No.00335 英国貴族の憧れ |
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『英国貴族の憧れ』 世界に先駆けて日本美術の様式研究と、新しいスタイルの創造に取り組んだイギリスで創り出された、当時最先端のアングロ・ジャパニーズ・スタイルの最高級リングです。 |
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その幾何学的なデザインはアールデコを40年以上も先取りしたもので、イギリス貴族や知的階層の間で生み出されたこのスタイルが、その後のモダンスタイルやアールデコ、モダニズムにつながっていくことを確信させる、世界の美術デザイン史に於ける資料的価値も高い重要な宝物です。 アングロ・ジャパニーズ・スタイルの代表例にして最高傑作とされる『ピーコック・ルーム』と同時代に制作されており、日本美術について語る、当時最先端の"知的でアーティスティックな社交の場"で着用するためにオーダーされたリングとみられます。 家具や調度品、美術工芸品などはアングロ・ジャパニーズ・スタイルが知られているものの、アンティークジュエリーでこのスタイルに言及している人は世界にもいません。私たちが新発見した、知られざる宝物です♪ |
この宝物のポイント
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1. 時代背景が分かるアンティークジュエリー
イギリスのハイクラスのアンティークジュエリーはホールマークがないものも多いですが、このリングは1876〜1877年のバーミンガム製ということが分かります。 アンティークジュエリーはデザインや作りで年代の推定が可能ですが、ホールマークによって年代が限定できると、より詳細に時代背景が掴めます。 アンティークジュエリーの魅力の1つです♪ |
2. アングロ・ジャパニーズ・スタイルの最先端デザイン
2-1. オーソドックスではないデザイン
このリングのデザインをご覧になって、どうお感じになったでしょうか。 アンティークジュエリーを見慣れていない方だと、現代のデザインのように感じるかもしれません。 見慣れている方ならば、アールデコのように感じるかもしれません。 このリングはハーフパールと、小さなトルコ石を複数使ってデザインしたクラスターリングに属します。 |
天然真珠の優しい輝きが女性らしさを惹き立てる、ハーフパールのクラスターリングはヴィクトリアン中後期に流行しました。持ち主の好みによって、ハーフパールと組み合わせる石やデザインは様々です。 ここでは、ヴィクトリアンのハイクラスのクラスターリングをいくつか見てみましょう。 |
複数のダイヤモンドと組み合わせたクラスターリング | ||
イギリス 1860年頃 SOLD |
イギリス 1860年頃 SOLD |
イギリス 1870年頃 SOLD |
ダイヤモンドとの組み合わせは、人気の高かった1つです。ハーフパールの優しい色彩を邪魔しません。一方で、透明であるが故に、見た時の"デザインそのもの"を意識すると言うよりは、ダイヤモンドならではの輝きで主役のハーフパールを惹き立てるようデザインされるのが高級品の特徴です。 |
複数の色石と組み合わせたクラスターリング | ||
イギリス 1830年頃 SOLD |
イギリス 1860年頃 SOLD |
イギリス 1860年頃 SOLD |
色石を使う場合、その数が少ない時は、デザイン上のポイントとして配置するのが一般的です。ハーフパール同様、色石も複数使用する場合は、品質が揃ったものを揃えなくてはなりません。 人工処理や合成の技術が発達し、合成したものにさらに人工処理することすらも当たり前となった現代ジュエリーに見慣れていると、どれだけ安いジュエリーでも宝石が均質なのは当たり前というように感じるかもしれません。 しかしながら、天然のままで美しい石こそがハイジュエリー用の『稀少価値の宝石』だったアンティークの時代は、品質の揃った色石を複数揃えることは大変なことでした。色味、色の濃さ、透明度(インクリュージョンの入り方)、大きさなど、全てが揃っていなければジュエリーとして違和感が生じます。 |
ヴィクトリアン パール クラスターリング イギリス 1850年頃 SOLD |
色石を1つしか使わないデザインであれば、たった1つ極上の宝石を手に入れればOKです。 |
複数の色石を使ったクラスターリング | |
イギリス 1860年頃 SOLD |
イギリス 1860年頃 SOLD |
上質な上に、質を揃えるという難しさもあって、色石を複数使ったクラスターリングは少ないのです。 |
色石を多く使ったクラスターリング | |
イギリス 1860年頃 SOLD |
イギリス 1860年頃 SOLD |
そんな困難を乗り越えて作られた、色石をたくさん使ったクラスターリングは、間違いなく美意識の高い人物がお金に糸目をつ付けずにオーダーしたものです。上流階級のために作られたハイクラスのクラスターリングでも、そのようなものは滅多にありません。 これらはその貴重なクラスターリングです。それぞれ、デザインが個性的です。他の人と同じもの、似たようなものは持ちたくないという、社交界の中でも特別にオシャレな人がオーダーしたのでしょう。 |
1860年頃 | 1860年頃 | 1876-1877年 |
ただ、今回のクラスターリングと比べると、まだオーソドックスなヨーロピアン・スタイルの範囲内と言えます。今回の宝物は、あまりにもデザインが時代を先取りしているように感じます。 |
『ヴィクトリアン・デコ』 アングロジャパニーズ・スタイル ロムバスカット・ガーネット クラスターリング イギリス(バーミンガム) 1876-1877年 SOLD |
そこで思い出すのが、以前ご紹介した『ヴィクトリアン・デコ』です。 ロムバス(菱形)カット・のガーネット、ストライプ状のハーフパールとオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドの配置など、デザインは40年以上も時代を先取りしたアールデコそのものです。 Genも類似のものを見たことがないと言うほど、珍しい宝物でした。 |
2-2. アングロ・ジャパニーズ・スタイルとは?
このリングのデザインはアングロ・ジャパニーズ・スタイル(英和スタイル)に属します。 建築や陶磁器、家具など他の美術分野では知られている言葉ですが、アンティークジュエリーの分野で定義して言及するのは今回が初めてです。 知られざるアンティークジュエリーの世界です。 |
アングロ・ジャパニーズ・スタイルは1851年頃から1910年代にかけて、イギリスで発展した美術様式です。日本美術のデザインや文化に影響を受けて生み出された、欧米人にとって新しい感覚の芸術スタイルです。 |
2-2-1. 開国とヨーロッパにとっての日本美術
以前詳細をご説明した通り、古い時代からヨーロッパの王侯貴族や知識階級の間では、日本の美術や文化に特別な憧れがありました。 |
糸車と若い女性(フランス Juste Chevillet&Johann Casper Heilmann作 1762年) | 髪の毛を紡ぐための蒔絵の糸車(フランス 1750-1770年)V&A美術館 |
フランスのルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人は日本の蒔絵も非常に高く評価しており、蒔絵を使った収納机などの調度品を所有していました。 母であるオーストリア女大公マリア・テレジアから蒔絵コレクションを引き継いだ、フランス王妃マリー・アントワネットのコレクションも有名です。自身でもコレクションを追加し、ヴェルサイユ宮殿内のプライベートなリビングルームのキャビネットを、コレクションを飾るためにわざわざ改装したほど日本の漆細工を高く評価しており、当時のヨーロッパで最も優れた蒔絵コレクションの1つとされています。 中国などにも漆細工は存在するものの、「漆は日本のものでなければダメ!」と言うほど、王妃マリー・アントワネットも日本の漆工芸品を高く評価していたそうです。 |
小型キャビネット(蒔絵パネル:江戸初期 1630-1840年頃、キャビネット:パリ 1820年頃) 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
鎖国という環境もあり、ヨーロッパの上流階級や知的階級は日本美術を別格視すると共に、強い憧れを持っていました。このため日本美術の展示会が1851年にロンドン、1853年にダブリン、1856年と1857年にエジンバラ、マンチェスターで1857年、ブリストルで1861年に開催されています。 ご想像より遥かに早いでしょうか。大衆レベルで有名になるのはもっと後の時代で、私たちが一般的に習ったり、自称専門家などが知っているのは殆どが大衆文化や大衆レベルの教養として一般化した後のものです。明確に階級差が存在する社会は、現代の日本とは状況が全く異なります。ヨーロッパでも上流階級や知的階級のことは、同じヨーロッパ人であっても庶民の大半は知り得ません。上流階級は圧倒的に数が少なく、メインストリームを研究する際に、大衆にまで知られるようになった時代がターゲットとなるのはやむを得ません。情報を得るのも特殊かつ容易ではなく、生粋の日本人の自称専門家が知らなかったとしてもしょうがないことなのです。不勉強だから知らないというわけでもないのです。ヨーロッパに渡った昔の最高級の日本美術工芸品なんて、当時の日本の庶民は見たことも聞いたこともないものであったろうことからもご想像いただけると思います。 ただ、HERITAGEがお取り扱いするアンティークジュエリーは上流階級のために作られたものですので、HERITAGEの宝物にご興味のある方は、ぜひ大衆化以前の歴史的背景も知っておいてください。 |
蒔絵の書道具(江戸後期 1825-1860年頃) 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted |
大成功を収めた1851年のロンドン万国博覧会の収益や展示品を元に、翌年1852年に装飾美術館が開館しました。後のヴィクトリア&アルバート美術館です。 ロンドン万博には、ヨーロッパ各国が威信をかけたあらゆる展示品を出展しました。その結果、当時のイギリスの産業製品は、デザインの質が著しく低いことが露見しました。産業革命によって効率重視となり、デザインは後回しだったわけですね。そこで国民全体の趣味やセンスの向上を目的とし、啓蒙と教育のために設立されました。 その一環として装飾美術館は1852年に日本の磁器と漆器のコレクションを購入し、続いて1854年にもロンドンの王立水彩協会で開催された展示会で日本の美術工芸品を37点、追加購入しています。 |
イギリスの初代駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック(1809-1897年) | イギリス領事館が置かれた東禅寺(1860年代) |
そういうわけで開国後、1859年に来日した駐日総領事・公使ラザフォード・オールコックが日本の様々な美術品や工芸品を蒐集するのも当然の流れと言えるのです。 日本美術に影響を受けたイギリスの美術様式、『アングロ・ジャパニーズ・スタイル』が誕生するのも当然の流れでした。開国前となる1851年には早くもこの言葉が使われ始めており、1858年にはマンチェスターのダニエル・リーのローラー印刷によるテキスタイル作品の中に、直接的に日本美術の影響を受けたものが存在しています。 |
2-2-2. 第2回ロンドン万博(1862年)と日本の美術工芸品
1862年の第2回ロンドン万国博覧会(サウス・ケンジントン) |
世界から多くの人が集まる万国博覧会で、日本文化が初めて紹介されたのが1862年の第2回ロンドン万国博覧会でした。 |
文久遣欧使節団(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862.5.24号) | この万博に合わせて、文久遣欧使節団もロンドンを訪れています。 オールコック総領事の支援もあり、招待客として手配してもらい、万博の開会式にも参加しています。 |
第2回ロンドン万博の日本ブース(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862年) |
ただ、開国して間もない日本はまだ万博に出展できるような状態にはなく、第2回ロンドン万博ではオールコック総領事の蒐集品、約1,500点が展示されました。展示品は漆器や刀剣、版画と言った日本の美術品や、蓑笠や提灯、草履などの庶民の日用品です。 オールコック総領事の展示物を見た文久遣欧使節団は、「古めかしい雑具ばかりで、粗末なものばかりを紹介している。」と嘆いています。 |
柴田剛中(着席)他使節一行(1862年) |
文久遣欧使節は外交と視察を目的に、江戸幕府として初めて派遣した使節です。通訳2名を合わせて総勢38名の使節は、当然ながら当時の身分の高い人やエリートたちでした。 日本人であっても、庶民では見たことも聞いたこともないような高級な品々を知る身分の彼らにとって、日本人ほど知識もコネクションもない外国人が、その辺でお買物して集めた蒐集品を"粗末な物"と評するのは無理もないことです。 しかしながら、見慣れないヨーロッパの人々にとっては日本の庶民が使う日用品ですら、驚くほどデザインもクリティも高いものでした。オールコック総領事のコレクションの展示は、「ヨーロッパの日本美術史上、最も影響力のあったイベントの1つである。」と称されるほど大絶賛で、日本人の国民性を見事に表現したものと評価され、その後のジャポニズム・ブームの契機となりました。 |
アーサー・ランセビィ・リバティ(1843-1917年)1913年、70歳頃 | 世界中から延べ600万人ほどが集まった第2回ロンドン万博(1862年)が閉幕すると、日本の物品や日本そのものにヨーロッパの関心が集まりました。 その結果、コレクターや芸術家、ファーマー&ロジャー極東品店に雇われたアーサー・アーサー・ランセビィ・リバティなどの商人たちが、こぞって日本の美術工芸品を買い集め始めたのです。 |
美術商サミュエル・ビング(1838-1905年) | ヨーロッパにおける日本美術ディーラーとしては、パリで美術商を営み、アールヌーヴォーの中心人物となったユダヤ系ドイツ人サミュエル・ビングが最も有名ですが、ビングが日本美術の真価を見出したわけではなく、他者に追随し、たまたま本人が予想しないほど有名になっただけなんですよね。 普仏戦争(1870-1871年)後に日本美術ディーラーとなり、1870年代にパリに日本の浮世絵版画と工芸品を扱う店をオープンして成功しているのですが、この着物の着方が、いかにもよく分かっていない外国人っぽくて何だか嫌です(笑) |
商売人として優れていただけで、目利きできないというのは多々あることです。Genも「目利きの商売下手。」なんてよく言うのですが、ビングも後に自身が集めた日本美術の殆どが日本人にとっては価値の低く、美術的価値のないものと知って意気消沈し、やる気を無くして1904年に『アールヌーヴォーの店』を閉じ、経営は息子に譲って、失意のうちに翌1905年に亡くなっています。 それほど一生懸命に取り組んでいたということでしょうし、アールヌーヴォー旋風の立役者として美術史に多大な貢献をしたことは間違いないのですが、目利きができていない、自身に才能がなかったことを自覚するのはとても辛いことだったでしょうね。 イギリスは上流階級の歴史が、一応は途絶えることなく続いています。断絶する家もありますが、上流階級全体として見れば、知識も教養も脈々と受け継がれています。このため、どこかに新しくそれを求める必要はありません。 一方で普仏戦争を契機に皇帝を廃位して第三共和政に移行し、上流階級という身分がなくなり、大衆の時代となったフランス国民はあらゆる場面で新しい手本が必要となりました。それまでは上流階級が担ってきたものです。ファッションリーダーとしては、大衆のスターとして女優や歌手が注目されました。美術面で注目を浴び、たまたま有名になったのがビングだったのです。 天才ならばいざ知らず、元々は庶民で知識や教養を持たなかったビングがゼロから新しい何かを発見してくるのは無理があることで、上流階級や知的階級に持て囃されていた日本美術に注目し、商売人としての才能はあって、うまくいったというのが実際の所でしょう。 |
初期アングロ・ジャパニーズ・スタイルの絵画 | |
『陶磁の国の姫君』(ジェームズ・マクニール・ウィスラー 1863-1865年) | 『青い木陰』琴を奏でる女性(ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 1865年) |
そういうわけで、大衆のものとなったフランスで日本美術が大きな影響を及ぼし、庶民にも知られるようになった世紀末から20世紀初期のアールヌーヴォーの時代より遥かに前に、イギリスでは日本の美術様式に影響を受けた作品の制作が始まっていたのです。 ジャポニズムとしても有名なこれらの作品は、より狭義にはアングロ・ジャパニーズ・スタイルに分類されています。1860年代の初期アングロ・ジャパニーズ・スタイルの絵画は、イギリス人やイギリスで活躍した画家の作品が大半です。 |
『ツツジ』(アルバート・ジョゼフ・ムーア 1868年) | イングランドの画家アルバート・ジョゼフ・ムーアの『ツツジ』も、アングロ・ジャパニーズ・スタイルに分類される作品です。 日本人が見ると、そうは感じないかもしれません。 ツツジは主にアジアに広く分布する植物で、元々はヨーロッパには存在せず、アジアから持ち込まれたものが園芸化されて身近な花となっています。 おそらくは、桜が描かれているのと同じ感覚ということでしょう。 このように、イギリスでは第2回ロンドン万博以降、日本の様々な文化や美術工芸品に触れる機会が増え、触発された芸術家たちによってアングロ・ジャパニーズ・スタイルの作品が生み出されていくようになりました。 |
2-2-3. 勢いに乗る日本美術ブームと新たなクリエーション
ジャポニズムの壺セット(ロイヤル・ウースター 1873年)インディアナポリス美術館 |
1870年代に入ると、より様々な分野で日本美術の影響を受けた作品が多く生み出されていくようになりました。陶磁器もその1つで、王室も顧客に持っていたアラー・ヴェール陶器やロイヤルウースターも同時期に日本に影響を受けた作品を制作しています。特にロイヤルウースターは日本美術の影響を受けた作品が、日本人自身から大いに賞賛されたと言われています。 |
ドルトン社の絵付師ハンナ・バーロウ | |
ハンナ・バーロウ(1851-1916年) | ドルトン社の工房(1893年頃)おそらく中央がハンナ |
『ファベルジェ』と聞くとファベルジェ本人が作ったと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実際には多くの職人や従業員を抱える会社組織でした。陶器製造のドルトン社(1901年に王室御用達になって以降はロイヤル・ドルトン)も同じで、1897年までには従業員数が4,000人を超える大企業で、アーティストも多数在籍していました。 その一人、ハンナ・バーロウも浮世絵にインスピレーションを受けたアングロ・ジャパニーズ・スタイルの作品で知られており、動物をデザインした作品を数多く制作しています。 |
1870年代のハンナ・バーロウの作品(ドルトン社) | ||
1874年 "Doulton" ©VAwebteam at English Wikipedia(3 January 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
1875年 | 1877年 "Hannah barlow, elise simmance e w. baron per doulton & co. ltd., coppia di vasi, 1877, 02 uccelli " ©Sailko(4 November 2016, 00:58:57)/Adapted/CC BY 3.0 |
動物シリーズのモチーフも様々です。オーソドックスなヨーロッパの美術作品は、表現される動物や植物にあまりバリエーションがなく、定番のモチーフは大体決まっている印象があります。古の日本美術は、名も知らぬような雑草も含め、そんな動物や植物、虫などに注目したのかと感心することが多々あります。 全ての生き物を愛でる心。不完全さ、儚さをこよなく愛する幽玄の美。日陰であったり、目立たぬ部分にまで行き届いた美意識。日本人の美意識はイギリス人に驚きを以って受け入れられ、驚異的なスピードで影響を与えていったのは間違いありません。 |
1870年代イギリスの白鷺の作品 | |
ドルトン社の瓶(ハンナ・バーロウ 1874年)メトロポリタン美術館 | 『白鷺の舞』 舞踏会の手帳(兼名刺入れ)&コインパース セット イギリス 1870年頃 SOLD |
ハンナ・バーロウによる、自然界の白鷺をモチーフにした作品も存在します。メトロポリタン美術館が所蔵しています。同時代に制作されたピケの名品『白鷺の舞』も、まさにミュージアムピースと言える宝物です 。"籠の鳥"ではなく、自然界での姿を描いているのが、当時としてはかなり画期的だったはずです。ヨーロッパ人はとかく自然に手を加えてどうにかしようとしますが、全てのものに宿る魂に畏敬の念を持ち、八百万の神の存在を感じながら自然と調和した生き方をする日本人の心が、当時の特別な美意識を持つイギリス人の心を打ったのでしょう。 |
挿絵作家ウォルター・クレインと日本美術の影響を受けた作品 | |
ウォルター・クレイン(1845-1915年)1886年頃、41歳頃 | 『蛙の王子』の表紙(ウォルター・クレイン 1874年) |
19世紀後半に最も影響力のあった芸術家・挿絵作家の1人されるウォルター・クレインの作品にも、1874年の『蛙の王子』の挿絵以降、日本美術の顕著な影響が見られるとされます。 モチーフへの影響は分かりやすいですが、それ以外に、日本の版画に影響を受けたと見られる、それまでには無かった色彩使いが特徴なのだそうです。単に日本のモチーフを取り入れただけでなく、様式そのものを取り入れる試行錯誤が見られるのがアングロ・ジャパニーズ・スタイルの特徴であり魅力です。 |
『イソップ童話』のタイトル・ページ(ウォルター・クレイン 1887年) | 幼い子供たち向けの本ということで、この時代のイギリス人は幼少期から日本美術に慣れ親しむ環境にあったと言えます。 絵を見ているだけでも楽しくて、美的感性も磨かれそうです♪ 日本人の感覚からすると、ちょっと鳥さんたち(梟と雀?)の顔が怖いですが(笑) それはそうと、左側に描かれたいかにもそこら辺に生えていそうな雑草も日本美術ならば違和感がありませんが、西洋の美術様式としては画期的です。 |
アングロ・ジャパニーズ・スタイルの家具(エドワード・ウィリアム・ゴッドウィン 1875年) |
その他、壁紙や家具なども含めて、ありとあらゆる分野のデザインに日本美術を取り入れる動きが生まれ、ゴテゴテしたミッド・ヴィクトリアンの美術様式とは全く異なる作品が作り出されたのです。 これがウィリアム・モリスが提唱したアーツ&クラフツ運動による作品にも影響を与えつつ、モダンスタイルやモダニズムなどへと進化していきました。 |
2-3. ウィーン万博(1873年)とジャポニズム・ブーム
2-3-1. 明治新政府として初参加のウィーン万博(1873年)
1870年代以降、日本の美術や文化がヨーロッパにより大きな影響を与えるようになったのは、1873年のウィーン万博の効果も大きいです。 参加国数は35カ国で、「文化と教育」をテーマに、オーストリア=ハンガリー帝国で開催されました。 |
1851年に初めてロンドン万博が開催されて以降、万博ブームが起こり、回を重ねるごとに規模が大きくなっていました。今では考えられないくらい人々は熱狂し、各国は力を入れて参加していました。 敷地面積だけで比較すると、1862年のロンドン万博は38,000坪、1867年のパリ万博が208,000坪でしたが、1873年のウィーン万博は705,000坪もの広さがありました。室内展示物のみならず、建物や庭園も出展作に含まれる、壮大な展示会です。 |
『澳国博覧会参同記要』ウィーン万博の日本パヴィリオン(1873年) |
開国後、明治維新を経験し、日本政府として初参加したのがこのウィーン万博でした。新政府は威信をかけて、用意周到に出展を準備しました。 欧米人に対してウケが良い展示となるよう、オーストリア公使館員ハインリヒ・フォン・シーボルト(フィリップ・シーボルトの次男)やお雇い外国人ゴッドフリード・ワグネルに指導を仰ぐ謙虚な姿勢で臨んでいます。派手で目立つもので目を引く方が良いということで金のシャチホコや巨大提灯なども出展しているのですが、美意識の高い日本の上流階級だと選ばない選択ですよね。 |
【ウィーン万博出展品】染付花籠文大皿(明治初期 1873年頃) ハウステンボス内ポルセレインミュージアム |
そのような客寄せパンダが有りつつも、日本の職人芸を生かした民芸品や伊万里焼、扇子や団扇などを様々展示・販売しました。 |
アメリカの雑誌で紹介された日本パヴィリオンの様子(1873年) |
既に欧米の上流階級や知的階級の間ではジャポニズムがブームとなっており、明治新政府の初参加ということもあって、注目の的になっていました。新聞や雑誌で取り上げられ、出展した扇子や団扇他、民芸品や伊万里焼などは飛ぶように売れました。扇子が1日に3,000本も売れた日もあり、値上げしてもその勢いは止まらなかったそうです。 |
2-3-2. ウィーン万博(1873年)の展示品のその後
万博期間中はたくさんの出展品が販売されましたが、持って帰るのは大変ということもあり、残った物も寄付されたり売却されたりしました。 |
ウィーン万博で建物や庭園を展示準備する日本の職人たち(1873年頃) |
日本の展示品として大いに評判となった神社楽殿や鳥居、庭園なども、明らかに持って帰るのが難しそうですが、これらはイギリスのアレクサンドラ・パーク社が購入しました。 |
アレクサンドラ・パレス&アレクサンドラ・パーク "APalace 1" ©Jack Rose(23 April 2021, 19:27:03)/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
アレクサンドラ・パーク社はアレクサンドラ・パークとアレクサンドラ・パレスを造るために設立された会社です。1862年の第2回ロンドン万博で使用された建物を移設したもので、1859年に構想があり、元々は国民の教育やレクリエーション、娯楽などの公共の場として『ピープルズ・パレス(国民の宮殿)』と名付けられていました。 |
結婚の日のアレクサンドラ妃と王太子バーティ(1863年3月10日) | 公園は1863年7月23日に一般公開されることになりました。 ちょうど同年3月10日にデンマーク王室から美貌の王女アレクサンドラ・オブ・デンマークが王太子バーティ(後のエドワード7世)に嫁いでおり、注目度も人気も高かったアレクサンドラ妃の名前にちなんでアレクサンドラ・パークと改名されました。 |
オペラ『フラ・ディアヴォロ』で主役を演じるジョン・シムズ・リーヴス(1821-1900年)1852年、31歳頃 | 1873年にようやく宮殿の移設が完了し、アクセスのための鉄道も開通し、アレクサンドラ・パレスもオープンしました。 教育の場に相応しく、初日はオペラ歌手シムズ・リーヴスが10万2千人もの聴衆の前で歌い、オープンを祝いました。 10万人ライブ!! |
火災が遭うアレクサンドラ・パレス(1873年) |
しかし、その16日後に火事で燃えてしまいました。 僅かに外壁だけが残り、歴史的かつ本質的に極めて価値の高い約4,700点の展示品も失われたそうです(ToT) |
再建されたアレクサンドラ・パレス(1875年) |
しかし、1875年には再建して再オープンしました。 コンサートホールやアートギャラリー、美術館や講堂、図書館、宴会場、大劇場、屋外プールなども併設した、まさに国民の教養を高めるための公共の場でした。 |
アレクサンドラ・パークに造られた日本村(1875年) |
そのアレクサンドラ・パークに、1873年のウィーン万博で展示した日本の神社楽殿などが移設されたのです。日本パヴィリオンの建築責任者の一人だった山添喜三郎(1843-1923年)によって移設後も全体としての整備が行われ、神社、東屋、商店、土蔵、庭園などのある日本村が完成しました。 『パクス・ブリタニカ』とも呼ばれる大英帝国最盛期を迎え、中産階級の台頭著しいイギリスでしたが、この時代には既に庶民レベルでも他国に先駆けて日本文化に接することができる環境にあったわけですね。いわんや上流階級をや。この頃の上流階級や知的階級は、既にかなり日本についての造詣が深まっていたはずなのです。 |
ウィーン万国博覧会日本庭園写真(1873年)東京国立博物館 |
ロンドンに日本人の職人による本格的な日本村が出来たことで、ヨーロッパ各地の人々も遥々日本に行かなくても、身近に日本らしい景色に触れられるようになりました。このような様々なことがあって、1873年のウィーン万博を契機にヨーロッパでよりジャポニズム・ブームが拡大していきました。 |
【重要文化財】旧登米高等尋常小学校校舎(1888/明治21年建築) "Toyoma schoole museum050807" ©Kumamushi(5 August 2007, 14:14:57)/Adapted/CC BY 3.0 |
ちなみに文化交流が一方通行になることはあり得ず、山添喜三郎は9ヶ月半に渡るヨーロッパ滞在を通じて現地の建築技術を学び、帰国後も経験を生かして活躍しています。1888年に建築された旧登米高等尋常小学校校舎は、1870年代の擬洋風建築とは異なる和洋折衷で、当時の洋風学校建築の変遷を知ることができる重要な建物として文化財登録されています。 |
2-3-3. ニール号遭難事故とイギリス
一方通行にならないのは文化交流だけではありません。物品も然りです。 ウィーン万博終了後、ヨーロッパで買い集めた多数の美術品と、処分しない出展品が日本に送られました。使用したのはフランス郵船会社メッサージェリ・マリティムの貨客船ニール号(1864年建造の鉄製帆船)です。 |
1879年建造のメッサージェリ・マリティムの帆船&蒸気船(1905-1910年頃) |
ニール号は1873年9月18日にフランスのマルセイユ港を出航し、香港を経由して横浜に向かいました。もう日本まで来ていたのですが、1874年3月20日未明に伊豆半島沖で嵐に遭い、座礁して沈没しました。乗っていた90人のうち、助かったのはフランス人4人だけという事故でした。 唯一の日本人乗客であり、京都の西陣織の職人、吉田忠七も行方不明となっています。吉田は佐倉常七や井上伊兵衛と共にフランスのリヨンで織物技術を学び、二人に遅れて帰国する最中でした。この時代の渡欧は簡単なことではなく、将来を嘱望されてのことだったはずで、その人的損失は計り知れません。 一方で助かったフランス人の中にはパン職人ミッシェル・デンチシがおり、後に横浜居留地でパン屋を開業しています。いろいろ、人生って数奇ですね。 |
日本のウィーン万博事務副総裁 | サウス・ケンジントン博物館館長 |
【佐賀の七賢人】佐野 常民 伯爵(1823-1902年) | サー・フィリップ・クンリフ=オーウェン(1828-1894年) "Philip Cunliffe-Owen" ©Lock & Whitefield/Adapted/CC BY 4.0 |
ニール号の遭難で失われたのは人命だけではありません。日本の貴重な展示品や、明治政府が頑張って買い集めた大事な西洋の美術品も多数失われてしまいました。出展物192箱中、陶磁器・漆器68箱分は見つかりましたが、残り124箱は海の藻屑となりました。 ウィーン万博事務副総裁だった佐野常民からこの事件を聞いたイギリスのサウス・ケンジントン博物館(元:装飾博物館、後のヴィクトリア&アルバート美術館)の館長フィリップ・クンリフ=オーウェンは深く同情し、失われたヨーロッパの美術品の補填にと、ヨーロッパの様々な美術工芸品の寄贈を決めました。 |
2-4. 日本美術を深く理解し始めたイギリスの特殊層
2-4-1. 美術史における最重要人物の1人 クリストファー・ドレッサー
クリストファー・ドレッサー(1834-1904年) | 寄贈する美術品の選定に協力したのが、最初かつ最重要の独立系デザイナーとして欧米では広く知られるクリストファー・ドレッサーでした。 審美主義(耽美主義)運動の中心人物であり、アングロ・ジャパニーズ・スタイルとモダン・スタイルの主要貢献者でもあります。 そんな重要人物なのですが、日本では一部の人を除いてあまり知られていない印象です。 |
この辺りの情報を日本語で調査すると、全容を見通したものではなく一部が切り取られた情報だったり、重要な部分が抜け落ちていたりして、不十分だったり、誤解が生じる内容であることも多い状況にあります。 初期の人が書いた不十分内容が安易なコピペで広まり、日本国内ではそれがメインストリームになった結果と推測します。注目度の高い分野ならば人が集まり、情報も切磋琢磨されて洗練されていきますが、狭い業界ではよくあることです。ご自身で調べる場合は英語で行うことを強くお勧め致します。 |
2-4-1-1. 美術界のエリート ドレッサー
ロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)ダーウィン棟 "RoyalCollegeOfArt" © Andrew Dunn(3 December 2004)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
そのような状況にありますので、ドレッサーについて少しご説明しておきましょう。 デザイナー&デザイン理論家であるドレッサーは、1834年にグラスゴーの役人の家に生まれました。 13歳でロンドンの官立デザイン学校(後のロイヤル・カレッジ・オブ・アート)に入り、作図と植物学を学びました。 1855年、21歳頃にはこの学校の教授となり、工芸品に関する著作や工業製品のデザインなどを行いました。 1859年、25歳頃からサウス・ケンジントン博物館で植物学の講義を始めました。 |
最初&最重要の独立系デザイナー | サウス・ケンジントン博物館館長 |
クリストファー・ドレッサー(1834-1904年) | サー・フィリップ・クンリフ=オーウェン(1828-1894年) "Philip Cunliffe-Owen" ©Lock & Whitefield/Adapted/CC BY 4.0 |
そうやってサウス・ケンジントン・博物館館長とのつながりができてくるわけですね。 それにしても13歳で入学して21歳で教授なんて、ケルヴィン男爵ウィリアム・トムソンを思い出しました。イギリスの天才たちは凄いですね。早く卒業すればその分だけ活躍期間が長くなるので、天才に早期入学を認めるのは理に適っていますね。イギリスらしいと言うか・・。 ケルヴィン卿が10歳で入学したグラスゴー大学も名門ですが、官立デザイン学校(後のロイヤル・カレッジ・オブ・アート:RCA)も名門です。修士号と博士号を授与する世界唯一の美術系大学院大学で、世界大学ランキングでは6年連続でアート・デザイン分野の世界1位です(2020年時点)。 私の個人的な感想ですが、現代の日本では残念ながら美術・芸術系に地位が高い印象がありません。自称天才芸術家、あるいは天才芸術家としてブランディングされた胡散臭い人、本当に才能があるか怪しい人が、パッションと感性でチョイチョイチョイっと作り上げたものが祭り上げられ、理解不能な高値で売られていたりします。 評論家に高く評価されている作品なのに、正直、見ても良さがさっぱり分からないという方は少なくないと思います。自分にはよく分からないけれど、専門家が褒めるならば良いものなのだろう程度に認識されているのではないでしょうか。本来、芸術とはそういうものではありません。 |
東京大学価値創造デザインラボのオープンラボ展示品(2017年) |
以前、少しだけロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)に触れたことがありました。 東京大学生産技術研究所では「価値創造デザイン」を推進するため、英国ロイヤルカレッジオブアート(RCA)と組んで東京大学価値創造デザインラボRCA-IIS Tokyo Design Labを設置し、新しい価値創造に取り組んでいます。 技術開発が得意な優れた頭脳だけでは、デザインまで優れた魅力的な産業製品は生み出せません。デザインだけ良くても技術的に成立しない製品だと、絵に描いた餅のような、実際には使えないものしかできません。それぞれの分野のトップクラスの頭脳を融合して、新たな価値を創造しようというチャレンジです。 |
バナナの骨格標本(東京大学価値創造デザインラボ 2017年) | 大企業の研究所に勤めていたサラリーマン時代に、なぜか同僚に勧められて興味本位で六本木ヒルズでの研究報告を聴きに行ったりしました。 これはオープンラボで展示してあった、バナナの骨格です(笑) |
リンゴとバナナの骨格標本(東京大学価値創造デザインラボ 2017年) | アート系と工学系で話が合うのかと思ったのですが、RCAクラスの人たちは論理的思考や知識面でもトップクラスの頭脳を持っているのでしょう。 アジアトップとして天才が集まる精華大学が提携校にもなっているそうで、RCAの学生は精華大学で一定期間授業を受けることもあるそうです。 |
現代でも欧米で美術・芸術は高尚な分野と見られ、地位が高いのはこのようなきちんとした理由があるのです。 サラリーマン時代の同僚に美術系の学校の出身者がいましたが、ただ絵を描いて親の脛をかじって遊ぶために行っただけで、大半はアーティストにはならず、全く違う分野に就職すると語っていました。そういう人が全てではないはずですが、一定数がそのような状況だからこそ日本では地位が低く見られるのでしょう。 |
2-4-1-2. ドレッサーと日本美術の出逢い
クリストファー・ドレッサー(1834-1904年) | 第2回ロンドン万博の日本ブース(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862年) |
真に価値のある芸術を生み出せる人、新しい分野を開拓していける天才は、頭が良くセンスにも恵まれることに加えて、非常に勉強熱心でもあります。 ドレッサーが日本美術に興味を持ったのは、1862年の第2回ロンドン万博でオールコック総領事の蒐集品を見たのがきっかけです。日本人の上流階級&エリート(文久遣欧使節団)にとっては"粗末なもの"でも、オールコックが買い求めた美術品や庶民の日用品は、工芸デザイナーでもあったドレッサーにとって驚くべきものでした。 |
ほうき・ざるなどの行商、Basket and broom peddler(1890年頃) 【出典】小学館『百年前の日本』モース・コレクション[写真編](2005) p.127 |
当時の日本は長く続いた平和によって、庶民の暮らしですらも精神的に豊かなものでした。産業革命を迎えておらず、器用さと美意識の高い国民性もあり、庶民の日常の雑具ですらも上質で美しく、ヨーロッパの人々にとっては十分に美術品に見えたのです。 ドレッサーは日本美術を熱心に研究し、日本の美術品に関する著作も多く発表するようになりました。 |
最初&最重要の独立系デザイナー | サウス・ケンジントン博物館館長 |
クリストファー・ドレッサー(1834-1904年) | サー・フィリップ・クンリフ=オーウェン(1828-1894年) "Philip Cunliffe-Owen" ©Lock & Whitefield/Adapted/CC BY 4.0 |
1873年のウィーン万博でアレクサンドラ・パーク社が購入した日本の神社楽殿などをロンドンに移設する際は、サウス・ケンジントン博物館館長と共に協力しています。そういうご縁もあっての、寄贈品の選定への協力だったわけです。 イギリス政府から日本への使者に任命されたドレッサーは1876年12月、美術館寄贈の約300点に加えて自身の織物コレクション約1,200点を携え来日しました。ニール号遭難事故は不幸でしたが、きっと一度は行ってみたかったであろう日本に行くチャンスができて、ドレッサーにとってはラッキーでしたね。 |
2-4-1-3. 来日したドレッサー
実際、かなりラッキーでした。 イギリス政府の正式な使者であり、サウス・ケンジントン博物館の代表者という立場で来日したため、ドレッサーは明治天皇から国賓として扱われました。一介のイギリス人デザイナーとしての来日だったらあり得なかった経験ができました。 |
第122代天皇 明治天皇(1852-1912年)1873/明治6年、21歳頃 | 明治天皇にも謁見しています。 ちなみに1876(明治9)年の来日時、ドレッサーは42歳ですが、明治天皇は24歳です。 写真は21歳頃ですが、14歳で天皇に即位し、15歳に大政奉還を勅許されて数年経過していることもあってか、日本のトップとして風格を感じます。 10代半ばともなればもう立派な大人ですし、20代にもなれば未熟ではあっても大人として強い責任があると思っています。 |
現代の日本人は高齢化もあって、20代であれば後半の年齢でも若者扱い、最近では30代ですら若者扱いされ、実際に自分は若いと思い込んでそのように行動する人が多い状況ですが、あまり良い状況には思えません。 昔はどの国でも、王侯貴族は生まれながらに責任のある立場が約束されているからこそ、物心つく前から立派な大人としての振る舞いを要求されます。明治天皇の場合、誕生されたのは江戸幕府の"将軍"が存在した時代だったので、政治や外交も含めて日本国のトップとなるための帝王教育は受けていたのか怪しいですし、そもそも開国による激動の時代は誰がトップでも対応が困難だったはずですが、そもそもの備わっているものが違う凄い方だったのでしょうね。 |
【旧薩摩藩士】東京国立博物館 初代館長 町田久成(1838-1897年) | ドレッサーは1876年12月から1877年4月までの4ヶ月間の日本滞在中、国賓としてあらゆる場所へのアクセスを許されました。 羨ましいことに、東京国立博物館の初代館長である町田久成の案内で正倉院宝物を調査しています。 町田久成は旧薩摩藩士で、1865(慶応元)年にイギリスに留学した人物です。滞在中に博物館事業の重要性を認識し、帰国後は博物館創設事業にも携わっており、優れた目利きでも知られています。 |
『内国勧業博覧会 美術館之図』(歌川広重:3世 1877/明治10年)国立国会図書館 |
明治政府にとって外貨を稼ぐための勧業新興は急務でした。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として政府主導で開催された博覧会『内国勧業博覧会』も1877(明治10)年に始まっています。 このような背景もあり、ドレッサーは明治政府からヨーロッパとの貿易に関する意見書・報告書の作成を要請されていました。工業振興への助言を仰ぐため、政府高官がドレッサーを日本各地の職人や寺社仏閣に案内しました。横浜、神戸、淡路、摂津三田、有馬、大阪、奈良、和泉堺、和歌山、黒江、高野山、京都、伊勢、四日市、名古屋、瀬戸、多治見、静岡、東京、日光、横浜と、4ヶ月の滞在でありったけの場所を視察しました。私だとキャパオーバーで訳が分からなくなりそうですが、ドレッサーのような天才だと大丈夫なのでしょうね。 |
【国宝】興福寺東金堂と五重塔(奈良)"Kofukuji12st5s3200" ©663highland(24 April 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
高野山に登ったり、興福寺の五重塔に上がったりもしています。楽しそうな観光・・、ではありません。重要な視察です。 現代の日本は、"海外視察"が半分は観光扱いされる傾向にあり、訪問した先でも本当にただ"見て"、"話をきいた"だけで終わるため、海外の訪問先から嫌がられるということが問題となっています。大企業でサラリーマンをやっていた経験からすると、これは大いにあることです。 戦前の日本はそうではありませんでした。文久遣欧視察団と言い、王侯貴族の時代はきちんとしていました。貴族制がなくなり、庶民の時代になると、途端に日本人の劣化が始まったのかもしれません。現代でも、日本以外ではビジネス的に意味のある手土産(具体的な提案など)を持参し、きちんと結果を作って戻ることを要求されるのが"視察"です。 |
ティファニー社(アメリカ) | |
創業者 | デザイン部門統率者 |
チャールズ・ルイス・ティファニー(1812-1902年) | エドワード・C・ムーア(1827-1891年) |
貴重な役割を与えられたドレッサーは、日英政府や博物館から報告書などの成果を求められていただけでなく、アメリカのティファニー社から日本のモノづくりを理解できる、新品、骨董を含めた日本の美術工芸品コレクションを作成することも依頼されていました。 創業者の時代に活躍したティファニーのデザイナー、エドワード・ムーアが統率するアーティスト達に世界中の様々な年代のジュエリーや工芸品から勉強するように指導し、最も重要な作品としてジャパネスクおよび考古学風の作品を遺していることは海外では有名です。 それが、アールヌーヴォーの祭典とも言われる1900年のパリ万博でグランプリを受賞した『アイリス』などへと繋がっていくのです。 |
クリストファー・ドレッサー(1834-1904年) | 工芸デザイナーでもある自身のためにも、様々な日本の工芸品を大量に購入し、ドレッサーは帰国の途につきました。 日本の最高クラスの美術品から庶民が使用する工芸品まで、現地で様々なものを直接目にしたドレッサーは、その後のアングロ・ジャパニーズ・スタイルの進化にさらに大きく貢献していきました。 |
2-4-2. 時代を超越したデザイン
2-4-2-1. クリストファー・ドレッサーの作品
1856年 | 1879年 |
『The Grammar of Ornament』の図版 | 『Jananese Ornament』の図版 |
左は来日前、1862年にロンドン万博でオールコック総領事の日本コレクションを見る以前のドレッサーの作品です。サウス・ケンジントン博物館で植物学を講義するだけあって、さすがにクオリティは高いですね。 右が日本から帰国後に描かれた作品です。やはりドレッサーはかなり深く日本美術の真髄を理解する能力があったのかなと感じます。生き物の表現や選んだ草花の種類だけではありません。左上と右下はどちらも笹竹がモチーフですが、描かれ方が対照的です。左上は獲物を狙う蜘蛛。気配に気づかれてはならぬ。風ひとつ吹かない、息を呑むようなひっそりとした静かな表現です。一方で右下は飛来する蝙蝠のシルエットの中に、風になびく笹竹が描かれています。静と動。 Genの推薦図書『日本人の美意識』を著したドナルド・キーン氏のように、日本人以上に日本美術の真髄を理解できる欧米人は存在します。滅多にいませんが、ドレッサーもその一人だったのかもしれません。 |
『清流』 ジャポニズム・アールデコ ペンダント イギリス 1920年頃 SOLD |
だからアールデコの『清流』も、ヨーロッパに渡った才能ある日本人の職人が作ったかもしれませんし、日本の美の真髄を理解した稀有なヨーロッパ人の職人が作ったのかもしれません。 どちらの可能性もあり、どちらかはっきりは分からないのです。 思い悩んで想像し、想いを馳せるのもまたアンティークジュエリーの楽しいところです。ぜ〜んぶ分かってしまったら、途端に現実世界に呼び戻されてつまらなくなってしまいますから♪ でも、感覚的には、この『清流』はやはり日本人の職人が作ったのではと想像しています。日本人でしか到達不可能と思える深淵を感じるからです。 調べるほどに、昔の日本人は海外で生き生きと活躍していたことが分かってきます。有名な政治家、学者だけでなく職人レベルまで含めます。 いつかこの宝物を制作した可能性がある人物も、もっと具体的に想像できる日が来るかもしれません。 |
今回の宝物もそうですが、優れたアンティークジュエリーは世に知られぬ存在としてひっそりと佇みながらも、尊敬の念と強い知的好奇心を持つ者には、時空を超えてたくさんのことを語りかけ、かつて存在した王侯貴族たちの高尚で美しい世界へと強力に教え導いてくれるのです。 |
1875年頃 | 1880年頃 |
陶板、メトロポリタン美術館 | 波のボウル、メトロポリタン美術館 |
話をドレッサーに戻しましょう。焼き物の作品でも、来日の前と後では表現に変化が見られます。才能があって、尊敬の念も持っていたからでしょう、来日前の作品でも一般的なヨーロッパ人が表現するザ・ジャポニズムとは一線を画す奥深さは感じますが、帰国後の作品はもっと理解が深くなっているように感じます。 陶板と立体のボウルを比較するのが適切かは置いておくとして、帰国後の作品は一目見ただけで分かりやすいジャポニズムではなく、日本美術の真髄を理解した上で、消化・吸収の果てに新たな創造に成功しているように感じます。 |
【文久遣欧使節】漢学者・国学者 市川清流(通称は渡:わたる)(1822-1879年) | 文久遣欧使節の一員としてヨーロッパの写実的な絵画を見た市川清流は、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や真髄を伝える点に於いては無知だ。」と鋭く指摘していました。 ドナルド・キーン氏も指摘するように、文学も含めて日本美術の真髄は"幽玄の美"にあります。 余韻を残すこと。情動を生じさせること。 物質的には"何もない"空間。或いは不完全なもの。そこに形を超えた美しさを見出してきたのが日本美術でした。 |
波のボウル(クリストファー・ドレッサー 1880年頃)メトロポリタン美術館 | 今にも動き出しそうな波。 初動、そこからエネルギーを蓄え、大きくなって一気にクライマックスへ。その一連を想像させてくれます。 寄せては消えを永遠に繰り返す波・・。 美術談義に花を咲かせながら、ぜひこの器で海の幸を楽しみたいものです。洋食より和食が良いなぁ(笑) 腕の良い和食の職人さんならばこの面白い器に合わせて、目も頭も楽しませてくれるあっと驚く美味しいお料理を作ってくれるでしょう。 |
『Théière』(クリストファー・ドレッサー 1879年)モントリオール美術館 |
ドレッサーの作品の中で、私が一番驚いたのはこのシルバー&黒檀のティーポットです。帰国後の作品ですが、ヴィクトリアン中後期、1870年代に既にこんなデザインがイギリスに誕生していたなんて思いもしませんでした。まだ一般的にはゴテゴテしたオーソドックスなヨーロピアン・デザインが溢れていた時代で、最先端デザインとして生み出されたこのティーポットは相当な異彩を放ったことでしょう。 アールデコのようなスタイリッシュさがありますが、後期アールデコに主流となっていく、コストカットのための"省略したデザイン"とは全く異なります。機能性と美しさを両立させ、無駄は一切削ぎ落とした、まさに日本美術との融合形です。この絶妙なフォルムをデザインするのに相当な思考が重ねられたはずですし、作るのも思いのほか手間がかかっているはずです。 このティーポットはアングロ・ジャパニーズ・スタイルの代表的かつ象徴的な作品ですが、日本的な名前ではなく、フランス語でティーポットを意味する『Théière』と名付けられているのが印象的です。 ドレッサーは1877年に日本のお茶会を見た経験からインスピレーションを受け、この作品を作ったそうです。 |
1873年 | 1883年 |
シルク・ウールの織物、メトロポリタン美術館 | デザイン画、メトロポリタン美術館 |
ちなみにドレッサーは来日前、左のような織物もデザインしています。茶道を習っている方だと、私と同じように感じる方もいらっしゃるかもしれません。茶入れに使うお仕覆でこんな感じの古代裂、名物裂を見たような気がします。色使いも柄もそんな印象があります。 日本で作られた名物裂の様々な柄は、来日前にも見る機会はあったはずです。それにインスピレーションを受けて制作したものと推測します。古い時代、日本にとっては中国が憧れの大国でした。『唐物』が尊ばれ、中国や中国を経由してもたらされる東洋の異国情緒あふれる柄はそのような名物裂にも反映されています。日本人が見ると、そのような裂の柄は日本っぽくないと感じますが、東洋の様々なデザインを融合し、日本独自で発展させてきた柄は、イギリス人から見ればやはり日本ならではの面白いデザインの1つと映ったのでしょう。 それがイギリス人とさらに融合し、右のようなデザインへと進化したようです。緑色のパネルに描かれた、交差する鳥さんの首は、ちょっと日本人では発想しない表現ですね(笑) |
黄銅のお茶用ケトル(クリストファー・ドレッサー 1885年) |
さて、ドレッサーはこのような作品もデザインしています。イギリスではアールヌーヴォーが流行しなかったと言われていますが、日本美術の真髄をいち早く取り入れたイギリスの上流階級や知的階級は、既にアールデコやインターナショナル・スタイルに向かっていたので、当然と言えば当然なのです。 イギリス以外を席巻したアールヌーヴォーは最終的には定番化せず陳腐化し、他国もアングロ・ジャパニーズ・スタイルからモダンスタイル、モダニズム、アールデコへと進化したスタイルに集約されていったのです。 |
イギリス製の燭台 | |
ネオクラシカル・スタイル | アングロ・ジャパニーズ・スタイル |
アンドリュー・フォーゲルバーグ 1774-1775年 | クリストファー・ドレッサー 1883年 |
同じイギリス製の燭台を比較するのも面白いです。左はいかにもオーソドックスなヨーロピアン・スタイルのデザインです。隙間なく全てを埋め尽くすのがラグジュアリーという思想が現れています。何もない部分が存在するのは、隙間を埋めるための手間やお金がかけられなかった、すなわち"安物の象徴"と見なす文化でした。長年この固定観念に支配され、ヨーロッパ人は自力でこの意識を打破することはできませんでした。 しかしながら開国後、ヨーロッパのより多くの人が工芸品を含めた日本美術に触れるようになり、同時多発的に傑出した美意識を持つ人々が目覚め始めたのです。 ドレッサーの燭台は18世紀の燭台と比較すると簡素に見えますが、取手の木を燭台のカーブにピッタリと合わせて精確に削り出したり、その木をグラつかずに本体に取り付けるのは高度な技術を必要とします。取り付け金具も単純なデザインにはなっておらず、竹の節にも似た面白い形状をしています。見る人が見れば分かる、手間と技術がかかっているからこその美しさがある、研ぎ澄まされた美の作品です。 |
燭台 | |
南部鉄器 | アングロ・ジャパニーズ・スタイル |
制作年不明 | クリストファー・ドレッサー 1883年 |
機能性も備えた美。 天皇を中心とした貴族階級の宮廷文化。将軍を中心とした武家文化。 日本人にとっては違和感がありませんが、考えてみれば天皇と将軍が併存するなんて普通ではありません。世界の歴史を見れば、どちらかが滅ぼされて支配体制は1つとなるのが通常です。世界でも他に類を見ない、日本ならではの体制の中で長い時間をかけて日本文化は発達し、洗練されていきました。雅な宮廷文化と比較して特に武家文化は特殊と言え、精神性を極地まで追求した研ぎ澄まされた美は、武家文化が発達したお陰と言えるでしょう。 日本文化は中国文化を元に発達しており、一見すると似たように見えますが、それでも全く違うジャンルと呼べるのは方向性が異なる2種類の上流階級が存在するという、独自の構造があったからです。天皇と将軍の併存した日本人ならではの国民性があってこそで、他国ではこのような美術的な発展が絶対にできなかった理由です。 |
2-4-2-2. エドワード・ウィリアム・ゴドウィンの作品
エドワード・ウィリアム・ゴドウィン 1833-1886年 | 建築デザイナー、エドワード・ウィリアム・ゴドウィンもアングロ・ジャパニーズ・スタイルで有名です。 |
ウィリアム・ワットのためのサイドボード(エドワード・ウィリアム・ゴドウィン 1876-1877年) "Edward william godwin per william watt, credenza, londra 1876 " ©Sailko(26 October 2016)/Adapted/CC BY 3.0 |
このサイドボードも初めて見た時は驚きました。1876〜1877年、今回のリングと同じ頃にデザインされたアングロ・ジャパニーズ・スタイルの作品です。 |
ウィリアム・ワットのためのサイドボード(エドワード・ウィリアム・ゴドウィン 1876-1877年) "Godwinsideboard" ©VAwebteam at English Wikipedia(26 OAugust 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
板を使用するサイドボードなので、直線デザインのアールデコっぽくなりやすい製品とは言えますが、空間の使い方がまさにヨーロッパでは今までになかったデザインです。 サイドボードの作者エドワード・ウィリアム・ゴドウィンは当時の上流階級や知的階級にも人気が高く、ルイーズ王女(ヴィクトリア女王の4女)や劇作家オスカー・ワイルドも虜にし、「今世紀で最もアーティスティックな精神を持つ人物の1人」と賞賛されていました。 |
ちょうどこの頃、最先端の魅力的なデザインとして、イギリスの上流階級や知的階級の間で、このようなアールデコを思わせるようなデザインが生まれていたわけです。 |
2-5. インスピレーション元として大注目された紋
菱形を意匠化した家紋 【引用】播磨屋.com / World of KAMON / 家紋の数と姓氏の数/Adapted | 家具などのデザインに於いて、最も一般的かつ特徴的に取り入れられたのが『紋』でした。 |
2代目ジョルジュ・ヴィトンが考案したルイ・ヴィトン社のモノグラム(1896年発表) ©Louis Vuitton | ヴィクトリアン後期は家紋をデザインに取り入れることがヨーロッパで流行しており、ルイ・ヴィトンのモノグラムも家紋にインスピレーションを受けて制作されたのは有名ですね。 |
写真家 日下部金兵衛による撮影(1880年代) | 中には複雑なものもありますが、家紋はデフォルメして単純化されているのが特徴です。 小さく描かれていても、一眼でそれと分かります。 |
ジャポニズム・リング | ||
アングロ・ジャパニーズ・スタイル | アールデコ | |
イギリス 1876-1877年 | 『ヴィクトリアン・デコ』 ロムバスカットガーネット リング イギリス 1876-1877年 SOLD |
サファイア リング フランス 1920年代 SOLD |
家紋のデザインそのもので家具などをデザインするのは無理がありますが、指元にはめる小さなリングは唯一、家紋そのものでデザインして違和感のないアイテムです。 家紋の種類は最低でも5,116種類あり、他にも失われた紋や無名の紋が存在することが知られています。そのものずばりの紋が存在したか、オーダーした人物の好みによって手が加えられたのかは当時の人にしか分かり得ませんが、これらのリングは全て家紋を元にデザインされたと推測します。 |
サファイア リング フランス 1920年代 SOLD |
井桁 "Japanese crest Igeta" ©Mukai/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
井桁に十六菊 "IgetaNi16Kiku" ©Blueknight611/Adapted/CC BY-SA 4.0 |
重ね井筒 |
『ヴィクトリアン・デコ』に関しては、カタログで詳細をご説明しているので割愛します。 アールデコのサファイア・リングは、井桁紋や井筒紋がインスピレーションの元となっていると思います。 |
菱形を意匠化した家紋 【引用】播磨屋.com / World of KAMON / 家紋の数と姓氏の数/Adapted | |
菱形的なデザインを組み合わせた今回の宝物も、きっと菱形系の家紋にインスピレーションを受けてデザインされたと思います。 |
西菱(人菱) | 左万字菱 "Japanese crest Hidari Manji Hisi" ©Mukai/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
吉菱 | 亀甲巴の字・三つ巴の字菱 |
日本の家紋だけでも、菱形の応用系は無数に存在します。眺めているだけで、よく考えたものだと感心します。このような知的な幾何学デザインに触発されて新たなデザインを生み出したのかもしれませんし、そのものずばりのお気に入りの家紋を見つけていたかもしれません。タイムスリップして持ち主に聞いてみたいものです♪ |
2-6. ピーコックルームなどの社交場との関係
『Théière』(クリストファー・ドレッサー 1879年) | 私のお気に入りのデザインは、ほぼ同時期に制作されています。 |
1876-1877年制作のイギリスの美術工芸品 | ||
今回の宝物 | 『ヴィクトリアン・デコ』 | サイドボード "Godwinsideboard" ©VAwebteam at English Wikipedia/Adapted/CC BY-SA 3.0 |
特に、今回の宝物と以前ご紹介した『ヴィクトリアン・デコ』の、2つの稀少なアングロ・ジャパニーズ・スタイルの最高級リングの制作年が完全に一致しているのは注目すべきことです。 これを単なる偶然と捉え、素通りしてはなりません。イギリスの王侯貴族のために作られた最高級ジュエリーのこのような一致に関しては、偶然ではなく必然と考えるべきです。 |
2-6-1. ロンドンのピーコックルーム
ここまで単品としての様々なアングロ・ジャパニーズ・スタイルの作品をご紹介しましたが、ジュエリー同等、時にはジュエリー以上にお金をかけて作られるのが建築物、及び室内装飾です。 ちなみにジュエリーはそんなに高価なものなのかと思った方は、現代ジュエリーの意識が抜けていません。古代ローマでは天然真珠1粒で1回の戦費を賄った逸話が残っていますし、マイクロ・カーブド・アイボリーや古い時代の懐中時計は城1つが購入できる価格だったそうです。20世紀初頭でもカルティエの天然真珠のネックレスが、支払代金が足りずにマンハッタン5番街のビル1棟も加えて購入された話は有名です。 アンティークの時代のハイジュエリーは万が一の時に小さくて持ち運びができる、まさに財産なのです。いくらでも安価に同じものを量産できる現代ジュエリーは財産性があるわけがなく、ジュエリーと呼ぶこと自体がおこがましいのです。 |
アングロ・ジャパニーズ・スタイルの代表的な室内装飾 |
ピーコック・ルーム(ジェームズ・マクニール・ウィスラー&トーマス・ジキル 1876-1877年) "Peacock Room (2)" ©Smithsonian's Freer and Sackler Galleries(1 January 2000)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
アングロ・ジャパニーズ・スタイルの室内装飾の代表作にして、最高傑作の1つとして名高いのがロンドンに作られたピーコック・ルームです。金箔を使った表現はセセッション(ウィーン分離派)のグスタフ・クリムトが有名ですが、既にイギリスではこのような作品が生まれていたのです。 |
依頼主 | 建築家 |
【海運王】フレデリック・リチャーズ・レイランド(1831-1892年) | リチャード・ノーマン・ショウ(1831-1912年) |
ピーコックルームは、イギリスの海運王フレデリック・リチャード・レイランドが所有するロンドンのタウンハウスのダイニングルームとして制作されました。 レイランドは大西洋を渡る貿易用の蒸気船を25隻も所有するイギリス最大の船主の一人で、著名なアートコレクターでもありました。元々所有していたタウンハウスの改築と改装を、有名建築家リチャード・ノーマン・ショウに依頼しました。 ショウはダイニングルームの改装を、建築家&デザイナーのトーマス・ジキルに委託しました。ダイニングルームは各地からロンドンにやって来る上流階級が集う、"都会の社交場"としてタウンハウスの中でも最重要と言える場所です。 |
アングロ・ジャパニーズ・スタイルの建築デザイナー | |
【建築家・デザイナー】トーマス・ジキル(1827-1881年)と父 | トーマス・ジキルが使用していた作品のサイン。日本の紋と落款印がインスピレーションの元となっているようです。1881年以前。 |
なぜジキルが選ばれたかと言うと、当時のイギリス社交界で流行の最先端だったアングロ・ジャパニーズ・スタイルで実績があったからです。 |
ピーコック・ルーム(ジェームズ・マクニール・ウィスラー&トーマス・ジキル 1876-1877年) "Peacock Room" ©Smithsonian's Freer and Sackler Galleries(1 January 2000)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
ピーコック・ルームはジキルとジェームズ・マクニール・ウィスラーによって制作されました。ウィスラーは、奥に見える『陶磁の国の姫君』を描いた人物です。ジキルはこの部屋を、レイランドの陶磁器コレクションを美しく飾る『磁器の部屋』となるよう思い描いて制作したそうです。 完成したピーコック・ルームはジキルの最高傑作、且つ室内装飾芸術の傑作と評価されています。依頼主レイランドが亡くなった後は、アメリカの実業家&アートコレクターのチャールズ・ラング・フリーアが遺族から匿名で部屋ごと買い取りました。 |
実業家 チャールズ・ラング・フリーア(1854-1919年) "Charles Lang Freer portrait" ©Edward Steichen(c. 1916)/Adapted/CC BY-SA 2.0 | ピーコック・ルームはデトロイトの邸宅に移設され、1919年にフリーアが亡くなった後はフリーアがワシントンDCに設立したフリーア美術館に恒久的に移設されました。 1923年から一般公開されています。 |
ピーコック・ルーム(ジェームズ・マクニール・ウィスラー&トーマス・ジキル 1876-1877年) "Peacock Room (2)" ©Smithsonian's Freer and Sackler Galleries(1 January 2000)/Adapted/CC BY-SA 2.0 |
そのお陰で140年以上も前に、芸術と文化の最先端の場所として上流階級や知的階級の人々が楽しんだ社交の場を、今でもそのまま見ることができるのです。 当時の部屋をそっくりそのまま見ることができるのは、非常に稀なことです。美術館に寄贈される品々は多いですが、その大半は展示されず、人目に触れることのない場所で死蔵品となります。あまり価値がなかったり、価値があっても客を呼んで稼げなくてはダメです。所蔵品の保管管理にも莫大な費用がかかります。部屋ごとを残すというのは相当なことです。 このフリーア美術館は世界で最も来場者が多い美術館の1つで、数あるコレクションの中でもピーコック・ルームは目玉として機能しています。だからこそお金をかけて保守がなされ、いつでも見れる状態となっているのです。 欧米ではそれくらい知名度が高く、日本美術の影響を受けた最高傑作として高く評価されているのです。なぜ、日本ではあまり知られてないんでしょうね(笑) |
2-6-2. 狭い社交界の世界
社交界はオープンな世界ではありません。上流階級や大富豪、著名な芸術家や学者など、限られた人たちだけが出入りできる狭い世界です。その中で独自ネットワークが形成され、流行や文化が形成され、伝播されていきました。 |
ディレッタンティ協会(1777-1779年頃) | 紳士の国イギリスには様々なクラブ(協会)があります。古くはパトロン・クラブ『ディレッタンティ協会』が1734年から存在しました。 ギリシャやローマ、エトルリアなどの古代美術の蒐集と研究、さらにはその様式にインスピレーションを受けた新しい作品を創造する芸術家のスポンサーとして機能した、イギリスの上流階級によるクラブです。 上流階級に加えて学者、芸術家たちが出入りします。 |
今回は調べ切れていませんが、1870年代頃にも日本美術を研究する、『ディレッタンティ協会』と同じようなクラブが存在したと想像します。日本美術を蒐集し、研究し、新たな芸術を生み出すためのクラブです。 バラバラな動きをするのではなく、同じ方向を向く仲間同士で切磋琢磨してこそ早いスピード、且つクオリティ高く発展していくものです。その活動がアングロ・ジャパニーズ・スタイルとして確立されていったと予想しています。 |
ピーコック・ルーム(1876-1877年)1890年撮影 |
日本美術に強い興味を持ち、自分達の美術様式と融合させてより優れた新たな芸術を生み出そうとした、そのような人たちがこの場所には集まったはずです。 |
それがモダンスタイルへの発展へと繋がり、アールデコやモダニズム、インターナショナル・スタイルへと繋がっていったのでしょう。 |
3. 高級品らしい上質な石
アールデコのようなデザインのシンプルに見えるリングですが、さすがに人に見せるための特殊な最高級品として作られただけあって、使用された宝石も上質です。 |
3-1. オープンセッティングの極上の天然真珠
3-1-1. デザインに相応しい色と質感の天然真珠
この宝物は色や質感が揃った、とても上質な天然真珠が使用されています。 鮮やかなターコイズ・ブルーに対して、白さが際立つ天然真珠です。 輝きも抜群に良いです。 |
【参考】最高級の花珠養殖真珠 | 官製ハガキを厚みの基準とし、真珠層が0.25mm以上で最高品質の花珠認定されてしまうような現代の養殖真珠では、内側から滲み出てくるような真珠独特の輝きはありません。 |
違和感があるほどピッカピカで安っぽく輝く養殖真珠も存在しますが、それは表面を磨いているからです。 生き物である母貝が体内で育むものなので、表面にアバタやエクボは養殖真珠であっても当然できます。歩留まりを良くするため、表面にできてしまった凸を磨いて除去し、商品として売れるようにします。 また、同じ番手で磨き上げれば表面の粗さも全て同じとなり、輝き方も均一にすることができます。調色(脱色&染色)によって色も均質化できますし、輝きも磨き作業によって均質化できるのです。大きさや形状はそもそも貝殻の核に極薄の真珠層をメッキするだけなので、最初から揃っています。 戦後の養殖真珠は無個性かつ表面的で安っぽい輝きしかなく、真珠本来の魅力は皆無です。 |
内側まで全て真珠層であり、変な人工処理を加えない天然真珠はその質感や輝きも個性に富みます。シルキーマットだったり、濡れているかのように透明感のある瑞々しさを湛えていたり、金属光沢を思わせるような強い輝きを放つものまであります。 この天然真珠は以前ご紹介した『マーメイドの宝物』ほどではないものの、金属光沢を彷彿とさせるような強い光沢があります。輝きが柔らかすぎず、白い色ながらも存在感があって、アールデコのようなデザインを確実に際立たせています。輝きや光沢は肉眼で見ないと雰囲気が分からないものですが、天然真珠への光の映り込みなどで少しは感じていただけるでしょうか。 |
3-1-2. 珍しいオープンセッティング&高度な石留
正面から見ると天然真珠は同じ大きさで真円に見えますが、角度を変えて見るとそれぞれ高さや形に個性があることが分かります。 |
規格を揃えた材料で作る現代の量産ジュエリーと違い、1つ1つ個性が異なる天然の素材を使って作る、心を込めた1点物のハイジュエリーならではの高度な技術を感じます。 |
この天然真珠はハーフパールにして、オープンセッティングで留めてあります。ダイヤモンドであれば、この時代は小さな石でもオープンセッティングが通常ですが、ハーフパールでは思いのほか少ないです。天然真珠にある程度の大きさがあり、さらに裏側の作りにもこだわる美意識の高い人物のオーダー品だったからこそと言えます。 |
天然真珠リング | |
ボタンパール | ハーフパール |
『Flower』 天然真珠 クラスターリング イギリス 1880年頃 SOLD |
『Day's Eye』 ガーネット&天然真珠 リング イギリス 19世紀後期 SOLD |
天然真珠でリングを作る場合、そのまま使うこともあれば、半分に割ってスプリット・ハーフパールとして使うこともあります。そのまま使う場合は穴を開けて真珠セメントで固定するのが通常です。ハーフパールの場合は土台をハーフパールの形状に合わせて削り出し、爪や覆輪で固定します。 |
『愛の花』 アーリーヴィクトリアン クラスターリング イギリス(チェスター) 1838年 SOLD |
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煌めきや透明感が魅力のダイヤモンドと異なり、天然真珠はオープンセッティングにする必要がないため、小さなハーフパールは通常クローズドセッティングされます。 |
オープンセッティングのハーフパールは例外的な存在で、46年間で数点しか見たことはありません。好きなだけ安く早く量産できる養殖真珠と異なり、天然真珠は稀少性の高い、アンティークの時代の最高位の宝石です。 ハーフパールにすると1粒で2つ取れるので美味しい話のように感じるかもしれませんが、絶対に綺麗に半分に割れるというものではありません。現代の職人さんに意見を伺った所、綺麗に2つに割るのは無理なので、ハーフパールを作るとしたら片面を削って作るしかないと言われました。1粒で2つ取れるような美味しい話になるどころか、削り落とされて半分になってしまうのです! 半分に割ろうとして、もし失敗したらまるまる台無しとなり、ハーフパール1つすら取れない事態にもなり得ます。いくつでも入手できる稀少性のない宝石だったらそれでも良いですが、稀少価値の高い天然真珠でそんなことになったら目も当てられません! だからもしオープンセッティングする大きさでハーフパール・ジュエリーを実現している場合、確実にオーダー主にとって重要な意味があります。 |
例1. キューピッドのお礼参り
『キューピッドのお礼参り』 リバースインタリオ+金箔工芸 イタリア 1600年代後期(後期ルネサンス) ※フレームは1700年代後期 SOLD |
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『キューピッドのお礼参り』の場合はルネサンス期の超貴重な美術品の額として相応しいよう、特別にハーフパールでフレームを作ったのでしょう。1700年代という古い時代だからこそ実現できたと言えます。 |
例2. 永遠の天然真珠
『永久の天然真珠』 ジョージアン 天然真珠&ガーネット ペンダント&ブローチ イギリス 19世紀初期 SOLD |
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美しくて大きな天然真珠ほど稀少価値は高くなります。大きくなるほど、綺麗に半分に割る難易度は上がりますし、リスクに見合わないトライとなります。だから『永遠の天然真珠』はGenもこれまでに類似のものを見たことがないというほど驚いていましたし、これからも出てくることはないと思える、驚きのハーフパールの宝物でした。 球体のままの天然真珠で作るとジュエリーとしての収まりが悪いからトライしたと想像しますが、リスクを承知した美意識の高さと言い、実現できた技術の高さと言い、ジョージアンの最高級品だからこその存在と言えます。 |
例3. 美意識の極み
『美意識の極み』 天然真珠ピアス イギリス 1870年頃 SOLD |
↑等倍 |
19世紀後期にも、このようなピアスが存在しました。 見てビックリしました。 通常ならばハイクラスのピアスであっても、このようなデザインの場合はハーフパールではなく、2つの色や質感、大きさを揃えた天然真珠で制作します。 |
並べて見比べるならば天然真珠のちょっとした質感などの違いが気になるかもしれませんが、左右の耳に着けるピアスの場合、多少色や質感が違っても普通は気にならないものです。 1粒の天然真珠を割って作った2つのハーフパールのみ、厳密な意味で色も質感も同じものと言えます。オーダー主はそのレベルの完璧を求めたのでしょう。失敗したら稀少価値の高い、美しく大きさのある天然真珠が1粒失われます。だから定番デザインとして似たピアスはあっても、『美意識の極み』と同じようにハーフパールをオープンセッティングして作ったものは見たことがないのです。 そこまでこだわるのかと驚き呆れ果てるばかりですが、当時の社交界にはそのレベルの貴婦人が存在したという証とも言えます。こういう宝物を見ると背筋が伸びます♪ |
この宝物の特殊性を、ハーフパールの観点からもご理解いただけましたでしょうか。 この宝物も『美意識の極み』と同様、色や質感を完璧に揃えるために2粒の天然真珠を4つのハーフパールにした可能性が考えられます。並べてセットするため、ピアス以上に色や質感の違いはシビアに目立ちます。デザインが重要な作品であるからこそ、よりそこにこだわって作られたと推測します。 また、このリングのデザイン上、天然真珠に高さがあり過ぎるとヘンテコになってしまうため、球体やボタンパールではなくハーフパールにしたということも言えます。 このような作りは、天然真珠を使うアンティークジュエリーならではと言えます。養殖真珠の場合、貝殻を削った核と真珠層の密着性が悪いため、ハーフパールを作ろうとしても真珠層が核から剥がれてしまうそうです。密着していない隙間から皮脂や大気中の汚染物質が入り込むため、穴を開けて作る養殖真珠のネックレスは薄〜い真珠層の内側から徐々に変色していくそうです。天然真珠であれば古代ローマ時代のもの、すなわち2000年くらい前のものでも変色なく照り艶が保たれていますが、最近の養殖真珠が堂々と「真珠は20年くらいしかもちません」と言われて販売されているのはこのせいです。 |
お勉強熱心で素直な方だと、業界のそのような文言を鵜呑みにして真珠のジュエリーは長持ちしないと思い込むのですが、そもそも稀少性がない養殖真珠は宝石ではありません。 『宝石』として古の王侯貴族に認められていた天然真珠は140年以上経過しても変色しませんし、照り艶も美しいままです。 だからこそ財産性も存在したのです。 この上質な天然真珠を見れば、美的感覚を持つ人ならばきっと一瞬で虜になるはずです。 |
3-2. 色彩の美しいトルコ石
この宝物は、色彩の美しいトルコ石も目を引きます。 互い違いに並べたターコイズブルーのV字が、デザインの大きな特徴となっています。 |
3-2-1. 古の王侯貴族に人気があった高級宝石
【参考】現代の"トルコ石"のアクセサリー | トルコ石にどういうイメージをお持ちでしょうか。 インディアンジュエリーなど非ヨーロッパ系のイメージであったり、アクセサリーに大量に使用されるような安っぽいイメージを持たれている方も少なくないと思います。 アンティークジュエリーに使用されるターコイズは上質なペルシャ産トルコ石でしたが、現代は質の悪いメキシコ産やアメリカ産をエポキシ樹脂でスタビライズド処理したものが殆どです。 |
業界が設定する『基準』は、業界に都合の良い内容でしか作られません。 エポキシ結合技術は1950年代にアリゾナのColbaugh処理施設で初めて開発されました。この技術は急速に広まり、アメリカ産ターコイズの大部分は現在この方法で処理されています。アンティークジュエリーの仕事を始める前の20代の頃、Genが北欧系インディアンのジュエリーを扱う機会があったのですが、1970年代の当時、既にターコイズは酷い状況だと作家マイク・ウィズリーが嘆いていたそうです。トルコ石という観点でも、戦後のジュエリーは全然ダメです。 それほどまでに市場が処理石ばかりの状況だからこそ、アメリカではスタビライズド処理されたトルコ石はナチュラル(天然石)として扱われます。樹脂まみれなのに(失笑) |
【参考】トルコ石風の着色ハウライト・イヤリング(現代) | それ以外に、ハウライトという石をターコイズ・ブルーに染めたものも存在します。 ハウライトも天然石ならではの模様があるため、着色すればいかにもトルコ石のようになります。 感触も当然ながら『石』です。 |
染料が移ったハウライトのパーツ(右) |
ハウライトを漂白してからターコイズブルーの染料で染めるのですが、左右のイヤリングを比較すると、右側の白いハウライトのパーツは染料が移って中途半端に染まっています(笑) |
【参考】樹脂&木製ビーズのネックレス(現代) |
もはや天然の石ですらない、ターコイズブルーの樹脂もトルコ石風アクセサリーでたくさん使用されています。それらしい模様を出すのも簡単ですし、どんな色でも形でも自由自在です。 他の宝石と比較してもあまりの惨状に驚くばかりですが、逆に言えば、それだけ人気の高い石ということも言えるのです。 |
イギリスのマーガレット王女(スノードン伯爵夫人)(1930-2002年) "Princess Margaret" ©David S. Paton(Unknown date)/Adapted/CC BY-SA 3.0 | エリザベス女王の妹、マーガレット王女もペルジャン・ターコイズのパリュールを若い頃から愛用していました。 正装の際はティアラからネックレス、ピアス、ブローチまでフル装備しますが、TPOに合わせて単独でコーディネートすることもあります。 代々伝わるジュエリーを所有し、本来のジュエリーの価値を理解している王侯貴族にとっては、現代でもペルジャン・ターコイズは王族として身につけるに相応しい価値ある宝石なのです。 |
3-2-2. 変色する石としない石
ペルジャンターコイズ リング フランス 1880年頃 SOLD |
それほど人気のある宝石なので、これまでにも様々なトルコ石のハイジュエリーをご紹介してきました。 |
『旅のお守り』 ターコイズ・ボール・ブレスレット イギリス 1880年頃 SOLD |
ラティスワーク ブローチ イギリス 1890年頃 SOLD |
原因はまだはっきり分からない部分も多いのですが、トルコ石は変色する石としない石があります。同じ産地で、同じ環境を経て来たと見られる石ですら、100年以上の年月でこのように多様な色彩へと変化しているようです。 当時は均一な色彩だったと想像しますが、このデザインだと、私はこのように絶妙な色彩バランスとなっている今の方が好みです。随分と都合よく、良い感じに成長したものだと感心してしまうほどです。均一過ぎると、逆に不自然に感じたかもしれません。欧米人だとその方が好みかもしれませんが、日本人の感覚だとこちらの方が好みという方も結構いらっしゃると思います。 この"成長"は天然のトルコ石ならではの魅力と言えます。樹脂は経年劣化が避けられないため、そもそも樹脂加工したトルコ石のジュエリーはアンティークになるまで持ちません。現代ジュエリーは財産ではなく消費財であり、成長はせず劣化するのみです。 |
ジョージアン ターコイズ ブローチ&ペンダント イギリス 1800〜1820年頃 SOLD |
面白いと思うのが、変色しない方が良いデザインのものは、より古い時代のものであっても変色していない場合が多いことです。 |
ペルジャンターコイズ カンティーユ ブローチ イギリス 1820年頃 SOLD |
『A Lily of the Valley』 鈴蘭のブローチ ヨーロッパ 1880年頃 SOLD |
変色していたら100%ダメとは言いませんが、こういうデザインだと色彩は均一な方が美しく感じます。 都合が良すぎて、もしかすると当時の宝石職人は変色する石としない石を見分けられたのではとすら思ってしまいます。 |
『古代アンフォラ』 ターコイズ&ゴールド ピアス イギリス 1860-1870年頃 SOLD |
このピアスもそうです。 |
このリングはV字の組み合わせがデザインの重要な構成要素となっているため、トルコ石の色彩は均一であるべきです。 見事に色彩は揃っています。 都合が良すぎて、やっぱり当時の職人は見分けられたんじゃないかと思います。 |
↑等倍 |
140年以上経過してもターコイズブルーの美しい色彩が保たれた、上質なトルコ石です♪ |
4. 美意識の行き届いた作り
このリングは社交界の中でも特に知的で美意識の高い人たちの集まりで着用するために作られたからこそ、その作りにも細部まで美意識が行き届いています♪ |
4-1. 美しいフォルムのショルダー
注目すべき箇所の1つがショルダーです。 |
アングロ・ジャパニーズ・スタイルのリング(1876-1877年) | |
『ヴィクトリアン・デコ』 ロムバスカットガーネット リング SOLD |
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比較すると面白いのが『ヴィクトリアン・デコ』です。同じタイミングで制作された、どちらもアングロ・ジャパニーズ・スタイルの最高級品なのですが、ショルダーに関しては方向性が真逆なのです。 |
『ヴィクトリアン・デコ』のショルダーはロムバスカット・ガーネットから続く、優美な彫金デザインが特徴です。正面から見るとストライプと菱形を組み合わせたアールデコのようなデザインが印象的ですが、この部分はいかにもオーソドックスなヨーロピアン・ラグジュアリーを想わせるデザインと作りになっています。この組み合わせが、日本美術に影響を受け始めたばかりのヴィクトリアンの王侯貴族のジュエリーという印象を強くしています。アールデコほどはデザインを削ぎ落としていない、1876年頃らしいデザインと感じます。 それと比較すると、今回の宝物はシンプル・イズ・ベストを体現したような、完全に無駄のないショルダー・デザインになっています。そうは言っても、何もデザインされていないわけではありません。 |
何もない緩やかなデザインではなく、ショルダーはV字に整えられています。 |
ベゼルの端から自然な流れで続く、心地よいフォルムです。 一見するとシンプルですが、この自然な美しさを体現させるためには相当な計算があったはずです。 きっと何度も試作を繰り返して、この理想的なフォルムにブラッシュアップしていったと考えられます。 |
『LOVE』 ルビー リング イギリス 1880〜1900年頃 SOLD |
今回の宝物のフォルムに気付いた時、私は『LOVE』を思い出しました。 このリングも一見シンプルなデザインですが、相当な計算が重ねられてこの美しいフォルムが実現しています。 ゴチャゴチャ飾り立てる方が高そう&ゴージャスに見えるため、普通はどうしても追加する方向のデザインになります。 引き算の美、シンプル・イズ・ベストの美は誰にでも理解できるものではありません。 |
このような美は、日本の侍のように研ぎ澄まされた美的感覚と美意識を持つ、限られた人しか理解できません。どちらかと言えば、女性よりも男性の方が理解しやすいと思います。もちろん理解できる女性も存在します。しかしながら、教養のある王侯貴族の中でも本当に稀有な存在だったからこそ、このような方向性の宝物はハイジュエリーでも滅多にないのだと思います。 |
アングロ・ジャパニーズ・スタイルのジュエリーとしては最初期の作品でありながら、もうシンプル・イズ・ベストの境地に到達していた女性がいたなんて驚きですし、ぜひ会ってみたいものです。 正面から見ると、このV字のフォルムによってショルダーのゴールドの輝きがシャープに見えます。ベゼルのV字を組み合わせたデザインとも調和しています。 |
指に着けた時もチラリと見える部分です。 気付いた人は、持ち主の卓越したセンスの良さと贅沢過ぎるお金のかけ方に感動し、きっと惜しみない賞賛を贈ったことでしょう♪ |
4-2. 完成度の高いシャープな作り
↑等倍 |
小さなリングですが、完成度の高いシャープな作りはさすが当時の第一級の職人にオーダーした最高級品だと感じるものです。職人自身のセンスの良さに加え、高度な技術と丹念な仕上げがあってこそです。 |
↑等倍 |
現代は1億円を超える超高級ジュエリーでも鋳造(キャスト)で制作しますが、型を使う鋳造ではここまでシャープな作りにはなりません。 アンティークの鍛造のジュエリーのように金属を叩いて鍛えないため、人件費や技術料は圧倒的に安く済みますが、鍛造と同じ厚みだと十分な強度が出せないため、使う金属の量がどうしても多くなります。それもあって、現代ジュエリーはボテッとしたデザインと、エッジがぬるんとしたボヤけた作りになるのです。 |
現代ジュエリーはアンティークと比べて貴金属の量が多くて高級だと喜ぶのは、全くの成金思考です。 現代ジュエリーが、使う金属量が多くなっても鋳造で作るのは、その方がコストが安いからです。 貴金属の多少の量の違いとは比較にならぬほど、ジュエリー制作に於ける人件費や技術料には、そのレベルによって違いが出ます。 高度な技術と手間を要するシャープな作りを実現するには、相当なお金がかかります。 |
まあ、ビリオネア・クラスだからこそできることだとは思います。 そうでなければ無理な代物ですが、2回の世界大戦を契機に王侯貴族の時代が終焉を迎えて久しい現代、古の王侯貴族のジュエリーの真の価値を理解できる人が殆どいなくなってしまったからこそ、ビリオネアでなくとも同じだけの美意識さえあればこのような宝物を手にすることもできるのです。 |
裏側
どこから見ても完成度の高い美しい作りです。 |
着用イメージ
まさに、デザインそのものが主役となるリングです♪ ステータス・ジュエリーとして、宝石そのものを主役にするリングの方が圧倒的に多いです。 1870年代。アールデコより40年以上も前の時代。 ダイヤモンドとカリブレカット・サファイアの組み合わせでプラチナの作りだったら、また雰囲気は違っていたでしょう。 |
日本の開国により、世界全体の美術デザインが大きく動いていく時代の生き証人です。 極めて重要な歴史資料として知的に面白く、美術作品として眺めても楽しめ、着用してオシャレもできる、魅力あふれる宝物です♪♪ |