No.00338 天女の舞

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

 

 

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

エレガントで洗練された透かしデザイン♪

 

 

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

澄んだ空に虹色の世界が浮かび上がるようなオパール♪

 

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

 

 

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

『天女の舞』
オパール 扇ブローチ

イギリス 1900〜1910年頃
オパール、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド、プラチナ、15ctゴールド
サイズ:3.8×1.8cm
重量:3.7g
SOLD

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

透き通るような透明感の中に、驚くほどパワフルで多様な色彩が浮かび上がる、幻想的なオパールを使ったブローチです。イギリスでジャポニズムブームが起きた年代より後の、エドワーディアン初期に制作されており、単純にモノとしての扇を表現したものではなく、1900年のパリ万博やその前後の欧米ツアーで初披露された、マダム貞奴による日本のトッププロの"扇の舞"にインスピレーションを受けた作品とみられます。

日本美術に影響を受けた軽やかな透かしデザインが美しい一方で、和のモチーフではなくアーツ&クラフツやアールヌーヴォーを思わせるお花のデザインや粒金による装飾がヨーロッパらしい雰囲気も醸し出しています。世界がつながり、インターナショナルな時代へ向かっていた当時の、最先端のデザインです。

単純な扇としての見た目だけでなく、細部まで計算された構造デザインと精緻な作りは見事なものです。オパールもオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドも極めて上質な石が使用されており、和洋両方の芸術を理解し尊敬できる特別な王侯貴族がオーダーしたとみられる、最高級の素晴らしいブローチです♪

 

 

この宝物のポイント

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
  1. 新しい感覚のモダンな扇デザイン
    1. 開国後に欧米で大人気となった日本の扇
    2. 欧米文化に取り入れられ始めた日本の扇
    3. 踊りや演技の中で再度欧米人を魅了した扇
  2. インターナショナルな雰囲気
    1. アーツ&クラフツ系の要素 -植物デザイン-
    2. 日本美術の要素 -透かし&孤のデザイン-
    3. 万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパール
  3. 金細工が美しい上質な作り
    1. センスの良い粒金デザイン
    2. 美しいミルグレイン
    3. 見事な立体造形&仕上げ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

 

 

1. 新しい感覚のモダンな扇デザイン

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

然るべき持ち主によって、ヘビーローテーションや不適切な使い方をされることなく大切にされてきたアンティークのハイジュエリーは、作られてから100年以上が経過した現代でも、まるで今作ったかのように感じられるものです。

しかしながらこの宝物はその先進的なデザインと上質な作り故に、今作ったどころか、まるで未来に作られたかのような感覚すら覚えます。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
扇モチーフのアールヌーヴォー・ジャポニズムのブローチ『扇』
5カラー・ゴールド ブローチ
アメリカ? 1890年頃
SOLD

他の扇モチーフの作品とはどう違うのか、どういう違いによってモダンな雰囲気となっているのかを、歴史背景を元に見ていくことにしましょう。

1-1. 開国後に欧米で大人気となった日本の扇

1-1-1. ヨーロッパの折りたたみ式扇の歴史

フランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589年)

日本が開国する以前から。ヨーロッパにも折りたたみ式の扇はありました。

現在確認されている世界最古の折りたたみ式の扇は、日本の奈良時代の檜扇です。平安時代中期までに、5〜6本の細い骨を紙に貼った蝙蝠扇(かはほりあふぎ)が夏の扇として現れます。

日本で発展した折りたたみ式扇が16世紀に始まった南蛮貿易でヨーロッパにもたらされ、フランスに嫁いだフィレンツェ共和国メディチ家出身の王妃カトリーヌ・ド・メディシスが宮廷に導入しました。

フランス王妃マリー・ド・メディシスが扇を手にした肖像画
1603年、左は長男ルイ13世 1616年

その後フランス王アンリ4世(1553-1610年)とマリー・ド・メディシス(1573-1642年)の結婚を期に流行することになります。マリーはカトリーヌ・ド・メディシスの遠縁で、フランス国王ルイ13世の母となります。

写真がない時代、肖像画は王侯貴族のプロモーション・ツールとして重要な役割を果たしていました。一緒に描かれるのは富と権力を象徴する贅沢なジュエリーやドレス、小物、調度品などです。男性であれば男らしさを象徴する剣を持っていたり、女性であれば美しさやエレガントさを印象付けるために花を手にしていたりします。

流行させたいものを描かせることもあります。直接その姿を見る機会がなかったとしても、飾られたその肖像画を見た上位貴族たちがそれを手本に新しいファッションを取り入れ、やがて社交界での流行となります。フランス王妃マリー・ド・メディシスも、扇を持つ肖像画が複数残されています。

フランス国王ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュの婚儀(1660年)

フランス国王ルイ14世(1638-1715年)の治世下の1678年、パリで扇職人の同業者組合が作られると、フランスの扇職人がヨーロッパ市場を席巻するようになります。18世紀には、パリは『扇の都』と言われるまでになりました。1782年には253もの製造業者が加盟していたそうです。

ヴェルサイユ宮殿『鏡の間』での仮面舞踏会(1745年)

18世紀のフランス宮廷では、扇を使って秘密のメッセージを相手に送る『扇言葉』も大流行しました。舞踏会場などの騒がしい社交の場でも、扇を使った美しい仕草で相手にメッセージを送ることができる、上流階級らしい知的で優雅なコミュニケーション法です。瞬く間に様々な言語に翻訳されてヨーロッパで流行しました。こうして扇は上流階級の女性の必須アイテムとなりました。

フランスの紳士と淑女が描かれたアンティークのシルク&レース&MOPの扇

『紳士と淑女』
レースと手描きの扇
フランス 1870年頃
¥ 387,000-(税込10%)

『流行』は時代遅れとなり廃れて消えていくものと、強い魅力で普遍性を持ち定番化するものがあります。

扇は上流階級の女性の優雅な小物として定番化しました。

ロシア皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ(1872-1918年)1907年、35歳頃

故に、今回の宝物が作られた20世紀初頭でも、ヨーロッパの王侯貴族にとって扇自体は決して目新しいアイテムではありません。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

それなのに、流行の最先端が反映される王侯貴族のハイジュエリーに扇がデザインされたのは、当然ながら理由があります。

1-1-2. 開国後に欧米で大人気となった日本の扇

【参考】フランス王妃マリー・アントワネットの日本の蒔絵コレクション(江戸中期 17世紀後半-18世紀半ば)

ヨーロッパ人が自由に交易できなかった江戸時代の鎖国中も、出島や中国経由などで一定数の日本の美術工芸品はヨーロッパにもたらされていました。

ただ、当然その数は限られており、持てるのは貴族の中でも高位の身分であるごく一部の人たちだけでした。

糸車と若い女性(フランス 1762年)  髪の毛を紡ぐための蒔絵の糸車(フランス 1750-1770年)V&A美術館

良家の女性が手習いとして髪の毛を紡ぐための蒔絵の糸車なんかも、明らかな特注品ですね。

『日本誌』エンゲルベルト・ケンペル著(1727年の英語版の表紙)

容易に手に入れることができず、王族やそれに準ずる高位の身分の人たちだけが持てる日本の文化や美術品は、上流階級や知的階級の間で特別な憧れの対象として見られてきたのです。

そういう背景もあって、開国した日本からもたらされる様々な美術品や工芸品に皆が注目し、欲しがりました。

第2回ロンドン万博(1862年)
第2回ロンドン万博の日本ブース(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1862年)

1862年の第2回ロンドン万博は、開国して間もない日本が出展できるような状態にはありませんでした。このため、1859年に来日した駐日総領事・公使ラザフォード・オールコック総領事の蒐集品、約1,500点が日本ブースとして展示されました。展示品は漆器や刀剣、版画と言った日本の美術品や、蓑笠や提灯、草履などの庶民の日用品でした。

パリ万国博覧会(1867年)
各国から来た人々を歓迎するナポレオン三世 日本の派遣団

日本が初めて参加した国際博覧会が、1867年のパリ万博です。ただし、日本という国家をあげての公式参加ではなく、江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展するというものでした。

薩摩藩の展示館(パリ万博 1867年)

フランスから参加を打診された幕府は各藩に特産物の出展を呼びかけたものの、応じたのが薩摩と佐賀の2藩だけだったそうです。当時の江戸幕府最末期の日本を如実に表している感じですね(1867年に大政奉還、1868年に江戸幕府の廃止宣言。1871年に廃藩置県)。

柳橋芸者おすみ(1864年)

そのような中、江戸の浅草の商人、清水卯三郎が作った数寄屋造りの茶屋が幕府と2藩による公式展示以上の人気を誇ったそうです。

江戸柳橋の芸者おすみ、おかね、おさとの3人がキセルで一服したり独楽で遊んだりする様子を見たり、茶でもてなすものでした。

開国後に海外に渡った女性としては、日本初の女子留学生として1871年に渡米した上流階級の大山捨松 公爵夫人などが有名ですが、1867年にはもう民間レベルで渡仏した女性たちがいたわけですね。時代の流れは早いです。

展示・販売品としては陶磁器、漆器、刀剣、屏風、浮世絵などの美術工芸品の他、人形、提灯、扇子、布、和紙、さらには農機具や木材などのに費用品や原材料など多岐に渡る品々が相当数出品されました。

パリ万博に参加した日本の軽業師の練習風景(1867年)

曲芸なども披露されました。

扇は日本人が持ち歩く日常アイテムであり、座っている左から2番目の侍も広げた扇子を持っていますが、軽業師も扇が目立っていますね。

上流階級の女性のためにシルクやマザーオブパール、アイボリーなどの高価な素材で作られる洋扇と異なり、紙と竹で作る日本の扇は高級品だけでなく、庶民でも買えるようなものも存在します。

手にも入れやすくて、きちんと日本らしいアイテムとしてヨーロッパで扇が人気を誇ったのも納得ですね。

ウィーン万国博覧会(1873年)
ウィーン万博会場(1873年)

1867年に大政奉還がなされ、明治政府として初参加となったのが1873年のウィーン万博でした。

1851年に初めてロンドン万博が開催されて以降、万博ブームが起こっていました。各国が威信をかけて参加する、世界中の『最先端』と『最高』が集まる場所として機能していたのです。現代では情報が一瞬にして世界に伝播し、新商品のライフサイクルが著しく短くなりました。数年に1度しか開催されず、時間をかけて準備する万博は今の時代にはフィットしませんが、当時は世界中の人々が万博に注目し、熱狂していたのです。

ウィーン万博は『文化と教育』をテーマに、35カ国が参加する規模で開催されました。

明治政府が助言を仰いだヨーロッパ人
オーストリア外交官ハインリヒ・フォン・シーボルト(1852-1908年) お雇い外国人ゴットフリード・ワグネル(1831-1892年)

世界に新しい『日本』を誇示し、新政府の妥当性を知らしめるためにも、明治政府にとって失敗の許されない万博でした。

勝手知ったる日本人ではなく、まだ十分に理解できていない欧米人に認められねば意味がありません。明治政府はオーストリア外交官ハインリヒ・フォン・シーボルトや、その推薦によるお雇い外国人ゴットフリード・ワグネルなどに助言を仰ぎ、出展物などを選定しました。

ちなみに1873年当時、ハインリヒ・シーボルト(シーボルト事件で有名なフィリップ・シーボルトの次男)はまだ21歳くらいですね。戦前は当たり前のように10代や20代前半のエリートが、重要な地位や役割で活躍していたのですね。


アメリカの雑誌で紹介された日本パヴィリオンの様子(1873年)

当時、既に欧米の上流階級や知的階級の間ではジャポニズムがブームとなっており、明治新政府の初参加ということもあって注目の的になっていました。

さらに、派手で目立つもので目を引く方が良いというワグネルらの意見により出展した名古屋城の金のシャチホコや鎌倉の大仏のハリボテ、高さが2間(3.6m)もある巨大提灯や直径8尺(2.4m)の大太鼓などの欧米人ウケする客寄せパンダの効果もあり、新聞や雑誌で取り上げられた日本パヴィリオンは大いに賑わいました。


【ウィーン万博出展品】染付花籠文大皿(明治初期 1873年頃)
ハウステンボス内ポルセレインミュージアム

万博は展示即売会の場でもあり、浮世絵、陶磁器、漆器、七宝や象嵌細工、金銀細工などの美術工芸品、各種オモチャ、繭や生糸、西陣織などのテキスタイル、和紙、熊の革、鳥や魚などの標本、稲などの穀類、海藻や様々な植物など多岐に渡る品々が出品されました。

陶磁器などの美術工芸品はそれなりの値段がしますから、買うのは限られた上流階級や富裕層となります。

ラ・ジャポネーズ(クロード・モネ 1875年)ボストン美術館

庶民も含めた来場者が気軽に購入できる、扇子や団扇が案の定ダントツ人気を誇ったようです。

扇子は1日に3,000本も売れた日もあったそうです。

あまりにも売れすぎるため、当初の倍に値上げしてもその勢いは止まらず、一週間で数千本を売り尽くしたと記録が残っています。

ウィーン中が日本の扇だらけになったと言われるほど日本の扇は大流行し、欧米全体でのジャポニズム・ブームへとつながっていきました。

1-2. 欧米文化に取り入れられ始めた日本の扇

1-2-1. 上流階級向けのハイジュエリー

明治初期の赤銅の鶴の扇ブローチ

扇型 SHAKUDOU ブローチ
日本 1880年頃(明治初期)
SOLD

扇イコール日本美術のイメージが付き、本物の日本の扇を持つだけでなく、欧米では様々なシーンで扇モチーフが取り入れられるようになっていきました。

その中でも、よほどのお金持ちで教養もある人物ならば、わざわざ日本の職人にオーダーしてハイジュエリーを作ってもらうこともありました。当時としてはとても特別なことだったはずで、見たことのない日本の職人の高度な技術で作られたジュエリーは社交界でも注目と羨望の的となったことでしょう。

明治初期の赤銅の鶴の扇ブローチ

ヨーロッパの上流階級の要望に応えるというチャレンジングな取り組みは、日本側の美術や技術の向上にも大いに貢献したでしょう。この立体感の見事な表現!!やはり日本の職人は凄かったんですね〜。その出来栄えに、オーダーしたヨーロッパの上流階級も感激したと思います。

扇モチーフのアールヌーヴォー・ジャポニズムのブローチ

『扇』
5カラー・ゴールド ブローチ
アメリカ? 1890年頃
SOLD

欧米の職人によっても、扇モチーフのハイジュエリーが制作されています。同じモチーフでも『日本美術』に対する認識や理解の差による表現の違い、技法面での違いによって、ここまで雰囲気が異なるのも面白いですね。

上流階級のためのジャポニズムのハイジュエリー
扇モチーフのアールヌーヴォー・ジャポニズムのブローチ『扇』
5カラー・ゴールド ブローチ
アメリカ? 1890年頃
SOLD
破れ団扇モチーフのアールヌーヴォー・ジャポニズムのブローチ『破れ団扇』
エナメル ブローチ
フランス 1880-1890年頃
SOLD

和紙と竹で作られた扇子や団扇を、小さな美術品にしてしまった最高に贅沢な宝物。
お金も技術も手間もかかる、このようなハイクラスのジャポニズム・ジュエリーはもちろん上流階級による特別なオーダー品です。

産業革命によって中産階級が小金持ちとなり、ジュエリーにも手を出すようになった時代ではありますが、1つ目、2つ目のジュエリーとして持つようなジュエリーではありません。ジュエリーにも厳密なTPOが要求されますから、社交界に出入りするような女性たちはシーンに合わせて相当な数を持つ必要があります。

このようなジュエリーはハイジュエリーを十分な数持つことができる、代々続く高貴なお金持ちの名家の女性だけが新しくオーダーできた、凄〜い宝物なのです。

1-2-2. 中産階級まで楽しめる娯楽『日本村』

ヨーロッパでは、イギリスが他国に先駆けて日本ブームが起きていました。

開国期の1850年代は日本の文化に触れられるのは限られた特権階級のみでしたが、1860年代、1870年代には上流階級や知的階級、意欲のある商売人などが中心となって大きな日本ブームが起こり、1880年代頃には大衆にまでその流行が降りて来ました。

アレクサンドラ・パークに造られた日本村(1875年)

イギリス国民の教養を高めるための教育やレクリエーション、娯楽などの公共の場として造られた『アレクサンドラ・パーク』にはウィーン万博(1873年)で展示した日本の神社楽殿などが移設されました。日本パヴィリオンの建築責任者の一人だった山添喜三郎(1843-1923年)によってさらに全体が整備され、神社、東屋、商店、土蔵、庭園などを備えた日本村が完成し、ロンドンにいながらにしてイギリス人は日本らしい風景を見られるようになったのです。

『日本村』ポスター(1887年頃)

1885年にはロンドンのナイツブリッジに『日本村』もオープンしました。

長崎にも住んでいた時期がある日系オランダ人タナカー・ブヒクロサンが企画した商業展示で、イラストレイテド・ロンドン・ニュースの広告には「熟練した職人や、美しい伝統衣装で着飾った日本人の男女が日本のマナーや慣習、美術工芸品などをご紹介します。豪華に装飾して照らされた仏教寺院、日本の茶室での5時のお茶、日本の音楽やエンターテイメント、その他日本の日常など。」とPRされました。

大人は1シリング、子供は6ペンスで観覧できたようですね。

『日本村』(1885-1887年)

日本村のために約100人の日本人男女が雇用されたそうです。

世界の工場としてパクス・ブリタニカという大繁栄期を経験し、中産階級まで皆が小金持ちだった時代ならではの、お金をかけた展示だった感じですね。

日本で言えば高度経済成長からバブル期にかけての印象でしょうか。

庶民に至るまで衣食住が満ち足り、旅行やジュエリーなどの贅沢であったり、文芸などの知的なものにも関心を向けられる時代だったと言えます。

ナイツブリッジの日本村でのアフタヌーンティー(ロンドン・グラフィック 1886年3月13日)
"Afternuun-Tea-at-Japanese-Village-Knightsbridge-1886" ©British Library Newspapers (March 13, 1886), London, England(13 March 1886)/Adapted/CC BY-SA 4.0

1885年1月から1887年6月までの1年半に渡る展示は大人気を博し、1887年2月には来場者100万人を突破したそうです。

1-2-3. 中産階級まで楽しめる娯楽 英国式オペレッタ『ミカド』

初期は限られた上流階級や知的階級の間だけで流行した『日本』でしたが、この頃になると日本のあらゆるものに対して大衆も含めて興味を持つようになりました。

そこに目をつけたのがサヴォイ・オペラ制作のパートナーシップ、ギルバート&サリヴァンでした。

リチャード・ドイリー・カート(1844-1901年) サヴォイ・シアター(1881年)

サヴォイ・オペラは19世紀後期にイングランドで発展したコミックオペラの一種で、その名称は上演していたサヴォイ・シアターに由来します。サヴォイ・シアターはリチャード・ドイリー・カートが1881年に、ギルバート&サリヴァンが劇作したオペラを自らがプロデューサーとなって製作・上演するために建設した劇場でした。

パクス・ブリタニカの時代を経験し、中産階級に至るまで経済的にも活気のあった時代にフィットし、大いに賑わいました。金めっき時代によって生まれたアメリカの新興成金たちも、憧れの地として世界の中心ロンドンに押し寄せていました。

こうしてサヴォイ・オペラの興行によって得た利益を元に、1889年にはシアターに隣接してイギリス初となる高級ホテル『サヴォイ・ホテル』が建設されたほどでした。最先端のエンターテイメントや流行・文化の発信地としてさらに賑わっていきました。

ギルバート&サリヴァン
劇作家ウィリアム・シュベンク・ギルバート(1836-1911年)1878年、41歳頃 作曲家サー・アーサー・シーモア・サリヴァン(1842-1900年)

劇作家ウィリアム・ギルバートと作曲家アーサー・サリヴァンは『ギルバート&サリヴァン』として共作した14のサヴォイ・オペラで有名ですが、その中でも特に有名なのが9作品目の『ミカド』でした。

『ミカド』ポスター、ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹(1885年)

1885年3月14日にサヴォイ・シアターで初演され、1887年1月19日の楽日まで672回上演されています。

当時の歌劇市場2番目の上演回数を誇り、舞台作品の中でもロングラン作品の1つでした。

終演までにヨーロッパやアメリカで150を超えるカンパニーが上演しています。

その後、20世紀に入ってからも何度も再演されており、様々な言語に翻訳され、歌劇史上最も多く上演される作品の1つとなっています。

『ミカド』製作中だった1885年にギルバートはナイツブリッジの日本村を訪れ、出演者たちに日本人の立ち居振る舞いを教えてくれるよう日本人スタッフと契約しました。まさに中産階級に至るまで、イギリスで空前の日本ブームが起きているタイミングであり、人々の注目を集めるには絶好の演目と言えました。

『ミカド』ヴォーカル・スコア表紙(ギルバート&サリヴァン 1895年頃)

ただ、『ミカド』は厳密には日本を舞台にした内容ではありません。

実際は当時のイギリス政府、上流階級や支配階級を辛辣に風刺した内容でした。

それを空前に日本ブームに乗じ、舞台をイギリスからできるだけ遠い未知の国『日本』に置き換えることで紛らわせるという意図のものでした。

イギリス人ならば、"観れば体制への辛辣な風刺が分かる"というものですね。

 

『ミカド』ポスター(1885年)

故にギルバートに日本や天皇を貶めたりする意図はなく、地名や登場人物の名前は意図的に日本語の使用を避け、英語の幼児語や機転の効いた造語などが用いられています。

舞台は日本の首都ティティプーで、日本を支配する一番偉い人ミカドの好き嫌いがそのまま法律となります。

皇太子ナンキ・プーには年増の醜女カティーシャという婚約者がいますが、三姉妹の一人ヤムヤムに恋します。ヤムヤムには仕立て屋ココ(後に死刑執行大臣)という後見人かつ婚約者がいます。

絶対に日本ではないですね(笑)

物珍しい日本の衣装であったり小物であったり、"なんちゃって日本"で注目を集めるやり方だっただけです。

ギルバートの台本は妖精がイギリス貴族と交際したり、いちゃつくのは死罪だったり、ゴンドラの船頭が実は王様だったり、悪事を働いていた海賊が貴族になったりするなど、奇想天外な世界となっています。上流階級は見ても喜びませんが、いかにも大衆ウケしそうな内容ですね。19世紀後期のイギリスはそういう時代だったというわけです。

『ミカド』ポスター、ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹(1885年)

上流階級や知的階級と異なり、大衆は分かりやすいものを好む傾向にあります。日本イコール扇のイメージだったのは、このポスターからもよく分かりますね。先のミカドも大きな扇を持っていましたし、三姉妹のポスターも扇の装飾だらけです。日本人女性はこんなに頭にたくさんの扇は乗せません(笑)

日本村でお茶を出していた若い日本人女性がリハーサルに来て、三姉妹キャストに日舞を教えたりもしたそうです。ニューヨーク・デイリー・トリビューン紙にはヤムヤムらの三姉妹が、オペラ『小さなメイド3人組』のような日本人女学生3人組と宣伝され、イラストレイテド・ロンドン・ニュースにも「小さなメイド3人組による優雅な素晴らしいダンス」と宣伝されました。

扇を駆使した、心奪われるような日舞の優雅な動きは日本人であっても付け焼き刃でできるようなものではなく、宴会芸の余興みたいな感じだったのではと想像します。それでも華やかな衣装や日本らしい小物を使った演出によって、大衆には大いにウケたでしょう。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

ただ、上流階級から大衆に流行が降りてくると、通常は陳腐化して廃れていく一方です。

イギリスでは1880年代に大衆での流行がピークを迎えたと言えます。それなのに20世紀に入り、再び上流階級のハイジュエリーのモチーフとして扇が採用された理由は何なのでしょうか。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

実はこれにも歴史的背景があります。

1-3. 踊りや演技の中で再度欧米人を魅了した扇

1-3-1. 万人を魅了する美しさとは

お花見の席での和傘を使った日舞(上野恩賜公園 2016年4月2日)※私ではありません

日本にも様々な伝統の踊りや唄がありますね。

小物を使う踊りも多く、扇や和傘、編笠、羽織や羽衣など様々あります。

但し、一番大切なのは踊り手の顔かたちの美醜でも、衣装や小物の豪華さでもありません。

何と言っても所作や仕草などの、動きの美しさです。

サラリーマン時代にご縁があって、友人の日舞のイベントを見たり参加したり、おわら風の盆の踊りの練習会に参加させていただく機会がありました。

おわら風の盆での町流し(富山市八尾地区 2004年9月)"Kazenobon01" ©Jinzuu September 2004)/Adapted/CC BY-SA 3.0

特に印象深かったのは、おわら風の盆での熟練者の踊りの美しさです。起源は江戸時代の元禄期(1688-1704年)にまで遡るとされおり、哀切感に満ちた旋律にのって踊り手たちは無言で踊ります。現代の陽気で楽しい夏祭りとは全く異なる趣です。

勇壮な男踊りに対して、女踊りは艶やかで優雅と称されます。民謡とは思えない洗練された音楽は『芸術民謡』とも呼ばれ、『日本で一番美しい夜祭り』と言われたりもしています。

編笠で顔は全く見えません。外見に関しては極限まで没個性になっています。しかしながら並んで町流しをする女踊りの中で、一際目立つ女性が存在します。

踊りに関しては特別上手な方がいるもので、皆で同じ動きをしているはずなのに、その女性の美しさが際立っているのです。動かすのは主に腕から手にかけてです。1つ1つのポーズに関する手や腕の角度、次のポーズに移る際の流れるような艶やかな動きなどが美しさの理由だと思うのですが、ある種の才能だと感じます。同じように猛特訓しても、やはり差が出ます。

顔は見えないはずなのに、そのあまりの美しさに心奪われました。そして、そんなことがあるのかと心底驚いたものでした。

スピネットを弾くマリー・アントワネット(1755-1793年)1769年頃、14歳頃

非常に面白いことに、外見に関しては"これが唯一の正解"というものはありません。

人それぞれに『好み』というものがあり、それ故に万人から高く評価される外見は存在しません。一方で、万人が好感を抱く雰囲気や仕草というものは存在します。

フランス王妃マリー・アントワネットは顔つきはそこまで美しくなかったようです。

顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎はボッテリして『ハプスブルク家の下唇』と呼ばれる下顎前突症の特徴も持っていたとされます。

兄、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の結婚式で祝いで踊る9歳のマリー・アントワネット(右)1765年

称賛されていたのは稀代の美的センスですが、それはファッションや庭園、建築などの"モノ"だけに限りません。

ハプスブルク家出身だけあって、オーストリアで王族として幼少期から様々な教養を教え込まれていました。

ハープやスピネットなどの音楽も得意でしたし、ダンスも上手だったそうです。

ヨーロッパのダンスでも、手の先まで意識を行き渡らせることが重要ですよね。これができるか否かで美しさが全く違います。

フランス王妃マリー・アントワネット母娘
手を添えられて嬉しそうな妻一筋のフランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット(1776年) 6歳頃の王女マリー・テレーズと側を歩く母マリー・アントワネット(1785年)

マリー・アントワネットに関して、よく知る人物からの「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった。」 、「フランス中で一番立派に歩く夫人だった。」という証言も残っています。小姓だったド・ティリー男爵も、「これほど美しい腕や手は、その後2度と見たことがない」と語っています。美しい声を持ち、その心地よい歌声も見事なものだったそうです。

万人を惹きつける魅力やカリスマ性に必要なのは、単なるカタチの良さではありません。あればより良いですが、必要十分条件ではありません。

内面性に基づいて醸し出される雰囲気(オーラ)、優美あるいは威厳に満ちた表情や仕草、エレガントな所作など、目には見えないものであったり、動きなどが最重要と言えます。これが単なる"好み"を超越した、万人に通用する普遍的な魅力となります。

マリー・アントワネットに厳しく躾けられた娘マリー・テレーズ王女も、王族らしい気品と振る舞いは評判でした。

両親を処刑され、弟ルイ17世をたった10歳で衰弱死させられたマリー・テレーズに亡命先で会ったルイ18世は、「軽やかに優雅に歩き、悲運を語るとき涙は見せない。善良で親切で優しい。」と評価しています。

印象に残る美しい人というのは、ただ歩くだけでも目を惹き"美しい"と感じさせるものですよね。これは無意識にできるものではなく、隅々まで神経を行き渡らせてそのような動きをするからです。マリー・アントワネットのような高貴な女性であれば、物心つかないような時からももはや魂レベルで身に付けさせる教育の賜物ですし、踊りをする人などであれば相当な努力をして身に付けていくものです。

分かっていて意識して努力をしても容易なものではなく、本当に体得できるのはハイクラスの人の中でもトップと言える、ほんの一握りの人だけです。会得は大変ですが、年齢や性別、人種を超えて人を惹きつける魅力となります。

1-3-2. 日本人女性がプロの唄や踊りを披露する場の制約

出雲阿国(1572-?年)

ヨーロッパではプロの女優や歌手、ダンサーなどが各地で公演するというのはありました。

しかしながら、日本は特殊でした。

安土桃山から江戸初期にかけて活躍した出雲阿国によって『かぶき踊り』が創始されました。

女優を主役とした踊りの芸能で、茶屋遊びを表現したエロティックな演目もありました。

阿国一座は全国を巡業し、かぶき踊りは遊女屋にも取り入れられ(遊女歌舞伎)、僅か10年ほどで全国に広まるほど高い人気を得ました。

しかしながら1629年、江戸幕府が風紀を乱すと言うことで、女性芸能者が舞台に立つことを禁止しました。

『故人市川團藏十七囘忌追善狂言 平家女護島』四枚續物
文政7年9月大阪角座上演『平家女護島』(西光亭芝國・春好齋北洲 1824年)

神聖な場所など、女性が立ちってはいけない禁足地などは昔から存在しましたし、寺社の女人禁制が既に徹底されていた時代だけあって、江戸期は幕府の取り締まりに対応して男性役者のみで歌舞伎が発展していきました。

『いせおんど 桜襖』(歌川貞秀 1847-1852年頃)

芸を磨いた女性の唄や踊りはどこで観られるかと言えば、茶屋などに出向くか、財力があれば呼び出したりする感じです。日本には芸舞妓は存在しましたが、長い間、舞台に立つ女優などは存在しなかったのです。

開国後に外国人が日本女性の唄や踊りを観ようと思った場合も、ハードルが高かったであろうことは想像に難くありません。

1-3-3. 特別な人だけが観ることのできた日本女性のプロの踊り

開国後は仕事だったり観光だったり、たくさんの欧米人が日本を訪れました。それぞれの身分に合わせて、やることも異なります。

HERITAGEでお取り扱いするのは上流階級のためのハイジュエリーなので、ここでは上流階級にフォーカスします。

グランドツアーの行程例
"Grand Tour William Thomas Beckford" ©Szarka Gyla, Jane023(2009年8月23日, 14:28)/Adapted/CC BY-SA 3.0

17-18世紀にかけて、学びの仕上げの旅として『グランドツアー』がイギリス貴族に流行していました。

ヨーロッパでは辺境の島国イギリスにとっての行き先は、主にヨーロッパ大陸のフランスとイタリアでした。

現代ならばあっと言う間に行って帰って来れる感じの旅程ですが、当時の旅は数年はかかるのが一般的でした。

ロシア皇太子ニコライ2世がグランドツアーで使ったロシア帝国のお召し艦『アゾフ号』
(1892年のリトグラフ)

フランス革命や続くナポレオン戦争などのゴタゴタもあってグランドツアーの流行は終焉を迎えましたが、その間に交通手段が大きく進化しました。

19世紀後期になると、フランスやイタリアなどの身近な場所ではなく、高い身分の貴族の子弟は世界一周的なグランドツアー、学びの旅をするのがスタンダードになりました。

大津事件がインパクト大のロシア皇太子ニコライ2世の来日ですが、これも学びの旅として世界一周する行程の1つとして立ち寄ったものでした。

Genからの必読図書『ニコライ二世の日記』保田孝一著(1990年発行)

特に高貴な身分の男性が来日した場合に何をするのか、『ニコライ二世の日記』が詳しいで、例としてニコライ2世をご紹介しましょう。

ロシア皇太子ニコライ2世の日本滞在(1891年)
ロシア皇太子ニコライ2世(1868-1918年)1880年代

ロシア皇太子ニコライ2世が日本を訪れたのは1891年の22歳の時で、来日中の5月18日に23歳の誕生日を迎えています。

学びの仕上げの旅なので若いです。

グランドツアーで日本を訪れた際のロシア皇太子ニコライ2世(1891年)
長崎にて人力車に乗車

小艦隊を率いてアゾフ号で最初に降り立ったのが長崎でした。当時、長崎近郊の稲佐村はロシア太平洋艦隊の越冬地となっており、『ロシア村』としてよく知られているほどロシアと深い関わりがある土地でした。初日の4月27日の日記にこう記しています。

「晩に将校集会室に現地駐在の海軍少尉ら八人が集まった。彼らはみんなロシア人村の稲佐に住み、そこで、それぞれ(日本娘と)結婚している。正直なところ、私も彼らの例にならいたい。しかし、こんなことを考えるなんて、なんと恥ずかしいことか。復活祭直前のキリスト受難週間が始まっているというのに。」

引用:『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 増補』保田孝一 著(1990年)朝日新聞者 朝日選書403, p.21

ギリシャ王子ゲオルギス(1869-1957年)1902年、33歳頃

ニコライ2世の世界一周旅行には、1歳年下の従兄弟であるギリシャ王子ゲオルギスも同行しました。

ヨーロッパでは王族は王族同士で結婚するのが慣例だったため、国は違えど血縁関係で繋がった近しい存在なのです。

滞在8日目となる5月4日、フリゲート艦での夕食後にニコライ2世とゲオルギスは密かに抜け出し、長崎駐留の将校ゴリツィンらと共に稲佐村のゴリツィン宅に直行しました。

そこで将校らの日本人妻とも知り合いになっていますが、「彼女らは皆ロシア語を喋り、非常に好感が持てる。」とニコライ2世が書き残しています。

参考文献:『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 増補』保田孝一 著(1990年)朝日新聞者 朝日選書403, p.31

引用:『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 増補』保田孝一 著(1990年)朝日新聞者 朝日選書403, p.32

その後、芸者がやって来て歌に合わせて踊り始めたそうです。

この日の様子は、宮内大臣宛の機密報告書に下記のように記されています。
「午後九時四十分、露国皇太子とギリシャ親王は士官八名を従え、密かに稲佐に上陸し、露国士官某の寄宿所、福田半造方に立ち寄る。そこへ長崎市丸山町の芸舞妓五名を招き、酒宴を張り、数番の舞曲をご覧になった。給仕はすべて同士官らの雇い女であった。」

さらにビリヤードなどを楽しんだ後、おまつの計らいで福田本宅の寝室に入り、ニコライ2世は芸妓菊奴、ゲオルギスはお栄を召され、静かにベッドに就かれたそうです。

参考文献:『最後のロシア皇帝 ニコライ二世の日記 増補』保田孝一 著(1990年)朝日新聞者 朝日選書403, p.31-32

おまつは『ボルガ』という店をやっており、お栄はそこで働いていた有名な女傑だったそうです。女主人のおまつさんも、見るからに賢そうな美人さんですね。

君主となる人物の日記は、将来君主となる我が子が参考として読めるよう書きます。君主は孤高な立場でもあります。同時期に同じ立場の者は存在しません。だからこそ時代を超え、必要あらばその孤独を共有できるよう日記を記しておきます。有名なヴィクトリア女王やルイ16世の日記も個人の趣味ではなく、重要な業務の1つとして書いていたのです。

そう言うわけでニコライ2世の日記には夜の秘話については触れられていませんが、フリゲート艦を抜け出してのその夜の体験を「今晩はとても満足した。」と記しています。

関東に来てからは一人しか該当者に会ったことがありませんが、福岡にいた頃は絶対に北方系の白人系の血が入っているよねと思える人がたまにいました。日本人の色白とは異なる質感の色白な肌、日本人離れしたはっきりとした骨格、グリーンの瞳を持つ人までいました。皆、純日本人だと言っていましたが、私が想像していた以上に異国の血が混ざるタイミングはあったようです。

フランスの娼婦の誘惑から逃げるイギリス貴族の若者
【引用】『グランド・ツアー』(本城靖久著 1983年)中央新書688, p95

プロの女性で夜のいろいろを経験して来るのも、17〜18世紀のグランドツアーでも重要事項の1つでした。

十代かせいぜい二十代前半のイギリス貴族の若者が莫大な財力を片手に、主要目的地としてまず訪れるのが売春婦の都パリです。

1770年に60万人と推定されたパリ人口のうち、売春婦は2万とも4万とも推定されており、18世紀のフランスは『売春婦の黄金時代』と称されていたほどでした。

ここで様々な経験をし、イギリスに帰国後は真面目な顔をして落ち着くわけです。

三味線を弾く芸者(東京 1870年代)

日本の場合、遊女と芸者などは境界が曖昧だったりします。

高貴な人をおもてなしするようなプロの女性の場合は当然ながら芸も磨き、優れているわけで、当時おもてなしした芸舞妓たちが芸術が大好きなニコライ2世を大満足させたのは想像に難くありません。

『犬追物図屏風』(江戸時代)東京国立博物館
【引用】Tokyo National Museum Image Search / 犬追物図屏風/Adapted   東京国立博物館 研究情報アーカイブズ

ニコライ2世は薩摩の仙巌園で、薩摩藩当主の島津忠義が開催した犬追物を観ています。このような公式イベントは記録で分かりやすいですが、日本女性ならではのプロの見事な踊りや唄が限られた密室でしか観られず、それ故に内容や感想などがはっきりとは記録に残らないのも面白いことですね。

オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者
フランツ・フェルディナントの日本滞在(1893年)
オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者
フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ(1863-1914年)1893年、29歳頃

ロシア皇太子ニコライ2世とギリシャ王子ゲオルギスが日本を訪れた2年後となる1893年、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステが来日しています。やはり皇位継承者としての世界一周の見聞旅行として訪れたもので、1892年に軍艦エリーザベト皇后号で出発し、日本到着後は一ヶ月をかけて長崎から東京まで見聞しました。

サラエボ事件で暗殺され、第一次世界大戦のきっかけとなった人物です。フランツ・フェルディナントはグランドツアー出発が28歳と、ちょっと遅い印象です。これには理由があります。

オーストリア=ハンガリー帝国の皇室
長男
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年)1861年、31歳頃 皇后エリーザベト(1837-1898年)1867年、29歳頃 皇太子ルドルフ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(1858-1889年)1887年、29歳頃

オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世夫妻には4人の子供がいましたが、皇太子ルドルフ以外は皇女でした。それでも皇太子ルドルフは無事に成人し安泰に見えたのですが、1889年に30歳で謎の死を遂げました(マイヤーリンク事件)。今なおその真相は分かっていません。

オーストリア=ハンガリー帝国の皇室
長男 次男 三男
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年)1861年、31歳頃 メキシコ皇帝マクシミリアン(1832-1867年)1864年頃、32歳頃 カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ(1833-1896年)1870年、37歳頃

このため、皇位は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世から弟の家系に移ることになりました。皇太子ルドルフが1889年に怪死した当時、上の弟であるマクシミリアンは既に亡くなっていました。

当時メキシコは内戦状態にあり、毎度のことながら帝政フランスやアメリカ合衆国が干渉していました。アメリカが南北戦争で軍事階級が困難だった隙をつき、メキシコでの帝政復活を望むフランスが軍事介入し、メキシコ王党派とフランス皇帝ナポレオン3世が1864年、傀儡としてマクシミリアンをメキシコ皇帝に擁立しました。しかしながら1867年に皇帝マクシミリアンは共和派軍の捕虜となり、処刑されてしまいました。

このため、皇太子ルドルフ亡き後は三男だったカール・カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒが皇位継承者一位となり、25歳だったその長男フランツ・フェルディナントがいずれは皇位を継承する立場となったのです。

新橋駅に到着したオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者
フランツ・フェルディナント(5代目 歌川国政 1893年)

まさに寝耳に水という感じだったでしょう。フランツ・フェルディナントも皇族ではあったものの、莫大なお金や各国政府との調整が必要となる世界一周の見聞旅行は皇位継承者クラスでなければ実施できないものだったのでしょう。28歳と遅ればせながらの世界一周・見聞旅行となったのです。

フランツ・フェルディナントもまず長崎に降り立ち、初めて実際の日本文化に触れて驚き感動したそうです。一般女性の髪結を見学しただけでなく、茶屋遊びも経験したそうです。高貴な男性のおもてなしには必須ですね。プロの芸舞妓さんたちの美しい踊りや唄を間違いなく楽しんだでしょう。

また、日本では左腕に龍の刺青も彫ったそうです。

日本で龍の刺青を彫ったヨーロッパの王族・皇族
1881年 1891年
イギリス皇太子の長男&次男 ロシア皇太子
刺青当時 17歳頃 刺青当時 16歳頃 刺青当時 22歳頃
エドワード7世の長男アルバート・ヴィクター王子(1864-1892年) 後のイギリス国王ジョージ5世(1865-1936年)1893年、28歳頃 後のロシア皇帝ニコライ2世(1868-1918年)1880年代

実はイギリス王室の王位継承者アルバート・ヴィクター王子とジョージ王子(エドワード7世の長男と次男)も1881年に来日した際、刺青を彫っています。この2人はロシア皇太子ニコライ2世にとって少し年上の従兄弟にあたるのですが、それを自慢されたらしいニコライ2世も1891年に来日した際、お兄さんたちを見習って長崎で右腕に刺青を彫っています。

親戚関係のイギリス王室とロシア皇室
デンマーク王室出身の姉妹 従兄弟同士となる姉妹の息子たち
ロシア皇太子妃マリア・フョードロヴナ&イギリス王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1875年頃) イギリス国王ジョージ5世(48歳頃)&ロシア皇帝ニコライ2世(45歳頃)1913年

ここは母親同士もデンマーク王室の仲良し美人姉妹でしたからね〜。

現代の民主主義の統治機構だと、政治や外交を司るトップも「とにかく我が国さえ良ければ」的な考え方でどうしても物事を見がちですが、君主が親戚同士という王侯貴族の時代の統治機構だと、互いに良くなる方法や妥協点を模索したり、阿吽の呼吸で物事を進めることも可能ですね。"厄介な身内"が発生すると途端に国全体を巻き込んだ大変なことにもなり得るので、どちらの統治機構が良いかは安直には言えませんが・・。

和服で日本文化を体験するオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者
フランツ・フェルディナント(1893年)

社交界の世界は狭いものです。日本で龍の刺青を彫った各国の若き王位・皇位継承者たちの話を聞き、1893年に来日したオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者 フランツ・フェルディナントも刺青を彫ったというわけですね。誰かがトライし、それが良いものであれば周囲が真似をして流行する。王侯貴族の時代の『流行』はこのような感じで発生し、広がったという分かりやすい例です。

これは茶道の体験をしているようです。ちょっと違和感があるお辞儀になっていますが、慣れていない欧米人が突然正座するのは相当難しいということで、日本文化を理解しようと、見様見真似で真面目に取り組んでいる姿です。畳ならばまだしも、床板のようです。

痛い床に膝をつけ、お辞儀をする手のひらは床にピッタリとくっつけ、莨盆(タバコ盆)?を頂戴しようとする左手前の男性はさらに頭も床にしっかりとくっつけています。欧米の文化圏だと嫌がりそうな気がしますが、本当に育ちが良い、真の意味で高貴な身分の人々は相手の文化も素直にリスペクトできるのでしょうね。

草履、団扇や扇子などの小物も見えます。中央のフランツ・フェルディナントは、和服でリラックスした様子も様になっています。

美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)一番左

パリで活躍したユダヤ系ドイツ人の美術商サミュエル・ビングは日本美術ディーラーやアールヌーヴォーの中心人物として、半ば庶民のアイドル的な高い知名度を誇りますが、何故こんな着付けになっちゃっているのでしょうね。所詮は庶民の出の一介の美術商に過ぎず、日本にコネクションがあったわけでもなく、日本文化を体験したとは言っても、ヨーロッパの上流階級と同じような内容ではなかったということでしょう。

【世界遺産】シェーンブルン宮殿の日本庭園(ウィーン 1913年造営)
"Japanese Garden (Schönbrunn; 'Stone garden' part, Lower pond) 20080613 055 " ©Wolfgang H. Wögerer, Wien(13 June 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

君主クラスの見聞旅行は遊びではなく業務です。「あぁ、楽しかった」で終わってはいけません。

フランツ・フェルディナントはこの時の日本の風物や伝統文化などを詳細に記しており、後にまとめられたものが出版されています。

また、彼の命令によって1913年にウィーンのシェーンブルン宮殿には日本庭園も造営されました。ただ、翌年1914年にフランツ・フェルディナントはサラエボ事件で暗殺され、勃発した第一次世界大戦でオーストリアの庭師たちも多くが亡くなってしまい、庭園は由緒不明となってしまいました。

荒廃して『アルプス風庭園』と呼ばれるようになっていたそうですが、1996年に日本ガルテン協会国際部長の山田貴恵さんの指摘により日本庭園と判明し、日本の協力によって修復・再整備されたそうです。

『サラエボ事件』オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻の暗殺を描いた新聞挿絵(1914年7月12日)

セルビア事件で夫婦で暗殺された皇位継承者という印象が強いですが、日本文化を理解し、尊敬し、自国にも取り入れて文化に貢献していた、ヨーロッパの皇族らしい皇族でもあったのです。

ボヘミアの伯爵令嬢ゾフィー・ホテク(1868-1914年)1900年以前、32歳以前

ちなみに妻ゾフィーとは貴賤結婚でした。

そう聞くとゾフィーは庶民だったように聞こえるかもしれませんが、ボヘミアの伯爵家出身の貴族です。

王族は王族と結婚するのがヨーロッパでは慣例で、この時代もまだそういう時代でした。

特別な身分である王族と、その他の貴族の間にもれっきとした階級差が存在し、結婚はあり得ませんでした。

ヨーロッパの王族が自国民ではなく外国人と結婚するのが普通だったのは、この王族縛りがあったからです。

ボヘミアの伯爵令嬢ゾフィー・ホテク(1868-1914年)1900年以前、32歳以前

特にハプスブルク家は、家憲で貴賤結婚が禁じられていました。

当時オーストリア=ハンガリー帝国君主だったフランツ・ヨーゼフ1世はハプスブルク家の当主でもあり、王権神授説を信じ、自らも『旧時代の最後の君主』と認める古いタイプの人物だったこともあり、皇位継承者フランツ・フェルディナントとゾフィーの貴賤結婚は猛反対されました。

当時ゾフィーはテシェン公爵家の当主フリードリヒ大公の妻イザベラ大公妃の女官だったのですが、次期皇帝がよその家のチェコ人の女官というような身分の低い者と貴賤結婚するなんて絶対にあり得ないということだったのです。

オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント(1910年)

それでも2人の愛は固く、最終的にゾフィーが皇族としての特権を全て放棄し、将来生まれる子供たちには皇位を継がせないことを条件に結婚が許されました。

なし崩し的に権利が認められるようになるかと言えば、この時代はそうではなく、結婚後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事では幼児を含む全ての皇族の末席に座るという厳格さでした。

『大公妃』の称号も許されず、ゾフィーは与えられた『ホーエンベルク女公爵』の称号を名乗っていました。

劇場などを含む、公の場での夫婦の同席や並んで歩くことも許されませんでした。階級を超えることは厳格に認められなかったのです。

サラエボ市民と触れ合うフランツ・フェルディナント夫妻(1914年)

ただ、そこに1つだけ抜け道がありました。
フランツ・フェルディナントが軍人として行動する場合に限り、妻ゾフィーは同じ階級に属する者として振る舞うことができました。

それ故にフランツ・フェルディナントはボスニアで軍を視察する任務を決めました。夫婦は屋根を閉じたオープンカーで隣同士座って移動することができ、まさに堂々とデートを楽しむことができたのです。愛のための任務でした。

サラエボ市庁舎を出て車に戻るフランツ・フェルディナント夫妻(1914年の暗殺数分前)
"Postcard for the assassination of Archduke Franz Ferdinand in Sarajevo" ©Walter Tausch(28 June 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0

腕を組んで歩く2人からは、仲睦まじい様子が伝わってきますね。当時46歳だったゾフィーは、第5子を妊娠中でした。この写真が撮影された数分後、お腹の子供と共に愛し合う夫婦は無惨にも射殺されました。

妻ゾフィー・ホテクとオーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ・フェルディナント(1900年頃)

伝統をしっかりと守る一方で、皇族や王族は新しいもの、優れたものを偏見なく柔軟に取り入れ、自国文化を発展・振興させる役割も持ちます。

身分に囚われない人柄と強さからは、日本文化を柔軟に取り入れる姿勢も違和感を感じませんね。

刺青を身体に刻み、シェーンブルン宮殿には日本庭園を造営し・・。

やったこと全てが記録に残っていることはあり得ませんが、功績は周囲(社交界)に波及し、最終的には庶民に至るまで影響を与えたはずです。

皇族・王族とはそういう存在なのです。

1-3-4. ヨーロッパの上流階級の女性は観る機会がなかった日本女性のプロの踊り

ヨーロッパの上流階級の男性は直接日本に赴いて、現地のトップ・プロの女性の唄や踊りを観ることができました。政治や外交を司る上流階級の男性たちは、昔から様々な場所に赴きます。

しかしながら上流階級の女性は、夜に出歩くことすら一般的ではありませんでした。高貴な女性が夜に出歩くようになったのは、高級ホテルでの社交スタイルが確立される19世紀の終わり頃からです。

故に上流階級の女性が危険を犯してわざわざ日本に訪れることはなく、行ったとしても女性が茶屋遊びでもてなされることはないでしょうから、日本女性のプロの本格的な踊りや唄を目にする機会はなかったと想像します。

1-3-4. ヨーロッパで披露された日本女性のプロの踊り

ヨーロッパの上流階級の女性が、日本女性の本格的な踊りや唄を目にするとすれば、プロがヨーロッパにやって来て芸を披露するタイミングでしょう。

それはいつだったでしょうか。

日本初の女優と呼ばれた川上貞奴(1871-1946年)1900年頃、29歳頃

それはおそらく世紀末に欧米で芸を披露した、川上貞奴の公演だったとみられます。

川上貞奴は『日本初の女優』とも呼ばれますが、その誕生には様々な数奇な運命がありました。

1-3-5. 伊藤博文と芸妓・川上貞奴の誕生

川上貞奴(1871-1946年)

川上貞奴は1871(明治4)年、東京の日本橋にあった両替商・越後屋の12番目の末っ子として誕生しました。

貞奴も写真を見るからに美人ですが、母オタカも評判の美人だったそうです。

貞奴が幼かった頃、母オタカは旧大名屋敷でしばらく働いていたことがあり、そこで貴族の生活様式などに触れ、気品や優雅さを身につけたと語ったそうです。

しかしながら明治の変革期、急激なインフレによって貞奴の家も他の多くの家同様、財産を失っていまいました。

このため貞奴は4歳の時、芳町の芸妓置屋『浜田屋』に出されました。芳町は東京都中央区日本橋人形町の旧町名で、明治・大正・昭和にかけて栄華を極め、花街として賑わっていた場所です。

貞奴の父は『仏様』とあだ名が付くほど穏やかで聖人のような人でしたが、貞奴が芸妓置屋に預けられてから3年後に亡くなってしまいました。このため、7歳の時に浜田屋の女将、浜田屋亀吉の養女となりました。

ベルリン公演時の川上貞奴(1871-1946年)1901年、30歳頃

ご覧の通りの美貌の持ち主ですが、古の上流階級のご贔屓を得るためには外見だけでは不十分で、然るべき教養や品性、卓越した芸の腕前が必須です。

12歳で酒の注ぎ手である見習い芸妓としてデビューしたのですが、貞奴の秘めた才能を確信した女将の亀吉は、それを確実に花開かせるために相応の教育を施しました。

神社では読み書きを覚えました。

当時、日本の女子教育は始まったばかりで、学ぶのは良家の女子だけというのが一般的でした。

そんな時代だったため、芸妓たちは普通は読み書きは出来ず、人気がある芸妓でも下層階級と見なされていました。

故に、亀吉が貞奴に高い教養を施したのはかなり画期的なことだったそうです。

ビリヤードを興じるご婦人を描いた広告(アメリカ 1880年代初期)

さらにビリヤードや馬術なども教え込まれました。

先にご紹介した通り、1891年に来日したロシア皇太子ニコライ2世とギリシャ王子ゲオルギスのロシア村での接待では、ビリヤードなどを興じた後に、『ボルガ』の女主人おまつがそれぞれの夜のお相手をする芸妓たちを選んでいます。ビリヤードやカードゲームなどの遊戯を通して相性を見たり、距離を縮めたりすることができます。

急速に入ってきた欧米文化に順応し、欧米の上流階級と台頭に渡り合う必要が出てきた時代、彼らを相手にする女性たちにとってもこれらの教養は必須だったと言えるでしょう。

PD騎乗して会話する当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンとエリザベス女王(1982年)

馬術も古くから上流階級にとっては必須です。夫に帯同してピクニックを兼ねた狩猟に出かけることもあり、古い時代から女性にとっても社交に欠かせない教養の1つでした。

王太子妃アレクサンドラとバスケットに入った2人の子供たち(1865-1867年)
【出典】Royal Collection Trust / Queen Alexandra when Princess of Wales (1844-1925) with two children in basket saddles © Her Majesty Queen Elizabeth II 2022

いかにもヨーロッパの王族らしい高貴な雰囲気を持つイギリス王太子妃のアレクサンドラ・オブ・デンマークも、実は運動神経に優れたアクティブな女性で、馬術に関してはエキスパートとも言えるレベルだったそうです。

馬に乗った王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844-1925年)1886-1888年、41-44歳頃
【出典】Royal Collection Trust / The Princess of Wales (1844-1925), Later Queen Alexandra, on horsebacl, c. 1886 © Her Majesty Queen Elizabeth II 2022

女性は男性と異なり、跨るのははしたないと言うことで、古い時代の上流階級の女性は横乗りです。

相当なバランス感覚を要求されそうです。

これもあって、落馬してしまう女性も多かったそうです。

馬に乗った王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844-1925年)1886-1888年、41-44歳頃
【出典】Royal Collection Trust / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020

アレクサンドラ妃は馬術競技にも出るほどの腕前だったそうですが、何と横乗りのまま障害レースでテーブルを跳び越えています。

スケートも得意とのことで運動神経は相当良かったようですが、粒揃いの社交界に於いて『華』と称される女性はこんなこともできたわけです。

世界に君臨する大英帝国のファッションリーダーとして、世界中の王侯貴族の憧れの存在となるのも納得です。

ちなみに2輪馬車で2頭を操るタンデム・レースも得意だったそうです。凄いですね。

日本初の女優と呼ばれた川上貞奴(1871-1946年)1900年頃、29歳頃

英才教育を受けた貞奴も才能があったようで、数年後にはプロの馬術レースに参加もしたそうです。

当時としては非常に型破りで進捗的なことだったそうで、芸能記者が驚きを以って伝えました。

馬術を練習していた1875年、14歳の頃に、後の『電力王』となる慶應義塾学生時代の福沢桃介とも出逢っており、上流階級や政財界の大物との関係作りには欠かせない教養を身につけていったと言えるでしょう。

養母となった女将・浜田屋亀吉の先見の明も見事ですが、それだけではないでしょう。グローバル・スタンダードな教養を日本で先んじて身につけていくというのは、確実にブレーンとして優れた助言者がいたはずです。

浜田屋があった芳町は、昭和初期には柳橋と霊験島を合わせても及ばないほど繁栄したそうで、置屋が240軒、芸妓は700人、待合は140軒弱、料理屋は5、6軒ありました。ここは名だたる政財界の大物が出入りする場所でもありました。

長州藩士・初代 内閣総理大臣 伊藤博文(1841-1909年)1880年代、40代頃

実は1886年頃、15歳だった貞奴の水揚げを担当したのが伊藤博文でした。

水揚げは芸妓にとって、一人前になるための通過儀礼でした。

水揚げに選ばれる客はその道に熟達した通人の中から特に財力を持つ者が、抱主の依頼に応じたり、その承認の元に自薦したりして行うのが通常だったそうです。

当時45歳頃の伊藤博文は初代内閣総理大臣(1885-1888年)となったばかりの頃で、権力や名声を考えれば、間違いなくお相手として最高だったと言えるでしょう。

そこら辺の若く美しい15歳の普通の女性と、歳の差30歳ほど、既婚でお相手の女性よりも年上の子供たちがいる40代のただのサラリーマン男性との関係であれば、男性側だけに旨味のあるラッキーな話と言えるでしょう。

しかしながら見習い芸妓と政財界の大物という関係だった場合、全く話は違ってきます。

見習い芸妓なんて知名度はゼロに等しく、権力やブランドなどの何の裏付けもありません。水揚げのお相手はパトロンであり、後継人や保証人とも見ることができます。故に、水揚げのお相手が凄い人であればあるほど、芸妓にとっては強いブランド力となります。

一方で、水揚げした芸妓がイマイチの女性だと、お相手は良い笑いものとなってしまいます。「あの人はこんなので良いのか。」、「見る目がない人だなぁ。」など、自身の能力を疑われたり馬鹿にされたり、足元をすくう格好の材料にされかねません。故に、お相手も誰かれ構わず水揚げの任を受けるわけではなく、有名人であればあるほど見習い芸妓のことも厳選します。

見習い芸妓としょっちゅう会うわけではないため、当然ながら信頼できる女将さんを、判断の大きな拠り所の1つとするでしょう。女将さんが見所のある少女を目利きし、上質な旦那方からの助言などを元に、手塩にかけて大切に育てます。そして期待通り、或いは期待以上に育てば、満を時して一人前の芸妓となるべく、一番相応しい旦那に水揚げがお願いされるわけです。

伊藤博文の両親
父・伊藤十蔵(1817-1896年)1896年、79歳頃 母・伊藤琴子(?-?年)1896年

伊藤博文は山口で百姓の長男として生まれましたが、破産した父が貧しさ故に長州藩の武家奉公人・中間(非武士身分)の養子となったのですが、その養父がさらに足軽(武士の最下層)の養子となったため、父親と共に足軽の身分になりました。分かりにくいですね〜(笑)

養子に入った先の養父が、さらに養子になるなんて現代では想像しにくいですが、博文が誕生した1841年に父・十蔵は24歳、武家奉公人の養子となった時に父は36歳頃で博文が12歳、養父が養子になった1854年に父は37歳で博文が13歳頃です。

少し後に生まれた岡倉天心が東大生時代の16歳で結婚し、18歳で長男が生まれていることを考慮すれば、養子になった先が養子になるなんてことも考えられなくはないですね。

戦後は徐々に『家』という形が崩壊し、血のつながった子供しか育てないのが"普通"となった現代の日本は、ある意味では型にはまって選択肢が少くなったようにも感じます。

私の父方の実家は5代も養子が続き、そのうちの2回ほどは夫婦で養子となってもらう"もろ養子(方言かもしれません)"だったと聞いています。女の子すら生まれなかったというわけですね。このため、石田家の先祖を辿っても血はつながっていません。それでも絶やしてはならぬ特別事情がある家の場合、当然の選択肢として養子を迎えていたわけですね。

Genと同世代の私の母も、一度、子供に恵まれなかった親戚の家に養子に出されたことがあるそうです。4人兄弟の長女だったのですが、祖父が寂しさに耐えられず連れ戻されたそうです。

戦前までは、養子は想像以上によくあることだったのかもしれませんね。

志士時代の伊藤博文(1841-1909年)

こうして足軽となった伊藤博文は1857年、江戸湾警備に派遣されました。

その際、同じく長州藩士で浦賀警備の任に就いていた来原良蔵(1829-1862年)が当時16歳頃だった伊藤の才能を見出し、部下としました。

松下村塾の講義室(山口、長州萩城下にあった幕末の私塾)
"松下村塾講義室" ©ぽこるん(27 December 2020, 15:13:32)/Adapted/CC BY-SA 4.0

2人は昵懇の間柄となり、来原の勧めによって伊藤は松下村塾に入塾しました。身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったまま聴講しました。同塾生の渡辺蒿蔵(こうぞう)は下記のように記しています。

「伊藤公なども、もとより塾にて読書を学びたれども、自家生活と、公私の務に服せざるべからざる事情のために、長くは在塾するを得ざりしなり」

武士階級になったとは言え、その最下層として大変だったようですね。ちなみに渡辺蒿蔵も長州藩士の渡辺家に生まれたものの、幼くして天野家の養子になり、明治維新後に渡辺家に復籍しています。昔はいろんな生き方があった感じですね。

長州五傑(1863年)一番右:22歳頃の伊藤博文、下左:27歳頃の井上馨

激動の時代の中、若き伊藤は尊王攘夷運動に加わる一方で海外渡航も考えるようになり、1861(万延元)年に来原に宛てた手紙ではイギリスを志願しています。

この頃はまだ憧れの先進国というよりは、油断ならぬ異国という意識が強かったでしょう。翌1863年1月31日、高杉晋作を隊長として決行した品川御殿山の英公使館焼き討ちに火付け役として参加しています。

そんなことがありつつも、同じく火付け役だった井上馨の薦めで共にイギリスに渡航することを決意し、長州五傑として同年5月12日にイギリスに向けて出港しました。

ちなみに当時は江戸幕府が日本人の他国への渡航を禁じており、密航にあたりました。

長州藩士時代の井上馨(1836-1915年)1869/明治2年、33歳頃

実は井上馨も長州藩士・井上家の次男として生まれたものの、跡取りがいなかった同じく長州藩士の名門・志道家の家督を継ぐべく、19歳となる1855年に養嗣子となっていました。

密航が露見し、その罪が志道家にまで及ぶことを恐れ、出航にあたって志道家とは離別したそうです。

並々ならぬ覚悟ですね。

そして、やっぱり養子は多いですね。『血』ではなく『家』が重視される世の中では、養子は普通だったということなのでしょう。

化学者アレキサンダー・ウィリアムソン(1824-1904年)1862年、38歳頃

そんな並々ならぬ覚悟だった彼らが、ただ闇雲に渡航にチャレンジしたわけはなく、駐日英国領事エイベル・ガウワーや、東インド会社を前身とする有力な貿易商社ジャーディン・マセソン商会の協力がありました。

現地ではマセソン商会社長のヒュー・マセソンが世話役となり、伊藤や井上らは化学者アレキサンダー・ウィリアムソン宅に寄留しました。

ウィリアムソンは全英屈指の名門大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の教授を務めており、1855年には王立協会フェローに選出され、1862年にはロイヤル・メダルを受賞していた人物です。

全英屈指の名門大学ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(1827年頃)

長州五傑はこのUCLの法文学部に聴講生として入学し、化学についてはウィリアムソンのバークベック実験室で指導を受けました。

それだけではなく、ウィリアムソン邸では英語や礼儀作法の指導を受け、博物館や美術館に通い、海軍施設や工場などを見学して様々な見聞も広めました。あまりにも圧倒的な国力差を目の当たりにし、開国論に転じたと言われています。

通常の一般人のコネなし留学などと異なり、今後ヨーロッパの上流階級とやりとりしていくことを見越した、礼儀作法や芸術などの教養も身につけるカリキュラムが特徴ですね。

岩倉使節団(1871年11月に横浜港を出港、1年10ヶ月に渡り欧米諸国を巡る)
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

翌1864年3月、米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知り、伊藤と井上は急ぎ帰国しました。その後、幕末から明治にかけてのゴタゴタがありましたが、明治維新後の1871(明治4)年11月、英語が堪能でもあった伊藤は岩倉使節団の副使として再び海外渡航しました。

アメリカに約8か月滞在した後、ヨーロッパを巡りました。イギリスでは貴族の邸宅なども訪れ、ウィンザー城ではヴィクトリア女王にも謁見しています。ドイツでは宰相ビスマルク主催の宮廷晩餐会に参加しており、情報収集に加えて、ヨーロッパ社交界でリアルな上流階級たちの立ち居振る舞いに触れてきたことは疑いようもありません。

ここで知見を広めた全権大使の岩倉具視は、何をやるのか具体的に定まっていなかった日本の近代貴族(華族)の方向性を定めていくことになりました。ヨーロッパの王侯貴族を倣い、華族も学芸のパトロンとなり、それらを振興するという重要な役割も定まりました。

PDヴァッサー大学在学中の山川(大山)捨松、永井繁子、その友人(1881年)

岩倉使節団に同行して渡米し、日本初の女子留学生としてアメリカで学んだ山川捨松(1860-1919年)は、上流階級の女子に必要とされるあらゆる教養をトップクラスの成績で身につけました。

帰国後は大山公爵夫人となり、華族の女性のお手本として大いに文化発展に貢献しました。

10代の殆どをアメリカで過ごしたために、グローバルスタンダードな教養は得意でしたが、日本の上流階級の教養を身に付けたり、忘れたりしないようにすることに苦労したそうです。

ベルリン公演時の川上貞奴(1871-1946年)1901年、30歳頃

その一方で、庶民でありながらも後見人の伊藤博文の知見の元、日本国内でヨーロッパ上流階級にも通じるような馬術やビリヤードなどの教養、さらに日本人ならではの日舞や唄などを、日本のトップクラスの権力者らをご贔屓筋にできるほどの、国内屈指のレベルで身に付けたのが芸妓・貞奴と言えるでしょう。

1-3-6. 貞奴の夫となる川上音二郎の人物像

3年弱後、1888年に伊藤博文は17歳頃の貞奴を専属の立場から解放しましたが、引き続きお気に入りの芸妓として貢献的な立場にあり続けました。

そんな時、貞奴に運命の出逢いが訪れます。後に『新派劇の父』とも言われるようになった、川上音二郎です。1894年、貞奴が23歳の頃に結婚するのですが、音二郎についてもご紹介しておきましょう。

川上音二郎(1864-1911年)47歳以前

音二郎は現在の博多で、福岡藩主・黒田氏の郷士および豪商の家に生まれました。

いまいち身分が分かりにくいですが、武士と百姓の中間層という感じです。

武士同様、藩・幕府に士分として登録され、名字帯刀の特権も与えられていますが、普段は豪商として生活していたとご想像ください。

論語や孟子を学び、旧制福岡中学校の前身に進学しました。旧制福岡中学校は今の福岡県立福岡高等学校で、福岡では『御三家』と言われるほどの難関校です。音二郎も頭脳明晰だったようです。

しかしながら11歳で母を亡くし、継母と折り合いが悪く、1878(明治11)年、12歳頃に出奔しました。

密航や無銭飲食で追われながらも何とか江戸に辿り着き、人材斡旋を生業とする口入れ屋『桂庵』の奉公人として転がり込むも長続きせず、吉原遊郭などを転々としました。さらに増上寺の小僧をしたり、書生として慶應義塾で学んだりしました。

1881(明治14)年、17歳頃には旧福岡藩(黒田藩)士が中心となった、日本初の右翼団体とも言われるアジア主義の政治団体『玄洋社』の結成にも参加しています。郷里を逃げ出してきた音二郎ではありましたが、遠い江戸の地で、同郷のつながりは心強いものでもあったと想像します。

国会開設の詔(1881/明治14年10月12日)

同年、10年後に帝国議会を開設するという『国会開設の詔』が出されました。

これを機に、板垣退助を党首とする自由党(1881-1884年)が結党されました。

土佐藩士・国会を創った男 板垣退助(1837-1919年)1880年、43歳頃

板垣退助は自由民権運動の指導者として知られています。

世界の自由主義思想はキリスト教の聖書解釈や個人主義を伴って発展したものが多く、リベラルと呼ばれます。

この時代の日本の自由主義が分かりにくいのは尊王思想を基礎とし、明治天皇の五箇条の御誓文を柱として発展させるという思想だったからです。

板垣は『君主』は『民』を本とするので『君主主義』と『民本主義』は対立せず、同一不可分であると説きました。

1870年に皇帝を廃位して共和政になったフランスではなく、君主と議会が存在するイギリスのイメージですね。

自由民権運動では藩閥政府による専制政治を批判し、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約の撤廃、言論の自由や集会の自由の保障などが要求されました。

そのように政治的にも騒乱の時代でした。音二郎は18歳の時に京都で警視庁巡査になっていたのですが、その騒乱の中で短期間で解雇されてしまいました。

音二郎は愛国主義と密接に結びついた板垣の自由民権運動に賛同し、この辺りから活発に政治活動を始めました。持って生まれた明晰な頭脳もあって、そのスピーチは影響力を発揮し、合計180回も逮捕されたそうです。悪事を働いたわけではなく影響力の強さの証なので、この回数は音二郎の自慢でもあったようです。

1883年、19歳頃から民権思想の新聞記者として『自由童子(Liberty Kid)』を名乗り始めました。演説や新聞発行などの運動によってあまりにも影響力を持つようになったためか、集会条例第6条違反で1年間、公の場での政治演説を禁じられてしまいました。刑務所に送られた回数は6回以上、10数回とも言われています。こういう男性が九州男児らしいと言うのでしょうか、かなり気骨のある人物だったようですね。

『目黒のさんま』を演ずる落語家(2008年)"Rakugo-sanmafestival" ©vera46(14 September 2008, 12:29:48)/Adapted/CC BY 2.0

そんな音次郎ですが1885年、21歳頃に講談師の鑑札を取得し、1887年には『改良演劇』と銘打った一座を興して書生芝居を始めました。さらに大阪の上方落語家の桂文之助に入門し、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)を名乗って寄席に出ていました。

また何をやるべきか模索・迷走しているのかと言えば、そうではありません。講談師は政談なども話します。落語の有名な噺の1つである『目黒のさんま』なんかも、笑い話でありながらも、世俗に無知な殿様を風刺する内容ですよね。

明治時代の流行歌として、『オッペケペー節』が有名です。これは落語家の桂文之助の門人である3代目・桂藤兵衛または2代目・桂梅枝が始めたのですが、文之助に入門した音二郎が浮世亭◯◯として1889年に作詞して歌い始めました。

オッペケペー節は次のように始まります。

「権利幸福きらいな人に。自由湯をば飲ましたい。オツペケぺ。オツペケペツポー。ペツポーポー。」

自由湯は"じゆうとう"、自由党と言うわけですね。この後も歌詞は続きます。政治的意見を公で表明すればすぐさま弾圧される明治の動乱期、音二郎は伝統芸能・芸術という一種の隠れ蓑を使い、噺家として歌詞の中でズバズバと言いたかったことを主張したのです。

ある意味、ジャポニズムを隠れ蓑に自国の王侯貴族や権力者を風刺した、イギリスの『ミカド』と同じことですよね。単に消費するだけの娯楽ではなく、背後には高度に知性を感じるクレバーな作品と言えるでしょう。

浅草の寄席(20世紀初期 大正時代)

1891年2月以降は書生芝居の役者として舞台に立ち、赤い陣羽織に後ろ鉢巻を巻き、日の丸の軍扇をかざして大喜利に余興として歌い始めました。東京でも同年6月に浅草の中村座で『板垣君遭難実記』などを上演し、余興のオッペケペー節は関西のみならず東京でも民衆に爆発的な人気を博し、大流行しました。

貞奴の家もそうでしたが、明治期は急激なインフレによって生活に困窮する人たちがたくさんいた時代でした。

「米價(べいか)騰貴(とうき)の今日に。細民困窮(さいみんこんきう)省(みかへ)らす目深に被(あ)ふた高帽子。金の指輪に金時計。〜。内には米を倉に積み。同胞兄弟(どうほうきょうだい見殺しか。」

舶来品が楽しめるのは特権階級や相当なお金持ちに限られており、ここぞとばかりにひけらかす成金嗜好の人たちもいたでしょう。

「なんにも知らずに知た顔。むやみに西洋を鼻にかけ。日本酒なんぞはのまれない。ビールに。ブランデー。ベルモツト。腹にもなれない洋食を。やたら喰ふのもまけおしみ。〜。ましめな顔してコーヒー飲む。おかしいね。ヱラペケペツポ。ペツポーポー。」

これは戦後、高度経済成長期の舶来品信仰も思い起こさせますね。いつの時代も、人間の性向は変わらないと言いますか・・(笑)

ガス抜きが目的ではなく、良い世の中を実現すると言う強い意志がありますから、笑いの中にきちんと主張だけでなく人々を扇動するための言葉も入れています。

「洋語をならふて開化ぶり。バン(パン)くふばかりが改良でねへ。自由の権利をこうてうし。國威をはるのが急務(きうむ)だよ。ちしきとちしきのくらべやゐ。キョロ/\いたしちや居られなゐ。窮理と発明のさきがけで。異國におとらずやツつけろ。神國名義だ日本ポー」

真面目な顔で小難しい政治談義をしても、聴く人は限られます。不満を持ちながらも公然と主張することが禁じられた抑圧の時代、陽気なリズムに乗せたオッペケペー節の歌詞に「そうだそうだ!それが言いたかった!」と共感した大衆は多かったでしょう。爆発的な人気に伴い、歌詞は10数種類も作られました。ここでは抜粋のみをご紹介しましたが、ご興味がある方はぜひ調べてみてください。

川上音二郎(1864-1911年)

それにしても凄いですね。現代でも政治的な活動を行う個人や団体は存在しますが、主義主張を押し付け的に演説するのではなく、大衆を味方につけて大きな動きにしていかなくては世の中を変えることは困難です。

「自分はこんなにやっているのに。」
「正しいことを言っているのに。」
「大衆が愚かだからついてこない。」
「皆やる気がない。」
実現できない理由を他者に求め、挙げつらう人は少なくありません。他人を動かそうとするならばまず相手が分かるように説明し、さらに自分も動かなくてはと思うよう感情に訴える必要があります。

自分は素晴らしいのに大衆はダメだと不平不満を言っている間は、世の中は変わりません。生産性が無くただの無意味であり、選民思想に浸って気持ち良くなっているだけの状態です。本人は自分が凄い人間だと思っていたとしても、並みの域は出ません。『手段』が『目的』になってしまっていることにすら、気づけていません。

大喜利の余興としての、大笑いのオッペケペー節。
一見おバカっぽく歌っても、頭の良さを鼻に掛けた感じが鼻に付く感じだったら大衆の支持は得られなかったでしょう。音二郎が相当頭が良かったことは間違いありませんが、それを臭わせることなく、純粋な気持ちで行ったからこそ大きな動きにできたのでしょう。中途半端な"頭の良い人"だったなら「俺、頭良いだろう。」と自慢したい顕示欲が抑えきれず、大衆の支持を得られず失敗していたと思います。

川上音二郎(1864-1911年)
"Kawakami Otojiro statue" ©Muyo(2006年2月)/Adapted/CC BY-SA 3.0

政治に対して意識の高いごく一部の人だけでなく、大多数である一般大衆も巻き込んで大きな動きとしていくために、音二郎は極めてクレバーな動きをしたわけです。

意志の強い人でもあったのでしょうね。

1-3-7. 川上音二郎と貞奴夫婦の誕生

長州藩士・初代 内閣総理大臣 伊藤博文(1841-1909年)

当時、内閣総理大臣だった伊藤博文は一座の公演に感銘を受け、音二郎の劇団を茶屋『きらく』で開催するプライベートなパーティーに招きました。

総理から公演依頼が来るなんてビックリですね。当時、『自由童子』を名乗る華やかな青年の話で世の中は持ちきりでした。既にそれほどの知名度となっていたのです。

伊藤は体制側ですが、第2次伊藤内閣(1892-1896年)では自由党が与党として国政に参画しており、板垣退助は内務大臣を務めている間柄です。

伊藤にとって、オッペケペー節はけしからんと逮捕する対象ではなかったようです。

PD大山巌 公爵(1842-1916年)

ちなみにこの第2次伊藤内閣で陸軍大臣だったのが大山捨松の夫、大山巌です。

ルイ・ヴィトンで初めての日本人顧客として知られており、1871年に普仏戦争の視察でパリに赴いた際に旅行カバン一式をオーダーしています。

捨松との結婚披露宴の招待状は全文がフランス語で、人々を仰天させたそうです。

ビーフステーキやフランスから輸入したワインが大好物、ドイツの古城をモチーフにした自邸を建てたりするほど、自他共に認める西洋かぶれでもありました。

まさにオッペケペー節で揶揄されている人という感じですが、大山巌の場合は自己顕示欲でひけらかすと言うよりは、純粋に西洋文化が好みだっただけのようです(センスは良くなかったようですが・・)。

全文フランス語の招待状に関しては、捨松との初デートで会話を試みたものの、薩摩弁の大山巌と会津弁の捨松は互いの言葉が全く理解できず、しかしながらヨーロッパの上流階級の共通語であるフランス語で話し始めた途端に一気に会話が弾み、結婚まで漕ぎつけたという前段があります。

青年期までは俊異として際立っていたものの、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心がけていたとされており、大山巌が並の頭脳ではなかったことは本人が主張せずとも周囲が知るところであり、わざわざ自慢なんてする必要がありません。

自分自身ではなく、若くて美しく頭脳明晰、日本初の女子留学生としてグローバルスタンダードな教養まで高いレベルで身につけた新婦・捨松を皆に自慢したかったからに他なりません。

アメリカの名門大学をトップクラスの成績で卒業する才媛だけあって、捨松は財産管理もお手の物でした。捨松は不動産による大山家の資産運用も行い、大山巌は「自分が知らない間に広大な邸宅を手に入れた。」と驚いていたそうです。これも妻の自慢ですね。劣等感を持つ男性ならば妻の能力に嫉妬したり、俺のお陰だと手柄を横取りしたりします。

2人は18歳の歳の差がありましたが、10代の殆どをアメリカで過ごした捨松は夫を「Iwao」と呼び、おしどり夫婦として晩年まで仲が良かったそうです。どちらも間違いなく"天才の孤独"を感じていたであろう、桁違いの頭脳を持っていました。だからこそ2人の絆は固かったのでしょう。

そういう人たちは西洋を鼻にかけることはないでしょうけでど、中途半端な人たちがオッペケペー節のような"おかしい"振る舞いをしていたものと想像します。

川上貞奴(1871-1946年)と音二郎(1864-1911年)

さて、音二郎が貞奴に初めて出逢ったのが、伊藤総理のこの茶屋でのプライベートなパーティでした。

伊藤総理は貞奴の他に芳町の芸妓4人も呼んでおり、お気に入りの芸妓の1人として紹介されました。

音二郎を見た貞奴は、一眼でその強さや男らしさに魅了されました。

貞奴は伊藤総理のお気に入りとして名だたる政財界の大物を見ていたはずですから、その中で恋に落ちるほどというのは余程強い魅力のある男性だったのでしょう。

音二郎を見た貞奴は、「私の残りの人生を、このパワフルな男性と共に過ごしたい。」と感じたそうです。

貞奴には高いプライドがありました。「この人を男にする!さもなければ私は面目を失う!」とも思ったそうです。女性ですが、男前ですね。

モトクロスでバイクを走らせる片桐元一
モトクロスで走るGen(1967年頃)

貞奴は馬術レースにも出場するような女性でしたが、バイクが出てくると、いち早く赤いバイクを乗り回していたそうです。群を抜いた美貌を持っていましたが、中身は極めて男前でカッコいい女性だったのでしょう。

Genが20歳前後の頃にモトクロスをやっていましたが、整備されていない悪路はお尻が痛いのでとても座っていられず、腰を浮かせて走っていたそうです。ハンドルも取られないように注意しないと危ないですね。貞奴の時代も今のように舗装された綺麗な道路ではなかったはずで、やはり相当な男前です(笑)

日本初の女優と呼ばれた川上貞奴(1871-1946年)1900年頃、29歳頃

21歳頃に7つ年上の音二郎に出逢った貞奴はこの人一筋と決め、他のお客のお相手は一切やめました。

音二郎以外では、茶屋で芸を披露するだけにして忙しく働きました。

公爵 西園寺公望(1849-1940年)1906年、57歳頃、内閣総理大臣・在任時 伯爵 金子堅太郎(1853-1942年)1905年頃、52歳頃

その後、音二郎は西園寺公望と同郷の金子堅太郎の勧めと後援によって、1893年1月から5月にかけてフランスに渡航しました。『書生芝居』に過ぎなかった劇団がさらに成功するよう、ヨーロッパの演劇を学ぶためでした。

この経験は帰国後に大いに活かされ、『新派』として発展し、旧劇とされる『歌舞伎』を凌ぐ人気を持つようになりました。こうして音二郎は『新派劇の父』と称されるようになりました。

西園寺公望のパリ留学時代(1871-1880年)20代

西園寺公望はフランス留学後に伊藤博文の腹心となった人物で、フランス通です。

公家出身、精華家の1つである徳大寺家の次男として生まれており、他の武家出身者と比べると雰囲気が違いますね。

ハーバード大学時代の22歳頃の金子堅太郎:中央(1853-1942年)1875年12月

金子堅太郎は音二郎と同じく、福岡の『御三家』出身です。

福岡藩士・勘定所附の金子清蔵直道の長男として生まれ、明治維新後は御三家の1つである修猷館での成績が優秀だったので秋月藩への遊学を命ぜられ、さらに家老から東京遊学を命ぜられ、1871年の岩倉使節団に同行した福岡藩主・黒田長知の随行員としてアメリカ留学しました。

初めはボストンの小学校に通っていたのですが、飛び級して卒業し、その後に入ったハイスクールも中退してハーバード大学に入学し、法学の学位を取得しています。

この方も、とんでもなく頭が良さそうです。

一般大衆にとっては、戦後もしばらくは海外渡航は特別なことでした。でも、明治期のエリートや芸術に携わる人たちは、案外フットワーク軽く海外に渡っていたようですね。

金子は伊藤博文の『三羽カラス』と呼ばれるほど信頼厚く活躍しており、彼を媒酌人として、音二郎がフランスから帰国した5ヶ月後に貞奴と結婚しました。

1-3-8. 海外公演のきっかけとなったランカイ屋・櫛引との出会い

めでたく夫婦となった才能ある2人でしたが、順風満帆とは行きませんでした。

1893年のパリ視察経験を元に、音二郎はそれまで日本の劇場でスタンダードだった枡席を中心とした劇場スタイルを変え、観客が舞台を見やすい洋式の劇場を造りました。従来の芝居小屋とは一線を画すヨーロッパ風建築に工事は難航しましたが、1896年6月に東京・神田で『川上座(Theatre Kawakami)』の落成式が行われました。3,000人近くの有力者や著名人が招待され、その接待には新橋や柳橋から100名あまりの舞妓が集められるという豪華なものでした。

中流以上の嗜好に叶うような高尚、且つ、演劇を志した当初の書生芝居気質を失っていない演劇を演じたいという音二郎の志の元、川上座は新しいタイプの劇『新劇派』の拠点となりました。

ただ、1896年7月のこけら落としも大入りで、演劇自体は成功したものの、当初から財政は火の車でした。12月には競売に付され、地主から地代滞納を理由に劇場を取り壊すと提訴される始末です。資金繰りを試行錯誤はしたものの、2人は1898年には川上座を手放すことになりました。

結局夫婦は小さな帆船を購入し、愛犬を連れて築地から逃亡しました。伊豆半島南部・下田でオンボロ船を修繕した後、淡路島に漂着して一命を取り留める経験を経て、翌1899年に何とか神戸に辿り着きました。苦労していますね。

前例なきものに挑戦すれば不測の事態は当然ですし、純粋に良いものを作ろうと追い求めればお金がかかるのも当然です。お金儲けに徹すれば別だったのでしょうけれど、本当に難しいですね。才能があり、愚直で曲がったことができない2人の人間性を表しているようでもあります。

博覧会キング 櫛引弓人(1859-1924年)1915年頃、56歳頃

こういう人たちを運命は見放しません。

辿り着いた神戸で大きな転機となる出会いがありました。『博覧会キング』と呼ばれたランカイ屋、櫛引弓人との出会いです。

ランカイ屋とは、博覧会の取り仕切りを行う企業や個人です。戦後、高度経済成長を迎える頃には広告代理店や大手企業にその役割が移りますが、黎明期はアイデアやコネを持つ個人が活躍していました。

櫛引は明治から大正にかけて主に日本とアメリカで活躍した、なかなか豪快な人物です。

青森の五戸村に生まれ、若い時に上京して慶應義塾の門下生となりました。賢い人物ではあったのでしょう。しかしながら相場で失敗し、大きな損失を負いました。結果、26歳頃の1885(明治18)年に無一文で渡米し、機知と天才的なハッタリを武器にランカイ屋としての道を歩み始めました。

まだ渡米して現地に住み、英語を話せる日本人がそう多くはなかった時代。一定の才能があれば、稀少なアメリカ在住の日本人として頭角を表すのはさほど難しくなかったかもしれませんね。

鳳凰殿に隣接して建設された日本の茶店(シカゴ万博 1893/明治26年)

1893(明治26)年のシカゴ万国博覧会では平等院鳳凰堂をモデルにした『鳳凰殿』が建設され、そこに隣接して茶店と日本庭園を造りました。ここでの日本人女性による喫茶サービスは大いに話題になったそうです。

様々な取り纏めを行うランカイ屋は中心人物と言えるキーパーソンではあるものの、実際に表舞台で活躍するのは個別の専門家たちです。一般客の目にさらされる場所に名前が出てくることは殆どありません。業界内では間違いなく有名人となったはずですが、一般には知られざる縁の下の力持ちみたいな役目ですね。

鳳凰殿(シカゴ万博 1893/明治26年)

ちなみに現地では日本から送り込まれた25名の職人・専門家が、鳳凰堂の建設作業に従事しました。

文部省・建築技師 久留正道(1817-1896年) Wiki Taro permitted地鎮祭の祭壇(東京 2021年)

建設にあたり、現地でも日本で行うのと全く同じように地鎮祭も行われました。工学大学校・造家学科(現在の東京大学・工学部建築学科)でジョサイア・コンドルに学び、文部省の建築技師として働いていた建築家、久留正道が技師長として祝詞を朗読したそうです。

倉敷の阿智神社の手作りの注連縄阿智神社の注連縄(倉敷 2013年12月17日)

周囲には七五三縄(注連縄)を張り、事務官はフロックコートにシルクハット姿、大工や鳶職人たちは日本土木会社(現在の大成建設)の半纏を着用して参加しました。

この地鎮祭の様子はアメリカ人は初めて目にするもので、多くの人が見物に訪れ、新聞雑誌でも取り上げられました。

日本人にとっては見慣れている、思ってもみなかったものが外国人にとって新鮮で興味を抱かせるものはありますよね。

古い伝統は、既に現代の日本人にとっても物珍しいものであったりもします。

倉敷の阿智神社の手作りの注連縄阿智神社の注連縄(倉敷 2013年12月17日)

これはサラリーマン時代に撮影した、倉敷の阿智神社の注連縄です。近かったのと現地の友人たちに恵まれて、倉敷には足繁く遊びに通っていたのですが、12月に訪れた際、阿智神社の注連縄が新しくなっていることに気づきました。作られたばかりの藁の香りが心地よかったです。

倉敷の阿智神社の注連縄作り会場阿智神社の注連縄作り会場(倉敷 2013年12月) 倉敷の阿智神社の注連縄作りの道具阿智神社の注連縄作りの道具(倉敷 2013年12月)

側には注連縄作り会場があり、自由に見学できるようにしてありました。11月15日より12月初めということで、最低でも2週間以上はかけて手作りしているということですね。

既製品を買ってくるだけということが当たり前となった現代人にとっては、これは感動の光景でした。思わず興味津々で撮影したほどです(笑)

鳳凰堂を建設作業中の職人たち(シカゴ万博 1893年)

欧米とは全く異なる建築作業、職人たちのテキパキとした仕事ぶり、徐々に完成していく日本建築の様子に当時のアメリカ人たちが強い興味を抱いたのも無理ないことです。あまりに多くの見物人が訪れ、工事の妨げになり、周囲に立ち入れない対策がなされたほどだったそうです。

鳳凰殿のステレオカード(シカゴ万博 1893/明治26年)

こうして無事に鳳凰殿が完成しました。日本の職人たちの礼儀正しい振る舞いも、欧米人には印象的だったでしょうね。日本人以外で礼儀が行き届いた職人さんなんて普通は見慣れないでしょうし、万博に派遣されるほどですから、日本の職人としても精鋭揃いだったはずです。

完成した鳳凰殿と日本の職人たち(シカゴ万博 1893/明治26年)

欧米人たちが具体的にはどのような物・事に興味を抱くのか。それは現地で目の当たりにしなければ正確には把握ができないものです。

このシカゴ万博への展示物の選定には文部省役人であり、当時東京美術学校(現在の東京藝術大学)の初代校長を務めていた日本人エリートの岡倉天心らがあたりました。

職人や事務官らは、その時に与えられた仕事をして終わりです。しかしながら岡倉のような立場の人ならば、経験を今後に生かすことができたでしょう。

そんなエリートとは違う立場ですが、ランカイ屋の櫛引も写真に写っているかは分かりませんが、どこかでこの景色を見ていたことでしょう。それを生かし、櫛引も櫛引なりの活躍を見せていくことになりました。

ちなみにこのシカゴ万博では、私費で渡米した久保田米僊が出品した『鷲図』で授賞しています。公的機関だけでなく、民間でも才能溢れる意欲ある人が活躍した時代だったようですね。

櫛引が運営していた日本庭園(アトランティックシティ 1896年)

1896年、櫛引は日本茶業組合の後援により、ニュージャージー州アトランティックシティの6エーカーの浜辺の空き地に大規模な日本庭園をオープンしました。

庭園入口には、日光の陽明門を模倣した門を設置しました。ド派手で悪趣味な日光の装飾は一般的に日本人が好むものではなく、Genも私も好みではありませんが、金めっき時代を経て成金嗜好が強まったアメリカ人ウケという意味では適切な選択だったでしょうね。

園内には岡崎の八つ橋、亀戸天神社の太鼓橋、銀閣寺などを造りました。胎内くぐりなどもあったそうです。これはアメリカ人目線を持つ人物ならではの選択かもしれませんね。寺社仏閣などの建築物とは違って地味ですが、日本人の精神性に触れることができる知的で楽しいアトラクションとなったことでしょう。

櫛引が運営していた日本庭園の写真集(1898年出版)

日本から取り寄せた丹頂鶴や京都の寺鐘、石灯籠、2万個に及ぶ岐阜提灯などで彩られ、日本の風情が感じられる庭園だったそうです。園内の茶店では20名の日本女性がお茶を振る舞いました。

こうして櫛引は資金を作り、ランカイ屋としての地位を固めていきました。

櫛引が運営していた日本庭園の写真集(1898年出版)

1897(明治30)年に櫛引は日本に戻りました。

目的の1つが、エジソン社が商品化し、1896年4月にニューヨークで初公開されたばかりの映画史初期の映写機『ヴァイタスコープ』の上映でした。ヴァイタスコープ2機、フィルム12本と撮影技師を連れて帰国した櫛引は、1897年2月に浅草で東京初の上映会を開きました。

さらに3月、前年にオープンしたばかりの近代西洋式の劇場『川上座』で上映しました。このタイミングで櫛引は川上夫妻と出会っています。翌1898年には川上夫妻は川上座を手放し、神戸に逃亡しています。櫛引の帰国のタイミングと良い、奇跡のようなタイミングですね。きっと必然だったのだろうと思えるような、運命の出会いでした。

1-3-9. 海外ツアーへの出発

博覧会キング 櫛引弓人(1859-1924年)1915年頃、56歳頃

櫛引の帰国の目的のもう1つが、欧米で次の起爆剤となるような、日本の魅力的なコンテンツを探すことでした。

最初は物珍しくても、やがては飽きられて廃れます。そうなる前に、次に仕込むための新しいネタ探しは重要です。

櫛引は、日本庭園に本格的な劇場を追加したいと考えていました。

1899年2月、神戸に足を運んだ櫛引は大陸ツアーの後援や宣伝活動を行うとして、「アメリカの紳士淑女の皆さんに新しい劇団を紹介しましょう!」と音二郎に提案しました。

音二郎は劇団を連れて1900年のパリ万国博覧会に参加したいと考えていました。櫛引に渡米費用を負担してもらえるならば、パリへの旅費の軽減にもなると考え、渡りに船と渡米を決意しました。妻の貞奴を始め、9名の男性俳優、2名の子役、衣装係、小道具、美容師、歌手、三味線弾き、荷物持ちなど計18名を集めました。

しかしながら急遽、櫛引にアメリカから緊急の連絡がありました。アトランティックシティの事業に問題があり、早めに渡米する必要が出たため、櫛引は一足早くアメリカに戻ることになりました。

川上貞奴(1871-1946年)と音二郎(1864-1911年)

5月21日、長い船旅を終え、川上一座が無事にサンフランスシスコへ到着すると・・。

櫛引はいませんでした。

ビジネスで大きな損失を被ってしまい、もはや川上一座を後援することができないということでした。大迷惑なオジサンですね(笑)

このため川上一座は櫛引の手配により、ミツセ・コサクと言う日本人弁護士をマネージャーとして活動することになりました。

1-3-10. 女優・川上貞奴の誕生

博覧会キング 櫛引弓人(1859-1924年)1915年頃、56歳頃

迷惑オジサンですが、海外に一歩踏み出す背中を押してくれたという意味では「グッジョブ!」と言って良いでしょう。

しかしながらもう1つ、櫛引だったからこその、画期的で大きな貢献がありました。

川上貞奴(1871-1946年)

櫛引は貞奴を劇団の主役であり、一番の魅力であると宣伝していました。

これには一同仰天しました。

日本では歌舞伎の世界で、長く男性だけが役者だった歴史がありました。

音二郎は劇作も演者もこなしました。上演した新劇には『壮絶快絶日清戦争』や『川上音二郎戦地見聞日記』、『威海衛陥落』などがあり、この辺りは明らかに男性が主役ですね。

日本の女形俳優・立花貞二郎(1893-1918年)
『八犬伝』(1913/大正3年)20歳頃 『カチューシャ』(1914/大正4年)
左:21歳頃の立花貞次郎

泉鏡花の小説を舞台化した『瀧の白糸』も1895年に浅草座で上演しています。これは女水芸人『瀧の白糸(本名:水島友)』が主役ですが、20年後となる1915年に撮影された映画でも女性ではなく、立花貞二郎などの女形が女性役を演じたそうです。

新派の常として、この時代でも女性の配役は女形が演じていました。

この立花貞二郎は『日本のメアリー・ピックフォード』と呼ばれるほど高い評価を受けていました。歌舞伎役者だった兄が幼少期に鉛毒で亡くなっているのですが、貞二郎ももともと体が弱く、25歳で兄と同じ鉛毒で死去しています。

貞二郎の死と同時期に、「写実を旨とする映画に女形は不自然である」として、映画界で急速に女優導入が進みました。

川上貞奴(1871-1946年)と音二郎(1864-1911年)

新劇を立ち上げた当初は、日本にはまだ『日本人の女優』という概念がなかった時代です。

それ故に、アメリカで貞奴がメインと設定されている事実を知り、川上一座は仰天したわけです。

日本人の常識ではなく、アメリカ人からの視点で考えた櫛引ならではのエポックメイキングな発想だったと言えるでしょう。

アメリカ人の心を掴むなら、フランス人女優サラ・ベルナールのような、スターとして美しい女優が必要だと櫛引は考えました。そのスターとして目をつけたのが貞奴だったのです。

これがスパークを起こしました。

5月21日にサンフランシスコに到着した川上一座の公演初日は25日でした。

たった4日しかありません。この段階で既に告知済みの内容を変えるわけにもいかず、川上一座は櫛引が構想した通り、貞奴をメインにして公演しなければならないと結論づけました。

貞奴は元々は音二郎の妻として行くだけのつもりでした。ただ、念の為、ステージに出なければならない事態に備えて、芸者のパフォーマンスをいくつか練習はしていたそうです。

ベルリン公演時の川上貞奴(1871-1946年)1901年、30歳頃

そうは言っても貞奴を興業のメインにするなんて、川上夫妻にとって予期せぬことです。しかしながら逆境に負けることなくポジティブに捉え、初めての試みに四苦八苦しながらも2人は力を尽くしました。

そして、2人には大いなる才能がありました。

貞奴は日本の政財界や上流階級を虜にできる、国内トップクラスの芸の実力と美貌がありました。

但し、それを異国でそのまま導入してもダメです。2人は欧米の観客には何が最も適しているか、熟考を重ねました。

セリフを多用する劇だと、言語の異なる欧米人には意味が分かりません。そもそも現代(当時)の日本を舞台としたドラマ仕立ての新劇は、明らかに欧米でウケる内容ではありません。

2人は新劇ではなく、旧劇である歌舞伎の演目の中で特に愛されているシーンを演じることにしました。時代を超越したものであり、且つ欧米人にはエキゾチックで魅力的に映るだろうと読んだからです。

日本語を理解できない観客のためにセリフは極力減らしつつ、視覚的要素を強化するために舞踊を多めにし、刺激的な剣舞、合間には喜劇などを取り入れました。さらに演劇は単純化し、観客が消化できる長さに縮めるなどの工夫もしました。

音二郎のこの歌舞伎をベースにした急進的で新しい演劇は、新劇が生み出されたのと同じくらいインパクトのあるものだったそうです。

日本初の女優と呼ばれた川上貞奴(マックス・スレーフォークト 1901年)30歳頃

貞奴のアメリカ・デビューは得意としていた『娘道成寺』を皮切りに、4つの演目で始まりました。

初めて見る日本女性のトップクラスの日本舞踊にアメリカの観客は感激し、舞台は拍手喝采でした。

実は櫛引は1897年にナッシュビルで開催された『テネシー州100周年および国際博覧会』にも参画していたのですが、日本の展示は公式ガイドブックに記載してもらえなかった上、「殆どが奇妙で野蛮な生物である。」、「粗野な演技と踊りである。」などと酷評を受けていました。

人種差別的な含みも多々ありそうですが、実際に演技と踊りはアメリカ人を魅了しなかったのでしょう。

ブランド物などと同じで、日本人女性による日舞なら何でも素晴らしいわけではありません。素人レベルの踊りだと、身内には楽しめても、とても観客として観るに絶えません。いつまでも見ていたいどころか、まだ終わらないのかと苦痛を与えかねません。

よく分からない人にとっては、並程度のプロの踊りであっても欠伸が出るような退屈なものだったりします。しかしながらトップクラスの人だけが持つカリスマ性や演技の美しさは、興味がなかった人ですら強く惹きつける魅力があります。それを貞奴は備えていました。

言葉の通じぬアメリカ人さえ、貞奴はその踊りや立ち居振る舞いの美しさで魅了しました。アメリカ・ツアーを通して、貞奴ファンがアメリカで次々に誕生しました。真面目に覚えていただく必要はありませんが、次のようなツアー・スケジュールでした。

 ・サンフランシスコのベレインホール(5月25日から2週間)
 ・サンフランシスコのカリフォルニア劇場(6月18-21日)
 ・サンフランシスコのドイツホール(7月21-28日)
 ・シアトルの2つの劇場、1つはシアトル劇場(9月9日-9月中旬)
 ・ワシントン州タコマの劇場(1週間)
 ・オレゴン州ポートランドの劇場(10月7日まで)
 ・リリック劇場とシカゴ講堂(10月22日から2週間)
以下、1899年11月6日から12月初旬まで。
 ・ミシガン州グランドラピッズの劇場
 ・ミシガン州マスキーゴンの劇場
 ・ミシガン州バトルクリークのハンブリンシアター
 ・ミシガン州エイドリアンのコロッサルシアター
 ・オハイオ州ティフィンのノーブル・オペラハウス
 ・トレドのパラタイン劇場
 ・デイトンのヴィクトリア劇場
 ・ニューヨーク州マンスフィールドの劇場
 ・ニューヨーク州ビューサイレスの劇場
 ・ニューヨーク州アルバニーの劇場
以下、1899年12月初旬から1900年1月28日まで。
 ・ボストンのトレモント劇場
 ・ボストンのコプリーホール
以下、1900年1月29日から4月
 ・ワシントンDCのラファイエットスクエア・オペラハウス(1月29日-2月8日)
 ・ニューヨーク州ニューヨークのバークレーライセウム(10日間)
 ・ブロードウェイのビジュー劇場(4月まで)

評価が得られなければ、ツアー中断は必至です。名声が名声を呼び、アメリカに貞奴旋風を巻き起こしました。現代と違い、海外のこのような情報が日本で大きく伝えられることはありません。文化は『日本史』のメインストリームにされてないこともあり、現代の日本ではあまり知られざる存在となっているのです。紆余曲折あり、成長を重ねながら一座は大陸ツアーで実績を重ねていきました。

1-3-11. スター・貞奴の名声の高まり

アメリカ合衆国 "Map of USA with state names 2" ©Andrew c, Wapcaplet, Dbenbenn, Ed g2s/Adapted/CC BY-SA 3.0

一行は到着したカリフォルニア州サンフランシスコから大陸ツアーを始めました。先にご説明した通り、到着した途端に櫛引が後援できなくなった事態と、ただ劇団長の妻として帯同したたけの貞奴がなぜかメインのスターと周知されている事実を知るという大変な滑り出しでした。

これは川上夫妻の努力の末に何とかなったのですが、このサンフランシスコ公演の公演資金を、管理を任せていたミツセ・コサクなる人物に持ち逃げされる事態が発生しました。ランカイ屋の櫛引が、自分が応対できない代わりにマネージャーとして紹介していた日本人弁護士ですね。

苦労はしていても、何だかんだ生まれ育ちが良い川上夫妻です。貞奴の方も家は代々続く商家で、母も相応の家の出でした。父は仏様と呼ばれるほど人の良い人物でした。自分さえ良ければの人物ならば助かっていたかもしれませんが、悪事ができぬ人物だったからこそインフレなどの混乱期を生き残れなかったのでしょう。周りも育ちが良い人ばかりという環境で育つと、悪事を働く発想自体がないため、簡単に人を信用して酷い目に遭うこともあります。

同じく育ちの良いGen、も信用していたパリ駐在員に高価な撮影機材やパソコンなどの備品一式、貴重な書籍を窃盗と言うか、横領されたことがあります。こういう人物は人の良い、騙しやすい人間を見抜くのが大得意です。巧妙に信用を勝ち得て、機が熟したら相手の気持ちなど全く考えず行動に移せるようです。海外だと捕まえられにくいと言う計算もあるのでしょう。狡猾さや、他者への思いやりの無さに驚きますが、自分の利益のためならば何をしても構わないという人間はいつの時代でもいるということですね。

信頼していた日本人の窃盗あるいは横領によって、川上一座は遠い異国で無一文になるというまさかの窮地に陥りました。しかしながら、助けてくれたのもまた異国の地で暮らす日本人でした。在留邦人の支援などにより、一座は何とか苦境を乗り越えることができました。悪が滅びることはないかもしれませんが、こういう、純粋で努力を怠らない人たちを天は見放さないということはあるでしょう。

川上貞奴(1871-1946年)と音二郎(1864-1911年)

順調に実績を積み重ねていく中でも、音二郎は努力を重ねました。

成功していれば傍目にはもう良いだろうと思う人もいるでしょう。そのまま続ければ楽で、確実にお金も手に入ります。

しかしながら真の芸術家はお金目当てでは行動しません。どうしたらより良くなるか、それを追い求めるのがあらゆる行動の元となります。だからお金に執着しないのですが、絶えずお金に困る理由でもあります。Genも同じなので、よく分かります(笑)

音二郎も生粋の芸術家でした。

嘉永五年三月江戸市村座上演『京鹿子娘道成寺』(歌川国貞 1852年)

貞奴の演目は当初4つでした。『娘道成寺』で始まります。歌舞伎舞踊の演目の1つで、1時間ほど踊る中で9回ほども着替えるという、衣装の華やかさも見所です。舞台上での、後見さんが出てきて『引き抜き(玉抜き)』による衣装変化は、言葉が分からないアメリカ人でもあっと驚く楽しいものだったでしょう。衣裳を観るだけでも飽きることがなかったはずです。

当時この歌川国貞の浮世絵を持っていたり、知っていたりする人ならば、なおさら「うわ〜、あの浮世絵は実際にこういう演劇だったのか!」と、知的にも大喜びだったに違いありません。

『白拍子花子 市川團十郎』(4代目 歌川国政 1884年)東京市村座上演『鎮西八郎英傑譚』から中幕『春色二人道成寺』の役者絵

まあでも、最大の魅力は様々な日本の小物を駆使した優美な舞です。

『娘道成寺』は歌舞伎舞踊の頂点をなす作品とされ、多くの名優が演じてきました。

主役は白拍子花子で、清姫の化身である大蛇の正体を隠した仮の姿です。

このため、舞には華麗さや品格の高さ要求されます。その上、1時間以上を殆ど一人で踊りきるため、観客を飽きさせない芸の力と高度な技術に加え、相当な体力が必要とされます。

衣装の重さなどもあります。歌舞伎の演目だっただけあって、どう考えても男性役者向きですね。貞奴の凄さが垣間見えます。

『娘道成寺』は舞や衣装がメインであり、それらを軸に組み立てられた作品であるため、ストーリーには深みがないと言われています。

『歌舞伎十八番不破 九世市川團十郎の不破伴衛門』(壽雙々 忠清 1896年)ボストン美術館

他の演目に、時代世話物歌舞伎『The Duel(鞘当)』がありました。

こちらは単純明快はストーリーと、美女を巡る侍同士の決闘シーンが見所です。

『十八番の内十五 不破 五代目市川海老蔵の不破伴衛門と八代目市川團十郎の名古屋山三』(歌川国貞 1852年)ボストン美術館

舞台は吉原。雷(いかずち)のように荒々し強面の乱暴者・不破伴衛門と、濡れ燕のような女にモテる優男・名古屋山三、そして吉原で全盛の有名な遊女・葛城大夫の話です。

色男・名古屋は葛城大夫の恋人としても有名でした。

横暴な不破は横恋慕し、葛城大夫を奪おうと虎視眈々と狙っていました。一方、噂を耳にした名古屋も警戒していました。

ある日、二人がすれ違います。

遊郭に行く際の流儀として、深く編笠をかぶって互いに顔は見えませんが、雰囲気から何となく察します。

牽制し合いながらすれ違おうとするも、互いに引かな過ぎて刀の鞘がぶつかります。

演目とされる『鞘当』の瞬間、互いに「無礼者!!」と決闘が始まります。決闘が始まる瞬間も、言葉が通じぬアメリカ人にも分かりやすいですね。そして、日本刀を使った華麗な決闘シーンも大いにウケました。

攘夷派志士がイギリス公使館を襲撃した『第一次東禅寺事件』(チャールズ・ワーグマン 1861年)
イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1861年10月12日号

幕末の日本では結構な数の外国人が襲撃され、殺害されています。この絵では書記官ローレンス・オリファントが咄嗟に馬鞭で反撃していますが、基本的にはピストルでも敵わず、狙われたら終わりなのでとにかく侍を刺激しないようにと言われていたそうです。

王太子時代のエドワード7世と次男ジョージ(1890年)

西洋にもサーベルはありましたが、既に実戦でメインとなる武器ではなくなっていました。

騎兵が馬で走りながら振り下ろす武器であり、馬でスピードをつけないと斬れないようなものだったそうです。

サーベルを持つ王侯貴族の写真は多く残されていますが、将校(基本的には貴族がなるもの)のステータスを示す象徴として、装飾的な意味合いも兼ねて携帯され続けたに過ぎません。

アメリカで最も有名な1804年7月11日の
副大統領アーロン・バーと政治的対立者アレクサンダー・ハミルトンの決闘

決闘を参考にすると、依然として剣で行われることはあっても、既にピストルが主流の時代でした。早打ちや狙いの正確性はあっても、どちらかと言えばもう"道具の性能次第"です。道具に頼る時代は人間力が退化するのが常です。スナイパーなど特殊な場合を除き、もはや欧米人は侍や古代のギリシャ兵ほど鍛錬を行うことはなかったでしょう。

備前長船刀剣博物館の展示品(2014年8月14日)

岡山は刀剣の里、備前長船もあります。

サラリーマン時代に刀剣博物館を訪れたことがあり、「日本刀の重さを体験しよう!」という体験コーナーがあったのでトライしたことがあります。

該当品は振り回せないようになっています(笑)
と言いつつ、振り回すなんてとても無理です。

テレビで見るチャンバラ劇などの印象では軽そうに思っていたのですが、全く想像していなかったほど重くてビックリしました。持って構えるだけでも、力がいる重さです。同じ重さだったとしても、ピストルは振り回しません。長い日本刀を振り回すには、遠心力に負けぬ体幹と力、立ち居振る舞いなどのバランス力が必要です。

ウサギの鎧兎の鎧(Genの古写真より)

上杉藩の城下町だった米沢で、全盛期の骨董屋の三代目としてGenは生まれました。

五月五日、こどもの日の生まれなので、端午の節句には江戸時代の鎧を着て写真撮影をしたりしたそうです。

本物の日本刀を振り回して柱を傷つけ、親から大目玉を食らったこともあるそうですが、これは重い日本刀だったからですね。

例えば包丁やカッター程度の重量だと、子供の力ではとても柱に一撃で傷なんて付けられません。注視したら分かる程度の小キズならばありえますが、日本刀でないと目立つ傷は無理です。

成人男性でも、相当な鍛錬がなければ日本刀を使いこなすなんて不可能です。むしろ下手に素人が手を出すと、刀に振り回されてしまい危険です。

そんな日本刀を、侍は加速動作なしで抜いてマックス・スピードで斬りつけてくるのです。刀を構えているならば警戒もしますが、鞘を抜くスピードからして外国人にはとても人間技とは思えません。

帝国尚武会道場で土佐藩に伝わっていた居合術
土佐派正伝居合術を演武する政治家・細川義昌(武士道之日本 第五巻・第九号 1913/大正2年)

『居合術(居合・抜刀術)』なるものもあり、日本の武道・武術の中でも最も日本的なものとも言われます。江戸時代は平和な時代が続いたので、武士も平和ボケしていたのではという印象があるのに、幕末の武士の異様な強さのエピソードの数々に驚いた記憶があります。

これは土佐藩に伝わっていた土佐派正伝居合術ですが、他にも相当数の流派があります。

普通は戦いに備えて鍛錬します。戦のない平和な時代、一生戦うことなく終わることだってあり得るでしょう。戦いに勝つための鍛錬だったならば、とてもモチベーションを保つことはできません。何を原動力に侍たちは凄まじい鍛錬を重ねたのかと言えば、おそらくは自分との戦いという精神的なものだったと思います。美意識、孤高の精神性。日本刀も、居合の動作も無駄なものが極限まで削ぎ落とされた美の極地にあります。

侍、ヤバいですね。

侍の日本刀を「ハンマーのような剃刀」と表現したフランス人もいたそうです。言い得て妙です。

演武を披露している細川義昌も自由民権運動家で、衆議院議員(1期)でした。自由党党首の板垣退助や福沢諭吉も、居合術に秀でた人物として有名だったそうです。

日本の慣習を知らない外国人にとって、侍が「無礼」と感じるタイミングがよく分かりませんでした。彼らにとって、突然ブチギレて、反撃不可能なスピードで斬撃してくる侍は恐怖でしかありませんでした。ピストルを構えていたのに、発射前に斬られたという事件もあるそうです。そもそもピストルは1発で仕留める武器ではありません。1発で仕留めるならば急所に当てる必要がありますが、狙いを付けている間に侍の斬撃が来ます。

それでも本来なら威嚇効果があるはずですが、死を恐れぬ武士はピストルに恐怖を抱くどころか、視界に入っていないのかと思うほど勇猛果敢に飛び込んできます。「ピストルは無いよりはあった方がマシだけど、そもそも相手を刺激してはいけない。」と言うことで外国人には認識されていたようです。

『十八番の内十五 不破 五代目市川海老蔵の不破伴衛門と八代目市川團十郎の名古屋山三』(歌川国貞 1852年)ボストン美術館

『鞘当』では乱暴者・不破伴衛門を音二郎、モテる優男・名古屋山三と吉原の遊女・葛城大夫を貞奴が演じました。

貞奴は剣の演技も得意だったそうです。

噂に聞いていた日本刀を使った動きであったり、天女のような遊女の舞にアメリカの観客は大興奮だったようです。

今でも海外では『侍』や『芸者』は日本のコンテンツとして高い知名度があります。

最強なもの、高尚なもの、憧れの存在という、日本人が思っているのとは少し違うイメージを感じますが、このように古い時代に輸出されたイメージが定着している結果なのでしょう。

川上貞奴(1871-1946年)と音二郎(1864-1911年)

豪華な衣裳と、様々な小物を駆使した艶やかな舞が魅力の『娘道成寺』。

単純明快なストーリーと侍や芸者、日本らしい決闘シーンが魅力の『鞘当』。

公演を重ねる上で、音二郎は新たに画期的な演目を創りました。

この2つの人気演目の好いとこ取りをした『芸者と侍(The Geisha and the Knight)』です。

スリル満点の決闘シーン、笑いあり、一瞬で代わる衣裳、豪華な風景など、劇団の強みを全て詰め込んだと評価されました。

日本初の女優と呼ばれた川上貞奴(マックス・スレーフォークト 1901年)30歳頃

特に貞奴は、素晴らしい舞踊と見事な演技で絶大な評価を得ました。

音二郎のこの創作は「It was a stroke of genius.(天才的ひらめき、天才的発想、天才の一撃)」と称されています。

「陳腐だ。」、「詰め込みすぎだ。」なんて評価する日本人もいるかもしれませんが、それはおバカなことです。

伝統通りに固執し、「これが高尚な日本の演目だ!これが理解できぬならアメリカ人は全く分かっていない民族だ!」なんて姿勢で取り組んでいたら、一部のアカデミックな層にウケることはあっても、大衆からの支持は到底得られず、これほどの知名度とはならなかったでしょう。

川上一座は欧米でツアーを行った、初めての日本の劇団です。初めてが"欧米人にとってつまらないもの"だったならば、2度と興味すら持たれず「日本の演劇って意味が分からないし、つまらない。」ということで終わっていたかもしれません。

同様の劇団はまだ存在しませんし、ずっと同じ場所に止まるわけでもありません。だからこそ、ただ1回で十分に魅力を伝えきれなくてはなりません。

観客は日本人ではなく、これまでに日本の演劇は見たことがなく、そもそも日本の文芸もよく知らないようなアメリカ人たちです。

彼らがどのようなものを喜ぶのか、ツアーを通して音二郎はアンテナを張って鋭敏に感じ取り、それを元に公演内容の改良を重ねていったのです。アメリカ人が喜ばなくては意味がありません。偉いお先生になると、「俺が正義だ。俺が良いと思うものが良いものに決まっている。分からぬものは目が無い。」なんてことになったりもしますが、音二郎のこのような謙虚で誠実な姿勢での創作は、オッペケペー節の頃から変わっていませんね。

1-3-12. 欧米でも憧れの対象となったスター・貞奴

スター貞奴は絶大な人気を誇りましたが、日本人が珍しいから、日本人だからという理由だけでそうなったわけではありません。

具体的にイメージいただきやすいよう、大陸ツアー最後となるニューヨークでの例を見ておきましょう。

イギリス人女優オルガ・ネザソール(1866-1951年)1910-1915年頃、44-49歳頃 オルガ・ネザソール主演の『サッフォー』ポスター(ニューヨーク 1900年)

1900年の2月頃から4月まで、川上一座はニューヨークで公演していました。近くの劇場でイギリス人女優オルガ・ネザソール主演で『サッフォー』が上演されました。『カルメン』や『アルルの女』で有名なフランス人小説家アルフォンス・ドーデが原作の演劇でしたが、卑猥を理由にニューヨーク悪徳弾圧協会やニューヨーク母親クラブなどから非難を受け、オルガ・ネザソールが逮捕されるという大きな騒ぎに発展しました。

裸同然のドレスでドヤるセレブ(笑)が珍しくない現代では、この姿もさほど違和感を感じないかもしれませんが、当時はまずこのポスターの様な姿が「相当けしからん!」という対象だったのでしょうね。

でも、"悪徳弾圧協会"だなんて存在もちょっと穏やかではありませんね。自分たちの基準に合わぬものは、自称『正義』を振りかざしてとにかく弾圧する感じで、何だか怖そうです。徒党を組んだ『自粛警察』や『マスク警察』みたいなものだと想像しますが、時代や民族を問わずこの類の人たちは存在するのでしょう。

フランス人小説家アルフォンス・ドーデ(1840-1897年)

これを横目で見ているだけの音二郎ではありませんでした。

話題性のあるこの騒ぎは利用できると閃き、『サッフォー』を日本に置き換えて翻案した劇を作りました。

鉄は熱いうちに打て。こういうものがスピードが重要ですが、音二郎は一晩で作ったとも言われています。

内容はネザソールが演じたのと正反対に、純愛話に仕立てました。

日本初の女優と呼ばれた川上貞奴(1871-1946年)1900年頃、29歳頃

上演したところ、ネザソールを弾圧した人々から賞賛を受け、話題が話題を呼んでチケットは飛ぶ様に売れました。

音二郎の戦略は大当たりです。頭の良い人は熟考タイプもいますが、臨機応変さは目を見張るものがありますし、スピードを考えると超集中もできる人だったのでしょうね。

こうして貞奴は貴婦人協会に招かれ、女優クラブの名誉会員にも選ばれました。

『純愛』は貞奴のイメージにもピッタリですね。

当時、女優は娼婦と同様だったり、 庶民の女性が成り上がるための道であったりもしました。食べられない時代に売春することは当たり前にありました。

フランス人女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1881年、37歳頃

ベルエポックを代表する大女優サラ・ベルナールも17歳の売れない時代から娼婦をしていました。

この方は売れた後でも「稼ぎが良いから。」と高級娼婦をやっていた時代があったそうですが、芸妓だった貞奴は音二郎に出逢って、この人と決めてからはお客をとるのを辞めました。

貞奴ほどの美貌と実力と話題があれば、有力者の愛人どころか正妻すらも可能だったはずです。

でも、どれだけ貧乏でも、小舟で遭難して死ぬ思いをしても、異国の地で無一文になっても音二郎を固く信じて寄り添いました。

どれだけスターとして名声が上がっても自分のお陰だと増長することなく音二郎に尊敬の念を持ち続け、九州男児の音二郎の三歩後ろを歩く女性だったかもしれませんね。

ベルナールの生き方が駄目だというわけではありません。心から尊敬し、愛せる相手に出逢えたか否かの違いかもしれませんね。

それにしても人種差別も存在する中で、貴婦人協会に招かれるなんて尋常ではありません!

1-3-13. 日本文化の孤高の美を改めて知らしめた貞奴

『ミカド』ポスター、ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹(1885年)

現地で実物を見てきた特権階級などは別として、殆どの欧米人はただモノを見るだけで分かった気になり、満足してました。扇を手にしているだけで日本っぽい、高尚だという感じにです。

ベルリン公演時の川上貞奴(1871-1946年)1901年、30歳頃

同じように扇を持ち踊っているだけなのに、強烈に漂ってくる色気や優雅さ、気品は一体どういうことだろうと、初めて日本のトッププロの舞踊を見た人々は衝撃を受けたと思います。

特に、女性をも魅惑してしまうような強烈な色気に驚いたかもしれません。

以前、日本人の理想の美として『不完全の美』について触れました。

想像の余地を残すことが重要とご説明しましたが、これは『色気』という分野にも共通します。

着物は肌を露出しません。それでも着物姿の女性は色っぽいと言われます。

『日本庭園の中のサラ・ベルナール』(ルイズ・アベマ 1885年)

大女優サラ・ベルナールが日本庭園に佇む・・、と言うよりは「ドヤーッ!!私を見なさい!(庭園ではなく)私が美しいでしょ!!!」とポーズをとったジャポニズムの絵画が残されています。女性画家が描いただけあって、お花や景色は雰囲気があって美しいのですが、このドヤるポーズは日本人の感覚からすると"かなり違う"のです。

フランス人女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1885年、41歳頃

こんなポーズをとったら、日本だとまず「はしたない!」と叱られたでしょう。

腕が丸出しなのも、「袖が短すぎる!」と嫌がられる部分です。

胸元も開き過ぎです。

ただ、日本女性は胸元ははだけない代わりに、後ろ襟を引き下げる『抜き襟』で着付けします。

直球過ぎる、胸の谷間を強調する欧米のファッションと異なり、抜き襟は強烈な色気があるのに下品さがないのです(程度はありますが・・)。

貞奴と息子の雷吉(マックス・スレーフォークト 1901年)

着物から、隠れていた白い腕がチラリと見えただけでも色っぽいものです。

ただの腕のはずなのに。

 

流し目動作も、色っぽさの表現法の1つです。

どこを見ているのだろうと、想像力を掻き立てます。

そうやって目線を追っているうちに、目が合ってしまえばもう逃げることはできません。いつの間にか虜です。

日本と欧米の女優の目線による表現の違い
貞奴(マックス・スレーフォークト 1901年) 『ミカド』ポスター、ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹(1885年)

日本は婉曲表現に秀でていますが、欧米はとにかくド直球です。残念ながら、ド直球な表現からは妖艶さや気品は感じられません。もっと知りたいと言う好奇心も湧きません。

日本的な表現方法は深みがあります。もっと知りたい、もっと見たい。知的好奇心を大いにくすぐる美です。

ただ、"想像の余地を残す"というこの表現手法の場合、受け手にも高度なことが要求されます。想像力に乏しければ、深淵なる美の景色を見ることは叶いません。知識や経験、豊かな想像力があってこそ楽しめる世界です。評価が分かれたりしやすく、虜になる人は他のものはもう見られないというほど魅了されるという特徴もあります。

ドイツ印象派の代表作家マックス・スレーフォークトの作品
貞奴(マックス・スレーフォークト 1901年) 貞奴と息子の雷吉(マックス・スレーフォークト 1901年)

これはドイツ印象派の代表作家であり、ドイツの外光派の代表とされるマックス・スレーフォークトの作品です。さすが著名な芸術家だけあって、日本芸術の流し目の極意に気付いたようですね。

目線も、言葉が分からない相手にも伝えることができる強い表現です。

画家の自画像
フランス人画家ルイズ・アベマ(1853-1927年)1885年、32歳頃 ドイツ人画家マックス・スレーフォークト(1868-1932年)1915年

画家の自画像と言えば、鏡を見て描いたことが伝わってくるような、目線が合う作品が多い印象です。先の"腕バーン!"のサラ・ベルナールを描いたルイズ・アベマもそのような自画像です。

貞奴の流し目に気付いたマックス・スレーフォークトの自画像は、目線が意図的に外されています。このように20世紀はヨーロッパと日本の美術が互いに影響し合いながら発展し、インターナショナルスタイルとして溶け合っていったのでしょうね。

1-3-14. ヨーロッパに渡った川上一座

貞奴の人気は絶大なものでした。アメリカに長く滞在して欲しいという要望もあったそうですが、アメリカの宝石商ティファニーもそうだったように、文化的先進国であるヨーロッパで認められてこそという思いがありました。

当時はアメリカが力を増し、ロンドンやパリでもアメリカの新興富裕層をターゲットにした商売が活況でした。お金儲けを考えるならば、人気に陰りが見えるようになるまでアメリカで荒稼ぎするのが正解ですが、川上夫妻がやりたいのはお金儲けではなく日本の芸術振興でした。それがブレることはありませんでした。

イギリス人男優サー・ヘンリー・アーヴィング(1838-1905年)1878年、40歳頃 イギリス人女優デイム・エレン・テリー(1847-1928年)1864年、16歳

音二郎と貞奴は日刊紙『サンフランシスコ・エグザミナー』から「日本のヘンリー・アーヴィングとエレン・テリー」と賞賛されていました。どちらもイギリスの俳優で、ヘンリー・アーヴィングはナイトを、エレン・テリーは女性としてナイトに相当するデイムを叙爵しています。

1871年にアーヴィングはライシーアム座の幹部俳優になって人気を博し、その後はライシーアム座の監督となりました。1878年末からエレン・テリーがオリーフィア役で『ハムレット』を上演し、アーヴィングは相手役のハムレットを監督もこなしながら熱演し、大成功を収めました。このイメージで音二郎と貞奴が評価されたのでしょう。

そんなアーヴィングからの紹介状もあったため、川上一座は引き止められながらもニューヨークを後にし、アメリカでの大成功と共に大西洋を渡りました。

ロンドン日本協会設立者アーサー・ディオシー(1856-1923年)1902年、46歳頃

1900年、イギリスに渡った川上一座はロンドン日本協会を創設したアーサー・ディオシーに歓迎を受けました。

ロンドン日本協会は1891年に設立された、日本に関するあらゆる事柄の研究の奨励を目的とする協会です。

20世紀に入ると、日本の皇族や名士がイギリスを訪れた際は、この協会で歓迎を受けることが通例となりました。1921年に皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)が訪れた際も、盛大な歓迎パーティが催されました。

ディオシーは数ヶ国語を操るような人物で、10歳の頃に読んだ、中国に関するフランス語の本の中に出てくる日本に興味を持ったそうです。日本語を学ぶ手段も十分ではなかった時代、独学で勉強を重ね、1899年には夫人と共に来日もしている日本通です。

明治天皇(1888年、36歳頃)エドアルド・キヨッソーネによるコンテ画を写真撮影したもの

来日中は明治天皇に拝謁もしました。

8月5日のことで、暑中の謁見は異例とのことですが、ロンドン日本協会を設立してからの尽力にねぎらいの言葉を受けました。

来日中は各界の要人に招待を受け、各地を周遊したり、講演などを行いました。

流暢な日本語を話し、都都逸までひねる親日家のディオシーを日本の新聞も概ね驚きと好意を以って報じました。

都都逸は江戸末期に、初代・都都逸坊扇歌によって大成された口語定型詩です。七・七・七・五の音数律に従います。

例えば、以下の作品は聞いたことがあるのではないでしょうか。

 ・立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花

 ・人の恋路を 邪魔する奴は 馬に蹴られて 死んじまえ

 ・散切り頭を 叩いて見れば 文明開化の 音がする

外国語で意思の疎通ができるというのは、驚くほど凄いことではありません。日常会話レベルならば、ただ住んでいるだけでもある程度は習得できます(できないこともありますが・・)。しかしながら知的教養という部分まで踏み込もうとする場合、意図して努力しない限り、母国語としている人であっても身に付きません。

一般のイギリス人が知らない、イギリスに関する知的な事を話すと、やはり驚かれますし感心されます。Genが本場ヨーロッパでも一目置かれているのは、目利きの能力に加えて豊富な知識があるからです。目の前でイギリス人から、Genの見解を聞きたいと尋ねられていましたし、この分野はGenは詳しいけれど自分たちは全然知らないんだと言ったりもしていました。もちろん人によるでしょうけれど、イギリス人は謙虚な傾向が強いですし、知識がある人を尊敬してくれます。

その国に関する知識の深さや広さは、興味の証です。ディオシーはその頭の良さに加えて、本当に日本文化が好きだったのでしょうね。

ハンガリー王国の政治家・革命家コシュート・ラヨシュ(1802-1894年)1848年、46歳頃

ちなみにディオシーはロンドン生まれですが、生粋のイギリス人ではありません。

父はハンガリー王国の政治家・革命家コシュート・ラヨシュの秘書を務めるような優秀な人物でした。

ハンガリー革命(1848-1849年)で敗北後、死刑宣告を受けてイギリスに亡命しました。

母はアルザス地域圏の将校とスペイン人の血を引くフランス人でした。

当時のロンドンは生粋のイギリス人ではなくても、きちんと頭の良い人が力を持って活躍することができたようですね。

フランス人女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1899年、55歳頃 アメリカ人ダンサー ロイ・フラー(1862-1928年)1889年、27歳頃

ディオシーは川上夫妻に友人のフランスの大女優サラ・ベルナールや、アメリカの著名なダンサーであるロイ・フラーを紹介しました。貞奴は伊藤総理のプライベート・パーティで音二郎と出逢っていますが、サラ・ベルナールもヴィクトリア女王のプライベート・パーティで上演したりしています。

上流階級と知的階級、芸能界は密接に繋がっていますし、社交界は狭いので皆、顔見知りみたいなものですね。

1900年5月22日から6月28日まで、川上一座はロンドン公演を行いました。

 ・ノッティングヒルゲートのコロネット劇場
 ・ビュートハウス

その後、いよいよ目指していたパリ万国博覧会に向かいました。

1-3-15. パリ万国博覧会(1900年)でのマダム貞奴のデビュー

パリ万国博覧会(1900年)

アール・ヌーヴォーの祭典として活況を博した1900年のパリ万博には、もちろん明治政府も参加しました。

しかしながら川上一座は運命の巡り合わせでパリ万博の地に立つことができましたが、公式参加ではありません。それ故に、明治政府が用意したステージはありません。

それどころか、以前から日本政府のオフィシャルな展示の側で政府とは無関係な興行を行う者が存在し、問題視していた政府がこの万博ではそれらの取り締まりを準備していました。

『世界旅行館』(パリ万博 1900年)右側に日本風の五重塔が見える

実際、フランスの興行会社が芸者を雇って『世界旅行館』の近くで歌舞を披露させたり、相撲の興行を行おうとする日本人がいました。便乗商法はよくあることです。

ただ、現代でも海外では『和食/日本食』と銘打ち、日本人から見るととても和食とは思えないものが売ってあったり、寿司屋に入ると日本人以外の職人が握っていたなんて話はよくあります。

有志が高い理想を元に出展するならば、文化振興としてはむしろ良いことと評価できますが、楽して金儲けしようとする人も一定数存在します。そういう人たちはお金さえ儲かれば良く、文化の真髄を分かってもらう理想なんて皆無です。むしろ文化の真髄を分かってもらおうとすればそれなりのお金も手間もかかりますから、日本人であっても芸のレベルが低い人や、素人の見よう見まねであったり、下手すると現地在住の他のアジア人などで済ませようとします。

志の高い私人には至極迷惑な話ですが、勘違いが生じてはいけないと、日本政府が取り締まりを行おうとしたのも無理はありません。

日本政府は高校的に取り締まろうとしましたが、許可する立場だったフランス当局とトラブルになり、結局当局からの最後通告によって日本政府は取り締まりを断念しました。このパリ万博では"日本のもの"として貞奴の方が目立ってしまい、日本政府の報告書でも川上の名を挙げて特筆されるほど問題視されていましたが、取り締まりを受けず公演が叶ったという経緯があります。

ただ、このような状況だったために、川上一座が日本政府の援助を受けられることはありませんでした。上演には舞台が必要です。

サラ・ベルナール劇場(1905年頃)

名声を確立した世界的スターともなれば、自分の名を冠した劇場だってあります。

ロンドンでディオシーが紹介したフランス人女優サラ・ベルナールは、パリ万博ではサラ・ベルナール劇場で上演しました。

サーペンタインダンスを踊るロイ・フラー(1862-1928年)1902年、40歳頃

同じくディオシーに紹介されたアメリカ人ダンサー、ロイ・フラーはロイ・フラー劇場で新しいダンスを披露しました。フラーは『芸術としてのモダンダンス最初のパフォーマー』と称され、バーレスクの一種である『サーペンタインダンス』を開発したダンサーです。

アメリカ人ダンサー ロイ・フラーのポスター(1897年)35歳頃

フランス天文協会会員でもあり、ダンサーとしての才能のみならず、知的な人物でもありました。さらに、魅せる才能をも持っていました。

振り付けしたダンスに、自分でデザインした、多色照明で照らしたシルクの衣装を組み合わせて、華やかで幻想的な舞台を演出しました。

カラーフィルターを作る化合物や、照明と衣装を発光させる化学塩を使用した舞台照明など、舞台照明関連の特許も多数取得しています。

モダンダンス、舞台照明技術の双方に関してパイオイニアと言える、総合的な才能に満ち溢れた女性でした。

アメリカの最初期のモダンダンサー
アメリカ人ダンサー ロイ・フラー(1862-1928年)1889年、27歳頃 アメリカ人ダンサー イサドラ・ダンカン(1877-1927年)

フラーは同じアメリカ出身のダンサー、イサドラ・ダンカンなど、他の画期的なパフォーマーの支援も行っています。1902年に、ダンカンがウィーンとブダペストで単独公演ができるように手引きと資金援助を行い、ダンカンがヨーロッパで輝かしいキャリアを始める手助けもしています。

まだ見出されていない、才能ある人物を見出し、世に出すパトロン的な才能も持っていたわけですね。古い時代はヨーロッパでは王侯貴族が担っていた役割ですが、アメリカ合衆国はもともと連邦共和国として始まっていますし、フランスなんかも1870年に皇帝ナポレオン3世を廃位して共和政になってからは王侯貴族がいません。

王侯貴族以外の誰かがこうしてパトロンとして機能したり、頑張って地道に成り上がるという方法などで、当時は才能ある人たちが有名になっていったわけですね。

ベルリン公演時の川上貞奴(1871-1946年)1901年、30歳頃

フラーがこのような女性だったため、川上一座を雇う形でパリ万博に招聘し、自身のロイ・フラー劇場で上演させてくれたのです。

ランカイ屋の櫛引弓人や弁護士ミツセ・コサクなど、始まりは散々な海外ツアーでしたが、異国の地で様々な人に助けられもして、ここまで辿り着いたわけですね。

女優Sada Yakkoが誕生し、大陸ツアーによって世界に通用する形に芸を磨き上げ、満を持しての万博の舞台でのお披露目です!

1-3-16. 万博でのマダム貞奴の評価

旅行家バートン・ホームズ(アメリカの広告 1917年)47歳頃

日本政府の報告書で特筆されるほどだった川上一座ですが、外国人の視点からどうだったか見てみましょう。

シカゴの銀行家の息子として生まれた、アメリカ人旅行家バートン・ホームズは1892年に日本を旅行しています。

帰国後はシカゴで日本の旅行に関する講演を2回行い、どちらも満席となるほど好評でした。

1899年には、日本で初めてとなる動画を現地で製作しています。

ホームズによる日本に関する批評は、現地で実際に実物を見聞きした外国人による貴重な意見と言えるでしょう。

日本館(パリ万博 1900年)

パリ万博で明治政府は、紅茶や烏龍茶、抹茶などを茶店で販売しています。

これに関してホームズは、「日本人は世界で最も趣味が良いのに、この万博の茶店は建物も商品も百貨店で売られているようなガラクタの類だ。」と評価しています。

日本のものでありさえすれば何でも褒める、ただの日本贔屓ではないことは明らかですね。

ちなみに「百貨店で売られているようなガラクタ」という言及を疑問に思った方もいらっしゃるかもしれません。百貨店に高級なイメージを持っているのは日本人と、一部のアメリカ人くらいです。これは戦後の高度経済成長期に庶民を対象に戦略的に植え付けられた、比較的新しいイメージです。

ボン・マルシェ百貨店(1887年)

以前詳しくご説明しましたが、百貨店は産業革命によって経済的にゆとりの出てきた新しい層、「小金を持つ大衆向け」に発展した業態です。

専門店で買い物するには、顧客側にも相応の知識が必要です。上流階級は必要な知識や教養を身につけていますが、庶民はお金を持つようにはなっても、突然では何を基準にして買い物すれば良いのか分かりません。そんな大衆が押し寄せるのが百貨店でした。

世界最古とされるフランスのボン・マルシェ百貨店は、名前からしてあからさまです。ボン・マルシェはフランス語で安いという意味なので、激安をウリにするお店をイメージするのが妥当です。とにかく質の良さを求める層がいる一方で、とにかく安くてたくさん買えること、お得感があることを至上の歓びであり是とする層が存在するのはいつの時代も、民族も変わりはありません。

好景気に湧くベルエポックのフランスでは連日百貨店に客が押し寄せ、行列をなしていました。

1906年版『ボヌール・デ・ダム百貨店』の挿絵、p377(エミール・ゾラ著 1883年発行) 品質を精査する眼も持たず、商売文句に踊らされる人たちに上質なものが提供されるわけがありません。
【参考】ベルエポックの大衆向け安物量産ジュエリー

当然ながら商品の質は軽んじられます。お得感を無上の喜びとする顧客向けに、本当にお得に売っては儲かりません。故に、専門店で販売されるような高級品と比べれば価格そのものは低めに設定しつつ、それ以上に安いコストで商品を作ってボロ儲けします。

高度な技術を持つ職人の手作業による一点物と違い、庶民用の安物は大量生産されます。コストカット重視の作りですから、職人とは言えないレベルの作業員が時間も手間もかけずに量産します。材料費や工賃などを見れば割高なのですが、分かる人から見れば『ガラクタ』であっても、よく分からない大衆は宣伝文句を鵜呑みにして買うのです。

エミール・ゾラ(1840-1902年)

これを冷めた目で見て分析し、百貨店現象を『ボヌール・デ・ダム百貨店』という小説に描き出しています。

ホームズが「百貨店で売られているようなガラクタの類」と言うのは、ディスカウントストアで売っているような量産の安物ばかりという意味と捉えると、現代の日本人には分かりやすいかもしれませんね。

旅行家バートン・ホームズ(1870-1958年)1905年頃、35歳頃

そんなホームズの話に拠れば、フランスの演劇批評家らがこぞって川上一座を称賛したそうです。

また、ある高名な演劇評論家は「サラ・ベルナールがフランスの女優で、エレオノーラ・ドゥーゼがイタリアの女優ならば、貞奴は世界の女優だ」と表したとのことです。

ホームズは「その他の催し物がつまらなく見えてしまうほど日本の役者たちは1900年の万博で成功した。」とも綴っています。

フランス人女優サラ・ベルナール(1844-1923年)1900年、56歳頃 ベルリン公演時の川上貞奴(1871-1946年)1901年、30歳頃

パリ万博開幕時点で、サラ・ベルナールは55歳でした。全盛期と言うよりは、既にその名は世界中に知れ渡っており、誰もが知るベテランの大女優です。

28歳。大陸ツアーで評判が高まってはいたものの、まだ世界にその名は知られぬ未知のスター、マダム貞奴。そもそも日本に女優は存在すらしませんでした。歌舞や演技は密室で限られた人たちが観られるのみ。それ故に、芸妓の舞は、そもそも日本人ですら一般の人は観たことがないものでした。元トップ芸妓が、海外ツアーを通してさらに磨き上げた、最高の演舞。

見たこともない美しさに人々が魅了され、虜になったのも無理はありません。全ての話題をかっさらい、貞奴フィーバーが起きたのも自然なことです。あまり日本では伝えられてはいませんが、物凄いフィーバーぶりでした。

1-3-17. マダム貞奴の欧米への影響

近代彫刻の父 オーギュスト・ロダン(1840-1917年)1902年、62歳頃 『地獄の門』と「考える人」(オーギュスト・ロダン)国立西洋美術館
"Rodin's The Gates of Helle - panoramio" ©Roman Suzuki(3 May 2007)/Adapted/CC BY 3.0

7月4日の初日は彫刻家オーギュスト・ロダンも招待されていました。ロダンは貞奴に魅了され、彫刻を製作したいとモデルをお願いしましたが、ロダンの名声を知らなかった貞奴は「時間がない。」と断ったそうです。初日ですし、まあ無理もないですね。

ロダンの愛人・弟子のカミーユ・クローデル
彫刻家カミーユ・クローデル(1864-1943年)1884年、20歳頃 カミーユの頭像(オーギュスト・ロダン 1886年)
"Rodin p1070087" ©David Monniaux(1 October 2005)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ちなみにロダンは愛人で弟子だったカミーユ・クローデルの頭像も製作しています。

う〜ん・・。
ロダンは『地獄の門』や『考える人』で有名ではありますが、個人の感想としては、貞奴は製作してもらわなくても別に良かったかもしれませんね。

美術品ディーラー林忠正
林忠正(1853-1906年)1900年頃、47歳頃 林忠正のマスク(ポール・アルベール・バルトロメ 1892年)【出典】Musee d'Orsey / Tadamasa Hayashi ©Musee d'Orsey

ちなみに当時の芸術家たちは、新しい芸術(アール・ヌーヴォー)を創造するために、様々な試行錯誤をしていました。新しいスタイルへの挑戦であったり、コラボレーションであったり、そのやり方は様々です。

そんな中で、能面にインスピレーションを受けたバルトロメが、美術品ディーラーとしてパリで活躍していた林忠正にモデルを依頼して製作された作品も存在します。ドガのサークルで知り合い、林のエキゾチックな顔に魅了されてのことだったそうですが、フランスの国民美術協会(1894年)で発表された作品なので気合が入っています。

この林は、1900年のパリ万博では日本の事務官長として活躍しています。

第8代フランス大統領エミール・ルーベ(1838-1929年)1900年頃、61歳頃

ロダンの申し出を断った貞奴でしたが、人気は鰻登りで大忙しでした。

8月には万博開催国であるフランスの大統領エミール・ルーベが官邸エリゼ宮殿で開いた園遊会に招待され、『娘道成寺』を披露しています。

川上一座は万博後、ブリュッセルとベルギーでの公演経て一度帰国しましたが、すぐに新しい劇団を編成し、1901年から2回目のヨーロッパツアーを行っています。

このツアー中となる1902年11月に、音二郎はルーベ大統領から官邸でオフィシエ・ド・アカデミー三等勲章(現:芸術文化勲章)を授与されています。

傑出した功績を認められないと授与されない章であり、ここからも川上一座の評価の高さが伺えます。

他、作曲家ドビュッシーや小説家ジッド、画家ピカソが貞奴の演技を絶賛していたことも知られており、欧米の芸術分野への影響は計り知れません。ちなみにピカソは日本の着物メーカーに依頼されて、着物をデザインしたこともあるそうです。それらは当時の新聞記事やデパートのDMで宣伝して販売されました。世界は間違いなく繋がっており、影響し合っていたわけですね。

ヨーロッパ人が描いた貞奴
↑貞奴と息子の雷吉(マックス・スレーフォークト 1901年)

←ポスター(アルフレド・ミュラー 1900年頃)京都工芸繊維大学
【引用】京都工芸繊維大学 美術工芸資料館 / 所蔵品 ©Museum and Archives, Kyoto Institute of Technology

ロダンは断られましたが、貞奴はヨーロッパの様々なアーティストたちにその姿を描かれています。まさにミューズですね。

ハーパーズ・バザーの表紙に掲載されたマダム貞奴(1900年3月24日号)

1867年にニューヨークで創刊した世界最古の女性向けファッション誌、ハーパーズ・バザーの表紙にもなっています。

まだヨーロッパに渡る前、大陸ツアー最終のニューヨーク公演中に発売されたものです。

「JAPAN'S GREATEST EMOTIONAL ACTRESS」として紹介されています。

欧米の女優や、他のアジアの女性と比べても全く異なる魅力を放つ、美しい貞奴は当然ながらファッションにもたくさんの影響を与えました。

着物そのものを欲しいと思う人はもちろん、インスピレーションを受けた『ヤッコドレス』という新たなファッションも生み出されました。

オー・ミカドのキモノ・サダヤッコ
↑キモノ・サダヤッコの広告(オー・ミカド 1905年)

←キモノ・サダヤッコ(オー・ミカド 1900年代)京都服飾文化研究財団 【引用】The Kyoto Costume Insititute ©The Kyoro Costume Institute, photo by Masayuki Hayashi

フランスではオー・ミカドというブランドが『キモノ・サダヤッコ』という着物風の室内着を売り始めました。マダム貞奴の人気に便乗しようとしているのは明らかですが、ミカドというブランド名も明らかにイギリスで人気を博したオペレッタ『ミカド』にあやかる気満々ですね(笑)

以前ご説明した通り、現代の『流行(トレンド)』は意図して無理やり作る、異常なものです。春夏と秋冬ごとに根拠のない"新しいスタイル"や"トレンド・カラー"が提案され、それに合わないものは"時代遅れ"のイケてないファッションとされます。これは、新しい商品を買ってもらうために業界が作った仕組みです。エコとは正反対、まだ使えるものを無理やり使えなくする悪どい金儲け手法です。

良いものだから流行るという結果論的な現象こそが、本来の自然な流行の姿です。

戦前の『流行』は販売者側ではなく、あくまでも顧客側が主導します。飽きられる、或いは定番かするまで流行り続けるので、流行期間が何年にも渡るのは普通です。「これが流行ですよ!」と押し付けられたものをありがたく取り入れる現代の"受身の時代"とは異なり、人々が欲しいもの好きに選んでいた時代はとても自然です。その中で、スタイルが進化することもあったでしょう。

キモノ・サダヤッコの広告は1903年頃から登場し、フランスで人気が出るとイタリアやスペインの雑誌にも紹介されるようになり、通信販売によって他の国にも流行が波及していきました。こうして欧米にも着物ブームが起きました。1908年の広告も存在するので、何年にも渡って着物はブームになったようです。

ちなみに上の京都服飾文化研究財団の所蔵品は羽織みたいになっていますが、元々は足元まで長さがあったものが、後でカットされたようです。財産性を持ち、代々使用することを想定して作られるアンティークのハイジュエリーと異なり、衣服はそこまでの耐久性がありません。その分、安いですし、ハイジュエリーより遥かにたくさんの数が作られていますが、現存する古い衣服はそう多くありません。そのままの状態ではなかったり、着用は難しいコンディションである場合が殆どです。

でも、当時日本文化がヨーロッパのファッションにも取り入れられ、様々な影響を与えたことは間違いないのです。

劇場雑誌の表紙『娘道明寺の貞奴』(フランス 1900年) 万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

ここまでご紹介すれば、20世紀初期に、教養を感じる王侯貴族のためのハイクラスの『扇』ジュエリーが製作されたことも、違和感なくご納得いただけたのではないでしょうか。

小金持ちの庶民ならば手が出せる衣類と異なり、このようなハイジュエリーをオーダーできるのは限られた王侯貴族のみです。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

もともと製作数も少ないが故に、こんなジュエリーがあったなんてと思えるような、知られざる存在となっています。

真に美しい日本女性の扇の舞を、ヨーロッパで初めて披露した貞奴にインスピレーションを受けて作られたジュエリーがあったのですね。

2. インターナショナルな雰囲気

扇のハイジュエリー
明治初期の赤銅の鶴の扇ブローチSHAKUDOU ブローチ
日本 1880年頃(明治初期
SOLD
扇モチーフのアールヌーヴォー・ジャポニズムのブローチ5カラー・ゴールド ブローチ
アメリカ? 1890年頃
SOLD
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチオパール ブローチ
イギリス 1900-1910年頃

今回の宝物は一応は扇モチーフですが、少し前の年代の扇のジュエリーと比較すると、扇そのものと言うよりも、デフォルメされてよりデザイン性が高くなっています。

ジャポニズムのハイジュエリー
破れ団扇モチーフのアールヌーヴォー・ジャポニズムのブローチ『破れ団扇』
エナメル ブローチ
フランス 1880-1890年頃
SOLD
提灯モチーフのアールヌーヴォー・ジャポニズムのクラバット・ピン『提灯』
クラバット ピン
フランス 1910年頃
SOLD
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチオパール ブローチ
イギリス 1900-1910年頃

『破れ団扇』と『提灯』は、ヨーロッパにはなかった日本美術ならではの美の真髄に迫ろうと製作されたものですが、今回の扇の宝物は方向性が全く異なります。

日本文化ならではの魅力を十分に理解しつつ、さらに自分たちの文化と融合させ、新しい美を生み出そうとする意気込みを強く感じます!

2-1. アーツ&クラフツ系の要素 -植物デザイン-

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この宝物のデザインで興味深いのが、扇にデザインされているのが和のモチーフではないことです。

ただジャポニズム・ジュエリーを作るだけの意図ならば、鶴なり波なり菖蒲なり、一眼で日本らしさを感じられるモチーフをデザインしたはずです。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

扇にデザインされているのは、生命の躍動を感じる植物です。

植物モチーフはイギリスでウィリアム・モリスが提唱した1880年頃からのアーツ&クラフツ運動の定番デザインの1つです。そこから進化した20世紀初頭のイギリスのデザインであったり、アーツ&クラフツの流れを組むアールヌーヴォーなど他国のデザインでも見ることができます。

オーストリア フランス イギリス
『Winter Flower』
ダイヤモンド リング
オーストリア 1880年頃
SOLD
アールヌーボー ブローチ&ペンダント アンティークジュエリー  トライアングルカット エメラルド 天然真珠『エメラルド・グリーン』
ブローチ&ペンダント
フランス 1905〜1910年頃
SOLD
イギリスのアールヌーヴォーのダイヤモンドブローチ『ベルエポックの華』
イギリス 1900-1910年頃
SOLD

花びらで表現したお花と違い、丸くデフォルメされたお花は蕾にも実にも見えます。これから花開くのか、花が終わり結実したものなのか。想像力を掻き立ててくれる、ワクワクする良いデザインですよね♪

このように、様々なヨーロッパのハイジュエリーで見ることができます。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

いかにもジャポニズムという感じがしないのは、このヨーロッパらしい植物モチーフも一因です。日本文化を尊敬しながらも日本かぶれではない、オーダーした人物のとても知的な雰囲気が伝わってきます。

この時代はヨーロッパと日本の良い部分を融合・昇華させ、新しいものを創り出そうと取り組んだ人が欧米と日本、どちらにも存在しました。これは自国の文化を熟知した上で、他国の文化にも尊敬の念を持てる、感性も心も柔軟な人にしかできないことです。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この宝物に心地よさを感じられるのは、オーダーした人物のその心が伝わってくるからなのかもしれません♪

2-2. 日本美術の要素 -透かし&孤のデザイン-

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この宝物は大胆な空間使いと、緩やかな弧を使ったデザインが大きな特徴です。これらは日本美術の要素です。

日本人は見慣れたスタイルなので新規性を感じないかもしれませんが、当時のヨーロッパの人々の眼には、非常に新鮮に映ったはずです。

2-2-1. 空間使いの変化

開国による日本美術の影響
19世紀初期 影響なし 20世紀初頭 影響あり
アーリー・ヴィクトリアンの宝石の蝶のブローチ アンティーク・ジュエリー『黄金の花畑を舞う蝶』
色とりどりの宝石と黄金のブローチ
イギリス 1840年頃
¥356,000-(税込10%)
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチオパール ブローチ
イギリス 1900-1910年頃

室内装飾の好みからも分かる通り、ヨーロッパではとにかく隙間なく空間を埋め尽くせることが富と権力の証であり、贅沢かつ『理想の美』とされてきました。当然ながら王侯貴族のためのハイジュエリーのデザインにも、その思想が反映されています。

しかしながら2つの上流階級が並列して存在し、それぞれ影響し合いながらも異なるものとして『貴族文化』と『武家文化』が発展してきた、世界でも類を見ない日本という国が開国すると、直ちに影響を及ぼし始めました。貴族は一般にどの国にも存在するものですが、武家文化は異例です。

極限まで無駄なものを省く、研ぎ澄まされた美。精神世界を探究する、何もない空間に美を見出す心。

主に武家文化の影響により、ヨーロッパにも敢えて何もない空間をデザインするという『透かしの美』の表現が意識されるようになりました。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

旧来の意識を変えるのは、なかなか難しいことです。ここまで潔い透かしのデザインは、日本人の私が見てもあっぱれと思うほどです。

持ち主は偏見がまるで無く、心で良いと感じたものを柔軟に取り入れることができる、まさにこの宝物のような精神の人だったのでしょうね。

2-2-2. 孤のデザイン

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この扇は『孤』を使ったデザインも大きな特徴です。

本物の扇は、このような形ではありませんよね。

2-2-2-1. 日本美術の影響

三日月や日本刀、松葉やススキ・・。

極端に湾曲させた曲線や半円などではなく、日本人は緩やかな曲線『孤』に美を見出してきました。分かりやすく単純なものを好んできたヨーロッパ文化とは異なるものです。

孤がデザインされたモダンスタイル・ジュエリー
アクアマリン ネックレス アンティークジュエリー『Samurai Art』
アクアマリン&天然真珠 ネックレス
イギリス 1900-1910年頃
SOLD
ピンクロルマリン ペンダント アンティークジュエリー『STYLISH PINK』
ピンクトルマリン ペンダント
イギリス 1900年頃
SOLD

この『孤』を使った表現も、アングロ・ジャパニーズ・スタイル(英和スタイル)から発展したモダンスタイルのハイジュエリーなどで見ることができます。日本美術の影響を受けてイギリスで生み出された、新しいスタイルです。

独特のスタイリッシュな雰囲気や、動きを感じるような印象を受けるのは、この『孤』のデザインが効いているからです。

2-2-2-2. 孤で表現した扇の舞
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

孤は見る角度によって雰囲気が変化します。さらに、動きを感じるのも孤の特徴です。

朱で青海波が描かれた菖蒲と桔梗の金銀の刺繍のアンティークの夏帯青海波が描かれたアンティークの夏帯(大正〜昭和初期)HERITAGEコレクション

例えば弧を平行に重ねた青海波の場合、"永遠に続く波"として波の動きが感じられます。

勿論そう感じない人もいるでしょうけれど、感じられる日本人が多かったからこそ『青海波』が縁起柄として長く愛されてきたのだと思います。

高尚な美術品を楽しむために、豊かな想像力は不可欠です。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

複数の弧を組み合わせてデザインされた、扇のジュエリー。

これは単なる置物、飾りとしての扇ではなく、扇の舞を表現した結果だと考えます。

扇の舞が印象的な娘道成寺の白拍子花子
二代目 中村のしほの白拍子花子(歌川豊国 1796年) 六代目 中村歌右衛門の白拍子花子(1951/昭和26年)

大陸ツアーの最初を飾り、宮廷で上流階級の人々の眼を楽しませた演目が『娘道成寺』でした。演舞には様々な小物を使いますが、何と言っても一番印象的なのが扇の舞です。

扇は他の和小物と比較しても、抜群に変化に富むアイテムです。閉じたり開いたり、開き方も敢えて全開にせず、半開きの状態で使うこともあります。開き方も一瞬で開く場合もあれば、少しずつ開くこともあります。

基本的な持ち方だけでも『握り』、『平手』、『つまみ』の3種類がありますし、持つ箇所も、必ずしも要部分とは限りません。

ヒラヒラさせたり、クルクルさせたり、投げたり、表現方法は無限です。

美術商サミュエル・ビング(1838-1905年)一番左

全開にして飾るだけ、せいぜい手に持って単純に扇ぐだけで、高尚な日本美術を理解したと満足していた大半の欧米人。その彼らが、日本のトッププロの扇の舞を初めて目にした時の驚きは如何ばかりだったでしょう。想像を遥かに超える、扇の舞のバリエーションの豊かさと美しさに感激したに違いありません!!

劇場雑誌の表紙『娘道明寺の貞奴』(フランス 1900年) 娘道明寺の貞奴(歌川芳幾 1901年)

マダム貞奴フィーバーが起きていた当時の欧米では、扇イコール貞奴と言っても過言ではありませんでした。突如現れた彗星のようなスターの、儚く美しい天女の舞。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

物としての扇ではなく、貞奴の美しい扇の舞を表現しようとした作品だからこそ、このように弧を使ってデザインされているのです。

2-2-2-3. 弧の構造上のメリット
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

ネックレスやペンダントと異なり、着脱の際に力が加わるブローチは構造上、より耐久性が必要です。繊細なデザインや、透かしの美を多用したジュエリーがブローチより圧倒的にネックレスやペンダントで制作されているのは、この耐久性の制約が理由です。

そのような中で、ここまで空間を大胆に使ったブローチは異例です。

正面
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ 万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

ハイジュエリーらしく、非常に気を遣って構造をデザインしてあります。最も強度が必要なのが、扇型のフレームです。

表と裏を見比べると、お花の茎部分は通常のナイフエッジになっています。ナイフエッジはジュエリーとして100年以上の使用に耐える耐久性を持たせながらも、正面から見た際には極限まで存在感を消し、『線』のように見せる表現技法です。

ただ、強度があるとは言っても、これだけ空間を持たせたブローチのフレームに、通常のナイフエッジを適用するのは強度的に不安があります。そういうわけで、上部はナイフエッジではなく一定の厚みのあるゴールドの板を平行に並べた構造にしています。

下部はさらに幅を持たせて作ってあります。但し、裏側の画像からご想像いただける通り、そのままの幅のあるデザインだと不恰好です。それ故に、正面から見るとナイフエッジの構造になっています。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この部分は中空になっており、見た目よりも軽いです。

ミッド・ヴィクトリアンまでは、ファッションリーダーだったヴィクトリア女王がふくよかだったため、ボリュームのあるドレスが流行し、生地の厚いボリューミィなドレスに合わせて大型のブローチが流行しました。しかしながら1861年にアルバート王配が亡くなり、ヴィクトリア女王が喪に服すようになってからは、ファッションリーダーがスリムな体型のアレクサンドラ妃に移りました。

ドレスは次第に洗練され、レイト・ヴィクトリアンからエドワーディアンにかけて、オーガンジーのような透け感のある軽い素材などが流行しました。そのような素材だと、重さのあるブローチでは生地を痛める可能性があります。それ故に、わざわざ軽くするために手間をかけて中空構造で作っているのです。

高価なオーダーメイドのドレスを身に纏う、上流階級のためのハイジュエリーらしい配慮ですね。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

扇の上から見た画像と、要側からの画像です。

正面から見ると無駄のないスッキリとした印象ですが、この角度からご覧いただくと、かなりゴールドに厚みを持たせた頑丈な作りであることがお分かりいただけると思います。

ところで扇の上部フレームは厚みが約1.3mmですが、中空構造の下部フレームは約2.1mmの厚みがあります。正面から見ると、1.6倍ほども厚みに違いがあるとは感じないと思います。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

手に持って実物を眺める時にリアルな印象を受けるのは、作者の計算し尽くしたフォルム・デザインと高度な仕上げの賜物です。

通常、ナイフエッジは鋭角の二等辺三角形の形に仕上げます。しかしながら、この中空で作られたナイフエッジは外側に少し膨らんだ形で造形されています。

アンティークジュエリーの技法ナイフエッジのイメージ

図で簡略化すると、このような断面イメージです。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

ゴールドの光り方からも、実際そのような形状であることがご想像いただけると思います。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

通常のナイフエッジは極限まで存在感を消し、幅のない『線』のように見せることが目的です。オパールのお花の茎部分は、そのように作られています。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

しかしながら膨らみを持たせて仕上げると、想像以上に雰囲気が変化することがわかります。

ふっくらしていることである程度の存在感が残ります。それでも野暮ったく感じるような主張はしません。削ぎ落とし切っていないためシャープ過ぎず、エレガントで余裕ある表情です。まさに天女の扇の舞に相応しい優雅さです。

このように理想の雰囲気を具現化しつつ、弧というフォルムの組み合わせは、ブローチとしての耐久性をも実現させます。作者の頭の良さには本当に驚いてしまいます!

2-3. 万華鏡のような虹色のオパール

2-3-1. イギリスのハイジュエリーらしい上質なオーストラリア産オパール

オーロラのようなオーストラリア産オパールのリング アンティーク『神秘なる宇宙』
オパール リング
イギリス 1880〜1900年頃
SOLD

美しいオパールのハイジュエリーが流行するのは、19世紀後期から20世紀初頭にかけてです。

スロバキア産の白と青のオパール
"SLOVAKIAN OPAL 12" ©Slovakiaopal(22 November 2015, 13:00:31)/Adapted/CC BY 4.0

ヨーロッパでは古代からオパールが珍重されて来ました。

ただ、流通していたチェコスロバキアやハンガリー産オパールは、上質な石であっても、現代人が想像するほどの遊色はありませんでした。

ヴィクトリア女王のオパールなどの宝石を使ったピアス(南オーストラリア美術館)【引用】ABC News / Royal opals worn by Queen Victoria sent to Adelaide for SA Museum exhibition (24 September 2015, 5:57)

これはヴィクトリア女王の、典型的なミッド・ヴィクトリアン・デザインののピアスです。

1861年にアルバート王配を亡くした後、ヴィクトリア女王は2度と華やかな物を身につけなくなるので、それ以前に制作されたものです。

君主のジュエリーですから、各宝石は最高品質が選ばれているはずですが、オパールは白っちゃけていて、いまいち遊色が感じられませんね。

オパールのティアラを着けたヴィクトリア女王(1819-1901年)

しかしながら、1870年頃から植民地オーストラリアで宝石品質のオパール鉱山が相次いで発見され、驚くべき遊色がありました。

君主はただ着飾って偉そうにしていたり、キャッキャうふふと遊んでいるのが役目ではありません。
自国の産業振興を推し進め、民と国を豊かにするのも重要業務の1つです。

亡き最愛の夫アルバート王配が特に好んだ宝石だったこともあり、ヴィクトリア女王は大いに私情も挟みながらオーストリア産オパール業界をバックアップしました。

【参考】ハンガリー産オパールのブレスレット(19世紀)

最高級のハンガリー産オパールを遙かに凌ぐ遊色の魅力を湛えたオーストラリア産オパールは、衝撃的な存在でした。

長年の採掘地であったハンガリーの人々が「そんなに煌めく石は見たことがない、本物ではない。」と主張したほどでした。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

まさに、空に浮かぶ虹色のオーロラのように美しいオパールです。石の奥から次々に湧き上がってくるような虹色の輝きは、見る者の心を捕らえて放しません!!

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

これは石が上質、且つ十分な厚みがあってこそです。王侯貴族の時代が終焉を迎え、大衆がジュエリーを買うようになった戦後は、上質なオパールも急速に枯渇していきました。

莫大な資産を持つことが当たり前というマインドを持つ古の王侯貴族と異なり、大衆はジュエリーに美しさより安さを求めます。顧客に合わせてジュエリーも進化(劣化)します。大衆向けの現代ジュエリーは、オパールに厚みがありません。

その薄いオパールの裏側に、暗色のプラスチック板などを裏打ちをして遊色を強く見せたり(ダブレット)、さらに表面にも透明なプラスチックやガラスを貼り付けて厚みがあるように見せたりします(トリプレット)。アセンブルド・オパールと言われており、石の裏側は見られない構造になっています。

そのような薄っぺらいオパールは、遊色が出てくる厚みが十分でないため、石の奥から湧き上がってくるような美しさは感じられません。

【参考】合成オパールのアクセサリー

ちなみに現代では合成技術が確立されています。日本の京セラがクレサンベール・ブランドとして量産し、販売しています。稀少価値のある天然鉱物『宝石』と違い、いくらでも合成して同じ物を得られますから、鉱物としては同じ種類に属しても、定義上『宝石』とは言えません。

それでも見て「美しい。」と感じられればアクセサリーとして魅力がありますが、工業製品的な違和感があります。工場の安定した環境で合成するため、自然環境ではあり得ないほど均一な出来になるようです。

何故なのか今の私にはまだ分かりませんが、人間は"揺らぎ"なきものを美しく感じられないようになっています。コンピュータで制御して機械でカットした、幾何学的には"完璧なフォルム"のダイヤモンドに美しさを感じられないのもこのためです。

 八百万の神が宿る大自然の中で、偶然創り出された景色。
 才能ある人が、真心を込めて創り出したアート。
 コストカットと規格への正確性だけを追い求めて大量生産された工業製品。

魂の宿らぬものに美しさを感じないのは、人は心の眼でもそれらを見ているからかもしれませんね。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

扇の美しいブローチですが、石だけでも見ているだけで豊かな気持ちになります。超絶技巧の細工物も大好きなのですが、このような大自然のアート(宝石)と職人の技がコラボレーションした作品もアンティークのハイジュエリーならではの強い魅力があり、見ていて飽きることがありません♪

2-3-2. 万華鏡のような人を惹きつける魅力

オパールはGenも大好きな宝石ですが、古来より知的な人を強く惹きつけてきました。

何と言っても、その豊かに変化する表情が魅力です。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ 万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ 万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ 万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

厚みのある上質なオパールなので、環境が変化するとダイナミックに雰囲気が変化します。それだけでなく、同じ環境であっても僅かな角度の違いで表情が変わります。静止画ではとてもその魅力はお伝えしきれません!

画像は2次元の静止画でしか表現できないため、立体感が十分に伝わりません。それ故に実物の方が遥かに綺麗だと感動してくださる方が多いですが、遊色が最大の魅力であるオパール・ジュエリーでは、その感動がより顕著だと思います。

オパール・ジュエリーの場合、買付では作りとデザインだけでなく、遊色の美しさも慎重に判断しています。まあでも、作りとデザインが良い高級品には、間違いなく遊色が美しい上質なオパールが使われていますね♪

これは王太子バーティ(後のエドワード7世)とアレクサンドラ・オブ・デンマークが結婚する際、ウェディング・ギフトとしてヴィクトリア女王がアレクサンドラ妃に贈ったオパールのパリュールです。

絵ではうまく表現できないのが、ある意味オパールの大きな魅力でもありますね。

一瞬一瞬で姿を変える、幽玄の美。
定まった姿を持たぬ、不完全の美。

ヴィクトリア女王から王太子妃アレクサンドラへのウェディング・ギフト(1863年)
ヴィクトリア女王一家(1846年)ロイヤル・コレクション

ヴィクトリア女王のオパール好きは、好きな男性の影響です。貞奴は男前な印象がありますが、ヴィクトリア女王は女子らしい女子という感じがあります。

そのアルバート王配は、ヨーロッパの王室の慣例通り、外国から嫁いで来た配偶者です。ドイツ人がイギリス王室を乗っ取ろうとしているのではと、周りのイギリス貴族たちからは警戒されていました。しかしながらヴィクトリア女王の夫として縁の下の力持ちに徹し、目立たぬ存在で在り続けました。

恋する盲目の乙女だったヴィクトリア女王が褒めても半信半疑ですが、実際は側近や周囲のイギリス貴族たちも認めるほど教養深く、頭脳明晰な人物だったそうです。1861年に42歳の若さで死去していますが、こんなに早く亡くならなければ、イギリスの王権はもっと長く力を保っていただろうとも言われています。

オリジナルのオリエンタル・サークレット・ティアラを着けたヴィクトリア女王

そんな、教養深く知的な人物がこよなく愛したのがオパールでした。

幽玄の美や、不完全の美を好む性質は、日本人の美意識にも通じます。

今はルビーでリメイクされているオリエンタル・サークレット・ティアラも、元はオパールを使ってアルバート王配がヴィクトリア女王のためにデザインし、ガラード社に作らせたものでした。

オリエンタル・サークレット・ティアラ(1853年) 【出典】Royal Collection Trust / The oriental tiara © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021

アルバート王配がデザインした中でも、最も美しいティアラの1つとされています。1851年のロンドン万博で見た、インドのジュエリーにインスピレーションを受けてデザインしたもので、ムガール・アーチがオリエンタルな雰囲気を放っています。

世界に先駆けて産業革命を経験し、世界の工場として大英帝国最盛期『パクス・ブリタニカ』を迎えた時代らしいゴージャスさです。謂わば、世界に対して大英帝国君主の富と権力を象徴するための道具なので、ドヤ感はしょうがないです。これはそういう道具ですから(笑)

赤いルビーは万人向けの分かりやすさがありますが、見る間に表情を変えるオパールがセットされていた頃のオリジナルの姿は一体どのような美しさだったでしょうね。敢えてオパールを選ぶのが、アルバート王配の人物像を表している気がします。

定まった姿を持たぬオパールは、今の姿よりもティアラにより知的で教養深い雰囲気を持たせたことでしょう。様々な色を織りなすオパールは、世界中に植民地を持ち、太陽の沈まぬ帝国として君臨した大英帝国の君主に相応しい宝石でもあったでしょう。

古代ローマのプリニウス古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年)

古代ローマの偉大な博物学者プリニウスは、『博物誌』でオパールについてこのように述べています。

「カーバンクル(赤い石:ルビーやガーネット)のように燦然と輝く焔の色、鮮やかなアメジストのような紫、エメラルドグリーンの海のような緑を持ち、どうしてなのか分からないがそれらの色が調和し合い共に輝く石。」

「画家が描く色に匹敵する燦然とした豪華な輝きを持つものもあれば、燃えさかる硫黄の焔、火に油を注いで一気に燃え上がるような輝きを見せるものもある。」

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

オパールは1つ1つが個性に富み、表情はそれぞれ異なります。赤みを強く感じるもの、黄みを強く感じるもの、様々な石が存在しますが、このオパールはこれまでに見たことがないほど様々な色が湧き上がってきます。

赤、オレンジ、黄、黄緑、緑、水色、青、紫・・。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

3粒のオパールが、それぞれに虹色の美しい世界を描き出します。平面として捉える画像だと、少しどぎつく感じられるかもしれません。実際は石に厚みと透明感があり、景色に奥行きがありますので、全くどぎつさは感じないと思います。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

フレームのデザインは日本を連想させる扇ですが、扇面にデザインされているのは和のモチーフではありません。

マダム貞奴は日本のスターではなく、世界のスターとして認識されました。

ユラユラと表情を変化させる姿は、さながらマダム貞奴の『天女の舞』を表現しているかのよう。そして虹色のオパールは、世界のスターであることを象徴しているかのようです。

豊かな感性を持つ知的な人物がオーダーしたジュエリーであるからこそ、そのような意味も込められているのではないかと思えます。このような宝物は、オーダーした人物に想いを馳せることができるのも魅力の1つだと思っています♪♪

2-3-3. 世界で名声を確立後の川上夫妻

せっかくなので、アメリカ大陸ツアーとパリ万博を通し、世界で名声を確立した後の川上夫妻についてもう少しご紹介しておきましょう。

博覧会キング 櫛引弓人(1859-1924年)1915年頃、56歳頃

ご紹介した通り、初めてのアメリカ&ヨーロッパ・ツアーは借金取りに追われて命辛々逃げた先で、外国で暗躍するランカイ屋のオジサンに乗せられて始めたものでした。

川上夫妻の臨機応変な対応と、類い稀な2つの才能によって結果的には大成功となりましたが、十分な計画や予算もないまま始めたものだったので、"最高"が分かる2人にとっては不十分なものでした。

パリ万博後、ブリュッセルとベルギーでの公演を経てロンドンに戻り、日本へ向けて出航しました。1901年1月1日の朝、およそ1年半ぶりに日本の地を踏みました。

そして4月10日、新たに編成した劇団を連れて再びヨーロッパに向けて出航しました。芸者を含む5人の女性、音楽担当者、衣装係、美容係など、ヨーロッパで公演するための万全の準備を整えての旅路でした。

『芸者と武士』(パリのアテネ劇場 1901年8月下旬-11月8日)

既にパリ万博で世界的知名度を誇るようになっていましたから、ヨーロッパ・ツアーは効率良く各地を回りました。

サラ・ベルナールの『椿姫』(アルフォンス・ミュシャ 1896年) ヴェニスの商人『シャイロックとジェシカ』(マウリツィ・ゴットリープ 1876年)

川上一座はそれまでの演目に加えて、ヨーロッパで定番だった演目にも音二郎バージョンの脚本で上演しています。『椿姫』や『ヴェニスの商人』など、ヨーロッパの上流階級に親しまれてきた演目にもチャレンジしています。

ちなみにロシア公演中は、ロシア皇帝となったニコライ2世の招きで『冬の宮殿』でも上演しています。パリではエリゼ宮殿でルーベ大統領から、外国人に贈られる最高章も授章していますね。こうして6週間のヨーロッパ・ツアーを終え、川上一座は日本に戻りました。

ベルリン公演時の川上貞奴(1871-1946年)1901年、30歳頃

ここまで名声を確立したならば、ヨーロッパを拠点に活躍した方がさらなる名声やお金を楽に手に入れられたはずですが、そうはしませんでした。

日本の演劇文化に貢献するという音二郎の夢、音二郎を自分が男にするという貞奴の男前な夢に、ブレは全くありませんでした。

これだけの女性ならば、「欧米で、もっとビッグにさせてあげるよ。」、「自分なら、もっと稼がせてあげるよ。」と甘言で誘う怪しげな人たちがいくらでもいたはずですが、そんなことにはまるで興味がなかったのでしょうね。

川上音二郎(1864-1911年)47歳以前

まあでも、それは音二郎も同様です。

資金面でも、環境面でも苦労の多い日本ではなく、ヨーロッパを拠点にして川上一座として活躍する道もあったはずです。その方が富も名声も手に入ったでしょう。でも、その楽な道は選びませんでした。

ただ、海外で高い評価を受け、勲章まで受章して帰国できたのは、その後の日本国内での活躍で大いに役立ったことでしょう。

日本人は一般的に、外国で評価されたものを良しとする性質がありますから、以前と比較して格段に資金集めや各種の折衝はしやすくなったと想像します。

『オセロ -ヴェニスのムーア人-』ポスター(アメリカ 1884年)

欧米ツアーは2人にとって必要なものだったと言えるでしょう。

そして、努力は実を結んでいきました。

帰国後の1903年、2人は日本で初めてのセリフ劇『オセロ』を日本バージョンで上演しました。

シェイクスピアの四大悲劇の1つです。

『ハムレット』オフィーリアを演じる貞奴(1903年)

日本で愛されてきた演目を、ただそのまま押し付ける形で紹介するのではなく、欧米人に分かりやすい形にして紹介し、魅力を伝えることに2人は大成功しました。

ヨーロッパの地でリアルな演劇と観客たちを目にした2人は、日本のたくさんの人たちにもシェイクスピアという魅力ある演劇を楽しんで欲しいと思いました。

そこで、今度は逆に日本人でも分かりやすいよう日本バージョンにし、シェイクスピアを紹介したのです。

川上貞奴(1871-1946年)と音二郎(1864-1911年)

川上夫妻は1907年7月に再びヨーロッパに渡航しましたが、それは公演、すなわち富や名声を得ることが目的ではありませんでした。

日本の演劇文化をより高めることを目的とした、ヨーロッパ演劇を視察するのための旅でした。公演したら儲かったでしょうけれど、これだと経費がかかってマイナスになるだけです(笑)

本当にやりたいことがはっきりしていて、ブレない2人です。

パリで劇場デザイン、舞台管理、背景や小道具、音楽や演技のテクニックなど、ヨーロッパ演劇の様々な側面について学んできました。

帰国してから僅か4ヶ月後、現在の大阪市中央区にヨーロッパ風の劇場『帝国座』を開場し、同時に日本に女優を育成するための『帝国女優養成所』を設立しました。一定以上の教育レベルがある16歳から25歳までの女性応募者100人以上の中から、貞奴は最終的に15人を選びました。その中には上流階級となる政治家の娘もいました。

カリキュラムは多岐に渡りました。歴史や演目内容の知識、伝統とモダン(当時)両方の演技、日本とヨーロッパ両方のダンス、さらにフルートや小鼓、三味線、琴などの楽器の演奏もありました。日本とヨーロッパ、両方の文化を元に、新しいものを創り出そうとする意気込みが伝わってきますね。

1911年の夏には、日本ツアーを開催しました。しかしながら大阪に戻った後、音二郎が急性腹膜炎を発症しました。ボストン公演中に虫垂を取り除く手術を受けていましたが、その後も痛みや炎症には苦しんでいました。それが一気に悪化したようです。

再び手術したものの、11月4日に昏睡状態となってしまいました。数日持ち堪えていましたが、容体は悪化の一途を辿りました。炎症は脳にまで広がっていました。

11月11日の午前3時、死期を覚悟した貞奴は音二郎を病院から帝国座に運ぶよう手配しました。

1896年に建築し、借金だらけで手放した最初の劇場『川上座』は、日本のヨーロッパ風建築の技術が浅く、設備的にも良いとは言えないものでした。結婚前の音二郎が、短期のパリ留学で学んで来たものを取り入れた劇場でした。

1908年に建設した帝国座は、夫妻となった川上夫妻が欧米で苦労を分かち合いながら学んだものを取り入れた、素晴らしい劇場でした。当時最先端のエドワーディアンやアールヌーヴォー様式を取り入れた、遊び心溢れる素晴らしい建築でした。ヨーロッパの猿真似ではなく、日本神話をモチーフにした装飾も組み合わせた、いかにも川上夫妻らしいデザインでした。照明や舞台装置はヨーロッパの最先端の輸入品でしたが、歌舞伎のように花道があったり、回転ステージやオーケストラ・ボックスも備えた、日本で最先端の劇場でもありました。

どちらの文化の良い所も深く理解し、尊敬し、ここで新しいものを創ろうとしていたということですね。

それこそ相当なお金がかかったことでしょう。公演で稼いだ分で足りたとは到底思えません。それこそまた出資を集めていますし、借金もしたと推測します。私の場合、まるでGenみたいだと笑っちゃいます。この仕事が好き過ぎて、より良い仕事をするために入ったお金は全て使ってしまいますし、借金してでもトライアルなチャレンジに投資します。所詮、お金はやりたいことを実現するための道具の1つに過ぎません。やりたいことが明確に見えていると、音二郎のように行動するのは理解できます。

Genは日本でアンティークジュエリーという業界を確立しただけでなく、情報発信もインターネット黎明期から始めています。 当時はプログラミングができる技術者も限られていましたし、高画質の画像を撮影するには相当高額なハイスペックカメラなどの撮影機材が必要でした。今でこそ廉価で普及していますが、出始めは相当高額だったこと記憶がある方もいらっしゃると思います。お店にいらっしゃれない方にも広く知ってほしい、アンティークジュエリーの真の魅力を分かっていただくためにできるだけ綺麗な画像を撮りたい。当時は価格によってかなりの性能差があり、Genは高性能のパソコンや撮影機材、プリンター、パソコン周りのハードやソフトが扱える人材など、一見するとアンティークジュエリーとは関係なく見える部分にありったけお金を使いました。それこそ借金してでもです。Genが経営下手なのは、これも原因の1つです(笑)

やがて周囲が真似するようになり、アンティークジュエリーのHPも増えていきました。文章の真似は当然ながら、デザインなどそこまで真似しなくてもと言うような部分すら真似る人も結構いたようです。真似したり、参考したりできる追随者は簡単です。でも、開拓者は本当に大変です。並みの人間では不可能で、Genだからここまでできたと強く思います。

Gen同様、仕事が純粋に大好きだった音二郎・・。夫を信じ、すぐ側で楽しいことも大変なことも全て分かち合っていたからこそ、最期は帝国座で迎えさせようと貞奴は思ったのでしょう。運ばれて3時間後、貞奴に見守られながら、音二郎はその人生の全てを込めた舞台上で天に召されました。

享年48歳。
道半ばの無念の死ではありません。長くはありませんでしたが、太く、立派に道を生きることはできたと思います。

歌舞音曲のない、ヨーロッパ・スタイルの演劇を日本にも定着させたいと願った音二郎の頑張り。それは音二郎の手を離れても、後発によって成長して行けるまでに、既に育っていました。現代の演劇界を見れば、それは明らかですね。音二郎が単なる『新派の父』を超え、『日本の近代演劇の祖』とも言われるのはこの功績によってです。

帝国劇場(1915年)
"Imperial Theater, Tokyo (1915-05 by Elstner Hilton)" ©A.Davey from Portland, Oregon, EE UU)1 May 1915, 00:00)/Adapted/CC BY 2.0

『女優』も川上夫妻の活躍で日本に確立しました。2人が創立した帝国女優養成所は、後に帝国劇場付属技芸学校に引き継がれました。

産みの苦しみは大変なものです。しかしながら2人でその苦難を乗り越え、産み出したものは大きく成長し、現代までつながっています。2人が旅立った後も、しっかりと存続していったのです。本当に素晴らしいことです。

劇場雑誌の表紙『娘道明寺の貞奴』(フランス 1900年) 娘道明寺の貞奴(歌川芳幾 1901年)

40歳で最愛の夫を見送った貞奴は、遺志を継ぎ公演を行いました。そして程なくして大々的な引退興行を行い、舞台から退きました。

結局、欧米で欧米人たちが貞奴の美しい姿を眼にできたのは1899年から1902年にかけての僅かな期間、僅かな回数だけでした。彗星の如くやって来て、幻のようにすぐに消え去ったたスター。

と言うよりは、予期せず天の羽衣を纏って舞い降りた、優美な天女様という感じだったでしょうか。成り上がるために何だってやる覚悟の欧米の女優たちと違い、本人には地位や名声を得る野心がありませんでしたから、演舞にもドヤ感はまるでなく、「幸運にも天女の舞を見せていただいている。」、そのような気分にすらさせてくれたかもしれません。一瞬だけ見ることができた奇跡。その夢のように美しい記憶は、いつまでも見た人の心に残り続けたことでしょう。

富や名声に微塵も惑わされぬ高潔な貞奴の姿は、「これが日本の女性なのか!」と欧米人に驚きをもって受け入れられたかもしれませんね。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

パンチの効いた、西洋の女神様とは異なる存在。

まるで天女様のような、幻想的な美しさを醸し出していたマダム貞奴を、このオパールの宝物はよく表しているように感じます。

3. 金細工が美しい上質な作り

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この宝物は、オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドをセットした葉っぱ部分にのみプラチナが使用されています。マダム貞奴の欧米デビューとフィーバーの時期、プラチナの使い方からも、プラチナがジュエリーの一般市場に出始める1905年前後に制作されたものと推測します。

エドワーディアン様式の特徴として、プラチナにゴールドバックの作りがあります。プラチナが出回り始める最初期は、産出量的な問題もあって、プラチナは全面ではなく一部にだけデザインされていたりします。

エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー『Shining White』
エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス
イギリス or オーストリア 1910年頃
¥1,220,000-(税込10%)
白い輝きが美しいエドワーディアンのダイヤモンド・ネックレス

しかしながら、それまでの白い金属シルバーとは異なる魅力が上流階級の心を掴み、20世紀初期のハイジュエリー市場は一気にプラチナの白一色となりました。

初期アールデコのガーランドスタイルのトロフィー・ダイヤモンド・ネックレス『勝利の女神』
アールデコ初期 ガーランドスタイル ダイヤモンド ネックレス
イギリス or フランス 1920年頃
¥6,500,000-(税込10%)
弓&矢筒でエロスを象徴した純プラチナのアールデコ・ブローチ『Eros』
アールデコ初期 ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1920年頃
¥5,500,000-(税込10%)
その結果、アールデコ初期になる頃には、プラチナ・ジュエリーの技術が最高潮を迎えました。トップクラスの腕を持つ職人が、プラチナ業界に集まった結果です。
ペリドット&ホワイトエナメル ネックレス アンティークジュエリー『ゴールド・オーガンジー』
エドワーディアン ペリドット&ホワイト・エナメル ネックレス
イギリス 1900年頃
¥1,000,000-(税込10%)
エドワーディアンの天然真珠のバー・ブローチ天然真珠 ゴールド バー・ブローチ
フランス 1900〜1910年頃
SOLD

ゴールドが至高の金属として存在してきた19世紀までは、トップクラスの腕を持つ職人は金細工職人として金細工業界に集まっていました。

それ故に金細工技術が切磋琢磨され、ハイジュエリーには素晴らしい金細工技術が施されています。

プラチナが出始める時期までは、この優れた金細工技術が残っていました。しかしながらハイジュエリー市場がプラチナ一色となったことで、優れた金細工技術はあっという間に失われてしまいました。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ レイト・ヴィクトリアンからアーリー・エドワーディアンにかけてのトランジション・ジュエリーと言えるこの宝物は、技術が失われる前の優れた金細工も特徴の1つです。

3-1. センスの良い粒金デザイン

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この宝物は、粒金の使い方が特徴的です。

存在感がある大きさの粒金を使っています。

見事な粒金細工のジュエリー
エトラスカンスタイル ブローチ アンティーク・ジュエリー『古代の太陽』
エトラスカン・スタイル ブローチ
イタリア(FASORI) 1850〜1870年代
SOLD
非加熱ルビー&サファイア&天然真珠の金細工が美しいフリンジ・ブローチ『ルンペルシュティルツヒェン』
ゴールド・アート ブローチ
イギリス 1870年頃
¥1,100,000-(税込10%)

これはどちらもコンテスト・ジュエリーと判断できる、超絶技巧の金細工の宝物です。粒金にご注目ください。様々な大きさがあり、サイズによって醸し出される雰囲気が大きく変わりますし、どこに配置するのかで全体のデザインにも大きく影響を与えることがお分かりいただけると思います。

特に古代エトルリアの金細工に触発されてトライしたとみられる、『古代の太陽』の粉末レベルに細かな金細工を敷き詰めた細工『粒金被覆』は圧巻です。小ささを追うことで、粒金で質感をコントロールすることもできるわけですね。

大粒の粒金で格調高い雰囲気を出した作品
白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)のアンティーク・バングルピエトラドュラ バングル
イタリア 1860年頃
HERITAGEコレクション
アメジストの最高級スネークチェーン・ゴールド・ブレスレット『アメジストの楽園』
ヘキサゴンカット・アメジスト ゴールド・ブレスレット
イギリス 1880〜1890年頃
¥1,380,000-(税込10%)

一方で大きな粒金は、規則的に並べることで格調高い雰囲気を醸し出すことができます。大きすぎると成金っぽく見えるようになるので、どれくらいの大きさにするかは作者のセンスにかかっています。

大きければ大きいほど是とし、とにかく大きさを追い求める成金嗜好の人のオーダーなら作るのも楽でしょうけれど、美意識が高くてセンスも良い人のオーダーは、作る側も大変です。その分、良いものができれば喜んでお金も払いますから、才能あるアーティスティックな職人にとっては後者の方がありがたいでしょうけれどね。才能があるのに安くしろ安くしろと言われながら、相応の対価も支払われずダサいものを作らされるのは苦痛です。成金嗜好の人たちは、職人兼アーティストのプライドをくじくのが得意です。自分さえ得をすれば、自分さえ良ければ良いからです。アンティークの優れたジュエリーに心が癒される一方で、成金ジュエリーに気持ちの悪さを感じるのは、それぞれの心が伝わってくるからでしょう。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この宝物の粒金細工は細かさを追った細工物と比べると、その凄さが分かりにくいですが、これは高度な技術を必要とする細工です。大きさを揃えた粒金を、曲率もある細い隙間に綺麗に並べるのは相当困難なことです。外周に配置するだけならば、多少高さが揃っていなくても目立ちません。

しかしながら隙間に等間隔で並べる場合、僅かでもズレがあると人間の眼はシビアに違和感を感じてしまいます。だから、普通は敢えてそんな困難な技術を必要とするデザインにはしません。

透かしの美は日本美術を象徴する一方で、等間隔で対称に配置された粒金は西洋美術らしい雰囲気を放ちます。二重のフレームではなく、ゴールドの板に彫金で模様をデザインしても、一応は扇のブローチとして成立します。でも、それでは旧来のオーソドックスなヨーロピアンスタイルとなってしまい、新しい芸術を生み出そうとする者にとっては相応しくありません。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

ただ何となく粒金を使ってデザインしたわけではありません!

アールデコの後期になると、『シンプルイズベスト』はコストカットのための手抜きの言い訳として使われるようにもなりました。シンプルイズベストは、必要のあるものまで削ぎ落としたりはしません。本来、コストカットを目的としたものでもありません。

一見シンプルに見えながら、物凄い技術を駆使して作られているのがこの宝物です。オーダーした人物の、強い美意識があってこそです。分かりやすい細工物とはまた違う、徹底的に無駄を削ぎ落とした美しいデザイン。このような細工物の魅力も、ぜひ分かっていただきたいです。

3-2. 美しいミルグレイン

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
全体的にはシャープさを感じますが、オパールの覆輪にのみミルが打ってあり、デザイン上のアクセントとなっています。
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
一般的なハイジュエリーのミルグレインより一段と細かいです。非常に精緻に整えられており、黄金の微粒子が放つ暖かな輝きが心地よいです。

3-3. 見事な立体造形&仕上げ

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

正面からの画像では、平面的な扇デザインに見えますが、実施はかなり立体デザインを意識して制作されています。センターのオパールは、ゴールドをふんだんに使用して高さを出しています。両側のお花も、要から伸びやかな曲線で配置されています。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

裏側を見ると、お花の茎は要の両脇から連続していることが分かります。全体的にはシャープなイメージですが、アールヌーヴォー的な要素があるのもこの時代らしいです。マダム貞奴フィーバーが起きた1900年のパリ万博は『アールヌーヴォーの祭典』とも呼ばれるほど、アールヌーヴォー全盛の時代でした。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

この角度から見ると、両側のオパールのお花や葉っぱも、意図して角度を付けてセットされていることが分かります。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

葉っぱは様々な角度を向いています。セットされたダイヤモンドは、カットにまだラフさの残るオールドヨーロピアンカットです。1900年にダイヤモンドソウが発明されてからは、ダイヤモンドのカットも急速に近代化され、個性を失っていきます。

上質なオパールに相応しい、クリアで上質なダイヤモンドから放たれる輝きは、名脇役としての魅力的な美しさがあります。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

計算された立体デザインのお陰で、のっぺりした印象にならず、印象的な美しさを感じます。

高度な技術と卓越した美的センスを併せ持つ職人の、ハンドメイドだからこそ成せる宝物です。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ
万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

磨き仕上げが完璧なので、様々な角度で強い黄金の輝きを放ちます。細かい仕上げまで、一切手を抜かないのがハイジュエリーの証です。まるで新品のようにお感じなるかもしれません♪♪

裏側

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

裏側もとても綺麗な作りです。15ctの刻印の他に工房印が見えますが、今回の調査では具体的な工房名は分かりませんでした。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

裏側上部に、とても丁寧な作りのセーフティが付いています。こういうちょっとした気遣いからも、この宝物がいかに高級品として作られたかが伝わってきますね。

着用イメージ

虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチの着用イメージ

3.8×1.8cmの大きさがあり、ブローチとしてはそこまで小ぶりではありません。

しかしながら透かしを多用したデザインなので、主張し過ぎずとても軽やかな雰囲気です。

エドワーディアン以降はネックレスやペンダントが圧倒的に多くなるため、このような軽やかなブローチは数が少ないです。

軽やかな生地のドレスが流行した時期のジュエリーなので、ヴィクトリアン中期までのブローチと比較して、実際の着け心地も軽いです。

薄い素材のお召し物を着用する時期にも、十分に楽しんでいただけると思います♪

余談

川上貞奴と音二郎(1903-1911年頃)

これは明治座で『王冠』を演じる川上夫妻です。

フランスのフランソワ・コペが1895年に劇作して成功を収めた『Pour la courtonne』を、日本で紹介した演目です。

音二郎を見送った貞奴はケジメを付けた後、すぐに女優を引退しました。

それぞれに唯一無二の才能を持つ2人でした。

傑出した才能を持つ者だからこそ、「俺の脚本・演出が凄いからだ。」、「私の演舞と人気が凄いからだ。」と言うように、それぞれに自分のお陰だと主張してもおかしくはない状況でした。

しかしながら2人はそうではありませんでした。それぞれが妻のお陰、夫のお陰と思っていたように感じます。実際、お互いの存在なしにこの大きな功績はあり得ませんでした。尊敬し合う夫婦は舞台上でも心と魂を1つにし、一心同体のように通い合っていたのでしょう。

日本の演劇界に貢献することは音二郎がメインの夢にも見えますが、実際には2人の夢だったとも感じます。ここまでの一致した2人ではなかったならば、妻は貧乏に耐えられず逃げ出したでしょうし、夫が稼いだお金を全て"良い仕事"をするために注ぎ込んだら怒ったでしょう。「もう楽をしましょうよ。」、「ちょっとくらい贅沢をしたいわ。」なんてことは一切言わない女性でした。貞奴自身も、夫と同じ夢を見ていたからです。

28歳と21歳頃に出逢った2人。貞奴は7歳年下で、芸事にも秀でた美人。
それなのに出逢いを「夫に惚れられて。」ではなく、「絶対に私がこの人を男にすると思った。」と言えてしまう女性。そして実際にそれを実現した女性。九州男児の音二郎に負けず劣らずの男前。

私は美人でモテるのだから楽をさせてよ、贅沢をさせてよと我儘を言っても良さそうなタイプなのに、敢えて茨の道を突き進み、不平不満すら言わず当たり前のように耐えて開拓しました。

中央:貞奴、右:音二郎(1902年)

2人は伊藤総理のプライベート・パーティで出逢いました。本来ならばお金持ちの娘として育つはずだった貞奴が、芸者として音二郎に巡り合えたのは運命の導きだったでしょうか。

既に音二郎は『自由童子(Liberty Kid)』として名声を確立していました。それでも残りの人生をこの人と共に在りたい、このパワフルな人と過ごしたいと思ったのは、貞奴が音二郎にまだ壮大な何かを強く確信したからでしょう。

男性に守られるのではなく、むしろ守る側のように行動したのは、幼い頃に亡くした父の影響もあるかもしれません。「本当はお金持ちの家だったのに。」、「幼くして父を亡くして私は可哀想だ。」と不平不満を言うだけの人もいるでしょう。しかしながら貞奴は完璧にポジティブな女性でした。

『仏様』というあだ名が付くほどの聖人だった故に、悪どいことはせず急激なインフレで破産し、失意のまま貞奴が7歳の時に旅立った父。この経験が、男性に負んぶに抱っこではなく、「私が守ってあげなくては!」という思考の源泉になったのかもしれません。

Genの母は命と引き換えになることを承知の上でGenを産み、Genが3歳の時に力尽き旅立ちました。結核だったため、一度も産んだ我が子を抱けなかったそうです。この経験で、Genは「女性はか弱くて優しい、愛に溢れる存在であり、全力で守ってあげなくては!」と言う意識が強く刷り込まれたそうです。そのせいで何度も酷い目にも遭っていますが、強靭な精神を持つ人はそれでもネガティブ思考にはならず、ポジティブで在り続けます。

 

残された川上夫妻の写真を見ると、愛し合い尊敬し合う2人の心が伝わってきますね。

馬術レースに参加したり、後にバイクも乗り回す貞奴。普通の女性なら不安で耐えられない、海外への未知の旅路も、溢れる冒険心と好奇心でむしろワクワクしながら臨んでいたかもしれません。2人が一緒ならば、何も怖くはありません。見知らぬ海外でお金を持ち逃げされてスッカラカンになってもネガティブにならず、まあどうにかなると固く信じ・・。

 

オッペケペー節で日本を良くし、西洋世界に日本の芸能の真髄を紹介して和洋が融合・昇華したインターナショナル・スタイルへの進化を促し、日本でもヨーロッパ文化を取り入れた新しい芸能スタイルを生み出し確実に成長させ・・。舞台上での旅立ちは、音二郎にとって最高の最期だったでしょう。貞奴にとっても、音二郎を男にすることができたと実感できる最期だったと思います。

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ

貞奴は欧米ツアーへは、ただ妻としてサポートするだけのつもりで付いて行きました。

類い稀なる才能を持つ人を、天は放っておかないということでしょうか。

まるで運命のお導きのように女優として舞台に立つことになり、揺るぎない努力で実らせた・・。

この夢のような宝物はきっと、2人の真心の愛が存在したことの証なのです♪♪

万華鏡のような虹色のオーストラリア産オパールのアンティークの扇ブローチ