No.00345 Future Design

モダンスタイルの未来的デザインの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

"The May Queen" de Margaret Macdonald (Glasgow)(3803689322)" ©Jean-Pierre Dalbera from Paris, France(1900)/Adapted/CC BY 2.0

 

 

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
ジュエリーより『アート』と評価すべき
未来的な雰囲気が漂うアーティスティックな造形が魅力の宝物です!♪

 

 

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

『Future Design』
モダンスタイル 天然真珠&ダイヤモンド ピアス

イギリス 1900〜1910年頃
天然真珠、トランジションカット・ダイヤモンド、プラチナ、15ctゴールド
サイズ:1.8×0.7cm(ピアス本体のみ)
重量:1.7g
SOLD

幻の存在、モダンスタイルのプラチナを使った最高級ピアスです♪♪

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

モダンスタイルが生まれた時代はイギリス貴族の凋落が激しく、パトロンとなれる上流階級が激減していました。その結果、モダンスタイルのハイジュエリーは極めて数が少ないです。最高級金属がゴールドからプラチナに移り変わる過渡期にも重なっており、プラチナを使用したものに限定すればさらに数は少ないです。

史上最も高く評価された時代に於ける、照り艶が極上の天然真珠。当時最先端のトランジションカット・ダイヤモンドのクリアで美しい煌めき。これまでに見たことのない、中空技術を駆使したモダンスタイルらしいプラチナ・フォルム。プラチナ・フラットラインのインパクトある輝き。最高級品であることを示す、当時の第一級の職人による見事な作り。

まさに小さな美術品!時を超えて語りかける小さな宝物です♪

 

 

この宝物のポイント

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
  1. 貴族らしい気品に満ちた最高品質の日常用ジュエリー
    1. 厳密なTPOがある貴族のジュエリー
    2. 日本人にも普段使いしやすい貴族の日常用ジュエリー
  2. 貴族が急速に力を失った時代の貴重な最高級ピアス
    1. 実は全く異なる現代と古のイギリス貴族
    2. 20世紀の貴族の状況
    3. 20世紀初期のハイジュエリー市場
  3. 貴族のプライドを感じる美意識の行き届いた作り
    1. 未来的な最先端デザイン
    2. 未来感を出すための見事な構造デザイン
    3. 小ぶりながらも質にこだわった宝石
    4. 高い技術を感じる美しいグレインワーク

 

 

1. 貴族らしい気品に満ちた最高品質の日常用ジュエリー

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

この気品に満ちた美しい宝物は、貴族が日常用のジュエリーとしてオーダーしたと考えられる上質なピアスです。

1-1. 厳密なTPOがある貴族のジュエリー

1-1-1. 多くの日本人が真の"ジュエリー"の違いを知らない背景

PD帰国報告に参内した山川捨松(1860-1919年)1882年、22歳

着物が発展した日本はジュエリー文化がなく、長年ジュエリーの歴史が無かった、世界的に稀有な国です。

日常用のジュエリーを着用する1880年代頃の上流階級
日本の上流階級 ヨーロッパの上流階級
PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)1880年代? イギリス王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマークとその家族(1880年)
【出典】Royal Collection Trust / The Prince and Princess of Wales with their shildren, 1880 [in Portraits of Royal Children Vol.26 1880] / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020 / Adapted

日本人がジュエリーを着用するようになったのは、開国後にヨーロッパ文化を取り入れてからです。但し、それは限られた上流階級のみです。1947年に貴族が廃止される以前は日本にも身分制度があり、華族や士族などの上流階級が存在しました。

戦前は貴族が政治、文化の主な担い手であり、特権階級として権力を振りかざすというよりはノブレスオブリージュ的に、立場あるものの責務として先行するヨーロッパに学ぶよう尽力していました。日本の上流階級が学ぶ対象はヨーロッパの庶民ではなく、当然ながら同等身分であるヨーロッパの上流階級です。

貴族の女性の場合は、同じように貴族の女性のファッションを取り入れていました。これは日常の装いで、ジュエリーや小物も日常用のものです。当時流行していた、首元のバー・ブローチが主役です。髪型も同じですね。

正装用のジュエリーを着用した1900年代頃の上流階級
日本の上流階級 ヨーロッパの上流階級
PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)1919年以前 ノルウェー王妃モード(1869-1938年)1906年、37歳頃(英国王エドワード7世の三女)

正装用のジュエリーはまた別にあります。これは、当時流行していたロングチェーンが主役のコーディネートです。

現代の庶民と、古の上流階級ではコーディネートの組み立て方が全く異なります。古の上流階級はジュエリーに加えてドレス、小物もTPOに合わせて変える必要があり、たくさんのアイテムが必要でした。

高位の貴族のための最高級ジュエリー
イギリスのヴィクトリア・アレクサンドラ王女(1868-1935年)1906年、38歳、ヴィクトリア女王の孫
アールデコ 天然真珠&スーパーロング・チェーン アンティーク
『ホワイト・レディ』
天然真珠&プラチナ・チェーン
イギリス 1920年代
SOLD

制作されてから100年以上が経過したジュエリーは、庶民のための量産の安物まで含めて『アンティークジュエリー』と呼ばれてしまっている現状にありますが、HERITAGEでご紹介するジュエリーは、いずれも上流階級のために作られた貴重な高級品です。

ご覧になるとお分かりいただける通り、1点1点が材料、デザイン、作りにとんでもなくお金がかけられている高価なものです。

TPOで使い分ける上流階級のジュエリー
夜・正装 日中・正装 日常用
初期アールデコのガーランドスタイルのトロフィー・ダイヤモンド・ネックレス『勝利の女神』
ガーランドスタイル ネックレス
イギリス or フランス 1920年頃
¥6,500,000-(税込10%)
シェルカメオ 『黄金の馬車に載った太陽神アポロン(ヘリオス)』 アンティーク『黄金馬車を駆る太陽神アポロン』
シェルカメオ ブローチ&ペンダント
ヨーロッパ 19世紀後期
¥1,330,000-(税込10%)
エドワーディアン リボン ブローチ アンティークジュエリー『至高のレースワーク』
リボン ブローチ
イギリス 1910年頃
SOLD

夜用、日中用、それぞれに正装と日常用などがあり、また様々な社交シーンで使うためにそれぞれのジュエリーが必要となります。さらに扇子や名刺入れなど、各種小物も揃えなくてはなりません。現代の庶民には想像もできないほどお金がかかります。

実際、一般の庶民には想像できません。王侯貴族の時代が終焉を迎え、大衆の時代となった戦後に作られた、現代の宝飾業界が設定した基準を元に考える人が大半です。現代の宝飾業界に都合が良いように設定されたものに過ぎず、ジュエリーの真の価値を判断するためのものではありません。むしろ、自分たちに都合が悪くなるのであれば、価値あるものを価値が低いと見做すようなことも平気でやります。楽して金儲けが至上命題であり、誇りを持って価値あるものを紹介し、お客さまに喜んでもらいたい、自身も良い仕事をしたという満足を得たいという発想はありません。

フランスのクラウン・ジュエリー
フランス王妃マリー・アメリ・ド・ブルボン=シシレ(1782-1866年)1830年、48歳頃 フランス王妃マリー・アメリのサファイアのパリュール(王妃の在位:1830-1848年)
"Parure della regina maria amelia, parigi, 1800-15 poi 1850-75 ca" ©Sailko(16 June 2016, 16:34:00)/Adapted/CC BY 3.0

そのような、大衆による大衆のための大衆用ジュエリーの判断基準という知識的な事に加えて、大衆が目にする多くは、王侯貴族が正装した姿です。派手さもあって、このような姿は印象に強く残ります。

その結果、多くの大衆が貴族の女性はいつもゴージャスなドレスに巨大な宝石が付いたジュエリーを着けているものだと勘違いするようです。そして、このような普段は着けて外に出かけられないようなド派手なジュエリーこそが王侯貴族のジュエリーであると思い込むのです。

ヴィクトリア女王(1819-1901年)1898年、79歳頃

こんな感じが、大衆にとっての王侯貴族の女性のイメージです。

包丁みたいなナイフはちょっと違いますが・・(笑)

 

これは風刺画で、中国に見立てたピザを切り分けるためのナイフです。

イギリスのアレクサンドラ王太子妃(後の王妃)のコーディネート
お出かけ着 正装
1884年、40歳頃 1881年、36歳頃

正装用のド派手なジュエリーは重たいです。

大衆の時代となった戦後は、貴金属や宝石を使用しないデザインだけの模造品が、当たり前のように市場に溢れかえりました。パッと見だけ、巨大でギラついて高そうに見えるアクセサリーです。これらは持つととても軽いです。しかしながら私もそうでしたが、本物のジュエリーに触れたことがないと、貴金属と宝石で作られたジュエリーがどれだけ重いのか想像ができません。私は今、本物の最高級ジュエリーに囲まれて仕事をする夢のような状況にあります。たまにアクセサリーを手にすると、「軽いっ・・・?!」と驚いてしまいます。それくらい違います。

今でもティアラを運用している英国王室の話として、ティアラは重過ぎて長時間は着用できない、或いは頭が痛くなるなどのエピソードをお聞きになったことがある方もいらっしゃると思います。

王太子妃アレクサンドラ(1844-1925年)1889年、44歳頃

派手なジュエリーを着けるのは、王侯貴族にとっても特殊なシーンのみです。

アレクサンドラ王太子妃(後の英国王妃)と3人の王女
結婚式出席用の正装 普段着
ジョージ王子の結婚式用(1893年)

王族が周囲の貴族のファッションリーダーとなりますから、王族を参考に見てみると、普段着は現代の私たちが見ても違和感がないほどカジュアルなことが分かります。普段着にド派手な宝石ギラギラ・ジュエリーはコーディネートしません。

左の結婚式に参加するための正装を見ると、ジュエリーに厳密なTPOがあることも分かります。ティアラを着用しているのは2人だけです。これは年上だから、お金やジュエリーが足りなかったなどの不明瞭な理由ではなく、既婚者のみがティアラを着用するというルールにのっとったものです。

現代の日本の皇室の運用法が、なぜか成年になると振袖ではなくティアラを作ることになっているため、「お姫様=ティアラ」という誤解を多くの日本人に与えているようです。このような運用ルールになった背景は分かりかねますが、政商が儲けたかったのかなぁと想像しています。成人式では、現代も多くの国民が振袖を着用します。国民の方が、よほど日本文化を守っているような状況ですね。それでも大半の人はレンタル衣装でしょう。ティアラにかける予算(日本国民の税金)を振袖のオーダー制作に向ければ、よほど日本文化の保存や新興にも役立つと思います。全員ではなくても真似して振袖をオーダーする人たちも出てくるでしょうし、着物界に新しい流行を生み出し、需要を増やすことも期待できます。ファッションリーダーとして新しい文化を創り、経済を回して国民全体の幸せを生み出すことだってできるはずなんですけどね。それをやらないのは、何か一般人が知らない理由はあるのかもしれません。

アレクサンドラ王太子妃と3人の娘たち

さて。古の王侯貴族は普段着でも、ジュエリーを着けないということはありませんでした。普段着用のジュエリーがきちんと存在しました。正装用のドレスに普段着用のジュエリーを合わせることはありませんし、普段着に正装用のジュエリーも着けません。3人の王女も、当時流行していたバー・ブローチや小ぶりのブローチを首元に着けています。

戴冠式の英国王妃の正装

英国王室クラスともなれば、ジュエリーはとんでもない数を所有しています。

だから、こんなコーディネートも可能です。

「持っているジュエリー、全部着けちゃったんですか?(笑)」というくらいセンスのないコーディネートですが、これは時代背景を考えるとしょうがないです。

帝国主義にひた走る時代。新興勢力のアメリカが台頭し、ヨーロッパ諸国も産業革命を経てしのぎを削るようになり、圧倒的な世界の中心としての大英帝国の地位に揺らぎが見え始めた時代でした。

各国の王族同士でもどちらが上か下かを強烈に意識しており、とにかく凄そうなジュエリーでドヤる必要があったのです。

センスが良い、教養が深いではなく、とにかく万人に分かりやすいよう富と権力の凄さをドヤらなくてはなりませんでした。

イギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844−1925年)1902年頃、58歳頃
"1902 alexandra coronationhr" ©Franzy89(9 August 1902)/Adapted/CC BY-SA 3.0
フランス王妃マリー・アメリのサファイアのパリュール(王妃の在位:1830-1848年)
"Parure della regina maria amelia, parigi, 1800-15 poi 1850-75 ca" ©Sailko(16 June 2016, 16:34:00)/Adapted/CC BY 3.0

宝石の巨大さでドヤることは、王侯貴族でもあります。ただ、巨大さによって高価なことを万人に分かりやすく示す類のものであり、それ故に、デザインには個人のセンスの良さが入り込む余地があまりありません。

上流階級のための高級品なので作りは抜群に良いのですが、似たりよったりのデザインばかりで全く面白くない上に、ドヤドヤした雰囲気が強く伝わってきて、触れていて心地よいものではない上に、見ているだけで心癒されるどころか、返ってエネルギーを吸い取られて疲れます(笑)

こういうジュエリーは高いことは高いですが、上流階級にとっては仕事用のジュエリーに過ぎず、HERITAGEがお取り扱いする宝物から見れば取るに足りない格下と断言できます。成金にはピッタリだと思いますが、成金とは関わりたくないのでお取り扱いしません(笑)

普段着のエドワード7世の妻アレクサンドラ妃
【引用】Britanica / Alexandra ©2021 Encyclopædia Britannica, Inc.

ルールを決めることができる立場の王族であり、しかも実際にたくさん持っているのですから、ドヤ・ジュエリーが好きならば普段着に着用することは可能です。しかしながら、そうではありません。仕事としてドヤる必要がない普段着こそ、持ち主の個性が反映されたジュエリーをコーディネートします。仕事用ではなく、このようなジュエリーこそ、小さな宝物として大切に感じていたことは間違いないでしょう。

ペリドット&ホワイトエナメル ネックレス アンティークジュエリー『ゴールド・オーガンジー』
エドワーディアン ペリドット&ホワイト・エナメル ネックレス
イギリス 1900年頃
¥1,000,000-(税込10%)

このようなジュエリーは、知識のない庶民にまで凄そうに見せる必要がありません。

目に触れるのは、周囲の上流階級のみです。

自分自身の心の満足であったり、教養や知識、美的センスのある周囲の上流階級に素晴らしいと思ってもらえれば良いですから、ありったけの教養や知識、センスを込めて制作されます。

だから小さいのに見どころが満載で、それぞれに個性があって、見ていて飽きることがありません。

PDワシントン軍縮会議の全権大使(1921年11月3日)
幣原喜重郎 男爵、加藤友三郎 子爵、徳川家達 公爵

現代は、宝石の凄さだけで判断する人が多いです。日本も昔は必要に応じて和装でも洋装でも身なりを整える習慣がありましたが、現代では高級レストランが「サンダルや短パンはご遠慮ください。」など、ドレスコードを指定しなければならぬほどTPOに合わせた服装をする文化が廃れてしまいました。

ファッションにはドヤる意味だけでなく、相手に礼を示す手段としての面もあり、何でもかんでもラフでカジュアルにするというのは違うはずなんですけどね。結局、ファッション文化の衰退と共に、日本人の礼儀の文化まで失われていったように感じます。

モンタナサファイアを使ったアールデコの天然真珠&ダイヤモンドのラグジュアリーなネックレス『天空のオルゴールメリー』
アールデコ 天然真珠&サファイア ネックレス
イギリス 1920年頃
¥1,230,000-(税込10%)
いつでも当然の如く同じ格好。服を選ぶ必要がなく、たくさんの種類も必要としません。

これはジュエリーも同様です。

庶民の場合、古の王侯貴族のような有り余るほどの財力も持ちませんから、ハイジュエリーをいくつも持つこと自体が本来は不可能です。

アンティークジュエリーが知られざる存在となった現代は、作られた当時からすればあり得ない価格で手に入ります。このような宝物を複数お持ちになって楽しめる方も存在する、見方によってはある意味幸運な時代だったりもします。

【参考】金具の摩耗が激しいフォブシール

そのような例外的な方は別として、現代の庶民は1つのジュエリーを使い回す場合が少なくありません。

それは昔の庶民も同様で、庶民用に作られた安物ほどヘビーローテーションによる摩耗が激しいです。

【参考】金具が摩耗した安物

左のものは、使うのが怖いくらいすり減っていますね。愛用の証として好む方もいらっしゃると思いますが、安物であるが故に適切な扱いをしてもらえなかった、大切にしてもらえなかったと見ることもできるでしょう。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール『アルプスの溶けない氷』
アルプス産ロッククリスタル 回転式3面フォブシール
イギリス 18世紀後半
¥1,400,000-(税込10%)

HERITAGEで王侯貴族のために作られたアンティークジュエリーを初めてご覧になると、まるで今作られたかのような美しさに驚かれる方が少なくありません。

持ち主はいくつも持っているのでヘビーローテーションしないこと、適切な扱い方を分かっており、200年以上もコンディションを保つことが可能なことなどが理由です。

財産性を持つというのは、長く使える証でもあります。

現代のエメラルド的なリング
ブランド品(エメラルドの詳細不明) 合成石 クリスタルガラス
エメラルド・リング(カルティエ 現代)価格はお問合せくださいとのこと【引用】Cartier / SOLITARIO 1895 ©CARTIER 合成エメラルド・ リング(京セラ 現代) 【引用】odolly / エメラルドリング(オーバル/2.29/メレダイヤ4石/ツイスト/K18ホワイトゴールド/5月誕生石) ©京セラジュエリー通販ショップodolly-オードリー グリーン&ホワイト・クリスタルのロジウムメッキ・シルバー・リング(スワロフスキー 現代)【引用】SWAROVSKI / Attract Cocktail Ring Green, Rhodium plated ©Swarovski

現代ジュエリーに財産性を感じている方は、どれくらいいらっしゃるでしょうか。ブランド物だと買う人が存在するため、中古市場でも一定の値段が付きはするようですが、ジュエリーとしての真の価値はあるでしょうか。

宝石は人工処理が当たり前となり、合成技術が確立されたことで稀少価値も消失し、技術革新によって見た目が綺麗なイミテーションも当たり前になりました。

貴金属や宝石を使わない『アクセサリー』でも、見た目は十分に現代ジュエリーと同等に見えます。何しろデザインと作りが同じですから・・(笑)

見た目が同じならば、安い方が良いと考える人が多いのは当然です。簡素なデザインと作りにすることにより製造コストを抑え、高級ジュエリーとして高く売ることで暴利をむさぼった現代ジュエリー業界ですが、アクセサリーと変わらなくなった結果、今では売れなくなっているようです。

ジュエリーならばより綺麗であったり、財産性を持っていて長持ちするなどのメリットがあれば、高額を出すこともやぶさかではないですが、大金を出す意味が現代ジュエリーにはまるで感じられないですからね。

大切にしなくても平気。使い捨て。そのような感覚すら、現代ジュエリーには付いてしまったかもしれません。1つのジュエリーを平気でヘビーローテーションし、すり減ったり壊れても気にしないというのが普通の感覚になっている人も、残念ながらいるようです。

1-1-2. それぞれのジャンルに"最高級品"が存在するアンティークジュエリー

TPOで使い分ける上流階級のジュエリー
夜・正装 日中・正装 日常用
約2カラットのオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド ブローチ アンティーク・ジュエリー『財宝の守り神』
約2ctのダイヤモンド ブローチ
フランス 1870年頃
SOLD
ローマンモザイク ペンダント&ブローチ ピアス セット『平和のしるし』
ローマンモザイク デミパリュール
イタリア 1860年頃
¥2,030,000-(税込10%)
ダイヤモンド ゴールド ブローチ アンティーク・ジュエリー 『MODERN STYLE』
ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1890年頃
SOLD

これらは全て最高級品として制作された、古の王侯貴族のためのアンティークジュエリーです。

1つ、あるいは数少ないジュエリーを使い回すのが当たり前。TPOも曖昧。そんな現代庶民の多くはこれらの宝物を並べて見た場合、左の『財宝の守り神』だけが最高級品で、他は『財宝の守り神』ほど高級ではないジュエリーと判断します。

その理由は、『財宝の守り神』は大きなダイヤモンドが付いており、『平和のしるし』は宝石が使われておらず、『MODERN STYLE』『財宝の守り神』と比べるとダイヤモンドが小さいからです。同じ土俵、すなわち同じ判断基準で一緒くたに判断できると思い込んでいるからです。

ここまでご覧になった方は、もうお解りですよね。夜の正装用ジュエリーはそのジャンルでの最高級品があり、日中用の正装にはそのジャンルでの最高級品があります。日常用ジュエリーも然りです。

1-1-3. 芸術性で競うデイ・ジュエリー

ジョージアンの正装用ブレスレット
日中用 夜用
ジョージアンのデイ&ナイトのカンティーユ・ブレスレット『Day & Night』
ジョージアン マルチユース ブレスレット
フランス 1820年頃
SOLD
ジョージアンのデイ&ナイトのローズカット・ダイヤモンド&カンティーユ・ブレスレット
夜は輝きの美しいダイヤモンドなど、宝石が主役のジュエリーを使用します。一方、日中はギラギラした宝石が付いたものは着用しません。
芸術性の高さで教養/知性/センスを競うデイ・ジュエリー
非加熱ルビー&サファイア&天然真珠の金細工が美しいフリンジ・ブローチ『ルンペルシュティルツヒェン』
ゴールド・アート ブローチ
イギリス 1870年頃
SOLD
ストーンカメオ エンジェル ブローチ アンティーク『ハッピー・エンジェル』
ストーンカメオ&フェザーパール ブローチ
フランス? 1870〜1880年代
¥1,200,000-(税込10%)
絵画のようなバラのフローレンスモザイクのアンティーク・ブローチ『薔薇』
ピエトラドュラ ブローチ
イタリア 1860年頃
SOLD

デイ・ジュエリーは宝石ではなく、芸術性の高さで競います。それはつまり持ち主の教養、知性、センスが競争のポイントとなるということです。

このような宝物を着用していた古の王侯貴族は、今で言う『ビリオネア(資産10億ドル / 約1370億円)のような存在です。「このジュエリー、1億円もしたのよ!ドヤアァァ!!」、「あら、これは3億よ!勝ったわ、おほほ!!」というような、小金持ちの成金のようなドヤり合いはフィットしません。お金は腐るほど持っており、お金さえ出せば買えるようなものは、自慢するポイントにはなり得ないのです。そこで必然的に重要になるのが、個人の能力でした。

デイ・ジュエリーは優しい雰囲気の天然真珠であったり、金細工やカメオ、ローマンモザイクやピエトラデュラ、エナメルなどの芸術的な要素が高いものを主役にして作られます。素材だけで判断する成金嗜好の人には、理解できません。古の王侯貴族でも理解できる人、そうでない人が存在し、造形の深さやそのセンスが競うポイントとなりました。ある意味、ナイト・ジュエリーより奥深く面白い世界ですよね。

芸術性の高い正装用デイ・ジュエリー
白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)とカンティーユのピアス(アンティークジュエリー)ピエトラドュラ ピアス
イタリア 1830〜1840年
HERITAGEコレクション
白大理石を使った珍しいミュージアムピースのイタリアのフローレンスモザイク(ピエトラドュラ)のアンティーク・バングルピエトラドュラ バングル
イタリア 1860年頃
HERITAGEコレクション

私がこの世界に入るきっかけとなった運命のアンティークジュエリーも、芸術性の高さで競うデイ・ジュエリーでした。

現代ジュエリーが全く綺麗だと思えず、そもそもジュエリーを1つも持っていませんでした。Gen曰く、まずはそれなりの宝石が付いているものから入り、分かってくるようになると、このような芸術系のアンティークジュエリーも理解できるようになる人もいるけれど、それでもそのような人は滅多にいないそうです。
「宝石を(ほぼ)使っていないのに、若いのに最初からこの価格帯のこのようなジュエリーを選ぶなんて!!」と仰天し、その夜、思わず仕入元のロンドンのディーラーに電話して驚きを伝えたそうです。

私にとっては手に入るチャンスがあることが大幸運であり、買って当然という認識でした。至高の芸術が、世に知られず眠っている。それがデイ・ジュエリーと言えるかもしれません。人の人生をも変える力を持つ。本当に面白い世界ですね。

王侯貴族の正装用ジュエリーの最高級品
日中用 夜用
蛇で自害するクレオパトラのストーンカメオ・ペンダント
『悲劇の女王クレオパトラ』
ストーン・カメオ ペンダント
カメオ:イタリア or フランス 19世紀初期
フレーム:イギリス 19世紀初期
SOLD
最高級ライトニングリッジ産ブラックオパールのエドワーディアン・ペンダント
『MIRACLE』
エドワーディアン ブラックオパール ペンダント
イギリス 1905〜1915年頃
¥10,000,000-(税込10%)

現代の感覚だと「どちらを選ぶ?」、「どちらが好み?」という感覚になりがちですが、どちらも持つ必要があったのが古の王侯貴族です。それぞれ目指すべき所が違っており、日中用、夜用の双方に最高級品が存在します。喪服用ジュエリー、スポーティング・ジュエリーなど、TPOに合わせた各々のジュエリーにも最高級品が存在します。ジャンル違いなのに、どれが高級かを議論すること自体がナンセンスなのです。

1-2. 日本人にも普段使いしやすい貴族の日常用ジュエリー

モード王女(14歳頃)、ルイーズ王女(16歳頃)、ヴィクトリア王女(15歳頃)(1883年)

日常用ジュエリーはデイ・ジュエリーだったりもします。但し正装用ほど芸術性は詰め込まず、あくまでも日常使いしやすいデザインになっています。品が良く清楚。小ぶりで主張しすぎず普段着に馴染み、それでいて上流階級らしい高貴さは失わず、教養やセンスもきちんと伝わってくるデザイン。

日本人女性にとっては、この上流階級のために作られた日常用ジュエリーが最も取り入れやすいと思います。特に20世紀の上流階級の日常用ジュエリーは、現代のファッションに違和感なく取り入れやすいと思います。

1-2-1. アンティークの日常用ジュエリー

日常用のジュエリーを着用する1880年代頃の上流階級
日本の上流階級 ヨーロッパの上流階級
PD公爵夫人 大山捨松(1860−1919年)1880年代? イギリス王太子妃アレクサンドラ・オブ・デンマークとその家族(1880年)
【出典】Royal Collection Trust / The Prince and Princess of Wales with their shildren, 1880 [in Portraits of Royal Children Vol.26 1880] / © Her Majesty Queen Elizabeth II 2020 / Adapted

19世紀後期から20世紀初期にかけては世界の中心、大英帝国のアレクサンドラ妃が世界の王侯貴族のファッションリーダーでした。アレクサンドラ妃は首元に瘰癧の手術痕があり、それをカバーするために首元の詰まった服を着用し、それが王侯貴族に流行していました。

その首元に着用するジュエリーとして、小ぶりのブローチやバー・ブローチが流行しました。この時代は産業革命によって台頭した中産階級もジュエリーを着けるようになった時代なので、アンティークジュエリー市場にも上流階級用の高級品と、庶民用の安物が混在しています。圧倒的大多数であった、庶民用の安物が大半です。HERITAGE以外のお店でご覧になる場合は、そのような庶民用のジュエリーが殆どなはずです。

庶民用の安物は素材も作りも良くないですが、まずデザインが面白くありません。

1-2-2. 庶民用の量産の安物ジュエリーの特徴

3Dプリンタの一例 "Airwolf 3d Printer" ©Eva Wolf(28 May 2012)/Adapted/CC BY-SA 3.0

以前、3Dプリンタが話題になりました。

デジタルファブリケーションで何でも自分好みのものをデザインし、世界で1つだけのものを制作できるとの謳い文句でした。

その後、社会が変化したかと言えば、全くそのような印象はありません。

"自分で好きなものを自由にデザインできる"

何となく聞こえは良いですが、実際にそれをやろうとした場合、どれくらいの人たちが上手く具現化できるでしょうか。

経験のない素人が、デザインの勉強もせずにいきなりゼロから優れてデザインを生み出そうとしても、普通はうまくいきません。無理です。プロのデザイナーにとっても難しいことなのですから。流行するほどのヒット商品を作り出すのが、いかに難しいことかを想像すれば分かることです。

オーダーメイドで何かを作るにしても、パターン・オーダーがせいぜいです。元となる優れたデザインが存在し、そこにちょっとオリジナルで変更を加えたり、配色を変える程度が現実的です。

結局自分でやろうとしても満足できるものはできず、プロがデザインした既製品を買った方が楽して良いデザインの物が手に入り、しかも結局はトータルコストとして安上がりであるという結論に至るはずです。デジタルファブリケーションが流行後に定番化しなかったのは、当然と言えば当然なのです。

卸しのメーカーのカタログ(アメリカ 19世紀後期)

昔の人も同じです。そういうわけで、庶民は大量生産の既製品から選ぶことになります。販売元は儲けることが一番の目的です。利益の最大化を考えた場合、玄人向けの優れたデザインではなく、なるべく多くの人に訴求できるデザインを目指すことになります。万人受けを狙った、当たり障りのないフォーカスのボケたデザインとなります。安物はどれを見ても同じようにしか見えない、似たり寄ったりのものが多いのはこのような理由に依ります。

1-2-3. 上流階級のジュエリーのデザイン

フランス王妃マリー・アントワネット(1755-1793年)

古の王侯貴族を、現代の庶民の感覚で想像してはいけません。

同じ人間とは思えないくらい様々な才能に恵まれた人たちがおり、その人たちが新しい流行と、現代にまで続く普遍の文化を創造しました。

稀代のセンスを持つとして特に有名だったのが、フランス王妃マリー・アントワネットだったと言えるでしょう。

王妃の村里 "Vue aérienne du domaine de Versailles par ToucanWings - Creative Commons By Sa 3.0 - 037 " ©ToucanWings(19 August 2013, 19:25:10)/Adapted/CC BY-SA 3.0

マリー・アントワネットは城を新築することはありませんでしたが、専門家との入念な打ち合わせを経て、当時最先端だったイギリス式庭園を取り入れた"理想の農村集落"、『王妃の村里』を構想・具現化しています。ここでは子供たちに、今で言う『食育』も行っていました。

ドレス ジュエリー
ローズ・ベルタン(1747-1813年) ジョージアンの葡萄モチーフのREGARDのロケット・ペンダント『REGARD』
ジョージアン REGARD ロケット・ペンダント
イギリス 1820年頃
SOLD

ドレス等に関しては、『ファッション大臣』と呼ばれるほど重用された平民出身の仕立屋ローズ・ベルタンが有名です。トータルで、優れたセンスのファッションを提案できたそうです。即位前の1772年、マリー・アントワネットが17歳の時からの仲で、8歳年上だったベルタンは頼れるお姉さんという感じだったかもしれません。

1774年にルイ16世がフランス王に即位すると、戴冠式直後からベルタンは週2回のペースで最新の作品を女王に提案するようになりました。細部に至るまでの2人の情熱は相当なもので、打ち合わせには毎回何時間も費やしたそうです。

現代アートのせいで勘違いする人も多いですが、天才は直感で瞬間的に優れたデザインを創るわけではありません。天賦の才を持つ人物であっても、内部で頭脳をフル回転し、外部に様々なインスピレーションを求め、それを上手くスパークさせて統合することで新しい優れたデザインを生み出していました。

現代はその道の専門家をないがしろにする傾向がありますが、才能と努力をそれだけに集中させた専門家に勝るという考え方は傲慢です。ジュエリーに関しても、きちんと信頼できる専門家と打ち合わせをして、新しいものを創っていました。

宝石の頭文字で秘密のメッセージを伝えるアクロスティック・ジュエリーは、現代でも人気があります。これもマリー・アントワネットが発祥で、フランスのジュエリー・デザイナー、ジャン=バティスト・メレリオ(1765-1850年)と共に編み出したと言われています。

ハープを奏でる王妃マリー・アントワネット(1777年、22歳頃)

マリー・アントワネットが取り立てて有名なのは、上流階級であっても普通はここまで傑出したセンスを持っていなかったからでしょう。

多くの人は、ある程度は専門家にお任せしていたと想像します。

オリジナリティ溢れるものであっても、それが優れていなければ賞賛の対象にはなりません。

気を衒っただけの悪趣味なものであれば誰も見向きもせず、真似しません。真似しなければ流行にもならず、人知れず消え去るのみです。新しいデザインを生み出すのは本当に大変で、才能が必要なことなのです。

ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(1819-1861年)21歳頃、1840年頃

リージェンシー・スタイルで有名なイギリス王ジョージ4世も優れていましたが、ヴィクトリア女王の夫だったアルバート王配もその教養の深さは社交界でも知られており、別荘の改築デザインに加えて、ジュエリー・デザインまでできる人物でした。

アルバート王配がヴィクトリア女王のためにデザインしたサファイアのティアラ(1842年)
V&A美術館 【引用】V&A museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted

1840年にヴィクトリア女王は結婚していますが、結婚して間もない1842年にアルバート王配がこのティアラをデザインしています。可動式になっており、通常のティアラとしてだけでなく、輪を小さくしてコロネットのように着用することもできます。ヴィクトリア女王の着用の仕方も、なかなか面白いですよね。

オリジナルのオリエンタル・サークレット・ティアラを着けたヴィクトリア女王(1853年頃)

1853年にはオリエンタル・サークレット・ティアラも、妻ヴィクトリア女王のためにデザインしています。

最初の万博、1851年のロンドン万国博覧会でオリエンタル・デザインに影響を受け、大好きだったオパールを使ってデザインしたものです。

オリエンタル・サークレット・ティアラ(1853年)
【出典】Royal Collection Trust / The oriental tiara © Her Majesty Queen Elizabeth II 2021

受け継いだアレクサンドラ妃によって、今はオパールからルビーに宝石が変わっています。1850年から1870年にかけては大英帝国が世界の工場として最盛期を迎え、『パクス・ブリタニカ』を実現した時代です。

南アフリカでダイヤモンド・ラッシュが始まる1869年以前にも関わらず、とんでもなくゴージャスなティアラです。でも、宝石頼りになるのではなく、独特のオリエンタルなデザインがアルバート王配のデザイン・センスを感じさせますね。

ジュエリーの場合、素材を熟知して強度などの構造計算もできないと、具現可能なデザインができません。

優れたデザインのジュエリーを身につけている。知性や教養、センスを重要視する社交界に於いて、それがいかにステータスとなるか、なんとなくご想像いただけるのではないでしょうか。

1-2-4. 19世紀後期の上流階級の日常用ジュエリー

スズランのシードパール&ターコイズカラー・エナメルのブローチ『Lily of the valley』
スズラン ブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD
キューピッドの翼がモチーフのルビー・ウイング・ブローチ『愛を届ける翼』
ウイング ブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD

19世紀後期の上流階級の日常用のジュエリーは、どれも持ち主を想像できるくらい個性に満ちています。似たものなど1つもなく、甲乙を付ける対象ではなく、自分との相性の良さや好みで選ぶという感じです。

ケルティック・スタイル アーツ&クラフツ バー・ブローチ『ケルトの聖火』
ケルティック・スタイル アーツ&クラフツ ブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD
オパールセント・エナメル フラワー ブローチ アンティーク・ジュエリー『夢でみた花』
オパールセント・エナメル ブローチ
アメリカ 1900年頃
SOLD

日常用ジュエリーとは言っても、上流階級の日常用ジュエリーは惰性で着けるものではありません。その身分に相応しい者として、日常すらも気品に満ちた佇まいと行いに努めます。

現代の私たちにとっては適当な普段着に着けるというより、ちょっと特別な時にコーディネートできるくらい華やかで素敵ですよね♪

見ているだけでにっこり豊かな気持ちになれる、小さな宝物です♪♪

1-2-5. 20世紀初期の上流階級の日常用ジュエリー

バー・ブローチの時代ごとの変化
天然真珠を使ったエトルスカンスタイルのゴールドのバー・ブローチヴィクトリアン後期

19世紀後半から20世紀前半にかけて、ヨーロッパ・デザインは大きく変化していきました。開国によって流入した、日本美術の影響によるものです。

19世紀のヴィクトリアンまでは、いかにも手間をかけたゴージャス感が、いかにもオーソドックスなヨーロピアン・デザインらしさを感じさせます。

日本美術から取り込んだ大きなものとして、"シンプル・イズ・ベスト"があります。

不要なものを極限まで削ぎ落とした機能美的なもの、"何もない空間"をデザインに取り入れた空間美的なものだったりします。

アールデコ初期にかけて大きく進化し、最終的にはモダニズムやインターナショナル・スタイルへとつながっていきますが、そこでピークを迎えつつ、戦後はコストカットのために必要なものまで削ぎ落とし始め、退化して現代に至ります。

レイト・ヴィクトリアンからエドワーディアンにかけてのトランジション・ジュエリーのバーブローチヴィクトリアン〜エドワーディアンの過渡期
エドワーディアンからアールデコにかけての過渡期の天然真珠のバー・ブローチエドワーディアン〜アールデコの過渡期
アールデコのカリブレカット・ルビーのバー・ブローチアールデコ前期
アールデコのマーキーズカット・ダイヤモンドのバー・ブローチアールデコ後期
ネグリジェ・ネックレスの時代ごとの変化
レイト・ヴィクトリアン エドワーディアン アールデコ前期
オパール ネグリジェ・ネックレス ネックレス アンティーク・ジュエリー『Rainbow World』
イギリス 1890年頃
SOLD
ペリドット ネグリジェ・ネックレス アンティークジュエリー『シンプルイズベスト』
イギリス 1910年頃
SOLD
カラー天然真珠のエドワーディアンのネグリジェネックレスグレー&ホワイト天然真珠 ネックレス
イギリス 1910年頃
SOLD 
ダイヤモンドのネグリジェネックレスダイヤモンド ネックレス
オーストリア 1920年代
SOLD

あくまでも傾向としてですが、20世紀に入り、時代が降るほど現代ジュエリーにデザインが近づいていくため、より身近に日常で使いやすい印象となるのではないでしょうか。

ネグリジェ・ネックレスはその名の通り、日常着に合わせるための日常用のジュエリーとして作られています。「こんなに高価で華やかなジュエリーを日常で身につけていたの?」と驚くほどですが、古の上流階級はそのような人たちだったという時代の生き証人とも言えますね。思わず溜息が出ます。

現代人にコーディネートしやすい20世紀初期のハイジュエリー
エドワーディアン アールデコ前期
エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー『Shining White』
ダイヤモンド ネックレス
イギリス or オーストリア 1910年頃
SOLD
メアンダー模様 ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー ギリシャ雷文 アールデコ プラチナ『ETERNITY』
ダイヤモンド ネックレス
イギリス 1920年代
SOLD
アールデコのモンタナサファイア&天然真珠のネックレス アンティーク・ジュエリー『天空のオルゴールメリー』
天然真珠&サファイア ネックレス
イギリス 1920年頃
¥1,230,000-(税込10%)

特別にオーダーして作られたものなので1つ1つに魅力的な個性はありますが、日本美術の影響をより取り入れていることもあって、日本人にも違和感なく合わせられるデザインが20世紀初期のジュエリーは多いです。

王侯貴族が完全に力を失っていった1930年代、アールデコ後期になると、手の込んだことができなくなります。コストカットのための簡素化により、ハイジュエリーも凝ったデザインのものが市場から急速に消えていきます。個性は消え失せ、現代ジュエリーのようなつまらない印象となっていきます。

エドワーディアンとアールデコ前期に関してはデザインに大きな違いはなく、ゴールドバックかオール・プラチナの作りかの違い程度です。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

上流階級のために作られたジュエリーだからこそ、素材も作りも上質。

さらにデザインも凝っていながら、ヴィクトリアンほど仰々しくなく日常使いもしやすい。

20世紀初期の王侯貴族のための日常用ジュエリーは、使いやすくてとてもオススメなんです!♪

19世紀後半から王侯貴族が急速に力を失っていくため、数が極めて限定されるのが難点ですが・・。

2. 貴族が急速に力を失った時代の貴重な最高級ピアス

2-1. 実は全く異なる現代と古のイギリス貴族

2-1-1. 日本人にはイメージが難しい昔の『貴族』

貴族。

言葉自体は、現代でも耳にします。しかしながら具体的にどういう存在なのか、しっかりと理解している自身はありますか?この仕事を始める以前、私は何となくのボヤけたイメージしかありませんでした。

日本にも少し前までは貴族が存在しました。

今は象徴としての天皇陛下と共に、皇族のみが存在する形になっていますが、機能的には貴族が存在した時代とはまるで違います。本来、このようなポツンと独立した形で君主的な存在が成立することはありません。君主の周囲に高位の貴族が存在し、さらにその周囲に貴族が存在し、全体として上流階級を形成します。

立場あるものの責務として政治や外交を司ったり、学芸の新興を担ったりします。

紫式部(生没年不詳:生誕970-978年、1019年までは存命)

日本は有名な『平安貴族』を始め、長年貴族が存在していました。

そのような中で、ヨーロッパに倣った貴族制度で運用された近代の日本貴族『華族』がヨーロッパ貴族とイメージは近いです。

PD1889/明治22年の『憲法発布式』

開国して明治政府が発足した後、1869(明治2)年から1947(昭和22)年までの約78年間存在しました。

この期間に存在した貴族の総数は1,011家と、極めて限られていました。

大英帝国が世界の中心として力があったこと、1870年に普仏戦争で皇帝ナポレオン3世が捕虜となったことで廃位され、フランスは共和政に移行して貴族階級がなくなったことからもご想像いただける通り、華族は古のイギリス貴族をイメージすると良いです。

日本国憲法原本「御名御璽と大臣の副署」(2頁目)(1946/昭和21年11月3日)

敗戦後の1946(昭和21)年11月3日、法の下の平等、貴族制度の禁止、栄典への特権付与否定を定めた日本国憲法が公布されました。翌1947(昭和22)年5月3日に施行され、華族制度は廃止となりました。こどもの日が誕生日の、Genが生まれる2日前のことです。

正装せる臨時首相代理 幣原喜重郎 男爵(1872-1951年)

Genですら、貴族が存在した時代は未経験です。

しばらくは元貴族(華族)、元士族などの言葉が残り、お見合いが主流だった頃まではある程度、貴賤結婚も避けられていたでしょう。

時の流れと共に記憶も印象も消え去り、現代に至ります。

2-1-2. 状況が極めて分かりにくいイギリス貴族

イギリスの貴族院(2011年) "House of Lords 2011" ©UK government(9 Septenber 2011, 14:43:34)/OGL 3

憲法によって貴族が廃止された日本と違い、イギリスは現代まで貴族が存続しています。

お金は昔ほど持っていなかったとしても、代々続いていて貴族ならではの教養やマナー、精神などはしっかり引き継がれているものと、何となく想像されている方も多いかもしれません。

しかしながら実状は全く違います。イギリスの状況はとても分かりにくいです。目に見える形で貴族が廃止された日本と異なり、見えないような形で長い年月をかけて力を削がれていったからこそと言え、それによって誤解している人が多い現状と言えるでしょう。

2-1-3. 複雑に要因が絡むイギリス貴族の衰退

鉄道王ら資本家たちを運ぶ労働者(雑誌パック 1883.2.7号掲載の風刺画)

イギリス貴族の衰退には、各種要因が複雑に絡んでいます。農業革命や産業革命に伴う環境変化、アメリカの新興富裕層の台頭、第一次世界大戦と第二次世界大戦に伴う爵位継承者の死亡など、様々です。

全てを詳細にご説明するととんでもなく膨大になるため、今回は貴族の数と内訳に着目して見ていきましょう。

2-1-4. 貴族の数と富と権力の分散

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール『アルプスの溶けない氷』
アルプス産ロッククリスタル 回転式3面フォブシール
イギリス 18世紀後半
¥1,400,000-(税込10%)

大陸貴族と異なり、イギリス貴族は別格視されます。その理由は稀少性と、それに伴う圧倒的な財力です。

これはイギリス貴族がグランドツアーで買ってきたアルプスのロッククリスタルに、そこで見た絶景を彫刻させたとみられるスペシャル・オーダーの回転式3面フォブシールです。

グランドツアーの内容や、そこから生まれたこのような宝物を見るだけでも、イギリス貴族の圧倒的な財力が想像できます。

一方で、革命によって滅びたフランス貴族は"貧乏人に毛が生えた程度"の者もいたと言われます。

18世紀末頃のイギリス貴族とフランス貴族の数

どういうことかと言えば、その人数の違いを見ると分かってきます。

1789年のフランス革命発生時点で、フランス貴族は40万人もいました。当時の人口を考慮すると、66人に1人は貴族がいました。その親族らも貴族として振る舞うと考えれば、クラスに最低でも1人は貴族がいるという感じでしょうか。会いたくても会えない存在ではなく、そこら辺に普通にいる存在です。

一方、イギリス貴族は270家しかありませんでした。人口1,600万人の中での数ですから、極めて限られた特権階級と言えます。フランス貴族の中で宮廷貴族に絞ってもまだ4,000家、イギリス貴族の15倍近くも存在します。

単純に国家全体の財産が同じで、均等に割り振ると考えた場合、270家で分けるのと、4,000家で分けるのではまるで財力が異なります。15倍の差があるというのは、資産150億円の人と資産10億円の人という違いになります。15億円と1億円の違いと見ても良いです。フランス貴族の場合は、この他に40万人もの"貴族"という身分の人がいました。私の家は貴族だったと言われても、いまいち面白いことが期待できないのは、このような稀少価値の無さがあるからです。

アンシャンレジームを風刺した絵(1789年)

それにしても随分な人数の違いですよね。

この違いが何故生じたのかと言えば、相続システムの違いによってでした。

ヨーロッパ大陸貴族は兄弟全員が爵位や財産の継承対象だったことに対し、イギリス貴族は嫡男・長子1人のみでした。養子も不可という徹底ぶりです。

運用されて間もない頃はさほど大きな違いにはなりませんが、時代が降るごとに大きな差が生じてくるシステムです。

これは、両方のシステムを経験した近代日本人には感覚的に想像しやすいかもしれません。

新皇居於テ正殿憲法発布式之図(安達吟光 1889/明治22年)

近代の日本では家制度が運用され、家督相続を行ってきました。1898(明治31)年に明治憲法下の民法で規定され、1947年5月2日までの約49年間、戸主のみが全ての財産を相続していました。ちょっと前までは「長男の嫁は〜」、なんて話もあったりしましたね。戸主となる長男のみが土地なども全て相続し、他の兄弟姉妹には取り分はありません。

現代は基本的には配偶者が1/2、子供たちが1/2を均等に分けるという形になっています。そうなってからおよそ76年(2023年現在)が経過しました。一体どうなったでしょうか・・。

長男が全てを継承していた時代は、土地もそのままの形で受け継がれていました。76年も経過すれば少なくても2、3回は相続が行われています。子供の数が少なくなったとは言え、一人っ子で全てを相続するというのは大多数ではないでしょう。分割相続によって土地も切り売りされたりして行きました。

2005年、ソング・オブ・ロシアの頃から今の市ヶ谷のアトリエにいます。およそ18年ほどですが、たったそれだけの期間でもGen曰く、大きな土地が分割されて、2建の家が狭く建てられた所が増えているそうです。高すぎて売れず、単価を抑えるために分割して売ったケースもあると想像しますが、いずれにせよ土地もお金も、あらゆる財産が分散する一方です。

パイは限られています。昔は金持ちが1人、その他の大勢は文なし。現代は1人1人が微妙な規模の財産を均等に持っているという感じでしょうか。今はその少ないパイを奪い合うような現象も起きています。『争続』や『争族』なんて言葉まで生まれてしまう始末ですね。

格差があった方が良いのか、全員が押し並べて個性なく同じという方が良いのか、それは私には分かりません。ただ、昔は"持てる者"である金持ちが徳を以って動いた場合、文化や産業新興のキーパーソンとして機能できたということは言えます。

イギリスのマウントノリス伯爵の仕事用フォブシール
イングランドのアングルシー伯爵やアイルランドのマントノリス伯爵を歴任したアンズリー家由来の伯爵家の紋章シール『アンズリー家の伯爵紋章』
ジョージアン レッドジャスパー フォブシール
イギリス 19世紀初期
¥1,230,000-(税込10%)
アングルシー伯爵のインタリオ

莫大な富を所有し、お金の心配が必要なかったイギリス貴族だったからこそ、仕事用のフォブシールにも好きなだけ美意識を行き渡らせることができます。

機能性だけを追う現代では想像もできないほどの、贅沢なお金のかけ方です。

アレイ城(1960年に取り壊し) 【引用】LOST HERITAGE / ARLEY CASTLE ©lost heritage

『アンズリー家の伯爵紋章』の持ち主は、何しろこのようなお城に住んでいたほどの人物でしたからね。これだけのお城を維持するだけでも、何人もの人間やその他にかかる費用が必要となります。1度の出費ではなく、ランニングコストとしてずっと費用がかかり続けるわけですが、それを気にする必要もないほど財力があったのがイギリス貴族でした。

ただ、相続対象が嫡男・長子のみで親族を含めた養子を一切許可しないというシステムにより、1844年にアンズリー家は断絶しています。だからこそ、こうして伯爵家由来の宝物が現代の日本に存在できるわけです。

厳しいシステムによって、イギリス貴族の稀少性と財力・権力が長年維持できていたとも言えます。

2-1-5. イギリス貴族の数

  年代 世襲貴族 ブリテン諸島の人口
王侯貴族の時代 中世末〜16世紀 50家 〜625万人
17世紀末 170家 925万人
18世紀末 270家 1,600万人
1830年代 350家 〜2,800万人
1870年代 400家 3,400万人
1885年 450家 〜4,200万人
大衆の時代 1999年 750家 英国 5,868万人
2020年 814家 英国 6,708万人
2021年 809家 英国 6,728万人
2023年 807家 英国 6,812万人

イギリス貴族の数を見てみると、19世紀に入ってから一気に増えています。大陸貴族と比較すると、それほど状況が変化するような増え方には見えないかもしれません。増えた後の現代でも、それほど多いとは感じない数です。しかしながら実は、中身が大きく変容しています。

叙爵は、時代ごとの思惑が反映されます。古い時代は、時の君主が地位や政権を安定させることが主な目的でした。軍功を上げた者、政治や外交などで手腕を発揮した者などが主な対象でした。

19世紀後半は、かなり様子が違ってきます。

2-1-6. 新興勢力が台頭した19世紀後半

緑色のゴム長靴を着用したハディントン伯爵
【引用】『英国貴族の暮らし』(田中亮三 著 2009年)河出書房新社、p.59

産業革命より前の時代は、食物を生み出す土地を所有することが財産につながりました。

伝統的に、イギリス貴族は大地主でした。

左は緑色のゴム長靴を履いたハディントン伯爵です。所領の牧草地や農地の視察なども貴族にとっては大切な仕事で、いかにも伝統的なイギリス貴族らしい佇まいと言えます。

しかしながら18世紀後半頃からの産業革命により、状況が大きく変化しました。人を雇って大量生産・大量販売によって大金を稼ぎ出す産業資本家が、庶民層から生まれました。いわゆる"台頭する中産階級"であり、『成金』や『新興富裕層』と呼ばれる存在です。

この状況は、アンティークジュエリー市場にも如実に反映されています。

ブルー ギロッシュエナメル ペンダント 『忘れな草』『忘れな草』
ブルー・ギロッシュエナメル ペンダント
フランス? 18世紀後期(1780〜1800年頃)
¥1,400,000-(税込10%)

ジュエリーを身につけるのが伝統的な貴族だけだった19世紀初期のジョージアン頃までは、アンティークジュエリー市場も貴族らしい高級品しか出てきません(※人気が高いため、明らかにおかしいジョージアン風の安っぽい偽物は多く出回っています)。

教養と知性を感じるセンスの良いデザイン、高価な素材、徹底した作りの良さなどが特徴です。

ジョージアン 竪琴 ブローチ アンティークジュエリー 『愛のメロディ』
ジョージアン 竪琴 ブローチ
イギリス 1826年
SOLD

ジョージアン・ジュエリーは本当に魅力が強く、たくさんご紹介したいところです。

でも、ごく僅かしか市場で見ることはできません。

ご説明した通り富と権力、教養と知性を独占していた本物の貴族は極めて少数です。

市場の大半は、圧倒的多数となる庶民用に作られた安物や成金ジュエリーです。

それらが市場に幅を利かせ始めるのがミッド・ヴィクトリアン以降です。

ミッド・ヴィクトリアンの典型的な成金ジュエリー

産業革命によって台頭した中産階級が財を成し、衣食住が満ち足り、新興成金としてジュエリーに手を出し始めたのがミッド・ヴィクトリアンと言えます。それまでジュエリーを持っていなかったからこその、自己顕示欲が強く伝わってくるジュエリーですね。

高度経済成長からバブル期にかけての、日本の一部の成金嗜好の庶民にはフィットしたかもしれませんが、Genも私もこのようなセンスも教養も感じられないハリボテ的なドヤ・ジュエリーは好きではありませんし、本来、日本人女性が好むものでもないと思います。

レイト・ヴィクトリアンの庶民用の安物ジュエリー

時代が降ると、イギリスではさらに庶民もジュエリーを買うようになります。普通のアンティークジュエリー・ショップで取り扱っているのは、そのようなレイト・ヴィクトリアンの大衆用の量産ジュエリーです。似たり寄ったりの個性のないデザインが特徴です。それでもGenや私から見ると、「うわっ!!?」と感じるほど高値で販売されていたりします。高いから高級、高いから上流階級のジュエリーというわけではないことです(笑)

大英帝国(1886年)

この辺りのイギリスの経済活動の変化は、大英帝国が世界の工場として最盛期を迎えた『パクス・ブリタニカ』の時代と連動してご想像いただけるでしょう。Pax Britannica、『イギリスの平和』を意味するラテン語です。ローマ帝国の黄金期『パクス・ロマーナ(ローマの平和)』に倣った名称です。

大英帝国の最盛期は19世紀半ば頃から20世紀初頭までの期間ですが、特に『世界の工場』と呼ばれた1850年頃から1870年頃を指してパクス・ブリタニカと言うことが多いようです。ミッド・ヴィクトリアンに相当します。イギリスは特にこの時期、産業革命による卓抜した経済力と軍事力を背景に、自由貿易や植民地化を巧みに使い分けて覇権国家として栄えました。

この後、レイト・ヴィクトリアンにかけて庶民まで広く富が行き渡るわけですね。

2-1-7. 貴族院で新興勢力が台頭した19世紀後期

イギリス王チャールズ1世(1600-1649年)

古い時代は武功を上げた者、優れた政治や外交手腕を発揮した者が主な叙爵対象でした。

肖像画からも伝わってくる通り、戦いの時代は男らしく強いこと、国に大きな繁栄をもたらすことができる者こそが正義でした。

19世紀後期以降に功績を上げて叙爵したイギリス貴族
1892年
-科学-
1896年
-芸術-
1931年
-科学-
初代ケルヴィン男爵ウィリアム・トムソン(1824-1907年) PD初代ストレットンのレイトン男爵フレデリック・レイトン(1830-1896年)1880年の自画像 PD初代ネルソンのラザフォード男爵アーネスト・ラザフォード(1871-1937年)

近代は、昔とは全く異なるタイプの人々が叙爵するようになりました。「どうしたら貴族になれるのか?」でご紹介した通り、19世紀後半から20世紀前半にかけては『科学の時代』となりました。このため、ケルヴィン男爵やネルソンのラザフォード男爵のように科学の功績で叙爵した人たちがいます。貴族最短記録を持つ人物としても有名なストレットンのレイトン男爵は芸術の功績です。

このように学芸に関する功績の場合は、さほど政治や金儲けに関する強い野心は感じませんが、19世紀後半から台頭し始めたのは主に近代に入って貿易や商業で財を成した成金たちでした。世界の工場として大量生産し、植民地政策もうまく噛み合ってボロ儲けした新興勢力です。彼らが貴族に叙せられ、貴族院で幅を利かせるようになっていきました。

2-1-8. 貴族院を支配し始めた新興勢力

2-1-8-1. 時間をかけながらイギリスで力を増したロスチャイルド家
マイアー・アムシェル・ロートシルトと5人の息子たち

-ドイツの銀行家-
三男
-イギリス担当-
五男
-フランス担当-
マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812年) ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777-1836年) ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド(1792-1868年)

分かりやすい事例としては、ロスチャイルド家があります。マイアー・アムシェル・ロートシルトと5人の息子たちで知られています。フランス革命に端を発する混乱期からナポレオン戦争の時代まで、ヨーロッパ各国に散った5人の息子たちの連携によって巨万の財を成しています。

三男のネイサン・メイアー・ロスチャイルドがイギリス担当でした。渡英は1798年、21歳の時でした。移住先は繊維業の中心地マンチェスターです。世界で先がけて始まった産業革命によって大量生産されるようになった綿製品を安く大量に仕入れ、フランス革命以来流通が混乱して綿製品が高騰していた祖国ドイツに送り、莫大な利益を上げました。中間マージン節約のため、既製品の買い付けのみならず綿糸や染色業にも手を広げ、綿糸業全体を扱うになっていきました。

まあでも元は銀行業を生業とする家の出身ですから、これが最終目標ではありませんね。やがて綿糸業の利益を元手に金融業を手掛けるようになりました。1804年にはロンドンに移住し、1811年にN・M・ロスチャイルド&サンズを興し、為替手形貿易の銀行家に転じました。

ナポレオン戦争による金融パニックによって金が爆騰した際は、1810年に英国議会に設置された地金委員会で意見を述べる29人の専門家の1人として選ばれ、「非常に公明な大陸の商人」で慎み深い某氏として暗躍したりもしています。

御用銀行家のマイアー・アムシェル・ロートシルトに財産を預けるヘッセン選帝侯

5人兄弟の父マイアーが言ったとされる有名な言葉として、「Infiltration instead of invasion(侵略ではなく浸潤を).」があります。

この手法は一般人ならば想定しないような時間はかかるものの、誰からも気づかれぬまま不可逆かつ確実に宿願を成就できる、実に見事なやり方です。

一般人ならば想定しないような時間というのは、世代を超えての想定が平気で行われるからです。普通は上手くいったことを自分で確認したいので、自分が生きている間を想定します。彼らは私のような凡人とは違うようです(笑)

イギリスのロスチャイルド家
始祖
-英国に移住-

-庶民院議員-

-庶民院→貴族院議員-
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777-1836年) ライオネル・ド・ロスチャイルド(1808-1879年) 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年)

「侵略ではなく浸潤を。」
まさにこの言葉通りに、ロスチャイルド家はイギリスの貴族院を支配していったようです。

1836年にネイサンが死去すると、銀行業は27歳だった長男ライオネルが継ぎました。カリスマ創業者が興した同族経営の店や会社は、通常は2代目で失速し、3代目で潰れるという印象があります。しかしながら、ライオネルも極めて優秀だったようです。

国家を支配しようとした場合、必要なのは莫大な財力と政治的な権力です。財力は準備が整っています。政治的な権力はお金さえあれば買収等が可能ですが、それをやるにしてもある程度の足がかりは必要です。この時代は、イギリスを支配するのは貴族階級でした。まずは貴族院への浸潤を目指しました。

父ネイサンは他の4人の兄弟と共に、1822年にオーストリア帝国のハプスブルク家から男爵位と紋章が授与されていました。それを受け継いでいたため、ライオネルも1838年に男爵の称号を帯びる勅許を得ました。ただ、これはあくまでもオーストリアの男爵位であり、イギリスではありません。

貴族院を目指すルートとして、まず叙爵して貴族院の議席を得るルートがあります。また、先に庶民院の議席を得て、その後に爵位を得て貴族院に鞍替えするルートも考えられます。いきなり叙爵するのは難しいです。まず庶民院を目指すことにしました。

AlanMc permittedアイルランドのジャガイモ飢饉(1845-1849年)の追悼碑

色々と素地を作っていったはずですが、目立つものとしてはアイルランドのジャガイモ飢饉での義援金調達です。1847年に800万ポンドを調達しています。庶民院の議席を得るためには、選挙権を持つ庶民からの支持が必要です。

ジャガイモ飢饉では約100万人が餓死や病死し、アイルランドの人々はアメリカやカナダへの移住を余儀なくされました。アイルランドの人口は少なくとも20〜25%減少し、10〜20%が島外に移住したとされます。

日本の人口1億2,463万人(2022年)で換算すると、2,500〜3,100万人の人口減少に相当します。東京都の人口が1,396万人(2021年)で、首都圏の総人口は4,434万人(2020年)です。東京都は丸ごと人がいなくなり、首都圏で見てもその半数以上の人がいなくなったのと同じ感じです。

40人学級ならば、クラスの8〜10人がいなくなってしまったのと同じですね。それほど深刻な事態だと、生きている人ですら相当困難な状況にあったことは想像に難くありません。

ジャガイモ飢饉は特に1847年は状況が最も酷かったそうで、『暗黒の47年(Black '47)』とも言われています。ここに"持てる者"がタイミング良く大金を投入すれば、広く支持を得られたことでしょう。

1858年に庶民院に初登院するライオネル・ド・ロスチャイルド

同年、ライオネルは金融の中心地シティ・オブ・ロンドン選挙区から出馬し、当選を果たしました。ただ、これだけでは議員にはなれません。キリスト教徒として宣言を行う必要がありました。ユダヤ人であるライオネルはこれを拒み、「世界中で最も富み、最も重要で、最も知性ある選挙区の代表者が議会入りすることを、言葉上の形式を理由に拒否することなどできないと確信しています。」と演説していました。

庶民院は、ユダヤ教式の宣言を認めてユダヤ人議員を認めるべきとする決議を通しました。しかしながら貴族院が否決し、ライオネルは議員になることができませんでした。

しかし、ライオネルは簡単に諦めるような人物ではありませんでした。手を替え品を替え、時間がかかっても外堀を埋めて行けば達成は可能です。

2-1-8-2. 英国議会に於けるユダヤ勢力の台頭
初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881年)

ライオネルは、初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリと親しくなりました。

ディズレーリはユダヤ人ですが、12歳でイングランド国教会に改宗しており、4度の落選を経て1837年に庶民院議員となった人物です。

保守党内で上層部に上り詰め、党首となって2期に渡り首相を務めています(在任:1868年、1874-1880年)。

ユダヤ人のディズレーリ家
祖父
-英国に移住-

-
英国首相ディズレーリ
-庶民院→貴族院議員-
株式仲買人ベンジャミン・ディズレーリ(1730-1816年) 作家・学者アイザック・ディズレーリ(1808-1879年) 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881年)

ディズレーリは、祖父の代でイギリスにやってきました。先祖はスペインのユダヤ人で、ヴェネツィアに移住後証人として成功していたそうです。曽祖父アイザックは銀行家で、長男にヴェネツィアでの銀行業を継がせ、1748年に次男だった祖父ベンジャミンをイギリスに移住させました。そこで祖父は株式仲買人として成功し、父アイザックに莫大な遺産を遺しました。

母マリアもユダヤ人で、父母共に裕福でした。父アイザックは著名な作家で、ベンジャミンは裕福な家庭で文学的教養を身につけながら貴公子的に育ったと言われています。

生誕時に貴族ではなかったこと、ユダヤ人であるころ、学歴がないことなどもあり、そこから英国首相にまで上り詰めたベンジャミンには『成り上がり者』のイメージもあったそうです。しかしながら、本人は自らの血筋に誇りを持っていました。ユダヤ人は英国貴族などより遥かに古い歴史を持つ真の貴族であり、さらに自身はユダヤ人の中でもスペイン系の"貴種"であるため、貴族の中の貴族であると選民意識を持っていたようです。

ヴィクトリア女王の一番の寵愛を受けた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1877年頃)

ベンジャミン・ディズレーリは、歴代首相の中で最もヴィクトリア女王から寵愛を受けたことでも知られています。

これは、ディズレーリに嫌悪感を持っていた夫アルバート王配の逝去後のことです。

2-1-8-3. 政治・外交面で極めて重要人物だったアルバート王配
プランタジネット舞踏会のヴィクトリア女王とアルバート王配(1842年)

アンティークジュエリーがお好きな方には、華やかに着飾って"キャッキャうふふ"な社交にのみご興味がある方もいらっしゃるでしょう。

それどころか、王侯貴族はいつでも煌びやかなドレスを着て恋愛ごとばかり考えていたとすら勘違いしている方もいらっしゃるかもしれません。

そういう方はHERITAGEのHPには興味を持たず、ここまで読むこともないでしょう(笑)

そんなわけで、王侯貴族のアンティークジュエリーを理解する上でとても大切な政治・外交についてご説明いたします。

ヴィクトリア女王(1819-1901年)19歳、1838年

君主という特別な地位にあったヴィクトリア女王は、政治・外交上も極めて重要な立場でした。

むしろ国家としては、キャッキャうふふな社交よりそちらの仕事の方が圧倒的に重要です。

王太子時代のイギリス王エドワード7世(1841-1910年)5歳頃

現代の日本はただ有名なだけで政治家になれたりするため、政治能力や外交能力を誰でもできる簡単なものと軽視する人もいるかもしれません。

しかしながら実際は全くそうではありません。たとえ才能ある者であっても、人並み以上の努力は必要不可欠です。

それ故に、将来王となることが確実な者は徹底して帝王学をスパルタ教育されます。

ヴィクトリア女王夫妻の長男バーティ(エドワード7世)への教育は、半ば虐待と言っても良いほどの内容だったとすら表現されるほどです。

オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916年)

同様に、将来君主として即位することが確定していたフランツ・ヨーゼフも、幼少期からハプスブルク家の伝統に則って帝王教育が施されました。

例を見ると凄まじいです。

6歳には週13時間、7歳には32時間、12歳では50時間のありとあらゆる種類の授業が設けられました。

13歳の時には勉強のし過ぎのストレスで病気になりましたが、回復後は科目が追加され、授業は朝6時に始まり夜の9時まで続いたそうです。

よく過労死せず、ひねくれもしなかったものです。立場ある者の責任をよく自覚していたのでしょう。

兄、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の結婚式で祝いで踊る9歳のマリー・アントワネット(右)1765年

ここで重要なのが、同じ貴族でも、男性と女性では本来は役割が異なっていたことです。

男性が政治・外交を司る一方で、女性は学芸の振興と文化の発展が重要な役割でした。

だからマリー・アントワネットの例を見ると、文化的な教養を特に重点的に仕込まれています。

女性が君主となる場合、男性と女性の両方の教養が必要とされるわけですが、オーストリア皇帝&ハンガリー国王フランツ・ヨーゼフの例からも想像できる通り、ちょっと無理があり過ぎます。

天に愛され、傑出した才能をもっていればある程度は器用にこなすことができるかもしれませんが、常人では無理です。努力でどうにかなる領域を超えています。

ヴィクトリア女王の教育環境
父:8ヶ月で逝去、母:ドイツ出身 教育係:ドイツ出身
母ヴィクトリアとヴィクトリア女王(1824-1825年頃) ルイーゼ・レーツェン(1784-1870年)58歳頃

最初から無理ゲーではあったものの、それでも完璧とはいかないまでも、ある程度は努力でどうにかできたはずです。しかしながら、ヴィクトリア女王は環境的にも恵まれませんでした。

英国王室出身の父ケント公エドワード・オーガスタスはヴィクトリア女王が生後8ヶ月の時、52歳で亡くなってしまいました。母ヴィクトリアはドイツ(神聖ローマ帝国ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公国)出身で、英語が話せない状態で嫁ぎました。

ヴィクトリア女王の教育係ルイーゼ・レーツェンもドイツ出身でした。

大英帝国の君主に就く者としては、本気で教育を施そうというやる気がまるで感じられない環境です。

頑張ったヴィクトリア女王 教養に秀でたアルバート王配
ヴィクトリア女王(1819-1901年)11歳頃、1830年 ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルバート(1819-1861年)21歳頃、1840年頃

ヴィクトリア女王本人は生まれながらに真面目で良い子だったようで、自分を押し殺して一生懸命に頑張りました。才能の有無は私には分かりかねますが、何しろ環境が悪過ぎました。

ヴィクトリア女王は、ドイツ出身のアルバート公子のカッコよさに惚れ込みプロポーズし、1840年に結婚しました。アルバート王配は見た目のカッコよさだけでなく、王侯貴族の中でも目を見張るほどの教養と才能を持っており、まさに理想の王子様だったようです。

そのアルバート王配は結婚後、自身の高い教養に比べてヴィクトリア女王の教養が浅薄であることを問題視しました。その原因の1つが、教育係だったルイーゼ・レーツェンとみなしました。

レーツェンはヴィクトリア女王が5歳の時から家庭教師を務め、母同然に慕っていました。ヴィクトリア女王が結婚した時から侍女として仕え、秘書も務め、王室の予算や諸々の人事権も握っていました。アルバート王配はその仕事ぶりに問題を感じ、翌年にはレーツェンの解任を考えるようになりました。ヴィクトリア女王は猛反対しましたが、結局1842年にはアルバート王配がレーツェンを宮廷から追放しました。

この部分だけ見ると、ドイツ出身者らの覇権争いにも見えます。

ヴィクトリア女王の母はドイツ人、夫アルバート王配もドイツ人。実際、ヴィクトリア女王がアルバート王配と結婚する際には、「ドイツ人が英国王室を乗っ取るともりでは?」と懸念する人たちもいたようです。

ヴィクトリア女王とアルバート王配が乗った馬車への狙撃事件(1840年)

しかしながらアルバート王配は、ヴィクトリア女王にとって本当に理想的な王子様でした。

新婚早々に狙撃された際は、アルバート王配が身を挺してヴィクトリア女王を守りました。

メルバーン子爵ウィリアム・ラム(1779-1848年)65歳頃

アルバート王配は本当に優秀だったようです。

ヴィクトリア女王即位時の首相は、メルバーン子爵ウィリアム・ラムでした。

父を早くに亡くし、適切な相談役がいなかった女王の寵愛を受けたメルバーン子爵は早くからアルバート王配の非凡な才能を見抜き、女王に対して「アルバート公は実に頭の切れるお方です。どうかアルバート公の仰ることをよくお聞きなさいますように。」と進言したほどだそうです。

ヴィクトリア女王の三男アーサー王子に贈り物を捧げウェリントン公爵(1851年)
『東方三博士の礼拝』を模した構図

男性の中には「俺が!俺が!」と自己顕示欲を丸出しで主張する人も一定数存在しますが、アルバート王配はそれもありませんでした。その非凡なる才能を自己顕示のためではなく、ヴィクトリア女王のために使いました。実績を上げても主張することなく、ヴィクトリア女王の縁の下の力持ちに徹しました。

この絵でも、添え物みたいな描かれ方がそれを象徴しています。

『イングランドの偉大さの秘訣』(トーマス・ジョネス・バーカー 1863年頃)
イングランドの偉大さの秘訣を聞いたアフリカの王に聖書を手渡すヴィクトリア女王

これも「え、アルバートのオバケ?!」と一瞬勘違いしてしまいそうなくらい、目立たずひっそりと描かれています。

ヴィクトリア女王一家(1846年)ロイヤル・コレクション

しかしながら、先代の放蕩王たちによってボロボロだった王室財政を立て直し、1850〜1870年代にかけての『パクス・ブリタニカ』とも呼ばれるほどの大英帝国最盛期を築き上げ、世界初の万国博覧会となる1851年のロンドン万博を大成功に導いたのも、アルバート王配の影の活躍あってこそでした。

ヴィクトリアンは広告塔としてヴィクトリア女王が目立ちますが、政治や外交は才能あってしかも100%信頼できる夫に全て任せ、ヴィクトリア女王は同時代屈指の子宝に恵まれつつ、幸せな家庭を堪能し、世界の中心たる大英帝国の君主として威光を発揮することができたのです。

アルバート記念碑のアルバート黄金像(1872年)
"Close-up of Albert Memorial" ©User:Geographer(10 November 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0

それをヴィクトリア女王自身が誰よりも分かっているからこそ、アルバート王配の死後に「夫の偉大さを知ってほしい!」と願って、このような金メッキ像を作ったわけです。

正直、成金趣味でアルバートらしくないとも感じますが、深い愛と感謝の気持ちは伝わってきます。女王はアルバートが絶望するほど教養が浅く、センスにも恵まれなかったようなので、ダサいのはしょうがないです。

ちなみにこの像は、アルバート王配のお陰で大きな黒字となったロンドン万博の余剰金で作ったそうです。

2-1-8-4. アルバート王配の早逝の政治的影響
アルバート王配(1819-1861年)41歳頃

アルバート王配は42歳で急逝しました。

後に国王エドワード7世となる長男バーティはまだ20歳。政治や外交で活躍するには経験値もなく若過ぎました。

「アルバートがもっと長く生きていれば、イギリスの王政はもっと長く続いていただろう。」

そう言われるほど、

イギリスにとってアルバート王配の早逝の影響は実は大きいものでした。
長女ヴィッキーとヴィクトリア女王夫妻(ウィンザー城 1840-1843年頃)

君主として"偉そう"にしていたヴィクトリア女王ですが、実際のヴィクトリア女王はそういうことを好んでいたわけではありませんでした。役割として、頑張って虚栄を張っていただけです。

本来のヴィクトリア女王はとても女性らしく、おしとやかにして王子様に頼って生きていたい人だったようです。スポーツ万能でアクティブ、ハンティングにも出かけていた長男の嫁アレクサンドラ妃に対し、「女性がハンティングなんかに付いて行くものではありません!」と言っていたそうです。ヴィクトリア女王は家で大人しく帰りを待っている感じですね。

王太子妃アレクサンドラとバスケットに入った2人の子供たち(1865-1867年)
【出典】Royal Collection Trust / Queen Alexandra when Princess of Wales (1844-1925) with two children in basket saddles © Her Majesty Queen Elizabeth II 2022

アクティブで明るい性格だったアレクサンドラ妃は、社交界の花として大人気だったそうです。教養やセンスを重要視する上流階級にはアレクサンドラ妃のような女性の方が好まれたようですし、Genもそのようなアクティブな女性が好みだそうですが、人には向き不向きもありますしね。

オパールのティアラを着けたヴィクトリア女王(1819-1901年)

ヴィクトリア女王は何もかもアルバート王配に頼りきりでした。

ファッションに関してもそうだったようです。「私はこれが好き!」と言うような、確固たる絶対感覚や美的センスは持っていなかったようです。

アルバート王配はオパールが好きでした。

このため、ヴィクトリア女王も好んで頻繁にオパールのジュエリーを身に着けていました。

ヴィクトリア女王はオパールが好きだったとされますが、実際のところは「アルバート王配が好きなものが好き!」と言うのがヴィクトリア女王だったようです。

ヴィクトリア女王からアレクサンドラ妃へのウェディング・ギフト(1863年)
オパールがセットされたオリジナルのオリエンタル・サークレット・ティアラを着けたヴィクトリア女王(アルバート王配によるデザイン 1853年)

「あなた色に染まりたい。」
「あなたに染まって生きていきたい。」

アルバート王配が悪い人だったら、簡単に悪用されそうですね。実際はそうではなく、イギリスのために尽くしてくれたので国が栄えました。

夫婦共に1819年生まれ、同い年でした。しかもまだ若かったからこそ、まさか42歳で夫を失うなんて想像もせず、夫に全てを頼りきっていたでしょう。

経験もまともになく、1人では何もできず、まともに政策立案や決定を下せないのは確実です。アルバート王配亡き後の、国家としての絶望的な状況がご想像いただけると思います。

2-1-8-5. アルバート王配早逝後の政界におけるディズレーリの台頭
ヴィクトリア女王の一番の寵愛を受けた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1877年頃)

先にご紹介した通り、歴代首相の中で最もヴィクトリア女王から寵愛を受けたのがユダヤ人のベンジャミン・ディズレーリでした。

アルバート王配逝去後のことですが、実は王配はディズレーリに嫌悪感を持っていました。

政治的対立
自由貿易主義 保護貿易主義
アルバート王配(1819-1861年) 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881年)1852年、47歳頃

政治的対立がその理由です。詳細はここでは割愛しますが、アルバート王配が自由貿易主義だったことに対し、ディズレーリが保護貿易主義だったことが背景にあります。保護貿易派が「ドイツ人の王室が自由貿易派と結託して、イギリスの農業利権をドイツに売り飛ばそうとしている!」と王室批判を行い、保護貿易運動の先頭に立っていたディズレーリにアルバート王配は嫌悪感を抱いていました。

保護貿易主義が下火になった後もなおアルバート王配はディズレーリを不信し、嫌悪感を抱いていたそうで、他にも色々な理由があったかもしれません。

当然ながらアルバート王配が好きなものが好き、アルバート王配が嫌いな者が嫌いなヴィクトリア女王も、ディズレーリには嫌悪感を抱いていました。

女王を意のままに操るのはチョロそうですね(T T)

アルバート王配に取り行って気に入られれば、女王から気に入られるのと同義です。良からぬことをしようとする輩もいたことでしょう。ただ、アルバート王配はイギリスにとって正しいことをしようとする超真面目な人だった上に、かなりの切れ者でもありました。良からぬ企みは見抜かれてしまうため、取りいるだけでは奸計は上手くいかない環境にあった想像します。

帝位を欲しがるヴィクトリア女王の風刺画(パンチ 1876年4月15日号)インド人の格好をした初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ首相がインド帝冠と英国王冠を交換している様子

アルバート王配さえいなくなれば、ヴィクトリア女王はいくらでも操ることができるでしょう。

最愛というだけでなく何もかも全てを頼り切っていた夫が急逝すれば、その弱った心につけこむのは容易です。

ディズレーリは心を掴むのが得意だったようで、特に女性からはあらゆる階層から人気があったそうです。

ディズレーリは次のように記述しています。

「女はみな虚栄心を持つ。男の中には虚栄心を全く持たない者もいるが、虚栄心を持った男の虚栄心は、女の虚栄心では及びもつかないほど激しい。」

巨大な男の虚栄心を持つディズレーリにとって、女の小さな虚栄心を満たして支配し、意のままに操るのはいとも簡単なことだったかもしれません。

ヴィクトリア女王が即位の日に初めて開いた枢密院会議(1838年)

ヴィクトリア女王が18歳で即位した日、ケンジントン宮殿で最初の枢密院会議が開かれました。この時、枢密顧問官リンドハースト男爵のお供として、32歳だったディズレーリも随行しました。

会議を終えたリンドハースト男爵は、ディズレーリにその時の光景を話しました。一人の少女が聖職者、将官、政治家たちの真ん中を悠然と歩き、玉座に座る光景。イギリス中で最も権威ある男たちが、一人の少女に騎士の誓いを捧げる光景。

その光景を思い描いてディズレーリは憧れを抱き、いつの日か自身も女王の前に跪いてその手にキスをし、騎士の忠誠を捧げたいと願ったそうです。

ヴィクトリア女王からガーター勲章を授与される初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1878年)

それは実現しました。

女王の寵愛を受けたディズレーリは1876年に2つの爵位を叙爵しました。
・初代ビーコンズフィールド伯爵
・初代ヒューエンデン子爵

そして1878年にはガーター勲章を授与されました。

創設は1348年、王族を除く臣民の勲爵士は常時24名までと制限される、イングランドの最高勲章ですね。

初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881年)

ディズレーリはアルバート王配が亡くなった後、アルバート顕彰の先頭に立ち、アルバート王配の人格を褒め称える演説を行うなどしてヴィクトリア女王の心を掴みました。

本当の所は分かりようもありませんが、物凄い野心家と言うか、最初からその気満々と言う印象も伝わってきますね。

栄養状態も衛生状態もイギリスで最も恵まれているはずの英国王室に於いて、アルバート王配のあまりにも早すぎる死は、毒などによる暗殺すらもちょっと疑ってしまいます。

アルバート王配の影響が無くなったヴィクトリア女王は、次第にディズレーリに好意を寄せるようになっていきました。

初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881年)

政治が得意でなくても、君主という立場にあるヴィクトリア女王は政治を避けることはできません。そこで誰かを頼りにするのは必然です。

1861年にアルバート王配が亡くなりましたが、1866年の第三次ダービー伯爵内閣の頃には、ヴィクトリア女王は完全にディズレーリに好感を寄せるようになっていたそうです。

ディズレーリが後任の首相になると2人の親密さは増し、1868年春頃からヴィクトリア女王は自らが摘んだ花束をディズレーリに送り、ディズレーリはそのお礼に自分の小説を送るという間柄になっていました。

ベンジャミン・ディズレーリ首相(1804-1881年)

野心家のディズレーリは違うかもしれませんが、ヴィクトリア女王の方は完全に恋に落ちている感じですね。

アルバート王配が最愛の人だったことは間違いないでしょうけれど、基本的には男性に頼りたい、頼らないと生きていけない女性だったのかもしれません。

リヴァプールの聖ジョージ・ホールのディズレーリ像
"Earl of Beaconsfield statue, Liverpool (1)" ©Reptonix free Creative Commons licensed photos(18 March 2012)/Adapted/CC BY 3.0

ディズレーリは1881年、76歳で旅立ちました。

ヴィクトリア女王の悲しみは深く、訃報を聞いた際はショックのあまりしばらく口がきけなかったそうです。

国葬を提案しましたが、ディズレーリ本人の遺言によってヒューエンデンの聖マイケル及びオール・エンジェルズ教会で葬儀が行われました。

ヴィクトリア女王は葬儀への参加を希望しましたが、当時は君主が臣民の葬儀に参列することは禁止されていたため、しぶしぶ断念しました。

代わりに墓参りを希望しました。

ヴィクトリア女王によるディズレーリ記念碑(1882年)
"St Michael and All Angels 20080726-13" ©Hans A. Rosbach(26 February 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ヴィクトリア女王はヒューエンデンに着くと、ディズレーリがヒューエンデンで最後に歩いた道を歩いてから教会に向かったそうです。

掘り返させた墓の棺の上に、陶器の花輪を供えました。

また、教会に自身の想いを刻んだ大理石の記念碑を設置させました。

プリムローズ "Prolecno cvece 3" ©Pokrajac(28 February 2007)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ディズレーリはプリムローズが好きだったそうで、ヴィクトリア女王は葬儀の際にプリムローズを送りました。お墓にも植えられています。

プリムローズ・デイで飾りつけられるディズレーリ記念碑(1886年)

ディズレーリの2度目の命日となる1883年4月19日、日本だと三回忌ですが、ディズレーリ像の除幕式が行われました。

これをきっかけに、毎年4月19日にプリムローズを飾ったり着用したりする『プリムローズ・デイ』の習慣がイギリスに広まりました。

プリムローズ・デイ(フランク・ブラムリー 1885年)

第一次世界大戦中にディズレーリ像へのプリムローズの飾り付けが一時中止されたことで、この習慣は衰退してしまいましたが、それまでは国民的なイベントだったそうです。

ヴィクトリア女王の寵愛を受けた男性の像
アルバート記念碑のアルバート黄金像(1872年)
"Close-up of Albert Memorial" ©User:Geographer(10 November 2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0
ロンドン・パーラメントのディズレーリ像(1883年)
"Benjamin Disraeli monument" ©Tbmurray(24 February 2012)/Adapted/CC BY 3.0

毎年盛大なイベントを催すようになったことでディズレーリは死後、党派を超えた国民的英雄に昇華したそうです。長々とご紹介しましたが、結局何が言いたかったのかと言うと、それほどヴィクトリア女王の寵愛を受けた政治家だったということです。

どうでも良いですが、やっぱり像には金メッキはしない方が良いと個人的には感じました(笑)

ちなみにディズレーリの政治家としての功績は何かと言うと、イギリスの帝国主義の幕を開いた政治家として評価されています。

2-1-8-6. ライオネル・ド・ロスチャイルドの政界参入
ライオネル・ド・ロスチャイルド(1808-1879年)

さて、ライオネル・ド・ロスチャイルドに話を戻しましょう。

1847年に庶民院の選挙に当選したものの、ユダヤ教での宣誓が認められなかったため議員にはなれませんでした。

ディズレーリのようにキリスト教に改宗するという手段も考えられますが、議員になることそのものよりも、ユダヤ教のユダヤ人として議員になることが重要だったようです。

これを実現すべく、尽力しました。とは言っても、ただ努力さえ続ければいつか必ず夢が実現するというものではありません。

主張を喚き立て、同情を誘えば誰かが助けてくれる、誰かがやってくれるというやり方は浅はかです。

こういう時は、時間がかかっても根回しをして外堀を埋めていくのが着実な手段です。そのための潤沢なカネも持っています。

懇意の仲となったユダヤ人
ライオネル・ド・ロスチャイルド(1808-1879年) 初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881年)1852年、47歳頃

いつどのように近づいていったかは定かではありませんが、ライオネルは政治家の中でも同じユダヤ人だったディズレーリととりわけ親しくしました。ディズレーリは毎週のように、週末にはピカデリーのライオネル邸でディナーをご一緒していたそうです。これだけの頻度であれば、現状の情報共有や今後の策定など、かなり密に連携した動きができるでしょう。

1847年、ライオネルが議席を得られなかったことを受け、庶民院にユダヤ式の宣誓が認められるよう修正する案が、ホイッグ党の指導者ジョン・ラッセル卿から提出されました。ディズレーリはこれに賛同し、キリスト教は"ユダヤ教の完成形"であり、「彼らのユダヤ教を信じないのであれば、あなたのキリスト教はどこにあるのか?」と演説しました。キリスト教に於ける旧約聖書部分を聖典とするのがユダヤ教です。

庶民院で意見は分かれました。ラッセル卿は政治的支援を受けたお礼に便宜を図っていると仄めかされたりもしたようです。政治家への賄賂は古今東西、あるある話ではありますね。結局この法案は否決に終わりました。

1858年に庶民院に初登院するライオネル・ド・ロスチャイルド

しかしながらライオネルは諦めることなく選挙のたびに出馬し、当選を続けました。その間も根回しを続けたでしょう。当選のたび、ユダヤ教宣誓を認めるべきという動議も提出されましたが、貴族院で否決され続けました。

1858年、宣誓方式は庶民院と貴族院でそれぞれ独自に定めるという法案が可決され、庶民院でユダヤ教の宣誓が認められるようになりました。

一気にダメならば一部から。例外を認めさせた後、なし崩し的に全てを認めさせる。交渉の基本でもありますね。

こうして11年間の挑戦が実り、庶民院の議席獲得に成功しました。当然ながら国や庶民らのために実直に政治家をやるつもりは毛頭なく、登院することは殆どなく、議場で演説を行うことも一度もなかったそうです。これは足掛かりに過ぎず、そんなことより次は貴族院への浸潤です。最終的には世界支配が目標ですから、大英帝国の支配を目指さねばなりません。

2-1-8-7. ライオネル・ド・ロスチャイルドの貴族院への挑戦

ライオネルの貴族院を目指した道。

1847年に初当選。
1858年に晴れて庶民院議員へ。
1861年にアルバート王配が急逝。
1866年の第三次ダービー伯爵内閣の頃には、ヴィクトリア女王は完全にディズレーリに好感を寄せるように。
1868年春頃からヴィクトリア女王は自らが摘んだ花束をディズレーリに送るほど親密に。

ベンジャミン・ディズレーリ首相(1804-1881年)

ディズレーリは1868年2月27日に首相となりました。

この第一次ディズレーリ内閣は総選挙で敗北し、短命に終わりました。

同年12月3日、9ヶ月ほどでディズレーリは首相退任となりました。

退任にあたり、ヴィクトリア女王はディズレーリに爵位を与えようとしたそうです。女王のメロメロ具合が伝わってきますね。

ウィリアム・グラッドストン首相(1809-1898年)1873年、63歳頃

その後、ディズレーリのライバルとされるウィリアム・グラッドストンが1868年12月9日に首相に就任しました。

1869年にライオネルはグラッドストン首相に、ヴィクトリア女王へ叙爵を推挙してもらいました。

しかしながら反発を買って退けられました。

イギリス貴族の条件は地主であることですが、ライオネルは企業家・投機家の面が強いというのがその理由でした。

多分、これは表向きに理由です。

ヴィクトリア女王の一番の寵愛を受けた初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1877年頃)

恋する乙女は意中の男性しか目に入りません。ディズレーリ政権を打倒したグラッドストン首相は気に入りませんでした。

提案を断るのは当然の流れであり、ディズレーリが推挙していたらライオネルは叙爵できていたことでしょう。ライオネルは貴族になれませんでした。

ディズレーリは1868年の叙爵は断りましたが、1874年から1880年に再び首相となり、その間の1876年にビーコンズフィールド伯爵を叙爵しています。

ヴィクトリア女王からガーター勲章を授与される初代ビーコンズフィールド伯爵ベンジャミン・ディズレーリ(1804-1881年)1878年、73歳頃

1878年には、女王は貴族の最高位である公爵を授けようとしました。

公私混同っぷりが強く感じられますが、当時の人々はどう見ていたでしょうね(笑)

ディズレーリはこれを断り、その代わりにガーター勲章を授与してもらいました。

2-1-8-8. 地盤を醸成したライオネル・ド・ロスチャイルド
ライオネル・ド・ロスチャイルド(1808-1879年)1877年、68歳

タイミングに恵まれなかったこともあり、ライオネルの代での叙爵は叶いませんでした。

しかしながらロスチャイルド家は世代を超越して物事を俯瞰し、計画実現に向けて動きます。

ライオネルは英国政府にお金を貸しまくり、その総額は4億ポンドに達したそうです。

利子を付けて返って来ますから、めちゃくちゃ美味しい商売ですね。お金を盾に支配権を握ることもできます。

この他、イギリス貴族のイメージとして重要な『地主』の地位も固めていました。

第2代バッキンガム=シャンドス公爵リチャード・テンプル=ニュージェント=ブリッジス=シャンドス=グレンヴィル(1797-1861年)1830年、33歳頃

1848年にダッシュウッド準男爵家、1849年にバッキンガム=シャンドス公爵から広大な領地を買取り、大地主となっていました。

公爵は王族に並ぶほど高い地位で、実際にバッキンガム=シャンドス公爵は生誕時点でかなり裕福だったそうですが、1847年、50歳頃に100万ポンド以上の債務を抱えて破産宣告したそうです。

2018年時点で8,976万ポンド、日本円に換算すると135億円ほどです。個人の負債としては、とんでもない額ですね。

バッキンガム=シャンドス公爵の本邸だったストウ・ハウス(1880年)

資金調達のため1841年にサマセットのキーンシャムの領地を、1847年にアヴィントン・パークを売却しました。1848年8月から9月にかけて、ついに本邸だったストウ・ハウスも競売にかけました。19世紀のイギリスのカントリーハウス競売に於いて、最大規模となったそうです。

こうして着々と地盤を固め、貴族への挑戦は次の代にバトンタッチされました。

2-1-8-9. 用意周到に進められた第3代当主ナサニエル・ロスチャイルドの貴族院入り
ヴィクトリア女王一家(1846年)赤い服の少年が5歳頃の王太子バーティ

ライオネルを継いだのは、嫡流の長男ナサニエルでした。ナサニエルはヴィクトリア女王の長男にして、将来国王となるバーティと1歳違いでした。

王太子バーティ(後のイギリス国王エドワード7世)(1841-1910年)5歳頃

バーティは1859年、17歳の頃にオックスフォード大学に入学しました。イギリスの歴代の国王では初めての大学入学となります。

「わー、頭が良かったのね。高学歴の王子様なのね。」というのは、現代の庶民の発想かもしれません。

古い時代はイギリスの大学は中身が酷かったこともあり、上流階級は優秀な家庭教師を雇って家庭学習させたり、イートン・コレッジを卒業後は大学には行かず、家庭教師を帯同してグランドツアーに出かけるのが通常でした。

将来君主となるのは、王族の中でも限定された人のみです。大英帝国の状況に即した帝王学が必須ですが、その他の人々には、それを学んでもあまり意味がありません。それ故にお金はかかったとしても、専門の家庭教師を雇ってオーダーメイド的に教育するのが通常だったのです。

グランドツアーは、フランス革命と続くナポレオン戦争などの混乱によって下火となりました。それに伴い、イギリス国内の大学教育が発達していったようです。

ケンブリッジ大学で親友となった二人
PDオックスフォード大学在学中の王太子バーティ(後の国王エドワード7世)(1841-1910年)1860年、18歳頃 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年)

1859年10月にオックスフォード大学に入学したバーティでしたが、1861年10月にケンブリッジ大学に転校しました。このケンブリッジ大学でナサニエル・ロスチャイルドと出会い、親友となったそうです。

このケンブリッジ大学での御学友たちと組んで不良行為を行うようになり、それが増していきました。年頃の男の子ならばよくあることと言えるかもしれませんが、何しろ次期国王となる人物です。一挙手一投足に注目が集まるわけで、普通の人ならば問題とならぬ程度のことでも一気に噂が広まり、大問題になり得ます。

それを危惧し、11月には父アルバート王配が説教にやってきました。

ヴィクトリア女王夫妻と9人の子供たち(1857年)

ロイヤル・ファミリーは多忙です。特にアルバート王配は実質上、君主代行として仕事をしていたため激務でした。当時既に体調を崩していましたが、サンドハースト王立陸軍士官学校の新校舎竣工式に出席してからバーティの元に向かいました。豪雨の中の竣工式だったため、さらに体調を悪化させることになったようです。

アルバート王配は息子バーティを叱り、バーティは言いつけを守ると約束して別れました。戻ったアルバート王配は体調を悪化させ、翌12月には危篤状態に陥りました。

真面目過ぎた王族の親子
アルバート王配(1819-1861年)41歳頃 王太子時代のイギリス王エドワード7世(1841-1910年)

父の危篤を知り、バーティは12月14日の午前3時にウィンザー城に駆け付けました。アルバート王配は瀕死の状態でしたが、バーティの顔を見ると安心したような表情になり、同日の午後11時に息を引き取りました。

これは私の想像ですが、死に目にも会いに来てはくれないのでは思うほど、アルバート王配はバーティに対してきつい説教をしていたのかもしれません。それは真面目過ぎる性格と、将来国王となるバーティの立場を思ってのことではあったはずですが、"虐待"と称されるほどの厳しい教育で知られていますしね。

死に面した時。
「あそこまで酷いことを言わなければ良かった。少しくらい、父親として優しくしてあげれば良かった。」
遠くケンブリッジにいる息子を想い、そう後悔したかもしれません。

しかし、そんなことがあっても本気で心配し、駆けつけて来てくれた息子。心優しいバーティの純粋な眼差しを見て、安堵の表情を浮かべたのだろうとも想像します。

生来の心優しさと頭の良さもあり、バーティは王族としての両親の立場も心では理解していたのでしょう。バーティの本名はアルバート・エドワードです。本来ならば、国王としての名はアルバートとなるはずでした。

真面目過ぎた王族の親子
アルバート王配(1819-1861年)1848年、29歳頃 王太子時代のイギリス王エドワード7世(1841-1910年)

しかしながら、「アルバートと言えば誰もが父を思い出すようにしたかった」という理由でエドワード7世にしたそうです。特別な立場故の、切ない話ですね。

アルバート王配自身は本気でバーティがダメな人間であるとは思っていなかったはずですが、将来の国王として厳しく育てようとしたが故に、ダメだ、出来損ないであるなどの表現をしていたようです。ヴィクトリア女王はそこしか見ておらず、アルバート王配が誤解を解くことなく旅立ちました。

アルバート王配が良いと言ったものは良い。悪いと言ったものは悪い。そんな判断指標を持つヴィクトリア女王は、バーティが出来損ないであると思い続けました。

1860年代の王太子バーティ(1841-1910年)

若いとは言え、20歳を過ぎた大人です。

将来を見越し、アルバート王配の跡を継いで君主代理的な仕事で経験を積む道もあったはずです。

しかしながらとんでもない出来損ないとして、ヴィクトリア女王はバーティを公務から遠ざけてしまいました。

アルバート王配が若くして急逝したのはバーティのせいであると考えたことも、原因とされています。

アルバート王配がいなくても、バーティが公務に携わることができていれば、王政がもっと長く続いていた可能性は考えられます。

誰かが女王に吹聴し、意図して王族を政治から排除していったのか。ちょっと疑念が湧く部分でもあります。

庶民院の議席を獲得したロスチャイルドの親子
【父】
金融の中心地
シティ・オブ・ロンドン選挙区
【息子】
大地主として影響力を持つ
バッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区
ライオネル・ド・ロスチャイルド(1808-1879年) 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年)

それはさておき、ケンブリッジ大学で未来の英国王バーティと親友になったナサニエル・ロスチャイルドは、1865年に選挙に出馬しました。父ライオネルとは異なる、バッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区からです。ロスチャイルド家が大地主として影響力を持つ地区です。24歳のナサニエルは見事当選し、1885年に貴族院に移籍するまで再選され続けました。

ロスチャイルド家の議席
【父】ライオネル
金融の中心地
シティ・オブ・ロンドン選挙区
【息子】ナサニエル
大地主として影響力を持つ
バッキンガムシャー・アリスバーリー選挙区

1847年 初当選(38歳頃)
1858年 庶民院の議席獲得(49歳頃)

1869年 企業家の面が強いとして叙爵を退けられる

1879年 死去(70歳没)



1865年 初当選、庶民院の議席獲得(24歳)

1876年 叔父のイギリスの准男爵位を継承(35歳)
1879年 父のオーストリア=ハンガリー帝国の男爵位を継承(38歳)
1885年 庶民院→男爵位を叙爵し貴族院に移籍
1915年 死去(74歳没)

ライオネルは貴族院の議席を得られませんでしたが、ナサニエルの代で確実に議席を得られるよう、着々と準備は進んでいました。1876年に、叔父アンソニーからイギリスの准男爵位を継承しています。

「???」と思われた方もいらっしゃるでしょう。イギリスの場合、爵位を継承できるのは嫡男の長子1人のみだったはずです。非嫡出子や養子などは認められず、該当者がいない場合は容赦無く廃絶となるのが通常でした。

イギリスのロスチャイルド家
始祖 長男 次男
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777-1836年) ライオネル・ド・ロスチャイルド(1808-1879年) 初代ロスチャイルド准男爵アンソニー・ド・ロスチャイルド(1810-1876年)

アンソニーはネイサンの次男で、ライオネルの弟にあたります。乗馬に優れ、慈善家でもあり、その功績でヴィクトリア女王からナイトの称号を与えられていました。ベンジャミン・ディズレーリやウィリアム・グラッドストンなど、政界の重鎮とも親しくしていたそうです。

アンソニーは2人の娘がいたものの、息子はいませんでした。1847年、アンソニーは特例で、兄ライオネルの息子たちに継承可能な准男爵位を授与されました。

初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年)

これにより、1876年の叔父アンソニーの死去に伴ってナサニエルが准男爵位を得たのです。

1870年代のエジプトは、政治的に腐敗しているのと同時に財政破綻の状態にありました。エジプト財政はイギリスとフランスによって管理されている状況となっており、エジプト人たちは不満を持っていました。

1882年、遂にウラビ革命が起きました。しかしながらイギリス軍に鎮圧されました。

占拠した際、ナサニエルはエジプトの財政再建のために850万ポンドの借款を提供しました。この恩賞として、1885年にヴィクトリア女王から男爵位が与えられました。

イギリスのロスチャイルド家
始祖
-英国に移住-

-庶民院議員-

-庶民院→貴族院議員-
ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777-1836年) ライオネル・ド・ロスチャイルド(1808-1879年) 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年)

こうしてロスチャイルド家はイギリスの貴族院入りを果たしました。カネの力にも驚きますが、世代を跨ぐような長期に渡る計画策定であったり、血縁による連携の凄さには驚きます。

2-1-9. 数字で想像する伝統的なイギリス貴族

アルバート王配(1819-1861年)41歳頃

1861年にアルバート王配が亡くなった後、急速な勢いで貴族院に新興成金が侵入していきました。

1830年代に350家だった爵位貴族は
1870年代に400家、
1885年には450家と
増加の一途を辿りました。

ちょっと異様ですよね。

1870年代に400家というのは1879年までに400家になっていたということで、そこから1885年には450家ということは、僅か6年ほどで50家も貴族が増えているということです。

アンシャンレジームを風刺した絵(1789年)

同じヨーロッパの貴族という括りであるが故に、イギリス貴族とかつてのフランス貴族を同じようなものと見てしまう人もいます。

しかしながら、実際はまるで印象が違います。

フランス貴族の場合、あまりにも貴族の数が多過ぎました。このため、他の貴族より裕福になるために、庶民からより多くお金を徴収できるよう一生懸命に考えるという事態が発生しやすい状況にありました。

しかしながら数が極端に限られ、"生まれながらにして莫大な富を持つ者"として生まれてくるのがイギリス貴族です。初代は除きますが、次世代はそのような状況にあるため、大体は「頑張って成り上がる!」という意識や経験はありません。

成り上がる野心がなく、苦労もしていないのに莫大な富と権力を持つ。所有する財産や立場は、自分の才能や努力によるものではなく、神により与えられた役割である。

精霊の鳩とアルファオメガがモチーフのロマンモザイクのアンティークのデミパリュール『平和のしるし』
ローマンモザイク デミパリュール
イタリア 1860年頃
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君主の王権神授説と同様に、貴族という地位が持つ権力や財力についても、神により与えられた役割を果たすために与えられただけに過ぎず、その務めを果たさないのは怠惰であり罪、増して私欲のためにそれを使うのはもってのほかという考えでした。

デヴォン伯爵のコロネット
"Coronet EarlOfDevon PowderhamCastle" ©Lobsterthermidor(2014)/Adapted/CC BY-SA 3.0

また、大地主であったイギリス貴族たちは、所領を治める小国の王のような存在でもありました。

大庄屋だった旧笹川家の主屋正面(新潟市)"NiigataCityOpenData kyusasagawake02" ©新潟市(26 June 2016, 14:550:13)/Adapted/CC BY 2.1 jp

日本人が『大地主』と聞くと、どうしても実際よりショボく想像しがちだと思います。

昔の地主と聞いて日本人がイメージするのは、一般には『庄屋』や『豪農』などだと思います。庄屋の多くは武士より経済的に裕福で、広い屋敷と広大な農地を所有していました。庄屋でも規模はそれぞれですが、大庄屋だった旧笹川家の主屋はこんな感じです。

日本の場合は地租改正後、明治から大正にかけてが地主制が最も発展した時期とされます。この時期、50町歩(125エーカー)もあれば『大地主』と呼ばれていました。

50町歩は495,867.5平米(約50万平米)、つまり0.4958675?で、東京ドームだと10.6個分です。坪数にすると、150,000.68062503坪(約15万坪)です。これでイメージできる方もいらっしゃると思いますが、私はまださっぱりイメージできません(笑)

御船山楽園(佐賀県武雄市)©google map

佐賀県の武雄領主・鍋島茂義の別邸跡(造園は1845年)、『御船山楽園』が50万平米(15万坪)だそうです。国登録記念物に指定されている大庭園です。私は行ったことがありませんが、右下の100mのバーと比較するとなんとなくイメージできるでしょうか。

新潟県の三条にあるスノーピークと言う会社の本社敷地が、約5万坪から約15万坪に拡張され、温浴施設やレストランが入る複合型リゾート施設として2022年春に開業したそうです。これまた行ったことがないのですが、15万坪の規模的にはそのような感じです。

東京都区部
【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』東京都区部 2023年3月26日(日) 03:42 UTC

50町歩(125エーカー、50万平米、15万坪)で大地主とみなされる日本に対し、1870年代のイギリスでは1,200町歩(3,000エーカー、1,200万平米=12平方q、360万坪)以上で大地主と定義されました。

12平方qは3〜4キロ四方の広さに相当します。村や町ではなく、一般的な市域の広さにあたります。

千代田区(11.66平方q)、文京区(11.29平方q)、豊島区(13.01平方q)くらいの広さです。

かなりの人が住めますね。日本の大地主の面積とは桁違いの広さです。とても同等に扱えるレベルではありません。

サザーランド伯爵(1963年にサザーランド公爵から分離)の邸宅ダンロビン城
 "Dunrobin Castle -Sutherland -Scotland-26May2008(2)" ©jack_spellingbacon, Snowmanradio(30 November 2009, 15:38)/Adapted/CC BY 2.0

ちなみに当時イギリス最大の大地主だったサザーランド公爵ルーソン=ゴア家の場合、約33万6,274町歩(135万854エーカー)を所有していました。5,467平方qに相当します。

これは市ではなく、県レベルの広さです。

都道府県 【引用】『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』都道府県 2023年3月15日(水) 17:18 UTC

サザーランド公爵の5,467平方qに近い広さの県としては三重県(5,774平方q)、愛媛県(5,676平方q)、愛知県(5,172平方q)、千葉県(5,158平方q)が挙げられます。東京都は1,400万人ほども住んでいますが、2,191平方qしか面積はありません。東京都の倍以上の面積を所有していたということです。

大地主と聞いて、庄屋さんクラスを想像してはいけません。イギリス貴族は、藩の君主たる大名クラスを想像すべきなのです。

イギリスの爵位貴族のコロネット
公爵

"Coronet of a British Duke" ©Sodacan(20 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0
侯爵

"Coronet of a British MARQUESS" ©Sodacan(20 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0
伯爵

"Coronet of a British EARL" ©Sodacan(20 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0
子爵

"Coronet of a British Viscount" ©Sodacan(20 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0
男爵

"Coronet of a British Baron" ©Sodacan(20 July 2010)/Adapted/CC BY-SA 3.0

まさにイギリス貴族は小国の王であり、その集合体がUK(United Kingdom:連合王国)と言えるのです。

所領の人々の幸せを願い、そのために尽力する。イギリス貴族の富と権力は、その役割を果たすために持たされたものに過ぎません。だからこそ自己顕示欲を満たすために使うものではありませんし、生まれながらに持っているが故に、持っているのが当たり前というマインドなので、そもそもその富と権力をひけらかして自己顕示欲を満たそうという発想にもなり得ないのです。

2-1-10. 新興成金の思考パターン

新興成金は成り上がりです。

最初は持たざる者だった人が、自身の才能や運によって野心を達成することで"持てる者"となるわけです。マインドとしては、「持っていないのが当たり前」という状態にあります。故に、"持っていない"と見做す皆に対し、殊更に持っていることをひけらかしたくなるのです。

ドヤりたい気持ちを抑えられない新興成金
中身のないド派手パーティー デザイン的にバランスの悪い成金ジュエリー
サヴォイ・ホテルのゴンドラ・パーティ(1905年) マッケイ・エメラルド&ダイヤモンド・ネックレス(カルティエ・フレール 1931年)
 "Cartier 3526707735 f4583fda9a" ©thisisbossi(12 May 2009)/Adapted/CC BY-SA 2.0

誰かのためにではなく、自身の財を増やすべく努力してきた人たちです。持たざる人のために尽力しようという発想にはなりません。むしろ、持たざる人たちからも奪い取って、もっと稼いで富を蓄えねばとすら考える可能性すらあります。そしてドヤって、それまで満たせなかった自己顕示欲を満たそうとするのです。

カネなんて、本来は自慢対象にはなりません。いくらその方法でドヤっても、心が真に満たされることはありません。正しい方法を知らない成金たちは、「もっと高価なものを手に入れて自慢すれば満たせるに違いない。」と思い込み、空虚な努力を重ね続けます。そのためには、さらなるお金が必要です。

第2代バッキンガム=シャンドス公爵リチャード・テンプル=ニュージェント=ブリッジス=シャンドス=グレンヴィル(1797-1861年)1830年、33歳頃

生まれながらに大金持ちだったおぼっちゃまは、必要以上のお金を、誰かからむしり取ってでも得ようとはしません。

お金と幸せは必ずしも一致しません。

破産はやり過ぎですが(笑)

成金にも例外はもちろんいるでしょうけれど、大体はもっと蓄財するために、さらに誰かからむしりとらなくてはと発想します。自己顕示欲を満たすこと、つまり幸せのためにはお金が必要と信じ込み、必要以上にむしり取ろうとします。

そんな新興成金であっても、貴族入りして厳しい社交界の中で切磋琢磨され、100年、200年の年月が経てば貴族らしく洗練されていくものでした。

しかしながら、6年で50家増えるなどという、19世紀後期から20世紀前半にかけての状況は異常でした。ここまで一挙に成金由来の新興貴族が増えると、伝統的な貴族に揉まれて洗練されていくどころではなく、新興成金が幅を利かせていくことになります。

2-1-11. 貴族院が新興成金の侵入を許した結果起きたこと

貴族院は、イギリスの政治経済をコントロールできます。

貴族院入りした新興成金はどう動くでしょうか。

伝統的な貴族のように、領民のためになるように動くわけもなく、自分たちがより富と権力を得られるよう権謀術数に励むのは容易に想像できます。

伝統的な貴族は領民のためにならず、成金ばかりが得をするような政策には当然反対します。新興成金の貴族には、邪魔な存在です。

伝統的な貴族の力を削ぎたい。どうしたら良いでしょうか?

その答えが、新興成金の貴族を増やすことでした。伝統的な貴族の数が減らせない場合、貴族院の議席を増やし、新興成金の貴族の割合を増やすことで、伝統的な貴族の1票1票の力を弱体化させ、新興成金勢力の意見を通しやすくすることができます。

牙城を崩してしまえば、こちらのものです。新興成金に都合が良いように制度改正し、さらに新興成金の割合を増やす。そしてさらに成金に都合が良い環境を作っていく。その形になってしまいました。

2-2. 20世紀の貴族の状況

20世紀に入ると非保守党系の首相たちが貴族院の保守勢力、すなわち伝統的な貴族たちの力を削ぐべく、更に爵位を乱発しました。こうして従来の地主貴族ではなく、新興勢力となる成金貴族が貴族院で勢力を増していきました。ひとたび侵入を許せば、後は怒涛のように雪崩れ込むのみです。

2-2-1.伝統的な貴族を潰す決定打を放ったロイド・ジョージ

初代ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵デヴィッド・ロイド・ジョージ(1863-1945年)1919年、56歳頃

第二次世界大戦後も爵位の乱発は行われていますが、王侯貴族の時代を終戦させるべく戦前に決定打を連発した首相として、自由党のデヴィッド・ロイド・ジョージ首相がいます。

爵位の乱発でも知られており、首相を務めた1916年から1922年までに91もの爵位新設を上奏しました。

ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵を叙爵していますが、これは1945年3月26日に82歳で亡くなる直前、2月12日に叙爵したものです。

初代ドワイトフォーのロイド=ジョージ伯爵デヴィッド・ロイド・ジョージ(1863-1945年)1890年、27歳頃

政界入りは1890年、27歳の時です。自由党庶民院議員として活動を始めました。

首相となった第一次世界大戦の頃は、「貧乏人から首相にまで上り詰めた男」と徹底的に美化されていたそうです。また、「初めて位人臣を極めた庶子の子」とも呼ばれました。

ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)

庶民出身で高い立場で活躍した政治家としては、時ロイド・ジョージより27歳年上のジョゼフ・チェンバレンなども有名です。

バーミンガム市長時の大改革で名を上げ、国政に進出して通商大臣、自治大臣、植民地大臣なども務めました。

ただ、チェンバレンは普通の庶民というわけでもありませんでした。

実業家の息子として生まれ、大学卒業後は父が経営する工場で働き、出資していた会社で経営に参画するなどし、大実業家として成功していた人物です。

貴族ではないものの、生まれながらにして裕福で"持てる者"の立場だったと見ることができます。

イギリスの場合、貴族が良い手本として機能していました。ノブレスオブリージュの精神が庶民にまで浸透しており、持たざる者が努力して"持てる者"となれば強欲成金化せず慈善活動家になることは当たり前にありましたし、裕福な家に生まれて来れば相応の"持てる者"の責任として慈善活動をするということもありました。「そうしないのは恥。」と言うくらいの感覚があったようです。

ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)

故にチェンバレンもただ経営者としてふんぞ返るような醜い行いはせず、労働者たちの幸せを願い、常に努力していました。

盛んに労働者たちと討論会を開いたり、労災や疾病の保障組合創設を主導しました。

さらには労働者たちのための夜間学校を開催し、自ら文学・歴史・フランス語・数学の教鞭をとりました。

労働環境を整えるのみならず、自分が裕福で恵まれていたからこそ得られた教養を皆に分け与えれば、皆から尊敬され支持を集めるのも当然でしょう。

魅せ方を熟知するセンス抜群のジョゼフ・チェンバレン
ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)植民地相時代 ジョゼフ・チェンバレン(1836-1914年)1909年、73歳頃

ファッション・センスからしても、明らかにただの一般庶民ではありません。上流階級が集う社交界に於いても一目置かれ、人目を惹くであろう抜群のセンスです。

イギリスの政治家ジョゼフ&オースティン・チェンバレン親子と孫のジョゼフ3世代の写真(左:ジョゼフ・チェンバレン、中:孫ジョゼフ、右:長男オースティン)

家族写真を見ても、明らかな育ちの良さが伝わってきますね。

初代ドワイトフォーのロイド=ジョージ伯爵デヴィッド・ロイド・ジョージ(1863-1945年)1902年、39歳頃

ロイド・ジョージの場合、教師の父の元に生まれました。

ただ、ロイド・ジョージが1歳の時に父は教職を退き、小規模な農場を購入して一家で移住しました。

その年の内に父は肺炎で亡くなってしまい、母や兄弟と共に路頭に迷う羽目になりました。結局、靴屋を営む伯父リチャード・ロイドの家に身を寄せたそうです。

本人曰く、子供時代に地主の酷い振る舞いを見て地主嫌いになったそうです。

また、貧しい家庭で育ったかのように語っていたそうですが、実際には割合に恵まれた中産階級だったとも言われています。

あくまでも私個人の印象ですが、それまで前例がなかったのにただの一般人が首相にまで上り詰めたこと、発言内容に虚飾があることなど、ちょっと胡散臭さも感じる人物です。本人の意思と言うより、イギリス貴族を終わらせるために、誰かから意図して送り込まれた人物とすら感じます。

選挙で当選するには本人の政治家としての才能のみならず、コネクションや資金力なども必要ですしね。それらはただの一般人が通常は持つものではありません。

議員当選くらいまではあり得ても、首相にまで上り詰めるのは普通ではありません。ディズレーリのようにヴィクトリア女王をメロメロいして贔屓されたなどあれば納得しやすいですが、それもありません。

大蔵大臣時代の初代ドワイトフォーのロイド=ジョージ伯爵デヴィッド・ロイド・ジョージ(1863-1945年)1911年、48歳頃

さて、結論の出しようがないことはさておき。

ロイド・ジョージはアスキス内閣にて大蔵大臣に就任しました。期間は1908〜1915年です。帝国主義が渦巻き、ヨーロッパの終焉とアメリカの台頭をもたらした第一次世界大戦に突入した期間ですね。

大蔵大臣ロイド・ジョージは1909年4月、"戦争の戦費"を名目に『人民予算』を議会に提出しました。

ちなみに戦争の名目は"貧困と悲惨の根絶"でしたが、第一次世界大戦の結果を見ると、どう考えても建前に過ぎなかったようにしか感じません。

『人民予算』には所得税率の引き上げと累進課税性の強化、相続税の引き上げ、土地課税制度導入が盛り込まれていました。

これだけ見ても、分かる方には明らかに貴族をターゲットとし、貴族の力を削ぐためのものとご想像いただけるでしょう。

人民予算は政界や世論を二分しました。貴族院は『社会主義予算』、『アカの予算』と称し、特に土地課税は地主貴族が「土地の国有化を狙うもの」として非難しました。

人民予算での対立
庶民院議員 貴族院議員
大蔵大臣時代の初代ドワイトフォーのロイド=ジョージ伯爵デヴィッド・ロイド・ジョージ(1863-1945年)1911年、48歳頃 初代ロスチャイルド男爵ナサニエル・ロスチャイルド(1840-1915年)

それぞれ『予算賛成同盟』と『予算反対同盟』が結成され、世論も取り込み激しい戦いとなりました。

ロイド・ジョージはロスチャイルド男爵が人民予算反対運動の黒幕として激しく個人攻撃をしたということになっていますが、全体の黒幕がロスチャイルド男爵だった印象があります。プロレスをやりつつ、目的だった予算通過を自然に見える形で成し遂げたように見えます。

1909年11月、人民予算は庶民院を通過したものの、貴族院で賛成75、反対350という圧倒的大差で否決されました。

これを受け、アスキス内閣は議会の解散総選挙に打って出ました。総選挙の論点は『人民予算』と『貴族院権限縮小』に集中されました。もうあからさまですね。

1910年1月の解散総選挙は接戦となりました。ロイド・ジョージらの自由党は275議席、保守党は273議席、アイルランド国民党は82議席、労働党は40議席となり、結果としては自由党が104議席も喪失することとなりました。

しかしながらロイド・ジョージらは上手いこと根回しし、アイルランド国民党や労働党の支持を取り付けて、1910年4月20日に人民予算を再提出しました。庶民院で可決後、貴族院の権限縮小を盛り込んだ議会法案も提出し、貴族院を無投票で通過させることに成功しました。なんだか詐欺的な手口に見えますが、都合の悪い法案を目立たぬようこっそり通したりするのは、現代でも存在する普遍の手口ですしね。

1910年4月28日、国王エドワード7世の裁可を得て『人民予算』は成立しました。

こうして貴族の力は目に見えて失われていきました。

また、アスキス内閣は海軍増強路線に舵を切り、ロイド・ジョージら急進派閣僚も帝国主義化を強めていくことになりました。そうして1914年の第一次世界大戦に突入していきます。

ロスチャイルド家

-ドイツの銀行家-

-5人の息子の母-
三男
-イギリス担当-
マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744-1812年) グトレ・ロスチャイルド(1753-1849年)1836年、83歳頃 ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(1777-1836年)

「私の息子たちが望まなければ、戦争が起きることはありません。」
5人の息子たちの母にしてマイアーの妻、グトレ・ロスチャイルドのこの言葉は有名です。

戦争を契機に、ロスチャイルド家は毎回巨万の富、すなわちパワーを積み増しています。天才的に賢いから、毎回戦争のチャンスを逃さず生かしているようにも見えます。一般人は意図して金儲けのために意図して戦争を起こすなんて発想もしませんが、グトレのこの言葉は軽く見ない方が良いのかもしれません・・。 

 

第一次世界大戦では多くの貴族が戦死しました。貴族は将校を務めます。安全地帯から指示を出すスタイルではなく、危険な前線に出て指揮をとることが当たり前だったため、割合で言えば庶民より遥かに多くの貴族が命を失いました。本人のみならず跡取りまで戦死し、多くの爵位継承者がいなくなったことが問題となったそうです。

2-2-2. 第二次世界大戦後も続いた『貴族』という文化の破壊

2-2-2-1. アトリー政権による相続税率の引き上げ
初代アトリー伯爵クレメント・リチャード・アトリー首相(1883-1945年)1950年、67歳頃

既に不可逆的なほど、壊滅への道を進むしかなくなったように見える従来の"イギリス貴族"ですが、さらに追い打ちをかけたのが第二次世界大戦後のアトリー政権です。

アトリー首相の在任期間は1945年7月26日から1951年10月26日です。

この6年程度で、98もの爵位の新設を上奏しています。

1946年には相続税の最高税率90%という滅茶苦茶な引き上げを実施しました。

女王エリザベス2世
在位:1952-2022年

2022年9月8日に女王エリザベス2世が崩御しました。

その莫大な財産の相続について、話題を耳にされた方もいらっしゃると思います。

女王の個人資産だけで約3億7千万ポンド(約620億円)と言われますが、まともに払うととんでもないことになります。

今の日本の制度ですら、3代も続けば蓄財は無くなると言われるほどです。

しかしながらイギリスの君主から君主への相続税は、適当な理由をつけて例外的に免除とされています。このため、今でも莫大な資産を保有しています。

貴族は例外適応はなされませんでした。と言うよりも、元々従来の貴族を壊滅させるためのものだったと言えます。

戴冠時のエリザベス2世(1926-2022年)27歳 " H.M. Queen Elizabeth II wearing her Coronation robes and regalia - S.M. la Reine Elizabeth II portant sa robe de couronnement et les insignes royaux " ©BiblioArchives / LibraryArchives from Canada(14 May 2012, 09:32)/Adapted/CC BY 2.0
初代デボンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(1640-1707年)

相続税引き上げの威力は凄まじく、その影響があまりにも急速かつ甚大で貴族への攻撃があからさま過ぎたこともあってか、1954年に緩和の方向へ改正されました。

しかしながら1946年から1954年の約8年間で、多数の貴族が壊滅的な打撃を受けました。

デヴォンシャー公爵家やベッドフォード公爵家は直撃を被り、本邸以外の全ての土地の売却を迫られました。

例えばデヴォンシャー公爵家は、元々第4代デボンシャー伯爵だったウィリアム・キャヴェンディッシュが1694年に叙爵して以降、現代まで続く名門家です。

PDデボンシャー公爵のタウンハウスだったデヴォンシャー・ハウス正面玄関(1906年)

大地主であるイギリス貴族は、本宅となる所領のカントリーハウスの他、社交シーズンや仕事などの用事で使用するためのタウンハウスをロンドンに所有します。

デボンシャー公爵は、ロンドンにデボンシャー・ハウスを所有していました。

PDデヴォンシャー・ハウスの舞踏会場(イラストレイテド・ロンドン・ニュース 1850年)

1740年頃に完成したデボンシャー・ハウスは、数百人もの上流階級を集めて舞踏会を催すことができるほど豪華なタウンハウスでした。

ダイヤモンド・ジュビリーを祝うデヴォンシャー・ハウスでの大仮装舞踏会の参加者(1897年)

ヴィクトリア女王の即位60年となるダイヤモンド・ジュビリーを祝い、1897年に開催されたデボンシャー・ハウスでの大仮装舞踏会は大きな話題を呼びました。

バーティ&アレクサンドラ王太子夫妻を始め、数百人の上流階級のゲストたちが歴史的な肖像画に生命が宿ったかのような衣装を身に纏った、とても煌びやかな舞踏会だったそうです。

左は後にノルウェー王ホーコン7世となるデンマークのカール王子、そしてその妻でありイギリス国王エドワード7世の娘モード王女と、姉のヴィクトリア王女です。右はクレオパトラに扮したアーサー・パゲット夫人です。

庶民には知られざる社交界の中身ですが、この時の上流階級たちの仮装姿は写真集として出版されています。一夜限りのものに、かつての上流階級たちはここまでお金と知性、手間をかけていたということが分かる、貴重な資料となっています。

弓&矢筒でエロスを象徴した純プラチナのアールデコ・ブローチ『Eros』
初期アールデコ ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1920年頃
¥5,500,000-(税込10%)

現代の庶民の感覚では、想像を遥かに超える世界です。

でも、本来はそのような世界だったことが分かると、このような素晴らしい宝物が存在していることも自然と腑に落ちていきます。

デヴォンシャー・ハウス(1800年頃)

貴族の歴史を刻み、文化を創り出してきたデボンシャー・ハウスですが、1919年に手放されました。1910年にロイド・ジョージが人民予算を通したことをご紹介しました。

第一次世界大戦(1914-1918年)の後、多くの貴族がロンドンのタウンハウスを手放しました。当時の第9代デボボンシャー公爵は、一族で初めて相続税を支払わなくてはならなくなりました。価値ある書物、ロンドンの価値ある3エーカーの庭園と共に、デヴォンシャー・ハウスは売却され、1924年に取り壊されました。

チャッツワース・ハウスと第11代デボンシャー公爵アンドルー・キャヴェンディッシュ(1985年)
"The Duke of Devonshire at Chatsworth" ©Allan warren(1985)/Adapted/CC BY-SA 3.0

その後、1950年に第10代デヴォンシャー公爵が亡くなり、アトリー政権による驚異的な相続税の直撃を受けてしまいました。

第11代デボンシャー公爵アンドルー・キャヴェンディッシュは、一族が400年に渡って集めてきた財宝や美術品の殆どに加え、本邸であるチャッツワース・ハウス以外の全ての土地を売却することになりました。

長く家であっても、今のイギリス貴族は豪華に見える邸宅を所有していても維持だけで精一杯。とても華やかなジュエリーを新調し、新しい流行や文化を作り出すような余裕なんてないのです。

本邸すら失って賃貸暮らしとなった公爵家
セント・オールバンズ公爵 リンスター公爵
初代セント・オールバンズ公爵チャールズ・ボークラーク(1670-1726年)1690年、20歳頃 初代リンスター公爵ジェームズ・フィッツジェラルド(1722-1773年)1753年、31歳頃

別邸どころか本邸を含めた全土地を失い、賃貸住宅に暮らす公爵すら今では存在します。セント・オールバンズ公爵やリンスター公爵、どちらも由緒ある貴族ですが、土地を所有していません。

セント・オールバンズ公爵は第二次世界大戦前から既に困窮しており、1940年にはベスト・ウッドの邸宅を売却し、土地を持たない貴族となりました。爵位自体は所有しているものの、チェルシーの借家住まいでサラリーマンとして生活をしており、『中産階級の公爵』と呼ばれる羽目になっています。

致命傷となる相続税を回避するため、イギリス貴族は生前贈与などで対策するようになりました。しかしながらその抜け道すらも潰すべく、1975年以降は贈与税が導入されたようです。

2-2-2-2. 一代貴族の導入による成金勢力の拡大
初代アトリー伯爵クレメント・リチャード・アトリー首相(1883-1945年)1950年、67歳頃

1945〜1951年の約6年間のアトリー政権で98もの爵位の新設が上奏され、イギリス貴族い於ける成金勢力が益々力をつけました。

一方で、1946〜1954年の約8年間の相続税の最高税率90%という課税により伝統的な貴族は多数が壊滅的な状況へと陥りました。

しかしながら、さらに徹底して貴族の破壊は進められました。

初代ストックトン伯爵ハロルド・マクミラン首相(1894-1986年)1959年、65歳

1957〜1963年のハロルド・マクミラン政権にて、一代貴族に関する法律が制定されました。

『1958年一代貴族法』と呼ばれます。

以前から一代貴族に関しては議論がなされていましたが、この時の法律によって一代貴の創設が可能となりました。

世襲貴族の創家に必要な根拠を満たすことは非常に難しい中、この法律によって爵位新設のハードルが下がりました。

ご想像通り、当たり前のように爵位の乱発が発生しました。

1958年一代貴族法による一代貴族任命数

一代貴族は首相の助言に基づく、国王の勅許状によって叙爵されます。

"助言"は首相による独自判断の場合もあれば、政府から独立した『貴族院任命委員会』の推薦に基づくこともあります。

立派な振る舞いや貢献によって叙爵した人も実際にいるとは思いますが、論功行賞的な叙爵がなされることは想像に難くありません。

日本に於ける閣僚入りなどではポストが限られますが、貴族の数は制限がありません。"常識の範囲内"という、あやふやな制限となります。

首相になるには、カネやコネは必須です。成金と持ちつ持たれつ。『貴族』というブランド欲しさに成金は支援し、首相となった暁にはその褒美として爵位を渡す。

首相 期間 任命数 年平均
マクミラン 1957-1963 46 9.2
ダグラス=ヒューム 1963-1964 16 16.0
ウィルソン 1964-1970 122 20.3
ヒース 1970-1974 58 14.5
ウィルソン 1974-1976 80 40.0
キャラハン 1976-1979 58 19.3
サッチャー 1-79-1990 201 18.2
メージャー 1990-1997 160 20.1
ブレア 1997-2007 357 35.7
ブラウン 2007-2010 34 11.3
キャメロン 2010-2016 243 40.5
メイ 2016-2019 43 14.3
ジョンソン 2019-2022 87 29.0
トラス 2022 3 3.0
スナク 2022- 26 26.0
合計 1,534人 平均23.6

権力基盤が不安定な首相ほど、より爵位を乱発したでしょうか。

「レタスがトラス首相に勝利」など揶揄されるほど超短命に終わったリズ・トラス首相ですが、辞任するまでの僅か45日の間に3人もの一代貴族を任命しています。

この制度はいただけない印象です。突如お金持ちになった成金でも、立派な行いに努めようとする人はいます。そういう人が叙爵する場合は良いですが、このやり方だと叙爵対象は野心を持ち、爵位(ブランド・権威)欲しさに首相に擦り寄るタイプの成金だけです。

そういうわけで、現代のイギリス貴族の中身はその多くが"野心だらけの成金"と見ることができます。

2-2-2-3. 一代貴族の導入によってほぼ不可能となった文化の醸成
初代ストックトン伯爵ハロルド・マクミラン首相(1894-1986年)1959年、65歳

『1958年一代貴族法』を制定したハロルド・マクミランは1984年、90歳の時にストックトン伯爵を叙爵しました。

臣民に与えられた世襲貴族爵位としては、最後の爵位となります(2023年3月30日現在)。

以降の新設は一代貴族のみです。

フォーウエイ ウォッチキイ ペンダント アンティーク『4 FACES』
フォーウェイ ウォッチキィ・ペンダント
イギリス 1830〜1840年頃
¥255,000-(税込10%)

イギリス貴族には独特の"イギリス貴族"らしさがありました。

これは今日明日で簡単に身につけるものではありません。長い年月をかけて醸成されたものです。

最初は成金だったとしても代を重ね、100年、200年と経つうちに洗練され貴族らしくなっていくと言います。

また、お金があっても必ずしも欲しいものが手に入るとは限りません。

最高級ライトニングリッジ産ブラックオパールのエドワーディアン・ペンダント『MIRACLE』
エドワーディアン ブラックオパール ペンダント
イギリス 1905〜1915年頃
¥10,000,000-(税込10%)

稀少性が高い宝物、唯一無二の美術品などの場合、手に入れられるチャンスも限られます。

だからこそ代々、富と権力を維持して来た家だけが価値ある財宝や美術品を所有することができるのです。

世襲貴族はまともに財産を維持できなくなり・・。

代を重ねれば洗練されていく可能性がある家系でも、一代しか爵位を所持できなければ成金のまま。

貴族ならではの貴族らしい文化が発達できる環境は、もうとっくの昔に失われているのです。

2-2-2-4. 完全に乗っ取られた貴族院

起死回生の手を打ち、再び貴族の手に力を取り戻せる可能性はあるでしょうか。

もうそれは無理そうです。

1885年以降、世襲貴族は王族を除いて一切創設されていません。臣民が叙されるのは事実上、一代貴族のみとなっています。

PDウィリアム王太子(1982年-)

ウィリアム王太子の叙爵は以下の通りです。
2011年 結婚を期に叙爵
 ・ケンブリッジ公爵
 ・ストラサーン伯爵
 ・キャリクファーガス男爵
2022年 チャールズ国王即位時に王太子として継承
 ・ウェールズ公爵
 ・コーンウォール公爵
 ・ロスシー公爵
 ・チェスター伯爵
 ・キャリック伯爵
 ・キャリクファーガス男爵
 ・レンフルー男爵

世襲貴族は増えることなく自然減の道を突き進むのみである一方、一代貴族は猛スピードで数を増やしていきました。2022年には一代貴族は1,504人に達しました。2023年3月時点での世襲貴族の数は807家です。もはや数でも圧倒しています。

それだけではありません。世襲貴族はさらに貴族院での力も奪われています。

トニー・ブレア首相(1953年-)2002年、49歳

ブレア首相の成果としては、次のように言われています。

「未だ前近代的・封建的な慣習や制度が残存していた貴族院の世襲貴族議席数の制限と最高裁判所の権限独立という二大改革を成し遂げ、近代的な権力分立性の確立を達成した。」

物は言いよう。これらの改革は視点によって解釈が変わってくるとも言えます。

1999年に『貴族院法』が制定されました。

PD18世紀初頭のイギリス貴族院(ピーター・ティレマンス 1708-1714年頃)ロイヤル・コレクション

従来、世襲貴族は全員が貴族院の議席を得る権利がありました。

また、一代貴族も自動的に貴族院の議席が与えられます。

1999年の貴族院法により、貴族院議員の世襲貴族枠を92議席に制限しました。

英国議会議事堂 "British Houses of Parliament" ©Maurice from Aoetermeer, Netherlands(27 July 2008, 40:47)/Adapted/CC BY 2.0
  庶民院 貴族院
貴族 一代貴族 世襲貴族
1999年10月 650議席 1330議席 577議席 753議席(貴族院の57%)
2000年6月 650議席 669議席 577議席 92議席(貴族院の14%)

その結果、貴族院で過半数を占めていた世襲貴族の力は削がれ、14%弱の発言権しか持たなくなりました。一代貴族が86%の発言権を持ち、もはや半々で議論を戦わせるようなことは不可能となりました。この状態で覆すことは、もう不可能です。

庶民と言えども、議員となれるのはイギリスも日本同様に"普通の人"ではなく、"上級国民"のような人たちでしょう。カネやコネを持つ成金やパワー・エリート層と言えます。一代貴族も似たようなもので、成金やパワー・エリートに"貴族"ブランドを付けただけと見ることができます。

政治面に於いても、従来の貴族はすっかり力を失ったと言えます。

1999年に制定された『貴族院法』の言い訳としては、「もっぱら先祖の活躍と地位に基づくだけの世襲貴族が、ただ貴族の家系に生まれたというだけで特権を得て改革を阻害するのは問題である。その経験と実績により貴族に叙された一代貴族が主導できる貴族院にする。」とされています。

一見すると聞こえは良いのですが、よくよく考えると様々な問題も想像できます。

生きていくだけで精一杯の状態である世襲貴族も少ないくない現代、ノブレスオブリージュの精神がどこまで保てているかは分かりません。ただ、生まれながらに地位を持つ者であれば、成り上がるために権謀術数を張り巡らし、ライバルを叩き落としててでも自分だけのために動くということはしません。

一代貴族は誰のために動くでしょうか。一度叙爵すれば終身ですが、子孫に爵位は継承はできません。成り上がりである一代貴族は、その後も確固たる地位を築き蓄財し、一族の力を確固たるものにするために動くであろうことは容易に想像できます。

2000年代に入り、イギリスは庶民にとって幸せな国となったでしょうか。知り合いのイギリス人から先日、昔の楽しい思い出と共に、今の暮らしにくい状況を壮大に愚痴られました。「日本はぬるくて良いよね、老後は日本に移住しようかな。」とのことでした。

日本の方が税率がえげつないですし、高齢化と少子化がかなり酷く、状況を全く把握していない状態でのコメントかもしれません。ただ、それだけ良くない状況のようです。

庶民にとって、決して幸せな国にはなっていません。"普通の庶民"や、庶民のことを想える貴族ではなく、自分さえ良ければ良い"成金庶民"たちがカネと権力を握った結果が今ということでしょう。

PD現代の貴族院議場の玉座(2013年撮影)

『貴族院』や『貴族』が存在するため、今でも脈々とイギリスには貴族文化が受け継がれているかのように錯覚します。しかしながら日本同様、イギリスも戦後は貴族文化は終焉を迎え、その残り香も時間と共に殆ど雲散してしまったと見るのが正確です。

未だ莫大な富を保有している世襲貴族、中世から受け継がれている世襲貴族も一応は存在しますが、ごく僅かです。今のイギリス貴族に、従来のイギリス貴族らしさは期待できるはずもありません。十分なお金を持たなかったり、一代貴族の場合はお金を持っていたとしても教養やマナーを身につけていなかったり、元々『貴族』という看板を標榜しただけの成金なので、振る舞いも身につけるものも結局成金趣味となります。

高級ジュエリー市場が、違和感があるほど成金趣味のデザインに溢れている理由もこれでご納得いただけるでしょう・・。

2-3. 20世紀初期のハイジュエリー市場

成金の世の中になってからは、ジュエリーは変化に乏しいです。魅力的な新しい素材が流行ることもなく、デザインもアイデアが出尽くし、コストカット至上主義により劣化しながらデザインが使い回され、悪くなる一方の悪循環です。

本来、ハイジュエリーは時代ごとに変化していました。だからこそ年代の推定も可能です。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

この宝物は、20世紀初期のエドワーディアンに制作されたものです。

2-3-1. 試行錯誤によるデザイン的に最もパワフルな時代

ヨーロッパのハイジュエリー・デザインの進化
王侯貴族の時代 大衆(成金)の時代
アーツ&
クラフツ
モダンスタイル エドワーディアン アールデコ インターナショナル・デザイン
前期 後期
初期アーツ&クラフツのフラワーステッキ型ダイヤモンド・ブローチ1880年頃 アクアマリン ネックレス アンティークジュエリー1900-1910年頃 エドワーディアンのエレガントなダイヤモンド・プラチナ・ネックレス1910年頃 アールデコ パール&ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー1920年頃 アールデコ後期のラピスラズリ&ダイヤモンドのスタイリッシュなペンダント1930年頃 アールデコのアーキテクチャのようなロッククリスタル&ダイヤモンドの芸術的ブローチ1930年頃 1940年頃 2019年
【引用】BOUCHERON HP / WOLF BROOCH

日本の開国は、西洋美術に急速かつ大きな変化をもたらしました。特に影響したのが『雅な宮廷文化』ではなく、ヨーロッパには類似のものが存在しなかった『シンプル・イズ・ベストの武家文化』でした。

最初はアーツ&クラフツのように、日本美術の主に"要素"だけを取り入れる感じでした。次第にスタイルそのものが影響を受けるようになり、20世紀に入ると一気に融合・昇華が進み、最終的には無国籍の『インターナショナル・デザイン』に至ります。

王侯貴族の時代から大衆の時代へ移行すると、徐々にチープ感と、空虚な自己顕示欲だけが漂う成金デザイン色を強めていきます。

王侯貴族のためのハイジュエリー・デザインの進化
アーツ&
クラフツ
モダンスタイル エドワーディアン アールデコ インターナショナル
デザイン
前期 後期
初期アーツ&クラフツのフラワーステッキ型ダイヤモンド・ブローチ1880年頃 アクアマリン ネックレス アンティークジュエリー1900-1910年頃 エドワーディアンのエレガントなダイヤモンド・プラチナ・ネックレス1910年頃 アールデコ パール&ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー1920年頃 アールデコ後期のラピスラズリ&ダイヤモンドのスタイリッシュなペンダント1930年頃 アールデコのアーキテクチャのようなロッククリスタル&ダイヤモンドの芸術的ブローチ1930年頃

19世紀後期から20世紀初期にかけての、ハイジュエリーのデザインの変化は急速でした。最終的にはアールデコ・デザインへと収束します。現代デザインはアールデコ以降進化しておらず、モダンデザインとして定着しているとも言われています。

現代のデザインは『シンプル・イズ・ベスト』ではなく、実際の所はコストカット至上主義によって必要な部分まで削ぎ落としてしまった、簡素かつ貧相なデザインです。チープさを感じるのはそのせいです。

アールデコ後期以降のデザインは、現代人が見ても違和感がないと思います。古さを感じないどころか、いま見ても未来的にすら感じるのは、デザイン上必要な要素は削ぎ落とされずにきちんと存在するからです。

20世紀初期のヨーロッパのデザインの急速な変化
20世紀初頭(エドワーディアン) アールデコ
プラチナ登場直前 プラチナ登場後 前期 後期
ペリドット&ホワイトエナメル ネックレス アンティークジュエリー1900〜1905年頃 エドワーディアンのエレガントなダイヤモンド・プラチナ・ネックレス1910年頃 初期アールデコのガーランドスタイルのトロフィー・ダイヤモンド・ネックレス1920年頃 アールデコ後期のラピスラズリ&ダイヤモンドのスタイリッシュなペンダント1930年頃

モダンデザインへと通ずるアールデコまで、あっという間でした。その僅かな期間、デザインの面でもヨーロッパ各国で様々な試行錯誤が行われました。非常にパワフルな時代だったと言え、エドワーディアンからアールデコ初期にかけては驚くような魅力的なデザインがいくつも生み出されています。

2-3-2. エドワーディアンの先進的デザイン

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

この宝物は宝石が天然真珠とトランジションカット・ダイヤモンドがそれぞれ1粒ずつの、一見するととてもシンプルなデザインに見えます。

しかしながら、受ける印象はとても未来的でオシャレです。

この時代ならではのデザインと言えますが、このような特徴を持ったデザインはエドワーディアン・ジュエリーの中でもとても珍しいです。

ピアスでは初めて見ました。

エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー『Shining White』
エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス
イギリス or オーストリア 1910年頃
SOLD

エドワーディアンのデザインと聞いて、どのようなデザインを想像されるでしょうか。

この時代のハイジュエリーには"プラチナにゴールドバック"という特徴的な作りがあるため、デザイン様式や宝石の種類、カットなどを検証することなく『エドワーディアン・ジュエリー』である判断することが可能です。

それ故に、高度な専門知識や感覚を持たなくてもエドワーディアン・ジュエリーと判別できました(※これを逆手にとったフェイク・ジュエリーも既に存在します)。

このような理由により、これまでエドワーディアンのデザインについて触れる人が殆どいなかったようにも思います。

まあ、それだけではありません。時代の最先端デザインが反映されるのは、上流階級のために作られた限られたハイ・ジュエリーのみです。それを専門に40年を超えるお取り扱い実績があるからこそ、HERITAGEにはカテゴライズするに足るデータがあるとも言えます。Genも私もどちらもできますが、Genは特にデータ収集、私は分析が得意と言えるかもしれません。

多様性に富むエドワーディアンのジュエリー・デザイン
アーツ&クラフツの系統 ヨーロッパの
伝統スタイルの系統
アングロ・ジャパニーズ・スタイルの系統
アールヌーヴォー系 ガーランドスタイル系 モダンスタイル〜
ユーゲントシュティール系
アールデコにつながる系
最高級ライトニングリッジ産ブラックオパールのエドワーディアン・ペンダント
『MIRACLE』
イギリス 1905〜1915年頃
¥10,000,000-(税込10%)
エドワーディアンのカリブレカット・ルビーが美しいリボン&月桂樹のダイヤモンド・ペンダント&ブローチ アンティークジュエリー『永遠の愛』
ダイヤモンド ペンダント&ブローチ
フランス? 1910年頃
¥1,220,000-(税込10%)
セセッション(ウィーン分離派)の天然真珠&ダイヤモンドのアンティーク・ゴールドネックレス『REBIRTH』
セセッション(ウィーン分離派) ネックレス
オーストリア 1905〜1910年頃
SOLD
エドワーディアンのスタイリッシュな天然真珠&ダイヤモンドのトライアングル・ブローチ天然真珠&ダイヤモンド ブローチ
ヨーロッパ 1910年頃
SOLD

全てを網羅しているわけではありませんが、エドワーディアンのデザインにはこのようなカテゴリーがあります。デザインは新しい要素を取り入れながら進化します。

最終的にはアングロ・ジャパニーズ・スタイルの系統を組むシンプル・イズ・ベスト系のデザインが、アールデコへとつながっていきます。

そうやって収束していく前であるエドワーディアンは、本当に様々なデザインが試行錯誤で生み出されました。今回の宝物はその中でも、モダンスタイルからユーゲントシュティール系に属するデザインと言えます。4つのカテゴリーの中では、最も市場で見る数が少ない系統です。

3. 貴族のプライドを感じる美意識の行き届いた作り

3-1. 未来的な最先端デザイン

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

時代を超越した、不思議なほど未来的なデザインは、モダンスタイルやセセッション系のジュエリーの特徴であり最大の魅力とも言えます。

3-1-1. アングロ・ジャパニーズ・スタイルから発展したヨーロッパ・デザイン

イギリスで発達したアングロ・ジャパニーズ・スタイルのデザイン
クリストファー・ドレッサー(1834-1904年) 『Théière』(クリストファー・ドレッサー 1879年)モントリオール美術館 ペルシャ産トルコ石&天然真珠のアングロ・ジャパニーズ・スタイルの幾何学リング『英国貴族の憧れ』
天然真珠&トルコ石 リング
バーミンガム 1876〜1877年
SOLD

イギリスはロンドンが金融の中心だったこともあり、おパリ自慢&おパリ頼り(笑)のフランスのようにファッションや芸術などのPRにあまり力を入れておらず、芸術面で先行していた印象があまりないかもしれません。

しかしながらイギリスは開国した日本の美術様式をいち早く取り入れ、デザインの進化が起こりました。驚くべきことに、1870年代には既にアールデコのようなデザインも生み出されています。この頃のフランスは皇帝ナポレオン3世を廃位にして共和政に移行したり、普仏戦争で負けたりでゴタゴタしていた頃ですね。

鍵となる人物が来日経験もあるクリストファー・ドレッサーというデザイナーで、イギリスで発展したアングロ・ジャパニーズ・スタイルの主要人物とされています。

3-1-1-1. イギリス国内でのモダンスタイルへの進化
『中秋の名月』(チャールズ・レニー・マッキントッシュ 1892年)

アングロ・ジャパニーズ・スタイルをさらにモダンスタイルへ進化させたのが、グラスゴー派のマッキントッシュ夫妻だったと言えます。

新しいものを生み出すには試行錯誤が必要です。

マッキントッシュの作品も初期は、中世のロマンに憧れたウィリアム・モリスのアーツ&クラフツの影響下、故郷スコットランドの伝統である古代ケルト美術の造形美などを取り入れた幻想的な曲線装飾を特徴としました。

マッキントッシュ夫妻の特徴的な作品
【参考】チャールズ・レニー・マッキントッシュのデザインのチェア 『白いバラと赤いバラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1902年)2008年のオークションで約3.6億円

そこから国内で発達中だったアングロ・ジャパニーズ・スタイルを取り入れつつ、男性的で直線的な夫チャールズのスタイルと、妻マーガレットの曲線的なラインやバラなどの女性的な要素が組み合わさることで、アングロ・ジャパニーズ・スタイルとは異なる独自のデザインに進化しました。

ウィリアム・ワットのためのサイドボード(エドワード・ウィリアム・ゴドウィン 1876-1877年)
"Godwinsideboard" ©VAwebteam at English Wikipedia(26 OAugust 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

武家文化のシンプル・イズ・ベストを取り入れたアングロ・ジャパニーズ・スタイルやアールデコは、男性的な印象が強いです。また、『武家造』とも呼ばれる、書院造の強い影響を受けた日本家屋に慣れ親しんできた日本人は、これらの様式を見ても違和感なく受け入れることができます。

その一方で、"新たな驚きや感動"というのはあまり感じられないかもしれません。

ウィロー・ティールームズの『豪奢の間』再現(マッキントッシュのデザイン 1903年)
"Room de Luxe" ©Dave souza(10 March 2006)/Adapted/CC BY-SA 2.5

同時代の芸術家たちから『天才』と称された、マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ独特の女性的な感性を取り込むことで、デザインは驚くべき進化を遂げました。

一見するとアングロ・ジャパニーズ・スタイルやアールデコと大きく変わらないように見えますが、不思議なほど未来的で、しかも優しく心地よさも感じられるのです。

『芸術愛好家のための音楽室』のデザイン(マッキントッシュ夫妻 1901年)

形であったり、色使いであったり。

まだヴィクトリア朝の重厚な調度品で溢れていた時代。1900年頃の作品だなんて俄かには信じ難いほど、いま見ても未来的な印象です。

モダンスタイルのハイジュエリー
モダンスタイルのダイヤモンド・ゴールド・ブローチ 『MODERN STYLE』
ダイヤモンド ゴールド ブローチ
イギリス 1890年頃
SOLD
親鳥から蛇が卵を奪う野生を表現したイギリスのアーツ&クラフツのゴールドペンダント『WILDLIFES』
天然真珠 ゴールド ペンダント
イギリス 1900年頃
SOLD
ピンクトルマリン ペンダント アンティークジュエリー『STYLISH PINK』
ピンクトルマリン ペンダント
イギリス 1900年頃
SOLD

透かしの美、独特の間の取り方(空間使い)、左右非対称などのバランス。直線や幾何学。

シンプル・イズ・ベストという日本独特の美術様式は在りつつも、独自の感性が取り入れられ、しっかりと融合・昇華した『モダンスタイル』は強い魅力があります。

Genに「アンティークジュエリーはそれぞれの時代に傑出したデザインがあるけど、どの様式が一番好きかと聞かれたら、私はマッキントッシュのモダンスタイルが一番好み。」と言ったら、Genも僕もと言いつつ、「そう言えば、谷川さんもマッキントッシュが好きと言っていたなぁ。」と思い出していました。

谷川さんはGenの盟友にして、日本初のグラスアーティストなのだそうです。ベルビー赤坂にお店を出すご縁をつないでくださった一人で、不運にも2人してすっからかんになってしまった貧乏時代には一緒にバター醤油ご飯を食べて、それがとても美味しかったそうです(笑)

1900年前後に互いに影響し合い活躍した気鋭のデザイナーたち
イギリスのモダンスタイル 世紀末ウィーンのセセッション
チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868-1928年) マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ(1864-1933年) ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956年)1902年、32歳頃 グスタフ・クリムト(1862-1918年)1914年、52歳頃

それはさておき。100年以上の時を超えて私たちを魅了するモダンスタイルの天才デザイナー夫妻は、同時代に活躍したアーティストたちにも多大な影響を与えました。

当時としては先進的過ぎて、イギリス国内では殆ど理解されなかったモダンスタイルでしたが、美術工芸誌『THE STUDIO』を通してその存在を知ったセセッションが1900年のセセッション展に夫妻らを招待しました。

3-1-1-2. オーストリアに於けるデザインの進化
セセッション(ウィーン分離派)の天然真珠&ダイヤモンドのアンティーク・ゴールドネックレス『REBIRTH』
セセッション(ウィーン分離派) ネックレス
オーストリア 1905〜1910年頃
SOLD

セセッション(ウィーン分離派)については以前ご説明しました。

19世紀後半は国家事業としてオーストリアが新しい街へと生まれ変わり、『世紀末ウィーン』と称される芸術的頂点へと向かっていきました。

セセッションは従来のオーソドックスなメインストリームからは離脱(分離)した、当時としては先進的で異端の存在だったと言えます。

『Idylle(イディール:女)』(グスタフ・クリムト 1884年)

クリムトも初期、22歳頃の作品はこんな感じです。とても上手ではあるものの、たくさんの優れた芸術家たちの中ですら一身に衆目を集めるほどの特徴があるかと言えば、そこまでは感じません。

掛け軸にインスピレーションを受けたクリムト作品
『Liebe(リーベ:愛)』(グスタフ・クリムト 1895年)ヴィエンナ美術館 『戯曲"クラヴィーゴ"でカルロスを演じる宮廷役者ヨーゼフ・ルインスキー』(グスタフ・クリムト 1895年)

多くの才能ある芸術家たちが活躍した世紀末ウィーン。そこで埋没しないためにも、クリムトは試行錯誤を重ねていました。

クリムトが日本美術の影響を受けていることは、敢えてご説明する必要もないであろうほど有名です。19世紀末のこれらの作品は、掛け軸の構図に影響を受けています。ヨーロッパの従来の縦横比の感覚で見れば、奇抜でインパクトを感じます。技術的に上手でもあります。

でも、やはり「ふうん。とても上手ですね。」程度の印象に留まります。心に残らなくもないですが、このような構図に見慣れてしまえば、初めて見た時のような新鮮さはもう得られないでしょう。

クリムトやヨーゼフ・ホフマン擁するセセッションは日本美術にも強い関心を持ち、試行錯誤していました。

セセッション館(分離派会館)(1897-1898年)
"Secession Vienna June 2006 005" ©Gryffindor(June 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

1898年から、セセッション展が開催されました。

第6回(1900年)セセッション展『日本美術』を担当したモーザー
コロマン・モーザー(1868-1918年) 寄木細工のアームチェア(コロマン・モーザー 1900年)ロサンゼルス・カウンティ美術館

コロマン・モーザーが担当した第6回(1900年)は、日本美術がテーマでした。アドルフ・フィッシャーが蒐集した、浮世絵や工芸品などの日本美術も出展されました。

オーストリアは1873年のウィーン万博によって日本美術ブームが起き、皇太子となったフランツ・フェルディナントが世界見聞旅行で1893年に日本を訪れ、左腕に龍の刺青を彫ったりするなどしており、改めて上流階級や知的階級から日本美術は注目を集めていました。

1月から2月まで開催されたセセッション展は700点近い作品が出展され、ウィーン芸術界で大評判となったそうです。コロマン・モーザーのアームチェアは、日本の寄木細工を駆使してデザインされています。日本も急速に西洋化されましたが、ヨーロッパの視点で見れば、西洋美術への日本美術の影響も物凄い勢いだったでしょうね。

『The Wassail』 5月の女王(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1900年)

同年の11月から12月にかけての、第8回セセッション展のテーマは『外国の工芸美術』でした。

このような流れで、日本美術の影響を受けながら進化を遂げたモダンスタイルのマッキントッシュ夫妻が招待されたのは、ごく自然なことと言えるでしょう。

『The Wassail』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1900年)

特に男性アーティストたちにとっては、夫チャールズが『天才』と賞賛するマーガレット独特の感性に大きく刺激されたかもしれません。

特にクリムトは分かりやすいです。

『ベートーベン・フリーズ』(グスタフ・クリムト 1901-1902年)

"ただ上手な人"という印象が強かったクリムトですが、その後の作風は大きな進化を遂げました。セセッション展の直後に描かれたのが、この『ベートーベン・フリーズ』です。

モダンスタイル
-天才マーガレットの代表作-
セセッション
-クリムト黄金時代の代表作-
『風のオペラ』(マーガレット・マクドナルド・マッキントッシュ 1903年) 『接吻』(グスタフ・クリムト 1907-08年)

クリムト黄金時代の代表作『接吻』も、マーガレットの代表作『風のオペラ』にインスピレーションを受けて描かれたとされる作品です。独特の構図は間違いないでしょう。

単純なモノマネではなく、きちんとクリムトの中で独自の作品に仕上がっています。だからこその高い評価とも言えるでしょう。

セセッションのグリーン・トルマリンのゴールド・ネックレスセセッション トルマリン ネックレス
オーストリア 1900〜1910年頃
SOLD

ジュエリーのデザインも同様です。

アングロ・ジャパニーズ・スタイルから進化したモダンスタイルに影響を受けつつ、オーストリアで独自の進化を遂げました。

特徴がなければ、カテゴライズは不可能です。

しっかりと独自の魅力を放ち、1つのジャンルとして確立できるほど、当時は勢いある流れとなったようですね♪

3-1-1-3. 各地に於けるヨーロッパ・デザインの進化
モスクワのニュー・スタイル展の出展作品(マッキントッシュ夫妻 1902年)

モダンスタイルのマッキントッシュ夫妻らは、世界が注目するセセッション展で評判となり、大きな注目を集めました。

その結果、各地の展示会に招聘され、ブダペスト、ミュンヘン、ドレスデン、ベネチア、モスクワなど多くの国を回りました。そうして、アングロ・ジャパニーズ・スタイルから進化したモダンスタイルが、各地のデザインに影響を与え、ヨーロッパのデザインの進化を起こしました。

『対称性アート』(アレキサンダー・レドチェンコによるチェステーブル・デザイン 1925年)
" Alexandr rodchenko, scacchi da dopolavoro, progettaz. 1925, ricostruito nel 2007, 01 " ©Sailko(12 March 2016, 12:17:466)/Adapted/CC BY-3.0

最終的には全体としてアールデコに収束していきますが、1900年代から1910年代くらいまでは各国の独自色もあって、それぞれの名称で呼ばれています。ロシアの場合は『ロシアン・アヴァンギャルド』です。

雑誌『ユーゲント』の表紙(1896年)

オーストリアやドイツなどのドイツ語圏では、世紀末美術の傾向が『ユーゲント・シュティール』と呼ばれています。

保守を嫌い、それまでにない新しいスタイルを生み出したい芸術家たちによってミュンヘンで分離派が生まれました。

それがベルリンやオーストリアにも波及し、1899年にベルリン分離派、1897年にウィーン分離派が誕生しました。

セセッションと呼ばれるウィーン分離派も、ユーゲント・シュティールの一派と言えます。

ユーゲントシュティールのプリカジュールエナメル&フェザー・パールのブローチユーゲントシュティール プリカジュール・エナメル ペンダント
ドイツ 1900年頃
SOLD

ヨーロッパの従来のスタイルを抜け出し、新しいスタイルを生み出そうとした気鋭のデザイナーたち。

ヨーロッパ美術とは全く異なる様式を持つ日本美術に可能性を見出し、試行錯誤していた中で、マッキントッシュ夫妻らのモダンスタイルはその成功例の1つとして大いに参考になったことでしょう。

こうしてヨーロッパ各地でデザインの進化が起き、独特の新しいデザインが生み出されていきました。

3-1-2. 稀少なモダンスタイル〜ユーゲントシュティールのハイジュエリー

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

Genも私も「ド直球で好み!!♪」と言えるモダンスタイルのジュエリーですが、これまでの46年間でご紹介した数は極めて少ないです。

特にエドワーディアン期のプラチナを使ったものは数点で、私が知る限りでは、ピアスは初めてのご紹介になります。

それにはきちんと理由があります。

雑誌のポスター(チャールズ・レニー・マッキントッシュ 1896年)
【引用】MoMA ©Acquired by exchange from the University of Grasgow / The Museum of Modern Art

今でこそ真価が一定の理解を得ているモダンスタイルやユーゲントシュティールのデザインですが、当時はどちらも異端の存在でした。

イギリスでのマッキントッシュ夫妻らの評判も散々なもので、特に1896年のアーツ&クラフツ展では主催者から「奇妙な装飾の病」と非難され、以後の出品が禁止されてしまったそうです。

同じく異端の存在だったウィーン分離派が注目したことで、ヨーロッパ各地のデザインの進化に貢献することとなりました。

しかしながら時代に合わなかったようで、大半のヨーロッパ人には価値が理解されず、後年は建築の仕事がなくなり、チャールズは水彩画家に転向してしまったそうです。

マベパール・シルバー・ネックレス(ヨーゼフ・ホフマン 1909年)
【引用】MASTERART / JOSEF HOFFMANN / WIENER WERKSTATTE / Necklace ©MASTERART

セセッションも今でこそ名声が確立されていますが、当時はあくまでもメインストリームから離脱した異端の存在でした。だからヨーゼフ・ホフマンがデザインしたジュエリーを見てみても、HERITAGEでご紹介できるレベルの高級品はありません。

ジュエリーのデザインが専門ではなかったこともあるかもしれませんが、『アクセサリー』とカテゴライズした方が相応しいと感じるくらい安っぽいですし、材料も安物用です。

半貴石のシルバー・ブローチ(ヨーゼフ・ホフマン 1908年デザイン、1914年制作)
【引用】MASTERART / JOSEF HOFFMANN / Brooch ©MASTERART

これはミュージアム・ピースなので、ヨーゼフ・ホフマンのデザインしたジュエリーとしてはかなりマシなものです。

シルバー素材に安っぽい石がビッシリで、"有名デザイナーのサインドピース"であっても私はプライドにかけて、絶対にお取り扱いできない代物です。

有名デザイナーであってもジュエリーに関しては得意不得意があったり、こんなものだったということがご想像いただけると思います。

アーツ&クラフツの植物モチーフも取り込んでいるようですが、デザインもゴチャリようが日本人の感覚には合いません。

シンプル・イズ・ベストは武家文化で発展しました。ヨーロッパは元々、隙間なく装飾で埋め尽くすのがラグジュアリーという文化でした。シンプル・イズ・ベストはヨーロッパの男性にはある程度受け入れやすくても、女性は理解できる人が少なかった結果かもしれませんね。

デザイナーは道楽ではありません。買ってくれる人がいなければ、活動は継続は不可能です。高そうに見えるもの、つまり昔ながらのゴチャゴチャしたものを好む人がまだ多かったのでしょう。思うようにデザインできず、ホフマンは勢いを失っていったことが知られています。

美しい家具などと違ってダサいデザインですが、ホフマンもこれらのジュエリーに関しては本望ではなかったかもしれません・・。

多様性に富むエドワーディアンのジュエリー・デザイン
アーツ&クラフツの系統 ヨーロッパの
伝統スタイルの系統
アングロ・ジャパニーズ・スタイルの系統
アールヌーヴォー系 ガーランドスタイル系 モダンスタイル〜
ユーゲントシュティール系
アールデコにつながる系
最高級ライトニングリッジ産ブラックオパールのエドワーディアン・ペンダント
『MIRACLE』
イギリス 1905〜1915年頃
¥10,000,000-(税込10%)
エドワーディアンのカリブレカット・ルビーが美しいリボン&月桂樹のダイヤモンド・ペンダント&ブローチ アンティークジュエリー『永遠の愛』
ダイヤモンド ペンダント&ブローチ
フランス? 1910年頃
¥1,220,000-(税込10%)
セセッション(ウィーン分離派)の天然真珠&ダイヤモンドのアンティーク・ゴールドネックレス『REBIRTH』
セセッション(ウィーン分離派) ネックレス
オーストリア 1905〜1910年頃
SOLD
エドワーディアンのスタイリッシュな天然真珠&ダイヤモンドのトライアングル・ブローチ天然真珠&ダイヤモンド ブローチ
ヨーロッパ 1910年頃
SOLD

ハイジュエリーの制作は、ハイジュエリーを身につける特別クラスのパトロンがつかねばできません。

エドワーディアンのジュエリー市場を見ると、ハイジュエリーはやはりメインストリームの作品が多いです。今でこそ名声を確立しているモダンスタイルやユーゲントシュティールですが、当時はまだ理解が追いついておらず、最終的には駆逐されてしまったメインストリームの方が圧倒的多数派だったということでしょう。

マザー・オブ・パールのシルバー・ブローチ(ヨーゼフ・ホフマン 1912年)
【引用】MASTERART / JOSEF HOFFMANN / Brooch ©MASTERART

そう言うわけで、ヨーゼフ・ホフマンほど知名度のあるデザイナーであっても、安い素材で作った量産用の安物(一応ハンドメイド)ばかりなのです。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

このため、モダンスタイルやユーゲントシュティールのハイジュエリーは極めて数が少ないです。

その一方で、時代を先取りし過ぎた先進的なスタイルを理解できるほどの人物がオーダーしたものなので、あった場合は必ずデザインも作りも抜群に優れていると言えるほど、素晴らしい場合が多いです。

3-1-3. 未来的な雰囲気が魅力の稀少なジュエリー

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

モダンスタイルやユーゲントシュティールのハイジュエリーに共通するのが、いま見ても未来的と感じられる、不思議なほどの未来的な雰囲気です。

モダンスタイル
レイト・ヴィクトリアンのペリドット&シードパールのゴールド・ネックレス アクアマリン・ピアス アンティーク・ジュエリー 神奈川沖浪裏をモチーフにしたモダンスタイルのサファイア・ブローチ
ダイヤモンド ゴールド ブローチ アンティーク・ジュエリー
エドワーディアンの天然真珠&ダイヤモンドのストライプ・デザインのペンダント エドワーディアンの揺れるタイプの上品なダイヤモンド・ピアス ピンクトルマリン ペンダント アンティークジュエリー シャンルベ&ギロッシュエナメルのヴィクトリアンのシードパール・フラワー・ブローチ
サファイヤ ネックレス アンティークジュエリー 親鳥から蛇が卵を奪う野生を表現したイギリスのアーツ&クラフツのゴールドペンダント アクアマリン ネックレス アンティークジュエリー アンフォラ型 ペンダント アンティークジュエリー
ユーゲントシュティール
セセッション(ウィーン分離派) ネックレス アンティークジュエリー アーリー・エドワーディアンのダイヤモンドのネグリジェネックレス ユーゲントシュティールのプリカジュールエナメル&フェザー・パールのブローチ
ヴィクトリアンの個性的なオールドヨーロピアンカット・ダイヤモンドのゴールド・ピアス セセッションのグリーン・トルマリンのゴールド・ネックレス セセッションの芸術的な天然真珠&ダイヤモンドのネックレス
セセッション(ウィーン分離派)のサファイア&天然真珠のアンティークの渦巻き型ゴールド・ブローチ エドワーディアンのダイヤモンドのネグリジェネックレス セセッションのサファイア&ダイヤモンドのスタイリッシュなネックレス

3-1-4. 特にレアなプラチナ主体のモダンスタイル・ジュエリー

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

モダンスタイルやユーゲントシュティールのハイジュエリーを並べてみました。特にモダンスタイルは素材として、ゴールド主体の割合が多い印象です。

1900年のセセッション展以降、ヨーロッパ大陸各地にモダンスタイルがより影響を与えるようになっていきました。

プラチナが画期的新素材としてジュエリーの一般市場に出始めるのは、技術的課題と産出量的な課題の双方が解決された後の1905年頃からです。

プラチナは1914年勃発した第一次世界大戦によって、十分な量を使えない時期がありました。また、プラチナ登場の初期は供給量の問題があり、使用できる量に制約がありました。どちらの理由も、お金があっても必ずしも解決できないものです。

この2種類の理由により、エドワーディアンはプラチナにゴールドバックの作りのハイジュエリーが存在します。

オール・ゴールド 一部プラチナを使用
ダイヤモンド ゴールド ブローチ アンティーク・ジュエリー 『MODERN STYLE』
モダンスタイル ダイヤモンド ゴールド ブローチ
イギリス 1890年頃
SOLD
セセッション(ウィーン分離派)のサファイア&天然真珠のアンティークの渦巻き型ゴールド・ブローチセセッション(ウィーン分離派)ブローチ
オーストリア(ウィーン)1900〜1910年頃
SOLD

モダンスタイルやユーゲントシュティールが特に注目されたのは、1900年前後です。ちょうどジュエリーの一般市場に、プラチナが登場する前後頃となります。このため、プラチナ登場以前は最高級の金属としてゴールドを贅沢に使用した作りの宝物が存在します。

また、出始め頃は十分な量が確保できないこともあり、ダイヤモンド部分のみにプラチナを使うなどの作りのものもあります。

エドワーディアンの天然真珠&ダイヤモンドのストライプ・デザインのペンダント『ストライプ』
天然真珠&ダイヤモンド ペンダント
イギリス 1910年頃
SOLD
神奈川沖浪裏をモチーフにしたモダンスタイルのサファイア・ブローチ『The Great Wave』
サファイア&ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1910年頃
SOLD

タイミング的に、プラチナを主体としてモダンスタイルのジュエリーは割合的に少ないのです。

同じデザインであっても、ゴールドよりプラチナの方がより未来的な印象を受けるでしょう。

1900〜1920年頃のハイクラスのピアス
モダンスタイル トランジション・ジュエリー
アクアマリン・ピアス アンティーク・ジュエリー エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス エドワーディアンの揺れるタイプの上品なダイヤモンド・ピアス アーリー・エドワーディアンのスタイリッシュなダイヤモンド・ピアス

1900年から1920年頃にかけてのピアスを並べてみました。一番右はプラチナにゴールドバックのエドワーディアンの作りで、モダンスタイル的な特徴もありますが、デザイン的にはアールデコと呼ぶ方がしっくりくるのでトランジション・ジュエリーとカテゴライズするのが適切でしょう。

無駄のなさから来るスタイリッシュさがある一方で、さりげないデザインに贅沢に技術と手間をかけて美しさを追い求めて"唯一無二の特徴"を備えているのがモダンスタイルの最大の特徴であり魅力です。

私自身が特にモダンスタイル好きなので、見つけたら必ず買い付けていますが、5年間でピアスは3点目です。プラチナ製に限ると2点目です。現代のデザインにつながるアールデコ・デザインならば、雰囲気だけ似たものはまだ存在しますが、モダンスタイルは当時でさえ手間がかかる贅沢なものだったので、当然ながら類似のものはありません。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

一見するととてもシンプルな印象なのに、とても未来的なデザインのピアスです。

極上の天然真珠とクリアなダイヤモンドを使用していますが、宝石よりデザインに目が行きます。これも優れたデザインならではの特徴です。

時代を先取りし過ぎたモダンスタイルを理解し、これだけのジュエリーを特別オーダーできた人物というのは、貴族の没落が激しかった当時そうはいません。かなり特別で、稀少性の高い宝物なのです。

3-1-5. 贅沢な作りに由来する未来的な雰囲気

3-1-5-1. 複雑に設計された絶妙の雫型フォルム
トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

あまりに違和感のない美しいフォルムなので、複雑な設計になっていることに気づきにくいのですが、このパーツには驚くほど高度なデザイン設計と技術が詰め込まれています。

まず外周に注目すると、直線個所は存在せず、曲線を巧みにデザインして滑らかさやシャープさを表現していることが分かります。下部の尖り具合も絶妙です。直線ならばデザインするのも、作るのも単純で簡単だったはずですが、それではこの雰囲気は出ません。

透かしのデザインにして、内周はバランスの良い少し縦長の雫型になっているのもセンスが良いです。

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

このパーツはフラットではなく、立体方向にも複雑にデザインされています。ふっくらとしたフォルムと、中心に線が現れるよう、左右で異なる面の方向になっています。

何となく雰囲気はお分かりいただけるでしょうか。

モダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンド・ピアス

単純なフラット形状ではなく、どの方向も複雑な立体にデザインされています。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

このため、光の当たる角度によって複雑に表情が変化します。揺れる構造だからこそ、その表情の豊かさが増幅され、実際にピアスとして着用している時が最も魅力的に見えます♪♪

3-1-5-2. 中空による特別な作り
トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

このピアスは、プラチナにゴールド・バックのエドワーディアンの作りです。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

ところで上部の天然真珠のパーツと、下部の雫型のパーツを見比べると、プラチナの分量が全く異なることにお気づきいただけるでしょうか。上部のパーツは通常のゴールドバックという印象ですが、雫型のパーツは後ろを見なければオール・プラチナのようにも見えます。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

実はこのパーツは中空になっており、裏側に小さな穴があります。

鋳造による中空の作りにする際、できたものです。

アンフォラ型 ターコイズ&ゴールド ピアス アンフォラ型 ターコイズ&ゴールド ピアス
イギリス 1860〜1870年頃
トルコ石、15ct ゴールド
SOLD
アンフォラ型 ターコイズ&ゴールド ピアス
中空の作りは『古代のアンフォラ』のピアスでも見ることができました。

現代ジュエリーは量産に適した『鋳造(ちゅうぞう)』で殆どが作られます。ただ、気をつけたいのが「鋳造イコール悪」というわけではないことです。

金属を叩いて鍛える『鍛造(たんぞう)』は、金属を溶かして冷やし固めただけの鋳造より強度を高めることができます。より少ない量で、強度を出すことができます。

単に眺めるだけの美術品と異なり、身につけて使うジュエリーには耐久性が必要です。必要な耐久性を出そうとすると、鋳造ではかなりの分量の金属が必要となります。だからボテッとしたデザインになってしまいます。これを業界は「ゴールド(或いはプラチナなど)を贅沢に使ったラグジュアリーな作り」と表現するわけです。単に繊細なデザインが作れないのを誤魔化すためであり、ボテッとしたダサいジュエリーをさも高級品と勘違いさせて高値で販売するための宣伝文句でしかありません。

アンティークのハイジュエリーは耐久性が必要な場合、手間(つまりお金)がかかっても鍛造で作ります。常に力がかかったり、どこかにぶつけたりしやすいリングであったり、着脱の際に力がかかるブローチなどは、特に耐久性が必要です。

アンフォラ型 ターコイズ&ゴールド ピアス アンフォラ型 ターコイズ&ゴールド ピアス
イギリス 1860〜1870年頃
トルコ石、15ct ゴールド
SOLD

ピアスは他のアイテムと異なります。着脱の際も、力は殆ど加わりません。故に鋳造も選択できます。

貴金属であるゴールドやプラチナは重たいです。いくつか密度を並べてみます。
 Al(アルミニウム)=2.70 g/cm3
 Fe(鉄)=7.87 g/cm3
 ステンレス(SUS304)=7.93 g/cm3
 Cu(銅)=8.94 g/cm3
 Ag(銀)=10.49 g/cm3
 Au(金)=19.32 g/cm3
 Pt(プラチナ)=21.45 g/cm3

割金で変わるものの、ゴールドやプラチナは通常の金属の倍くらい重さがあります。

このような、たっぷり体積があるデザインの場合、そのまま金塊で作るとかなりの重量となります。揺れる構造だと、特に重たいピアスは耳への負担が大きいです。下手をすれば怪我をしたり、耳のピアス穴が変形してしまいます。鋳造ならではの中空の作りは、軽くできるメリットがあるのです。

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

また、型を使うので複雑な形でも全く同じ形にすることが可能です。少しでもバランスが崩れると、雰囲気が変わってしまうデザインには鋳造は最適と言えます。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

また、まだ限られた量しか使えなかった時代に、まるでプラチナだけで作られたかのように見えます。

他にこのような鋳造のプラチナによるアンティークジュエリーは見たことがなく、技術的にも特別に開発されたものだと想像できます。

ゴールドとプラチナでは融点が全く異なっており、だからこそプラチナが一般のジュエリー市場に登場するのは20世紀に入ってからでした。それまでのゴールド用の道具や技術をそのまま使えたわけではないはずです。

また、気をつけておきたいのが"鋳造イコール安物"というわけではないことです。

型を使う鋳造は、量産できるメリットがあります。1つ型を作れば、同じものを100個、1,000個と量産できます。このスケールメリットによって、安価に製品を提供できるようになります。

どんな場合でも、マスターとなる型を制作するにはお金と技術と手間がかかります。100個作る場合は、その費用を1/100ずつ均等に負担します。1,000個作るならば費用負担は1/1,000で済みます。これがスケールメリットによるコストダウンです。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

このモダンスタイルの最先端かつ特殊なデザインの宝物は、もちろん量産ではありません。

量産品の100倍、1,000倍のコストをかけて、この唯一の宝物が作られているのです。

それによって王侯貴族の最高級品らしい気品、美しい揺れ、軽やかな付け心地が実現したと言えるでしょう。ここまでするものは滅多にないからこそ、見たことがないような宝物と言えるのです。

3-1-5-2. "線の美"を意識したモダンスタイルらしいデザイン
エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

下部の雫型のパーツも素晴らしいですが、上部の天然真珠の外周のプラチナの輪もとても魅力があります。

これは"線"として輝きを放つようフラットラインで作られています。

この『線の美』を意図したフラットラインのデザインは、モダンスタイルのジュエリーにほぼ共通する特徴です。

ピンクトルマリン&天然真珠のモダンスタイル・ペンダント アンティークジュエリー『STYLISH PINK』
ピンクトルマリン ペンダント
イギリス 1900年頃
SOLD

『線の美』、『透かしの美』、『空間の美』などを表現するための『フラットライン』は、モダンスタイル以前のアンティークジュエリーでは見ない技法です。

『線の美』、『透かしの美』、『空間の美』を意識した日本美術の影響を受けて生み出された可能性が極めて高く、日本人独特の美意識をヨーロッパの一部の人たちが理解し始めた現れと考えられます。

以前のヨーロッパでは、意図してフラットな線で表現したものはありませんでした。

アクアマリン ネックレス アンティークジュエリー『Samurai Art』
モダンスタイル アクアマリン&天然真珠 ネックレス
イギリス 1900〜1910年頃
SOLD

"線"はその存在感を極力薄くするために、限りなく面積のない2次元の"線"として表現することが追い求められました。

故に『Samurai Art』の下部にあるような、ナイフエッジの技法で表現するのがハイジュエリーの基本でした。

ナイフエッジとフラットラインの両方を使ってデザインした宝物はこれ以外に見たことがないほど珍しいですが、美意識の高い王侯貴族のために作られたアンティークのハイジュエリーが、"線の表現"を意識して技法を使い分けていたことが分かる貴重な証となっています。

エドワーディアン 天然真珠&ダイヤモンド ペンダント アンティーク 『ストライプ』
天然真珠&ダイヤモンド ペンダント
イギリス 1910年頃
SOLD
エドワーディアン 天然真珠&ダイヤモンド ペンダント アンティーク

ナイフエッジや曲面で表現された"線"とは明らかに異なる性質を持ちます。ご覧の通り、フラットラインはある瞬間に強烈な存在感を放ちます。

強く印象的な輝きを放つフラットライン
アンフォラ型 ペンダント アンティークジュエリー アンフォラ型 ペンダント アンティークジュエリー モダンスタイルの非加熱サファイア・ネックレス『草花のメロディ』
イギリス 1900年頃
SOLD
アクアマリン ネックレス アンティークジュエリー『Samurai Art』
イギリス 1900〜1910年頃
SOLD
『黄金に輝くアンフォラ』
イギリス 1900年頃
SOLD

存在感を極限まで無くすためのナイフエッジは"名脇役"の要素となりますが、フラットラインは主役の1つとも言えるほど強い魅力があります。

ダイヤモンドやミルグレインなどの輝き同様、この魅力は静止画では分かりにくいかもしれません。宝石にしか目が行かない成金嗜好と異なり、卓越したデザイン力と高度な技術があってこその美しさです。ここにお金をかけられることこそ、美意識の高い王侯貴族のために作られたハイジュエリーの証でもあるのです。

エドワーディアンの揺れるタイプの上品なダイヤモンド・ピアス『ALL WHITE』
オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド ピアス
イギリス 1910年頃
SOLD

プラチナの白く硬質な輝きは、ゴールドのフラットラインよりさらに強烈な印象を与えます。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

広い面積ではなく、程よい面積の"線"として輝くからこそ上品さを失うことなく、センスの良さと未来感を強く感じさせてくれます♪♪

透かしの美、空間の美、そして線の美。小さな宝物には、いくつものデザイン要素が込められており、それが美しさと未来的雰囲気になっているわけです。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

ちなみにこれは在庫管理のために、室内光とスマートフォンで撮った画像です。

本来、お見せするものではありませんが、たまたま片方のフラットラインだけ強く反射していました。この一瞬は、ダイヤモンドの輝き以上に強い印象を与えることがお分かりいただけると思います♪♪

3-2. 未来感を出すための見事な構造デザイン

ダイヤモンド・ピアス(ティファニー 2023年)
¥2,365,000- 【引用】TIFFANY & CO / ティファニー ハードウェア リンク ピアス©T&CO

ジュエリーとして使用するための耐久性を出すために、現代ジュエリーは楽をしようとして(すなわち製造コストの節約)、たっぷりと金属を使います。

女性用なのに、メンズジュエリーのような無骨でボテッとした印象のものが多いのはそのせいです。

これも、なかなかですね。

ダイヤモンドは合計1.18カラットだそうです。微小なメレダイヤはサイズや質にも依りますが、通販で数百円で買えるくらい安いです。大手メーカーの一括仕入れならば相当安く買ってるはずです。

236万5千円は高級ブランドとして、かなり広告宣伝費やチヤホヤ代が乗っていそうですね。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

高度な技術を持つ職人の手仕事で作られたアンティークのハイジュエリーは作りに技術と手間(つまりお金)をかけることで、繊細な美しさと耐久性を両立させます。

成金趣味の重量感あるデザインが大流行したミッドヴィクトリアン・ジュエリーと異なり、この宝物はとにかく軽やかさを感じます。

輪っかや涙型のパーツは、まるで宙に浮いているかのように感じます。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

この宙に浮いているかのような不思議な感覚こそが、"未来的"と感じさせるために計算されたフューチャー・デザインのなせる技です。裏側から、手間をかけた巧みな技を見ることができます。

上部の二重円のパーツは、天然真珠とプラチナの輪を連結する縦の土台をナイフエッジに仕上げています。だから天然真珠もプラチナの輪も宙に浮いているように見える一方で、耐久性としては100年以上の使用にもビクともしない強度を保持しています。

下部の涙型のパーツも、正面からだと強度は大丈夫なのか不安に思うほどの見た目です。上下たったの2箇所を、ごく僅かな接地面積だけで連結しているように見えます。しかしながら裏側を見ると、ゴールドの芯棒でしっかりと支えられていることが分かります。

モダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンド・ピアス

見えない工夫や、そのための技術や手間には恐れ入ります!!♪

これぞ、美意識の高い王侯貴族のために作られた最高級品に相応しい作りです。

アンティークのハイジュエリーでもここまで気が利いていて、技術的にも高度な技を駆使されているものは滅多になく、まさに最高級品と称するに相応しいです。

モダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンド・ピアス

天然真珠や涙型のパーツが宙に浮いているように見えるのは、他にも工夫があります。

サイドからご覧いただくと、それぞれ少し飛び出すように構造デザインされていることが分かります。僅かなことに見えますが、これが大きな視覚効果として効いています。

モダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンド・ピアス

シンプルに見えるデザインの中に、どれほどのアイデアとセンスが込められているのか・・・。

美しいものには、必ず理由があるのです・・・♪♪♪

3-3. 小ぶりながらも質にこだわった宝石

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

デザインが優れているほど、宝石はデザインの一部として調和しており、宝石自体があまり凄そうに見えません。

しかしながら、王侯貴族の日常用の最高級ジュエリーに相応しい、とても上質な宝石が使われています。

それこそが、簡素な安物とは明らかに異なるポイントとも言えます。

3-3-1. 最先端のトランジションカット・ダイヤモンド

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

ダイヤモンドは2粒のみですが、特別な石がセットされています。

従来のオールドヨーロピアンカットではなく、当時の最先端と言えるトランジションカットのダイヤモンドです。

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

とてもクリアなダイヤモンドで、カットの仕上げも良いことから、輝きも強いです。このため、カットの詳細は分かりにくいかもしれません。これは『トランジション・カット』になっています。

アーリー・ヴィクトリアン ダイヤモンド・リング アンティークジュエリー『ミラー・ダイヤモンド』
アーリー・ヴィクトリアン オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド リング
イギリス 1840年頃
¥3,700,000-(税込10%)

長い間、ハイジュエリーのダイヤモンドのカットはオールドヨーロピアンカットが主流でした。下部のキューレットがカットされていることが特徴の1つです。

カットが近代化される以前、硬いダイヤモンドのカットはとても大変でした。だからこそ今より遥かに高級品だったわけですが、キューレットがカットされていた理由は何でしょう。

ダイヤモンド ブローチ アンティーク・ジュエリー『幸せのメロディ』
ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1880年頃
SOLD

技術的にも労力的にも、近代化以前はカットするだけで困難を極めました。

対称性の高い精緻なカットは、それこそ不可能と言えるほどでした。

故に相当な高級品でも、19世紀以前のダイヤモンドはラフなカットであることが特徴です。

それこそが、高度な技術を持つ職人のハンドメイドだからこそ出てくる味わいであり、人工的な機械工業製品ではなく芸術性を感じる理由でもあります。

だからGenも「古いダイヤモンドの方が魅力があって好き♪」と言うわけですが、対称性を取るのが難しいからこそ、下部のキューレットの1点に正確にカットを収束させるのが困難でした。

オールドヨーロピアンカット トランジションカット
オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド1910年頃のジュエリーより オールドヨーロピアンカットからブリリアンカットへのトランジットカット・ダイヤモンド1930年代のジュエリーより

このためキューレットを一定部分、削り取っていたようです。電動研磨機とダイヤモンドソウが発明され、対称性の高いカットが簡単にできるに連れて、キューレットをカットする必要がなくなっていきました。

現代主流のブリリアン・カットはキューレットがカットされていませんが、古いオールドヨーロピアンカットから現代のカットに繋がるまでの過渡期のカットとして、『トランジションカット』があります。

アールデコのトランジションカット・ダイヤモンド・リングアールデコ トランジションカット・ダイヤモンド リング
イギリス 1930年代
SOLD

現代の薄っぺらいブリリアンカットとも異なる、透明感と輝きを両立したカットです。

カットが現代に近いので、古くささがないですね。

これは1930年頃の宝物です。

王侯貴族の時代が完全に終焉を迎えた戦後は、商業主義によって美しさよりコストカットが優先され、一気に魅力のない現代のカットに移り変わってしまいます。

1ctオーバーのダイヤモンドとルビー&エメラルドを使ったスパイダーのアンティークジュエリー

『スパイダー』
オーストリア? 1900年頃

オールドヨーロピアンカット(トランジションカット)・ダイヤモンド、ローズカットダイヤモンド、エメラルド、ルビー、プラチナ、シルバー、18ctゴールド
SOLD

最初期のトランジションカットこの宝物で見ることができます。1900年頃の、コンテスト・ジュエリーの可能性が高い作品です。

デザイン/作り/素材が三拍子揃っているのがコンテスト・ジュエリーの特徴です。メインストーンのダイヤモンドは1ct以上の大きさと、見事なまでのクリーンさを兼ね備えた石です。それにトランジションカットを施した特別な宝石だからこそ、コンテストに出展するための特別な作品のメインストーンとして成立するわけです。

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

この宝物もコンテスト・ジュエリーに匹敵する特徴を備えています。

自らコンテスト出品のために、これだけ高価な素材を使用してジュエリーを制作できるモダンスタイルのデザイナーはおらず、これは王侯貴族のオーダー品だろうと考えています。

ただ、お金に糸目をかけず制作させてくれるオーダー主のために、アーティスト兼職人がプライドと魂を込めて制作したのだろうと想像します。

最先端のカットが施された、小さいながらも極上のダイヤモンド。

アンティークのトランジションカット・ダイヤモンド

キューレットの先端を見ると、とても精度良くカットされていることが分かります。

従来のオールドヨーロピアンカットも異なる。現代のチラチラとした弱い輝きしか放てないアイデアルカットとも異なる、特別な魅力を放ってます。

まさにモダンスタイルの最高級品に相応しいダイヤモンドです♪♪

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

この美しい透明感は、侵入した光を全て反射するよう設計された現代のアイデアルカットでは出せないものです。本来、透明感はダイヤモンドの大きな魅力の1つなのです!!

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

そして、透明度の高いクリアな石だからこそ美しいファイアを放つこともできます。

このタイミングでは、高貴な印象のブルーのファイアが出ています♪

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

ダイナミックなシンチレーションに、ゴージャスなファイア。オールドヨーロピアンカットの持つ魅力を保持しながらも、キューレットがカットされておらず正確性の高いトランジションカット・ダイヤモンドには、未来的で明るさに満ちた輝きがあります。

小さな1粒ずつに込められた技術と美しさへの強い想いは、見た目以上に大きいのです!♪♪

3-3-2. 上質な天然真珠

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

この宝物は天然真珠を使っていることも、ポイントの1つです。

小さいですが、大きさ、色、照り艶などの質感が揃った上質な天然真珠を使用しています。

養殖真珠のように"化学薬品で脱色して染色する"調色が当たり前、貝殻を削って作った"サイズの揃った核"に薄い真珠層をメッキしただけの人工物と違い、外観が同じような天然真珠を揃えることだけでも非常に大変です。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

現代はジュエリー業界の"楽して金儲け"主義に加えて、養殖真珠の自滅もあって、宝石としての"真珠"の価値がダイヤモンドに劣る印象を持つ人が少なくありません。

この宝物が作られた時代は、史上最も天然真珠が高く評価されていた時代でした。

南アフリカのダイヤモンド・ラッシュによってダイヤモンドの稀少価値が低下し、相対的に稀少価値の高い無二の宝石として評価が高まったからです。

宝石とその他の違い

欲しいだけ生産して供給が可能な人工物(工業製品)である養殖真珠は、稀少価値を持ちません。権威付けしてさも価値があるように見せ、高い値段で売られていますが、本来は"宝石"を名乗れない代物です。

あるがままを使う天然真珠の場合、全てがハイジュエリーの宝石として使えるわけではありません。色、形、質感など全てが揃う外観が美しいものは、ほんの一握りです。

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

核の形を反映した球形ばかりの養殖真珠と異なり、天然真珠はその形状も様々です。球形の場合は天然真珠ネックレス、ボタンパールは高さが出過ぎない方が良いリング、小さければハーフパールにして脇役として使うなど、全ての天然真珠は個性に合わせて適材適所です。

この宝物の天然真珠はスライムのような少し潰れた形状が特徴的です。良い感じにデザインに馴染んでいます。

モダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンド・ピアス

天然真珠の質は極上で、まさに最高級ジュエリーに相応しいです。プラチナに映えるホワイトカラー、透明感を感じる瑞々しい艶、時折感じられる虹色の干渉光。

天然真珠の虹色の干渉光
エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
←↑等倍

質とそれに伴う美しさに意識が行かず、ただ大きさだけをドヤる成金ジュエリーとはここが決定的に異なるのです。小さくても質にこだわった美しい天然真珠は、まさに美意識の高い王侯貴族のために作られた最高級品である証と言えるでしょう。

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

虹色の干渉光を浮かび上がらせる天然真珠に、色とりどりのファイアを放つダイヤモンド。

思いの外、色とりどりの宝物と言えるかもしれません♪♪

3-4. 高い技術を感じる美しいグレインワーク

エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

この宝物が最高級品として作られていると実感できるポイントとして、精度の高いミルグレインがあります。

さらに、さりげなく完成度の高いグレインワークをデザインしていることで、美意識の高い王侯貴族の最高級品であると確信できます。

3-4-1. 美しいグレインワークの存在価値

【有り】
アンティークの最高級品
【無し】
現代の高級量産ジュエリー
ジャポニズムの笹竹のアールデコ・ダイヤモンド&天然真珠ペンダント アンティークジュエリー『清流』
アールデコ ジャポニズム ペンダント
イギリス 1920年頃
SOLD
【参考】ブシュロン ダイヤモンド・ネックレス ¥7,920,000-(税込)2023.2.2現在
【引用】BOUCHERON / プリュム ドゥ パオン ペンダント ラージ ©BOUCHERON

グレインワークは一見すると地味な細工ですが、美しいデザインと雰囲気には必要不可欠です。だから美意識の高い王侯貴族のために作られたアンティークのハイジュエリーでは、当たり前のように見ることができます。

右の現代ジュエリーは800万円近くもするブランド品ですが、デザイン的に魅力を感じますか?ダイヤモンドがシラっちゃけている上にノッペリした印象で、私にはチャチなアクセサリーのようにしか見えません。800万円どころか8千円でも買わないと言うか、そもそもタダでも要らないです。妙にノッペリとして見えるのは、羽根の先端までダイヤモンドで埋め尽くされているからです。 先端にグレインワークがあれば、そのグラデーションによって動きや繊細さが感じられたはずです。

現代ジュエリーは、高級品として高い値段で販売されているものでも量産の鋳造品です。高いだけで、アンティークのハイジュエリーのように品質が高いわけではありません。鋳造の作りなので、このようなノッペリとした作りとデザインにしかできません。価格の大半はブランディングのためのプロモーション費用やチヤホヤ代であり、製造コストをかけていませんから、モノとしてはこんなものでしょう。

ミルグレインの比較
職人の手仕事(鏨を打ち、鑢で磨き仕上げ)エドワーディアン ダイヤモンド ネックレス アンティーク・ジュエリー 鋳造【参考】現代ジュエリー

鋳造は量産によるコストカットの利点がある一方で、型への追従性や型離れなどの観点から、手仕事のような細密な作りができません。細密さを追うことで真の美しさを表現しようとすると、どうしても高度な技術を持つ職人の手仕事に頼らざるを得ないのです。それはもちろん高くつき、だからこそ高級ジュエリーとして存在するのです。現代は業界にだけ都合の良いルールやプロモーション戦略によって、おかしなことになっているだけです。

鋳造で作る現代ジュエリーの爪やミルグレインは、ブツブツ恐怖症の方には寒気がするかもしれません。そうでなくとも、これを純粋に美しいと思える方はいらっしゃらないと思います。

グレインワークも然り。美しいグレインワークは高度な技術と手間をかけたハンドメイドでしか実現できないため、所詮は本性は安物でしかない現代ジュエリーでは高級品でも見ることがないのです。もはや技術自体が残っていません。鋳造によるブツブツした気持ち悪いものは、一応あると思います(笑)

3-4-2. グレインワークの難易度から見えてくる最高級品の証

Genも私もプライドにかけて、最高品質の宝物しかご紹介しません。だから、アンティークジュエリーならばどれでも作りが良いと勘違いされる方もいらっしゃるかもしれません。

私たちは買付けで様々な品質のアンティークジュエリーを見ます。その殆どはご紹介できないクオリティです。

例えばこれだと、他店ならば高級品としてご紹介すると思います。

実際、アンティークジュエリーの中では一応高級な部類に入りますが、私たちの基準は全く満たしません。

ミルグレインやグレインワークの作りを見れば一目瞭然です。

【参考】HERITAGEでは扱わないレベルのエドワーディアン・ブローチ
【参考】HERITAGEでは扱わないレベルのエドワーディアン・ブローチ

拡大すると、グチャっと潰れたような気持ち悪い作りとが分かります。特に左下や右上に位置するグレインワークをご覧いただくと分かりやすいでしょうか。このように、作りが悪いハンドメイド・ジュエリーは拡大に耐えられません。HERITAGEが拡大画像を掲載する一方で、他店はそれができない理由の1つです。

アンティークジュエリーの素晴らしいミルグレインHERITAGE品質の宝物の作り 【参考】HERITAGEの基準に満たない作り

HERITAGE品質の宝物だと、グレインワークはまるで粒金を蝋付したかのように際立っています。腕の良くない職人による稚拙な作りだと、グチャッとくっついたようにな汚い外観です。それでもグレインワークがあるだけまだマシで、本当の安物だとそもそもグレインワークを施すことすらしません。

その観点では、グレインワークがあるというだけでも"ある程度の高級品"と言えます。グレインワークは技術的に難しいからこそ、職人の腕によって特に仕上がりに大きな差が出ます。アンティークジュエリーの良し悪しを見極める上では、欠かせない技法と言えるのです。

3-4-3. 最高級品の証となる美しいグレインワーク

アンティークのトランジションカット・ダイヤモンド エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

この宝物のグレインワークは実に見事です。完璧に磨き上げられているからこそ、粒状の輝きもとても美しいです。

実際のサイズをご想像いただくと、人間がやったとは思えないような神技の細工であることがお分かりいただけると思います。

もちろん、当時の第一級の腕を持つ職人による作品です。

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア

外周パーツは鋳造による中空の作りですが、内側のパーツは鍛造です。厚みのある鍛造の土台を深く削り出して、このパーツを作っています。削り出す際に、上手にグレインワークとなる部分を彫り残していることが分かります。キリリとした美しさが際立つ、完璧な仕事ぶりです♪

トランジションカット・ダイヤモンドの煌めきとファイア
エドワーディアンの雫型の天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス
←↑等倍

とても小さなスペースに、極めて高度な技術が詰まっています。
まさに、時を超えて語りかける小さな宝物です♪♪

裏側

裏側も完璧で美しい作りです。

ピアス金具部分に、15ctゴールドを示す585の刻印があります。

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

軽くて揺れる構造ですが、閉じた構造のピアス金具なので、落としにくいのも良いですね♪

持ち主は福耳だったのか、金具の幅が長いです。

金具の幅は約1cmで、耳たぶが厚めの方でも使いやすそうです。

耳たぶが薄くてピアスが傾いてしまう方は、シリコンキャッチをサービスでお付けしますので、後ろ側でご調整いただければと思います。

着用イメージ

モダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアスの着用イメージ

個性的なデザインですが、小ぶりなので悪目立ちすることなく、様々なコーディネートに合わせやすいと思います。

ダイヤモンドや天然真珠だけでなく、当時は画期的な新素材として最も注目を集め、ステータスの象徴としてデザインのポイントとなっているプラチナもよく輝きます。

小ぶりなのに存在感があり、個性ある形や輝きでしっかりと見る者を魅了することができる、唯一無二の魅惑の宝物です!♪

 

 

エドワーディアンのモダンスタイルの天然真珠&ダイヤモンドの最高級ピアス

取り巻く環境の変化や、政治的な意図によりイギリス貴族が力を失っていった時代。

第一次世界大戦を契機に、さらに大きく力を落と社交界全体の質と雰囲気が変わってしまう前だからこそ創ることのできた、極めて贅沢な宝物。

時代を先取りし過ぎたモダンスタイルの魅力を当時理解できた、数少ない王侯貴族の貴婦人・・。

従来であれば、このような貴族たちがパトロンとなり、流行しながら発展を遂げていくはずでした。それが状況的に不可能となってしまった、"デザイン進化のピーク"とも言えるのが『モダンスタイル』なのです。

この背景もあり、モダンスタイルの美しい宝物はアンティークのハイジュエリーの中でも幻に近い存在となってしまいました。最高級金属がゴールドからプラチナへ移る過渡期だったこともあり、プラチナ主体のモダンスタイルはさらに珍しく、使いやすいピアスともなれば、市場でもまずお目にかかることはありません。

まさに奇跡と言える、小さな美しい宝物です・・。