No.00339 アルプスの溶けない氷

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプスのフォブシール

 

アルプス 3箇所の想い出の絶景

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンブランのフォブシール

モンブラン

 

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンタンヴェールのフォブシール

モンタンベール氷河

 

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシール

サン・ベルナール峠

 

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

『アルプスの溶けない氷』
アルプス産ロッククリスタル 回転式3面フォブシール

イギリス 18世紀後半
アルプス産(推定)ロッククリスタル、ハイキャラットゴールド
全体サイズ:3.2×3.3cm
ロッククリスタル:2.2×1.9cm
重量:16.9g
¥1,400,000-(税込10%)

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
モンブラングランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンブランのフォブシール モンタンヴェール氷河グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンタンヴェールのフォブシール サン・ベルナール峠グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシール
※左右反転画像です

フォブシールは仕事用として紋章やイニシャルを彫るのが通常ですが、そのような実用目的ではなく、自身の美意識を満たすためだけに作られた、最高に贅沢で遊び心のある回転式フォブシールです!♪
イギリス貴族の若者がグランドツアーでイタリアに向けてアルプス越えのルートを選ぶようになり、ヨーロッパの人々が荘厳な山々の"ありのままの自然の美しさ"に気づくようになった、ピクチャレスクの美を反映した作品です。古代ローマの博物学者プリニウスも言及しているアルプス産の上質なロッククリスタルは、18世紀の王侯貴族のコレクターにとって垂涎の宝石でした。グランドツアーで買って来たとみられる稀少価値の高い大きなロッククリスタルを贅沢にカットし、アルプスの3箇所の絶景を18世紀の第一級の彫りで表現しています。高山のないイギリス人にとって、アルプスで初めて見た雪と氷の壮麗な世界は衝撃でした。全体で氷を表現したとみられ、永遠に溶けることのないその氷を覗き込むと、持ち主が感動した当時の情景が見えてきます。時空を超えて、見る者を感動させてくれる小さな宝物です。身につけたり手元で眺めたりするだけでなく、美術品や家宝として飾っても綺麗です♪

 

 

この宝物のポイント

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール
  1. グランドツアー由来のイギリス貴族のジュエリー
    1. グランドツアーの目的
    2. グランドツアーの参加者
    3. グランドツアーの行程
  2. スイスを観光立国にしたイギリス貴族
    1. 一般的ではなかったアルプス越えルート
    2. 啓蒙時代と若者ならではの冒険心
    3. イギリス貴族を魅了した氷の世界
    4. 18世紀中期から大流行した氷河見物
  3. 高い美意識を感じる最高に贅沢なフォブシール
    1. 仕事用ではない最高級フォブシール
    2. ロッククリスタルによる永遠に溶けない氷
    3. 3箇所の絶景を彫刻した美意識の高い宝物
グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンタンヴェールのフォブシール

 

 

1. グランドツアー由来のイギリス貴族のジュエリー

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

これはイギリス貴族のグランドツアーに由来する、18世紀中期から後期にかけて制作されたフォブシールです。

モチーフはアルプスの想い出ですが、どうしてこれがグランドツアー由来と推定できるのか、具体的にご紹介いたします。

1-1. グランドツアーの目的

王太子時代のイギリス国王ジョージ4世(1762-1830年)18-20歳頃

グランドツアーは17世紀から18世紀にかけて実施された、イギリス貴族の子弟たちの見聞旅行です。

若い貴族たちの学習の総仕上げとして、ヨーロッパ大陸で様々な見聞を広め、リアルな体験を通して教養やマナーを体得する学びの旅です。

左はその抜群の教養と知性、センスの良さでイギリス一のジェントルマンと言われたイギリス国王ジョージ4世です。

今でこそイギリス貴族と言えば『ジェントルマン』のイメージがありますが、昔はそうではありませんでした。

Rebel Redcoat permittedヨーロッパ世界(1700-1714年)

イギリスはヨーロッパ世界で見ると、辺境の田舎の島国という位置にありました。ローマ帝国滅亡後の暗黒の中世を経て、最初にルネサンスが始まったイタリアから離れており、芸術文化・学術などに関して後進国でした。

また、ヨーロッパの要衝に位置し、ルイ14世が建築したヴェルサイユ宮殿に貴族を集めて以降、宮廷文化やマナーが発展していったフランスのパリと比較して、それらの点でも劣っていました。

隣同士のイギリスとフランスはよく比較されます。現代こそ、人口も同じくらいです。世界の国別人口ランキングでも並んでいます。イタリアも含めて並べてみます。

 イギリス:6,753万人:21位(2021年)
 フランス:6,533万人:22位(2021年)
 イタリア:6,046万人:23位(2021年)

一方、18世紀末の時点では、イギリスとフランスでは3倍ほども人口差がありました。

 イギリス:900万人(18世紀末)
 フランス:2,654万人(18世紀末)
 イタリア:1,900万人(18世紀末)

1789年に起きたフランス革命と、その後続くフランス革命戦争、ナポレオン戦争などの混乱によって、華やかな宮廷文化が花開いた"フランスの王侯貴族の時代"は終焉を迎えました。しかしながらグランドツアー全盛期のフランスは西欧で最も人口が多い超大国であり、宮廷文化が花開いたパリはまさにヨーロッパ中から人々が集まる大都会でした。

イギリス王チャールズ1世(1600-1649年)とクロムウェルの兵士たち

これはイギリス貴族が洗練される前の時代です。国王と高貴な身分の者が描かれているのですが、とても上品で洗練されたイギリス紳士には見えませんね。

田舎者。無教養。マナーなし。
男らしいのが正義!食事にフォークを使うなんて女々しい!男は手づかみで食うものだ!(笑)

当時のイギリスは、近代とは全く異なるイメージでした。楽しくやる分には、それで良いかもしれません。しかしながら野蛮なこと、野蛮な人を蔑むのが西洋文化です。

古代ローマ人はそれ以外を、文明化されていない野蛮な『蛮族』と表現しました。古代ギリシャの上流階級はさらに美意識が高く、「人間的感情を公で出すのは野蛮である。」として、ヘレニズム後期にかけては彫刻などから表情が無くなっていきました。また、ワインを原酒で飲むのは野蛮であるとして、水割りにして飲んでいました。これはギリシャ北方に住むスラヴ系の祖先、スキタイの原酒を飲む習慣を忌み嫌ったものとされています。

外交や政治を司る上流階級の場合、列強の上流階級から「野蛮である。」、「品がない。」と見做されると不利益が生じます。一方で相手を上回る教養やマナーがあれば、交渉事なども有利に進めることができます。

イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603年)13歳頃

それを認識し、世界一使いこなしていたのがイングランド女王エリザベス1世でした。

イングランド王ヘンリー8世の次女です。

17歳で正式な教育を終えた頃には、同時代に於ける『最も教養ある女性』になっていたと言われるほどの才媛です。

イングランド王ヘンリー8世のロイヤル・ファミリー(1545年頃)
左:エドワード王子、中央:ヘンリー8世、右:3番目の王妃ジェーン・シーモア

ヘンリー8世は6度にも及ぶ結婚で有名です。大衆は低俗なゴシップを好む傾向にあるため、巷の情報の多くは低俗な部分にフォーカスしたり脚色したりしているものが多く、女好きのしょうもない王様のようなイメージを持つ人も少なくないようです。

好む人が多いからこそ、そのような情報が溢れかえっているのでしょうけれど、プライベートな事や個人の性癖など、私には正直どうでも良いです。脚色されていたり、真偽不明で検証のしようがない情報も少なくなく、誤った認識をしかねません。むしろ害悪にしかならない情報とも思います。インターネットはコピペの情報が本当に多いですが、同じような内容を複数のサイトで見ると、読者は例え誤った情報でも"本当の情報"と錯覚します。実際は検証されておらず、ただコピペしただけ情報なのに、「皆が言っているのだから本当なのだろう。」と思い込むのです。

実際のヘンリー8世は英国王室一のインテリと評価されるほど、高い知性と教養を備えた人物でした。6度の結婚は、王位継承者となる男児をもうけることが目的でした。

先にご説明した通り、当時のイギリス貴族は男らしいこと、強いことが是とされる時代でした。それはまだ武力が物を言う時代だったからです。戦争あり、内紛もあり。王の求心力が完璧に確立されてはいない時代、カリスマ的な権威を以って国を纏める統率力が必要でした。男尊女卑の考え方ではなく、このような状況では女王では統治が困難という予測の元、強く男児を望んだのです。

戴冠時のイングランド王エリザベス1世(1533-1603)25歳

結果的にはエリザベス女王が誕生しました。

父の英国王室一のインテリを受け継いだのは、イギリスにとっては幸運でした。

頭が良すぎるからこそ、女性では君主が困難であることも認識していたようで、生涯結婚せず、子も生さず、浮ついた話も無く『処女王』と呼ばれたほどでした。

「恋愛すらしなかったの?」、「男性に興味がなかったの?」と言うのは、大衆的な発想です。

エリザベス1世は女王です。誰もが注目し、権力を虎視眈々と狙う魑魅魍魎が周囲から見張っています。庶民の女性とは違うのです。

ゴシップは、立場のある者にとって命取りです。特に女性の場合は、一度のゴシップでも致命的な事態になりかねません。だから噂になるようなことすら避けたのだと想像します。それほど頭の良い人物でした。

ところで、現代の日本では記憶力に優れ、学校の成績が良い人が"頭の良い人"とされますが、これは知識一辺倒であり、本来の"頭の良いこと"とは異なるとも言われますね。

イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603年)

エリザベス女王は君主として抜群に優れており、総合的な頭の良さを備えていました。

このファッションは、皆様どう思われるでしょうか。

一般的な日本人の感覚からすると、オシャレで素敵と感じる方は少ないと思います。私は子供時代にこの絵画を見た時、変だと思いました。

研ぎ澄まされた、シンプルイズベストの美意識で育った日本人には「ゴチャゴチャし過ぎ。」、或いは「成金的で悪趣味。」と感じます。

しかしながらエリザベス女王の立場を理解すると、ファッションも個人の趣味を滅し、徹底的に女王として必要なものを詰め込んだ結果だと分かります。

英国の最高位の女性のファッション
富と権力を誇示する時 日常
イギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844-1925年)1901年頃 イギリス王妃アレクサンドラ・オブ・デンマーク(1844−1925年)1904年、60歳頃
【引用】Britanica / Alexandra ©2021 Encyclopædia Britannica, Inc.

高貴な人が広く万人に富と権威を象徴する必要がある場合、誰にでも見て分かりやすいファッションでなくてはなりません。美意識がないと理解できなかったり、教養がないと理解できないものはダメです。故にエリザベス女王に限らず、王族が富と権威を誇示する際のファッションは、過剰なまでにドヤドヤした成金感満載のものとなります。個人のセンスなんて反映されません。その時代に、一番高そうで凄そうに見えるものを身につけます。

普段からそんなファッションはしません。それは少し想像すれば分かることですが、何も考えない人たちは、王侯貴族はいつも正装用のファッションでキャッキャうふふな社交に明け暮れていると思いこむようです。庶民が通常目にできるのは正装用のファッションだけだからです。

私が着物を着て出かけた時、初対面の人から「いつも着物を着ているんですか?」と聞かれるのと同じ事でしょう。ズボンの時に「いつもズボンなんですか?」、ハイヒールの時に「いつもハイヒールですか?」、黒づくめの時に「いつも黒ですか?」と聞かれるのも同様です。

普段から同じ格好しかしない人がそのような発言をするのだと想像します。それは悪いことでも何でもありません。どれくらいの人が毎日同じようなファッションで過ごしているのかは分かりませんが、少なくとも古の王侯貴族はTPOに合わせてファッションを変えていました。

イングランド女王エリザベス1世 (1533-1603年)1588年頃、55歳頃

そして、エリザベス女王は物事を有利に運ぶため、ファッションにもインテリジェンスを行き渡らせていました。植民地を求めて制海権を我がものにしようとスペイン、オランダ、フランスなどの列強が虎視眈々とひしめく時代、外交交渉でもその才能を女王はいかんなく発揮しました。

相手は国の代表として派遣される、百戦錬磨の特別優秀な外交官の男性たちです。通常だったら"女王"は、「どうせ女性だろう。うまく手玉に取ることは容易かろう。」と舐めてかかられるところです。

『虹の肖像』老いを知らないエリザベス女王を寓意画的に表現した肖像画(1600年頃)67歳頃

エリザベス女王はヘンリー8世譲りの明晰な頭脳に加え、教養と知性、美しさにファッションセンスまで、本当の意味で全てを備えていました。

エリザベス女王は外国大使がやってきた際、わざと相手が集中できないよう胸元が大きく開いたドレスや、奇抜で華やかな出で立ちで臨みました。

その状態でいくつもの言語を使い分け、あるいは古典や文学、芸術や宗教などから引用するなどしてはぐらかし、絶えず相手が主導権を握れないよう誘導したそうです。

特にファッションの使いこなしに関しては、女性にしかできない技ですね。男性を凌駕する外交術です。女王は私のことが好きなのではと錯覚する外交官もいたそうです。女王陛下、カッコいい!

エリザベス女王の行列(1600年頃)67歳頃

今でこそ庶民が修学旅行に行けるのは当たり前のような感覚がありますが、古い時代のグランドツアーには信じられないほどの莫大な費用がかかります。

エリザベス女王の時代は、有望と認められた貴族の若者を国費で留学させていました。パリで最先端のファッションや社交のノウハウ、上流階級の共通語であるフランス語を学び、イタリアで古代の芸術文化や最先端のルネサンス美術・学術などを学び、一流の国際人になるためです。これは、全ての才能を持ち使いこなしたエリザベス女王ならではの発想だったとも言えるでしょう。

開国後の日本も、各藩や政府が有望と認めたエリートたちを海外留学させ、国の発展につながりました。有象無象を送り込む必要はないのかもしれませんね。現代だと「不公平ダー!!」という声が間違いなく起こるでしょうけれど、才能ある人に集中的に投資するのは全体の発展としては理に適っているのかもしれません。自覚と誇りを以って取り組んでもらえれば、より才能も発揮できるでしょうしね。

時代が下ると、地主であったイギリス貴族たちは裕福となっていき、やがて自費で子弟をグランドツアーに送るようになっていきました。こうして17世紀から18世紀にかけて、イギリス貴族のグランドツアーが大流行したのです。

1-2. グランドツアーの参加者

1-2-1. 上流階級の男子の教育

グランドツアー中のハミルトン公爵と弟と引率の師(1774年)

グランドツアーに出かける平均年齢は18歳で、15、6歳で出かける者も少なくなかったそうです。

当時も若すぎるという批判があったそうです。

ただ、これには理由がありました。

グランドツアーは上流階級の男性の、学びの総仕上げとして実施されます。

イートン・コレッジ(ウィンザー 創設1440年)"Eton College" ©Alwye(17 May 2021, 10:43:26)/Adapted/CC BY-SA 4.0

上流階級の男の子はイートン・コレッジで学ぶのが通常でした(※カレッジは北米英語での発音)。ロンドン西郊のウィンザーにある、男子全寮制のパブリックスクールです。現在は13歳から18歳までの男子約1,300人、1学年に250人ほどが在学しています。イギリス一の名門校とされており、各界の指導層には学閥が存在します。日本でも、出身高校や大学などの学閥は存在しますよね。

イングランド王ヘンリー6世(1421-1471年)

元々はイングランド王ヘンリー6世(1421-1471年)が70人の貧しい少年たちに無料で学問を学べるよう、1440年に設立されました。

18か19歳くらいでそんな発想ができるなんて、凄いですね。

1学年14人、全校生徒は70人で、全員が王によって学費を保証されていました。

イングランド王エドワード4世(1442-1483年)

しかしながら1461年にヘンリー6世は失脚し、その後王位に就いたイングランド王エドワード4世はイートン・コレッジへの全ての寄付を撤回し、資産や聖遺物なども没収してしいまいました。

深刻な財政状況に陥ったイートン・コレッジでしたが、貴族や聖職者などの寄付によって現代までつながっています。

ただ、現代の学費は年34,000ポンド(約561万円:2022.7現在)にも及ぶ、お金持ち専用の学校となっています。

イートン・コレッジの制服姿のスペインの第17代アルバ公爵ハコボ・フィッツ=ジェームズ・ステュアート(1878-1953年)1891年頃、13歳頃

元々学生は下宿から通うなどしていましたが、マナー教育徹底のため、全寮制となりました。

寝食まで共にすることで仲間意識も高まりますし、相性が合う合わないはあれど、互いに性質まで良く分かった間柄にもなれます。

イートン・ウォール・ゲーム(1876年2月26日)

教養やマナーだけでなく、運動もありました。紳士のスポーツと言えばラグビーで、イギリスはラグビーもサッカーも盛んです。イートン・コレッジではラグビーとサッカーが混ざったようなイートン・ウォール・ゲームや、サッカーのようなイートン・フィールド・ゲームという球技が伝統です。

チームプレーで、それぞれに役割があるスポーツは実戦にも役立ちそうですよね。

ワーテルローの戦いで指揮を執る
初代ウェリントン公爵元帥アーサー・ウェルズリー(1815年)46歳

実際、
「ワーテルローの戦いはイートン・コレッジの運動場で勝ち取られた。」
なんて言葉も存在します。

フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトと同い年で、1815年のワーテルローの戦いで陸軍元帥として指揮を執り、会戦したナポレオンを破った初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーの言葉として知られています。

初代ウェリントン公爵元帥アーサー・ウェルズリー(1769-1852年)1814-1815年、45-46歳頃 シャルル・ド・モンタランベール伯爵(1810-1870年)

実際にはイギリス生まれのフランス人シャルル・ド・モンタランベール伯爵だそうですが、そんな風に言われるほど、イートン・コレッジ卒のイギリス貴族たちが将校として結束し、大活躍したということですね。アーサー・ウェルズリーはイートン・コレッジは退学していますが、学内で人気者だったそうです。

テムズ川の『ボート行列』祝賀イベントでのイートン・コレッジ生徒たち(1932年)
Bundesarchiv, Bild 102-13350 / CC BY-SA 3.0 DE

首都郊外での、上流階級の男子を集めた全寮制の学校。まさに、古代ギリシャのアレキサンダー大王が学んだミエザの学園を彷彿とさせますね。学園で出逢った生涯の友らと一緒だったからこそ、一度も戦争に負けず、世界を創り変える大偉業を成し遂げました。

楽しいことをするのも一緒。悪さをするのも一緒。10代のまだ未熟で多感な時期だからこそ手に入る、気の置けない仲間たち。

イートン・コレッジを卒業すれば、ケンブリッジ大学のキングス・コレッジや他の大学などに進むのが順当なコースでした。

ケンブリッジ大学キングス・コレッジ(創設1441年)"KingsCollegeChapelWest" ©Andrew Dunn(9 September 2004)/Adapted/CC BY-SA 2.0

キングス・コレッジは、イングランド王ヘンリー6世がイートン・コレッジの翌年1441年に創設しました。ノーベル賞受賞者を多数輩出しており、トリニティ・コレッジとセント・ジョンズ・コレッジと共に最も入学倍率の高いコレッジとして君臨しています。

ただ、今と当時では状況が全く違いました。

1-2-2. グランドツアーの時代の大学の状況

オックスフォード大学のオリオル・カレッジ
"Oriel College Main Gate" ©Wiki alf~commonswiki(26 May 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ケンブリッジ大学と共に、イギリスの名門としてオックスフォード大学(設立:11世紀末)があります。

しかしながら18世紀中期頃は、両大学ともさんざんな中身だったことが多数記録に残っています。

1-2-2-1. 経済学の父 アダム・スミスの証言
アダム・スミス(1723-1790年)

経済学書『国富論』で有名なイギリスの哲学者・論理学者・経済学者のアダム・スミスは17歳となる1740年から6年間、オックスフォード大学で学んでいます。

著書『国富論』の中で、「オックスフォード大学に於いては、教授の大半は多年に渡り、教えるふりをすることさえ全くやめている。」と述べています。

確かに、教えるよりも自身の研究活動に専念したい教授が、やる気のない講義しかしないという事はありますが、それよりも遥かに酷そうです。

大学では主として哲学が教えられていましたが、「世界の隅々から追い出され論破された体系や、時代遅れの偏見が隠れる」聖域になっていたとも述べています。

そういうわけで、6年間オックスフォード大学で学んだとは言っても主に独学だったそうで、中途退学しています。

バンデッドアゲートとゴールドで格調高い太陽を表現した、大英帝国を象徴するアンティーク・ブローチ『太陽の沈まぬ帝国』
バンデッドアゲート ブローチ
イギリス 1860年頃
¥387,000-(税込10%)

現代の日本の常識からすると、かなり意外に感じます。こういうことは、"当時の現地の常識"で見なければなりません。

今の日本にあるイギリスのイメージは、18世紀半ばから世界に先駆けて起きた産業革命と、植民地政策の成功によって、太陽の沈まぬ帝国として君臨して以降の姿です。

それ以前はヨーロッパの辺境の田舎でしたから、メインストリームから追い出された怪しげ、或いはやる気のない学者たちが集まる吹き溜まりになっても納得です。

フランス王妃マリー・アントワネットとマリー・テレーズ王女とルイ=ジョゼフ王太子(1785年) ルイ・アントワーヌ王太子妃となったマリー・テレーズ(1778-1851年)1817年、38歳頃

フランス革命での過酷な経験の後に亡命し、1814年にイギリスからパリに戻ったマリー・テレーズ王女を、ナポレオン時代に貴族となった新興貴族たちが「マリー・テレーズがイギリスの田舎臭い格好でパリに戻った。」と嘲笑したそうです。

コルシカ島出身でイタリアの古い血統貴族を祖先にもつナポレオンも、少年時代は同級生のパリ貴族たちからコルシカ訛りや外見を馬鹿にされていますし、その妻で植民地出身の貴族だったジョゼフィーヌも、嫁ぎ先のパリ貴族アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵から田舎臭いし教養もないと蔑まれ、離婚されています。

こんな感じでパリ貴族は慣れぬ者には怖いため、グランドツアーでパリを訪れたイギリス貴族の若者たちも怖がってパリの貴婦人ではなく、専ら娼婦を相手にしていたようです。これがパリを『売春婦の都』にさせた一因と言えるかもしれませんね。

父親たちは息子たちがパリで貴婦人と浮名の1つでも流すことを期待していたようですが、ろくにフランス語もできない田舎貴族の若者が、知的でオシャレな高度な会話を楽しみたいパリの貴婦人からまともに相手にされる訳はありませんしね。そういうわけで、パリでもグランドツアーの若者たちはイギリス人同士でつるんでいたそうで、全然フランス語が上達しない若者たちも多くいたようです。英語圏に留学しても、日本人同士でつるんで全く英語が話せるようにならない人たちが多くいる話は現代でもよく聞きます。人間の性質なんて案外、古今東西あまり違わないのかもしれませんね。

何はともあれ、イギリスは文化もファッションも、学術の面でも遅れている『田舎』というイメージがあり、大学にも優秀な人が集まらない状況にあったようです。

時代ごとにイメージが変化するのはイギリスに限りません。例えば現代で『中国製』と聞くと、あまり良いものと思わない日本人が多いですが、王朝時代の中国は長年、日本人にとって強い憧れの対象でした。政治や文化を真似し、科学技術を取り入れ応用し、中国製品は『唐物』と呼ばれて珍重されてきた歴史があります。島国日本にとっての中国王朝は、イギリスにとってのフランスとは比較にならぬほど超大国かつ先進国で、唯一無二の存在でした。超大国だからこそ宮廷文化の豪華絢爛さは想像を絶します。情報を得やすい庶民文化だけ見て、分かった気分で満足していては、そういう知られざる世界は見えてきません。

誤解し、偏見を持ったままでは歴史は正確に理解できません。何を捉えているのかよく分からないフワッとしたイメージではなく、具体的な事例に基づくイメージが必要です。イギリスの大学事情について、追加例もご紹介しますのでしっかりマインドセットしましょう。

1-2-2-2. 歴史家 エドワード・ギボンの証言
歴史家エドワード・ギボン(1737-1794年)1773年頃、36歳頃

『ローマ帝国衰亡史』で知られる歴史家のエドワード・ギボンは、15歳で紳士階級の学生としてオックスフォード大学に入学しました。

ハンプシャーに所領を持つ政治家の家に生まれ、比較的裕福と言える環境でした。

子供時代は身体が弱かったものの、読書好きで知的探究心は強かったようです。

9歳でウォデソン博士の学校(現:キングストン・グラマー・スクール)に入れられた事を、「知識の基礎、理性を行使すること、そして私の人生に悦びと栄光を与えてくれる読書を与えてもらった。」と表現しています。

そのギボンも自伝でオックスフォード大学のフェローについて、「読書、思索、執筆といった忍耐を要することに一切頭を悩ませることが無かった。云々。会話と言えば大学の雑務、保守(トーリー)党の政治、噂など他人の愉快な話、個人のスキャンダルなどしか話題に上がらなかった。」と述べています。

世間的に見れば高学歴であったり、権威のある職業に就いている人でも、生産性のまるで無い低俗な会話を好む人は一定数いますからね。そういう人と、知的なことを好む人とでは、同じように人間の姿をしていても別の惑星の人かと思えるくらい話が合いません。

ギボンはオックスフォード大学で過ごした14ヶ月を後に、人生で"最も生産性が無く無益な"時間だったと嘆いています。

1-2-2-3. 古典学者&詩人 トマス・グレイの証言
古典学者・桂冠詩人・ケンブリッジ大学教授 トマス・グレイ(1716-1771年)

古典学者で詩人のトマス・グレイは代書人の父と、帽子屋の母の間に生まれました。父のDVで母が家出し、母の元で育てられました。

叔父のロバートとウィリアムがイートン・コレッジで教鞭をとっており、母がお金を払ってくれたことで叔父たちから家庭教師としての教えを受け、イートン・コレッジに通うことができました。

イートン・カレッジで過ごした時間はグレイにとって、人生のとても幸福な時間だったそうです。

また、上流階級の子弟が集まるこの学校はグレイにも合っており、大事な親友たちを得ることもできました。この辺りは後で触れます。

その後、1734年にケンブリッジ大学に入学しました。しかしながら。大学のカリキュラムがつまらないものであることを知りました。そして、友人には手紙で以下のように不満を挙げています。

「教師はプライドで狂わんばかり。学生たちはすぐに眠くなる。酔っ払っている。退屈な人間。そして、無知で無学。」

やる気のない教師らの元、取り敢えず大学に行っているという体裁を繕おうとするだけの、やる気のない堕落した学生たちが集まる温床となっていた感じですね。現代の日本にもこういう場所はありそうですが、イギリスの名門と言われている大学でこんな状況だったとは驚きです。

悪評はすぐに知れ渡るものです。富裕な上流階級は子弟がイートン・コレッジを卒業したら、大学に行かせるのではなくグランド・ツアーに送り出すようになったのも自然な流れと言えます。それ故にグランドツアーに出かける平均年齢が18歳で、15、6歳で出かける者も少なくないという、若年での出発となったのです。

1-2-3. グランドツアーのメンバー

『盗賊の襲撃』(スペイン宮廷画家フランシスコ・デ・ゴヤ 1793-1794年)

大事な跡取り息子であり、まだ経験の浅い未熟な若者でもありますから、グランドツアーは当然ながら一人で出かけるわけではありません。

当時は電話もメールもありませんし、イタリアとイギリス間では手紙は1、2ヶ月かかるものでした。

盗賊や病気も当たり前で、2連発のピストルや薬箱は必需品でした。

17世紀には既に生命保険のような商材も存在したらしく、ヨーロッパ大陸の旅から無事イギリスに帰ってくる確率は4対1で計算されていました。

初代レスター伯爵(第5期)トマス・クック(1697-1759年)1717年、20歳頃

小貴族や郷士の息子の場合は、召使いも1人ということで身軽な旅だったようですし、長男以外は時短コースで実施することもあったようです。

しかしながら大金持ちの貴族や大貴族の後継ともなると、身分に相応しい大名行列っぷりだったそうです。

特に豪勢だった、初代レスター伯爵トマス・クックの例をご紹介しましょう。

1712年から1716年にかけて、15歳でグランドツアーに出発したトマス・クックは両親が5年前に亡くなっていたため、自由に使える途方もないお金がありました。

一言で『お金持ち』、『資産家』と言っても、注意したいのがただ資産を持っているだけなのか、定期的な収入があるかの違いです。

ただ受け継いだ資産を持っているだけ、切り崩して生きていくタイプだと、怖くてお金は使えません。お金持ちであっても貧乏生活に走り、ケチが当たり前だったりします。

しかしながら毎年莫大なお金が入ってくるお金持ちの場合、使わないと増えていく一方です。生活費も将来の心配もありません。少なくとも増える分の範囲内であれば、使い切っても減らないのです。

トマス・クックが父から受け継いだ土地は、年1万ポンドの収入がありました。地代の高騰により、1741年までに年収は1万5千ポンドにまで上がっています。現在の貨幣価値に換算すると、10代にして毎年億単位の収入があったことになります。

宝くじのように1回だけ億単位のお金が得られたという場合は、守りに入る人もいるでしょう。豪遊すれば、すぐに使い果たします。

好きなだけお金を使える15歳の少年トマス・クックは御者2名、従者1名、クック家付きの牧師、そして家庭教師を連れ、煌びやかな装飾の家紋付き4頭立て馬車でイギリスを出発したそうです。

初代レスター伯爵(第5期)トマス・クック(1697-1759年)1717年、20歳頃 初代レスター伯爵(第7期)トマス・クック(1754-1842年)1809年、55歳頃

この他に現地で調達した召使いや、買い物しまくった荷物を満載した馬車が数台続く、さながら大名行列のようなド派手さでした。

レスター伯爵はこの後に断絶しますが、親戚で同名のトマス・クックが第7期の初代レスター伯爵となります。彼もイートン・コレッジを卒業後、大学を『悪徳の巣窟』とみなした家族や親戚の勧めでグランドツアーに出かけています。イタリアでは現地のお年寄りから、大伯父の豪遊ぶりを色々と聞かされたそうです。数十年後まで語り継がれるなんて、相当だったのでしょうね。

初代レスター伯爵トマス・クックがオーダーしたホウカム・ホール(建築18世紀)
"Holkham-Hall-South-Facafe" ©Holkham.j.lewis(8 July 2016)/Adapted/CC BY-SA 4.0

ちなみにノーフォオーク、ホウカム近郊に建てられたカントリー・ハウス『ホウカム・ホール』も、初代レスター伯爵(第5期)トマス・クックのグランドツアーの成果の1つです。

イングランドにおける最も美しいパッラーディオ建築復興様式の1つであり、デザインの厳格さという意味では、当時流行したこの様式の建物の中でも最もパッラーディオの理想に近いとされています。

ホウカム・ホールの建築家
建築家 造園家・建築家
第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイル(1694-1753年)1717-1719年頃、23-25歳頃 造園家・建築家 ウィリアム・ケント(1685-1748年)1710-1720年、25-35歳頃

トマス・クックはグランドツアー中のイタリアで、当時イングランドでパッラーディオ建築復興様式ブームの最前線にいた貴族で建築家の第3代バーリントン伯爵リチャード・ボイルと、造園家・建築家 ウィリアム・ケントに出会いました。

仕事や留学、旅行などで大陸に渡れる人は限定されている時代、異国で会う同国出身者のつながりは面白い化学反応を起こすこともありますよね。

CC0ホウカム・ホールのメインホール(建築18世紀)

この出会いでホウカム・ホールのアイデアが考案されたとみられ、トマス・クックはイタリアで蔵書に加え、計画した新しい邸宅に飾るための美術品や調度品をしこたま買い込んでイングランドに戻ったそうです。

1-2-4. グランドツアーに同行する家庭教師

ホウカム・ホールのグリーン・ステート・ベッドルーム(建築18世紀)
"Holkham Hall 20080717-09" ©Hans A. Rosbach(17 July 2008)/Adapted/CC BY-SA 3.0

ところでこのイギリスの御坊ちゃまたちの爆買いについて、適切な指南をするのも家庭教師の役目でした。トマス・クックの場合はケンブリッジ大学の教授、ホバート博士が家庭教師でした。

グランドツアーに出かけるのは大貴族だけではありません。郷士クラスの上流階級も含めて出かけてため、同行する家庭教師の需要も膨大でした。このため、家庭教師はピンからキリまでいました。

悪徳の巣窟とは言われてもイギリス国内では一応一流と言うか、一番マシと言うのか、家庭教師にはオックスフォードやケンブリッジ大学を卒業した牧師や、一流大学の教授などが依頼されました。

グランドツアーに家庭教師として参加した著名な学者
『リヴァイアサン』(1651年) 『市民政府二論』(1689年) 『国富論』(1776年)
哲学者トマス・ホッブズ(1588-1679年) 哲学者ジョン・ロック(1632-1704年) 哲学者・経済学者アダム・スミス(1723-1790年)

中には一流中の一流と言われるような人物も存在しました。

啓蒙思想の始まりとされる『リヴァイアサン』(1651年)のトマス・ホッブズ、『市民政府二論』(1689年)のジョン・ロックもそうです。
一流大学の教授が休職して参加することもありましたが、近代経済学の父アダム・スミスは大学教授のポストを犠牲にしてまで参加しています。

このクラスを雇えるのは、上流階級の中でも特に莫大な資産と、地位に伴うコネクションを保有する貴族階級です。アダム・スミスらがポストを犠牲にしてまで御坊ちゃまの子守りで付いて行ったのは、莫大な報酬に加えて、先進国イタリアやフランスの学者たちに直接会うことで、様々な刺激を受けたり新たなコネクションを作ることが期待できたからです。

自費で行くのと違い、お金をもらいながらそれが出来るなんて、かなりの好条件です。ある意味、貴族の親にはパトロンとして、学術活動の支援をしてもらっているとも言えます。

グランドツアーに家庭教師として参加した著名な芸術家
桂冠詩人・劇作家 ベン・ジョンソン(1572-1637年) 詩人・劇作家・文学者・政治家 ジョゼフ・アディソン(1672-1719年) 桂冠詩人・劇作家 ウィリアム・ホワイトヘッド(1715-1785年)

学者だけでなく、後に芸術分野でイギリスに於いて重要な役割を果たした一流人たちもいました。

ベン・ジョンソンは、シェイクスピアのライバルとして同時代に活躍した桂冠詩人・劇作家です。桂冠詩人とは、英国王室から任命される宮廷詩人です。

ジョゼフ・アディソンは詩人や劇作家、エッセイスト、文学者、政治家など多彩な活躍を見せた人物です。アン王女の時代に友人リチャード・スティールと共同で日刊のエッセイ新聞『スペクテイター』(1711-1714年)を創刊し、18世紀市民文学の基礎を確立しました。

ウィリアム・ホワイトヘッドは桂冠詩人や劇作家として、イギリス王ジョージ2世の時代に活躍した人物です。

古典学者・桂冠詩人・ケンブリッジ大学教授 トマス・グレイ(1716-1771年)

ちなみにこのホワイトヘッドは、トマス・グレイが1757年に桂冠詩人任命を打診されたものの辞退したため、役割が回ってきました。

グレイはケンブリッジ大学の教授にもなっていますが、グランドツアーは家庭教師ではなく、学ぶ者として参加しています。

詳細はまた後でご紹介いたします。

この通り、グランドツアーには学芸の面でイギリスに貢献した、名だたる人々が参加しました。

トップクラスの頭脳・才能・感性を持つ先生と共にヨーロッパ大陸を旅する経験は、上流階級の若者にとって大きな財産となったことでしょう。

先生たちにとってもお金の心配がなく、しかも貴族の子弟の同行者として通常ならば会えない人に会えたり、見られないものを見る経験だってできたことは、自身の才能の研鑽にも大いに役立ったはずです。

それらの成果は計り知れず、その後のイギリスに発展に大きく寄与しました。

メアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年)1716年以降、26歳以上

一方で、家庭教師もピンキリとご説明しました。

一流の家庭教師を雇えるのはほんの一握りで、イギリス貴族のモンタギュー夫人は手紙で以下のように嘆いています。

「イギリスの若者たちの愚かな振る舞いや、その家庭教師の馬鹿さ加減や悪辣さのために、私たち(イギリス人)は光栄にも『金持ちの馬鹿者(Golden Asses)』とイタリア中で呼ばれています。」

この辺りは、金めっき時代の到来によって19世紀後期から20世紀初期にかけてイギリスやフランスに押し寄せた爆買いアメリカ人、バブル期にアメリカやヨーロッパに押し寄せた爆買い日本人、最近の爆買い中国人が、それぞれ一緒くたに評価されてしまうのと同じ感じでしょうね。

トルコの衣服を着たメアリー・ウォートリー・モンタギュー夫人(1689-1762年)

ちなみにこのモンタギュー夫人は著述家として知られており、有力な政治家である初代キングストン=アポン=ハル公爵エヴリン・ピアポントの長女としてロンドンで生まれた、生粋のお嬢様でした。

当時は良家であっても、女性が十分な教育を受けることは通常はありませんでした。

しかしながら弟が教育を受けるのを身近に接することで、教養ある女性に育ちました。

1712年、23歳の時に父の反対を押し切って、初代サンドウィッチ伯爵の孫エドワード・ウォートリー・モンタギューと結婚しています。

1716年に夫が外交官としてトルコ大使に任命されると、共にトルコに移住しています。

帰国後、夫婦関係がうまくいかなくなると、新しい恋人でイタリアの著述家フランチェスコ・アルガロッティとイギリスを出てイタリアで暮らすようになり、アルガロッティと別れてからはフランスのアヴィニョンで暮らしました。イギリスには22年間も戻らず、再度帰国したのは1761年に夫が亡くなった翌年のことでした。

この海外在住中は、グランドツアーの若者や多くの客を家に招いたそうです。

知的で勝ち気、海外経験も豊富。手紙での辛辣な表現も納得ですね(笑)

第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポール(1717-1797年)1756-1757年、39-40歳頃

モンタギュー夫人以外に、文人政治家であった第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポールもグランドツアーに同行する家庭教師を以下のように酷評しています。

「旅に出ているイギリス人の若者より馬鹿げた連中」

・・・・・。

若者たちも相当だったようですが、それよりどうしようもない大人(家庭教師)もたくさんいたようですね。

いかにピンキリだったかが想像できますし、大半はダメな連中ばかりだったということなのでしょう。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

まあでも研究開発の世界も然り。たくさんの種を蒔き、その中のほんの一部でも芽を出し、大きな実りをもたらしてくれれば『大成功』なのです。

グランドツアーは壮大な無駄遣いだったと言われることもありますが、間違いなくプラスの方が大きかったと評価できます。

毒舌ウォルポールと、トマス・グレイは実は一緒にグランドツアーに出かけています。また後ほど、詳細をご説明します。

1-3. グランドツアーの行程

グランドツアーの行程例
"Grand Tour William Thomas Beckford" ©Szarka Gyla, Jane023(2009年8月23日, 14:28)/Adapted/CC BY-SA 3.0

グランドツアーの主要目的地はフランスとイタリアでした。

フランスからイタリアに行く場合、いくつかのルートが考えられます。

その中には、険しいアルプス山脈を超えるルートもありました。

2. スイスを観光立国にしたイギリス貴族

現代のヨーロッパ周辺地図 "Europe ja2" © Koba-chan, JYOQ2, 赤鉛筆, あなん, Siyajkak, Peka, 俊武, Koika, Clarin, Peccafly/Aapted/CC BY-SA 3.0

フランスからイタリアに行く際、アルプス超えのルートが選ぶ人が増えてきたのは18世紀中期以降です。現代の地図で見ると、スイスを通るルートとなります。

皆様はスイスにどういうイメージを持っていらっしゃるでしょうか。観光地というイメージが強いかもしれません。実はスイスが現代のような観光立国になったのは、グランドツアーに出かけたイギリスの若者たちの功績です。

1792年8月10日のカルーゼル広場での戦闘を描いた『テュイルリー宮殿の襲撃』(1793年制作)

フランス革命の一連の流れに於いて、『8月10日の革命』とも呼ばれるテュイルリー宮殿の襲撃では、国王一家の身辺警護に就いていた多くのスイス衛兵隊が犠牲になりました。

パリの民衆と軍隊がテュイルリー宮殿を襲撃し、国王一家が民衆に捕らえられた事件です。フランスで王権が停止されることになった、事実上の革命でした。

スイス衛兵隊が弱くて役立たずだったのかと言えば、そうではありません。国民を大切に思う国王ルイ16世から民衆への発砲を禁止されたために、多くが無抵抗のまま民衆から虐殺されてしまったのです。

pcs34560 permittedフランス王ルイ16世を守りパリ市民に無抵抗のまま殺害された
スイス人の衛兵隊を偲んで制作されたライオン記念碑(スイス、ルツェルンの断崖)

無抵抗の相手を平気で殺害できるなんて、想像もできないほど恐ろしいことです。一方で、ルイ16世の命令を忠実に守って命を落とせるなんて、国王と衛兵隊、双方の高潔な生き方にも敬意の念が生まれます。

このライオン彫刻は、その時に殉死したスイス衛兵隊たちを想い制作された記念碑です。ライオンのように強かったスイス衛兵隊たちでしたが、ルイ16世一家を示す、フルール・ド・リスがデザインされた盾を庇って力尽きています。

結局最後はルイ16世も38歳で処刑されましたが、処刑に臨む前、14歳の長女マリー・テレーズ王女を「憎しみを捨てるように。」と諭しています。断頭台では民衆に向け、「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることがないように神に祈りたい。」と語りました。

命乞いや呪いの言葉をギャーギャー喚きまくって悪役らしい醜い最期を迎えれば良かったのかもしれませんが、後に続く王妃マリー・アントワネットもあまりにも気品溢れる高潔な最期を迎えたため、民衆たちはスカッとするどころか、むしろ鬱憤が増しました。それを晴らすため、『全フランス大処刑祭り』とでも表現すれば良いのか、狂っているとしか思えないような処刑の嵐が各地で起きました。

これにより貴族だけでなく女性政治活動家、科学者など、国の発展に貢献できる優秀な人々が多く殺害されました。国王だけならば適当な人を神輿に担ぎ上げて、周囲の優秀な人たちで国を再建できたかもしれません。しかしながらフランス革命ではそのような必要な人材まで根こそぎ失われたため、フランスの王侯貴族の歴史はこの革命で潰えたと言えるのです。

国王夫妻だけでなく続いた者たちも皆、夫妻を倣い、命乞いするでもなく静かに断頭台に上ったそうです。革命前のフランス貴族(第二身分)は40万人、宮廷貴族だけで約4,000家ありました。貧乏人に毛が生えたような貴族もいたと言われていますが、革命以前のフランスの、真の意味で高貴と言える上流階級たちは日本の侍にも通ずるような精神を持っていたのかもしれませんね。

ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人(1743-1793年)

そんな中で、ルイ15世の公娼だった50歳のデュ・バリー夫人だけは、民衆も狼狽するほど激しく泣き叫び、命乞いをしたそうです。

もともとは貧しい庶民の家庭に私生児として生まれた女性で、表面的には上流階級の男性のお相手をするための社交術を身に付けていましたが、それと精神性とはまた別物なので無理もないことです。

教育が無ければ、むしろ命乞いをする方が人間の本能としては自然と言えるかもしれません。

パリの死刑執行人 サンソン家4代目当主 シャルル=アンリ・サンソン(1739-1806年)

サンソン家4代目当主シャルル=アンリ・サンソンは、パリの処刑執行人として国王夫妻を始め、著名人の処刑の殆どに携わりました。

処刑の際のデュ・バリー夫人と民衆の様子を処刑執行人として見ていたサンソンは、次のように日記に記しています。

「皆デュ・バリー夫人のように泣き叫び、命乞いをすれば良かったのだ。そうすれば人々も事の重大さに気づき、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか。」

代々続く処刑執行人の家系ながらサンソンは熱心な死刑廃止論者で、実現はしなかったものの、何度も死刑廃止の嘆願書を出していた人物です。

死刑が廃止になれば職を失い、食いっぱぐれそうです。一見、自分で自分の首を絞める行為に見えますが、サンソン家は死刑執行人の本業以外に医師の仕事もしており、腕も良く、収入は医師としてのものが大半を占めていたそうです。

ギロチン台へ引き立てられるマリー・アントワネットギロチン台へ引き立てられるマリー・アントワネット

サンソンは王妃マリー・アントワネットの処刑も執行していますが、37歳だった王妃の最期の言葉は死刑台に臨む際、サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ。」だと言われています。

あらかた目ぼしい人たちを処刑し、最後の方はデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いをする人たちとなり、民衆たちは満たされ、ギロチンの嵐が収まっていったのかもしれません。私にとっては気持ちの良くない歴史です。

アルプスを越えるスイス傭兵(1513年)スイス連邦の歴史年代記を含む装飾写本『ルツェルン・シリング』の挿絵

ところで何故フランス国王一家の衛兵隊をスイス人が組織していたのか、疑問に思う方もいらっしゃると思います。

スイスは国土の大半が山地で、海に面さない内陸国です。

農作物が取れず、目ぼしい産業もなかったスイスでは、傭兵稼業が重要産業として発展しました。15世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ各国の様々な戦いにも参加しています。

侵略しても見合った利益が得られない国、それでいて強大な軍事力を持つ攻めにくい国として、スイスはヨーロッパにおける傭兵輸出大国として存在しました。

資源に恵まれた国は一見すると楽そうに見えますが、野心のある国に確実に狙われます。1つの国を退けても、また新たな国が侵略に来ます。争いは耐えることがありません。そういう意味では、資源がないのは日本にとって悪いことではありません。

このスイス傭兵の出稼ぎは、『血の輸出』と呼ばれました。好き好んで傭兵になる人も一部にはいるでしょうけれど、殆どは生きるために止むを得ずだったはずです。それほどスイスは産業がない国でした。

【フランス革命】1792年8月10日のテュイルリー宮殿の襲撃(アンリ=ポール・モット 1892年)

テュイルリー宮殿の襲撃の日は、950人のスイス衛兵隊が警護に就いていました。その多くが、なぜフランス王ルイ16世の命令を忠実に従い、むざむざと命を落としたのでしょうか。

この理由は、「今だけ 金だけ 自分だけ」の発想では見えてこないと思います。

1792年8月10日の戦いを前にし、フランス元帥マイイを伴って整列するスイス衛兵隊の前を通り過ぎるフランス王ルイ16世

ルイ16世がスイス衛兵隊にそこまで慕われていたのでしょうか。

とても慕われていた可能性はありますが、命を懸けてというのはまた全然別次元のことと想像します。

950人の衛兵たちは自分のためではなく、スイスに残してきた家族や、祖国の未来のためだったと思います。

ちなみにこの絵では衛兵隊たちがちんまりしていてルイ16世の方が強そうに見えますが、実際のルイ16世は192cmの長身にガタイの良いヘラクレス体型だったそうです。

若い頃は細過ぎる体型をルイ15世から心配されたほどで、威厳を出すために肖像画はちょっと恰幅良く描かせたようです。

"盛る"のは現代人に限ったことでも、女性に限ったことでもありません。

それにしても、ナポレオンやヒトラーが小男として描かれているのとは対象的ですね。ナポレオンは168cm、ヒトラーは175cmあり、実際は低身長ではなかったとされています。ナポレオンの168cmも、当時の平均身長と比べるとむしろ少し高めだとも言われています。

この"平均身長"というのが厄介で、栄養環境に恵まれた上流階級と、そうではない庶民では当時は体格差があったことが想像できます。日本人もDNA的には進化していないはずですが、戦前と戦後では随分と平均身長が高くなっています。しかしながら1860年、江戸時代生まれの大山捨松公爵夫人は10代の成長期をアメリカで過ごしたこともあってか、176cmもの身長があったそうです。1837年生まれのオーストリア皇后エリーザベトも170cmあったそうです。

今後、上流階級と庶民に分けた平均身長が研究発表されるかは分かりませんが、上流階級に限れば、現代人の感覚で体格を判断してもそんなにズレた見解にはならないと思います。

ナポレオンやヒトラーの場合、身長の高い親衛隊に囲まれており、相対的に低く見えたからとも言われています。歴史は勝者のものとも言われます。敗者は何かと貶められるのが世の常です。男性の場合は「背が低い」とされるのが定番ですが、さすがに192cmもあったらルイ16世は小さかったなんて言えないですね。それでも有る事無い事、でっち上げも含めて、あらゆる側面から貶められるのはいつものことです。鵜呑みにする人が多いのもいつものことです。

スイス衛兵隊の将校(18世紀のリトグラフ)

それにしても衛兵950人は結構な人数ですよね。当然ながら将校なども存在する、組織化された立派な隊です。

他、中世からバチカンのローマ教皇の警護などもスイス衛兵が長年担ってきました。

本当にスイスにとって、重要輸出産業だったのです。

もし国王を裏切ったり、命令を聞かずに逃げ出せば、自分の命は助かったかもしれません。

ただ、ひとたびスイス衛兵は簡単に裏切る・逃げ出すなどのイメージが付けば、誰が今後も雇ってくれるでしょうか。

そうなれば困るのは祖国の同じような境遇の人たちであったり、未来の子供たちです。

現代人ならば、「残してきた家族が心配だ。だから死ねない!」と思うのではとも考えるでしょう。しかし、勤めを果たして死んだ場合、遺族には遺族年金的なものが支給されます。戦いに生き残れば、今後も家族のために働き続けられます。死んでも立派に勤めを果たしての死であれば、金銭的な面では家族は心配ありません。功績が大きいほど、より高い年金支給額が期待でき、家族に楽をさせてあげることすらできます。

ギロチンの前に引き出されるスイス衛兵隊の生き残り

このようなバックグラウンドを持つスイス衛兵だからこそ、自国民の衛兵より裏切る心配がなく、安心して任務を任せられる状況があったのでしょう。

日本でも少し前までは『出稼ぎ』が当たり前にありました。

主に東北や北陸・信越などの寒村です。

『あゝ野麦峠』で有名な野麦峠周辺の地形

出稼ぎは戦前から存在しました。出稼ぎを題材にした芸術作品としては、山本茂実の『あゝ野麦峠』や吉幾三の『津軽平野』などが有名です。

この出稼ぎが顕著になったのは、戦後の高度経済成長期の1970年代までです。現代だとリアルに覚えていらっしゃる方も、そうでない方もいらっしゃるくらいの時代だと思います。

高度経済成長に伴う都市部の労働力不足から、労働力の需要が高まった時代でした。寒冷地方の農民が、冬季の農閑期に都市部の建設現場などに出稼ぎに行きました。

第64、65代内閣総理大臣 田中角栄(1918-1993年)
"Kakuei Tanaka 19720707" ©首相官邸ホームページ/Adapted/CC BY 4.0

新潟県出身の田中角栄が首相になると、「出稼ぎをしなくても雪国で暮らせるようにしよう!」と1972(昭和47)年に日本列島改造計画を唱えました。

列島を高速道路、新幹線、本州四国連絡橋などの高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、地方の"過疎"と都市部の"過密"の問題、公害問題を同時に解決するという内容でした。

全国で公共事業を増やし、その成果で1972年度の54万9千人をピークに出稼ぎ人口が次第に現象していきました。

出稼ぎはやらないで済むならば、それが一番です。

【イタリア戦争】1525年2月24日のパヴィアの戦い

フランス王フランソワ1世の時代(在位:1515-1547年)には、イタリア戦争(1494-1559年)に於ける一連の戦争で延べ12万人ものスイス傭兵が雇用されたそうです。16世紀のスイスの人口は800万人と推定されており、いかに重要輸出産業だったのかが想像できます。

イギリス貴族の若者たちはこのスイス傭兵の出稼ぎ、『血の輸出』をしなくて良くしました。どういうことか、順を追って見て参りましょう。

2-1. 一般的ではなかったアルプス越えルート

ヨーロッパでは古来より、山は悪魔の棲家として恐れられてきました。だから普通は近づきませんし、観光登山なんて発想自体がありません。

山は怖い場所。畏怖の対象。この感覚は日本人でも何となく想像できますよね。

2-1-1. 日本人の『山』のイメージ

毛無山(岡山、新庄村)の山開きの護摩法要毛無山の山開き(岡山県新庄村 2014年6月8日)山の安全を祈る護摩法要

これはサラリーマン時代に岡山にいた頃、岡山をこよなく愛する現地の親友に誘われて、毛無山の山開きに参加した時の写真です。

都会と違い、地方ほど昔ながらの伝統が大切に守られていて、本当に楽しいです。

赤黒黄緑(昔は緑と青の区別がない)の結界を張り、山の安全を祈って九字護身法「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九字が詠唱されました。

護摩焚きで螺旋を描いて立ち昇る生ヒバの白煙螺旋を描きながら立ち昇る護摩焚きの煙(岡山県新庄村 2014年6月8日)

生のヒバをくべると立ち込める、神聖な香りの白い煙。螺旋を描きながら立ち昇る姿は、山の神の存在を感じさせる神々しいものでした。

「うわー、カッコいい!」と思わずパシャリ(笑)

岡山と鳥取の県境に位置する毛無山は、一般には「けなしやま」と呼ばれています。「けなしがせん」と呼ぶこともあります。

たたら製鉄で有名な出雲とも近く、たたら製鉄の材木のために大量に伐採し過ぎて木が無くなってしまったため、そのように呼ばれるようになったとも言われています。

毛無山(岡山県、新庄村)の山開きで頂いた護符&茹で卵&紅白餅毛無山の山開きで頂いたありがたい茹で卵と紅白餅と護符(岡山県新庄村 2014年6月8日)

これ以外に「きなしがせん」と呼ばれることもあったそうです。

さすが桃太郎伝説のある岡山、『鬼無山』と言う意味も可能性があるそうです。

土地が豊かで古くから人が住んでおり、戦後の高度経済成長期に西洋化のされ過ぎを免れた地域なので、古い時代を感じて想像を巡らすには本当に恵まれた場所でした。

標高の高い岡山県津山市阿波地区の布滝での儀式跡
津山市阿波の布滝で玉串が括り付けられた樹木玉串が括り付けられた樹木(2014年8月3日) 津山市阿波の布滝で地面に撒かれた切麻地面に撒かれた切麻(2014年8月3日)

岡山県北、津山の阿波地区にある布滝(のんたき)に立ち寄った際は、謎の儀式跡もありました。人気のない静かな場所で見る儀式跡には不気味さも感じつつ、今の時代、一般にはメジャーではないこの滝で玉串や切麻(きりぬさ)を使って真面目に儀式をする人がいるのかと感心したものでした。

この滝も標高787m付近の高地にあります。普段人が立ち入らない山は、人智を超えた生き物がいるような気配が感じられますよね。

『美勇水滸傳』(一魁芳年 1866年)木曾駒若丸義仲に鼻を掴まれる天狗

日本だと、山の定番は山の神や天狗です。

妖怪と神の境界は案外曖昧で、天狗が山の神だったりもします。

日本の場合、妖怪も神も人間を超えた力を持つものの、どこか愛嬌があったりして、完全なる恐怖の対象とはならないですよね。

基本的には善き行いには善きことを返し、悪い行いには罰を当てるという印象です。

このため、人々は尊敬の念を持って感謝を捧げながら山に入り、その恵みを受けてきました。

山は畏怖の対象であると共に、身近なものでもありました。

2-1-2. ヨーロッパの場合

ヨーロッパの場合、山に棲むのは悪魔です。

アルプスは悪魔の棲家として古くから恐れられてきました。

妖怪・妖精の類
日本 ヨーロッパ
『百種怪談妖物双六』の「垢嘗」(歌川芳員 1848-1854年?) PD『取り替え子』(マルティノ・ディ・バートロメオ 15世紀初期)

日本の妖怪は愛嬌がありますが、ヨーロッパの妖怪や精霊の類は、一般にはただひたすら怖くて禍々しい存在です。神様も同じで、日本の神様は愛嬌がありますよね。

そして、日本にはヨーロッパの悪魔に対応するような『絶対悪』的な存在はいないように思います。ヨーロッパの悪魔はとにかく怖いです。疫病をもたらし、子供を誘拐し、戦争を起こし、とにかく血生臭く禍々しいです。人が嫌がることして楽しんだり、不幸になることを喜んだりするという発想がなかった日本人には、このような存在は生まれなかったのかもしれません。しかしながらヨーロッパでは、そのような恐怖でしかない存在が信じられてきたのです。

ゴッタルド峠の悪魔の橋(スイス、アルプス山脈 標高2,106m) "Teufelsbrucke" ©Sorjonen.fi(25 October 2011)/Aapted/CC BY-SA 3.0

アルプス山脈には『悪魔の橋』と呼ばれる魔橋も存在します。そんな名前が付いていると、なんだか渡るのが怖いですね。相当な断崖に架けてあり、橋の建設もかなり大変だったことが想像できます。

この写真が撮影されたのは10月で、下のロイス川も激しい流れには見えません。しかしながら、いかにも雪解け水が集中する地形ですね。実際、峠越えをしようとして溺死や遭難死するのは、例年4月から5月にかけてがピークだったそうです。

架橋に関して、以下のような民話が残されています。

「ロイス川を渡るのがあまりに困難だったため、あるスイスの牧夫が悪魔に橋を架けるように願った。すると悪魔が現れて、願いを引き受ける代わりに橋を最初に渡るものを生け贄に差し出すようにと条件をつけた。彼はそれを受け容れたが、橋が完成すると彼はヤギを先に渡らせて生け贄を回避した。この詐欺行為に怒った悪魔は岩をつかんで橋に投げつけようとしたが、ある老婆が十字架を岩に描いて悪魔が岩をつかむことができないようにした。」

(名言の引用元:「ゴッタルド峠」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2022年6月28日(火) 00:51 UTC、URL: https://ja.wikipedia.org

『ゴッタルド峠の眺め』(ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー 1803-1804年頃)

アルプスは毎年多くの人の命を奪ってきました。

悪魔が棲む危険な場所である。

そう考え、できるだけ避けられてきたのも無理からぬことでしょう。

「自然の景観が美しい!」なんて発想する余地はなく、観光で登山するなんてあり得ないことでした。

2-2. 啓蒙時代と若者ならではの冒険心

2-2-1. 到来した啓蒙時代

フランス王ルイ14世のロイヤルタッチ(1690年)

詳細は以前ご説明しましたが、17世紀後半のイギリスで啓蒙思想が始まりました。

グランドツアーの家庭教師の経験もある、トマス・ホッブズやジョン・ロックがその興りです。

長年ヨーロッパはキリスト教に支配され、各国の君主は神の威光を背に民衆を統治しました。

『市民政府二論』初版本(ジョン・ロック 1689年)

イギリスのジョン・ロックは1689年の『市民政府二論』の中で、「人は皆、平等です。国民は人の権利を守らない政府を変更しても良いのです。」と記しました。

 Q. 本来人間は平等なのでは?

 Q. 神が概念として存在するようになった今の時代は不平等が存在するが、生まれながらの高貴な身分というのは論理的に正しいのか?

 Q. そもそも神は本当に存在するのか?

このように、それまで当たり前と捉えて疑問すら感じなかったことを改めて深く考え、議論するようになりました。

アンシャンレジームの風刺画アンシャンレジームを風刺した絵(1789年)

これらのイギリスの啓蒙思想が、18世紀にフランスに伝播しました。これが過激になり、フランス革命が起きたとも言われています。

2-2-2. 啓蒙時代の様々な議題

『百科全書』表紙(フランス 1751-1772年)

『啓蒙思想』は超自然的な偏見を取り払い、人間本来の理性で物事を見て思考するというものです。

研究や思考の対象は、政治や社会に関する分野に限りません。

啓蒙のための方法論としては、自然科学的なアプローチが重視されました。

古代ローマのプリニウスによる『博物誌』などに触発され、イギリスではイーフレイム・チェンバースによって『百科事典(サイクロペディア)』(1728年出版)が制作され、フランスでは百科事典『百科全書』(1751-1772年)が制作され、啓蒙主義の具体的成果で最大のものの1つとされています。

他、大きな議論となったのが『神』についてです。

無宗教が多いと言われる日本人ですが、正確にはそういう人も本当の無宗教ではなく、八百万の神を無意識的に感じていたり、或いはご先祖様を拝むということもあると思います。

『月輝如晴雪梅花似照星可憐金鏡転庭上玉房香』11歳で漢詩を作った菅原道真(月岡芳年 1839-1892年)

日本は亡くなると、神様として崇め奉られることも少なくありません。

元々は怨霊を鎮めるために神社が作られてきたようですが、もはやそのような背景は削げ落ちて崇め奉られている神も多々存在します。

一神教ではない上に、為政者から特定の宗教を押し付けられる経験もないため、そもそも一般的には宗教自体が身近ではありませんし、『神』に関して議論することもありません。特定の人たちだけです。

その日本人の感覚からすると想像しにくいですが、ヨーロッパでは王が神の代理人として統治してきたため、直接的に影響がありました。

キリスト 君主
王としてのキリスト(ハンス・メムリンク作 1485年頃) プファルツ選帝侯、ボヘミア王フリードリヒ5世(1596-1632年)

ヨーロッパでは、国家は神により王権が付与された君主によって支配されるという考え方の元、統治が行われました。『王権神授説』と呼ばれ、王権は神から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、王権は人民はもとよりローマ教皇や神聖ローマ皇帝も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、国王のなすことに対して人民は何ら反抗できないとされます。

特にキリスト教カトリックとの結びつきが強かった神聖ローマ皇帝の場合、キリスト教の最高位の聖職者でありキリストの代理者とされるローマ教皇に支持されることで、神のお墨付きを得た君主とされました。

ローマ教皇を怒らせて破門される君主たちも存在しました。離婚騒動で、例のイングランド王ヘンリー8世も破門された経験があります(笑)

そのような背景から啓蒙時代には、「そもそも神は本当に存在するのか?」、「結局、神とは?」などの議論が活発に行われるようになりました。

ローマ教皇レオ10世(就任:1475-離任:1521年)37歳頃

メディチ家出身、38歳ので教皇就任の際は「現世の享楽を謳歌する」と宣言したレオ10世は有言実行し、そこらの王侯より贅沢を好みお金を使いすぎた結果、就任2年で法王庁の財政が危機に陥りました。

金策のために、聖職位を1年に2千件も販売して荒稼ぎしましたが、それでも足りず、庶民からお金を巻き上げるための贖宥状(しょくゆうじょう)の発行を許可しました。

ローマ教皇庁が発行する贖宥状(しょくゆうじょう)を購入すれば、犯した罪が許されるというものです。

そんなルール、キリストが生きていた時代は存在しなかったはずですけどね。

権力と結びついた結果、都合の良い後付けルールが様々追加され、人によっても聖書に関して異なる解釈がなされるなどした結果、歴史が降るにつれてキリスト教自体が訳分からない状況になっていました。

キリスト教諸教派の成立の概略を表す樹形図。さらに細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。 ©Original PNG diagram: Vardion and others; SVG version: Stevertigo and Rursus; derivative work: Reo_On; Japanese SVG version: Kinno Angel(2016)/Adapted/CC BY 3.0

ローマ教皇レオ10世の時代に、やり過ぎで宗教改革が発生し、カトリックとプロテスタントと言う分派が起こりました。しかしながらそれ以外も詳細を追えば、おそらくこの世の誰も理解していないであろうほど分派があり、様々な解釈がなされています。

グーテンベルク聖書(ドイツ 1455年)アメリカ合衆国議会図書館
"Gutenberg Bible" ©Raul654, Moses, et al.(August 12, 2002)/Adapted/CC BY-SA 3.0

聖書は元々ラテン語で書かれており、限られた人間しか読むことができずその内容は教会の秘儀とされてきました。知識を限られた階層のみで独占することで、頭の良し悪し関係なく"その他大勢"に対して優位性を保つ手口ですね。

マルティン・ルターの場合はギリシャ語やヘブライ語にまで遡って聖書を読むほど研究熱心で、聖書の解釈や神学の命題の研鑽に励んでいました。そのような中で、次のような疑問に行き着きました。

「贖宥状のことは聖書に書いていない。それによって人は本当に救われるのだろうか・・・」

ヴィッテンベルクの城教会の扉に95か条の論題を貼り出すマルティン・ルター(1517年10月31日)

悩んだ末、ルターは贖宥状販売が誤っているという結論に達し、1517年10月31日、95か条の論題と言われる公開質問状をヴィッテンベルク城の教会の扉に張り出したと言われています。当時、教会の扉にこういう論題を貼り出すことはしばしばあったようです。

論題はラテン語で書かれていました。当時の農民はラテン語は読めないので、決起を促す意図はなく、あくまでも聖職者同士で議論を交わす目的だったようです。

ルターによるドイツ語訳の旧約聖書(1534年)

ルターが意図したものではありませんでしたが、この公開質問状をきっかけとしてドイツで1517年に宗教改革が始まりました。

限られた者だけでなく、より多くの人が聖書を直接読めるよう、ルターは聖書のドイツ語翻訳も行いました。活版印刷技術によって一気に広まり、多くの人々が聖書を読めるようになったことで宗教改革は大きなものとなり、キリスト教は主にカトリックとプロテスタントに分かれました。

時代が降り、啓蒙時代には宗教者のみならず多くの上流階級や知識階層が、『神』についてより様々な議論を行うようになりました。

2-2-3. 神の存在への疑義

2-2-3-1. イギリス
ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年)

啓蒙時代の神に関する議論に関しては、ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッドが主宰したヘルファイア・クラブが分かりやすいかもしれません。

1708年に名門貴族に生まれ、15歳で父を亡くし男爵領と爵位を継承した大富豪です。

先にご紹介した初代レスター伯爵(第5期)トマス・クックの例でもご想像いただける通り、これだけ若くして自由にできるお金がたくさんあると、やりたい放題します。

ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年)42歳頃

通常より早くグランドツアーに出たダッシュウッドは、年頃の若い男の子らしく悪名を轟かせています。

スウェーデン王を装ってロシア女帝アンナを口説こうとし、後でバレてローマ教皇領の出入り禁止をくらったりもしています。

イギリス貴族の若者たちの間だと"不真面目でけしからん奴"と言うよりは、「おぉ〜凄い、やるなぁ!」という一目置かれる感じだったのでしょうね。

ディレッタンティ協会(1734年設立) 優秀で風流、人から好かれる人物でもあったようで財務卿に就任したり、古代美術に理解を示したグランドツアー経験者40名を集めて1734年にディレッタンティ協会を設立したりもしています。
PD宇宙

そんなダッシュウッドが神や宗教について深く考え、議論するために作ったのがヘルファイア・クラブでした。ヘルファイア・クラブには理神論者が多く集まったそうです。

理神論では一般に創造者としての神は認めますが、神を聖書などで伝えられるような人格的存在とは認めません。世界を超越する創造主ではありますが、その活動性は宇宙の創造の際に限られており、それ以後の宇宙は自己発展する力を持つと考えます。そこに、神の啓示の存在は否定されます。

奇跡や予言などの神の介入はあり得ません。欧米では一般的な、神に仕え天の御命に従うような考え方は存在せず、自身の物質的・身体的な発展と解決が重視されています。

一応は有神論ですが、有神論とは区別される場合もあります。イギリスで論争が起こり、フランスやドイツの啓蒙思想家たちにも受け継がれ、啓蒙時代に流行しました。もっと進んで『無神論』が議論されることもありました。

ル・ディスペンサー男爵フランシス・ダッシュウッド(1708-1781年)

ヘルファイア・クラブでは悪魔主義を標榜し、参加者は修道士を気取り、主宰者のダッシュウッドが修道院長役を務めました。

「本当に存在するならば神罰が降るはず。冒涜的なことを犯しても全然平気なのは、神が存在しない証拠である。」
といった感じでしょうか。

神を試す行為なんて、ちょっと言い方は悪いですが、本当に愛されているのか親を試す子のようでもあり、飼い主を試す保護犬のようでもあります。

存在しても、神はこういう行為は相手にしないと思いますが、自分の頭で考えて試すのが好きな知的階層らしい発想とも思います。

ベンジャミン・フランクリン(1706-1790年)

ヘルファイア・クラブの常連にはアメリカ合衆国建国の父の一人と称えられ、100ドル紙幣にも描かれているベンジャミン・フランクリンもいました。

雷と凧の実験で有名な人物ですね。

命懸けの危険な実験です。

好奇心で身を滅ぼすこともありますが、その積み重ねで科学技術が発展していくのも然りです。

こういう人たちが集まると、実験して本当に神が存在するのか検証しようと考えるのは無理もない気がします。

人間の好奇心の強さは計り知れません。

2-2-3-2. フランス

常識を疑うことができる人は、世の中でもそう多くはありません。簡単なようで極めて難しく、通常は疑う発想すらも生じません。

神の存在を疑うなんて、長年キリスト教に支配され、生活の隅々からマインドの奥深くまでキリスト教に染まったヨーロッパでは、普通はあり得ないことです。

イングランド王 ローマ教皇
イングランド王ヘンリー8世 (1491-1547年)1531年、40歳頃 ローマ教皇クレメンス7世(在位:1523-1534年)1526年、48歳

ただ、イギリスの場合はヨーロッパの他国とは異なる事情がありました。先にご紹介した通り、イングランド王ヘンリー8世は男子の後継を作るため、どうしても離婚する必要がありました。これにはローマ法王の許可が必要でしたが、許可が降りませんでした。

単なる女好きなど、ヘンリー8世の個人的な理由ならば愛人を囲えば済むことです。しかしながら正式な妻との子でなければ、後継者として認められません。強い男子の後継者が不在となれば次代で再び争いが起き、国が乱れ、国民皆が不幸になることは必須です。引き下がることは絶対にできませんでした。

揉めた結果、ローマ教皇クレメンス7世はヘンリー8世を破門しました。こちらもローマ教皇レオ10世と同じくメディチ家出身の我儘貴族です。折れません(笑)

ローマ教皇クレメンス7世を足蹴にして最高位に座るイングランド王ヘンリー8世(1641年)

このローマ教皇による『破門砲』は超強力です。

歴代の君主らが教皇に楯突いたものの、破門砲を受け、どうしようもなくなり、泣きついて教皇に許しを乞うた歴史がありました。

しかしながらヘンリー8世はそうはなりませんでした。

国内の宗教改革議会にて着々と法律の整備を進め、最終的にはイングランド国教会を設立しました。

教皇権と聖職者の特権を否定し、ローマ教皇庁と決別したのです。

1534年に発布した『国王至上法』にて、ローマ教会(カトリック)から独立したイングランド国教会の唯一最高の首長をイングランド国王としました。

教養がありインテリ、老獪とも言われたイングランド王ヘンリー8世ならではのやり口ですね〜。

この素地があったため、ヨーロッパで先駆けて17世紀後半に啓蒙思想が興り、理神論が出てきたわけです。国王が撒いたタネが芽を出し、イングランド国内で十分な年月をかけて徐々に育っていった結果と言えるでしょう。

ドイツで1517年に始まった宗教改革は各地に波及しましたが、イングランドの場合はこれが一応、宗教改革と位置付けられています。

人間は、他者も自分と同じ発想で物事を考え動くと思い込みがちです。「今だけ、金だけ、自分だけ」の発想の人だと、ヘンリー8世をただの女好きのダメ王と見なしたりするようです。

ヘンリー8世が今が良ければ良い、自分だけ良ければ良いという考え方だったならば、こんな面倒なやり方はしていません。面倒どころか、実際は破滅のリスクすらかなりあったはずです。ヘンリー8世は神の存在やキリストの教えは否定せず、キリストの代理者を標榜するローマ教皇庁から離れるというやり方をしました。それでもカトリック盲信者が許せないと反旗を翻したり、或いはそのような盲信者らを扇動して王座奪還を狙う者も発生し得ます。王座を狙う者には、願ってもいない"隙"が生じます。

 

「今、自分が苦労しても、後世の人たちがより幸せになれるように。」

撒いた種はすぐには収穫できません。
「桃栗三年柿八年、柚子の大馬鹿十八年。蜜柑の間抜けは二十年。」なんて諺もあったりします。

すぐに結果がでないと満足できない人は今しか考えられない、「今だけ良ければ良い」という人間です。長い年月をかけなければ成し遂げられないことはあります。数世代をかけて作り上げるものは存在します。もちろん芸術作品に限りません。

庶民は今だけしか考えずに生きていても大きな問題にはなりませんが、君主は違います。何手も先を読める天才君主がいると、こういう感じで花開いていくというわけです。後々歴史を振り返り、俯瞰的に後追いで理解するのは私のような凡人でも可能ですが、渦中にいながらにして正確に種蒔き・弾込めができるなんて、どれだけ天才だったのでしょうね。

頭の良くない人間が自分は極めて賢い、周りの人間より優れていると考える現象は、認知バイアスの一種『ダニング=クルーガー効果』として知られています。ソクラテスの『無知の知』とは真逆な感じですね。こういう人は、実際にはまともな成果が出せません。自己評価と現実の乖離が激しいため、"プライドに狂わんばかり"となる状況が発生します。

ヘンリー8世のような人物だと、自分がどれくらいできるのか、自身の能力と周囲の状況を勘案して精度高く計算できるくらい頭が良かったのでしょう。本当に頭の良い人は自分で自分は頭が良いと言わずとも、周囲がそう評価します。捨松の夫、大山巌公爵もそうでした。相手に警戒されると面倒なので、意図してその際立ちすぎる俊異ぶりを隠すことすらあります。才能は褒められるためのものではなく、何かを成すためのものですから当然と言えば当然ですが、"手段が目的"と化し、自己顕示欲のまま己の中途半端な才能をひけらかしてしまう人も実際は少なくありません。しかも、その認識は当人にはありません。気づくのは困難で、おそらくは一生そのままです。

「能ある鷹は爪を隠す。」
この諺は全ての人が知っていると言っても過言ではないくらい有名ですが、実行できている人はどれほどでしょう。天才な上に、自分ではなく国民のためを想い、その才能を惜しげもなく使ってくれたヘンリー8世の存在は、イギリスの歴史にとって非常に大きいものだったと言えます。

「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」
高貴な者は、それに見合う義務を負う。権利には、相応の責任や義務が伴うもの。貴族は貴族としての、王族は王族としての義務を負うと言う意味で使われます。生まれながらに高貴な身分に生まれた者は、その与えられた地位に相応しい行いをせよということですが、これは地位だけには当てはまらないと思います。

天才の頭脳も、生まれながらに与えられた人類の宝とも解釈できます。音楽家としての才能であったり、運動神経の素晴らしさなど、あらゆる才能がそうでしょう。イングランド王ヘンリー8世は"持つ者"の責任として、それを正しく使ったのでしょう。

『パリでのカトリック同盟の武装行進』(1590年)カルナヴァレ博物館

フランスの場合は宗教革命の結果、カトリックによるプロテスタントの大虐殺が発生しました。プロテスタントを『ユグノー』と呼び、存在を決して許しませんでした。改宗しない場合は殺すという感じで、40年近くも『ユグノー戦争』と呼ばれる内戦が起きました。

イギリスを始め、各地に亡命するプロテスタント(ユグノー)も数多く存在しました。こうしてフランスでは宗教改革後も依然として、色濃くカトリックの影響が存在しました。

ヴォルテール(1694-1778年)

そんなフランスのパリで、公証人の息子として裕福な中産階級の家に生まれたのがヴォルテールです。

フランスの政治や政府を痛烈に中傷する詩を書き、流布し続けるなどして何度も投獄された経験があるヴォルテールは思想的な自由を標榜していました。

しかしながら1726年から1728年にかけてイギリスに滞在してその自由な風潮に触れ、フランスがいかに前時代的で封建的な性格を持ち続けているのかを思い知りました。

『自然哲学の数学的諸原理』仏訳の扉絵(1738年頃)ニュートンが発する天界の閃きをシャトレ夫人が反射させ、ヴォルテールを照らしている

 

ヴォルテールは深く感銘を受け、当時のイギリスで大きな影響力を持っていたジョン・ロックやアイザック・ニュートンらの哲学など、様々な面でイギリスから多大なる影響を受けました。

イギリスの理神論をフランスで紹介したのがヴォルテールでした。

イギリスの場合は「そんな説もありますね。」程度の議論でしたが、依然としてカトリック教会が権威を持っていたフランスでは、あってはならぬ異端邪説でした。

アンシャンレジームを風刺した絵(1789年)

何しろこういう時代でしたからね。

貴族は第二身分です。

第一身分は聖職者です。第三身分の平民2,600万人に対して貴族が40万人、聖職者は14万人でした。

ヴォルテールはキリスト教にまつわる様々な伝説や聖物を笑いものにし、無神論に近いところまで行っていたようです。

これがフランス革命にも受け継がれていきました。

民衆に示される国王ルイ16世の首(1793年1月21日)

国王の処刑は、神に対する挑戦でもありました。

君主は神の代理人でした。

本当にそうならば、神が助けるはず。神がいるのならば、奇跡を起こしてみろ!神がいるならば国王は救われるはずだ!!

 

そうならなくても、神の不在の証明にはなりません。「神が助けてくれない!」と愚痴を言ったり、呪いの言葉を残すこともなく、国王ルイ16世は「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることがないように神に祈りたい。」と、磔刑に処されたイエス・キリスト並に立派だと感じられるような最期を遂げました。

理性信仰の宗教施設に変えられたストラスブールのノートルダム大聖堂(1793-1794年)

 

しかしながらルイ16世の高潔な思考を汲み取らず、「それ見たことか!理性の勝利だ!」と考えた人は多くいたようです。

幽霊の正体見たり枯れ尾花ということなのか、やっぱり神はいなかったと安心したフランス国民は、全フランスのキリスト教会を『理性の寺院』へと生まれ変わらせました。

パリのノートルダム大聖堂での『理性の祭典』(1793年11月10日)

1793年のパリのノートルダム大聖堂で開催された『理性の祭典』を皮切りに、「理性が18世紀の偏見に対して勝利を収めた」と祝典が催されました。極めて無神論的性格の強いものでした。

フランス国民全員が無神論者に転向したわけでもなく、理神論的な人がいたり、色々でした。しかしながらフランス国王ルイ16世の処刑を契機に、神の存在を疑ったり信じなくなった人が爆発的に増えたことは間違いありません。

神が存在してもすぐに天罰を下すとは限らないはずですが、「今だけ、金だけ、自分だけ」、今だけしか見られない人にとっては神はいないという結論を下すに十分な出来事だったのでしょう。結果が待てない人は現代も多いですが、昔も少なくなかったようですね。

2-2-4. 悪魔の存在への疑義

『失楽園』ガブリエルに降伏するサタン(ギュスターヴ・ドレ 1866年)

キリスト教などアブラハムの宗教に於いて、悪魔は神が創り出した存在です。

より正確に言うと、神が創造した天使ルシファーが、同じく神が創った人間に嫉妬し、神に敵意を示して、賛同する天使たちを集めて大天使ミカエルやガブリエルが率いる神の軍団との戦い、負けて天から投げ落とされたのが悪魔サタンです。

堕天した天使ルシファーが、悪魔サタンということです。

『失楽園』地球に向かうサタン(ギュスターヴ・ドレ 1866年) 落っことされて辿り着いたのが地球です。

地球に住む人間を介して、神と悪魔の戦いは続いています。

『大アントニオスの苦悩』様々な誘惑をする悪魔たちにもがき苦しむ大アントニオス(ミケランジェロ・ブオナローティ 1487-1488年)

もともとルシファーは神に次ぐ力を持つほどの大天使だったとされ、手下となる悪魔たちを生み出す力があるようです。

世の中に一匹しかいないけれど世界中に現れるというミッキーマウスと違い、世界中に悪魔がいたとしてもそれは必ずしもサタン本人ではなく、色々な悪魔がいるようです。

それが各地で様々な伝説となっています。

 

悪魔として描かれた贖宥状を販売する聖職者(1490-1510年頃)

・・・・・。

神がいないなら、悪魔もいないのでは?

 

神と悪魔の存在は、キリスト教徒にとってセットのようなものです。

こういう疑問は当然の流れと言えます。

2-2-5. イギリス貴族の若者らしい『悪魔への挑戦』

Tangopaso permittedアルプス最高峰 モンブラン山塊

「悪魔って本当にいるのかなぁ。」

「いないんじゃない?」

「よおし、実際に見に行って確かめてこよう!!」

おそらくイギリス貴族の若者たちの一部が、そのような肝試し的な発想で、グランドツアーで18世紀半ば頃からアルプス・ルートにトライするようになりました。

悪しきものの存在が信じられていた平安時代
藤原道長(966-1028年) 疫病神退治をする安倍晴明(921-1005年)泣不動縁起

若い男の子の肝試しは今に始まったことではなく、人類共通の本能みたいなものですよね。

高貴な若い男性の肝試しエピソードと言えば、日本では『四鏡』の最初の作品『大鏡』に出てくる、平安中期の藤原道長が思い浮かびます。私は高校の古文で学びました。

藤原道長と安倍晴明の活動時期は重なっています。当時は疫病神のなど、災厄をもたらす"悪しきもの"や怨霊の存在が信じられており、陰陽道は立派な科学の1つであり、陰陽師は正式な官職でした。安倍晴明の肩書きは陰陽師、天文博士で、官位は従四位下・播磨守でした。

律令制では位階の中核をなす内位(文位)と、地方豪族などに与えられる外位、武功により授けられる勲位があります。

内位は正一位、従一位から正九位、従九位、さらに大初位、少初位まで30段階あります。五位以上の14階が貴族とされ、天皇から直接授けられます。五位までは功労によって昇り詰めることができましたが、そこから四位に進めるのは特定の門閥貴族に限定されており、それ以外は余程特別な功労を上げた例外のみでした。

安倍晴明の従四位下というのは、特別な身分だったと言えます。

花山天皇(968-1008年、在位:984-986年)『月百姿 花山寺の月』月岡芳年

安倍晴明は979年に皇太子・師貞親王(後の花山天皇)の命で那智山の天狗を封じたりしており、花山天皇から信頼されていました。

ある五月下旬。雨雲が垂れ込め、激しく雨の降る気味が悪い夜。

物足りなく思った花山天皇は殿上の間にお出ましになり、管弦楽の演奏や和歌を詠んだりしてお遊びになられていました。

そんな時、人々のとりとめのない話の中から、不意に"昔恐ろしかったこと"の話題が出ました。

花山天皇は仰いました。
「今宵はとても気味が悪い夜のようだ。このように人が多い場所でさえ、不気味な感じがする。増して、離れた人気のない場所は如何ばかりであろう。そのような場所に一人で行ける者はいるだろうか。」

人々は「とても行けないです。」と反応しましたが、道長は「何処へでも参りましょう!」と豪語しました。これで巻き添えになったのが、道長の兄たちです。

皇城大内裏地図(森幸安・書写 1750年)

「それはとても面白い。それならば行って参れ。道隆は豊楽院へ、道兼は仁寿院の塗籠、道長は大極殿へ行け。」

悪しきものの存在が信じられていた時代。兄たちはうまく行きませんでした。『大鏡』では道長の引き立て役です(TT)

道長は肝試しで胆力を示した傑物として、『大鏡』のこの逸話の冒頭で褒められまくっています。
「さるべき人は、とうより御心魂のたけく、御まもりもこはきなめりとおぼえ侍るは。」
(凄い人は、早い時から精神力・胆力がお強く、神仏のご加護も強力なようです。)

花山天皇(968-1008年、在位:984-986年)『月百姿 花山寺の月』月岡芳年 藤原道長(966-1028年)

この話は「花山院の御時」だそうです。花山天皇としての在位は984年から986年です。当時の花山天皇は15歳から17歳、道長は17歳から20歳くらいです。

高貴な身分の若い男の子たちの、肝試しのお話だったわけです。しかもそれをわざわざ『大鏡』にエピソードとして残すなんて、興味深いですよね。ただ闇夜に大極殿に行って戻ってきただけと言えばそうなのですが、2人の長命な老人が語り合い、それを若侍が批評するという対話形式で書かれた『大鏡』のこのエピソードは、後に栄華を誇ることになる藤原道長の間接的な自慢話と言えます。

日本人は奥ゆかしく慎み深いことを是とする性質があり、あからさまな自慢話を好みません。下品に感じます。

それでも自慢したいものは自慢したいのです(笑)
それ故に、「私は凄いのだ!!」と言うような直接的な自慢話ではなく、このような間接的な自慢話として残っているのでしょう。

Tangopaso permittedアルプスの最高峰モンブラン

ある程度年齢を積み重ねた人や、女性にはちょっと理解しにくいような、若い男の子たち独特の仲間内における"カッコいい"の基準は時代や民族を問わず共通しているように感じます。

皆が恐れ、避けて通る悪魔の棲家。

そこ行き、無事に帰ってきたら大きな自慢です。周りの男の子たちも「おぉ〜、凄い!」と、憧れと尊敬を眼差しを向けてくれるはずです。もちろんそうではないことも多々ありますが、性差として、女性は男性に褒められたくてオシャレをする場合が多いです。一方で、男性はどちらかと言えば男性に認められたい、褒められたいという意識で行動する場合が多い傾向にあります。

加えて、冒険心の強さもあります。知的好奇心が強く、リスクがあることにトライする傾向があるのも男性です。

男女の出生率は男性が105に対して女性が100ほどで、生まれてくる子供は男性の方が5%くらい多いです。 理由の考察は様々あると思いますが、男児は冒険心が強く、幼少期に事故で亡くなる人数が女性より多いため、女性より少し多めに生まれるのではという説があります。

現代では昔ほど不幸な事故で亡くなる男児は減っていると思いますが、昔はこれで男女比率が大人になる頃には大体100:100になっていたようです。

肝試し的な発想、そして強い冒険心。
イギリス貴族の若い男の子たちが、死や怪我などのリスクがあってもアルプス越えに挑戦しようと思ったのは、ごく自然の流れでした。

2-3. イギリス貴族を魅了した氷の世界

2-3-1. ロンドンで紹介されたイギリス貴族によるアルプス登山記録

アルプスの登山記録がロンドンで初めて出版されたのは1744年でした。

グランドツアーでジュネーブを訪れていたウィリアム・ウィンダムというイギリス貴族の若者が、現地で一緒になったイギリス貴族の若者たちとパーティを結成して1741年に決行したものでした。

8人のイギリス人が5人の召使いを引き連れ、食糧や武器、テントなどを馬に積み、6日間かけて往復した登山旅でした。1人ではつまらないですし、もし本当に悪魔に遭遇してしまったら怖いので、異国で会った同胞たちと徒党を組むのは大事ですね。旅は道連れです(笑)

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのモンブランのインタリオMount Blanc(モンブラン):左右反転させた画像

そうして向かったのが、モンブラン山塊の麓にある渓谷シャモニーでした。地図上ではフランス、スイス、イタリアの国境付近に位置し、フランス東部オート=サヴォワ県のコミューンとなっています。最低気温は-40度を記録するような土地で、例年9月半ば頃にはモンブランに初雪が降ります。

現代の観光スポットとしては、メール・ド・グラス氷河やモンタンヴェール鉄道、エギーユ・デュ・ミディなどがあります。

ウィリアム・ウィンダム一行はモンタンヴェールの山に登り、メール・ド・グラス氷河を見物しました。

メール・ド・グラス氷河(1870年頃の写真)

メール・ド・グラスは『氷の海』という意味です。フランスにある最大の氷河で、長さ7km、深さは200に及びます。

モンブラン山塊のメール・ド・グラス氷河
モンブランとメール・ド・グラス氷河
"Mont Blanc 003" ©Zulu/Adapted/CC BY-SA 3.0
モンブランのメール・ド・グラス氷河の位置

標高2,400m地点で3本の氷河が合流し、このメール・ド・グラス氷河を形成しています。現在は氷河が後退して麓のシャモニーからは見えませんが、昔は見ることができたそうです。

【小谷コレクション】
『氷河またはサヴォイに於ける氷のアルプスに関する記述』(ピーター・マーテル 1744年)
【引用】信州大学 附属図書館HP / 書物で繙く登山の歴史1 -ヨーロッパ近代登山と日本- (1) / 1.ヨーロッパ近代登山の確立と展開

1741年のウィリアム・ウィンダム一行の登山記録が纏められた書籍が、1744年にロンドンで出版された『氷河またはサヴォイに於ける氷のアルプスに関する記述』です。氷河に関する最も古い著述であり、『モンブラン』が登場するのもこの本が最初です。それまでモンブランは、『呪われた山』などと呼ばれていたそうです。フランス語でMontは山、Blancは白で、モンブラン(Mont Blanc)は『白い山』を意味します。

英語での表題は下記になります。学術書として書かれているからなのか、学術論文の題名のように長いです。

『An account of the glacieres or ice Alps in Savoy : In two letters, one from an English gentleman to his friend at Geneva; the other from Peter Martel, engineer, to the faid English gentleman』
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アングルシー伯爵のインタリオ

著者ピーター・マーテルについては詳細不明ですが、このフォブシールの最後の正統な持ち主だったマウントノリス伯爵ジョージ・アンズリーも、1802-1806年にかけてのエジプト、紅海、インド、スリランカを巡った見聞録は本人ではなく秘書・案内人として雇った優秀な外交官・学者のヘンリー・ソルトに書かせていますから、そういうものなのでしょう。

実業家・登山家 小谷隆一(1924-2006年)
【引用】信州大学 附属図書館HP / 書物で繙く登山の歴史1 -ヨーロッパ近代登山と日本- (1) / はじめに

1744年のロンドンの貴重な書籍は、信州大学の中央図書館が所有しています。実業家であり、登山家でもあった小谷隆一氏が2003年にコレクションを寄贈したものです。

このコレクションは貴重な国内外の資料8,000冊にも及ぶ、国内でも有数の山岳関係コレクションです。

小谷氏が旧制松本高校出身だった縁で、信州大学に寄贈されたそうです。

昔ながらのお金持ちらしい印象です。成金のように無意味なもの、自己顕示欲を満たすためのものにお金を使うのではなく、知的好奇心であったり人のためになることに惜しみなくお金を使う人が、昔は一定数いました。

「あの人がお金持ちなのは悪いことをしているからだ。」なんて言い方をされる強欲成金系の人も存在しますが、こういう人は周囲から尊敬を集めるタイプのお金持ちですね。

周囲に助けられたからこそ、たまたま自分が財を持てたと考えるのでしょう。こういう人たちは郷土愛が強く、郷土に貢献するお金の使い方をするのも共通しているように感じます。戦前生まれの方ですが、2000年代でもそのようなお金の使い方ができる人がいたなんて感激です。カッコいい!

【小谷コレクション】 『氷河またはサヴォイに於ける氷のアルプスに関する記述』(ピーター・マーテル 1744年)
【引用】信州大学 附属図書館HP / 書物で繙く登山の歴史1 -ヨーロッパ近代登山と日本- (1) / 1.ヨーロッパ近代登山の確立と展開

何でも"最初"というのは価値があるものです。

誰も行ったことのない、皆が恐れをなしていた悪魔の棲家に足を踏み入れて戻ってきた、若者たちの勇敢な冒険記。

そこで出逢った、まだ誰も見たことのない美しい世界。

グランドツアーから戻り、書籍を出版したら、きっと社交界はこの話題で持ちきりだったことでしょう。

「悪魔なんていなくて、実際は雄大で美しい氷の世界が広がっていました。」

参加者したイギリス貴族の若者たちは、勇気と知性で羨望の的となったはずです。

2-3-2. 高い山がなく雪が少ないイングランド

日本列島は縦に長く、お住まいの地域によってかなり気候も異なります。

それでも山や雪はそこまで珍しく感じない方が多いと思います。福岡出身の私でも、生まれた日は雪が積もっていたそうです。

日本の本土(抜粋)

日本は島国であると当時に、山国でもあります。国土の約73%が山地です。世界地図で見ると面積的には小さな国ではありませんが、住める場所がかなり限定されます。

関東はあまり山がありません。就職で福岡から関東にきた際、視界の先に山がなくて「うわ〜、これが日本地理で習った『関東平野』なのか〜!」と関心したものでした。海側を除き、大体の場所は地平線を見ようとしたら『山』の稜線が目に入るのではないでしょうか。

山なんてそこら辺に身近にあり過ぎて、多くの日本人は特別視なんてしないと思います。

イギリスの地形 "Uk topo en" ©Captain Blood(7 July 2006)/Adapted/CC BY-SA 3.0

イギリス、特にイングランドは山がありません。

スコットランド、特にハイランド地方はこの図では少し高そうに見えますが、茶色のエリアでも標高600m前後です。

イギリスにおける高い山のトップ10は全てスコットランドにあります。

それでも最高峰のベン・ネビス山で標高1,344mです。

これより高い山は日本にはいくつもあります。日本の富士山は3,776mありますね。

小学生の頃、大分の九重山に登ったことがありますが、この山で1,791mです。楽ではありませんでしたが、特別な装備なく小学生でも登山できるレベルです。

身体を鍛えている若い男の子たちが冒険したり、登山して楽しめるような山は殆どありません。

また、イギリスは暖流の影響があって、高緯度の割には冬でもあまり気温が下がりません。Genの出身地、米沢のように根雪になるどころか、ロンドンは雪すらも殆ど降りません。

特にイングランドを拠点にしているイギリス貴族にとって高い山も、雪や氷の壮大で美しい世界も見たことのないものでした。

月山(山形県)標高1,984m "Gassan (5693125340)" ©Jun K(6 May 2011, 13:16)/Adapted/CC BY-SA 2.0

Genなんかは2千メートル級の月山でしょっちゅうスキーし、雪がない時期は山の中をランニングしていたそうです。

Qwert1234 permitted吾妻連峰(左:西大巓:1982m、右:西吾妻山:2,035m)

実家があった米沢は山に囲まれた盆地で、2,035mの西吾妻山を頂く吾妻連峰など、2千メートル級の山々を毎日目に入るような場所でした。

そんなGenがイギリスを旅したら当然ビックリです。「山がない!しかも、山がないので川も急流がなく、平地をゆったり流れる大きな川ばかり!」と、驚いた当時の感想を私にも語ってくれました。

九州には2千メートルを超える山はありません。連なる高い山々、白い雪景色。Genに東北の山脈を見せてもらった時は、とても驚き感動しました。寒い地方の山脈には、畏怖の念を感じるような神々しさと厳しさがあります。そのような心揺さぶる感動を、グランドツアーに出てアルプスを旅したイギリス貴族の若者たちも感じたはずです。

2-4. 18世紀中期から大流行した氷河見物

2-4-1. シャモニーに訪れるようになったイギリス人

ラ・ロシュフコー公爵ルイ・アレクサンドル(1743-1792年)

ラ・ロシュフコー公爵ルイ・アレクサンドルは10〜11世紀にまで遡る、最も古くて有名なフランスの名門貴族家の人物です。

例に漏れず、フランス革命の混乱でパリを脱出した後、1792年9月4日に貴族狩りを行っていた志願兵に殺害されています。

このラ・ロシュフコー公爵が1763年の20歳頃、「ジュネーブに来るイギリス人は、全員この小旅行をやっている。」と、イギリス人の氷河見物について記しています。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのモンブランのインタリオMontanvert(モンタンヴェール):左右反転させた画像

1744年のロンドンで出版された書籍が話題を呼び、或いは社交界でウィリアム・ウィンダム一行の1741年の冒険旅行談が持て囃されたのか。おそらくはその両方でしょう。社交界は狭い世界です。面白い話は一瞬で広がります。

まだ写真も動画も撮れない時代です。仰天の氷の世界は、自分で行って見る他ありません。話題が話題を呼び、モンタンヴェールを登山しにイギリス人が押し寄せるようになりました。

地元の人々にとっては注目するに値しない、何の変哲も感じないものであっても、それを見慣れない人々にとっては強い魅力を感じるというのはしばしばあります。

日光の憾満ヶ淵の赤い毛糸の帽子をした化地蔵憾満ヶ淵のお地蔵様(日光)

サラリーマンだった2016年の5月、思いつきの1人旅で日光の憾満ヶ淵(かんまんがふち)に行ったことがあります。

そういえば日光は行ったことがないと思い立ち、メジャーな東照宮以外にも面白いものはないかと調べて、気になる名前を地図で発見しました。

東照宮が目立ち過ぎて、マイナーな観光スポットで、あまり情報がありませんでした。なぜか英語による情報の方が多いくらいでした。

沢沿いに約70体の地蔵が並び、『化地蔵』と呼ばれるこのお地蔵様たちは数えるたびに数が違うと言われています。手編みの帽子や手作りのよだれかけも良い感じです♪

不動明王が降り立つとされる沢の力強い水音は、不動明王が真言を唱えているかのように聞こえるとのこと。溶岩でできた奇勝の絶壁には、弘法大師が筆を投げて彫りつけたという『かんまん』の梵字があり、『弘法の投げ筆』と呼ばれています。

中には首がないお地蔵様もいらっしゃったり、あまりの人気のなさに不気味さを感じる人もいそうなほどでしたが、人がいないのを良いことに、弘法の投げ筆の目の前の岩まで降りて寝っ転がり、日向ぼっこをしながら沢の真言を聴いて癒されました。最高に心豊かで贅沢な気分でした。

この日は一眼レフカメラを持った白人と1人すれ違っただけでした。日本では知られざる観光スポットですが、どうやらこの独特の美しい景観は外国で口コミで伝わっているようで、少し不便な場所にあるにもかかわらず外国の方がわざわざ足を運んでいたようです。

外国人に人気が出た結果、その情報が日本に伝わってきて、数年後に日本でも憾満ヶ淵が話題となって訪れる日本人が増えたようです。

私はここが好き過ぎてありったけ時間を使ってしまい、元々あまり興味を感じていなかった東照宮は、帰り道に早足で通り過ぎるだけになりました。翌年にGenにも紹介するため、再訪しています。Genも驚き感動していました。

それでもやはり東照宮の方が一般ウケするのでマイナースポットで在り続けるのでしょうけれど、口コミで人気が出て美的感性のある外国人がやってくるという、なかなか興味深いスポットでした。

2-4-2. シャモニーの観光地化

シャモニーまでラバで移動し、そこからモンタンヴェールの山に徒歩で登り、頂上でメール・ド・グラス氷河を見るのがイギリス人観光客の定番となりました。

アルプスのシャモニー渓谷 "Chamonix valley from la Flegere,2010 07" ©Ximonic, Simo Rasanen(6 July 2010, 10:41:21)/Adapted/CC BY-SA 3.0

1741年のウィリアム・ウィンダム一行の冒険は食料やテントを積んでの6日間かけての旅でしたが、1765年には宿屋が開業しました。

1780年代になると、シーズンには1日に30人もの観光客がモンタンヴェールの山を登るようになり、シャモニーは大いに賑わいました。地元の農民や猟師たちはガイドに早変わりし、金持ちのイギリス人観光客から暴利を貪って大儲けしたそうです。

地元の人たちはまず利用しない"観光地価格"というものはどこにでも存在しますが、イギリスからグランドツアーでやってくる上流階級の若者たちの金遣いは別格です。お金持ちな上に世間知らず、ボンボンならではの人を疑わない金払いの良さ(笑)

それまで省みられることのなかった険しいアルプスの景観が観光産業として外貨を得る手段になることを、アルプスの過酷な環境に住んでいた人々は知りました。

メール・ド・グラス氷河の見物客(シャモニー 1902-1904年頃)

やがて女性も氷河見物に来るようになりました。みなさん、随分と軽装ですね。私がこの格好で行ったら絶対凍死します。日本人がコートを着て震えるような日でも、平気で半袖でウロウロする外国人はよく見かける気がします。耐寒性が違うんですかね。

シャモニーからメール・ド・グラス氷河までを結ぶモンタンヴェール鉄道(1914年以前)

1909年にはシャモニーからメール・ド・グラス氷河まで行ける登山鉄道、モンタンヴェール鉄道が全線開通しました。終点のオテル・ド・モンタンヴェール駅は標高1,913mです。

ホテルの前を通過するモンタンヴェール鉄道 "Train du Montenvers - rame 53 au Montenvers" ©trams aux fils.(1982)/Adapted/CC BY 2.0

開業時は蒸気機関車でしたが、1953年に電化されました。こんな不便な場所にホテルまで開業するなんて、いかに観光地として人気があるかが分かりますね。

シャモニー(1905年)標高1,036m

当然ながら麓のシャモニーも観光産業によって人口が増え、発展しました。

8月のシャモニー "Scenes areound Chamonix - flower boxes along l'arve (10975864143)" ©Murray Foubister(19 August 2013, 0:09:03)/Adapted/CC BY-SA 2.0

これは8月の様子です。標高1,036mあるので夏は避暑地として快適ですね。今では登山とスキーのリゾートとして世界的人気を誇っています。1924年に開催された冬季オリンピックの第1回大会、シャモニーオリンピックも開催されており、『冬季五輪の発祥の地』としても知られています。

この話は、鄙びた漁村だったブライトンを開発し、イギリス屈指のリゾートにしたイギリス王ジョージ4世を思い出します。口コミ等でイギリスの上流階級が多く訪れるようになり、鉄道が整備されると庶民も観光に訪れるようになり、今に至ります。

ただ好き勝手に贅沢しているだけのように見えても、こうして産業や文化の発展に貢献し、庶民の隅々まで幸せにできているというこの構造は面白いですね。

2-4-2. アルプスの主だった山の殆どを初登頂したイギリス人

これはシャモニーだけに起きたことではありません。

悪魔の棲家、呪われた場所として忌み嫌われていたアルプスの山々でしたが、イギリス貴族の若者たちの突撃とそれに続くイギリス観光客の殺到を契機に、アルプスは黄金時代に突入していきました。

アルプスの山々 "PanoramaMatter" ©Rafal Raczynskii(10 December 2011)/Adapted/CC BY-SA 3.0

アルプスには険しい山々が幾つもあります。まだ人類が誰も足を踏み入れていない場所、誰も見たことのない景色というのは強いロマンがあり、冒険心がくすぐられるものです。

初登頂。
この栄誉ある称号をイギリス人男性たちが欲しがったのは、ご想像に難くないでしょう。

アルプスの山は、素人が簡単に登れるような山ではありません。現代もエベレストを始め、山に魅せられて挑む人たちは多いです。そのドキュメンタリーなどでも想像できますが、天候に見放されると登頂不可能だったり、最悪の場合は命を落とすこともあります。

また、単独登山は無理です。途中まで荷物を運んでくれる人だったり、ガイドも必要です。それらの人件費に加えて装備、食料、犬ぞりや荷を運ぶラバや馬などの費用もかかります。

現代の登山家がスポンサー探しに腐心している状況は、ご存知の方もいらっしゃると思います。莫大な費用は個人の資金で賄い切れるものではありません。登山に向けたトレーニングであったり、情報収集に専念したくても、まずは資金を集められる才能ありきです。

スポンサーは広告宣伝効果を求めます。だから登頂するための能力だけでなく、大衆から人気を集めるための見た目の良さも重要視します。登山とは関係なくてもです。外見に魅力がないと、登頂が成功しても大衆からの人気が十分には得られず、投資した分の宣伝効果が得られません。

カネ・カネ・カネ。
お金に翻弄されるのは職人だけではありません。作りたいものを作れない。お金を出す側の要望に応えて、本来ならば作りたいと思えぬものを作る。スポンサーの要望に応え、耳目を集めるために無茶な登頂に挑む。そうして凍傷で指を失い、最後は命を落とした登山家もいました。

マッターホルンとアルプスの山々 "View from the Matterhorn" ©Oargi(10 August 2009)/Adapted/CC BY-SA 2.0

当時のイギリス貴族の場合、"登ってみたい人"と"お金を出す人"が一致できました。そうでなくとも"知的なもの"や"史上初・人類初"ということに大きな価値を見出し、気前よくお金を出せるパトロンとしての王侯貴族が多くいました。

そういうわけで、必然的にアルプスの未踏の山々にもイギリス人たちが多く挑むようになりました。

19世紀にはスイス・アルプスはイギリス人登山者のメッカとなり、アルプスの主峰39座のうち31座がイギリス人いよって初登頂されています。

生きるための狩猟であったり、信仰のためものではない、山に登ること自体が目的である"遊び"や"スポーツ"としての登山がこうしてイギリスの上流階級らによって新たなジャンルとして確立されました。19世紀後半に『アルピニズム』という言葉で定義されました。

マッターホルン(スイス・イタリア国境)標高:4,478m
"3818 - Riffelberg - Matterhorn viewed from Gorneratbahn" ©Andrew Bossi(16 July 2007)/Adapted/CC BY-SA 2.5

マッターホルンを初登頂したのもイギリス人のパーティでした。イタリア語で『チェルヴィーノ(Cervino)』、鹿の角という意味です。いかにもなフォルムですね。それ故になのか、他の山々より悪魔の存在が根強く恐れられたようで、トライする登山家が初期はあまりいなかったようです。

ただ、初登頂して自慢できるような山が無限にあるわけではありません。制覇されて未登頂の山の選択肢が無くなってくると、マッターホルンも挑戦の対象となります。

英国山岳会 初代会長・政治家・博物学者 ジョン・ボール(1818-1889年)

さすがイギリス、世界最古の山岳会を結成したのもイギリス人でした。

1857年12月22日、アルプス黄金時代に様々な登山技術を生み出した一流の登山家たちが集い、登山家の名士会『英国山岳会』が発足しました。

アルプスの名だたる山々をイギリス人が制覇するのは、イギリス人として誇りであり栄誉なことです。

オリンピックで各国の金メダルの獲得数が比較され、国威高揚と密接に関連するのと同様であり、イギリス人による初制覇は単なる個人の栄誉を超えた価値がありました。

マッターホルンを初登頂したイギリス人パーティ(1865年)
登山家・挿絵木版画家 エドワード・ウィンパー(1840-1911年) エドワード・ウィンパーが考案したウィンパー・テント(自身によるイラスト)

「マッターホルン初登頂の栄誉も大英帝国に!」
と言うことだったのか、1860年に『英国山岳会 アルパイン協会』は登山家エドワード・ウィンパーにアルプス行きを依頼しました。

ウィンパー・テントを考案し、生態系の調査や地理測量の精密技術も持ち、王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)も授与されたほどの優秀な登山家です。生涯現役で、最後は1911年の登山旅行中にシャモニー=モン=ブランrの旅館で急逝しました。享年71歳です。20世紀初期でも、70代でも元気に活躍する人がいる世の中だったのですね。

そんなエドワード・ウィンパーでもマッターホルンの攻略は簡単ではありませんでした。試行錯誤を重ね、1865年7月14日の7度目の挑戦でようやく初登頂に成功しました。

第8代クイーンズベリー侯爵の次男 フランシス・ダグラス卿(1847-1865年)

ウィンパーの他、フランシス・ダグラス卿らのイギリス人パーティに加え、ミシェル・クロ&タウクバルター父子がガイドとして参加し、7名のチームで挑みました。

フランシス・ダグラス卿は第8代クイーンズベリー侯爵の次男で、登山は初心者でした。

当時18歳。かなり高い身分の家柄ですが、栄誉のために、危険な登山に挑戦したいお年頃ですね。

マッターホルン初登頂(ギュスターヴ・ドレ 1865年)

この時、イタリア・チームも登頂に挑戦する情報が入っていました。

登頂に成功しても2番手では全く価値がありません。『頑張ったで賞』を見せて褒めてくれるのは身内だけです。そもそも獲った本人だって心からは喜べないでしょう。

頂上にイタリア国旗はありませんでした。

イタリア・チームが頂上に辿り着いたのは、イギリス・チームの3日後でした。

見事、イギリスの勝利です。

マッターホルン初登頂後の事故(ギュスターヴ・ドレ 1865年)

ただ、浮かれている時ほど足元をすくわれぬよう注意が必要です。

下山中にダグラス・ハドウが足を滑らせて滑落し、それにチャールズ・ハドソンとダグラス卿が巻き込まれ、クライミングロープが何らかの衝撃で切れて4人は1,400m下のマッターホルン氷河に落下しました。

ダグラス卿の遺体だけは今も発見できていないそうです。

私は冒険物の書籍も大好きで、小学生時代に南極点到達を競うロバート・ファルコン・スコット海軍大佐のイギリス隊と、ノルウェーのロアール・アムンセン隊の話が強く心に残っています。

1911年12月14日に人類初の南極点到達に成功したアムンセン隊ではなく、スコット隊に焦点を当てた日記形式の書籍でした。スコット隊はアムンセン隊に遅れること約1ヶ月、1912年1月17日に南極点に到達しました。極点に立てられたノルウェー国旗を確認した時の失意は如何ばかりだったでしょう。

しかもスコット隊は運にも見放され、南極の2、3月としては例外的な荒天が続き、帰路の途中で南極点を目指したパーティは最終的に全滅しました。凍傷と衰弱が激しかったエヴァンズが最初に死に絶え、続いて足に重度の凍傷を負ったオーツが自らを捨てるよう嘆願し始め、スコット隊長はアヘン・モルヒネを使用するか悩み・・。翌日、32歳の誕生日を迎えたオーツは「ちょっと外に出てきます。」と言い、ブリザードの中へ消えて行き・・。

食料を置いた場所まであと20kmという所まで辿り着いたのに、ブリザードに見舞われて10日間も身動きできない日が続きました。食料は2日分しかなく、スコットは最後の日記を記し、残った隊員3人全員が寝袋に入ったままテントの中で息を引き取りました。「我々の体は衰弱しつつあり、最期は遠くないだろう。残念だがこれ以上は書けそうにない。どうか我々の家族の面倒を見てやって下さい。」と、日記には書かれていました。

事前情報がないまま読み進めていた小学生の私は大ショックでした。2番手で終わり、しかも仲間が衰弱し、失われていき、最後は日記を書いていた本人も亡くなってしまうという・・。

失意の中でも隊員たちは科学に役立つための標本採集をしっかり行い、遺してくれていました。

冒険とは常に死や怪我の危険が伴うものであり、それでも臆さず勇敢にチャレンジする者がいるからこそ新しい世界が見えてくるものです。それに伴いテクノロジーが進化したり、学術的な発展ももたらされます。目標が達成できても、帰りも要注意。こういう歴史は、イギリス人男性が最も経験を繰り返しているとも言えそうです。

マッターホルンの空撮(1910年)標高:4,478m

次々と悪魔の棲家を攻略。

最後の牙城とも言えるマッターホルンを1865年に制し、主だった山々を制覇した結果、アルプス黄金時代は終焉を迎えました。

それまでにアルプスには大きな変化がありました。

初登頂に挑む者だけでなく、観光目的でもたくさんの人が訪れるようになりました。特に初期はお金を気前よく払ってくれる、イギリス人の若い金持ちたちです。ガイド、周辺の宿屋、レストラン等、様々な観光産業が成り立ち、それに伴うトンネルや鉄道、道路などの土木交通関連の事業など、スイスは地元で外貨を稼げるようになりました。

official White House photo by Pete Souza第44代アメリカ合衆国大統領バラク・オバマ夫妻を警護する
バチカンのスイス傭兵(2009年7月10日)

その結果、スイスは外貨を稼ぎに他国へ傭兵をしに行く必要がなくなっていきました。『血の輸出』が不要になったのです。

1874年にスイス憲法が改正され、傭兵の輸出が禁じられました。1927年には外国軍へのスイス人の参加が禁止され、スイスの傭兵輸出産業は完全に終了しました。

今は、中世からの伝統を持つバチカンのスイス傭兵のみが、「ローマ教皇のための警察任務」という解釈によって唯一例外として残るのみです。

グランドツアーの若者たちの冒険心と途方もない金遣いの荒さが、イギリス国内だけでなく他国の産業の発展にもこうして大きく貢献したわけです。意図したことではなく、若者たちはただやりたいようにやって楽しんだだけでしょうけれど、物凄いことですね。イギリス貴族、恐るべしです(笑)

3. 高い美意識を感じる最高に贅沢なフォブシール

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

この宝物はフォブシールの中でも非常に特別な存在です。

贅沢さ、美意識の高さ、センスの良さの3拍子が際立っています!♪

3-1. 仕事用ではない最高級フォブシール

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

このフォブシールは仕事用ではなく、遊び心で作られている所がまず珍しいです。

モンブラングランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンブランのフォブシール モンタンヴェール氷河グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンタンヴェールのフォブシール サン・ベルナール峠グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシール

ロッククリスタルに彫刻されているのは、3面ともアルプスの美しい景色です。ヨーロッパで写真技術が普及し始めるのは1840年代からで、それ以前だと、想い出の風景は絵に描いて残すのが通常でした。紙ではなく、高価な宝石にこれだけリアルに彫刻させるなんて、ちょっとこれは贅沢過ぎですね。贅沢の極みです!!

3-1-1. 通常のフォブシールは上流階級の紳士の仕事用

アングルシー伯爵のシール アンティーク アンズリー家 紋章 黒人 ジョージアン レッドジャスパー『アンズリー家の伯爵紋章』
ジョージアン レッドジャスパー フォブシール
イギリス 19世紀初期
3,7cm×3cm 奥行き2,2cm
¥1,230,000-(税込10%)
アングルシー伯爵のシール アンティーク アンズリー家 紋章 黒人 ジョージアン レッドジャスパー

持ち主を示すモチーフが陰刻されたフォブシールは、政治や外交なども司る上流階級の男性の必須アイテムでした。

個人が特定できる紋章などが彫刻されたフォブシールは、紳士ならば1人1つは必ず持っていたと言えます。

最高級品 中級品 安物
英国貴族の紋章 フォブシール ジョージアン ブラッドストーン オオカミ アンティークジュエリー

それ故に、紋章モチーフのフォブシールは作られた数が多いですし、クオリティもピンからキリまであります。"紋章が陰刻されたフォブシール"と言うスペックだけで、"ヨーロッパの貴族が使っていた高級品"と思い込む人たちもいますが、そういう捉え方はブランド主義や権威主義であったり、宝石の名前や大きさだけで質を全く見ないような人たちと何ら変わりありません。

HERITAGEでは上流階級の中でも特に身分が高く、美意識も高かった人のために作られた最高級品しかお取り扱いしていません。このため、世の中にある貴族のフォブシールの全てが左のような美しい高級品と思い込んでしまう方もいらっしゃるのですが、大半は中級品以下の見るに堪えないものです。

クオリティは素材、彫刻、デザインのレベルから総合判断できます。陰刻できる大きさの上質な石自体が貴重で、手に入れるには相応のお金が必要です。安物は石の質が悪くなりますし、もっと安物だとシルバーや鉄など、石を使わないメタルだけのものになります。

陰刻も安物だと立体的ではなく、罫書いただけのような薄っぺらい彫りであったり、稚拙な彫りであったりになります。それでも仕事用に使う大切なものですから、それぞれの持ち主にとっては、できる限りのお金をかけて作ったものとなります。

3-1-2. 大金持ちだけが持てる遊び用のフォブシール

庶民に至るまで平和で豊かな暮らしができ、庶民文化すらも発達した日本人には想像しにくいですが、ヨーロッパは貧富の差も、知識や教養の差も極端でした。

それ故にヨーロッパ人にとって、日本の庶民のアヴェレージの高さが信じがたかったようですが・・。

TRUTHと彫られた貴族の遊び心あふれるジョージアンのフォブシール『TRUTH』
ジョージアン フォブシール
イギリス 1820年頃
SOLD

そんな状況ですから、ハイエンドのお金持ちたちは最高級の仕事用のフォブシールに加えて、最高級の遊び用のフォブシールをオーダーできる余裕があります。

現代、世界で2,000人程しかいないビリオネアを想像すれば良いでしょう。

コーネリアンにTRUTHと羽根ペンを持つ手が彫られたジョージアンのインタリオ アンティークのフォブシールを使った封蝋

"TRUTH"の文字が陰刻されたフォブシール。

このフォブシールを使って手紙を封蝋すれば、「内容は真実のみです。」と暗示できますよね。こんな手紙を受け取ったら、相手のセンスの良さや遊び心に感激しそうです♪♪

まともにこのような高級なフォブシールをオーダーしようと思ったら、最高級のコーネリアンを用意したり、一流の彫り師に印刻させたり、美しいフォルムのゴールドの金具を一流の金細工師にハンドメイドさせたりで、とんでもないお金がかかるはずです。

例えば車を買う場合、1台目は実用品として無難な車種を選ぶのが一般的でしょう。1台しか持たない代わりに、その1台は高級なものを選ぶということもあり得ます。

ランボルギーニ・ディアブロ SV "Diablo SV. (5914315674)" ©Damian Morys from New York City, United States(16 May 2010, 10:28)/Adapted/CC BY 2.0

1台目でこういう車種を選ぶ人はまずいないでしょう。

1台目はお金を持っていても汎用性のある使いやすい車種、無難なデザインを買います。余るほどお金を持っている人が、投資効果や運転のしやすさなど関係なく、純粋に好きだからという動機で2台目以降として買うのがこのタイプの車種です。

普通は1台買うだけでもやっと。頑張って憧れの高級車を1台手に入れるという感じです。

ジョージアンのイギリス貴族のフォブシール『FRIENDSHIP』
ジョージアン フォブシール
イギリス 1820年頃
SOLD
コーネリアンに帆船とFRIENDの文字が彫られた友情を表すインタリオ 帆船とFRIENDの文字でFRIENDSHIPを表すインタリオの彫り

実用目的ではなく、遊びのためにこれだけの高級品をオーダーできる人なんて殆どいません。お金を持っていたとしても、センスや美意識がなければ作ろうとも思いません。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

Genも私もこのような遊び心溢れるフォブシールは大好きですが、上質な紋章フォブシール以上にこのタイプのフォブシールは珍しく、市場でも余程の幸運がないと出逢うことができません。

この宝物をオーダーした人物は、間違いなくこれとは別に実用目的のフォブシールを持っていました。

プラスアルファでこれだけの宝物をオーダーできるなんて、持ち主はとんでもないお金持ちだったことが想像できるのです。

3-2. ロッククリスタルによる永遠に溶けない氷

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

この宝物は、透明なロッククリスタルで氷を表現しています。

3-2-1. 単独の石を使った回転式3面フォブシールがレアな理由

時代がくだると、たくさんのフォブシールを寄せ集めた安物も作られています。そういう安物はインタリオのモチーフに魅力がなく、彫りも稚拙で、フォブシールの金具も作りが良くありません。だからお取り扱いしたことはありません。

ジョージアンのイギリス貴族の紋章の3面フォブシールジョージアン 回転式3面 紋章フォブシール
イギリス 1820年頃
SOLD

王侯貴族が特別オーダーした高級なフォブシールで、3面のものは多くありません。

1面を陰刻するだけでも大変です。

3面ならばその3倍は大変で、その分だけ時間もお金もかかります。

セットするには特別な金具も必要です。

だから滅多にないのです。

回転式3面フォブシール
単独の石 3つの石
グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール ジョージアンのイギリス貴族の紋章の3面フォブシールのブラッドストーン面 ジョージアンのイギリス貴族の紋章の3面フォブシールのアメジスト面 ジョージアンのイギリス貴族の紋章の3面フォブシールのシトリン面

回転式3面フォブシールには、2つのタイプが存在します。単独の石を使うもの、 3つの石を使うものに分けられます。

陰刻の手間、デザインの手間。これはどちらも同じです。

大きな違いと言えば、単独の石を使う場合、上質である上に大きさのある石が必要です。そのような石は稀少で高価です。理想に合う石を見つけるだけでも困難を極めます。そんな稀少な石を無駄が多く出る形でカットしてしまいますから、大変に贅沢なことです。

3つの石を使う場合、もちろんそれぞれ上質な石を見つけてくるのは大変ですが、単独の石で作る場合よりは小さくて済みますから、石探しの難易度は遥かに低いです。但し金具にセットしたり、装飾する手間は余計にかかります。

手間さえかければ作れるのが3つの石を使うフォブシール、石を見つけ出す幸運がないと作れないのが単独の石を使うフォブシールと見て良いでしょう。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

だからこそ、このようなフォブシールはより作られた数が少ないのです。

3-2-2. 持ち主の個性が伝わってくる『石&モチーフの選択』

エドモンド・ハレー&モノグラム 人物&紋章 3種類の暗号
ピクチャー・ジャスパーのフランスのエドモンド・ハレーの3面フォブシールピクチャー・ジャスパー
フランス 1758年
SOLD
ジョージアンのイギリス貴族の紋章のスモーキークォーツの3面フォブシールスモーキークォーツ
イギリス 1820年頃
SOLD
イギリス貴族のバンデッドアゲートのフリーメイソンの回転式3面フォブシール
バンデッドアゲート
イギリス 1860年頃
SOLD

大きさのある石を3面にカットしたフォブシールは、46年間で数点しかお取り扱いしたことがないほど珍しいものです。貴族の男性がオーダーした特注品なのでいずれも知的な雰囲気が漂い、持ち主のセンスや個性も強く現れています。

大きさと、理想の美しい姿を兼ね備えた石は探すのが本当に大変です。模様はそれぞれの美的感性に合うものが選ばれたでしょう。ガラスのなどの人工物とは違い、天然の結晶から探しますから、大きさのある透明な石を手に入れるのもこれまた大変だったはずです。

透明な石で3面のフォブシールを制作すると、違う世界を覗き込むような不思議な楽しさや美しさがありますよね。

ジョージアンのイギリス貴族の紋章のスモーキークォーツの3面フォブシールスモーキークォーツ 回転式3面フォブシール
イギリス 1820年頃
SOLD

この宝物の場合、手前の面は何も彫ってありません。

他の面はそれぞれ人物と紋章が陰刻されています。

裏側から覗き込むと、正面から見るのとは全く異なる趣があります。

石英の結晶(ブラジル産)  " Quartz Brésil " ©Didier Descouens(2010)/Adapted/CC BY-SA 4.0

水晶系の結晶は、インクリュージョンを含む白っぽい部分が大半です。

自然環境では100年で1mm以下しか成長しないと言われており、1cmを超える大きさのクリスタルは稀少です。

さらに大きくなればなるほど、その稀少性は指数関数的に増大します。

スモーキークォーツ 煙水晶 フォブシール 紋章 イギリス 18世紀 アンティークジュエリー アールクレール 透明な芸術 水晶インタリオの拡大画像『魔法のクリスタル』
スモーキークォーツ フォブシール
イギリス 1780年頃
SOLD

得られたクリスタル全てが使えるわけではなく、インクリュージョンが多くて美しくない部分はカットされます。

フォブシールを作ろうとすると、相当な稀少価値を持つクリスタルが必要です。

途方もないお金がかかりますが、アール・クレール(透明な芸術)には他には代え難い魅力がありますよね。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

このロッククリスタルは2.2×1.9cmの大きさがあります。

相当高価な石です。

紋章やモノグラムなどではなく、アルプスの3箇所の絶景が描かれた、完全に自己満足のためだけのものです。

これまでで一番贅沢で、且つ最高クラスに高い美意識を感じる3面フォブシールです。

それぞれの景色も楽しいですが、このロッククリスタル自体も永遠に溶けない氷を表現しており、そのためにわざわざ無色透明のロッククリスタルが選ばれたのだと言えます。

3-2-3. 特別な美意識を持つ人が選ぶ無色透明の芸術

アール・クレール(Art Clair)
-透明な芸術-

この言葉にはGenも特別な想いがあります。

30年以上前、赤坂のお店を手放した後、再起するための資金稼ぎに代官山の友人のマンションでアンティークのグラス専門ギャラリーをやっていたことがありました。そのギャラリーの名前が『アール・クレール』です。Genのお気に入りの響きと意味です。ヨーゼフ・ホフマンがデザインしたロブマイヤー製のアンティーク・グラスも扱っていたということで、自慢げにその美しさやデザインの良さを語ってくれます。

ご存じの通り、Genはとにかく細工物が大好きです。

逆に宝石そのものの価値に頼り切った、宝石主体のジュエリーは好みません。そのようなジュエリーは、王侯貴族がよく分かっていない民衆にも分かりやすく富と権力を誇示するためであったり、それを真似した成金に着用されます。

王侯貴族のために作られた高価なジュエリーであっても、用途が用途なだけに知的な背景やセンスを込めて作られるものではありませんし、自己顕示のためのジュエリーなのでドヤ感が強くて、面白くも美しくも感じられないのです。

『エメラルドの深淵』
珠玉のエメラルド&ダイヤモンド リング
イギリス 1880年頃
¥3,700,000-(税込10%)
非加熱ルビー&サファイアのアンティークのダブルハート・リング(婚約指輪)『愛の誓い』
ダブルハート リング
イギリス 1870年頃
¥1,230,000-(税込10%)

宝石は様々な種類があります。トルコ石などは不透明な一方で、透明な宝石もいくつもあります。

色石の場合は色で魅せることが多いですね。色の良さが、価値に直結する宝石も多いです。

蝶のブローチ アンティークジュエリー『美しき魂の化身』
蝶のブローチ
イギリス(推定) 1870年頃
¥1,600,000-(税込10%)

宝石の細工物も存在します。カットや石留で超絶技巧が披露されます。

まあでも、とにかく色があるだけで人目を惹きますし、綺麗な色彩だけでも見る者に「美しい!」と感じさせることができます。

アーリー・ヴィクトリアン ダイヤモンド・リング『ミラー・ダイヤモンド』
アーリー・ヴィクトリアン オールドヨーロピアンカット・ダイヤモンド リング
イギリス 1840年頃
¥3,700,000-(税込10%)

無色透明な宝石と言えば、まずはダイヤモンドです。

『ダイヤモンド光沢』と呼ばれるほど、その煌めきの魅力は強力です。

さらにファイアもあって、とにかく華やかです。

無色透明な石であっても輝きの魅力は絶大で、色石に負けない人気があります。

アールデコ クリスタル&ダイヤモンド ブローチ 『摩天楼』
アールデコ ロッククリスタル&ダイヤモンド ブローチ
イギリス 1930年頃
SOLD

もう1つの無色透明な宝石と言えばロッククリスタルです。

ダイヤモンドとロッククリスタルが類似した宝石であれば、稀少価値の高い方が珍重され、そうでない方は代替物扱いにしかならなかったでしょう。

しかしながら、そうではありませんでした。

ロッククリスタルはある程度の大きさが採れること、ダイヤモンドやコランダムほどは硬くなく、アーティスティックで高度な細工が施せることにより、表現の幅を無限に持つ宝石となりました。

ロッククリスタル ハート型 ロケットペンダント アンティーク・ジュエリー『アール・クレール』
ハートカット・ロッククリスタル ロケット・ペンダント
イギリス 1900年頃
SOLD

無色透明だからこそ、美しくオシャレに魅せるには相当なデザイン・センスも必要です。

透明だから誤魔化しがききません。

透かしの美とも異なる、完全に透過する光の芸術。

『不完全の美』と同様に、この透明な芸術『アール・クレール』は美意識が高く、美的感性の優れた人だけがその価値を理解できる、極めて高尚な美と言えます。

あまりにも難解で理解できる人が限られる故に、王侯貴族のために作られたアンティークのハイジュエリーでも、歴史的には分かりやすいダイヤモンドの方が高い人気がありました。

キューピッドとヴィーナスがモチーフのアールデコ・リバースインタリオ『キューピットとヴィーナス』
リバースインタリオ ペンダント
イギリス 1920年代
SOLD

しかしながらどの時代でも、私たちと感性を響き合わせることができる人は必ずいます。

そういう人たちが私たちに感動を与え、心を豊かにしてくれる美しいアールクレールを遺してくれました。

『キューピッドとヴィーナス』はHERITAGEでご紹介する、記念すべき最初の宝物として選びました。

頑張ったことが分かりやすい超絶技巧の細工物でもなく、一般受けしやすい宝石主体の物でもなく、このアールクレールがGenと私、全会一致で選んだ最初の宝物でした。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

ロッククリスタルを使った宝物というのは、そういう宝物なのです。

石の価値だけに頼りきった、ろくなデザインがない現代ジュエリーではロッククリスタルを使いこなすことはできません。

その意味でも、ロッククリスタルのアンティークのハイジュエリーには特別な意味があるのです。

3-2-4. 特別なファセット・カットのクリスタル

ピクチャー・ジャスパーのフランスのエドモンド・ハレーの3面フォブシールピクチャー・ジャスパー
フランス 1758年
SOLD
ジョージアンのイギリス貴族の紋章のスモーキークォーツの3面フォブシールスモーキークォーツ
イギリス 1820年頃
SOLD
イギリス貴族のバンデッドアゲートのフリーメイソンの回転式3面フォブシール
バンデッドアゲート
イギリス 1860年頃
SOLD

サイドをご覧いただくと、同じ3面シールでもカットが異なることが分かります。不透明な石であったり、色彩を強調したい石の場合はファセットを作らずカボションカットにした方が、より魅力を惹き出せたりします。トルコ石やガーネットなどがそうですね。

一方で透明な石の場合、ファセットカットの方がより魅力的だったりします。

ジョージアンのイギリス貴族の紋章のスモーキークォーツの3面フォブシールスモーキークォーツ 回転式3面フォブシール
イギリス 1820年頃
SOLD

ダイヤモンドの場合は煌めかせるためにファセットを作りますが、クォーツ系の場合は煌めきに加えて、面白い世界が現れるというのが魅力です。

透明なことと、煌めきの両方がコラボレーションすることで魅力が何倍にも増幅します。

クリスタルボール ペンダント アンティークジュエリー『クリスタル・オーブ』
ロッククリスタル ペンダント
フランス 19世紀後期
SOLD

カットのフォルムに唯一無二の正解はありません。

創造したい理想に合わせて、最適なカットが施されます。

ロッククリスタルを選択する時点で、間違いなく特別な美意識を持つ人のオーダー品なので、カットの大切さは誰よりも理解しており、フォルム、質ともに拘りのカットが施されているものです。

インタリオ スモーキークォーツ 煙水晶 フォブシール 紋章 イギリス 18世紀 アンティークジュエリー アールクレール 透明な芸術『魔法のクリスタル』
イギリス 1780年頃
SOLD
ロッククリスタル ユニコーン シール フランス 18世紀 アンティークジュエリー インタリオ フォブシールユニコーンのシール
フランス 1780年〜1800年頃
SOLD
英国摂政皇太子時代の至極のシール ロッククリスタル インタリオ フォブシール アンティークジュエリー リージェンシー 摂政皇太子 イギリス摂政王太子時代の至極のシール
イギリス 1810〜1820年頃(リージェンシー)
SOLD

これらは全て3面の回転式ではありませんが、全てインタリオの裏側からも覗き込めるような構造になっており、裏側のカットにも相当な拘りが見られます。

通常のフォブシールは石が金具に埋め込まれて、反対側からは見えない構造で制作されます。技術と手間が必要に関わらずこのような構造になっているのは、明らかにオーダーした人物に拘りがあったからです。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

今回の宝物も、ファセットカットが美しいです。

このような透明な宝物の場合、実物をご覧いただかないとその魅力は十分にお伝えできないのですが、この画像だと下の黒いガラスに映った宝物のファセットのそれぞれに、ゴールドの金具が映り込んだ不思議な世界が見えますね。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのモンブランのインタリオMontanvert(モンタンヴェール):左右反転させた画像

高い山がないイギリス。

モンタンヴェールの山を登り、視界に広がるのは壮大なメール・ド・グラス氷河。氷の海と言われる絶景は、どれほどの情動を起こしたでしょう。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

アルプスで見た氷の絶景。

残念ながら氷を持ち帰ることはできません。

写真もまだ存在しない時代です。

持ち主はこの"溶けない氷"にアルプスの情景を表現したのだと思います。

3-2-5. 心を揺さぶる氷の作品の傑作

ロッククリスタルで永遠に溶けない氷を表現したアンティークジュエリーとしては、ファベルジェ商会の『Iceシリーズ』が有名です。

ファベルジェの名品の中でもアヴァンギャルドという意味では突出した作品で、Genもいつかは扱ってみたいと語っていました。

Iceシリーズ ペンダント
ファベルジェ商会 1910年頃
V&A美術館 【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted

シリーズと言うだけあって、デザイン違いでいくつか存在します。

ただ、こういう小綺麗な作品はGenは全く惹かれないようです。

分かりやすくて一般受けしそうではありますが、皆様はこれを見て心を揺さぶるような感動はございますでしょうか。

Iceシリーズ ペンダント
ファベルジェ商会 1913年
ロッククリスタル(水晶)、ローズカット・ダイヤモンド、プラチナ
【引用】『Faberge: Lost and Found』(A Kenneth Snowman著 1990年)Thames and Hudson Ltd, London ©Electa, Milan、p134

Genを強く惹きつけ、いつか扱ってみたいと言わしめたのはこの作品です。

これはまるで本物の氷のようですよね。

ロッククリスタルを使い、これを人の手で作ったなんて感激です!

この造形をデザインするデザイナーとしての能力、具現化する職人としての能力。まさに神が宿って創ったとしか思えない、神懸かり的な作品です。

今にも溶け出しそうなくらいリアルですが、永遠に溶けることはありません。

同じ職人であっても同じものは2度と作れない、コンテスト・ジュエリーのような職人のプライドと魂がこもった作品です。

『ノーベル・アイス』ファベルジェ商会 1913-1914年
『ノーベル・アイス』
"Nobel Ice (Faberge egg)" ©Ed T(15 November 2009, 18:59:08)/Adapted/CC BY-SA 2.0
中のペンダント・ウォッチ
"Nobel Ice (Faberge egg) surprise" ©Ed T(15 November 2009, 18:59:05)/Adapted/CC BY-SA 2.0

これはスウェーデンの石油王エマニュエル・ノーベルのために制作されたファベルジェのエッグ、『ノーベル・アイス』です。中にはサプライズとして氷のペンダント・ウォッチが入っています。ロッククリスタルのエッグ表面に彫刻された雪の結晶模様などはさすがだと思いますが、全体的には高級既製品的な印象です。

ファベルジェのエッグではありますが、ロシア皇室のオーダー品ではないので『インペリアル・エッグ』ではありません。インペリアル・エッグはロシア皇帝一家を喜ばせるために、デザイナーや職人がロシア皇室御用達としてのプライドをかけ、毎年様々な趣向を凝らしたデザインと作りで制作しました。それらは良いものを見慣れた人々をも、あっと驚かせてきました。

そうやって魂を込めて作られた作品を見て、同じようなものが欲しいと思うのは当然の感情です。ゼロの状態からアイデアを出して、全く別の新しい作品を生み出すのも極めて大変なことです。それ故に、「あれと同じ感じで。」とオーダーが入り、シリーズ的に類似の作品が作られるのは知名度の高いエッグ以外でもよくあることです。

ファベルジェのアイス・シリーズ
【引用】V&A Museum © Victoria and Albert Museum, London/Adapted
【引用】『Faberge: Lost and Found』(A Kenneth Snowman著 1990年)Thames and Hudson Ltd, London ©Electa, Milan、p134

"Nobel Ice (Faberge egg) surprise" ©Ed T(15 November 2009, 18:59:05)/Adapted/CC BY-SA 2.0

結局ファベルジェのアイスとは言っても、小綺麗でいかにも一般受けしそうなものばかりです。Genが魅了された中央のようなアーティスティックな作品は、これそのもの以外は見たことがありません。明らかに制作の難易度も、職人の魂の宿り具合も次元が違います。

中央はアーティストとしての天才的な才能を持つ職人でなければ作れませんが、両側は高度な技術を持つ秀才系の職人が制作できます。成金がオーダーした高級既製品的な印象しか持てず、お取り扱いしたいほどの魅力を感じません。

その割に、ファベルジェのアイス・シリーズはあまりにも有名になり過ぎて、市場に出てくると法外な価格で取引されます。コロナ前のオークションで、上の3点より遥かに劣る出来のアイス・ペンダントに日本円で2,500万円ほどの値段が付いていました。

コロナ禍に於いて、アンティークジュエリーは海外のお金持ちから有望な投資先と見なされ投資マネーが集まった結果、かなり値段が上がりました。投資対象にはならないような安物も連れ高しているのが笑えますが、こういう投資対象となった美術品は値段が下がることはありませんから、ファベルジェのアイス・シリーズは最低でも数千万円はするということです。

Iceシリーズ ペンダント
ファベルジェ商会 1913年
ロッククリスタル(水晶)、ローズカット・ダイヤモンド、プラチナ
【引用】『Faberge: Lost and Found』(A Kenneth Snowman著 1990年)Thames and Hudson Ltd, London ©Electa, Milan、p134

有名になり過ぎた結果、投機の対象となって異様な値段が付いていますし、オークションに出れば誰もがその落札価格を知るところになります。

誰でも知っているものなので、目利きができなくてもカネさえあれば売買できます。

投機の対象、兼、ファベルジェのアイスという威光を使って周囲に自慢し、自己顕示欲を満たそうという成金が買うことになるでしょう。

そういう意味で、Genや私にとっては扱う意味があるものではなくなってしまいました。目利きができるからこそ、目利きできない人でもできるような商売方法はしたくありません。せっかく与えられた才能の浪費です。

知られざる良いものを発見し、本当に価値が分かる方に次の持ち主になってもらえるよう仕事したい。

ファベルジェのアイスの最高傑作は作品として本当に魅力がありますが、いつか扱ってみたいというGenの夢は夢のままで終わるだろうと心に留めていました。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

いや〜、ビックリですね。

ロッククリスタルで永遠に溶けない氷を作る100年以上前のファベルジェの発想に驚きましたが、さらにその100年以上前にこんな宝物を作ってしまった人がいたのです!!♪

アイス・シリーズは1910年代ですが、これは1700年代の後半です。

ファベルジェはギロッシュエナメルも有名ですが、それは史上最も優れていたとされる18世紀のエナメル技術を研究した成果でした。

高い評価を受けたものの、それでも本物の1700年代のエナメルには敵わなかったと言われています。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

まさにファベルジェが憧れた宝物が制作された年代に作られた、ロッククリスタルの氷の芸術。

工業的に大規模掘削が行われるより遥か前の時代ですから、大きさのある上質なロッククリスタル自体も貴重でした。

当然ながら同じようなものが欲しいと思っても類似品を作るのはも不可能で、まさに唯一無二の宝物と言えます。

投機の対象として値段を釣り上げるには、分かりやすい特徴に加えて一定数が必要です。多すぎると稀少性が失われて高く付けにくいですが、少な過ぎても売買の機会が限られ、プロモーションのお金と労力をかけても費用対効果として十分な旨味がないので、金儲け目的のディーラーは手を出しません。

今回のロッククリスタルのフォブシールはまさにHERITAGE向きの作品であり、ファベルジェの作品に勝るとも劣らぬ"知られざる"氷の傑作なのです♪♪

3-2-6. アルプス産の上質なロッククリスタル

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

この宝物の素材にロッククリスタルが選ばれたのは、実はもう1つ理由があります。

水晶は各地で採れます。

現代の一番主要な産地はブラジルで、19世紀後期以降は産業用途を目的に、機械を使った大規模掘削が行われています。

水熱合成法による人工水晶 19.2×2.8cm "Quartz synthese" ©Didier Descouens(4 August 2013)/Adapted/CC BY-SA 4.0

戦後は合成技術も確立され、1970年代以降は電子産業で使用されるロッククリスタル(水晶)はほぼ全て合成石英となりました。

そのような時代なので、上質な天然水晶とパワーストーン市場に出回る低品質の天然水晶、人工物の合成水晶やクリスタルガラス、通常のガラスとの違いすら曖昧な方も多いと思います。だからこそ、産地なんて意識すらしない方が大半だと思います。

古代ローマの博物学者プリニウス(23-79年)

ロッククリスタルは古代から知られる宝石でした。

古代ローマの博物学者プリニウスも著書『博物誌』で何度かロッククリスタルについて言及しています。

ロッククリスタルはアルプス産が上質で強いと認識されていました。

ロスチャイルドのロッククリスタルで作られた17世紀のゴブレットロッククリスタルのゴブレット
ドイツ 17世紀
ロッククリスタル、ルビー、ゴールド、エナメル
ワデズドンマナー蔵

17世紀はヨーロッパ各地のカット職人からの需要に応え、アルプスのクリスタル・ハンターが活躍しました。

特にモンブランやオイサン山塊はロッククリスタルが豊富で、上質な石が採れるとして有名でした。

初めてイギリスに渡航した際、ロスチャイルドの邸宅ワデズドンマナーでロッククリスタルのゴブレットを見て大興奮した記憶があります。

こんなに大きくて綺麗なロッククリスタルがあるのかと驚いたのと、驚異的な加工技術、宝石を使った贅沢さに、ロッククリスタル好きとして「これ、欲しい。」と思ったものです。

シャモニーのクリスタル・ハンター/猟師/ガイド ジャック・バルマ(1762-1834年)

18世紀は裕福なコレクターが最高級品をいくつも買い集めたそうで、アルプスに住む人々の中にはクリスタル・ハンターと活躍する人たちも一定数いました。

悪魔の棲家として知られるモンブランに入っていくのは、商売で山越えが必要な人か、クリスタル・ハンターや猟師くらいでした。

ロッククリスタルの探索はとても危険で、山とその危険性に関する豊富な知識、さらには十分なスタミナや登山技術も必要でした。

シャモニーのクリスタル・ハンター、ジャック・バルマは猟師やガイドでもありました。

シャモニーのクリスタル・ハンター/猟師/ガイド ジャック・バルマとスイス貴族で自然科学者のオラス=ベネディクト・ド・ソシュール(1740-1799年)

このジャック・バルマが1786年8月8日、ミシェル=ガブリエル・パカール博士と共にモンブランの初登頂に成功しています。

この登山は近代登山の創始者と言われるスイス貴族で自然科学者のオラス=ベネディクト・ド・ソシュール主導で行われ、これが成功の要因の1つとされています。

ただ通過するだけのガイドや旅行者と異なり、探索活動を行うクリスタル・ハンターは山の隅々まで理解していたはずで、冒険をしたい者にとっても優秀なガイドとして頼りになったことでしょう。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

この宝物の持ち主のガイドも、クリスタル・ハンターを兼ねた人物だったかもしれません。

アルプスのロッククリスタルの話を、ワクワクしながら面白く聞いたかもしれません。

このクリスタルは直接現地で原石を買ってきた可能性も、十分に考えられます。むしろそう考える方が自然です。

自分の足で辿り着いた、遠い異国のアルプス。
持っては帰れない、美しい氷の風景を目にし・・。
いつまでも溶けることのない、アルプスの永遠の氷を手にし・・。

それを最高の形で『氷の宝物』に仕立てたのが、この姿なのだろうと思います。

3-3. 3箇所の絶景を彫刻した美意識の高い宝物

モンブラングランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンブランのフォブシール モンタンヴェール氷河グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンタンヴェールのフォブシール サン・ベルナール峠グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシール

アルプス越えのルートはいくつかありますが、この3箇所は持ち主がグランドツアーで実際に訪れた場所でしょう。絶景はいくつもあったはずですが、その中でも特に心に残ったのがこの3箇所だったのだと思います。

3-3-1. モンブラン

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンブランのフォブシールMontBlanc(モンブラン):左右反転した画像
グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
モンブランについては先にご説明した通りです。絵画ではなく3次元の小さな彫刻ですが、これだけ拡大しても彫りの細密さが際立っています。

細部まで緻密に表現されており、まるで写真のようにも感じられますし、実際の景色がありありと想像できます。表面のフロステッド加工も素晴らしく、雪や氷の寒々とした質感も伝わってきます。遊び心の宝物ですが、当時の第一級の職人に作らせたことは間違いありません。

いつもは仕事用の紋章などを彫るのがメインの職人にとって、こういう作品を彫るのは楽しくてしょうがなかったことでしょう。アーティスティックな才能を持つ職人であれば尚更です。

作る職人のワクワクした楽しい気持ちも伝わってきますし、出来上がりを見たオーダー主も間違いなく大喜びだったはずです♪♪

3-3-2. モンタンヴェール

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのモンブランのインタリオMontanvert(モンタンヴェール)

モンタンヴェールの山を登り、氷の海メール・ド・グラス氷河を見物するのが定番でした。実は18世紀は、メール・ド・グラス氷河はモンタンヴェール氷河と呼ばれていました。故に当時の旅行記や小説などではモンタンヴェール氷河として言及されています。

メール・ド・グラス氷河の見物客(シャモニー 1902-1904年頃)

日本では馴染みのない光景ですが、かなり壮大なスケールであったことが想像できますね。氷河の塊1つ1つが大きくて、実物はとっても迫力がありそうです。

モンタンヴェールの同じ場所(2018年) "Mer de Glace von Montenvers 2018a" ©Whgler(14 August 2018, 13:54:32)/Adapted/CC BY-SA 4.0

しかしながら現代は氷河は後退してしまい、先ほどの場所はこのようになっています。

モンタンヴェール(メール・ド・グラス)氷河
1902-1904年頃 2018年"Mer de Glace von Montenvers 2018a" ©Whgler(14 August 2018, 13:54:32)/Adapted/CC BY-SA 4.0

気候変動は必ずしも人間の活動に関係なく起こるものであり、永遠に変わらない景色というものは存在しませんが、当時の人たちと同じ景色を見ることができないのはちょっと残念ですね。

左右反転させた画像(ジャン=アントワーヌ・リンク 1766-1843年)

古い時代はシャモニー渓谷からも氷河が見えていたということですが、小氷河期には氷河が前進して住民を脅かしたそうです。

中世は『中世の温暖期』として温暖な時代を過ごしましたが、14世紀半ばから19世紀半ばにかけては寒冷な時期が続き、『小氷河期』、『小氷期』などと呼ばれています。特に冷えた17世紀半ばはスイス・アルプスの氷河が低地に広がり、谷筋に広がる農場を飲み込み、村全体を押し潰していきました。氷河が河川を塞ぎ止め、それが決壊して洪水に襲われた村々も多く存在しました。

悪魔の棲家、アルプス。氷河の侵食や洪水は、悪魔の災いそのものです。実際に悪魔祓いの儀式なども行われていたそうです。そういう状況を考えると、とても山深くまで入ろうと思ったり、氷河が美しいと感じられる心の余裕なんて持てなくても無理はありませんね。

メール・ド・グラス氷河(1870年頃の写真)

メール・ド・グラス氷河の後退は、この小氷河期が終わった証とも言えます。人間の命も永遠ではありませんし、自然の景色も永遠のものではありません。後回しにせず、見たいものは見られる間に見ておくという姿勢は大切ですね。

モンタンヴェール(メール・ド・グラス)氷河
18世紀後半グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンタンヴェールのフォブシール 1870年頃

谷底を這う氷河。山裾には寒冷地独特の木々が生えています。持ち主はどのポイントから氷河を見物したでしょう。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのモンブランのインタリオMontanvert(モンタンヴェール):左右反転させた画像
グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール
←実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります
小屋らしき建物もあります。この面も、雪や氷などの質感が素晴らしいですね。Montanvertの字体もとてもエレガントで、センスが良いです。
グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシール

通常のインタリオは人物や紋章がモチーフで、景色を彫刻したこのような作品は他にありません。このため比較対象がそもそもありませんが、さすが18世紀の作品と言える抜群の彫りです。王侯貴族の期待に応えて、ここまでできる職人がいたのですね♪

3-3-3. サン・ベルナール峠

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシールSt.B(b)ernard(サン・ベルナール峠)

残りの面がサン・ベルナール峠です。スイスとイタリアの国境にあるアルプス山脈の峠で、モンブランの東に位置する峠道を『グラン・サン・ベルナール峠』、対となるモンブランの南側でフランス方面に超える峠道を『プチ・サン・ベルナール峠』と言います。


『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』
(ジャック=ルイ・ダヴィッド 1801年)マルメゾン城

グラン・サン・ベルナール峠と言えば、ジャック=ルイ・ダヴィッドが描いた『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』が有名です。きっと誰もが一度は見たことのある絵画でしょう。1800年5月にグラン・サン・ベルナール峠を経由してアルプスを越えようとする姿を理想化した作品です。背景の部下たちは大変そうです(笑)

これはマルメゾン城が所蔵している作品です。この絵画は、類似の作品をご覧になった覚えがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

アルプス越えするナポレオン・ボナパルト
存命中の作品 亡くなった後の作品
『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』(ジャック=ルイ・ダヴィッド 1802年)ヴェルサイユ宮殿 『アルプスを越えるボナパルト』(ポール・ドラローシュ 1850年)

左はヴェルサイユ宮殿が所蔵する作品の1つです。ジャック=ルイ・ダヴィッドは『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』を同様の構図で、1801年から1805年の間に5枚描いています。それぞれ微妙に異なります。カラーコピーや写真がない時代、絵画がいかにプロモーション・ツールとして重要視されていたのかが分かりますね。純粋な美術品としての絵画もありますが、お見合い写真代わりであったり、王侯貴族のプロモーション・ツールとして絵画は大きな役割を果たしていました。

ナポレオン自身のオーダー品と異なり、死後に別の人がオーダーした右の絵画は同じアルプス越えが題材でも、雰囲気がまるで違いますね。オーダーしたのは第3代オンズロー伯爵アーサー・ジョージで、ナポレオンを尊敬する熱心なファンであり、ナポレオン・コレクターでもありました。

それ故にナポレオンを貶める意図はなかったはずですが、ダヴィッドによる『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』を見たオンズロー伯爵は「芝居がかっていて信用し難い。」と感じ、ラバに乗ったより正確な肖像を描くようドラローシュにオーダーしたのだそうです。

どうせならばカッコよく描いて欲しいものですし、良い感じに盛って欲しいものです。ナポレオン本人が右の"リアル"な作品を見たら、嫌がったでしょうね。こうしてナポレオンも歴史の中の人物となっていきました。

アルプスを越えてイタリアに入るハンニバル(紀元前218年のハンニバルのアルプス越え)

そんなナポレオンも通ったグラン・サン・ベルナール峠は、古代からアルプス越えの重要な交通路でした。

諸説ありますが、紀元前218年にハンニバルが戦象を連れてアルプス超えした際に通った峠の候補地の1つです。

象さんにとっては迷惑な話でしかありませんし、左の絵画のように、谷底へ落っこちた象さんもいたかもしれません。

でも、そのような歴史の教養がある者にとっては、サン・ベルナール峠越えは最高に楽しくてワクワクすることだったでしょう。

紀元前218年にハンニバルと共にローヌ川を渡る戦象(アンリ=ポール・モット 1878年)

現代の私たちでもスケールの大きな古代世界を想像するだけでワクワクしますが、それは18世紀のイギリス貴族の若者も同じだったはずです。

自宅の部屋から想像するだけでも面白いですが、実際に彼らが通ったであろう場所に立ち、その時代に想いを巡らせる感動は如何ばかりだったでしょう。

グラン・サン・ベルナール峠のイタリア側
"Col du Grand Saint Bernard - View of the Italian side" ©muneaki(23 September 2009)/Adapted/CC BY-SA 3.0

重要な交通路だったからこそ、様々な人物が峠を越えています。今回の宝物の持ち主はナポレオンより前の時代の人物です。持ち主にとっての憧れの人物は誰だったでしょう。この美しい景色を見て、「あの人も遠い昔に、この荘厳な景色を見たのか。」と感無量だったかもしれません。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシールSt.B(b)ernard(サン・ベルナール峠)

グランドツアーでのアルプス越えでは、絶景は幾つもあったと思います。でも、選んだ3箇所には持ち主にとっての特別な思い入れがあったのでしょう。今やスマホでいくらでも気軽に画像を撮れる時代ですが、貴重なロッククリスタルの小さな面にこれだけの彫刻を施して風景を描くなんて、途方もなくお金も技術も手間もかかることですから。

3-3-4. 伝わってくる持ち主の特別な人物像

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

アルプスの永遠に溶けることのない氷に刻まれた、持ち主の美しい情景・・。

持ち主が特別な美的感覚を持つ、かなりの名家の生まれであったことが想像できます。

モンブラングランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンブランのフォブシール モンタンヴェール氷河グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのモンタンヴェールのフォブシール サン・ベルナール峠グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシール

 

ヨーロッパの上流階級の全てが広い教養を持ち、豊かな美的感性を持ち、優れた美意識を持っていたわけではありません。むしろそれは少数派です。

先にご紹介した通り、上流階級の家に生まれ、相応の教育を受けた者でも大学では「教師はプライドで狂わんばかり。学生たちはすぐに眠くなる。酔っ払っている。退屈な人間。そして、無知で無学。」という集まりでした。

悪徳の殿堂だからと親・親戚からグランドツアーに出されても、やはりこういう輩はやることが変わりません。パリでもイギリス人の若者同士で徒党を組んで賭け事に耽り、大酒を飲んで大暴れして店や部屋を破壊し、時には本人も骨折という有様だったようです。

何しろ、まだ本気で痛い目に遭ったことのない、好奇心旺盛な20歳前後の男の子たちです。当然ながらアルプス越えでも無茶し放題です。

リッターに乗る人物(1895年)

大金持ちの御坊ちゃまの場合、登りはラバや駕籠のような乗り物(リッター)で移動しました。高貴な人物は自分で登らないんですね(笑)

駕籠は日本にも存在し、様々な形態がありますが、平地と違って険しい山道となるため、脚のない椅子に2本の長い棒を渡した簡素なリッターが一般的でした。お尻が当たる部分は縄でできた簡単なものでした。運ぶための人足にもお金がかかりますから、まさにお金持ち専用ですね。

下りは雪が積もっているとソリが用いられました。クレバスや岩をどう避けるのか熟知した、若い経験豊富な山男が同乗したそうです。鉄製の大釘が刺さった棒でソリを操縦します。必要があればこれでブレーキをかけますが、急ブレーキをかけるとソリは豪快にひっくり返り、全員が雪の上に放り出されます。岩にぶつかるわけではないので、すぐにまたスタートできます。

これを聞いて、どう思われますか?

怖い、危なそうと感じる方もいらっしゃるでしょう。面白そうと感じる方もいらっしゃるでしょう。

【参考】『グランド・ツアー』(本城靖久著 1983年)中央新書688, p149

北海道でソリを楽しむアンティークジュエリー・ディーラー片桐元一Genと小元太のフォト日記『未確認飛行物体(@_@;)』(北海道 2007年12月)

急な雪山です。操縦が巧みな者だと、馬で駆けるより早くソリを滑らせることができます。若者の中にはスピード狂もいて、スリル満点なソリをすっかり気に入ってしまい、何回も試みる者もいたそうです。こういう経験が、スポーツや遊びとして発展していくことにもなるのでしょう。

身近にGenみたいな人物がいるので、容易に想像できます(笑)と言いつつ、私も同じ側だったりします。女性でも、共感してくださる方は結構いらっしゃるのではないでしょうか。

これはソリで滑る60歳頃のGenです。面白かったのでまたやろうとしたら怒られたそうです(笑)

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

そのような感じで楽しく遊んで終わるだけの若者が多かったと思われますが、ごく一部にそうではない若者がいました。

だからこそ、この宝物が存在します。

3-3-5. アルピニズムの誕生

yannick puybaret permittedモンブランの頂上(2005年11月3日)

初期は初登頂競争という面もあったアルプス登山でしたが、次第に風景を楽しんだり、スポーツとしての遊びという面が結びつき、『アルピニズム』と呼ばれるジャンルが確立されました。ただ個人的な嗜好のために登山するのです。

移動するために仕方なくという時代とは正反対ですね。

『アルピニズム』という言葉は19世紀後半に生まれました。日本人から見ると、結構遅い印象ですよね。山の景色を楽しむ、すなわち"山の景色が美しい"と感じるようにならなければ成立しないジャンルです。

3-3-6. ピクチャレスクの誕生

デンドライト・アゲート&ヘソナイトガーネットのイギリス貴族のアンティークの壁掛け『大自然のアート』
デンドライトアゲート プレート(9,5cm×12,2cm)
イギリス 19世紀後期
¥387,000-(税込10%)

ありのまま風景を美しいと感じ、楽しみ愛でる。

自然と共生して暮らしてきた長年の歴史がある日本人ならば、そんなの当たり前ではないかと感じますよね。

デンドライト・アゲート&ヘソナイトガーネットのイギリス貴族のアンティークの壁掛け

だからこそ、この自然の石に浮かび上がった偶然の景色に美を見出し、楽しむことができます。しかしながらヨーロッパはそうではありませんでした。

『ピクチャレスク』は、1782年にウィリアム・ギルピンが発表した書籍『主としてピクチャレスク美に関してワイ川および南ウェールズの幾つかの地形その他の1770年夏になされた観察』によってイギリスに初めて文化・芸術的議論に持ち込まれた審美上の理念です。

現代の日本だと、こんなに長々とした題名は用いないので分かりにくいですが、地方のピクチャレスクな風景を楽しみましょうという、余暇旅行者のための実用本でした。現代だと当たり前に存在するジャンルですね。その場所ならではの絶景や面白い風景をただ"観る"というのは、旅行の当たり前の楽しみ方の1つとなっています。

一体何にその"美"を見出すのか。一般的なヨーロッパ人は、ただの"ありのままの風景"に着目せず、そこに美を見出して来ませんでした。

『修道院廃墟の美』(J. M. W. ターナー 1794年)

しかしようやく気づき始めました。

これなピクチャレスクの作品として知られる『修道院廃墟の美』です。

廃墟に美を見出すなんて、それまでは意識にないことでした。

ヨーロッパの廃墟と羊たちの緞子のアンティーク帯ヨーロッパの廃墟と羊たちの緞子の帯(大正〜昭和初期)HERITAGE COLLECTION

「夏草や 兵どもが 夢の跡」
なつくさや つわものどもが ゆめのあと

松尾芭蕉(1644-1694年)が詠んだ有名な歌ですね。

 

廃墟に美を見出すなんて、日本人にとっては当たり前すぎることです。

特別な上流階級に限ったことではなく、現代の庶民ですら『廃墟マニア』なんてジャンルができてしまうほどです。

カーブドアイボリー 鹿 アンティークジュエリー

異色のカーブドアイボリー『廃墟の鹿』
ペインティング カーブドアイボリー ブローチ
ドイツ 19世紀中期
¥275,000-(税込10%)

それ故に日本人はこのような作品を見て、ごく自然に美しいと感じることができます。しかしながらヨーロッパ人にとっては誰にでも理解できるものではなく、これはとても高尚な美の世界だったのです。

ありのままの風景を楽しむ。

ヨーロッパ人がそれができるようになったのは、18世紀後半からです。それでもごく一部の特別な美的感性を持つ人たちだけです。

感性は磨いて研ぎ澄ましておかなければ鈍ることはありますが、持って生まれたものと言えます。だから特別に鋭い美的感性を持っているか否かで言えば、身分の差はありません。

ジョージアン モスアゲート(苔瑪瑙) ブローチ『黄金の叡智』
ジョージアン モス・アゲート(苔瑪瑙) ブローチ
イギリス 1820年頃
SOLD

ただ、このようなジュエリーを持てるかどうかとなると、その特別な美的感性に加えて、莫大な財力を持つ身分も持たねばなりません。

感性を磨き、教養を身に付けるという点では、高い身分は有利だったとは言えます。

しかしながらどれだけお金を持ち、知識を身につけていたとしても、優れた美的感性を持って生まれなければこのようなジュエリーは価値が見出せず、オーダーできません。

アンティークのハイジュエリーの中でも、このような宝物は極めて特殊なのです。

そのような宝物こそGenも私も大好きで、そういうものばかりを集めてご紹介しています。

日本人であっても全員が理解できるわけではありませんが、前々からGenが「アンティークジュエリーは日本人女性が世界で一番理解できる。」と感じているのは、このような原因があるからです。

ヨーロッパの上流階級の中でも、特に優れた美的感性を持つ人は割合としては相当少なく、私たちがお取り扱いしたいと思えるものも市場では本当にごく僅かです。Genが「目が腐る。」なんて表現しますが、大半はそういうものばかりです。

カタログでは厳選したものだけをご紹介しているため、皆様には優れたものがある割合はよく分からないと思います。Genは、安物は見ているだけで疲れると言います。良くない作りの安物は、職人のやる気のなさや金儲け史上主義が伝わってきたり、オーダーした人物の美意識のなさ、自己顕示欲、安く買い叩こうという"自分さえ良ければ気質"が伝わってきて、そういうものに過敏な私たち(特にGen)のエネルギーを吸い取るだろうと思います。

本当に"目が腐る"ものは多いです。それは、殆どのヨーロッパの王侯貴族は、私たちと共感できるような鋭い美的感性を持ってはいなかった証でもあるのです。

古典学者・桂冠詩人・ケンブリッジ大学教授 トマス・グレイ(1716-1771年)

さて、ようやくトマス・グレイのお話をしましょう。

先にご紹介した通り、トマス・グレイは代書人の父と帽子屋の母の間に生まれており、高貴な出自ではありませんでした。

しかしながら上流階級の子弟が集まるイートン・コレッジでは初代イギリス首相である初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールの三男ホレス・ウォルポール、トマス・アシュトン・リチャード・ウェストと親友になりました。

イギリスのウォルポール家
三男
初代イギリス首相・初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール(1676-1745年)56歳頃 第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポール(1717-1797年)1756-1757年、39-40歳頃

初代イギリス首相・初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポールは王のワインと称される、ボルドーの『ラフィット』好きの男性でしたね。3ヶ月に1樽空ける、すなわち普通サイズのワインボトル換算で300本、つまり単純計算で1日3本は空けていたということで、岡倉天心と仲良くなれそうなんて想像したりするのですが、トマス・グレイはそれほどの権力と財力を持った要人の息子と仲良くなったわけですね。

カネや地位などの肩書きで人を判断するような人たちだったら、仲良くなることはなかったでしょう。しかしながら4人がイートン・コレッジで仲良くなったのは、美意識や感性を共感できたからでした。トマス・グレイやホレス・ウォルポール、トマス・アシュトン・リチャード・ウェストは自分達たちのスタイルやユーモアなどのセンス、美意識を誇りを持っていました。

HERITAGEの宝物を深く理解できる方には、その美意識の高さや繊細な感性故に孤独を感じる方もいらっしゃると思います。傑出した才能は憧れの対象にもなりますが、同等の人が周りにいるとは限らず話し相手に恵まれなかったりするものです。

その才能は貴重です。そんな者たちが集まれば、通常のお友達以上に仲良くなるのは必然です。彼らはそういう関係だったのでしょう。

シングルマザーの帽子屋の息子 初代英国首相オーフォード伯爵の息子
古典学者・桂冠詩人・ケンブリッジ大学教授 トマス・グレイ(1716-1771年) 第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポール(1717-1797年)1756-1757年、39-40歳頃

莫大なお金がかかるグランドツアーは、通常ならば上流階級の子弟しか行くことはできません。しかしながらシングルマザーとなった帽子屋の母に引き取られていたトマス・グレイは1738年、22歳頃にグランドツアーに行っています。

1734年にケンブリッジ大学に入学したトマス・グレイが「教師はプライドで狂わんばかり。学生たちはすぐに眠くなる。酔っ払っている。退屈な人間。そして、無知で無学。」と記しているのは、先にご紹介した通りです。また、ホレス・ウォルポールはグランドツアーに同行する家庭教師を「旅に出ているイギリス人の若者より馬鹿げた連中」とコメントしています。

絶対感覚があり、誰がどう良くてダメなのかがはっきりと判断できる人たちだったのでしょう。トマス・グレイはホレス・ウォルポールと共にグランドツアーに出ており、費用をウォルポールが負担したようです。感性を共感できる友人は、それほどに貴重ということでもあるのでしょう。

アルプスのモン・スニ峠

2人もアルプス越えをしています。

モン・スニ峠も通っています。お金持ちの場合は馬やラバと、駕籠で通過します。1581年のモンテーニュという人物の記録によると、駕籠は4人の男に担がれ、この4人が疲れた時のために4人の交代要員が付き、下りは非常に急だったので8人の男に担がれたのだそうです。

ウォルポールらのグランドツアーでも12人の人足と9頭のラバが雇われたそうです。さすが首相の息子、相当なお金持ちですね。

ただ、途中で駕籠かきたちが酔って喧嘩を始めたそうで、ウォルポールはいつ地面に放り出されるか、いつ断崖絶壁の谷底に落っこちるか生きた心地がしなかったそうです。酔っ払いながら駕籠を担いだり、喧嘩を始めたり、珍道中な感じもちょっと面白いですね。乗っている最中は、確かに生きた心地がしなかったでしょう(笑)

【参考】『グランド・ツアー』(本城靖久著 1983年)中央新書688, p149

古典学者・桂冠詩人・ケンブリッジ大学教授 トマス・グレイ(1716-1771年)1747-1748年、30-32歳頃

学友とのご縁により、こうしてトマス・グレイはただの庶民ならばできない経験ができました。ホレス・ウォルポールは同級生ではありましたが、優れたパトロンと見ることもできますね。

帰国後、人生の大半をケンブリッジ大学で学者として過ごしました。

文学研究によって当代きっての学者になりましたが、好きなことをやって怠けているだけだと語っていたそうです。

詩人としても天才的で、その美しさや技量はすぐに認められ、桂冠詩人を打診されるほどでした。しかしながら先にご紹介した通り、辞退しています。

存命中に発表した詩は13作品だけだったそうで、出版された詩集を全て集めても1,000行にも満たないほどでした。それでも18世紀中期の代表的な詩人とみなされており、同時代や後世の多くの詩人や芸術家たちに影響を与えています。

自分の詩集がノミの作品と間違えられたらどうしようと心配するほど、自信がなかったようです。親友のホレス・ウォルポールは「グレイはユーモアは書いたが、安易なものは一度も書いたことがない。」と評価しています。

極めて高い美意識と繊細で豊かな感性を持ちながら、慎み深さも併せ持つ人物だったのでしょうね。

Angelstorm permitted【世界遺産】湖水地方(イギリス)

トマス・グレイはイギリス中を広く旅し、絵画のように美しい自然の景色や古代遺跡などを探しました。湖水地方に関しては、1769年の『湖水地方訪問日誌』などがあります。

当時は人工的で、手入れが行き届いた状態が"美の理想"であり、ラグジュアリーの象徴と見られていました。対称性の高いフランス式庭園などにも、その意識が反映されています。

それ故に自然が作り出す美しい景色は、一般的な人々からは見向きもされていませんでした。トマス・グレイのこの活動は、その意識を変えることにもなりました。こうして、イギリスの『ピクチャレスク』として確立されていきました。

スカイ島(スコットランド・ハイランド地方)標高993m
"Blue is coming in Quiraing (14942990740(" ©Luis Ascenso Photography from Lisbon, Portugal(6 May 2014, 07:41)/Adapted/CC BY 2.0

1865年、トマス・グレイは49歳頃、スコットランドのハイランド地方についてこう書いています。

「この山々は恍惚とさせる・・。それ以外の何ものでもない・・。かくなる恐怖に、かくなる美がいかに結合するかを神は知り給う。」

同時に感じる恐怖と美。神が創り出した偉大なる芸術作品は妖しさをも感じさせ、恍惚とした気分にもさせてくれる。自然の美しさに畏怖や畏敬の念を感じてきた日本人にとっては、トマス・グレイの言葉にとても共感できるのではないでしょうか。

スコットランドのハイランド(ヘンリー・ベイツ・ジョエル 1890年代)

1人が気づき目覚めると、堰を切ったかのように次々と皆が目覚め始めるものです。

Genがフォト日記を始めたのも、よく一緒に食べ歩きをしていたと言う三田盛夫氏の言葉がきっかけでした。フランス料理評論家として活躍された方ですが、知的な教養のみならず美的感性も優れた方で、「都会でも、意識すれば美しい景色はあるものだよ。」と言われてハッとしたそうです。

「感性は意識して磨いていないといつの間にか鈍るから、Wakaちゃんも気をつけて。」とGenは言います。意識することを忘れぬために常にデジカメを持ち歩き、都会にも存在する、普段ならば気づくことのない美しい景色をファインダーに収めるようになりました。

サドル山(スコットランド・ハイランド地方)標高1,011m
"Saddle and sgurr na sgine 06-07 08" ©StuzzyW at the English-language Wikipedia/Adapted/CC BY-SA 3.0

視界に入ることと、認識することは別です。

意識が向くようになれば、イギリス国内であってもアルプスのような壮大な景色を見られたりするものなのです。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

意識の目覚め。

それは、全体としてはすぐに起きることであはりません。全体の覚醒は徐々にです。

この宝物の持ち主はトマス・グレイ並に繊細で豊かな感性を持ち、いち早く自然の景色の荘厳な美しさに気づいたからこそオーダーできたのだと感じます。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

傑出した美的感性だけでもダメです。

トマス・グレイのような感性や詩的創造力を持っていても、有り余るほどの莫大なお金がなければ、このような美意識を満足させるためだけの高価なフォブシールはオーダーできません。

美的感性、美意識の高さ、莫大な財力を兼ね備えた、王侯貴族の中でもかなり特別な人物だったはずです。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

手元で眺めながら、グランドツアーで見た美しい景色を思い出して楽しんでいたでしょうか。

周りの人たちに見せ、いかに美しい景色だったのか、楽しい経験をしたのかを語ったでしょうか。

永遠に溶けることのないアルプスの氷。そして、そこに閉じ込めた3つの景色・・。

持ち主の大切な宝物だったに違いありません。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタルのサン・ベルナール峠のフォブシール

スピード狂でスキーやバイク、車をこよなく愛したGenですが、傑出して繊細な美的感性も備えていました。

子供の頃は愛犬のコロと一緒に、根雪となった冬の米沢で夜の雪景色を眺めていたそうです。1950年代。高度経済成長によって昼夜の境が薄れ、冬も寒くなくなった今の時代とは人々の意識も全く異なります。冬の夜にわざわざ外に出てくる人なんていません。

雪の防音性はとてつもなく、ただでさえ人の気配がない夜、「シーン・・・。」という音が聞こえてきそうなくらいの静けさでした。そんな中、雪で覆われた白い世界を「何て美しいのだろう。」と感動しながら、Genはいつまでも眺めていたそうです。

それほどまでに心奪われる美しい世界なのに、同じように外に出て眺める人は1人もいなかったそうです。気づかない人にとってはありふれた景色でしかなく、美しいと感じるなんて発想すら浮かばないものなのでしょう。

このエピソードは分かり合える人がいなくても、1人でも行動できるほど、絶対的な美的感覚と繊細な感性をGenが持っていた証でもあります。

私も憾満ヶ淵のエピソードからご想像いただける通り、Genと同類です。皆が東照宮ばかりを気にしていても、私は私が良いと思ったものを心ゆくまで堪能します。

岡山で勤務していた時代、山の中腹にあった会社を脱走して、よく山中や近くの池に行っていました。山菜を採ったりするだけでなく探検したり、美しい景色や草花を眺めたり、心地よい空気を楽しんだりしました。とっても良かったので同僚たちも誘いましたが、誰1人行こうとしませんでした。「あんなに美しくて楽しい場所なのに、行かないなんてもったいない!行けば分かるのに!」と思っていましたが、石田さんはやっぱり変な人だくらいに思われていた感じはあります(笑)

私たちのようなタイプは孤独慣れしているので平気ではありますが、分かち合える人がいれば無上の喜びが得られます。それが、トマス・グレイがイートン・コレッジで特別な親友たちを作れたこと、自分達たちのスタイルやセンス、美意識に誇りを持っていたことの背景でもあります。

イギリス貴族のグランドツアーに由来するロッククリスタルのアルプス山脈フォブシール

少ないので、現実世界で会える確率は高くありません。それは当事者が最も分かっていることでしょう。

会って会話できればとても楽しいですが、たとえ直接話ができなくても、持ち主の美意識と感性、センスが詰まったこのような宝物を通して私たちは心を通わせることができます。

一方通行かもしれませんが、それでも心癒され、満たされ、幸せな気持ちにさせてくれます。

Genがアンティークジュエリーに呼ばれ、この仕事が天職としてライフワークになった理由でもあります。

美しいアルプスの絶景が描かれた、透明な氷の芸術・・。

私はこの宝物を見て、持ち主はきっとGenのような人物だったと感じます。

着用イメージ

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタル・フォブシールの着用イメージ
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

200年以上前に作られたとは思えないほど使用感がなく、コンディションが良いです。自立するので飾って楽しむこともでき、歴代の所有者は美術品として眺めて楽しむのがメインだったかもしれません。でも、ジュエリーとして身につけても非常に魅力があります♪

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタル・フォブシールの着用イメージ
←↑実物大
ブラウザによって大きさが違いますが、1円玉(直径2cm)を置いてみれば実物との大小比が分かります

透明なので、衣服の色によっても雰囲気がかなり変化します。

グランドツアー由来のイギリス貴族のロッククリスタル・フォブシールの着用イメージ

ペンダントとしては大きさがあるため、少し太めのシルクコードなども合います。

シルクコードをご希望の場合はサービス致します。