d'Orsey / Tadamasa Hayashi ©Musee d'Orsey |
起立工商会社は明治時代初頭に日本の美術品や物産品を世界に輸出した1874(明治7)年開業の国策会社で、日本の貿易会社の礎と言われています。 当然、その副社長経験者ともなればこちらも超絶エリートです。 実際、若井は日本工芸の第一人者でした。 この若井から鑑定の知識や資料を譲り受けた林は、日本国内で見ても屈指の知識を持つ美術工芸品の専門家と言えたのです。 |
林忠正(1853-1906年)1900年頃、47歳頃 | 初期は工芸品がメインで、日本では卑しいものとされていた浮世絵はあまり扱っていませんでした。 しかしながらアンティークジュエリーと同じで、本当に優れた美術工芸品は数が限られています。 次第に優れた工芸品が出なくなってきたため、1889(明治22)年頃に林も浮世絵の販売に転じました。 本人の人柄に加えて、エリート日本人ならではのツテなども使い、日本の優れた浮世絵を集めてヨーロッパで紹介しました。 |
田辺の妻オシズ役の三代目 瀬川菊十郎(東洲斎写楽 1794年)ブルックリン美術館 | 林が扱った浮世絵は優れた作品が多いことでも有名です。 取扱い品には『林忠正』の印が捺印され、現代でもその作品の価値を保証するものとされています。その贋作が存在するほど、海外では有名です。 パリに残した林のコレクションは、1902(明治25)年にサミュエル・ビングによって売り立てられました。 内、浮世絵版画は約1,800点にも及び、写楽だけでも24点あったそうです。 |
一番左:美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)1899年、61歳頃 | このような背景もあり、日本美術の権威として名を成したものの、実は初期の蒐集品がさほど美術的価値がないものと知ったビングはそれまでやってきたことに嫌気がさし、1904年に『アールヌーヴォーの店』を閉じて移転し、経営を息子に譲った後、翌年に亡くなりました。 |
美術商サミュエル・ビングの『アールヌーヴォーの店』と入口(パリ9区) | |
本当に視る目が無ければ、嫌気が差すなんてことは無かったはずです。多少なりとも美的感覚があったからこそ、自分が扱ったものと真に優れた日本美術の違いを感じ取れてしまったのでしょう。視る目があっても買付けできるルートが無ければ優れたディーラーになんてなれないのです。 私も視る目には自信がありましたが、だからと言ってアンティークジュエリー・ディーラーに転向する考えは全く浮かびませんでした。いきなりヨーロッパに行って、ルネサンス・クラスの宝物を買付けてくるなんて不可能なのは明白ですからね。ルネサンスでお買物するのがベストでしかも楽だと思っていたのですが、Genが40年以上をかけて構築した特別なルートが引き継げることになったため参入しました。アンティークジュエリーの神か何かに導かれたのでしょうかね(笑) |
2-1-3-2. 欧米に知られ始めた日本美術の真髄たる美術工芸品
パリ南国博覧会の会場(1878年) |
もともと林は学生時代に、起立工商会社の通訳としてパリ万博(1878年)に参加するために渡航しました。その際、大学を中退してパリに居ついてしまったわけですが、故に貴重な貿易の機会である万博の重要性を非常に理解していました。明治政府はさほど熱意を持っていなかったのですが、林個人で種目別の博覧会に参加するなどしていました。 |
第5回パリ万国博覧会(1900年) |
1878年のパリ万博から22年。『アールヌーヴォーの祭典』として名高い、第5回パリ万博が開催されました。日清戦争に勝利した日本にとっても、重要な博覧会と言えました。 |
有栖川宮威仁親王(1862-1913) | 伊藤博文(1841-1909) | 西園寺公望のパリ留学時代(1871-1880年) |
私のような凡人庶民でも気軽に海外に渡航できる現代と異なり、当時はごく限られた人数の特別な人たちしか渡航や居住はできませんから、既に欧米で実績を積み上げている林は日本の中枢の人々ともコネクションがあります。 パリに強い基盤を持ち、博覧会の経験も多い林は有栖川宮威仁親王や伊藤博文、西園寺公望などの有力者の推挙により、なんとこの1900年のパリ万博の事務官長に抜擢されました。 |
東京農商務省(新家孝正 設計 1891年) |
本来であれば農商務省の次官が就くべき地位に、一介の商人が就任したことに皆驚きました。農商務省は1891(明治14)年に設立された中央官庁で、明治政府の殖産興業政策の一翼を担う超エリート集団でした。昔の日本人が皆、素朴で人柄が良かったということはもちろん有り得ず、林も嫉妬の混じった悪口を浴びせられたりしたそうです。 |
林忠正(1853-1906年)1900年頃、47歳頃 | しかしながら47歳頃の林はそれまでの事務館長と違って、自ら陣頭に立って職務をこなしました。 そして、事務館長の報酬は一切受け取らなかったそうです。 その代わりに、海外の人々に「本邦の美術を敬慕するの念を起こしめたる」ことを目的とし、そのために古来からの日本美術の総体を『日本古美術展』としてパヴィリオンで紹介するという、かねてからの念願を実現させました。 |
パリ万博における日本のメイン・パヴィリオン(1900年) |
この展示のために、御物を含む国宝級の美術品がパリに運ばれました。 御物とは皇室の私有品になっている絵画や書跡、刀剣などの美術工芸品で、皇室に代々伝わる品や購入した美術品、有力武将が献上した刀などで構成されます。慣例的に文化保護法の指定対象外となっているため、国宝や重要文化財などには指定されていません。 当時、日本からヨーロッパへの輸送は船便で一月半もかかる、大きなリスクを伴うことでした。 |
パリ万博にて日本画『猛虎の図』で優等金牌を受賞した大橋翠石による『双虎図』の1点(1865年) | 『当時のトップクラスの職人(兼アーティスト)が制作した最高級品』であれば、万が一失われたとしても再度同等レベルのものを制作することは不可能ではないでしょう。 しかしながら、古の職人が魂を込めて生み出した優れた古美術品は、二度と作り出すことはできません。失われたら終わりです。 通常では到底考えられないリスクを冒したものだと驚くばかりで、林ならばそのリスクも十分に理解していたでしょう。 それでも実現させた、その情熱と手腕には尊敬の念が湧き上がります。 |
文久遣欧使節団(1862年) | 日本美術の真髄を知り得ぬ外国人が集めた、日本人にとっては「古めかしい雑具ばかりで、粗末なものばかり」が"素晴らしい日本美術"と称賛されて嘆かれた時代から数十年。 |
バートン・ホームズ(アメリカの広告 1917年) | たとえば1892年に日本を旅行したことのあるアメリカ人旅行家・写真家のバートン・ホームズが「日本人は世界で最も趣味の良い国民」と記しているように、日本に赴き、実際に優れた美術工芸品を見た中には、ある程度理解できている人もいました。 しかしながら、そのような機会に恵まれたのはごく一部の人たちだけです。 |
パリ万博の会場(1900年) ©Unknown(2009)/Adapted/CC BY-SA 2.0 | 類稀なる優秀さを持つ林という1人の日本人によって、古来より脈々と続く伝統を持つ"日本美術の真髄"をようやく全世界に向けて披露することができたのです。 |
『Lily of the valley』 スズラン ブローチ イギリス 1880年頃 SOLD |
但し、優れた展示品を見た人全てがその真の価値を理解できたわけではありません。 優れたアンティークジュエリーを見ても、現代のヨーロッパの庶民の殆どがその真の価値を理解できないのと同じです。 理解できていたら、こんなに厳選して日本に連れてくるのは無理なので、ある意味ありがたいことですが(笑) |
『薔薇』 ピエトラドュラ(フローレンス・モザイク) ブローチ イタリア 1860年頃 SOLD |
当然ながら当時の持ち主はその価値を理解していたからこそ、莫大な費用と手間をかけて制作させていたわけですし、大切にし、その後の人たちにも受け継がれてきました。 しかしながら、このような繊細な美術品の真の価値を理解できるのは、上流階級や知的階層の中でもほんの僅かな人たちだけです。 |
エミール・ゾラ(1840-1902年)の肖像(マネ作 1868年) | 実際、日本の美術工芸品がヨーロッパで持て囃されているとは言っても、それはごく一部に人たちの間だけでした。 日本の美術工芸品をヨーロッパに持っていきさえすれば儲かると安直に考えた人たちもいましたが、1880年代に林が順調に業績を伸ばす一方で、日本商社のパリ支店は次々に店を閉じています。 結局は林も1891年に門を閉め、日本美術を理解できる特別な人たちだけを相手にするスタイルに移しています。Genも同様の理由で路面店をやめ、2000年代に入ってからは今のインターネットを使ったスタイルに移しています。 |
第5回パリ万国博覧会のパノラマビュー(1900年) |
予想のつく通り、万博を訪れた大半の庶民や、美的感性が優れない上流階級たちは、真に優れた日本美術を見ても価値を理解できませんでした。故に、「アールヌーヴォーの嵐が吹き荒れるパリ万博に於いて、さしたる評価は得られなかった。」と、農商務省による『千九百年巴里万国博覧会臨時博覧会事務局報告 下』p.491に総括されています。 しかしながら優れた美的感覚を持つ、世界のごく一部の上流階級や知的階層には確かに大きな感動を与えました。 |
アールヌーヴォー | アールデコ |
『破れ団扇』 エナメル ブローチ フランス 1880-1890年頃 SOLD |
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それは上流階級の知的階層ための、ハイジュエリーのデザインの進化にも現れています。以前は単に日本的なモチーフを使う作品が多かったジャポニズム・ジュエリーですが、エドワーディアンを経て、アールデコ期には透かし細工などを駆使して独特の空間(間)を表現するという、まさに日本美術の様式と融合した新しいスタイルのデザインが確立されることになったのです。 私が20世紀初期の美しいアンティークジュエリーをお取り扱いできるのは林忠正様のお陰です、ありがとうございますっ!! |
駿河町の三井越後屋の店内を描いた『浮絵駿河町呉服屋図』(歌川豊春 1768年) |
しかしながら何故これほど林が国内でマイナーな存在となっているのかと言うと、万博後に出品人と大きく揉めたことも一因のようです。 日本には独特の商習慣があり、それまで万博終了後は出品人がそれぞれに売れ残りを投げ売りして帰国するのが慣例でした。持って帰るのが大変だから少しでも換金して帰りたいというのは尤もですが、赤字レベルで大量に放出されるとその後が酷い状況となります。 日本の美術工芸品を販売するのは日本人だけではありません。サミュエル・ビングのように、日本の美術品を輸入販売する現地人だってたくさんいました。日本人の慣例は毎回、開催国の商人に大きな存在を与えており、日本商人の商道徳の無さは各国から指弾されていました。 |
明治時代に活躍した日本の美術商 林忠正(1853-1906年) | その非難を重く受け止めていた林は「世界の商法に従うように。」と、出品人に対して絶対に投げ売りを許しませんでした。 故に彼らから「自国民の利益を護らない売国奴」、「国賊」などの悪罵を浴びせられ、それが最近まで残ったのです。 国内の有力者らの推挙によって事務館長に異例の抜擢をされ、実績を残し、現地でも評判が高い林を嫉妬した農商務省の役人や、自分さえ良ければという商売人らに良く思われなかったこともあり、知られざる偉人となったようです。 人柄が良くても優秀すぎて嫌われることもありますし、万人に好かれる偉人なんて存在不可能ですね。 |
2-1-3-4. ジュエリーに相当する日本刀の鐔
日本刀 "Antique Japanese (samurai) katana met museum" ©https://www.flickr.com/photos/raybdbomb/ raybdbomb(26 April 2008)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
日本人らの活躍によって、欧米の上流階級や知的階層の中で徐々に日本の優れた美術工芸品が知られるようになっていきました。 |
ジャポニズムの作品として有名な『Liebe』(グスタフ・クリムト画 1895年)ヴィエンナ美術館 | 庶民も含めて、万人に広く知られるのは絵画です。 故に浮世絵や掛け軸などの日本の絵画が、西洋の絵画に影響を与えていることは超有名な話です。 |
アンティークジュエリー自体が知られざる世界である上に、おそらく日本人にしか気づくことのできないことなのでまだ誰も言っていませんが、ジュエリーに影響を与えたのは2次元の絵ではなく、3次元で作られた日本刀の鐔です。 |
侍(1860年頃) | 刀は武士の魂であり、武士の優れた日本刀の鐔は本来であれば門外不出のものでした。 |
『西南戦争における西郷隆盛とその将兵たち』(1877年) フランスの週刊誌『ル・モンド・イリュストレ』の速報記事の挿絵 |
しかしながら1876(明治9)年に廃刀令が発せられ、例外を除いて刀を身に付けることが禁じられました。所持や所有まで禁止されたものではありませんでしたが、帯刀自体が"武士の身分の証明"として意味あるものでした。刀を袋に入れて持ち歩いたり、肩に担いで歩いたりして反発する者もいましたが、一部には廃刀令を含めた四民平等政策に反発して氏族反乱を起こす者もいました。その最大のものが西南戦争ですが、結果はご存知の通りです。 |
日本の武具(1892-1895年) |
帯刀できなくなったからと言って即手放されることはありませんでしたが、生活に困窮した士族階級が次第に不要となった武具を売りに出すようになっていきました。日本人にとって不要なものなので、国内で新しく買う人はそれほどいなかったでしょう。 廃刀令が出された1876(明治9)年時点で、日本人の総人口約3,434万人当たり5.52%を占める189万人が士族でした。 |
鐔 "Tsuba Asian Art Museum SF" ©BrokenSphere / Wikimedia Commons(26 August 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
元武家から放出された鐔全てが海外に渡ってはいなくても、母数が多いので良い物、そうでない物も含めて相当な数が海外に流出しています。海外のコレクターによって鐔の値段が上がるに連れ、より日本人は良いものを放出します。 |
メトロポリタン美術館所蔵の鐔
兎の鎧(Genの古写真より) | Genの家は骨董屋でした。 曽祖父が武士階級でしたが、1869年に身分制度が廃止され四民平等になり、白足袋の製造販売で一財産を築きました。
めちゃくちゃ良い時期に、上杉藩の城下町米沢で骨董を買い集めていると言えますね。Gen自身も骨董を外国人に販売することはしばしばあったそうです。 実際当時は上質な骨董品がたくさんあり、甲冑も相当な数を美術館に納めたりしていたそうです。 おばあちゃんのお手伝いで、Gen自身も鎧の修復のために組紐を編まされたりしたそうです |
2-2. 装飾品として美術的に発展した鐔
【登録有形文化財】明治21年創業 伊藤屋の書院造の部屋(大正初期)【出典】伊藤屋HP ©伊藤屋 |
書院造や折形、水引などによる贈進文化に見られる通り、"日本らしい"文化や美術工芸品は日本独特と言える武家文化によって発展したものでした。 |
伊達政宗公の300回忌の記念事業で制作された騎馬像(小室達(初代)作 1935年)1940年撮影 | とりあえずスーツでネクタイを絞めておけば良いやという現代サラリーマンの一般男性からは想像もつきませんが、侍が極めてオシャレだったことは、もはや言及するまでもないことでしょう。
それは単なる見た目のみならず、精神性に至るまでです。 |
2-2-1. 侍にとっての武具の重要性
大鎧(平安時代 12世紀) | 侍にとって特に重要だったのは武具でした。 一度戦に赴けば、生きて帰れる保証はどこにもありません。 終わり良ければ全て良し、しかしながら終わりがダサかったらそれまでどんなにカッコ良く生きていても台無しです。 止むを得ず死んでしまう場合でも、できる限りカッコ良く死にたいものです。 甲冑は日常着ではなく、晴れの舞台の衣装にして死装束にも相当します。 |
黒糸威胴丸具足:伝黒田高政所用(江戸時代 17世紀) "黒糸威胴丸具足" ©ColBase:国立博物館所蔵品東郷検索システム(10 July 2020)/Adapted/CC BY 4.0 |
死ぬ時、どういう姿でいたいですか? どうでも良いと言う人もいるでしょうけれど、アンティークジュエリーの価値を理解する皆様ならば、拘り抜いて選んだ一番相応しい格好で旅立ちたいと思われるのではないでしょうか。 故に、最初は機能性を重視するだけだった武具が、時代を降るごとに最期に相応しい、全てを詰め込まれた作りとデザインを施したものへと進化していきました。 様々に個性も現れ、切磋琢磨し、素晴らしい侍アートとして日本美術が確立されたのです。 |
2-2-2. 世界的に見ても特異な存在である『鐔』
【国宝】太刀 銘備前国包平作(名物大包平)(平安時代 12世紀)"大包平, Okanehira " ©SLIMHANNYA(30 June 2020, 16:03:47)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
鐔の一番の目的は、刀を持つ時に手が滑って怪我することを防ぐためです。刀を分解して太刀のみが飾られる姿は日本人には馴染み深いものですが、実は世界的に見ると特殊な構造と言えます。 |
1872年モデルのフランス海軍のサーベル(フランス 1873年) "Sabre mg 7037" ©Rama/Adapted/CC BY-SA 3.0 FR | ヨーロッパの剣の鐔は様々な種類がありますが、特に近世以降は鐔と柄が一体となった構造のものが殆どです。 故に日本刀のように『鐔』と『柄』のそれぞれに相当する独立した用語は、明確には存在しません。 |
洋剣の部位名称 | 基本的には纏めて、"Hilt"と呼ばれ認識されています。 |
2-2-3. 『鐔』の芸術面での進化
装飾付大刀(古墳時代後期 6-7世紀)"Japanese straight swords 6th 7th century Kofun period" ©Uploadalt(2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本に於ける鐔の起源は、少なくとも古墳時代まで遡ることが知られています。時代を経て、日本独自の刀剣の様式が確立されていったことに伴い、鐔も刀装武具として発展しました。 刀の鍔なんて、機能性だけ見れば無地の単純な円盤型で問題ありません。しかしながらある時、鉄地に文様を繰り抜いて装飾文様を施した『影透』の鐔が生まれました。 それを室町将軍家に従属した同胞衆の正阿弥派が、デザイン性に優れた『古正阿弥』と呼ばれる図柄を残し、地を繰り抜いた『地透鐔(じすかしつば)』へと進化させました。美しいものが大好き、オシャレが大好きな武士たちによってこれらがさらに進化し、欧米の特に美意識の高い上流階級や知的階層を虜にするような美術品レベルのものになったのです。 |
2-3. 美術品として欧米の上流階級の心を掴んだ鐔
メルセデス・ベンツ・SLS AMG "2010 Mercedes-Benz SLS AMG (C 197) Blackbird coupe (2010-10-23) " ©Pineapple fez(23 October 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
日本製品はダサい。そういうイメージがある方は少なくないでしょう。 日本は戦前と戦後でガラリと変わってしまいました。高度経済成長からバブル期にかけて、日本は家電や自動車などの製造業でも大いに経済発展しました。ただ、戦後の日本人サラリーマン(ただの庶民)が生み出した家電や自動車は、機能性だけを追い求めてデザインは無視されたものばかりなのです。 そのせいで日本製品は機能は優れているけれど見た目がダサいというイメージが付き、デザイン重視の人には外国産が選ばれがちという状況となったのです。しかしながら本来、日本の男性は世界一デザインの趣味が良いオシャレさんでした。 |
2-3-1. 欧米の上流階級らにコレクションされた鐔
ウォルターズ美術館所蔵の鐔
表"Japanese - Tsuba with a Frog in a Lotus Pond- Walters 51177 " ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 裏 "Japanese - Tsuba with a Frog in a Lotus Pond- Walters 51177 - Back" ©Walters Art Museum/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
『蓮池の蛙』 | |
日本の優れたデザインが施された鐔は、欧米の美意識の高い一部の人たちを虜にし、コレクションの対象になりました。これはウォルターズ美術館の所蔵品です。 ウォルターズ美術館は実業家で美術収集家でもあったウィリアム・トンプソン・ウォルターズと、息子ヘンリー・ウォルターズが収集した2万2千点の遺贈品で成り立っています。 |
メトロポリタン美術館所蔵の鐔
表 |
裏 |
江戸時代 1615-1868年 | |
メトロポリタン美術館も多数の寄贈品や遺贈品で成り立っていますが、この鐔もその1つです。 |
ウォルヴァーハンプトン・アート・ギャラリーの鐔コレクション
ウォルヴァーハンプトン・アート・ギャラリー Public Domain by G-Man at English Wikipedia |
イングランドにあるウォルヴァーハンプトン・アート・ギャラリーの鐔コレクションも有名です。 |
表"Masayuki tsuba omote" ©Keith Oram(23 November 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | 裏"Masayuki tsuba ura" ©Keith Oram(23 November 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
『鍾馗と鬼』(浜野政随 1696-1769年) | |
桃山時代から江戸時代(16-19世紀)までの114の鐔コレクションは、元々C.E.F.グリフィスが所有していたものでした。それを1924年に評議員デイヴィス・グリーンが買い取り、ウォルヴァーハンプトン・アート・ギャラリーに寄付しました。 |
この宝物が制作されたアールデコの時代に鐔コレクターが存在し、美意識の高い人々から注目されていたのは間違いないでしょう。 |
3. 流行の最先端として作られた最高級リング
3-1. 時代の最先端を反映させた特別なジュエリー
フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793年) | 新しい流行はファッションリーダーが作り出します。 普通の人にはない、高い美意識と教養、さらに抜群のセンスを持つ人だけがファッションリーダーになることができます。 ファッションリーダーによって、見たことのない新しいスタイルが生み出され、それが優れていれば周囲が真似ることで流行となります。 やがて陳腐化して流行遅れになりますが、普遍の魅力を持っていれば文化として定着したり、定番としてずっと愛されることになります。 |
3-1-1. ジュエリーにデザインされる最新の流行・文化
アンティークジュエリーは、ヨーロッパの王侯貴族が世界を主導した時代の終わりと共に終焉を迎えました。 アンティークジュエリーの時代のファッションリーダーは、ヨーロッパの上流階級でした。 彼らがファッション以外の新しい流行や文化の担い手でもありました。 故に、特に優れたアンティークのハイジュエリーには、時代ごとの流行や文化が反映されているものです。 |
このアールデコ・リングの場合、日本美術の中でも特に美意識の高い上流階級や知的階層に人気があった、日本刀の鐔がモチーフになっているというわけです。 初めてこのリングを見た時、その形状も珍しいと感じました。 |
七宝の鐔(江戸時代 1615-1868年) The Metropolitan Museum of Art | |
この形状が日本刀の鐔にインスピレーションを受けてデザインされたというならば、納得がいくのです。鐔はモチーフのみならず、そのものの形状に関しても様々なものが存在します。 |
甲冑師スタイルの鐔(日本 16世紀) The Metropolitan Museum of Art | |
元となった"そのものズバリの鐔"は分かりようもありません。でも、リングの持ち主本人、或いは近しい人の中に鐔コレクターがおり、その中からお気に入りがリングのデザインの元になったと想像します。 |
3-2. 独特の冴えを感じる透かし細工
3-2-1. 鐔をジュエリーで表現するための肝
全てではありませんが、新しいものを取り入れて作られた最高級のジュエリーにはデザインのみならず、技法の観点からも画期的と言える新しい取り組みが行われているものです。 |
『パラソルを持つ女』 ボヘミアン・イングレイヴィング・グラスの花瓶 チェコ 1930年代初期 ¥713,000-(税込10%) |
『うつろい』 アールヌーヴォー オパールセント・エナメル ネックレス ヨーロッパ 1890年頃 SOLD |
例えば、大胆に肌を露出したアールデコの最先端の水着姿の女性をモチーフにした『パラソルを持つ女』では、超難度のイングレイヴィング技術や、驚くほど濃い色を実現させた金赤のルビーレッドが見られます。 鮮やかでダイナミックな紅葉を表現した『うつろい』では、見事なオパールセント・エナメルが駆使されています。 |
扇の鐔(江戸時代 18世紀-19世紀前半) 【引用】THE WALTERS ART MUSEUM ©The Walters Art Museum /Adapted. |
鐔をジュエリーで再現したいと思うのは、いかにもヨーロッパの王侯貴族らしい発想です。 芸術性の高い美しい鐔は、主に硬い鉄で作られています。 そこに金、銀、銅などを駆使して装飾が施されます。 |
葉の鐔(鷲田光中 1830-1889年) The Metropolitan Museum of Art | 鐔(江戸時代 17世紀) The Metropolitan Museum of Art |
その技法の中には、アンティークジュエリーと類似するものも結構あります。左の鐔だとニエロに似た外観ですし、右の有線七宝はクロワゾネ・エナメルに相当します。 |
漢学者・国学者 市川清流(通称は渡:わたる)(1822-1879年) | 日本人には、物質的には"何もない"空間に、形を超えた美しさを見出してきた長い歴史があります。 だからこそ、文久遣欧使節の一員として西洋で写実的な絵画を見た市川清流も、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」と鋭く指摘しました。 |
鐔(江戸時代 19世紀初期-19世紀中期) 【引用】Museum of Fine Arts Boston / Tsuba with design of moon and clouds ©Museum of Fine Arts, Boston |
全員は無理だったと想像しますが、日本の優れた美術品を見た欧米人の一部には、この空間の美を理解できた人もいたでしょう。 そうして20世紀頃から、アンティークジュエリーにも透かしのデザインが多く取り入れられるようになっていったのです。 |
3-2-2. 鐔デザインの肝である透かし細工
鐔(江戸時代 19世紀) 【引用】The Metropolitan Museum ©The Metropolitan Museum of Art |
鐔(江戸時代 1615-1868年) 【引用】The Metropolitan Museum ©The Metropolitan Museum of Art |
透かし細工が美しい鐔にインスピレーションを求めると言っても、そのデザインは実に多様です。フラットな平板である鐔をそのままリングのデザインにしたら変ですし、そのまま再現しても芸がありません。 インスピレーションを受けつつも、独自に進化させてこそ意味があります。 |
その答えが、このリングのデザインだったということです。 中央が透かしになり、メインストーンの天然真珠や上下左右のダイヤモンドが宙に浮いたように見えるデザインになっています。 ゴチャゴチャ装飾してある場合と違い、大きくなくとも全ての石が際立ち印象的に見える効果が発揮されています。 |
フレーム外周に施された、虫食い葉のような独特の円形の透かしも古い時代のアンティークジュエリーには見ないデザインです。 この透かしデザインがない場合を想像するとお分かりいただける通り、ガラリと雰囲気が一変して、動きや奥行きの感じられない単調なものになってしまいます。 これらは日本人にとっては当たり前のように感じるかもしれませんが、当時の欧米人にとってはかなり目新しく画期的なデザインに見えたはずです。 |
指にしなやかに寄り添い、リングとして美しく見えるよう、平面ではなく僅かに凸状にデザインされています。 また、天然真珠の上下左右にセットしたダイヤモンドが際立って見えるよう、外周より一段高くなるよう作られています。 |
驚くことに、リング本体のこの超複雑な構造は1枚の厚いプラチナの板を削り出して造形しています。 |
金属に強度がないため摩耗しやすく、強度を上げるために金属を厚く使わざるを得ないため、ボテっとしたスッキリしないデザインになります。 成金的な思考だと、プラチナの量が多いので現代ジュエリーの方が高級と思うでしょうけれど、ジュエリーに一番大切なのは美しさです。 |
叩いて鍛えたプラチナの板を丹念に削り出して作った、技術と手間をかけた最高級品だからこそ、このような一見繊細に見えるデザインでも100年ほどの使用にもビクともしない強度が備わっているのです。 |
言うは易し、厚みがある上にかなり複雑な構造なので、実際にこれを作るのは相当大変だったはずです。 |
正面からは浮いているようにしか見えない、透かしの内側にデザインされたダイヤモンドも、削り出しによる裏側から支える構造だからこそのものです。一見シンプルに見える透かしデザインですが、要所要所に極めて高度な技術を持つ職人でなければ実現できない細工が施されています。 当時でもできる職人は極めて限定されていたでしょう。故に、このような極上のデザインと作りが両立したジュエリーは現代ではあり得ないです。 |
3-2-3. 冴えを感じさせる緩やかな曲線
このアールデコのリングは、かなり高度な計算によってデザインされています。シュッとした雰囲気ですが、1箇所も直線がないことにお気づきになりましたでしょうか。宝石の形状も含めて、全て曲線のみで構成されています。円形のみで構成すると野暮ったくなりがちですが、このリングはその逆で非常に洗練された雰囲気があります。 |
『Samurai Art』 モダンスタイル アクアマリン&天然真珠 ネックレス イギリス 1900〜1910年頃 SOLD |
そのポイントは『Samurai Art』でもご説明した通り、日本美術独特の曲率が浅い"緩やかな弧"です。 緩やかな弧こそが、日本刀の美しさであったり、日本人好みの細い三日月などに隠された美しさの秘密です。 |
内側の透かしに施された緩やかな弧。 外周フレームを構成する4つの弧はさらに角度の浅い弧になっています。 一方で、外周にあしらわれた虫食い葉のような透かしは円形です。これが、天然真珠やダイヤモンドの円い形状とのつなぎになっています。 様々な曲線が使われ、それらが違和感なく心地よく調和した、見事なバランスのデザインです。 |
3-3. 細部に至るまでの作り込み
最高級品として制作されたリングに相応しく、細部に至るまでのこだわりや作り込みもさすがです。 |
天然真珠は真珠光沢が美しい、非常に上質なものが使われています。 |
きめ細かく滑らかなので、天然真珠にダイヤモンドやフレームの輝きが映り込んでいるほどです。リングとしてデザイン的に変にならず、ぶつけたりせず安全に使えるよう、天然真珠は横から見ると少し扁平なボタンパールが選択されています。 また、プラチナのシャンクはスタイリッシュな鐔デザインに合わせたシンプルなものですが、鍛造のリングとしてはかなり厚みがある上にキリッとした透かしが入っています。このリングが制作された時代は特にプラチナ価格が高かったからこそ、この贅沢なプラチナの使い方は最高級品の証にもなるのです。 |
ダイヤモンドも小さな石まで全てクリーンで、煌めきの美しい石が使われています。フレームの隙間を埋める小さなダイヤモンドも、ローズカットではなく全てフレームにうまくフィットする上質なクッションシェイプ・ダイヤモンドです。 フレームの縁は他に類を見ないほど細く仕上げられており、そこに丁寧にミルが施されています。より繊細でシャープな美しさが際立つ、この宝物オリジナルの素晴らしいミルです! また、フレームの隙間を埋めるために施されたグレインワークも、小さなダイヤモンドを留めた爪も綺麗に粒状に磨き上げられており、美しく上品に光り輝きます。 |
見る人が見れば、明らかに特別にオーダーされた極上のセンスのリングであることが分かります。 日本美術を理解し、社交界で知的な会話を楽しめる女性にこれほど相応しいリングはなかったでしょう♪ |
裏側
裏も、とてもしっかりした丁寧な作りです。 |
天然真珠の鑑別書
天然真珠であることを保証する、ロンドンの鑑別書をお付けします。 |
着用イメージ
デザインが指をしっかりと覆う、とてもオシャレなリングです。 天然真珠やダイヤモンドも上質で輝きに優れているため、予想以上に高級感も感じていただけると思います。 定番デザインと違って、デザイン性の高い、品格ある上質なリングはアンティークのハイジュエリーならではのものです。 これだけで主役になれる宝物なので、他のアイテムを付けずリングだけでオシャレをしたいという方にもオススメです♪ |